shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ

        『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ 

            <同志社ローバースカウト創立50年記念事業 ー 通信記録・旅日記>

 

               ■ 中山道てくてくラリー出発式・日本橋

               ■ 新島襄先生感謝献花式・安中教会

            ■ 中山道てくてくラリー後半①<須原宿39>➡<鳥居本宿63>

 

 

《前半報告書》にもある様に、日本橋(0)を出発し、須原宿(39)で<中山道てくてくラリー>を一時

中断、まず東北大地震のため延期されていた東京日本橋での<同志社ローバースカウト50周年記念

中山道てくてくラリー」>出発式に参加した。

その後、校祖 新島襄生誕の地・安中市にある安中教会での桑原仙渓  桑原専慶流15世家元による「50周年記念 新島襄先生感謝献花式」に出席。

すべての記念式典を済ませたあと、<中山道てくてくラリー>中継点である須原宿(39)に戻り、

後半の行程を開始、一路京都三条大橋に向かって歩き出した。

 

 

■5月1 日 東京日本橋中山道てくてくラリー出発式>

       

         ■『同志社ローバー50周年記念・てくてくラリーIN中山道』 出発式

 

          

            中山道を歩き、東京日本橋を出て京都三条大橋に向かう



   《 日本橋は静かな時が流れている。今にも雨が降りそうな空、生暖かい5月の風が吹いている。

    今から半世紀前、わが同志社ローバーのもののふ(武士)ども20数名が京都三条大橋を発ち、

    ここ日本橋を目指した。

    踏破の喜び、制覇の歓喜、灼熱に打ち勝った精悍な面構え、青春の血潮のうねりが聴こえてくる。

    そのときに燈された永遠なるローバーリングの光を50年ぶりに京に持ち帰りたい。

    そして受け継がれてきた同志社ローバー50年を振り返るとともに、明日に繋げたい・・・

    という想いと願いを込めて同志社ローバー創立50周年記念イベント『てくてくラリーIN中山道

    がスタートした。

 

    隊員は精鋭3名、隊長 後藤實久と副長 田中祥介(写真参加)、区間参加隊員 梅田幹人である。

    それと、運搬を担当してくれる自転車『ワイルド・ローバー号』が加わる。

    徒歩部隊(本隊)は4月10日にスタートし、中間地点『須原宿』で休養中である。

    この間、東北大震災によって延期していた東京日本橋での<中山道てくてくラリー徒歩部隊>

    の出発式、安中教会での創立50周年記念イベント『新島襄先生感謝記念献花式』(献花、

    桑原仙渓流家元ー79年度生)に参加する。

    その後、再度『須原宿㊴』に戻り、徒歩部隊は後半の行程表に従った。

 

    日本橋での出発式には、震災復興自衛隊本部で指揮をとる藤田恵一氏(73年度生)の貴重な

    時間を割いての出席、出発式プロデューサー長岡一美氏(64年度生)、会社の震災対応に腐心する

   『わくわくランドIN安中』プログラム担当佐伯直幸氏(79年度生)、写真参加の副隊長田中祥介氏

   (79年度生)と後藤(60年度生)の5名であった。

    エール交換と、写真撮影という簡素な集いであったが、11月9日の京都新島会館での『同志社ロー

    バー創立50周年記念式典』での再会を約して散会した。  

    弥栄、後藤實久記 》

 

 

東京駅八重洲北口にて・左より長岡、後藤、佐伯                       日本橋にて・左より後藤、長岡、藤田

 

   

   中山道復路てくてくラリー隊長/後藤    <弥次喜多コンビ>     副長/田中祥介(写真参加)

 

           

             野外道具一式運搬用自転車/ワイルド・ローバー号

 

 

 

■ 5月4日安中教会 <新島襄先生感謝献花式>

 

 

           ■ <同志社ローバー創立50年記念 新島襄先生感謝献花式>

 

 

               新島襄先生感謝記念献花式』

                 <献花、桑原専慶流15世家元 桑原仙渓>

                      (79年度生)

                於   安中教会・新島襄生家

  

         

               於・ 安中教会          於・新島襄先生  生家      

 

 

               <わくわくランドin安中     黒木レポート>

   《5月3日は、16時10分過ぎに安中駅の次の駅「磯部」着。小雨のためにタクシーを利用しようかと

    考えたが、初めての訪問地につき歩いてみたいと考え直した。傘を取り出し歩き始めたが、駅前

    には「恐妻碑」が立っていた。群馬名物「かかあ殿下?」のことかと思いつつ、よく見ると

   「恐妻とは愛妻のいわれなり」と書いてあった。

   「なるほど!」と感心したが、そのヨコには「温泉記号発祥の地」の碑もあった。そこには「日本

    最古の温泉記号発祥の地 万治4年の絵図より」(※万治とは、1658年から1660年) あの温泉

    記号はここが発祥の地とは「ヘェー」とこれまた感心した。

    商店街?入口のアーチを見上げると「愛妻湯の町 磯部温泉」との看板が掲げられていた。恐妻と

    愛妻? どっちでもエエやんか・・ 京都に帰宅したら話のネタにはなりますわと歩いて行くと、

    かんぽの宿の建物が見えてきた。碓氷川を渡る橋は「愛妻橋」と命名されていた。16時30分過ぎ

    に安中市 磯部温泉にある『かんぽの宿磯部』に到着。

    ちょうど4日の茶話会用の買い物に出掛けようとされていた後藤さんと西村さんに出会う。

    桑原ご夫妻もすでに安中に到着し、新島旧邸での献花、また安中教会での献花準備も終えたとの

    ことであった。

    西村さんご持参の篠田先輩作成ポロシャツ、Tシャツの披露と予約が行われた。

    18時30分からの夕食は3人での前夜祭となる。

    5月4日朝6時起床、7時15分朝食、8時15分タクシーにて安中教会に向かう。

    8時40分頃、江守牧師とご挨拶。教育館で椅子、机を並べて献花式後の茶話会会場を設営する。

    9時桑原ご夫妻到着、すぐに献花式の最終準備に取りかかっておられた。

    10時頃、上毛新聞記者来訪、取材の申し出あり。

    10時30分、江守牧師の司式による礼拝が開始された。

    黒木は記念写真を担当した関係で、時々教会堂出入口付近から出席者を数えたが、桑原家元の

    献花式時には40名の出席者であった。
 

    まず前奏、そして讃美歌412の1,2番で讃美する。

    江守牧師よりの説教:本日は礼拝とともに、同志社大学スカウト同好会発団50年記念となる

    新島襄先生感謝記念献花をとりおこなうとの目的が紹介された。

    また献花式ということから、以前の教会での「花の日」に関するたのしい思い出が導入の話と

    なって説教が始まった。

    ある年の花の日に、早春に土手などの日当たりのよい斜面に咲く「オオイヌノフグリ」の写真を

    見せて、「この花の名前を知っている人?」と小学生に質問したところ、花の名前に詳しい

    小学生の女の子がいて、さっと手を上げた。

   「その花の名前は、犬の ○ ○ たま」と大きな声で言った。

    恥ずかしかった・・・との話に一同爆笑。実はこの花の学名は「ベロニカ」。ベロニカという

    名前は聖書の中で出てくる女性の登場人物の名前である。(※聖書の話を書きたい所ですが、

    長くなるのでカットします:黒木記) 

    要するに、ベロニカは苦しんでいるキリストを目のあたりにして、人間として見捨てておけな

    かったというやさしい人だったという話であった。

    献花式をとおして、ベロニカと同じくそのやさしさを感じましょうというような内容の説教でした。

   (写真を撮るためにうろうろしていたので、ほんとうは説教後半部分はよく聞いていませんでした)

    説教の最後にもう一度412の3,4番で讃美した。

    11時、桑原専慶流15世家元桑原仙渓さん、桜子家元夫人の紹介があり、お二人による献花が

    始まる。

    11時30分献花終了。桑原家元からの解説、出席者一同からの大きな拍手有り。

 

    12時前、教育館にて茶話会スタート。サンドウィッチ&飲み物、果物、ヨーグルト、お菓子を

    つまみながらの昼食となる。

    12時30分過ぎ、お花を持参された方々への生け教室がはじまる。

    出席者の皆さんのいきいきとした喜びに溢れた顔が印象的であった。13時45分ごろ生け花教室

    も終了、後片付けに入る。

    すべてを終えて、教会堂のいけばな展示の前で記念写真を撮った。出席OB:藤見さん、堀越さん

    ご夫妻、稲井さん

    14時15分すぎに後藤さん、西村さん、藤見さん、黒木で新島旧邸に徒歩で向かう。

    途中、上毛新聞安中支局に立ち寄り、掲載記事の送付をお願いした。

    14時40分頃、新島旧邸到着。展示されているいけばなを観賞する。管理人さんによるガイドあり。

    15時20分すぎ、新島旧邸からタクシーにて『かんぽの宿磯部』に戻る。

    17時30分 レストランで桑原家元ご夫妻を囲んでの夕食会・打ち上げをする。

    21時30分、西村さん高崎に向けて出発。

    「わくわくランドin安中」を終了した。 》 

                (文責:黒木保博―69年度生)

 

 

                          安中教会 江守牧師司式で讃美歌斉唱              

 

           

                新島襄感謝記念献花式出席の同志社関係者

           右より後藤・江守牧師・西村・桑原夫妻・黒木・藤見・稲井

                  (堀越夫妻もあとで参加)

 

           

                 同志社大学スカウト同好会50周年記念事業   

                新島襄生家での新島襄感謝記念挿花 案内状       

               桑原専慶流15世家元桑原仙渓による感謝献花

 

    

            新島襄生家での桑原専慶流15世家元 桑原仙渓による挿花

 

 

 

         

            新島襄生家での桑原仙渓挿花鑑賞 黒木・西村・藤見

 

 

           

  <安中教会『新島先生感謝記念献花式』に立ち会って>

     《神よりのやすらぎをえている。ここちよい疲れだ。いま安中教会での献花式に出席したあと

   『中山道てくてくラリー』の中間宿場、須原宿へもどる木曽路の鈍行列車の座席に身を沈めている。

    列車が揺れるごとに献花式での桑原専慶流15世家元 桑原仙渓の一動一息が伝わってくる。

    家元の献花に相対峙する姿勢、それは若き総帥の魂の鎧にみなぎる花ばなをとおしての神への

    畏敬の念のこころ意気そのものであった。

    総帥のあたたかい眼差しに花ばなはその与えられた使命を果たし、その姿勢を整え宇宙との融合を

    果たさんと待ち構える。

    あたかも家元の指揮に応えんとするその姿は、花ばなの醸し出すハーモニー それは天上の調べで

    あった。

    天地人そして花、そこに天の川をよぎる愛の乱舞をみた。

    この時、この地に立ち会えしことを喜び感謝する。

    同志社ローバー創立50周年記念イベントにおいてわれらの校祖新島襄先生にOB桑原専慶流家元・

    桑原仙渓氏(79年度生)によって感謝の花を手向けることができたことを報告しておきたい。

    お立会いいただいた方々、お世話いただいた方々、牧師さまはじめ教会員のみなさま、ご協力いた

    だきまして心より御礼を申し上げます。有難うございました。

    まずは御礼まで。

    桑原ご夫妻、お疲れ様でした。

    弥栄、後藤實久記 ー60年度生》

 

 

  

 教会員への桑原専慶流のフラワーワークショップ  フラワーワークショップご参加の教会員の皆さまと

                          桑原専慶流15世家元 桑原仙渓夫妻を囲んで

 

 

 

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■ 18日目  <中山道てくてくラリー>後半行程スタート   

          <須原宿㊴ ⇒ 野尻宿㊵  7.0km/3.5h> 5月5日

 

 

安中教会での同志社ローバー創立50周年「新島襄先生記念感謝献花式」に参加したあと、<中山道てくてく

ラリー>を継続するために隊員・弥次喜多は、中継点・須原宿㊴に戻ってきた。

 

 

◎<須原宿㊴> 日本橋より徒歩総距離426㎞ (立寄り先を含む)  20℃・風涼し・晴れ

 

須原宿㊴は、総戸数104軒、旅籠24軒の規模で、清水が湧き、軒先には水舟が置かれ、情緒豊かな往時の面影を残している宿場であった。

 

5月5日15:30スタート、JR中央本線須原駅の駐輪場より荷物運搬用自転車・ワイルドローバー号を引出し、荷物を積み、ブレーキ―などを点検した後、京都三条大橋に向かって「中山道てくてくラリー」後半を

歩き出した。

 

駅前に「露伴文学碑」がある。

幸田露伴の<風流物>の一節が書かれている。

 《仏師が花漬売りの娘に恋をするが、事情あって一緒になれず、悶々たる気持ちでその娘の姿を彫る。

  その像に魂が入り、抱きしめて天に昇っていく 》と・・・純愛である。

 

駅前にはまた、<須原一里塚跡>(日本橋より75里 / 300㎞・京へ60里/240km)の石碑がある。

 

<須原一里塚跡>(日本橋より75里/ 300km)

        (京へ60里/240km)


 

国道19号線に出ると、<脇本陣跡>である西尾酒造店があり、銘酒「木曽のかけはし」を扱っている。

今夜の般若湯にこそっと手に入れ、弥次喜多ニンマリ・・・

  

 

須原宿㊴ 高札場跡               須原宿㊴ 本陣跡

 

 

須原宿㊴ 子規文学碑 <寝ぬ夜半を>                       須原宿㊴ の町屋

 

  《寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほとの 空たにもなし》 子規

  

 

             須原宿㊴は<水舟の里> いたるところで水舟に出会う

 

                                                   

                                                        今夜の般若湯

                   <木曽のかけはし>


 

民宿「すはら」を過ぎて、JR中央本線をくぐると伊奈川橋にある京都清水寺の舞台を持つ<岩出観音堂

に出会う。

18:30、今夜露営する妙心寺派<天長院>先に着いた。

翌日、ここから国道19号線にある<道の駅 大桑>に立寄って、野尻宿㊵へと入っていく。

 

  

岩出観音堂                                     妙心寺派<天長禅院>先の丘で野営

  

 

露営地近くの天長禅院山門             露営地より桜梅咲く弓矢集落を望む

 

本日の露営地である須原㊴と野尻㊵の両宿場の中間にある天長禅院近くの丘の上に設営し、本部への18日目の報告メールを打つ。 

安中教会の真下さんからのメールを受信、サウジアラビア駐在の岡本 武氏(76年度生)へ返信を送る。

 

   《中山道の旧道に咲く名も無き野の花たちが子供の日を祝って大合唱、

    風の川を泳ぎまわる元気な

    鯉のぼりたちはその逞しさを競い、

    おんなの子たちはお釈迦さまを祝う花の日子供の日に変えて

    もらって嬉しくてうれしくて須原宿の水舟を花一杯に飾っている。

 

    木曽のお山から湧きでる真水が宿場のいたるところに置かれた大木をくり抜いた水桶に流れ込み

    旅人の喉の渇きをいやしてくるているーこれが水舟そっくりなのだ。

 

    今朝、献花式の執り行われた安中教会を後にして、パートナーである写真参加の

    喜多さん田中祥介氏と共に安中榛名駅より長野新幹線で長野にでて、

    塩尻経由須原宿中山道39番目の宿場)に午後2時ごろに到着した。

 

    一週間、独りぽっちにされていた寂しがりやの自転車『ワイルドローバー号』と再会、

    お互い熱い抱擁に涙した。

    篠田常生会長(62年度生)制作のてくてくラリーTシャツに着替えて、

    中山道後期徒歩行程へ出発である。

    みなさんのご声援お願いしたい。

 

    5月5日は午後3時須原宿を出発、6時半、野営地である野尻宿との真ん中あたりのJR中央本線

    大桑駅近くの臨済宗妙心寺派『天長院』先の、小高い丘にある平和公園での露営地に到着し

    天幕を張った。

    今晩の夕食は、コッペパンと野菜サラダと木曽のお水、感謝の夕餉だ。

    それに、ちょっぴりの般若湯をたしなんだ。

 

    今日は3時間半、7キロの行程であった。

    明日、5月6日は野尻宿㊵を経て三留野宿㊶まで歩きたい。天気は曇り空だがよさそうだ。

    黒木氏の『わきわくランドIN安中(献花式)レポート』にあった賛美歌412の調べがオルガンに

    のって暗闇の天幕の中に響き渡った。

    ハレルヤ!    弥次喜多こと後藤實久&田中祥介 》

 

 

 <安中教会代表世話人 真下東雄さまよりのお便り>

   《神様は後藤さんや桑原さんの情熱にお応え下さいました。

    何度も申し上げましたが、お二人のやる気に対して、教会側はいま一つ盛り上がりに欠けるところ

    を感じ、当日を迎えるまで不安でした。

    でも、「記念礼拝」から「いけばな教室」に至るまで、和やかな雰囲気のもと、参加者の誰もが

    楽しく充実したひとときを持つ事が出来たと思う事が出来ました。ありがとう御座いました。 

    礼拝堂の中での「神への生け花献花」というのは、教会にとっても初めての経験であり、後藤さん

    のおっしゃる通り、そこに居合わせた誰もが、天地の創り主なる神との融合を体感したのではない

    でしょうか。 

    このような素晴らしい機会を与えて下さり、本当にありがとう御座いました。

    安中教会での1日を含め、心に残る充実した「てくてくラリー」を終えられます事を

    お祈り申し上げます。   真下東雄 》

 

     

         桑原専慶流  桑原仙渓  15世家元による新島襄先生感謝記念献花

 

 

 

  <サウジアラビア中山道のラブコール>

    《岡本武さん(76年度生)、遠くサウジアラビアの地より同志社ローバー創立50年記念イベント

       『てくてくラリーIN中山道』徒歩部隊へのご声援有難うございます。

     砂漠の地より大名や侍、町人の歩いた中山道への時を越えたメッセージうれしく受信しました。

     わたし(後藤)も砂漠へはよく出かけており、その苛酷な状況をよく承知しております。

     砂漠という苛酷ななかに、夜空の満天の星たち(星の王子さまや星の王女さまたち)の詩の朗読、

     砂漠に生きる小さな虫たちのコーラス、風がおりなす砂による風紋の芸術、灼熱の地獄に訪れる

     朝方の凍でつく気温低下、蜃気楼に浮かぶオアシスの幻想、絶望に酔うパラダイスの幻覚、

     渇きに夢みるコカコーラの誘惑、空間に方位示す北斗七星やカシオペア座のありがたさと多くの

     人生の喜びを砂漠から学びました。

     タクラマカン砂漠ゴビ砂漠サハラ砂漠、シエラネバタ砂漠、サイナイ砂漠を縦断したり、

     横断したり、散歩したり、命を失いかけたり、逃げ帰ったりと砂漠には懐かしい思い出がたくさん

     あります。

     御地でのご活躍をお祈りしております。

     奥様の容子(76年度生)さんにもよろしくお伝えください。

     弥栄、同じく人生冒険をしつつ、弥次喜多・後藤&田中祥介より 》

 

 

 

  ■ 19日目  <野尻宿㊵ ⇒ 三留野宿㊶> ( 三留野宿 みどのしゅく)

         10.0km/5h> 5月6日

 

 

 穏やかな田園風景の広がりを眺めながら朝を迎えた。

ここは大桑村にある天長禅院の近くの丘の上にある<大桑村平和公園>である。

青空が広がり木曽谷は爽快である。

ゆっくりと時間が流れ、出発も8時とあいなった。

 

 

気を付けて              遅めの出発

 

天長禅院を出て、JR中央本線大桑駅を過ぎると、国道19号線と合流し、<道の駅 大桑>に出る。

朝食は、信州そば(550円)を道の駅でいただく。水補給のあと、JR中央本線をぬって<高札の場跡>に

迎えられ野尻宿㊵に着く。

 

<道の駅 大桑>で 本場信州そばをいただく

 

  《信州の 蕎麦とかけてや 堅気かな 思慮堅めにして こころ優しき 》 實久

 

 

◎<野尻宿㊵> 日本橋より徒歩総距離 432㎞地点 (立ち寄り先含む)

 

野尻宿は、素晴らしい中央アルプスの山並みを背にした総戸数108軒、旅籠19軒をもち、「七曲がり」と

呼ばれる敵の進軍を遅らせたり、先の見通しを防ぐために造られた、曲がりくねった街並みが残っている

中山道40番目の宿場であった。

  

 

 野尻宿㊵は七曲りで敵を防いだ                           野尻宿㊵の町屋

 

野尻駅前の脇本陣跡の碑、本陣跡の碑に立寄りながら進むと街道の左側に<下在郷の一里塚跡>碑

(江戸より77里/ 308km)に出会う。

 

<下在郷の一里塚跡>(江戸より77里/ 308km)


 

 

野尻宿㊵ 御宿(旅籠)庭田屋               JR野尻駅  

 

その先、国道19号線の歩道を歩き、俳句をひねりながら三留野宿㊶(みどのしゅく)に向かう。

 

   野尻宿 木曽の川筋 花曇り 》 實久

      ―のじりしゅく きそのかわすじ はなぐもり―

 

   野尻宿 ひねもすのたり 木曽路かな》  實久

    ―のじりしゅく ひねもすのたり きそじかなー

 

   《淡き芽に ほのかな旅路 山曇り》 實久

    ―あわきめに ほのかなたびじ やまぐもり―

 

   《たゆたうと 時を歩みて 桜追い》 實久

    ―たうたうと ときをあゆみて さくらおい 》

 

   《山吹や 木曽路染めにし 恋路の湯》 實久

    ―やまぶきや きそじそめにし こいじのゆ―

 

   《桜吹く 木曽の銘酒 七笑 》 實久

    ーさくらふく きそのめいしゅ ななわらい―

 

 

渓斎英泉作 中山道 野尻宿木曾街道六拾九次 野尻

 

 

 国道19号線上の中山道三留野宿㊶に向かうと、<野尻トンネル>を抜けることになる。

この野尻トンネルには歩道はなく車道を歩くことになるので、トンネル突入前に、ブレーキの利き、

前後の点滅灯の点灯、ヘルメットなど安全装備の点検確認をしておくこと。

危険を感じるときは、トンネルを使わず、旧中山道の山道を迂回することもできる。

トンネルを抜けて進むと、JR中央本線十二兼駅近くにある<十二兼の一里塚跡>(江戸より78里/

312km)に出会う。

さらに進むと<リトル寝覚ノ床>といわれる<柿其峡>の美しい木曽の渓谷を楽しむことができる。

  

  JR中央本線十二兼駅                 <リトル寝覚ノ床>といわれる柿其峡

 

歩を進めると、羅天から与川渡橋の間は断崖が木曽川に垂直に落ち込んで、木曽最難関と言われた

<羅天の桟道>が残っている。

さらに南下を続けると、三留野宿㊶(みどのしゅく)に入る。

 

現在も<羅天の桟道>が残っている

 

 

 

◎<三留野宿㊶> (みどのしゅく)  日本橋より徒歩総距離455㎞地点

   (注・一里塚の示す里程表78里/312㎞ と、 ワイルドローバー号の距離計455㎞の差は、

      立寄り先が多いことによる)

 

 

三留野宿㊶(みどのしゅく)の名前の由来は、木曽氏の館があり「御殿(みどの)」と呼ばれた

ことからきている。

また、数回の大火により宿場は灰燼に帰し、その面影はほとんど残っていない。

 三留野宿㊶は、現在の南木曾町に位置し、総戸数77軒、旅籠32軒であった。

 

歌川広重作 中山道三留野宿「木曽海道六十九次・三渡野」

 

国道19号線を離れ、県道264号である旧中山道に入りJR中央本線・を横切ると、枝垂れ梅が残る<べに坂>

をいく、その先右手に<本陣跡の碑>がある。

 

本陣跡の碑の先を、右手の脇にある階段を下って三体の円空仏がある<等覚寺>に立寄る。

等覚寺を過ぎると前方に、木曽川にかかる大吊橋<桃介橋>が目に飛び込んでくる。

桃介橋は、大同電力(現中部電力)の社長であった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿・実業家・日本の電力王)が

読書発電所建設のために大正11年(1922)に架けたものである。

  

 

三留野宿㊶本陣跡                           <日星山等覚寺>曹洞宗の寺院            

 

 

 三留野宿㊶ 柏屋                                   三留野宿脇本陣

  

木曽川にかかる桃介吊り橋

 

<▲19日目露営地> JR南木曽駅近くのSL公園にある千体観音堂<一刻堂>内にて舎営

 

三留野宿㊶では、南木曽駅近くの公園で設営したが、千体観音堂<一刻堂>の尾崎老に堂内での舎営を勧められ、撤収し一夜を尾崎老手掘りの千体観音と共に過ごすことになった。

 

 

 

南木曽駅SL公園にて露営が・・・   千体観音堂<一刻堂>の尾崎伯老に勧められ堂内にて舎営

  

                                           一刻院<千仏観音堂>にて観音様たちと同宿

 

 

  <5月7日午前1時07分三留野宿千体観音堂 一刻院 御堂にて > 千体観音に見守られて

 

    《ここ木曽路では夜桜がいい。今晩は三留野宿(みどの)の南木曽(なぎそ)JR駅近くのSL公園

    で3人(祥ちゃん、ワイルドローバー君、サンちゃん)の花見としゃれこむとする。

    田舎のスーパーで豆腐、餃子、いなり寿司、レタス、苺、野菜のにぎり揚げとビールを仕入れる。

    まずテントを張り、寝る準備を済ませ。寒さ対策として昼スタイルの短パンとTシャツの上に

    パッチをはき、靴下の重ね履きの上にトレパン。

    上は長袖ジャージに羽毛ジャケット、防寒ジャンパー。頭に目だし帽とまるで北国の人に変身。

    これでも夜半になると寒さに起こされるんだな。まるで北極での花見のようだ。

    小高いこの公園からは夕日に照らされた中央アルプスの銀嶺の山々が見事だ。

    ここからは木曽駒ケ岳から空木岳にかけての雪山連峰が見事だ。

    宴もたけなわ、ひとりの老人に呼び掛けられる。 

   「もし、そこの旅人よ、今宵のこの風では雨がかならず降り申す。

    どうかわたしの『千体観音堂一刻院』にお泊りなさい」 と。

    公園に隣接するお堂には、尾崎老人制作の一刀彫観世音菩薩一千体が安置されていた。

    これまた神仏のなされるご縁、有り難く一宿を願い出る。

    不思議なものだ。

    この時、この地での出会い大切にしたい。

    といういきさつで今夜は観音さまの二千の仏眼の御前で参篭することと相成った。

    三色桃花もまた美しい。本日の行程は10キロ、5時間であった。明日、雨で無いかぎり

    5月7日は中山道で一番のハイライト妻籠宿を経て馬籠宿へ向かう。

    おやすみ。  サネ&ショウ・弥次喜多 》

 

 

                  <千体観音堂 一刻院におりて>

                  詩 後藤實久

 

              嗚呼(ああ)われいまここ 中山道木曽路にありて

              三留野(みどの)宿 千体観音堂 一刻院に 一心を托しおる

          坐して 瞑目するに 時止まりて われまた 即身成仏の一体となるを観ずる
           千体観世音の心音 宇宙に歌いて わが命と融合してやむことなし

               闇に浮かびし 御堂の姿に 大いなる神のお姿を覚え
               神、その創世記にありて創られしこの世を想うに

 

              嗚呼 われいま 神の愛を識りて 頭(こうべ)を垂れし
         遠きにありて 神々の賛美の歌声あり 近くにありて 観世音のマントラを聴く

                嗚呼 われいま わが身を捧げてや われ無し
               坐するわが姿をながめてや われを捨つるなり

                嗚呼 われいまここに 至福をえて真なり


           <5月7日午前1時07分三留野宿 千体観音堂 一刻院 御堂にて >

 

 

 

 ■20日目 < 三留野宿㊶⇒ 妻籠宿㊷⇒ 馬篭宿㊸ > 

        14km/12h   5月7日

 

 

午前5時54分、お世話になった尾崎老人の<千体観音堂一刻院>を後にした。

空は、雨曇りである。 尾崎伯老宅に立寄り、一宿のお礼を述べての出立である。

 

 

 千体観音堂のある南木曽にあるSL公園を後にする

 

木曽路南木曽にみる旧中山道の面影を楽しみながら歩みを進める。満開の桜や、ツツジがいい。

 

 

 

              三留野宿㊶から妻籠宿㊷への木曽路の街並み

 

義仲・巴御前ゆかりの松である<振袖松>(ふりそでまつ―残念ながら虫食いにより枯れ、伐採)を

見ながら進むと、妻籠に砦を築いた木曽義仲が北陸路に出撃せんとする時、鬼門の守りに兜前立の

観音像を外してここに祀った<かぶと観音>に出会う。

  

 

三留野宿出口で見送る<振袖松>          かぶと観音

 

妻籠宿㊷への石畳みの坂を上っていくと、<せん澤ー右/妻籠宿 下り/なぎそ>と、なんともユーモラスな

石の道標に出会う。「せん澤」が妙にリアルティを感じさせてくれた。

「あなたの選択はどちらなの?」人生の分かれ道である選択もまた然りである。

この石畳みの坂は、側溝に清水が流れ、歩いているだけで人生の選択を迫るような、哲学的な思索に

導いてくれる不思議な坂である。

 

その先に、<上久保の一里塚跡碑> (江戸より78里/ 312km)は、日本橋から約312㎞地点、

標高535mにある。

 

 

<せん澤>した?                    石畳みに流水  

       

上久保の一里塚跡碑(日本橋より 78里 /312km)                   

 

良寛文学碑>

 江戸後期の僧侶であり歌人である良寛もこの木曽路の暮れゆく、何とも言えないもの悲しさに次のように詠んだ<良寛の文学碑>に出会う。なんと素敵な歌を詠んでいることか・・・哀愁を帯びた若妻を呼ぶ小牝鹿の鳴き声が聞こえてくるではないか。わたしたち弥次喜多良寛の気持ちにひたった。

この辺りの古色蒼然とした石道標が、石畳みによく似合っている。その傍にはにかんで咲いている花々がまたいい。

 

   「この暮れの もの悲しきに 若草の妻呼びたくて 小牝鹿鳴くも」 良寛

 

 

良寛文学碑                               中山道にふさわしい石道標

 

妻籠宿㊷は、木曽の山々を借景にした日本庭園がこれまた木曽の建物に似合い、様になっていて、旅人を

めてくれる。

木曽路のなかでも、三留野宿㊶からの中山道は、日本の原風景を歩くといっても過言ではないすばらしい

街道である。

街道が一つの日本庭園として、旅人を歓迎してくれているのである。

特に、竹とヒノキの群生の落ち着きある陰陽が自然庭園を演出しているところがいい。

また、この景色に合わせるように、小道は最小限の舗装にとどめ、石畳みや土道を残しているのもいい。

村落に住む村民の木曽を愛する気持ちが伝わってくるようである。

 

妻籠宿㊷に続く町屋

 

 旅人の目印としての<蛇石>を右折して妻籠宿㊷に向かう。

  

中山道 蛇石>道標    (分岐を右折)

 

中山道木曽路に建つ古民家に旅を慰められながら上っていくと、妻籠城址石碑にたどり着く。

この辺りは標高535mで、妻籠宿への矢印に従って宿場に下っていく。

 

 

妻籠城址石碑

 

 

◎<妻籠宿㊷>  日本橋より徒歩立ち寄り総距離459㎞地点 

 

木曽川とその支流・蘭川に囲まれた<妻籠城址>を見ながら進むと、中山道はこれまでの木曽川の渓谷美から木曽の山岳美に溶け込み妻籠宿㊷に至る。

高札場、公開されている島崎家の本陣跡、歴史資料館、松代屋、上嵯峨屋が立ち並ぶ妻籠宿の中心に到着する。

妻籠宿㊷は、総戸数83軒、旅籠31軒で、山深い木曽路にある宿場であった

 

街並み保存に力を尽くし、伝統的建造物群が立ち並んでいる。

昔ながらの旅籠のありのままの姿を保存修復し、今に残しているからうれしい。

バストイレがなく、間仕切りや鍵もなく、個室がない宿を現在でも残しているというから徹底している。

ましてや17時以降には、一斉に店は閉まり、静かな山深い木曽路の宿場と化すのである。

妻籠宿㊷は、中山道の中で宿場の雰囲気を醸し出している宿場の一つで、現代にその文化としての歴史と

役割を伝えているといえる。

ゆっくりと古き良き宿場を散策、堪能した。

 

美しい妻籠宿㊷ の街並みと格子に掛けられた挿花

 

妻籠宿㊷ 鯉岩>

昔の旅人は、中山道三大名石といわれた <鯉石>の前で驚きの声を上げたに違いない。

現在は、その岩姿からは想像することがむつかしいが、江戸時代、1780年に刊行された秋里籬島による

木曽路名所図会」によると、その鯉の姿がはっきりわかる。

このような奇岩に出会うのも旅の楽しみなのである。

 

 

妻籠宿 鯉岩                            秋里籬島画 「木曽路名所図会・鯉岩」    

                  

妻籠宿㊷ 公開されている町屋(熊谷家)

                        

当時の生活を知るうえで貴重な熊谷家の長屋が公開されている。

その先に、江戸初期に中山道を利用する旅人の人物改めや物資の搬入搬出を管理する為に宿場入口付近に

設けられた番所妻籠口留番所之跡>をへて、妻籠宿の街並みを楽しみながら、緩やかな坂を下っていく

妻籠宿の高札場跡>に出る。

 

妻籠口留番所之跡                 妻籠宿㊷ は木曽路のゆるやかな石畳みの坂にある 

     

妻籠宿㊷ の高札場跡                中山道 庚申塚 (手前・妻籠へ /右・馬籠へ)

 

  

歌川広重画  中山道「木曾街道六拾九次 妻籠」(妻籠宿㊷)

 

渓斎英泉画 中山道 「木曽街道六十九次・馬籠」(馬籠宿㊸)

 

 

◎<馬籠宿㊸> 日本橋より徒歩総距離468㎞地点(立寄り地を含む距離)

 

馬籠宿は、総戸数69軒、旅籠18軒の中山道43番目の宿場で、木曽11宿の一番南の宿場町で、江戸からの

公式距離80里(約320㎞)・京へ52里(約208㎞)地点にある。

馬籠峠を越えた信濃側の妻籠宿から続く石畳の坂に沿う宿場であり、往年の景観を残す中山道でも代表的な

宿場である。

この石畳の中山道の坂道と、その両側に軒を連ねる宿場(集落)を歩けば、江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気を感じることができるのである。

旧本陣藤村記念館島崎藤村生家跡)として残されているのでぜひ立ち寄ってみたい。

 

妻籠宿㊷までが信州木曽谷で、木曽川から離れた馬籠宿㊸は美濃に属する。

 

<下り谷>の石畳みの坂を上っていくと、桜満開の<一石栃の子安観音>を経て、<馬籠峠 標高801m>に

ある峠の茶屋に着く。我々弥次喜多も、旅人や股旅の味わったであろう大福餅を所望、賞味した。

 

 

 下り谷を経て馬籠峠へ                           桜満開の<一石栃の子安観音>

  

 

馬籠峠山頂 標高801mに到達     <茶屋で一服 >                  大福餅を賞味

  

     

     馬籠宿㊸(江戸80里・京52里)      馬籠宿㊸ 高札場

 

馬籠宿の保存伝統建築景観をゆるりと楽しみながら、石畳みの坂を下っていくとその優雅な姿を見せる

恵那山が、われわれ弥次喜多を歓迎してくれている。

 すでに17時に近く、石畳みの両側の商いも店じまいに忙しい。われわれも宿場から少し入ったところに

ある小公園に建つ東屋の軒の下に、今夜の小雨を避けるためテントを張らせてもらった。 

 

 

馬籠の宿場町の石畳みを歩く                     馬籠宿からの恵那山の眺望がいい

 

<▲ 20日目露営地   馬籠宿㊸ にある東屋の軒の下をお借りし、露をしのぐ>

 

 

 

   《今にも降りだしそうな雨雲が木曽谷に低く垂れこめていた。

    千体観音堂での一夜は禅問答道場の観を呈した。

    眠りについても離れぬ禅問答、思考の一点が大きく膨れあがり、己がこの得体の知れぬ世界に

    はまり込んでいく。

    もがけばもがくほど絡み取られていくではないか。

    とうとう睡眠を割いての『詩・嗚呼われいまここに』にはまり込んで朝を迎えた。

 

    今日は標高801Mの馬籠峠越えだ。寝不足がたたり、こむら返りで足がつる、大変な

    トレッキングと相成った。

    ワイルドローバー号を祥介は後ろから押すがなかなか山道を登ってくれない。

    しかし妻籠宿の村人の声援をえて中山道を凝縮した街道を楽しむことができた。

    妻籠宿から馬籠宿、それは一木一草が日本庭園の主役である。

    木曽谷の豊富な水流による音響効果、行き交う人々へのホスピタリティー、伝統文化を後世に

    残そうとする村民と行政との調和、街道にあるすべてが光り輝き美しい。

 

    本日の行程はわずか14KMに11時間もかかってしまったが、街道の素晴らしさが伝われば

    幸である。

    良寛も吟じている・・・

      《木曽路にて この暮れの もの悲しさに わかくさの 妻呼び立てて 小鹿鳴くも》  良寛

 

    私も一句、

     《ときを超え 木曽の静寂 染み渡り 四智円明の 月は冴えゆく 》  實久

     ーときをこえ きそのせいじゃく しみわたり しえんみょうの つきはさえゆく―

 

    明日のスケジュールは、雨が降らなければ馬籠宿㊸から落合宿㊹、中津川宿㊺をへて大井宿㊻

    まで足をのばすつもりだ。

    おやすみ    實久&祥介 ・ 弥次喜多 》

 

 

 <余韻を残しての日曜礼拝 安中教会 代表世話人・真下さんより>

 

   《先日行われた安中教会での献花式でお世話いただいた真下東雄さまからのその後の日曜礼拝の

    様子をお知らせいただきましたので転送します。》

 

   《先日は色々ありがとうございました。

    本日の日曜礼拝は、その時の余韻を残しての礼拝でした。

    当日用いられた花々等、残されたものは1本残らず教会員の方々が持ち帰って下さいました。

    いまごろ、それぞれの家庭を飾ってくれているものと思います。       

    花たちもそれぞれの場で生かされ、用いられている事に満足している事を想像致します。

    後藤さんの中山道の残された道中、桑原さんご夫妻の華道の道中、その到着点は遥か先かも

    知れませんが、極致へまでのご健勝をお祈り申し上げます。

    有意義なひとときをご提供下さいました事に、重ねて感謝致します。

    安中教会 真下》

 

            

              桑原専慶流15世家元桑原仙渓による感謝献花

                      安中教会にて

 

 

  <喜多さん、到着式に出席するとのメールあり>

 

   《喜多さん・田中祥介夫妻より5月21日(日曜日)午後3時からの京都三条大橋での

    『てくてくラリー中山道』到着式に出席できるようにしたいとの嬉しい知らせが飛び込んで

       きたので転送します。ブラボー》

   《後藤様 安中での献花式などのイベント大成功、てくてくラリー後半行程への出立ありがとう

    ございます。

    馬籠峠越えでは、ワイルドローバー号を後押しするどころかブレーキを掛ける重石になって

    しまったようで申し訳ありません。

   (7日の体重測定で59.1kgと先月よりも、0.1kg身を細くし恐縮している祥介です。)

    雨天も大変でしょうが、ここ数日の夏のような晴天も体力の消耗厳しいことでは…とにかく、

    無理をなさらず、健康・安全第一でよろしくお願いします。

    21日の三条大橋に祥介も参上つかまつる予定をしておりますので!

    田中祥介内より 》                

 

 

同志社ローバー創立50年記念<中山道てくてくラリー>に写真参加中の相棒・喜多さんこと田中祥介君

と、最終日、三条大橋に到着時の弥次喜多の写真

 

 

 

 ■21日目  <馬篭宿㊸ ⇒落合宿㊹ ⇒中津川宿㊺ ⇒大井宿㊻ >

          8.5km/6h    5月8日

 

 

◎<馬籠宿㊸> 日本橋より徒歩総距離468㎞地点

 

妻籠宿㊷までが信州木曽谷で<信濃の国>に属し、馬籠宿㊸は<美濃の国>に属する。

馬籠宿㊸は、総戸数69軒、旅籠18軒と中堅の宿場であったが、現在の馬籠のほうが観光客(旅人)で

賑わい、総戸数や旅籠(旅館)の数も多く、歴史遺産を生かす工夫と努力のもと、上手に再生産している

宿場といえる。

その努力に拍手を贈りたい。

 馬籠宿㊸は、木曽谷を彩る妻籠宿㊷につづいて風情ある家並み、粋な石畳と、ノスタルジーな世界を

創り出している。

日常から離れ、水のせせらぎ、小鳥のさえずり、街道を横切る風を感じながら、粋なひとときを過ごし

ていただきたいと案内書に書かれている通り、ファンタスティックな宿場である。

石畳の両側にお土産物屋がならび、当時の屋号を表札のほかにかけるなど、町が一丸となって宿場の保全

日常生活とを共存させているのが素晴らしい。

馬籠は木曽義仲の異母妹菊女が源頼朝から賜ったものであるといわれている。

 

▲20日目の露営地、馬籠宿㊸の上入口付近にある。

朝もやかかる東屋を午前6時に出立して、落合宿㊹に向かった。

街道の坂を下っていくと、馬籠宿高札場、馬籠脇本陣資料館と続く。

しばらく街道両側に立ち並ぶ<俵屋>、<大黒屋>や、ほかの店の情緒を味わいながら歩く。

その先に、馬籠宿本陣跡である<藤村記念館>があり、代表作「夜明け前」で有名な島崎藤村の原作品等が

展示されている。

また、本陣跡の裏手の永昌寺に藤村の墓がある。

 

馬籠宿を抜けるまで、宿場の町屋を堪能したいのでお付合い願いたい。

 

 

 

馬籠宿㊸ 高札場                   馬籠脇本陣資料館

 

 

 生そば・五平餅もいい            島崎藤村宅<馬籠本陣跡>

 

 

日野百草丸取扱い 槌馬屋               素敵な石畳みの坂に並ぶ旅籠                

  

馬籠の坂からの恵那山がいい     馬籠城址

 

島崎藤村の墓のある永昌寺を出て、さらに歩を進めて坂を下ると、藤村家とゆかりの<諏訪神社>をへて、

新茶屋あたりにある<子規の句碑>や<芭蕉句碑>に達する。

 

早朝の人の気配のない静かな馬籠宿散策もいいものである。是非お勧めしたい。

 

渓斎英泉画 中山道 「木曽街道六十九次・馬籠」

 

   《桑の実の 木曽路出づれば 稲穂かな》   子規

 

   《送られつ 送りつ果ては 木曽の秋》      芭蕉

 

  わたしも一句

   《一宿の うれし東屋 日が暮れて 木曽ガエル聴き 馬籠眠りし》 實久

 

 

 

諏訪神社                子規の句碑

 

芭蕉句碑>がある、ちょうどこの辺りが現在の長野県と岐阜県の県境であり、

<是より北 木曽路>の碑や、<新茶屋の一里塚跡>の碑がある。

われわれ弥次喜多も、木曽路に別れを告げるため、碑の前で記念写真を撮った。

いよいよ是より十国峠を経て、美濃の国に入るのである。

<新茶屋の一里塚跡>は、江戸より83里・約332㎞であり、京へは52里・約208㎞の地点にある。  

 

ここ長野と岐阜の県境をさらに上っていくと信濃と美濃の国境である十曲峠(十石峠)に達する。

十曲峠より石畳み坂を下り落合宿㊹へ向かうことになる。

 

 

 

 <是より 木曽路>道標と 喜多さん      芭蕉句碑 <送られつ>

 

 

落合宿㊹ にある<新茶屋の一里塚跡>江戸より83里・約332㎞    信濃/美濃国境>石柱

 

   

 <十曲峠> ここより石畳み坂を下り落合宿㊹へ               中山道<落合石畳坂>遊歩道

 

十曲峠の下り坂である苔むす落合石畳坂もいい。

石畳みの急な坂道を下ると、<芭蕉句碑>があり、<瑠璃山山中薬師 医王寺>にたどり着く。

 

    《梅が香に のっと日の出る 山路かな》   芭蕉

 

   わたしも一句

    《水墨に 飛び込みし田や 木曽がえる 》    實久

      

 これより信濃国美濃国の国境であり、難所といわれた十曲峠(または十石峠)を越え、深い木立のなかを石畳みの急な坂道を下って落合宿に入っていく。

  

 

 苔むす落合石畳坂(十曲峠)       瑠璃山 <山中薬師 医王寺>

 

宿場入口に立つ<高札場跡>と<上街常夜灯>に迎えられ落合宿㊹に入っていく。

 

 

<落合宿㊹> 日本橋より徒歩総距離472㎞ 地点

 

落合宿㊹は、江戸板橋より44番目、美濃路の最東端にある美濃に入って最初の宿場であるとともに、

木曽路の険しい難所に入る前に身支度する総戸数75軒、旅籠14軒で成り立つ宿場であった。

落合宿㊹は、中山道岐阜17宿の中で唯一本陣が残っており、往時の面影を残す貴重な建物である。

また宿場には、枡形や石畳が当時のまま現存しており、中山道の風情を偲ぶことができ、歴史の面影を

見ることができる。

常夜灯に迎えられ落合宿に入っていくと、本陣跡、脇本陣跡の碑をへて、<与坂の立場跡>、

<子野の一里塚跡>の碑を抜けて、国道19号線を横切り、中津川宿㊺へと向かう。

 

歌川広重画 中山道「木曽海道六十九次・落合」 (落合宿㊹)

 

 落合宿㊹ 高札場の跡                           落合宿㊹ 上町常夜灯

  

 

落合宿㊹ 脇本陣跡           落合宿㊹ 本陣 

                                            

歌川広重画 中山道Ⅱ 「木曽海道 六十九次 落合」 (落合宿㊹)

 

脇本陣跡を出て進むと、心臓破りと思われるような急な<与坂>を上る。

その先に日本橋より84里/ 約336㎞の<子野の一里塚跡>と、木曽御嶽講の開祖である<覚明神社>

へと続く。

 

 

落合宿㊹(おちあい)マンホール蓋          落合宿㊹ <与坂立場跡>   

 

 

<子野の一里塚跡>(日本橋より84里/336m) 

     

国道19号線をまたぎ旧中山道を進むと<尾州白木改番所跡>、<芭蕉句碑>、<高札場/常夜灯 >に

迎えられ中津川宿㊺に入っていく。

 

尾州白木改番所>とは、解説版を要約すると 「中山道には木曽から伐採した材木を監視する尾州尾張藩)の番所が設けられ、尾張藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、白木や「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」を始めとする木曽五木の出荷規制を行っていた。白木とは桧(ひのき)など木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用した。」とある。

 

  <芭蕉句碑>

   《 山路来て 何や羅遊かし 寿み連草 》  はせを

    ―やまじきて なにやらゆかし すみれそう―

 

  わたしも一句

   《木曽燕 雛落ち守る 三度笠》  實久

   ―きそつばめ ひなおちまもる さんどがさ―

 

  中津川宿㊺  尾州白木改番所跡                              中津川宿㊺   芭蕉句碑<山路来て>

 

 

◎<中津川宿㊺> 日本橋より徒歩総距離479㎞ 地点

 

中津川宿㊺は、江戸時代の風情を残している町並みをもち、総戸数228軒、旅籠29軒と、商業の街としても

栄えた大きな宿場であった。

資料館の裏にある脇本陣では、当時の風情を感じられる建物や家具類、庭を見ることができる。

では、宿場に入ってみよう。

 

歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・中津川」 (中津川宿㊺)

  

 

中津川宿㊺に入っていく                中津川宿㊺ 高札場

  

 

 中津川宿㊺  常夜灯と湧水がいい             中津川脇本陣跡を入ると体験資料館がある

 

 

中津川村  庄屋跡                         美濃傘と草鞋がいい

 

 

 

中津川宿㊺ 銘酒<恵那山>と街並み               <小手の木坂>を下って大井宿㊻に向かう

 

中津川宿の街並みを過ぎると、背後に馬籠峠と雄大な恵那山が広がり、

<中津川の一里塚跡>(江戸より85里/約340km・京へ50里/約200㎞)に出る。

これら一里塚に出会うたびに、すこしづつ江戸より離れる寂しさと、これまた少しづつ京に近づく安堵感が

かさなり、旅の比重が心の中で変化するのがよくわかるのである。

その心の微妙な動きの中で、いまのいまにいる自分を風景に埋没さす喜びが、何とも言えない安心感と

なって広がっていく。

旅の醍醐味は非日常的な時間に迷い込んでいる自分を見つめられることにあるのではないだろうか。

 

<小石塚の立場跡>のような人々を縛る立場(たてば・通達掲示板)が、村々の目立つところにあった

ことを思うと、政(まつりごと)にとって日本というちょうどいい広さの国を治めるのに適した機能を

果たしているんだという不思議な安心感と、為政者の人民を支配し、管理統制したいという恐怖への情熱を

感じとれて、旅を面白く演出してくれるのである。

 

 

 

中津川の一里塚跡(江戸より85里/ 340km)           小石塚の立場跡

        (京へ50里/約200㎞)

 

 ・・・などと大自然の中で考えているわれわれ弥次喜多を笑っているように、悠然とその優雅な姿を

横たえている恵那山が目の前に飛び込んできてわれわれが小さく見えてくる。

しかし、そのちっぽけな我々が巨大な山塊である恵那山を飲み込み、咀嚼できるモンスターでもある

ことに気づき、驚くのである。神は偉大なるバランスの世界をわれわれに提供したと考えていいのでは

ないだろうか。

目の前の恵那山、その姿は学生時代、同志社今出川校舎より眺めた比叡山にそっくりである親近感に、

心はすでに京に飛んでいることに気づかされた。

その麓に横たわるように大井宿㊻が静かにわれわれ弥次喜多を迎えてくれた。

 

                比叡山そっくりな、優雅な恵那山の雄姿

 

 

 ◎<大井宿㊻>   日本橋より徒歩総距離490㎞ 地点

 

大井宿㊻は、整然と道が直角に曲がる<桝形(ますがた)>を配した独特の町並みをもつ宿場で、

総戸数110軒、旅籠41軒、美濃16宿の中で最大であった。

また、<甚平坂>はじめ坂の多い宿場である。

 

歌川広重画 中山道 木曽海道六十九次・大井」(大井宿㊻)

 

 

 

大井宿㊻の街並み                         中山道<是より大井宿㊻>

 

<甚平坂>

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに

臨む木曽川の岸であり、あるとこらは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道は・・・

島崎藤村の<夜明け前>より)

 

中山道木曽路を過ぎて馬籠宿㊸から中津川宿㊺・大井宿㊻に来ると、小高い丘をいくつも横切って進む道

となり、起伏は多いが空が広く展望の良い道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。

そのため昔の旅人はこの道を<尾根の道・眺めよし>と言っている。

ところがこの甚平坂は、距離は短いが急な坂道で、長い間旅人には嫌われていたが、明治になって明治天皇

伊勢方面を視察のために中山道を通ることになり村民総出で坂の頂上を掘り下げ坂の傾斜をなだらかにした

というエピソードが残っているという。

 

 中山道 大井宿㊻ マンホール蓋                 「甚平坂」解説板

 

中山道といえば、<皇女和宮降嫁>でも有名である。

ここで和宮降嫁についてみておきたい。

 

<皇女和宮降嫁> (和宮ーかずのみや)

 和宮降嫁の中山道 25日に及ぶ皇女の長い旅。

今から150年前の幕末期、緊張した朝廷と幕府との融和を図るため、仁孝天皇の第八皇女であった和宮は、

十四代将軍家茂のの御台所となるため、中山道を江戸に向かった。

和宮の江戸下向の行列は1861年文久1年)10月20日京都御所を出発、皇女が武家へ嫁ぐために東国へ

下向することは前例のないことであり、約2800名という大行列であった。

大行列は中山道の23泊で、泊を重ねながら、大井宿㊻(恵那)近辺では、10月28日大湫宿

10月29日中津川宿で宿泊し、25日の日程で江戸へ至った。

中山道史上、類を見ない大規模な行列は壮観であったが、中山道の各宿場では、家屋の修築・新築、大量の

布団や食器の調達、人馬の手配などで大騒ぎとなったという。 (中山道岡瀬沢保存会)

 

<関戸一里塚跡>は、  江戸より89里・約356/京へ46里・約184㎞地点に立つ大井宿にある一里塚である。

関戸一里塚跡から<中央自動車道>をくぐると、寺坂に立ち並ぶ道祖伸たちに迎えられ、門前の300年の

老松がある<本陣跡>や、<高札場跡>、<脇本陣跡>へと導いてくれる。

 

 

中山道 <皇女和宮降嫁150年>               中山道<関戸一里塚跡>

                         (江戸より89里・約356/京へ46里・約184㎞地点

 

中山道 大井宿㊻ 寺坂の道祖伸たち       大井宿㊻本陣跡と<桝形>案内板

  

 

大井宿㊻ 本陣跡           大井宿㊻ <中山道ひし屋資料館> 庄屋跡での町屋体験

 

   

 

大井宿㊻ 戸長役場跡              大井村庄屋古屋家

 

 5月8日 午後3時58分、本日の予定である大井宿㊻までの行程を終えて、中津川落合㊺に引き返し、

予約を取っている「木曽路ふるさとユースホステル」にチェックインした。

 

  <▲21~22日目ユースホステルにて連泊 >

       「木曽路ふるさとユースホステル>    5月8~9日(2連泊)

        〒508-0006 岐阜県中津川市落合1921   TEL:0573-69-5128

 

明日、5月9日を休養日としているため、ユースホステルの快適なベットで二連泊、ゆっくり安眠をむさぼる

ことにした。

もちろん一泊2食付きである、われわれ弥次喜多にとっては贅沢な休養日である。

たまった洗濯物を処理し、十分な休養を取ってリフレッシュし、京都三条大橋に元気にたどり着きたい

ものである。

  

 

ユースホステル正面の恵那山            <木曽路ふるさとユースホステル>                      

 

 

 

■  22日目 休養日 中津川 「木曽路ふるさとユースホステル」にて   5月9日

 

 

   《 馬籠は深い眠りにあった。天気予報どおりか、雲に覆われた恵那山のシルエットが水墨画

    ように美しい。

    雨を警戒しての東屋での一夜、テントと違い開放感に心身とも軽やかだ。

    馬籠の急なる石畳をまだ覚めやらぬ旅籠一軒一軒の様を楽しみながらくだる。

    昼間の観光客による雑踏を考えると、お店の多いことも頷ける。

    栄昌寺にある藤村の墓に詣で、一路落合宿へくだる。

    有名な古刹と呼べる苔むした石畳を十曲峠からおりる。深い木立ちに囲まれ、今にも修験者が

    現れそうな禅なる世界が展開する。

    以前、吉野から熊野まで五泊六日の奥駆けをただ一人で野宿(ビバーク)しながらの縦走をした

    ことがある。

    あのときに経験した精神的集中、宇宙の原点に引き込まれる際の頭脳の痺れをここでも体験させ

    てもらえた。

     喜多さんこと祥介氏曰く、

    「隊長、ここはまさに『てくてくラリー』の真髄、人生の十曲(じゅうまがり)を学ばせて

    いただくところですな」と。

    仏法的表現だと「無常甚深微妙法」と言ったところか。

    聖書的には「死んでも生きる」と言えようか。

    弥次喜多にとっては一種の宗教的な覚醒を覚えたところとなった。

 

    さて、落合宿㊹を経て中津川宿㊺、大井宿㊻へと一気に歩いた。昼から気温はうなぎのぼり、

    最高で体感28度に達したか。

    どうも紫外線の取りすぎか疲労度がまし、日射病の症状が出はじめた。

    「これはいかん」休養日を取らなくちゃと、中津川にある『木曽路ふるさとユースホステル』に

    午後5時半に投宿。

    とにかくベッドに潜り込み睡眠を貪った。

    みなさんからご心配いただき申し訳なしだ。夜中元気を取り戻し発信中だ。

    今日5月9日月曜日は、休養日とし疲れをとってしまいたい。

    ワイルドローバー号の頑張りには頭が下がる。

    この起伏にとんだ山岳地帯をただ黙々と私たちの荷物を運んでくれている。

    毎朝夕、出立時と到着時には感謝の熱い口づけをもって労をねぎらっている。

    現在のところ持参している予備のタイヤの世話になっていない。

    靴君夫妻も見事な協力ぶりだ。

    モンベルのマウンテンランナーという最高のシューズを履かせていただいている。

    もうそろそろ携行予備二世夫妻にバトンタッチかな。

    登山中の足の豆は長年の親しい友だが、今回の長距離徒歩ではいまだ一つの豆友さえ

    作ってはくれないでいる。

    その理由はモンベルの哲学にあると思う。

    それは『使用者のハッピーはわれわれのハッピーだ』と。

    豆友ができない工夫は、インソール(中敷)がメッシュになっていてザラザラしており、

    摩擦面を極限にまで少なく押さえていることと、ざらつきにより足の裏を鍛えるところにある。

    当初の感触に対する違和感も理由が解ればなるほどと感心することしきりである。

    さてわが肉体の一部である足の裏さん、これこそ縁の下の力持ち。

    わたしの歩く原動力はここにあるという信念で誰よりもよく語りかけ、学ばせていただいている。

    足様はただ黙々と歩いているんではないのだ。

    わたしの一歩でさえ彼等はいろいろ考え、分析し、この一歩はいかなる意味を持つのか、

    そのために自分達はいかなる行動をとればいいのか、最善の努力をして次の一歩につないでいく。

    まるでわが人生の歩みの姿勢そのものを教えてくれているではないか。

    有り難いことだ。

    風呂で足の裏を丁寧に愛情をこめて洗わせていただいた。

    感謝、 これこそ<ナマステ>だ。

   《わたしのすべての愛をあなたに捧げます. そして, わたしの命をあなたに捧げます》

    という意味をもつ。

    5月9日は休養日とする。のんびりと過ごしたい。

    今週後半の天気は荒れ模様になりそうだ。

    5月10日の予定としては大井宿㊻から細久手宿㊽まで行きたい。

    中津川にある木曽路ふるさとユースホステルにて。

    これから朝食である・・・

    弥次喜多・後藤實久&田中祥介 》

 

  

 

木曽路ふるさとユースホステル>              中津川宿㊺ 街道での道祖伸との霊交

 

 

 <恵那山麓にてつれづれに  ー  『夜明け前のボーイスカウト移民』>

 

   《 夜明け前のここ中津川の郷は、三日月が風に揺れて泣き笑いしている。

    この木曽谷に出る月に問いかけて島崎藤村『夜明け前』を書いたのだろう。

    思うにわたしも藤村の影響を受けた一人かも知れぬ。

    藤村は木曽路と言う狭い土地柄(世界)を描写しつつ自由、解放を叫んでいた。

    わたしも青年のころ日本という狭い世界から海外へと旅立つことを夢を見ていた。

    同志社ローバーの(スカウト)ユニフォームを着て神戸港より最後の移民船ブラジル丸で

    家族やスカウト関係者に見送られ出港したのが若き22才の時だったことを、

    藤村の生誕地、馬籠で懐かしく思い出していた。

 

    スカウト移民としてブラジル・サンパウロにあったカラコルム隊に派遣され、

    バウー研修所に入所した。

    当時、敗戦後の日本には多くの戦争孤児が青年に達し、大学や地域のローバースカウト(青年隊員)

    に参加していた。

    青年のエネルギー(情熱と夢)を大陸で花開かす計画を立てていた日本連盟の当時の三島通陽総長、

    久留島秀三郎理事長、小林運美事務局長はブラジルのサンパウロにある日伯援護協会会長細江静男

    ドクター、小幡事務局長(当時・カラコルム隊隊長)の間にローバー交流協定を結んだ。

    わたしはその最後の派遣ローバーである。

    この間約40名近くののローバーが渡伯、原始林開拓、農業や牧場、果樹園に従事していた。

    私に与えられたプロジェクトは、メインの養鱒(ブラジルで初めて)技術の指導普及、

    世界連盟研修用野営サイトの建設(キャンプサイト、教会、水洗トイレ、本部棟の建設協力)で

    あった。

    建設地は、サンパウロ市とリオデジャネイロの中間にある避暑地カンポス ド ジョルドン(標高約

    1600M)で軽井沢のような地にあった。

    生活はカーボーイとしての乗馬訓練、射撃訓練、果樹園の手入れ、乳搾り(チーズ作り)など

    楽しい時間を過ごした。

    夜はランプ生活、ドラム缶風呂からみる南十字星の幻想的な美しさかが忘れられない。

    牛泥棒との対決、馬に跨がり買物のため麓に下山、帰りが真夜中になり馬上で居眠りしていると

    わたしを枝に宙吊りにして馬はさっさと行ってしまった時の慌てよう。

    馬は実に賢い、一度通った道は暗闇でもわかるらしい。

 

    危険なこともあったスタッフの一人からピストルの使い方を教わっていたとき、弾丸は抜いていた

    はずだが、冗談にもわたしの顔を狙って引き金を引いたんだからたまったもんじゃない。

    銃口に左手をあてていたので弾丸は螺旋状に急速回転しながら掌を貫きわたしの顔をそれ、

    後ろの壁にめり込んだ。弾丸が一発残っていたのだ。

    人はいつも死と隣り合わせだ。今を生きられている摩訶不思議、それはそれぞれに与えられた

    運命かもしれない。

    そして、そこに自分を主人公とした自分だけのドラマ、人生物語が 星の数だけ生まれている

    のだろう。

    そうそう鱒の話だが、当時南米ではアルゼンチンだけに生息していた鱒の稚魚を取り寄せ失敗を

    繰り返していたが、現在レストランに卸せるほどの養鱒場に成功していると聞く。

    ちなみにわたしに養鱒の技術を教えていただいたのは、左京区花園橋から入った八瀬にある

    <鱒の坊>の先代である。

 

    ブラジル同志社クラブについても記しておこう。

    移民としての同志社人もかなりおられたようだ。初代会長はブラジル大使だった古谷重綱老で、

    わたしがお会いしたときは、すでに百才にお近かったと思う。ご夫人もご健在であった。

    重鎮としては、清水尚久先輩(同志社中学より大学へ、ラクビー部所属、愛媛県出身)、

    大橋先輩、若い世代としては今西氏(石川島播磨重工、父上が同志社大学社会学部教授)、

    寺坂氏(ブラジルクボタ鉄工、二人共同志社中学より大学へ、乗馬部所属)、

    北村氏(マットグロッソカンピーナスで寝具衣料経営、同志社経済卒)、

    それに若輩後藤(バウー研修所員、早川電機工業ー現シャープ、岩倉高校同志社経済)が

    加わった。いまから約四十五年前の話だ。

 

    時間があるのでついつい備忘録作りとあいなった。

    わたしもようやく老境にさしかかっているのだろう。

    今日は昨日と同じく二十五度の真夏日になりそうだ。

    ここ中津川にあるユースホステルで疲れをとるため連泊している。

    明日5月10日からは三日続けて雨らしい。

    恵那山の麓に広がる棚田に山水がひかれ蛙の大合唱だ。

    後藤記 》 

 

           

                  CAMPO de ADESTRAMENTO

                  GRUPO ESCOTEIRO CARAMURU

                  ボーイスカウト・ブラジル

             サンパウロ・カラムル隊 トレイニングキャンプ場

 

 

《関連ブログ : 2022『星の巡礼 スカウト移民小史 序章 』》

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2022/09/11/1129442022

 

 

 

星の巡礼 スカウト移民小史 序章』 <Scout Immigrant History> <Imigração Escoteira> 《ボーイスカウト移民小史 序章》 後藤實久 1957年わたしが高校、シニアスカウト時代、当時の関東にある大学ローバースカウトの中から、理想郷を目指してブラジルのバウー訓練所へ移住するローバー(青年)スカウト達</imigração></scout>…

 

 

   <Fw: Kです

   《お元気ですか?安中での夢のような日々のあと慌ただしく日が過ぎています。

    あの日教会で「強く願うこと、そして種をまくこと」を後藤先輩から示していただきました。

    イエスキリストも、新島襄もそのようになされたから今も多くの芽生えを生んでいるんですね。

    今回の安中をやりとげる原動力は、祥介のローバース復活へ見せてくれた頑張りに僕なりに応え

    たいという気持ちがあったからです。

    そして後藤先輩の並外れたファイトも僕を後押ししてくださいました。 

    二人のファイターに神の祝福を!中山道後半の旅のご無事を祈っています。  Kより》

 

  

  <安中教会 真下様より陣中見舞>

   《後藤實久様

    本日の休養は十分に取れたでしょうか。

    高速道を走ればあっという間に通り過ぎてしまう、鄙びた宿場町、

    ワイルド・ローバー号、靴、足の裏、沢山の感謝する対象に囲まれての旅、いいですね。

    私の方は、寒風に吹かれながら剪定作業等の面倒を見てきた梅の木が、いよいよ収穫の時期

    を迎え、そして僅かな畑ではありますが、雑草退治に追われる日々となります。

    遥か遠くに後藤さんのお姿を眩しく想像しながら。

    真下より》

 

       

                   <無の風と遊びて

                  詩 後藤實久

 

               陽光全身を包み空の彼方へ我を誘う、

                草息 我に風の衣を着せて喜ぶ、

                時 われを誘い、時 われと戯る、

 

              時の流れに身を沈め、時の中で躍るなり、

              われ天地にありて、ひとの生き様を識り、

            命を芽吹き命を捨つるに、ひとの尊さを観るなり、

 

                  けふも無の風に遊びたい

  

  

 

ここ中津川はすでに美濃の国である。

湿った海の風が南の方から上がってくるのであろうか、蒸し暑さが加わる。

昨日は献花式以来の休養日。

近くの棚田にでかけ、綺麗に刈り取られた畦みちに半裸の体を横たえ、

棚田に流れ込む谷間の水の忙しげな流音を楽しむ。

 

 

 

 

■23日目 中山道    <中津川宿㊺⇒大井宿㊻⇒大湫宿㊼⇒細久手宿㊽ >

               30.0km/10h  5月10日

  

中津川落合にある<木曽路ふるさとユースホステル>で連泊、

十分な休養を取ったのであろうか足取りも軽やかである。 

すでに5月8日に大井宿㊻の散策を終えているので、直接<大湫宿㊼>(おおくてしゅく)に向かった。

とにかく大井宿から権現山をへて大湫宿㊼に行くのであるが、数えきれないほどの坂が続く難所である。

中山道はよく整備されており、雨ふりの坂は枯山水の雰囲気を醸し出していた。

 

 

大井宿㊻を駆け抜け、西行硯池の先にある国道19号線と合流したあと旧中山道に入り、<西行硯池>に立寄り再度<中央自動車道>をくぐる。

そのさきにある<西行坂>を上っていくと<槙ケ根の一里塚>(江戸より88里・約352km/京へ47里・約188㎞)地点に達する。

 

 

 槙ケ根の一里塚(江戸より88里/ 約352km)

                               (京へ47里・約188㎞)

 

             (西行塚) 

     《道の辺に 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ たちどまれつれ》  西行

  

 

大井宿㊻ 西行塚                十三峠入口

 

その後、<首無し地蔵跡の碑>を後にし、乱橋を渡り標高600mにある<十三峠>を越え、

<平六坂>を下ると<紅坂の一里塚跡の碑>(江戸より89里・約356㎞/京へ46里・約184㎞)を通過する。

さらに難所である<乱れ坂>から<三城峠>を越え、権現山の麓を巻くと<樫の木坂の石畳み>にある

次なる一里塚<権現山の一里塚跡>(江戸より89里・約356㎞/京へ46里・約184lm)にたどり着く。

  

    大井宿㊻  <首無し地蔵跡の碑>          中山道 大井宿㊻ <乱れ坂>

 

 

大井宿㊻<平六坂 >

                              

 

<紅坂の一里塚跡>の碑              大井宿㊻ 藤村高札場

(江戸より89里・約356㎞/京へ46里・約184㎞)

 

 

大井宿㊻  雨のなか難所の<三城峠>を行く              大井宿㊻ 最難所の<大久後観音坂>へ入っていく

  

 

権現山麓の棚田                  十三峠にある尻冷やし地蔵尊

 

<十三峠>

十三峠は、上り下りとも坂また坂の連続である。自転車を押し上げるのに一苦労、降りるときもブレーキをかけながら押して降りるのである。下り坂であるからと思うのだが、転がりゆく自転車を押しとどめるのに大変、肩こりに悩む。

石畳みや砂利道では雨に濡れスリップ、中山道で最も難儀する峠であるということは確かである。

 

   《菖蒲咲き 乱るる峠 雨煙り》   實久

 

 

 十三峠を下っていくと<大湫宿㊼>に入っていく   中山道大湫宿>㊼入口に立つ宿場道標

   

十三峠の地蔵坂より<大湫宿㊼>の町並みを一望

 

 

大湫宿㊼> (おおくてしゅく)   日本橋から徒歩総距離540㎞ 

 

さらにその先の<地蔵坂>を下っていくと、前方に大湫(おおくて)の街並みが一望できる。

5月10日、昼12時50分、大雨のなか<大湫宿㊼>(おおくてしゅく)に到着した。

 

大湫宿㊼は、海抜510m の高地にあり、美濃16宿の中で最も標高があり、

それだけ急坂がつづき難所である。

大湫宿㊼は小さいが、東に十三峠、西に琵琶峠というそれぞれの難所をひかえ、一息つける宿場で

あったようだ。

実際に歩いてみると、どちらの峠もたくさんの坂があり、その数に驚かされる。

ここ大湫宿㊼は、尾張藩領に属し、総戸数66軒、旅籠30軒の山間にある宿場であった。

 

ちなみに<十三峠>前後の峠を数えてみた。

大井宿㊻を出て、大湫宿㊼までの間に、なんと峠が約22ヶ所も連なっていたから驚きである。

《大井宿㊻をでて➡ 乱れ坂⇒ お継原宿⇒ かくれ神坂⇒ 平六坂⇒ みつじ坂⇒ 西坂⇒ 黒宿毛坂⇒ 紅坂 

 ⇒ 念仏坂⇒ くろすくも坂⇒ 西坂⇒ 三城峠/十三峠⇒ 茶屋坂⇒ 地蔵坂⇒ しゃれこ坂/八町坂 

 ⇒  山之神坂⇒ びあいと坂⇒ 巡礼水の坂⇒  樫の木坂⇒   吾郎坂 ⇒寺坂  ⇒童子ケ根坂 ➡

 大湫宿㊼に入っていく》

 

         

                      山之神坂

  

何と多いことか、これでも精一杯の観察、記録であって、まだ沢山の坂を見落としていると思われる。

走り書きのメモなので順番もこれで正しいかどうかもあやしい。

そのうちこの坂の多いルートは、ツール・ド・フランスのようなヒルクライムの聖地になるような気が

してならない。

 

次なる峠<琵琶峠>前後の峠は、大雨(警報発令中)のためカメラもメモもとれず、記録を断念した。

 

 

大湫宿㊼ 本陣跡                 大湫宿㊼ 脇本陣

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道六拾九次之内 大久手』(大湫宿㊼)

 

大湫宿㊼本陣跡を後にして、神名神社の樹齢1300年の大杉を見ながら進むと、巨大な二つ岩<母衣岩(ほろいわ・陰石)と烏帽子岩>が目を引く。その先、琵琶峠への石畳みがはじまるあたりに<皇女和宮御歌の石碑>が建つ。その少し先に、<八瀬沢の一里塚跡>(江戸より91里/   364km)がある。

 

      <皇女和宮御歌の石碑>

        《遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける》  皇女和宮

        《思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは》  皇女和宮

 

 

 

皇女和宮御歌の碑          八瀬沢(琵琶峠)の一里塚跡(江戸より91里/   364km)

                                                                                                                 (京へ44里/ 176km)                        

中山道<琵琶峠>(大湫宿㊼~細久手宿㊽間の峠) 

 

ここ琵琶峠で、大雨警報が発令されたことをラジオで知り、大湫宿への中山道行脚を中断し、緊急避難することにした。

 

 

<▲23日目の仮の露営地―天神バス停>  琵琶峠(標高540m)

 

琵琶峠(標高540m)への中山道は、大雨で滑りやすく危険であり、残念ながら前進を断念することにした。

午後4時30分、とりあえず飛び込んだ<天神バス停>が、今夜の仮の露営地になってしまった。

大雨でずぶ濡れの服を着替え、バス停軒下に吊るすが、緊急避難ということでバス停占拠を許されたい。

 

雨やどり<天神バス停>仮の宿

 

 <ラジオ・FM GIFU> は、 <只今 大雨警報発令中 山間部での土砂崩れに注意>

と注意喚起を流している。

屋根だけあるバス停は雨風の吹き曝しである。テントを体に巻き付けて夜を明かすこととなった。

 

 

   《休養日を木曽路ふるさとユースホステルで取った。

    今日5月10日、午後から雨の予報、雨の降る前に出きるだけ距離を稼ぎたいので朝5時に

    出発した。

    すでに霧雨が降り出しており、祥介君にも雨天決行を覚悟してもらう。

     大井宿㊻から細久手宿㊽までの行程には約13の峠と隠れ峠が7つ連なり、その最高峰が

    有名な琵琶峠540Mである。

    本部の調査報告でも、難易度4と報告されている。

    まず喜多さんの祥介君に後ろから押してもらい登坂を開始したが6番目の登りで息がきれた。

    雨に濡れた携行品が重すぎて、砂利や岩石、石畳や山道の土砂流出防止用の横渡しの丸太に

    ワイドローバー号が横滑りするのだ。

    山中にいるので突破しないかぎり目標の宿場に着けない。

    雨が激しさを増し、雨具を透して体のなかを流れる。

    記録や写真どころではない。

    記録ノートの一部が雨に濡れボロボロだ。

    覚悟はして準備は万端だったが、津波原発に対して最近日本人がよく使いだした想定外という

    ことか。でも異常な豪雨だ。この状態があと三日続くという。

    午後4時30分、細久手宿入口の『天神』というバス停に豪雨を避け飛び込む。

    瓦ぶきの二畳ほどのスペースだ。ただ東屋風なので霧状の細かい雨が前後左右から襲いかかっくる。

    まずロープを張り、着ていたすべての衣類を新しいものに着替え、濡れたものを絞って干す。

    たぶん乾きはしないだろう。

    あとは風邪をひかないようにあるだけのものを重ね着して体を温める。

    すでに周囲は暗くなりつつある。

    寝る準備を急ぐ。

    夕食はバナナ一本、チョコレート、カステラ二切れ、ビスケット一箱、水一本を祥介と二等分する。

    こんな被災地生活というか山の生活のためか祥介君の体重が60キロ切ったとか。

    雨足がますます激しくなってきた。着ているものも湿ってきた。

    今晩は早く寝袋に潜り込むことになりそうだ。

    何かボーイ時代の布天幕を思い出す。当時のテントは雨に弱かった。フライをしなかったら

    テントの中に霧雨が舞ったものだ。雨漏り、浸水と大変だったことを思い出す。

 

    今日は大湫(おおくて)宿㊼本陣跡の小学校校庭にある皇女和宮の歌碑に出会った。

    彼女は天皇家より将軍家へここ中山道をたどり嫁入りした時に、その心境を詠っている。

       《 遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける 》

       《 思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは 》

 

    今日は雨のなか、てくてく17Km、9時間の行程だった。

    明日11日のスケジュールは雨模様だが細久手宿㊽、御岳宿㊾を経て伏見宿㊿まで行きたい。

    おやすみ。  弥次喜多 ・後藤實久&田中祥介 》

 

 

←至・細久手宿㊽        <中山道 美濃 大井宿㊻ 案内図>       至・中津川宿㊺→

          

←至・大湫宿㊼(おおくてしゅく)   <中山道 深萱街道筋案内図>         至・大井宿㊻→

 

←至・御嶽宿㊾        <中仙道 細久手宿㊽と大湫宿㊼ 案内図>       至・大井宿㊻→

 

←至・伏見宿㊿                   <中山道 御嶽宿㊾家並み図>         至・細久手宿㊽→

 

 

 

 

■ 24日目  中仙道 <細久手宿㊽ ⇒御嶽宿㊾ ⇒伏見宿㊿ >  

              20km/9h     5月11日

 

 

23日目の仮の宿であった琵琶峠の<天神辻の地蔵尊>横のバス停<天神>を、いまだ雨降る早朝5時45分に

出発、<焼坂の馬頭様>にご挨拶をし、細久手宿㊽に向かった。

昨日から続いている雨は,今朝も飽きることなく降り続き、琵琶峠より下る坂は雨雲にすっぽり覆われ、

いまなお暗い帳に閉ざされている。

<一つ尾辻の地蔵尊>、<弁財天の池>の横を下り、江戸から92里(約368km)の<奥之田の一里

塚>に達する。

雨に濡れた雑木林の中を行く旧中山道は、そこを行きかう古の旅人の息遣いが聞こえてくるようである。

 

 

 

 天神辻の地蔵尊横のバス停「天神」を出発     <奥之田の一里塚>(江戸から92里/368km)

                             (京へ43里/172㎞)                           

  

 細久手宿㊽入口            陣跡であり、現在も営業を継続している<大黒屋>

 

本陣跡であり、現在も営業を継続している<大黒屋>に迎えられ、いつの間にか、細久手の宿場に

入ったようである。

 

 

◎<細久手宿㊽> 日本橋より徒歩総距離 544km 

 

 

細久手宿㊽は、すでに立ち寄った東隣りの大湫宿㊼(おおくてしゅく)と、これから訪れる西隣りの御嶽宿

㊾(みたけしゅく)の両宿間は18km(4里半)と長く、両宿の人馬や旅人が難渋したため、慶長11

(1606)年に<間の宿>としての性格を持った宿場として設けられた。

細久手宿㊽は尾張藩領で、総戸数65軒、旅籠24軒、日本橋から中山道48番目の山間の宿場であった。

 

脇本陣跡>を過ぎ、<津島神社>前を進むと、<秋葉坂三尊>に迎えられ、秋葉坂ハイキング

コースに入っていく。

坂の途中に<鴨之巣の一里塚跡>があり、江戸より93里(約372km)の地点を通過して、急な坂を

下り、<渚之木坂>上ったりして、馬の水飲み場のあった<物見峠>に達する。

 

<鴨之巣の一里塚跡>(江戸より93里/372km)

                                      (京へ42里/168km) 

 

 

物見峠に向かう                              謡坂(うたうざか)を下ってくる

          

謡坂(うたうざか)から続く、旧中山道 <牛の鼻欠け坂>を下ると国道21号線に合流する。 

国道19号線から入った旧中山道(県道65)、ようやく過酷な山道から脱出できそうであるが、

国道21号線では止むことなく降り続く激しい雨が弥次喜多を襲ってきた。

 

       

         国道21号線に出て安堵、だが大雨

 

峠からつづく<謡坂>(うとうざか)には、旅人の喉を潤したであろう<一飲の清水>や、付近の隠れキリシタンが拝んだであろう<マリア観音>が祀られた寺があったりと、<謡坂の石畳>の歴史の声に聞き耳を立てながら、急な下りを<牛の鼻欠け坂>めかけて駆け下りていくと、国道21号線との合流地点にある、この地で病死した<和泉式部の墓>に出る。

 

平安時代に生まれ、恋多き女性として知られる和泉式部の句といわれる辞世の句を紹介しておこう。

 

   《あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな》 和泉式部
        ー私はまもなくこの世から去ってゆきます。この世の思い出として、

              もう一度だけぜひあなたにお逢いしとうございますー

 

この国道21号線は、都(京のみやこ)の優雅できらびやかな匂いを直接運んでくれる大動脈である。

大雨のなか、式部の情熱でカッパの中を蒸らしながら、懐かしき京の都を思い描いた。

 

国道21号線は、米原国道8号線につながり、草津宿(68)で国道1号線である東海道と合流して、

中山道最終地点である京都の三条大橋に続くのである。

ようやく京都三条大橋が我々の想定内の範囲に入ったのであるから弥次喜多としては、

嬉しさを隠しきれずにいる。

ここ国道21号線と旧中山道の合流点は、われわれを中山道踏破成功の入り口に立たせてくれたのである。

さあ、京都三条大橋へと急ごう。

 

歌川広重画 中山道「木曽街道六十九次・細久手」(細久手㊽)

 

和泉式部の墓

  

 

御岳宿㊾ <中山道みたけ館 >                      御岳宿㊾ 名鉄広見線御嵩駅>

 

国道との合流するところにあるコンビニ<サークルK>に飛び込んで、冷えた体に熱いコーヒーを

流し込んだ。

いまだ大雨は、中山道に降り注いでいる。 

西にそびえるはずの<御嶽富士>」はその姿を雨雲に隠してしまっているではないか。

この先で国道と別れ左に入っていくと、<御嶽宿㊾>である。

 

 

御嶽宿㊾>       日本橋から徒歩総距離 590㎞ (立寄り地含む)

 

御嶽宿㊾は、願興寺の門前町として発達した総戸数66軒、旅籠28軒という、江戸から49番目

の宿場であった。

 

 歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・御嶽」(御嶽宿㊾)

 

広重の<木曽街道浮世絵・御嶽>に彫られているこの時代の <きちん宿>は、薪代のみを

支払い、食事は自炊する簡易な宿泊施設であったという。

炊事用の鍋を囲炉裏にかけ、旅の疲れを癒しながら旅での出来事や、情報を交えながら談笑

する旅人たちの話し声が聞こえてきそうである。

この浮世絵のなかに描かれている<きちん宿>は、先に通ってきた<謡坂>(うとうざか)

辺りではないかと推測されている。

 <道の駅 三岳>での昼食、水補給の後、ご無沙汰している温泉につかるため鬼岩温泉に立寄る。

 

<鬼岩温泉 湯元館 日帰り湯>  920円 天然希少ラジウム温泉

 岐阜県瑞浪市日吉町9499-13   0120-515137

 

御嵩宿㊾を貫く国道21号線を東へ6㎞ほどのところに<鬼岩温泉 湯元館 日帰り湯>がある。

われわれ弥次喜多は、冷えた体を温め、疲れと垢を落とすため温泉につかることにした。

 

 そのあと、御嶽宿㊾の門前町としての街づくりの中心であった<願興寺>に寄ったあと、再度国道21

号線に出て、<鬼の首塚>と、<比衣の一里塚跡>(江戸から96里・約384㎞/京へ39里・約156㎞) 

を経て、<伏見宿>㊿に入っていく。

 

  

鬼の首塚                                     比衣の一里塚跡(江戸から96里/384km)

                                                                                                                                   (京へ39里/156km )

 

 

 <▲24日目の露営地   伏見宿㊿  大雨のため一本松公園の東屋の軒下でテント泊> 5月11日夜

 

昨日につづいて大雨。

冷え切った体を鬼岩温泉の湯元館で温めたおかげで、今夜の露営地である伏見宿の一本松公園に張った

テントの中が心地よく感じられる。

昨晩の風雨との戦いで疲れた体は、よく眠ってくれそうだ。

今回の<中山道てくてくラリー>で、われわれは弥次喜多というペアーを組み中山道走破に挑んでいる

のであるが、ここ伏見宿㊿で十返舎一九原作の『木曽街道続膝栗毛』の主人公である本物の弥次喜多

出会ったのだから愉快である。

本物の弥次喜多が、ここ伏見宿でどんな過ごし方をして楽しんだのか、紹介したい。

 

     

    大雨のため、伏見宿㊿にある一本松公園の東屋の軒下で露営

      

 

   《この度の『中山道てくてくラリー』では田中祥介氏と後藤が弥次喜多を演じているが、

    作者十返舎一九は原作の『木曽街道続膝栗毛』では、弥次さん喜多さんがここ伏見宿に泊まる

    設定になっている。

               話の中では、加納宿を出た二人は旅籠の女将から伏見宿の山本屋主人宛てに

    預かったラブレターを意地悪く主人ではなく女将さんに渡した。

    すると読んだ女将が主人と喧嘩をはじめ、主人の額にできたタンコブを食いちぎってしまった。

    近所の人も集まり、どんどん騒ぎが大きくなると、身重だった女将が産気付き『オギャー』と

    赤子が生まれ、医者の雲竹が食いちぎられたタンコブも上手く縫い合わせ、一件落着。

    この様子を弥次さん喜多さんは大笑いして見ていたそうな。

 

    こんな話をしながら雨のなかを現代の弥次喜多は泣き笑いしながら中山道細久手宿を今朝

    5時45分にスタート、峠越えをして御嵩宿㊿へ、予定の伏見宿(51)には午後4時半に到着した。

               現在の伏見宿を通る中山道は、国道21号線となり、なにを急いでいるのか車が激しく行き交う。

    われわれ弥次喜多は取り残こされた人種かもしれぬ、いや邪魔者かも。

    今の人々はノンビリしていると夢や希望を逃してしまうと急いでいるのだろうか。

    と寝る前にふと考えてしまった。

    今日も中山道は雨だった。

    距離は20キロ、9時間の雨の中の行程だった。

    明日(5月12日)はできれば伏見宿㊿、太田宿(51)を経て鵜沼宿(52)まで20キロを歩きたい。

              明日も雨のようだ。

              おやすみ。弥次喜多こと祥介&實久 》

 

 

日本のながい歴史にも、幾多の悲しい出来事があったことは確かである。

しかし、日本人の特性として平和を愛し、安定を切望する一貫した希求は、一般市民の真心と笑いのなかに

生き続けていることも確かである。

このような素晴らしい人間性を育んできた英知を捨て去ることなく、われわれ一人一人の日常の生活に

取り入れ、大切に残していきたいものである。

 先に出会った和泉式部(いずみのしきぶ)の情熱的な和歌や、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛』で

繰り広げる弥次喜多の笑いのなかに平和を愛する日本人の姿を垣間見ることができる。

 

 

 十返舎一九作『木曽街道続膝栗毛』            『木曽街道続膝栗毛』 の主人公弥次喜多さんと

                   (京都三条大橋西端南側 2016/5/23東海道53次出発時)              

 

 

 

■25日目 <伏見宿㊿ ⇒大田宿51 ⇒鵜沼宿52 ⇒加納宿53> 

                            25.0km/10.5H  5月12日

 

 

伏見宿㊿> 日本橋より徒歩総距離 590km 

 

伏見宿㊿にある一本松公園の大きな東屋の土間で雨の一夜を過ごし、ここ伏見宿での十返舎一九

『木曽街道続膝栗毛』 の主人公弥次さん喜多さんと、時空を超えた空想上の出会いをはたし、

ふと京都三条大橋西端南側に、これから旅立とうとする弥次さん喜多さん銅像が建っているのを

思い出しながら、眠りに落ちた。

 

 

朝、テントから顔を出してみると、3日間降り続いていた雨は小休止なのか、雨だれの音も消え、

さわやかに出発の準備を終えた。

5月12日6時、ここ伏見宿㊿より今夜の露営地・加納宿(53)に向かって10時間半、25kmの行程を

歩き出した。

北アルプスを愛するものとして忘れられない修行僧 播隆上人の名号碑であえる『南無阿弥陀佛』と

刻まれた石碑が、ここ伏見宿の西に建っている。

槍ヶ岳登山のたびに、山岳信仰を実践した播隆上人が厳しい修行をした岩窟の前を通ったものである。

そのたびに槍ヶ岳を開山した上人に頭をたれ感謝の気持ちを伝えるのが常である。

 

伏見宿㊿は、総戸数82軒、旅籠29軒、 江戸から中山道50番目の宿場であった。

伏見宿に集められた年貢米や茶、生糸、瀬戸物、煙草が桑名や名古屋、四日市へ舟で運ばれた物資の

集散地であった。

名鉄八百津線の陸橋を渡ったところの伏見公民館の前の植え込みの中に丸石に刻まれた<本陣跡>の碑

が建つ。

さらに伏見宿の町屋をみながら進むと、JR太多線を越えて<大田宿51>に入っていく

 

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道六拾九次之内 伏見』(伏見宿㊿)

 

播隆上人の足跡をたたえた紹介板

  

 

  伏見宿㊿ 本陣之跡           伏見宿㊿の町屋

 

       

     《すげ笠の 生国名のれ ほととぎす》  子規

 

 

        

                    子規句碑<すげ笠の>
 

木曽川日本ライン)にかかる<太田橋>手前の今渡という町で、この中山道てくてくラリーでの

最初のパンクに見舞われた。

パンク修理には自信があったが、どうしても空気が抜けるので、大田宿<中山道会館>の右側にある

「三品サイクル店」(みしなサイクル:美濃加茂市太田本町4-4-33 : 0574-25-2028)のご主人、

プロにお願いして修理をしていただいた。

<東北がんばれ>のバナーに賛同され、修理代を寄付するとのこと。

お言葉と、お心に感謝し、募金箱に入れさせていただいた。 

まだ、小雨がぱらついている。

                

 

中仙道てくてくラリー初のパンク修理に失敗           「三品サイクル店」のご主人

 

これより、木曽川今渡の渡し場跡>近くにある、太田橋を渡り、太田宿(51)に向かうことになる。

 

 

<大田宿51>   日本橋より総徒歩距離595km 地点   

 

今渡神社を過ぎ、龍洞寺、浅間神社の先にある木曽川の太田橋を渡ると、中山道の難所といわれた

木曽川の渡し跡>がある。

難所といわれるゆえんは、橋の手前にある石碑<今渡の渡し場跡>に次のように書かれている。

「木曽のかけはし、太田のわたし、碓氷峠がなくば良いとうたわれた、中山道三大難所の一つ」と

言われていると。

  

 中山道 大田の渡し<木曽川今渡の渡し場跡>の石碑   木曽川の太田橋を渡り大田宿(51)に入っていく 

                            

 中山道大田宿(51)入口         古井の一里塚 (江戸より94里/ 376km)

                     (京へ41里/164km)

 

木曽川太田の渡し跡>の先に、江戸より94里の<古井の一里塚>がある。

 <古井の一里塚>をあとに、日本ラインを左手に見ながら西へ歩みを進めると江戸より51番目の

<大田宿>に入っていく。

伏見宿で出会った<播隆上人の名号碑>、その播隆上人の墓であろうか祐泉寺横の<太田稲荷>境内

にある。

また、祐泉寺の境内には、尊敬する芭蕉の句碑も建つ。

 

     《春なれや 名もなき山の 朝がすみ》  芭蕉

 

祐泉寺の先に<旧太田脇本陣林家住宅>があり、公開されている。その先、右手に<福田家本陣跡>に

門のみが建つ。

大田宿は、総戸数118軒、旅籠20軒であり、中山道三大難所の一つ<太田の渡し場>があった宿場で

あった。

広重の浮世絵も、<太田の渡し場>の風景を描いている。木曽川を行き交う小舟が忙しそうに旅人

を渡している。

 

 

播隆上人の墓がある祐泉寺                          播隆上人の墓

 

芭蕉句碑「春なれや」 

 

広重の浮世絵は、<太田の渡し場>の風景を描き、木曽川を行き交う小舟が忙しそうに旅人を渡している。

そして、美濃笠をかぶる旅人が遥かなる犬山城方面を眺め、腰を落として渡船前の談笑を楽しんでいる。

この長閑な浮世絵の中に、平和を愛するこの国の小市民的な姿が見て取れて、ほっとさせられるのである。

 

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道六拾九次之内 太田』 (太田宿51)

 

 

 

大田宿51 脇本陣林家住宅            大田宿51  本陣の門                        

 

大田宿(51)の旅籠や商家の街並みを楽しみながら国道21号線に並行する旧中山道(県道207)は、

国道41号線をまたぐ。すると、すぐ西角に本田小学校が建ち、ここに<太田代官所跡>があった。

ここから見る木曽川の川幅は広がり、夏には日本ライン下りの舟を見ることができるという。

 

しばらく歩くと国道21と合流して、木曽川を見下ろしながら国道歩きとなる。

連日の雨で木曽川の水かさが増し、その流れははやく、危険な顔を見せている。

 

中山道である県道207は、晴れておれば木曽川沿いに<犬山自然公園の渓谷美>を楽しめるのであろうが、雨の中<鵜沼宿52>に入って行った。

 

   

 

木曽川 日本ライン                                      日本ライン下りの舟

 

小雨ふるなか、弥次喜多は、国道21号線沿いにある定食屋さん<五代目食堂>の

おふくろの匂いに誘われて昼食をとることにした。

お惣菜や魚料理が取り放題である。 

味噌汁をはじめ、納豆、冷奴、野菜炒め、サバの味噌煮、牛肉のしぐれ煮に白飯大盛りに

アルコールフリー、なんと贅沢なこと1350円なり。

この旅最高の贅沢、まるで空腹に耐えてきた餓鬼のように一心不乱、その匂いと味とボリュウムに

最高の幸せを味わった。

生きるとは腹を満たすことなり・・・旅の醍醐味は食にあり・・・と一人呪文を唱えながら・・・

食べに食べた。

食いだめとはこのことをいうのであろう。

 

 

国道21号線沿いにある<五代目食堂>               この後またお惣菜を追加・・・ 

 

一方、旧中山道は、現在の坂祝トンネルのある国道21号線の上にある<うとう峠>を越えて一気に坂を

下って鵜沼宿(52)に入る。

中山道<うとう峠>への入り方は、国道21の左手にある駐車場の先の階段を下り、小川の手前を右に

曲がり、国道21と鉄道<高山本線>をくぐると旧中山道に出る。

この<うとう峠>を西に下ったところに、現在も北側の塚のみが残っており、その前に日本橋よりちょうど

100里の<うとう峠の一里塚跡の碑>がある。

             

        <うとう峠の一里塚跡>の碑        旧中山道<うとう峠><鵜沼宿52>

日本橋より丁度100里 / 400km地点)

(京へ35里/140km)

 

 

 

 鵜沼宿52>  日本橋より徒歩総距離 615㎞ 地点  

 

中山道にある<うとう峠一里塚>は、「うとう=謡」とも書くらしい。

<うとう峠一里塚>は、江戸の日本橋から続く中山道に備えられた里程標で、ちょうど100里、約400㎞の

地点にあることを示している。

人生でいうと、何歳とか何年とかその人の歩んだ時間を刻んでいるといっていい。

しかし、そのほとんどの人が何歳という直線的時間の経過をカウントして人生を過ごすことはないと

いっていい。

人それぞれに、与えられた人生を己の歩み方で進み、ゴールに到達する。 

そこには同じ時間的経過でも、それぞれによって異なる。

だから人生は面白いのである。

現在、われわれ弥次喜多日本橋から615㎞地点にいるのだから、中山道100里(約400㎞)地点を、

寄り道という215㎞オーバーをしながら歩んでいることになる。

これまた中山道の歩き方の一つと言えよう。

だから旅は面白いのである。

 

鵜沼宿52への入り方>

天気が良ければ、木曽川の対岸の山の上に渓斎英泉画の描いた浮世絵に出てくる<犬山城>の雄姿を

見られるはずだが、低く垂れさがった雨雲にさえぎられていた。

英泉の描いた浮世絵では、犬山城から鵜沼宿52 方面を描いているが、城にしても、木曽川にしても

デフォルメされたその雄大さに驚く。

木曽川沿いの中山道(県道207)から鵜沼宿52に入ってくると、信号<鵜沼中山道>で国道21を横切り、

大安寺川にかかる<大安寺大橋>を渡ると鵜沼宿52である。

一方、旧中山道の<うとう峠>を下ってきたときも、同じく信号<鵜沼中山道>を右折して、

<大安寺大橋>を渡って鵜沼宿に入って行く。

美濃国各務郡鵜沼村は、現在の岐阜県各務原市にあたる。

鵜沼宿52は、総戸数68軒、旅籠25軒 中山道52番目の宿場であった。

 

 

渓斎英泉画 中山道 「木曽街道六十九次・鵜沼」 (鵜沼宿52)

 

信号<鵜沼中山道>から大安寺大橋をわたって鵜沼宿52に入ると、まず常夜灯が迎えてくれる。

そのすぐ近くに石碑<ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠>が建ち、鵜沼宿側の<うとう峠>入口に

なっている。

その先右手に<二宮神社>があり、鳥居の右手に<芭蕉句碑三基>が並んでいる。

 

先の<大安寺川橋>からは、木曽川対岸の山手にそびえる犬山城を遠望できるという。残念ながら今日は曇り空、霞みの中に犬山城は身を隠している。

犬山城平山城であり戦国時代の後期に尾張守護代織田家によって築城され、1617年以来、犬山藩三万五千石の成瀬正成(家老)の居城となった。

 

犬山城(犬山観光情報より)             「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠」の碑

 

  

        <二宮神社の石鳥居に向かって右側に三基の芭蕉句碑が建つ> 左から

 

           《 汲溜の 水泡だつや 蝉の声 》     芭蕉

 

           《 送られつ 送りつ果ては 木曾の秋》    芭蕉

 

           《 ふぐ汁も 喰えば喰わせよ 菊の酒 》   芭蕉

 

なぜか同じ芭蕉の句碑が、脇本陣にも建っているではないか。

それも配列まで<二宮神社>を模しているではないか。

 

 

中山道鵜沼宿52 脇本陣                                        鵜沼宿52 脇本陣に建つ 芭蕉句碑              

 

                                                     

芭蕉の句を口ずさみながら、歩みを続けると中山道である国道21号線は、名鉄各務ヶ原線とJR高山本線に挟まれながら西へと向かう。 

また、この辺りは後鳥羽上皇鎌倉幕府方との対戦があった<承久の乱>の歴史的合戦場として知られている。

史書には、

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉

幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱であり、承久の変、承久合戦ともいう。

日本史上初の朝廷武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇隠岐に配流

され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。

北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。」とある。

 

<JR蘇原駅>あたりで中山道は、国道を離れ旧街道へ入って行く。

小雨がまた降り出した。時間も夕暮れの5時に近く、今宵の露営地を探すことにした。

予定である<加納宿53>は明日になりそうである。

 

名鉄<六軒駅>の近く、竹林寺の向かいに<六軒の一里塚跡>の碑が建つ。 

日本橋から103里(約412km)の地点である。

各務ヶ原市役所から少し先のある神明神社に今宵の露営地にさせていただくためお願いする。

神明神社の社殿をお借りして床づくりを始めた。

小雨はまだ降り続けており、雨音が社殿にも忍び入ってくる。

今宵は、神々と語り明かすことになりそうである。

  

 

六軒一里塚跡(江戸から103里/412km)     今夜お世話になる神明神社馬頭観世音菩薩

              (京へ32里/128km)

 

寝る前に、小雨に濡れた体を温めるため近くにある<日帰り温泉美人の湯かかみがはら>に

飛び込んだ。

旅の疲れはいいものである。

そこには温泉の湯があり、安眠をむさぼる寝床があるからである。

そして、また明日の旅という希望と夢が、そこにあるからである。 

人生そのものではないか。

 

日帰り温泉美人の湯かかみがはら>   800円

 岐阜県各務原市蘇原申子町1-1   TEL:058-380-2622 

 

 

<美人の湯 かがみがはら>

 

 

<▲ 25日目 加納宿手前 神明神社社殿にて舎営>    5月12日夜

 

  雨天のため、神明神社社殿で泊まらせていただく

 

   《ここ東美濃にも大雨警報が発令中で、山間部での土砂崩れには厳重なる警戒が必要だという。

    われわれ弥次喜多が、昨日通過した御嵩宿手前の『牛の鼻かけ坂』など一番危険な峠を、

    また今日は『謡(うとう)坂の石畳』を上り下りしたことになる。何事もなく無事であった

    ことに感謝したい。

 

    伏見宿㊿の西に『南無阿弥陀仏』と刻まれた石碑がある。

    これは念仏行者として修行した播隆(ばんりゅう)上人の名号碑である。

    天保5年(1834)に建立されたものである。

    播隆上人は山岳信仰を実践された方で

    北アルプス『槍ケ岳』や『笠ケ岳』を修行の場とされていた。

 

    今日では槍ケ岳を開山された偉大な業績を日本の山岳史中に深く刻まれている。

    その上人の足跡に伏見宿で出会えたことに、登山をし、槍ケ岳をこよなく愛する者に

    とっての感動の一瞬であった。

 

    一昨年、日本アルプスを縦断したおり槍ケ岳より200メートル程下ったあたりにある上人が

    修行されていた洞穴で縦断成功と安全祈念を願って坐ったことがある。

    関心のある方は新田次郎著だったと記憶するが『播隆上人』をお読みいただきたい。

 

    今日、畑道を歩いていると畑仕事をしていた婆やが『どこからきたの』と語りかけてくれた。

   『うちの美味しいトマトと胡瓜食ってけ』と息子さん自慢のビニールハウスに招待されご馳走に

    なった。

    喜多さんである祥介が、トマトをもいでかぶりついた瞬間、トマトの中身がぴゅーっと

    飛んできて顔にビシャっ、

    祥介はおお喜び。

 

    胡瓜の丸かじりも美味しかったな。


    しかし楽しい時間もあっと言う間に正気に戻される。自転車『ワイルドローパー号』の前輪が

    とうとうパンクしたのだ。

    よくここまで耐えてくれたものだ。感謝に耐えない。

    われわれに代わって重たい荷物を背負い600キロ近くも来てくれたのだ。

    さっそく修理したのだが、どうも手抜きがあったのか、数キロ進んだところで、

    空気が抜けてダウン。

    太田宿の中山道会館の少し先にある『三品(みしな)サイクル』のご主人にお願いして

    プロの技を見せていただく。

    完璧な修理にカブトをぬぐ、さすがにプロだ。

    祥介と二人、今後のことを考え真剣に学ぶ。

    前輪のタイヤを持参の新品に替え、チューブは修理した。

    明日からは後輪に注意を払うことになる。

 

    さて、今日、強弱はあったが絶え間無く雨がふった。ほとんどの中仙道が国道21号線

    重なり、それも歩道がないところ(各務原あたり)もあり、追突や接触に全神経をつかった。

    祥介も私も肩が凝ったので鵜沼宿から加納宿へ下った各務原市役所近くのスーパー銭湯

    飛び込んで疲れをとった。

 

    その近くの神明神社の社殿が今晩のねぐらだ。

 

    本日は伏見宿を出て、太田宿51、鵜沼宿52 を経て加納宿53 近くまで歩いた。

    25キロ、10時間30分の行程であった。

 

    明日は加納宿53 を経て、河渡宿54、美江寺宿55 まで行きたい。

    蚊取り線香が必要になってきた。

 

    道中、子規が次のような句を詠んでいたのを思い出した。

 

       『すげ笠の 生国名乗れ ほととぎす』 子規

 

    ちなみに中山道の三大難所は『木曽の懸け橋、太田の渡し、碓氷峠』であったらしい。

    われわれ弥次喜多はこれら三つをクリアしたことになる。

 

    わたしも一句、

      『 五月雨に 太田の渡し 命がけ 』 實久

 

    芭蕉は、『ふく志るる も喰へば喰せよ 菊乃酒』と吟じている。

 

    明日から天気が回復するそうな。

    おやすみ。  弥次喜多こと後藤實久&田中祥介 》

 

 

    同志社ローバー創立50年記念事業 <中山道てくてくラリー>本部に報告メールを送り、

    社殿の屋根の雨滴音に聞き入りながら、久しぶりに携行している聖書を開いた。

 

    聖句は次のように伝えてきた。

 

    Be joyful always, pray at all times, be thankful in all circumstances.      

                          <2 Thessalonians>

    ―いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい― 

                                 <テサロニケ5-16~>

 

    今日の旅路に感謝して、社殿の屋根にあたる雨滴音に聞き入りながら、

    好きな詩吟<太田道灌蓑を借るの図に題す>を高らかに吟じた。

 

    社殿の空気が揺れた。

 

           

                    <関西吟詩文化協会HPより>

 

    太田道灌  <愛敬 四山>     おおたどうかん  <あいけい しざん>

 

    孤鞍雨を衝いて 茅茨を叩く     こあんあめをついて ぼうしをたたく

    少女為に遺る 花一枝         しょうじょためにおくる はないっし

    少女は言わず 花語らず       しょうじょはいわず はなかたらず

    英雄の心緒乱れて 糸の如し      えいゆうのしんしょみだれて いとのごとし

 

   

       

                 加納宿52  神明神社の暗闇に伏した。

 

 

 

  

 ■ 26日目  中山道加納宿53⇒河度宿54⇒美江寺55>

              23km/10h 5月13日

 

 

降り続いていた雨もやみ、晴れ渡った空がすがすがしい。

朝5時30分、社殿清掃、感謝の祈りをささげ、御礼の言葉をメモに残して神明神社を出発した。

何本あるのだろうか、はためく沢山の奉納旗<馬頭観世音菩薩>やお馬様に見送られて、われわれ弥次喜多は今夜の露営地・美江寺宿55に向かった。

 

各務ヶ原(かがみがはら)市役所、市民公園を右手にしながら、新境川にかかる那加橋を渡って進むと、

<新加納の一里塚跡>(江戸より104里/416km))がある。

さらに歩を進めると、善休寺、少林寺の前を通り、東北自動車道のガードをくぐって加納宿53に入って行く。

鵜沼宿52 から加納宿53 までの途中に<間の宿 新加納>が置かれ、旅人の便宜に供した。

  

 

       一夜の露をしのぐため社殿をお借りした<神明神社> (各務原加納宿53)

  

 

各務ヶ原市役所                   間の宿<新加納の一里塚跡>

                          (日本橋より104里/416㎞)

                       (京へ31里/124km)

 

 

<間の宿 新加納>

ここJR新加納駅辺りは、宿場間の距離が長い場合に置かれた<間の宿>で、鵜沼宿52と加納宿53の間に

置かれた<間の宿 新加納>と呼ばれた。

当時の新加納村の古地図をみても、外敵の侵入を妨ぐために城郭や宿場の入口で道を<かぎの手>に曲げた

<枡形>を備えていることがわかる。

古地図を東から見ていくと、旅籠はもちろんだが、間の宿にも立場、高札、牢獄。馬宿のほかに御典医

一里塚、社寺、塩屋、髪結も備わっているということがわかる。

御典医の今尾家は、現在も<今尾医院>として開業されている。

 

                                                              宿場古絵図     <間の宿 新加納>

 

その先に、真宗大谷派愚光寺善休寺、少林寺と続き東海北陸自動車をくぐって加納宿53に向かう。

この旧中山道は、国道21号線名鉄六軒駅近くの信号<三柿野町>より始まる県道181として続いている。

 

近くのコンビニで朝食<もやし味噌ラーメンと納豆>をとりながら、読売新聞(2011-平成23年5月13日

金曜日朝刊)一面を飾る東北大震災<1号機炉心溶解>報道にこころを痛める。

3月11日に起こった東北大震災から今日で2か月が過ぎたが、今なお余震が続き復興はようやく始まった

ばかりである。

 

(この同志社ローバー創立50年記念事業「中山道てくてくラリー」は、急遽東北大震災支援ラリーに

切り替え、「がんばれ東北」・「がんばろう日本」のバナーを掲げ、募金活動を続けながらの中山道踏破

に挑んだ。 東京日本橋2011年4月10日出発し、京都三条大橋5月21日到着した。)

 

 

                 

 

 

善休寺                         1号機炉心溶解報道 と 朝食

 

中山道(県道181)には、国道22号線を越えると<細畑の一里塚 (江戸より105里)>があり、南北に

対塚として復元されている。

その先の地蔵堂の前に<木曽路伊勢路>分岐の道標が建つ。

さらに西へ進むとJR東海道本線をくぐり加納宿53に入って行く。

 

 

<細畑の一里塚>南側塚 (江戸より105里/ 420km )    <細畑の一里塚>北側塚 

             (京へ30里/120km)

 

 

伊勢・名古屋ちかみち道標(正面)                       木曽路道標(左側面)

 

 

加納宿53>    日本橋から徒歩総距離 633km 

 

加納宿53 中山道唯一つの城下町で、戸数も多い53番目の宿場で、総戸数805軒、旅籠31軒であった。

関ヶ原の合戦から半年後の1601年(慶長6)褒賞として与えられた10万石の領地を、奥平信昌は整備整地し、

加納城下町は出来上がった。

加納宿53の中心は、現在のJR岐阜駅近くの岐阜、名古屋、熱田と続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)と

交わる交通の要所であった。

 

中山道(県道)は、西進すると国道157号線と交わりJR岐阜駅の南側付近に達する。

その間、加納宿53 の町屋をめぐり、加納宿番所跡、そして加納城大手門跡を過ぎて、

「左中仙道 右西京道」の道標を右手に見ながら国道157号線を横切って西進する。

  

 

中山道53 加納宿番所跡            <左中仙道右西京道>の道標がある

  

加納宿53  高札場跡

 

加納城址を左手に見ながら国道256を越えると、すぐ<当分本陣跡の碑>、<脇本陣跡の碑>と続き、<西の番所跡> を後にして河渡宿54 へと向かう。

 

 加納宿53 <当分本陣跡>       森家加納宿脇本陣跡の碑

 

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六十九次・加納」 (加納宿53)

 

 

河渡宿 54>    日本橋から徒歩総距離 654km  (立寄り地含む)

 

中山道である県道181は、JR岐阜駅付近の国道157号線を横切り、道標に従って西へ歩を進めると、

JR東海道本線をくぐり、県道92をよぎってさらに直進する。

<岐阜街道追分>近くに<梅の守>(弘法大師手植えの梅の子孫が残る)として知られる<乙津寺・おっしんじ・臨済宗>にでる。

乙津寺の近くを流れる長良川には、300年間使われている<小紅の渡し>があるが、われわれ弥次喜多は、

長良川にかかる<河渡橋>を渡って、河渡宿54 に入った。

 

           

                    長良川にかかる河渡橋

 

河渡宿54(かどしゅく)は、戦時中の戦災で全焼し、当時をしのぶものは残されていない。 

総戸数136軒・旅籠24軒規模の中山道54番目の宿場であった。

 

渓斎英泉画 中山道 <木曽街道六十九次 河渡 長柄川鵜飼> (河渡宿54)

 

 

<河渡の一里塚跡>  日本橋より107里(約428㎞) 

長良川にかかる河渡橋を渡って、左折すると馬頭観音<愛染堂>があり、<河渡の一里塚跡>と続く。

 さらに生津畷跡をすすむと、旧中山道は県道92号線と合流し、糸貫川を渡って<美江寺宿55・

みねじしゅく>に入って行く。

 

 

中山道 河渡宿54 常夜灯            <河渡の一里塚跡>(江戸より107里/428㎞)             

                                                                    (京へ28里/112km)

                             

河渡宿54  本田代官所

 

 

美江寺宿 55>     日本橋より総距離657㎞  (立寄り地含む)

 

中山道は糸貫川を渡って本田(ほんでん)村に入り、<延命地蔵尊>に迎えられる。

そのすぐ先に<本田代官所跡>、<高札場跡>と続き、樽見鉄道の<美江寺駅>近くの踏切を渡って、

美江寺宿55 の中央に達する。

 

 

<美江寺の一里塚跡> 日本橋より108里 / 約432㎞

踏切を渡ったら右手に日本橋より108里を示す<美江寺の一里塚跡>の碑が建つ。

 

その先、今夜の露営地と決めた<美江神社>(美江寺観音堂)の境内に<高札場跡>があり、

復元されている。

5月13日16:32 美江神社社務所で露営の許しを受け、境内高札場横にテントを張り終える。

明日、5月14日は休養日、体を休めるためここ美江神社に2連泊することになった。

 

美江寺宿55 は、1891(明治24)年に発生した濃美大地震で、昔の面影を消し去った中山道55番目の宿場で、

総戸数136軒・旅籠11軒であった。また、1868(明治元)年の板垣退助を先鋒とする東征軍東山道鎮撫隊の

発進地として知られている。

 

美江寺一里塚跡(日本橋より108里/ 432km)

       (京へ27里/108km)

 

 

 

美江寺宿55 高札場跡                    美江神社境内の古札場横にテントを張る

 

 <▲26日目  美江神社境内 露営地> 5月13日

  

             

                                     今夜は美江神社が、弥次喜多の宿である(美江寺宿55)

 

   《ここ美江寺宿は強風が吹き荒れている。

    今日の宿営地は美江神社境内である。

    雨の心配がないのでテントを張った。

    しかしあまりの強風でテントが持っていかれそうだ。

    今日はいままでの雨との戦いで疲れがたまっている上に、急激な気温上昇に体が

    ついていかず弥次喜多共に疲労こんぱいである。

    とくに弥次さんは右肩の肩凝りがひどい。

    ブログに通信文を送りたいがお休みとさせていただく。

    ゆっくり眠りたい。

    明日あたり休養日をとるかも知れない。

    明日朝の調子を見たい。

    今日の行程は各務ヶ原神明神社を出て、加納宿53、河渡宿54を経て美江寺宿55までの23キロ、

    あさ5時半出発の午後4時32分到着、丁度10時間であった。

    おやすみ。 弥次喜多こと後藤實久&田中祥介》

 

    Fw: Kです

   《雨にも負けず進んでおられるところを想像し、驚嘆と尊敬と心配が入りまじってます。

    はるばるきたで~~~という感じになってきましたね。すごい!

    僕の方は来週のほとんどを徳島での花展のため京都をはなれます。

    申し上げにくいのですが、先輩が京都に着かれる日、どうしても徳島を離れられないのです。

    でも心は先輩とともに居させて下さい!その時の感動を海の向こうでしみじみ味わっていますね。

    あと1週間、くれぐれもお身体にお気をつけて!  K 》

 

    <転送:弥次喜多です>

   《Kさま、ご活躍うれしく思います。

    『京をめざします。京に住んでます。はるか京を眺めます』、

    中山道てくてくラリーを歩いていて必ず尋ねられ、答えたときの地元の人々の反応は、

    パーッと表情が明るく変わることでしょう。

    これは今も昔も変わらない憧れの反応ではないでしょうか。

    京のもつ華やかななかな伝統と格式と歴史をもつ文化、

    芸術も華道も言葉や食生活でさえも、

    京以外の人々には憧憬と尊敬の念をいだかれるのであろうと思います。

 

    先日の献花式に対する感想のように、あなたはすでに一派の家元としてはもちろん、華人として

    その精神に達しておられる。 

    『人花一如』、『人花一体』を安中教会での献花、そこに観ました。

    相対峙し坐り、こころを一(ひとつ)にする,

               禅僧の修行そのものなのですね。

    どうか磨きあげられたさらなる美しさを伝え、さらなる究極の美をめざし精進を重ねられることを

    念じます。

 

    今回の『中山道てくてくラリー』への参加者は、同志社ローバーに関係するすべてのOG・OB隊員

    であると思っています。

    先発隊、支援隊、本隊に分かれているにすぎないのではないでしょうか。

    ドンキホーテのサンセバスチャンのように、

    『見果てぬ夢をみ、見果てぬ夢を求めて』、

    われわれ弥次喜多とワイルドローバー号は、

    ローバー一人一人の見果てぬ夢を背負って歩いているにすぎません。  

    みなさんと共に見果てぬ夢を見させていただき、弥次喜多こと田中祥介と後藤實久両名は

    美江寺宿の露営地より感謝の言葉をお伝えできることを嬉しく思います。

 

    あと一週間、力のあるかぎり、導きのあるがままに京に達したく思います。

    元気な姿で到着できるように、今日はここ美江寺宿にて休養をとりたく思います。

    近くのお寺の鐘の響きに聴き入りつつ・・・

    弥栄 弥次喜多 》

 

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六十九次・みゑじ」 (美江寺宿55)

 

 

<▲27日目 美江寺宿にて連泊―休養日> 5月14日

 

人生色々である。

同じ人生があろうはずがない。

おのれの人生に万歳を叫ぼうではないか。

さて、休養日をとり連泊しているここ美江寺宿にある美江神社の歴史案内に、

 

文久元年(1861)10月26日の和宮親子内親王江戸下向の途次、当宿小憩 と 慶應4年(1868)

2月20.21両日、当宿を発信地とした東征軍東山道鎮撫隊のことは、当宿交通史に特記すべきこと

である』と書かれている。


すでに皇女和宮の歌に触れたが、中山道和宮の下向ルートであり、明治天皇行幸ルートでもあった。

中山道を歩いているとこの二つの大行列がこれらの宿場の歴史的重大事であったことかがよく分かる。

この二つに関する石碑の数の多さは群を抜いている。

よって和宮について少し書き記しておく。

ちなみに今年は中山道ができて四百年記念の年である。

仁孝天皇の皇女 和宮親子内親王(かずのみやちかこ)は将軍徳川家茂との結婚のため、

文久元年(上記参照)京都桂御所を出発、中山道を通行して江戸に向かった。

同年10月26日に泊まった加納宿本陣で詠まれた歌を再掲しておく。


  『遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり』和宮親子内親王


幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚した和宮の辛さを感じることができる。

 

 

 休養日、池田温泉で過ごす

<資料:池田温泉 岐阜県揖斐郡池田町片山3021-1  TEL:0585-45-1126 日帰り湯:500円>

 

 

   《今日は休養日。

    境内にテント張ったままにして、近くの北野温泉に湯治に弥次喜多で出かけてきた。

    ここがまた素晴らしい美人湯だ。肌がつるつるすべすべになる。

    かけ流しでないのが残念だが、ご紹介しておこう。

    関西から行くとして、関ヶ原から(岐阜県)県道53号線を岐阜市方面に向かう左手にある。

    南に瑞穂市がある。丁度峠を下りる山間にあり、景色もいい。

    脳梗塞の患者さんに出会い、そのお連れさんともその効能について尋ねてみた。

    本人が気分が良いようだから連れて来ていると。

    ここ以外は行きたがらないそうだ。

    またの機会にぜひ喜多さんである祥介君を連れて来てやりたい。

    いい湯だった。疲れがとれたような気がする。明日は長く歩けそうだ。

    美江寺宿55 をでて、赤坂宿56、垂井宿57、関ヶ原宿58 まで行きたい。

    天気は良さそうだ。

    もうすぐ新快速に乗れる米原だ。誘惑に負けそうだ。

    シャワー浴びに帰ろうかなって・・・

    なんだか体が軽くなった弥次喜多です。  

     おやすみ  後藤實久&田中祥介》

 

  

 

■ 28日目  中山道美江寺宿55⇒赤坂宿56⇒垂井宿57⇒関ヶ原宿58 > 

            20.0km/11h  5月15日

 

 

美江寺宿55 を出発>

 美江寺宿55 で休養をとり、温泉につかって疲れを癒すことができ、清々しい気持ちで、

われわれ弥次喜多は、関ケ原宿58 に向かって出立した。

美江神社にある復元・高札場前の露営地でのテント泊に謝意を示したあと、

美江寺観世音道に並ぶ美江寺宿55<本陣跡>(山本家)、<美江寺先手観音像>に立寄り、

先に歩を進め、揖斐川の鷲田橋を渡った。

 

 

 美江神社高札場前の撤収作業                 

  

 

現在の美江寺観世音道                  松並が続く昔の美江寺観世音道・中山道

  

 美江寺宿55 本陣跡の碑        美江寺宿55 旧家

 

 

揖斐川にかかる鷲田橋を渡る

 

鷲田橋の先にある古い町並みが残る<呂久の集落>の端に、和宮記念公園<小簾紅園>がある。

和宮揖斐川を渡たる御座船で己の境遇を詠った和歌がある。

 

和宮降嫁については、この中山道てくてくラリーに幾度となく取り上げてきたが、ここ呂久川(揖斐川)渡船での和宮の心境を見た。

和宮降嫁は、公武合体という日本の歴史のエポックの一つとして記憶にとどめておきたいことは、何度も伝えてきた。

 

瑞穂市の解説版<小簾公園・おずこうえん>(和宮遺跡)によると、

  『金紋先箱を先頭に、警護の武士団や、色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が延々と続いた。

   公武合体のために仁孝天皇の第八皇女和宮が、徳川14代将軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された

   時の様子は想像を絶するものであった。

 

   《惜まじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも》 和宮

 

   と悲壮な決意をされた宮は、文久元年(1861)10月21日京都を出発され、同10月26日瑞穂市の呂久川

  (現在の揖斐川)を御座舟でお渡りになられた。

   その時、対岸の馬淵孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にとめられ、一枝お望みに

   なった。

   これを舷に立てさせられ、玉簾の中からあかずにご覧あそばされ・・・

   

  《おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ》 和宮

 

   とご感慨をお詠いになられた。』

 

 

 

呂久の集落に入る                 古い街並みが続く呂久集落

  

 

和宮記念公園<小簾紅園>          揖斐川呂久 <和宮船場跡>

 

       

                  旧揖斐川中山道渡船ルート

 

 しばらく旧中山道を進むと、近鉄養老線の<東赤坂駅>の踏切を渡って<赤坂宿56>に入って行く。

 

 

<赤坂宿 56>      日本橋よりの中山道てくてくラリーの総距離 708㎞ (立寄りを含む)

               日本橋よりの中山道里程 110里 / 約440㎞ 

 

近鉄養老線の踏切を渡って進むと、抗瀬川にあった赤坂港跡に出る。

赤坂宿56 にあった川港で、往時はにぎわっていたが、現在は廃港となり、史跡公園となっている。

豊富な水量を利用した川船による水運は、江戸時代において物資の輸送やお伊勢参りの旅人が船便を

利用していた。明治に入ってからは石炭産業の隆盛によって500隻を越える船でにぎわったという。

 

赤坂宿56 赤坂港会館にかかる赤坂港暖簾

 

赤坂港跡から少し進むと、子安神社の前あたりに<本陣跡>、<脇本陣跡の碑>が続く。

その先に、関ケ原合戦の戦死者を弔った<甲塚>がある。

 

中山道赤坂宿56 本陣跡

 

赤坂宿56 は、さきほど立寄った<杭瀬川の赤坂港>の舟待ち宿として存在していた杭瀬宿が発展した

もので、総戸数292・旅籠17を持つ江戸から110里にある、中山道56番目の宿場であった。

 

歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・赤坂」 (赤坂宿56)

 

赤坂宿56 の古い町並み景観を楽しみながら進むと、照手姫が籠で水を汲んだという伝説がある<水汲み井戸>の前あたりに<青墓のよしたけあん>がある。

 

 

 

中山道赤坂宿56  脇本陣跡           <赤坂宿56 五七屋 >          

   

<青墓のよしたけあん>  (案内板にみる解説)

   『牛若丸が、修行を終え奥州へ落ち延びるとき、円願寺でなくなった父や兄の霊を供養し、源氏が

    再び栄えるように祈って、それまで杖にしてきた芦の杖を地面に突きさしさしおくも 形見となれ

    や 後の世に 源氏栄えば よし竹となれと歌にした。その願いが通じたのか、芦が大地から芽を

    ふき、根を張ったが、茂ったのはみごとな竹の葉だった。この珍しい竹はその後も生長し続け、

    やがてこの竹を「よし竹」と呼び、この寺を「よしたけあん」と呼ぶようになった。』

 

ここが、源氏再興祈願がなされた義経伝説の地である。

 

 

<青墓の  よしたけあん>                             中山道間の宿<青墓宿>碑と大谷川

 

中山道(県道216)は、大谷川堤防に建つ、間の宿<青墓宿>道標を過ぎて、<蒼野ケ原の一里塚の碑・

日本橋から111里/444km・京へ24里/96km>を経て、垂井宿57 に入って行く。

 

 

蒼野ケ原の一里塚跡 (江戸より111里/444km)

                                      (京へ24里/96km) 

 

 

<垂井宿 57>    中山道てくてくラリー徒歩総距離715㎞  (立寄り地含む)

               (中山道  日本橋から111里・約444km / 京へ24里・96㎞) 

 

垂井宿57 は、戦国時代の軍師、竹中半兵衛生誕の地として知られる総戸数315軒・旅籠27軒の

中山道57番目の宿場であった。

また、徳川家康関ヶ原の役の際に本陣を敷いたことから<徳川家康公開運の地>として紹介されている。

垂井宿57は、垂井追分で東海道につながる美濃路が分岐し、交通の要衝でもあった

 相川にかかる相川橋を渡ると<垂井追分>があり、<右・中山道木曽路と左・美濃路たにぐちみち>の

分岐である。

その先、右手に<旅籠 亀丸屋>がある。その先<金山彦大神の石大鳥居>をくぐった右手に、芭蕉

和尚の玄潭律師(俳号 規外)を訪ね、冬籠りしたときに詠んだ句が残っている<本龍寺>がある。

その向かいの大ケヤキの下に、歌枕で有名な<垂井の泉>があり、ここにも芭蕉の句碑が建つ。

 

   《作り木の 庭をいさめる しぐれ哉》    芭蕉  (本龍寺)

 

垂井の泉>は、ケヤキの根元から湧き出る清水で、旅人の喉を潤し、地元の人々の生活用水として

利用され、文人の詩歌にも歌枕とし詠われるなど、垂井の地名の起源となった

 

《 昔見し たる井の水は かわらねど うつれる影ぞ 年をへにける》  藤原隆経 

     

《葱白く 洗いあげたる 寒さかな》 芭蕉 (垂井の泉)

 

美濃路中山道分岐<垂井追分>道標

  

  金山彦大神の石大鳥居 と 常夜灯       芭蕉句碑がある本龍寺              

 

 

  

垂井の泉に建つ芭蕉翁句碑<葱白く

  

歌枕で有名な<垂井の泉>をでて、旧中山道を進むと、東海道本線国道21号線の陸橋を越えところに

<垂井の一里塚>(日本橋から112里/ 約448㎞・京へ23里/ 92km)がある。

 

<垂井の一里塚>  (日本橋から112里・約448㎞)

               (京へ23里/ 92km)

 

現在は、南塚のみが残っている。また、ここに一里塚ができる前であるが、関ケ原合戦においては東軍の浅井幸長が陣を張っていた。幸長は、岐阜城攻撃を担当した後、15日の合戦当日は南宮山の敵に備えて布陣していたという。

 

 

関ケ原宿 58>   日本橋から中山道総徒歩距離723㎞  (立寄り先含む)

 

垂井一里塚を過ぎると、東海道本線と東海移動新幹線に挟まれた国道21号線と旧中山道は桃配山

(ももくばりやま)を右手に見ながら、<徳川家康最初の陣地>を通過し、関ケ原へと続く松並木を歩く。

JR関ケ原駅近くに、<旅籠ますや>、<相川家・脇本陣跡の碑.>があり、東海道本線の北側に

関ケ原合戦での東西両軍の戦死者の<東首塚>がある。

さらに進み国道365号線を越えると<西首塚>を経て、<関ケ原合戦場>に着く。

 

関ケ原宿58 は、中山道六十九次の中でも総戸数269軒・旅籠33軒を持つ58番目の宿場町であった。

北陸方面に向かう北国街道と伊勢方面に向かう伊勢街道の分岐点であり、交通の要衝であった。

現在では中山道中唯一の松並木が 野上地内に残っている。

 

関ケ原合戦地に到着、東西両軍の鬨の声を聞きながら今宵の露営地に予定している関ケ原決戦の地である

笹尾山、石田三成の旗印(軍旗)<大一大万大吉がはためき、蛙がなきだした陣地近くの、

田植の終わった畦道を露営地に決め、設営に入った。

 

大一大万大吉>の意味は、「大(天下)のもとで、一(一人)が万人のために、大万(万民)が一人のために命を注げば、すべての人間の人生は吉となり、太平の世が訪れる」と言う。

 

石田三成の旗印大一大万大吉

 

歌川広重画 中山道「木曽海道六拾九次之内 関ケ原」 (関ヶ原宿 58)

 

 

 

 これより中山道 関ケ原宿58 ( 関ヶ原町野上)   野上地内に残るく旧中山道現存松並木>

 

 

<野上地内に残るく旧中山道松並木>

 

中山道の松並木もまた一部を残してほとんどが切り倒され、戦時中「松根油」として抽出され、航空機の

燃料として使用された。

よくも松根っこの油で飛行機を飛ばしたものである。ゆくゆくはその松根油も尽き、片道燃料での特攻機

して飛び立って、多くの尊い、若い命を落としていった。特攻隊員の悲しい物語が多く残されている。

平和な日本を迎え、松根油を知る年代もその姿を消しつつあるのはわびしい限りである。

平和は、何物にも代えがたく、尊いのである。

平和を維持し、守るには、一人一人の認識と努力と犠牲が必要であることを肝に銘じるべきである。

 

 

中山道関ケ原宿58 に残る松並木を進み、<関ケ原宿 脇本陣跡>を抜けると、関ケ原の合戦案内道標 

<左・島津陣地及開戦地 / 右・決戦地及笹尾山>に出る。

この分岐を右へ、決戦地及笹尾山方面(石田三成本陣)へ向かい、近くの畦道が今夜の弥次喜多

お宿である。

 

 

 

関ケ原宿58 脇本陣跡           関ケ原道標 左・島津陣地及開戦地・右・決戦地及笹尾山

  

関ケ原決戦地 笹尾山(石田三成本陣)       28日目露営地 関ケ原合戦の地に到着し設営

 

 

 <▲28日目露営地  戦場・関ケ原決戦の地の畦道でテント泊 >     5月15日夜

 

    《蛙が落日とともに勢いよく鳴きだした。

    水田には水が入り、田植が終わっている。

    この子たちが頭を垂れるほど稲穂をつけるのだ。

 

    今晩の設営は、喜多さんであるショウスケの提案で田んぼの畦道にした。

    ここは関ヶ原の戦いで東西が激突した中心地点である。

    300M先には石田三成が陣をひいた笹尾山が見える。

    今晩は蛙の大合唱が亡き兵士(つわもの)どもの鬨(とき)の声として聞こえてきそうだ。

 

    その関ヶ原の戦いに勝ち、三百年と言う太平の世の基礎を築いた徳川家康は、中山道をはじめ

    五街道を整備した。

    その中の『一里塚の設置』は、今回の中山道てくてくラリーで大変重要な役割を果たしてくれた。

 

    たとえば近くを見てみると、垂井の一里塚(江戸日本橋より112里・約448km)、

    ここ関ヶ原の一里塚(113里・452km)、今須の一里塚(114里・456km)となり、

    一里に約4kmをかけるとたちまちに、日本橋より現在地までの距離が算出できる

    画期的な仕組みであった。

 

    ほかに関心したのは、高札場に掟を掲げて庶民をコントロールした幕府の知恵や、

    地元の有力者を上手に使った庄屋制、本陣、脇本陣制など江戸時代の宿場制度を研究したら

    面白いと思う。

    それは物流、戦術、人身掌握、道徳倫理教育、独占寡占、値段決定、商圏、情報管理収集、

    軍事作戦、関所による移動監視、手形による入出国コントロールなど研究テーマにことかかない。

   『宿場制度復活による観光立国宣言』など立派な研究論文になる。

    先にヒマラヤの観光小国ブータンを旅したが、この宿場制度を上手に取り入れて成功させて

    いる国であるといえる。


    関ヶ原の寒暖の差は大きく、体には気を付けるようにと小島氏(愛車ワイルドローバー号の

    後輪パンク寸前にサイクルショップをご紹介いただいた地元のサイクリスト)よりご丁寧な

    メールをいただいた。

    感謝である。重ね着をしたい。

 

   

     お世話になったサイクリスト小島氏

 

    ヒョッとしたら満天の星を観察できるかもしれない。

    流れ星、天の川、カシオペア座、オリオン座、北斗七星など、

    星たちが呼んでいる。

    眠れそうにない。

    今夜、弥次喜多は夜明かしだ。


    本日は美江寺宿55 を、朝5時スタート、赤坂宿56、垂井宿57を経て関ヶ原の戦場跡の

    キャンプサイト最終16時23分に到着。

    20km、11時間30分の行程であった。

    天気晴れ、紫外線強く顔、手足が赤く日焼けしてきた。

    もうすぐ琵琶湖だ。

 

    梅田氏より5月19日の区間参加の待ち合わせに関するメールをもらった。

    弥次喜多は嬉しくて興奮気味だ。

    なんと言ってもおしゃべりに飢えているからだ。


    いま田植を終えて帰る爺っちゃんから声がかかった。

       『そこで寝るんけ?』、

       『戦場の露と消えた侍たちの声を聴くんです』、

       『えっ?』

 

     もはや蛙たちの大歓迎、大合唱が始まった。 おやすみ。

     合掌   弥次喜多こと  後藤實久&田中祥介 》

 

 

  <安中より梅便り

   《弥次喜多
    
いよいよ故郷の滋賀県が射程距離に入りましたね。

    びわ湖の向こうに見える我が家が、瞼に写っているのではないでしょうか。

    安中周辺では現在、稲の種を蒔き付け、芽生え始めた稲の苗を育成中です。

    従って未だ田んぼには水は入らず、蛙の合唱も聞こえてきません。

    私は栽培している梅の木の内、「小梅」の出荷の最盛期を迎え、

    種々の行事等の合間を縫って、また、早起きしながらの収穫・出荷に追われています。 

    田の畦道キャンプでの明朝目覚ましは、蛙それとも小鳥?

    安中にて 真下  》

 

 

  <梅田隊員からのメール

    《毎日、後藤先輩のブログを哲学的なものを感じながら拝見しています。

    ひとつのことに精神を統一して邁進する「一行三味」を感じます。

    私も自分だけの「一行三味」の入口を探したく思います。

    私は、当日は、近江鉄道八日市線武佐駅に9時5分に着きます。

    但し、定刻通りに電車が動いての話ですが。(利用していますJR奈良線は単線の為に

    よく遅延しますので)。

    尚、当日に篠田先輩より後藤先輩に手渡すものを持参します。

    当日の天気予想は、晴れで暑くなくなりそうです。

    よろしくお願いします。  梅田幹人」 (途中区間参加隊員)

 

 

 東西両軍の戦死者が眠る東首塚

      

関ケ原の戦いで勝利を収めた家康は、翌日部下の竹中重門に命じて、合戦で破壊された

神社仏閣の修復を命じるとともに、戦場に残された東西両軍の戦死者の遺体を埋葬し、

東西2か所に首塚を造営した。

この東首塚を古木のスダジイが見守っているのが印象的であった。

 

 

 

■ 29日目 

     中山道関ヶ原宿58⇒今須宿59⇒柏原宿60⇒醒ヶ井宿61⇒馬場宿62>

       25.0km/11h    5月16日

 

 

関ケ原の露営地を06:38スタートする>  5月16日朝 薄曇り後晴れ 

 関ヶ原の戦いの地で、幾多の討ち死にした武士(もののふ)の声に耳を傾けながら一夜を明かした。

歴史を塗り替えた関ケ原の東西の陣地を訪れ、多くの無念の血を飲み込んだ決戦の大地に別れを告げた。

 

斃れていった多くの無名の戦士、農民兵を想い、青空に向かって口ずさんだ。

この祈りの歌は、2018年、遠藤周作先生の「沈黙」を追って、天草・雲仙・平戸・五島と受難の地を

巡った折、何度となく口ずさんだものである。

 

<参照ブログ:潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 序章> (ブログ㉗ページ)

 

    こころおだやかに 主の御手にねむる ただしき御民の いまわのゆかしさ 

    照りにし日かげの うすれゆくごとく ややひく潮の しずけさに似たり 

    生き死にのおそれ つゆなきこころの のどけきみ空に 雲すらかからず 

    ひかりとやみの 行き交うこの世よ いまこそのぼらめ 夜なきみくにへ 

    あめつちもろとも たたえていえらく ただしき御民の いまわのゆかしさ 

                                                             (讃美歌471より)

 

 

関ヶ原の戦い決戦の地を出発する     決戦の地モニュメント

 

 

 首塚                首洗いの井戸

 

首塚 と 首級墳碑>  関ヶ原宿年寄古山兵四郎建立

「英傑なる徳川家康が東国において勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権不利とみて旗を揚げた。

慶長5年(1600)9月両勢力はここ関ケ原において激突したが、内応などの戦況の急変により、

三成側は大敗を喫した。

家康は床几場において首実検をしたのち、土地の人に、すべての首や遺骸を、東西二か所に首塚を造り

葬らせた。

東軍に敵対した、西軍将士に罪がないとは言えないが、主君秀頼のために命をささげたことにほかならず、

憎めるものではない。

故に、豊臣の危機に直面し犠牲になったものを納め葬ることは、仁義に厚い心得のなしえることであり、

まさに家康の教えが、今の世に太平をもたらしたといえよう。」

 

と刻まれて、現在の太平の基礎を作った家康の行いを讃えている。

 

 

 

首組墳碑                         西首塚

 

松平忠吉井伊直政陣地の動き>  ―1600年9月15日午前8時当時―再現

 慶長5年(1600)9月15日の合戦に中山道の敵を目標とする福島・藤堂・京極隊、北国街道を竹中・細川等

の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男  松平忠吉、のちの彦根城主  井伊直政が約6000の兵で

陣を構えた。

午前8時頃、軍監  本田忠勝より開戦を促され、直政・忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、

先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。

  

 

松平忠吉井伊直政の陣地                        関ケ原宿58 の町屋

 

関ケ原合戦の地を離れ、関ケ原宿58 に戻って町屋を進み、<西首塚>を過ぎると、<不破関跡>に出る。

その先に<大谷吉隆陣地跡>の石柱が建ち、この辺りも合戦場であったかと、その合戦場の広さに

驚かされる。 

 

不破の関跡>

東山道の美濃  不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つと

して、壬申の乱(672年)後に設けられたという。延暦8年(789)に廃止された後は関守が置かれ、

平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が多く取り上げられてきた。

代表的な和歌と俳句を取り上げておく。

 

   《人住まぬ 不破の関屋の板庇 あれにし後は ただ秋の風》  藤原良経

 

   《秋風や 藪の畠も 不破の関》  芭蕉

 

  

 

不破の関跡                         

 

 

<今須宿  59> 日本橋より徒歩総距離 748km  (立寄り地含む)

                         中山道 日本橋より114里/約456km

 

今須宿59 は、中山道美濃路、美濃十六宿の最西端の宿場であり、総戸数344軒・旅籠13軒の中山道59番目

の宿場であった。

ここ今須宿59 は、妙応寺の門前町として発達し、さらに街道が整備されると 商業地としても賑わったが、

明治以降は東海道線が通りながら駅が 無かったため山間の静かな里へと変わり、現在に至っている。

 中山道から脇道に入ったところにある小さな公園の中に、常盤御前の墓>がある。

 

常盤御前の墓>

 都一(みやこいち)の美女と言われ、16歳で義朝の愛妾となった常盤御前は、義朝が平治の乱で敗退

すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若・乙若・牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなった。

伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追ってきた常盤は、この地で土賊に襲われて

息を引き取るが、哀れに思った里人が、ここに葬って塚を築いたといわれる。

墓には、2基の歌碑が建つ。

 

     《義朝の 心に似たり 秋の風》        芭蕉 (左句碑表)

 

    《げに風の 音も澄みけり 秋の松》     春香園 (左句碑裏)

 

     《その幹に 牛も隠れ てくらかな》       化月坊  (右句碑)

  

         常盤御前の和歌を一句のせておきたい。

         《君おきて 仇し心は なけれども 浮名とる川 沈みはてけり》 常盤御前

 

  

常盤御前の墓 と 句碑                           今須の一里塚跡

                               (日本橋より114里/ 456km)

                                                           (京へ21里/84km)

                                                                  

 

<今須の一里塚跡>  中山道 日本橋より114里・約456㎞  南塚が復元されている。

 

 

常盤御前の墓を後にして、当時は茶店があったであろう険要の地・今須峠を越え、今須の一里塚を眺めながら

下ると、今須小学校にある<今須宿本陣跡>、<問屋場跡>、<常夜灯>を経て、国道21号線JR東海道本

線を横切り、楓並木を進む。 

再度踏切を越すと柏原宿60 の街並みに入って行く。

 

JR東海道本線の山中踏切を渡るとき、すれ違った精悍な列車顔、弥次喜多に声援を送ってくれた。

 

 

山中踏切で出会った東海道本線の精悍な列車顔  ( 今須宿 59)

 

 

今須宿59 問屋跡                          

 

今須宿59 に入り、町屋に混じる<問屋跡>を経て、なお進むと芭蕉の句碑に出会う。

  

 

同志社ローバー創立50年記念オフィシアルTシャツを着て    のざらし芭蕉道<奥の細道>と芭蕉句碑

 

今須のこの辺りが、旧中山道奥の細道美濃路・旧東山道)の分岐である。

中山道と交差する国道を渡ると、[おくのほそ道 芭蕉道}の石碑と並んで句碑が建つ。

 

         《正月も 美濃と近江や 閏月》      芭蕉

     

         《年暮れぬ 笠着て 草履はきながら》   芭蕉

 

芭蕉は貞享元年(1684年)秋に、母の墓参で江戸から生まれ故郷の伊賀上野に旅をする。

東海道を通り、伊勢神宮伊賀上野西行を慕って吉野山の庵に、そして近江路・美濃路を通り熱田神宮

参って再び伊賀上野に戻るのである。

 

  

<柏原宿 60>   日本橋より総徒歩距離735km   (立寄り地含む)

              (中山道 日本橋より115里/ 460km・京へ20里/ 80km)

 

 

美濃国から近江国へ入った旧中山道は今須峠を下っていき、JR東海道本線の山中踏切を渡って右に曲がると柏原宿60 の街並みが見えてくる。

 

柏原宿60 は、中山道近江路の最初の宿場であり、現在の滋賀県米原市柏原である。

柏原宿60は、中山道と旧東山道の分岐にあり、<いぶき艾(もぐさ)>の産地として栄え、総戸数344軒・

旅籠22軒の中山道60番目の宿場であった。

 

芭蕉は、元禄二年(1689)敦賀から「奥の細道」結びの地大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。 

その後、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、石碑の句を残している。

 

        《其のままよ 月もたのまし 伊吹山   桃青

 

 

 

東山道の入口                 芭蕉句碑「其のままよ」

 

わたし弥次さんも、数年前に「奥の細道」を歩いて、芭蕉の句碑の前で一句ひねってきた。

お暇なときに、<奥の細道紀行 - 句碑の前でわたしも一句 1~59>に立寄っていただければ

幸いである。

 

 

柏原宿60 の町屋を楽しみながら、<本陣跡>、天野川にある<常夜灯と高札場跡>をへて進むと、

<柏原の一里塚跡>日本橋より115里・約460㎞)を経て、醒ヶ井宿61 へと向かう。

  

 

柏原宿60 本陣跡            天野川縁にある柏原宿60 高札場跡と常夜灯

 

<柏原の一里塚跡>                     <一色の一里塚跡>

日本橋より115里/ 460km)                  (日本橋より116里・約464km)                       

(京へ20里/ 80km)                      (京へ19里/ 76km)

 

 中山道は、南塚が復元されている<柏原の一里塚跡> を見ながら進み、長沢集落あたりにある

<一色の一里塚跡>を経て、道標を右へ国道21号線に並行して西進して、醒ヶ井宿61 に向かう。

 

 

醒井宿 61>  日本橋から総徒歩距離744km (立寄り地含む)

 

中山道の右側に松並木が続き、途中で国道を渡って<名神高速道路>脇を進み、自然石に書かれた

中山道 醒ヶ井宿>の石碑、古事記に出てくる<居醒―いさめの清水>、料亭旅館<本陣樋口山>の

本陣跡、現存する旧問屋である<醒ヶ井資料館>を経て、JR東海道本線醒井駅前の国道21号線

交差点に至る。

この交差点<醒井駅前>を左に入ると、県道17は<醒井養鱒場>に通じる。

 

では、清水の宿場と言われる<醒井宿61>をそぞろ歩きしてみたい。

醒井宿61 は、古事記に出てくる<居醒―いさめーの清水>が語源だというから古い。

醒井三水である<居醒の清水・十王水西行水>から流れ出た湧水は地蔵川となって宿場の中を流れ、

モミジが水面を覆い、より神秘的な水にしている。

風情の残る総戸数138軒・旅籠11軒の素敵な宿場であって、その素晴らしさを今も残している。

 

 

中山道61 醒井宿に入る                           

 

<居醒―いさめの清水>を、その湧き出る清水の透き通るような滑らかさと、水の精に魅せられて、

弥次喜多は、両手に掬って喉に流し込んだ。

清水の色を彩どるモミジの青葉、水面に繊細な流紋を創り出すさざれ石がいい。

すべてが調和の中にあって、水の精を賛歌しているではないか。

いさめの清水が体の中に溶け込み、心地よい疲れの中に誘い込んでくれるのである。

まるで命の水、いやこれこそ天命水と言っていい。

感謝である。

ただ残念なことは、真っ白で美しい水中花<梅花藻>を見るには早すぎたようである。

                        

醒ヶ井の湧水<居醒―いさめの清水>

 

<醒ケ井宿 御茶壷本陣跡>の先に、醒井三水の一つ<西行水>がある。

 

   《水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん》 西行

 

 

醒ケ井宿61 御茶壷本陣跡      醒ケ井宿61 <西行水>

 

久禮(くれ)の一里塚跡日本橋より117里・468km)

           (京へ18里・72㎞)

 

われわれ弥次喜多、<同志社ローバーてくてく隊>は、信号を渡り東海道本線天野川に沿って西へ進み、

途中に立つ道標に従って国道21号線を横切り、<北陸自動車道>のガードをくぐり、旧中山道に入った。

立体交差<米原JCT>下で、少し複雑なので道標を確認し、ルート間違いがないように注意したい。

米原JCTをくぐったところに<久禮の一里塚跡>(日本橋より117里・468km) があり、その先に建つ

中山道番場宿の碑>に迎えられて<番場宿62>入って行く。

 

 

<番場宿62>  日本橋から総徒歩距離744km  (立寄り地含む)

 

中山道は山間の小さな宿場である番場宿62 をへて京へ向かう。

現在の国道8号線国道21号線の三角形の底辺という山間の近道を歩くことになる。

ひなびた旧中山道の味わいを十分堪能できた心に残る区間でもあった。

 

現在は、番場から米原が遠くになってしまっているが、当時はここ番場宿62 から年貢米などが天野川に運ばれ、川舟で米原港に、そして丸子船に積み替えられて、びわ湖を縦断し、坂本港や大津港に運ばれ、京・大阪へ陸路で届けられた。

 番場宿62 は、飛鳥時代に旧東山道ができて以来の歴史を持ち、総戸数178軒・旅籠10軒で、春には小高い山一面にミツバツツジが咲き乱れる小さく、とても古い宿場であった。

 

 

番場宿62 問屋場跡           番場宿62 脇本陣

 

伊吹山を後方に、草生す旧中山道鳥居本宿63 へ歩みを進めるが、あまりの暑さにTシャツを脱いでの

行脚になった。

 

 

あまりの暑さに、とうとう上半身裸で歩き出した   鳥居本宿63 への草生す旧中山道

 

歌川広重の浮世絵鳥居本 摺針峠」に、峠茶屋と言っていいのか立派な<望湖堂>が描かれている。

峠からのびわ湖の眺望を峠から味わうことができるが、その後の干拓によりびわ湖は遠のき、現在では

かすかに眺望できるに過ぎない。

 

広重画 中山道 「鳥居本 摺針峠」(左が望湖堂)

 

摺針峠(すりはりとうげ)は歌枕で、弘法大師は次のように詠んでいる。

 

《道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ  斧を針とせし 人もこそあれ》 弘法大師

 

 <摺針峠> 望湖堂(復元)からの、現在の琵琶湖の眺望

 

 

鳥居本宿 63>    日本橋より総徒歩距離755km    (立寄り地含む)

  

名神高速道路を背後に習針峠を越え、昔の峠茶屋跡<旧望湖堂>からびわ湖を望みながら下り、

国道8号線にでて南へ向かい、鳥居本宿63 に入って行く。

中山道が、国道8号線と合流する北側に<有川市郎兵衛薬局―赤玉神教丸>がある。

  

 

近江商人の町 彦根市に入った     中山道 鳥居本宿63 入口の道標に迎えられた

 

<有川市郎兵衛薬局―赤玉神教丸―別名:小町丸>

胃腸薬である赤玉神教丸は、多賀大社の坊人が全国布教とともに販売に力を入れて販路を拡大していった。

現在でも、有川市郎兵衛薬局として赤玉神教丸を販売している。

 

有川市郎兵衛薬局<赤玉神教丸>

 

鳥居本宿63 の北はずれ、国道8号線と交わるあたりに松並木が残り、袖塀に格子構えの家並みや古い看板が

続き、旧中山道の雰囲気を味わうことができる。

鳥居本宿63 は、道中合羽が名産品で<本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門>という看板が目を引く。

北国街道が分岐する交通の要衝として栄えた総戸数293軒・旅籠35軒の彦根にある中山道63番目の宿場

であった。

 

<本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門>の古い看板

 

織田信長は安土に城を構えた時、中山道安土城下を通らないので、岐阜城から安土城経由で京に向かう道

として、脇街道を整備した。この脇街道は別名、彦根道・京道・八幡道・下街道・浜街道朝鮮人街道・

唐人街道などと呼ばれ、ここ鳥居本宿63 から守山宿67 の間の16㎞が整備された。

 

松並木が残る旧中山道を進み、<本陣跡>、<脇本陣跡>を過ぎると<左中山道・右彦根道>の道標に出る。

なお、旧中山道は西に東海道新幹線と、東に名神高速道路に挟まれて南下し、小野小町の出生地と言われる

<小町塚>近くで、新幹線をくぐり、住宅街を通って今夜の露営地である芹川の川床にある広場に到着した。

  

 

鳥居本宿63  旧本陣 寺村家           鳥居本宿63  脇本陣・問屋跡

 

今夜の露営地に設営後、疲れと汗を流すため近くの国道8号線にあるスーパー銭湯極楽湯>に

飛び込んできた。

間もなく、梅田隊員と合流するので、弥次喜多は風呂に入って小奇麗にすることにした。

  

  彦根市国道8号線にあるスーパー銭湯極楽湯>800円

 

 

<▲29日目  5月16日露営地―不知哉(いさや)川の河川敷に設営>

 

  

中山道てくてく29日目 ー 不知哉(いさや)川の河川敷に設営

 

   《 とうとう琵琶の地に入った。祥介曰く京の味がすると。そう、なんとなくすべてに華やかさ

    という<味なる風>が吹いている。

    醒ヶ井の西行水を口にしたとき、関西の味を感じた。

    今晩は彦根を流れる不知哉(いさや)川の河川敷にあるゲートボール場にテントを張って

    の一泊だ。

    昨晩と同じく曇り空、星の観察は諦めた。

    今日も暑い一日、どうしても冷たい飲み物に手が出る。

    120円でビールが自販機で買えるのだから、弥次喜多はドイツ人なみにぐいぐいと

    いってしまった。

    いま村田君というライダー(オートバイ野宿組)が差し入れを持って訪問してくれた。

    日本一周したおり鹿児島で事故を起こし、現在リハビリ中とのこと。

    テントを見たので無性にしゃべりたくなったとのこと。

    互いの体験談や工夫、情報交換をして別れた。趣味の一致する友とは良いものだ。

    年代を越えてなんとも言えぬ親近感をもつ。


    近場の中山道にも素晴らしい宿場がある。

    ぜひ足を運んでみられたらどうかと紹介する。

    柏原宿60 とそれに続く醒ヶ井宿61 だ。

    前者は景観保全、後者は水を配した宿場演出が中山道というノスタルジーに見事に

    調和し、訪れた者にその魅力を充分に堪能させてくれる宿場である。


    今日は、ほかに常盤御前の哀しい墓に出逢った。

    都一(みやこいち)の美女であった彼女は16才で源義朝の愛妾となり、義朝が平治の乱

    敗退すると、敵将平清盛の威嚇で今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾になった

    と言う。

    牛若を案じ、乳母の千種と後を追って、墓のあるここ(関ヶ原山中町の峠)で土賊に襲われ

    息を引き取った。

    哀れにおもった山中町の里人がここに塚を築いたという。

    芭蕉の一句が心に染みる。

      《義朝の こころに似たり 秋の風》  芭蕉 

    

    関ヶ原首塚といい、常盤御前の墓といい、今日は多くの無情なる風がわれわれ弥次喜多

    こころの中を吹き抜けて行った。

 

    明日はさらに京の華やいだ空気が濃くなる。

    都を恋い焦がれた昔人の気持ちが分かるというものだ。

 

     《ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかり》  太田道権

    ではわれわれ弥次喜多も一句、

     《帰り来て 眺める杜鵑花 裏伊吹》     實久  (杜鵑花―さつき)

     《皐月風 田植忙し 不破の関      祥介

 

     おやすみ。

     いよいよ都人(みやこびと)に変身しなくちゃ。

     本日は関ヶ原を朝6時30分にスタート、今須宿、柏原宿、醒ヶ井宿、番場宿をへて

     鳥居本宿に午後5時48分に到着。

     行程は約25km、11時間を要した。

     明日は高宮宿、愛知川宿、武佐宿までいき、5月19日に武佐駅で梅田氏と合流する予定だ。


     弥次喜多こと後藤實久&田中祥介》 

 

 

<『不知哉川』読み方> (いさやかわ)

昨日の報告で、露営した不知哉川の河川敷及び付近の小山は万葉の時代に歌われた有名なところだ。

不知哉は『いさや』と読む。現在の芹川を言う。

 

《淡海路の 鳥籠山(とこのやま)なる 不知哉川(いさやかわ) 日(け)のころころは 恋いつつもあらむ》

と<万葉集巻447>詠まれている。  

 

不知哉(いさや)川の河川敷にて露営 (鳥居本宿63)

 

 

一気にゴールである京都三条大橋までを書き上げたかったが、余白の関係で今回はここ鳥居本宿63 で

終えることとする。

次回は、<同志社ローバースカウト50周年記念 中山道てくてくラリー後半報告書②>として

鳥居本宿63から、大津宿69を経て、ゴールである京都三条大橋までを描き上げ、踏破の喜びと、出迎え

の様子をお伝えしたい。

 

 

                    次回

                  

       『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ 

            <同志社ローバースカウト創立50年記念事業  記録および通信記録>

        ■ 中山道鳥居本宿63>➡<大津宿69>➡<ゴール・京都三条大橋>

        ■ <てくてくラリーIN 中山道 到着式> 京都三条大橋

        ■同志社ローバースカウト50周年記念式典> 新島会館

 

                    に続く

 

                 現在作業中

 

                   

                         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<関連ブログ>

 

中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ 

 中山道てくてくラリー前半 <日本橋0➡須原宿㊴>

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2023/01/23/092523