shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』41

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』 
  東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 41


■2・川崎宿
     武蔵国・神奈川県>                京都より474.5km / 日本橋より17.6km
 
川崎宿は、東海道53次2番目の宿場であり、現在の神奈川県川崎市川崎区に位置していた。
川崎宿は、品川宿から神奈川宿までの距離が長く、伝間の負担を軽減するために遅れてできた宿場で、他の宿場の設置にくらべ遅かったという。
 
郷川(現在の多摩川)に架けられた橋が、貞享5年(1688)の大洪水で流失したあと、川越は渡船にかぎられた。渡船場跡には「六郷の渡し跡」の案内板がある。
川崎宿は、戸数919戸、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、人口4,089人であった。

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歌川広重東海道五十三次 川崎』   六郷の渡し

遍照寺の山門近くにあったという「東子安一里塚跡」をでて、国道15号(旧街道)をすすむと、「生麦事件の碑」あたりで街道は国道と別れ、右斜めに入って行く。


その後、街道は1.5km先でJR鶴見線、国道15号、京浜急行を越える。街道をすすむと、鶴見川に架かる鶴見川橋の右に「鶴見橋関門旧跡の碑」がある。


碑によると、生麦事件以降数年たって、横浜港開港にあわせてここ鶴見橋関門を開設し、東海道を往来する旅人の中に紛れ、尊皇攘夷を唱える危険分子を取締ったとある。


 では、生麦事件の碑から市場一里塚跡までを見てみよう。


星座「東海道一里塚」の探索もあと6星、すなわち「5里・市場村」・「4里・市場村」・「3里・大森」・「2里・品川八ツ山」・「1里・芝一里」・「1里・芝一里」の6つ星、いやもう一つ「起点・日本橋」を数える必要があろう。そうだ、あと7つ星である。


まるで北極星である日本橋へ、北斗七星である各宿場が導いてくれているようだ。


 生麦事件の碑>
生麦事件は、中学の日本史の授業で、幕末の尊皇攘夷に若き血潮をたぎらせた薩摩藩士が行列の前を馬に乗ったまま横切ろうとした英国人を殺傷したというこの生麦事件に、同じ日本男子として興奮を禁じ得なかったことを思い出させてくれた。


生麦事件はまた、紅顔の少年がはじめて国を憂うるという心情にさせられた歴史との出会いでもあった。

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川崎宿   生麦事件碑についての解説板

横浜市教育委員会による「生麦事件碑」解説板によると(一部抜粋)、


文久二年八月二十一日(西暦1862年9月14日)、勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1名を殺害、二人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。」とある。
 
わたしは事件以来154年ぶりに、ここ「生麦事件跡」に立っているのである。感無量だ。
 
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 生麦事件追悼記念碑

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生麦事件) 旧蹟  「蹟舊」                             生麦事件 130年追悼記念柱

生麦事件の碑をでて、JR鶴見線京浜急行をくぐって約600m行くと鶴見川にでる。鶴見川橋の右角に「鶴見橋関門旧跡」がある。
鶴見橋関門旧跡」は、生麦事件以後、事件再発を恐れて、幕府が往来を厳しく検問するために設けた関門(番所)である。

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鶴見橋関門旧跡

鶴見橋関門旧跡>


開国に傾いていた幕府は、生麦事件の3年後、横浜開港による外国人の増加に対し、事件再発を防止する制度を施行した。
生麦事件に驚いた幕府は、尊皇攘夷によるこれ以上の外国人殺傷を恐れてその対策として取り入れた一つに関門・番所制度であった。そのシステムについて書かれた解説板「鶴見橋関門旧跡」をみておきたい。(一部抜粋)
安政6年(1859)6月、横浜開港と共に、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まりました。
文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20カ所の見張り番所が設けられました。鶴見村には、第5番の番所鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、第6番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。」とある。

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鶴見橋関門舊蹟」跡石碑 (橋手前右手)

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鶴見橋関門舊蹟」跡石碑 (橋手前右手)                                  東海道鶴見橋跡木柱

ここ鶴見橋関門旧跡から鶴見橋をわたり東へ500mほど先右側に、日本橋より5里の「市場一里塚跡」がある.。

5市場村一里塚跡      横浜市鶴見区市場下町付近)     
                                      京より120里・468.0km/日本橋より5里・19.5km

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5 市場村一里塚跡

市場一里塚跡から日本橋にむかって自転車を走らせる。
約1kmいくと、JR浜川崎線と京浜急行が交わる八丁畷駅を越える、とすぐ左手に「芭蕉句碑」がある。
 
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川崎宿 芭蕉の句碑
 
芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある句にたくしたとある。


《 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな 》 芭蕉


 句碑よりさらに1kmほど行くと、左に「佐藤本陣跡、「総合案内板」、「宗三寺」、「田中本陣跡」とつづく。その先、600mほどで多摩川「新六郷橋」を渡る。江戸時代は現在の橋のすぐ右手にある「万年屋跡」の前から舟で川を渡った。


ここに「六郷の渡し」跡があった。
 
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「中の本陣」跡(惣兵衛本陣跡)          <川崎宿>         「下の本陣」跡 (田中本陣跡

下の本陣だった「田中本陣跡」をでて、街道を東へ約500m行くと多摩川の「新六郷橋」に出会う。江戸時代ここに「六郷の渡し」があった。
当時、この「六郷の渡し」を渡船して日本橋より1番目の宿場である「品川宿」に入っていった。


       



東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 42
    ■日本橋より1番目の宿場である「品川宿」 につづく