<同志社ローバースカウト創立50年記念事業 通信記録・旅日記>
同志社大学ローバースカウト隊(ボーイスカウト京都連盟第43団青年隊)は、1961年6月の結団から
50周年である2011年を迎えるにあたって、OGOB会による記念事業が企画された。
結団時の「中山道徒歩旅行 京都三条大橋⇒東京日本橋」に対し、結団50年企画として復路である「中山道 てくてくラリー 東京日本橋⇒京都三条大橋」がOGOB会を中心に実施されることとなった。
ここに、同志社ローバースカウト創立50周年記念事業『中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』の報告書として、本部との通信記録・弥次喜多旅日記を残すものである。
荷物を運んでくれたパートナー<ワイルド・ローバー号>
だが、2011年3月11日、いまだ記憶に新しい東北大震災がラリー直前に発生、「中山道てくてくラリー」の開催中断も止む終えない状況となった。
検討のすえ、震災復興支援キャンペーン隊として中山道徒歩旅行を成功させ、創立50周年記念企画の一環にすることにし、当初のOGOB参加という規模を縮小して、企画責任者を中心に区間参加者数名という最少人数で実行することになった。
企画者として、また自身の70才という古稀を記念しての中山道徒歩旅行への参加を申し入れ、実行委員会より許可を受けることができた。 さらに同志社ローバー隊の再建時、全身全霊で没頭した仲間の一人で、当時病床にあった故田中祥介氏(79期生・2018年10月12日没)をパートナーとして選び、弥次喜多コンビとして全行程を踏破する形をとることとなった。
現地と病床とのコミュニケーションは、曹同宗道元禅師の教えである「向かわずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回天の力あるを学すべきなり」を学び、双方の愛語の交感によってなされることになった。 また携帯メールにより、ブログ「同志社ローバーOGOB」に寄稿し、ローバー関係者への道中報告とした。
この徒歩旅行記は、その時のブログより転載し、旅行記の加筆、若干の修正を加えたものである。
当初、4月10日の<中山道てくてくラリー>スタートに合わせて出発式を計画されていたが、出立直前の東北大震災のため延期され、5月1日に実施された。
東京日本橋での出発式では東京在住のOBである長岡一美氏(64年度生)・藤田恵一氏(73年度生)・佐伯直幸氏(79年度生)の見送りを受けた。
同志社校祖・新島襄の故郷である群馬県安中にある「安中教会」では、「新島襄先生献花式」に、江守牧師(75年度生)司式のもと、献花者である桑原家元 桑原仙渓(和則79年度生)・桜子夫妻、参式者として 西村豊子氏(61年度生)、黒木保博氏(69年度生)、故藤見昌憲氏(65年度生・2022年11月12日没)、稲井一樹氏(83年度生)、堀越毅彦氏(78年度生)夫妻、それに<中山道てくてくラリー>踏破中の弥次喜多 後藤實久(60年度生)と、病床より写真参加した田中祥介氏(79年度生)の10名がローバー関係者として出席した。
献花式のあと、安中にある「ふるさとの郷」での実施予定であった同志社ローバースカウト隊創立50周年記念OGOB舎営大会(統括企画者:佐伯直幸氏)は、すでに述べたように東北大震災の被災者に思いを寄せたいということから中止となったことを書きとめておきたい。
また、同志社ローバースカウト隊創立50年記念「中山道550kmてくてくラリー」には、区間支援隊員として梅田幹人氏(71年度生)が<武佐宿⇒守山宿・野洲川原 18.0km/7.5h>が同行、同じく区間支援隊員として村田紘一氏(64年度生)が、5月21日 (中仙道てくてくラリー最終日 33日目) <大津宿⇒京都三条大橋・ゴール最終地>まで同行した。
ゴール前日、5月20日には同志社ローバー創立50年実行委員長である田中公郎氏(63年度生)と恵子夫人(65年度生)が大津宿に出迎え、弥次喜多の労をねぎらってくれた。
そして、最終到達地点・京都三条大橋には創立50周年事業の中山道徒歩旅行の完歩を祝う懐かしい多くの仲間の出迎えをうけた。
道中、おおくの仲間の支援と祈りのもと中山道550kmを踏破しえたことに感謝したい。
同志社ローバースカウト50年記念<中山道てくてくラリー550㎞>踏破行程表
同志社ローバースカウト50年記念<中山道てくてくラリー550㎞>踏破ルート
では、「中山道てくてくラリー」からの弥次喜多の報告および弥次喜多日記を載せておきたい。
■ 1日目 <日本橋⇒蕨宿①>の中間地点・荒川/戸田橋にて露営 4月10日
2011年(平成23)3月11日 14時46分18秒、 宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする
東北地方太平洋沖地震が発生。 出発式は後日に延期することになり、弥次喜多コンビである後藤實久と
田中祥介(写真参加)は、東北大震災の余震の残る東京日本橋を京都三条大橋にむけてスタートした。
日本橋には、今から50年前、三条大橋を出立し、ここ日本橋にたどり着いて喜びにひたった精悍な隊員たち
の懐かしい顔が見送ってくれた。
50年前、京都三条大橋から徒歩で中山道を踏破し東京日本橋に到着した隊員達
日本橋出発は、地震発生から30日目、いまだ余震がつづいていた。
石神井川の土手では、桜吹雪(チェリーブロッサム・シャワー)にこころも和む。
広重浮世絵 「日本橋」
満開の桜がもの悲しく見えるのは、いまだ余震の残る東北大震災の被災者のことを悲しんでいるから
であろうか。
賑やかな見送りを受けて出発になったであろう今回の<中山道てくてくラリー徒歩旅行>の出発は、
被災者に寄り添っての弥次喜多二人だけの祈りのスタートとなった。
日本橋を午前9:00出発、国道17号線を北上、旧中山道をぬいながら板橋宿①を通り抜けていく。
一日目は、蕨宿②の手前にある荒川の戸田橋までの23kmの歩きである。
神田神社<湯島> 東大赤門<本郷>
◎<板橋宿①> 日本橋より4㎞
縁切り榎<板橋宿①> 志村一里塚<中山道③>
<中山道の里程塚>
ここ志村一里塚によれば、江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため慶長9年(1604)2月
に諸国の街道に一里塚の設置を命じた。この一里塚は約9m四方、高さ3mの塚が江戸日本橋を基点
として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで築かれた。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿、平尾宿につづく中山道の第三番目の一里塚として築かれた
ものである。
広重浮世絵 板橋宿①「木曾街道 板橋之驛」
荒川<板橋宿船渡> ▲1日目露営地<蕨宿手前・荒川北岸>
<▲1日目板橋宿露営地 荒川戸田橋北岸テント泊 第1回 本部との通信連絡>
《午後2時20分、少し早いが、荒川の戸田橋を渡り堤防を南へ200mほど行ったところの草地を
露営地と決め、テントを張り寝床を作った。
西風強く、テント設営にあったって補強ロープをきつめに張ることにした。
無事、第一日目の露営地である板橋宿・荒川戸田𣘺北岸に到着した。
お休み、弥次喜多》
板橋宿①は、中山道における見送り最終の宿であり、江戸から見送ってきた人々で賑わったという。
江戸時代には<宿駅制度>があり、次の宿場までの荷物の運搬のため、多くの人夫や荷馬を備えていた。
▲1日目 荒川戸田橋北岸テント泊
■ 2日目 <蕨宿② ⇒上尾宿⑤ 20.0km/6h>
荒川/戸田橋出発 ➡上尾運動公園泊 4月11日
かすかな余震を感じつつも、深い眠りに入ったらしい。
疲れもあったのであろう、目覚めは午前5:30、出発前のルーティンである撤収作業、朝食、掃除、柔軟体操、感謝の祈りを済ませて午前6時58分荒川の堤防を離れて、上尾宿⑤に向かう。
朝食は、吉野家で納豆定食をいただく。
野営道具一式運搬に自転車を利用 携行した野営道具一式
野営道具を肩に担いでの長距離徒歩旅行は、老体には耐えきらないと自覚し、自転車(ワイドローバー号)に
積み込んで手押すことにした。
この時期、山に入るとまだ寒さや雪が身に染みるため、冬用の寝袋や防寒服を携行したため荷物は大きく
膨らんだ。
500キロ近くの距離を自転車を押すという歩きも大変な労力が入り、肩こりの要因となり、道中難儀したもの
である。
渓斎英泉 画 板橋宿①『木曾街道 板橋之驛』
◎<蕨宿②> 日本橋から約8㎞ (わらびしゅく)
<中山道 蕨宿②> 蕨宿②ー河童三度笠のデザイン蓋
現在、東京と埼玉の境にある戸田橋は江戸時代にはなく、橋から150mほど下流に渡船場があった。
徳川家康は、軍略上江戸に向かう敵を防ぐために、人為的に川に橋を架けさせず、渡し船や人夫による渡川
強いていたことは、東海道53次自転車旅行でも述べたことである。
日本橋から出て、二番目の蕨宿②(わらびしゅく)は、現在<歴史民俗博物館>となっている岡田家が本陣跡
であり、総戸数430軒と旅籠23軒で構成されていた。
渓斎英泉 画 蕨宿② 「木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場」
蕨宿②に入ると、河童三度笠のデザイン蓋が目につく。 蕨宿400年を記念して蕨(わらび)と草鞋(わらじ)をかけた<わらじろう>のキャラクターとのことである。ユーモアをさそう。
◎<浦和宿➂> 日本橋から約12㎞
渓斎英泉 画 浦和宿➂『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』
調神社(つきじんじゃ)は、地元で「つきのみやさま」の愛称で親しまれている。月と同じ読み、
と云うことから月待信仰と結びつき、月神の使いである兎が守り神になったという。
浦和宿➂は、<わらじろう>とともに、ユーモアあふれる宿場街である。
浦和宿➂を出て、京浜東北線をくぐり、刑場跡に建つ<お女郎地蔵>を見ながらケヤキの並木道を楽しむ。
旧中山道を進むと、分岐に常夜灯とともに<武蔵国一宮>の石碑が建つ。 この分岐を右に進むと鳥居
をくぐって、氷川神社に向かう。 分岐を直進すると大宮宿④に着く。
◎<大宮宿④> 日本橋から約31㎞
大宮宿④は、山崎本陣を中心に、総戸数319軒、旅籠29軒という中堅の宿であったという。
渓斎英泉 画 大宮宿④『木曾街道 大宮宿 富士遠景』
大宮宿④より、東北新幹線をくぐって進むと京浜東北線「上尾駅」近くにある<上尾宿総鎮守・氷川鍬神社>
に出る。 ここより<上尾運動公園>に向かい、今晩の露営地としてお世話になる。
◎<上尾宿⑤> 日本橋から約39㎞
上尾宿⑤は、氷川鍬神社の向かいにあった本陣を中心に、総戸数182軒・旅籠41軒であった。
≪上尾宿に到着、約6時間、20KMでした。天気よし、到着後雷雨、激しい余震あり。
早く寝て疲労回復につとめます。あす詳しい通信をします。大雨、おやすみ。》
上尾宿・上尾運動公園にてテント泊
上尾運動公園の野外体育館の軒下を借りるが、一晩中余震に怯えながら朝を迎えた。
渓斎英泉 画 上尾宿⑤『木曾街道 上尾宿 加茂之社』
■3日目 <上尾宿⑤ ⇒ 熊谷宿⑧ 20.0km/6h) 4月12日
(上尾運動公園出発 ⇒ 元荒川堤防露営地着)
今朝は大風、昨日は強い余震あり。今日は約20㌔歩き鴻巣宿を経由 熊谷宿手前JR高崎線
『行田』駅まで行く予定です。
花粉症最悪。出発準備にかかります。昨夜は上尾運動公園の屋根の下に幕営、雨露をしのぐ。
上尾宿を6時30分出発、JR高崎線行田駅近 くの荒川に架かる久下橋付近の野営地
(熊谷宿手前約2㌔)に午後3時24分に到着しました。事故、怪我なし。
夜はいまだ厳しい寒さで、 重ね着で調整しています。昼間は20度近くになります。
地震は相変わらず余震とは言えない激震が続いています。
時々勝手に体が揺れを 感じてしまう程です。慣れって恐ろしいです。
途中温泉を見つけ入浴、手洗い洗濯もOK、さっぱりしました。
田中祥介副隊長(喜多さん)も元気いっぱい『てくてくラリー中山道』を楽しんでいます。
今日も沢山のエール(メール)に感謝します。 弥次&喜多≫
<安中教会での献花式でお世話になる真下様宛メール>
ご無沙汰いたしております。お変わりございませんか。
予定通り日本橋を出て四日目で本庄に入りました。
計画ですと4月16日(日曜日)安中に入りますので、礼拝に間に合いましたら出席させて
いただきます。
牧師様にもご挨拶させていただきたいと思います。
礼拝後、出来ましたら茶話会の打合せをさせていただければ幸です。
そのあと、『てくてくラリー』の途中、震災による参加人員が激減してしまい、会場変更となった
『かんぽの宿-磯部』を訪問し、下見、打合せの予定です。
何卒よろしくお願い申し上げます。
体調等の急変でお伺いできない場合はお許し下さい。
Tさまにもよろしくお伝えください。 本庄宿にて 後藤實久≫
一晩お世話になった上尾運動公園(上尾宿⑤)を午前6:30、余震に眠れぬ夜を過ごし、
晴天のもと本日の目的地・元荒川の堤防露営地に向かって出発した。
途中、桶川宿⑥と鴻巣宿⑦を通過し、熊谷宿⑧に至る。
◎<桶川宿⑥> 日本橋より走行距離 58km
桶川宿⑥は、府川本陣跡を中心に総戸数347軒、旅籠36軒で成り立っていた。
現在は、古い商家の土蔵も残っており、往時の宿場の雰囲気を楽しむことができる。
当時の「旅籠・紙屋半次郎」が、武村旅館として残っている。
桶川宿⑥ 桶川宿・島村家土蔵 武村旅館<元旅籠・紙屋半次郎>
桶川宿➅本陣遺構
<桶川宿本陣遺構>
本陣とは、江戸時代参勤交代の際、大名が使用するため宿場に設置された宿泊所である。
桶川本陣は、加賀百万石前田家の宿所とされたほか、水戸藩主徳川斉昭(15代将軍徳川慶喜の父)
も利用していた。
また、1861(文久元年)には江戸に向う皇女和宮が宿泊したことでも知られている。
中山道筋では今に残る数少ない本陣遺構であるという。
渓斎英泉 画 桶川宿⑥『岐阻街道 桶川宿 曠原之景』
桶川宿の<北の木戸跡の碑>を出て、京浜東北線を左に見ながら緑多い快適な旧中山道を
歩くと、右手にスーパー銭湯<湯楽の里>がある。立ち寄って汗を流した。
北本温泉「湯楽の里」 埼玉県北本市二ツ家3-162-1 <入浴料@750>
スーパー銭湯<湯楽の里>をあとにすると、緑多い中山道の左手に浅間神社があり、
さらに進むと鴻巣宿に入っていく。
ここ鴻巣宿は大火で焼失したが、それ以前は総戸数556軒・旅籠58軒があったという。
浮世絵<吹上富士遠望>に見られるように、ここ鴻巣宿より富士山が遠くに見えたようだ。
<鴻巣宿⑦> 総鎮守鴻神社と桜並木 渓斎英泉 画 鴻池宿⑦『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』
武蔵水路の桜 <中山道鴻巣宿⑦> ▲元荒川堤防 3日目露営地<鴻巣宿⑦>
元荒川は、もともと荒川奔流が流れていた。
1600年代に、荒川奔流を洪水対策、新田開発促進、舟運対策として、入間川(現在の荒川)に
据えかえたために、現在は元荒川と呼ばれている。
人の知恵とは素晴らしい。大自然の川の流れさえ変更し、生活を改善していたことがわかる。
関東平野は、その後の徳川家康の治水計画により現在の東京の基礎を作り上げたといえる。
現在、ここ荒川水域には、美しい水田の風景が広がっている。
午後3:20、露営地に到着、設営をすませる。
パンツやシャツを川の水で洗濯し、上州からの風にさらした。
元荒川の堤防に広がる黄色の絨毯、菜の花が絶景である。
テントの黄色も、菜の花畑に埋没、同行の喜多さんも感嘆の声をあげている。
素晴らしい露営地に感謝である。
ここは、元荒川と本流荒川の間にあり、熊谷宿の手前、久下橋の近くの堤防である。
日本橋から81km地点だ。
■ 4~5日目 <熊谷宿⑧ ⇒ 本庄宿⑩> 20.0km/6h ― 日本橋より110km地点
4日目 <元荒川堤防露営地 ⇒ 本庄/四季の里東公園 > 4月13日
5日目 <休養日―本庄/四季の里東公園 にて連泊 > 4月14日
<元荒川堤防露営地をスタート>
朝5時30分起床、菜の花が美しい。
荒川にかかる久下橋近くの元荒川の堤防の草地に張ったテントを撤収し、午前6:40出発した。
4日目のスタート、 快晴・気温3℃である。
熊谷宿⑧は、宿場町としての規模-総戸数1075軒・旅籠19軒であり、現在は染め物の街として
成り立っている。
街に入ると<札の辻>の先左手に<本陣跡の碑>が建ち、バス停横に<武井家本陣>がある。
朝日を浴びて撤収作業(元荒川堤防) 菜の花に見送られて(荒川久下橋)
◎<熊谷宿⑨ 本陣跡> 日本橋より84km地点
本陣は、参勤交代制度が確立してから、諸大名に対する各街道の宿場町におかれたもので、諸大名や幕府役人、公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。
従って、本陣の経営者も土地の豪家で、苗字帯刀を許されるものが多かった。
熊谷宿⑨は、明治17年の火災と昭和20年の戦災で灰燼に帰してしまった。 ( 熊谷市教育委員会)
熊谷宿本陣跡<熊谷宿⑧> 愛宕神社
本陣跡より少し先に、本陣別邸である回遊式庭園を持った<星渓園>がある。
さらに国道17号線をまたぎながら進むと、JR高崎線「籠原駅」付近の旧中山道沿いに、<スーパーベルク>があり、食料を購入することができる。
さらに閑静な住宅地を通り抜けると左手に<見返りの松2本>があって、国道17を斜めに横断すると、常夜灯に迎えられ、深谷宿⑨に入っていく。
沿道からの声援に感謝である。
「ご苦労様です」、「有難う、東北のために頑張りましょう」、「がんばれ東北・がんばろう日本」、「とっても素敵ですよ」、「熊谷もがんばってますよ」とエールの交換である。
熊谷市は、東北の被災地声援・シンパシーを送るため、夜間の全照明を消していた。
日本人みなが、震災による犠牲者にたいし、哀悼の念を抱くという民族の連帯を示していることに誇りを感じた。
渓斎英泉作 熊谷宿⑨「熊谷宿八丁堤景」
深谷宿⑨は、総戸数524軒・旅籠80軒であり、現在はネギの産地、渋沢栄一の郷土、煉瓦製造で知られている。JR深谷駅は明治調の煉瓦造りの駅舎であり、渋沢栄一伯の像が建つ。
東西に建つ常夜灯の1.7kmの間に深谷宿⑨はあった。
中山道はどこへ消えた?
歴史街道はどこへ消えてしまったのだろうか。
時には国道に併合され、横道に入ったら中山道が廃道になって忽然と消滅していたり、
歴史の中での旧街道そのものの存在が問われているような気がしてならない。さびしい限りである。
己が通ったところが中山道だといいたいが、それでは歩いた人間の数だけ中山道があることになる。
元中山道、旧中山道、昔中山道、新中山道といろいろな中山道があるのだから複雑である。
一本の中山道に統一した標識、街道があれば旅人は安心して旅を楽しむことができると思えるのだが・・・
と思いつつ、道はどこかでひとつになるのも確かである。のんびり行こう。
深谷宿本陣跡は、西常夜灯の手前右手にある。現在の<飯島印刷所>が本陣跡である。
<清心寺 ― 平忠度公の墓>
西常夜灯先でJR高崎線を渡ると、平清盛の弟である平忠度(ただのり)の墓が建つ<清心寺>がある。
“ 生きくれて 木の下陰を 宿とせば 花やこよいの 主ならましや ” と平忠度は詠んでいる。
―ゆきくれて このしたかげを やどとせば はなやこよいの あるじならまし―
行くうちに日が暮れて、桜の木の下を今夜の宿とするならば、花が今夜の
主となってこの悔しさを慰めてくれるだろうと、敗者の悲しみ、みじめさ、落胆を詠っている。
“ 訪ね来て 思いのままに 菊の前 夫婦笑みする 忠度桜 ”
―たずねきて おもいのままに きくのまえ めおとえみする ただのりさくら―
一の谷戦いで、義経軍の岡部六弥太忠澄が平氏きっての知勇に優れた平忠度を打ちその菩提を弔うため
忠澄の領地で中で一番景色のよいこの地に五輪の塔を建てた。忠度ゆかりの菊の前が墓前でさした桜が
紅白の二花相重なる夫婦咲きとなる忠度桜として有名である。
清心寺に立ち寄って、一連の源平の戦いでの平氏による京都奪還にともない平忠度は源義経軍と一の谷
(須磨)で戦って、義経の奇襲作戦<ひよどり越え>によって敗北し、打ち取られる。
驕る平家の末路を、平忠度が詠嘆調の和歌を詠んだと思うと、人間の哀れを切に感じるのである。
本庄宿⑩・城下公園での▲④テント泊
清心寺での平忠度公に出合い、和歌をかみしめながら本庄宿に向かう。
普済寺を過ぎ、小山川にかかる滝岡橋をわたって進み、国道17を横切り、御堂坂を上っていき、今夜の露営地・本庄城址にある公園に着いた。
桜満開の本庄城址公園に到着 (本庄宿⑩)
渓斎英泉 作 本庄宿⑩『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』
≪さすがに疲労の蓄積か、本庄宿での野営予定地「城下公園」(本庄城址)に着いたとたんベンチに
横たわるとぐっすり眠ってしまったようだ。
まずは銭湯に行ってサッパリしてきた。体重ニキロ減って67㌔に、血圧がH136、L86。
明日4月14日は待ち に待った休養日、通信連絡も休みます。
安中宿を過ぎるまではたゆとうと過ぎ行く時の流れを楽しむどころか、自動車から我が身を守る
専守防衛。
史跡調査どころか写真撮るのがやっと。碓井峠から始まる中山道をご期待ください。
おやすみなさい。埼玉県、群馬県の県境にある本庄にて。 弥次喜多・サネ&ショウ≫
<同志社ローバースカウト創立50年記念> 本庄城址公園の露営地に設営
中山道てくてくラリーのステッカ
■ 6日目 休養日、リラックス出来ました。 <本庄宿⑩> 4月14日
《今日は休養日、睡眠(よく寝溜めする)、食事(栄養価+豊富な野菜をとる)、大腸を空にする
(失敗)、温泉(清潔第一)、裸でサンターン(日光浴)、読書(今回は旧約聖書に挑戦)、
本庄市散策、桜をスケッチ、植物採集、盛り沢山こなした。
本庄宿にて 弥次喜多・サネヒサ&ショウスケ》
■ 7日目<本庄宿⑩ ⇒新町宿⑪⇒倉賀野宿⑫⇒高崎宿⑬> 21.0km/7h
― 日本橋より159km地点
<本庄/本庄城址公園 ➡ 高崎宿/高崎公園 > 4月15日
本庄城址公園で連泊した露営地を撤収し、6時15分、薄曇り、15℃のもと高崎宿に向けて出発した。
城址の満開の桜が美しい。
◎<本庄宿⑩> 日本橋より110km地点
本庄城址公園の見送りを受けて出発 本庄宿の佇まいを見せる土蔵
開善寺を過ぎ、田村本陣の立派な門を見ながらすすむ。
左手にJR高崎線、右手に国道17号線に沿うように北西に延びている県道392が旧中山道である。
臨済宗 開善寺(本庄宿⑩) 本庄宿⑩・田村本陣の門
武田信玄の正室が仏門に入ったといわれる陽雲院(陽雲寺内)を左に見ながら、<神流川古戦場>となった
神流川橋を渡ると埼玉と群馬の県境を越える。
<神流川古戦場・かんながわ合戦>とは、織田信長の重臣・滝川一益が1582年に小田原の北条氏と
ここ神流川で戦い敗れた戦場である。
◎<新町宿⑪> 日本橋より148km地点
新町宿は、総戸数405軒・旅籠43軒であり、中山道の最後の宿場として成立した。
ここより上州路に入る。
立派な常夜灯の横に建つ道標<是より 左・江戸24里 / 右・碓氷峠11里>より新町宿に入っていく。
新町宿に入る手前の八坂神社の一角に<柳茶屋の芭蕉句碑>が建つ。
さらに進むと、新町宿の高札場跡、旅籠・高瀬家跡、小林本陣跡、
《手枕や 小言いうでも 来る蛍》 芭蕉
その先、鳥川の柳瀬橋をわたり、国道17をぬけると倉賀野宿に入っていく。
『諸国翁墳記』に『翁塚上州緑野郡新町宿小渕寒湛水・笛木白水建』の中で、
≪傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな ≫ 芭蕉
とある。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市にある義仲寺
(すでに立ち寄ったが、木曽義仲と芭蕉の墓がある)で出版された。
この句碑は寛政5年(1793)から天保5年(1834)の間に、近くに柳の大木があることから茶屋島田屋の側を
選び、湛水と白水が建てたと思われる。
中山道新町宿⑪ 小林本陣跡 新町宿⑪の街屋
歌川広重画 新町宿⑪ 『木曾街道六拾九次 新町』
■<本庄/本庄城址公園 ⇒ 高崎宿/高崎公園 > 6日目(4月15日) より続く
倉賀野宿⑫は、総戸数297軒・旅籠32件の宿場であったという。
鳥川の柳瀬橋を渡って左にいくと、国道17とJR高崎線をわたる。
間もなく右手に常夜灯が迎えてくれ、<日光例弊使道>との追分にでる。左に行けば日光道である。
本陣跡碑<勅使河原本陣跡・スーパー丸幸の道路脇>の先に、高札場跡や脇本陣跡がある。
高札場をあとにして、松の並木を過ぎてしばらく道なりに進み、上越新幹線をくぐると榎の並木道が
つづく。
その先、高崎市役所の南に隣接して、今夜の露営地である高崎公園に至る。
高札場をあとにして、松の並木を過ぎてしばらく道なりに進み、上越新幹線をくぐると榎の並木道が
つづく。
その先、高崎市役所の南に隣接して、今夜の露営地である高崎公園に至る。
渓斎英泉画 倉賀野宿⑫ 『木曾街道六拾九次 倉賀野』
▲6日目 高崎宿⑬露営地―高崎公園
■ 7日目 <高崎宿⑬ ⇒板鼻宿⑭⇒ 安中宿⑮ 10km/3h > 4月16日
<高崎宿/高崎公園 ➡ 安中宿/磯部かんぽの湯>
◎<高崎宿⑬> 日本橋より159km地点
高崎公園の桜も満開 (中山道高崎宿⑬)
なぜか高崎宿では、宿場町としての高札場や本陣跡などの史跡や歴史案内にお目にかかることはなかった。たぶんわれわれの観察力がなかっただけかもしれない事を願いたい。
桜満開の露営地・高崎公園をでて、鳥川にかかる<君が代橋>を渡り、国道17号線と別れ、上州路の
ここ<君が矢橋>から右手の赤城山(1828m)や、左手の榛名山(1449m)への眺望が素晴らしい。
碓氷川(うすいかわ)と中山道(国道18)が並ぶあたりに、二本の欅が残る<藤塚の一里塚跡>
(江戸日本橋より28里―112km)に出合う。
われわれ弥次喜多は、日本橋よりここ<藤塚の一里塚>まで、寄り道を加えてほぼ165kmかかっている。
さらに鼻高橋を渡り、JR信越本線と交わるあたりが<板鼻宿⑭>である。
板鼻宿⑭の規模は、旅籠54軒と多く、中山道でも大きな宿場の一つであった。
徒歩渡しであった碓氷川の川止めにより、逗留する旅人が多かったようである。
◎<安中宿⑮> 日本橋より179km
板鼻宿より<鷹の巣橋>を渡り、すすむとJR信越本線の安中駅を左に見ながら中山道安中宿に入っていく。
1615年井伊直政の子・直勝が安中三万石の藩主のとき、安中宿⑮を開いた。
このたび、同志社ローバースカウト創立50年記念である<新島襄先生記念献花式>を行う安中キリスト教会は、安中城址の大手門跡に建つ。
ワイルド・ローバー号は、碓氷川の鷹ノ巣橋を渡ると安中宿⑮に入っていく
いよいよ明日は、安中教会での<同志社創立者新島襄先生感謝献花式>の打合せである。
≪深夜1時半、天空に薄雲、銀河観測しえず、空気生暖かい、気圧1005HP、以上により本日の天気
予報は曇り後一時雨か。休養日をとり体力回復、自然便通あり爽快なり、連泊野営地(本庄市運動
公園)に感謝したい。本日は、本庄宿ー新町宿ー倉賀野宿ー高崎宿約21キロ 約7時間の行程。
今回は参加隊員二名、弥次喜多こと後藤實久と田中祥介両名のスナップ写真をもって自己紹介と
したい。
弥栄<いやさか・スカウト式挨拶> 弥次喜多・實久&祥介≫
ちなみに、中山道徒歩旅行にあたって、携行する荷物を運搬してくれている自転車の
<ワイルド・ローバー号>は、新島先生が上海よりボストンへ乗船した船の名前からきている。
<中山道てくてく踏破隊員紹介>
弥次さん・中山道徒歩部隊長 喜多さん・副隊長(写真参加)
《深夜1時半、天空に薄雲、銀河観測しえず、空気生暖かい、気圧1005HP、以上により本日の天気
予報は曇り後一時雨か。休養日をとり体力回復、自然便通あり爽快なり、連泊野営地
(本庄市運動公園)に愛着あり。本日は、本庄宿ー新町宿ー倉賀野宿ー高崎宿 約21キロ 約7時間の
程。 今回は参加隊員二名、後藤實久と田中祥介両名のスナップ写真をもって自己紹介としたい。
弥栄<いやさか> 弥次喜多・實久&祥介より》
<安中教会訪問、献花式打合せ>
《明日4月16日10時安中教会を訪ね、江守新牧師を表敬訪問します。訪問を控え、中山道の行程を
繰り上げ、安中市磯部(かんぽの宿)で一泊することとなりました。本日の行程は、本庄宿を
朝6時15分出発し、 安中宿(磯部)に16時43分に到着。46KM,約11時間を要した。
この行程の半分が徒歩、半分を自転車に頼った。4月16日(七日目)の行程は、安中教会訪問に
要する時間により異なる。松井田宿か坂本宿になると思う。今日(4月15日)の猛暑に顔や手か
焼けた。今夜の天気予報は雨。珍しいが足裏に豆はいまだ出来ておらず助かっている。
弥次喜多より》
<▲7日目 宿泊先 ― 安中宿/磯部かんぽの宿> 4月16日夜
同志社ローバースカウト創立50年記念の新島襄記念献花式に出席するOGOBの宿泊先である磯部温泉
<磯部かんぽの宿>の下見と予約のため立ち寄り、宿泊することになった。
また、明日は、献花式当日の祝祷をいただく安中キリスト教会の牧師さんや茶話会のお世話いただく方々との打ち合わせである。野に伏してきた身の汚れを取るため磯部の温泉につかることにした。
安中宿/磯部かんぽの宿 久しぶりの手料理に感謝
連日の野宿に慣れきった体には、畳が懐かしい。 あたたかい手料理にアットホームの雰囲気を味わう。
温泉のかけ流しに、天国をみる。決して大げさではない。 すべてに感謝である。
まるで野生猿が、湯船につかり、浴衣にドテラを着せたような頓珍漢な時間を過ごした。
しかし、布団の上で、大の字になってぐっすりとよく眠れたのがいい。満足である。
■8日目<安中宿⑮ ⇒松井田宿⑯ ⇒坂本宿⑰> 38.0km/10h 日本橋より170km地点
<▲安中宿/磯部かんぽの宿 ➡ ▲坂本宿/やすらぎの郷> 4月17日
安中キリスト教会で献花式の手順、式後の茶話会での花活け、新島襄生家での生け花の展示などの打合せや、下見を済ませ、5月2~4日に実施される献花式での再会を約し、皆さんに見送られて教会を後にした。
中山道徒歩旅行は、中山道の真ん中あたりにある須原宿㊴ で一時中断離脱し、同志社ローバー50年記念
<新島襄感謝献花式>に参加することにしている。
4月16日午前11時、安中宿⑮を出発して、今夜の露営地、坂本宿⑯にある<やすらぎの郷>に向かった。
献花式予定の安中キリスト教会の下見 生け花展示会場になる新島襄先生旧宅を下見
安中宿⑮を後にして、国道18を横切ると<原市の杉並木>が続き、左手に高札場跡がある。
国道18号線と中山道が交わる郷原に<妙義道常夜灯>が建ち、このあたりから左前方に裏妙義山が
かすんで見える。
妙義道常夜灯より進むと、松井田宿に入っていく。
松井田宿⑯は、総戸数252軒・旅籠14軒で、廻米の中継地として栄えた中規模の宿場である。
脇本陣跡、金井本陣跡、松本本陣跡と続き、総門に『関左法窟』(関東一の道場)の額がかかる
曹洞宗<補陀寺>の前を歩く。
その先で、上信越自動車道をくぐり、JR信越本線をの踏切を渡り、登り坂にかかる。
りんご畑の中を上り下りを繰り返すと碓氷神社にでる。
神社で一服して国道18歩きの準備―点滅灯の確認などをおこなう。
中山道は国道18と合流し、車道を歩くことになり、大型トラックから己を守らなければならない。
松井田宿⑯ 歩きマップ
松井田宿⑯をのんびり歩いていたら、ご婦人からお声掛けをいただき、お接待を受けた。
上州の漬物、緑茶にアイスクリーム、そしてあたたかい励ましの言葉、なんといってもおこころに感謝である。
中山道てくてくラリー中、多くの方からお接待を受けた、感謝である
≪中山道歩きの間に多くの方々からのご声援、お接待、差し入れ、ご案内、資料提供と、沢山の
ご厚意をいただいたことに対し、誌上を借りまして、お一人おひとりにこころより厚く御礼
申し上げます。 有難うございました。 弥次喜多≫
◎<坂本宿⑰> 日本橋から209km地点
信濃本線の横川駅近くには、<碓氷関所跡>があり、東西からの旅人の取り調べ、特に『入り鉄砲に出女』を
厳しく取り締まっていたようで、横川の<茶屋本陣>も配されていた。
『入り鉄砲に出女』とは、江戸幕府が諸大名の謀反を警戒して設けていた諸街道の関所で、鉄砲の江戸への持ち込みと、江戸に住まわせた諸大名の(人質としての)妻女が関外に出るのを厳しく取り締まったことをいう。
ちなみに、1997年のJR碓氷線廃止にともない横川駅は信濃本線の終点となっている。 また横川駅前には日本では最古の駅弁屋があり、釜飯が売られている。
坂本宿は、総戸数162軒・旅籠40軒、街並みの裏に水道の役目をした用水路を配し、道路幅を決め、街道筋の
両側の戸数を割り振って配置するなど、計画のもとに造られた宿場であり、突き出た二階を持つ街屋が目を
引く。
それもそのはず、この時代(1625年)には珍しく都市計画のもと出来上がった宿場というから驚きである。
中山道 坂本宿⑰ 坂本宿⑰ 佐藤本陣跡
坂本宿⑰ 脇本陣 みまがや
渓斎英泉画 坂本宿⑰ 『木曾街道六拾九次 坂本』
―同志社ローバー創立50年記念大会予定会場― (下見&野営宿泊)
同志社ローバー創立50年記念大会予定会場 <やすらぎの郷キャンプサイト>
<安中教会関係者への御礼メール>
≪みなさま本日はお時間をおさきいただき有難うございました。内容も現況に鑑み質素に
ならざるをえませんが、かかる機会を賜ったこと自体に感謝しなければと思っております。
献花式のあと教育館で行われる予定の茶話会は少人数になるだろうとの判断のもとサンド
イッチを15人分ほどご用意いただきますようお手配をお願い申し上げます。
果物は私どもの方で用意させていただきます。
紅茶、コーヒーのご用意の方よろしくお願いします。
打合せましたように経費は一切当方で持たせていただきますのでよろしくお願いします。
当日、献花式、茶話会を楽しみにしております。
あれから歩き出して午後4時半ごろ坂本宿に到着いたしました。峠の湯の隣接地にテントを張り
露営です。
本日は本当に有難うございました。まずは御礼まで、 後藤實久≫
<安中教会献花式ご担当 M様よりのメール>
≪いつもご丁寧なお言葉を有難う御座います。
色んな面でバタバタとしていて、十分な対応が出来ていない事を申し訳なく思っております。
後藤さんのお姿が、松尾芭蕉に重なります。
旅の中にある出会いや静寂な時の中にあって、卓越した人生観や哲学的思考が醸成されて
いるように、私には感じられます。
この度のご計画が、参加する一人ひとりの心の中で、かけがえのない経験、想い出となりますよう、
ご成功を祈ります。 Mより≫
■7日目 <同志社ローバー50周年記念OGOB野外大会「わくわくランド」下見に変更> 4月17日
同志社ローバー・スカウト隊創立50周年記念大会会場「やすらぎの郷」・<OGOB会わくわくランド>実施
舎営・設備等の下見・打合せ および 「わくわくランド・碓氷峠登山コース」の下見
《今日は中山道最難関である碓氷峠越え(標高1200Mt)である。自転車を含め総重量約25Kgを押して
上がるには困難を伴うと判断、自転車と携行品をベースキャンプである設営地、碓氷峠やすらぎの郷
におき、非常食を持って登り、戻ってもう一泊することにした。碓氷峠は坂本宿と軽井沢宿の間に
ある。
体調よし、昨晩は寒さにふるえ、少し寝不足か。メール打つ指もしびれている。
まけるな東北! がんばろう日本! サネヒサ&ショウスケ・弥次喜多 》
背景の山は裏妙義山
<碓氷峠 標高1200m ハイキングコース下見>
《朝6時に登山開始、頂上(峠)まで9KM(往復18KM)、上り4時間、下り3時間(往復7時間)の
本格的な登山となりました。天気よし、風よし、裏妙義山の山並みよし、残雪これまた彩りが
ありました。下山して体中の節々が痛みだした次第。あすは休養日なので疲労回復に勤めようと
決めた矢先に明後日が雨との予報。
雨の中を自転車押しながら碓氷峠を越えるのは至難の技なので、あす朝の体調を見て決めることに
した。(添付写真は妙義山です)
弥栄 サネヒサ&ショウスケ・弥次喜多》
《裏妙義山が水墨画のように朝もやに霞み、碓氷川の流れが岩や木の根を乗り越えさらさらとただ
さらさらと流れています。碓氷峠やすらぎの郷は『同志社ローバー創立50年記念わくわくランド』
のメイン会場だっただけに諸情勢により未開催となり誠に名残惜し場所となってしまいました。
特に『わくわくランドIN安中』のイベント担当プロデューサー佐伯直幸氏(79年度生)の想い
入れを思うと慚愧にたえず相済まないと責任を感じております。
と言う思い入れで佐伯氏になり代わって ここ安中に三日も滞在し、碓氷峠やすらぎの郷の
ロッジの敷地にテントを設営し、峠の湯につかり、碓氷峠往復ハイキングを楽しみ、妙義山を
スケッチしたり、植物採集に熱をあげ、山キジと戯れたり、川柳を詠んだりと今回のイベントで
知り合った素晴らしいスタッフのみなさんと共に思い出を作らせもらいました。
感謝でいっぱいです。
さて今日は休息日だが明日の雨を考え、自転車に荷物を積み押しての碓氷峠越えを敢行します。
多分この道中で一番体力を使うことになりそうです。そのあとは天に任せます。
弥栄. 實久&祥介・弥次喜多》
■ 9日目 <坂本宿⑰ ⇒軽井沢⑱ ⇒沓掛宿⑲ ⇒ 追分宿⑳ > 4月18日
<坂本宿/安らぎの郷 ➡ 追分宿/温泉旅館・ゆうすげ>
<同志社ローバー50周年記念OGOB野外大会「わくわくランド」
と「記念ハイキング碓氷登山コース」の下見>
同志社ローバー・スカウト隊創立50周年記念大会会場「やすらぎの郷」・<OGOB会わくわくランド>
実施舎営・設備等の下見・打合せ および 「わくわくランド・碓氷峠登山コース」の下見を行う。
<創立50年記念 碓氷峠往復登山・コースの下見>
峠の湯スタート 6:50 標高 570m
弘法の井戸・碓氷坂関所跡 7:52 830m
栗ケ原 8:50 960m
子孫山分岐(陣馬ケ原) 9:46 1120m
碓氷峠への旧中山道入口(峠の湯) 『安政遠足』と呼ばれている碓氷峠ハイキングコース
坂本宿⑰より軽井沢宿⑱へ抜ける旧中山道 旧中山道より坂本宿のやすらぎの郷を望む
旧中山道碓氷峠頂上に到着 旧中山道碓氷峠頂上にある熊野皇大神社
≪今日は中山道最難関である碓氷峠越え(標高1200Mt)である。自転車を含め総重量約25Kgを
押して上がるには困難を伴うと判断、自転車と携行品をベースキャンプである設営地、
碓氷峠やすらぎの郷におき、非常食を持って登り、戻った。碓氷峠は坂本宿と軽井沢宿の間に
ある。
体調よし、昨晩は寒さにふるえ、少し寝不足か。メール打つ指もしびれている。
がんばれ東北!がんばろう日本! サネヒサ&ショウスケ・弥次喜多 ≫
≪ 朝6時に登山開始、碓氷峠頂上(峠)を往復した。天気よし、風よし、裏妙義山の山並みよし、
残雪これまた彩りがありました。下山して体中の節々が痛みだした次第。
あすは休養日なので疲労回復に勤めようと決めた矢先に明後日が雨との予報。
雨の中を自転車押しながら碓氷峠を越えるのは至難の技なので、今日中に碓氷峠を越えること
にした。
弥栄 弥次喜多 サネヒサ&ショウスケ≫
≪ 裏妙義山が水墨画のように霞み、碓氷川の流れが岩や木の根を乗り越えさらさらと流れています。
碓氷峠やすらぎの郷は『同志社ローバー創立50年記念わくわくランド』のメイン会場だっただけに
諸情勢により未開催となり誠に名残惜し場所となってしまいました》
やすらぎの郷で連泊し、体調を整えてから碓氷峠越えをと思っていたが、明日明後日とも雨だとの天気予報を聞き、急遽今日中に碓氷越えを決行することにした。
4月18日曇り 16℃ 旧中山道の碓氷峠頂上(下見ハイキング)を往復し、昼過ぎに坂本宿の
<やすらぎの郷>を裏妙義山のシルエットを愛でながら、愛車<ワイルド・ローバー号>を押しながら、
国道18号線を歩き、碓氷峠を目指した。
やすらぎの郷 峠の湯
碓氷峠に向かう
◎<軽井沢宿⑱> 日本橋より225km地点
《坂本宿(碓氷峠やすらぎの郷/峠の湯)よりの旧中山道/安政遠足(侍マラソン-日本での
マラソン発祥の地)往復(折り返し/碓氷峠)を終え、今日は休養日を変更し、国道18号線を
自転車を押しながらの碓氷峠越え。
バイパス18号線がメイン国道ゆえ、車の往来はほとんどなく、われら二人の静かな峠越えだった。
少し下れば軽井沢宿、モダンな避暑地となり中山道の面影は消えさっていて寂しい限りだ。
沓掛宿を経て追分宿に到着(15時)、途中、雪帽子をかぶった浅間山に見惚れる。
予報通り雨が降り出したので 中軽井沢にある『温泉旅館ゆうすげ』に投宿する。
さすがに体は疲れきっているのか特効薬はやはり温泉だ。
芭蕉句を二つ
『馬をさへ なかむる雪の あしたかな』 芭蕉
『吹き飛ばす 石も浅間の 野分かな』 芭蕉
われわれも川柳を、
『弥次喜多の 背負い背負われ おいおまえ』 實久
『十字架を 背負いしわれら やすらぎて』 實久
みなさんの愛あるエールに感謝します。おやすみ。
日本聖公会ショウ神父別荘(記念館) つるや旅館(軽井沢宿旅籠)
碓氷峠からの舗装道路は、カーブしながら中山道を下り、軽井沢宿に入っていく。
旧軽井沢に下りてくると、軽井沢別荘第一号(明治21年建築)といわれる日本聖公会のショウ神父の旧宅がある。ショウ神父は軽井沢宿を別荘地にかえた功労者でもある。
それまでの軽井沢宿は、総戸数119軒・旅籠21軒の宿場にすぎなかった。
軽井沢宿⑱を抜けるとカラマツの並木道がつづき、国道18号線と再合流する。
そこでは、旧中山道と長野新幹線と並走する今昔の旅のスタイルの違いを見る思いである。
歌川広重画 軽井沢宿⑱「木曽街道六十九次・軽井沢」
沓掛宿は、総戸数166軒・旅籠17軒であったが、1951年の大火で全焼、町名も沓掛から<中軽井沢>に変わった。
国道18(中山道)と国道146の分岐<中軽井沢信号>を過ぎたところに「本陣跡の碑」があり、その近くに<草津道分去れの道標>が立つ。
その先に、コンビニ・ローソンがあり、食糧購入とWC休憩をとる。
コンビニから約2km先に、今夜お世話になる「温泉旅館ゆうすげ」が左手に見えてくる。
渓斎英泉画沓掛宿⑲「木曾街道六拾九次 沓掛」
浅間神社前に<追分の一里塚>(江戸より39里/156km-京都へ91里/364km)の標柱がある。
われわれは、ここまで243km歩いているが、これは立ち寄り先を含めての距離である。
今夜は、追分の古宿にある「温泉旅館 ゆうすげ」に飛び込みでの投宿となった。 大雨を避けるためと、休息を取るための連泊である。
追分宿⑳は、総戸数103軒・旅籠35軒であった。
旧脇本陣は、現在でも健在で「高級旅館 油屋旅館」として営業を続けている。 旧脇本陣の先に<本陣跡の碑>が建つ。
しばらく進むと、<北国街道>との「分去れの碑」が建つ。
その先で旧中山道は、国道18号線を横切り、小田井宿へと向かう。
渓斎英泉画 追分宿⑳ 「木曾街道六拾九次 追分」
■ 10日目 休養日 <追分宿⑳ > 4月19日
<弥次喜多、雑魚寝談義序説 一> ―温泉旅館・ゆうすげ―
≪ お早うございます。いま2011(平成23)年4月20日午前4時43分、中山道弥次喜多道中の
後藤サネヒサと田中祥介は、軽井沢にある追分宿の外れにある温泉旅館『ゆうすげ』で目覚めました。
外は天気予報の通りに雨が激しくトタン屋根を打ち付けています。
二人とも夜具に体をごろんと横たえ、休養日を有意義に過ごす方法を論じてるんです。
さて、まずは温泉に入ってのお楽しみ。どんな話になっていくかご期待ください。
では一句、
『前梅雨や ふたつ雑魚寝の 追分宿』 實久
―まえつゆや ふたつざこねの おいわけしゅく―
旅館の名前『ゆうすげ』の由来、夏に高原地帯(このあたりの標高は1000M)に自生し、
黄色い可憐な花を咲かせる。
群生しない一輪花、一日限りの一咲花(つぎつぎと命をつなぎ一週間ほど開花期があるしい)
または 夕暮花(昼間に咲くんじゃなく夕暮れに咲きはじめ次のお昼頃萎むらしい)とも
言われる切ない花のようだ。
クライマーなら誰でも知っているユリ科『にっこうきすげ』の仲間である。昔話を添えると、
大昔ー花の
干支を決める会議がもたれたとき、夕菅(ゆうすげ)は時間に間に合わず干支入り出来なかった
そうだ。
会議の長老はゆうすげに『おまえは人に見られぬ夕方に咲けばいい』と言ったそうだ。
そこで一句,
『 ユウスゲ(夕菅)や 可憐な乙女 恥じらいて 』 實久
やっぱり今日は頭を空っぽにして休みました。
温泉三昧、読書三昧、座禅三昧、料理三昧そして夕菅三昧、サネ&ショウの語りは又の機会に
します。
おやすみなさい 實久&祥介・弥次喜多 ≫
<温泉旅館 ゆうすげ>
浅間山麓は、レタスの産地で適度な湿度がある。
名前の由来は、夏に咲く夕菅(ユウスゲ)の花からとっている。このあたりは「古宿」と呼ばれ、1000mの標高
があり、夕菅(ユウスゲ)の可憐な花をめでることができる。
活火山である浅間山をひかえた軽井沢は意外と温泉が少ない。それは火山岩が多く堆積しているため、
<温泉旅館・ゆうすげ>も地下400mまで掘り下げている。すこし塩分を含んでいるのがいい。
浴場は、内風呂と洗い場しかない。お湯は少し緑がかかった透明の塩化物硫酸温泉である。
肌がつるつるする。
展望風呂であり、窓からは浅間山の展望が素晴らしいという。 逗留中は大雨のため眺められず残念であった。
川魚料理、新鮮な野菜の天麩羅がいい、信州蕎麦もいける。
お世話になりました。
<温泉旅館・ゆうすげ : 長野県北佐久郡軽井沢町古宿4404 TEL0267-45-6117>
■ 11日目 <追分宿⑳ ⇒小田井宿㉑ ⇒岩村田㉒ ⇒塩名田㉓ ⇒八幡㉔ ⇒望月宿 ⇒芦田宿㉖> 26.5km/10h 4月20日
≪一日中降り続いた激しい雨もようやく止んだようだ。われわれ弥次喜多にとっては休息のための
恵みの雨であったと感謝している。
ここ浅間高原は近くの小山にも残雪があり朝かたは急に寒さが身にしみてくる。
オイルヒーターを点けて暖をとっている。
さて今日の行程は、追分宿を出発し、浅間山を右に見ながら小田井宿を経て岩村田宿、塩名田宿、
八幡宿へと向かい野営する。まだ道路も濡れているので要注意。
弥次喜多は『旅(人生)と神仏』を語り合いながら旅を楽しみたい。
弥栄 弥次喜多こと實久&祥介≫
『 夕菅(ゆうすげ)の 今朝のみ生きし はかなきや 』 實久
―ゆうすげの けふのみいきし はかなきやー
と詠いユウスゲの一日一生の短命の重みと深さをかみしめながら追分宿をあとにした。
御代田一里塚 (江戸より41里)
<御代田一里塚>
中山道、御代田一里塚(江戸より41里)は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は
小田井宿へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿へと向かう。
中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長7年(1602)に整備され、改修されるが、本一里塚はその改修
以前に構築されたものである。 (長野教育委員会)
御代田の一里塚を過ぎると、地下通路で<信濃鉄道>をくぐる。
小田井宿㉑は、標高760mのところにあり、 追分宿より下り坂が5kmも続くのである。
小田井宿は、総戸数107軒・旅籠5軒の浅間山の裾野にたたずむ宿場である。
宿場に入っていくと、左手にある宝珠寺の斜め向かいに本陣跡があり、その先に上の問屋、脇本陣跡、
下の問屋とつづき、岩村田宿へと向かう。
小田井宿より、上信越自動車道の陸橋を越えると、岩村田宿に入っていく。
岩村田宿は、内藤家1500国の城下町であり、総戸数350軒・旅籠8をもって構成されているが、
本陣や脇本陣のない宿場である。
武田信玄開基の浄土宗<西念寺>を過ぎ右折して進むと、県立岩村田高校の近くに
古木<相生松>がある。
その先に、右手に水田が広がり、左手にリンゴ園がつづき、<平塚の一里塚>を過ぎると、
塩名田宿に向かう。
『白鷺や 浅間ながむる 千曲川』 實久
―しらさぎや あさまながむる ちくまがわ―
古い街並みが残る根々井塚原の集落を過ぎ、妙楽時と駒形神社あたりから、塩名田宿に入っていく。
塩名田宿は、千曲川の東岸にあり、総戸数116軒・本陣2・脇本陣1という小さな宿場であった。
大雨の時は千曲川の橋(現在の中津橋)が流され、川止めが多かったといわれている。
木橋が洪水で流れた場合は、9隻の舟を並べ、板を載せて浮橋としたという。
<塩名田節>
塩名田名所は 千曲川
次の名所は 滝の水 ハーヨイショ
駒形様の 厄おとし
涼味ゆたかな 中津橋
中津橋を渡り進むと、<御牧ガ原>あたりから八幡の街並みを一望でき、まもなく八幡宿に入っていく。
◎<八幡宿㉔> 日本橋より265km地点
八幡宿への入口にある<八幡山常泉寺>に次の偈がかかっていた。こころして噛みしめた。
偈 《善きことは いそぎおもむくべし 悪しきことにむかいしは 心を守るべし》
八幡神社の先に本陣跡がある。2つの脇本陣は、一つ東側の裏道に松沢家の脇本陣と依田家の脇本陣が
ある。
八幡宿は、総戸数143軒・旅籠3軒の規模の宿場であった。
《八ヶ岳 浅間と競う 伊達男 雪帽子つけ はにかみし君 》 實久
ーやつがたけ あさまときそう だておとこ ゆきぼうしつけ はにきみしきみ―
<高札場の役割>
各々の宿場には、幕府や領主が決めた法度( はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所があった。
慶応4年3月 太政官によるお達しを見ておくと、人の道を諭している内容がいい、江戸時代の平和を味わうことができる。
定
一 人たるもの五倫(ごりん)の道を正しくすべき事
一 鰥寡(かんか)孤独は癈疾(いしつ)のものを憫(あわれ)むべき事
一 人を殺し家を焼き財を盗む等の悪業あるまじく事
歌川広重画 八幡宿㉔ 『木曾街道六拾九次 八幡』
八幡宿の本陣跡より進んでくると国道142号線と合流し、金山坂をへて中山道瓜生坂へ入り、望月宿に着く。
◎<望月宿㉕> 日本橋より268km地点
望月宿は、総戸数82軒・旅籠9件と小さいが、とても雰囲気がいいというか、こころ和む宿場である。
望月宿に入っていくと、街道の左側に天来記念館(書道専門美術館)、井出野屋旅館、本陣跡(歴史民俗資料館)と並び、右側に脇本陣跡、旅館山しろ屋が並ぶ。
旅館山しろ屋は、重文民家真山家であり、2階が1階より出ている<出梁造り>や、防火壁<軒卯建・のきうだつ>をもつ建物として興味深い。
写真の大和屋にも<出梁造り>の構造を見て取れる。
<出梁造り・ だしばりづくり>は、 梁を外壁より外側に突き出し、床や軒を支える形式のことであり、構造を強化するためのものという。
下駄の看板がかかっている春美屋、大友神社をすぎると<青木坂>にかかり、芦田宿に向かう。
『春の土 牛鍬入れし 息吹かな』 實久
―はるのつち うしすきいれし いぶきかな―
望月宿㉕に入っていく 中山道 瓜生坂一里塚
中山道 望月宿本陣跡(大森小児科医院) 中山道 望月宿脇本陣鷹野家
<出梁造り>の 中山道望月宿 大和屋
◎<間の宿 茂田井宿> 日本橋より273km
望月宿をでて芦田宿へ向かう途中に、宿場町としてのその景観や雰囲気をそのまま残している
<間の宿 茂田井宿>(もたいしゅく)がある。
その代表的な建物として、若山牧水が愛した『御国竹』(みそのだけ)の武重本家酒造、善光寺さんの秘蔵酒を醸造している大沢酒造などの建物が残っている。
ちなみに<間の宿・あいのしゅく>とは、江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種で、宿泊は禁止されていた。宿場と宿場の間にできた休憩用の施設である。
茂田井の一里塚跡を過ぎて進むと、芦田宿㉖に入っていく。
望月宿㉕と芦田宿㉖との間にある石割坂 典型的な中山道間の宿 茂田井の街並み
茂田井の一里塚跡入口
◎<芦田宿㉖> 笠取峠標高887m 日本橋より278km地点
芦田宿は、総戸数80軒・旅籠6件の宿場である。
茂田井間の宿から、芦田宿に入ってくると本陣軒問屋跡(土屋家)と脇本陣が対面で建ち、その先に金丸土屋旅館がある。
中山道芦田宿㉖ 芦田宿本陣<歴史民俗資料館>
<笠取峠の松並木>上り口 笠取峠の一里塚跡
笠取峠(870m) 笠取峠に中山道原道が残る
歌川広重画 望月宿㉕「木曽街道六十九次・望月」
<浮世絵に描かれた笠取峠の松並木Ⅰ>
《今朝、追分宿を出発するときはアラレやヒョウが降り、強風に縮み上がるおもいがしたが、
午後からは晴天、脚が軽やかに運んだ。気がついたら本日のスケジュールを大幅に消化し、
小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿、芦田宿を通過し標高877Mの笠取峠に
達していた。本日のコースはV字型すなわち浅間山から千曲川へ駆け降り、笠取峠に向かって
駆け登るというハードな歩行コースであった。
しかし景色は最高、北に雪帽子の浅間山連山、南にこれまた雪を残した八ヶ岳連峰と山男には
たまらない魅力だ。
すでに設営を終え、コッペパンと肉団子とチョコレートで夕食を終えたところだ。
トータル9時間で26KM歩いたことになる。
休養日の次の日で元気が出たのであろう。旧中山道の道探しは中々大変だ。
一度間違うととんでもない方向に向かうことになる。標識に従うのが一番だが、
これがくせ者だ。
そうそう日本橋を出て26の宿場を訪ねてきたがその中で一番宿場らしいのは、茂田井と言う間の宿、
ここは望月宿と芦田宿の間にある宿場番号のない宿場である。機会があれば一度は訪ねて
見てほしい。
珍しくここ笠取峠は圏外である。心配をかけるが送信は一日遅れとなる。さすがに良く歩いた。
睡魔が襲ってきた。
おやすみ 笠取峠のテントの中からサネヒサ&ショウスケ・ 弥次喜多 》
< 浅間山再会 >
詩 後藤實久
ああわれいま、地球星、浅間山車坂峠登山口におりて
霧雨煙る浅間山を温泉旅館『ゆうすげ』よりながめおりて
いつか君との再会を夢見しが、その機会をいま与えられ嬉しく思う
老松よりしたたる雨滴音に心を傾けつつ
宇宙の温もりを感じて幸せをかみしめるなり
懐中電灯のあわい光、いのちのごとくひかりて
われを照らしわれを興奮せしむるなり
降り落ちる雨滴の叫び声
この全宇宙に響き渡りてわがこころを満たしおる
これまたわが人生のひと時と想いしとき
生かされし幸せをかみしめて感謝なり
いままさに、われ浅間山と一体となりて爆発し
その噴煙となりてわれ宇宙に飛び出さんとす
ああわれいま宇宙となりて幸せをかみしめるなり
歌川広重画 芦田宿㉖「木曽街道六十九次・芦田」
<浮世絵に描かれた笠取峠の松並木Ⅱ>
<▲11日目露営地 笠取峠茶屋> 標高870m
17:15笠取峠茶屋に到着。天気予報では、夜半に雨がありそうである。茶屋の軒先をお借りしてテントを張らせてもらった。露営地に遅く到着したので、暗くなる前に設営を急ぎ、バーナーで湯を沸かして夕食をとり、テントに潜り込んで携帯で送る本部への報告書作成にとりかかった。
深夜を過ぎて、気温が下がり始める。ニット帽で耳を、ネックウオーマで口を覆い、そして腰にカイロを貼り、重ね着をして寝袋に深く潜り込む。
■12日目 <芦田宿㉖ ⇒ 長久保宿㉗ ⇒ 和田宿㉘> 23.0km/9h 4月21日
▲笠取峠877m ➡ ▲和田峠1175m ( 国道142号線・中山道最難関山越え)
<▲11日目露営地・笠取峠スタート>
早朝の標高870mの笠取峠は、まだ靄に包まれ薄暗い。
目を覚ました時はすでに6時を過ぎていた。
連日の疲れもたまっていたのであろうか、熟睡の中にあったようだ。
撤収作業の後、露営地・峠の茶屋を7時30分と遅めの出発となった。
バイパスである国道142号線と旧中山道をぬいながら坂を下り、松尾神社を過ぎて右側に入っていくと
長久保宿に入っていく。
≪お早うございます。標高887M笠取峠露営地はまだ春来たらずだ。実に寒い、凍えそうだ。
あまりの寒さにテントの空気孔を閉めて寝てしまい、案の定呼吸による水分が天井から落ちて
寝袋を濡らしている。
さて、今日はどこまでかな?歩きに慣れてきたのでスケジュール通りで無くても、との意見に
達した。
まず笠取峠から出発して20K超とすると長久保宿、和田宿を経て標高1000Mの和田峠になりそうだ。
また今晩も厳寒の冬山か。
和田峠も依田川を挟んで下り上りがきつそうだ。がんばろう弥次喜多。
現在ここは圏外、お届けは明日以降、少し遅くなりそうだ。
弥栄<イヤサカ> 弥次喜多・實久&祥介 ≫
《 今朝、笠取峠標高877Mを朝7時30分出発、薄雲後快晴、目標到達 和田峠標高1175M地点に
午後4時40分に到着する。徒歩23KM所要時間9時間11分であった。
長久保宿、和田宿を経て現在地に到着し、無人の茶屋本陣の軒下を借りてテントを張る。
坂の上り下りに加え、盆地らしい蒸し暑さに閉口、途中の和田宿温泉の水風呂に癒される。
長久保宿は必見だ。街そのものがその当時の宿場の雰囲気を醸し出している。
のどかな田園風景、野に咲く花々、小川のせせらぎ、遠くで鶏が鳴き、芽吹きで山全体が薄焦げ
茶に変わりつつある風景に身を沈めて見る。そこには子供の頃夢中になった田舎の遊びの
世界が広る。しあわせとはそっとまわりに優しく抱き抱えられることのように思う。
また今晩も寒そうだ。
おやすみ。 サネ&ショウスケ・弥次喜多 ≫
長久保宿は、総戸数187軒・旅籠43軒と大きめの宿場であり、天領・幕府要地の1つであった。
松尾神社の先に、中山道で一番古い<本陣跡 1624年>があり、その近くに屋根に防火壁『本卯壁』 をもつ
<釜鳴屋>が建つ。
長久保宿㉗ 旅籠に見られる<2階の出梁造り>
依田川に沿って進むと右手に<長久保の一里塚跡>があり、その先で<大和橋・落合橋>を渡って、旧中山道は国道142号線に再合流し、和田宿㉘に向かう。
◎<和田宿㉘> 日本橋より340km地点
本陣跡の後ろを走る国道142号線に「道の駅 和田ステーション」があり、和田宿温泉<ふれあいの湯>(日帰り湯300円・血圧計測127-67)がある。さっそく温泉に体を沈め、疲れをいやした。
脇本陣跡、高札場跡、和田城址を過ぎると、江戸から50里である<一里塚跡> の側を通過する。
さらに進んでいくと唐沢・一の橋より400mほど先に、左へ向かう坂道がある。林道のような未舗装で、砂利や草を踏み分けて和田峠へ向かう旧中山道である。
旧中山道は雑草多く、歩きにくいので国道142号線を歩くことにした。
国道左側の歩道を運搬自転車を押して上がると、江戸から51里である<唐沢の一里塚跡>がある。
中山道和田宿㉘ 本陣 和田宿温泉<ふれあいの湯>
唐沢の一里塚跡から、国道142に並行している旧中山道に入って、和田峠に向かって歩いてみることにした。
依田川に流れ込む支流男女倉川にかかる<観音橋>と、国道を横切り、休み茶屋跡にある<三十三体観音>を過ぎると、草深い旧中山道は<接待茶屋跡>に出る。
すでに17時、夜間の雨天に備えて近くの<永代人馬施行所>の軒先を借りて設営することにした。
≪ 深山に 坐せし観音 春うらら ≫ 實久
― しんざんに ざせしかんのん はるうらら―
中山道 一里塚跡(江戸から50里) 唐沢の一里塚跡(51里)
<▲12日目露営地 和田峠― 永代人馬施行所跡に設営 標高1275m>
<永代人馬施行所跡―えいだいじんばせぎょうしょあと>
中山道で一番の難所であるここ和田峠は標高1284m、標高差1000mの急登であり、和田宿と下諏訪宿の 間
の13kmという長丁場である。
昔から和田峠を往来する人馬は難儀したという。
江戸の豪商・かせや与兵衛によってこの難儀を救おう幕府に願い出て作った小屋が
<永代人馬施行所>である。
ここでは、冬に立ち寄った旅人には、粥一杯と焚火、そして牛馬には年中、桶一杯の飼葉が
施行されたといわれる。
弥次喜多も、<永代人馬施行所>の軒下を借りて、寒さや露霜を避けることにした。
≪ 寒峠 添い寝や人馬 仮の宿 ≫ 實久
― かんとうげ そいねやじんば かりのやど ―
永代人馬施行所の軒下に設営 (和田峠1275m)
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ブログ作成中に、平成より令和への改元の時を迎えた
令和元年5月1日 午前8時32分記録として残す
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■ 13日目 中山道 <和田宿㉘ ⇒ 下諏訪宿㉙ ⇒塩尻宿㉚>
27.0km/10h 4月22日
<和田宿をスタートする>
午前6時30分、永代人馬施行所での軒下露営地を撤収し、下諏訪宿に向かってスタートする。
≪ お早うございます。今日は和田峠から下って下諏訪宿へ向かう予定。日本橋から200Kを越え、
弥次喜多の体も歩きに慣れてきたようだ.
露営も楽しめるようになってきた。
今後はてくてく旅のスケジュールおよび報告は『同志社ローバーOGOB会』のホームページ
のブログに移すことにする。
もしパソコンをお持ちでない方又は今の状態での受信を希望される方はご一報(返信)いただき
たい。
《あさみどり澄み渡りたる 大空の 広きをおのが 友がな》<明治天皇>
弥栄<いやさか> 弥次喜多・ 後藤實久&田中祥介≫
≪ 和田峠より旧中山道(谷川沿いの雑木林)を下る、国道は歩道がなく大型車が多く危険。
しかし昔の旅人の苦労や山の中の茶屋での情報交換など楽しい場面も知り得た
ような気がする。
なんと言っても健脚だったと言うことだ。
それぞれの人生にあった旅を楽しんでいたと言えよう。
われわれもそれぞれの違った人生を持ちな がら、互いを認め合い一緒の旅を続けている。
不思議なものだといつも思う。
わたしは人生も旅も『星の巡礼』に例えてとらえている。
そして人間ひとり一人みんな違った星から流れ星となって何億光年かけてこの地に
やって来たのだと思う。
地球で喜怒哀楽や愛、親切や思いやり、失敗や病気など沢山さんのことを学び、
80年間ほどの留学を終え、
また何億光年かけて自分の星に帰るのだと。帰ったら地球での成果をみんなの前で
研究発表するのだ
なんのため地球に生まれたのだろう?
人間って?
人間はどこから来たの?何故苦しいことがあるの?
死んだらどこへ行くの?
何故病気になるの?
毎年夏になるとイカダ教室に沢山の中学生がびわ湖にやってきて、
1000人近い『星の王子さま』、『星の王女さま』が悩んでいること、学校で教えてくれない
ことを質問してくる。
それに答えるのが『星の巡礼』の話である。
この旅でのテーマも『与えられるすべてに感謝し全身全霊で体験しょう』、
今日も弥次喜多、サネ&ショウスケは真剣に論じあいながら中山道を
塩尻峠までてくてく歩いた。
約10時間、約27KMの行程であった。
塩尻峠にある空き倉庫の軒を借りて設営した。.
今夜から明日にかけて雨だそうだ。
おやすみ,
弥栄<いやさか> 實久&祥介・弥次喜多 ≫
国道142号線から一部旧中山道をぬいきながら、谷川のせせらぎの音を楽しみつつ上っていくと和田峠前の
<西餅屋跡>を過ぎて、和田峠 (標高1284m)に至る。
和田峠 (標高1284m)に至る 旅人の休息地・東餅屋跡
<東餅屋跡>
標高1531mの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。
この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり人馬の休息所となっていた。
この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624~1643)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難綬する旅人の救助にも当たっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれ土屋氏が勤めていた。
鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋もみせをたたみ、今は石垣を残すのみである。
<和田村教育委員会>
≪ 和田越えの 茶屋で桜や 仮の宿 ≫ 實久
―わだこえの ちゃやでさくらや かりのやど―
4月22日 8:13am 和田峠トンネルを抜ける 砥川沿いに 旧中山道を下り下諏訪へ向かう
和田峠トンネルを抜け、砥川沿いに 中山道を下り下諏訪へ向かうと、下諏訪神社の 「木落とし」のご神木に
出合った。
その横に<木落としの坂>が谷にむかって広がっており、いつぞやTVで観た壮絶な「木落とし」のシーンを
思い出していた。
下諏訪神社 「木落とし」のご神木 木落としの坂
<天下の木落とし坂>
諏訪大社では7年ごとに寅年と申年に御柱祭が行われ、祭用の巨木を伐り出して上から落とすのである。
その場所を「木落とし坂」と呼んでいる。
国道142号線(中山道)の<木落とし坂>から下ってくると、<万治の石仏>を経て、「右・中山道と左・
諏方宮」の分岐石標に着く。
この分岐よりいまだ桜咲く坂道を、左に下って下諏訪宿に入っていく。
万治の石仏、諏訪大社下社春宮を経て、下諏訪宿に入り、左手に本陣岩波家、諏訪大社下社秋宮と
続き、右手に問屋場跡、その先に旦過湯がある。
旦過湯は、和泉式部ゆかりの<遊泉ハウス児湯>である。
日帰り湯を使わせてもらったが、48℃の高温の湯につかることはできなかった。
入湯料、220円也。
下諏訪宿㉙は、総戸数315軒・旅籠40軒の諏訪大社下社の門前町として発展した。
中山道と甲州道中との追分であったことから旅人、商人などの宿泊客も多く大変賑わった宿場で
あった。
また、先ほど立ち寄った中山道唯一の温泉<旦過の湯>のある宿場でもある。
<諏訪と和泉式部>
上諏訪の温泉寺には和泉式部の墓があったが、伝説では和泉式部は下諏訪の人だったという。
また来迎寺には和泉式部ゆかりの地蔵が祭られているらしい。下諏訪宿ゆかりの人、
百人一首に残る
和泉式部の和歌を取り上げておきたい。
≪ あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな ≫
<もうすぐ私は死んでしまうでしょうが、あの世へ持っていく思い出として、
今もう一度だけお会いしたいものです>
江戸から京へと続く六十九次の中山道と、江戸から甲斐路を抜けて下諏訪に至る甲州街道(甲州道中)との
主要な二つの道筋が合流する下諏訪宿は、道中でも屈指の規模を持つ宿場町として栄えた。
いにしえの浪漫漂う中山道屈指の宿場町である下諏訪宿を歩いてみたい。
右・中山道と左・諏方宮の分岐 万治の石佛碑
万治の石佛
諏訪大社下社秋宮 下諏訪の宿場街
旦過の湯 旦過の湯舟(日帰り湯@220円)
旦過の湯で疲れと汗を流したあと、旧中山道を進み、<東堀の一里塚跡―江戸より56里>、今井家茶屋本陣跡を経て塩尻峠へ向かう。
本陣<中山道下諏訪宿㉙・岩波家> 東掘の一里塚 <江戸より 56里>
<▲13日目露営地 塩尻峠1060mの倉庫にて舎営する>
午後4時33分、塩尻峠の今夜お世話になる倉庫にたどり着いた。
長期予報によると今夜、明日は雨とのこと、休養日として連泊するつもりである。
ここ塩尻峠の露営地である倉庫から、塩尻湖と下諏訪の街が一望できる。
大雨のため倉庫の一角をお借りして舎営 大雨のため倉庫の一角をお借りしてテントを張る
■ 14日目 濠雨により休養日に変更 4月23日
≪ お早うございます。中山道てくてくラリー『星の巡礼』を続けけるサンちゃんとショウちゃんと
ワイルドローバー号(自転車の名前)の三人の『星の王子さま』は今日も元気に塩尻峠を
出発します。天気予報は曇り後時々雨、 行程は変更もあるかも。
本日の行程は塩尻宿、洗馬宿を経て本山宿の予定。写メールの調子悪し。
お昼頃まで待ったが雨止まず、大雨のため出発中止。休養日に切替、同じ設営場所に 留まる。
明日、4月24日 に今日と同じスケジュールをこなすこととする。
弥栄ーイヤサカ 弥次喜多・後藤實久&田中祥介 ≫
■ 15日目 <塩尻宿㉚ ⇒ 洗馬宿㉛ ⇒ 本山宿㉜ ⇒ 贄川宿㉝>
30.0km/10h 4月24日
<下諏訪宿の露営地をスタートする>
《 朝5時30分塩尻峠廃屋露営地を出発。休養日をとったためかちょっと張り切っているようだ。
昨日の豪雨が嘘のように快晴、だが手指が痺れるほど気温は下がっている。
塩尻峠のなんときつい坂であることか。
荷物を積んだ自転車がこんなに重いとは、いささかバテた。
塩尻宿からは、西中山道になるらしい、京都寄りになると言うことらしい。
またこのあたりからは、雪を被った御嶽山、乗鞍岳や日本アルプス連峰の眺めが素晴らしい。
安中より山中行脚ばかりで、食事も非常食のようなばかりだったものだから、真っ先に飛び込んだ
のが、<すき家>注文したのが納豆朝定食大盛り、祥介とガツガツと詰め込んだ。
走っていると佐伯君の勤めるエプソンの塩尻工場、記念にと写真をパチリ。
それから歩きに歩いて、洗馬宿(せば)、本山宿、贄川宿(にえかわ)を経て奈良井宿近くの
道の駅『木曾楢川(ならかわ)』に到着、もう陽も沈みかけ寒くなってきたので野宿すること
とした。
本日の総距離はなんと30KM,所要時間はこれまたなんと10時間、さすがに参りました。
疲れをとるため栄養剤を飲んで寝るだけだ。
明日起きられるかな。
では川柳を一句、
『恋女房こころはやるや 一里塚』 實久
あるお寺の偈では『ひとの道』と題して、
「苦しみの声を聴いていこう、悲しみの声を聴いていこう、たとえ 力になれなくても、
人間らしい優しさを もちつづけていこう」
奈良井川のせせらぎを聴きながら。
おやすみ 後藤實久&田中祥介・弥次喜多 》
豪雨に見舞われ、休養をとっての塩尻峠越え。
澄み切った空気の下に広がる諏訪湖に見送られて坂道を上がっていくと<石松観世音の御堂>の前を
通過する。
御堂には、旅人の草鞋や杖が吊るされ、旅の無事を祈ったのであろうか。
それぞれの思いや願い、感謝のまごころを込めて奉納したのであろう。
そして、その横からは甘露である清流の水をいただいくことができる。
何百年とたたずみ、旅人を見続け、命の水を提供する観世音様に感謝である。
旅人が草鞋や杖を奉納し道中の安全を願った石松観世音 / 甘露である清流の水をいただき、補給する
塩尻峠展望台からは、諏訪湖はもちろん、八ヶ岳や御嶽、遠くは富士山も見える。
その先に、江戸から52里の<東山一里塚>がある。日本橋から約208㎞である。
参考までに、われわれ弥次喜多が実際にここまで歩いた距離はすでに324㎞であり、立ち寄り先を含めての総距離である。
また、旅人の峠越えに便を提供していた多くの馬や馬子の霊を慰める<馬頭観世音>の石碑を目にする。
塩尻峠展望台(1060m) 東山一里塚(江戸日本橋より52里)
馬頭観世音をすぎると、間もなく中山道の難所の一つである塩尻峠(1085m)に着く。
峠より、遠くいまだ雪が残る御嶽山八ヶ岳連峰を眺めながら、そして塩尻の街を見下ろしながら長井坂を下り
塩尻宿に向かう。
馬頭観輸世音 塩尻峠(1085m)
長井坂を下り、長野自動車道と中山道は、国道153号線に合流し、塩尻宿㉚に入っていく。
塩尻宿は、中山道30番目で、総戸数は166軒・旅籠は75軒の大き目の宿場である。
中山道と国道153との合流前に右手に、木曽義仲信仰の基となっている、姿の美しいお堂
木曽義仲の墓は、滋賀県大津市の旧中山道の馬場にある天台宗の<義仲寺>に、芭蕉の墓と背中
合わせにある。
お寺の手前、左手にある<すき家>で朝食の「納豆定食」をとり、元気をいただく。
<木曽義仲>
木曽義仲は源義仲といい、源頼朝や源義経の義兄弟であり、中山道のゆかりの地・信濃源氏の
武将である。
通称は、これから歩く中山道木曽路の出自から<木曽次郎>と呼ばれていた。
越中国(富山県)の倶利伽羅峠の戦いで10万の平氏の追討軍を打ち破ったあと、京の平氏を追い出し
守護に当たる。
しかし、皇位継承に首を突っ込み、朝廷や公家にいやがられ 平氏追討のため及んだ水島の戦いで
惨敗する。
その間に、源義経が頼朝の命で京を掌握したとの報に、平氏との戦いを打ち切り帰京する。
このことによって、義仲は頼朝追討の兵を動かすのに対し、頼朝側は義仲の京よりの退去を要請するに
至り,両軍は対立する。
そして、義仲は義仲寺近くの粟津の浜の戦いで討ち死にする。義仲31歳であった。
若くして木曽の山奥からきらびやかな京に出て、その権勢を誇ったことから、平家物語では<旭将軍>
と呼ばれたりもした。
木曽義仲信仰の基、美しいお堂のある<永福寺観音堂> 是より中山道 塩尻宿の石標
<是より中山道 塩尻宿>の石標に迎えられ、宿場に入っていくと、塩尻口留番所跡、上・下問屋跡、中山道塩尻宿本陣跡、脇本陣跡を過ぎ、重文民家堀内家に立ち寄って、JR中央本線のガードをくぐると、道の両側に残る<平出の一里塚跡>(日本橋より58里)に出る。
◎<塩尻宿㉚>
<平出の一里塚跡>を出て、再度JR中央本線のガードをくぐり進むと、国道19号線に合流し、
国道につきつ離れつ中山道は洗馬宿に入っていく。
平出の一里塚跡(日本橋より58里) 塩尻宿㉚の代表的な古民家
◎<洗馬宿 ㉛> 日本橋より349km地点
洗馬宿(せばしゅく)は、中山道31番目で、総戸数163軒、旅籠21軒の宿場である。
中山道 洗馬宿標識と細川幽斎肘掛松 追分の道標 「右中山道 左北国往還善光寺道」
JR中央本線の洗馬駅前をとおり、本陣跡、脇本陣跡、高札場跡を過ぎ、のどかな田園風景の中を歩いていくと、本山宿に入っていく。
◎<本山宿 ㉜> 日本橋より354㎞地点
本山宿は、中山道32番目で、総戸数117軒、旅籠34軒の宿場である。
本山宿の道幅のある両側に、信州そばの発祥地である<本山そばの里>や、 本陣跡、脇本陣跡があり、
中町に入ると国登録有形文化財の旅館川口屋、池田屋、若松屋が並んで建っている。
中山道 本山宿㉜ 入口 本山宿㉜にならぶ旅館(旅籠)
日出塩の一里塚跡(日本橋より61里) 「是より南 木曽路」の石碑
日出塩の一里塚跡を過ぎ、左にJR中央本線を、右に奈良井川を見ながら進むと、<是より南 木曽路>の
碑に出会う。
その先の茶屋本陣跡を過ぎると、奈良井川の渓谷は狭くなり美しい景色の中に溶け込んでいく。
標高860mにある<若神子の一里塚>(日本橋より65里)を過ぎると、国道19号線とJR中央本線とともに
若神子の一里塚(日本橋より65里) 谷間の山腹に作られた旧中山道を歩き贄川宿に入っていく
JR中央本線贄川駅の少し先に<贄川関所>(木曽考古館)があり、正式には「贄川口留番所」といい、<女改め>女性が藩外へ出るのを防いだり、曲げ物・漆器の移出を取り締まっていた。
贄川宿は中山道の33番目で、総戸数124軒、旅籠25軒の宿場である。
奈良井川の関所橋を渡ると、本陣跡、脇本陣跡と続き、桃岡橋を渡って、木曽谷の風情が濃くなる深い谷間の道と、「道の駅 木曽ならかわ」に隣接する<木曽くらしの工芸館>や<木曽漆器館>など漆器店が立ち並ぶ。
すでに午後5時30分、木曽谷は暗さが増してきたので今夜の露営地を「道の駅 木曽ならかわ」近辺に探すことにした。
<▲15日目の露営地 -
JR中央本線・木曽平沢駅手前の「道の駅木曽ならかわ」奈良井川東岸に設営する>
ここ木曽谷もようやく冬の眠りから覚め、柔らかい緑の新芽の顔を見せ始めている。
木曽の新鮮な空気を満喫しながらゆっくりと休みたい。
「道の駅 木曽ならかわ」近くの奈良井川東岸に設営 夜半に豪雨あり、「道の駅」の軒先に避難
■16日目 <贄川宿㉝ ⇒奈良井宿㉞ ⇒藪原宿㉟ ⇒宮ノ越宿㊱ ⇒福島宿㊲ ⇒木曽福島宿㊳>
34.0km/10h 4月25日
《 お早うございます。本日の予定は、天気次第。雨がぱらつく様なら安全をきして、標準行程に
従い、 無茶はよすつもり。まず野営地である『道の駅ならかわ』近くの奈良井川岸を出発し、
奈良井宿、
藪原宿、宮 ノ越宿をへて木曾の福島宿まで行きたい。雨だと少し辛い。全体として行程表より
先に進んでいるようだ。まあのんびり行きます。 弥栄―イヤサカ
弥次喜多・實久&祥介 》
<実行本部への業務連絡>
《 Fさま、Sさま、Nさま、お世話さまです。 5月1日の日本橋でのラリー出発式への参加者が
おられましたら人数とお名前を知らせて下さい。申込最終日にはお一人もおられ無かった
(後藤を除いて)と記憶しますが、念のためお知らせ下さい。
もしどなたもおられない場合は、私もラリー後半に備えて体を休めたいと思います。
奈良井宿近くで。 雨が降り出してます。 実行部隊・後藤 》
<15日目 贄川宿の露営地「道の駅 木曽ならかわ」をスタートする> 標高975m
夜半に大雨に会い、近くの「道の駅 木曽ならかわ」の軒下に緊急避難した。
朝5時30分、撤収作業を終え贄川宿の漆器店が並ぶ街道筋をあとに木曽福島宿に向かって出発した。
なぜなら、美濃傘を背負い、夜露に野宿する己がそこにあるからである。
《 朝4時30分テントを叩く雨音で目を覚まし、5時30分出発。雨次第に激しくなり、奈良井宿に着いた
ときは雨雪に変わり、丁度標高1200Mの鳥居峠に挑戦中。山は雪化粧、この道中での最難儀と
あいなった。しかし藪原 宮ノ越宿と過ぎるにつけ天気も回復、中山道の中間点では快晴、
半分来られたことへの感謝と濡れた衣服を乾燥
させるのにおおわらわ。あと一気に木曽福島宿まで来てしまった。ここ四日ほど入浴していないので
福島にある温泉に飛び込む。各種充電、下着のはきかえ、それらの洗濯と忙しい時間を過ごした。
では一句、
《 覚ましの テントうつ雪 首ちぢめ 》 實久
《 振り返る 鳥居峠 雪化粧 》 實久
《 吹雪かれて 驚き縮む さくら花 》 實久
どうも圏外らしい。今日、無事中山道てくてくラリー、半分過ぎたことをお伝えする。おやすみ。
《 東京のF君よりメールあり、H君・I君両名は、
安中教会での献花式には日帰りとの連絡あり》
携帯による電話やメールの威力には恐れ入ったものである。
この中山道の木曽路の奥地まで電波が届くなんて、昔日を思うと感無量である。反面、この田舎の
風情にすべてのニュースが溶け込んでくるのも風流に欠けるというものである。
横を流れる奈良井川のせせらぎ、それも岩もあり、木の根もあるけれど、ただたださらさらと流れる
様を楽しむ豊かな心に遊ぶのもいい。
いかがなものだろうか。
JR中央本線「木曽平沢駅」を過ぎ、奈良井橋を渡ると、16日目の最初の宿場<奈良井宿㉞>である。
奈良井宿㉞は、総戸数409軒、旅籠5軒と当時(天保14年・1843)にしては案外小規模な宿場であった。
その理由の一つに地場産業としての漆器が盛んで、豊かな宿場であったことがうかがい知れる。
奈良井の街並は宿場を忠実に復元しており、『楢川村奈良井伝統的建造物群保存地区』に選定されている。
木曽に遊んだ芭蕉の一句、
《木曽の坊 浮世の人の 土産かな 》 芭蕉
―きそのぼう うきよのひとの みやげかな―
宿場町の景観を今に残している奈良井宿 ㉛ 旅籠は民宿に、「いかりや」
奈良井宿の街道に並ぶ昔懐かしい漆器を扱う商家や旅籠を堪能しながら進むと、本陣跡・高札場跡・上問屋(資料館)を過ぎたところにある<峠の松>を左に見ながら、鳥居峠までよく整備された山道である中山道へと入っていく。
鳥居峠1197mまでは約3㎞の急坂を上ることになる。
峠を越えると<御嶽遙拝所>や<木曽義仲の硯水>がある。
下の地図上の現在地であるJR中央本線のトンネルの上の山道が地図上の中山道(点線・・・・)である。
鳥居峠1197mは、信濃川と木曽川を日本海側と太平洋側に分ける分水嶺である。
また、ここ鳥居峠1197mは、これまで歩いてきた碓氷峠960m、和田峠1531mと共に中山道における
最大の難所といわれている。
これで弥次喜多は、中山道の三大難所を克服して西中山道に入ったことになる。
《雲雀入り うへにやすらふ 嶺かな 》 芭蕉
―ひばりより うへにやすらふ とうげかな ―
鳥居峠付近の地図と中山道(破線----) 飛騨街道追分(との分岐)標識
◎<藪原宿㉟> 日本橋より376㎞地点(立ち寄り先を含めた弥次喜多の総歩行距離)
藪原宿㉟(やぶはらしゅく)は、総戸数266軒、旅籠10軒の宿場で、木櫛で有名な<お六櫛の里>として
知られ、中山道35番目の宿場である。
飛騨街道追分の標識すぎ、左手に宿場の産土神(うぶすなかみ)を祭る<藪原神社>、本陣跡の碑、
<地酒・木曽路>の湯川酒造店、小堀遠州の庭で知られている<極楽寺>と続き、右手の
<高札場跡の碑>先に、<藪原の一里塚跡の碑・日本橋から66里>がある。
藪原の一里塚跡の碑先でJR中央本線のガードをくぐり、木曽川の渓谷を眼下に見ながら進むみ、
<山吹トンネル>を抜けると中山道は、国道361号線と合流する。
山吹山を貫通する山吹トンネルの前に中山道への旧道があるが、崩落の危険個所があるためトンネルを抜けるようにとの注意書きに従う。
中山道は、日義村(ひよしむら)辺りで国道と別れ、木曽川にかかる山吹橋を渡り、宮ノ越宿に入っていく。
お六櫛製造販売 篠原商店 藪原宿㉟ 高札場跡
宮ノ越宿は、総戸数137軒、旅籠21軒の中規模の宿場で、二階が突き出た<出梁造り>
(だしばりづくり)の町屋が見られる。
宮ノ越宿は戦国武将、木曽義仲ゆかりの地として知られ、義仲ゆかりの名所・旧跡が多くある。
宮ノ越宿入口 巴ケ淵
<巴ケ淵と 義仲館>
巴ケ淵は、義仲と共に幼少を過ごし、義仲と生涯を共にした愛妾・巴(巴御前・山吹御前とも)の名にちなんで巴淵と呼ばれている。木曽川が山吹山のふもとを迂回して形づくる深い淵に、神秘的な渦が巻いている淵である。 この淵に棲む竜神が巴に化身して義仲を守り続けたという伝説が残っている。
《 山吹も 巴もいでて 田植えかな 》 許六
―やまぶきも ともえもいでて たうえかな―
木曽義仲は1154年(久寿元年)、源義賢(みなもとよしたか)の二男として武蔵国大蔵館に生まれる。義賢は源義朝の弟であり、義朝の長男義平に討たれた。
義賢の子、木曽義仲は、2歳の頃に木曽に逃れてきた駒王丸で、後に元服し木曽次郎源義仲と名乗った。
1180年に後白河法皇より平家追討の命を受け、木曽の地で旗挙げを行い、その後北陸に進撃、
入京を果たした後、征夷大将軍に任ぜられた。しかし、後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ、
粟津ヶ原(琵琶湖岸・あわつがはら)で討死。
31歳 の短い生涯であったが、短くとも壮絶な生涯であった。、ここ義仲館では絵画や人形を使いわかりやすく解説している。(木曽おんたけ観光局)
山吹橋を渡らずに国道19号線を南下すると、義仲が使った手洗水の残っているといわれる南雲神社が
ある。
また、その先に義仲の元服の地として知られている旗上八幡宮があるので立ち寄ってみるのもいい。
義仲館より少し先のJR中央本線・宮ノ越駅(標高843m)の前に本陣跡の碑が建つ。
■16日目-3 <贄川宿㉝ ⇒奈良井宿㉞ ⇒藪原宿㉟ ⇒宮ノ越宿㊱ ⇒福島宿㊲ ⇒木曽福島宿㊳>
34.0km/10h 4月25日
宮ノ越宿㊱の<出梁造り>の古民家 宮ノ越一里塚跡(江戸より66里)
宮ノ越宿㊱につづく<出梁造り>の町屋を楽しみつつ進むと、<宮ノ越一里塚跡>(江戸より66里)の
木製表示板に出会う。
更に歩を進めると、JR中央本線を越え、国道19号線と並ぶように南下すると<中山道の真ん中>の
標柱が建つ。
ここからの眺めがいい、左手に木曽駒ケ岳はじめ中央アルプスの雪をたたえた峰々が素晴らしく、
美しい。
ずいぶんと歩いたが、ようやく無事中山道の中間点に到達した。
仲間の励ましをはじめ、沿道の温かい声援に感謝である。
また、露営地として軒下をこころよくお貸しいただいた皆さんに御礼を申し上げる次第である。
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<中山道の中間地点を通過 4月25日午後1時48分>
弥次喜多こと後藤と田中 および ワイルド・ローバー号は、
同時刻に中山道中間地点を通過せり
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「中山道中間地点」石柱 <京へ67里28丁 / 江戸へ67里
「中山道中間地点」をでて、国道19号線と合流し、正面に南アルプスを眺めながら進むと、義仲の勉学のため京都の北野天満宮を迎えたという<手習天神>を通過する。
JR中央本線をくぐると<出尻の一里塚跡>(日本橋より69里)を確認したあと、国道19号線上の国道361の分岐より西へ1.5㎞ほど入ったところにある温泉<せせらぎの湯>に立ち寄って汗を流し、疲れをとり、冷えた体を温める。
<温泉せせらぎの湯 @700円>
国道19号線(中山道)より国道361号線を黒川沿いに東へ1.5㎞入ると、天然日帰りで、
赤茶色の湯がある。もちろん天然温泉かけ流しである。
湯船からの木曽の山々が美しい。
温泉より中山道に戻り、<福島関所跡>より福島宿に入っていく。
<福島関所跡>石碑 復元された福島関所
<▲16日目露営地 木曽福島 体育館の軒下をお借りする>
福島宿の散策を明日に回し、温泉の温もりが冷めないうちに設営し、早めに寝袋に潜り込むこと
にした。
木曽福島 体育館の軒下をお借りする
■17日目 <木曽福島宿㊲ ⇒ 上松宿㊳ ⇒ 須原宿㊴> 23.0km/9h 4月26日
《前半最終報告》
◎<福島宿㊲> 日本橋より総歩行距離400㎞地点
福島宿は、総戸数158軒、旅籠14軒の中山道37番目の宿場である。
<福島宿露営地・体育館を出発する>
初めての朝寝坊、テントを片付け、洗濯物を取り入れ木曽福島宿を後にしたのが朝7時である。
中山道に出て、昨日立ち寄った、江戸防衛を第一と考えていた幕府にとって西国大名の動きを抑えていた<福島関所跡>を過ぎると、島崎藤村の姉・園が嫁入りした高瀬家があり、藤村の手記や写真を中心に、現在は副業であった奇應丸などを展示している。
木曽の奇應丸は、舶来の生薬を用いた動植物性和漢薬として珍重され,ここ木曽では江戸時代から作られてきた。
西国大名の動きを抑えていた福島関所
木曽の生薬・高瀬の奇應丸 高瀬資料館
さらに進むと、同じく左手、<本陣跡>に木曽福島町役場が建ち、その奥に<藤村記念館>がある。
いよいよ藤村の世界が始まる。
JR中央本線木曽福島駅を過ぎ、木曽川を右手に見ながら木曽谷の景観を楽しみながら中山道を歩いていくと、国道19号線と木曽川をぬいながら上松宿へと入っていく。
木曽川にかかる赤い桟<赤いかけはし> 対岸に<木曽の桟>(きそのかけはし)が見られる
木曽川の景観を楽しみながら中山道を上松宿へと向かう手前に<芭蕉句碑>がある。
芭蕉は一句詠んでいる
《桟や 命をからむ 蔦かづら》 芭蕉
―かけはしや いのちからむ つたかづら ―
正岡子規も一句、
《かけはしや あぶない処に 山つつじ 》 子規
―かけはしや あぶないところ やまつつじ ―
わたしも一句、
《杣酒に 酔ひて渡れぬ かづら桟 》 實久
― そまざけに よいてわたれぬ かづらさん ―
◎<上松宿㊳> 日本橋より総歩行距離412㎞ 地点 4月26日10:10am 通過
福島宿からの道中、木曽川の渓谷美を楽しみながら歩くと、<木曽御嶽遥拝所>を経て、上松にある<沓掛の一里塚跡>(日本橋より71里目)と<沓掛観音―馬頭観音堂>を過ぎる。
その先に、木曽川沿いの崖に丸太を打ち込み、その上に板を敷いて通行の便を図っていた桟(かけはし)の跡が残っている<木曽の桟>(きそのかけはし)に出会い、芭蕉の句を味いながら十王橋を左にとって
上松宿㊳に入った。
上松宿は、木曽ヒノキの集散地として繁栄した総戸数362軒、旅籠35軒と中山道では規模の大きい宿場であった。
十王橋を渡り左へ<中山道 上松宿入口> 上松宿㊳の街並み
中山道38番目の宿場 上松宿に入っていくと、玉林院に出会う。
<玉林院>
玉林院の背後の山、天神山には戦国末期の木曽氏当主の弟木曽義豊が築いた館があった。
出家した義豊、王林和尚は玉林院を創建し、源氏の氏神である八幡神社や諏訪神社を勧請したといわれる。
木曽谷には、源氏の物語が至る所で花を咲かせているのである。
王林院をあとにして、夫婦円満の道祖神にエールを送られ本陣跡を過ぎると<本町の一里塚の碑>に着く。
ここから京都三条大橋まで65里、約260kmであり、江戸日本橋から68里、約272㎞の地点である。
いまだ木曽谷、上松宿は桜満開である。
本町の一里塚跡の碑 <日本橋から68里・京へ65里> 美しい上松宿㊳の満開の桜並木がいい
さらに歩を進めると、<茂吉文学碑>と 上松小学校の校門内に<藤村文学碑>がある。
《駒ケ嶽見てそめけるを背後にし
小さき汽車は峡に入りゆく》 茂吉
《山はしつかにして性をやしない
水は動いて情をなぐさむ 酒落堂之記より》 藤村
茂吉文学碑 材木役所の跡
<茂吉文学碑>に続いて材木役所の跡である<尾張藩 上松材木役所御陣屋跡>がある。
《駒ケ嶽みてそめけるを 背後にし小さき汽車は 峡に入りゆく》 茂吉
寿命そばで有名な操業三百余年の<越前屋>
国道19号線に面して寿命そばで有名な操業三百余年の<越前屋>があり、対面に<寝覚ノ床>への入り口がある。
<寝覚ノ床>
中山道 上松町は、浦島太郎が晩年を過ごしたといわれる場所である。
竜宮城から現世に戻った浦島太郎は、諸国を旅したあと、上松の里が気に入って住みつき、毎日寝覚の床で釣りを楽しんだという伝説が残っている。
寝覚ノ床 寝覚ノ床の景観
寝覚ノ床をあとにして、中山道に入り、石畳みが残る滑川橋を渡って、<小野の滝>でJR中央本線をくぐり国道19号線に合流する。その先の<萩原の一里塚跡>(日本橋より73里)を経て、少し水量を増した木曽川を右手に見ながら須原宿へ向かう。小雨降り出す。
《 仲間である藤見氏よりメールあり、安中教会での新島襄先生感謝献花式に出席するとのこと。 感謝
4/25 11:32am受信 》
<萩原の一里塚跡>より、国道19号線を歩きJR中央本線倉本駅を過ぎると右手に木曽渓谷を望みながら歩く。 途中、<倉本の一里塚跡>(江戸より74里・京へ63里)をへて、ただただ歩くと<水舟の里>
須原宿㊴に入っていく。
まずは<幸田露伴の文学碑>と<水舟>が迎えてくれる。
萩原の一里塚跡(江戸より73里・京へ64里) 水舟の里・須原宿㊴入口
幸田露伴の文学碑 と、水舟が旅人の喉を潤してくれる 中山道前半終着 JR中央本線・須原駅
ここ須原宿㊴は、同志社ローバー創立50年記念 中山道てくてくラリー徒歩旅行前半終着の宿場である。
ここ須原駅駐輪場に携行品運搬用自転車・ワイルドローバー号を預け置き、日本橋での<中山道てくてくラリー出発式>と
安中宿⑮での同志社創始者<新島襄先生感謝献花式>に参加のため5月5日まで一時離脱する。
再会を約してJR中央本線の車中の人になった。
当ブログは、同志社ローバー創立50年記念<中山道てくてくラリー>の実行部隊と本部との毎日の業務連絡をまとめたものに、後日旅行記を付け加えたものである。
時間の経過により、現在の現地との多少の矛盾や誤差が生じていることをご了承、ご理解をいただきたい。
《初めての朝寝坊、テントを片付け、洗濯物を取り入れ木曽福島宿を後にしたのが朝7時、上松宿を
経て須原宿に午後3時50分、これで『中山道てくてくラリー』全行程の前半が終了した。
ここJR須原駅に自転車を残し、荷物だけを背負って中央本線に乗る。休養日二日分が余った分
だけ早めに前半を終えることができた。これより後半に向かっての休養と安中での行事に参加のため
移動する。本日の移動距離23KM所要時間8時間30分であった。途中で雨に遭遇、気温6度まで下がる。
《 磨かれし 攻め具関所の 春格子 》 實久
―みがかれし せめぐせきしょの はるごうし―
《 杣酒の 御嶽酔いし 上松宿 》 實久
―そまざけの おんたけよいし うえまつしゅく―
まずは前半を終了します。沢山のエール、情報提供に感謝します。てくてくの後くたくたになり
気の利いた報告も出来ずお許しを。 まずは自転車『ワイルドローバー号』に感謝したい。
重たい野営用具一式を運んでくれた。
これ無くして野営など考えられ無かったからだ。 素晴らしい大自然を満喫させてもらえた。
祥介氏との弥次喜多、くじけそうになった老人を何度励ましてくれたことか、そして愛ある会話を
楽しませてくれたことか。
ありがとうをいいたい。 以上前半最後の報告とする。
弥栄 ・イヤサカ
日本橋での式典出席、および安中教会での「同志社ローバー創立50周年礼拝」出席のため、
途中離脱し、名古屋行き列車・ワンマンカーの中から、
愛を込めて 弥次喜多・後藤實久&田中祥介 》
<前半、お疲れさんでした>
《喜多さん・田中祥介君へ、中山道てくてくラリー前半お疲れさま。思ったより山岳地帯が多く、
手指が痺れた零下の世界、吹雪いた峠 越え、雨音に目覚めたテントの中、いろいろ困難な踏破
だったけれど、日本橋での桜の満開から前半全行程が桜吹雪が途切れることなくわれわれ弥次喜多
を祝福してくれたよね。被災者とおなじ苦難の生活を続けようとの祥介の提案ではじめたテント
生活、被災地とおなじ食生活、共にいい体験をしたね。宿場での優しい声かけ、仲間からの
たくさんのエール、感謝だね。そしてわれわるを支えてくれているイベントスタッフひとりひとり
に有難うを言わなくちゃ。同志社ローバー創立50年記念イベントの『てくてくラリーIN 中山道』
に弥次喜多として全行程を共に歩けるなんて幸せ者だとおもう。50年前の三条大橋から日本橋まで
歩いた仲間の頑張りに弥栄を送りたいね。残りの後半、楽しみながら三条大橋へ向かおう。
よれしく頼む。 弥次さん・後藤實久》
<ブログ管理者・情報提供者に感謝>
《ブログ管理運営担当西脇さま、テントの中でヘッドライトの明かりの中で打つメール大変な作業
なんですね。老眼鏡をかけ間違い間違いしながら、眠気との戦い壮絶な闘いでした。
特に写真は小さすぎて送ったのかどうかわかんない。いや参りました。寝る時間をさいて、
2時間かけてのメール打ち、残酷でしたね。西脇さんの天気予報情報掲載、大助かりでした。
前半行程のほとんどが標高800から1200メーターの山岳地帯、吹雪いたり、手指の感覚がなく
なったり、霰(あられ)が降ったりと予想出来ない天気の急変に大変な峠越えの連続でした。
情報提供に感謝です。後半もよろしくお願いします。
ナマステ、 弥次喜多こと後藤實久&田中祥介》
<前半、お疲れさまでした>
《前半の行程無事終了、お疲れ様でした。元気な頃はご当地の名物を食べずに旅ではないと豪語し、
体力的に辛い事は極力さけていた祥介が、提案したとは思えないテント・食生活にお供させて
いただいて、ありがとうございました。
声無きお供で、心もとないですが、京都三条大橋までの後半の行程もどうぞ、
よろしくお願いします。
田中祥介・裕美》
『中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ
<同志社ローバースカウト創立50年記念事業 記録および通信記録>
《前半報告書》
安中教会での「同志社ローバー創立50周年礼拝」出席した後
『中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ
次回の《後半報告書》につづく
お楽しみに!
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<関連ブログ>
https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2023/01/24/204640
2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ
shiganosato-goto.hatenablog.com