shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑨<シルクロード最終イタリア・ルート>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑨

 <  シルクロード最終イタリア・ルート> 
      星の巡礼者 後藤實久

 

シルクロード16000㎞踏破も、いよいよ西の起点ローマへの最終イタリア・ルートに入った。

 

テッサロニキ駅、豪勢な夕食>

憧れだったギリシャの地を列車に揺られてその山野の情景を楽しみ、同乗の人々との温かい交流を持ちながらの6時間ほどの列車の旅は、テッサロニキ駅でブルガリア・ソフィア行の夜行列車に乗り換えるのである。

ギリシャとの別れの夕食を、テッサロニキ駅の食堂でバックパッカ食ではなく、すこし豪勢なメニューにした。特大のフランクフルトソーセージ2本とライス付きのギリシャ風野菜煮込みセットを注文、9€(1300円)の夕食である。白ワインのコーク割で乾杯、ギリシャというより幻のアトランティス大陸に祝杯をあげた。

 

いよいよシルクロード西の起点、最終地のローマに向かってイタリアルートをたどることになる。

 

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           シルクロード最終地・バチカン・サンピエドロ大聖堂

              Schetched by Sanehisa Goto

 

 

《 10月13日 ブルガリアの首都 ソフィア 》

 

<旧共産主義国への越境にあたって>

10月12日 テッサロニキ駅22時4分発の列車は、ブルガリアの首都ソフィアに翌日13日朝7時5分に到着する。

深夜2時、大粒の雨が列車の天蓋をたたいている。湿った夜風が、コンパートメントの上段ベットに這い上がってきた。どうもギリシャと旧共産国ブルガリアの国境に着き、国境出入国管理官が乗り込んできたようである。

軍靴の床をたたきつけるような音が嫌に大きく不気味に聞こえてきた。

国境管理官の威圧的な声が、ひときわ甲高く聞こえる。

乗客は下段ベットに坐らされ、薄明りの列車灯に照らされ、まるで囚人のように怯え切って呼び出しの順番を待っのである。

何とわびしく不安な時の流れであろうか。

国境越えのパスポートコントロールは、旅人をチェックする現代の関所である。国籍・氏名・年齢・性別・入国の目的・滞在日数・滞在先・連絡方法の確認を行い、最後に旅人の服装や荷物・人相や挙動を観察して彼らの眼鏡にかなえば、スタンプをパスポートに捺してくれるのである。

 

わたしは一度、先の旅の国境越えで逮捕され、強制的に連行され、豚箱で一夜を過ごしたことがある。

その時は、ドイツ・ベルリンからオーストリア・ウイーンへの夜行列車の旅で、途中のチェコスロバギアには下車しないのでチェコのビザは必要ないとおもい込んで乗車していた。

しかし、深夜国境越えで乗り込んできたチェコスロバギアの入国管理官(軍人)は、列車に乗っていたバックパッカー男女数人をビザなし違法越境という理由で逮捕、下車させたのである。 

みんなで飛行機と同じく通過地のビザなし通過と同じであると主張したが認められず、一夜を鉄格子のはまった殺風景で、無味乾燥な拘置所で過ごすことになった。

翌朝、何の説明もなく荷物とパスポートを渡され、ソフィア行別の列車に乗せられ、一件落着となった経験がある。

旅をするとその国の政治情勢により思わない事件に巻き込まれたり、容疑をかけられることがあることを知っておくとよい。この時も共産圏諸国が崩壊して間もなくのころで、なお国境管理の組織や制度が完全に西欧化していなかったところに、認識の違いからの行き違いであった。。

またうがった見方をすれば、この時の旧共産国の官憲は、西欧化になじめず旧態依然の官僚的傲慢さを残していたと思える。

いかなる旅でも、情報収集を第一とし、自己判断・自己都合で物事を安易にすすめることの危険性を理解しておくべきであろう。

 

<アイデンディティ   一体わたしは何者なのか>

旅においての身分を保証するものはパスポート以外にないと云っても言い過ぎではない。

国内においては運転免許書や健康保険証などがあるが、これらは国内での統一された制度においてのみ有効であり、国外では紙切れであるにすぎない。

是非ともパスポート(旅券)の海外においての重要性を認識して、取り扱いに気を配り、厳重保管することが最重要である。

特に旧共産圏の国を旅したり、政情不安な国を旅するときはパスポートはあなたの命より大切なものであることを知っておいて欲しい。

パスポートを持たない(不携帯の)あなたは、誰も、あなたですら己のアイデンディティ(identity=自己証明 )を明らかにすることが出来ないのであるから注意したい。

とくに、むやみに他人にパスポートを見せたり預けたりは、余程の理由がない限りしてはならない。窃盗にあったり、強奪にあったりして、先の旅が中止になったり、複雑な現地でのパスポート再発行という手続きをとることになるからである。

パスポート紛失に備えて念のためコピーを数枚とり、数か所にわけて保管することをおすすめする。

一番狙われるのは意外とポーチに入っているパスポートであろうか。よくポーチのチャックが開いている場合があるが、ほとんどがぴったり体を寄せてくる人込みでの場合が多い。

このシルクロードでは、首掛け巾着に入れて持ち歩いている。すこし面倒な方法ではあるが腹巻ポケットもいい。

列車の外の雨は一層激しさを増し、尋問の様子が雨音にかき消されるほどである。

また乗客の一人が「お前は何者だ」と尋問されているのだろう・・・

その人の不安な気持ちが伝わってくるようで、緊張が走った。

何事もなかったように列車が動き出した。

 

定刻07:05を少し遅れてソフィアの駅に着いた時には、雨は止んでいた。

シルクロード16000㎞踏破 バルカン半島ブルガリア」に入った。

 

ブルガリア・ソフィア散策>

アテネを後にして列車でブルガリアの首都ソフィアに着いてみたら真冬のような摂氏5度という寒さだ。みな防寒具を着ているのには驚かされた。

さっそく暖を取るべく 「Internet Sofia Hostel」 に飛び込んだ。ブルガリアは1989年まで共産圏だった国、すべてに官僚的な制度が残っている。一面、EU諸国に比べたら貧しさが残るが素朴でゆったりとした時間の流れているのにはほっとさせられる。

 聖ネデリア教会の鐘の音が清らかにこころに響く。雨に煙るソフィアの街角を歩くソフィアのご婦人たちの深く思いを秘めている瞳は知性あふれたこの古き都によく溶け込んでいる。

いまバルカン半島ブルガリア・ソフィアの歴史に触れているのだという感動に昂揚しつつ、聖ネデリア教会の燭台にゆらめくローソクの火を見つめながら時間を過ごした。忘れられない街になりそうである

 

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                 ブルガリア共和国国旗

 

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                        シルクロード最終イタリアルート・マップ

 

<バルカンの歴史>

多くの民族や多宗教で成り立っていたバルカン半島は、1453ビザンチンを滅ぼし、支配者になったオスマン帝国オスマントルコ)の寛容政策によって統一され、民族の混在という多様性の中、<交易の十字路・シルクロード>として発展してきた。

しかし、19世紀にヨーロッパより入ってきた民族自決というナショナリズムの名のもと、ギリシャセルビアルーマニアブルガリアと、衰退しつつあったオスマン帝国からの自立を要求する運動が起きた。

第一次大戦までに以上の各国は弱小国民国家として独立することとなる。しかし、バルカン諸国の内ユーゴスラビア多民族国家としてチトーのもと第二次大戦では社会主義国家としてまとまるが、1982年の冷戦終結により連邦解体が始まると、1990年代初めから、それぞれの民族が独立志向に向かい、つい最近までムスリムとの宗教的民族対立が激化し、<ヨーロッパの火薬庫>と呼ばれ、悲劇的な民族間の殺戮<民族浄化>が繰り広げられてきたことは日本でも詳細に伝えられてきた。

 

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       ブルガリア・ソフィアに建つ解放記念像・アレクサンダルⅡ世ロシア皇帝

 

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               ブルガリア・ソフィア散策

 

《 ▲ 10月1516日 ルーマニア ブカレスト  ビラ・ヘルガ・ホステル連泊 10US$

 

ソフィアよりルーマニアの首都ブカレストへも寝台列車に乗っての移動である。所要14.時間半、運賃2340Lei(約72US$)の旅である。宿泊はブカレストの「Villa Helga Youth Hostel」に決める。

ルーマニアは古い歴史を持っているが1989年に独裁者チャウシエスカヤ大統領処刑後に市民権や自由を獲得した若い国である。国の形がいまだ定かでなく、国家秘密警察時代の暗黒の匂いが色濃く残っている。市民の顔に笑顔が見られないのが気にかかる。いまだ独裁政治や監視制度の悪夢から覚めやらない心の傷が一日も早く癒されんことを祈る。いまだ独裁の象徴である「国民の館」なる宮殿が残されているのにも驚かされた。寒さに耐えられずにフリーマーケットで下着(パッチ)を購入して着用するほどの天候である。それもそのはずで、すでに10月の中旬になっていた。

 

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                              ルーマニア国旗

 

ブカレスト散策>

ブカレスト、静かなくすんだ一切の色気を取り去った、さっぱりとした飾り気のない街である。

秋の気配濃く、落葉を踏みしめると、なお一層のこと暗愁を肌に感じる街なのである。ブルガリアの首都ソフィアの西欧化に比べ、1989年にルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシエスカヤ大統領の処刑後に獲得した遅すぎた自由であり、西欧化への道のりはなお4~5年はかかりそうである。

いまなお市民の間には、長きにわたった共産主義独裁による警察国家の悪夢や、密告監視制度による拭い去りがたい不信感が漂よっている。顔からは笑みが消え、不気味なほど会話のない相互不信の歴史の上に成り立ってきた国といえる。イランのご婦人が着用させられているチャドルのように、一歩家に入ったら他人の目を気にせずに素顔を表して、自由と平和的な陽気さで幸せを噛みしめてくれていることをこころから願うものである。

一方、独裁者であったチャウシエスカヤは、「国民の館」なる15階建てのパレスを建て王政たる独裁の贅を尽くしていたのであるから、国民の怒りも頂点に達したのも当然の帰結であった。市民革命は独裁者を裁き、リンチなる革命的報復をもって裁いたのである。

 

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     共産主義時代の独裁者チャウフスカの遺産<国民の館> (ルーマニアブカレスト

 

《 10月16~17日 ルーマニアブカレスト散策後、ハンガリーへ列車移動  曇のち小雨 》

 

ブカレスト2日目、ルーマニアを単独観光中の八王子市在、K生命保険を定年退職されたO氏と同じホステルで出会い、同歳ということで意気投合、ブカレスト散策に一緒に出かけた。語りて楽しく、聞きて良きアドバイザーであり、活痰な笑いに腹をかかえたものである。60男の妻を想うこころ深く、はにかむ姿に共感する。心豊かで、こころ温かい人柄がまたいい。

久しぶりに心弾ませ、耳を傾ける心豊かな会話を愉しむことが出来た。二日間という行きずりの友であったが、その出会いは千金に値する貴重な出会いとなった。カフェーバーでのO氏との談笑を終え、それぞれの次なる目的地に向かうこととなった。

フリーマーケットで、防寒用パッチ(下着)を購入。軍事博物館では、ルーマニア軍事史やソビエットの影響下での政治情勢の写真に、世界史の裏面に横たわるスターリン独裁下の血で血を洗う陰惨さに見入ってしまった。

 

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                     ブカレスト散策

 

現代のシルクロードでは、至る所でマクドナルドのビッグマッグを口にすることが出来る。それもポテトフライ、コーク付きで100,000Leu(約340円)、これはほぼ世界標準価格であるから、各国の貨幣事情により高低はあるが手に入れやすい軽食である。

ハンガリー・ブタペスト行き国際寝台列車に乗り込む前に、マクドナルドで夜食用のハンバーグを仕入れ車中の人となった。

 

ルーマニアブカレスト 10/16  20:17発 ⇒ ハンガリー・ブタペスト 10/17 10:12着 

                     寝台列車#460T 2nd Class Sleeper  50US$>

 

現在、深夜2時、国境目前のルーマニアSIGHSOARA駅を通過中である。

車窓から見上げる星たちはキラキラと笑顔で出迎えてくれている。

星たちがわたしたちの周りを回っているのだろうか、いや、わたしたち(地球)が自転しながら星たちの周りを回っているのだから楽しい。

星たちは、その時・場所、地球の動きによって色々な表情に変わるのだからこれまたうれしい。地球の自転速度と同じ速度で同期して回っている人工衛星は静止して見えるが、星たちは完全に静止し地球の反転をこころ静かに見守ってくれているのである。

悠久なる天空のなか、北極星は自転する軸の上にあって動かず同じところにあるのだから山登りをする者にとっての羅針盤であることはよく知られている。その星たちがシルクロードの終着地・イタリアのローマに向かっている私を優しく見守ってくれているのであるから心豊かにさせられる。

「星さんありがとう、もうすぐシルクロードのゴールですよ。」

ハンガリー<Lo”ko”sha’za>駅が、国境の街である。笑顔をたたえた二人の好青年がパスポートコントロールにやって来て、<おはようございます。ようこそハンガリーへ!>と歓迎の意を表してくれたのである。実に気分爽快である。いやな気分を味あわされた今までの旧ソビエット連邦国の応対とは天国と地獄の差がある。

朝一番の通勤電車が反対側のホームに滑り込んできた。冬支度の乗客が手をポケットに突っ込んで白い息を吐きながら歩いている。ハンガリーの清々しい朝の始まりである。沿線の質素な田舎家の苔むす煙突から白い煙が棚引き、旅人の心を和ませてくれる。まるで故郷に歓迎されているような情景である。

駅の拡声器が眠気を誘うように低音で何かを伝えている。雀たちのお喋り姿にも燕尾服を来た貴公子然と見えるのだからお伽の国にいるようだ。美しい朝である。

 

<▲10月17日 ブタペスト・ハンガリー   マルコポーロユースホステル泊>

 

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                 ハンガリー国旗

 

世界唯一の温泉都市で有名なブタペスト滞在が短時間のため、交通に便利な宿として、ここデアーク広場に近い<Marco Poro Youth Hostel>に宿を決めた。今日は、日曜日で商店はみなおやすみである。ハンガリー訪問時には必ず立ち寄る懐かしの<セーチエニ温泉>に出向き、38℃の温水プールで泳ぎ、疲れた体を癒し、体力回復につとめた。

その後、ドナウ川に架かる<くさり橋>を渡り、ブタ地区にある王宮を訪問した。

 

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     マルコポーロYH          温泉都市ブタペストにある<セーチエニ温泉>

 

 

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                 ブタペスト散策

 

( 2020年現在、ハンガリ・ブタペストは、現代版シルクロード<鉄のラクダ隊>といわれる大陸横断鉄道が通過する、中共政権提唱主導の<一帯一路>の重要拠点のひとつである。)

 

<出会いの旅を終えるにあたって>

「出会いの旅」シルクロードも神の導きにより、いよいよ終わりに近づきつつある。

出会ったすべてに感謝し、感動したでだろうか

出会った人々に誠意と愛情を示したであろうか

出会った時間の流れにおのれを託し切ったであろうか

出会いそれぞれにその意味を感じたであろうか

出会いのすべてに己のこころを見せたであろうか

出会ったすべてに己を没入したであろうか

 

いまシルクロード「出会いの旅」を終えるにあったって、己に素直でありたい。

己を見つめ、己を愛の中に置き換える業を教えられたような気がする。

感謝である。

 

 

《 10月18日 ハンガリー・ブタペストより、オーストリア・ウイーンに向かう 》

 

雨上がりのブタペスト、朝9時過ぎの地下鉄、ラッシュアワーのあとの静けさがいい。

昨夜、ホステルの二段ベットで読んだ柴田錬三郎著「図々しい奴」を読破、その中に描かれている人間関係、人間描写、人間の生き様に感動し、眠るのも忘れ読みふけった。

この本の作者より伝わる人生訓をわがものに取り込もうとする主人公の姿勢から多くの教訓をえた。

20才という若き主人公の彼が「切人(キリスト)」として、わたしの中にぐいぐいと迫ってきたのである。

いよいよ終盤、シルクロードの終点に近づいてきた。

ハンガリ・ブタペストよりオーストリア・ウイーンへは約3時間の近距離列車移動である。

宿泊は<Jngendherberge Wien Youth Hostel>ウイーンの中心街にある。ウイーンは、豊かな街路樹に古き石の建築物がよく似合い、歴史が息づく古都である。

 

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                小雨降るウイーンの街で

 

雨上がりに、歴史の重厚さを感じながら約300万人が埋葬されているウイーン中央墓地<Wiener Zentralfriedhof>を訪ねた。ブログ作成時のBGMでいつも愛聴しているモーツアルトの墓碑に詣でたあと、少し離れたベートーベン、シューベルトシュトラウスブラームスほかクラッシックの巨匠たちの墓に額ずいた。墓地を散策し、それぞれの人生を歩まれた故人と語り、想いを巡らせるのが好きである。

 

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  モーツアルトの記念墓碑      ベートーベンの墓        シューベルトの墓

  

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   ウイーン中央墓地 左・シュトラウスの墓

            右・ブラームスの墓

 

墓地で出会ったブラジル人、サンパウロからのバックパッカーパウロ君(28歳)と、青年時代に過ごしたサンパウロの現状を興味深く聞きながらハプスブルグ家が造りあげたウイーンの中心、王宮の周りを散策、心地よい市電の音を楽しんだ。青年と別れてからは独りウイーンの繁華街の石畳みを踏みしめながら、迫りくるクラッシックな石造りの建物や、美しすぎる街並みを観賞してまわった。

ウイーンの街は、時の流れに逆らい、ゆったりと散策するのがリッチなのである。しかし、中世の街を歩きすぎたようである。程よい疲れと空腹に、現実にもどされ、足早にユースホステルにもどり、途中でテイクアウトしたディナー<カツレツ・野菜サラダ・スープ・赤ワイン・パン>を同宿の兵役明けのユダヤ青年エドワード君と共に、エルサレム嘆きの壁での体験を語りあいながら、旧約聖書の世界に迷い込んだ。

 

<▲10月18日 オーストリア・ウイーン   Jngedherberge WienYouth Hostel泊>

 

 

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                              オーストリア国旗

 

1019日 国際登山列車 ウイーン ⇒ インスブルグ ⇒ イタリア・フィレンツエ 》

 

4時起床、シャワーをあび、YHよりウイーン・ウエスト駅まで徒歩30分。オーストリア西端にあるインスルブルグまで列車QBBEC#562便で約4時間半、ここでアルプス越えの登山列車に乗換えてイタリア・フイレンツェに約6時間で着く。

午前610分発の列車は、霧に朝日をはばまれた重厚なウイーン駅を出発し、薄暗い大地を野ウサギのように走り続けている。いまだまどろみの中にある家々の窓に宿る灯は、霧の中にぼんやりと浮かび上がって幻想的である。影を落とす樹々もまた黒子のようにその姿は緩慢である。矢のごとく過ぎ去る線路沿いの白壁は、一条の明るさとなって脳裏に残る。この世のすべてが霧というマントをかぶり、目だけを光らせているようである。

この幻想的な車窓の風景は、インスブルグに着く午前1046分まで続いた。

 

<インスルブルグ経由イタリア行列車の車窓から>

向かいの席の出勤途上の中年男が書類を広げ思案気である。時に、ボールペンを走らせ問題点を書き込んでいる。コーヒーが好きなのであろうか、買い込んだコーヒーの匂いが6人用のコンパートメントの乗客に、目覚めの時間であることを告げている。

なんと日常的な一瞬なのであろうか。

霧の中に遊んでいた頭脳が一瞬にして現実に引き戻されるのを覚えた。

列車はオーストリア・アルプスの入口、インスブルグの郊外を走っているのだ。

 

霧も少しづつ晴れ、アルプスの隘路にたたずむ一木一草が、点在するインスブルグの田舎の家一軒一軒をあたたかく包み込んでいる。

隣の婦人のイヤホンからは、ラジオの朝番組であろうか軽快なメロディーが漏れ伝わってくる。

アルプスの雄大な景色に一歩踏み入れたような気持ちにさせられると同時に、ここオーストリアの片田舎の日常の朝が始まるのである。

 

アルプスの麓、広がる牧場、遠くの煙突からひとすじの白い煙が、消えゆく霧に溶け合って棚引く風景に見入ってしまった。

豊かな緑の放牧場の牛や鹿たちの幸せそうな顔は、乾燥地帯のパキスタン、イランやトルコでは見られない表情である。

ブドウやオリーブ、ヒマワリといった果実や種子からとれるワインや油も又乾燥地帯と、豊かな穀倉地帯ではその味の濃さに決定的な違いがあるように、牛乳やチーズの風味にも同じくあらわれるものである。

牛乳であれば、乾燥地帯のウイグルやイランで飲んだ牛乳の方がその濃さにおいて勝っているといえる。人間もまた、その環境によってさまざまな生き方、考え方に染まるのだから愉快である。

線路わきに咲き乱れる白い花たちや、牧場に放たれた沢山の鹿たちの「ようこそオーストリア・アルプスへ」の歓迎の声に、まるで星の王子さまの気分にさせられながらインスブルグ駅に滑り込んだ。

駅から見るアルプスの峰々は、すでに白い雪をかぶっていた。

 

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               白銀のアルプスに囲まれたインスブルグ駅にて

 

これより懐かしの景色、アルプスのオーストリアとイタリア国境越えである。

インスルブルグよりフィレンツエに向かう国際登山列車は、アルプスの白銀の峯をぬいながらイタリアへ下って走る。

 

<アルプス住人の願望>

コンパートメントでの同室者のひとり、書類に目を通していた初老の男はオーストリア人で、フィリップと自己紹介した。

45歳、女房とふたりの娘があり、仕事でスイスに行くという。どうも特許事務所に勤務しているようで、特許のもつ大切さについて語りだした。

2003年度のアメリカの特許出願件数は、30万件に達し、その特許による総収入はGDPで大きな割合を占めるという。現在の外貨獲得の主役は、貿易による物流から特許など知的財産からの使用料(約3%のライセンス料)にとって代わってきているそうである。

 

こちらが日本人であると知ると、日本の知的財産における特許出願数はアメリカ以上の50万件であるといって、その外貨獲得戦略の素晴らしさをほめだした。

だが日本は、まだまだ研究投資額に対して効率的な特許料収入には至っていないそうで、イスラエルやオランダが特許研究における費用対効果で群を抜いていると、インスルブルグ駅到着までに世界の特許事情を解説してくれた。

これまた、バックパッカーの課外授業のひとつの形であるといっていい。ここヨーロッパ・アルプスの地で日本の真価を認めてくれるビジネスマンに出会えたことがうれしい。

 

知的財産権や特許による国富へのアプローチは、自由と平和な状況下でないとその価値を発揮しないことを肝に銘じておくべきであることはもちろんである。

最後に彼は、「われわれオーストリア人は、牧畜と農業に生き、恵まれた自然と観光を大切に、この素晴らしい国土と生活を守っていきたい」と少し自慢げに締めくくった。

美しい自然を子々孫々に残したいという、アルプスを囲む国人(くにびと)の熱烈な想いが伝わってきた。

遠くから眺めていたアルプスの峰々の雪は、インスブルグの街を見下ろすようにその顔を白く輝かせていた。

 

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             オーストリア・イタリア国境越え付近の白銀のアルプス

 

シルクロードの終着イタリアのローマに向かうには、ここヨーロッパ・アルプスを越えていくルートと、すでに通ってきたギリシャピレウス港から船でイタリアのベネツイアへ渡るルートがある。今回の<シルクロード16000㎞踏破>では、美しき峰々を眺めながらのアルプス越えを選んだ。

アルプスの峰々の雪帽子に歓迎された国際列車QBBEC#562 は、インスブルグに午前10時46分に到着し、車内清掃を済ませ、プラットフォーム7番線から午前11時26分に出発し、アルプスを越えて終点イタリア・フィレンツエ駅に着く。

 

<昔懐かしい、驚きのアルプス越え列車のトイレ> 

国際列車のトイレの入り口横に「停車中・トンネル通過中、トイレ使用禁止」とある。

なんと懐かしいトイレ使用規定標示であり、それは原始的な解放式という垂れ流し方式なのである。開放式とは、列車内の便器の下から直に線路に開放する方式で、駈ける列車から一瞬にして過ぎ去る線路に落下する黄色い爆弾を、風圧によって木っ端みじんにして大気中に噴霧散するか、または風化消滅させる方式なのである。いまなおこのような原始的列車便所が残っていることに驚きであるが、多くのヨーロッパの国々の普通列車には現在でも採用されているのである。

ノスタルジーを乗せたアルプス越えの列車は、イタリアのフィレンツエに向かって様々な夢を運んでいる。

 

<あきれたドタバタ劇>

日本以外の列車運行には遅延はつきものであることを承知しながらの列車の旅を続けているが、今乗っている国際列車の約15分の遅延を忘れ、フィレンツエ到着時刻である17:31の時計表示をみて慌てふためき下車したのである。もちろんフィレンツエは終着駅であるので遅延であっても慌てる必要はないのだが、この時は錯覚が加わり、衝動的に行動し、フィレンツエ駅一つ手前のプラト駅に下車してしまった。

それからも悲しいかなドタバタ劇はさらに続く。

次に来た列車に乗ったのであるが、今度はプラト駅にリュックサックを置き忘れてきたことに気づいて終点のフィレンツエで折り返しプラト駅にもどり、主人に見放されプラットホームに寂しく待つリュックを発見した。

どうも数か月の旅の疲れからか注意散漫になっている自分を戒め、わが分身との再会を果たし、安堵の息を深々と吸い込んだものである。

リュック君にしてみれば、「なんと呆れた主人なのだろう。でも必ず迎えに来てくれるのだから、憎めないよな。」と、許してくれているようであった。

時間の浪費はあったが、何はともあれバックパックとの奇跡的な再会に感謝した。

なにかわが人生の一隅を垣間見たような気がした。

人生は滑稽でもある。

神様もきっと笑ってみておられたのだと思う。人生って自分で気づいていなくても、このように間が抜けて時間を浪費していることが多いのだろう。それはそれで幸せであることを認めているのだから人生は愉快である。

<間抜けを知らずして、間抜けに生きる>のも人生なのかもしれない。

いかなる人生も神様からの授かりものであることに変わりはない、大切に生きたいものである。

 

<▲10月19~20日  フィレンツエ・ユースホステル連泊  @8.25

 

《 10月20日 フィレンツエ 》

 

<歴史空間、フィレンツエの街 - パラティーナ美術館 >

フイレンツェは、今までに何度訪れたことであろうか。この古き街はスケッチのモチーフにあふれた豊かな歴史的芸術空間である。

アルノ川西岸の小高い丘に建つピッティ宮殿には、約10000点の美術収蔵品が所蔵され、展示する6つの博物館と美術館がある。そのうち絵画を展示する<パラティーナ美術館>(8.5€)に足を運んだ。

パラティーナ美術館の2階への階段に飾られた笑顔の子供の天使像が出迎えてくれ、「ようこそシルクロードの終着地イタリアへ、お疲れさまでした」と、シルクロードの苦労をねぎらってくれているようである。

 

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                        ルネッサンス期の天使像に迎えられる

                        フィレンツエ・パラティーナ美術館にて

 

ここパラティーナ美術館では、初期ルネッサンス・フィレンツ派の巨匠の一人であるフィリッポ・リッピ作「バルトリーニのトンドの聖母子像」(円形画)に再会した。

円形画(ドント)に描かれた聖母の憂いに満ちた庶民顔が中学生であった私のこころに深く刻まれていた。

少しこましゃくれて聖母らしくない、イタリアの片田舎で見受けられる娘を見ているような親しみを感じたものである。

母子に見送られパラティーナ美術館を後にして、ミケランジェロ広場でフィレンツエの街をスケッチし、ブエツキオ橋に向かった。

 

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<ブエツキオ橋>

ピッティ宮殿からのフィレンツエの街並みは絶景である。しばしスケッチにふけることにして中世の街並みに埋没した。

パラティーナ美術館のあるピッティ宮殿の庭園に並ぶオリーブの木にぶら下がった赤みを帯びたオリーブの実を観察しながらアルノ川に架かる観光名所であるブエツキオ橋を散策し、フィレンツエの街並みを眺望できるベルヴェデーレ要塞に立寄ったが、残念ながら修復工事中のため入場できず退散することとなった。

 

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     アルノ川西岸ピッティ宮殿前のミケランジェロ広場よりフィレンツエの街を見下ろす

 

 

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 アルノ川西岸の小高い丘に建つピッティ宮殿のミケランジェロ広場からフィレンツの街をスケッチする

   アルノ川に架かる屋根付きPonte Vecchio-ブエツキオ橋   /    ドウオモ(大聖堂)

               オニザティ教会        オルサンミケーレ教会  

                                      サンタクローチェ教会

 

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                 アルノ川グラツィエ橋から有名なブエツキオ橋を望む

 

 

1021日 フィレンツエ ⇒ シエナ  曇 》

 

<食べる喜び、食べられる喜び>

ユースホステルの朝食のデザートに出されたオリーブの山、その一つ一つの粒の光り輝く表情がいい。その中でも青味の残るひときわ元気そうなオリーブをつまんだ時、彼女が「食べる喜び、食べられる喜び」と小声でつぶやいているのを耳にした。

「ありがとう、わたしを選んでくれて!」

「どういたしまして、僕たちは運命の出会いの中にいるのだね」

その種をティッシュに包んで、そっとポケットにしまい込んだ。

 

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                        シルクロード西の起点 イタリア国旗

 

<人生に無駄なことはない>

昨日のプラト駅でのリュック置忘れ事件が無ければ、今頃は同じトスカーナ地方であるシエナに泊っていることであろう。予定を変更したために、ここフィレンツエに留まって、愛らしいオリーブ嬢との出会いがあった。

人生もまた然りである。人生につまずいてうまくいかなないことがあっても、その時そこでやるべきことがほかにあるという法則を知っていれば、人生のもう一つの筋書きに出会い、つまずきは修正され人生物語は続くということだ。

旅の途上のつまずきや失敗も、恐れることなく、悔いることもなく、落ち着いて解決したいものである。

 

 

<認めることの喜び>

フィレンツエは、赤ワインの産地で有名なトスカーナ地方の州都である。郊外には見渡す限りのトスカーナのなだらかな丘陵地に葡萄畑が広がっているなか、小鳥たちがさえずるパラダイスである。

ツグミだろうか一羽の小鳥が、ブッシュで朝ごはんの虫を啄んでいる。今日も忙しい日常のトスカーナの朝を迎えているようだ。ツグミは視線をこちらに向け、くちばしを忙しく動かしながら語りかけてくれた。

「目が合いましたね。わたしを認めてくれてありがとう。」 すべての出会いは、相手を認識するところから始まるのだとツグミは語っているようである。

相手をお互いに認めることで、心の通いが始まり、時の流れを共有し、同じ世界に埋没できる瞬間である。

一瞬、孤独を忘れ幸せな時間がゆったりと流れた。

あの敦煌の熱砂のシルクロードで出会った懸命に生きる小さな生命<糞転がし>との会話以来の感動である。

厳しい自然の中、与えられた命を懸命に生きる姿は、実に美しい。

 

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                   トスカーナ地方の葡萄畑の丘陵地の風景

 

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                           延々と続くトスカーナ地方の葡萄畑

 

 

トスカーナの田舎が大好きである>

アルプスを取り巻く国々や地方の中で、ここイタリアのトスカーナの風土が好きである。気取らず、エプロンをかけ、つっかけを履いて走り回るイタリアのおばさん的なざっくばらんさが好きである。

なにか日本の原風景に埋没したようで、ほっとさせられ、気持ちをゆるめられるからであろうか。

整然と合理化された人間の営みや配置から抜け出して、生活の匂いがあり人間の風味といえる洗濯物の天日干しや、庭の鶏小屋からコケコッコーの鳴き声が聞こえ、鶏糞の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる様がいい。

 

<フィレンツとシルクロード

商圏拡大に熱心であったと思われるフィレンツエ商人にとって、東西の交易路であるシルクロードを見逃すはずはなく、すでに出来上がっていた東アジアへの入口、黒海東北にあるターナーという街を物流拠点としてシルクロード商圏にアプローチしていたとの記述がある。

フィレンツエ商人の商圏であったターナーやその東先にあるサライの街は、マルコポーロの「東方見聞録」にもシルクロードの様子として紹介している。

当時、フィレンツエ商人は騎馬民族であったモンゴル族黒海から西安に至る大帝国の拡大に合わせ、シルクロードを幹線として東方との絹貿易に商機を見つけていたのである。

 

西安から出発したシルクロードという不毛の経由地では、シルクロードのロマンが残り、そこに住するシルクロードの子孫が顔を出し、その当時の遺跡がその情景を醸し出しているが、西欧に入ってからはシルクロードの匂いや影は薄れ、その物語さえ見つけ出すことが困難である。シルクロードの歴史さえ埋没してしまっており、マルコポーロの「東方見聞録」にその陰影を残しているに過ぎないことと、シルクロードの西の出入り口といわれたイタリアでシルクロードの残滓にさえ触れることが出来ないことにいささか驚いたことは確かである。

都市は、シリルクロードをその路地裏に押し込め、隠してしまったのである。

しかし、シルクロードという交易路の持つロマンに魅せられ、ここシルクロードの西の出発地に立てたことを心より喜んでいる。

シルクロードという華麗な歴史の花は東方、アジアの地にだけいまなお咲き続けていると言っていい。

 

<ドウオーモ・大聖堂にて>

神は、かくも立派な大聖堂を望まれたのだろうか。

ルーマニアのソフィアで目にした独裁者チャフスカヤによって建てられた白亜の<国民の館>という箱物に出会ったときにも同じ気持ちにさせられた。モデェスティ(謙虚)、シンプル(質素)、ピュア(清純)のなかにこそ人の心は宿ると思われるのだが、人の世は複雑である。

威厳の中にこそ権威と威光を感じる人間のほうにこそ問題があるのだろうか。

クーポラ(ドームの天井)に描かれた「最後の審判」(フレスコ画)を見上げながら、心によぎった。

ステンドグラスより差し込む一条の光は、床に映えまばゆい。

無心に燃え揺らめく蝋燭の火は、神への賛美の声をあげている。

十字架上のイエス・キリストのもと、神にいざなわれ人々の顔に安堵と幸せがただよっているのだが・・・。

 

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                クーポラ(ドームの天井)に描かれた「最後の審判」(フレスコ画

 

 

1022シルクロード西の起点 ローマに向かう   曇 》

 

シエナに亡き同輩の足跡をたどる>

フィレンツエ滞在を終え、シルクロード最終地ローマに向かう途中に、トスカーナ―地方のシエナに立寄った。

シエナは、いつか必ず訪れたいと思っていた土地である。朝日が雲の間から天使の梯子を地上にかけ渡し、天上へ招いているような鮮やかな光景に迎えられた。

この地は、在職していた職場の敬愛する亡き同輩 W君がエクステンション授業として取り入れていた提携滞在先であり、シエナ校舎と呼んでいたところである。

 

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                         トスカーナ地方シエナに建つ大聖堂(ドウオーモ)

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

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           シエナ大聖堂をスケッチしたあと写真に残す

 

シエナは、美学の一大会派であるシエナ派の拠点であり、美術史と語学を現地で学ばせようとした亡き同輩の情熱はいまなおこの地で衰えずに燃え続けている。

この真紅の太陽、見渡す限りの丘陵地帯に囲まれたトスカーナシエナの地で永遠の眠りについているW君に野花を手向け、愛を込めて祈りをささげた。ハレルヤ!

Piza del Campo(ピサ デ カンポ)にある<MUSEO CIVICO>(シヴィコ博物館)で美学シエナ会派の絵画を観賞し、彼のシエナでの足跡をたどった。

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                      シエナ郊外の素晴らしい丘陵地帯の風景

 

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           フィレンツエーシエナ線終点キウシ・キアンシアーノ駅

 

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                   シエナ・トレッキング地図

 

<▲ 10月21~22日  ユースホステル・デ・シエナ連泊  @15.75€>

 

ユースホステル近くのマーケットで手に入れたトスカーナ―産赤ワインと、昨夜手作りしたサンドイッチ(

Ham & Vegetable with Myonase)を、近くの<Instito de Agrico>の屋上に持ち込んで、共に愛した瓜生の山から見る京都西山に沈む夕日にだぶらせ、暮れゆくシエナの夕焼けを眺め、シエナに眠る同輩の霊にトスカーナの赤ワインをささげ、ともに痛飲した。

 

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   トスカーナ産赤ワイン ROCCA RASA<BARBERA DALBA> と PRIMITIVO<ANTICA ARPIA>

 

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                 トスカーナ地方シエナの葡萄畑

 

 < シルクロード踏破を祝っての晩餐 >

亡き同輩も愛したであろうトスカーナ地方のシエナの丘陵を紅く染める夕陽を眺めながら赤ワインを痛飲したあと、シルクロード終着点への到着を祝って豪華な夕食となった。白身の魚のソテー、ピーマン・茄子・トマトのトスカーナ風グラタン、オリーブのガーリック漬け、パンと焼きリンゴ、アイスクリーム、デミタスコーヒー、それに赤ワインでシルクロード16000㎞の踏破を祝った。(23€)

 

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                           シエナの夕暮れに酔いしれた

 

<イタリアーノ、青年の夢>

食事を終えるころ、ひとりのイタリアーノ(青年)が日本人であると知ってか、同席していいかという。

自己紹介によると、TOYOTAのトラクタ―部門に勤務しており、TOYOTAの素晴らしさを知って欲しいという。そのうちイベルコのトラクターを抜いて、イタリアでのシェアー・ナンバーワンにするのだと、熱き夢を語りだした。

青年時代、計画を立て目標に向かって進むことは、夢をはぐくみ、やる気を起こさせるのである。この青年の情熱に、その純粋さがみてとれて好感が持てた。

日本は憧れの国であることを、青年はわたしに伝えたかったのであろう。

 

シルクロード最後の洗濯>

シルクロード踏破中は、簡単な手洗いで済ませてきた洗濯を、帰国を前にすべての着衣を洗濯機にぶち込んだ。体から出た分泌物で汚れ切った下着、純白であったタオルやハンカチのどす黒く変色した茶色、砂漠の色に変わった上下のサファリルック。それぞれシルクロード土着の色合いをだし素敵であるが、文明の利器である飛行機に乗るかぎり、その汚れと匂いは一応取り去っておくのがジェントルマンのたしなみであろう。

文明にもどるとは、なんと大変なことか。

 

 

1023日 シエナ ⇒ アッシジ

 

トスカーナ―地方は朝霧の風景がいい>

かすかに霞む糸杉の隊列、ぼんやりと霧に溶け込む橙色の屋根、色づき始めた紅葉、きれいに刈り取られた牧草、煙突からの灰色の煙と霧の溶けあうグラデーション、どことなく落ち着きのあるトスカーナの丘陵の風景が好きである。

成熟期を越えた老年の渋さを油絵の具で描き上げたような重厚さの中に静けさがあるのである。そのうえ、重なり合う丘陵の丸みに女性らしい優しさと美しさを重ね、次元のことなる夢想の世界へと誘ってくれるからたまらない。

 

< イタリアのわが故郷 アッシジに立寄る >

今回のシルクロード最終都市・ローマに向かう前に、シエナやローマから近いわが第二のイタリアでの故郷アッシジの村に立寄ることにした。

アッシジの聖フランチェスカシルクロード踏破をなし終えたことを報告するためである。

 

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                       わたしのイタリアでの故郷アッシジに立寄る

 

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                       アッシジの村落と果てしなく続く丘陵地帯

 

フランチェスカの教えは、わたしの心に響き、ただ神を賛美し、小鳥や動物を含んだ神の創造されたすべてを兄弟姉妹のように愛し、質素に、謙虚に福音の道を歩み、清貧に生きることを説いている。

 アッシジでの定宿である<Ostello de Assisi>に出向くと満員御礼だといわれ、面識のあるペアレント(管理人)に紹介されたアッシジ郊外の<Ostello della Parche>に腰を落ち着かせることにした。

 人びとが清貧の聖フランチェスカに出会うために世界中からやってきて、アッシジの村は賑やかである。

 

               

               <ああわれいまアッシジにおりて>

             

            ああわれいま無事にシルクロードを終えんとし

             神の加護によるものと深く感謝するものなり

 

            日々の導きのもと フランチェスカ聖堂に坐して

             喜び分かち合い感謝の祈りを捧げるものなり

 

            苦しい歩みにありしも主の導きにすがりて笑い

             古き絹の道を歩みて羅馬の街に立つを喜ぶ

 

 

<流し見る景色 と 迎え見る景色>

過ぎ去りゆく風景を、流し見る景色と迎えみる景色の二つの見方がある。

どちらかと言えば、過ぎ去る風景を流し見る方が好きである。

ここトスカーナ地方のフィレンツエやシエナ、アシジの広大な丘陵地帯をゆく列車の車窓からの風景は、迫りくる景色の雄大さもいいが、過ぎ去る景色の消えゆく悠久なる余韻を楽しむ方が更にいい。

列車の進行方向と反対の座席から過ぎ去る景色を楽しみながらローマへと向った。

 

<▲10月23~26日 アッシジ Ostello della Parche  /  パルチェ・ユースホステル 4連泊>

 

 

《 10月24日 アシジ 霧のち晴れ 》

 

                 <主への一里塚>

          霧のアシジ、いまだ暗く、なお深き眠りの中にありて

           聖フランチェスカの遺せし清貧のこころにわれを没す

         神に従いしはすべてを捨て去り  布一枚を巻きて

           神の宿りし魂をもてと聖徒はわがこころにささやけり

 

         アシジの朝 聖ドミアーノ教会の鐘響きわたりて

           おごそかに主なる神の到来を告げるなり

         ここスパシオ山に流れし聖歌は霧の舞となりて

           慈しみ深きキリストの目は神の愛をたたえて美しや

 

         ああわれいま神と歩みしシルクロード102日を終えてや

           ここアシジにて神の恩寵を受けその目的を果たすなり

         星の巡礼シルクロード16000キロの一歩一歩が

           求めし主への一里塚 歩み終えしを切に喜ぶなり

 

シルクロード最後のトレッキング - スパシオ山>

16000㎞のシルクロード踏破の途上、数えきれないほどのトレッキングを楽しんだ。

砂漠であり、海浜であり、長城であり、遺跡であり、高山であったりとそれぞれのトレッキングの記憶がよみがえってくる。

シルクロード最後のトレッキングは、ここアシジの村を見下ろす聖フランチェスカの瞑想の地であるスパシオ山(標高1290m)に向かうことにした。

果てしなく続くオリーブの樹々、たわわになる豊かなオリーブの実たちが喜びの声をあげて出迎えてくれる。小鳥たちが楽しげに朝の詩を口にし、霧はわたしを瞑想の山スパシオに導いてくれる。

霧を切りさく木洩れ日に静寂の森は息を吹きかえし、約800年の時空を越えて聖フランチェスカの祈りの声を震わせ、清貧のこころを満たしている。

スパシオ山の頂に石の十字架を描き、主にシルクロードの踏破を報告し、聖フランチェスカに伴われひとり踏破を祝った。

 

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               アシジ・スパシオ山頂に残した感謝の十字架

 

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                     スパシオ山への途中、カルチェリ庵の瞑想の地で

 

 

San Domiano/サン・ドミアーノ教会で祝福を受ける  アッシジ

 7月下旬に大阪港を発って、10月下旬に終着点・ローマに到着した。16000km、3か月におよぶフェリー、バスと列車によるシルクロード陸路踏破であった。

早朝、アッシジSan Domiano/サン・ドミアーノ>教会での早朝ミサに出席し、聖フランチェスカに会いまみえ、「星の巡礼シルクロード」の踏破を報告し、祝福をうけた。

 

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               アッシジ・サンドミアーノ教会の中庭

 

一条の蝋燭の光が聖堂の片隅で己の命を燃やしている。

聖母マリヤに抱かれた幼子イエスが私を認めてみ言葉を投げかけられた。

「よくやりましたね。まっていましたよ。」

うれしいみ言葉に身の引きしまるおもいである。

 

讃美歌の美しいこと、踏破したシルクロードの情景を思い返し、しばし瞑目した。

 

シルクロード、それは私にとって長いながい道のりであり、己を見つめる旅「星の巡礼」そのものであった。シルクロード、それは人の往来でできており、そこには前へ進む一歩の積み重ねが残っていた。シルクロードには、夢と情熱と希望がいまなお息づいており、まさに夢とロマンを成就させる道であった。

 

《 10月25~26日 アッシジ 霧のち晴れ 》

 

アッシジでの宿泊先である<Ostello della Parche>では、世界中からの<清貧の聖者・聖サンフランシスコとの出会い>を求めて集まった巡礼者との交流を持てたことを喜んでいる。ニュージランド人でスイス在住の熱心なクリスチャン、ミス・イネスや、アメリカ・ニュージャージ州フォルストヒルズからの自転車野郎パウロ君、アメリカ・サンディエーゴからのアメリカ野郎ジョゼー氏、アメリカ・テネシーの医者の卵アンナ嬢、スコットランドの母子ケイ& アグネス、食事前に必ず讃美歌を歌ってくれたドイツのミッションスクールの学生ミッシェルさん、韓国からの21歳の朴君(兵役を終えてアイルランドに語学研修に向う優しい青年)、私のスケッチブックに自分の家を見つけ抱きつかれたイタリア・フローレンス(フィレンツエ)からの50男、カミーノ・デ・サンチャゴ巡礼路を歩いたと意気投合ドイツアルプスからの女性、ひとり一人の友情に感謝である。

 

特に、ホステルのペアレントと奥さんは、こちらがシルクロード16000㎞を踏破して、ここアッシジの聖フランチェスカに報告のため立ち寄ってくれたことに感激し、疲れた体をいたわっていただき、何かとお世話になったことを忘れることは出来ない。

感謝の気持ちとして、ゲストブックにサン・フランチェスカ聖堂の絵と詩を残してきた。

 

            <祝福  シルクロード踏破を終えて>

 

         アッシジの朝 鐘が鳴り 聖ドミアーノ聖堂に坐すわれに

          厳かなる神の到来を告げるなり

            このスパシオ山に流れる聖なる歌は

              霧の舞いとなり  わが魂を覆い尽くすなり

                 十字架にかかりしイエス・キリストの目は

                    神の愛を満たして  大きく見開きし

 

        ああわれいま  神と共に歩みて  星の巡礼シルクロード

          終着なるローマに着きて  その目的を成就するなり

            ここアッシジにありて 聖フランチェスカをとおして

              その恩寵を感謝し  祝福を喜ぶなり

                われに与えられし神のみもとへの一里塚を

                  歩み終えしことを心より喜ぶ   ハレルヤ !

 

 

         < Blessing : After completing the Silk Road >

    

    Morning bell of Assisi rings and sits in the Basilica of St. Domiano

         Be announcing the arrival of the solemn God

        The holy song that flows on this mountain Spacio

         It becomes a dance of fog and covers my soul

           The eyes of Jesus Christ on the cross

            Satisfy God's love and spread wide

 

   Ah, I'm walking with God, the pilgrimage of the stars- Silk Road

    I arrived in Rome, the end of Silkroad and fulfill that purpose

           Be here in Assisi,  through St. Francis

        Thank you for the grace and rejoice in the blessing

            A milestone to God given to me

           I'm really happy to finish my steps

                  Hallelujah !

 

 

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        シルクロード踏破を報告し、祝福を受けたサン・フランチェスカ聖堂

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

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               アッシジ・ サンフランチェスカ聖堂にて

 

みなさんに見送られてシルクロード踏破16000㎞最終地ローマに向かう。途中、プルージャに立寄り古き良きイタリアの路地裏をスケッチした。

 

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                   イタリアの古き良き時代のプルージャの路地裏

                        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

《 1027日 シルクロード踏破16000km最終地 ローマに到着する 》

 

昨夜の大雨にぬれた朝霧に煙るアッシジを出て、列車でローマに入り、バチカンのサンピエトロ広場に立った。

手にした一枚のナイロン製買物袋に、居住地である大津市堅田にあるスーパーマーケット<イズミヤや>のロゴがあるのに気づき、苦難の道<シルクロード16000㎞>を共に駆け抜けた仲間の存在に、感無量の気持ちにさせられた。

今朝のバチカンは、世界中からの巡礼者がバチカンパウロ法王に迎えられる日である。

わたしも<星の巡礼 シルクロード16000㎞踏破>をなしえた証の祝福を受けるため、巡礼者の列に加わり、パウロ法王の祝福とメッセージを受けた。

巡礼団へのミサは、厳かなパイプオルガンの調べにあわせて、本日出席の巡礼団の紹介がなされていく。アイルランド・ダブリン巡礼団、チリ―・サンチャゴ巡礼団、マルタ巡礼団、フィリッピン巡礼団・・・と英語・スペイン語・フランス語・タガログ語・・・と各巡礼団の言語で紹介されていく。

紹介された巡礼団は大歓声で迎えられ、立ち上がって答礼するのである。その都度、サンピエトロ広場はブラザーフッド歓喜に沸くのであった。

 

カトリック教徒は、一生に一度はバチカン巡礼を夢見るといわれている。

トルストイ著「人は何で生きるか」に出てくる二人の老人が、ここバチカンへの聖地巡礼への途次、神の試練に出会う物語を思い出した。

一人の老人は、聖地巡礼に出かけてきたが、あまりにも多い巡礼者に紛れてしまい、果たして自分はイエス・キリストに出会えたのだろうかと疑いを持ちながら帰ってくる。

もう一人の老人は、聖地に行き着くまでに貧困家族に出会い、すべての路銀(旅費)を彼らを助けるために使い果たし、聖地に行けずに帰ってくるのであるが、彼は神と出会ったことに深く感謝するのである。

人生もまた、日常の人助けは、聖地巡礼に勝ることを語っている。

肝に銘じておきたい。

 

最後に、パウロ法王を乗せたオープンカーが広場に入り、巡礼団へのミサが執り行われ、祝福の言葉が述べられた。

わたしの<星の巡礼 シルクロード16000㎞>もここに祝福され、この旅を終えることとなった。

 

 

 《 1028日~29日 ローマ散策 と 帰国 》

 

専制や独裁のもとで花開いた文明に、人々は歴史遺産としての価値を見出すのであろう。

ローマに広がる遺跡には多くの観光客でにぎわっていた。

寸時を惜しんでローマの街を夜遅くまで駆け巡ったあと、翌朝シルクロード西の起点、ローマのパルテノンに別れを告げ空港に向かった。

 

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         シルクロード西の起点ローマに遺る壮大なドーム・パンテノン(後方)

         と バチカンにあるサンピエトロ大聖堂(前方) とのコラボレーション 

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                       カトリックの総本山バチカン・サンピエトロ大聖堂

 

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                               ローマ・ナボーナ広場で

 

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                         夜のトレビの泉でエクアドル青年カルロス君と

 

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                ローマ・共和国広場の夜景

 

荒涼とした灼熱のもと、砂嵐が吹き荒れるシルクロードを、バンダナを口に当て彷徨した日々が懐かしく脳裏に浮かんできた。

ローマの遺跡に圧倒されながらローマ滞在を終え、ローマ・レオナルドダヴィンチ国際空港をたち、ドバイで乗換え、エミレーツ航空316便で関西国際空港に無事帰国した。

 

志賀の里はすでに冬支度、比良降しの寒風が迎えてくれた。  

 

 

          

 

        2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』

                    

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 




                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑧<シルクロード・ギリシャ縦断>


星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』

   <シルクロードギリシャ縦断> 
     星の巡礼者 後藤實久

 

 

《 10月2日 ギリシャアテネに到着 》

 シルクロード踏破の旅は、ギリシャの地に入った。

朝6時30分、アテネ国鉄ラリッサ駅近くの東にあるバスターミナルに無事到着した。

アテネの気温は14℃、秋日和。バスターミナルから真南に歩いて約15分、オモニア広場にある地下鉄駅に

向かった。

地下鉄オモニア駅より終点ピレウス駅に到着。(地下鉄0.7€・ユーロ)

5泊6日分のギリシャ滞在費の両替をピレウスのATMと銀行で行った。

 

シルクロードギリシャでのスケジュール ・ 滞在費>

10/02~05    アテネピレウス港⇒サントリーニ島       4泊5日

10/05~06    サントリーニ島ニコノス島              1泊2日

10/06~09    ニコノス島⇒ピレウス港⇒アテネ            3泊4日

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10/10        アテネ発夜行国際バスでブルガリアに向かう  車中泊

10/11~12    ブルガリア滞在                   1泊2日 

 

 

 

地中海クルーズ              100€

5日分宿泊代                   50€

6日分飲食代                         120€

観光雑費                      40

ギリシャ滞在予算                                 約310€

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■T/C(トラベルチェック)現金化400US$ =約310€ 

 

<旅は予定通りには行かないものである>  

人生も旅も常にワンタッチの差で目先の物を逃すことがあるものである。

今朝早くラリッサ駅近くのバスターミナルに着いて、ギリシャでのホステル一泊分の宿泊代を浮かすために船に乗るため、メトロ(地下鉄)でピレウス港に急いだ。

しかし、一足先でピレウス港発の定期航路のフェリーの船尾にある通路が巻き上げられ、出航していくではないか。なんと数分の差で予定のフェリーに乗り遅れたのである。

最善を尽くし、精一杯の努力をしてのことと自分を慰めたが、残念でならない。

ギリシャ初日から船中泊という節約計画が崩れたのだから口惜しいのである。

 

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                                         シルクロードギリシャ・ルート地図

 

<別便でサントリーニ島に向かう>

格安の定期航路(15€)を逃し、悔しいが急遽計画を変更して、ピレウス港より幻のアトランティス大陸といわれるサントリーニ島行きの水中翼高速艇<ドルフィン号 50€>に飛び乗ることにした。

不思議なもので、<ドルフィン号>乗船によって、悔しさも運命を大きく変えるエーゲ海の船旅になりそうな気がしてきた。

旅も人生も、あくまでその時の納得と、期待と、夢の持ち方で決まるような気がする。

何はともあれ、今夜は幻の大陸の中心、サントリーニ島で眠ることになったのだ。

またどのような夢を見るのであろうか、楽しみである。

 

今回のエーゲ海船旅は、サントリーニ島を皮切りに幻のアトランティス大陸の一部といわれる島々を回ってアトランティスの遺跡をたどることにしている。

 

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        幻のアトランティス大陸の最高峰 サントリーニ島に向かう

                 <水中翼船ドルフィン号>

 

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       サントリーニ島の断崖を上って幻のアトランティス大陸の山頂に至る

 

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          断崖下のサントリーニ島に着く(乗り逃がした定期船)

 

 

<すべての人が憧れる夢の街 フイラー>

水中翼高速艇<ドルフィン号>はサントリーニ島の断崖絶壁下にある港に着く。ロバにまたがり断崖に造られた小径、綴らおりを上り、頂に所狭しと建てられた無数の白亜の家屋とコバルトブルーのドームの丸屋根を持った教会に迎えられるのである。

ここが生涯一度は訪れたいといわれる街、サントリーニ島の<フイラー>の街である。フィラーは白亜の街であり、ポエムの街である。その白亜はエーゲの太陽に照らされ童話の主人公であるわたしを照らし出しているようである。

 

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       エーゲ海に浮かぶサントリーニ島断崖につくられた白亜村・フイラー

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<▲10月3~ 5日  サントリーニ島ペリッサ  『Villa Holiday Beach』 連泊>

 

この時期、サントリーニ島は観光客で溢れかえり、中心街であるティラはすでに予約で満室であった。島の中部にあるビーチに近いペリッサなら空き部屋があるということで、素敵なプールのある<Villa Holiday Beach>に宿泊することにした。

ペリッサは、フイラーの街や古代遺跡ティラ、黒砂浜のカマリビーチやペリッサビーチにも歩いていけて便利な位置にある。またフィラーのような喧騒を避けて、静かなサントリーニ島を味わえるのでおすすめである。

 

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          サントリーニ島Villa Holiday Beachのプールサイドで日光浴

 

アトランティス大陸の赤ワインを味わう>

いまなお息づくサントリーニ島に張り付く葡萄畑、幻のアトランティス大陸のワインの味を伝えているのであろうか。

アトランティスは、少し酸味と渋みのあるワインを古代シルクロードを通って東方に送り出していたと思うだけで愉快ではないか。そう、楊貴妃も又始皇帝とともにアトランティスのワインを味わっていたのだと思えてくるから不思議である。

さっそく、<HATZIDAKIS Santorini―Sigalas SANTOTINI>の2本の赤ワインを手に入れ、酔いて心を和ませ、更なる夢を見させるアトランティスの赤ワインの味を楽しんだ。

 

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                サントリーニ島ペリッサの街を背景に

 

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         幻のアトランティス大陸サントリーニ島ペリッサの街を散策

 

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        幻のアトランティス大陸サントリーニ島レッド・ビーチにて

 

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                  サントリーニ島フイラーの街散策

 

 

サントリーニ島は幻の大陸アトランティスの山々の一つである>

サントリーニ島は再度の訪問である。

サントリーニ島が幻のアトランティス大陸の一部であると確信しているからである。

1992年、20年にわたるアメリカ在住からの帰国時であったから、今回でアトランティス大陸の最高峰に2度登頂したことになる。

紀元前4世紀の哲学者プラトンは人づてとして<クリティアス>と<ティマイオス>の二冊の著書で、アトランティス大陸について次のように述べている。

アトランティスは、地中海の西の端にある美しく豊かな土地で、黄金を産し、貿易の民が世界中から集まった」と。

この理想国家アトランティスは、大地震と洪水により一夜にして海中に消えてしまったとある。

このアトランティスの実在、それはどこにあったのか・・・わたしもその謎を追う同好者の一人である。

 

ほかに、大西洋スペイン沖合にあったという説があり、昨年夏(2003年8月)巡礼路<カミーノ・デ・サンチャゴ>を自転車走破した足で、アトランティス大陸が眠っているといわれる地の果て<フィニステーレ>を訪れて、一文を残している。

「わたしの星の巡礼は、ここ<カミーノ・デ・サンチャゴ>を経て、次なる<幻のアトランティス大陸>へと続く。フィニステーレはサンチャゴ・デ・コンポステイラから西へ、大西洋に至る18kmの位置にある。

フィニステーレとは、「地の果て」という意味であり、この先にアトランティス大陸が眠っているのだ。」

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/15074827

 

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(左)アトランティスエーゲ海説 (サントリーニ島衛星写真 Wikipedia

   サントリーニ島アトランティスの中心であるという

               (右)アトランティス・大西洋説 

                     (1669年キルヒャー作図Wikipedia

                      南北が逆、右にアメリカ・左にアフリカとなっている

 

わたしはここサントリーニ島アトランティス山の頂であったと固く信じる一人である。

アトランティス山に輝いたであろう真紅の太陽がまぶしい。いま、BC1500と同じアトランティスの朝を迎えている。近くの山影はイオス山であろうか。

わたしはいま2004年10月3日朝6時58分、アトランティスの最高峰サントリーニ山 海底抜2800m(標高280m)の山頂で、真北にあるイオス山に向かって坐り、瞑想の中にいる。気功により約3500年前の太陽エネルギーを取り込んでいる。3500年前、アトランティスの住民もまたこの太陽の神を拝したに違いない。>

 

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    夢想するアトランティスの島々 <エーゲ海に顔を出すアトランティス大陸の山々の頂>

        西(左)より、フォレガンドロス島・ミロス島・キモロス島・スキノス島・

                サントリーニ島・イオス島・アナフイ島

  

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               夢想するアトランティスの山々 

         <サントリーニ山 2800m と イオス山 2500m>(予測海底抜)

 

<幻のアトランティス大陸 上陸記念碑>

サントリーニ島の砂浜は、黒砂をひき詰めている。

夢想するわたしは、ここアトランティスの黒い砂浜に小石の記念碑を描き、アトランティス訪問の証とした。中央に十字架、その周りにスター・ムーン・フラワー・ドッグ・ハート・AT(アトランティス)を配し、ハートで取り囲んだ小石の標(しるし)を黒砂の上に描いた。

 

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      幻のアトランティス大陸 上陸記念碑 (サントリーニ島カマリの黒砂浜にて)

 

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           サントリーニ島ペリッサの黒砂浜 <Perissa Beach>

 

 

 

       《 詩  幻のアトランティスサントリーニ島よ 》  

 

           ああきみ 幻の大陸 アトランティス

           君いま 息をひそめ ここエーゲ海

           静けき深海に沈みて 息をひそめおる

 

           ドルフィン号のわれ きみの呼吸に没し

           サントリーニ島に その姿をのぞかせて

           時を越え われを迎えんとするを喜ぶ

 

           アトランティスのわれに寄せし魂の鼓動

           きみわがこころに響きて 姿をみせんとす

           ドルフィンに背負われしわれ興奮を隠せじ

 

           わがこころの宇宙にきみ来たりて歌いて

           われに夢を叶えさせたまえと祈りてや

           君に会えしこの日を 共に喜びて祝わん

 

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             サントリーニ島ペリッサに建つドームを持った聖堂 

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

           

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             フィラーの街を望むペリッサの聖堂

    

 

        《 詩  ああわが麗しのアトランティスよ! 》

 

            ああ麗しのアトランティスよ 

            この日を幾度夢見たことか

 

            君 青きエーゲ海の日差しあび 

            柔肌のうすき感触にときめきし

 

            わが心捧げし君に 心満つるなり

            祈りし息吹に 君恥じらいて笑う

 

            アトランティスを飲みしエーゲの海よ

            君の微笑みに心満つるなり

 

            わが心に生き続けしアトランティス

            わが心捧げしに君応えて迎えし 

 

            エーゲの海に顔を出せしアトランティス 

            峰なるサントリーニ島を創りおる

 

            われいまここに立ちて アトランティス

            親しみを込めて挨拶するなり

 

            ああわれいまアトランティスの山頂

            サントリーニ島におりて至福なり

 

 

     

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              夢想<エーゲ海に浮かぶアトランティスの山々> 

               キクラデス諸島Selihos Island に沈む夕日

 

 

           

            <詩   ああアトランティスよ!>

             

             ああ麗しのアトランティスよ!

             この日を幾度夢見たことか

             初秋の柔らかい日差しを浴び

             われ胸をときめかして切なり

 

             柔肌のなめらかなる感触に

             恥じらいて息吹き交わし

             君我にすべてを与え給い

             君に我こころを捧げしや

 

              エーゲよ アトランティス

             君を想うこころ深きこと

             エーゲの蒼き心に似たり

             今宵の宴を共に祝わん

 

             紺碧のエーゲに顔出せし

             アトランティスの峰々よ

             海に沈みし幻の大陸よ

             親しみ込め挨拶するなり

 

             アトランティス語り部

             フルガンドロスの島民にして

             オレンジがよく似合う女神は

             我を幻の大陸に導くなり

 

 

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       幻のアトランティス大陸 サントリーニ・ペリッサビーチより夕陽観賞

 

<のんびりした島内バス>

ここペリッサからフイラーの街へは、歩いての散策も楽しいが、島内バスに乗るのもいい。時刻表もなく、いつやってくるかもわからないバスを待つのも人生にあってもいい。

ペリッサの街角にあるバス停<メガセコリ>で、葡萄畑を駆け抜けてくる潮風やエーゲの太陽と戯れながら、日向ぼっこのバス待ちである。

このバス停近くにアトランティスのパンの匂いを運んでくるベーカリーがあり、特大のドーナツとコーヒーで朝食とした。

 

サントリーニ島のRED BEECH でシュノーケリング

フイラーの街のスケッチをしながら散策したあとは、可愛い熱帯魚たちに迎えられてレッド・ビーチでシュノーケリングを楽しんだ。トロピカルフィッシュたちは恐れを知らず、わが手に接吻をしてくれるのだからその愛苦しい仕草にアトランティスの海に顔をつけて長い間、見入ってしまった。

導かれたシュノーケリング・ポイントのあるこのビーチを<Atrantia SANE Private Beach>と名付けることにした。

その付近の略図スケッチを載せておくことにする。

この<SANE Beach> への行き方は、Red Beach行島内バス(0.9€)で < アクロティリ/Akrotili /ギリシャ正教会前>で下車し、徒歩でレッドビーチ駐車場に向かう。この駐車場に面した略図の中のが<SANE BEACH>である。

Red Beachはタツノオトシゴの形をしたサントリーニ島の尻尾の南側に位置する。

 

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                   Ⓧが<命名:SANE BEACH>

 

 

< 古代遺跡ティラ / Ancient Thira トレッキング >

古代ティラ / Ancient Thiraは、幻のアトランティス大陸サントリーニ山(海底抜2800m)の頂上にある。

そう、エーゲ海に浮かぶサントリーニ島の一番高い所(海抜280m)にある遺跡である。

紀元前9世紀頃ドーリス人によって築かれた古代遺跡だと言い伝えられている。

紀元前4世紀のプラトンも又その著書で幻のアトランティス大陸のことを述べているように、すでにその500年も前の古代遺跡が今目の前に、それも海底ではなく島の頂にその姿を見せているのだから<アトランティスの存在>を信じる、夢おおき者にとっては興奮の一瞬である。

 

古代ティラへは、宿泊先である<Villa Holiday Beach>から歩いて片道約1時間半のトレッキングである。多くのバックパッカはサントリーニ島の北側にある賑やかなイアやフイラーの街からやってくるので、バスや乗り合いタクシーやバギーを利用するようである。

 

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               古代ティラ遺跡へのトレッキング・マップ

 

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               幻のアトランティスの古代遺跡ティラ?          

 

<日独共同レスキュー作戦 ― 怪我の老婦人を救出 - 古代遺跡ティラにて>

古代遺跡ティラから下山途中、フランスの老婦人が石に転び、右足の膝を岩にぶつけて大きな裂傷を負っていた。まずドイツ人夫妻が気づき、夫人がレスキュー要請のため麓に下山。ご主人が傷口にペーパタオルを当て、ビニール袋を巻いているところに行き会わせて、助力を申し出た。

携行していた救急袋から殺菌用のイソジンきず薬で傷口を消毒し、念のため滅菌用キシロA軟膏を塗布、新しいペーパタオルに置き換えて、バンダナを三角巾にして固定。

レスキュー隊は結局救助に来ず、通りかけのドイツ人青年も参加、老婦人を抱え上げて下山することになった。

彼女の重たいこと、か細き男性たちはすぐに息切れし、交代で背負うことになったがこれまたすぐギブアップ、どうにか時間をかけてバス停まで下山することが出来た。

迎えに来ていた老婦人の妹さんや本人からのお礼の言葉に、「サントリーニ島は幻の大陸と呼ばれており、そこに行き交うわれわれも又、アトランティスの子孫と思えば、互いに助け合った心に残るストーリが出来ましたよ」と答えて、お互いの労をねぎらって別れたのである。

 

フレンチ、ジャーマン、ジャパニーズ、グリークの飛び交うなか、意味不明の会話もイングリッシュでようやくまとまるのだから、意志疎通は不便なものである。しかし、いまなお言語は民族統一のシンボルであり、国家間の障害として残された課題でもある。

1世紀ほど前、世界中の人々にとって「第2言語としての共通語」となるべく作られた人工言語としてのエスぺラント語が文化人の間で真剣に学ばれた時代があったことを亡き母から聞かされたことがある。国家の枠を取り去り、人類平等の原則は言語からなされるのであろう。

 

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        古代遺跡ティラ下山途中、負傷されたフランスの老婦人をみなで救助

 

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      夢想アトランティスの風景 <アクロティリよりManolas/Oia/Firaの各街を望む>

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

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            アクロティリよりサントリーニ島北部を望む(スケッチ原風景)

 

 

< 10月5日 サントリーニ島滞在最終日 雲棚引き 風強し>

①10月5日分宿泊費(15€)追加支払いを済ませること

②ミコノス行船便の予約とスケジュール確認(10月6日)

デポジット(5€)・パスポートの返却を受けること

④荷物のパッキング/日本への郵送便の発送

⑤<Sunrising Trecking>の実施

 

サントリーニ島 Sunrising Trecking >

サントリーニ滞在最終日を迎えることになった。約6㎞のショートコースだが、サントリーニに別れを告げるにあたって、雲棚引く魅惑的な朝日を配する静かなコースを歩くことにした。

ペリッサにある<Villa Holiday Beach>を朝早くでて、島を北西に向かって横断し、島の西側の坂を下るとMegalo Choriの街に着く。三叉路を南西に道をとり<Caldera Beach>で島を横断し、Red Beachの入口の

<Acrotili>に到着する。約2時間のトレッキングコースである。

帰路はのんびりと島内バスを利用した。<Acrotili ⇒0.9€⇒ Megalochori乗換 ⇒0.9€⇒ Perissa>

 

 

<サントリーニ最後の昼食を楽しむ>

サンライズ・トレッキングを終えるころ、ペリッサ・ビーチ近くでロスアンゼルス在住の動物病院を経営する青年、小笠原君に出会い、お互いアトランティス大陸を追い求める同好の士であることに意気投合、ペリッサビーチに並ぶ <Bar Restrant ATLAS> で昼食をとりながら自説を交換することになった。

幻のアトランティスのビールに見立てたBeer<Mythos>で乾杯、夢見る若きアトランティスターに祝杯を挙げた。

世界には<幻のアトランティス大陸>を追い求める夢想者が数多くいるのである。

アトランティス大陸が地穀変動でエーゲ海に没していったという一説を確立しているここサントリーニ島で、

エーゲ海説を信じる青年と出会えたことに感謝したものである。

 

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             <Bar Restrant ATLAS> で昼食(Perissa Beach)

 

<10月6日 強風のため出航取止め>

朝早くからここサントリーニは、強風が吹き荒れ、波浪が高いため、

船会社より今朝出航の便はキャンセルするとの掲示があった。明日同時刻に出港するとのことである。

数百名の団体乗船客は、それぞれの宿泊先にもどって行ったが、わたしは乗船予定のBlue Star Naxos号をスケッチしたあと、強風を避けるため英国人のバックパッカーカップルとギリシャ人中年夫婦の5名と共に、フェリー乗場の待合室で一夜を過ごすことにした。

夕食は、港にあるレストランに5名で出かけ、ギリシャ夫婦がすすめる郷土料理<ムサカ>を堪能した。

待合室には屋根はあるが戸がないので寒くなりそうだ。それぞれマットをひき、雨具を着込み、防水カバーをかけたスリーピングバックにもぐりこみ、旅談議に花を咲かせながら夜を過ごした。

このような自然災害による緊急舎営もまた楽しいものである。

特にフェリーによる移動には、暴風によるキャンセルも計算に入れて行動計画を立てるようにしている。

 

<迷子の子犬ちゃんに鼻をなめられ・・・>

幻のアトランティスは、天候の変わりやすい大陸であったようである。

昼間は地中海気候により紺碧の青空から降り注ぐ太陽熱は体を焼くほど温かく、夜は涼しく、雨の日は寒ささえ感じる。

ピンキーと名付けた可愛い子犬もまた寒さを避けるため、舎営するわれらバックパッカーの寝袋に潜り込もうとしては、鼻をなめて品定めをしている。多分、飼い主の布団で一緒に寝ていた習慣からであろう。

しかし迷子になって一度も洗ってもらっていないのか臭い、可愛いがとても臭い。

「一日も早い飼い主に出会えますように、アトランティスの子犬ピンキーよ 君の一生に豊かな愛がいっぱいありますように・・・」

 

 

《 10月7日 サントリーニ島 ⇒ ミコノス島・デロス島  フェリー移動  晴れ・波浪高し 》

 

サントリーニ島より、アトランティス遺跡があるとされるミコノス島・デロス島にわたる>

今日は、波浪もおさまり、天気も回復したことで出航するという。

この船に乗るために2日間も待ったことになる。最初に乗船したかった日は定期運休日、二回目は暴風雨による欠航と、フェリーや船による移動はゆとりあるスケジュールでないと大変である。

カナダのカップルは、フェリー欠航により、エアーチケットのキャンセルも出来ず途方に暮れていた。

 

ミコノス行きフェリ―は火木休航以外、毎朝1便である。

サントリーニを07:30出航する<Blue Star Naxos号 14.10€>、経由地Raposに10:30に寄港し、11:00出航の<SeajetⅡ号 12.40€>に乗換えて、ミコノス/Mykonosに11:40に入港する。

ミコノス島では、キャンプ場でツエルト(簡易テント)に潜り込む計画を立てている。

 

寝袋から起き出し、出航前のサントリーニの波止場を早朝散策。

Blue Star号の満艦飾の旗がエーゲ海の青空に映え、これから向かうミコノス島の古代アトランティスの遺跡へ夢を馳せる。

エーゲの風は西から東へ吹き流れ、わたしはシルクロードを東から西流れてゆく。

いつかまた、どこかでアトランティスの風と交わる日を夢見ながらアトランティスの子犬・ピンキーと

別れた。

 

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                あさひに輝くサントリーニ港を散策

 

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         サントリーニ港レストランで朝食(背後にフェリー・ブルースター

 

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           エーゲ海をミコノス島に向かうフェリー・ブルースター

 

        < アトランティスの山々よ さらば・・・>

 

         いままさにエーゲの海に映える真紅の太陽は

         サントリーニ、いやアトランティスの峰に注ぎ

         古代の神々に 朝のお告げを伝えんとする

 

         オレンジ色の一筋のひかり わが胸を射抜きて

         アトランティスの温かき太陽を浴びて満ち

         3000年前の息吹でわが体は膨らみて飛立つ

 

         エーゲに沈みしアトランティスを船で越え

         いままさに古代遺跡ミコノスに向かわんと

         われ ここサントリーニに別れを告げるなり

 

 

<幻のアトランティス大陸を求めるラ・マンチョのごとし>

サントリーニ島を後にするブルースター号の力強い航跡に、夢を実現していくパワーとエネルギーを感じる。

いまここエーゲ海で、消えていったアトランティス大陸に夢を馳せるおのれの情熱と、航跡の力強さを重ねるのである。

なぜかエーゲの海の風に向かって、ミュージカル<ラ・マンチャの男>でドンキホーテが歌っていた<見果てぬ夢>のメロディーを口ずさんでいる。 <見果てぬ夢を見、見果てぬ夢を求めん・・・>、幻のアトランティス大陸を求める探究者とドン・キホーテを重ねたものである。

航跡の先、ミコノス島でアトランティスの古代遺跡をみる夢が叶う気がしてきた。

 

ブルースター号に揺られて>

The Blue Star/ブルースター号のアトランティスの海をけやぶるエンジンの振動が心拍音のようにリズミカルに体に伝わってくる。何事もあるものとぶち当たる時、ある種のハーモニをつくり出す。

このハーモニの心地よさにより、人間はそのハーモニの一部となっておのれの実在を忘れ天空に遊ぶとき、

人生に豊かさを感じるものである。

旅も、人生もまた然りである。

 

<▲10月7日 ミコノス島への中継点ロドス島で天候悪化  

       ロドス・アパートメント・ホテルに緊急投宿 15€>

    -Philip Rooms Apartments―

 

乗継港Rodos/ロドス島に到着したが、ミコノス方面の時化(しけ)が激しく、乗継予定の<ブルースター・シージェットⅡ号>は、欠航するとのアナウンスがなされた。

一応キャンセルし、明日朝9時の別便で出航することになるという。

エーゲ海での天候不順による乗船キャンセルは、これでサントリー島出港時に続き二度目のため、ここロドス島からピレウス港にもどろうと船会社に掛け合ってみたが、すでに満席で乗船券を保持している者のみの乗船が許されるとのことである。

二回の欠航で、旅行日程の変更が生じたことを訴え、とりあえずピレウス行きフェリーに乗せ、乗船手続きをとらせてくれるように要望したが、当然ながら乗船名簿にない者は乗せられないという。

欠航による金銭的ダメージは保険会社に申請してくれと言われ、せっかくの古代遺跡デロス島を見逃すのもあきらめきれず、天候に従ってアトランティスの旅を続けることにした。

旅行会社発行のスケジュールでは考えられない自由な計画変更ができるバックパッカーの旅を続ける理由がここにあるのである。

二日続けての野宿は、長期のシルクロード旅での体にさわるので、港近くのアパーメント・ホテルに飛び込み宿泊代の交渉である。格安を信条とするバックパッカーにとっては、いかなる時でもプライス・ネゴシエーションが至上命題である。

30€を半額の15€にしたと喜んだが、実は大きなホテルにもう一組の3人だけ、アパートメント・ホテルのオーナーにかえって歓迎され、手作りの赤ワインや、油漬けのオリーブをご馳走され面食らったものである。

今夜は嵐のお陰で、熱いシャワーを浴び、柔らかいベットで寝られるのだから、バックパッカーにとってはこれまた良しである。

 

    

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          緊急投宿となったロドス港街をフェリー・AQUA JEWEL号船上より望む

 

 

《 10月8日 ロドス島 ⇒ ミコノス島 にフェリーで渡る 》

 

 <人生色々 夫婦の形>

今朝は、昨日の暴風雨と打って変わって晴れ渡り、ロドス島の峰に真赤な太陽が昇り始めた。

ロス島へのフェリー<AQUA JEWEL号>に乗船し、最後尾のデッキに陣取ってロドスの港町をスケッチしながらアトランティスの船旅を楽しんだ。その傍らにはヨーロッパやアメリカからの観光客がエーゲ海の美しさに声をあげていた。

船旅は、一定の空間・時間を共有するソサエティー(社会)であり、ゆっくりと隣人を観察し、わが人生を顧りみるための鏡でもある。

右隣の夫婦は、一言もしゃべることなく酒の匂いをエーゲの海風になじませながら、二人だけが背負ってきた人生をのぞかせている。ご主人は酒焼けの赤ら顔にむけ缶ビールを何本も空けている。時々奥さんが飲みかけの缶を取り上げるが、ご主人はなすがままに任せている。

奥さんもまた、ザックから小瓶のウイスキーをとりだして飲みだしている。その匂いが海風に乗って隣の私の鼻腔を刺激する。ウオッカ―かブラジルのピンガーか、強烈なアルコールの匂いにわたしも酔いの気分が加わる。

夫婦は、酔っぱらうでもなく、騒ぐこともなく、ただ憧れであったエーゲの海に迎えられその人生の重荷をおろしてくつろいでいるように見える。海風に身を沈め、時の流れに身を任せる夫婦の姿に、人生の深さを感じたものである。

左隣の高齢夫婦は、楽しくよくおしゃべりし笑い、互いに認め合う仲のいいおしどり夫婦のようである。わたしから見て模範的な人生を送られてきたように見える。

それぞれの人生は一冊の本にまとめられ、その内容は様々であり、読まない限り表紙のタイトルを見て想像するだけである。

それぞれの夫婦には、それぞれの物語があり、一つとして同じ物語はないのだから人生は面白い。

コーヒーを飲んでおられるご夫婦も、アルコールをたしなんでおられるご夫婦も、エーゲのさんさんと降り注ぐ同じ日光を浴びている姿に、不思議と人生への愛着を漂わせ、周りの者を幸せの虹の中に誘っているようである。

 

いま、フェリー<AQUA JEWEL号>に同乗しているわれわれは、幻のアトランティス大陸の中心、そう、エーゲ海に浮かぶキクラテス諸島のヘソといわれるロドス島近海を航行しているのだから、運命共同体といってよいのである。

この海域を中心にアトランティス大陸は大陥没後、多くの山頂を島として残し、海中に沈んだとされる。

ミコノス島が見えてきた。

 

 

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            フェリー<AQUA JEWEL号> ミコノス入港

 

              <詩 ロドス島よ>

         われいまここ幻のアトランティス大陸におり

         神の創りたもうたエーゲの海を航海している

         夢にまで見たアトランティスに沈みし大陸よ

         君も我も同じ太陽の光浴びて、われ幸せなり

         君無限の空間にありて、同じ空間の我を抱き

         神の創造せしプラ―ネットで共に遊ぶを喜ぶ

 

                 Rhodes !

        We are here on the phantom Atlantis continent

        I am sailing the sea of Aegean that God made

        The continent that sank into Atlantis, I had dreamed

        You and I will be happy in the same sunshine

        Being in an infinite space, holding me in the same space

        Happy to play together on God's creative planet

 

 

<ミコノス島 と パラダイス・ビーチ>

ミコノス島には、裸体主義共和国とも呼べる、ヌーディストたち憧れのビーチ、世界的に有名な<パラダイスビーチ>がある。

いま私は人種の垣根を超えた多くの裸体に囲まれ、エーゲ海の潮風に吹かれ、幻のアトランティスの砂浜に横たわっている。

見せるヌーディストたちは、見られる快感を楽しんでいるのであろうか。圧倒され、着衣のままでいる者に対し軽蔑の眼差しを向けてくる。

こちらもいっぱしのヌーディストだと自任しているが、流儀の違いに違和感を持つものである。こちらは、人の好奇な目にさらされることなく、大自然の中で着衣を脱ぎ捨て、裸体になる解放感である<自由を満喫し、宇宙と一体になり、幸せにひたる>ナルシスト的ヌーディストなのである。

しかし、人間の裸体は美しい。

神の創りたもうた芸術作品であることに間違いはない。

 

内なる違和感をもちながら多くの裸体に囲まれ、たった一匹海水パンツをはいたチンパンジーのようにビーチベットに体を横たえて、エーゲの白浜に打ち寄せる波の音を楽しんだ。

仰ぐエーゲの青空は、時空を越えてアトランティスの青空なのである。

これまた美しい。

 

《 ▲ 10月8日 ミコノス島 パラダイス・ビーチで露営 》

 

 <パラダイス・ビーチで野宿>

今夜は、緑豊かなアトランティスのミコノス(山)の麓に広がるエーゲ海に面する<パラダイスビーチ>で露営することにした。

二本の木立ちにロープを張り、蚊よけのためシーツをロープにかぶせ、枕元にペットボトル・ヘッドライト・ストック(自衛用)おき、寝袋カバー(ゴアテックス)にもぐりこんだ。

 アトランティス(エーゲ)の潮騒に満ちたパラダイス・ビーチに独り伏して、樹々の間から漏れ来る悠久の星たちの輝きを眺め、犬たちの遠吠えに耳を傾けていると、太古のアトランティス大陸にタイムスリップしていく。

 夢の中、アトランティスを彷徨っていると、懐かしき一番鶏の響きに目を覚まされ、緩慢な目覚めに今日の幸せをかみしめるのである。

 

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     幻のアトランティス大陸の中心地といわれるミコノス島パラダイス・ビーチで野宿

 

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<日本こそヌーディスト王国 と わたしの裸体論>

現在は数えるほどになった混浴風呂は、昔、日本の各地で見られた。

日本の混浴は、究極のヌーディスト・クラブといってよいと思う。

素っ裸で大自然と一体になり、心の洗濯をする爽やかさ、一度味わえばとりこになること間違いなしである。

日本における混浴は歴史的に古く<風土記>にすでに記述され、江戸時代の銭湯は混浴であったことはよく知られている。

 

いま、ミコノス島のパラダイス・ビーチで多くの裸体に囲まれ、あまりの大胆さに圧倒されながらパンツをはいたチンパンジーは、少なからず違和感を持つのである。

なにも他人の目にさらされる快感を加味しなくても、深緑や海風や太陽の恵みを得るためのヌードもまたあるということをお伝えしたい。

混浴やヌーディスト・ビーチは、他人という集団のなかに溶け込む一種の勇気がいるが、一人ぽっちのヌードは究極の裸天国と言っていいのである。

これこそお勧めするヌード、いや裸体による太陽の下での精神的解放健康法である。

登山やサイクリング、ロングトレイルの行き先々で人目に触れることなく太陽の恵みを得るため裸体になったものである。みなさんもぜひ裸体に挑戦してみて欲しい。

必ずや、太陽の子になった時の健康的爽快さに目覚めること間違いなしである。

 

ヌード、そう裸体は、人間本来の原始の姿、何物にも束縛されず、抑圧されず、心の自由を勝ち取るための方法の一つである。自己内面の表現としてのヌード(裸体)、その裸体の素晴らしい解放感を味わって見てはいかがだろう。

 

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《 10月9日 世界遺産 古代遺跡デロス に立つ  快晴  

      ▲ベースキャンプ・ミコノス島 》

 

<幻のアトランティスでオリオン座に出会えてうれし>

パラダイス・ビーチで露営、朝方、小用に起こされ星空を仰ぎ見ると、我を見つめるオリオン座が頭上にあり、静かに語りかけてきた。

<いつも私を認めてくれてありがとう>、オリオン座のこの一言に都市伝説である幻のアトランティス大陸にまたもやタイムスリップしてしまった。

このオリオン座の存在は、アトランティス大陸が地上に現れていた頃、紀元前9000~900年頃であると考えると、今から約11000~3000年前のオリオン座に出会えたことになり、興奮したものである。

何といっても、わたしはオリオン座のベデルギウス星に生を受け、地球に派遣された宇宙人・オリオン星人(だと仮定する者)なのであり、わが誕生星を仰ぎ見ているのであるから望郷の念に駆られるのも不思議ではない。

そう、あなたもわたしも死後、それぞれの生まれ星に帰還し、きらきら星<星の王子さま・星の王女さま>になると思えば、この私の空想も理解してもらえると思っている。

夢は大きく楽しい方がいい。

わたしたちがどこから来たか、考えただけで人生豊かになるといえるものだ。

 

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                                     アトランティスの星座<オリオンとカシオペア>の位置関係

     2004/10/09 05:46 AM ミコノス島パラダイスビーチの天空に輝く上弦の三ケ月の位置

        ーちなみにオリオン座の左上の星が1等星のベテルギウスであるー

 

無重力の世界 ― 真っ裸でスノーケリング>

ここパラダイスビーチの爽やかな朝、ヌーディストたちは、一匹のモンキーを除いて、若きも老いもみなカップル、みなノーパンで泳いでいるが・・・何かあったらと老婆心ながら心配になる。

こちらは、魚と会話を楽しみたいのでみなと同じく、この時ばかりは素っ裸になってシュノーケリング・・・

海に潜ると、先の海面を泳ぐ真っ白な太った豚、いや中年の肥満男性が平泳ぎ、その股間に垂れ下がり揺れる一物のなんとだらしない、勢いのない軟体物を目撃、そのショックに魚君達との楽しい会話も吹っ飛んでしまった。

でも、裸はいい。

真っ青な海や空のもと、青いキャンバスの中で太陽のもと素っ裸で過ごす。この解放感、無重力感、幸福感は、一度味わえば決して忘れられない。衣服を身に着けたチンパンジーは、その窮屈さ、束縛感にストレスのため毛が抜けるといわれている。

裸に自信のない方は、素っ裸になって、家の中で一日を過ごしてみてはいかがだろうか。異次元の世界があなたを魅了すること間違いないと断言する。

もちろん、家族の了解のもと、ルールに従って・・・

さあ、神の与えたもうた原始の姿、裸を楽しもう!

あなたの人生の見方・過ごし方が大きく変わるかもしれない・・・

 

幻のアトランティス大陸であったというミコノス島で、深夜の星の観察をしたあと、いつの間にか夢の中に誘われていたが、小鳥たちの歌声に目を覚ました。

西の空には太陽にとってかわられる今にも消え入りそうな上弦の三日月が<またお会いしましょう>と別れを告げている。

目覚ましに、海に飛び込んでシュノーケリング、お魚さん達と朝のご挨拶。

今日は、ここ幻のアトランティス大陸といわれているミコノス島をトレックしたあと、待ちに待ったロドス島に渡って世界遺産・ロドス古代遺跡をゆっくりと見て回ることにしている。

 

< ミコノス島トレッキング・散策 >

パラダイス・ビーチから、ミコノス港までの往復約8km、1時間40分のミニトレッキングを楽しんだ。パラダイス・ビーチを出て、海岸沿いに西へ向かうと今朝潜ったシュノーケリングスポットを経由して峠にむかい、スーパー・パラダイスビーチへと下り、ミコノスの街に入って港に着く。

道中にはミコノス特有の風車群が迎えてくれる。時を忘れて座り込み、ミコノスの港と街をスケッチに仕上げた。

 

 

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            ミコノス島の風車群に迎えられ早朝トレック

 

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             ミコノス島ミニトレッキング・コースマップ

 

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             夢想アトランティスの村 <ミコノス島の現風景>

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

<友と驚きの再会>

トルコ・カッパドキアで知り合ったユダヤ人青年エドワードと、ここミコノスのヌードビーチ<パラダイスビーチ>で偶然出会った。お互いの無事を喜び、コーラと赤ワインで乾杯。

互いのアトランティスへの憧れを知り、盛り上がったものである。

この世に偶然は少なくないが、すべての条件がそろわないと起こりえないから、この再会も不思議である。

幻のアトランティス大陸を追い求めて、ここエーゲ海のミコノスに来ていなかったら・・・

フェリーが欠航していなかったら・・・

トルコから直接ブルガリアルーマニアに向かっていたら・・・

ここパラダイスビーチで露営していなかったら・・・

すべて細い糸に結ばれ、導かれなかったら起こりえない奇跡に近い出会いに驚いたのである。

旅も人生も、細い糸で結ばれていると思うと、その時々を大切に味わいたいものである。

 

 

<デロス島世界遺産

ロス島は、エーゲ海のほぼ真ん中にあり、ミコノス島の北4㎞先(フェリーで約30分)にある無人島で、1990年世界遺産に登録された。

ミコノス島に立寄ったのは、ここドロス島にある世界遺産の古代遺跡を見学するためである。

またここデロス島は、ギリシャ神話発祥の地でもある。

ロス島は、太陽の神アポロンと月の女神アルテミスが生誕した地として、また私的には<幻のアトランティス大陸の遺跡>として注目している島である。

古代ギリシャにあっては、宗教とエーゲ海貿易の中心地として繁栄し、紀元前100年ごろに滅ぼされたが、

島内には多くの貴重な遺跡が残っている。アトランティス論者にとっては、アトランティス文明の繁栄をうかがい知ることが出来、一度は訪れてみたい島である。

 

アポロン神殿のあるデロス島は、大勢力ペルシャ帝国軍の来襲・侵攻に危機を感じたエーゲ海に点在する小勢力約200のポリス(アポロンを信仰する都市国家)が、アテナイを盟主として結んだ軍事同盟<デロス同盟>の締結の地・本拠地として世界史的に特筆される場所でもある。

 

いま幻のアトランティス大陸の中心、デロス島の古代遺跡に立っているというだけで、タイムスリップして、約13000年前のアトランティスの住民になったような気分になっているのだから、アトランティス大陸探究者にはこの上ない喜びである。

 

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     デロス島古代遺跡 ライオン像(レプリカ)の前で (実物はデロス考古博物館にあり)

 

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       幻のアトランティス大陸の遺跡ともいわれる<世界遺産・デロス古代遺跡>で

 

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          デロス古代遺跡 (幻のアトランティス大陸遺跡?)

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

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                  世界遺産・デロス古代遺跡

 

ピレウス港に戻る>

ロス島で野宿し、幻のアトランティス大陸の遺跡であると思っている<古代ロドス遺跡>をゆっくりと味わいたいのだが、世界遺産であるがゆえに観光客の滞在(オーバナイト)は認められず全員島から退去しなければならない。

望み叶わず、フェリーでミコノス島にもどり、ミコノス港を14:30出航、ピレウス港に19:00入港のフェリー<BLUE STAR ITHAKI号>に乗船した。

今日もまたエーゲ海、そう幻のアトランティスの海はコバルトブルーをたたえ、地中海の淡い太陽の光を照り返している。

この海底に沈んでいるアトランティス大陸に別れを告げ、再会を約した。

船上から望む島々の白亜の家屋が、まるで青天にかがやく星のように白く輝き、メルヘンの世界を見せてくれている。

美しい世界の海を何周したことだろう、船旅を愛する者としてここエーゲ海の旅を第一にお奨めする。この海には、島々に伝わる神話・古代遺跡・栄枯盛衰の歴史・交易の交差点としての繁栄と歴史のロマンとが満ち溢れ、豊かな天空・天海が心身を癒してくれること間違いないからである。

太陽が近い、ゆっくりと肌を焼くこともお忘れなく・・・

 

ギリシャの若者の憂い>

フェリーの舷側に陣取り、エーゲの海に沈んだとする幻のアトランティス大陸に別れを惜しんでいると、二人のギリシャ青年が語りかけてきた。

アテネ大学の大学院に在籍し、現代経済学を修めているといい、現在の財政状況からギリシャ経済を憂いているという。

彼らもまた古き時代の遺産を経済や生活の基盤として甘んじている自分たちの国を何とか国際競争力のある生産性ある工業国に変革すべきだという考えのようである。

現在、ギリシャは経済の停滞により国際収支が悪化し、国家経済の破綻が目先に見えてきた危機の中にある。

ギリシャはこのままだと経済的に破滅に向かって進むだけである。技術立国である日本を見習いたいので、どのような方策がわが国には残っているか話を聞きたい>と、真剣なまなざしを向けてきた。

青年たちの苦悶が、国家の衰退に対する言いしれない不安と、国家救済への非力に悩んでいる様子である。

こちらの考えを参考までに二人の青年にぶち当ててみた。

日本の技術や、欧米の産業に対抗するだけでなく、ギリシャ独自の環境と文化をコアとした産業育成に力を注ぐべきではないかと提案してみた。

①カルチャー産業  ②リフリッシュ・リゾート産業  ➂ 環境・産業廃棄物処理産業

⓸クリーンエナジー産業  ⑤フレッシュ・ウオーター産業(海水を真水変換)

 

彼らが20年後、どのようなリーダーに育ち、この国の経済のためどのように貢献しているであろうか。楽しみがまた一つ増えたような気がした。

 

ミコノス島より西へ航行、シロス島に立寄り、さらに観光客で賑わったフェリーは、ピレウス港に向かって青年たちの憂いを乗せて航路にもどった。

 

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              エーゲ海にはためくギリシャ国旗

 

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             ロス島の港街 エルムポリスに寄港

 

< ▲ 10月10~11日 アテネ  Students & Travelers INN Youth Hostel連泊  Room#42 >

幻のアトランティス大陸を求めたエーゲ海探検クルーズも、ピレウス帰港で終えることになった。

また機会があれば、消えた大陸といわれ、南半球ニュージランド付近に眠るムー大陸にも出かけてみたい。

 

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                 ピレウス港に帰港

              Sketched by Sanehisa Goto

 

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           ギリシャ大正教 アナトリア大聖堂 (ピレウス港)

                                                Sketched by Sanehisa Goto

 

《 10月11日 アテネ散策  曇 日差し強烈 》

 

ピレウス港より地下鉄に乗ってアテネにもどり、予約しておいたユースホステルに投宿。

アテネ滞在時間が短いため、次のシルクロード通過国であるブルガリアへの列車予約を済ませたあと、パルテノン神殿の周りを散策し、悠久なる太陽の沈み行く時の流れに、ここパルテノンの丘にたたずんで、古代ギリシャの遺した神話に思いをはせた。

アテネ滞在中は、パルテノン周辺のトレッキングやスケッチをしたり、横町に入ってはイカスミのスパッゲッティやトロピカル・フルーツを食べ歩いて体力回復につとめることにした。

 

 アテネ ⇒ ソフィア行 国際列車2nd Class予約 アテネ駅窓口購入VISA使用 22.55 

10/12 Athinai(アテネ)07:45発<列車#70 7.55€> ⇒ Thessaloniki(テッサロキニ) 14:30

/ 22:04発 ⇒ Sofia(ソフィア・ブルガリア) 翌日10/13  0727着<列車#460 15.00€>

 

世界遺産パルテノン神殿を周回散策   アテネギリシャ

パルテノン神殿、これまでに4度も訪れている。

この壮大なドーリア式建造物の最高峰である円柱神殿の前に立つと、世界の中心としてギリシャの果たした文明の成熟度を目の当たりにする。それもパルテノン神殿が出来た紀元前447年ごろ、日本は中国の呉越、春秋時代の歴史書に<倭人>として紹介される小国であった。

古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスの上に建設され、アテナイの守護神であるギリシャ神話の女神アテーナを祀る神殿として建設された。

パルテノン神殿は、すでに立ち寄ったトルコ・イスタンブールにあるアヤソフィアと同じく数奇の変遷を経て現在に至っている貴重な人類の遺産である。

その後のペルシャ戦争にて破壊された後に再建され、6世紀にはパルテノン神殿キリスト教に取り込まれ、マリア聖堂となったという。

また、オスマン帝国の占領後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、アヤソフィアと同じく神殿内にはミナレットが設けられた。

1687年、ベネチア共和国とオスマントルコが戦った際、オスマン帝国が火薬庫として使用していた旧パルテノン神殿は、ベネチア共和国の砲撃により一部破壊された。崩落した壁画や、絵画は持ち出され、現在大英博物館に保管されている。

1832年ギリシャは英国・フランスなどの支持を得て独立し、パルテノン神殿の再建が進められている。

 

  

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           アクロポリスパルテノン神殿)周遊トレック・マップ

 

10月11日午後6時53分、パルテノン神殿より、列柱回廊に向かう途中の小高い丘より、素晴らしい夕日を観賞しながら、パルテノンの栄枯盛衰に馳せてみた。

そして、そのパルテノン神殿を脳裏に残すために、沈みゆく夕陽を背景にした神殿をスケッチするために先に歩を進めた。

 

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                沈みゆく太陽に映えるパルテノン神殿

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

<時の流れにパルテノン神殿の声に耳を傾けて・・・>

ただ時が2500年ほど流れたに過ぎない。宇宙創成からすれば一瞬に過ぎない。

ここパルテノン神殿の建つアクロポリスで、古代ギリシャのポリス国家のリーダーたちは夕陽を見ながら何を考えていたのだろうか。

太陽は西に沈み、天空は茜色に染まり、アクロポリスの森に棲む小鳥たちは、一日の営みを終えようとしている。オリーブの枝にはたわわなにオリーブの実が垂れ、犬の遠吠えがここパルテノンの列柱にからみあって夕闇を迎えようとしている。

この今と、パルテノンの過ごしてきた時々の空間とは何も変わらないのであろう。ただ人のみが生まれては消え去るという悠久な時の流れが滔々と流れているに過ぎない。

ここにはただ時空の静寂のみが漂っているに過ぎないのである。

わたしもまたその時空のなかに存在している一つの命に過ぎないと思うとただただわびしさに包まれた。

 

これからも歴史の彼方に残るものは、われわれ人間ではなくパルテノンの丘に残る神殿のマーブル(大理石)の列柱だけであると思うと歴史の悲哀を感じるのである。

この夕陽の沈んだ後に残された紅(くれない)に染まったパルテノン神殿に、古代ギリシャ人の魂の声を聴くことが出来るような気がした。

風に乗って、静かに哀愁を帯びたハープの音色がパルテノン神殿の影と重なり、その多難の歴史を見る思いである。

 

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           列柱間より悠久の太陽が差し込んでいるパルテノン神殿

 

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    修復中のパルテノン神殿にて        パルテノン円柱回廊のテラスで夕食

 

 

《 10月12日 ギリシャアテネ⇒ テッサロニキ⇒ ブルガリア・ソフィア 

       シルクロード移動日 》

 

 アテネを去る朝>

パルテノン神殿近くにあるユースホステル・ルーム#42で目覚める。

今日は、アテネを後にしてブルガリアへのシルクロードの旅を続ける日である。

アテネの中心、ラリッサにあるアテネ駅より、行先テッサロニキまでの520㎞、約5時間の列車の旅である。

 

シャワーを浴び、ドーナツとコカ・コーラで朝食をとり、地下鉄メトロで<シンタクマ⇒ラリッサ>へ移動する。

アテネの朝は、夜明け前から始まる。朝市に並べられた魚やイカ・タコ・ナマコなど、その磯の匂いが少年時代に嗅いだ懐かしい匂いと重なった。

話は少年時代にもどるが、小学校2年生の時であろうか、朝鮮戦争も峠を越え連合軍が共産軍の釜山包囲網を押し返そうとしていた時、われわれ家族は日本へ引き上げる前、ソウルより釜山に疎開してきていた。

いつも腹を空かせていた少年は、よく釜山近くの磯に出かけ、ウニやナマコ、サザエを獲って腹を満たしていた。その時の磯の匂いをここアテネで体感し、何とも言えない小さな幸せを思い出したのである。

ギリシャもまた、日本と同じく魚貝を愛し、食する文化をもつ国なのである。

ギリシャの烏賊炭(いかすみ)の料理は世界の一品、一度食すると病みつきになること請け合いである。

ぜひ試してみていただきたいものである。

 

シンタクマ駅はアテネの中心にあり、BGMで流されているクラッシックの曲が静かに流れ、気分爽快である。さすがは観光客をもてなす遺跡に生きる観光立国である。

朝6時半、夜空は明けきらず、星たちが忙しく朝化粧をしている。その顔は粉で真白くなり、その姿を青空に消していく。

 

メトロで移動したラリッサ駅は、列車ジャック(乗っ取り)を警戒してか、異常なほどの荷物検査が厳しく行われていた。オリンピックを無事終えたが、いまだテロの兆候があるのであろうか国境に向かうラリッサ駅は特に厳重であるようである。

その厳重な警戒をよそに、各国からの観光客は、カフェテリアに溢れ、ホームには列車待ちの客で長蛇の列である。混雑を極める駅に溢れるタクシーの列に動きはなく、ただ客待ちの運転手は退屈げに、次の列車の到着を待っている。

 

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                    アテネ(ラリッサ)鉄道駅

 

<一匹のシェパード>

これから同じ列車に乗るのであろうか、一匹の立派なジャーマンシェパードが待合室の長椅子に繋がれて、リードを相手に飛びついたり、噛んだり、足でけったり、抱え込んだり、じっと見つめたり、耳を傾けたりといろいろな表情を見せてくれている。

彼もまた、いまここギリシャアテネで、わたしと共に時を、生を享受していると思う(認識する)だけで仲間に見えてくるのだから心が和む。

認識は、すべてを温かく、一つのハートに結び付けてくれるから私にとって大切な行為である。

まるで自分をこのシェパードのなかに見るようである。

自分の世界にどっぷりと浸り、不変の生き方に従い、今日も与えられた単純な生活を繰り返し、喜びのなかに感謝する・・・しかし、そこにも喜怒哀楽があり、悩みや苦しみがあるのだから、生きるとは自分の思い通りにはいかないものである。

しかし、人生は面白いと言い切りたい。

そこには自由があるからである。

 

<元スーパーマン・スター クリストファー・リーブ氏のこと>

現在の世界情勢や、現地の天気、トピックスという旅に必要な情報を得るため、現地新聞の英語版を購入して目を通すことにしている。

この日のギリシャの英字紙<ATHENS NEWS>のコラム欄に、2日前の10月10日に他界した元スーパーマン・スター(クラーク・ケント)であるクリストファー・リーブ氏の写真が掲載されていた。

落馬事故による脊髄損傷により車椅子に頼る彼は、頭を丸め、喉から呼吸用チューブと食事用チューブをぶら下げ、頭を車椅子のアームで固定した姿である。彼の側には奥さんが付き添い、その視線の先に穏やかな笑みを浮かべ、最悪のコンディションにもかかわらず、幸せいっぱいの元スーパーマン・スターの姿がある。

新聞社はアテネオリンピックに協賛した彼を称え、たえず障害とたたかい、たえず彼が障害者として口にしていた「ちっぽけな人間でも、ここまでの善なることが出来るのだと報せ、人類に勇気を与えたい」という彼の思いから、あえて闘病中の写真を載せたそうである。

ふと数年前に召天した妻のことを思い出していた。彼女もまた難病に苦しみ回復の見込めないなか、元気な人間であるわたしを常に勇気づけてくれていたことを、である。

恢復を見込めない病める人間は、すでに神の懐に抱かれているのであろう。すべての言動に神の意志を見て取れるような気がしたものである。

 

アテネ ⇒ テッサロキニ行列車の車窓から>

列車はギリシャの村々をぬいながら、北にむかって走り続けている。

コットンが純白の花をたわわに咲かせ、車窓の額縁に次から次にその優雅な姿をはめ込んでいく。

ギリシャ中部辺りは低山がつづき、トンネルの暗さと、平野の明るさがつづくので、まるで童話の世界をさまよい歩いているような豊かな旅情に引き込まれる。

トンネルごとに、次なる景観いや物語を期待しつつ、トンネルを抜けるのである。

この列車はLAMA駅に停まった、どうも各駅停車のようである。

 

車窓からの圧巻は、コットン畑に浮かぶオリンポス山(Mt. Orympos 2917m)の雄姿である。

ギリシャ神話の神々が集い棲んだという、切り立った峰々が眼前に広がっている様は壮観である。

 

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         車窓から眺めるギリシャ最高峰、神話の神々が棲むオリンポス山

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              ギリシャ最高峰 オリンポス山 (標高2917m)

 

 ギリシャ女性に日本名をつける>

「わたしに日本の名前を付けてもらえませんか」

それも漢字でお願いしたいという。

国内旅行を楽しみながらテッサロニキアの友人宅を訪問するという25歳のギリシャ女性・アシタバシア嬢、

(翻訳家)の丁寧な申し出を受けることになった。

向かいの席に座りながら、スケッチに忙しいわたしを観察し、日本人だと知っての願いなのであろう。

 

    『 アシタバシア ⇒   ① 明日橋 亜  ②明日葉 史亜 』

      アシタ <明日=FUTURE/未来=DREAM/夢>

                   バシ  <橋 =RAINBOW BRIDGE/虹の橋=DREAM/夢>

 

     明日橋   亜  : いつも未来を見つめ、現世から来世へ虹の橋を架ける仕事につくという。

                                                   現在の翻訳もまた虹の架け橋的な夢のある仕事だといえる。 

     明日葉  史亜     : 摘まれても摘まれても明日になったらすぐに伸びだす

               <明日葉(アシタバ)> の 葉のように「強い繁殖力・生命力」もち、

                 旺盛な活動力を持っている人間で ある。

 

二つの漢字名をつくってみた。本人は何度も口ずさみ、名前の由来を聞いては考え込んでしまっている。

熟考のすえ、<明日葉 史亜/アシタバシア>と名乗ることにしたと顔を輝かせながら答えてくれた。

「ミスター有難う、東洋の神秘性を見る思いです。漢字という日本名の由来からして何と素敵な命ある名前をいただいたことでしょう。Thanks again !! 」

 

旅での<一期一会>は、こちらも、また相手にとっても小さい出会いかもしれないが、大きな人生に相対峙するチャンスになることもあるといえる。

人生80年としたら、29820日の命を過ごすことになる。

<一期一会>に学び、残された日々に生かしたい。

 

<豪勢な夕食で祝杯をあげた>

憧れだったギリシャの地を列車に揺られてその山野の情景を楽しみ、同乗の人々との温かい交流を持ちながらの6時間ほどの列車の旅は、テッサロニキ駅でブルガリア・ソフィア行の国際夜行列車に乗り換えるのである。

ギリシャとの別れの夕食を、テッサロニキ駅の食堂でバックパッカ食ではなく、すこし豪勢なメニューにした。特大のフランクフルトソーセージ2本とライス付きのギリシャ風野菜煮込みセットを注文、9€(1300円)の夕食である。白ワインのコーク割で乾杯、ギリシャと共に幻のアトランティス大陸に祝杯をあげた。

 

<ソフィア⇒ブカレスト 国際夜行列車の予約を入れる>

ソフィアへの乗継列車は、今夜(10月12日)遅く22:04に、ここテッサロニキ駅を出発する。

待ち時間の間に、国際列車切符売り場で<ソフィア⇒ブカレスト>の乗車券を予約購入することにした

 

                    予約日 10月14日  (VISA 決済 52)  

                     SOPHIA(ソフィア・ブルガリア) ⇒ BUCALEST(ブカレストルーマニア

                    10/14  19:30発        ⇒ 10/15  07:30着 

                     2nd class  Sleeping  Train#382  Wagon#471  Seat-Sleeper#21  

 

 

《 10月13日 ブルガリアの首都 ソフィア 》

 

<旧共産主義国への越境にあたって>

10月12日 テッサロニキ駅22時4分発の列車は、ブルガリアの首都ソフィアに翌日13日朝7時5分に到着する。

深夜2時、大粒の雨が列車の天蓋をたたいている。湿った夜風が、コンパートメントの上段ベットに這い上がってきた。どうもギリシャと旧共産国ブルガリアの国境に着き、ブルガリアの国境出入国管理官が乗り込んできたようである。

軍靴の床をたたきつける音が嫌に大きく不気味に聞こえてきた。

国境管理官の威圧的な声が、ひときわ甲高く聞こえる。

乗客は下段ベットに坐らされ、薄明りの列車灯に照らされ、まるで囚人のように怯え切って呼び出しの順番を待っのである。

何とわびしく不安な時の流れであろうか。

国境越えのパスポートコントロールは、旅人をチェックする現代の関所である。国籍・氏名・年齢・性別・入国の目的・滞在日数・滞在先・連絡方法の確認を行い、最後に旅人の服装や荷物・人相や挙動を観察して彼らの眼鏡にかなえば、スタンプをパスポートに捺してくれるのである。

 

わたしは一度、先の旅の国境越えで逮捕され、強制的に連行され、豚箱で一夜を過ごしたことがある。

その時は、ドイツ・ベルリンからオーストリア・ウイーンへの夜行列車の旅で、途中のチェコスロバギアには下車しないのでチェコのビザは必要ないとおもい乗車していたのである。

しかし、深夜国境越えで乗り込んできたチェコスロバギアの入国管理官(軍人)は、列車に乗っていたバックパッカー男女数人をビザなし違法越境という理由で逮捕、下車させたのである。 

みなで飛行機と同じく通過地のビザなし通過と同じであると主張したが認められず、一夜を鉄格子のはまった殺風景で、無味乾燥な拘置所で過ごすことになった。

翌朝、何の説明もなく荷物とパスポートを渡され、ソフィア行別の列車に乗せられ、一件落着となった経験がある。

旅をするとその国の政治情勢により思わない事件に巻き込まれたり、容疑をかけられることがあることを知っておくとよい。この時も共産圏諸国が崩壊して間もなくのころで、なお国境管理の組織や制度が完全に西欧化していなかったところに、認識の違いが露呈したに違いないと思っている。

またうがった見方をすれば、この時の旧共産国の官憲は、西欧化になじめず旧態依然の官僚的傲慢さを残していたと思えるのである。

いかなる旅でも、情報収集を第一とし、自己判断・自己都合で物事を安易にすすめることの危険性を理解しておくべきであろう。

 

<アイデンディティ   一体わたしは何者なのか>

旅においての身分を保証するものはパスポート以外にないと云っても言い過ぎではない。

国内においては運転免許書や健康保険証などがあるが、これらは国内での統一された制度においてのみ有効であり、国外では紙切れであるにすぎない。

是非ともパスポート(旅券)の海外においての重要性を認識して、取り扱いに気を配り、厳重保管することが最重要である。

特に旧共産圏の国を旅したり、政情不安な国を旅するときはパスポートはあなたの命より大切なものであることを知っておいて欲しい。

パスポートを持たない(不携帯の)あなたは、誰も、あなたですら己のアイデンディティ(identity=自己証明 )を明らかにすることが出来ないのであるから注意したい。

とくに、むやみに他人にパスポートを見せたり預けたりは、余程の理由がない限りしてはならない。窃盗にあったり、強奪にあったりして、先の旅が中止になったり、複雑な現地でのパスポート再発行という手続きをとることになるからである。

パスポート紛失に備えて念のためコピーを数枚とり、数か所にわけて保管することをおすすめする。

一番狙われるのは意外とポーチに入っているパスポートであろうか。よくポーチのチャックが開いている場合があるが、ほとんどがぴったり体を寄せてくる人込みでの場合が多い。

このシルクロードでは、首掛け巾着に入れて持ち歩いている。すこし面倒な方法ではあるが腹巻ポケットもいい。

 

列車の外の雨は一層激しさを増し、尋問の様子が雨音にかき消されるほどである。

また乗客の一人が「お前は何者だ」と尋問されているのだろう。

その人の不安な気持ちが伝わってくるのであろうか、緊張に体がこわばっている。

そして、何事もなかったように列車が動き出した。

 

定刻07:05を少し遅れてソフィアの駅に着いた時には、雨は止んでいた。

列車は、「シルクロード16000㎞踏破 バルカン半島ブルガリア」に入った。

 

                                                                                                                                                    

        『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑨

           <シルクロードバルカン半島> 
                 につづく

 

 

              

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

 

               

            

 

  

 

 

 


           

 

 

 

 

 

 




 

 

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑦<シルクロード・トルコ横断>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑦

   <シルクロード・トルコ横断> 
     星の巡礼者 後藤實久

 

シルクロード・トルコに入る 》

 

< 9月22日 シルクロード・イランよりトルコに入る  ▲国際バス車中泊

 

 

<トルコのシルクロードにおける立地>

シルクロードを西進するに、生活や風景が西欧の匂いを帯びてくるから不思議である。中国ウイグル自治区より始まり、パキスタンやイランというイスラム国を抜け、おなじイスラム国トルコに入ったが、文明・宗教の十字路であるここトルコはイスラムの国より西欧に近い匂いがするのである。

特に、アラビック文字文明より、アルファベット文化圏に入ってきたという印象が強烈に体感できる。

シルクロードを歩き始めて、ここトルコの国境の街で初めてインスタントのネスカフェ―にたっぷりの砂糖とミルクを入れて飲んだ。これこそ西欧文明の香である。

コーヒーの値段も日本と変わらない400円(6,000,000Tz)、一泊1~5US$のゲストハウスを利用する格安バックパッカーにとっては贅沢である。

しかし、この一杯のコーヒーで突然、西欧文明に引き戻され、このあとここトルコよりイタリア・ローマまでシルクロードはヨーロッパの道を行くことになる。

ちょうど、トルコはシルクロード東洋(オリエンタル)とシルクロード西欧(ヨーロッパ)の分岐点であり、政治・宗教・生活環境が混ざりあう、混成国家といえる。

 

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           ギョレメ パノラマの奇岩とともに (トルコ・カッパドキア

 

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             シルクロード踏破 トルコ横断バスルート

 

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                  トルコ共和国国旗

 

シルクロードは、赤茶色の砂漠の国イランより、緑豊かな草原の国トルコに入る>

イラン/トルコ国境近くにそびえるアララト山(標高1565m)のすそ野から広がる緑の草原は、イランに広がる荒涼とした砂漠を越えてきた旅人にとってはパラダイスの情景に出くわすことになる。

無限に広がるトルコの緑豊かな牧草地、人間のあたたかさとの共生、さんさんと照る太陽の光、それらに溶けあおうとする大地、今まさに天と地が融合する様をここトルコに入って眺めることが出来る。

美しく豊かな神の国を見る思いである。

トルコは、シルクロードを西進してきたものにとって、中国西安以来の緑の豊かさに出会う地でもある。

さらに続く西欧に入って行くことにより深い緑が出迎えてくれる。

緑は、シルクロードの文明のバロメーターといってもいい。

 

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         旧約聖書創世記のノアの方舟が着いた山アララト山(標高5165m)

 

天文学的インフレに驚くー2004年>

日本出発時調べたTL(トルコ・リラ)の両替情報と現地でのレートの違い、そのインフレ率の高さに驚かされたものである。

出発時調査レート(2002)   1US$=  305,300TL   1円=約  2,550TL  (1US$=約120円)

現地両替レート  (2004)   1US$= 1,540,000TL    1円=約13,051TL  (1US$=約118円)

 

トルコ出入国管理事務所を出たところで当面必要な小口現金として20US$分を両替する。これでさえ

30,800,000TLとなり、ポケットに入りきらず困った。

インフレが進行している国では、クレジットカードを使用することに決めている。現金はVISAカードでトルコ・リラをCD機で24時間利用できるのでトルコ紙幣を出来るだけ持ち歩かないことにした。

 

オスマン帝国 / オスマントルコ

600年にわたり隆盛を極めた史上最強な帝国の一つであるオスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家が君主(皇帝)として統治した広域多民族の帝国である。

その最盛期の支配統治の地域は、バルカン半島の北・オーストリアのウイーン、東はペルシャ湾、西はアフリカ北西部のアルジェリア、南はサウジアラビア半島のイエーメンに至る広大な領土を有していた。

オスマン帝国成功のもとは、領土の広さと、強固な中央集権的な組織を維持し、シルクロードに見られるように利益を生み続ける交易路を手中に収めていたことと、これらを守る完璧な軍事力を保持しいたことにある。

オスマン帝国の誕生は、13世紀末ごろ、アンカラ南方のアナトリア地方のトルコ系遊牧民の長であるオスマンⅠ世が、当時衰退しつつあったキリスト教国のビザンチン帝国(東ローマ帝国)を攻撃し、征服したのが始まりである。

これから向かうカッパドキアでは、オスマン帝国の難を逃れ、地下に潜ったキリスト教徒の岩窟都市や洞窟聖堂ほか、その潜伏生活を描いた壁画を観賞することを楽しみにしている。

1453年オスマン帝国は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの名を冠したコンスタンチノープル(現イスタンブール)を攻め落とし、ビザンチン帝国を滅ぼすのである。

コンスタンチノープルイスタンブールに改名したオスマン帝国は、アナトリアに産声を上げてから600年後の1818年、第一次大戦における連合国の勝利により、敗者である中央同盟国の一翼を担ったオスマン帝国は解体され、消滅するのである。

ここにオスマン帝国は、ドイツ帝国ロシア帝国オーストリア=ハンガリー帝国と共に滅亡した。

 

 

《 9月23日 トルコ首都 アンカラよりバスを乗り換えカッパドキアへ向かう 》

 

<美しい塩湖  トウズ湖>

トルコ入国後、国際バスにもどり国境の街「GURBULAK」(ギュルブラク)を経て、DOUGUBAYAZT(ドウバヤズット)に立寄り、翌朝9月23日早朝、終点のアンカラに到着した。

アンカラでバスを乗り換え、カッパドキアに向かう。

アンカラから南東へ約150㎞、カッパドキアに向かう途中に不思議な湖がある。湖面が塩の結晶で覆いつくされ、その結晶が太陽に照らされ、湖面が真っ白に輝いている。

不思議なのは、塩湖の水際まで牧草が枯れずに生えているのである。塩分の影響で植物は生えないはずなのだが・・・不思議である。

イスラエルにある死海のように塩水に浮遊泳することはできないが、ボリビアのウユニ湖のように湖面が塩の塊でおおわれているので歩くことが出来る。

 

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               美しい塩湖  トウズ湖①

 

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                   美しい塩湖  トウズ湖②

 

塩湖であるトウズ湖の湖岸や丘陵地に広がる牧草地の淡い枯草の色彩は、キャンバスに塗られたごとくメルヘンの世界を演出している。塩をかぶった丘のゆるやかなカーブは、なんとも言えないエロチシズムただようふくらみであり、丸みをおびている。

手で触るとぴくッと奮い立ちそうである。

悪戯心のいたぶる景色にため息をもらし、忘却の世界にと導いてくれるのである。

トウズ湖のメルヘンの世界をあとにして、バスでギョレメ村を中心に広がる<世界遺産カッパドキア>に向かった。

 

<▲ 9月23~ 27日 Goreme/Cappadocia ギョレメ/カッパドキア  

   Gumus /Silver Cabe Hotel  に連泊  Single Room 10US$ >

 

カッパドキアに屹立する奇岩に穴を掘りオスマントルコイスラム教徒)の迫害を逃れたキリスト教徒が棲んでいた洞窟をリフォームしたホテルである。

天井や壁には手彫りのノミの跡が残り、いまだ迫害を逃れたキリスト教徒の息遣いが聞こえてきそうである。

 

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                 カッパドキアの奇岩夜景と早朝の奇岩

                        Sketched by Sanehisa Goto

 

<ケーブ/洞窟部屋にて>

ハーフムーンが腹膨らませた分、月の明かりが増し、洞窟の窓から眺める夜空の星々はきらめき揺れている。

カッパドキア独特なキノコ岩のシルエットは月の明かりを浴び、土筆の背比べのごとく競い合っている。

その影絵は、あたかも月姫に向かって恋歌を高らかに歌い上げているかのようにも見える。

鎌首をもたげ、怪しく光り、くねらせるさまは情熱的でもあり、切なさも伝わってくるシルエットである。

まるでわが胸の内を謳いあげているようでもある。

 

今宵は、月姫や星姫に見向きをされなくてもいい、カッパドキアの土筆のような奇岩たちと共に太鼓を鳴らし、聖なる静かな月夜の下で一晩を送りたい。

 

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   カッパドキアで連泊したGu”mu”s Silver Cabe Hotel / ギョレメ・シルバー洞穴ホテル

 

そして祭りが過ぎたら、迫害されたキリスト教徒と共に静かに祈りの時間を持ちたい。

ああなぜ今宵は平静さを忘れ、心騒ぐのであろうか。

ひとりの聖僧の洞穴を掘るノミの音が闇夜にひびき、かすかに聴こえてくるようである。

何を思ってか、何を祈ってか。

神への感謝の響きであり、犬の遠吠えに和してカッパドキアのキノコ岩に木霊している。

 

           《 詩  洞穴で瞑想す 》

            無常甚深なるこの胎内に

            ひとすじの月光ありて

            闇裂きてわれと融合す

            嗚呼、こころ溶けて

            悠久に漂い

            真理、われに満ちなん

            幸せは神と共にありて

            ああわれいまカッパドキア

            月下の洞穴で瞑想す

 

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        ノミ跡が残るキリスト教徒が隠れ住んだ洞窟部屋月で下の瞑想

 

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      洞穴ホテルのテラスから奇岩を観賞    洞穴部屋に吊るされた洗濯物

 

《 9月24~28日 カッパドキア ギョレメ村散策 》

 

<ギョレメパノラマ / Maccan Valley 散策>

鳩の家がいっぱいある岩峰<ウチヒサル>に上ったあと、ギョレメに向かう途中の右側一面に、白い滑らかな岩肌の波が続く壮大なパノラマに出くわす。その地層の模様も含めて絶景である。

ギョレメパノラマの中でも最高のビューは、岩峰ウチヒサルに上っての観賞であろう。是非、岩峰に上ってギョレメのパノラマを含め、カッパドキアの全景を見渡すのもいい。

 

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           ウチヒサル岩峰よりギョレメ・パノラマを観賞  

 

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                 ウチヒサル岩峰           ウチヒサル岩峰にてトルコ人Hassan氏と

 

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            岩峰ウチヒサルの周りには観光ラクダ・ツアーもある

 

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             カッパドキア・ギョレメパノラマ風景

 

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         カッパドキアの奇岩/キノコ岩群が立ち並ぶギヨレメパノラマ散策観賞

 

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       ウチヒサル岩峰の頂で出会った日本人大学生バックパッカー達と

 

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                                                            カッパドキアの奇岩とツーショット

 

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                                        朝日に浮かぶカッパドキアの奇岩シルエット

 

<5時間の秘境ローズバレー・トレッキング>

最初、ギョレメの街を中心に周囲を一周するという安易な考えのもとローズバレー・トレッキングにでかけた。

しかし想像をはるかに超え、絶壁あり、オーバハング崖あり、急傾斜ありと本格的なトレッキングに興奮することとなった。

一時、道に迷い渓谷から出られないかもしれないという恐怖をおぼえたり、なんども道迷いのため戻ったりと大変なトレッキングとなってしまった。

イスラム教徒の迫害から逃れ、洞窟に逃れ住んだキリスト教徒の用心深さを随所に見ることが出来る。

一体どこから食料や生活用品を調達したのか、外界との連絡網はどうなっていたのか、想像するだけでも洞窟住民の困難な様子が伝わってくる。

ローズバレーにはリンゴやブドウなどが植えられ、洞窟では葡萄酒もつくられていたのだから驚きである。

洞穴は案外低いところから掘られていたのが、断層の浸食が繰り返され、現在のようなカッパドキアの奇観であるキノコ岩が出来上がったという。

キノコ岩独特な縞模様は、年輪を表しているようで、そのキノコ岩の起源やその歴史を見る目安になっているようである。

しかし奇岩であり、そのシルエットはアニメの世界であり、その色彩はメルヘンの世界である。キノコ岩が樹立するさま、それもいろいろな立ち姿で競っている光景はデイズにーの世界でもある。

 

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                ギョレメ・ローズバレー・トレッキング地図

 

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                                                  有数の絶景スポット・ローズバレーの夕焼け

 

<ウフララ渓谷14㎞トレッキング>

深い渓谷に川が流れ、川に沿ってポプラ並木や洞窟住居が並ぶなか、緑深い景観が広がっている。

若者たちが集う約14㎞の<ウフララ渓谷トレッキング>に参加した。

渓谷の南側に切り立つ100m近くもある崖に、数え切らないほどの迫害キリスト教徒の洞窟住居と約100もの岩窟教会が廃墟として残されている。

 

                                              《 神に捧げる詩 》

             ―神よ、われをカッパドキアに導き給いて無常の歓びを感ず

                幾多の信仰への迫害を乗り越えし先達の苦しみの中に

                信仰の姿に接しわが泪溢れしや 嗚呼われ永遠の愛を観ずー

 

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                                   Ihlara Valley / ウフララ渓谷 観光ツアー参加者

 

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                     ウフララ渓谷全景

 

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              ウフララ渓谷の迫害キリスト教徒の洞穴住居跡

 

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                迫害キリスト教徒の洞窟住居

 

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             スケッチに見る迫害キリスト教徒の洞窟住居

 

<ウフララ渓谷にみる迫害キリスト教徒の遺産>

ここウフララ渓谷の洞窟には、イスラムの迫害を逃れて渓谷に隠れ住んだキリスト教徒の遺産として教会や住居跡が残されている。スケッチに描き残してみた。

 

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            ウフララ渓谷に見られる洞窟教会

 

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 壁画のキリスト像と天使像 と 洞穴教会全貌     疑似十字架と目をつぶされたキリスト像

 

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                    洞窟教会に描かれた壁画

 

カッパドキアの巨大地下都市―Under Graund city- カイマクル>

地下都市カイマクルは、投宿先のギョレメ村の隣村ネヴシェヒルより南へ約19㎞先にある。

カッパドキアにある多くの地下都市の中では最大規模の一つで、最も観光客に人気があるという。

地下4階まで発掘され、規模から推定するに約2万人が共同生活していたであろうといわれる。

各洞穴居住区は傾斜のある狭い通路でつながり、明かり窓はなく照明がないと歩けそうにない。

カイマイクル地下都市案内図によると竪穴の空気口を中心に、地下水脈にまで伸びており、敵や寒気から身を守るように設計されている様である。

通路には敵の浸入を防いだり、火事の延焼を防ぐためだろうか、通路そのものを遮断する円柱型の防禦石が配置されている。

 

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               地下都市/カイマイクルの断面スケッチ

 

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              地下都市カイマクル断面案内図

 

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 地下住居                    通路防禦用遮蔽円石

 

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        竪穴式空気口               地下都市の狭い手掘り通路

 

 

<ハマム/トルコのサウナ体験  32,000,000TL/約2500円/20US$支払>

カッパドキア・ギョレメで連泊したGu”mu”s Silver Cabe Hotel から歩いて15分の所にある中央広場にハマムがり、トルコ式サウナを体験した。

男子更衣室に案内され、全裸の上、下半身に渡された木綿の布を巻き付けて、浴場へ向かう。浴場中央には大きな大理石のマッサージ台が置かれ、周囲にはサウナ部屋が配置されている。

サウナ部屋で汗を出したあと、ケセジ(さんすけ兼マッサージ師)のいるマッサージ台でアカスリやマッサージを受けるのである。

ハマムとは、アラビア語で<熱い空気・湯の供される場>という意味を持つトルコの伝統的なスチーム風呂のことである。

浴場には浴槽はなく、アカスリごとに湯をぶっかけられるのである。日本のように全裸になることもなく

アカスリの時でさえ木綿の布を下半身に巻き付けておくこともできる。

もちろんスッポンポンになり手厚いアカスリを受けている地元のおじさん達もいる。

スチーム・サウナ独特の蒸せた汗のにおいが鼻をつくが、歴史あるハマム浴を楽しむことが出来た。

日本でいうトルコ風呂のイメージはなく、トルコ政府からも風俗店としての<トルコ風呂>の公称を改めるよう日本政府に対し幾度か要望が出されているようである。

 

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                ハマム内部でのリラックス・スタイル

 

<ブラジル青年との神学論争>

同じ洞窟ホテルに宿泊中の、神の存在を信じないというブラジル・カンピーナス州出身の青年オルテガ君(20才・サンパウロ大学法学部)と出会った。そこへ日本の青年たちも加わり神学論争、神の存在についての論争が始まったのである。

青年は純粋である。論争を興味深く聞かせてもらった。

O.      <あなたがたの宗教は何ですか?>

J.  <何だろう? 神道仏教徒・・・?>

O.  <わたしは神を信じない。無宗教である>という、

その論拠についてと彼は語りだした。

   

オルテガ君の<なぜ神はいないか>との論考によると・・・

聖書の事実は、神の意志ではなく、聖書編纂者が伝えたいことを考えて記述しているだけであって、神の存在とは全く無関係であるという。

例えば、旧約聖書の創世記の初めの項に出てくる「ノアの方舟」は、大洪水に備えて舟を造ったという事実

であって、神の意志ではないという。

また、アダムとイブが善悪を知る実を食べたのも自分たちの意志でそうしたのだと・・・

この青年の知識が聖書を多用していることに興味を持ったのである。実によく聖書を、特に旧約聖書のもう一方の裏側を研究していることに驚かされた。

この青年によると、聖書には二つの読み方があるという。

それは表面的に素直に読む方法と、ストーリーの裏側を比喩的に読み解く方法があるという。

 

彼がなぜ神を信じなくなったかを語るなかで、爺さんから三代にわたって旧約聖書に生きるユダヤ人であることを告白した。爺さんと、親爺の生き方を観察していると、どうしても神の存在を否定している生き方をしており、自分は無神論者になったのだと・・・

エスブッダ、アツラーと、みな神がつくった人物。もちろんわれわれ一人一人もみな神の子であって、神ではないと・・・。

彼の言う無神論、そこには神の存在の確認作業という難解な家庭を経ての結論であることが見て取れる。

沈黙のあと、彼は静かに私に語りかけてきた。

<あなたは今まで出会った大人と違う。あなたは僕の意見にじっと聞き入り、わたしの考えを認めてくれた人である。ありがとう。>と左手をわたしのハートの上に手を差し渡し、握手を求めてきた。

彼が必ず神を信じるであろうと確信した瞬間であった。

 

バックパッカーとして世界を渡り歩くとき、宗教の話が出ることが案外多い。生活に密着した宗教国家も多いから当然であるが、信者であれ、無宗教であれ、宗教や神についての己の宗教観についての考えを深めておくことをお勧めする・・・と同席していた日本の青年たちに伝えさせてもらった。

 

多くの日本の青年は、宗教や神の話になると肩をすぼめておのれの宗教観のなさを自虐的にとらえてしまうことが多く見受けられる。

青年たちは、これからも続くビジネスのグローバル化にのみ込まれ、国際社会に出て活躍する機会が多くなることは必定である。

ビジネス、学究、技術であろうと、必ず自分の信条・信念を相手に吐露して人間的信頼関係を築くことから入って行くことになることを覚えておいてもらいたいものである。

自分の意見を持ち、相手に伝えられることが国際人としての第一歩である。

 

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         神学論争に耳を傾けたであろうギョレメ・パノラマ村の岩穴ホテル群

 

f:id:shiganosato-goto:20200711205817j:plain             ギョレメの絶景パノラ                 

 

<ある中年のご婦人との出会い>

同じ洞穴ホテルに長期滞在中のご婦人Wさん(46歳)との出会いがあった。

Wさんは、同じシルクロードでも中国てトルコに入国したという。

ご婦人にして破天荒な人生を歩んでおられることに興味をもったのである。

菊栽培の職人として奉公に入り、親分の背中越しに4年間指導を受けたことに発奮、植木職人となった異色のご婦人である。それ以前は小料理屋の女将や、中米グァテマラの地織りの輸入販売を手かけたという。

旅のきっかけは、母親との確執や激突、5人姉妹間の葛藤などから卒業できたこと、更年期による穏やかな人生観への変化もあり、ひとりして心の平静を楽しむために中年のバックパッカーに変身したとのことである。

性格的に武士道や、愛国心、徴兵制に興味があり、日本の青年たちに日本の良さを残す活動も続けているとおっしゃる。

また、オウム・サリン事件の実行犯である林郁夫が友人であったことから人生観が変わったと一言・・・。

 わたしから見てWさんは、江戸っ子また植木職人らしく気風がよく、眼力があり、凛々しい姿は女剣士というか明治女の心意気を感じたものである。

自分の人生を見直すためにも旅に出たと、またこの旅により人生に花を添えたいとも語ってくれた。

 旅は、人生に潤いを与え、人の営みから学び、過去を洗い流す力を持っているのである。

 

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                 手に入れたトルコ絨毯

 

<人生は自分で枠を決めるべきではない>

5人の日本人大学生バックパッカーとの間に、<自力と他力>についてのやり取りがあった。

自力を確実に身につけたものは、必ず人の役に立ち、社会を再生し、家庭平和に貢献するだけの実行力とハートを身に着けるものである。そして更なる人生の飛躍を目指すことが出来るといえる。

必ずその人の能力、忍耐、努力、感謝の姿を見つめ、認める者がいるからである。

そう、その姿を、神をはじめとして、一生の間に3~4人は周りにいるのではないだろうか。

そして自力では勝ち取れなかった人生における大切な部分が、そのうち日の目を見る時が必ずやってくるのである。これが他力であり、神を通した救いの手であると云えるのではないだろうか。

自力に他力が加わって人生は一つの形に仕上がっていくといえる。

素晴らしい人生創造の世界と言えないだろうか。

 

<バケーション論争>

―ALPINE/アルパインという会社を知っているか?-

ローズバレー・トレッキングに参加した時、ドイツ人から尋ねられたのである。

―あの会社は、たしか有名なカーオーディオの会社で、ドイツの会社だったねーと答えると、

―何言ってるのだ、あの会社は日本の会社だよ。僕はそこで働いているのだーと。

―そしたらドイツにあるアルパイン社の現地社長はもちろんドイツ人だよねー

―いや、それが日本の本社からきている佐藤という人なのだ。

  今回、バケーションをとるのも大変だったのだ。

  なぜ日本人はバケーションを取らせなかったり、取らなかったり、取るのが罪だと思うのだろうねー

―いや、君の言うとおりだよ。

  君が現地の社長になって、効率のあがるバケーションの取り方を指導し、日本人にバケーション革命を起こして欲しいねー

 

バケーションは労働に対するボーナスであり、労働者の権利であり、家族サービスの時間であると考え、

1~2か月の長期バケーションをとる西欧の人々にとって、1週間という短期休暇でさえ一緒に働く同僚への気遣いや、他人が働いている時に自分は働かずに休暇をとっていることへの罪悪感をいだく日本人が奇妙な人種に見える様である。

ビジネスのグローバル化も進むなか、日本人も遅まきながらバケーションのグローブ化をはかる必要がある

ようである。

 

 

《 9月28~29日 カッパドキア・ギョレメ ⇒ イスタンブール 約600㎞ 

            長距離夜行バス10時間の旅 2800円/VISA使用 》

 

カッパドキア・ギョレメよりイスタンブールへは、長距離バスが格安である。ただ一日に2便なので出発当日では満席になる恐れがあるのでカッパドキア・ギョレメに到着した日にチケットを予約し、購入しておくことをお勧めする。

ギョレメのバス・ステーションは、街の中央にあるオトガル(噴水広場)のドルムシュ乗場にある。

 

<トルコ、チャドルをつけない女性が闊歩する>

今回のシルクロード踏破の約半分は、中国ウイグル自治区を経て、イスラムパキスタン、イランよりトルコに至る。トルコに入って数日たつが、チャドルを着けてトルコに入ったイラン婦人と別れて以来、チャドル姿のご婦人に出会ったことがない。

20世初頭よりイスラムの近代化を進めてきたトルコは、イスラム国であるパキスタンイスラム革命下にあるイランを経てやって来た旅行者にとってその西欧化に驚かされる。

かえってトルコの人々からチャドル着用の同じイスラム教徒婦人を見る目に奇異と戸惑いを感じているようである。

イランからの青年たちは、髪の毛を露出したトルコのイスラム女性の素顔に出会って、あたかも浦島太郎のような新鮮さをその顔に表していた。その表情には、イスラム革命に縛られている壁が厳然と立ちはだかっているように感じられた。

イランの青年たちに自由な表現と、思想と、行動ができる日が何時訪れるのであろうか・・・。

一方、チャドルをつけない女性が闊歩するイスラムの国トルコ、そこに新しいイスラムの風が吹いているように感じられた。

もちろんトルコの厳格なイスラム女性は、チャドルより軽装であるスカーフを巻いてはいる。

 

<トルコの大地との再会>

今から5年前、1999年12月アメリカ口腔外科学会の要請でトルコ・アンカラ地震被災者救助支援(顔面破損修復)スタッフとしてアンカラに滞在した。

任務を終えたあと、帰国のためイスタンブールに滞在した折、亡きパートナーの言葉に従って、散灰のため

ボスポラス海峡を船で黒海までを往復したことを懐かしく思いだしていた。

特に、アンカラ地震被災地での焚火をしながら野戦用テントで寝起きし、冬の夜空を照らす満月が被災者にエールを送っている様はこころを慰める情景であったことを覚えている。

 

 

《 9月29~10月1日  トルコ・イスタンブール

 

<▲ イスタンブール  International Youth Hostel 連泊  1,500,000TL/8US$/VISA>

アヤソフィア寺院のすぐ西側の細い道をトプカップ宮殿の方(北)へ歩いてすぐのところにある。この細い道

が私にとって喧騒のイスタンブールから離れ、静かに歩ける穏やかな小道であった。

<InterYouth>の看板がかかったバックパッカーの聖地である。

 

 

シルクロードブルガリアへの入国ビザ申請にあたって>

シルクロード・ヨーロッパ・ルートは、トルコよりギリシャを経てブルガリアからルーマニアに入り、ハンガリーオーストリア経由、陸路イタリアへ向かうことにしている。

まずは、イスタンブールブルガリア総領事館に出向いてビザ申請をすることにした。

しかし、元共産主義国であったブルガリア総領事館での官僚的取扱いに辟易させられる場面に立ち会うことになった。

ロシアでのシベリア横断鉄道の旅の途上で経験した旅行者に対する旧ソビエット的官僚の取り扱いには慣れてはいたつもりだが、更なる高圧的な元東欧共産政権下のサービスの時代錯誤的取扱いが継続されているのに驚いたのである。

ビザ申請者は、その国に興味をもってか、またビジネスで入国する人たちであるからその国にとって友好で、有益な人たちであるから、welcomeすなわち歓迎される人たちであるはずである。

しかし、申請者への友好的接し方を忘れているのであろうか、いや申請者を見下すような高圧的な言動が目立ってブルガリアという国の尊厳を傷つけているのであるから始末が悪い。

それも、すでに共産主義体制から解き放たれて13年もたっているがいまだ権威主義的威圧をもって民衆を取り扱おうとするのである。

ブルガリアへの入国を希望する申請者50人ほどに対して、重厚で威圧的な鉄製扉を固く締め、直射日光のもとに4時間も待たせたのである。開門が10時と遅いが、領事館内で待たせるという発想はなさそうである。それも整理券さえ発行されず、トイレさえその場を空けることもできないのである。

時間になっても並んでいる順番ではなく、総領事館スタッフの眼鏡にかなったものから入館させているからお粗末である。2~3人のグループで入った申請者は、建物入口でまた待たされる。6時間過ぎた時点で不足書類を指摘され明日持って来いという。最悪と言っていい対応である。

この時点で、どのスタッフも日本のパスポート携帯者には、ビザは必要でないということを伝えてくれる者は一人もいなかったのであるからその不親切さにまたまた呆れたものである。

それも総領事館宛、ビザ発行料として36,000,000TL(約3000円)も前納したあとでのことである。

なんとも解せない官僚的なやり方、セクショナリズム共産主義時代から引き継がれているようであって悲しい思いにさせられた。

 

この国、ブルガリアを訪れようとする申請者にここまで厳しく取り扱う必要があるのかと疑いたくなる。国家の顔である総領事館のスタッフに入国希望者に対するWelcomeの姿勢がない限り、みなブルガリアを敬遠するような気がしてならない。

華麗な首都ソフィアの光景と、鉄の冷たさを持った秘密警察的もてなしとのギャップがどうしても頭の中で結び付かないのである。

 

 

《 9月29日 イスタンブール

 

<Bosphorus Cruse/ボスポラス海峡クルーズ>

東洋と西欧の交差点イスタンブールは、シルクロードの重要拠点であり、情熱と喧騒の渦巻く大都会である。

また東洋と西欧を分けているマルマラ海黒海を結んでいる海峡がボスポラスである。

 

イスタンブールの中心・トプカプ駅よりメトロ(地下鉄/12万TL/約50円)に乗って、アクサライ駅経由、終点のエミノニュ駅で下り、ガラダ橋手前を右手に入ると<3 Bogaz Hath/ボスポラス海峡行>クルーズ船の乗場がある。

 

クルーズ船は、エミノニュの桟橋を出て、海峡に沿う東西の街に立寄りながら、黒海近くのアナドル・カヴァウで折り返し、エミノニュ桟橋にもどってくる。

所要片道1時間半の観光で、往復600円(VISA使用)、一度は乗船し、東西世界を隔てている海峡をクルーズするのもいい。

エミノニュ発は1日10:35/12:00/13:35の3便である。折り返し便は、突然の変更があるので現地窓口で乗船前に確認しておくことをお勧めする。

 

クルーズ最終寄港地・ ボスポラス海峡最北のアナドル・カヴァウ港にあるレストラン2階から海峡やその北奥に広がる黒海を名物の鯖サンドイッチを食べながら眺めることが出来る。

 

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ボスポラス海峡東西イスタンブールを結ぶフェリー    ボスポラス海峡入口のマルマラ海に沈む夕日

 

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              ボスポラス海峡クルーズ船カラミス号にて

 

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     ボスポラス海峡クルーズ船よりイスタンブール・エミニュ桟橋、ボスポラス大橋を望む

 

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           ボスポラス海峡クルーズ船 M/S KALAMIS カラミス号に乗船

 

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        エミノニュ桟橋をでてすぐボスポラス大橋、続く第2大橋をくぐり黒海へ向かう

 

 

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      ボスポラス海峡クルーズ帰路の風景、イスタンブールのビルディングを遠望

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    ボスポラス海峡出口より黒海を望む(左・ルメリカヴァウ灯台/右・アナドルカヴァウ灯台

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ボスポラス海峡最北の街・アナドルカヴァウ港    ボスポラス海峡最北より黒海を背景に 

 

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             ボスポラス海峡クルーズ最北寄港地・アナドルカヴァウ

 

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             黒海に面するトルコ最北の漁村・キリオス

 

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              黒海の海面に光陰を落す太陽

 

          《 詩 コンドルとなりて黒海に舞う 》

           われコンドルとなりて 黒海の空を舞う

           風に乗り 風に乗せられ 風になりてや

           見果てぬ夢を求めて飛びしわれを 君

           恋するボスポラスよ 我を抱きしめ給え

           我を呼びし君の声 我が魂に満ちてや

           われコンドルとなりて 黒海の海に舞う 

 

ボスポラス海峡との再会 >

先にも述べたが前回のトルコ訪問は、5年前の1999年12月、トルコ大地震のボランティアとして参加した時である。

その折、帰国に際して亡きパートナーをここボスポラス海峡に散灰したのである。病床にあって東西文明の交差点であるイスタンブール、その境界線であるボスポラス海峡に夢を馳せ、快復後最初に訪れようと語り合っていたところである。

その散灰地点、第二ボスポラス大橋を観光船は静かに通過しつつある。黒海からマルマラ海へ抜ける風は爽やかである。再会を記念して三つの硬貨(五円玉・百円玉とトルコ250TL玉)をボスポラス海峡に沈めた。

 

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               東洋と西欧を結ぶボスポラス大橋

 

           《 詩 散灰ボスポラス海峡に再会す 》

        ああわれいま 第二ボスポラス大橋を通過しつつあり

        この地5年前 パートナーの遺灰を散じし海峡にして

        魂の悔悟を打ち破りて 内なる霊の慰めを得んとする

        甚深なる鎮魂の波に洗われて ただわれ沈黙に佇む

        今日も変わらず 海峡のさざ波踊り 爽やかな風吹き

        想いて激しく涙溢れ 再会を喜び 感謝するものなり

 

<ボーリス氏との出会い>

イスタンブールでの宿泊先<インターナショナル ユースホステル>の同室者で、国連キプロス平和維持警察隊員のスエーデン・ストックフォルム在のボーリス氏と知り合った。

キプロスの主権を主張するトルコ系住民とギリシャ系住民の紛争解決のため国連より派遣され、休暇のためここトルコをバックパックしているとのことである。

夕食後、誘い合ってソフィア教会の裏手に位置するユースホステルの屋上のガーデンからボスポラス海峡の夜景を観賞しながら祝杯を挙げた。

ボリス氏とは、その後、家族を含めて長きにわたって友情を深めている。

 

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              ボーリス氏とイスタンブールYHで

 

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              夕闇迫るボスポラス海峡入口 マルマラ海を望む 

 

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           シルクロード東西を結ぶボスポラス大橋方面の夜景

 

 

《 9月30日 イスタンブール

 

イスタンブール 最終日のチェックリスト>

ブルーモスク トプカプ宮殿 ハマム体験 地下貯水池 マヤソフィア

YH同室者ボリス氏との夕食・ボスポラス海峡の夜景観賞(YH屋上)  

YH宿泊代(VISA) □T/Cをユーロ€に銀行両替

生活用品購入(靴下・スケッチブックほかーグランドバザール/隊商宿見学)

トルコ出国準備・シルクロードギリシャ入国準備・パッキング 

 

 

<文明の十字路 シルクロード・トルコ/イスタンブール

トルコ/イスタンブールは、西洋文明と東洋文明の交わる十字路として歴史に花を咲かせてきた。

また、ボスポラス海峡によりヨーロッパ側(トラキア地方)とアジア側(アナトリア半島)に隔て、地政学的にも歴史を刻んできた大都市である。

イスタンブールは、歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な 拠点であり、いまなおその立地に東西の交易路としての物流や人的交流が盛んである。

なかでも宿泊先インターナショナル ユースホステルアヤソフィア南端)より東へ歩いたところにある世界最古のアーケード市場<グランドバザール>内に、トルコでも最大規模のシルクロード時代に利用されたZincirli Han(ズィンジルリ・ハンー隊商宿)が残っている。

 

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                      グランドバザール             バザール内にたたずむ隊商宿

 

 

<トルコサウナ/Hamami/ハマミを体験する>

カッパドキアのギョレメ村で、ハマム(公衆浴場)でトルコ・サウナを初体験した。ここイスタンブールでもハマミで汗を流し、旅の疲れを癒すことにした。

一度体験しているので、緊張感もなくフロントでタオル・固形石鹸・腰巻・サンダルを受け取り、入浴料10

US$を支払う。今回はシャワールームや、冷水浴槽があり日本のスーパー銭湯に似たところがありリラックスすることができた。

 

<世界一美しいムスクといわれる魅惑のブルームスク / スルタンアフメット・ジャミィ

ブルームスクとして親しまれている<スルタンアフメット・ジャミィ>は、アヤソフィアのちょうど向かいある。

壁、天井、柱を覆う模様がほんのり青を帯びていることからブルーモスクと呼ばれている。

 

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                               世界でただ一つ6個の尖塔を持つ魅惑的なブルームスクを背景に

 

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                                        イスタンブールの象徴 ブルーモスク&ボスポラス海峡  

                                                              Sketched by Sanehisa Goto

 

アヤソフィア  ビザンチン建築の最高傑作>

アヤソフィアは、イスタンブールにある博物館である。

AC325年、今から約1700年前、東ローマ帝国コンスタンティヌス2世によりキリスト教大正教の大本山として大聖堂建築が始まった。

その後、AC1204年ごろにはローマンカトリックの大聖堂とされたが、AC1453年オスマントルコによるコンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落し、スルタン・メフメット2世によって大聖堂はイスラム教の寺院に変えられ、ビザンチン文化を象徴しているイエスや洗礼者ヨハネのモザイク絵は漆喰で塗りこめられた。

AC1931年、アメリカ調査隊により漆喰の下の聖母マリアに抱かれた幼子イエスのモザイク画が発見され、モザイク画を元に戻して現在に至っている。世界でも代表的なキリスト教イスラム教とが同居する空間として有名であり、現在は博物館として保存されている。

イスラム教寺院となった聖堂には、メッカの方向を示すミフラーブや、写真の中にある円板のように金の文字でアツラーやイスラム預言者の名が飾らえている。

アヤソフィアに正座して、ビザンチン建築の最古傑作といわれるアヤソフィアの数奇の運命をたどってみた。

(注:2020年7月現在、トルコ政府はアヤソフィア博物館をイスラム教寺院に戻す法案に署名、世界から非難の声が上がっている)

        

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                アヤソフィア(博物館)           Wikipedia

 

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       アヤソフィアの天井にあるマリアに抱かれた幼子イエスのモザイク画と、

            大きな円板に見られるイスラム聖者の名前が同居する

 

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左・南回廊に残っている洗礼者ヨハネ聖母マリアに囲まれたイエスのモザイク画

右・正座して、ビザンチン建築の最高傑作といわれるアヤソフィアの数奇の運命をたどってみた

 

 

<地下貯水池―イエレバタン・サルヌジュ  世界遺産

イスタンブールには、地下に広がる宮殿のような貯水池<イエレバタン・サルヌジュ>がある。

何とこの大規模な地下の大貯水池が現代ではなく約1700~1500年前のコンスタンティヌス帝時代からユスティアヌス帝の時代に造られたというから驚きである。

内部はコリント様式の円柱で支えられており、まるで水を湛えた宮殿のような光景である。

地下宮殿の最奥には、1984年に発見された怪しい顔を横たえる二基の古代ギリシャのローマ神殿より移されたギリシャ神話<メドウーサの顔>が横たわっている。

<メドウーサ>は、ギリシャ神話に出てくる怪物で、宝石のような眼を持ち、見たものを石に変える能力を持つとされる。また、海の神・ポセイドンの愛人であると伝えられている。

 

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 コリント様式列柱が地下宮殿のようである                メドウーサの首

 

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              地下宮殿と呼ばれる広大な地下貯水地で

 

オスマン帝国トプカプ宮殿 - 世界遺産

トプカプ宮殿は、イスタンブールの小高い丘の上に建てられている。ここからは眼前に金角湾、マルマラ海ボスポラス海峡を一望できる最高の景観の地である。

トプカプ宮殿は、15世紀の半ばから20世紀初頭にかけての約500年間、巨大な権力を維持したオスマン帝国の絶対支配者スルタン(王)36人の居城であった。

城壁に囲まれ、いまなおその神秘性を漂わすトプカプ宮殿のその全貌は、ボスポラス海峡クルーズの際に

船上から望見できる。

 

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                  トプカプ宮殿の送迎門

 

トプカプ宮殿の立地は、三方を海に囲まれた丘の上に、シルクロード時代より東西交易の接点であるボスポラス海峡を見下ろし、城壁に大砲を配置し敵からイスタンブールの港を守る砦としての役割を果たしてきた。

 

イスタンブールは、オスマン朝の支配地域であったオーストリアのウイーンから黒海アラビア半島北アフリカという広大なエリアの中心地として繁栄した。

トプカプ宮殿そのものが街であり、その城内には議会の建物や、スルタン(王)の居室、側室の婦人たちの部屋を備えたハレムもある。また最大6000人もの料理人が働いていたという厨房の大きさにも驚かされる。この厨房から突き出ている煙突がやく30本もあるというのだから、宮殿での宴会の規模を推し量ることが出来る。

ハレムは別料金となり、大変な行列に並ぶことになったが、子供のころより魅惑的なハーレムに対し少年なりに憧れていたこともあって是が非でも夢を果たすことにした。

 

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  謁見の間(大広間)にあるスルタンの王座          ハレムの浴室<ハマム>

 

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              有名なトルコタイル<生命の樹・天国の庭>

 

ムラトⅢ世の間では、オスマントルコで好まれたスモモをモチーフにしたイスタンブールで一番有名なタイルを見ることが出来る。

トプカプ宮殿そのものがタイル芸術の結晶であり、その幾何学的なタイルの模様、色彩に魅了させられる。

 

 

《 10月1日 イスタンブール/トルコ ⇒ アテネ/ギリシャ  

                 国際夜行バスにて移動 》

 

 

<国境の街・エディルネ   トルコ/ギリシャ国境を越える>

バス会社<ULUSOY>で約21時間の<トルコ/イスタンブールギリシャ/アテネ>へのシルクロード移動の旅である。

二階建ての大型バスの乗客は40名、そのうち日本人1・シンガポール人4人の東洋系5名と、残りのトルコ・ギリシャ・西欧系乗客が乗車した。

途中、40分間のランチタイムを利用して、トルコリラ(TL)の小銭をレモン・シャーベットに変える。

ようやくトルコ・国境の街エディルネに到着する。エディルネは、ギリシャ国境へ5㎞、ブルガリア国境へ10㎞のところにあり、ヨーロッパへの出入り口としての役割を果たしている。

歴史的にエディルネは、オスマン帝国の首都としてバルカン半島統治の重要拠点であった。 しかし、オスマン帝国崩壊後のギリシャブルガリアの独立にあたって、行政拠点はイスタンブールに移り、その後は、国境地帯の地方都市として現在に至っている。

 

その後、約1時間の出入国手続きを終えて、シルクロードギリシャに入る。

15:15pmトルコ国境を越えてギリシャ国境の村カスタニスに入った。

運賃は115,000,000TL(77US$-VISA払い)。

座席番号は33番、西日の強烈な暑さに閉口する。

一路、アテネへの中継点テッサロキニに向けてE85/E90号線をバスは西江向かう。車窓より地中海を見ることが出来爽やかな気持ちにさせられる。

 

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         シルクロード・トルコ横断  /  ギリシャ入国ルート・マップ

 

 

<厳しいギリシャ陸路入国審査>

ここギリシャ入国にあたって、今までのシルクロードにおける隣接国への入国では見られなかった厳しい審査が待ち受けていた。

パスポートにイスラム国の入国スタンプのある乗客は全員次なる長時間の審査を受けることになった。

  • 何の目的でギリシャに入るのか。
  • 何日間どこに滞在したか。
  • パスポートの偽物でないことの確認(各国在ギリシャ大使館への照会)
  • なぜ経由地がイスラム国なのか。
  • 何の目的でイスラム国を訪問したのか。
  • 所持金はギリシャ滞在に十分なのか。
  • T/C(トラベルチェック)・現金(US$/ユーロ€/日本円¥ほか)のチェック
  • 同伴者の確認(親子・夫婦・兄弟・親族)
  • 出国のための切符(航空便・列車・バスほか)
  • 荷物の個数と中身のチエック(イスラム国よりの外国人観光客には厳重な荷物検査あり)

 

わたしは最後まで残され、ほかの乗客の審査終了後、約1時間半もの審査を受け続けることになった。バスで待つ同乗者にとっては迷惑なことだが、審査を全員が終えなければ出発できないのである。

どうも中国のウイグルイスラム自治区を経て、イスラム国であるパキスタン・イラン・トルコと日本を出発して、ここギリシャに至るまでイスラム圏を訪れていた不審旅行者であるとみられたようである。

特に荷物の中身を厳重すぎるほど検査された。

この審査の経緯は、審査を無事終えてバスにもどった同乗者たちにも見られていたようで、戻った時にはみな心配顔で迎えてくれ、仲間の帰還に拍手が沸き起こった。

審査に手間取って待たせたことを詫び、許しを乞うたことはもちろんである。

 

        《 いよいよシルクロードギリシャに入る 》

 

 

       『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑧

           <シルクロードギリシャ編> 

                 につづく

 

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


  


             

 

 

 

   

         
    
           

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑥<パキスタン・イラン国境 ⇒ イラン・トルコ国境>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑥ 
       星の巡礼者 後藤實久
<ザーヘダン/パキスタン国境 ⇒ バルザガン/イラン国境>

 

《  シルクロード・イラン横断の旅  》

 

< 9月11日 イラン/ザーヘダーン  15:00到着 >

パキスタン最終宿泊地クエッタを16:00にバスで出発し、国境を越えてイランにおける最初の宿泊地ザーヘダーンには翌日の15:00頃に到着する。この間、全行程約686㎞、23時間という過酷なオーバナイト・バス・アドベンチャーとなる。

 

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この国境越えは、パキスタンの西部に広がる悪夢の<ノーク・クンディ砂漠>という難所を横断する。最高気温が50℃にも達する砂漠で、サングラス・リップスティック・バンダナ・水2L・帽子を準備してバスに乗り込んだ。
パキスタン国境の集落タフタンより国境までの1㎞は、トラック(50Rs.)を利用するか、徒歩約15分を歩くことになる。
国境手前にFC POSTというチェックポイントがあり、アフガニスタン人グループであろうか13人の男ばかりがトラックより下され国境警備隊の兵士に尋問された。こちらは、ただ一人日本のパスポートとビザを持つ外国人であったため、出国ノートに署名するだけで通過を許された。
国境はいつも緊張の連続である。

 

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        パキスタン国旗                イラン国旗

 

ツーリストであったためか、パキスタン側税関では荷物チエックもなく出入国管理に進み、パスポートに出国スタンプを押され国境を無事通過。イラン側出入国管理棟で入国申告書記入後窓口提出。次の税関ではサインアップ(署名)だけで通過。外に待っていたミニバス(20,000Ris.)に乗って85㎞先のイラン側国境の街ザーヘダーンに到着した。

チェックポイントでのイラン国境守備隊員の臨検は真剣そのものであり、バスから乗客を降し、その荷物をもって整列させ、荷物一個づつそれは厳しくチェックを始めた。まさに臨戦態勢下の国であることを実感した。

 

ギリシャマケドニア王・アレクサンダー大王ペルシャ遠征>
紀元前325年ギリシャマケドニアアレクサンダー大王が東方遠征を引き継いでペルシャを(現在のイラン)を通ってペシャワールまで遠征したが、乾燥地帯での食料調達を考えると大変な兵糧行軍であったと想像する。
何がゆえにこの荒涼とした砂漠を横断し、遠征することにしたのであろうか。
アレクサンダー大王の東方遠征の故に、歴史は動き、つくられたことは確かだが、この熱砂のなか何を求めたのであろうか・・・領土か、夢か、名声か、シルクロード流通の独占かそれとも神の啓示か。

この乾いた赤い不毛の砂漠に、唯一生えるタマリスクという木の葉が風に揺れ涼しげである。

この荒涼としたイランの荒れ地をバスは走りながら、過ぎ去る岩肌の山々と語り合っているではないか・・・
「人間って不思議な動物だね。多分欲の塊というか、所有欲の鬼だね。ここは我々の土地だ。この荒れたわれわれの土地にまで人間は入り込んで所有しようとする。そしてその一つ一つの占有をめぐって戦いという愚かな行為をするんだな。話し合いはあくまでポーズで、1mmたりとも渡さないのが人間という動物なんだな。なぜまた神はこのような愚か者どもをたくさん、この地上にお造りになったんだろう。ほんとうに神様も変っているね。」

 

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         シルクロード・イラン 横断バスルート地図>


イラン最初の訪問都市ザーヘダーンに15:00ごろ疲れた体で到着し、朝の明けるのを待ってKhiyaban Bus Terminal 近くのアブザール・ホテルに転がり込んだ。

 

<▲9月11日 ザーヘダーン ABUZAR HOTEL/アブザール・ホテル投宿 31,000Ris./4US$ >

 

<イランは、イスラムの先進国>
パキスタンの国境を越えイランに入ったら・・・
バスの女性(婦人)席がパキスタンの前半部席からイランの後半部席へ代わる
パキスタンの日本車氾濫(ほとんどが中古車)から、イランではフランス製プジョーが目立って多い
パキスタンの信号は規則よりおおらかな指標だが、イランでは信号で人車が整然と流れている
パキスタンでは見かけなかった一方通行の道路をイランでは見られた
パキスタンのワンピース型白い衣裳が消えてなくなり、Tシャツなどよりカラフルになり西洋化が目を引く
何といってもティッシュペーパーが日本と同じく、白く良質である
イランに入ったら、バスが一段とデラックスになり、エアコン・トイレ付に変わる
モスレムでの礼拝がそれほど厳格ではない
一般道路がよく整備され、高速道路があり、インターチェンジが目立つ
今のところ、スピーカーよりコーランが流れてこず、祈る人をみかけない
砂埃が少ないうえ、排ガスが格段に少なくなり、空気がきれいである
誇りを持った人々であり、常識がとおる国といっていい
パキスタンに比べ、英語をしゃべれる人が少ないようである(米国敵視政策からだろうか)
警官や兵士の姿勢に緊張感が漂っている(これまた対米敵視・臨戦態勢からか)

 

<イランの砂漠に情を感じる>
砂漠の醸し出す月影、荒涼とした砂丘キャンバスに刻まれる風紋の影絵、唯一つの己の命の鼓動がひろがりゆく様など、砂漠の背負う哀愁に満ちた表情が好きである。
砂漠にはそれぞれに特徴があるが、イランの砂漠は細やかな情を感じるのである。アラビアのロレンスが満月のもとラクダで行く、隊商が長い影を砂漠に落としながら行く、星の王子様が一人砂漠をさまよう、そのようなロマンの漂う心温かい砂漠である。
砂の肌がいい、ふんわりと柔らかく、触ると溶けてゆくような感触がいいのである。

 

<砂漠で野宿を楽しむ夢をみる>
温もりの残る砂漠に天幕を張ってシーツを敷き、三匹の羊と一匹の犬、一頭のラクダと二羽の鶏とをつれて昼寝をしながらステレオ観賞に興じる姿が浮かんできた。
目を覚ましては、コカ・コーラを片手にトルストイの本を読んでいる。
地平線の彼方に沈みゆく太陽に薄目を開けて「おやすみ」の挨拶をしている。
ミルクティーからの湯気が微風に揺れ、砂の香が全身を包むとき、三日月がご挨拶にあらわれる。
どこか遠くで水の流れる音がする。
水を飲みたいと思いつつ、いつの間にか天の川のもと深い眠りについた。

 

<わたしはラ・マンチョになりたい>
ラ・マンチョの男が赤いマントを羽織り、ドンキー(驢馬)に乗って一人砂漠を往くではないか。この荒涼とした砂漠で一体どこへ行こうとしているのだろうか。彼もまた<見果てぬ夢を求めて>彼自身の人生を歩んでいるのであろう。
バスの中にいるわたしは夢の中を歩んでいるのである。
ああ現実と夢がどこで交差するのだろうか。

 

<砂漠に生えるぺんぺん草さん>
「ペンぺん草さんあなたはなぜここにいるの・・・」、西日を受けてその体を10倍にもその影を伸ばす姿がまるでピノキオのお鼻のようにみえる。砂漠の気温は50℃に近いであろうか、その中に君はまるでお姫様のように涼しげに鎮座しているんだね。
手を振ってくれる君たちに「ありがとう。とうとう会えたね」とこちらも手を振りつつづけた。
人生を駆け抜けていく風景のなかの小さな一つの命さえ、わたしを見つめてくれていることに嬉しさがこみ上げてくる瞬間である。

 

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           荒涼なるイランの砂漠に生えるぺんぺん草さん

 

<一期一会  隣の席のイラン青年との別れ>
全行程約686㎞、23時間という過酷なオーバナイト・バス・アドベンチャーである想像を絶したバスの旅を終えるにあたって、隣の席の青年が別れの挨拶をしてくれた。
なんと美しくきれいな瞳なのだろう。なんと純粋な笑みなのだろう。苦難の旅を共にに味わったもの同士が知る瞳であり、なし終えた安堵の笑みである。互いにハグを交わし、別れのナマステを交換し、右手をお互いのハートにおいて別れを惜しんだ。
出会いの美しき事よ、友出会いて去りなん、人生のほどよい風が、互いのハートを吹き抜けていった。

 

《 ザーヘダーン ⇒ シーラーズ  長距離バスは砂丘を進む 》

 

<現在、世界遺産アルゲ・バム通過中>
ザーヘダーンよりシーラーズへの途中、バムにある世界遺産のアルゲ・バム遺跡へ立寄る予定を立てていたが、前年の地震(バム地震 震度6.6の直下型)により遺跡の全破壊が進み、立ち入りがいまだ禁止されているとの情報をえて急遽取りやめて、シーラーズへ直行することになった。

 

<厳戒態勢下のイラン>
イランに入ったあと、ここバムまでの間、ひとりの旅人(バックパッカー)にも出会っていない。
国境のパキスタンの街クエッタで見かけたバックパッカーを最後に政情不安のイランに旅するバックパッカーは少ないようである。世界のどのような問題のある所でも必ず見かけるバックパッカーが見当たらないのは、それだけ米欧との敵対関係にあり、緊張の戦時下にあることを意味している。
異様な厳戒態勢である。国境からここまでに2回の臨検があった。機関銃を構えた重武装の兵士に、肩を叩かれその冷たい銃口に飛び起きたものである。
ジーッとにらみつけ、パスポートをチェックしたあと、日本人であることに親密感をにじませ、今度はニコッと笑い、友好な態度で<Take your a nice trip in Iran !> と敵性語でいわれ、驚いたものである。
イランと日本は、歴史上比較的友好であり、産油国と輸入国として戦略的に強い結びつきを持ってきた。また外交においても、アフガニスタン再建や、イスラエルパレスチナ紛争解決にあたって両国は協調的外交関係を持ってきているのである。
チェックポイントにおける臨検兵士の日本人に対する接し方に、非常に友好的であったこともうなづけるのである。
バスに乗ってからイランのことをいろいろ教えてくれていた隣の席の青年が臨検兵士に連れていかれた。窓越しにみると、手錠をかけられた男女も見受けられる。青年が心配である。
青年は尋問の様子から、アフガニスタンからの難民のようである。パスポートやIDの不携帯に対しては徹底的に取り調べを受けるのである。
流浪の旅にある難民青年の屈辱、悲哀、失望、喪失・・・えに言われない感情、兵士の視線に耐える青年の姿に打ちひしがれた失望感が漂っていた。

アメリカに対するゆるぎない抵抗の姿勢を示しているのだろうか、道路の至る所に防禦用四角いコンクリートブロックが前進を阻むようにジグザグに配置され、機関銃がにらみをきかせている。
テヘランに近づくにしたがって臨戦態勢の緊張感が漂い増してくる。

まさに戒厳令前夜の観を呈している。

 

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             イラン国境越え後のバスルートメモ

 

<バスが時間通りに来ない・・・>
最初にイランの素晴らしいところばかり目にはいって、いざ生活の場となってバスが時間通りに到着しないときには少しがっかりさせられたものである。
入ってきたバスは最新式で目を見張った。バスが時間通りに入ってきていたらと残念な総合点であり、厳しい評価となってしまった。どうも産油国としての富める国イランにはソフト運用面での工夫と努力が必要なようである。それにもまして国として、バス会社として庶民やお客への配慮が少し欠けるところがあるようである。

 

<イランの政治情勢>
2004年現在、イランはイスラム原理主義の宗教指導者ホメイニ氏の没後15年がたち、後継者ハメネイ師のもとハタミ大統領によって推進されてきた経済自由化路線の成果がでず、保革両陣営の拮抗の上なされた総選挙では、保守派が改革派を打ち負かしている。この結果、学生を中心とした若年層が保守派に対峙するという政治情勢が生まれている。
イランでは、いまから25年前の1979年<イラン革命>が起こり、シャーいやイラン国民が夢見たムスレムの近代化、自由化がシャーの愚かな政治によって失敗し、ムスレムの古きイスラム原理主義に帰してしまって現在に至っている。

 

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                 イスラムイラン革命のポスター


<10,000Ris=イラン・ルーリア = 約150円>
インドや南米の国々、アフリカ諸国などインフレに見舞われている国々の貨幣や紙幣の価値はゼロの数が天文学的に増え続けるのである。
ある国では、100ドルを両替したところザック一杯になり、慌ててトイレに飛び込みポケットはじめ至る所に札束をねじ込んだものである。
ゼロの多い紙幣に弱い者にとっては、貧乏性が見につき、チキンライスに18000Ris.を払うのが惜しい気がするものである。しかし日本円に換算して300円と知って安堵するのだから、バックパッカーの悲哀である。
イランのコーラにZAMZAMがあるが、値段は1000Ris. 日本円で15円なのだから、インフレに関係なく物価は安いことが分かって安心するのである。

          

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                 インフレによる貨幣単位に驚く

 

<街灯の輝きが美しい>
夜行バスから眺める街の灯がこのように美しいものであったかと目を見張った。シルクロードの西進は都市というオアシスが砂漠の中に花咲き、人々に潤いを与えてくれるのである。
シルクロードは、中国のゴビ砂漠タクラマカン砂漠パキスタンパミールの荒涼とした茶色い山岳地帯、インダス川東に広がるタール砂漠、クエッタからイラン国境に横たわるパローチスタン砂漠が続き、美しい<絹ロード>のイメージから<砂漠ロード>という過酷な道路が続くのである。
砂漠の中継点として点在する都市は、人が集まり集団で生活を共にするオアシスと言っていい。
特にイランのオアシス都市の夜景は豊富な電力事情により街灯がまるでダイヤモンドの夜に輝き、砂漠を走ってきた旅人には、それはもうパラダイスなのである。


《 9月13日 シーラーズ 》

 

イランの東端ザーヘダンを出発したイラン横断の長距離夜行バスは、イラン西端のシーラーズに朝6時5分に到着した。

 

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                 シーラーズ行長距離夜行バス

 

しかし早朝なのかすべてが眠りの中にあり、ただバス停前の中央公園だけが開いていたので、ここで夜明けを待つことにした。
この町でただうごめいているのは、高原の涼しい風に揺れている噴水だけである。
心癒される静かなシーラーズの朝にひたった。

 

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           シーラーズ・バスターミナル前の公園で夜明けを待つ

 

 

 

<▲ 9月13~14日  シーラーズ  イスファファン・ホテル連泊>

 

 

標高1600mの高地にあるシーラーズは、気候が穏やかで砂漠地帯を見てきたものには、緑おおくバラ咲く古都の落ち着きにその洗練された文明の匂いがしたものだ。
古くから芸術や文学の中心であり、イラン国民が愛する詩人、ハーフェズとサディーを輩出している。
また、シーラーズは世界遺産ペルセポリスへの起点として栄え、さらに現代ではペルシャ湾に面する石油積出港であるプーシェフルの隣接都市として栄えた。

ミスター・アリーにバスターミナルで声を掛けられ、予定していた2つのゲストハウスが満員なので彼の知っているイスファファン・ホテルに連れて行ってもらった。ダブルルーム(65,000Ris./約1000円)であったが、エアコンの効いたゆったりした部屋で体を休めることにした。
ホテルの部屋に荷物を放り込んで、ミスター・アリーの車で世界遺産ペルセポリスへ向かった。

 

               

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           ナスィーロル・モルク・モスク(シーラーズ)

 

世界遺産ペルセポリスの文化に酔う>
ダレイオス1世の時世、紀元前500年ごろアケメネス朝ペルシャ帝国の首都(王都)として、帝国の新年祭を執り行う神聖な宮殿が造営された。紀元前331年このアケメネス朝はアレクサンドロス大王によって滅ぼされたのである。彼はここペルセポリスを徹底破壊した。以来、ここペルセポリスは今日まで廃墟として残ってきたが、その壮大な遺構は現在世界遺産としてわれわれにその姿を見せている。現在は<ペルシャの古都>としてイランの人々に愛されている。
紀元前に消えた廃墟の都が、いまなおその廃墟に潜む文明の香を醸し出しているのであるから不思議である。
でも、本当にこのように暑い気候の地に高度な文明が存在したのだろうか。それも緑のない、むき肌の岩山にその麗しき都を造ったのだろうか。
またなぜこの不毛の地にあるペルセポリスにアレキサンドロス大王はわざわざ遠征し、破壊しつくしたのであろうか・・・といろいろ疑問が浮かんでは消えていく。
廃墟である宮殿の遺構に座って、空想にふけるため2500年前のペルセポリスに迷い込んでみた。


<わたしはいま、アケメネス朝の王都ペルセポリスの王宮におけるダレイオス1世に招待され、アバターナ(謁見の間)に参列している。きらびやかな民族衣装を着飾ったエジプトやギリシャ、インド方面からの王族が粛々と祝いの辞を述べている・・・実に華麗なる戴冠式である>

廃墟のペルセポリスとダレイオス1世をスケッチして、ペルシャの都を心に残した。

 

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             紀元前、約200年間栄えた世界遺産ペルセポリス
               Sketched by Sanehisa Goto & Iranian Kids

 

世界遺産ペルセポリスで子供達と遊ぶ>
遺跡の壁をスケッチしていたら子供達も参加、みなに好きな色を塗ってもらった。
子供達の賑やかな喜びの声が無機質な遺跡にこだまして、2500年前のペルセポリスの艶やかな姿が宿
った。スケッチも又子供たちの元気をもらって、太陽のもと生きいきしたペルセポリスに仕上がった。子供たちのひとりJavad君が、「ぼくも手伝ったんだからスケッチのコピー送ってね。ぼく空手の赤帯なんだ。6歳だよ。」と自己紹介してくれた。
沢山の観光客も輪に入って、子供たちとここでもボーイスカウトのインディアン踊りが繰り広げられた。まるでペルセポリのソルジャーのように、青空に向かって気勢を上げた。
ポリス国家であるペルセポリスが突然息を吹き返して、花を咲かせたように賑やかになった。
廃墟が生き返った一瞬である。
踊りの輪のひとり一人がペルセポリスの市民のような豊かな顔を持った古代人に見えるのだから愉快である。

 

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      アケメネス朝ペルシャ帝国の王都ペルセポリスを造営した ダレイオス1世像
                  Sketched by Sanehisa Goto

 

世界遺産ペルセポリス散策>

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    クセルクセス門   <紀元前500年に造営された王都ペルセポリスの遺跡>   宮殿跡

 

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  アパダーナ(謁見の間)の巨大円柱 <ペルセポリスの遺跡にて> 諸国の使者の朝貢の図

 

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     牝牛を襲うライオン  <ペルセポリスの有名なレリーフ>  ダレイオス1世謁見

 

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           世界遺産ペルセポリス遺跡でイランの子供たちと遊ぶ

 

<シーラーズの街歩き>
ペルセポリスから帰り、投宿先のイスファファン・ホテルで体を休めたあと、メインストリート<ザンド>に出かけた。ザンドにあるショハダー広場が街の中央である。
夕暮れ時になると、真っ黒のファッション<チャドル>に身を包んだご婦人たちがグループで、家族で、恋人を連れだって広場に接して開かれるバザールにやってくるのである。
彼女たちは、パキスタンやほかのイスラムのご婦人と違い、そのファッションと顔メークにおいて洗練されている。現在のイスラム原理主義国家前のパーレビ国王時代の近代性を知っているご婦人たちは、自分の美しさを強調するスキルを知っているのである。
いかに身をチャドルに包もうと、その下はファッショナブルな最新流行の服をまとっているのである。その艶やかな色彩は、真っ黒なチャドルに一層際立ってみえる。
何とも言えないエキゾチックなエロチシズムが漂う。それは宗教性よりもファッション性に優れた一人の女性の美しさを際立たせている。
チラリズムの極致、世界で一番美しいファッションではないだろうか。
それは喪服ファッションのシンプルな美しさに相通ずるものがある。
ここイランに来て、ご婦人のチャドルに接し、チャドルは最古のファッションであることを知った。
チャドルの中でも黒がベストファッションカラーであると言っていい。
世界で最高におしゃれな女性はイランであるといったら、言い過ぎであろうか。

 

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     ムスリム・イラン女性のチャドル      ムスリム婦人のブルカ

 

しかし、チャドルの持つ閉鎖性に比べ、顔をさらす現代のご婦人方の健康的な素顔は強く開放性を感じるものである。そこには自由を獲得した自信に満ちた顔があるからである。
どうしてもパキスタンで見た全身をブルカに身を包み、メッシュで隠された表情を殺した冷たい視線を感じたあの時の、あの陰湿さと捕らわれの身の哀れさを思い出すのである。(ただこれは個人的主観であることを申し添えておく。)

 

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            ブルカに身を包んだパキスタン婦人(カラチにて)

 

 

<イラン・メツリ―銀行で  BANK OF MELLI IRAN >
両替のためイラン・メツリー銀行に来ている。
立派な建物の中は、朝7時30分というのに多くの人がやってきて、賑やかである。銀行の中にはいたるところに宗教指導者であり、革命の最高指導者であるホメイニ師の写真が飾られている。
写真の前では、パーレビ元国王によく似た行員がきちんと白いワイシャツを着て対応している。多分、1978年のホメイニ氏による宗教クーデターが起こる前は、パーレビ国王のカラー写真が飾られていたであろう。
なぜならホメイニ師の宗教革命が起こってからはカラー写真を遠ざけられ白黒写真に変わったと聞いている。
人民はその時代の権力を握った指導者を表面的であっても歓迎の意志を示すものである。
記憶に残っているが、太平洋戦争(第二次大戦)が日本等の敗戦で終了したが、われわれ家族は朝鮮半島からの引き揚げに間に合わずソウルに滞在していた。忘れもしない小学1年生であった1950年6月25日早朝北朝鮮は38度線を奇襲越境し韓国(南朝鮮)に攻め込んだ。
この時、小学生はじめ多くの一般市民が動員され、北朝鮮の旗をもって出迎え、意志に関係なく無理強いされた歓迎の意を示したものである。
思い出すが、今から25年前の1979年、パーレビ国王はホメイニ氏の宗教クーデターでアメリカに亡命した。当時の時の話題として生々しくよみがえる。
熱狂的に迎えられたホメイニ師率いる革命は、よりよい革命の炎が燃え盛っているようである。
国全体が明るく、清潔感を肌で感じることが出来る。革命は成功したといえるだろう。
将来が楽しみなイスラム国家である。

しかし、そこには青年たちの不満も又静かに蓄積されてきているようにも見える。

 

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 イラン・メツリ―銀行で見かけたブルカ着用婦人   イラン国旗の4つの三日月と1本の剣

 

銀行の女子行員はみな革命政権によって定められている黒一色のチャドルを着用し対応している。お互い顔を見るまで誰であるかすぐには分からない。背の高さや太り方、仕草によって彼女の後姿で判断するのであろうか。
人間の個性は、案外チャドルで隠されているように漠然としているものなのかもしれない。チャドルの内側に包み隠されている性格、性質、癖、個性、表情こそ真実なのであって、その真実をチャドルで覆い隠しているのが人間なのかもしれない。
チャドルを身にまとったイランのご婦人たちが、いつの日かチャルドをかなぐり捨て、全霊全身で自由を叫ぶ日がまた来るのであろうか。

 

<シーラーズの下町の骨董屋さんでの出会い>
骨董品やの片隅でこんこんと眠り込んでいたペルシャとんぼ玉君・・・

「君は何十年も同じ場所にずっと日の目を見ずに座っていたのだね。君に出会ったとき君は僕にシグナルを送って来たね。一瞬、僕のハートが君の微弱なシグナルというかエネルギーを感じ取ったのだよ。」
あの時、お互い『こんにちは』」と挨拶を交わすこととなった。
「この骨董屋さんに入るつもりはなかったけれど、君のかすかな呟きに引き込まれてお店に入ったのだ。
誰かが語り掛けてくれているのは分かるんだが、それが誰であるか分からないまま、誘われて店に入ったんだよ。
店に入ったけれど、なかなか君に出会えなかったね。君はたくさんのネックレスに埋もれて、かすかに息をしていたね。ただただ過ぎ去る時間の中で僕の今日の訪問を待ち続けてくれたのだね。
出会った瞬間、僕は君がすぐ分かったよ。
君の息遣いが一段と激しくなり、いまにもはち切れんばかりの歓びようがひしひしと伝わって来たんだ。
出会ってしまえば、君と僕の関係になってしまうのだけれど、出会うはずのない君と僕が出会うなんて・・・
ある時、あるところで出会うなんて、必然というか、運命というか、偶然性の中にロマンが潜んでいるのだね。
君に出会えて本当にうれしかったよ、ありがとう。
さあ、一緒にシルクロードを歩き、東洋の神秘の国と言われる日本で一緒に暮らそう。
ただ君はコピー君だっただけさ、コピーはコピーだけが持つ歴史の申し子だけれどさ・・・」

 

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              古代イスラムトンボ玉

 

<サングラス君さようなら、ありがとう>
シルクロードの過酷な砂漠を共に過ごしてきたサングラス君がとうとうここシーラーズで壊れてしまった。
「君は僕の引き立て役であり、オシャレリーダーであった。また君をかけることによって困難な場面でもまるで自分でないように振舞うことができたのだ。君をかけた瞬間僕の心に別の世界を映しだしたりするのだな。また君の優しい心が、僕にいろいろなことを伝えてくれたね・・・
山の風景を美しく、その姿さえ変えて見せてくれたね・・・
幻影のなかの切ない一瞬である夕陽が沈む瞬間をも演出してくれたね・・・
それはまるで神の臨終を思わせるプリズムに変色してくれたし・・・
雲の笑いを僕に教えてくれたのも君の隠された才能だったよ・・・
素敵な感動を沢山ありがとう。
また、熱砂の嵐を防いでくれたり・・・
紫外線から目を守ってくれたね・・・
そしていつもこの地球で出会った景色を柔らかく伝えてくれて、ありがとう。
でも、とうとう荒っぽさに耐え切れずに、ここシーラーズで君の役目を終えるのだ・・・
君の安らかな寝顔を見ていると、ここに置いていくのが忍びないが・・・
また新しいここイランの地に還るのも君の一生かもしれないね・・・
君の愛の深さに心より感謝し、君の一生をこころから讃えてさよならをいいたいね。ナマステ」

 


《 9月15日  シーラーズ ⇒ エスファーファン  長距離バス移動12:35発 》

 

<一宿一飯の恩義に報いるの心>
旅に出て露をしのぐ寝ぐらに対して宿命的な出会いと、えも知れない愛を感じるのである。
それは、おおらかに包まれ、守られ、ハグされているという家庭的ぬくもりと、与えらえた屋根の下でこの世の生を過ごすというこの一瞬を認識したいという本能にひたることが出来るからである。
宇宙なる空間に漂っている、塵に過ぎないちっぽけなおのれの存在を、闇の夜に守り憩わせてくれる宿は、旅するものにとってその時を共有し、心を留め置くこころ癒される空間であり、大切な時の流れなのである。
旅立つ前には、部屋の清掃をし、ベッドのシーツのしわを伸ばし、枕カバーをきちんと片づけ、朝の散歩で出会った野の花を添え、感謝の気持ちを残し、次なる旅人に引き継ぐことにしている。
悠久なる休息の空間として、この時が消え去るのではなく、そこに息づいた命の歓びと感謝を残して去るのである。
思い出を一杯残した宿の部屋を去る時には、ドアーに感謝の接吻をし、<この一夜をあたたかく迎えてくれて、ありがとう。君はいついつまでも僕の中にあるのだよ。さらば>と別れを伝えることにしている。
この祈りは、野山での野宿の時もまた変わりはしない。
自然への畏敬の念、彼らの尽きない愛に対する深い感謝の気持ちに応えたいのである。

 

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            イランの村々の壁に掲げられた<イラン革命のスローガン>

 

<巡礼者イスラムの民はテント泊>
時々見かけるイスラムの巡礼者は、宿泊にテントを用いるようである。
聖地の至る所にカマボコ型、三角形、円形、高山用テントそれも色とりどりの花が咲き、賑やかである。
スリーピング(寝袋)代わりに布団を携行する様は家族的であり、アットホームを感じる。
このような巡礼者用敷地内には、必ずといって石造りのトイレと給水施設が整っていて、巡礼者に便宜が図られている。
ハイウエーを走っている車の屋根にはテントや炊事道具、毛布が積み込まれ巡礼途次にあることがうかがい知ることができる。

 

<自乗用車はプジョー、小型トラックは日本製>
先にも触れたが、徹底的に反米政権であるイランでは、アメリカ製の車は全くと言ってみることはない。アンチ・アメリカーナ―に徹する革命政権の政策がいきわたっている。
プジョー採用は、共和制政権誕生という国情を反映しての決定なのであろうか。日本製の小型トラックが走っているのは歴史的にみてオイルを介しての両国関係が、パーレビ帝時代もイスラム革命体制でも変わりなく続いているといっていい。イランは、体制や政権が変わっても親日国家であるという歴史的一貫性をもち続けている。
これに反して、アメリカとイランとの関係は、パーレビ帝時代のアメリカ製自動車一辺倒からのプジョーへの転換に見られるように、両国の関係性は犬猿の仲にまで引き離されている。
イランは、『イスラム民共和国』と呼んでいるように、政治における清潔感と、高い民族的愛国と宗教的純粋性を感じるのである。人民の統一を願う政権として、民族自決がいまイランに必要な政策なのであろう。
ちなみに、街を走る大型トラックやバスは、ドイツ車ベンツとスエーデン車ボルボである。

 

<イラン式農業>
イラン全土の砂漠化の中で、わずかな農地を効率よく耕作している。
イランでも、農業の機械化が一部の地域で進んでいる。木一本一本に水やりが必要なこの国で、農業が維持できているのは、灌漑用水の計画的配分にあるようである。

 

ペルシャの星の王子様たちー大切なものは見えない>
鋭角的に張り出した鼻、濃い眉毛、切れ長で大きく見開いた漆黒の瞳、星降る砂漠に似つかわしい星の王子様たちである。
びわ湖で実施されている「いかだ教室」に参加する日本の中学生たちに、訓話として<星の王子さま・星の王女さま>の話をすることにしているが、わたしを含め日本人の顔は、作者であるフランス人アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリのような憂いに満ち、冷たい月を湛えるような夢見る顔を持ち合わせていないような気がする。
暗黒の静寂の中に沈思する青い瞳が必要であり、その冷徹の中に真赤な薔薇を咲かせる情熱の輝きを放つ必要がある。
日本の星の王子様たちは、<星の童子>のように、無邪気で、星のウサギさんと蹴鞠をするような温かい少年少女に見えてくるから不思議である。
やはり環境によって少年少女の夢見る世界も変化するのであろう。
星の王子さま・星の王女さまはやはりリビア砂漠や、ここイランの砂漠といった過酷な情況に出会った少年少女の生き様や夢物語が似合いそうである。
《大切なものは見えないーLe plus important est invisible》
あの感動に満ちた言葉を、イランの砂漠に生きる少年少女たちに重ねて思い浮かべた。

 

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          バスに手を振ってくれるイランの星の王子さま

 

コーランを贈られる>
シーラーズのエマム公園で、是非一緒に写真を撮らせてくれと声をかける青年に出会った。
もちろん快く承諾して写真に納まった。
写真を贈りたいのでe-mailを教えてくれとノートブックを手渡され、出来たら日本語でサインも欲しいという。
<よければあなたの名前を日本語で書いてあげますよ>というと、自分はMashuという。
《真守》と号し、その意味を語り伝えた・・・
―真守・ましゅ・Mashu-とは、<真理を守る人=あなたはアラーの神の教えを忠実に守り、真理に生きる人である>
どうかアツラーの神のもと、真理の中に生き幸福をつかんで欲しいと伝えた。

彼は右手を左胸にあてて、左手にコーランを持ち、
コーランをもらってください。このコーランはあなたと一緒の方がふさわしいので、ぜひあなたのコーランにして下さい>と。
コーラン、それはムスレムにとって命そのものだから、わたしに託すのではなく、あなた自身持ち続けてください>と辞退するも・・・
<わたしは今まで、真理について教えを受けた人はあなたが初めてです。どうか、わたしのこころを受け取って欲しい。それが私のあなたに対する感謝なのです。あなたの言葉の中に光を見つけられたのですから。>
<どうもありがとう。あなたの心としてコーランを受け取りましょう>

二人の人間の間に人間愛が流れた瞬間であった。
―一つの出会いが、一つの言葉が、そして一つの心が真理に到達したのである。
この瞬間わたしもまた真理の流れの中に身を沈めていた。感謝である。

 

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             Mr.Mashuとエマム公園にて

 

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                Mr.Mashu より贈られたコーラン

 

<認識するとき神の存在を知る>
神はどんな所でも、いたるところにもおられる。ただ我々が神を認識しているかどうかである。
<神よ>と問いかける時、<はい、わたしはあなたと共にここにいます>とお応えになるのである。
神の声を聴くとき、われわれはひとりひとりが孤独ではなく、神の愛に擁かれ安らかであることを知る。
そこに神の存在を認知するのである。なんと素晴らしい人間に与えられた愛を知る特権的認識であろうか。
コーランを贈られたとき、ムスリムに与えられた特権的認識もまた神の存在が偉大であることを知った。
神のもと世界に平和と自由と愛が満ち溢れんことを・・・

 

<砂嵐で煙るイラン高原
シーラーズよりバスでエスファーファンに向かう道路もまた樹木無き赤き乾燥地帯に延びている。
砂塵が天空に吸い上げられ、遠くの岩山が霞みかかって見える。砂塵に太陽が反射して幻想的な風景を醸し出すのである。
砂もまた天に舞い、天空の散歩を楽しんでいるのだ。
砂漠にはオアシスがあり、人が住みついて自給自足の菜園を耕かし、のどかに山羊を放牧している。名も知らない砂漠の花を押し花にしてみた。

 

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    シーラーズ⇒エスファファ―ン行バス         砂塵を巻き上げるイランの大地


<イランバス旅行―秘密のサインで交流>
君と僕だけの秘密のサイン、サインを交わしウインクするだけで心が通じ、心和むのである。
<OK?           OK! >
<Are you alright?   Am alright ! >
<I love you!    You love me ?>
このサインだけで多くのイランの青少年や青年とこころ通わせ、笑いあい、心の交信をしたことか。
旅が愉快になることうけ合いである。
幸せがたちまちこころのなかをそよ風となって吹き抜けていくのである。

 

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パキスタンからイランに入ってバス旅行を続けているが、バスの乗客は地元イランの人々ばかりで、いつも外国人はわたし一人であることに一種のえも知らない不安を感じたものである。西欧のバックパッカーはゲストハウスにたむろしているだけである。もちろん外交関係の悪化からか米国人は見かけない。
このようなバス旅行だから、同乗のカミュ―君はわたしの旅友のベストフレンドであったわけである。

 

<天使のようなカミュ―君とのバスのつれづれ>
天使のような星の王子さまカミュ―君2歳、なんと素敵な瞳だろう。目がぱっちりして大きい、黒いダイヤのように瞳が輝いている。
何とエキゾチックな、汚れなき瞳なのだろう。
イランの幼児のほとんどが目の周りに黒い影・シャドーをつくり、目の表情をゆたかにする習慣があるようである。演出された瞳かもしれないが、幼児の清さが瞳からほとぼりだして人の心を打つのである。
「君の清楚な瞳にどんなに癒されたことか、カミュ―君ありがとう !」
君の天使の瞳に8時間のバスの旅がどんなに素敵だったことか、君の世界に吸い込まれ一緒に遊んでくれてありがとう。
汚れなき君の心の中で神に出会ったことに感謝しているよ。

 

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            天使の瞳を持つ星の王子さまカミュ―君

 

<イランの砂漠に生きる木々の叫び>
イランの砂漠をバスで旅をしていて、オアシスで休憩することが多い。
そのオアシスのまわりには貴重な緑の樹々が影をつくって旅人を迎えてくれる。
その樹々の一本一本に水を引いていることに目を止めることがある。
「ようこそ荒涼なイランの砂漠へおいで下さいました。
わたしたちの命はあなたがた人間の手にゆだねられているのです。
どうかわたしたちを見捨てないでください。
わたしたちはあなたたちのために陰をつくり、豊かな緑を提供し、
新鮮な空気を造り続けているのですよ。
どうかお互いのため、共生に協力し、いつまでも愛の交感ができるように・・・
わたしたちは、今日も又、あなたがた人間に身を任せ、すがるしか生きる道はありません。
どうぞよろしく・・・」

 

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              エスファファーンへ向かう途中のオアシス村

 

 

 

《 ▲9月15~17日 エスファファーン  AMIR KABIL HOSTEL連 泊 》

 

 

<元イランボーイスカウトのリーダーであった T氏宅訪問>
T氏は、イランボーイスカウトのリーダーであり、山を愛する者同士ということで意気投合した。パーレビ元国王時代に活躍した若きスカウトリーダーであった。
わたしたちは、ボーイスカウト運動創始者であるロバート・ベーデン・パウエル卿の没した年、1941年に生を受けた者たちということでまた盛り上がったものである。
栄光の時代の活躍を写真パネルにして地下のホビー室に飾っておられ、イランボーイスカウト運動の歴史について説明を受けた。
またイランボーイスカウト連盟名誉総裁であったパーレビ元国王からの表彰や感状が壁いっぱいに飾られていた。奥さんや、息子さん、お孫さんも加わり、山登りやジャンボリーの話に花が咲いた。
特に、1979年に予定されていたイラン・ニーシャプールでの開催予定であった第15回世界ジャンボリーは、不安定な政治情勢(ホメイニ師指導のイスラム革命勃発)のため中止となったことを非常に残念がっておられた。
パーレビ元国王時代まで中東のスカウト運動のリーダー国であったイラン連盟は、イスラム革命により解体され、現在はイラン革命防衛隊(IRGC)を通じて運営されているという。
スカウト活動を知るものとしてわびしい限りであるが、ご家族の皆さんと記念写真をとり、再会を約して辞した。

 

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            懐かしきイランのスカウト・スカウターたち

 

<昔懐かしい夜店の砂糖菓子に再会>
T氏宅で出された紅茶のおつまみ、奥さん手作りの砂糖菓子に目を見張った。少年時代近くのお宮さんの夜店でみたあの砂糖菓子、バーナーにかざした小さな銅鍋に入った砂糖を溶かし、出来上がっていくキャラメルのべっこう飴を懐かしく思い出した。
ご存じの方も多いと思うが、鍋に砂糖を入れて熱し、砂糖が溶けて煙が出るまで焼き上げていくと、独特な臭い、個性的な味、これが砂糖の変身かと思うほどの存在感を示すのである。なめながらパリパリとかじると、何とも言えない風味を体中に伝えるのである。
少年時代、この味が忘れられず飴売り自転車に群がったものだ。それも飴細工にしてスティックに巻き付けて、いろいろな形に作り、中に〇印を入れてその〇を見事にくり抜いたものに、もう一本おまけにもらえる楽しみがあった。
いや実に楽しい少年時代を過ごしたものである。
懐かしい一品にイランのエスファファーンで出会うなんて、思い出の回顧である。

 

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                                                昔懐かしいおしゃぶりべっこう飴 (cookpadより)

 

<人生の旅>
旅をしていると、無意識のうちに生い立ちの国の価値基準に当てはめて評価を下し、論評し、納得していることが多い。
お互いの国を比べたり、国民を比較したりする。最初は表面的な事象や印象で大雑把に見比べて納得してしまう癖がある。
しかし、間もなく気づくのだが、何か物足らなさに行き着くものである。
そこには、内在する精神的なハートや魂の問題、愛に触れることがないことに気づく。多分、現象把握だけの物足りなさや、空しさからくるようである。
旅もそうだが、美しい処を探し求め、そこに足跡を残し、満足する旅もあるが、わが心の故郷に出会って感動し、涙する旅もあるのだ。
また、自分の存在に目覚めて、幸せに身震いする旅もある。
人生の旅とは、壮絶にしてファンティックスな出会いであり、奇跡の織り成す己では予定し計画しえない力の働きによるものといえる。
感動に涙する旅を大切にしたい。

人生は一瞬一瞬が切り取られた感動であることに気づくであろう。

今日も一輪の野の花に命を懸けてみたい・・・
ああ人生なんたる幸せか・・・
静かに頭をたれ、精神を集中する・・・
魂の世界に舞うおのれの姿の美しいこと・・・
ああわれいま、一輪の野の花に擁かれて
悠久の彼方に羽ばたきゆくではないか・・・

人生の旅とは、空想の連続かもしれない。
2004年9月16日 土曜日 午前5時45分 イスファファーンのAmir Kabil Hostelの中庭にて、
水の流れの音に包まれ、天空の消えゆく星空を眺めつつ人生の旅を想いつつ、われを忘れわれを笑った

人生は愉快である。

 

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                                                   一輪の野花(イラン・エスファファーンにて)

 

<これまでのシルクロード各国の最安値おやつや飲み物>
シルクロード旅の途中、各国で口にした手ごろなものをあげておこう。
―イランはソフトクリームの天国であるーどこでも手ごろに(15円)口にすることが出来た。
パキスタンは、マンゴジュースが最高―街角で甘いものを口に出来る。(10円)
―中国では、水より安いビールーが手に入った。(20円)
格安旅を続けるバックパッカーにとっては、その国でのリーズナブルな飲食物を見つけられるかどうかで予算が随分と異なってくるものである。甘いもの好きにとっては、イランのソフトクリームやパキスタンのマンゴジュースは随分口にしたが、中国では水替わりにビールを飲み続けることもできず、飲んでも酔っ払い気味になり旅先では注意する必要があった。

 

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       イラン/サフランアイス     パキスタン/マンゴジュース                 中国/格安ビール/雪花啤酒

 

エスファファーン ・ こころのオアシス ・ 細密画に見る夫婦愛 >
イランという国は緑がとても美しく映える。
それは赤茶色の国土に緑が、そうオアシスの緑が貴重であり、イランの人々にとってはオアシスそのものが愛の詰まった空間なのである。
イランでは、緑のオアシスは愛そのものであり、安らぎを提供し、夢を誘うところであるといえる。
愛、それはすべてを包み込み、すべてを流し去り、あらたな命を授けてくれるからである。
いまイランのエスファファーンの中心に位置するハシュト・ベヘシュト宮殿公園に坐り、緑のオアシスに包み込まれ、流れゆく時を、緑の葉をなぜながら去りゆく風を楽しんでいる。
緑のオアシスに憩うイランの人々は、この豊かな時をこころにしまい込み、アツラーの神が愛されるこの地球と共にゆったりと呼吸する様を慈しんでいるのだろう、こころにゆとりを感じさせてくれるのである。
この心のゆとりは、イランの伝統工芸である細密画の夫婦愛にも表現されているようである。

 

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                                                                    細密画に見るイランの夫婦愛


<国力をつけたいと大学生に質問され・・・>
昨晩、エマーム広場でエスファファーン大学の大学院生7人に取り囲まれ、次のような質問を受けた。
「イランが日本のテクノロジーのレベルに追いつくために、われわれはいま何をすべきか教えて欲しい」と真摯な態度で意見を求められたのである。もちろんアメリカに打ち勝つためにである。
わたしが関係している大学の研究室の研究員である大学院生に、その研究姿勢についていつも求めていることを彼らに伝えた。
それは特別なことではなく、研究に対する心構えと言っていいものである。
① 『Wake-up !』 Wake-up your heart !
研究課題に対し、ハートとブレーンを目覚めさせ、たえず研究対象物に語りかけ、耳をかたむけよ!

② 『Recognize !』 Recognize yourtruth. !
研究課題を明確にイメージし、ハートとブレーンで課題をしっかり認識し、何を求をめているのかいつも再確認せよ!

⓷ 『Stay focused !』 Consentrate your spirit !
研究課題一点に全神経を集中し、一心不乱に対処し研究対象に埋没せよ!

⓸ 『Continue !』 Continue your best doing !

  『Never give-up !』 決して諦めるな!
研究の継続・努力こそ、成果への近道なり!

⑤  『Thanks !』 Thanks for your objects !
研究できること、研究対象、研究環境、商取引先,相手に感謝せよ!

⑥  『Love!』 Thinking of heart , love, truth always !
たえずハート・愛・真理を考えよ!

 

学生たちの研究の指針ともなれば幸いであることを伝えたとともに、「物事をなす基本姿勢を肝に銘じ、今後毎日実行するならば、20年後君たちは立派なイランのリーダーや技術者になり、日本―イラン対等なパートナシップの友好関係を作りあげてくれていることを確信している」と、
また「あなたがたの研究の成功は、すでに心の中にあり、努力の中にあること」を伝えて別れた。
かれら等が新たな一歩を踏み出し、研究の成果がイランの発展に寄与することを願った。

 

<Tear Container - ティア・コンテナ – ご婦人の泪壺
なんと素敵な命名であろうか。
この優雅なガラス容器は、ペルシャに伝わるご婦人用尿瓶であるという。透き通った青いガラスの長い首は貴婦人のように澄ましているではないか。一輪挿しに欲しいものである。
イスファファーン細密画ミュージアムで出会った感動の一品である。

 

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                   ペルシャ婦人用泪壺


<イランのイスラム芸術の集大成 エマーム寺院の美>
エスファーファンのエマーム寺院は、イランのイスラム芸術と寺院建築の粋を集めた寺院である。その美しさにさっそくスケッチにかかったが、どうもその幾何学的容姿を絵にする難しさに向き合うこととなった。
約366年前に建てられたエマーム寺院は、エマーム広場から眺めた中央礼拝堂のドーム<エイヴァ―ン>を中心に建てられた幾何学的造形美に圧倒される。
エイヴァ―ンにある礼拝堂の天井にある七色の彩色タイルで覆われたドームの美しさは不思議とこころを浄化し、その神秘性に吸い込まれるのである。
そしてドームの下に立つと、かすかな音でさえ重なり合って響きあう様は、まるで天上の呟きのように響いてくる。後でわかったが、このドームは二重構造になっていて、礼拝堂としての神秘性を醸し出す構造になっているという。

 

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             イラン・イスラム芸術の粋 エマーム寺院

 

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               造形美に目見張ったエマーム寺院

 

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       イスラム・タイル芸術の総合美 エマーム寺院 (エスファーファン・イラン)   

                  Sketched by Sanehisa Goto

               

<ビバ イラン!!>
今日もまた、数組の愛国的イランの青年、大学院生、女生徒に囲まれてイラン・レボリューション(イラン革命)の花で話題は盛り上がった。かれらは皆、イラン革命に若者の夢を膨らませているのである。
イランの若者の素晴らしい向上心、革命熱にこちらもつい熱がこもる。
種火は自然と大きな炎になり輪になり、熱した討論となり、最後にはイラン革命の歌となって、みなが叫び出す。
<ビバ イラン!!><ビバ イラン!!><ビバ イラン!!>と万歳三唱である。
若者の情熱的雄叫びに、イラン革命隊POLICEが取り締まりにやってくると、それ逃げろと霧散して姿を消してしまうのである。
旅をしていて、かくも若者が革命を礼賛する姿を見たことがない。
この現象は、オールドバザールに出向き路地に入ってスケッチをしている時も、めずらしい東洋人であるのか子供や老人たちに取り囲まれ革命に夢を馳せる言葉が飛び交うのである。
自分たちの革命の姿を外国人であるわたしに伝えたいのであろうか、いたるところでウエルカムである。特に食事にと、家庭へ誘われることが多かった。
有難いことである。
イランの庶民の革命にかける純粋性に胸を打たれるとともに、革命の失政に打ちひしがれるかもしれないかれらの姿も脳裏をかすめた。

革命に反対するが、多くを語ることのない一般青年も沢山いることを忘れてはならない。

 

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       イラン革命ポスター              イラン革命募金箱

 

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         エスファーファンのアウトドア―用品店でオールドスカウト仲間と

 

イラン革命への一般青年たちの不満>
① 女性のチャドル着用強制は、女性の奴隷化である。
イスラム革命下で、何か言ったらチョーク(首を刎ねるジェスチャー)だ。
⓷ 知識人はじめ青年たちはイスラム原理主義)革命に反対である。
(みなイスラム革命に反対だが、逆らえず従っているだけである)
⓸ 早く自由に外国へ行きたい。(革命下では全く希望が持てない)
⑥  イスラム革命下ではコンサートなど自由がない。
⑦ 若者に夢を持たせない。

 

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            エスファーファンのダウンタウン散策

 

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                  エスファファーンの路地裏        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<イランで出会ったお土産たち>

ここで紹介した土産物は、エスファファーンの中央郵便局から日本に向けて送り出した。

 

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   ペルシャ騎馬兵       ペルシャハーレムの浴場   ペルシャ人母子(手彫大理石)  

 

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ペルシャ軍団(大理石)  イランの夫婦愛細密画    大理石レリーフペルシャ軍団>

 

 

《 9月18~22日 テヘラン滞在・休息 》

 

エスファーファンよりテヘランVOLVO製バスの中で、イランの瞑想曲CDを隣席の青年に聴かせてもらう。その曲は、車窓から見る風景に溶け込むような無聊な旋律である。いけどいけども禿山と荒涼たる砂漠に曲が静かに流れ去っていくような心象である。
高速道路に入った。日本では見られないような幅100mはあろう上下線の間の緑地帯が延々と続き、その素晴らしいハイウエーに驚嘆した。
バスはエスファーファンとテヘラン間の高速道路650㎞を8時間で走る。その間、ファンタ―とクッキーのサービスがあり、バス料金は36000Ris.(リアル)、約550円である。
途中のサービスエリアでは、男性用の小便用便器がなく女性トイレと同じく長蛇の列には閉口した。なぜかイランには珍しくサービスエリアはゴミの山である。
気温は40℃を軽く超えているであろうか、肌を刺す痛さを感じる暑さである。
周囲は、延々と続く赤茶色のはげ山と砂漠、はたしてこの国のどこに耕地があるのだろうかと思うほどの乾燥地帯である。
ハイウエーを走る車は、プジョー(フランス製)に混じって韓国車であるKIA・DAEWOOがちらほら目に付く。日本車は、小型トラック以外全くその姿を見ることがない。

 

テヘランでも方向音痴を楽しむ>
世界中を旅し、山が好きで単独行がほとんど、サイクリングも楽しみ、ボーイスカウトで読図も習った。
しかし、よく行先やルートを間違えることがあり、パートナーから呆れられている。
ここテヘランでも、このバスはテヘラン北バスターミナルに到着すると思い込んでの行動で、地下鉄の駅を探すときに道迷いを知ったのである。
しかし、不思議な特技だが、道迷いにもあまり気にならないのである。最初から道迷いとも知らず、自分を信じて行動を始めているから当然かもしれない。
よく全く反対方向の道に入り、目的地としている場所に着いて、人に尋ねて初めてそこは目的地の反対側であることを伝えられるといった間抜けで、おっちょこちょいなところがあるのである。

これがまた山登りや旅を楽しくしてくれているようにも思える。


以前、比良山系を縦走したおり、びわ湖側に下山すべきところを、どこでどう間違えたのか全く反対側の鯖街道側の朽木の村に下山し、迎えの電話をかけるため、ここはどこかと店番のお婆さんに聞いて初めて、おのれが道に迷っていることに気づくのだから深刻な方向音痴病であることに驚かされるのである。
まあ、これも私という人間の特徴であると思えば、自嘲で済んでしまうのだから始末が悪い。
わが人生道と同じく、何度同じ道を折り返したことか、それだけ味のある往復かもしれないが、無駄だけではないことも納得している。

ここがテヘランの南バスターミナルという起点であることを知って以降は、地下鉄に乗って今夜お世話になるゲストハウスに難なく到着できたのだから、なかなかな旅人であることを己自身が知っているのだから、方向音痴を気にしていないのであろう。

 

<▲9月18~22日 テヘラン  Mashad Hotel連泊  40000Ris=4US$>
 
地下鉄の南バスターミナル駅から500Ris. の切符を買い、地下鉄駅<Imam Khomeini=エマーム・ホメイニ>で下車し、エマーム・ホメイニ広場より東へ300m行ったところにある<Mashad Hotel>に投宿した。

これからも方向音痴という珍道中が楽しく続くことであろう。そして間違いなく目的地に着くであろうことを期待したいものである。

久しぶりに近くの定食屋で形ある夕食を口にした。チキンカレーにライスと輪切りのトマトサラダである。その美味だったこと、格安バックバッカ―にとって最高の夕食であった。

 

<街角のオアシスー無料提供される店先の水>
砂漠の国イランらしい風景に出会った。
テヘランの街角には、暑さ対策として通行人への便宜提供としてミネラルウオーターがオアシスのように各店舗前に設置されている。人を思いやる気持ちがよく伝わってきてイスラム革命の一隅を照らす政策が実行されていることに気づかされる。
また、街角には水に劣らず革命支援募金箱が多数置かれているのには驚かされる。イランにおけるイスラム革命が、政府と人民が一体となって革命を推進していることを表しているのであろうか。
また、チャルドを来たご婦人たちが街角で「母子家庭を助けよう!」と募金活動をしている姿に、イスラムの国々では出会うことのなかった、募金や女性の活動にここイランで出会って、イスラミック デモクラシーの一端を知ることが出来たのである。
何か戦時中の日本における軍民一体のスローガンである<勝つまでは欲しがりません>のような雰囲気を、ここイスラム革命下におけるテヘランで感じる。イランと日本、両国民のよく似た一面を示しているように思えた。

 

<我が家のペルシャ羊木臈纈屏風絵の壁掛け>
テヘランの投宿先であるマシャド・ホテルから、歩いて東へ数分でエマーム・ホメイニー広場にでる。広場に面するテヘラン中央郵便局の裏手を進むと<イラン考古学博物館>に着く。
紀元前6000年から19世紀までの考古学的、歴史的に重要な美術品が集められたイラン最大の博物館である。
ここには奈良正倉院所蔵のペルシャ羊木臈纈屏風などペルシャの美術品が飾られている。
我が家にもペルシャ羊木臈纈屏風絵を模写した藍染壁掛けがかかっている。すでにシルクロードを経て日本にも多くのペルシャ(イラン)美術工芸品が商人や遣唐使によって持たされていたのである。

 

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        母から贈られたわが家のペルシャ羊木臈纈屏風絵藍染の壁掛け

 

ペルシャ連珠円紋>
関係している大学院研究室のスタッフが研究テーマにしている<連珠円紋>の資料を集めることもシルクロード踏破の一つの目的に加えていた。
ペルシャ文様の一つである連珠円紋が中国隋代 に遣隋使によって盛んに日本へ流入したという。小さい珠の連なりを「連珠円文」といい、ササン朝ペルシャの特徴的な文様である。

ペルシャ羊木臈纈屏風に見入っていたとき、そのペルシャ連珠円紋を研究しているというイラン考古学博物館の学芸員モハメット・カリム氏に声をかけられた。
連珠円紋をデザイン化し商品化している工房を知っているので紹介できるという。昼間はバスターミナルの案内人をし、午後はペルシャ・テキスタイルの研究をしているらしい。また、シルクロードでの「連珠円紋の歴史的移動伝播」も自分の研究の一つであり、参考になる情報を送って欲しいとの要望である。
こちらも、研究情報を送って欲しいと仲間スタッフのメールアドレスを渡し、交換した。

 

       

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        小さい珠の連なりが連珠円文といい、ササン朝ペルシャの特徴的な文様
       (参考例:ペルシャ文様である連珠円紋を配した帯―blog.goo.ne.jpより)

 

<イランという形の国と人民>
シルクロード・イランを駆け抜けて、終着地であるローマを目指しているが、シルクロードにおけるイランすなわちペルシャの果たす歴史的役割を見逃すことが出来ない。
イランは地政学的に東洋と西洋の中継点としてその商才を生かしシルクロードの恩恵を受けるとともに、ペルシャ文明の東西伝播にその役割を果たしてきた。
先に紹介した正倉院蔵の<我が家の羊木臈纈屏風>(臈纈藍染壁掛け)を見たように、シルクロードを延長して東端の西安から奈良にまでその時の流れは、確実に日本にも届いていたのである。
今回のシルクロード踏破は、西安よりローマと位置づけはしているが、わたし的には奈良よりローマ間を広域シルクロードとしてとらえたいのである。
なかでも、シルクロード中のイランを踏破して、ペルシャのもつ地理的特殊性に着目しておきたい。
その最も顕著な特徴は、ペルシャイスラム国家であり、イスラム芸術が持つ色彩、精密画、デザイン、建築法、インフラ等その時代の最先端を西欧に広め、その芸術性の高い製品を世界各地に送り出していることである。
シルクロード時代、イスラムという宗教性よりもイスラム芸術、文明として各地に拡散し、伝播したところに現在の美術史に多大な影響を与えてきたことに目を見張るものである。
イランの人民は、国土のほとんどが赤い砂漠である不毛の地に生き、自然の厳しさの中にアツラーの神に帰依することによって日常生活の安寧を得てきたように察する。
現在、イスラム原理主義的な政治体制を享受しているところに、指導者や人民にもイスラムの中でもアツラーの神に選ばれた人民であるという自負がイラン人としての誇りを支えており、その誠実さとイスラム革命遂行能力の高さから、多くのイスラム国家の中でも抜きんでてその指導性に自信を持ちつつあるといえる。
ただ現代において、イスラム原理主義的革命が成就するためには多くの革命要因を克服せざるを得ず、前途多難であるとも思えた。
革命遂行にあたって、独裁的強権主義に頼らざるを得ず、自由を求める人民の要求にいかに応えていくかに今後の革命の成否はかかっているようである。
イランは革命のさなかにあって、青年の夢見る国家づくりに応えられるかどうかで、この国の将来が決まっていくように思える。
イランという国、イランの人民は情熱的で、誠実な国であり、純真な人民である。
イスラム諸国家を束ねていくことが求められていることも自覚すべきであろう。

 


《 9月22日 イラン/テヘラン ⇒ トルコ/バルザガン  国境越え 》

 

イラン系ユダヤ人の運命を乗せたバス>
テヘランからトルコ・イスタンブール行の長距離国際バスの乗客に、運命をかけて乗車している家族がいる。
推察するに、イラン系ユダヤ人であろうか。トルコか西欧への移住を覚悟してのバス旅行であるようだ。
夫婦に女の子2人と男の子の5人家族、どのような思いでこのバスに乗っているのであろうか。
亡命とはいかなくても、イランから直接イスラエル行が叶わない複雑な国際関係、イラン・イスラエルの敵対関係という現状がこの家族の亡命を許さないのである。
トルコのイスタンブールイスラエル大使館に提出する書類なのか、何度も繰り返し目を通す父親を不安な顔で見ている家族の姿がある。父親として家族を守るという使命感が背中からひしひしと伝わってくる。
家族の西欧への移住の成功を祈りながら、旧約聖書に出てくるノアの箱舟がたどり着いたアララタ山に迎えらえながらトルコの国境を越えた。

 

<イラン・トルコ国境陸路の越え方>
トルコ<イスタンブールアンカラ>行国際バスは、テヘランの西バスターミナルから出ている。国際バスはイラン西北のトルコ国境に近い街マークを通過し、出入国管理事務所へのゲートがあるバルザカンに到着する。
テヘランと国境の街バルザカン間は約920㎞、所要約14時間と長距離バス走行となる。

 

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               トルコ国境に向かう国際バス

 

イランとトルコ間の時差は1時間半あり、イラン側国境の出入国管理事務所のオープンが7時半の場合、トルコ側は早朝5時半となるので単独越境の時は注意が必要である。国際バスの場合には時間調整がなされているので問題はない。

イラン国境ゲートから長い上り坂を上って出国オフィス に向かう。その間、トルコ入国の大型トラックの長蛇の列が出国手続きを静かに待機している。
単独越境の場合、この間にミニバスがあり(所要10分・1000Ris.)、利用することができる。
出入国管理事務所の目の前には、旧約聖書に出てくる<ノアの方舟>(のあのはこぶね)が漂着したといわれるアララト山がそびえ、越境者を温かく迎えてくれている。

 

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           イラン/トルコ国境出入国管理棟前広場よりアララト山を望む

 

税関荷物検査とパスポートチェックを済ませ、出国審査に向かう。そこにはチャドル着用のイラン婦人の長い列が続いている。
同じ建物の中の次の部屋がトルコの入国審査のコーナーであり、パスポートにスタンプをもらい、トルコ入国を果たす。
トルコ入国後、国際バスにもどり国境の街「GURBULAK」(ギュルブラク)を経て、DOUGUBAYAZT(ドウバヤズット)へ向かう。

待ちに待ったシルクロード・トルコに入ったのだ。

 

ノアの方舟が漂着したといわれる標高5137mアララト山

ノアが神からの啓示を受けて造った船<ノアの方舟>についての記述は、旧約聖書の「創世記」の第7・8・9章に出てくる。しかし、<ノアの方舟>が大洪水のあと漂着したといわれる山の頂がどこであるかは書かれていない。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

           <シルクロード・トルコに入る>

 

 

        『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑦ 
     
      < バルザガン/イラン国境 ⇒   シルクロード・トルコ>

                  に続く

 

 

 

              

  

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               チャドルをまとったイラン婦人たち

                Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑤<ペシャワール/パキスタン⇒クエッタ/パキスタン・イラン国境>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑤ 
       星の巡礼者 後藤實久
ペシャワール/パキスタン ⇒ クエッタ/パキスタン・イラン国境>

 

2001年9月11日 首謀者ウサーマ・ビン・ラーディンによるアメリカ同時多発テロ事件。 この時期、ウサーマ・ビン・ラーディンの行方は不明で、多分アフガ二スタから脱出し、イスラマバードちかくのアジトに潜伏しているという情報もある。
ここハイバル峠は、アフガニスタンゲリラ・タリバンの越境も多く、アメリカ軍とアフガニスタン政府軍・パキスタン軍にとってもっとも警戒し、神経戦が飛び交う緊張を含んだ非常態勢下のエリアである。
特にアメリカにとって、ハイバル峠はテロ掃討の最前線といってよい。

 

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      アフガニスタン・ハイバル峠にてカーン氏と

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――


《 9月3日 ペシャワール ⇒ ラホール 3日目 》

 

ペシャワール・ツーリスト・イン・モーテルで連泊し、アフガニスタンとの国境地帯ハイバル峠でのオーサマ・ビン・ラーディンによる9:11アメリ同時多発テロ以降の緊張感を現地で体験した後、モーテルのオーナーであり、ガイド役を務めてくれたカーン氏の見送りを受け、列車で次の目的地ラホールに向かった。

ラホールは、カラチに次いでパキスタン第2の都市であり、芸術・文化の中心として歴史的に重要な位置を占めてきた古都である。
歴史的には、古代インドの大叙事詩ラーマーヤナ」に出てくるラーマ・チャンドラの息子が建造したといわれている。

朝8時にペシャワールを出た列車は、午後2時50分スモッグの古都ラホール駅に到着した。

 

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                ラホール行き列車で サル―家族と

 

シルクロードをたどった玄奘が著した「大唐西域記」にも、ここラホールについて書き残している。
ラホールには今世紀に残る壮大で芸術性の高い建造物が多く残されている。それらは、トルコ系イスラム王朝シク教徒(ターバンを巻いている)、英国によって建てられた古い建造物が旧市街いたるところに残り、まるで中世の都市国家にいるような雰囲気を味わうことが出来る。

さっそく、駅よりリークシャに乗ってラホールYWCAに出向いたがすでに満室で、バックパッカーとしては少し高いが、リーガル・インターネット・イン(125Rs.)に投宿することとなった。

 

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                   ラホール旧市街繁華街

 

ラホールのダウンタウンでは、長逗留している多くの日本人青年男女といたるところで出会うこととなった。
このゲストハウスにも、情報魔の日本人バックパッカーが残した情報ノートが残されており、そこには推薦する料理店、お土産屋、遺跡、列車情報、モスク、イスラムの習慣、犯罪・危険地域、両替、物々交換、政治情報などその内容の濃さ、次に来る新参者へのサゼッションが日記風・スケッチ・漫画など絵入りで微に入り細にわたり書き込まれているのである。この日本人の情報ノートは世界中どのような片田舎のゲストハウスにも置かれているから驚きである。
まるで1980年代の世界の商取引をリードしていた<SHOUSHA>(商社)のテレックスによる情報網にも匹敵するように思えたから、その内容は素晴らしいといっていいだろう。この情報ノートには外国人も驚きの声をあげていた。

同宿の各国からのバックパッカーたちと一緒に夜のラホール下町に夕食に出かけ、チキンカレーと野菜サラダ、コーク(320Rs.)とちょっぴり贅沢をする。食事中、久しぶりのディベート(討論)、フランス女性リルやコロンビア出身のニューヨーカー嬢、英国紳士ドリュウ君らとのリーンカネーション(輪廻転生)について語り合い、楽しい夕食会であった。
その後で出たアイスクリームは、絶品であった。ラホールの夏の夜が暑かったからだったかもしれない。

 

<▲9月3日  ラホール泊  REGAL INTERNET INN投宿  125Rs.>

 


《 9月4日 ラホール 2日目  快晴 》


 
「快便あり、体調良し」、これなくして旅先での幸福感はない。しかしここラホールの夜は、一晩中蚊の攻撃を受け寝不足である。睡眠、これまた幸福度をはかるバロメータである。
中国国境の街タシュクルガンに続いて2回目の船便をラホール郵便局から、カラコルムハイウエイ沿いの村々で手に入れた品々を送り出した。(パスポートコピーと700Rs.が必要)


「断食するシッダールタ」 (断食するブッダーラホール博物館)
<ラホール博物館>に出かけ、世界的に有名なガンダーラ芸術の代表作「断食するシッダールタ」像をスケッチする。その後、ガンダーラ仏教美術ハラッパモヘンジョ・ダロの発掘品などをゆっくりと観賞した。
「断食するシッダールタ」(断食ブッダ)像は、ガンダーラ芸術初期の作品であり、2世紀前半頃の作品。その特徴は、骨ばかりにやせ細った体や、そこに浮き出た血管さえも、明瞭に表現されている。
壮絶な中に、頭部の後光や、肘から垂れ下がる衣の曲線、緩やかに組まれた腕、少し右へ傾いた姿勢などガンダーラ仏像の代表作である。
ゴーダマ・シッダールタ(お釈迦様)は、世を憂い悟りの道を模索し、断食による苦行を始めた。その断食をする様子を表現したのが、「断食するシッダールタ」像である。
結局は、断食では悟りはえられないことを知り、断食をやめ、菩提樹の下で瞑想することで悟りの境地に達し、ブッダとして世に知られるようになったのである。


9月2日ペシャワールでスケッチしたシッダールタ像にもラホール博物館から帰って彩色を施した。両スケッチともイメージカラーで仕上げてみた。

 

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      <断食するシッダールタ> ラホール博物館          Sketched by Sanehisa Goto

                                               

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       <断食するシッダールタ>ペシャワール博物館     Sketched by Sanehisa Goto

 

パキスタン大学生の夢>
ラホール博物館で、2人のパキスタンの大学生につかまり、どうしたら日本のような経済先進国になれるかとの問いを投げかけてきた。

 

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     ラホール博物館で出会ったパキスタン大学生


日本の場合は第二次大戦の敗戦国となり、賠償金を払いながら、すべてを失いそこから這い上がってきた国なので<勤勉・倹約・感謝>を暗黙の基本理念として共有し、汗する努力、満足してもらえる物作り、あくなき改善と研究、創造と工夫に徹して今日の発展につながったと思うと伝えた。
別れ際に、あなた方のようなパキスタンの青年が国を背負って活躍することを祈っていると伝え、「アッサラーム・アライクム」 (あなたの上にこそ平安を!)と言って別れた。

 

<黒い犬  WOLFL> ウルフル
投宿先のゲストハウス<REGAL INTERNET INN>で、思いがけない出会いがあった。親友となった黒犬ウルフル君である。
優しい目でわたしの心の中に語り掛けてくる不思議な犬である。わたしもまた彼の心に宿ることが出来たことを喜んだものである。
ゲストハウスにいる間は、いつも一緒に過ごし心の対話を楽しんだ。
<ラホールの友、心美しき友>ウルフルと一緒に写真を撮った。大切に残したい。

 

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          わが友 ウルフルと  (ラホール REGAL INTERNET INNにて)

 


《 9月5日 ラホール ⇒ ムルタン 》

 

<Daewoo Pakistan Express : Lahore⇒Multan Bus Service  400Rs. 所要時間 6H>
ラホールからムルタン行きは列車(Economy Class 90Rs.)や長距離バス(135Rs. 6H)が便利である。 しかし、サービス等評判のいい韓国の自動車会社<大宇>が現地法人として運営するDaewoo Pakistan Expressという直通バスに乗ってみることにした。
多分、バスをも製造する<大宇>は、ここパキスタンに現地子会社を設立し、バス路線の認可を得て現地化し、バスの売り込みを図ったのではないだろうか。そのバス路線をパキスタン全土に広げ、サービスにおいて最高の評価を得るまで成長したようである。
値段は現地バスの3倍(400Rs.)高いだけあって、飛行機のように最高のサービスを提供している。
① 発着時間 : 時間厳守  ②サービス内容 : イヤホーン付きTV・ミネラルウオーター・新聞・
スナック・ソフトドリンク・セキュリティチェック  ③乗車人員 : 20名  ④乗車率 : 50%以上で運行 ⑤ 乗客 : 中級以上  ⑥セキュリティ : バゲッジー&ボディ赤外線チェック・乗客の顔撮影
以上のように韓国らしい現地進出のパターンである。
世界各地で、日本製の日野や日産のバスを駆逐し、韓国製<Dawewoo-大宇>のバスが走り回っているのである。
ラホールからムルタン行き<Daewoo Pakistan Express : Lahore⇒Multan Bus Service>は、General Bus Station からではなく、街の南にあるラシチンダーから出ている。

快適なDaewoo Pakistan Expressバスは、朝8時にラホールを出発し、午後2時ムルタンに時間通り到着した。エアコンの効いた最高級のサービスを受け、久しぶりに西欧の匂いを嗅ぎ、時を過ごした。ただ残念だったのは、バスにはトイレがなかったことであろうか。

 

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                シルクロードパキスタンルート地図

 

<▲9月5~6日 Aziz Hotel/アジーズ・ホテル連泊  ムルタン  100Rs.>


今回のシルクロードの旅での最安値の宿と言えようか、100Rs./200円である。駅から近いといことだけで決めたのだが、日本では考えられない値段、木賃宿とはどのようなものか紹介してみたい。
建物は古く、部屋もきれいとは言えない。ただ屋根の下で寝られたら文句を言うほどのことではないが、
部屋には軋むベッドに、薄汚れたマットにアイロンの掛かっていないシーツ、がたがた音を出す扇風機、古びたイスと机と質素である。
当然だがシャワー無し、トイレはイスラム式の桶から杓で水を汲み流すが、臭いは吐き気を催す。部屋は埃で汚れているが、鏡台は場違いな気がする。自動車の騒音で眠れないと文句を言いたくなるが、バックバッカ―にとっては屋根があって、鍵があって、トイレがあればまず合格である。

 


《 9月5~6日  ムルタン 》

 

部屋が通りに面しているので騒音だけでなく、強盗の浸入にも対処する必要がある。この夜、眠っている戸を激しくたたくやつがいるので、大声をあげて威嚇すると静まった。
どうも人が泊っていることが、窓から漏れる光でわかるようで、人がいるかどうか試しているようである。さっそくスティックを身近に置き、懐中電灯を用意し、窓や戸のカギを確認してベッドに横たわった。
扇風機は回っているが、かえって熱い空気をあびて、さらに汗が噴き出す。ロープにかけたパンツやTシャツ、タオルはすでに乾いている。体感温度は40℃ほどか。とにかく熱い。
とうとう寝付かれずに、乾いたTシャツを再度水にぬらして被ってようやく眠りに入ることが出来た。
この耐暑方法は、昨年スペインにある<カミーノ・デ・サンチャゴ860㎞自転車巡礼の旅>で編み出したもので、ピレネー山脈の熱さを防ぐためにTシャツを濡らし自転車を走らせたことから始まった。

 

イスラム教徒とユダヤ教徒
このシルクロード踏破の旅に最も軽い一冊の文庫本、トルストイ著「光のあるうちに光の中を歩みなさい」を持参した。世俗の生き方と、クリスチャンの生き方を通して、二人の青年の理想像と苦悩像を描いている。

朝4時半、夜空には薄れゆく半月を囲んで星たちが輝いているなか、スピーカーからコーランが流れ始めた。パキスタンムスリムは、信仰としてのアラーを信じているのだろうか、それとも英雄としてのアラーを尊敬しているのだろうか。
イスラム教は富を必要としない、だから貧しさと汚れに甘んじているのだろうか。毎日5回の礼拝を欠かさないのがムスレムなのであろうか。いくらコーランの教えとはいえ、女性を差別・蔑視(と思える)するのがムスレムなのだろうか。コーランの教えだから自分には責任はないのだろうか。
ユダヤ人もまたユダヤ教聖典である「トーラ」に忠実な民族である。一部の超正統派<ハシディズム>
を除いて、ユダヤ教徒ムスリムと同じく宗教の教えに忠実であるが、より世俗的であり、教えもまた非常に合理的で、一般社会で暮らせる融通性を持っている。

この二つの宗教人、イスラム教徒(ムスリム)とユダヤ教徒は対照的な人の生き方を示しているように思える。宗教規律に縛られるムスリムは、経済の発展より阻害されているのに比べ、宗教そのものを生活や経済の中に積極的に取り込んでいるユダヤ教徒は、人間の経済的欲望に忠実であるように思える。
はたしてどちらが幸福といえるのであろうか。

現在、ムスリムは西欧型社会に挑戦状を突き付けているようにみえる。
それは紛れもなくムスレムの苛立ちであり、敗北感であり、経済的自立の失敗であり、コーランの教えの時代性の遅れである・・・とささやかれている。
ムスレムの青年たちは、はけ口をキリスト教的な貧富の差に的を絞り、ムスレム世界を実現すべく革命に立ちあがっているようだ。そこには進歩性は後退し、ジハード(聖戦)の響きが空しく聞こえてくる。

人のいい、底抜けに明るいパキスタンの人々の大半が、その日暮らしに満足しているように見え、イスラムの教えに従順で、今いる汚れた世界の中に幸せを見つけ、一握りの富裕層の手助けをしているように見えてならない。
人びとは、貧しさの中に自分を沈め、あきらめ、ただただアツラーの神のもと忠実な僕(しもべ)であることに幸せをかみしめているのであろうか。それもまた幸せでいいかと、ひとりうなずくムルタンの朝である。


暑さに強いダニや蚊、ブヨは、特に夜中活発に動き回っているようで、噛まれた肌はでこぼこである。
古びたうえに汚い格安ホテルで目を覚まし早朝のムルタンの街を散策した。
ここムルタンは、インダス古代都市として繁栄した街である。たしかに古い街なのだが、現代の住民が古代都市繁栄とは真逆の貧しい生活を送っていることに悲しさを覚える。
インダス古代文明が嘆き悲しんでいるように思えた。

 

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              ムルタン市街 朝の風景


この貧乏に甘んじる国では、コカ・コーラ―が水より安く、中古の車がリサイクル工場のように掃きだめされ、街を走り回り公害をまき散らし人々の命を縮めている。まるで富める国のゴミを一手に引き受けているがごとくである。
権力者は自尊心を捨てきれず、核武装による優位性を誇示し、隣国インドとの均衡を保っている。核を持つ代わりに学校を建て、教育に力を入れる教育革命こそがこの国の宝を創造すると思うのだが・・・


ムルタンの暑さ45~50℃に負け、これからの更なる暑さを避けるため予定の世界遺産モヘンジョダロ立寄りを変更、直接カラチに向かうことにした。シルクロードパキスタンのハイライトであるインダス文明の空気を味わいたい気持ちを押さえ、残されたシルクロードのことを考えて、体をいたわることにした。
この熱さ45℃が、古代インダス文明の時代にあったとは思えない。近代文明の異常な発展による地球温暖化によるものと思われる。まずは、この地を逃れることにした。
またの機会、暑さの落ち着いた時期を見計らって再訪したい。
なぜならインダス文明の中で最大の遺跡モヘンジョダロは古代の計画都市(人口30000人)で、その優れた文明の証を見ることが出来るからである。

この暑さ45℃から逃げ出すため、迷うことなく列車、それも冷房車両に飛び乗った。
いま、特急列車の1等車両、冷房の効いたゆったりした座席には、パキスタン青年アシム・サディック君と同席、インダス文明の最大遺跡モヘンジョダロの話や、パキスタンの政治・宗教・生活・未来についての話を聞くことが出来た。

 

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      カラチに向かう特急・1等車でパキスタン青年アシム・サディック君と

 

普通列車二等の370Rs.(740円)に比べ、特急一等は1250Rs.(2500円)と約3倍であるが、冷房と時間短縮はバックパッカーにとっても納得に行くものである。
日本でいう豆の天ぷらをこの列車で味わったのでアシム君に何という揚げ物かと聞いてみた。ピリ辛で美味しい豆の揚げ物は、MIX PAKORA ―パキスタンのスナックで<ポコラ>というらしい。実に冷えたコークに合う。

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              パキスタンのスナック<ポコラ>

 

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              ニカーブ着用のパキスタン婦人


<▲9月7日  カラチ YMCA連泊    125Rs.>

カラチのYMCAもまた、大変なホコリと、汚れがこびりついていた。英国植民時代の建物を使い古したような100年物である。家具は壊れたまま鎮座し、その原型には英国調のクラッシックな風格が漂っている。
このシルクロード踏破は、格安なバックパッカースタイルを貫いて旅を続けているので、少々なことでは驚くこともなく、かえってその貧乏旅行を楽しんでいるといっていい。
しかし、安さでは他に類を見ないような宿を探して泊まり歩いているなかで、貧しさからくるここパキスタンの宿はあまりにも貧弱すぎて、無気力である。
ただその貧しさの中にもここYMCAで慰められ、パキスタンの人々の客をもてなす姿に接し感動したことがある。それは、汚れの中にあってシーツと枕カバーが真っ白に洗濯され、客をもてなそうとするパキスタンの人々の心優しさを感じたのである。神のやどるYMCAのスタッフのみなさんに感謝したものである。

 

<父とYMCA>

YMCAと言えば、わが父の青年時代、留学先のアメリカで授業料や生活費を捻出するために、宿泊はYMCAで過ごしたと話してくれたことがある。苦学生としてYMCAに寝起きし、靴下や下着を洗濯し、破れ個所を繕いながらニューヨークにあるコロンビア大学で勉学に励んでいた。
わたしも父のルーツをたどり、各国のYMCAをよく利用している。YMCAは、旅人よりも貧しい学生や、失業者や路上生活者を救済することを主目的としていることを知っておくべきである。

 

<わたしのバックパッカー論 : 旅は人生、人生は旅といえるバックパッカーをめざして>

バックパッカーは、主婦のように多忙を極める種族である。
バックパッカーは、ひとりで日常生活のすべてをこなせなければならない。掃除洗濯をはじめ、栄養を考えたクッキング又は外食、裁縫・修理修繕、健康チェック管理、コミュニケーション・交渉、買物・購入、予定表作成、家計簿記帳、予算の管理、記録・記帳、情報収集、危険察知と防御ほか、家事能力と交渉力と情報に基づく嗅覚が必要な主婦そのものである。
さらにその上、生きるための知恵と工夫、予算の獲得と使い方、安価でボリュウムの嗅覚、節約の努力と仕方の研究、我慢・耐乏する精神力、臨機応変の危機回避、状況分析能力、瞬時の対応と決断、計画変更の柔軟性、状況判断と逃避の変わり身、瞬発の危険予知能力、危険からの離脱方法や現在地確認の正確さ、的確な観察・洞察力、善悪・嘘を見分ける能力、値段交渉の駆け引きなど実に様々な生きる上での経験とテクニックをバックパッカーには求められる。
また青年は、旅を通して経験し、バックパッカーとしての生きる知恵を身に着けていくのである。
旅を成就し、成功させるためには、かなり慎重に自身を鍛え、コントロールされなければならないといえる。

今日も、旅は人生、人生は旅といえるバックパッカーをめざしてシルクロードを歩いている。
旅先で、パンツの破れを直したり、サブザックの壊れを銅線とガムテープで修理するのも楽しいものである。

「ザックさんご苦労さん、
ザックさん、君にはいつも沢山の物を詰め込んで、重たい目に合わせてごめんね、
いつも大切なものを守ってくれてありがとう。
埃と垢ですっかり見る姿もなくなったけれど、きちんと自分の役目を果たしているのだから凄いよ、
自分が何をすべきかちゃんと心得ているのだね。
シルクロードを一緒に歩いてカラチまで付いてきてくれてこころから感謝してるよ、
洗濯はしてあげられないけれど、ご褒美に壊れたところを修理してあげるよ。」

「何をおっしゃいます、
こちらこそあなたに認められ、シルクロードに連れてきていただき深く感謝しています。
途中、いろいろなところに連れていってくれましたね、今回の旅もエキサイティングです。
大阪から上海に船で渡り、バスや汽車に揺られてここカラチまでお供できたのですから、
わたしも幸せ者です。
今日、カラチのYMCAに泊まり、イエスキリストのお写真に迎えられ労をねぎわられたのですから、
ありがたいことです
こちらこそシルクロードの最終地ローマまで無事お供できることを願っております。
宜しくお願いします。」

 


《 9月8日  カラチ   快晴 45℃ 猛暑 》

 

<YMCA Polytechnical Schoolの生徒たち>
朝7時半、小中高校生の登校が始まる。YMCAの庭園を散策中の東洋人に興味をいだいたのだろうか、挨拶を交わしているうちに、学生たちは次々と集まりだした。
ここカラチのYMCAは、ミッションスクールを経営しており、制服に身を包んだ生徒たちが溌剌と行き交っている。チャペルからはオルガンに合わせた聖歌隊の清らかな讃美歌が流れてくる。
集まった学生たちにジェスチャゲームを教えたところ、始業時間の鐘がなるまでお祭り騒ぎが続いた。
とうとう守衛さんが生徒たちを教室に追いやることとなってしまった。
若いということは好奇心旺盛で、まだ見ぬものに興味を持つものである。シルクロードを歩く初老の東洋人、我が国を訪れYMCAという神の館に投宿している日本人に好奇の目をもつ年齢でもある。世界どこへ行っても若者のもつ情熱的な、冒険心に溢れた観察眼は魅力的である。
若者の瞳には、夢と希望と愛が満々ている。
世界を旅して若い人たちに出会うとき、平和がいっぱいな地球でのびのびと育ってほしいと何時も願うのである。

 

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               YMCA Polytechnical Schoolの生徒たち

 

神は、今日もすべてものに対して愛の光を平等に注がれておられる。
ここYMCAの中庭に面したカフェテラス、行き交う生徒たち、すべてに光が当たり輝いている。
青空にも神の光を讃える歌声がこだまし、質素なYMCAの部屋も神の光と愛が満ち溢れている。

カフェテリアでの朝食、ナン・ジャムとバター・リプトンミルクティー・オムレツ(オニオンとトマト)と英国風である。

  

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                  YMCAでの朝食   (カラチ)

 

今日は、カラチよりクエッタへの長距離夜行バスのチケット購入と、カラチ博物館を観賞することにしている。

<バスチケット購入>
教えられた住所に、バス会社らしい建物がないのである。何人にも尋ねてみたが同じ場所を教えてくれるが、探し当てられずに焦ったものである。
親切な人がいて、ついて来いというので後に従った。地下の暗闇に入って行くので少し警戒した。へっぴり腰になりながら、十分な警戒心をもって、身構えながら案内人に従った。
なんと壊れた机の引き出しからチケット綴りを取りだし、明日朝6時出発するから350Rs出せという。「ほんとうにここからバスは出発するのか?」と疑ったら、本当に出るといって怒り出した。
旅で度々出会う不安な状況である。誰にも相談できず相手だけを信じて決断しなければならないときである。この時は、相手を信じ、自分を勇気づけて切符を購入した。
それもそのはず、窓ガラスは全部割れ、通りはゴミの山、切符を買った後でもまだ信じられず、通りに出て必死で目印になる看板やサインらしいものを探したものである。
なんとアラビア語で書かれた看板の片隅に小さなバスの写真を見つけたのである。
旅先で、日本語も英語も通じないとき、不安は最高潮に達するが神経を研ぎ澄ませ、落ち着いた観察眼をもってすれば解決の糸口は見つかるものである。
山で道に迷い、小さなテープサインを見つけた時の安堵感と歓びに似ている。

 

パキスタン国立博物館―カラチ  地元民4Rs. 外国人200Rs. >
投宿先のYMCAの近くに<National Museum of Pakistan>があるので、世界遺産モヘンジョ・ダロで見られなかった出土品や、インダス文明ガンダーラの美術品を観賞しに出かけた。
中でも、モヘンジョ・ダロの<神官王像>は必見である。
ここカラチにあるパキスタン唯一の国立博物館が所蔵する本物の<神官王像>が見られるのである。
ちなみに、モヘンジョ・ダロ博物館にある<神官王像>は複製である。

暑さは時間と共に増し、散策から逃げ帰ってYMCAの部屋にこもった。
裸になり、ぬるい扇風機の風にあたりながら、カラチ・ナショナル博物館で出会ったモヘンジョ・ダロの<神官王像>のスケッチにイメージ彩色することにした。

 

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  モヘンジョダロの<神官王像>          パキスタン国立博物館―カラチ

 

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  モヘンジョダロの<神官王像>のイメージ・スケッチ   (パキスタン国立博物館―カラチにて)

                                                  Sketched by Sanehisa Goto

 

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         インダス文明テラコッタ達   (パキスタン国立博物館―カラチにて)

                                                     Sketched by Sanehisa Goto

 

<フォトグラファー Mr. Amir>
国立博物館で出会った写真家アミー氏と宿泊先であるYMCAで会うことを約束した。
博物館にある世界的に有名なモヘンジョ・ダロの<神官王像>をスケッチしていたところ彼に声を掛けられ、
スケッチが仕上がったらコピーを送ってほしいと頼まれていた。それを変更して今日どうしてもコピーを欲しいとのことでの来訪である。
わたしのスケッチの何が彼の役に立つかわからないが、約束した限りイメージ彩色を施しておいたのである。
写真集の出版にあたってこの<神官王像>のスケッチを載せさせてほしいとのことである。
出会いを大切にし、人に喜んでもらえることも旅を成功させる秘訣である。
さらに、自分の書いたスケッチが現地の人々に夢を与えられることに使われることに感謝したい。
パキスタンの人々が古代メソポタミア文明にいまなお哀愁と誇りを持ち続けていることを感じるものである。

<Are you Chinese?>
旅に出ると必ず質問されるのが、この問いである。
たいていの日本人が海外で中国人に間違われる体験をするといっていい。それは中国人が全世界の至る所で経済活動に励み、その地域のコミュニティーに溶け込んでいるからである。その代表的存在は、華僑であろう。
全世界の東洋人のイメージは中国人であって、まず日本人を日本人と認められることは万が一ない。しかし、危険な地域や紛争地帯などでは、時として日本人として指摘されたときに起こりえる困難<拉致・身代金請求・脅迫・強盗・暴力的押し売り>など身に危険が及ぶことが多い。それも確立が高いといっていい。
それは、日本人はお金、すなわち現金(ドル)を持って旅をしているという先入観があるからであろう。
シルクロードへの旅立ちにあたって、特に紛争地域では日本人に見られない工夫を考えたものである。坊主頭に数珠を首にかけイスラムの民族衣装をきた姿は、ここパキスタンの人々の目をくらませるのに成功したようである。
誰一人日本人と言ってくれない可笑しさ、おもわず鏡を見て、そこに映っているタコ入道に我ながら思わず完璧な中国人の姿に吹き出してしまった。

<カラチの繁華街>
昨夜、カラチの中心街<Zaib-un-Nisa Street>を散策した。
電気街・ファッション街・宝石街が立ち並び、多くの人・車が行き交って、街は大賑わいである。しかし悪いが清潔な街並みとは決していえないのが残念である。
パキスタンの人々が日常生活につかり、明るく快活に生活をエンジョイしている姿には幸せさえ感じるのである。またわたしもそのようなありのままの素朴なパキスタン人の人間性が好きである。
それと清潔とは少し違うような気もする。家に招待されたときに味わった絨毯を敷き詰め素晴らしい住空間と公共の場の汚れの落差に驚いているだけである。
それはモスクの中の清潔さと一歩外に出た時のゴミの山、尿の匂い、瓦礫の散らかりに、汚さに慣れたバックパッカーでさえ驚くのである。

<英国植民地から解放されたインド帝国の一部としてのパキスタン
英国植民地インド帝国の汚れを、一手に引き受けて独立した国のように思えてならない。
これは一体どういうことなのだろうか。公共心の欠如なのだろうか、公共衛生・倫理観のなさか、いまだ理解できないでいる。
汚い処ばかり見て歩いているのであろうか。いや、この汚れのなかでも別天地があることを知っている。その別天地に住める富裕層はパキスタン全人口の0.5%にも満たないという。
中産階級を除いても、約85%の人々はこの汚れの生活を余儀なくされ、あきらめの中にあるようである。

英国はこのような地域や住民を植民統治し、富の搾取を終えると民族運動の高まりを機に放り投げ、手をひいて撤退していった。そのあとインド帝国より独立した一つがパキスタンなのである。
遠く母国を離れた植民統治者は、母国と同じ環境、都市計画、建物、道路、鉄道、避暑地、スポーツ施設、動植物園などを建設し、母国を懐かしんでいたのであろう。
それらの施設や建物がいまなお朽ちかけていても汚れたまま、今なお光り輝いている現在のパキスタン都市文化の象徴として残っているから驚きである。
パキスタンの政治家、人々はどのような未来図を描いているのであろうか。
国家建設、福祉向上、教育改革など山積、今後の国づくりに日本も積極的に協力すべきであろう。

 

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            カラチYMCAのゲストルームに吊るされた洗濯物

 

《 9月9日 カラチ ⇒ クエッタ  Coach Service  350Rs.⇒400Rs.運賃値上げ 》

 

<カラチから、クエッタへ向かう>
いま、カラチのセブン・スター・チョーク近くにある<クエッタ行コーチサービス>の小さなバスターミナルにいる。
カラチの騒音と排気ガスがわがもの顔で入り込んでくる。
6時出発というのに乗客は誰一人見当たらない。多分カラチ時間という時計があり、数分前に集まるのであろう。
壁にある案内板はすべてアラビックで書かれ理解不能である。異国の地で寂しさと不安を覚える環境下にいる。多くのかかる状況下では、他人の行動をみて状況を理解し、行動を共にして難を逃れ、解決してきたが、今回は行動の指針となる人がいないのだから、やはり心細いものである。
オフィスが開いて、ティーサービスを受けてから、急に我に返って落ち着きをとりもどした。
パキスタンのバスは、行先への郵便物、小包、野菜類、雑貨などが持ち込まれ、バスの屋根はもちろん、社内の半分近くを満たすこともある。
クエッタ行バスがターミナルに入り、荷物を積みだしたので予定通りに出発するらしい。ようやく普段の自分に戻っていく姿に安堵したものである。
一人旅の不安と安堵のなかに、旅の醍醐味を感じる瞬間でもある。

 

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           クエッタ行バスの屋根に積み込まれた貨物類

 

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    ムスリム婦人のスケッチ                                    ニカーブ着用のムスリム乗客

 

イスラムの国にも酒屋はある>
コーランの教えにより、ムスリムは酒を口にしてはならない。
ここコーチサービスのバスターミナルの向かいに小さなよく観察しないと分かりにくい<Peal Wine Store>という看板がでている。一見、両替屋とも思われる建物がある。
その外観は、小さな窓に金網を張り、その下にわずかな穴があり、そこから金や酒瓶の受け渡しをやっている。受け取った缶ビールのパックや、ウイスキーの瓶はすばやくダブついたイスラムの民族衣装のなかにしまいこまれ、何喰わない顔で立ち去るのである。バスの運ちゃんの話だと、この両替屋風酒屋で1日あたり約1900本の酒が売れているそうである。
イスラムの厳しい戒律をかいくぐり、要領よく生き抜くすべを知っているムスリムも案外多くいることに生身の人間として一面うなづいたものである。
戒律や法律だけが人民を束ねるものではなく、裏を生き抜く多くの人民もいるということである。

出発時間を随分すぎて、ようやく乗客が3人に増えた。
二人のご婦人は真っ黒な布<アバヤ>で目と手足のほかをすっぽり隠している。どうもこれが<ニカーブ>というムスリムの衣装であるようだ。連れのオヤジはターバンを巻いたペルシャ人の顔をしている。
真っ黒なベールの奥から、こちらを観察している視線を感じる。
目を隠すネットたった一枚だけで、ご婦人とわたしを隔てて他人にしているが、その奥に潜む心の温みはひしひしと感じられるのである。
ただただ想像を膨らませ、人間としてヒンズーの挨拶である、両手を合わせ<ナマステ>と笑顔をおくった。
驚くことはないことだが、ここカラチでは日常的なバスターミナルの風景なのである。
逆に、この三人からしたらなぜここにモンゴル系のタコ入道がいるのだとろうと思っていることだろう。

ムスリムの祈り ー サラート>
朝6時30分になった。定時のコーランアザーンと呼ばれるアツラーへの祈りの言葉)がスピーカから流れてきた。
黒装束の婦人たちとオヤジは祈り用の絨毯を取りだし、メッカに向かって祈り始めた。
アツラーへの祈りは次のように行われた。
① 両耳に手を当てて、アツラーの神の声を聴く
② 両手を前で組合せを祈る
③ ひざまずいて頭を土間につけ、両手を前に突き出して約10秒間保つ
④ 立ち上がって、②③を5回繰り返す

 

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               モスクでの礼拝<サラート>

 

<追加代金を徴収します>
コーチサービスのバスがカラチを離れ、ようやく一路クエッタへ向かって走り出した。
市内各所でお客(16名)をピックアップしたあと、スタッフが「これから追加のバス代金を徴収します」という。どうも定員に満たないため差額分を頭割りにするようである。結局、1人あたり50Rs.の追加を支払わされた。
パキスタンらしい安定経営に徹した料金設定である。

<時が流れる>
それにしてものんびりと客をピックアップしているが、一体何時にクエッタに着くのであろうか。カラチではパキスタン時間が流れているのであろう、水すましのように車が走り回り、バスは遅々として前へ進まないのである。
時間のとらえ方は各国や民族により異なるようで、人生のとらえ方と同じで千差万別のようである。
面白いことに、それぞれの人生はそれぞれの時の流れに乗るのが一番安心であるといえる。
ここパキスタンの時間の流れに乗るのが一番生き易いのである。
シルクロードは16000㎞と長旅である、パキスタンの時の流れに乗ってのんびり行こう。
人生又然りである。

<カラチークエッタ間はバスによる耐久レース>
屋根に目一杯積み込んだ荷物が左右に上下にと揺れ、バスは不毛の地のデコボコ道を走り続け、体は宙に舞う。小便をしたいが、先を急ぐドライバーは止まってくれない。ましてやWC付きバスではないから我慢に我慢を重ね、苦行の連続である。
二人の運転手が交代で11時間走り続けるのである。
やっと止まったと思ったら、われ先にと外に飛び出して、それぞれの方向にむかって立ちション(放尿)と思いきや、男どもみなしゃがみ込んでワンピースをまくり上げて涼しげな顔して粛々と尿出しをするのだから異様というか、平和そのものである。
男子たるものしゃがみ込んで尿をするなどいまだかって見たことがなかったので、最初は一体何ごとが始まったかと目を見張った。
それが終わると、今度は絨毯をひいてメッカの方を向いて祈りの時間である。ムスレムは一日5回の祈りの時間を持つことはすでに述べた。イスラムの国をバスで旅をすると、必ず祈りの時間を持つため停車することが分かる。それに合わせて休憩や小用を足す時間が持たれることもわっかった。
実は、正確な礼拝タイム(休憩)が決まっていたのである。
イスラムの国を長距離夜行バス旅行するとき、礼拝タイムを知っておくとおおよその休憩時間を把握することが出来るといえる。
① 夜明け前 ②正午 ⓷午後3時頃~日没 ④日没時 ⑤夜中 の5回の礼拝時間(休憩)がある。

 

 《 9月10-11日 クエッタ 滞在 》


<標高1600m高原の街 クエッタに到着>
クエッタは、カラチの北方にあり、アフガニスタン国境に近い街である。
クエッタから国境にあるホージャック峠を越えるとアフガニスタンのチャマンの街にでる。
先にも述べたが、日本の高校教師がここホージャック峠を一人で越えてアフガニスタンに入り、ゲリラに殺害されたと耳にはいっていた
住民はインド・アーリア系と異なり、アラブ系に近い顔をしている。さらに旧ソ連軍の侵攻により避難してきたアフガニスタン人やモンゴル帝国の名残の東洋系の顔も入り混じる少数民族の混合で成り立っている町である。
他のパキスタンの都市と異なる雰囲気がある。
クエッタの街は、アフガニスタンと接する国境の街のゆえに、重武装の兵士が街角に立って警戒している。
重々しい雰囲気が朝のとばりの中に、緊張感が漂っている。先に訪れたアフガニスタン国境のハイバル峠麓の街・ペシャワールよりもさらに緊張感が強いようである。
ここクエッタでは、一般の旅行者は少なく、イラン越えのバックパッカーが通過する街として知られている。
シルクロード西進は、ここクエッタから長距離バスで国境の街クイ・タフタンへ向かい、イラン国境を越えてザーヘダーンの街に入る。

 

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    茫漠としたクエッタ近郊を通過         クエッタ・ニューバス・ターミナル

 

<▲ クエッタ  Muslim Hotel ムスレム・ホテル投宿 100Rs. >
この薄汚い宿で、イランからやって来た大学生・大山君(神戸在)と出会って、互いの情報を交換した。
イランに向かうバス旅行での注意点として、
① 舞い上がる熱砂に注意 (サングラス・帽子・リップスティック・水必携)
② 国境越えで炎天下の徒歩を覚悟(パキスタン側1㎞/イラン側1㎞=2㎞の国境地帯の徒歩横断)
③ イラン側でワイロを要求されることもある

 

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                クエッタ繁華街の混雑

 

<胸の痛み>
前年のSARSの経験から自己診断するに、どうも肺に膿が溜まり肋骨が痛むのであろう。今回は左の肋骨のみが痛み、今のところ幸いだが右の肺には兆候は見られないようである。
どうもホコリや排ガスに混じる細菌による空気感染ではないかと思う。やはり体力の低下に、栄養のバランスが崩れて細菌侵入を許したのであろう。
いまだシルクロードの三分の一あたりを踏破中である。なんとか最終地であるイタリア・ローマまで体力を回復させ、継続させたいと持参した抗生物質に手を付けることにした。
シルクロードの中でも一番過酷な情況の中を移動していることを承知しているのであるが、体がついていっていないのが一番つらい。
砂漠や、不毛地帯の砂埃、猛暑、バス移動中の過酷な振動、不眠、食欲不振、栄養不足と初老の体にはこたえるのである。
持参した肺炎用Cravit 100mgを服用したところ、その副作用である①お腹が張る②だるい⓷下痢⓸頭がぼやけ困ったものである。しかし肺炎に巣くう細菌と戦うにはこれだけの副作用を持つ劇薬を飲まないと回復しないのであろう。すこしは回復してほしいものである。

アフガニスタン青年 カリット君への期待>
ムスレム・ホテルを定宿にして学校に通っているアフガニスタン青年カリット君と友人になった。アフガニスタンの敵は内なる族長間の戦い、そう内輪もめのときではない。独立国家として団結し、外国勢力と戦うべきであると考えを述べると・・・
カリット君は、国内の紛争に嫌気がさし、ここクエッタに移り住んで3年、いま11年生だという。母国アフガンに帰える前に、コンピューターの学校を卒業し、その後アメリカに2年留学してさらに研鑽に励み、国に帰って貢献したいと計画を熱っぽく語ってくれた。
かれの夢が叶い、アフガニスタンから戦乱が消え、平和のもと国内が統一し、国民が平等に自由を謳歌する来る日を期待したい。

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              クエッタ⇒タフタン国境行バス乗り場

 

<雑貨商 大山君26歳の経営理念>
同じホテルに日本人、神戸からの若き雑貨商である大山君がおり、声をかけてきた。
わたしがシルクロードを歩いていると聞いて、途次の安全を祈ってタイで仕入れた原石のブレスレッドをプレゼントするという。
「旅の安全と、幸運がありますように」と・・・
彼の雑貨に対する姿勢を情熱的に語ってくれた。
<雑貨を購入するお客様のハートをつかまえ、そのハートを満たす品々を仕入れること>
<雑貨たちに選ばれる雑貨商たらんとすること>
<雑貨の持つそのエネルギーと輝きをお客様に満足してもらうこと>
お客と雑貨のマッチングを重視した素晴らしい若き雑貨商であるとともに、
その利益をボランティアの形で世の中に還元したいという。
<アフリカの子供たちや東南アジアのご婦人たちが作ったハンドクラフトを購入し、販売したい>
<店で雑貨購入のツアーを組み、お客様に雑貨の世界や魅力を伝えたい>
<全国の賛同者と共同購入し、全国チエーン展開をしたい>
若き経営者の夢ある話は尽きない。
91歳まで京都四条と錦市場との間で雑貨も扱っていたブティック「ラ・ぺティート」の経営者であり母であった一人の商売人の生き様と、商売の神髄を参考までに伝えさせてもらった。それは雑貨を売るのではなく、あなたの心に共鳴したお客様があなたの選んだ雑貨の中にもあなたの心が隠されていることに気づき、満足してもらうことだと語ったものである。
そこには売り買いという形を越えた、心の交流のこもった満足という姿があり、そこにはもはや雑貨ではなく、擬人化した雑貨の温もりがお客様一人一人の心に中に、宝として残るのであろうと・・・・。

出会いは新たな夢を生み、新たな心を学び、あらたな決意を生むものである。
たえず目覚めて、集中して、真理を学びとろうとの姿勢が旅にも、人生にも大切である。
大山君の人生が豊かなものであることを切に祈るものである。

<人のゴールは同じ>
最近旅をしていて、自分のやつれた顔を見て驚くことが多くなってきた。
街角や路地でみかける散髪屋さん、鏡と手動バリカンとカミソリだけの青空散髪屋さんは、わたしのお気に入りなのである。
青空のもと、鏡に映るわが疲れ切った顔をながめて現在の健康状態を知ることが出来るのがうれしいのである。ましてや、老人の散髪屋さんに出会うとその人生に対する真摯な生き方に賛同し、あたたかい心の交流に埋没できるシチュエーションが好きである。そして共に歩み来た人生の悲哀や、感動の物語にはいいれれば最高である。人の数だけその人の物語があるのであるから世の中とは実に面白いのである。それも自分の責任で、いやなるがままにいやおうなく自分の人生が流れ着く終着駅に近いのだから、すでに諦めもあるのだろうが、ゴールに近づきつつある顔や心はすでに神であり、仏である。
わたしはその老のなかに愛を感じて、偉大なる力のなせる業を認めざるを得ないのである。

どんな人もゴールは一つである。

 

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               心休まるクエッタの散髪屋さんで

 

パキスタンで医学の勉強をするイランの青年>
コーヒーブレイクで一緒になったイラン青年は、隣国イランでは英語による勉強や研究は禁止されており、医学など英語文献の多いパキスタンで勉強し、卒業後は敵国であるとされるアメリカでドクターコースに進みたいという。
1979年、宗教指導者ホメイニー師ひきいるイスラム原理主義者により革命が起こり、当時のパーレビ国王のアメリカ亡命によって、<イラン革命>によるイスラム教国家が樹立した。

 

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                       クエッタ中心街

 

イスラム教は、ユダヤ教キリスト教が創りあげた封じ込めの教えか>
創始者である預言者ムハンマドが、西暦610年に啓示を受け、その後布教をして起こったのがイスラム教である。イスラムとはアラビア語で「神に帰依すること」を意味し、信徒は「ムスリム」と呼ばれている。全世界に16億人の信者がいるとされているが、一部の富める階層以外のおおくの信者が貧困に苦しんでいることも知られている。
イスラムの国々を旅していて、なぜ貧困の状況の中に人々は甘んじているのだろうかと思うことがある。

イスラムという枠をつくり、そのなかに閉じ込めてしまった勢力があるのではないだろうか
イスラムの教えが、ユダヤ教キリスト教の教えに敵対するものと見せ、イスラムの貧困化を謀った

 のではないか

自由という思想を奪っており、アツラーの神を信じる限りムスリム内での平等は担保されても、他宗教からの差別主義はなくなるとは思えないし、西欧の経済的搾取に苦しむようなシステムになっているように見える。
自由経済のシステム自体が、イスラムの人々を押さえつけ、富が一方向に流れるようになっているような気がしてならない。
世界支配の構図からイスラム教が産み落とされたという説が成り立ちはしないだろうか。
しかし、大多数のムスリムは家族を大切にし、平和を愛し、純粋な生き方に満足しているのである。現状に満足しているかのようで、不満を押さえる生き方に埋没してはいないだろうか。

<忘れられない一言   Oh no!>
Where are you going next to Pakistan?  あなたはパキスタンの次はどこへ行くの?
I am going to Iran.             イランだよ。
Where are you going next to Iran?      イランの次はどこへ行くの?
I am going to Turkey, why?        トルコだよ、なぜ?
Next to Iran, you can be free!       イランの次に、フリー(自由)になれるね!
I think Pakistani is also free!        パキスタンンもフリー(自由)じゃないか!
Oh no!                 オーノー!<とんでもない!>

<クエッタの山も盆地もホコリ色>
この地方の気象状況や地形によりホコリ色の世界が醸成されていると思うのだが、多くは大気が汚染され埃をかぶっているのは人為的なもののように思えてならない。
山々や砂漠の神もむせび泣いているようだ。わたしも悲しさを覚えた。
「取り戻せ新鮮な空気を! がんばれパキスタン! ビバー・クリーンエアー・パキスタン!」

 

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             クエッタを出ると不毛な茶色の世界が始まる

 

《 9月12日   ▲タフタン行長距離夜行バス 車中泊 

 

<月の砂漠の車中泊
真夜中、星空のもと長距離バスのブレイクタイム(休憩時間)である。
月の砂漠のように草一本生えていないぼう漠とした砂漠の中の静寂、澄み渡った暗黒の夜空に輝く星たち、まるで真夜中の星空ピクニックである。
でも眠たい、真夜中である。狭い座席、それも最後部の座席、16時間ものバウンドと揺れに体が小刻みに震え、体全体がしびれている。シルクロードの中で一番の過酷な長旅である。
さらに砂漠のふわーっと浮くセメント状の砂ほこりが体内の穴という穴に入り込んでくるから恐れ入る。
しかし、このブレイクタイムは、大切なピーピータイム(小用)でもあり、礼拝の時間でもある。。
みなぞろぞろとバスから出ると、男性はすぐしゃがんで民族衣装のワンピースの中で小用を足すのである。前回のバス旅行で体験したせいで、すぐその行動を理解することが出来た。
実は、ムスリムではないわたしにとっては大切なピーピータイムと思っていたが、ムスリムにとっては一日5回の祈りのタイムでもあるのだ。だから礼拝用ペットボトルと絨毯をもって降車する。礼拝する前に手を洗い、口をすすぎ、メッカに向かって礼拝するのである。
ペットボトルの水で、身体に付着した汚物を水で洗い流す行為を「イスティンジャ」というらしい。
朝6時にもバスが止った。神聖な朝の礼拝の時間なのである。

すべての男性乗客はムスリムの民族衣装である真っ白なワンピースを着ているので見分けをつけるのがむつかしい時がある。その中でただ一人モンゴル系の顔に黒いジャケットを着ているのだから目立つてしょうがない。地球という狭い星の中にいろいろな人種や習慣、言語や文化があるのだから実に面白い。

 

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           バロチスタン砂漠の中をイラン国境に向かう

 

 

<バスによるイラン国境の越え方>

◇Quetta/クエッタ・バス・スタンド<ナヤ・ヤンダー>(クエッタ市街南西部)より16:00出発
 ⇓  バス 16時間 ヤクマッチ集落より始まる<ノーク・クンディ砂漠>横断
◇Taftan/タフタン(パキスタン国境の街) 翌日08:00頃到着
 ⇓   徒歩 約15分 (1km)
◇国境=======================
 ⇓   徒歩 約15分 (1km)
◇税関<Mirjave Customs> (タクシー乗場表示あり)
 ⇓   10km (タクシー5,000~10,000Ris.)
◇Mirjave(イラン国境の街)
 ⇓   84㎞(バス 2,700Ris.)
◇Zahedan/ザーヘダーン  15:00到着

 

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                <イラン国境の越え方>メモ

 

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             パキスタン(手前)/イラン(後方)国境付近のスケッチ

 

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                    国境に向かう砂漠道

 

 

ここにシルクロードパキスタンをあとにして、次なる中東の大国イランに入る。
イランもまた、イスラム教国であり、それもイスラム原理主義国家である。
宗教指導者によるアメリカへの敵対政策がとられ、両国の関係次第では日本の中東依存の石油輸入がストップすることさえありうる。

いよいよシルクロードペルシャに入る。いままさにパキスタンとイランの国境をまたぐ瞬間である。
シルクロード最終地イタリア・ローマはまだまだ先である。
 

           

            『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑥
     <ザーへダーン/パキスタン・イラン国境 ⇒ タブリーズ/イラン・トルコ国境>

                 につづく

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⓸<タシュクルガン/塔什庫爾干⇒ペシャワール/パキスタン>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⓸後編 
       星の巡礼者 後藤實久

<タシュクルガン/塔什庫爾干 ⇒ ペシャワール/パキスタン

 

大阪を出て、中国シルクロードを26日間かけて横断、中国とパキスタン国境の街・タシュクルガンに無事到着した。憧れていたタクラマカン砂漠の街々を訪ね歩き、悠久の時の流れに埋没することが出来た。

 

<2020年現在のシルクロードパキスタンの現状と展望>
2020年、ここシルクロードパキスタンルートの重要性は昔も現在も変わりはない。
中国の中共政権が提唱している「一帯一路」構想もまたここパキスタンルートをインフラの最重要拠点として道路整備や、海路の港湾施設に力を入れていることからもわかる。
中国とヨーロッパ最終地であるイギリスとの物流パイプルートとして欠かせないものであり。パキスタンはそのルートの中に組み込まれているからである。


この渓谷の危険なカラコルム・ハイウエイが、現代シルクロード「一帯一路」の主役、それもメインルートとして再レビューしようとしているのである。驚きと共に、中共中国の覇権への進出路の一つになりつつある。
シルクロードパキスタンルートは、物流の大動脈ととともに、現在の施政権のもと統治している広大な西域のウイグル自治区チベット自治区を取り囲む戦略上・安全保障上の万里の長城としての役割も備えているようである。


中共中国にとっては、地政学上絶対に攻略しておかなければならないルートと言える。
黄海に面する天津から北京、西安敦煌トルファンカシュガルを経て、アラビア海の重要港カラチに抜け、石油埋蔵量の豊富なペルシャ湾、さらに海運物流の最重要拠点スエズ運河にでて、すでに手に入れたギリシャピレウス港で荷揚げして陸路で最終地イギリスに向かう陸上ルートと、スエズ運河より大量物流を運べる地中海、大西洋海上ルートという2つのルートを結合することが出来るのである。
大量物流輸送には、海上陸上共に貯蔵拠点が必要になり、将来の兵站としての軍事拠点となりうる場所にロジスティックとしての戦略上の施設が置かれるている。


「債務の罠」といわれるジプチーのドレラ港やスリランカ―のハンバントタ港、ケニアのモンバサ港、ギリシャピレウス港のほかに、すでに天津からの北極航路の拠点として、北海道の港もまた投資先として「一帯一路」の構想に組み込まれているとささやかれている。
中共中国の壮大な全世界的ロジスティックともいえる「一帯一路」の構想が、実に巧妙に大胆に練られていることに注目すべきである。もちろん、南シナ海東シナ海はもとより太平洋への出入り口である尖閣諸島近辺はなにより最重要軍事拠点として押さえておくべきと考えサンゴ礁を軍事要塞化しているのは周知の事実である。尖閣諸島は自国領とみなし毎日欠かすことのない監視艇や軍艦による巡視巡回のルーティンや尖閣の天気予報発表、地図への自国領「魚釣群島」の記載徹底を義務付けている。


中共中国のかかる「一帯一路」構想は、中国14億人の生存権を守るための戦略戦術としてとらえ、断固たる計画実行に徹している。

 

 

f:id:shiganosato-goto:20200429092906j:plain                一帯一路イメージ図 (中国中央TV放映の一帯一路ルートイメージ図をNNAが作成)

 

しかし、「一帯一路」の構想遂行にあたって、世界の工場としての中国の位置づけが揺らぎつつあることも事実である、外貨獲得の目途に一抹の不安定要素が生じ始めている。全世界が米国を押さえて覇権を握り、中共中国が一強になることに懸念を持ち始めたからである。全体主義独裁国家による覇権に対して遅まきながら警戒心を持ち始めたのである。

思うに、一国がこれほどの外貨を稼ぎだしたのは歴史上類を見ないといっていい。この有り余った外貨を全世界支配という覇権に投資投下した国を歴史上これまた見たことがないといっていい。それも遠大な戦略戦術の基本構想のもと、着実に遂行している中共中国を侮ることはできない。心して自由世界を守る気概が求められる時代を迎えたといっていい。

現在の中共中国の権力体制は、権力闘争の中での脆弱さを腐敗闘争や一帯一路構想遂行、
債務破産国の取り込みといった戦略で乗り切ろうとしているようである。しかし、一見、資本帝国主義の拡張主義にも見える共産独裁社会資本主義の覇権は、自由公正に慣れ親しんだ資本民主主義諸国や国民にとっては悪夢の到来と見えているはずである。

中国武漢コロナウイルスの全世界蔓延を機に、多くの国・企業が中国からの撤退をさらに加速し始めていると伝えられている。経済成長率の低下や、GDPの後退は、世界の工場としての地位低下を招き、覇権のための戦略戦術を遅延させ、または頓挫するであろうことも視野に入ってきた。

コロナウイルスは、中共中国存続のターニングポイント(転換期)であるといってもいい。

2020年4月22日現在、コロナウイルスの蔓延が留まることなく、全世界で感染者2,525,000人、死亡者174,000人を超えようとしている。ちなみに日本は、感染者11,000人、死亡者186名で治まっているが、もう一波覚悟する必要がありそうである。<医療従事者ありがとう! 自宅待機実践! 日本がんばれ! 日本がんばろう!>とみんなで叫ぼう !!

 

 

《 8月25日 国境の街タシュクルガンを出発、国境クンジェラブ峠を越えて

      パキスタンへ入る 》

 

タシュクルガン<交通賓館>、朝5時30分起床、まだ夜が明けない。
カラコルム山脈に抱かれたここパミール高地にあって、宇宙のなかでも最も静かな地球の片田舎で朝を迎えているのだ。
吐く息は宇宙に溶け込み、想いをふくらませる。吸う息は、宇宙を体に取り込み、おのれを消し去る。
ただここには己を殺し、無の世界・ゼロの世界が広がっているのだ。


なんと素敵な新たなる朝だろうか。


我魂は空を切り、パミールの風に乗り、自由自在に宇宙を飛翔しているではないか。
ここパミール高地は、意識を集中するだけで宇宙に溶け込むことが出来るパワースポットである。

 

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         パキスタンへの国境の街・タシュクルガンのバスターミナル 

 

09:00、外国人旅行客8人(残りの乗客はパキスタン系ビジネスマンや商人22名)を乗せて、タシュクルガンでの出入国手続きを終え、国際バスはパキスタンに向かって出発した。
手荷物や託送品、自転車等はバスの屋根に乗せることになるので、貴重品やカメラ、携帯等精密機器は必ず手元に留めおくことである。

 

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    国際バスは、タシュクルガンで出入国手続きを終えいよいよパキスタンに向かう

 

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         タシュクルガンでの関税手続きを待つパキスタン行きトラック群

 

いまパキスタンへの国境の街・タシュクルガンを出発し、カラコルムの山稜に囲まれたパミール高原にあるクンジェラブ峠(標高4733m)を越え、パキスタンに越境しつつある。
峰々には白銀の雪が光り輝き、ここクンジェラブ峠は雪解け水で豊かな川面がまぶしい。
カシュガルよりパキスタン側国際バス終点・スストに向かう乗客の荷物の重さにあえぎながら、オンボロバスは舗装の山岳路<カラコルム・ハイウェイ>を揺れに揺れて峠を越えている。

カラコルム山脈越えの国際バスの中では、パキスタンの青年たちに囲まれ、政治・文化・国民性・宗教などについて情熱的なディベート(討論)が続く。タブーなパミールカシミールの分離独立、隣接国の領有権主張の話題もここでは自由になされる。パキスタンバングラディッシュの分離独立のいきさつや、日本に期待することなど尽きることがない。
青年たちの国を想う気持ちや、イスラムの世界との協調に対する複雑な気持ちも素直に語ってくれた。

 

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     万年雪をいただくカラコルム山脈背景に カラクリ湖(標高3600m)で休憩 

 

雪解け水の溢れた川に車輪をとられたオンボロバスは頓挫して動く気配がない。
車外に出て風の音に耳を澄ませてみた。
峠にこだまする冷たい風が吹き去る音や、太陽がさんさんと光を落すさまは、霊峰の神々が見守るパミールの風景である。

 

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           雪解け水の溢れた川に車輪をとられオンボロバスは頓挫

 

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        クンジェラブ峠付近(標高4500m)で出会ったタジク族の山岳の民

 

14:00クンジェラブ峠(標高4733m)の国境を越えるとパキスタンである。
また眼前に広がるカラコルム山脈の南東の150㎞ほど先に世界第二の高峰<K2>標高8611mがそびえる。

 

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       クンジェラブ峠(標高4733m)の国境 中国側からパキスタンに越境中

 

多くの乗客はパキスタン人で、乗りなれた路線なのであろうか緊張している外国人旅行者に比べるとリラックスしている様子が伝わってくる。ハミウリを食べ、種を窓からポイ捨て、笑い声での近況報告と賑やかである。
それに比べて、外国人旅行客は緊張をとこうとしない。ここパミールカラコルムで隣接する国同士の国境に関するパミール紛争の中にあるという不安定要素があることを意識しているからである。
しかし人の好いパキスタン人乗客は、外国人にハミウリや果物を差し入れ、友好ムードを盛り上げ、緊張感を忘れさせてくれるのである。

 

<フランス人とパキスタン人との習慣の違い>
カラコルム山脈越えの国際バスでの席を決めるのに、少し傲慢で戦闘的なフランス人青年は、女性が優先して席をとるべきだと主張、一方パキスタン人乗客は荷物が大きいので女性よりも荷物を優先すべきだという。
このままだと、ののしりあいに発展し、せっかくの天空のバス旅行も台無しになってしまうので見かねて仲裁に入った。白人青年は<I don’t care, he is a bad Pakisutani !>と、若さというのは情熱的ですばらしい。
もちろん青年は大荷物の乗客に席を譲ってくれて落着した。

峠に向かって高度はどんどん上がっていく。税関のあったタシュクルガンの標高がほぼ1100mであったから、峠4733mまでの4時間の間に標高差3600mを上りきるのである。外国人旅行客の中には、めまい、頭痛、吐き気など高山病の症状に苦しむものも出てきた。


ただ途中の1時間ほどの川への脱輪によるハプニングは、わたしにとって高山病に順応する訓練時間になったようである。しかし、標高3000mあたりから少し息が苦しくなってきた。

パミール域内に入ると、紛争地帯として当然だが、公安当局のパスポート検査が厳しくなってきて、緊張感が走る。わたしが車窓から国境の表示の石柱の写真を撮っていたら、近くの席の婦人が指をXにしてーNO PHOTO-のサインを送ってきた。 車外では、国境警備隊員の厳しい掛け声が飛び交う。

銀嶺の山並みは、カラコルム山脈である。世界で2番目に高いK2(標高8611m)が連なる。
白銀は何時の時代も人々を魅了してやまない。あの美しい雪が解けて流れる川は白濁であり、神々しい。
沈黙と悟りの山の厳しい姿をカラコルム山脈にみてとれる。
わたしはいままさにカラコルムの峰々に抱かれていることを実感した。

 

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        <THE KARAKORAM HIGHWAY>カラコルム・ハイウエー付近地図とメモ
                   パキスタンシルクロード

 

ここクンジェラブ峠を通る一本の道が中国カシュガルよりパキスタン・スストへ延びる<THE KARAKORAM HIGHWAY>である。ここカラコルム・ハイウエーは、シルクロードの生命線であり、もっとも危険に満ちた断崖絶壁につくられた山岳道路である。
フンザへの途中、カラコルム・ハイウエーの一部が崖下に崩落し、ブルドーザーが出動、大規模な道の付け替え緊急工事が行われた。その間、われわれはただただ開通を待つしかなく、渓谷ハイウエーの危険性
を目の当たりにしたのである。

 

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             カラコルム・ハイウエーの崩落現場

 

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        カラコルム・ハイウェーの一部が崩落し、復旧を待つ人たち

 

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               垂直の岸壁に張り付いているカラコルム・ハイウエー


5:00pm パキスタン入国管理局に到着し、35中国元を支払いパスポートの入国スタンプを受ける。ちなみにパキスタン人は20Rs.(約0.3$)、外国人は250Rs.(約4.3$)<当時のレート:1US$=58R/ルピー>
であった。

パミール高原にある国境から何時間かかったのであろうか。
フンザ渓谷を流れるフンザ川を見下ろしながら迫りくる夕陽の中カラコルムハイウエイは標高を少しずつ下げていくと、午後7時頃国際バスの終点であるスストに到着した。
入管でのいたって簡単な入国手続き済ませ、カリマバード・フンザへ行く中国カシュガルからの外人組5人の青年男女に加わり、オンボロミニバスに収まる。スストからカリマバード・フンザまで一人100Rs.(ルピス)である。
ここスストは時差の関係か、まだ明るさの中にあった。

 

f:id:shiganosato-goto:20200428174825j:plain 国際バス終点スストで各行先別にミニバスに乗り換える

 

オンボロミニバスは、闇の中に心細い灯火がまばらにかがやく小さな村に停まった。
この峰々に囲まれた暗闇に沈む村が、今晩から世話になるカリマバードにあるフンザ村である。
近くを流れるフンザ川のさざれ音が谷間にこだまして心地よい。
バスの周りには、ゲストハウスの客引きが集まっている。フンザに逗留するカシュガルからの外人組と何人かの乗客が、それぞれにゲストハウスを決め引き取られていった。


<▲8月25日夜  カリマバード『 OLD HUNZA INN 』に投宿 >

21時過ぎに到着したので、谷間にある暗くなった村の情景はよく分からないが、山間に映える月がこの世のものとは思えない哀愁を帯び、冷たさの中にもほんのりとした温もりを投げかけてくれていた。

ゲストハウス<オルド フンザ イン>での遅めの夕食はバイキングで、ほうれん草の炒め物・トマトの酢の物・マッシュポテト・コーンスープ・米飯・コーヒーをいただく。すべてが家庭的で落ち着く宿である。
2人部屋では、これから中国カシュガルに向かう大阪枚方からの大学生T君と同室。隣室には岐阜からの世界一周中で同じく中国カシュガルに向かう若い夫婦が泊っていた。
この時は分からなかったが、ここフンザ宮崎駿監督の<ナウシカの谷>の撮影現場として有名であるらしく、日本の旅行客が沢山訪れるパワースポットであるという。

正式にはフンザ郡カリマバード村というが、ここではよく知られた<フンザ村>と呼んでいるのでお許し願いたい。

 

フンザ  8月26日 カリマバード・カラコルムパミールパキスタン

 

朝目覚めて、石やレンガを積み上げ泥を塗りつけた4畳半ほどのコテージにある窓から外を眺めて、横たわるカラプシ山が一枚の額縁(窓枠)に収まっているのに驚嘆した。山の神に出会ったような神々しさに体が震え、こころ打たれた。
服を着替えるのも忘れ飛び出してスケッチにとりかかった。

「消えたスケッチブック―シルクロード中国」後の第一作目である。
横長の和紙を使った中国編スケッチ紙に変わって、カシュガルで手に入れた薄手の模造紙にスケッチする。紙質の違いによって色使いも色質も変わってくるから、その変化に驚くと同時に、予期しなかった色彩の豊富さに喜んだものである。
おなじ紙でもその性質によって、その特質を最大に引き出してやると、思いがけない特徴というか、才能を引き出してやることが出来るものである。
この紙の持つ特徴を生かしたスケッチが出来上がることに期待した。
最終地ローマまでは長い、素晴らしい相棒が出来たことを喜んだ。

 

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            カラプシ山 (7788m) と 「OLD HUNZA INN」全景
     フンザ(カリマバード・パミール)は、切り立つカラプシ山を背後にした山岳村落である
                 Sketched by Sanehisa Goto

 

スケッチの右手のコテージの上階が宿泊部屋である。
まるでマチュピチュの天空の都市に滞在しているような雰囲気・錯覚に落ちいった。
それだけ天空に近いのである。
ここ「OLD HUNZA INN」は、標高2400mにあり、夜は急激に冷え込み、朝からは太陽の温かさに衣服を一枚づつ脱いでいくことになる。

 

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            雪をかぶったカラプシ山 (7788m)と  ―フンザでー

 

フンザ村に泊まる日本からの旅行客が多いのであろうか、村民や子供達も日本人に好意を寄せ、とても親切である。このパキスタンの北方、カラコルムのいまだ国境が定まらない紛争エリアに日本人の若者が集まる桃源郷があったのである。驚きである。
World Wide MANGA(漫画)はすでに全世界で認知されている。なかでもJapanese MANGAは世界中の若者たちの人生観・世界観に取り入れられているのである。
MANGAはすでに友好・反戦・LOVEPEACE・友情・自由平等といった世界平和の価値基準の物差しの一つに認知されているようである。
MANGAは確実に人類平和に、また明るい未来に貢献しているといっていい。
そこには壁も、差別も、強制も、無視も、悲観も・独裁もない公平公正な自由なる世界を求める人々の叫びと、魂があるからである。

 

<ああわれいま フンザ渓谷におりて>
     詩 後藤實久

 

ああわれいま パキスタンの北方
フンザのカリマバードにおりて
<オールド フンザ イン>に坐す

神の誘いたるこのひとときに
一番鶏(とり)の声渓谷に響き
静寂(しじま)心に忍びよりぬ

魂の浄化なるを覚えし そのとき
命ある蝶 羽ばたきしかすかな音
渓谷を揺らしパミールの風と化す

残りし月 まさに天空に消えんとし
わが魂目覚めてや 我を見つめし
ああわれいま まさに宇宙に溶解す

(2004/8/26 04:45 Hunza Valley)

 

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         <スケッチと詩>  パミールの山々の夜天に輝く星座たちと上限の青い月
             -2004/8/26 05:20am カリマバード フンザ パキスタン
                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 <われいまパミールの風となりて>
      詩 後藤實久

ああわれいま宇宙の中心におりて
神の声響きしフンザ渓谷に
わが魂を震わせ共鳴せんとす

高鳴りゆく心の鼓動 霊峰に響き
神々の山に擁かれて無になりしは
パミールの風となりて悠久に宿る

ああわれいま 悠久の風になりて
パミールの峰々に舞いて充足す
ああわれいま夢みし我を見下ろす

(2004/8/26 06:15 Hunza Valley)

 


<Becoming the wind of Pamir>
    Poem by Sanehisa Goto


Ah, now I ‘m in the center of the universe
In the Hunza valley, the voice of God
Shake my soul and resonate

The high-pitched heartbeat echoes in the sacred peak
Held in the mountains of the gods
Become the wind of Pamir and stay forever

Ah, now I'm in the wind of eternity
Satisfy by dancing to the peaks of Pamir
Ah, now dreaming down on me

 


<オールド フンザ イン>の朝食は、06:30メインロッジで始まる。今朝のメニューはハム&エッグ・チャパティ・ミルクティーである。アウトドア―での朝食は、白銀に照り返る紅色<モルゲンロート>の太陽が美しくもあり、眩しくもある。赤く染まりゆく峰々に取り囲まれているだけで幸福感が高まるこの贅沢は、決して日本の山では味わえない心地よさである。

このあと、ウルタル氷河トレッキングへ向かう途中の村の激しく上りゆく石段でスケッチをしていると、村の子供たちと友達になり十八番(おはこ)のスカウト・ソングとインディアン踊りを教えることとなった。
世界の僻地どこへ行っても子供たちは天真爛漫、天使であり、親友である。
ここパミールの高地で声高らかに「ヤヤヨーヨーユピユピヤー」を歌い、「ワンリトル ツーリトル スリーリトル  インディアン」を踊りながら子供たちと山の神に向かって祈り、村を練り歩くのである。
大人たちもぎこちない手のふり、腰ふりで飛び込んで踊りだした。まるでお祭りのようだ。
最後に、みんなで坂本九ちゃんの<SUKIYAKI SONG>を大合唱・・・


子供達の天使の声が、パミールの風に乗って峰々を駆け巡ってゆく。


こころ豊かで、幸せいっぱいの笑い声がパミールの山に木霊(こだま)して、フンザの谷に満ちて跳ね返ってきた。踊り歌い終わって、子供たちに素敵な時間をもてたお礼にと、親善を兼ねて日本から持参した消しゴム付き鉛筆をプレゼントさせてもらった。


小さな思いがけない贈物に子供たちはまたまた天使の笑顔を返してくれた。

 

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               フンザの星の王子様や王女さまとピース


<ウルタル氷河での出会い>
ウルタル氷河は高度3000mを超えており、高山病の走りである軽い頭痛と動悸に加えて、息苦しさも覚えだしたので大事をとって途中まで引き返して、先ほどの村でスケッチを仕上げていた。
ここへ星の王子様ともいうべき中学2年生のサジアット・アリ君が学校帰りに声かけてくれた。サジ君は初老の爺さんがスケッチしているのに興味をもったのであろうか、なかなか離れようとしないのである。
声を交わすうちに、こちらが高山病になってアルタル氷河のトレッキングを断念して下山してきたことを話すと、自分がガイドを引き受けるから是非再挑戦してはとすすめる。
高山病は、症状が出てきたら標高を下げることで回復するものである。
登山経験の長いわたしは、アンデスの山やクスコ、キリマンジャロケニア山、スイスアルプス、チベット・ラサほか標高4000m以上の高所で高山病を経験していたので、今回も高度を下げすでに回復していた。
高山病は経験度数によって、軽度で治まるといわれている。

サジ君は、まず家に帰って両親にわたしを紹介し、氷河トレックをガイドすることを告げ、了解をとってくれた。わたしのリュックを担ぎ、わたしの症状をいたわりながらアルタル氷河をトレックして無事下山するまでケアーしてくれたのである。


出会いとは不思議なものである、友情と信頼が生まれればそこに同志的な絆が生まれるから世の中は面白い。

 

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             フンザ渓谷を背景に若きガイド・サジ君と

 

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          ウルタル氷河への途次、ウルタル山(標高7358m)が顔を見せる

 

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           ウルタル山スケッチ2点 と 山麓に棲む小鳥<ASSEPA>

 

フンザ 8月27日 晴れ》


フンザ愛好懇親会>
昨夜は、わがキャビンに日本からの滞在者が集まり、葡萄酒で仮称<フンザ愛好懇親会>が開かれ、若き青年たちの人生観を拝聴させてもらった。
A氏は大型キャンピングカーで約3か月<新潟⇒ウラジヲストック⇒イルクーツク⇒モンゴル・ウランバードル⇒中国⇒パキスタン⇒イラン⇒ギリシャ⇒ヨーロッパ>を走破しているとのこと。
B君は、京都北山在住、就職1年後に離職し、世界一周旅行中であり、C君とD君は就職先決定後の卒業旅行としてここフンザに長期滞在しているという。

酔いから、人生の先輩として失敗からの戒めを多分語ったのであろうか・・・記憶がうすい。
人生のほとんどを目覚めることなく何となく生きたことへの反省や、
物事にあたる時、意識を集中せず認識が甘かったことへの反省とか、
物事に愛情をもって接したきたのだろうか、
信じるものをもって自分の信念を貫いただろうか・・・と反省しきりであったと思われる。

旅は不思議なものである。非日常としての心底にわだかまっていた人生への難題・苦悩を、くりかえし反芻することが出来るのである。

さあ、旅をつづけて本当の自分をながめ、ありのままの自分を探してみようと・・・

求めている宝は、自分の中に隠されていることに気づくであろうと・・・


青春の特権は、悩むことである。
人生の終わるまで青春である。
青春を忘れたときに老化が始まると・・・

 

と・・・フンザの夜が更けゆくなか、青年たちと語り明かした。

 

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         ウルタル山(標高7388m)  ゲストハウス<OLD HUNZA INN>より
                  Sketched by Sanehisa Goto


<中国カシュガルからの外人組の解散>
中国カシュガルから一緒だった国際バス外人組5人(フランス・スエーデン・イングランド2・日)はここフンザから別々のスケジュールをとることになり、それぞれのスケジュールに従うことになった。
中でもパキスタン系英国人スハン君(ロンドン大学の医学部で研修医として勤務)との別れは、価値観を共有し、人間愛を感じる仲間だっただけに、中国トルファンで知り合ったフランス人教師アロン氏と共に、このシルクロードの旅で忘れえないこころの友となった。


フンザの朝>
今朝もここフンザ渓谷にイスラムコーランがスピーカーから流れ、川の流れる音に混じってこだましている。
静かだがどこか温かみのある土の匂いに包まれて、時の流れに横たわり、ゆっくりと流されている気分である。目を閉じるとスーッと土の中に引き込まれていく・・・
ここフンザは、世界の平和がパミールという器の中にきゅっとパックされたような山村である。
ネパールで過ごしたアンナプルナやカンチェンジュガの山村を懐かしく思い出していた。

世界の至る所で、かかる愛に満ちた小さな山村に出会えるわたしは幸せである。

 

<自由を愛するカップル>
ここフンザで、群馬出身のTさん達と出会って、魂の響きを感じた。
パートナーと二人旅、彼らの長期滞在しているゲストハウスのサンデッキで、フンザ渓谷を見下ろしながら原始チャパティを馳走になる。何とも言えない煙の臭いが残る質素な味がいい。


ボーイスカウトのキャンプで手作りしたあのツイスト、棒に練ったメリケン粉を巻き付けて焚火に立てかけて作るインディアン・パンの煙のしみ込んだ塩味を思い出していた。懐かしい味にここフンザで出会ってスカウト時代を思い出したのである。


パートナーとは、いつからか二人で旅を続けるようになっていたという。
タイで中古自転車を購入し、カンボジアベトナムラオスを通って中国を横断し、カシュガルからパキスタンに入ったとのこと。11回もパンクしたと明るく笑い飛ばしていた。

自由気ままに旅する、彼らにとってあるがままの人生なのであろう・・・

 

<蝿のパラダイス>
蝿も棲まなかったタクラマカン砂漠からやってきて、パキスタンの<蝿/ハエのパラダイス>に驚かされる。
なんと天真爛漫、自由な蝿天国だろうか。蝿と共存する人間たちの辛抱強さ。食べ物や飲み物に群がる蝿、口にも鼻にもべとべとと群がる蝿たちに、はじめは苦戦したが、不思議なもので1日もたてばなれるものである。
蝿といえば、南米のブラジルの首都・ブラジリアで出会った光景が鮮明にやどった。シュラスコ(ブラジルのBBQ)をするので精肉店に肉を買いに出かけたときに目撃した光景である。それは肉にたかった蝿で真っ黒な塊、最初それが肉だとは思ってもいなかったが、店主が蝿を手で払うと肉が現れたからびっくり仰天したものだった。吊るされた肉の塊全部が真っ黒だから異様であった。

 

パミール高原での休養>
7500m級の峰々を、ゲストハウスの寝室から観賞しながら三日間の休養をとり、心身共に気力充実。これから始まるパキスタン縦断の体力を養うことが出来た。
明日、8月28日カラコルムハイウエーの次の村・ギルギットに向かう予定である。
パッキングを終え、ゆっくりと体を休めることにした。

 

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          ラカプシ山(標高7788m)   ゲストハウス<OLD HUNZA INN>より 

                    Sketched by Sanehisa Goto

 


《 8月28日 フンザ ⇒ ギルギット バス移動 》

 

10時30分頃、バスでギルギットに到着し、宮崎駿監督の「風のナウシカ」の風景の中にたたずむゲストハウス
< NEW TOURIST INN >に投宿した。
バラ園のなかのBBQテーブルで親子丼と生暖かいコカ・コーラをいただいた。甘すぎる親子丼に、砂糖味を押さえるため少し多めの塩をくわえてみた。これで日本人の口あうことをオーナーに伝える。
しかし大阪港からの蘇州号で食べた日本食以来の久しぶりの親子丼、美味しくいただいた。
この親子丼からしても、やはりパワースポットとしての「風のナウシカ」に詣でる日本人青年男女が多いことがうかがい知れる。

 

<冒険野郎4人組と満月観賞>
日本からのキャンピングカー(大型トラック改造車)の4人組も遅れて合流し、ナンガパルパット山(標高8126m)の上に輝く満月を観賞しながらシルクロードでの体験談や国境越えのエピソードに花を咲かせた。

 

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      キルギットの南にそびえるナンガパルバット山(標高8126m)の白銀が満月に輝く
      Sketched by Sanehisa Goto カラコルムハイウエー/ラキオット橋ふきんより)

 

トラック(改造キャンピングカー)野郎の4人組は、トラックを改造したオーナー(52歳)とその友人が、インターネットで<ユーラシア大陸横断後、アフリカ大陸西海岸を縦断して南アフリカケープタウン・ゴール>の隊員を2名募集して編成されたチームだという。

それも2年がかりだそうだ。なんと気宇壮大な冒険野郎たちであろうか。野生の匂い、いや強烈な汗の匂いを発散させる4人組である。

旅をしていると、その旅人にあった旅スタイルに出会い、その都度くすぐられ刺激を受けるものである。


旅は、その人の人生、そう生き方そのものなのである。 愉快である。


キルギットは、ナンガパルバット山(標高8126m)登山のベースキャンプの村として賑わっているが、観光のための滞在としてはいささか退屈する。もちろん長期滞在し、山の景色を楽しむのもよい。
スケッチをしながら白銀の峰々を楽しんだので明日8月29日、キルギットを離れ、大都会ラーワルピンディに向け出発することにした。

近くの青空市場にお土産を探しに行ったあと、日本人観光客が多く訪れるパワースポット<風のナウシカ>といわれるキルギット渓谷を散策し、スケッチを描き上げた。

 

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         お土産屋がならぶキルギット・フンザの<MADMA MARKET>
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

< 風のナウシカに遊ぶ - 風の谷フンザ
宮崎駿監督作品<風のナウシカ>撮影現場は、フンザ・キルギット村のキルギット渓谷にある。キルギット川はフンザ川の支流であり、フンザ渓谷の峻険な断崖と違って、平和で幻想的な渓谷である。
わたしも風のナウシカになってパミールの天空を飛翔し、そそり立つ多くの霊峰の白銀に照り付ける太陽の温みを全身に浴びてみた。

 

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       『風のナウシカ風景』 ギルギット川よりラカポシ山(標高7788m)を望む
                   Sketched by Sanehisa Goto


《 8月29日 キルギット ⇒ ラーワルピンディ   バス移動 》

 

朝8時のバスは、フンザ川にかかるラオキット橋付近で休憩し、外国人観光客のために真正面にそびえる8000m峰ナンガパルバット山(世界9位/標高8126m)を見せてくれた。ここラオキット橋はナンガルバットの登山口でもある。

 

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      フンザ川ラオキット橋からのナンガルバット山(世界9位/標高8126m)スケッチ2点

 

<再度のカラコルムハイウエーでの崩落事故>
ブナール村を過ぎチラス村の手前で滑落があり、全車両が3時間にわたって通行不能状態になる。この時間を利用し断崖より流れ落ちてくる温水(ダクパニ/硫黄泉水/約48℃)で汗をぬぐうことにした。
外国人の海パン姿にパキスタン人は目を白黒させ、呆れている。
こちらは、思いがけない温泉にパキスタンで出会い感激である。

カラコルム・ハイウエーに沿って流れるフンザ川は氷河が溶けて白濁色している。この川に魚は住めるのであろうか。それが棲んでいたのである。バスに川魚を売る12歳の行商人BARHAT SHAH君がいて、今朝川で獲ったという網籠に入っている川魚を見せてくれた。
スケッチさせてもらっている間に、魚について詳しく説明してくれるのだがイスラミックなのでわからない。ここも筆談で理解を深めた。そのときの筆談スケッチがある。
それによると魚のことを<FISH=KOHISTAN>といい、フンザ川で獲った<MACHILI>という鱒の一種であるという。 

 

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             フンザ川で獲れた<MACHILI>という鱒の一種

 

ブルドーザーによる約3時間の修復後、バス1台分の崖棚の仮設の細道を片手運転で上下交互に通過し始めた。窓から見るに、崖側の谷底には、急流のフンザ川が流れ、吸い込まれていきそうである。


現地の人々は慣れたものである。修復なるまで文句も言わず、イスラムの普段着ガラベイヤ(ワンピース型)
をたくし上げ、しゃがんで(男子しっこスタイル)飽きることなく工事を見つめている。


カラコルムハイウエーでの2度目の崩落経験で、おおよその修理回復の時間が分かっているので、温泉シャワーを浴びたり、フンザ川の魚をスケッチしたりと、かえってハプニングを楽しんだものである。
それもここはパキスタンの危険地帯と聞いていたノーザンエリアである。かえって人手がはいらず厳しい天然の自然が眼前に広がる素晴らしいフンザ渓谷に魅了され、時間のたつのさえ忘れた。

 

《 8月30日  ラーワルピンディー 到着 》

 

<満月のカラコルムハイウエー 17時間アドベンチャーラリー>
29日朝8時30分キルギットを出発したラーワルピンディー行長距離バスは、30日深夜2時30分終着のバスターミナル・ラーワルビンディーに到着した。
実に17時間にわたる<冒険カラコルムハイウエーラリー>が終わった。助手の助けもなく一人の運転での長距離ドライブである。それも断崖絶壁のハイウエーを、である。


このNADLの公共バスの運賃はエアコンなしで320Rs.(¥640) エアコン付きで600Rs.(¥1200)なのだ。世界で最も乗りごたえのあるスリルに満ちたバス路線の一つといえる。
更なるスリルを求めるとしたら、インド東北部コヒマからインパールを経てビルマ国境への山岳道路であろうか。険しい渓谷に、懐かしい思い出が頭をかすめた。


<2004年当時為替レート : 1US$=58Rs. / 1Rs.≒¥2 >
終点のラーワルビンディーに到着した時は、足腰ががたがたで、頭はくらくら、何ともハードなオーバーナイトバスライディングであった。

 

<▲AL AZAD HOTELに投宿 - ラーワルビンディー>
夜中2時半、オートリ―クシャの紹介でハチ・チョークにある<AL AZAD HOTEL>にチェックイン、
シングルルーム#301、バストイレ付、100Rs.(¥200)、天井扇あり、賑やかな街中にある。

朝寝ていたら、開かれた窓からの排気ガスで息苦しくなり目が覚めた。黒い煙を吐いて沢山の車が走り回っている。この状況を打開するため1957年新首都をイスラマバードに建設し、遷都した程である。
しかし排ガスの主役はSUZUKI・HONDA・NISSANTOYOTAのマークをつけた日本の中古車達であるからため息が出る。中古車輸出にも排ガス規制を施して、相手国のことを考えて輸出すべきでないだろうか。

それこそ温暖化対策に責任を持った国であるといえるのではないだろうか。

ラーワルビンディーの北に隣接する首都イスラマバードを歩いてみた。
この日の(8月末)の気候は、うだるように暑く、湿度が高く、快晴が続き、最高気温42℃に達していた。

うだるような暑さに、大好きなソフトクリームが10Rs./¥20で食べられるからうれしい。中国ではミネラルウオーターより安いビールを沢山飲んだので下腹が出て困ったが、ここパキスタンではソフトクリームで腹が出てくるのではないかと心配である。

イスラマバードは、銃を持った警備員が立つ豪邸がめだつ近代都市である。銃を持った警備員がいる家といえばイスラエルエルサレムを思い出す。イスラエルの場合は、パレスチナとの紛争が絶えず、その理由が分かるが、ここイスラマバードは治安が悪いからなのだろうか。
隣国のアフガニスタンは反政府組織タリバンとの間に紛争が続いているため、多くのタリバンが国境を行き来する無法地帯が存在している。
ここイスラマバードから西に向かい国境のハイバル峠を越えるとそこは戦闘地域・アフガニスタンである。

あのパミールの静寂、人と自然の一体感はどこへ行ってしまったのであろうか。
一晩で異次元の世界に迷い込んだように、ここはイスラムの生存パワーが渦巻く欲望の都市である。


おのれの欲を達成するために、大切な心を汚してしまっているように見えてならない。

 

これは人類不変の欲望の姿であることには変わりはないが、せっかく美しい星に生を受けながらなぜ己を汚してしまうのだろうか。


生きるとはかくも厳しく汚いのであろう。


今日も又、騒音と、スモッグと、汚物を垂れ流し、人々は先へ先へと急いでいる。
激しい雨が降りだすと同時に、人々が同じように一斉に走り出した。見事である。


なぜ人間は同じ価値観、同じ行動規範に縛られようとするのだろうか。
雨に濡れ、雨を楽しみ、雨を謳いあげることは難しいのだろうか。

人間とは、一体何者なのだろうか。

気づきは一瞬の中に存在する。その気づきに気づくために、たえず目を覚ましている必要がある。この雨で人々は何に気づくのだろうか、と一人考え込んだ。

ここパキスタンは、アツラーの教えを信奉するイスラム教を国教とする国である。この国は、英国連邦の一つであったインドのヒンズー教より分離独立し、ムスリムとして神に帰依した人々によって成り立っている。

 

イスラムの戒律>
陽が暮れる午後8時半ごろになると、女性が姿を消し、男性ばかりになり、非イスラムである者には異様に見える。
しかしこの生活習慣にはイスラムの戒律である<神への絶対的な服従>が求められている。
ハラール<許された行為・物>とハラーム<禁じられた行為・物>という規範に従って生活する。
<禁じられた行為・物>としてよく知られているのは、豚肉、アルコールを口にしない。
② 礼拝の規律 : 1日5回約5分の礼拝をすること。礼拝の仕方も細かく決められている。
③ その他の規律 : 異性との接触は望ましくないとの考え方・大浴場を避ける・右手優先使用・
           犬に近づかない・偶像崇拝禁止・ラマダーンで断食する習慣ほか

 

<土に生きるイスラム国―パキスタンの人々>
土に生き、質素に生きるイスラムパキスタンの人々はとても明るく素朴である。国全体が1947年の独立以前の英国の統治時代の建物などを大切に残し使用ているように、行く先々で英国の匂いが残っているのである。まるで独立前のぬくもりを大切にしまい込んでいるように、そう英国の統治時代をなつかしむように、すべての思い出を箒で優しく掃くように慈しんでいるように見える。
パキスタンより再分裂して独立を果たしたバングラディッシュを訪ねた時もまた同じ雰囲気を漂わせていたことを思い出し、懐かしいノスタルジーにひたったものである。
素朴な、純粋なパキスタンイスラムの人々に比べ、イランを含めた西側中東の石油を産する豊かなイスラムの国の人々とは、明らかに生活や表情の豊かさに異いがあるのである。

 

<インダス平原、インダス川流域に花開いたインダス文明
パキスタンという国土の大半は、インダス川の流域にできた国である。インダス川流域は、世界最古の四大文明の一つであるインダス文明を生んだことでよく知られている。
これから訪れるインダス文明の遺跡であるモヘンジョダロハラッパ―もここインダス川扇状地パキスタンの地で生まれた。
しかしイスラムの国パキスタンの人々には遺跡文明の恩恵を受けることなく、懸命に生きるためにその日の生活に追われているように見受けられる。学校教育の貧困も、インダス文明の偉大さを学び現代に生かす工夫を教えることなく、また生かすことなく終わっているように見えて残念な気がする。
先に見た山岳地帯の壮大なスピルチュアル・ロマンと、ここインダス平原に花咲いた古代ロマンという二大観光資源を生かす日が近からんことを祈るものである。

インダス川は、今日も歴史に逆らうことなく滔々と、力強く流れている。

今日も又、パミールの地に発したフンザ川もインダス川となってアラビア海に流れ込んでいるのである。


インダス川の流れは、どこか栄枯盛衰という人類の歴史の流れと似ている。

 


《 8月31日 普通列車でタキシラに向かう 》 
 <ラーワルピンディー07:05発⇒タキシラ07:45着 10Rs.>

 

パキスタン・レイルウエー/Pakistan Railwayに見る英国の現地植民主義>
英国の植民政策は、現地の特徴を生かし、積極的に取り入れるという姿勢であるといえる。
列車を走らせる軌道にしても広軌で、母国英国と同じく車内はゆったりとしている。また、惜しみなく現地の発展のため多くのアイディアと技術と資金を提供し、先進的な技術を残している。不幸な時代ではあったが、日本の植民政策も英国式を導入し、台湾、満州、朝鮮における農業や産業振興に最新の技術と莫大な投資と人材支援を実施した。中でも典型的な殖産に情熱を注いだのは後藤新平による台湾の現地主義であろう。台湾近代化の基礎をつくった日本統治の成功例であるといってもいい。
英国は、すべての統治したエリアの近代化はもちろん、現地人を留学させ人材育成に力を尽くしている。
第二次大戦後、英国より独立した多くの国・地域が英国との良好関係を維持し<英連邦>(現在パキスタンはじめ16か国)を結成しているのである。

 

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         インダス平原を流れるインダス川サッカル橋より下流をもぞむ

 

ガンダーラハラッパー、モヘンジョダローの遺跡を回ってみてはじめて古代文明の中心の一つがパキスタンの地であったことに気づかされる。
しかし、遺跡に残る先進文明と、現在にみる後進性とのギャップに戸惑うことさえあるのはわたしだけだろうか。
パキスタンの人々は人が良く、フレンドリーである。多くの出会った人々の善良さに一抹の不安も残るが、アツラーの教えに帰依する姿に、幸福の原点が見えてくるようである。


世界遺産 モーラ・モラドウ遺跡・ジャンディアール寺院跡 / タキシラ>
 Jandial Temple-world heritage /Taxila


タキシラはガンダーラ最大の都市であり、都市国家が成立していた。またクシャナ王朝時代には<一大仏教センター>として栄え、ギリシャとローマの造形とインドの思想哲学を融合させた仏教美術が発展した。

YH前で客待ちしているリークシャと遺跡巡りの料金交渉、いいから乗れという、やはり料金を聞いておかないとトラブルのもとであるといったら、笑って350Rs.という。これで安心してジャンディアー遺跡めぐりにでかけた。
森林のない広大な丘陵地帯に曲線を描きながら道が続く、と一人の男が突如あらわれ、リークシャを止めて管理人だといって、一応の説明をしているようだがどうも胡散臭い。こちらも現地の会話はわからないまま、先に進む。
インダスからの爽やかな風の中をインダス文明に触れながら歩いてみたくなったので、リークシャを下りて歩くことにした。
遺跡跡でスケッチをしていたら、パキスタン公共TVクルーが、世界遺産であるモーラ・モラドウ遺跡を撮影のためやって来た。
彼らは日本からのわたしが座り込んでスケッチしている情景を撮影に加えたいのであろうか、英語でインタビューのためのマイクを向けてきた。
「どこから来たのか?」
インダス文明ガンダーラ文明をどう思うか?」と・・・

 

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      モーラ・モラドウ遺跡 (タキシラ・ガンダーラ) Sketched by Sanehisa Goto
      紀元3-5世紀頃に建てられたストウバー(スケッチ中央)と僧院からなる仏教遺跡

 

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          モーラ・モラドウ遺跡 (タキシラ・ガンダーラ

 

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           モーラ・モラドウ遺跡 (タキシラ・ガンダーラ)を巡る 

 

<インタビューに答えて、インダス文明ガンダーラの仏像について>
中高校での世界史で習った<インダス文明>の現地に立って、偉大な母なる川<インダス川>の豊かな平原に芽生えたインダス文明勃興の必然性を見ることが出来たことと、インダス文明の人類に果たした役割や歴史を高く評価されるべきであること。
また歴史的にカラチをはじめ多くのオアシス都市が、シルクロードの大切な中継点として東西交易の中継点であったこと、マケドニアアレキサンダーの東方遠征の中継点であったことなど東西歴史の交差点でもあったことなどを話した。
さらに、インドで誕生した仏教が東方に伝播布教の基地としてパキスタンガンダーラが、仏教史にあっても重要な役割を果たしたことについて触れた。
特にガンダーラ仏像に興味あることを伝えた。
なぜかと聞かれて、インドで誕生した原始仏教では仏像は見られず、四方を見渡すブッダの知恵の目が描かれた<ストウパー>が立てられた。その後、仏教はガンダーラを経て東方へ向かうが、ここガンダーラではじめて仏像が生まれるたこと、そして、中国を経て日本に向かう途次、ギリシア・ローマ的な表情のガンダーラの仏像は、東洋的柔和な仏像に変化していったことに興味を覚えると答えた。


最後の問いは、「パキスタンをどう思うか、一言でいえば・・・」である。

「国民は現状に満足し、案外幸せかも ー パキスタンは人々にとって悠久なる夢の国かもしれない」と・・・

 

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  ガンダーラの仏立像(東京国立博物館蔵)          弥勒菩薩広隆寺蔵)

 

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              典型的なガンダーラ坐像 (後藤蔵)

 

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       ジャンディアール寺院跡 (タキシラ・ガンダーラ) Sketched by Sanehisa Goto

 

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左)ジャンディアール寺院跡 (タキシラ・ガンダーラ) 

右)クシャナ王朝 紀元2世紀 (発掘品はタキシラ博物館展示)

 

リークシャで世界遺産であるテキシラの遺跡をはじめ、テキシラ・ユースホステル近くのタキシラ博物館で各遺跡から出土した発掘品を観賞した後、モーラ・モラドウ、ジャンディアール、シルカップ、ビール・マウンドほかの遺跡をを回ったが、あまりの暑さにテキシラ駅にある冷たい地下水(井戸)でパキスタンの青年たちと水浴びを楽しんだ。

 

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        暑い! テキシラ駅の地下水で水浴びをパキスタン青年たちと楽しむ

 

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         昼食は街角のセルフサービス揚げパン屋さんで  (テキシラ・ガンダーラ

 

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               テキシラの街角・揚げパン屋さん家族

 

<▲8月31日宿泊先 タキシル・ユースホステル 300Rs. > YH Taxila
ジャンディアール寺院跡を巡り、スケッチをしてタキシルの街に戻り、タキシル・ユースホステルでの連泊を予定していたがダブルルームしか空きがなく、それも300Rs.(600円)という。ユースホステルでの300Rs,は高いので、一泊だけにしてペルシャワールに移ることにした。

 

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              Taxila Youth Hostel (Asian Hotel に併設)

                     TAXILA-Pakistan

インド帝国の残滓> 

歴史を刻んだ年代物の天井扇が、がたがたと軋みながらゆっくりと生ぬるい空気をかき混ぜている。多分ここタキシラも統治者英国人の避暑地であったのであろう。 このユースホステルの部屋を見ていると、英国人好みの天井が高い部屋は、暑さを逃がすように広々としている。全体にがっしりとした造りである。
いまから60年前まで、英国人は海外植民地でその優位性による絶対的権力をもって支配を続けていた。
周囲の貧農にあえぐ現地人をしり目に最高の贅沢を享受していたのであろう。
この部屋も又、彼らの支配地での栄光への策略と祈りの場であったのであろうか。かれらは遠く母国から離れ、支配地の人民を酷使して搾取しながら何を神に祈っていたのだろうか。
人間が人間を支配し隷属させ、そこから得られる欲望の成就、それらは神の許しであったのであろうか。

闇にくれた窓の外には満月顔の大きな月が微笑みかけている。広々とした庭は頑丈な高い塀に囲まれ、月の光に美しく照らされている。
いま真夜中3時、タキシラのユースホステルの一室で、支配され<インド帝国>に組み込まれたイスラムの人々の悲哀を考えながら、支配者英国人のこころを考えていた。

その英国から自転車で世界一周している大英帝国の末裔である青年・ダン君がこのYHに泊まっているのだから、歴史の流れを感じた。
今でも、西欧の青年は、リュックにパンを詰めて野宿しながら、世界を駆け巡っているのである。

 

<真夜中のヤモリとの対話>
うす暗い裸の丸い電球の側に寄り添うように一匹のヤモリがじっとこちらの様子をうかがっている。彼もまた今この時、わたしと一緒に、命に生きているのである。何を想い、何を考え、息を殺してこの宇宙に生きているのであろうか。彼にも生きる目的があるのだろう、家族もいるのであろう。彼はこの部屋に住みつき泊まる人々を観察し続けているのである。
暑さになかなか寝付けないでいる。ヤモリ君は同じ姿勢で息を凝らしてこちらを観察している。
遠くで一番鶏が鳴きだした。
こちらが一番鶏の鳴き声に気をとられている間に、ヤモリ君はその姿勢を少し動かしたようだ
赤い手足に少し白みを帯びたピンク色の斑点がある。

 

<核保有国同志の隣国インドとの関係>
永年、大英帝国の植民地であった<インド帝国>は、インド・パキスタンバングラデシュ(旧東パキスタン)・ミヤンマー(旧ビルマ)・スリランカ(旧セイロン)で構成されていた。
第二次大戦後の1947年、このエリアを植民統治していた英国から念願のヒンズー教国とイスラム教国の二つの国として、イギリス連邦自治領として独立する。しかし、独立と同時に1947年早くもカシミール帰属を巡って第一次印パ戦争が起こっている。
両国はこれ以降、インドの共和国独立やインドの東パキスタン内政干渉(東パキスタンバングラディッシュとしての独立)などことあるごとに紛争や戦争によって決着を付けてきた経緯がある。
1974年のインドの核実験成功以降も、カシミールアフガニスタンイスラム過激派や中国の分離独立要求など複雑な紛争地域となっていく。
パキスタンは通常兵器で圧倒的な優位性を持つ核保有国とみなされるインドに対し、戦力のバランスをとるために核弾道搭載可能な中距離弾道ミサイルの開発に着手し、1989年に成功する。
1998年には北朝鮮からミサイル<ノドン2号>を輸入し、インドのニューデリーを射程におさめる中距離弾道ミサイル実験に成功する。その直後核実験に成功し、第6番目のインドに続き、パキスタンは第7番目の核保有国になって今に至っている。

パキスタンとインドの両国関係は、見てきた通り<核による恐怖の均衡>でかろうじて安定が保たれているのである。

タキシラ・ユースホステルの隣室に、自転車で世界一周している英国人青年ダン君でペルシャワールからやって来ていた。ここタキシラの物価の高さについて二人とも不満に思っていた。
例えば、YH一泊300Rs. 遺跡入場料200Rs. テキシル博物館200Rs. オートリ―クシャ350Rs. 野菜チョーメン(昼食中華)160Rs. 夕食250Rs. マッカウリ90Rs. 今日一日の合計1550Rs. 日本円で3300円となり、おなじパキスタンの北東部フンザでの一週間の生活費に匹敵するのである。
ダン君の泊まったゲストハウスを紹介してもらい、ペシャワールに移動することにした。


《 9月1日 ペシャワール


パキスタンの列車、三等車でタキシラよりペシャワールへ移動>
世界遺産の弊害である物価高は、わたしのようなワンゲル的旅人の懐を直撃するものである。
しかし物価高に目をつぶりさえすれば、人々の優しさ、フレンドリーなもてなしは心に響いてくる。
テキシラの駅長に見送られた列車は、09:53静かにペルシャワールに向かって動き出した。
発車時刻は09:30であったから、すでに23分の遅れである。
最初、時間通りに乗車した時には誰も乗っていなかったが、その後乗客が集まり始め、だいたい車内が込み合ってきたごろを見計らっての発車である。
ペシャワール駅到着も12時から1時の間という。1時間のゆとりをもっての運行に、パキスタン人の生活のリズムを知ることが出来る。
南米ブラジルにいたときに、<アテ・ア・マーニャ!>というブラジル的生活のリズムに慣れるのに苦労した時のこと思い出していた。それは、<また、あしたね!>という、今日はこれでいいじゃないか、また明日ねという・・・日本人の物差しが通用しない世界が現実にあるということである。
みんなも遅延を知っていて、ゆっくり集まるし、列車も又ゆっくり集まる乗客を待って出発するという悪循環というが実に合理的な秩序に合わせてしまっているのだ。
それでは、はじめから遅延時間に時間表を合わせたら解決すると思うのが日本人的発想なのだが、また同じく30分遅れになってしまうのだから、郷に入れば郷に従えとの格言こそが旅の醍醐味といっていい。

 

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            テキシラよりペシャワールに向かうパキスタン三等列車

 

ペシャワール行きの三等車両に乗車、ボックス型で6~10人掛け、座席は板張り、天井扇が音を立ててうなっている。この車両は、支配者英国人用ではなく現地人用であったと思われる。
治安が悪いのであろうか、鉄道警備員が同乗、このペシャワール線がアフガニスタンとの国境に近いペシャワールに向かうからであろう。
すでに戦闘地域であるアフガニスタンとの国境に近づいているのだ。
車窓から見るパキスタンガンダーラ地方の農村風景がゆっくりと流れていく。朝11時45分、 <Attock City Junction>で列車待ち、プラットフォームに乗客が出て風にあったっている。ガンダーラ平原の日差しが一段と厳しくなってきた。すれ違う列車がゆっくりと入ってきた。
売店で、ランチ(20RS.)として<揚げ豆・フライドポテト・リンゴジュース>を買って戻る。

列車の窓枠にこびりついた黒く光る薄汚い垢がまるで英国統治のインド帝国からの独立を果たしたパキスタンの苦難を物語っているようである。
支配者であった英国に対する怨念のシンボルのようにも見えるし、圧政に対する無言の抗議のようにも見て取れる。しかし、独立から約半世紀、パキスタンは立派な独立国家であり、この垢のある戦前の支配者であった英国の列車、それも怨念の垢のついた列車を排して、新しい自国製の列車に変えて初めて、真の精神的独立を果たしたといえるのではないだろうか。
一日も早い時期に無気力さを示すこの垢を消し去ってもらいたいと願うひとりである。

昼を過ぎた。じりじりと気温が上がって、毛穴から汗が噴き出てきた。天井扇は音だけが響き渡り、熱風だけが集められて頭に吹きかかる。
それにしても到着時間を大きく過ぎている。一向に目的地・ペシャワールに到着しない。
トイレの汚れた水をハンカチに湿らし、首にあてて冷やすが効果なし。

それを笑うように大きなネズミが足元で見上げている。


1:30pm<Charsadda Staiton>を通過、1時間30分の遅れである。
窓枠や木製座席など、触れるものすべてが熱をおびているから、呆れるばかりの熱さである。 

<タキシラ ⇒ ペシャワール>の列車は、3時間のところを5時間もかかって雨交じりの熱射のなかようやくペシャワールに到着した。

<▲9月1日 ペシャワール・ツーリスト・イン・モーテル 宿泊>
サイクリスト・ダン君の紹介してくれた『PESHAWAR TOURIST INN MOTEL』に飛び込んだ。
空には暗い雨雲がおおい、風が砂塵を巻き上げ、雨に砂が混じって地上にたたきつけ、あたりが一面土色になる。


《 9月2日 ペシャワール2日目 》

 

アフガニスタン国境・ハイバル峠に向かう>
ハイバル峠は、アレクサンダー大王マルコポーロ三蔵法師玄奘や多くの隊商の往来、ギリシャ文明をはじめ多くの文物がここハイバル峠を越えてこの地にやってきて<ガンダーラ芸術>の花を咲かせた。
また、ハイバル峠は<シルクロード峠>としても、玉(ぎょく)・パッチワーク・絨毯・絹といった贅沢品や羅針盤・印刷術・製紙・絹機織などの技術がこの峠を越えて伝播した。
わたしも<シルクロード峠>としてのハイバル峠に是非立ちたくて、ここペシャワールにやって来たのである。

7世紀の求道僧であった三蔵法師玄奘が中国、ウズベクスタン、アフガニスタン経由でパキスタンを訪れた時も、ここハイバル峠を越えてペシャワールガンダーラに至っている。
玄奘がこの地を訪れた時には、ペシャワールガンダーラで栄えた仏教文化は最盛期を終えていたようである。
わたしも宿泊することになったペシャワールは、アフガニスタンへの入口であるハイバル峠の麓にあり、アフガニスタンの主要民族であるパシュトウン人が多く住んでいる街である。

ハイバル峠一帯の治安は悪く、取り締は厳しいようである。また外国人に対する警戒心も強く、いつ襲撃されるかもしれないのでハイバル峠には近づかないようにと、昨日チェックインするとき、ホテルのフロントでオーナー<ミスター・ハーン>から注意を受けた。

 

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          ペシャワール・ツーリスト・イン・モーテルのオーナーであり、

       アフガニスタン国境偵察隊の隊長として案内・運転をしてくれたミスタ・ハーン


ホテルのオーナー<ミスター・ハーン>からさらにパキスタンアフガニスタン国境の状況を聴くために、隣の部屋に泊まっていたフランス人フランソワを誘ってオーナーを訪ねた。
まず、オーナーは、イスラムの教えから話し始めた。
アツラーの神は、すべてをわれわれムスリムイスラム教徒)に与えたもうた、とおっしゃる。食べ物はもちろんお金、衣服はじめ何もかも神は贈物としてムスリムに与えたのだと。だから我々ムスリムは、現状に満足しているという。
それに反して西洋人は、何もかも不足していると愚痴を言い、次から次へと物欲をエスカレートさせ、不満を持ち、敵対し、欲望を満たそうとするように映るという。だから西洋人の神は、彼らを満足させられずにいると説く。
説教は高まり、ムスリムであるオーナーはさらにおっしゃる・・・
世界がアツラーの神のもとに帰依するならば、平等・自由・平和は、はるかに早く実現し、世界は一つになれると、力説する。

わたしとフランス人フランソワは、オーナーのお説に反論せずに聞いた後、イスラム教がいまだにその教えを守り、幸せを噛みしめているムスリムが多いことに納得するところがあった。現実にムスリムの総人口は15億人超といわれているところからもオーナーの説が間違っているとは言えないからである。

オーナーは68歳、丸坊主で精悍な顔をもつムスリムである。
オーナーは、ここペシャワール・ツーリスト・イン・モーテルに、パキスタン人・アフガニスタン人・イラン人は絶対に泊めないという。欧米人と日本人だけにのみ解放しているとおっしゃる。前説と真逆の信念を披露して齟齬がないようである。
精力絶倫のオーナーは曰く「人生は女あっての人生だ」と、どんでもない性生活の自慢話になりオーナーの独演会である。
オーナーが山賊の頭に見えてきた。
ようやくハイバル峠の治安の話になり、是非ハイバル峠を通ってアフガニスタン側に入ってみたい希望があると伝えると、案外あっさりと俺に任せておけという。オーナーの話というか説教を辛抱強く聞いたことへの返礼であったようである。

<ハイバル峠越え>
昨夜のオーナー・ミスターハーンとの約束で、待ち合わせ時間にフロントに下りていくと、すでにハイバル峠への手配が出来ているという。
裏庭には、15年前の中古、いやポンコツの三菱ランサー、といっても原型をとどめない代物である。バンパーが飛び散り、ライトなく、方向指示器はえぐられ、車体はぼこぼこ、これで走るのかと疑った。
思わず乗る前から身の危険を感じたものである。ただ一つ救いがあったのは、オーナー自ら運転、案内してくれるという。
ということで、今日一日アフガニスタン越境は、ポンコツ車とミスター・ハーンに命を預けることとなった。

 

ただミスター・ハーンから出発にあたって、次の指示事項に従うことを宣誓させられた。
① 安全に努めるが、相手(アフガンゲリラ・パキスタン警備兵)次第では銃撃を浴びることもあること
② ツアー中は絶対司令官(ミスター・ハーン)の指示・命令に従うこと
③ 相手の攻撃に対して身の安全を守るため最善は尽くすが、命の保証はしないこと。
④ 写真は極力撮影しないこと。(使用車・ガードマン・機関銃・警官・軍人・国境付近・軍事関係ほか)

 

丁度この時期、日本人教師がアフガニスタン国境を越えようとしてアフガンゲリラから銃撃され死亡したというニュースがTVで流れ、現地のアフガン越境非正規ツアー業者に危機感が走っていたのである。

いざ出発となって初めて、どこから現れたのかバンダナを頭に巻き、サングラスをかけ、黒づくめの戦闘服を着た旧ソ連製カラニシコフ機関銃を持った警護スタッフが現れたのには度肝を抜かれた。
ラニシコフ機関銃はソ連による1989年アフガン撤退時に残され、流されたものであるという。

そうなのだ、これから第一線の戦場に偵察に向かう斥候隊の一員であることを知った。

 

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                ハイバル峠のパキスタン側歓迎塔

 

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左) ハイバル峠からアフガニスタンに入った小高い丘の上から、アフガン側のハイバル峠ハイウエー

           その先にアフガニスタン国境管理棟を遠望する


右) アフガニスタン国境偵察隊の隊長と案内・運転をしてくれたミスタ・ハーン

           アフガニスタン国境を越境した地点で

 

アフガニスタンとの国境であるハイバル峠への広くゆったりしたアスファルト道路をポンコツ車<三菱ランサー>に乗った自称・アフガン国境偵察隊は、旧ソ連製の機関銃を持った護衛に守られて、うなりをあげて走り続けている。
パキスタン側のパスポートチェックポイントからアフガン国境であるハイバル峠まで約3kmと聞いていたが、緊張感からか非常にながく感じた。
標高1070mにあるハイバル峠は、青空のもと乾ききった砂岩の山々がまぶしく反射して目に入ってくる。
石積みの上に泥土を塗った家の周りに、わずかにかたまってところどころに生えている乾燥した草木の緑が緊張感をほぐしてくれる。
カーブを切り、シフトを低速にチエンジするごとにポンコツ車のマフラから漏れる排ガスが車内に充満する。
後部座席に陣取っている護衛の機関銃の銃口がバックミラーにちらつき、アフガン紛争の緊張感が伝わってくる。
英国統治時代の残滓である長方形のコンクリートブロックがガードレールの代わりに谷側に設けられ、ハイバル峠まで続く。時速制限40(km/H?)の標識が、味気ない不毛の地色に一輪の花として鮮やかに咲いているように見える。
アフガニスタンは昔からシルクロードとして、現代ではヨーロッパ・中東・中央アジア・南アジア・中国などを結ぶ交通の要所として位置し、国際関係史や地政学的な特殊性から各国が支配下の置こうと侵略を繰り返してきた。
しかしその都度、アフガニスタンの山岳民族の根強い抵抗にあい、不安定のなかいまだその独立性を維持している。英国でさえアフガニスタンを一時保護国としていたにもかかわらず、<インド帝国>の構成員にできないほど複雑な経緯を持っていたのである。
アフガンの歴史は、他民族の侵略の歴史であり、ペルシャアレクサンドロス大王による支配、イスラムやモンゴルによる侵略が続いたあと、アフガニスタンに統一王国が誕生し、第二次大戦では中立国として立場をとった。その後、クーデーターが起こり王政から共和制に移行し、この年(2004年)、アフガニスタンははじめて正式に国名を<Islamic Republic of Afghanistan―アフガニスタン・イスラム共和国>としたのである。
1979年2月、イラン革命がおこり、同年10月ソビエット連邦は、イラン革命に触発されアフガンにできたイスラミック革命政権によるソ連内のイスラム国への飛び火を恐れてアフガニスタンに侵攻したといわれている。
その後の流れは、アフガンに侵攻占領したソ連赤軍に対しての山岳持久戦により追い出し、その後タリバン政権を打ち立てた。
しかし政変は安定せず、2004年当時タリバンはゲリラ化し、米軍の支援を受けた政府軍とたたかうとともに
2001年9月11日のイスラム過激派アルカイーダによるアメリカ同時多発事件の首謀者オサマ・ビンラディンタリバンがかくまったことからアメリカ軍のさらなる干渉・攻撃を受けることとなった。

ここハイバル峠は、タリバンにかくまわれたオサマ・ビンラディンアフガニスタンタリバンアジトに行き来するルートであるという情報を持っていた米軍特殊部隊やCIAが逃避ルートとして監視を強め、ゲリラ・タリバンと対峙していた危険地帯であったのである。

今ここ危険地帯を、緊張感をもってハイバル峠へ向かっている。

国境緩衝地帯であるハイバル峠では、小高い丘からアフガニスタン側の風景を眺めることが出来た。
実はこの度のシルクロード踏破の正規のルートは、ここハイバル峠を越えて、<アジアハイウエーA1>
を進み、アフガニスタン横断ルート<ハイバル峠(アフガニスタン国境)⇒カブール⇒カンダハール⇒ヘラート⇒(イラン国境)⇒テヘラン>を経て、終着駅であるイタリア・ローマに到着するはずであったが、アフガニスタンの内戦のため残念ながら、カラチからテヘランへの南ルートをとることになったのである。

どうしてもここハイバル峠をシルクロードの一里塚として目に焼き付けておきたかったのである。

近い将来、アフガニスタンに平和が訪れた暁には、是非シルクロードアフガニスタン<アジアハイウエーA1>を横断してみたいと思う。

 

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     < シルクロードのハイライト> ハイバル峠を越え国境緩衝地帯をアフガニスタン側に下っていく車

 

 

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この項を描き上げている2020年4月28日現在、中国武漢で発生したコロナウイルスは、
全世界への伝播を続けている。
日本  感染者数      13385   死亡者数   2906   退院者数 2905  
世界  感染者数  3000000   死亡者数  210000     

医療従事者のみなさんありがとう!
心から感謝しています、ありがとう!

世界のみんな、がんばろう!
世界のみんな、がばれ!

日本のみんな、がんばろう!
日本のみんな、がんばれ!

 

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       『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑤ 
           
    < ペシャワール/パキスタン ⇒ クエッタ/パキスタン・イラン国境>

                につづく

           


 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』③<ウルムチ/烏魯木齊 ⇒タシュクルカン/塔什庫爾干>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』③前編 
       星の巡礼者 後藤實久

シルクロード踏破 ウルムチ/烏魯木齊 ⇒ タシュクルカン/塔什庫爾干>

 

 

《 コルラ/庫尓勒  8月18日 タクラマカン砂漠の入口の街に到着 》

 

早朝4時45分、コルラ/庫尓勒のバスターミナル(郊外)に夜行バスは到着した。
砂嵐、地面を這いまわる砂、朝闇にはためく五星紅旗が出迎えてくれた。
まわりの荒涼たる砂漠の風景、ここはタクラマカン砂漠の北の入口である。
タクラマカン砂漠、そこはいつも人の浸入を拒んできた。
わたしは少年時代から神秘なベールをかぶった砂漠を自分の足で歩いてみたいと夢見てきた。
神秘な砂漠のなかに豊かなイマジネーションと、過酷な状況の中に生命の起源が隠されているというロマンと夢が潜んでいると思うからである。
タクラマカンの砂に出迎えられ、心躍り、より一層ロマンと夢が膨らんだ。
タクラマカン砂漠に立てたことを神に感謝した。

コルラの風は生暖かい。体の奥からじわっと汗腺を通って体液がにじみ出てきた。ここタクラマカンでの最初の汗一滴は、ダイヤモンドの光の一滴に見えた。

< 庫尓勒/コルラ賓館に投宿  シングルルーム118元>
庫尓勒/コルラ賓館のドミトリー(ドーム・格安相部屋)はすでに満員であったので、バックパッカーにとって贅沢な賓館のシングルルームに投宿した。近くの交通賓館も満室だったことを思えば、この時期は旅行者や滞在者が多いのであろう。
バックパッカーにとって贅沢であるが、テレビに冷蔵庫、それにシャワーもクーラーもあり、寝苦しい砂漠の夜を快適に過ごせそうでかえって喜んだものである。
ドミトリーでは、多い時には大部屋で15ほどの二段ベットがずらっと並べられ、男女相部屋のところも多い。熱気と体臭が風通しの悪い部屋を充満することもあるのだ。外出するときには盗難防止のためバックパックを鎖でベットに結び付けるなど対策が必要であるドミトリーに比べたら、ホテルのシングルルームはまさに天国である。

コルラはタクラマカンの砂漠の片田舎町と思っていただけに、この近代マンモス都市にすこし夢がかき消された。
シルクロード時代からここ庫尓勒/コルラは天山南路<コルラ/ホータン/カシュガル>と北路<コルラ/クチャ/カシュガル>の重要な分岐点であり、隊商のオアシスでもあった。
またここは、巡礼の聖地でもあり、またコルラ南西にあるタリム油田の開発基地としても重要拠点である。
さらに、漢民族ウイグル自治区への大量流入の前進基地でもある。
多くの人・物・文化がこの町を通って西へ、東へと向かうのである。
わたしもまた西へ向かうシルクロードを歩む旅人の一人であると思うと、マルコポーロになった気分にひたることが出来た。

先にも述べたが、コルラの街ここはニューヨークなのだろうか。 近代高層ビルディングが立ち並ぶ姿は、シルクロードの拠点としてのオアシスの風景も、懐かしきラクダの隊商のイメージをも微塵も残していない。

ホテルにビール・ピーナツ・ポテトチップス・焼き餃子を買い込んでコルラ到着を祝った。

 

< バヤンゴルモンゴル自治州博物館 >
1896年4月ロプノール湖(さまよえる湖・塩湖)の位置調査したステインが乗った木彫りのカヌーにそっと触れてみた。ステインの後、ヘディンが湖床の移動を調査し、楼蘭に面した窪地がロプノール湖であることを立証した。

 

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     ロプノール湖(さまよえる湖・塩湖)の位置調査したステインが乗った木彫りのカヌー


古代シルクロードではロプノール湖の西岸に楼蘭があり、シルクロードのオアシス路として栄えた。 しかし、唐時代にロプノールが消えて移動したことにより、敦煌経由のトルファン路が開拓された。
幻といわれたロプノール湖を追ったカヌー、それは自称探検家・冒険家にとって同じ夢を運んだ憧れの小舟である。
楼蘭美女との対面の時のように、約108年前のステイン調査隊の一員としてロプノール湖追跡に参加しているような気持ちになり興奮したものである。ステイン老の像が、懐かしそうに私を迎えてくれた。感動である。

 

シルクロードでは、もてなしの笑顔が素敵だ>
シルクロードの住人は、旅人に対しての好奇心が強く、外の世界の情報を貪欲に吸収しょうとする。長距離のバスのなかや、市場の人びと、餃子屋のおやじ、ハミウリの屋台のおばちゃん、みな中国語ができないと思うと筆談で外の情報を引き出そうと積極的に押しまくってくる。
スケッチをしていると、それは大変である。二重三重と取り囲み、ほめてくれているのであろうか声高な歓喜が渦巻くのである。書き上げて立ち去ろうとすると、これまた握手攻めである。
熱烈なにわかファンはスケッチを取り上げ、各自のサインを書き込むのだから閉口もするが、記念にもなるものである。
シルクロードの人々は善良で、政治の世界とは無縁であるように見える。
笑顔が素敵である。


コルラの街のウイグル人漢人は、4対6で顔が交じり合っている。文字も漢字に必ずアラビックが書き添えられており、シルクロードの趣きを感じる。

 


《 クチャ  8月19日 『 庫車・クチャ交通賓館』 2人部屋100元 》

 

拝城克孜尔(キジル)千仏洞の観光を終えて庫車・クチャで宿をとる。
クチャバスターミナルのむかいにある<庫車・クチャ交通賓館>のドミトリー2人部屋(@50元X2)をようやくのことで確保できた。トイレ・シャワーは共同だが、テレビ、扇風機があるのと、なにより2人部屋を独占できるので久しぶりにプライベート空間を広々と使えるのがありがたい。

コルラよりクチャへの途中、輪台あたりで事故があり、2時間遅れ。
庫車交通賓館に入ったのが4時過ぎ、あまりの暑さと、空腹を満たすためクーラーの効いた隣のレストランで<青葉炊冷麺 6元>を注文した。
ビールの種類によっては、ミネラルウオーターより安価であることが多い。

外は直射日光でくらくらする、43℃はあるだろうか、汗が噴き出てくる。
クチャは、タクラマカン砂漠の北に位置し、天山山脈の南にある町である。
いま世界で最も大陸の内部にある町に滞在している。

<予定変更 ホウタン経由カシュガル行のタクラマカン砂漠縦断を断念する>
当初より計画していた<砂漠公路>を往くタクラマカン砂漠縦断のバスは運休しているということが、予約に行ったクチャ・バスターミナルで分かった。
クチャよりタクラマカン砂漠をバスで縦断し、ホウタン(和田)経由カシュガル行は危険であり、また乗客が少なく採算が合わず、故障事故等の場合の人命の保証ができないということで、2004年8月現在、砂漠縦断のバス路線が運休しているという話であった。残念であるがまたの機会に残しておきたい。
世界旅行をしていると、現地に立って初めて知る情報が沢山ある。慌てず旅行を続ける次なるスケジュールに修正し、実行する臨機応変の切り替えが必要になることがしばしばである。

先に示したタクラマカン縦断ルート地図に修正ルート(←----)を加えた地図を再掲しておく。

路線バスが運休しているという。ミニバスやタクシーに変えればいいが、これまた砂漠を縦断するとなると危険極まりないとのことだ。 ましてや往復であればまだしも片道ともなればむつかしいという。四駆のランドクルーザーを貸切、ガイド兼交代の運転手を含め2名、大量の飲料水と食料の確保など、大金を払いキャラバン隊を編成する必要がありそうである。いつか自転車で砂漠を縦断したいという夢を実現させるため、ぜひタクラマカンさ砂漠縦断路をバスで走り、その状況を見ておきたかったが残念だが断念することとした。

夢は、少しは残しておくのがいい。
いまだ見ないロマンと夢がある、という心地よさが残るのもいい。
冒険は、いつもその夢とロマンの中にあるのである。

 

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       タクラマカン砂漠縦断修正ルート地図<新疆ウイグル自治区ルートマップ>


<貸切オートリクシャーでクチャ市街一周>
タクラマカン砂漠縦断を断念したあと、オートリクシャーを運転するウイグル族ヤン君の笑顔に魅了されて、クチャ市街を案内してもらうことにした。タクラマカン砂漠縦断バス旅行中断により携行品(栄養剤・マスク・水・食料品など)の買い出しをする時間が空いたのである。
ヤン君によると、オートリクシャの仕事の90%はイスラムウイグル人で占めているという。利用しているのは漢人であり、貧富や民族、階級差を感じる瞬間である。
とうとうサザン朝ペルシャイラン系イスラムの世界に入った感がする。りっぱなモスクがクチャの街にイスラムの花を咲かせている。街角ではお祭りなのかウイグル系の住民が太鼓を鳴らし、モハメットを讃えている。

             

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               クチャ大寺(モスク)正面入り口で子供達と

 

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           ウイグルのお囃子で祭りを盛り立てるウイグルの男たち

 

神のもと、様々な人種が、その慣習によるそれぞれの歴史を作りあげ、民族愛を主体としたコミュニティーを形成してきた。ここウイグル系もまた、シルクロードの真ん中に生活し、多くの民族との融和、闘争を繰り返しながら平和なイスラム国造りを目指していたといえる。
現状は、漢民族に支配され、民族浄化の過程にあるといっていい。自主自立を目指すウイグルの人々の哀愁に満ちた素顔に接し、語りかける言葉さえ失ってしまうことさえある。
いつの日にか自信に満ち、胸を張り自分たちの国を自分たちの手で運営管理する日を待ち望むものである。

少し郊外に行くと、そこにも赤い砂地がつづき、天山山脈の雪解けの水路<カレーズ>を利用してポプラの木が植えられ、その陰道をロバに曳かした荷車が、砂塵をあげながらのんびりと荷物を運んでいる。

ここだけは平和な牧歌的な時が流れ、ウイグルの平穏な風景が残っていることに安堵した。

 

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 のどかなクチャの郊外をロバが台車を曳いている       市街でみられる街路樹用水

 

 

シルクロード・クチャ雑感 》

<見る見るうちに乾いていく洗濯物>
旅を続けているうえで欠かすことのできないのが定期的な下着などの洗濯である。相部屋格安宿のドミトリ(ドーム)に泊まるときやホテルのシングルルームに泊まるときは、部屋に張ったロープに下着の花が咲く。
ここクチャでは、ハンカチ・Tシャツ・靴下・パンツ・タオルなどを吊るすと、驚いたことに見ている前で洗濯物が乾いていくのが分かる。
砂漠地帯の乾燥と高い気温のためである。体もまた水分がどんどん奪われていくのがよくわかる。ミネラルウオーター・お茶・コカ・コーラ―など水気のものを一日最低1.5L を摂ることになる。

宿に網戸があっても、日本のように蚊のためではなく、どうも蝿の浸入防止のようである。夏なのに蚊を見ることはない。あまりの暑さと乾燥に蚊もここウイグルの地にはすまないのであろうか。

 

<初めて日本人団体客にクチャの博物館で声をかけられた>
「蘭州でスケッチをしていた日本人はあなたですか」と日本語で、ご婦人に声をかけられた。どうも人違いであると思うけれど、否とも言えずついにっこりすると、
「お一人で旅をされ、ここまで来られたのですか・・・イタリアのローマまでシルクロードを歩かれる・・・素敵だわ!」
出会ってすぐわかれる、すれ違いでかわされる会話は、心地いい。人生もまた、心奥まで入り込まず、相手を讃えてすれ違う会話で過ごせると、心地いいだろうと思う一方、
わずかな一瞬の出会いでも、心にとめた出会いには、心深く愛のぬくもりがほのかに感じられるものである。


そう、人生を豊かにしてくれる一瞬の出会いは、心に残るものである。

 

<烏龍茶・紅茶・緑茶とシルクロード
シルクロードは、別名<ティーロード>と呼ばれている。
シルクロードは絹の前後して、茶が西方に運ばれ、砂漠や草原に棲む人々の飲み物としてすでに広がっていた。
この旅で、シルクロードが茶をたしなむ旅でもあることを知りいささかの歓びを感じた。
茶が体に染みわたるとき、心に潤いが生まれ、オアシスのような清涼感が広がり豊かさが生まれる。
このシルクロードで茶に出会うとき、人生のオアシス・清涼感にひたれるのである。
中国では24時間たえず湯を沸かして、茶を点てる歴史と文化がある。
茶は豊かな文化をも生み出すのである。
多分、シルクロードを西から来た商人たちは、ここクチャで本式な茶の習慣に出会い、その後の東への旅で烏龍茶や緑茶のもつ東洋的味覚の素晴らしさに気づいていったと思われる。
茶、それは人の心を和ませ、商いの潤滑油になっていることにも気づいたであろう。
シルクロードを行き来していた商人は、心惹かれた緑茶を西洋に持ち帰って、嗜好に合わせてその醗酵度合いを変えて作りあげた紅茶をたしなむことになった。


シルクロードは、茶をも東西の橋渡ししたのである。

 

<憧れのタクラマカン砂漠に足跡を残して>
ヤン君に無理を言ってリークシャで砂漠へ連れて行ってもらった。
クチャの南方にタリムという小さい町があり、タクラマカン砂漠を流れるタリム河畔にある。
面白いことに、このタリム河はタクラマカン砂漠を縦断してくるヒマラヤの山々を源流とするホータン河とつながっているのであるから興味がわく。ホータンには後日訪問することにしている。

 

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          リークシャでクチャの町を周回した後、タクラマカン砂漠に向かう

 

クチャ近くのタクラマカン砂漠は、イメージしているサラサラの砂でおおわれた砂漠を想い描くことはできない。砂漠というより瓦礫・小石を敷き詰めた不毛の地であり、わずかに草が生えている。この不毛地帯をさらに砂漠の奥地に入らないと写真のような風紋を楽しめる砂漠には出会えないのである
この瓦礫のような不毛な砂漠地帯に、コルラやクチヤ、アクス、ホーンといった街がつくられている。
ゴビ砂漠サハラ砂漠、ナムビア砂漠もまた同じ分布になっている。

 

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   人が住み、道路が走る近くの砂漠           待望のタクラマカン砂漠に立つ
  

いまタクラマカン砂漠の神の光の中におり、神の光の中を歩んでいる。
わたしの人生の一里塚であり、幸せな時の流れのなかにいる。
一陣の砂漠の風がそっとわたしの背中をおして静かに過ぎ去っていった。

 

中国共産党プロパガンダ
ホテルに戻ると、テレビを久しぶりにつけてみた。        
中国のテレビには、共産党チャンネルがあり、昼夜を問わず愛国心高揚の映像と歌を流している。
この日は「1940年 日本軍による昆明無差別爆撃」を流し続けていた。何度も何度も繰り返し
放映され、生き証人がその恐ろしさを証言し、映像がその無残な破壊、殺戮光景を人民の目
に焼き付けている。
共産党は、絶えず人民に敵をつくり、人民の目が共産党に向かないように仕組むのであろうか。
その敵は、時には帝国主義であり、政敵でり、富裕層であり、地主であり、宗教であり、文化であり、
知識人であり、日本やアメリカである。
共産党を脅かすものは、すべて敵として抹殺するのが防御原理として正当化されるのであろう。
日頃のプロパガンダは、人民統一の手段であり、いざというときの準備であり、人民に敵の的を
絞らせるガイダンスなのである。
文化大革命天安門事件もまた仕組まれた人民の敵の掃討であった。

いつの日か中国に共産主義があったといわれる時代がやってくるのであろうか。
人民主体の時代の到来は、今後中国では困難なのだろうか。
人民はすべての主体であり、人民が歴史を作ってきた中国は復権するのだろうか。
人為の原則から、不変の原則への転換期は近いのであろうか。


《 8月19日 曇のち晴れ クチャ 庫車交通賓館 》

朝一番、近くの野菜市場にやってきた。万頭屋台のオープンテーブルに座ってクチャの市場風景に溶け込んでみる。屋台のおやじは、窯に火を入れ、蒸し器を洗い、掃除に忙しい。
黄砂を含んだ小雨がパラパラとテントの隙間から落ちてきた。砂漠の熱さが一瞬緩んだ気がする。
屋台の近くには、セリを売っている少女や、桃・リンゴ・葡萄を箱売りするウイグル人がいる。
ここクチャは、新疆・ウイグル自治区の真ん中にある。当然だが、ほとんどの住民はウイグルの人々である。
モンゴル系のわたしの顔がひときわ目立ってしまう。
オートバイの騒音、人の掛け合う声、ロバの曳く台車の音がにぎやかだ。
世界どこにでもある平和な街角の市場の風景である。
遠くの雲に朝日があたり、色づき始めた。
街角に立つ重武装漢人ポリスの存在が気にかかる。

 

タクラマカン砂漠とキジル千仏洞ツアー>
昨日、リークシャでタクラマカン砂漠の入口まで行ってみた。
しかし、タクラマカンの砂漠公路南下縦断が不可能となってしまったので、<タクラマカン砂漠ツアー>に参加してみることにした。
結局ツアー参加者が集まらず、わたし一人だという。旅行社手配のタクシーと交渉し、200元で決着する。
タクラマカン砂漠に乗り入れたのはいいが、悲しいかな四輪駆動車でないので、たちまち車輪が砂に埋もれ、人の手を借りて砂を掘ったり、みなで車を押したり、古カーペットを敷いたりと大奮闘である。
もし無人の砂漠の真ん中であったらと、肝を冷やしたものである。
3時間もかかったのだから、どうもタクラマカン砂漠はわたしを歓迎してくれていないような悲しい気持ちにさせられた。
しかし、この脱出時間を使い、ゆっくりとスケッチ<絲綢之路・シルクロード>を書き上げることが出来、せめての慰めである。

 

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      砂漠にトラップしたタクシー               タクラマカン砂漠

 

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シルクロード/絲綢之路>クチャ近郊・ タクラマカン砂漠よりシルクロードとMt.Chuatakesanをスケッチ

 

タクシーの砂漠へのトラップ(はまる)から脱出して、<キジル千仏洞>に午後2時ごろ到着し、ようやく昼食をとることが出来た。

 

<拝城克孜尓(キジル)千仏洞ツアー参加 9H 180元>
拝城克孜尓(キジル)千仏洞は、中国四大石窟の一つで、ムザルト河北岸の懸崖にある。
キジル千仏洞は、仏教石窟寺院の遺跡群で、キジル石窟寺院とも呼ばれ、新疆では最大の石窟である。
クチャ駅より西へ70㎞の拝城にある。
途中、輪台付近で事故に遭い、トラブル解決に3時間ほどかかった。この時を利用して天山山脈を遠景とする輪台郊外をペン画におさめた。

 

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                                                                 輪台近郊の天山山脈を望む風景

 

スケッチをしたあと、帰路についたが約2時間走っても、一台の車にも出会うことはなかった。この時間帯は、砂漠の一番熱い頃で、影一つない。
ただただ蜃気楼を追いかけた。

夕方7時、クチャのホテルに帰ってきたが、まだ陽が高い。
ホテルの部屋は蒸し暑く、生暖かい扇風機の風が肌をなめる。人々は夕涼みのため一斉に街路に出てくる。屋台のシシカカブーや水餃子に群がり、談笑に花を咲かせ、夜遅くまで続くのである。

 

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      輪台(クチャ付近)のタクラマカン砂漠の隊商(イメージ) Sketched by Sanehisa Goto

 


《 クチャ より アクス にミニバスで移動 8月20日

クチャより以西のバス旅行には<傷害人身保険>が強制的にかけられる。砂漠地帯という道路事情からの事故が多くなるからだろうか<傷害人身保険証書>が切符に付けられてくる。
小雨降るなか、25人乗りのミニバスは、クチャ(庫車)を出発し、アクス(阿克蘇)に向かう。
恵みの雨も大地である砂漠が一滴残らず吸い取ってしまい、すぐに乾きの大地にもどっていく。
砂塵が舞い上がりだしたら、散水車が活躍し、砂塵による肺炎防止に努めている。

ミニバスは、タクラマカン砂漠の天山南道である直線道路を快適に走り出した。

 

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           タクラマカン砂漠をクチャよりアクスに向かう砂漠道路

 

<雑記>
  
<定員以上は乗せません> 
長距離列車やバスが、オンラインのチケット発売でコントロールされ、定員以上は乗せないのに比べ、近郊バスや市中バスは鈴なりにぶら下がっている様子にも驚きである。
  
<ご婦人の財布は、ナイロンストッキング>
スカートをたぐし上げ、脚の太ももあたりのストッキングからIDカードや切符、お金を取りだす女性独特の
仕草はユーモアを感じる。
  
<砂漠でのピーピータイム>
ミニバスは、定期的に休憩時間をとるため砂漠の真ん中で停車する。
トイレタイムでもある。
もちろん青空WC、物陰もつい立てもない。みな思いおもいの方向に散って行って用を足す。
ときどき強風に煽られシャワーを浴びることもある。恥じらいがあったら実行するのに躊躇することになる。
しかし、慣れるのもまたはやい。なんだかんだ言っても生理は待ってくれない。
生理に敵なし、天下御免である。放尿するしかない。
その後の爽やか快適なこと、砂漠がぐっとみじかに感じるのだから不思議である。


天山山脈も笑っている。

 

            < タクラマカン砂漠の風景 >
                    詩 後藤實久
   
                行けどもゆけども無言の風景
                どっしり腰をおとした禅の世界
                無言の命に似たり

                砂漠も命も広大無辺なりて
                深い眠りにあって霊感に生きる
   
                   語らんとする人の浅はかさを笑い
                沈潜し、寡黙に生きるなり
   
                   己を捨て去れ、一粒の砂になりきれと
                ただただ二本の足で大地に立てと
                  タクラマカン砂漠は独白するなり

 


<アクアはホータンへの中継点>
アクア(阿克蘇)のバスターミナルより約3㎞のところからホータン(和田)行の長距離寝台バスが出るという。タクシーを飛ばし、ホータン行き15:00発に間に合った。
バス#1080・4列下段・バス代117元・所要約15時間である。バナナ・ミネラルウオーター・パンを買い込んで乗り込む。
地方の夜行バスで困るのは、休憩地でのWCに時々水がなく、洗えず手が汚れて黒光りしてくることである。
ほとんどの人が、アンモニアで目もあけられないWCに入らず、外で用を足してしまうから始末が悪い。
大切な飲み水をタオルにしみ込ませ手を拭くことになる。このような時、消毒ナプキンが重宝である。
また、アンモニアの匂いの凄いこと、目を開けるのが痛いぐらいである。
しかし、これらの悩みもしばらくすると慣れてくるのだから不思議である。
旅の楽しみは、日常経験できない状況に置かれて、困難を克服したときに、その国の人々を少しは理解できたと思えるときである。

タクラマカン砂漠縦断をこれまで試みたが、諸条件により実行できないでいただけに、アクアからタクラマカン砂漠をホータンまでバスで行けると聞いた時の歓びようは言い尽くしがたいものである。


いま長年の夢だったタクラマカン砂漠を夜行バスに乗って縦断しているのである。
夜行バスに寝ころび、砂漠を駈走していると思うだけで高揚する気持ちを抑えるのが大変である。
究極の目標は自転車での縦走である。いつ実現できるであろうか、楽しみである。

 

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           タクラマカン砂漠をホータンに向かう夜行バスから

 

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              ホータン行きタクラマカン砂漠縦断夜行バスの中で

 

イスラムの墓地>
タクラマカン砂漠の至る所で目にする土と石でできた円錐形の盛り上がった墓に出会う。
ムスリムにとって安住の地である墓地(埋葬地)は大切な場所である。イスラム教はユダヤ教と同じ
神の教え守り、復活を信じる教えである。死者の復活を信じ、土に葬るのである。
墓の前にウイグル語で書かれた亡き人の名前と、死亡日が刻まれた石碑が建っている。


死後も生前と同じく生き続けてほしいという気持ちと、復活を信じての土葬にウイグルの人々の愛を
感じるのである。

 

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               イスラムの墓地は復活を信じる土葬である

 

<顧客至上と共産主義の矛盾>
鄧小平の主導で押し進められた<改革開放>は、市場経済への移行にある。
共産主義体制にある中国で、資本主義のモットーでもある<顧客至上>の標語がガソリンスタンドに
掲げられていた。


共産党独裁と資本主義経済の融合に、なにか不気味な将来が待っているような気がしてならない。

 

 

《 ホータン・和田訪問  8月21日 》

 

8月20日アクア(阿克蘇)を15:00に出発した長距離夜行バスは、翌早朝04:30にホータン(和田)
に滑り込んだ。 13時間半のタクラマカン砂漠縦断バス旅行であり、一番星が見える早朝の到着に疲労を覚えた。
さっそくタクシーに乗り込み、どこか近くのホテルにといったら<和田賓館>に連れて行ってくれた。
500元(8000円)の1部屋が残っているという。
バックパッカーにしては高すぎる休息なので、バルコニーで朝を待って行動を起こすことにした。

ホータン訪問の目的は、ホータン河でトンボ玉作家の友人が制作した玉を河の水につけて入魂の
セレモニーをすることである。その後、午後遅くの便でカジュガルに向かう予定である。

ホータン河の支流ウドンカーチ川にかかる橋に、通りがかりのオートバイに乗せてもらいやってきた。
待ち構えていたように橋を警護していた保安員がやってきて職務質問である。訪問目的を告げると、
急に態度が変わり、和田玉(ホータンギョク)を発掘し、研磨販売していると自己紹介、警護保安員は
サイドビジネスだという。

和田玉(ホータン玉)は、ホータン川流域で採集される翡翠(ヒスイ)であり、前漢武帝の使者である
張騫が発見し献上したことで世に知られるようになった。現在、和田玉はパワーストーン、ヒーリング
ストーンとして人気がある。わたしもいくつか分けてもらって持ち帰ることにした。

友人の作品であるトンボ玉への念願の入魂式をホータン橋近くのウドンカーチ川(ホータン河支流)
東岸でおえた。
ホータン川畔で入魂式をしている間にも、沢山の人がホータン玉(翡翠)の原石探しにやってきた。
原石を研磨し、光を宿らして命を与える。その神秘性は翡翠という姿に変え、人々にヒーリングと
パワーをあたえるのである。


人も又、それぞれに光る石を心に秘め、苦難・歓びという体験をとおして輝きを増し、明るい
人生を歩むのである。

ホータン玉(翡翠)は、ここホータン(和田)よりシルクロードを通って東へは西安経由、日本へもたら
され、西へはペルシャイラク・バグダットを経由してヨーロッパにもたらされた。
ホータン玉(翡翠)はこうして、今なお神秘的な美しい輝きを世に送り出し続けているのである。

 

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         ウドンカーチ川(ホータン河支流)で友人のトンボ玉入魂式を行う

 

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                     ホータン大橋で

 

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  ホータン河での入魂式に持参した友人のトンボ玉     手に入れたホータン玉(ぎょく・ひすい)

 

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              ホータン(和田)発  カジュガル(喀什)行  長距離バス

 

<ホータン・和田市⇒カシュガル・喀什市 路線バスで移動>

わたしの夢だったタクラマカン砂漠の旅は、トルファンから始まって、カシュガルで終わる。
ホータン発のバスは、あと3時間でカシュガルに到着し、タクラマカン砂漠の旅を終えようとしている。
バスは、ヤルカンドで最後の給油(1L@3元)のため休憩停車、乗客も外の空気に触れるため降車、
ポプラ並木が一列に並んで迎えてくれている。タクラマカン砂漠の砂風が熱風を運び、毛穴から汗を
引き出していく。

ホータンからの路線バス、外人はわたし一人だけだと思っていたがウイグル人に隠れてスペイン人
セニョール・ホセがカメラとビデオをかけ、沢山の荷物をもって乗り込んでいた。英語を話せるただ
一人のパートナーがいるだけで、旅の安全は高まるのだからうれしい。

砂漠のほとんどの地域で携帯(モバイル)が使えるのには驚いた。それも乗客全員が携帯を持って
いるのだからもっとびっくりさせられた。通信料金は無料で、政府負担というのだから携帯を持たせて
人民の行動や通信内容の傍受や通達命令を伝えるために使用しているのであろうか。

村では、新婚さんが派手に飾った車に乗り祝福されているのが印象的であった。先導車は太鼓や
シンバルを叩いての鳴り物入りである。そのあとを沢山の車がクラクションを高らかに鳴らして続くので
ある。この光景はモンゴル・ウランバードルでも見かけた。


カシュガルには、夜8時に到着、ホータンから10時間の所要である。

<▲色満賓館 ドミトリー @15元 に投宿>

 


カシュガル・喀什 8月22~23日  快晴 》

 

シルクロード中国の西の果てウイグルの街 カシュガルにある色満賓館のドミトリーで遅い目覚めである。
大きな紅色の太陽がビルディングの間から顔を見せ始めている。
リークシャがのんびり走る街は、まだ長い影の中にある。

 

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                   カシュガルの早朝の風景

 

カシュガルの青空市場の屋台、麦酒とチキン丸焼きで、タクラマカン砂漠の旅を無事終えたことを
祝って乾杯した。

 

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                カシュガルの青空市場の屋台風景

 

色満賓館#415号室の同室者ハン君(韓国・学生)は、シルクロードを西から東にたどっているとの
ことであり、情報交換をする。
彼はパキスタンのカラクリ湖で一泊したこと、イスラマバードでは沢山の日本人バックパッカー
出会ったこと、パキスタン人は貧しい人が多いが、とても親切な国民であることなどを話してくれた。

ここカシュガルは中国での最終都市、両替などパキスタンに向かう準備をすることにした。

 

<国境越えの準備> (中国 ⇒ パキスタン

1) スケッチブックの購入(シルクロード後半分)
2) T/C(トラベルチェック)および手持ちの元を中国銀行パキスタン・ルピーに交換
3) 日記・スケッチブック・お土産・文献書籍などを日本へ郵送
4) 中國シルクロードスケッチの彩色・仕上げ
5) パミール高原(標高4000m)越え耐寒用品<軍手・襟巻・耳覆い>購入
6) 中国最終地よりの消息ポストカードを投函
7) インターネットカフェ―よりメール送信およびパキスタンの情報収集
8) 国際バスターミナルでのパキスタン・スストへのバス切符(予約)の事前購入
9) カシュガルよりスストへの長距離バス用の食料と水を購入

 

<硬水とミネラルウオーター>
朝一番の作業は、お湯でお茶をつくり冷ました後、ボトルに入れることから始まる。海外旅行の場合、ほとんど硬水でお腹に合わず、腹痛や下痢に悩まされるからである。
日本の水は軟水で、世界一美味い、体にも優しい水である。
外国では、ミネラルウオーターか煮沸した水を飲むことにしている。
ただ、中身がミネラルウオーターと思っていても、ペットボトルのキャップのロックが開いていて、ミネラルでない場合があるので要注意である。
ペットボトルの場合は必ずキャップの緩みがないかチェックすることをおすすめする。

カシュガルの朝、大きな黄身のような太陽がゆっくりとおごそかに顔をもたげてくる。実に爽やかだ。
マルコポーロも、玄奘さんも同じ太陽を見ながら目を覚ましたことであろう。


太陽は、「わたしは変わらぬ、わたしを見る人の心によってわたしは変わる。君に光と愛を。」といっているようでもある。


朝9時、ここカシュガルはようやくにぎやかさが始まった。北京とカシュガルでは2時間の時差がある。
国境に近いここカシュガルは北京時間を採用せず、新疆時間に従っていることに注意すべきである。
時計を北京時間から新疆時間にさっそく修正・切り替えた。(2時間遅らせること)
そろそろ国際バスターミナルに出かけて、パキスタン・ススト行のバスチケットを購入することにする。

 

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   カシュガルダウンタウンに立つイスラムのモスクと土の家    Sketched by Sanehisa Goto


予約 <国境越えバス カシュガル⇒ススト 1日1便 8月24日11:00出発 20H  270元>

<中国カシュガル発⇒国境の町タシュクルガンで入管手続き(1泊)⇒国境クンジェラブ峠標高4934m⇒

 パキスタンフンザ着>

予約 <△タシュクルガン1泊 『交通賓館』 ドーム10元  国境の街で入管手続きのため>

 

今日は、カシュガルの日曜バザール開催日である。バスとホテルの予約を終えて、さっそくバザールに
出かけた。

 

<羊たちの悲しい別れ>
羊たちが互いの頭を交差させて紐で結ばれ、優しい目を大きく開き、声高に鳴き声を上げている。
子持ちの母羊は、子羊に最後まで乳を飲ませている。「人間を恨んでなんかいないよ。この世に生まれ
て良かった。わたしの役目もこれで果たし終えられると思っているんだ。」
メーメーと鳴きながら母羊が、子羊に頬を寄せて、子羊をなめている。何度もなんどもわが子の名を呼ん
でいる。「さよなら、立派に生きなさい」とわが子に別れを告げているのであろう。

 

カシュガルの青空市場の風景>
1元(16円)のウイグル風ピザを朝食としていただく。直径40㎝はあるだろうか、ザックに入らないので
2つ折り、1枚で一日過ごせるボリュームである。
ホコリとゴミの山をかき分けて、ナイロン袋を敷いて座り込み、ピザを食べながら雑踏の騒音を楽しむのも
旅先での楽しい思いである。
何と豊かな活きいきした売買の掛け声であろうか、日本ではもう聞かれなくなって久しい。みな生きること
に真剣であり、商売に没頭している姿は美しく、健康である。

 

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            カシュガルの青空市場は市民の憩いの場である

 

ウイグルの名産であるハミ苽(ウリ)には、いたるところで人々が輪になって無心に食べている光景に
出くわす。1切れ1元だという、これでお腹を満たしている人も多いようだ。

ミネラルウオーター3元、ワイン3元。 ビールは0.5~1元とミネラルウオーターやコークよりも安いが、
甘すぎるのと冷えたビールでないので日本のビールと比べて飲みにくい。
しかし、ミネラルウオーター代わりによく飲んだものである、腹が出てきた。
一方、ワインはそれぞれに強烈な個性があり、癖がある。今日の1本はまるでチンザーノを煮詰めたような
濃さである。これまた土地の味である。そう、これこそシルクロードの赤ワインである。

携帯の普及にも驚いたが、この市場には一般電話が数台が並び、1分0.3元で貸し出し、そこに
は長蛇の列ができているからこれまた驚きである。どうも長距離電話であり、海外との通話に利用して
いるようである。

この市場では、スケッチブックを補充しなければならない。上海より描き続けてきたスケッチブックは絵で
いっぱいになってしまった。
日本で手に入れた和紙に近いスケッチブックを見つけるのはむつかしいようである。
やはり西安あたりで手に入れておくべきであった。カシュガルでは毛筆文化がないのか和紙を目にする
ことはない。
何とか模造紙のようなものを買い求め、スケッチブックとして使用することにした。
星の巡礼用小型旅ノートも、サイズに合うものがなく現地の小学生用のノートを購入し、カッターナイフで
サイズを合わせることにした。

 

日曜青空バザールから宿泊先の<交通賓館>に戻るためカシュガル公営バスに乗った時、込みあっ
た車内で、漢人の青年が席を譲ってくれた。彼が次のバス停で降車するものとばかり思い、席を譲って
もらったのである。
しばらくして隣の若い女性と話し始めたので連れであることが分かった。
彼女の方を見たら、日本語で「日本の方ですか?」と、そうだと答えたら、彼は彼女の夫だという。
中国では目上の人に席を譲ることになっていると。
孔子の教えである儒教、目上の人を敬えという教えをウイグルの地で目にしたことに新鮮さを感じた。
他人を想う心がこの共産中国にも、小さな花に見えるが残っていることに一筋の光明を見出したもの
である。
彼女は北京大学で1年間日本語を学んだとのこと、現在はカシュガルにあるシルクロード博物館に勤務
しているという。


いよいよシルクロード西進は、パキスタンに入る。
パキスタンアフガニスタンの隣国であり、多くの戦闘員の逃げ込んでくる危険地帯が広がる。
いつどこでトラブルに巻き込まれるかもしれない。
トラブル防止と、日本人であることを知られないようにするため、日曜バザールでイスラム教徒の着用する
白い民族衣装とキャップ帽を購入した。

カシュガルの夜は、スモッグと砂ホコリが入り混じって顔に吹き付けてくる。夜になると空気の汚れがよく
わかるのである。自動車のライトに浮かび上がるスモッグに、ロンドンの朝の霧のように気持ちをふさがれる。
それも霧ならまだロマンチックだが、こちらはスモッグと砂ホコリだからウイグルの人たちの健康を知らずの
うちに害していることになる。

日本人としては、海に囲まれた自然の風を何の疑いもなく深く吸い込むことが出来るのであるから、
豊かな自然の恵みに感謝し、大切な大自然を守って行かねばならない。


ユダヤ民族を砂漠の民にされたのも、苦難を克服することによって己を高めさせ、民族の純粋性を
守らせるためであったことを思えば、ウイグルの過酷な自然環境も政治的試練もまた必ずや彼らを鍛え、
ウイグル族の末永い繁栄がもたらされることを確信したい。

 

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           ホテル近くの定食屋のウイグル家族とカシュガル

 

いよいよカシュガル最後の晩を迎えた。
明日、パミール高原のタジクスタン・アフガニスタンパキスタンの国境近くに位置する
シルクロード中国>の最西端にあるタシュルクルカンでパキスタンへの国境越えのための出入国手続
を行うため一泊することになっている。

 


《 8月24日 塔什庫爾干・タシュクルカン 1泊する 》  
  シルクロードの中国・パキスタン国境の村

 

6時27分、今まさにカシュガルの太陽が誕生する瞬間である。
新疆ウイグル自治区の西の大都会 カシュガルの高層ビルがオレンジ色に染まり、幻想の一瞬を演出する。
小鳥たちの鳴き声も、命をささえるわたしの鼓動の高鳴りも、タクラマカン砂漠の砂埃もすべて
この時の流れの中にある。

日の出を見ながら、ゆっくりと人民西路を南に歩いていたら、包子屋台の御主人の柔和な目と出会った。
出した椅子に座れという。
シルクロードで初めて飲むミルクが渡された。
砂糖を入れ、割りばしでかき回しながら飲んでみた。
なんと美味しくコクのある山羊のミルクであろうか。


万頭を口に入れながらスケッチを仕上げることにした。

 

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すべてに時があるように、シルクロード中国との別れの時がやって来たのである。


      <すべてに時がある>
        詩 後藤實久


時はすべての尺度であり、すべてのベースである
その時の流れに物語が生まれ、歴史が刻まれる
時は、すべての命を慈しみ、すべてに浸透する
なんと広大無辺なる時の歩みであろうか。

人は、時の流れに乗る一葉の孤にすぎず
おのれの意志で時に乗っているとうぬぼれるが
時の中に飲み込まれ、あがらうことのできない存在
時の流れに身を任せ、パミール高原を越えんとする

 

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ここに、シルクロード前半、中国を終えるにあたって、道中でつくった俳句をまとめておきたい。

 

 

《 俳句 シルクロード<絹の道>中国 》

       後藤實久作

《 便コロの 線路転がる 夏夜汽車 》
(夜汽車の便座にまたがって線路を見下ろすと、線路脇の安全灯の光に便コロが浮かんでは消え去るという風流な趣を味わうことであるー西安近郊にて)

《 柳垂る 長安更けて 酔いのなか 》 
(濠の水面に映る柳が揺れているのをみていると、更けゆく西安も酔いの中では長安にいるかのように錯覚させられることよー西安にて)

《 絹の道 悠久の天地 石榴かな 》
(見果てない夢の道、東西をつなぎ天地を結ぶシルクロード。石榴に見守られ続けた絹の道であることかー兵馬俑近くの石榴園にて)

《 シルク道 一片の月 夏の影 》
(今、月明かりがシルクロードにさし、薄いわたしの影を焼き付けているではないかー敦煌にて)

《 吹き寄せし 万里の熱砂 嘉陽関 》
(いつか出会いたかったゴビ砂漠万里の長城の西の果て嘉陽関、ゴビの砂嵐が顔にあたり心地よいことよー嘉陽関にて)

《 茫漠に 沈みし砂漠 蜥蜴棲み 》
(砂漠には砂漠を棲み処とする小さき命―トカゲーおり、その動きは昼・砂漠に沈み、夜行するではないかーゴビ砂漠にて)

《 一粒の 砂にも神の 夏日あり 》
(一粒の砂、われも一粒の人、ともに命ありて、平等に夏日を浴びているではないか―ゴビ砂漠・鳴沙山にて)

《 沈黙の 風紋語る 砂嵐 》
(砂漠は黙して語らず、ただ風紋にその命を見るのみである。わたしはその沈黙と風紋に砂漠のぬくもりを感じるのであるーゴビ砂漠酒泉にて)

《 崖彫りし 千仏窟や 夕涼み 》
(この光景は人の力ではなしえない、崖に穴をあけ石を切り仏を彫る様はもう神の技である。しかし窟の中の仏のみなさんは涼しい顔をされているではないかー莫高窟

《 蜃気楼 ゴビの風乗り 砂に消え 》
(砂漠に現れる蜃気楼は不思議な現象である。揺れる海に浮かぶ島々が瞬間に消え去るさまよーゴビ砂漠・嘉陽関にて)

ゴビ砂漠 白骨積みし 夏しるべ 》
(砂漠に光る小さい白い骨、ラクダの骨だろうか、荒漠たる砂原では道しるべに見えてほっとするーゴビ砂漠にて)

《 神おわす 祁連山脈 雪化粧 》
(千仏洞からみる雪化粧した祁連山脈の峰々の神々しさよー敦煌・千仏洞にて)

《 月下にて 独り酌む酒 李白とや 》
トルファンの葡萄園で独り飲んだ赤ワイン、李白の詩・月下独酌を吟じ、ひとりシルクロードにある己を誉めるなりー吐魯番/トルファンにて)

トルファンの 浮雲垂れし ブドウ狩り 》
トルファンゴビ砂漠の西にあり、乾燥した気候に適した葡萄の産地である。めずらしく雲が垂れ込めた葡萄園に訪れたートルファン

《 星見つめ 祈りし子羊 夏祭り 》
(生贄/いきにえに捧げられる子羊の、星に祈る澄みきった目に夏祭りの火が迫りつつある悲しさよートルファンにて)

《 天山や 君我を飲み 干し黙す 》
ウルムチ天山山脈の北東に位置する。シルクロードトルファンで山脈を挟んでウルムチに向かう天山北路とクチャに向かう天山南路に別れる。天山山脈は、瞑目する禅僧侶のごとく坐し、すべてをのみこんで黙し旅人を見守っているーウルムチにて)

《 笑うなよ 酔って砂漠に 臥す我を 》
(酒によってではなく、憧れの砂漠に酔って、母に抱かれる赤子のように、柔肌に抱かれて臥している己に照れたものだークチャ・タクラマカン砂漠にて)

《 絹の道 熱砂たどりし 幾千里 》
(歴史行き交う夢のシルクロード、それは気の遠くなる幾千里もの砂の道であるのだークチャ⇒ホータンへのタクラマカン砂漠の縦断夜行バスの中で) 

《 熱風に 白骨踊る 蜃気楼 》
タクラマカン砂漠には土石墓がまるで白いミイラのように熱砂の中、蜃気楼に踊らされているように横たわっているのであるータクラマカン砂漠にて)

《 熱砂に 四方茫々 覚ゆ死と 》
(約500年前、玄奘も「大唐西遊記」でタクラマカン砂漠をこのように述べ伝えているではないかータクラマカン砂漠にて)

《 ホータンの 砂塵の幕に 夕涼み 》
(ホータン/和田は、タクラマカン砂漠の南に位置する街である。夕方になると風向きにより砂塵の幕に覆われるのである。風はカラコルム山脈からの涼風であるーホータンにて)

《 夏の夕 タクラマカンに 落つ天地 》
タクラマカン砂漠の夕暮れは、まるで天地が闇に消えゆくような情景を醸しだすのであるータクラマカン砂漠にて)

《 地平線 揺れる砂漠に 夏の海 》
タクラマカン砂漠に浮かぶ夏の海と思いしや、地平線に揺れる蜃気楼かなータクラマカン砂漠にて)

 

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<▲タシュクルガン1泊 『交通賓館』 ドーム10元>

ここシルクロード中国の西端の街タシュルカンは国境の街であり、ここで長距離国際バスの乗客は一泊し、
翌日の国境での入出国管理手続きに備えるのである
タシュクルカンはパミール高原の風が吹くうららかな街であり、街中をタジク婦人がスカートにカラフルな帽子をかぶり、スカーフをなびかせて闊歩する姿には目を見張った。

国境の村らしくパキスタンイスラムの商人の滞在が目につく。
ただウイグル人パキスタン人かの違いか分からないまま出国しそうである。

 

< タシュクルガンにある石頭城に遊ぶ >
街の北側にある小高い丘に、紀元後初めごろに起こった羯盤陀国の<石頭城>がある。
城壁からは崑崙(クンルン)山脈、カラコルム山脈パミール高原からなる大パノラマを観賞できるスポットである。
幻想的な不毛の景観を身近に楽しむことが出来る。
遠くの草地に煙をくゆらす真っ白なパオが童謡的風景の中に輝いている。

 

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               タシュクルガンにある石頭城を背景に
   背後のピラミット型山は、崑崙(クンルン)山脈の最西端。連なる山並みは、カラコルム山脈

 

 <信じられないスケッチブックの紛失>
村を散策後、宿の<交通賓館>にもどり、日本向け小荷物の荷造りをしていて、スケッチブックがない
ことに気づいたのである。

カシュガルを出る時、バックパックシルクロード中国を描いたスケッチブックを大切に入れたことを
確認し、ここタシュクルカンで2枚のスケッチをしているだけに、ここタシュクルカンの村を散策中に紛失したか、置き忘れてきたことになる。
散策したルートを探してみたがどうしても見つからない。
郵便局が閉まるので、スケッチブックはあきらめ、日本向け小荷物を出すことにした。
一抹の望みは、街の誰かが拾って家に持ち帰っていて、後日警察にでも届けてもらえることである。
しかしその望みも絶望的であろう。なぜならここは、カラコルム山脈に囲まれたパミール高地である。

帰国したら個展をすることにしていただけに残念である。
しかし、紛失した60数枚のスケッチを神様に買い上げていただき、天国の画廊で個展をさせてもらっていると思うと、さっぱりと悔いを忘れることが出来た。
これからのローマまでのスケッチ一枚一枚にさらなる情熱を傾けることにした。

 

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                        スケッチブック紛失前に書き上げたスケッチ(1/2)

                                        ー銀嶺のカラコルム山系ー (タシュカルカン村より)

 

後日談だが、帰国後さっそく地元の<中国塔什庫爾干塔吉克自治県支部長>宛に、
中国のシルクロードの風景を描いたスケッチブックを日中友好の展覧会に出品するはずであったが、
わたしの不注意から、<塔什庫爾干>で紛失したので、届け出があれば日本に送っていただけないか
との手紙を、漢文・英語・日本語で出しておいたのである。
もちろんスケッチブックが見つかって、日本へ郵送されてくることは夢であり、希望であった。
奇跡が起こることを念じて手紙を投函したことをよく覚えている。


<日中両人民の信頼と尊敬にこそ、平和への希望が見えてくる>
それが帰国後、1年して奇跡が起こったのである。
まぎれもなく紛失したスケッチブックが塔什庫爾干塔吉克自治県当局(タシュクルカン・タジク自治県)から
届いたのである。

夢でもなく奇跡でもなく、本当に中国の僻地から消えたスケッチブックがわたしのもとに届いたのである。
小包には一片の手紙もなく、ただスケッチブックだけが同封されていた。
そこには当局やお世話いただいた担当者の無言のこころの温かさと、無言の日中友好の証がしたため
られていると受け取った。
こちらも西方に向かって無言のうちに感謝の言葉と手を合わせた。

中国浙江省天竜寺に修行参禅された道元禅師の御言葉である<向かわずして愛語を聴くは、
肝に銘じ魂に銘ず。愛語よく回転の力あるを学すべきなり>の精神こそ、日中両国の理解と平和の
礎だと確信した。


相互に認め合い、争い無き平和にこそ、日中が目指すべき世界平和への共通の道があるといえる。

 なにか浦島太郎が玉手箱を開けた時の驚きに似ていた。はじめ夢かと思ったが、まぎれもなく姿を消したスケッチブックである。

うれしかったのは当然であるが、中国の僻地に隠されていた人民の温かさに、感謝と感激に心震えたものである。あまりの歓びに、関係者にたいしお礼の手紙と日本人形を贈り、感謝の意を伝えた。

 

たしかに奇跡が起こったのである。


それは中国の人々もまたひとのこころを理解し、大切にする人々がおられるということである。
ここにあらためて塔什庫爾干塔吉克自治県の当局関係者そして「消えたスケッチブック」を探して
いただいたタシュクルカンの村民の皆さんにこころから謝意を申し上げる次第である。

 

2020年春今日このころ、中国武漢で発生した新型コロナウイルスによる全世界の中国人民への風当たりの強い中、もう一つの中国人民の温かい人情に触れていただければ、わたしの最大の喜びとするところである。

 


《 8月25日 塔什庫爾干・タシュクルカン  入出国手続き 》
  -中国出国 / パキスタン入国― (入管手続き)

 

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             タシュクルカン中国側出入国管理局・税関  (K氏撮影)

 

シルクロード中国最西端国境の村・クシュクルカンで姿を消した「消えたスケッチブック」が現地当局と村民の熱意と好意によって1年後に発見され、志賀の里に里帰りしたエピソードをお伝えし、<シルクロード踏破16000㎞日記 前編> を書き終えることにする。

 

当時のシルクロード中国を、現在の中国の経済や政治状況を鑑みながらお読みいただければ幸いである。
日中両国の平和を愛する人民による相互理解と互恵精神の上に立って、息の長い友好関係が続くことを切に祈ってやまない。

 

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          パミール高原クンジェラブ峠(標高4733m)を越える

          (これよりカラコルムハイウエーをパキスタンフンザ村に向かう)

 

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             クンジェラブ峠よりカラコルム山脈を望む

 

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              スケッチブック紛失前に書き上げたスケッチ(2/2)
                   ーカラコルム山脈

 

 

シルクロード後編 予告>
後編 『シルクロード踏破16000㎞日記』では、マルコポーロも馬で12日かけて万年雪をいただく標高平均4000mのパミール高原を越えたとある現在のカラコルム・ハイウエーをパキスタンフンザ村目指して南下する。
パキスタンでは仏陀の跡をたどりながら世界遺産や、アフガニスタン国境に立寄り、カラチを経てイランに入り、イスラム革命後のイランを斜めに縦断して、旧約聖書に出てくるノアの箱舟で有名なアララタ山にトルコの国境で出迎えられトルコを横断、イスタンブールからヨーロッパに入り、ギリシャを北上、バルカン半島ブルガリアルーマニアハンガリーを経て、オーストリアからアルプスを越え、イタリアのフィレンツエで無事<シルクロード踏破>をなしえたことを祝って赤ワインで乾杯し、ローマに到着する。バスと列車による珍道中になりそうである。

 

       2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』』前編
             <シルクロード中国>を終える

 

           後編 『シルクロード踏破16000㎞日記』 

       <タシュカルカン/塔什庫爾干 ⇒ ペシャワール/パキスタン
                 につづく