shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼 モンゴル紀行 』 13

2017『星の巡礼 モンゴル紀行 』 13    



チンギス・ハーン(成吉思汗)


昭和生まれにとってモンゴルといえば、蒙古とか共産主義の国・モンゴル人民共和国、そして先にも述べた
ソ連・モンゴル連合軍との間に、東モンゴルに広がるメネン高原を流れるハルハ川で戦われたノモハン事件
(国境紛争)でなかろうか。


特に中学時代に日本史で習った「蒙古襲来と神風」はショッキングであった。なぜなら砂漠の国・蒙古が日本に進攻したという事実と、そのとき神風が吹いて蒙古軍を海の藻屑と化したという神話に近い通説があったからである。


特に蒙古襲来いらい神風に頼るようになった「神風」思想は、日本が続けた近代戦争や事変において神風の精神に頼って継続してきたという事実がある。神風を、日本軍の精神至上主義に高めていき、実戦における最終判断に取り入れていった。


例えば、インパール作戦や日本敗戦もノモンハン事件の延長に過ぎなかったとも言えるのではないだろうか。


日本軍は敗戦の教訓を学ばず、精神論によりおおくの兵士を死に追いやったからである。悲しいことに、日本軍の撤退や敗戦部隊に対して、玉砕を命じたり、現場指揮官への自殺を強いるなど、事例があまりにも多すぎるからである。


現在の組織においても繰り返されているのではないだろうか。


 
◎ モンゴル帝国はかくも短期間に大帝国をうち立てることができたのか


歴史学者のテーマであり、歴史上の為政者の目標でもあると言える。
研究によると、モンゴル帝国成立の大きな要因は、征服した各民族国家・集団への権力移譲と分け前の公正にあったという。
チンギス・ハーンによって成立したモンゴル帝国は、その子供達4人に分割・統治させ、さらに現地勢力をもって帝国領土を拡大していく戦略・戦術がとられた。
参加者には征服した領土をはじめすべてのものを分割し、褒賞としたので、帝国拡張に喜んで参加したという。
元寇の襲来も、モンゴル帝国の属領となった高麗軍(文永の乱・1268年)の襲来となり、またその後の南宋と高麗連合軍による第二回目の元寇襲来(弘安の役1281年)もまたモンゴル帝国拡張策「海洋帝国」の一環への現地軍の参加であったといわれ、両軍団の主力は高麗軍であり、南宋軍であった。


歴史は不思議である。巨大モンゴル帝国の襲来に打ち克ったちっぽけな日本が歴史を継ぎ、大モンゴル帝国は大草原へ帰って行ったからである。
いまここモンゴルの大草原に露営し、風の中にその宴(うたげ)を聴くとき、無常なる風を感じる。


ここモンゴルの大草原で元寇の襲来を思い、義経チンギス・ハーン伝説や満蒙国境で戦ったノモンハン事件をふりかってみることもまたロマンではないだろうか。
歴史からの楽しさにふれ、夢をさぐり、学ぶことは尽きることがない。

 
チンギス・ハーン源義経の生まれ変わりか


この春、奥の細道を自転車で走ってみて、芭蕉はつねに義経の跡を追い、その生きざまにふれていることに
気付いた。
松尾芭蕉は「奥の細道」で、日本のゆるぎない英雄の一人である源義経を追うように平泉(義経最期の地)に
まで足を延ばしている。
芭蕉義経の生きざまに共感し、おのれに重ねていたのであろうか、多くの句を残している。

その義経チンギス・ハーンに生まれ変わったという巷の通説がある。
このモンゴルの地で、モンゴル平原よりでた英雄 チギス・ハーン、その仮の姿と言われた源義経1189年没)の雄姿を脳裏にえがいてみた。


この星空のもとで1206年、いまから約800年前、テムジン(後のチンギス)は群雄割拠した部族らを統一し、モンゴル帝国のハーンに推戴され、チンギス・ハーンとなって世界制覇へと夢を大きく膨らませ、実現していく。


ここ日本でもユーラシア大陸の中央に位置する蒙古に発するチンギス・ハーンの世界制覇の夢を、かってまことしやかに源義経に結び付けて語られていたことが、ゴビ砂漠やオルホン渓谷の星空のもとで妙に思い起こされたのである。


チンギス・ハーン義経の生まれ変わりである」という空想、ロマンは夢を呼ぶではないか。
夢想する歴史もロマンがあっていいが、時間的矛盾が生じていることへの正当な考察はなされていないことは確かである。
実際、1189年に没した義経が、1162年に誕生したチンギス・ハーン(幼名・テムジン)に生まれ変わることは
無理だからである。
義経チンギス・ハーンより3年前の1159年に生まれており、同時代の英雄であることに変わりはない。
またチンギス・ハーン義経との類似点も多い。
もちろん同世代であったこと、天才的戦略家であったこと、騎馬による奇襲にたけていたこと、敵を許し友軍に取りこむこと、分け前に頓着しなかったことなど類似点が多いことはたしかである。

しかし、義経とチンギスの二人を並べてみると、性格的に稚児と大尽であり、外見的に小さい公家と大きな
野人、好色人と愛妻家、世間知らずとすぐれた外交官、突出的参謀と信頼できる司令官、島国的緻密さと
大陸的鷹揚さなど一致点を見出すのはむつかしと云える。

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義経の写実的な絵画像はあまり残されていない、ここでは上記二点を挙げておきたい。
ほとんどが伝説上の人物として扱っているイメージ像である。
 
 
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チンギス・ハーン像は、写実的肖像絵画としてまた銅像として多く残されている。
もちろんモンゴルの英雄であるということと、史上空前の支配者であったが故に、おおくの絵師が
競って描き残したともいえる。
それもイスラム風に、中華風、西洋風にあらゆる技法で描き残されている。


モンゴルは蒙古襲来や、ノモンハン事件といい、日本にとって近い国である。
お尻にチンギス・ハーン(成吉思汗)と同じモーコ斑をもつ日本人にとって、永遠なるロマンに満ちた国である
にちがいない。

 
◎南米最南端ウシュアイアのヤマナ族もモンゴル系か


余談だが、数年前、南北アメリカ大陸一周バス旅行に出かけたおり、南極に渡るため一週間ほど玄関口であるアルゼンチン南端のウシュアイアの街に滞在したことがある。


その街の博物館で、百数十年前モンゴルより渡来した裸族が定住しており、その写真にはモーコ斑があるとの解説を読んだことがある。


写真にある顔姿は蒙古系であり、日本人の顔にも似ていることに驚きを隠せなかったことを覚えている。
それも幾世紀もかけてベーリング海峡を渡り、パナマ地峡を越えて気の遠くなるような民族の大移動をなし
おえている。


ウシュアイアのYAMANA MUSEUM(ヤマナ博物館)で見た写真では、かれらヤマナ族は衣服をつけない裸族で、厳寒のときはアザラシなどの毛皮を身にまとうだけである。


ウシュアイアは、モンゴル系の民族大移動の終着地点でもあったといえよう。


 
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南米最南端ウシュアイアにある「MUSEO YAMANA」(ヤマナ博物館)
 
日本人もまた、蒙古より発して朝鮮半島を南下してたどり着き、支那方面、南方方面からの渡来人と混血することにより蒙古種族の一つとして分類されるようになったのであろうと推測すると、人類文化史的に興味がわいてくる。

 


モンゴルと日本、古代史からいえば蒙古と倭国の関係をみてみる。
1990年代、かってわたしが所属していた大学に「騎馬民族征服王朝説」を唱える東洋史学者・江上波夫教授
がおられた。


講義のため、京都に来られたおりに当時の前学園理事長・徳山詳直氏(故人)とともに何回か学説をお伺いしたことがある。
また古代史的に興味があったので著書騎馬民族国家日本古代史へのアプローチ』を手に入れて読んだことを思い出す。


東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説であった。


また同じ大学の教職にあった水中考古学の田辺昭三教授は、「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」と
評している。


しかし当時、騎馬民族征服王朝」が通説ではなくても、わたしに雄大なロマンをもたせてくれたものである。


ランバードルの町を散策していた時、市内東を流れるセルベ川のコンクリート壁に描かれたモンゴル帝国の侵略騎馬兵団と世界制覇を目指していたユーラシア大陸の地図をみつけ、こころを躍らせた。


興味深いことだが地図には日本が描かれていない。当然ながら、日本はモンゴル帝国の支配地域ではなかったからである。
この地図を、中国人はどのような感情をもって受け入れるのであろうか。
南宋をはじめ、中国の大半がモンゴル帝国の勢力下にあったという歴史的事実にである。


歴史は現実であり、複雑である。


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モンゴル帝国騎馬軍団①
 
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モンゴル帝国騎馬軍団②


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モンゴル帝国騎馬軍団③
                  
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モンゴル帝国騎馬軍団④
 
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       モンゴル帝国侵攻によるユーラシア大陸の地図(日本列島は侵攻されていない)
 
 
                                 2017『星の巡礼 モンゴル紀行 』 14 へつづく

                                    ―ノモンハン事件(ハルハ戦争)に関する 考察―