shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

中山道徒歩旅行52 <美江寺宿55⇒関ケ原宿 58>Ⅰ

2011『星の巡礼中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』 54
   <同志社ローバースカウト創立50年記念事業 てくてくラリー通信記録>
 
 
   28日目―②  中山道てくてくラリー  <美江寺宿55 ⇒赤坂宿56 ⇒垂井宿57 ⇒関ヶ原宿58 > 
                    20.0km/11h    5月15日
 
しばらく旧中山道を進むと、近鉄養老線の<東赤坂駅>の踏切を渡って<赤坂宿>に入って行く。
 
 
 <赤坂宿 56>      日本橋よりの中山道てくてくラリーの総距離 708㎞ (立寄りを含む)
 
               日本橋よりの中山道里程 110里 / 440㎞ 
 
 
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歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・赤坂」

近鉄養老線の踏切を渡って進むと、抗瀬川にあった赤坂港跡に出る。
赤坂宿にあった川港で、往時はにぎわっていたが、現在は廃港となり、史跡公園となっている。
豊富な水量を利用した川船による水運は江戸時代において物資の輸送やお伊勢参りの旅人が船便を利用していた。
明治に入ってからは石炭産業の隆盛によって500隻を越える船でにぎわったという。
 
赤坂港跡から少し進むと、子安神社の前あたりに<本陣跡>、<脇本陣跡の碑>が続く。
その先に、関ケ原合戦の戦死者を弔った<甲塚>がある。
   

 赤坂宿は、さきほど立寄った<杭瀬川の赤坂港>の舟待ち宿として存在していた杭瀬宿が発展した
もので、総戸数292・旅籠17を持つ江戸から110里にある、中山道56番目の宿場である


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中山道赤坂宿 脇本陣
 
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中山道赤坂宿 青墓のよしたけあん
 
 
<青墓のよしたけあん>  (案内板にみる解説)
 
『牛若丸が、修行を終え奥州へ落ち延びるとき、円願寺でなくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈って、それまで杖にしてきた芦の杖を地面に突きさしさしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれと歌にした。その願いが通じたのか、芦が大地から芽をふき、根を張ったが、茂ったのはみごとな竹の葉だった。この珍しい竹はその後も生長し続け、やがてこの竹を「よし竹」と呼び、この寺を「よしたけあん」と呼ぶようになった。』
 
ここは、源氏再興祈願がなされた義経伝説の地である。中山道(県道216)は、大谷川を渡り蒼野ケ原の一里塚の碑・111里>を経て、垂井宿に入る。

 

 
<垂井宿 57>    中山道てくてくラリー徒歩総距離715㎞  (立寄り地含む)

            日本橋から111里・約444km 

 垂井宿は、戦国時代の軍師、竹中半兵衛生誕の地として知られる総戸数315軒・旅籠27軒の中山道57番目の宿場である。また、徳川家康関ヶ原の役の際に本陣を敷いたことから徳川家康公開運の地として紹介されている

垂井宿は、垂井追分で東海道につながる美濃路が分岐し、交通の要衝でもあった。 相川にかかる相川橋を渡ると<垂井追分>があり、<右・中山道木曽路>と<左・美濃路たにぐちみち>の分岐である。

その先、右手に<旅籠 亀丸屋>がある。その先<金山彦大神の石大鳥居>をくぐった右手に、芭蕉が和尚の玄潭律師(俳号 規外)を訪ね、冬籠りしたときに詠んだ句が残っている<本龍寺>ある。

 
その向かいの大ケヤキの下に、歌枕で有名な<垂井の泉>があり、ここにも芭蕉の句碑が建つ。

   《 作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 》    芭蕉  (本龍寺)

 <垂井の泉>は、大ケヤキの根元から湧き出る清水で、旅人の喉を潤し、地元の人々の生活用水として利用され、文人の詩歌にも歌枕とし詠われるなど、垂井の地名の起源となった。

   《  昔見し たる井の水は かわらねどうつれる影ぞ 年をへにける 》  藤原隆経 

     《  葱白く 洗いあげたる 寒さかな 》 芭蕉 (垂井の泉)

 
 
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蒼野ケ原の一里塚跡 111里
 
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美濃路中山道分岐<垂井追分>道標

                                 

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垂井宿旅籠 亀丸屋