夕方、嘆きの壁に出かけ、広場のうしろに座ってユダヤ教徒の敬虔な祈りの場に接した。
明日は、エルサレム旧市街のイエスが最後に歩かれた道<ヴィアドロローサ/悲しみの道>をたどることにする
<▼10月28~29日 エルサレム シタデル・ユース・ホステル連泊
シングル @43US$ >
《10月29日 エルサレム巡礼》
エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教にとって特別な聖地である。
ユダヤ教徒にとっては神から与えられた土地であり、キリスト教徒にとってはキリストが亡くなった場所であり、そしてイスラム教徒にとってはマホメット(ムハンマド)の「夜の旅」の到着地で、ここから天馬に乗って天へ昇ったとされる重要な聖地である。
この待望の三大宗教の聖地であるエルサレムの旧市街を歩いた。
ヤッファ―門をスタート エルサレム旧市街を取り巻く城壁に隣接する<ダビデの塔>>
<嘆きの壁>
嘆きの壁は、岩のドームの建つ神殿の丘を取り囲む城壁(ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁)の現存する一角にあり、ユダヤ教の聖地である。
この<嘆きの壁の広場>は、機関銃を持った兵士や、警官、私服によるパトロールが厳しくなされ、周囲の建物の屋上には迷彩色の網をかぶせた監視所が張り巡らされ、機関銃が顔をのぞかせている。広場への出入りは、厳重な検査がなされ、その物々しさに驚かされた。わたしは出かける前に宿泊先に、金属類(ナイフ・ハサミ・爪切りほか)を置いてきたので案外スムーズに広場に入ることが出来た。
そのような厳重な雰囲気の中で、多くのユダヤ人が壁に向かって左側に男性が、右側に女性に分かれ、タルムードやトーラを、声を出して読んでいる。特に男性側にはユダヤ教超正統派の黒ずくめの人たちが目立つ。
滞在先のユースホステルに近く、城壁巡りの入口のある旧市街西壁のヤッファ―門をスタートし、<ダビデの塔>を経て、<嘆きの壁>に向かった。
Sketched by Sanehisa Goto
わたしは広場のうしろの方で、この<嘆きの壁>に向かって祈るユダヤ教徒を目にしながら、持参した新約聖書のマルコの福音書を開き、イエス・キリストのエルサレムでの最後の日々を、時間を追いながら読んだあと、スケッチを終え静かに<嘆きの壁広場>を離れた。
<嘆きの壁>を出て、南側にあるモロッコ門をくぐり、<神殿の丘>にある<エル・アスク・モスク>(男子専用礼拝所)と<岩のドーム>(女子専用礼拝所)に向かう。
モロッコ門
<神殿の丘 - 岩のドーム>
神殿の丘、岩のドームには、神殿の丘を取り囲む城壁西側にある<嘆きの壁>の南側にあるモロッコ門から高架橋を渡って入る。
岩のドームに立寄って見ると、イスラエル兵によりバリケートが築かれ、関係者以外は入場禁止であると告げられる。あとでわかったが、岩のドームは女性専用のモスクで男性は入れないと云ことである。礼拝は男女によってわかれ、男性はモロッコ門を入ったところに位置する<エル・アクサ・モスク>で礼拝することになっている。
ユダヤ教徒にとって、神殿の丘は、アブラハムが神の命令に従って息子イサクを献げようとしたかってのモリヤの丘であったという。3000年前ダビデがそこに契約の箱を置き、子ソロモン王が神殿を建てた場所で、ユダヤ教・キリスト教の聖なる場所である。
内部の岩は、世界が創造された際の<基礎石/エペン・シュテイヤ>と呼ばれ、世界の中心であるとされている。
一方、イスラム教にとってもエルサレムは、サウジアラビアのメッカ、メディナに次いで3番目に重要な聖地である。
7世紀、イスラム教徒がエルサレムを征服し、ユダヤ教の神殿跡に岩のドームを建設した。
イスラム教の創始者であり預言者であるマホメットは夢の中でメッカから天子ガブリエルに連れられてエルサレム神殿まで旅をし、神殿の岩から昇天し、メッカに戻ったと言い伝えられていることは先にも述べた。
岩のドームの下にある洞窟をムスリムは<魂の井戸>と呼び、最後の審判の日が訪れた時、すべての魂がここに集まるという。
城壁で囲まれたエリアが<神殿の丘>
手前のエル・アクサ・モスクと岩のドーム(奥)
岩のドームを後にし、神殿の丘を囲む城壁の東門<黄金門>を出て、オリーブ山に向かう。
<オリーブ山 と 主の涙の教会>
オリーブ山の北側、旧エルサレムを望むところに<主の涙の教会>がある。
ちびロバに乗られたイエスキリストがこの場所からエルサレムを見渡し、その行く末を案じ、涙を流されたという新約聖書に基づいて建てられた教会である。
<ルカによる福音書19節41~44節>
祭壇越しに見える岩のドームは、その神秘性を今に伝えている。
<主の涙の教会>は泪をモチーフに、その祭壇はイエスが望まれた方向である西向きに建てられている。
主が泣かれた教会 主が泣かれた場所の祭壇越しに岩のドーム/エルサレム旧市街を眺める
オリーブ山近景を望む①
エルサレム旧市街よりオリーブ山遠景を望む②
Sketched by Sanehisa Goto
<ケデロンの谷>
オリーブ山とエルサレム旧市街南にあるダビデの町の間を隔てる古い岩窟が並ぶ集落が<ケデロンの谷>と呼ばれている。
ここはダビデ王の時代からの古い墓地があり、最後の審判の日に死者が蘇るといわれている。オリーブの樹の間からは古代の切石造りの旧約聖書にゆかりのある預言者の岩墓がみられる。
エルサレム旧市街城壁より シオンの丘を眺める
ダビデの町遺跡
ダビデの町は、ユダヤ民族の最盛期を支配したダビデ王とそれに続くソロモン王が第一神殿時代に築かれたと思われる街である。
ケデロンの谷にある岩墓群
<シオンの丘周辺>
エルサレム旧市街の南西、シオン門に隣接する地域に、ダビデ王の墓・最後の晩餐の部屋・鶏鳴教会・マリア永眠教会が集まっている。
ダビデ王の墓には、新旧聖書<新約聖書 使徒行伝2章29節 / 旧約聖書 列王記上2章10節>に記されているダビデ王が葬られ、ダビデの星が刺繍されたビロードの布で覆われたダビデの石棺があり、聖書に出てくるダビデ王との対面を果たすことが出来た。
最後の晩餐の部屋は、ダビデの墓の上階にある。
イエスは、1000年後のダビデの子孫である。ダビデの墓の上階が、イエスが処刑される前に12人の弟子と最後の晩餐をした部屋であり、旧約と新約の接点として残されている史実と、その予言の不思議さに驚かされる。
最後の晩餐の部屋 ダビンチの最後の晩餐
鶏鳴教会は、ユダの裏切りによりゲッセマネの園でとらえられたイエスが、ここシオンの丘にある大祭司カイアファの屋敷に連れてこられた場所に1931年に建てられた聖ペテロ教会のことを言う。
この鶏鳴教会は、ペテロが群衆に「イエスの仲間だ」と言われ、イエスの預言通り「知らない」と3回も嘘を言ってしまった屋敷の中庭にある。
その後、ペテロは悔い改め、イエス昇天後は弟子たちのリーダーとして誠心誠意布教につとめた。
ここに出てくるイエスの弟子であったユダとペテロの違いについて考えておきたい。ユダは、イエスをユダヤ当局に引き渡す手引きをした裏切り者であり、ペテロは先にも述べたように弟子でありながら「イエスを知らないと」と言って、イエスを裏切ったのである。
二人の裏切り者は、ペテロが後悔し忠実なイエスの僕に変貌する一方、ユダは悲しみを癒されず自ら命を絶ってすべてを終わらせてしまう。
教会のドームの上の十字架に鶏が飾られている鶏鳴教会
マリア永眠教会もまた、エルサレム旧市街南にあるシオン門の近く<シオンの丘>にある。地下聖堂に階段で下りると、イエスの母<聖母マリアの像>が安置されている。
シオン門近くの城壁よりマリア永眠教会を望む マリア永眠教会の地下に安置された聖母マリアの像
《シオンの丘➔ゲッセマネの園➔ヴィアドロローサ/悲しみの道
シオンの丘にあるダビデの墓、マリア永眠教会、鶏鳴教会、最後の晩餐の部屋の見学を終え、シオン門よりユダヤ教徒地区を横切って<糞門>に向かう。門を出て城壁沿いにある<主の祈りの教会>、<ゲッセマネの園>を訪れたあと、<ライオン門>より、イエスが十字架を担がれて歩かれた聖なる道<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>をたどり<ゴルゴダの丘>にある<聖墳墓教会―イエスの墓>に向かう。
<ゲッセマネの園>
ゲツセマネ の園は、オリーブ山の麓にあり、イエス・キリストが受難に先立って苦悩し,最後の祈りをささげ,捕縛された場所である。
ゲッセマネの園
<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>
ゲッセネマの園から城壁<ライオン門>をくぐり、イスラム地区の狭い路地を進むと標識<VIA DOLOROSA➔>に出会う。
これより、十字架を背負って歩んだイエスの足跡をたどることになる。
<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>を歩くにあたって、エルサレム旧市街のイエスが歩まれた地図を再掲しておきたい。
ユダヤ教指導者たちから死刑を強く求められたイエスは、ローマ総督ピラトのもとに連れていかれた。判決権を持つピラトはイエスが死刑に値するとは考えなかったが、ユダヤ教の指導者によって煽られた民衆が強烈に死刑を求めたため、イエスに死刑判決を下したといわれている。
VIA DOLOROSA ・悲しみの道
イエスの歩まれた道標
<第1ステーション:地図内①>である死刑判決のなされたローマ総督ピラドの官邸から、イエスは茨の冠をかぶせられ、十字架を背負わされ歩み、<第14ステーション:地図内⑭>である磔の刑に処されたゴルゴダの丘までの約1㎞を歩まれた。この場所に聖墳墓教会が建てられている。
このイエスが十字架を背負わされ歩かれた道が<VIA DOLOROSA> (ヴィア・ドロローサ/悲しみの道)である。
ヴィア・ドロローサには、聖書の記述や伝承に従って、次の14ステーションが指定されている。
■第1ステーション ① : イエス、死刑判決を受ける
(ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞)
①ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞
現在学校が建っている地下にローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞跡が残されている。
■第2ステーション ② : イエス、十字架を背負わされる
(鞭打ちの教会/ホッケ・ホモ・アーチ)
鞭打ちの教会 ホッケ・ホモ・アーチ
ローマ総督ピラトがイエスを群衆の前に引き出して、「エッケ・ホモ」すなわち
<ラテン語:この人を見よ>と叫んだ場所だといわれている。
■第3ステーション ③ : イエス、十字架の重みで倒れる
ポーランド・カトリック教会のレリーフ<十字架の重みに倒れるイエス>
■第4ステーション ④ : イエス、悲しむ母マリアに出会う
■第5ステーション⑤: イエスの代わりに、シモンが十字架を背負わされる
<ラテン語の石板標識>
■第6ステーション ⑥ : ベロニカがイエスの顔を拭いたといわれる場所
この辺りは狭い路地に多くの土産物店が立ち並んでいる。
ベロニカが拭いた布にイエスの顔の跡が付いたといわれ、その布はローマのサン・ピエトロ寺院に保存されているという。
聖ベロニカ教会(ベロニカが住んでいた家といわれる)
■第7ステーション ⑦ : イエス、2度目に倒れたといわれる場所
イエスが、2度目に倒れたといわれる場所付近
■第8ステーション ⑧ : イエス、悲しむ女性たちを慰めた場所
第8ステーションの標識 第8ステーションに埋め込まれたラテン十字架
■第9ステーション ⑨ : イエス、3度目に倒れた場所
コプト教会の入口横
■第10ステーション ⑩ : イエス、衣を脱がされた場所
聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂
聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂
■第11ステーション ⑪ イエス、十字架に付けられる
聖墳墓教会の階段を上がったところにあるローマカトリックの祭壇に<十字架に張り付け終わったイエス>がおられる。
■第12ステーション ⑫ イエス、十字架上で息を引き取る
第11ステージの左隣にあるギリシャ正教の祭壇に<十字架上で息を引き取ったイエス>がおられる。
■第13ステーション ⑬ :アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る
イエス、弟子たちによって十字架から降ろされる様子
■第14ステーション ⑭ : <ゴルゴダの丘> イエス、埋葬される
ここゴルゴダの丘は、イエスが十字架を背負わされ歩んだ<ヴィアドロローサ/悲しみの道>の最終地であり、十字架に磔にされたイエス最後の地である。イエスの墓があり、聖墳墓教会が建てられている。
最初、ゴルゴダの丘は、オリーブ山やシオンの丘のようにエルサレム旧市街を取り囲む城壁の外にあるものとばかり思いこんでいたが、現地で城壁内の聖墳墓教会そのものがゴロゴダの丘であることを知った。
イエスの墓といわれる大理石の石棺
イエス・キリストの受難の道である<悲しみの道/ヴィア・ドロローサ>をイエスの生涯を顧みながら、こころ静かに歩いた。
その後、西側城壁に上がり、エルサレムの街をこころに刻み、エルサレムに別れを告げた。
エルサレムを去るにあたって新市街を散策
エルサレムの街には、髪の毛を頭のうしろで結んだ娘さんたちが、戦闘服に身を包み、軍靴を履き、自動小銃をもって歩いている姿に多く出会う。
自分たちの国は、自分たち若者が守るのだという覚悟が伝わってくる。生きいきした目の輝きには、このイスラエルの国を離れず、先人たちの過ちを二度と繰り返さないという強い意志が感じられる。
若者の血を、祖国のため、子孫のため、未来のため沸き立たせることが民族生き残りの条件であり、基本であるということを自覚し、理解しているといえる。
平和の中に埋没している日本の若者とは、取り巻く環境からくる人生観・世界観そのものが異次元であるといっていい。
トーラを読み、口ずさむユダヤの人々の多いこと。バスの中、バス停、街角など、時間を惜しんでトーラを諳んじている姿には、神との繋がりにこそ民族の存続があり、生かされている証があることを確認しているようである。
ユダヤ民族が存続し、これからも存続し続けるためには、規律と戒律が必要であることを自覚しており、民族の財産が民族愛であり、言語であり、宗教であり、神であることを示している。
<▼エルサレム旧市街滞在 10月28~29日 シタデル・ユースホステル連泊 1室@43US$ >
いよいよエルサレムを離れ、出エジプト記に書かれているモーセのエジプト脱出からカナンの地への逆ルートをたどり、シナイ半島を経由してエジプトにむかう。モーセ率いるイスラエル人の帰郷大作戦である苦難の彷徨40年間の足跡をたどる。
イスラエル人が、神の導きでエジプトを脱出するにあたり、神との契約を守るという代償を背負うこととなった。正統ユダヤ教徒は、今なお<神に選ばれた民>としての生き方を、<神との契約>として厳密に守り通している。
砂漠地帯であるシナイ(エジプト)へ向かうにあたっての準備として、まずはカイロまでのバス事情・ルートの収集、エジプト入国に必要な書類やエイラットのエジプト領事館の関する情報を集めることにした。
《10月30日 エンゲディ ― クムラン渓谷トレッキング/死海浮遊体験 》
次なる目的地である死海に面した<エン・ゲディ>に向かうため、エルサレムの新市街にあるセントラル・バス・ステーションにやって来た。バス乗車にあたっての厳重な荷物検査と、身体検査でのイスラエル兵との冗談に、空気が和んだ。
< Do you have a gun? > との尋問に、多分冗談で言ったものと思い、こちらも冗談で< Yes, I have! >と答えたら大爆笑、一瞬その場の雰囲気が明るくなったものだ。にこやかに手を振って無事通過させてくれた。
バスの正面ガラスは太い鉄格子で補強され、テロの襲撃に備えている。
Holon行のバスに乗り、エン・ゲディで途中下車する。 エルサレム08;45発、バス#486, Gate 3で乗車する。
バスは、死海の北端で右に折れて入植地クアレQUALEに立寄る。
ここは砂漠のオアシスのように草木が繁り、花が咲き乱れる別天地である。しかし、よく観察するとこのオアシスはイスラエル軍の兵士によってガードされ、装甲車に重機関銃を搭載し巡回していることに気づく。
ただ、イスラエルの人々が、このような死の谷底の岩がゴロゴロしている不毛の地にも入植地を広げ、緑化に励んでいるという現実と、祖国再建にかける情熱と覚悟に驚嘆するとともに、頭が下がるものである。
海抜下、マイナス400mにある死海エリアを進むバスに乗っていると、飛行機のように気圧の変化により耳鳴りがする。このあたりには、原住民ベトウィンが羊を飼い、旧約聖書以来のような質素な小屋や移動用テントに住んでいる。モロッコのベトウインや、チベットで出会った山岳民族に似た生活風景である。
バスは死海沿いに、月のような死の道路を南下しているが、行き交う車がほとんどないことに気づく。死海の周辺は流れ込む川もなく、真水を確保する手段がないがため、入植地やベトウイン以外、人の住む村一つないのだから車の通行も少ないのである。
<クムラン渓谷 ― 死海文書>
1947年、ベドウィンの少年が迷子の山羊を捜していたところ、クムラン渓谷の洞穴のなかから土器の壺に入った羊皮に書かれた七つの巻物を発見した。それらが旧約聖書のイザヤ書の完全写本や聖書関連古文書<死海文書・死海写本>であったことから世紀の大発見として注目された。
下の写真の真ん中の洞穴から巻物が発見されたといわれる。
特にユダヤ人にとっての驚きは、ユダヤ教典<タルムード>のテキストが、古ヘブライ語・ギリシャ語・アラム語で書かれていたことである。
このすべての装飾をこそげ取り去った赤土の岩石の山や、渓谷にこだまする乾いた足音の先に、神に選ばれた民によって書き伝えられた証が残っていた。誰が想像できようかこの極限の世界で、おのれを律して修行を積み、人に与えられた使命を見つめ、乞い願った聖なる人たちがいたということを・・・想像を絶する旧約の世界である。
向き合う大切さ、乞い願い求める信仰の強さを教えられた瞬間であった。
エンゲディ・クムラン渓谷にあるクムラン教徒が住みついていた中央の洞穴から<死海文書・写本>発見
<エンゲディ・クムラン渓谷トレッキング 国立公園入域料 17NIS>
死海の西北部に広がる渓谷で、紀元前2世紀末ごろユダヤ教徒のクムラン教団がここクムラン渓谷の洞穴で禁欲的な修道生活を始めたという。今日は一日、クムラン教徒の修養にひたりたいと、このクムラン渓谷を瞑想行脚<経行・キンヒン>させていただき、トレッキングすることにした。
ここエンゲディ・クムラン渓谷は、アメリカのグランドキャニオンのように見渡す限り死の地であり、赤土でおおわれ荒涼としている。
このような荒れ地にも小鳥たちの鳴き声が響き、こころを豊かにしてくれる。またカモシカが姿を見せ、生き物の姿を見ているだけで感動してしまうのである。
渓谷トレッキングの途中でランチをとった。パン・ジャム・バター・リンゴ・ヨーグルト・バナナ・コーヒーと豪勢である。
ランチをとっていると、公園をパトロールしていた武装レンジャーのスーザン嬢が声をかけてきた。
どのルートでここまで来たのかとの質問、ルートを説明すると、この奥に<ダビデの滝>があるので立寄って見てはと勧められた。公園レンジャーは、トレッカーの指導と、管理と警備および保護にあたっているようである。
Sketched by Sanehisa Goto
<ダビデの滝>
ダビデの滝には、仙人みたいな髭を生やした男二人が、裸になって滝に打たれながら何かを唱えている様子、すぐにエルサレムの<嘆きの壁>の情景を思い出し、彼らがトーラを唱えている事に気づいた。
ダビデの滝は、約3000年前の旧約の時代、ダビデがサウル王から逃れ、身を隠していたところである。サウル王が用足しのためある洞窟に入った時、そこに隠れていたダビデは、サウル王を殺すことなく、背後から王の着衣の一部をナイフで切り取っていた。
サウル王が洞窟から出た時、ダビデも外に出て、自分がサウル王を殺すつもりならいくらでもそのチャンスがあったが、自分はサウル王に反逆する者ではないことを話すのである。
このことによって、サウル王はダビデの忠実心を認め、ゆるすのである。
その後、サウルは戦いで亡くなり、跡を継いでダビデがイスラエル王になった。
(なお、ダビデ王に関しては、旧約聖書詩編をお読みいただければ幸いである)
ダビデの滝
この乾燥した岩山に水が流れているなど夢想だにしなかったので、はじめレンジャーの言うことを信用していなかったのである。
岩の間から幾筋も溢れんばかりに流れ落ちているのだから驚きである。もちろん、わたしも滝に入ってうたれ、まろやかで清らかな水を沢山いただいた。
仙人風男たちに<シャローム>と挨拶し、お邪魔したことを謝し、ダビデの滝を後にして、死海に向かっておりた。
グランドキャニオンのような赤土のクムラン渓谷の両断崖に洞穴がならぶ
クムラン渓谷より死海を背景に
クムラン渓谷の一部には貴重な水の流れがあり、緑を目にすることが出来、
その流れは死海に注ぎ込み蒸発する
<死海 - 浮遊体験 1.5US$>
クムラン渓谷トレッキングを終え、<エンゲディ・パブリック・ビーチ>へ直行、死海での浮遊体験をするためである。
死海は、海面下398mにある世界で一番低地にある塩(水)湖である。
ゴラン高原に発し、ガリラヤ湖(淡水湖・海面下213m)にそそがれた流れは、ヨルダン川を南下してここ死海に達する。
川水は、出口のない死海に溜まり、天日による蒸発によって塩分濃度の比重が大きくなり(31.5%)、浮遊が可能となるのである。
死海の塩分濃度は普通の海水の10倍の濃度である。死海の塩水が傷口や目に入ると痛いことこの上なく、炎症を起こすこともあるので浮遊体験時にはスイムキャップをかぶり、水中眼鏡を着けることになった。
ただここエンゲディ・パブリックビーチ(入場無料・シャワー/トイレ/ロッカー有料)には美容に効くという泥はなく、泥売りおばさんから購入して泥パックを楽しむことになる。
泥パック、温泉、プールを楽しむなら、パブリック・ビーチより南にある<エンゲディ・スパ>を利用することをおすすめする。
死海での浮遊体験をしながら、遠くかすむ死海対岸北東に横たわる約束の地カナン(ヨルダン)にあるモーゼ終焉の地ネボ山を拝し、目を閉じた。これから訪ねるモーゼが十戒を授かったシナイ山や、ユダヤの民を連れ出したエジプト脱出の情景を、空想の中にたどってみた。
死海の塩水で描いたスケッチ
Sketched by Sanehisa Goto
<▼10月30日 エンゲディ・ベト・サラ国際ユースホステル泊 46US$>
エンゲディ・インターナショナルYH(ユースホステル)は、エンゲディ国立公園入口や死海の浮遊体験のできるパブリック・ビーチ近くにある。
二食付き1泊、46US$(VISA払い)、朝食・夕食とも豪華である。YH周囲には飲食店はなく、お世話になった。
この夜は、満月の夜で、死海に映る満月の長い月影が死海の上に横たわって幻想的である。
フルムーンが死海に映え、わたしを宇宙へと導く。エンヤの<Sheherd Moon>が魂に響く。
月を愛でていると、高校生男女240名がバスで乗り込んできた。満月にひたっているどころではない。彼らはディスコのバンドを囲んで歌い、踊りだした。それもボリュームいっぱいにして、人ひとりいない死海に向かってである。
イスラエルの青少年育成に見るユースホステルの重要性を見ておきたい。
青少年を集団生活させ、ユダヤ教の聖地・聖人・歴史・タルムードや、イスラエルの自然環境・地理・地政学・隣国との国境を学ばせ、パレスチナとの多くの共同統治地区を見せ、全国に広がる入植地・キブツ(イスラエルの集散主義的協同組合)での体験をさせることにより強健な体力づくりと愛国心向上と、旧約の歴史探究をさせることにあるようである。
その青少年育成のフィルドワークの中心として、学校生活の延長線上に、ユースホステルを据えているようにうかがえる。
徴兵制をとるイスラエルは、自然の中をチームで出歩かせたり、チームで宿泊させたり、自分たちの計画で集団行動・労働をすることによりチームリーダを決めたり、役割分担により人に役立つことや、助け合う精神を向上させることに重点を置いているようである。
未来の国を背負う青少年の責任感とグループ連帯意識の向上に役立たせている。
まさにボーイスカウトのパトロールシステム(班制度)を実践しているといっていい。
これらの青少年育成の運動を推進するため、ユダイズムやシオニズムを支援する全世界の各種団体が設立運営され、各構成員は十分の一税のように、全収入の10%~30%をイスラエルの国体維持のためや、青少年育成のため献金・送金する同胞が多いことも知られている。
アメリカ在住時のユダヤ系アメリカ人の友人や隣人もまた、イスラエルへの送金を続けていたことを想い出したのである。
明日朝一番のバスで、イスラエル最南端の港町エイラットに向かう。若いエネルギーの爆発で眠れそうもない。でも、早く寝ないと・・・
<エンゲディ⇒エイラット> エルサレム始発バス#444は、エンゲディに45分遅れて到着し、エイラットに向かって出発した。 バス代 53NIS。
《 10月31日~11月1日 リゾート都市 エイラット 快晴 35℃ 》
エアコン付きのバスは、死海西岸沿いに、対岸ヨルダンの赤茶けた丘陵地帯を眺めながら南下する。
途中、エンボッケの街で15分間トイレ休憩、一応何でもそろう死海最南端のビッグオアシス(リゾート地)である。泥パックエステや大型ホテルが目に付く。
バスは、これより南に横たわる木一本ないネゲブ砂漠の東端を縦断し、エイラートに着く。人が住めるような所ではない。
砂漠といってもデザート(砂)ではなく、この世から見捨てられたような荒れ地である。途中、ただ一つの製塩の白い工場群に生きる光を見たような気がした。
このような荒れ地(砂漠)にも入植地(キブツ)があり、人工的な緑のオアシスが目に飛び込んできて驚嘆させられるのである。このような暗澹たる土地に、いかなる生産を計画しているのであろうか。頭が下がる思いである。
神から与えられた地であるイスラエル建国に夢をかけるユダヤ人いや全世界のユダヤ民族の情熱を見る思いである。
キブツの大ビニールハウス群には、エンドウ豆のような緑の野菜がすくすく育っている。
この月の砂漠のような荒れ地に緑の命が育っている姿は、感激の涙を誘うような感動でもある。神と人のコラボレーションをユダヤの地に見たのである。
ここネゲブ砂漠では、一本のペットボトルの水が命をつなぐすべてである。水それは全生命の根源であり、水無くして生命は維持しえないことを知る。
日本人が、日本の自然の豊かさを実感できないでいることの哀しさ、むなしさ、感謝の気持ちのなさに、おのれ自身憤りを感じて恥じ入ってしまった。日本人は、なんと素晴らしい土地を与えられ、住みついているのだろうか。
ここネゲブ砂漠に生きる蝿は、人の汗という水分を含んだ分泌物に群がってくる。追ってもおっても汗(塩分を含んだ水分)に吸いついてくる。その貪欲な生き方にこそ、ここイスラエル建国の精神を見る思いでもあった。
また、観光客への配慮も素晴らしい。荒涼とした砂漠の殺風景から観光客を癒すためであろうか、ラクダやダチョウの切り抜き看板が砂漠に立てられており、和ませてくれる。
牛やダチョウを飼っているエイラット近郊のキブツをみながら、バスは、エンゲディより丁度3時間、午前11:00に終点エイラット・バス・ステーションに到着した。
イスラエル最南端にあるエイラットは、リゾート地として一年中観光シーズンであり、多くの観光客を迎え入れている。
エイラットは、ソロモン王時代に交易港(現在のヨルダン領アカバ港)として栄え、シバの女王を迎えた港として知られている。
旧約聖書に出てくるエイラットは、現在のヨルダン側にあるアカバを指し、エイラットと名乗っている現在地はイスラエルの独立によって、荒野であった地に新しい港湾都市をつくってエイラットと命名したという。
この時期(10月末)、エイラットはシーズンオフなのであろうか、ほとんどの店が閉まっており、閑散としている。そのような中、水着姿で日光浴を楽しんでいる観光客もいる。
ランチは、イスラエル縦断後に予定している南アフリカケープタウンに向かってのアフリカ東海岸縦断に備え、栄養補給のため中華料理を「上海飯店」でとる。眼前がアカバ港、背景の赤茶けたサウジアラビアの岩山が琥珀色の紅海にマッチして美しい。
35℃、エイラットは暑い。ノースビーチで泳ぎ、小魚と挨拶を交わすシュノーケリングを楽しんだが、熱帯魚はおらず、サンゴにも出会わず残念。ここ観光地に休暇で遊びに来ている青年兵士たちも機関銃を携行することが義務付けられているようである。イスラエル全土が、365日臨戦態勢である。しかし、イスラエル人はみな陽気であり、生活をエンジョイしている様子である。なんといっても幸せを感じ、緊張の中にも満足と自信に満ちた表情をしている。
一方、アラブ人やパレスチナ人は生活に追われているのであろう、働かざるを得ないようである。両者は、支配者かどうかの立場の違いにも見えるが、パレスチナ人は4000年にわたって生活してきた祖父の地が遠き良き過去の時代になったことを嘆き悲しんでいるように見える。
ショッピングモールにも出かけてみた。エジプト国境に隣接しているので、イスラエル各地よりも厳重な手荷物・身体検査を受けての入店である。モールには、多くのラフな服装の店員らしき若者が機関銃を肩にかけて仕事や接遇サービスをしている。
ここエイラットでは、エジプト入国のためのビザ取得のため動き回った。
エイラットのエジプト領事館でビザ申請。9時申請すると、10時半には、直ちにビザを発行してもらえた。(申請代72NIS)
エジプト領事館員の<HAVE A GOOD DAY, ENJOY EGYPT !>の一言に、エジプト・シナイ半島の旅の安全が約束された気分にさせられ、緊張が一瞬にして失せた。なぜなら、3年前の1997年11月、ナイル川にあるルクソールの遺跡で、多くの日本人観光客がテロによる銃乱射に巻き込まれ犠牲(日本人10名を含む62名殺害)となっていたからである。
エイラット(イスラエル)よりアカバ(ヨルダン)へ陸続きの避暑地
エイラットのホテル群をバックに紅海の太陽を浴びる / アカバ(ヨルダン国境)よりエイラット市街を望む
イスラエルとヨルダン国境にも中立地帯が横たわる。
エイラットの街
Sketched by Sanehisa Goto
先日立寄ったヘブロンで、イスラエル兵とパレスチナ解放機構/PLO (イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目ざす武装組織)との間に銃撃戦があり、両方に死傷者が出たとのニュースが流れた。
ユースホステルの中にも緊張感が走った。
両サイドとも和平を望んでいるのに、自分たちの愛する領土に対する確執から、対立や紛争は尽きない。
両者絶対に譲れないところに、和平への解決の糸口が見つからないのである。
日本人の北方領土に対する無感覚と同じく<いいじゃないか>という諦めは、ここでは通用しないということである。国を盗るか盗られるか、それは生存権の問題であり、相譲れないのである。
祖父伝来の、民族固有の土地は絶対に奪還するという強い意志があってこそ、祖国愛に基づく祖国防衛が成立するのである。
祖国愛・祖国防衛の意識が両者にあるから悲劇であり、無情である。
今夜は満月である。ここからは4か国の満月が見られるのである。イスラレル・ヨルダン・サウジアラビア・エジプトの満月をここエイラットで見ることが出来る。エイラットはこれら4か国と国境を接しているからである。
これから、ネゲブ砂漠での夜間ラクダ―・ツアーに参加し、モーセ引率によるエジプト脱出後のイスラエルの民のシナイ半島彷徨40年間の苦労のわずかでも体験することにした。
<ネゲブ砂漠体験 夕暮ラクダ・ツアー 3時間コース
44US$ 15:00~18:00>
―Camel Ranch in Wadi, Shlomo, Eilat―
キャメル・ランチ(ラクダツアー)社のパンフより
Sketched by Sanehisa Goto
アブラハム(ユダヤ民族の祖父)が棲み、モーセ(イスラエル民族エジプト脱出の指導者)が歩き、預言者エリヤ(信仰の英雄の一人)が過ごしたネゲブ砂漠をラクダに揺られて巡るツアーに参加した。
ここネゲブ砂漠は、崖あり、岩石あり、土もあり、緑も少しはある。だから陰もあり、暑さをしのぐことも出来る。
ネゲブ砂漠での夕暮に、旧約の人々と同じく、粗食を口にし、焚火を見つめながら感謝の祈りをささげるのである。まだぬくもりが残る砂の上に一枚の粗末な布をひき、焚火の周りに寝そべって、北極星を眺めながら質素な食事<豆スープ>を口にする。迫りくる大宇宙におのれをまかせ、いついつまでも旧約(聖書)の創世記のなかで、モーセに引率されながら巡り歩くのである。
ネゲヴ砂漠でのラクダ・ツアーに参加し、旧約の砂漠世界を彷徨する
ネゲブ砂漠体験ラクダ夕暮ツアー 砂漠で焚火―神との対話・沈黙の時間
ネゲヴ砂漠のモーゼの世界にひたる <巨大渓谷 マクテシ・ラモン>
ネゲブ砂漠の住人 荒野に生きるラクダ達
<▼10月30日~11月1日 エイラット・ユースホステル泊 196NIS >
《 11月2日 エイラット 3日目 快晴 朝風強く、寒い 》
エイラットよりアカバ湾(紅海)越しにサウジアラビア半島の赤茶色の丘陵から昇る朝日を拝したあとユースホステルに戻って、フィルドワークにやって来た高校生(バス8台・約300人)の大集団とともに朝食をとった。
引率の先生は、腰に拳銃をぶら下げ、高校生の数人は肩に機関銃やライフル銃をかけ、仲間を守っている。いつ起こるかわからないテロに備えているのである。
シルバー年代(シニア)の海外からのボランティアについては先述したが、ここエイラットの早朝の道路を清掃している老人に出会った。もちろんTシャツには<I SUPORT ISRAEL>のロゴが光っている。柔和な顔に、喜びの表情が見て取れる。ポーランドからやって来たという。ボランティア制度によると、3か月をサイクルとして食事つきで、200US$が支給され、ただ往復航空券は自分持ちだという。
エイラットよりアカバ湾越しにサウジアラビア半島から昇る朝日を拝する
<エジプト国境の街ターバーより、 ダハブ/シナイ山への巡礼基地へ向かう>
エイラットのイスラエル国境での国境警備隊による厳重な警備と出国審査を終えたあと、エジプト国境での更なる厳しい入国審査が待ち構えている。ここ国境から15分ほどのところにあるターバーのバスターミナルから出ているミニバス(トヨタ・ハイエース)で、モーセが十戒を授かったシナイ山への巡礼基地であり、シナイ半島南東部にある観光地ダハブに向かった。
<シナイ半島から、カイロに向かう>
に続く