shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 59

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 59
 

奥の細道むすびの地 大垣を自転車で走る―Ⅲ

 

◎  奥の細道を共に歩み、愛語で結ばれていたチーム、心のサポート隊員


星の巡礼に出かけるとき、いつもサポートしてもらえる友人たちがいる。

パーキンソン病との闘病にあるK.S氏、脳梗塞により病床にあるT.S氏である。


病床にいる友人達とは、道元禅師の「向かわずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回天あるを
学すべきなり」をコミュニケーションツールとして行っている。

今回もお互いの祈りを込めた愛語の交感をもって奥の細道をたどり終えた。


「恐れながらわたしも一句」の句集をもって仲間への報告とした。

励みであり、感謝である。


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サポート隊員 KS氏                   <写真参加>                          サポート隊員 TS氏


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サポーターとしてのサイクリング車「ワイルド・ローバー号」 と 支援車「三菱デリカ号」


 
◎  芭蕉の大垣滞在とその後

元禄2年(1689)陰暦8月21日、敦賀より大垣に到着、木因や門弟らに出迎えを受けている。

宿は、元大垣藩士の近藤如行(じょこう)宅と廻船問屋の谷木因(ぼくいん)宅といわれているが、諸説があるらしい。ただ最終日9月5日は、竹嶋六郎兵衛宅とある。

木因の屋敷は、水門川の住吉橋(朱橋)近くにあったらしく、現在の「奥の細道むすびの地」として整備され、記念館や多くの句碑が建っている。 

ここ大垣、奥の細道むすびの地へは、野ざらし紀行をふくめ三度目であり、道中ただ一つの既訪問地、芭蕉翁の安堵感を察することができる。 ここ大垣に14日間と長逗留している。

滞在中は、多くの俳句の会(俳筵)が開かれ、「不諂不奢」(へつらわずおごらず)と芭蕉翁を評した大垣藩家老戸田如水の下屋敷にも招かれている。

なお、芭蕉翁の敦賀より大垣へのルートは、今回車で走ったと同じく、北國脇往還に入り、今庄、藤川、関が原を経て大垣に到ったといわれている。
一方、曽良は、北近江の木之本を経て、長浜からびわ湖を舟で彦根に渡り、関ヶ原をへて大垣に到っている。
元禄2年9月6日、現在でも「住吉燈台」が残っている住吉橋のたもとの港から、芭蕉は舟で伊勢方面へ向かった。


 

◎  「星の巡礼奥の細道  恐れながらわたしも一句」 紀行を終えるにあったって


實久 「この旅も あまねくしてや 月朧」   (このたびも あまねくしてやつきおぼろ)


わたしの奥の細道、「恐れながらわたしも一句」の旅を振り返るに、芭蕉翁の俳聖といわれる所以に接すれば接するほど、俳句の奥の深さに沈みこんだ。

此の国の四季がなければ蕉風も生まれなかったかもしれない。 感受性の豊かさ、それも自然の織りなす表現に触れる心情の豊かさが優れている。


奥の細道にある芭蕉句碑をたどり、恐れながらわたしも一句詠うことにより、こころの機微や侘び寂び、自然の営みに対する尊崇の念、歴史に生きる英雄たちへの心意気に添う姿、時の流れの豊かさに身をまかせる覚悟、いのちの尊さに深い憐れみをいだく姿勢など、芭蕉翁から多くのこころの機微に触れさせてもらい、学ばせてもらった。


この旅も、わたしの人生のように朧月夜といえようか。


菜の花畠に、入日薄れ、見わたす山の端(は)、霞ふかし
春風そよふく、空を見れば、夕月かかりて、にほひ淡し


里わの火影(ほかげ)も、森の色も、田中の小路をたどる人も

  蛙(かはづ)もなくねも、かねの音も、さながら霞める朧月夜


感謝である。


     「句に酔いて 心も風と千鳥足  終えし旅路や 朧なりけり」   實久

       (くによいて こころもかぜも ちどりあし  おえしたびじや おぼろなりけり)



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芭蕉翁がむすびの地大垣に到着してから328年目に
わがチームもゴールした




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星の巡礼奥の細道  恐れながらわたしも一句」