■2・川崎宿
遍照寺の山門近くにあったという「東子安一里塚跡」をでて、国道15号(旧街道)をすすむと、「生麦事件の碑」あたりで街道は国道と別れ、右斜めに入って行く。
では、生麦事件の碑から市場一里塚跡までを見てみよう。
星座「東海道一里塚」の探索もあと6星、すなわち「5里・市場村」・「4里・市場村」・「3里・大森」・「2里・品川八ツ山」・「1里・芝一里」・「1里・芝一里」の6つ星、いやもう一つ「起点・日本橋」を数える必要があろう。そうだ、あと7つ星である。
<生麦事件の碑>
生麦事件は、中学の日本史の授業で、幕末の尊皇攘夷に若き血潮をたぎらせた薩摩藩士が行列の前を馬に乗ったまま横切ろうとした英国人を殺傷したというこの生麦事件に、同じ日本男子として興奮を禁じ得なかったことを思い出させてくれた。
生麦事件はまた、紅顔の少年がはじめて国を憂うるという心情にさせられた歴史との出会いでもあった。
「文久二年八月二十一日(西暦1862年9月14日)、勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1名を殺害、二人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。」とある。
わたしは事件以来154年ぶりに、ここ「生麦事件跡」に立っているのである。感無量だ。
生麦事件追悼記念碑
鶴見橋関門旧跡
<鶴見橋関門旧跡>
開国に傾いていた幕府は、生麦事件の3年後、横浜開港による外国人の増加に対し、事件再発を防止する制度を施行した。
生麦事件に驚いた幕府は、尊皇攘夷によるこれ以上の外国人殺傷を恐れてその対策として取り入れた一つに関門・番所制度であった。そのシステムについて書かれた解説板「鶴見橋関門旧跡」をみておきたい。(一部抜粋)
文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20カ所の見張り番所が設けられました。鶴見村には、第5番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、第6番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。」とある。
「鶴見橋関門舊蹟」跡石碑 (橋手前右手)
京より120里・468.0km/日本橋より5里・19.5km
5 市場村一里塚跡
市場一里塚跡から日本橋にむかって自転車を走らせる。
《 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな 》 芭蕉
句碑よりさらに1kmほど行くと、左に「佐藤本陣跡、「総合案内板」、「宗三寺」、「田中本陣跡」とつづく。その先、600mほどで多摩川「新六郷橋」を渡る。江戸時代は現在の橋のすぐ右手にある「万年屋跡」の前から舟で川を渡った。
ここに「六郷の渡し」跡があった。
「中の本陣」跡(惣兵衛本陣跡) <川崎宿> 「下の本陣」跡 (田中本陣跡)