昨晩は大雨に見舞われた。テントの下にも一部浸水したが、寝袋や衣服の濡れもなく撤収を無事終え、
付近の清掃、感謝の祈りをささげ、霧雨の中5日目のスタートをきった。
「おんやど白須賀」(資料館)あたりから潮見坂の下りが始まり、新居宿へむかう。
入った。
《 いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹かれし 富士を眺めて》 足利義教
また、潮見坂は街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されている。西国(京)から江戸への道程では初めて太平洋の大海原や富士山が見える場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地である。広重の浮世絵でもこの遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いている。
足利義教が政争からはなれこころのほぐれをここ潮見坂で詠んだ気持ちが伝わってくるようだ。
わたしの自転車もまた、そのスピードをあげ、転がるように風を切って太平洋という大海原に突っ込んでいった。
昔、旅人には遠州灘に浮かぶ帆船が宝船に見えたであろう・・・PB81で学んだ詩吟『宝船』(藤野君山作)を口ずさみ、風を切って潮見坂をかけおりた。
≪宝船≫
壽海波平紅旭鮮 (壽海波平らかにして 紅旭鮮やかなり)
遙看寶字錦帆懸 (遙かに看る宝字 錦帆にかかるを)
同乘七福皆含笑 (同乗の七福 皆笑を含む)
知是金銀珠玉船 (知る是れ金銀 珠玉の船)
左が「高札場跡」、右が「白須賀一里塚跡」の各石碑
白須賀一里塚跡から4km先の新居一里塚跡めざして遠州灘を右手に遠望しながらの快適な
サイクリングを楽しむ。
■31 新居宿
■関所とその役割
新居には慶長5年(1600)に徳川家康の命で関所が設けられた。いまも全国で唯一つの当時の関所の建物が残っている。
<入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)政策>
幕府は江戸を守るため全国に53ヶ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」に対し厳しく取り締まった。特に新居関所は約100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれた。鉄砲など武器の通行ではもちろんのこと、当関所に限っては江戸へ向かう女性(「入り女」)にも「手形」が必要で、不備が見つかれば通ることはできなかったという。
江戸幕府の入鉄炮出女政策における「入り女と女手形」は、江戸藩邸にて人質状態にある大名の妻子が国元に逃亡することがないように江戸から出る女性を関所などで厳重に監視した。このため、江戸から出発する女性は幕府の留守居から特別な手形を貰う必要があった。これが女手形である。
白須賀宿から潮見坂を下ってきて、「70・白須賀一里塚跡」をすぎ平和な旧街道を約4kmほど行くと新居の宿場に入って行く。まず,新居宿西境をしめす「棒鼻」と「69・新居一里塚跡」に出会う。
棒鼻跡石碑と解説板 69・新居一里塚跡石碑と案内板
<棒鼻について>
湖西市教育委員会によると「ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が出て枡形をなしていた。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒先と呼ぶようになったとも言われている」
棒鼻より400m先でJR東海道本線に沿って鋭角に右に曲がると、立派な新居の関所跡にでる。
関所入口には、炭太祇(たんたいぎ)の句碑が建つ。
《 木戸しまる 音やあら井の 夕千鳥 》 炭太祇
この辺りには寄馬跡、疋田八郎兵衛本陣跡、飯田武兵衛本陣跡、疋田与五郎本陣跡と並ぶ。
また街道裏の渡船場跡や船囲い場跡をみて廻るのも当時の旅事情や風情を感じるものである。
渡船場跡と船囲い場跡 疋田八郎兵衛本陣跡
昔、湖南の陸はつながっており、浜名湖は淡水湖であった。江戸時代、明応8年(1498年)8月25日に、明応地震が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われた。津波により浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となり外海(遠州灘・太平洋)とつながった。このことから、この辺りを「今切」(いまぎれ)と呼ばれるようになったという。
<宿駅伝馬制度>
幕府は中央から地方を統治するために人の移動、物資の輸送、また、情報の伝達を円滑にするために宿駅伝馬制度を制定した。この制度では、人馬を無料で使用する事が出来た。
徳川家康は、慶長6(1601)年、江戸~京都間の東海道の約8km毎に宿駅を設定して、宿駅毎に、幕府公用の通行人や荷物の輸送用に乗り継いで使う馬( 伝馬 ) 36疋を常備させ、朱印状を所持している場合は規定の範囲内で、人馬を無料で使用できた。宿はその代償として地代を免除された。
次の宿場まで幕府公用の書状や品物を届ける「継飛脚」業務も代行していた。この制度を宿駅制度といい、このように、公用の書状や荷物を出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿駅ごとに継ぎ送る東海道53次の「次」とは、宿場ごとに荷物を「継ぐ」という意味である。このようにリレー方式で送る制度を伝馬制度という。
余談だが、箱根駅伝ほかで使っている「駅伝」とは、この伝馬制度からヒントを得たと言われている。
話は変わるが、いまから約15年前、南米ペルーにある「インカ道」をクスコ近郊(82km地点)からマチュピッチュまで歩いたことがある。インカ道トレッキングは3泊4日のテント移動で約80kmの移動であった。このインカ道の役割や目的もまた家康の「宿駅伝馬制度」と基本的に類似した情報伝達の役割をもっていた。それでさえ馬を使わず伝令として4kmの中継点を走って、中継ぎにバトンをわたして情報を伝えていた。
家康は国家運営の手法として「宿駅伝馬制度」を制定・運用した所に改革者・為政者としての手腕が見て取れるのである。
<今切の渡し>
では、渡船じゃなく自転車で舞阪宿・渡船場「雁木」に向かうことにする。
■31舞阪宿』 につづく