走行距離 16 km
<頭ケ島大橋を渡る>
佐世保港からの「フェリーなみじ」から眺めた頭ケ島は、有川港のある上五島・中通島とは県道62号線に架かる「頭ケ島大橋」で結ばれている。移住した潜伏キリシタンは、信仰を守るため離島である頭ケ島に身を潜めたのであろう。
2島(左・頭ケ島と右・中通島)間にかすかに頭ケ島大橋が見える(フェリーより)
頭ケ島大橋(県道62号線)を渡る
海を眼下にしながら急な坂を下って行くと、真っ青な海が目に飛び込んでくる。五島石積みだろうか、温かみのある教会が迎えてくれる。
管理人の方だろう、教会前で「歩いて下りてこられた方は初めてです」と親しみをこめて迎えていただき、丁寧な説明を受けた。頭ケ島教会に使われている五島石(砂岩)の石積み技術は、外海の出津集落からの移住キリシタンが伝えた石積術を継承しているという。
頭ケ島教会は県道より坂道を海岸へ下っていく
頭島教会沿革石碑から教会の歴史を見ておきたい。
クーサン宣教師は後の第三代長崎司教慶応三年1867年2月と4月の2回にわたって此の島に渡来し伝道を試みている。
此の聖堂は日本唯一の石造りで、県内の石を刻み信徒たちは額に汗してその石を運び十数年の歳月を費やして完成したものである。
爾来約60年の風雨に耐えたとは云え信徒のO少O伴O老O化先祖の残した血と汗の結晶である。
貴重な遺産を無くすまいと1977年9月主任司祭ミカエル道進師の指導のもとに信徒一戸に付30萬円の拠金と内外の奇特者の御協力によって修復完成したものである。 (石碑上○印欠字)
戦国時代、五島を支配した宇久純定がキリスト教布教を認め、一時は2,000人の信者がいたとされる。しかし、幕府の禁教令で、キリシタンは途絶えた。江戸時代後期の1797年、五島藩が大村藩に荒地開墾要員の移住を要請したことをきっかけに、外海から潜伏キリシタンが海を渡り、五島各地には再びキリシタン集落ができる。
上五島に属する頭ヶ島は、1859(安政6)年頃から入植が始まり、役人の目もあまり届かないことから、潜伏キリシタンが増えた。1867年以降、上五島には長崎から密かに外国人神父が訪れるようになるが、翌年にはキリシタン弾圧「五島崩れ」が起きる。頭ヶ島でも主だった信者が拷問を受け、島民全員が島を一時脱出した。
五島石(砂岩)をもって石積みした 頭ケ島カトリック教会
教会前の海岸にあるキリシタン墓地
「つばきロード」(県道62号線)からの西海国立公園の景色を楽しみながら快走
憧れだった五島での第一夜、有川港から見る夕陽に酔いながら寝袋に潜り込む。心地よき疲れに溺れ、沈みゆく意識が霞みゆく。
夢みることなく、夜半起きあがって詩を書くことも忘れ爆睡に堕ちた。
午前3:00、テントから首を出してみると、一片の雲も無く、満天の星のなかに天の川を発見。オリオン座が北西の位置に構えている。
まわりの外灯も消え、プラネタリウムの星座をみるようにひとつひとつの星がまばたく大ページェントの鑑賞会となった。地球も一つの星としてまばたき、その埃でしかないちっぽけな人間としての自分が、全宇宙を取り込み、認識していることに驚きを禁じ得ない。
この五島列島という身を隠すに適した、入り組んだ入江や人を寄せ付けないような断崖に守られた島々。迫害を逃れるため移住してきた潜伏キリシタンたちもまた、夜空を見上げて故郷を思い、オラショを唱えながら神を賛美し、神の恵みに感謝を捧げたに違いない。迫害に耐え、何世代にもわたって守り続けた信仰の強さと、神を信じつづけた愛のすがたに、人間の真実なる生き方を見る思いである。
有川港ターミナルの軒下を借りての露営
につづく