<堂崎カトリック教会に向かう>
テント泊の自転車旅もまた、山歩きと同じく朝立ちは早い。朝4時頃に目覚め、パッキングにとりかかり、5時までには終了する。
軽い柔軟体操、周囲の清掃、感謝の祈りを捧げ自転車の点検をすませてから、まだ夜が明けきらない5時半ごろに出立する。
朝食は、昼食との時間的バランスや体調を見て、大抵一走りしてからとることにしている。
港ターミナルを福江川沿いに西に向かい、始めの「港大橋」を渡って右に回ると福江漁協があり、闇の明けやらない海から次々と漁船が朝焼けをバックに帰港する。この辺りを「常灯鼻」と呼ぶらしい。
朝焼けの天地創造を観賞するために、すでに多くの人々が集まって漁船のエンジン音をBGMに、感嘆の声と、歓声をあげていた。それは見事の一語に尽きる天地創造の瞬間を、わたしもデジカメのシャッターを押し続けた。
<カトリック浦頭教会> (うらがしら)
県道162号線をしばらく走ると、右側高台にモダンな白亜の教会が建つ。
1797(寛政9)年大村藩から五島への移住が始まり、約3年の間に3000人が移り住んでいる。その中から奥浦地区に住み付いた潜伏キリシタンは、表向きは地元の寺の壇家となり、密かにキリスト教を守っていた。
1868(明治元)年12月、奥浦村では信徒59名が浦頭の信徒宅に囚われ、久賀島に引き続き迫害が本格化した。棄教を迫られた信徒たちには叩き責め、火責め、水責め、算木責めなどの責め苦が待っていた。
この地区で叩き責めにあう信徒の悲痛な叫び声が約2キロ離れたところまで聞こえたと伝えられているという。
このような迫害の地・浦頭に、1888年に最初の教会が建ち、その後増改築が繰り返され、1968年、現在地にカトリック浦頭教会が建てられた。
カトリック浦頭教会前、県道162号線にあるコンタツ堂は、、五島を旅する人の休憩所として、地域のコミュニティの場として土日のみ(9:00-16:00)開いている。長崎編みのロザリオ、ストラップ、切り絵、キリスト教書籍等も販売しているので、是非立ち寄ってみてほしい。浦頭教会をテーマにした切り絵の配色が見事である。
<堂崎天主堂>
さらに県道162号線を快走すると、奥浦湾に面した久賀島からのフェリーが発着する奥浦港を右手に見ながら、湾沿いに進むと奥浦湾の入口に向かって建つ堂崎天主堂に着く。
車の場合は、天主堂手前約300先にある公衆トイレのある駐車場に停めて歩くことになる。
キリスト教禁教令廃止以降の、1908(明治41年)に完成した、五島列島で最初に建てられた福江島(下五島)を代表する天主堂である。ゴシック調のレンガ造りで、内部は堂崎天主堂キリシタン資料館になっていて、潜伏キリシタンの受難の歴史が展示されている。
早朝だったために資料館への入館はあきらめ、奥浦湾の開放的な天主堂のまわりを散策した。
奥浦湾の入口に堂崎天主堂が建つ
ゴシック調煉瓦造りの重厚な堂崎天主堂
堂崎天主堂の前庭に立つ マルマン・ベル―像「復活の夜明け」
マルマン神父は明治12年堂崎小聖堂を建立し初代主任司祭となった。その後、2代目主任司祭のペルー神父が用地を拡張し、現在の赤煉瓦造りの新聖堂建築に着工した。長崎西坂で処刑された26聖人の一人で五島出身のヨハネ五島を祈念して「日本26聖人殉教者聖堂」と命名された。
堂崎天主堂を後にして、静かな奥浦湾を眺めながら朝食<タルタルフィッシュロールと五島牛乳503Kcal>を食する。
駐車場の休憩所で水補給後、県道162に戻り、つづく土岐湾をまたぐ真赤な土岐大橋を渡って峠を越え、国道384と交わる河務集落まで海岸線を下る。
朝食・タルタルフィッシュロールと五島牛乳
国道384号線沿い、城岳(標高216m)の麓に水ノ浦教会にでる。
水ノ浦の信徒は、五島と大村の藩の政策による1797年の外海(大野・牧野・神ノ浦)5人の男性とその妻子の移住にはじまると伝えられる。
1797(寛政9)年に始まった大村領民の五島移住政策に乗じて、仏教徒を装い、安住の地を求めて五島へ移住してきた潜伏キリシタン達は、5人の男性とその妻子の移住にはじまると伝えられ、山野を拓き、貧困に耐え、密かに信仰を守り続けたといわれる。
1865(慶応元)年の浦上信徒発見を機に、五島のキリシタン達は、続々とカトリックの信仰を表明して、囚われの身となり、過酷な迫害を受けることとなるが、耐えて信仰を貫き通し、「信教の自由」の夜明けとともに島内各地に教会堂が建設されていった。
カトリック水之浦教会
1869(明治2)年初期、ここ貝津集落で大村藩領・西彼杵の神ノ浦より迫害を逃れて移住してきた潜伏キリシタン3戸15名が発見された。久賀島の迫害が三井楽にも及ぶと、貝津の信徒たちも代官屋敷で拷問を受け、牢に入れられた。
1923(大正12)年、現在地に当時40戸の信徒たちにより木造の現教会が建立され、献堂された。1962(昭和37)年増改築し、木造づくりの静謐さを感じる現在の姿となっている。
カトリック貝津教会
<荒川温泉>
カトリック貝津教会を出て、国道384号線を南下すると、美しい浜辺が伸びる渚百選「高浜」の海岸に沿って走る。雨も降りだしたので、今夜は舎営になりそうである。一路、荒川温泉目指してトンネルをぬって自転車を走らせると「歓迎ようこそ荒川温泉 出湯の街へ」と入って行く。
荒川漁港は小雨に濡れている。雨煙る漁港に一隻又一隻と釣り船が帰港する。
疲れた体を休めるために、立寄り湯である「地域福祉センター荒川温泉」につかり、そのあとで露営地を探すことにしていたが、雨脚が激しくなってきた。やはり民宿に落ち着きそうである。
小雨煙る荒川漁港
民宿「きはらし」は、荒川漁港に面した釣り人の常宿になっているようである。洗い場など、すべてが磯釣や海釣りから帰った釣り人の都合の良いように造られ、配置されている。玄関を入ると釣り用の長靴がならび、釣り用のクーラボックスが無造作に置かれている。それだけではない、二階からは鳥山島の彼方、東シナ海に沈みゆく夕陽と、その跡を染め上げる夕焼けの絶景に声を飲むことになった。
この釣り人を見つめてきた歴史が匂う民宿「きはらし荘」には、釣り人家族としての温かみが染みついているようだ。それは女将さんとの語らいの中ににじみ出ている。ここちよい我家のような気持ちにひたった。
飛込みのため、夕食は持ち込みの弁当で済ませたが、女将さんがつくってくれた鯖煮の美味しかったこと、絶品である。
朝は早立ちの釣り人と同じく、握り飯を作っていただけるという。
温泉は、自噴源泉のかけ流しのサラサラ湯、雨に濡れた体を温めてくれた。家族風呂のようにこじんまりしていてちょうどいい。
民泊は、テント泊ではできなかったことを処理することで忙しい時間でもある。洗濯、充電、記録のとりまとめ、情報の整理、修理や補修と寝る時間も惜しいのである。
特に、明朝のルート決定に時間を費やした。当初の予定では、国道384号線の終点である富江まで行き、福江までは県道9号線を北上する<福江島・下五島一周ルート>を走破する予定になっていた。しかし天候の悪化(雨天の多さという)でスケジュールがタイトになってきているためにルートを短縮せざるをえなくなったのである。
今晩のお宿・荒川温泉 「民宿きはらし」
天地創造 荒川漁港の聖なる夕焼け
2018年9月18日 ― 荒川温泉 ⇒ 久賀島・旧五輪教会
につづく