⑯新庄・最上川舟下り<2017年5月11日>
芭蕉と曽良は、元禄2年(1689)陰暦6月1日、大石田から猿羽根峠(さばねとうげ)を越え、新庄の渋谷風流宅に立寄り2泊している。 新庄一の富豪である渋谷風流宅で、「水の奥 氷室尋ねる 柳哉」、本家である渋谷盛信宅で「風の香も南に近し 最上川」を詠んでいる。
芭蕉「氷室の句碑」・「水の奥 氷室尋ねる 柳哉」
芭蕉「氷室の句碑」は、豊かな清水が湧き出ていた<柳の清水>の「鳥越の一里塚」付近の住宅地に立っている。 国道13号線(羽州街道)と県道138号線(鶴岡街道)との分岐の北側にある<柳の清水>は現在、復元されている。
「奥の細道」には、次のように書かれている。
<奥の細道> 「最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし」
<現代語訳> 「最上川の源流は陸奥であり、上流は山形である。碁点・はやぶさなどという、恐ろしい難所がある。歌枕の地、板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に流れ込んでいる。左右に山が覆いかぶさって、茂みの中に舟を下していく。」
現在の最上川下りの景観を、国道47号線沿いに自転車を走らせながらすこし眺めておきたい。
曇り空のもと、周辺の山々の緑が最上川の川面を緑濃く彩るなか、芭蕉と曽良が乗舟した「本合海」にある句碑と芭蕉像に見送られて、最上川南岸(国道47号線)を西へ、芭蕉上陸の地「清川港」へ自転車をスタートさせた。「本合海港」は、国道47号線と国道458号線の分岐近くんの最上川畔にある。
「奥の細道最上川ライン」(JR陸羽西線)は湯煙ラインとして知られている。「本合海港」を出てまもなく左手に「新庄温泉」入口を見ながら、約4km先の車を駐車させた「道の駅とざわ」を過ぎるとJRの踏切を渡り、すこし走ると右手、最上川畔に「戸澤藩船番所」が復元され、その奥に「古口乗船場」がある。その前に実物大の「戸澤藩船」が展示され、往時の最上川舟運の隆盛を垣間見ることができる。
古口に戸澤藩船番所が置かれたのは、古口より下流は最上峡と呼ばれる峡谷で古口より先に陸路が無くてすべて最上川舟運にたよらねばならなかったからである。古口が、船着き場として、また人物往来を監視する要地であったことによる。
また、最上川は古来より大正初期まで出羽の国の交通運輸として庄内参勤交代の通路や年貢米をはじめ諸物資輸送などの動脈として栄えてきた。
古きは、最上川についておおくの和歌が詠まれ、文書が残されている。
途中、車を駐車させている「道の駅 とざわ」で昼食をとり、休憩を取る。
最上川は庄内の滔々たる大河であり、「母なる川」と呼ばれている。
江戸時代には、庄内米や紅花舟を積んでここ最上川を行き来していた。
現在の舟下りの乗船場は、JR陸羽西線「古口」(ふるくち)駅近くの最上川畔にある。 下船場は草薙温泉となっており、約12km、1時間の舟下りを楽しむことができる。ただし、予約によって芭蕉が舟に乗った「本合海港」より下ることもできる。 (予約先:最上峡芭蕉ライン0233-72-2001・車回送もあり)
◎最上川サイクリング・コース <片道約24km、往復48km 約3H走行>
◎恐れながらわたしも一句
5.新庄・最上川 ⇒ 出羽三山 ⇒ 鶴岡 <奥の細道紀行 5> | ||
<芭蕉・曽良の句> | <恐れながらわたしも一句-實久> | |
⑯新庄 | ||
「水の奥 氷室尋る 柳哉」 | 「柳の清水」・ | 「空映す 清水深しや 落つ柳 」 |
(みずのおくひむりたずねるやなぎかな) | 鳥越一里塚近く | (そらうつすしみずふかしやおつやなぎ) |
「風の香も 南に近し 最上川」 | 渋谷本家盛重宅 | 「海風の 舟や櫂打つ 最上川 」 |
(かぜのかもみなみにちかしもがみわ) | (うみかぜのふねやかいうつもがみわ) | |
「五月雨を あつめて早し 最上川」 | 本合海乗舟地 | |
(さみだれをあつめてはやしもがみわ) | (大石田) |
怒涛渦巻く最上川に変わり、言葉の持つ威力に魅せられる
恐れながらもわたしも一句
戸澤藩船「芭蕉丸」
五月雨を集めて滔々と流れる最上川
最上峡草薙温泉降船所
自転車を走らせている最上川の源流は、広い流域からおおくの支流が流れ込み諸説はあるが、山形県と福島県の県境にある西吾妻山(標高2,035m)の「火焔の滝」 とされている。 芭蕉の句に見られるように、五月雨の時期には水かさも増し、その流れも荒々らしくなると詠っている。最上川は時々によって表情を変え、人々とともに「生活の川」であったことがうかがい知れる。
舟で旅人を運び、生活物資や米、穀物、紅花などを運ぶ水運としての交通や輸送の盛んな川であった。また、流域の人々に豊かな実りをもたらすとともに、洪水で多くを飲み込むこともあった。
また最上川は、「生活の川」とともに「歴史の川」であったとも言えるであろう。
最上峡を過ぎると、三山行者(修験者)の立寄り地であり、義経に関する古文書がある「仙人堂」をへて、白糸の滝を見ながら、現在の最上川舟下り最終地である「草薙温泉降船所」に着く。清川の「義経乗船の地・芭蕉下船の地」へは、なお4kmほど下ることになる。
その502年後、俳人芭蕉は曽良とともに、江戸(深川)を出発。 平泉を経由し最上川を下り日本海沿いを南下し、美濃(岐阜県)まで156日間の旅「奥の細道」をした。 歴史上の二人「義経と芭蕉」が、時代を超えてここ最上川ですれ違っていることにロマンを感じる。
余談だが、この夏、モンゴル大平原でユーラシア大陸制覇を目指した騎馬民族のチンギス・ハーンが、義経の生まれ変わりであるという説に触れ、「奥の細道」をたどるおのれに義経と芭蕉との歴史を超えた同時代性を感じるのである。
最上(もがみ)の地に残る、義経と弁慶の足跡をすこしたどってみる。
最上地方には、義経・弁慶に関する伝説が数多く残っている。 平安時代末期、平氏追討に大功のあった義経は、兄頼朝と対立し追われる身となる。西国へ逃れる舟が嵐で押し戻されたり、吉野山では僧侶たちの反対に合う。 安住の地は頼朝に合流する以前に世話になった藤原秀衡(ひでひら)が治める奥州平泉しかないことから、日本海沿いに北上し、最上川をさかのぼり、全員山伏姿のいでたちで、北国行きを決心する。 鶴岡市にさしかかったおり、北の方が身重だったため、弁慶だけが羽黒山を代参している。一行は、清川で弁慶と合流し、舟で最上川をのぼるのである。
芭蕉は、ここ清川でおり、義経一行はここから最上川を上りゆく。 「奥の細道」における歴史上のクライマックスと言っていいのではないだろうか。時空を超えて、義経と芭蕉が対面し、すれ違う情景は歌舞伎の世界である。 そして、わたしが歴史的立会人としてその場面をいま確認している。 なんと感動的であろうか。
「舟は雪解けの増水で、のぼるのに苦労しました。 白糸の滝を見て北の方が
『最上川瀬々の岩波堰き止めよ 寄らでぞ通る白糸の滝』と『最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝』」
という和歌を詠みました。 やがて、「鎧の明神」「冑の明神」を拝み、『たかやりの瀬』の難所を上り、『たけくらべの杉』を見て、矢向の大明神を伏し拝み、合川の津(現在の本合海)に到着しました」と詳細に語られている。
800年前と、現在の最上川戸沢村を流れる最上川の情景とに、時代を超えた変化がないことに驚きを禁じ得ない。 いま、自転車で最上川畔を走っている己を自覚するとき、歴史の不思議な世界に迷い込んでいる甘い感傷にひたることができるのである。 また歴史の無常を感じる。
「亀割山を越える途中、北の方のお産が近くなったので、大木の下に皮を敷き、お産場所と定めて宿にしました。お産が始まり、北の方が『水を』と言ったので、弁慶が谷を目指して降りていき、戻ってみると北の方は息も絶え絶えでした。弁慶が汲んできた水を飲ませ、南無八幡大菩薩に祈ったところ、無事に出産することができました。産まれた子どもは、亀割山の亀と、鶴の千歳になぞらえて『亀鶴御前』と名づけられました。(最上地域では亀若丸と呼ばれています)。まだ平泉までは遠く、道行く人に疑われてはいけないので、篠懸(すずかけ・山伏が衣服の上に着る麻の衣)で包み、赤ん坊を笈(おい)の中にいれました。山を下るまでの3日間、一度も泣かなかったのは不思議です。その日は『せひの湯(現在の瀬見温泉』で一日中疲れた体を癒しました。次の日は、馬を用意しそれから小国郷を出て栗原寺(宮城県)に向かいました。」
と<北の方お産>について歴史書はクールに真実を書き残している。
義経一行が北国落ちに使った最上川を遡上する舟路、芭蕉と曽良の義経を偲んでの遡下する舟旅。 その時空を超えて歴史が交差したのは、「戸澤藩船番所」、現在の古口乗船場で辺りではないかと推理するだけでも歴史が躍動するではないか。実に愉快であり、歴史のロマンにまたまた引き込まれてしまうのである。
五月雨で水かさの増した最上川をドローンのように自転車で上り下りしているような錯覚に引き込まれる。 わたしもまた歴史のなかを走っているのだ。今回は、悪天候のため最上川を舟で下ることは出来なかったが、最上川畔を自転車で下り、そして上るという義経や芭蕉もなしえていないことをしたという満足感にひたって最上川サイクリングを終えたい。