星の巡礼 ≪少年の体験した朝鮮動乱≫
● 2013年7月、朝鮮動乱終結60周年を記念して少年時代の逃避行・避難民ルート(636km)を自転車で
走ってきた。
ここに少年時代の追憶をたどり朝鮮動乱を生きぬいた家族や、少年の目から見た北朝鮮共産軍の実態、朝鮮動乱における少年サバイバル術、少年の戦いの日々を書いてみた。多々誤解や、想い違い、時間錯誤、思い込みがあると思うが、少年時代の不確かな記憶からくるものでありお許し願いたい。
● 私たち家族が朝鮮動乱に巻き込まれた軌跡を少年のみた目でここに書きとめておく:
① 僕は1941年末、日本が統治していた朝鮮の北東部に赴任していた両親のもと京都で生まれた。
② 生後一週間で赴任先に戻った両親のもと、1945年8月15日の終戦の日の38度線を越えての
家族による南朝鮮(現韓国)への逃避行まで幸せな幼児期を過ごしていた。
により朝鮮動乱(朝鮮戦争)は勃発した。朝鮮動乱は1953年7月27日の休戦協定成立まで戦闘
は 続くことになる。南北朝鮮はいまだ戦争状態が続いているのだ。
③ 先年、休戦協定成立60周年を迎えた。僕はこの機に少年期に体験した朝鮮動乱の戦跡を自転車でた どりたいと、『韓国国土縦断自転車道路636km』を釜山からソウル経由、仁川まで走ってきた。
(日曜日)午前4時に国境(38度線)を越えて奇襲侵攻したことによって勃発した。
● 朝鮮動乱のとき、9~12才であった少年が体験したエピソードを書き記しておく
① 防犯をかねてジャーマン・シェパード成犬オス『トミー』を広大な庭(推定200坪)に放し飼いにしていた。彼と遊ぶのが日課となっていた。しかし、彼は朝鮮戦争時のマッカーサーによる仁川からのソウルに向けての艦砲射撃の着弾の衝撃に寄り発狂、人民軍によって射殺される。以降、ぼくは犬を飼うことができなくなった
② 戦争中、庭は野菜畑や家族の逃げ込む蛸壺が掘られたり、キムチ用の大きな土器壺を埋められたりした。東側土手に見事なレンギョ樹林があった。この庭の雑草の白い茎は野菜代りのお浸しになったので、必死にとって回ったものだ。母はこの雑草白茎をいれた美味しいすまし汁を作ってくれた。またこの庭にはバッタやイナゴが沢山いた。焼くとカリカリと香ばしく、よくおやつ代わりに食べたものだ。
③ 戦争勃発と同時に食糧不足におちいり、近く公園に出かけてドングリの実を拾って、団栗パンを作って食べた。まずドングリの皮をむき、石でたたいて粉にして水に一昼夜浸し、乾燥させて丸めて焼くだけのシンプルなオヤツやパンを作り、空腹を満たした。
④ 家族の食糧のほとんどは長兄の田舎への買い出しに頼っていた。この買い出しについての長兄の体験談によると、長距離徒歩往復の途中での米軍戦闘機による機銃掃射の絶体絶命に出会ったり、その苦労は計り知れない危険との隣りあわせであったようだ。その家族思いに感涙しきりであり、感謝にたえない。
⑤ また家にあったドラム缶にガソリンが残されていたおかげで、色々なものと物々交換して飢えをしのげたことにも感謝したい。(父の車用燃料ガソリン)
●戦争勃発時の記憶を書きとめておきたい:
①戦史によると、1950年6月25日(日曜日)早朝4時 北朝鮮軍は38度線全線にわたって越南、
奇襲攻撃をしてきた。このニュースはソウル南、漢江(ハンガン)近くにあった我が家の南隣の
青年の短波ラジオの傍受により伝えられた。
③家族は、ソウルに入ってきた北鮮軍の戦車の間をかいくぐりながら家を出発してソウル北方に位置する知人宅に避難した。
戦車と建物のわずかの隙間を我々は逆行、北へ向かったのである。知人宅は二階建ての洋館で、
応接間の事務机の下に隠された入口より秘密の地下室に降りて、ここに一晩避難した。
④一昼夜の逃避行・避難・地下室で過ごしたのち家に帰るが、北鮮人民軍の政治将校によって
家宅捜査が行われる。父に関する所有物は座敷に集められ封印され、封印を破損した場合
の罰則を言い残して捜査終了をみる。
⑤北鮮人民軍がソウルを占領し南下を続けている間、僕は共産軍の政治将校による人民裁判
をつぶさにみてしまった。
政治家をシベリヤの収容所に送り強制労働に従事させ約700万人を粛清・殺害したとされる。
共産主義社会では相互監視と密告に支配されていたと歴史書は書き残している。
国民は猜疑心に脅える悪夢のような日々を送るはめになっていたようだ。
⑥少年の見た人民裁判を書きしるしておきたい:
ウイキペディアによると、『人民裁判とは、社会主義国家で、職業裁判官と人民とが同資格でおこなう裁判 。共産主義政権及び共産ゲリラが反対勢力や資産家を拘束して 人民裁判にかけて処刑し、財産を没収するということも多い』とある。
公園管理棟が人民裁判の本部となり、その前の広場におおよそ直径15m、深さ5mほどの円形の穴が掘られている。
その周りに近隣の住民が呼び集められて恐怖の顔に歪んでいるのがうかがわれる。
両手を縛られた被告人が白い服を着せられ膝跪いている。
軍服を着用した人民軍政治将校が人民裁判開始を告げ『この者の罪状を申し立てよ』、
住民より『かれはブルジュアージで贅沢をして暮らしていた』などと告発すると、
『では罪状は?』と問うと住民は一斉に『人民に対する反逆罪である。
『処刑せよ』と大合唱がおこる。
政治将校はピストルを被告人のこめかみ目がけて引き金を引くと処刑をおえる。
遺体は本人の前の穴にけり落とされ、裁判は終了する。
このような人民裁判が延々と続くのである。
住民は自分に振りかかる火の粉を払うように他人を処罰する方に加担することとなる。
一種の恐怖裁判であり、自分が助かりたければ密告せよとの警告でもあるのだろうか。
このようにして子供が親を売ったり、妻が夫を貶めいれることも多々あったと聞く。
悲劇である。
このような情景を少年である僕は何の感情もなくただ眺めていたことを恐ろしくおもう。戦争とは感情を殺してしまうのだろうか。いまでも悪夢のように思いだす。
□戦争中の少年たちの行動;
①北鮮人民軍がソウル占領の直前、ソウルに駐留していた米軍軍事顧問団およびその家族は
奇襲攻撃を避けるため一斉に体一つで南へ避難するためソウルを離れた。
家財道具の残されたその家に入り略奪が始まるのである。
ぼくも少年略奪団の一員になりプラスチック製カメラをくすねたことを覚えている。
その時はいい悪いというよりも、少年の冒険心か、ゲーム感覚か、ワクワク感にかられていた
ように思う。
もちろん今は反省しきりである。
戦争は少年の心をも狂わせる。
②僕たち少年グループはピストルや小銃、機関銃や大きいものでは榴砲弾等の実弾を拾っ
て、先に述べた人民裁判の舞台となった公園の窪みや根っこの穴に隠した。
昨年2013年『朝鮮戦争発60周年記念』に自転車で釜山⇒ソウル(最終到達38度線)と韓国縦断をした
とき、かっての公園に立寄ったが、記憶の曖昧さから隠した実弾を見つけることは出来なかった。
また、公園の地下には人民裁判で処刑された人々の遺体がいまでも埋もれているんだと思うと心が
痛んだ。
③僕たち家族も男性組と女性組の2グループに分かれて南へ避難するため水原(スウオン)
に向かったことがある。
男性組の兄と僕は、北鮮軍政治将校によって没収・封印された座敷に欄間の隙間から忍び込み、
南への逃避行のための朝鮮半島の地図や磁石(コンパス)等を持ち出しリュックに詰め込んだ。
これが男性組の悲劇の種になるとは思いもしなかったのである。
④ソウル⇒水原(スオン)<約100Km逃避行・南行避難民阻止隊と銃殺>
兄と僕はリュックに地図・コンパスや少々の食糧と水を詰め込み朝早く女性組より一足早く家を出て
漢江(ハンガン)に向かった。
多くの人たちが避難民として南に向かうため手漕ぎボートを待っていた。
当時の漢江は土手から川岸にかけて葦(あし・よし)が生い茂るのどかな風景であった。
川中にさしかかると溺死した死体が僕たちの乗る手漕ぎ和船に向かって吸い寄せられてくる
ではないか。
船頭や乗船客はその死体を手で押しのけながら、手で死臭をおさえつつ無事着岸、喜びの歓声を
上げたことであった。
昨年の自転車による韓国縦断旅行の際には、漢江の水の流れに手をつけて当時の情景を懐かしんだ。
葦は刈られ堤防は散歩道になり、両岸にはハイライズの高層マンションがびっしりと建ちならび
昔の面影はなくなっていた。
水原への道中、道の両側にはガスで風船のようにパンパンになった死体があちこちに転がって
いるではないか。
それも数日前まで激戦地であり北鮮人民軍に攻めまくられ敗退した米韓連合軍の兵士の死体なの
であろうか、痛ましい。
ほとんどの住民は北の方に避難していくのに、僕たちだけ南へ向かって避難しているのだから目立つ、
とうとう水原の手前の峠にある南への避難民を阻止するための検問所になっていた民家の中から
出てきた北鮮人民軍の監視員に呼び止められ兄は民家に連れ込まれた。
尋問と身体検査とリュックの中身の検査がはじまるとリュックの中から出てくる南朝鮮の地図や
コンパスなどスパイ道具ではないかと疑われた。
人民軍将校は兄を土間にたたせ両手を頭後方に組ませ銃殺のため小銃をかまえた。
ぼくは銃殺をやめさせるため大声で泣きわめいた。それしか思い浮かばなかったのである。
瞬間、人民軍兵士は泣き叫ぶ僕をみた。
そして小銃をおろして兄に言った、僕をあわれに思ったのか『南に向かわずに北に戻るならば
ゆるしてやる』と、兄の手記によると僕の泣き喚きは兵士の神経を昂ぶらせ引き金を早める
のではないかと覚悟したそうだ。『バカ泣くな!』と。
兄弟の意に反して兵士は銃殺行為をとらず、北すなわちソウルへ追い帰してくれたのだ。兵士に温情の心があったがゆえにだろうか、家族全員がまたふたたび離散せずにソウルで再会できたのである。
これまた奇跡であり、感謝である。
その後、北鮮人民軍は釜山にせまるが洛東江を越えて侵攻できず硬直状態となる。その間に、国連軍が参入、マッカーサー元帥の北鮮人民軍の背後からの分断をねらった『仁川上陸作戦』(クロマイト作戦)によって国連軍の反攻がはじまる。
我が家は全員、水原より帰還し再会、離散家族にならずに済んだと喜びを分かちあった。
その頃、仁川上陸作戦は着々進んでいた。同年9月15日クロマイト作戦開始、
まず 上陸地点である仁川市を艦砲射撃し北鮮軍を掃討したあと、上陸侵攻に成功し北鮮軍を
分断してしまう。
そして一路ソウルに向って北進を開始した。我が家でも姉の寝ていた 壁に砲弾があたり着弾穴が
あいたほどである。
姉は奇跡的に助かり、弾は不発、弾を見 つけることさえできなかった。
不思議な話である。
先にも述べたジャーマン・シェパー ドのトミーの気が狂い射殺されたのはこの艦砲射撃による
無差別攻撃の炸裂音のためで あった。
そして1950年9月28日ソウルは連合軍によって奮回された。
⑥1950年10月、一家は連合軍によるソウル奮回を機に南(釜山)へ難民列車により避難し、その後1953年夏12歳のとき最後の引揚船で帰国した。
朝鮮動乱休戦協定成立60年写真展』 ① につづく