shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』Ⅸ

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 9


■45 庄野宿
伊勢国(三重・鈴鹿市   京より92km / 日本橋より400km
 
 
この東海道53次自転車の旅で、大阪より日本橋に向かってランニング、走っていた一人の男性に
出会った。
彼は定年を迎えてのあとの毎日の生活に変化と生きがいを求めて走っているとのことである。
本人は「時間つぶしです」と言われるが、そのランニングの速さは中途半端でなく、自転車のわたし
でさえその対抗者(競争相手)ではなかった。
ランニングに抜かれる自転車、脅威のライバルに目をみはったものである。
 
この庄野宿でも、黑一色のハット、シャツ、ショートパンツ、ソックス、トレッキングシューズ、リュック
のトータルルックで東海道徒歩旅行をしている同世代の旅人に出会った。東海道53次の旅もそれ
ぞれの想いやファッション、夢や希望・苦難や宿命を背負って歩いている姿は昔も今も変わることがないようである。


イメージ 1 イメージ 2
左・
亀山宿より庄野宿に向かう途中JR井田川駅前で出会った旅人(写真左端)   
右・旧東海道庄野宿の街並み、連子格子の旅籠が並ぶ穏やかな宿場である
 
イメージ 3 イメージ 4
 庄野宿本陣跡                                                                歌川広重東海道五十三次 庄野白雨」 浮世絵

イメージ 5
庄野宿資料館(市指定建造物 旧小林邸住宅)


 
■44 石薬師宿   
伊勢国(三重)   京より95km/日本橋より398km   

庄野宿からJR関西本線加佐登駅を横目にすぎると、国道1号線を越え、線路をくぐり蒲川橋に
出る。橋手前の線路寄り(南側)に「石薬師一里塚」がある。
石薬師宿は規模の小さい宿場である。見るべき宿場跡は小沢本陣跡を示す石柱碑があるのみ
である。
この石薬師一里塚跡と小沢本陣跡が唯一「石薬師宿跡」の歴史を伝えているように見える。

石薬師は、宿場の南はずれにある石薬師寺の門前に開けた町で、街道でも最も小さい宿場の
一つだった。


 
<■石薬師一里塚>   京より23里92km/日本橋より102408km
                                 (三重県鈴鹿市上野町)
 
イメージ 10 イメージ 12
 石薬師の一里塚                                                          歌川広重東海道53次 石薬師」 浮世絵                          

「石薬師の一里塚は,もと蒲川の西岸に位置し,かつては東海道の両側に榎が植えられていた。
記録によると,榎は伊勢湾台風で折れ,終戦後北側にその根元だけが残っていたという。
しかしその後消滅してしまったので,昭和52年に南側に榎の若木を植え,『史跡石薬師の一里塚跡』の碑を

建てて保存が図られている。」 (案内板より)


イメージ 6 イメージ 7 
「石薬師宿」であることを示す宿場表示板                                       案内板                                
  
イメージ 11
 「佐々木信綱資料館」
 
 蒲桜、石薬師寺をへて、国道1号線を横切って進むと小学校横に連子格子の風格ある二階建ての家屋がある。
明治の歌人で、万葉研究で知られた国文学者の佐々木信綱の生家で、隣に「佐々木信綱資料館」がある。
 
佐佐木信綱は、鈴鹿市が生んだ偉人としても知られている。 この資料館に立寄ってその偉業を観賞した。
蒲桜の近くに佐々木信綱の歌碑がある。

『 ますらをの その名とどむる 蒲さくら 更にかをらむ 八千年の春に 』 (佐々木信綱)


イメージ 8 イメージ 9
 佐々木信綱資料館より北へ100mほどすすむと、往時の威風をを漂わせた、ひときわ大きな古い
建物がある。これが小沢本陣跡である。宿帳には、大岡越前守の名もある。 

<小澤本陣跡>


案内板によると
東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設置された。この時から、村名も宿の名も『石薬師』となった。当時、石薬師寺近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。大名が
泊まるところを本陣といい、小澤家が本陣を勤めていた。石薬師宿は小高い台地にあり小澤本陣の周りには高い松の木があったので、別名『松本陣』ともいわれていたという。小澤家には当時の文書が多く残されおり元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の名も見える。」 

いよいよ二日目の露営地「四日市宿」に入る。
采女一里塚の石碑を見ながら次の宿場、四日市へとむかう。



■43 四日市宿

伊勢国(三重)  京より105km / 日本橋より387km

 
1601(慶長6) 、桑名と石薬師の間の東海道43番目の宿駅とされ, 四日市宿と呼ばれた。
伊勢神宮への分岐点が日永地区に追分という地名として残っているように、伊勢参拝の分岐点ともなって
旅人でにぎわったとある。


天然の良港によって回船業が発達し、市場が出来る。四のつく日に市がたったことに由来し「四日市」と
呼ばれた。


四日市中心部は江戸時代天領江戸幕府直轄の領地)になっており、代官所代官が派遣 されて統治を
行う役所)が置かれていた。


当時より、伊勢国北部の北勢地域の行政の中心地であった。
宮宿との間に「十里の渡しがあり、港としても熱田との往来が盛んであったとある


 


采女一里塚>(うねめ)      京より2496km/日本橋より101404km
                                         三重県四日市市采女町)


石薬師宿をでて国道1号線を進むと、旧東海道との分岐、西側に「史跡 采女一里塚跡」の石碑が
立つ。

イメージ 13 イメージ 16
采女一里塚跡石碑             歌川広重東海道53次 四日市」 浮世絵
                       (現在の三滝川を画いたと言われている)
 
イメージ 14
杖衝坂にある芭蕉句碑
 
采女一里塚のある国道1号線を右に入り、旧東海道を行けば、杖衝坂の上りになる。杖衝坂(つえつきさか)は日本武尊の故事が伝わる急勾配の坂道。日本武尊は東国を平定しての帰途、伊吹山の神と戦い傷ついたことで病に倒れ、その弱り切った身体をおして大和帰還を目指す。この急坂に差し掛かったところで、剣を杖代わりにして何とか坂を登りきったという。東海道の旅人を恐れさせた急坂である。
 
また、杖衝坂を上りきる手前に芭蕉句碑がある
 
貞享4年(1687)、芭蕉は江戸から伊賀に帰る途中、急な坂のため落馬したという。そのときに詠んだ季語の

ない有名な句がある。


「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」 (芭蕉
 
わたしも、昔の旅人を偲び自転車をおり、押してのぼった。もちろん自転車から落ちないためにだ。
 
高校生たちは立ち漕ぎでその若さを発露していたし、幼児を前後に乗せて一気にかける若き母たちの電動自転車に圧倒された。時代の流れにわが歳は乗り遅れているようでもあり、わが残り火の青春を楽しんでもいるようだ。
 
歩きも実にいい、時や歴史を共有している安心感と満足感がある。

イメージ 15
日永追分 東海道と伊勢街道(参宮街道)との分岐点

東海道伊勢街道参宮街道)との分岐点、四日市宿と石薬師宿間の宿でもあった。


われわれも弥次喜多コンビで「東海道53次自転車の旅」をつづけている。四日市宿の「日栄追分」を通過する
にあたって、十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛』(1802年初版)の主人公『弥次喜多』の話しを紹介して
おきたい。当時すなわち江戸時代の東海道の旅の実状をうかがい知ることができるからである。実にのんびり
した良き時代を旅していたことがわかる。




四日市宿の旅籠に泊まった弥次さん、喜多さんは、ここお伊勢さんとの分岐にあたる追分にある茶屋に立寄った。この茶屋には名物の饅頭があったそうな。先客の半天をひっかけた金毘羅参りの男と出会う。大食いには自信のあった弥次さんは、大食い競争で饅頭代をうかせる魂胆から金毘羅参りの男に一つの提案をする。「饅頭をどの位食えるか」賭けをしようとの話になった。しかし競争に負けた後あと、相手は大津の釜七と言うえらい手品使いであることを駕籠かきから知らされる。勝てるはずもない。まんまと233文を逆に失うのである。
弥次さんはいっぱいはめられたというか、おのれの自惚れに敗れるのである。
このあと東海道と伊勢参宮道との別れ道であるここ日栄追分「追分の立場」より弥次さん喜多さんは、伊勢ー大和路に入り奈良街道を経て山城の宇治に至ったとある。
 
もうすぐ二日目の露営予定地の諏訪神社横の公園だ。
あと一息ペダルをこぐ。
 

 
 
 
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 10
  ■ 43四日市宿ー2 につづく