shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2015『星の巡礼・フィリピン縦断2500KMバス紀行』1 ー戦跡を訪ねてー

 

2015『星の巡礼・フィリピン縦断2500KMバス紀行』1
       ―フイリピン戦跡を訪ねて―
 

わたしは例年、冬のあいだ脳梗塞の再発症を抑えるため南国で過ごすことにしている。
この冬、避寒のためフィリピンに滞在し、70数年前の戦跡を訪ね太平洋戦争におけるフィリピン戦や神風特別攻撃隊誕生の背景にふれんがため「星の巡礼 フィリピン縦断2500kmバス紀行」に出かけてきた。
 
若き命を自ら断った特攻青年の命の散華、これまた人間が直面した究極の葛藤であったと思う。
ひとにはそれぞれその時があたえられ、それを乗り越えていく。人間の強さを感じる。


戦争を体験した国民、特に敗戦した国民として戦争の悲惨を繰り返してはならない。
しかしながら戦後70年、戦争を知らない人々が大多数をしめる平和な時代をむかえ、戦争の悲惨さ
を忘れ去ろうとしている。
その中で最も悲惨を極めたのはここフィリピンであろう。フィリピン戦に投入された軍隊625,000人、
戦死者498,000人は他と比較し群を抜いて多い。
 
この戦後70年の節目に日本防衛の最期の防波堤となったフィリピンを訪ね、戦跡をめぐり大東亜
戦争・太平洋戦争を振り返ってみたい。
なぜ負ける戦争を始めたのであろうか。
そして道中、戦争に徴兵され、無念の中に倒れていった多くの戦没者に感謝の言葉を手向けたい。
 
今般、永年希望されていた天皇陛下による南方の激戦地の一つであるパラオ諸島ペリリュー島
を慰霊訪問されたとの報道がなされた。
 
昭和19年(1944年)6月、米軍は、日本の絶対国防圏の要衝である中部太平洋マリアナ諸島
サイパン島 テニアン島グアム島)への侵攻を開始、この海域の制海権・制空権は米軍の手
におち、2か月後、孤立した日本軍守備隊が玉砕、マリアナ諸島は米軍に占領された。以降、
ここを基地とした米軍による日本本土空襲が開始された。

その後、ニューギニア方面を制圧した連合軍はパラオ諸島フィリピン諸島に向かうこととなる。

 
米軍はフィリピン攻略にあたって、この地域最大の空港のあるパラオ諸島ペリリュー島を占領
しておく必要があった。一方、日本軍はフィリピンの石油を防衛することと、日本本土をうかがう
米軍反攻を遅らせるための防波堤としてペリリュー島、フィリピンでの徹底抗戦を命じた。
 
これまでの万歳突撃による玉砕から洞窟に立てこもっての戦闘や自給自戦による持久作戦に
転換、長期にわたる壮絶な戦いを強いた。兵站をたたれ、食糧もなく多くの兵が飢えやマラリア
などの疾病でたおれていった。
 
太平洋戦争で戦没した日本軍の戦死者のうち、兵站軽視の作戦指導、補給無視の作戦計画に
よって戦死者総数230万人のうち140万人は餓死であったと言われている。なんと全体の戦死者
6割もの将兵が飢えのため没したことになる。世界にその例を見ない。
 
ペリリュー島では守備隊10,931人のうち戦死者10,695人、生存者は終戦2年も洞窟で戦い続けた
34名であった。米軍もおおくの死傷者をだしたが、約40,000名による上陸作戦で日本軍守備隊を
殲滅した。
ペリリュー戦は玉砕を禁じ、持久戦を始めた最初の日米攻防戦であった。
 
このあと、フィリピン・レイテ島上陸を経て沖縄上陸へと続く。
フィリピン戦は本格的な終わりなき持久戦の戦場であり、玉砕以上に過酷な戦い「徹底抗戦」を
強いられた。
 
では、フイリピン・レイテ島の戦いを見てみよう。

米軍200,000名に対し日本軍84,006名、その内戦死者は米軍3504名に対し日本軍79,261名であり、生存率は日本軍6%にすぎなかった。全滅に近い。

 
沖縄戦をふくめ、この持久戦にみる日本軍の徹底抗戦と自国兵士の膨大な死傷者数に米軍は
戸惑い、日本本土侵攻前にポツダム宣言を草して日本にたいし無条件降伏をせまった。さらに
広島と長崎に原爆を投下して受諾を早めさせた。
 
このように見てくると、なんとも無駄な戦いをしたように思えるし、亡き兵士も捨石にされて浮か
ばれないという人がいるかもしれない。しかし戦った兵士ひとり一人はその職責を充分にはたした
と思う。
それは米軍に一億総玉砕をスローガンとする日本本土への進攻を躊躇させ、日本に無条件降伏
を受託させた一因を醸成させたことである。
そして戦争の愚かさを死によって諭したことである。現在の日本は、その礎の上に成り立っている
ことを忘れてはならない。
 
物流・資源・市場・領土にたいする自衛のための戦争であったという。一方、領土拡張、資源獲得
という隠された戦争目的もあった。それらを正当化するためアジア白人植民地からの独立支援を
叫び、日本が成し遂げた近代化を押しつけたことも確かである。
 
何度も繰り返すが、悲惨な戦争は二度と繰り返してはならない。だが他国による支配・植民を決し
て許してはならないし、専守防衛の気概だけは忘れてはならない。
自分と自分の家族は自分たちが守るしかその術はないのである。
 
一度戦跡にたって考えてみたい。
では『星の巡礼・フィリピン縦断2500KMバス紀行』に出かけてみよう。
 
2015227日(金曜日) 快晴 30.8  マニラに降りたつ>


最初の特攻隊員の飛び立ったフィリピンのルソン島・マニラ上空は輝く白雲にその南国の美しさ
をみせていた。
空はどこまでも青く、入道雲は仏のごとく無念無想の姿で坐していた。
コレヒドール島がお玉じゃくしの姿をしてパターン半島の南にぶら下がっている。
エンジンの振動が伝わって来るとマニラ国際空港への着陸態勢に入った。


空港に隣接する幹線道路よりジプニー(ジープ改造の乗合小型バス)に飛び乗って、マニラの
ダウンタウン・パサイ市バクラランにある宿泊先「 Manila International Youth Hostel」に向かう。
 
イメージ 1
            Manila International Youth Hostel
 
 
 
 
フィリピン縦断2500KMバス紀行 2
コレヒドール戦跡を訪ねてー
につづく