■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 2日目―其の3> 2018年9月2日
― 崎津集落 ⇒ 西平椿公園 ― 走行距離 10 km
「崎津天主堂」
崎津資料館みなと屋の向かいに天主堂の尖塔がそびえたつ。
崎津教会は、アルメイダ神父により1569(永禄12)年に建てられ、ここを中心にしてキリスト教は天草に栄えた。しかし、1638(寛永15)年の禁教令が天草で実施されてから崎津では特に激しい迫害の嵐が吹き荒れた。
公然と信仰を明らかにすることを禁じられたキリスト教徒は、隠れキリシタンになり、ひそかに真夜中に一緒に集まって神を礼拝し、祈りを捧げていた。隠れキリシタン達は、生命や財産の危険をも省みず信仰こそ何ものにも勝る宝であり、幸福の源泉であると固く信じていた。
この宝を子孫に伝えるために、七人の村人を先生として選び、「水方」(みずかた)と名付けた。即ち、洗礼の儀式では魂の清めのシンボルとして、水を注ぐことが必要とされるからである。
キリスト教徒を狩り出すために、踏絵が毎年行われた。
1872(明治5)年にキリシタン禁制の高札が廃止されるや、神父は240年ぶりに再び崎津に帰ってきて、隠れキリシタンから熱烈な歓迎を受けた。かくして2世紀半の間、文字通り隠れて守り抜いた先祖代々の信仰を、公に行うことのできる新しい時代が訪れたのである。
(崎津カトリック教会由来記より一部参照)
キリスト教解禁直後に﨑津の大工によって最初の木造教会堂が建設されたのち、ハルブ神父の指導のもと、現教会堂が鉄川与介の設計・施工により1934年に建てられた。現在の教会堂が建つ場所は、禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため、「絵踏(えぶみ)」が行われた﨑津村庄屋宅跡が選ばれた。﨑津集落には、「絵踏」が行われた場所に祭壇が設置されたという言い伝えがあり、地域の人々にとって教会堂は信仰の復活をあらわすシンボルともなっている。
<踏絵>とは、絵踏のときに使われた,キリストやマリアの像が描かれた絵・木板・銅板などのことをいう。
「崎津教会の祭壇部分では毎年、絵踏みが行われていたそうですが、どんな様子だったのでしょうか」との質問に対して、司祭は次のように答えている。
「旧暦3月ごろ、富岡から御本船と言って役人を載せた船が来ると、庄屋の家より触れがあり、村人らは衣服を
正して庄屋の家に集まる。
役人は通常お殿様と呼ばれ、4,5人で庄屋に入る。役人は縁側に脇息(きょうそく)にもたれて腰かけ、村人は
名ある人より順に従って絵を踏む。絵は四尺平方ほどの板の真中につけられ、人はその上を踏んで通るのである。
通るときは腰を曲げ、頭を下げ、両手を顔の下にあげて進めば、役人は眼を鋭くして素通りする者はないかと調べるのである。
この地の人々は大概古キリシタンなれば脇を踏みて絵に触れぬようにするけれども、役人の吟味ひどいため恐れて踏むのが多い。
子供らは親より絵を踏むなとすすめられたれば絵を踏まぬようにつとむるなれど、役人が絵を踏まぬ者は
刀で切り殺すと脅したものだから恐れて踏んでいた。
もとよりキリシタンの恐れあるものは二度も三度も踏みなおさせられた。この絵踏みのとき、頭銭(かしらせん)というて一人前三文、四文のお金をとられたという老人あれど確かといわれない。
踏みし絵はピカピカと光って恐ろしく、土足で踏めど汚れずとある老人は語った。 絵踏みした人は庄屋の帳面に名を記される。」
以上は、崎津教会と大江教会の主任司祭をつとめたフェリエ神父が聞き書きしたノートの一節で、「踏絵・かくれキリシタン」(片岡与吉全集58頁)に掲載されているという。
天草には、役人に見えないように、足の裏に紙を張り付けて絵踏み場所に行ったとの語り草が残っていたそうである。「土足で踏めども汚れず」とあるのはこのためであろうか。
絵踏みに関するコラム <カトリック崎津教会 週報9月2日号>
―崎津資料館みなと屋瓦版よりー
「崎津村ヨリ差出候書付写」
崎津村の鎮守である崎津諏訪神社での『天草崩れ』の取り調べで提出された口述書『文化二年四月二日崎津村ヨリ差出候書付写』 によると、村民として守るべきことがこと細かく覚書として記されていることがわかる。
一、 デウスを漁神として信仰し、朝夕「あめんりゆす」と唱えていること
一、一週間の暦に従い生活していること
一、クリスマスには魚肉や動物の肉を供えていること
一、墓に参るときは、手を組んで祈りをささげること
一、死者に対して「あめんりゆす」と唱えること
一、七月の盆では、魚肉を供えること
一、どこへ参詣するときも「あめんりうす」と唱えることほか
宗門心得違之者糺方日記(上田家文書)
「仏像差出名前帳 崎津村」 < 出典:下田曲水「暫定天草切支丹史」>
差出帳にアワビ貝、タイラギ貝、丸鏡、銭などがみられることから、崎津のキリシタンの間では身近なものを信心具として信仰していたことがわかる。アワビ、タイラギなど漁村特有の信仰遺物は、生業と信仰が密接にかかわっていたことがうかがえる。
仏像差出名前帳 崎津村
<天草ロザリオ館> (入館料300円)
崎津バイパスである国道389号線でなく、海岸線に沿って走るサンセットラインを走ることにした。美しい海岸線は長くは続かず、首越峠(標高120m)を越えて、天草町大江の集落に入っていく。
三叉路に「天草ロザリオ館」がある。
大江天主堂への登り口となる駐車場の一角にあり、館内にはキリシタンの伝来、布教から禁教、弾圧、復活といった歴史をパネルや遺品などで紹介している。
信者が亡くなった時に唱えられる仏教のお経を封じ込めるために、隣の部屋で<経消しの壺>を手に、隠れ言葉を唱え、キリシタン信者を極楽浄土ではなく天国へ送っていた様子が再現されている。
隠れキリシタンの苦難と信仰に触れることが出来るように演出されている。
天草ロザリオ館
三叉路にある天草ロザリオ館の左の道を山手の方に自転車で登って行くと、くまもんのゆるキャラたちに迎えられる。その先の小高い丘に白亜のロマネスク様式の大江カトリック教会が集落を見下ろし、抱きかかえるように建っている。
1873年に禁教が解かれ、長崎・神の島の信徒が大江村の潜伏キリシタンを見付け、カトリックに復活させたときにできた教会である。夕暮れ時の訪問であったが、司祭のあたたかい出迎えに、天主堂建設に私財を投じたガルニエ神父の胸像やルルドの泉をめぐらせていただいた。
くまモンに出迎えられ、高台に建つ大江天主堂
ドーム上の十字架に出迎えられるー大江天主堂
▲二日目露営地 西平椿公園
その先に今夜の露営地である西平椿公園がある。
この夜は、公園の常夜灯を避け、天草灘に対面するようにテントを張り、暗闇に体を沈めた。
瞼をとざすと大海原の咆哮が風に乗って小さなテント一畳の空間を満たし、そしてわたしは沈黙の世界に引き込まれる。わたしの体は天を駆け巡り、魂は至福の時にひたるのである。この一瞬が私の喜びである。
ああわれいま 天草におりて
鎮魂の曲 一条の炎を躍らす
命の尊厳まといて滂沱の泪
海原の咆哮 一畳の空間満たし
沈黙に浸りて 主なる神に従う
ああわれいま 至福にひたる
2日目テント泊地・西平椿公園
西平椿公園
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km④
2018年9月3日 ― 西平椿公園(二日目テント泊地) ⇒ 原城址
につづく