『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』
ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅱ
《東ヨーロッパ & イタリア編》
星の巡礼者 後藤實久
いよいよ東ヨーロッパのいくつかの国を、ユーレイルパスによる列車の旅が始まる。
まずは、最初の東ヨーロッパの国、ポーランドのワルシャワに向かいたい。
この先、東ヨーロッパの国々は、11年前まで旧ソビエット連邦の衛星国としての官僚的機構のもと、
人民は恐怖政治のもとにあった、少し不安である。
ソビエット連邦崩壊による2001年当時の元衛星国であった東ヨーロッパの国々の民衆や生活を観察
してみたい。
■ 10月16日 ワルシャワへ向かう
ドイツは、第二次大戦での敗戦により共産主義陣営と自由主義陣営という二大陣営に組み込まれ、それぞれの
陣営に分割、統治されてきたが、1991年のソ連崩壊により東西両ドイツは統一された。
2001年当時、日本のバブル崩壊後の不況に比べると、統一ドイツは、いまだ再建の途上にあり、人々は生き
生きとしていた。
不況下の日本の青年にくらべ、ドイツ青年には国土回復への情熱が満ちていた。
東西ベルリンの象徴であったブランデンブルグ門を行き交う人々の顔には自由の大切さ、有難さを噛みしめ、
安堵に満ちていた。
11年前までは考えられなかった、絶望の象徴でもあったブランデンブルグ門やそれに続く<ベルリンの壁>
を越える東ドイツ市民には死を意味していたのである。
自由を求め多くの東ドイツ市民が、<ベルリンの壁>を越え、西ドイツに脱出を試み、多くの射殺者を出した
ことはご承知のとおりである。
自動車に隠れ、地下道を掘って、鉄条網を越え、気球で、グライダーで、潜水艇で、ビルの窓から滑車を使っ
て、子供を壁越しに放り投げて・・・ これらの実録を<Wall Check Point Museum>の展示で学習させて
もらった。
<ベルリンの壁>に立った記念に購入した壁のかけらが、いまもわが家に飾られている。
ドイツは、日本の大きさに近く、ほとんど山はないが、一番日本の風景に近いような気がする。
ドイツの青年たちは、他の国の若者にくらべ、いたってやんちゃで腕白、どのようなことでも好奇心がある
のであろう、中学生ながら歩きたばこをプカプカ、流行のようだ。
好奇心に満ちた多くの若者が、国家統一のもと伸び伸びしているドイツの、未来の明るさを見たように気が
した。
ベルリンのユースホステルで一人旅の勇気ある大和撫子に出会った。
12人のドミトリのなか、ただひとり毅然として男性に囲まれている姿に、尊敬の念を持ったのである。
その姿勢には、青年たちの鼾にも、視線にも物おじしない世界を渡り歩くバックパッカーとしての誇りが
みなぎっているようであった。
彼女の夢ある冒険の旅が成就しますよう、祈った。
ベルリンの夜が明けた。
プラットホームの灯りがまだ眠気を誘っている中、ドイツ高速鉄道ICE 列車番号EN#447は、ベルリンを
早朝 06:37 に滑り出した。 ポーランドの首都ワルシャワに昼過ぎ12:13に到着する予定である。
約6時間のドイツ高速鉄道CIEによるドイツ・ポーランド国境越えである。
東西にドイツが分かれていた時には考えられなかったベルリンーワルシャワ直通列車運行である。
平和だからこその列車の旅である。
ドイツ・ポーランド国境手前で、5人ほどのグリーンベレーをかぶったドイツの国境警備隊員(軍人)による
パスポートチェックが行われた。
列車は、ポーランドの草原を快適にワルシャワに向かって走っている。
延々とトウモロコシ畑がつづく。 ドイツの国全体が計画性のもとに、整然と利用されているのに比べ、
ポーランドは人間が自然に頼って生きている感が強いようである。
建物も古く、人間の汚らしさが沁みついているように見受けられた。
草原の羊も、種の蒔き方までもどこか雑然としているように感じられる。
なんといっても、手入れされずに放置された雑草地が多く目についたのが気になった。
ワルシャワ駅に8分遅れの12:21に到着した。
まず、International Ticket officeで次なるハンガリー首都プラハへの寝台の予約をとる。
さっそく両替(70PLN)を行い、昼食(ご飯・チキン野菜炒め・サラダ・コーク(14PLN)をとる。
WARSZAW/ワルシャワ駅に到着
<ワルシャワ散策>
ソビエット連邦の最高権力者スターリンが贈ったという<文化科学大宮殿>が、ワルシャワ駅前に人民を
威圧するように建っている。
その周りを資本主義の広告、とくに日本のSONY・SANYO・SHARP・VICTOR・PANASONICが、まるで
共産主義の権威を資本主義の広告と言う鎖で縛り付けているように見えた。
そう、あたかもマネーがハンマーを取り込んだように感じたのである。
現に、共産主義ソビエット・ユニオンは崩壊し、消滅してしまったあとに、資本主義と言うモンスターが
襲いかかったようにも見えたのだ。
人民の幸福を追求することを理想としたはずの共産主義は、なぜ一世紀ももたずに、崩壊し消滅して
共産主義は、高い理想から生まれた人民主体の理想である。 共産主義(コミュニズム)とは、財産を私有で
はなく共同体による所有、即ち<社会的所有>とすることで貧富の差をなくすことをめざす思想であり、
運動であり、体制のことをいう。
古代からのキリスト教原理主義のうち、イスラエルのキブツ(集産主義的協同組合)もまたその理想である
<構成員間の完全な平等,相互責任,個人所有の否定,生産・消費の共同性の原則>を掲げている。
ワルシャワの街は、建物が全体に低く、公園も多く、道路が広いので、とてもゆったりした平原の中の街と
いう印象である。
では、ワルシャワの街へ散策に出かけてみたい。
ワルシャワ散策コース
➀文化科学大宮殿(ワルシャワ・ポーランド) ②文化科学大宮殿前のバザール
➂サスキ公園の噴水 ④ワルシャワ・クランシスキ宮殿・公園
⑤1944ワルシャワ蜂起記念碑
⑥ ワルシャワ歴史博物館と旧市街
Sketched by Sanehisa Goto
⑥ ワルシャワ歴史博物館 15世紀コーナーにて
Sketched by Sanehisa Goto
⑦ワルシャワの旧市街
Sketched by Sanehisa Goto
⑧聖アンナ教会 ⑨ショパン博物館
散策中、イギリス大使館やドイツの大使館前にバリゲートが置かれ、自動小銃を構えた兵士が厳戒態勢を敷い
ていたことが、気になった。 おそらく前月起こった米国多発同時テロ9:11事件によるものと思われる。
散策途中、東ヨーロッパ汽車の旅の準備として、バザールに立寄り食料を仕入れた。
リンゴ・トマト・バナナ・オレンジジュース・サンドイッチ2箱(計14P)。
夕食は、栄養を付けるため、屋台で立ち食い中華(チョウメンほか10P)をいただく。
この屋台の若き主人が、ベトナム・ハノイ出身のハマ君。 同じアジア系の顔に親しみを感じたので
あろうか、しゃべりかけてくれた。
「お腹がすいているなら、いくらでも食べて行っていいよ」と笑顔。
チョウメンのほか、豚の角煮などもいただいたが、チョウメン代以外は自分の驕りだからと、どうしても
受け取らない始末。 その気持ちに感謝し、代わりにワールドカップのシンボルマークの入ったタイピンを
プレゼント。
周囲の羨望の的が、ハマ君に集まり、ワルシャワにおけるサッカー熱の凄さが伝わって来た。
ポーランドのFIFAにおける世界ランキングは20位の日本とほぼ同じだが、国民的人気度からすれば、
そのサッカー熱の高さを見たような気がした。
<夜行国際特急列車―ショパン号> IC(インターシティー) 所要時間:10時間50分
ワルシャワ(ポーランド) 10/16 18:58発 ➡ プラハ(チェコ) 10/17 06:48着
80€(ユーロ)
ワルシャワ➡プラハ夜行特急列車IC/インターシティー<ショパン号>電気機関車
■ 10月17日 ワルシャワ(ポーランド)より、プラハ(チェコ)へ移動
高速鉄道 IC/インターシティ<ショパン号> 列車番号362-168
ポーランド・ワルシャワ発、チェコ・プラハ行き列車内で、腹がすいて目を覚ました。
朝食用のハムサンドと、野菜ジュース、トマト、バナナを平らげながら、東欧を走る古びた昔懐かしい列車の
装飾や、時代物の構造物を眺めたものである。
ソビエト連邦が崩壊して10年のこの時期、2001年当時、最新鋭の高速鉄道を走らせていた西ヨーロッパに
くらべ、ソ連の衛星国であった東ヨーロッパ諸国は、今なお一部ノスタルジックなディーゼルや蒸気機関車を
走らせていた。
プラハへの途中駅で、<62005型 テンダ機関車>に出会って、興奮の一枚の写真を撮った。
特徴は、フェースがいたってシンプルで、前照灯がランタン型形状であるのが印象に残った。
東欧の列車は、古い車両を使用しており、列車マニアにとっては、ノスタルジーを肌で感じられ幸せで
ある。 古き重厚な夜行列車など、あたかも長き人生を歩んだ老兵のように、優しさと愛おしさで温かく
包んでくれるのである。
擦り切れた絨毯、窓にかかったレースのカーテン、安っぽい化粧板で仕上げた壁、窓枠にこびりついた
長年の垢、洗面台の鉄製のコック、トイレの大地への放流は、昔の日本や、シベリア横断鉄道を懐かしく
思い出させてくれた。
東西の冷戦の中、長い歴史という重荷を背負って懸命に走り続けてきたポーランドの特急列車に揺られ
ながら、隣国チエコ・プラハに向かっているのだと、あらためて自分に言い聞かせていた。
ポーランド国鉄 蒸気機関車 <62005型 テンダ蒸気機関車>
<臨検>
東欧の国をまたがっての国際列車では、2001年当時、10年前のソビエット連邦崩壊時の臨検が常態で
あった。 パスポート・チェックがあり、物々しい軍服姿で3~4人の小隊でやってくる。
真夜中、就寝中にコンパートメントのドアーを荒っぽくたたかれると、ナチス親衛隊に怯えたユダヤ人の
気持ちが、分かるような気がした。
軍人の一人が、無言で顔を睨みつけ、本人確認を行い、入国時の記録と紹介しているようである。
他の一人が、上段のベットにある荷物を調べ上げている。 ほかの軍人は見張りだろうか。
やはり、9:11事件の米国多発同時テロの影響と思われる。
しかし、軍服姿での臨検は、乗客を恐怖に陥れるのに十分である。
いまだ、東西ヨーロッパには、冷戦時代の対立からくる隣国への警戒感が残っているように思えた。
昨日は、ワルシャワの歴史博物館を見て回って分かったことだが、
第二次世界大戦の末期、1944年ワルシャワは、ドイツ占領軍に対して、ワルシャワ市民は一斉蜂起したが、
その返礼として、ドイツは爆撃によってワルシャワの街を廃墟にしてしまった。
ワルシャワ市民の勇気に対し、ドイツはワルシャワの歴史と伝統のすべてを焼き尽くしたという。
それも、ポーランドはドイツの隣国なのである。
戦後、ワルシャワ市民は、写真をたよりに、全く同じ景観を造り上げてしまっている。
2001年当時、なお建物の修復、再建を続けていた。
狭いヨーロッパでは、白人同士、隣国であろうと歯向かった国には、徹底して破壊する考えがあるらしい。
デンマークやフランスのように、抵抗せずに都市や国土、国民を守った例も沢山ある。
いわゆる、<パリ無血入城>などである。
しかし、お互いの国同士が隣接し、長きにわたって歴史的付き合いがあったにもかかわらず、よくも領土を蹂
躙し、隣人を殺せるものだと思うのだ。
この第二次世界大戦を見ても、領主としての感覚で、城を取り合った趣がある。 捕まえた市民を奴隷として
使役し、捕虜の兵士は殺したという。 抵抗した街は焼き払い、市民を皆殺しにした中世の戦いそのもので
あったといえるのではないだろうか。
<理想的共産主義の崩壊>
東欧の国に入ったばかりだが、どこか西欧の田舎という感じがする。
なぜか、思っていたほどに東欧で共産主義の面影を見つけるのに苦労するほどであった。
それだけ民衆は共産主義を排し、自由を求めていたように見受けられたのである。
なぜ、これまでに共産主義は嫌われていたのであろうか。
思想自体は、コルホーズなど私的財産を排し、共有財産を目指した理想主義であったはずなのに、
結局は、人間のエゴ・権力欲よりくる独裁という自己顕示欲を満たす道具として使った特権階級が生まれ、
レーニンの理想を踏みにじって、階級支配体制を生み出したことによる失敗であったのではないのだろうか。
共産主義という理想的ソビエット連邦国家建設と言う実験は失敗したと云える。
▼ 10/17 列車 車中泊
チエコ・プラハ駅に到着
プラハ散策ルート : プラハ中央駅➡旧市街➡ユダヤ人街➡プラハ城
➡カレル橋<ブルタバ川>➡マラーストラナ➡
チェコの首都プラハ駅に、朝6時48分定刻にIC/インターシティー夜行国際列車<ショパン号>は、
静かにすべり込んだ。
個人的にはパリより、プラハの歴史的景観の方が好きである。
プラハは、<百塔の街>とも、<ヨーロッパの魔法の都>や<北のローマ>など異名を持ち、美しい中世
ヨーロッパの原姿がそのまま残されていることで有名である。
素晴らしい歴史的景観を継承し、伝承するには、よほどの思想がない限り無理である。
第二次大戦の戦火を免れ、歴史的文化を守った根底には、その思想があったからであり、死守しえたのだと
思う。
その思想とは、宗教的対立を和らげる協調主義運動や、宗教的な問題に深く切り込まないという姿勢、
皇帝ルドルフによるユダヤ教を認めユダヤ人に対する寛容政策からくるものではなかったかと考えてみた。
この<百塔の街>を守り抜いたその背景にある思想を貫くために、住民が多くの苦汁をなめ、忍耐を重ねた
であろうことは、この美しい街を見れば分かるような気がする。
ただただ彼らの心情に頭が下がるのである。
<百塔の街>のシンボルの一つ<プラハ城の聖ヴィート大聖堂> プラハ旧市街
プラハ<百塔の街>の素晴らしい景観
旧市街路地裏夜景の塔
プラハのカレル橋からの風景は、橋上で哀愁に満ちたアコーディオンが奏でられ、歴史をゆったりとたどり
往くおのれを見つめられる中にあった。
カレル橋の下を流れるブルタバ川は、私を迎えて、ただただ歴史の中を、静かに流れていた。
私たちも、時の流れを受け継ぎながら、未来に向かって、子孫を残していく使命がある。
プラハは、人類の愛を考えさせられる舞台であるように感じられるのは私だけであろうか。
アメリカ大使館の前には、米国多発同時テロである9:11事件に対処する軍用トラックに重武装の兵士を
載せ、バリーケートとして列をなし、周辺通過車の厳しい検閲―爆薬探知機によるーもまた、地政学的な
ここチェコが、10年前(2001年当時)までソビエト連邦であったとは到底思いもよらない。
とんでもない、日本より生活が豊かだし、物資が豊富、国民の幸福度も高く感じられるのである。
プラハの郊外の高層マンションや高速道路を見ていると、カナダの首都トロントに劣らないと思えた。
長旅で、歩き疲れたのであろうか、プラハの地下鉄に乗り居眠りを楽しんだ。
まず、B-Trainを往復しながらぐっすり眠り、C-Trainに乗換えて、プラハ中央駅へと向かった。
なぜか、プラハの地下鉄は平日であるにもかかわらず、空席が目立ち、東京のように超満員と言うことが
なかった。
居睡りしながらも、偽警官などの職務質問や、置きひきに警戒はしたが、意外と安心安全を感じたもの
である。 ただ、プラハ中央駅の混雑では、いかにバックパッカーでもベンチでの居睡りは、すすめられな
い。
ブルタバ川に架かる〈カレル橋〉で
プラハ・ショッピング街で
プラハ城から旧市街を望む
カレル橋の聖人像と
ブルタバ川カレル橋からプラハ城を望む
Sketched by Sanehisa Goto
▼ 10/18 国際列車 車中泊
<プラハ/チェコ➡(スロバキア通過)➡ブタペスト/ハンガリー➡ウイーン/オーストリア>
<国境通過時臨検あり、投獄> 10/19 03:48am
10年前の1991年、ソビエト連邦が崩壊し、チエコスロバギア社会主義共和国は、チェコとスロバキアの
2カ国に分割独立をはたした。
ドイツで購入したオーストリア・ウイーン行特急列車の切符は、ポーランド・ワルシャワ、チェコ・プラハ、
ハンガリーブタペスト、そしてオーストリア・ウイーンへと、当然乗り継いで行けるものとばかり思って
いた。
しかし、プラハからの国際夜行特急列車が、スロバキアに入ったとたん、それも真夜中に軍人による臨検が
行われたのである。 当然、通過国であるスロバギアには立寄らないで、列車で通過するだけだからビザ
(入国許可書)は必要でないと思っていたのである。
ドイツでの発券当初、かかる臨検の話も聞かなかったし、ましてやチェコ・プラハでの乗継時も何の説明も
なかった。
どうも、ほとんどの旅行者がここスロバギアに立寄らずに素通りしてハンガリーや、オーストリアに向かう
客に対する嫌がらせにも見えた。
一方、臨検の軍人たちは、通過国のビザを持たない乗客を取締り、下車させ、事情聴取をするという役割を
忠実にこなしているに過ぎないともいえる。
ただ、多くの国の臨検で、ビザ変わりの通過許可スタンプを押してくれれば、すべて解決するのだが、
今回のスロバギアの係官は、同じ列車に乗っていたパックパッカー5名(エクアドル人1・ブラジル人2・
アルゼンチン人1・日本人1)を、ビザなし乗客として深夜、Bratislava駅/Slovakiaで強制下車させた。
そして、駅に設けられた監獄付き取調室へ強制連行した。
この辺りは、チェコとスロバキアとオーストリアが接する三角地帯である。
ほんの一部この列車はスロバキアの領土を走り、オーストリアに抜けるのである。
微妙な、デリケートな国境地帯で強制連行させられたのである。
鉄格子でできた独房に監禁され、放置されること数時間、いつ解放されるかわからず不安がつのる。
が、この処置も一種の警告の様で、翌朝にはチェコに戻ることを条件に、チェコ行の列車に乗せられた。
少し、国境のデルタ地帯を説明しておくと、スロバキアの係官の説明によれば、スロバキアのビザがない
場合、チェコよりハンガリーのブタペストへの行き方は、チェコよりオーストリアへ向かい、その後
ハンガリーへ向かへとの事である。 すなわち、スロバキアを通過しない路線を使えという警告であった。
言い換えれば、チェコ・プラハよりハンガリー・ブタペストへ直通で行けるスロバギア経由には、どうしても
スロベニアの係官にしてみれば、自国への観光なしに、素通りして隣国に行かれる悔しさが滲んでいる
ようにも受けとれて、すこし分かるような気がしたものだ。
スロバキアの監獄で一夜を明かしたバックパッカー5名は、解放と自由を喜び、それぞれの目的地である
ハンガリーのブタペストへ、強制退去させられたオーストリア経由で再度挑戦することとなった。
スロバキアでの拘留より解放されチェコへ戻される列車でVサインするバックパッカー達と
<路線変更> 国際列車 車中泊<プラハ/チェコ➡スロバキア通過不許可➡
チェコに戻される➡オーストリア/ウイーン➡ハンガリー/ブタペスト
東ヨーロッパ路線図
■ 10月19日 ハンガリー首都ブタペストから、
オーストリア首都ウイーンに向かう
チェコに戻り、列車を乗り換え、オーストリア経由でハンガリーの首都ブタペストに向かった。
オーストリアとハンガリーの国境では、東ヨーロッパ特有の霧と靄のため車窓からの景色である幻想的な
朝陽の輪郭に酔いしれた。
スロバキアを追い出された5人は、それぞれの知恵を絞って、追加運賃支払いを回避するためにあの手
この手で、車掌に説明することになった。 これこそバックパッカーの無駄遣い回避の精神であるが、
老境に入ったこちらにとってはなにか、無駄な試みに見えたものである。
それだけの若さを失ってしまっている自分に失望はしてみたが、すぐに諦め、寝不足解消のため深い眠りに
沈んだ。
東ヨーロッパに入ってからの情報収集は、新聞<ニューズウィーク・タイム・ヘラルド・トリビューン>や、
TVニュース<CNN・BBC>から得られるのだが、なぜか英語ではなく現地の言語で翻訳され、情報に取り巻
かれながらも、理解出ずに消化不良に落ち入ったものである。
後方に霞む王宮の丘 (ドナウ川のクサリ橋より望む)
ブタペスト・ハンガリー
正面に聖イシュトバーン大聖堂がそびえる繁華街を散策
ブタペスト・ハンガリー
王宮の内部インテリアを観賞 王宮の彫像を観賞
ハンガリ―・ブタペスト散策
<セーチェニ/Szecheny 温泉 ブタペスト・ハンガリー> 入浴料900HUF
バックパックで世界をまわり、山奥で温泉につかりながら観た星空や、北斗七星・南十字星など、野趣に
満ちた温泉に比べて、これほど文化の匂いのする温泉<セーチェニ/Szecheny 温泉>に出会ったのは
初めてである。
温泉にあるネオバロック様式の宮殿は、何世紀にも渡ってハンガリーが温泉の国であったため、
セーチェニ浴場を開設するにあたって特別に建設されたほどである。
また、セーチェニ温泉は、ヨーロッパ最大級の温泉、大小18の浴槽と10のサウナ、屋外プールが入った
ヨーロッパ最大の温泉複合施設となっている。
ここ<セーチェニ温泉>と、ペルーのアンデスの山中にあるマチュピチュ<アグアス・カリエンテス温泉>、
ブータンのモラル川の<ガサ温泉>、台湾台北近郊にある<陽明山温泉>を、数多く訪れた温泉の中から、
バックパッカーとして推奨しておきたい。
宮殿の中に温泉がある<セーチェニ温泉>前で
<セーチェニ温泉> ブタペスト・ハンガリー
トルコの温泉が、何世紀にも渡って吸い取って来た汗の臭いで、たまらないほど人間模様を醸し出している
温泉に比べ、ブタペストのここ<セーチェニ温泉>は、ローマ帝国のカラカラ温泉を思わせるような歴史的
豪華さを秘めたより文化的な温泉である。
東ヨーロッパ訪問時には、是非ブタペストの<セーチェニ温泉>に立寄り、宮殿温泉の文化的浴場を楽しんで
みていただきたい。
<イコンと東方教会>
ここブタペストでの目的の一つに、東方教会の聖画像であるイコンを購入することである。
アンティーク屋さんで丁度リュックサックに入る大きさのイコンを見つけたが、旅行中もって歩くことも
できないので、次のどこか大きな街で時間を見つけて郵便局から船便で日本に郵送することにした。
写真にある1800年代に描かれたイコン<イエス・キリストと10人の使徒>をチェコの首都プラハにある
カレル通りの古美術商で見つけて、即購入した。
(2001当時レート:25000円=88000HUF)
テンペラ技法を用いた板絵<イコン>は、ここチェコはじめ東方正教会で崇拝され、信仰を深める聖画像を
さしている。 イコンには、キリスト、聖母、聖人をはじめ、キリストや聖母マリアの生涯や、聖書の
一場面で構成されている。
イコンは、ギリシャ語で<イメージ>を意味し、まだ印刷技術が発達していなかった時代に、儀式や信仰
ツールとして、教会や各家庭に飾られていた。
日本でも、五島列島はじめ隠れキリシタンの摘発に、踏み絵としてイコンが使われたことは、
遠藤周作著「沈黙」の中で詳しく描写され、良く知られていることである。
ブタペストで手に入れたイコン
ロシアで出会ったイコンのスケッチ
<ハンガリー・ブタペスト 15:10発 ➡ オーストリア・ウイーン 18:12着>
国際特急-列車番号RJ-68
<ブタペスト ⇔ ウイーン間の列車事情>
両都市間の列車は、人気路線なのであろう、観光客でいつも満席状態であるようだ。
列車も大幅に遅れて到着、それも急遽変更になったプラットホームのアナウンスである。
重いリュックを背負ったバックパッカーにとっては移動が大変である。 ヨーロッパの駅はほとんどが、
長いプラットホームを持ち、端から端まで約1㎞もあり、移動に約15分かかるから、こころしたい。
この当時、ヨーロッパの国のほとんどの公衆便所や列車トイレ横には、販売機があり、何故かティッシュ
ペーパーと共にコンドームが売られており、日本でなじみのないこちらとしては最初驚いたものである。
それも日本製品であるからさらに仰天である。 それだけ優良品なのであろうか。
列車は、オーストリアの首都ウイーンに近づきつつあり、気持ちとして何かホッとさせられている。
やはり、東欧は10年前までソビエト連邦の構成国であり、ソ連の衛星国であっただけに監視体制の名残り
からか、緊張の連続であったのだと思う。
<二世・ハーフ・移民>
ウイーンのユースホステルで最初に出迎えてくれたのは、日系オーストリア人ケーシ君である。
彼は、サングラスをかけ、リーゼントスタイル、黒づくめのスタイリストで、バックパッカーには到底
見えない青年であった。
最初、英語の中に、少し訛りのある日本語「コンバンワ、オツカレサマ」に驚かされたのである。
ほかにも、英語でのやり取りの合間に、「いいですよ」とか「そうそう」を、入れて来るのであるから
なおさらである。
本人は、まぎれもなくオーストリア人の風貌をしているが、もしハーフで、片親が日本人であれば、
第二外国語として日本語を学んでいて不思議ではない。
ここユースホステルで、東洋系、いや日本人に出会って、懐かしさと、好奇心と、父母の血が流れる
おのれのルーツに出会って、興味に駆られての声掛けであったと思われる。
西洋人は、みな自分のルーツを大切にすることを、半世紀近くの海外暮らしで知っていたこちらには、
かえって自分のルーツに出会って目を輝かせるケーシ君に好意を持った。
ニューヨーク在住時、周囲の友人や・隣人・同僚はほとんどが、少なくとも2~3か国のルーツを持って
いたし、それがニューヨークっ子のアイデンディティであったからある。
わが子も、日本生まれながら、幼児で渡米し、アメリカの子供たちと同じくアメリカのキンダガーデン
(幼稚園)や、公立小中高に通い、土曜日だけ両親の母国語を学習するため日本語学校に通っていた。
やはり、現地の言葉が第一言語となり、両親の言葉は第二外国語とならざるを得ない。
子供達二人とも、三歳児からアメリカで育ち、それぞれの道を歩んでいるが・・・、子供のころに学んだ
言葉は、母国語以上に自己形成のメインとなり、生き方の価値基準となることを知っているつもりである。
ケーシ君も、オーストリア語や、英語が彼の言語であり、付属的に日本語を少し理解していると言って
いいだろう。 これは、両親から受け継いだ運命であり、遺産といえる。
あとは、本人がいかにその第二外国語を生かしていくか、本人に任された宿題である。
息子も、20歳で日本国籍を離脱し、アメリカ国民となり、現在では忠実なアメリカ市民としての生活と、
役割を果たしていることに満足している。
ケーシ君に出会って、わが子の運命を重ねて見た。
親の勝手な思いであることを、十分承知しているが、生まれ来るところの両親、環境、時代、機会、運命に
逆らわず、選択し、決断し、決定し、トライし、どの方向に、いかに歩むかは、子供それぞれに与えられ
開かれた、自由なる道であると思う。
<東欧の若者>
もう一人ユースホステルで出会った青年がいる。
22歳のブルガリアの青年、サージン君は、2~3日の予定でウイーンに気晴らしに来ているという。
「若者は、夢をもって国家や家族のために全力で働くべきだ」とのアドバイスに、
「あなたは日本と言う大国で、裕福な国に生まれたから、そう云えるのだ」とサージ君は言う。
ブルガリアでは、働くチャンスもなく、失業者が溢れていると。
そういえば、ソビエト連邦が崩壊した直後から2~3年、東欧からのボートピープルが、イタリアの港に
押し寄せ、イタリアの警察が追い払っていた光景を思い出したのである。
この不安定な政情の世界には、サージン君のような、夢と希望を持ちながら、彼らの才能を生かせていない
大人の無責任さが漂っていることに気づかされるのである。
ウイーン中央駅に到着
▼ 10/18 ウイーン・ユースホステル
Hostel Wien : Myrthengasse(HI) Wien, Austria
■ 10月19日 オーストリア首都<ウイーン>滞在 11℃ 靄かかる晴
日記や収集資料、イコンや土産類、写し終えたフイルム等をまとめて日本に航空便で送る。
非常用食料(リンゴ・バナナ・オレンジ)の購入 18AM
ウイーン美術館入館料 100AM
美術館案内説明書購入 10AM
ウイーン国立墓地案内地図購入 50AM
<神の国に招かれて>
早朝、パイプオルガンの荘重な音色に導かれて教会の長椅子に座った。
無事旅を続けていることへの感謝のため、Augustiner Kirche教会で静かな祈りを持ったのである。
しばしの瞑想、そこにはわたしの好きな銀河鉄道が突っ走る壮大な宇宙空間が広がり、月の王子さまが
サハラ砂漠で自分の星を見つめている広大な情景が広がった。
さらに、ニューヨークのマンハッタン、摩天楼の谷間に真赤な太陽がゆっくりと沈みゆく、スローモー
ションの幻想的な世界が浮かんだ。
瞑想、祈りは、わたしの心が宇宙に吸い込まれ、一体になる瞬間である。
こころをリフレッシュし、これまでの導きに感謝すると共に、無事目的地である南アフリカ・ケープタウン
への無事なる導きを祈った。
Augustiner Kirche教会 ウイーン/オーストラリア
<ビエンナ-中央墓地> (ウイーン中央墓地)
王宮を一周する市電/トラム#1<リング・ライン>に乗って中央墓地に向かうため、歩いていると、袈裟衣
を身につけた老僧に出会った。
物静かな中に、厳とした動作、一歩の重みが伝わる爽やかな歩みに、こちらは知らずの内に老僧に向かって、
頭を軽く垂れ、目礼をしていた。
その瞬間、老僧もまた目礼を間髪入れず返されたのである。
この不思議な心の通いに、早朝のパイプオルガンの荘重な響きが体に満ち満ちていった。
墓地が好きである。
どこに居を構えようと、近くの墓地探しに出かけるのが常である。
そして、ジョギングコースに取入れ、立寄ることにしている。
お墓は、肉体をまとった精神と、宇宙霊となった魂がまじわるところであると思っているからであろうか、
それとも亡き身近な者との出会いの場であるからであろうか。
世界を旅していて、こころして墓地通いを続けている。
長年住んだアメリカはじめ、フイリッピン、ビルマ(ミヤンマー)、インドネシア、フランス、ドイツ、
ポーランド、ロシア、スペイン、ギリシャ、パキスタンほか随分と訪ね歩いたものである。
フランスのモンマルトルの丘や、ここウイーン中央墓地では歴史的な偉人や、好きな俳優の墓に詣でたが、
他はほとんど無名のお墓や、現地で戦病死した日本人墓地である。
今日は、オーストリア・ウイーンにある<ビエンナ-中央墓地>に詣でた。
特に32A区には、ベートベン、シューベルト、モーツアルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームスら
大作曲家ほか、大好きな俳優クルト・ユルゲンスの墓がある。
墓地# お墓 没年 遺業
27 <ヨハン・シュトラウス> 1899_06_31没 ウイーン・オペレッタ/ワルツ
28 <フランツ・シューベルト> 1828_11_19没 古典主義ロマン派/歌曲の王
29 <L. V. ベートベン> 1827_03_26没 交響曲/ピアノソナタ
54 <クルト・ユルゲンス> 1982_06_18没 国際的映画性格俳優
55 <W.A.モーツアルト> 1791_12_05没 古典派音楽/ウィーン古典派
<ウイーン中央墓地> 墓石に囲まれて
ブラームスの墓で
ウイーン中央墓地 32A区 大作曲家墓地群
Sketched by Sanehisa Goto
<ウイーン美術史美術館>
ウイーンには、歴代ハプスブルク家のコレクションを集めた世界でも屈指の美術史美術館<レオポルド
美術館>がある。
ブリューゲルの『バベルの塔』をはじめ、フェルメール、ラファエロ、ルーベンスなどの傑作を観賞する
ことができる。
人間も、自然も同じだが、相手に興味を示すか示さないかで相手からの反応が大きく異なるのである。
美術館での鑑賞の姿勢も同じようだ。
作品に興味を示すか、示さないかによって、自然に足を止めるか、無視して通り過ぎるかである。
興味なく作品を通り過ぎると、作品もまたこちらを無視して、いかなる情報も発信してこない。
しかし、こちらが興味を示したり、反応したら、作品はそれ以上に反応し、作品の方から色々な情報や、
エネルギーや、作品を画いた画家や制作者のメッセージまで伝えてくれるのだ。
急がず、これと思った作品に出会ったら、とことんお喋りすることにしている。
「そうよ!」と、Tizian(1488~1576)の画いた<Violante>という美女がうなずいてくれた。
彼女Violanteとの出会いは、観賞疲れで長椅子に座った目の前の壁に飾られ、豊満な肢体に、少し緊張した
目でこちらを見ているお嬢さまのすこしはにかんだ視線を感じてのことであった。
「あなた、わたしに興味を持ったんじゃなくて、たまたま疲れたんでわたしの前に坐ったんじゃないの?」
「と言っても、これもご縁ね! こんなにわたしを見つめてくれたのは、あなた一人かも・・・」
「これから仲良くしてね。 わたしは、今から450年前にイタリアのティツィアーノ・ヴェチェッリオ/Tiziano
Vecellio (1490年頃 – 1576/8/27)が画いてくれたの」
「450年前の日本ってどんな時代だったの?」
「そうだね、1550年頃の日本は安土桃山時代で、戦乱に明け暮れていたね。 ちょうどフランシスコ・ザビ
エルがキリスト教布教のために鹿児島にやって来たのもこの頃だよ」
お喋りをしていると、彼女もにっこり笑ってくれ、「いま、美味しいお菓子を出してあげるから待っててね」
っと、すっかり女房気取りで世話をやきだしたのだ。
絵画の人物像と話をするという、実に不思議な時間をここウイーンの美術史美術館<レオポルド美術館>で
持ったのである。
<Violante>
Tizian画(1488~1576)
▼ 10/19 連泊 <ウイーン・ユースホステル>
Hostel Wien : Myrthengasse(HI), Wien, Austria
<ウイーン・ユースホステル>で
(所要約3時間14分 317㎞)
<オーストリア国鉄 特急列車EC-160 MARIA THERESIA号>
ウイーン07:16発 ➡ ザルツブルグ10:31着
注 <マリア・テレジーア/マリアテレサ>とは、ハプスブルク帝国、いわゆるオーストリアの君主で
実質的な「女帝」であり、「神聖ローマ帝国皇帝の皇后」である。
最初、「コルカタの聖人 マザーテレサ」と間違ってとらえた特急列車は、「オーストリ・ハブスブルグ家
の女帝」の名であった。
EC-160 MARIA THERESIA号 (フォト:増田 宏氏)
<特急列車EC-160 MARIA THERESIA号>は、ザルツブルグに朝10時半にすべり込んだ。
以前から訪ねたかった<ザルツブルグ博物館>でザルツブルグ家の財宝をスケッチし廻った。
帰りに、守り人として<キリスト像>を手に入れ、その後の旅の<同行二人>としてもらった。
ランチは、博物館近くを流れるザルツマッハ川で、ハムサンド・オレンジジュース・バナナ・リンゴを
いただく。
川の流れに身を任せ、急流を下り往く水鳥ものびやかだ。
今までの東ヨーロッパで味わった、どんよりした灰色の空と違って、アルプスに近いザルツブルグの澄み
切ったブルーの美しい空に声を上げた。
通りすがりの修道女たちがにっこりと笑ってくれた。
ザルツブルグ博物館前広場にて
同行二人<キリスト像>
ザルツブルグ家の財宝
Sketched by Sanehisa Goto
ランチの後、笑いを送ってくれた修道女に導かれるように<ザルツブルク大聖堂>で旅の無事を祈った。
<徴兵制と自由>
この旅では、平和で自由な世界だからこそ旅が続けられる有難さを感じながらも、多くの国で若者が戦闘服
に身を包み、街頭を闊歩し、休暇を楽しむ場面に出くわしてきた。
なかでも、中立国であるがゆえに自主防衛に力を入れているスエーデンや、スイス、オーストリアに若い兵士
の姿が、平常の生活風景に溶け込んでいた。
これら中立国は、徴兵制を敷き、専守防衛のための武器開発、防空システムの網羅、防衛体制の日常的な訓
練、緊急時のシェルターの常設、緊急発進用の戦闘機の退避壕、隠されたカムフラージュ戦車など、他の国
以上に戦闘準備のステルス化を仮想の相手国に見せつけているように感じた。
ハリネズミのように、襲いかかる敵国に対して、いかなる国であろうと国民が一致団結し、皆兵となって祖国
を防衛するという意志と姿をあえて見せつけているようである。
徴兵制と言っても、どこか郷土愛にもとづいており、自分たちの国は自分たちの手で守るという固い意志が
感じられる。
中立国は、どの国とも相互防衛協定を結ばず、自主防衛に徹しているところに、歴史の繰り返しである戦争を
回避し、永続的な平和を望む姿勢が見てとれて、我が国のあるべき姿を見たような気がしたものである。
そう、中立国の徴兵制に、国民としてその国の一木一草にまで愛情を注ぎ、平和と自由のあるべき理想の国を
目指し、郷土を守り抜く決意の表れと受取った。
<列車で、インスルブルグに向かう>
普通列車 ザルツブルク 13:08 発 ➡ インスルブルグ 17:32 着
いま、インスルブルグ行普通列車は、<サウンド オブ ミュージックの舞台>であるオーストリア・アルプス
のチロル地方の丘陵地帯をのんびりと走っている。
ここオーストリアも、やはり数次の大戦でドイツにより侵略を受けており、その際の家族が避難する過程を
描いた映画は、ミュージカル作品として世界に発信され、感銘を与えた。
映画で見たあのなだらかな丘一面の緑の絨毯が、いま走る列車の前に敷き詰められ、われわれを迎えてくれて
いるではないか。
感動の一瞬を<サウンド オブ ミュージック>のメロディーを口ずさみながら時の流れを楽しんだ。
山々の峰が、すこし尖って来た。 アルプスに近づいてきたようだ。
17:32 高度を少しづつ上げた普通(登山)列車は、定刻通りにインスブルグに到着した。
さっそく、インスブルグ・ユースホステルにリュックを置いた。
同室のノルバー君(ノルウエー)、G Y Yong君(コリア)が、あたたかく迎えてくれた。
夕食後、若いバックパッカーの質問責めが、夜更けまで続いた。
「日本語や中国語は、象形文字だったね?」 <表意文字に近いかな・・・>
「禅と瞑想は、どう違うの?」 <宇宙と己の一体感と内観かな・・・>
「アラブとイスラレルのどちらに正義があると思うか?」
<神は人間の争いの仲介には入らないのだ・・・>
「正しい環境保護とは?」<各国でとらえ方に差異があって当然かな・・・>
▼ 10/20 インスルブルグ・ユースホステル (オーストリア) 宿泊代160AM
Reichenauerstraße 147, プラートル, 6020 インスブルック, オーストリア
インスルブルグ・ユースホステルで
ノルバー君(ノルウエー)と
■ 10月21日 列車移動 <インスルブルグ ➡ ローマ>
この辺りは、もうオーストリア・アルプスの麓である。
北側の山々の峰から強風が吹きおりてきて肌寒い。
ノルウエ―からのノルバー君は、この山に挑戦するそうだ。
インスブルックの北側の山は、ノルトケッテ連峰という。
くれぐれも足元に注意するように、そして成功を祈って別れた。
インスブルックの北側の山は、2400m級ノルトケッテ連峰
オーストリア・アルプスの峰々
左よりEbenejoch1954m / Hoidachstellwond2190m / Sonnwindioch2274m
インスブルグ駅より望む
Sketched by Sanehisa Goto
インスルブルグ背後に広がるオーストリア・アルプス観光地図
08:39am インスルブルグ発 登山列車<Train#164>は、 スイスのサンモリッツ/St. Motitzに向かって
走り出した。
発車して間もなく、車掌がやって来て 「この先の線路が寸断されたので、途中駅Otztalで下車し、バスに乗換え、Bludenz駅まで送る」(この間、約100km) とのことである。
人生と同じで、旅には予想しがたい出来事がつきまとうのである。
だから、計画にない出来事に出会う旅も、人生と同じく愉快なのだ。
自分では如何としがたい出来事には、見えざる手が働き、人智を越えた働きで、問題を解決してくれる導き
があることを、この歳になると分かるのだ。
今回もおのれのすべてを他力に任せ、この場を切り抜けることにした。
乗継のバスに揺られていると、雪を頂くアルプスの麓の尖塔を持った教会からかすかなパイプオルガンの音が
聴こえてきた。
オーストリア・アルプスの山岳教会からオルガンの音が聴こえてきた
村の人々が、アルプスの民族衣装に身を包み、家族が寄りあい、パイプオルガンの音に包まれながら、おのれ
を神にゆだねる幸せに、感謝をささげている光景が瞼に浮かんだ。
鉄道線路の崩壊で、アルプスの山村を約100km<Otztal駅~Bludens駅>迂回しながら、バス旅行を楽し
ませてもらっている。
驚いたのは、このアルプスの僻地に多数の観光客を回送するバスが集められていたことである。 その災害
処理への取り組み方や、処理の仕方の合理性に驚くと共に、乗客への配慮の素晴らしさに、観光立国としての
自負と責任感が見てとれた。
災害に遭遇した観光客(乗客・被害者)に対する処置・対応について、すこし見ておきたい。
次の三点に注目した・・・<待たせない・情報を切らさない・素晴らしい対応>
<迂回バスの小休止> アルプスの霞む山村を背景に
この列車は、ウイーン発、スイスのチューリッヒ行だから、各方面への乗客や団体観光客が乗車している。
これをバス乗継駅に到着するとともに、方面別指定バスに案内し、5分程で全員乗車させ、目的地に向け
出発させていた。 そこには乗客からの不満の声を聞くことはなかった。
オーストリア鉄道関係者の手際よい対処に拍手を贈ったのである。
そして、先でも述べたが、バスの車窓からの雪帽子をかぶったオーストリア・アルプスの絶景を
堪能させてくれたのである。
迂回バス乗車というハプニングが、かえってアルプスの意外な姿を見せてくれたのである。
迂回駅Bludensで再乗車し、スイス国境の街Buchs駅で下車したのは、わたしを含め数人であった。
スイス国境の街Buchs駅でサンモリッツ方面行<氷河鉄道>に乗換
<スイス国境の小さい駅で>
スイス・アルプスの国境、小さな駅<Buchs>に一人寂しく立ち尽くした。
構内の壊れた栓から、清らかな一筋の水だけが、尽きることなく流れ落ちる様は、哀愁に満ちていた。
人生における、無人の荒野や砂漠に下り立ったような状況を味わっていた。
ふと、寂しさの中に、Buchs駅までの列車の中で出会った温かい光景がよぎった。
同じ車両に、日本人は自分一人だとばかり思っていたところ、母娘二人旅の日本人がおられたようで、
娘さんの母に対する想いが、心地よく響いて来たのである。
「復誦って英語でなんだっけ・・・、 わたし豚って大嫌い・・・、 見てみてあの絵 気がっ滅入ってしま
うわ・・・、 わたしたちの人生普通じゃなかったのね・・・、 お母さんと旅ができるなんて わたし幸
せ・・・」 延々と娘さんがひとり母親に、わたしが降りるまで語りかけていた。
なんと素晴らしい娘さんであろう、人生において娘や息子の親孝行ほど母親にとって素敵な幸せはないと思っ
ている。 どのようなプレゼントよりも、気づかいと、優しい言葉に尽きる。
そこに神様の心が宿っているなら、なおさらである。
前回10月9日頃に、スイス・ローザンヌに入った折に残っていたスイス・フランの小銭で、英語版の新聞
「USA TODAY」を買い求めたら、3.50CHFという、手持ちは2.80CHF、0.70CHFの不足である。
諦めかけたら、「あとは私のおごり、もっていっていいよ」と、赤ら顔のおばあちゃんがニッコリと笑って
くれた。
人生って嬉しいね。 ちょっとした心遣いをもらったら、なにか大きな大きな宝物をもらったように嬉しい
ものである。
ちょっとしたこと、お金にかかわることでは無く、席を譲ったり、手荷物を持ってあげたり、道を教えてあげ
たり、目が合ったときに笑顔で返したり、ゴミを拾ったり・・・と、小さな善意は、いたるところに宝石の
ようにキラキラしているから、こころを豊かにするチャンスを生かせるのは、その人のこころ、行動、勇気
次第のような気がしたのである。
<武装中立・スイスの気概>
先でも述べたが、中立国としてのスイスにおける一つの国防コンセンサス<自国を自分たちの手で守る気概>
に触れてみたい。 アルプスと言う景観を大切にする国民性は、そのまま故郷を大切にする、守り抜くという
コンセンサスで一致していると云えそうだ。
スイスは国民皆兵制度をとり、徴兵訓練とベテラン再訓練が義務付けられている。
洞窟・地下壕・掩蔽壕・トーチカ・核シェルターなどに、都市から村落まであらゆる場所に、戦闘機はじめ
兵器弾薬までを格納・保管し、それも<やってますよ>と、その覚悟をところどころで見せているのがいい。
スイスは綿密にデザインされた要塞のような国だと云われている。
スイスの国境は基本的に、命令によって爆破できるように作られているから驚きである。
四方を他国と接する内陸国のスイスには、橋、道路、鉄道、トンネルなど少なくとも3000カ所の爆破地点が
設けられているという。
この小国スイスが、二度の大戦時には、ハリネズミ戦法で、連合国や枢機国に領土を踏ませなかったので
ある。 その伝統は<自国は他人に任せられない>という信念に見られる。
全国民が、平時の軍事訓練を受け、レベルの高い軍事技術を身につけ、郷土防衛と言う愛国心、それに子々
孫々に美しい国土を継承していくという覚悟にあるように見てとれた。
山岳地帯に隠された武器庫 (Business Insiderより)
<こころの風景>
バスの車窓からは、スイス・アルプスの白雪のもと、真黄色な白樺の葉が、散り往く美しい姿を見せている。
今、見ているアルプスの風景は、こころの風景でもある。
愛おしさからくる山の風景や、山と交わす会話は、その都度変化し、まるでもう一人の自分と心通わせているようだ。
風景や会話を擬人化する時、そこに<こころの風景>が宿ってきて、至福の時間に入り込めるのが、うれしい。
黄色いカラマツ群
<Larche / カラマツ>
アルプスの針葉樹<カラマツ>が、紅葉して散る黄金の風景に、久しぶりに出会った。
この木は、見事な黄色に色付き、まるで黄金のマントを羽織っているような気品が漂っていた。
人もまた、意外な色付きをし、豊かな表現をする人がいる。
そのとき、その人の輝きがさらに増し、自信も喜びも体中に充満していることに気づかされるのである。
自分は、どうだろうと自問してみた。
スイス国境のBuchs駅から乗り込んだSt.Moritz方面行<氷河鉄道>の風景は、ノルウエーのフロム線
<山岳鉄道>、ショース・フォッセン(ショース滝)付近で見られる美しい風景に匹敵する景観を
呈していた。
この時期10月21日頃が、高度1800mのアルプスにあるチロルが一番輝き、美しい季節だと隣席の地元の
娘さんが教えてくれ、「雪景色と紅葉のスイス・アルプスへようこそ!」と笑顔で迎えてくれた。
アルプスを走る氷河鉄道は、箱根登山電車と姉妹鉄道で、和名<サン・モリッツ>の銘板がサン・モリッツ駅
に飾られていると、車掌は得意げにアナウンスしていた。
列車でのグラン・サン・ベルナール峠越え前に
サン・モリッツ駅で
乗換: 氷河鉄道<サン・モリッツ 12:48発 ➡ 15:10着 ティラノ>
青空にもかかわらず、雪にアラレが混じっているのだろうか、<氷河鉄道>の屋根に小気味いい音を立て
ている。
雪山でのクロスカントリ・スキーや、スノーシューイング(カンジキ)によるラッセルをたしなむ者にとっ
て、雪は良きパートナーである。
我流で、いつも子供たちに笑われてきたが、本人が楽しんでいるのだから、いたって満足している。
雪は、空から舞い降りて来るものとばかり思っていた。
しかし、冬山に挑戦してからは雪に対するイメージが一変した。
雪を愛するようになってからは、雪がわたしの周りで嬉しそうに踊り、天に向かって上り往く時の自慢気な
こと、左右に揺れたり、風に吹かれて地上寸前で反転したりと、その優雅な踊りを見せてくれるのである。
グラン・サン・ベルナール峠に近づくにしたがって、少し吹雪いて来たようである。
雪もこちらの心豊かな感情に気づいてくれたのか、出会いの喜びを踊りにして表現してくれているようだ。
青銅色の湖に映る、雪羽織るアルプスの神秘な姿、その優雅さに声を上げた。
中世の絵画の中を駈け抜ける氷河鉄道が、銀河鉄道999に重なった。
ナチュラルの美、これこそこの世の最高美であろう。
人も同じで、それぞれのもつ個性が光る時、隠れていた個性までも引き出されて光り輝くのだ。
見る側のこころ、みられる山側のこころが、一つになった瞬間に出会ったのである。
こころを美しく保つことの大切さを教えられたような気がした。
トウル湖に映るラ・ターヴル山
14:42 <Poschiavo駅>通過 標高1014m (サン・モリッツーティラノ線)
列車に「日の丸・箱根」の記念プレートが飾られている。
列車は、これよりアルプスのグラン・サン・ベルナール峠(2469m)直下のトンネルくぐり、イタリア国
境の街ティラノ/Tirano経由、ミラノに向かって下っていく。
グラン・サン・ベルナール峠は、サイクリストやライダーにとっては憧れの聖地である。
サイクリストであり、ライダーである者にとって、もう少し若ければ、自転車かオートバイでこの峠(聖地)
を越えて見たかったのである。
今回は自制し、列車でのトンネル通過となってしまった。 すこし残念であったが、車窓から見るサイクリス
トやライダーの奮闘にエールを送ったものである。
10:10着 終点・乗換<Tirano>駅 イタリア国境の町に到着した。
ティラノ/Tirano 06/21 16:16発 ➡ 18:40着 ミラノ/Milano 20:05発 ➡
(イタリア高速鉄度ITA#785)➡ 翌日06/22 03:13着 ローマ/Rome
列車から見るオーストリア・イタリア国境越え付近の白銀のアルプス
(グラン・サン・ベルナール峠トンネルを抜けて)
<こころの故郷 イタリア>
パスポート・コントロールの係官は、「ようこそイタリアへ、ゴットさん!」日本語での歓迎の言葉をかけて
くれた。
係官のイタリア的陽気さと裏腹に、コントロール・ブースの周りは、洗濯物が干され、ゴミが散乱、今までに
出会ったどの国境よりも緊張感がとれ、何かホッとさせられたのである。
これまでの洗練された畏敬の自然美から、人間臭い温かみのある泥臭い世界にやって来た感じがした。
この人間臭さに加えて、100USドルを両替したところ、200,000リラである。 いつもの薄っぺらな財布と胴
巻にしまい込むこととなった。
一瞬にして、恐ろしい経済社会という坩堝に、引きずり込まれたような気がした。
イタリアの列車に乗っていると、実家近くを走る京阪電車に乗っているように、ホッとさせられた。
故郷を離れて、たまに帰る何とも言えないあの安堵感、懐かしさ、想い出、回帰、緊張のゆるみにひたった。
そう、若いころのあの時の流れに連れ戻され、心豊かになったものである。
「ああ道が狭くなったなー」
「いつ通っても秋刀魚の焼く匂いがしたっけー」
イタリアの列車に乗っていると、苦労を背負っている時、神のみ心に触れ、救いと、解放と、あの安堵に出会
った気分にさせられた。
なぜだろうか、こころの故郷に帰って来たような和みに包まれたのである。
この気持ちは、ローマへと近づき、アシジに至って聖フランシスコに出会って、神聖なものとなったので
あるから、イタリアは私にとってこころの故郷のように感じられたのである。
不思議な国である。
<ケセラセラ と イタ公>
夜は深けて、三日月を眺めながら南下し続ける列車は、下校中の沢山の学生を乗せ、ミラノを目指している。
列車の中は、イタ公(イタリア人の愛称)の体臭で充満し、生活の匂いがする。
イタ公は、個性を大事にする陽気者であり、ラテンの情熱が血潮に流れ、<ケセラセラ>にぴったりの国民で
あると思う。
スペイン語の<ケセラセラ/Que Será, Será>とは、「なるようになるさ」という意味に使われるのが一般的
であり、「物事は勝手にうまい具合に進むものさ」、「だからあれこれと気を揉んでも仕方がないさ」、
「成り行きに任せてしまうのがよいのさ」とも解釈できるから、気楽であり、愉快である。
<あきらめ と 達観>
一方、イタ公のこの国が、斬新なファッション・デザインや、自動車をはじめ工業デザインの先進国である
ことは良く知られている。
自分の性格や嗜好、趣味、本能をよく知り、生活にとり取り入れていく才能に恵まれた民族でもあると
いえる。
ひとはみな平等に、自分にしか与えられていない才能を少しは持っているものだ。
その僅かなる才能を発掘し、磨き抜くかは、その人次第であり、ほとんどの人は見つけることをあきらめてい
るように見える。
わずかな人だけが全神経と努力をそそぎ、自分にだけ与えられた才能にたどり着き、人生をより豊かに感じら
れているようである。
どうもイタリア人全般には、その才能が備わっているような気がしてならない。
それは、日本人にはいたって難しい一種の<あきらめ>、いや、くよくよせず人生を楽しむという<達観>な
のかもしれない。
<夢想と反省>
イタリアの列車に揺られていると、どこか夜汽車に乗って信州の山へ向かう青春時代の自分の姿を思い浮かべ
ながら、若き時代に想い描いた夢想や世界観を断片的に思い出していた。
ひとはみな、自分には何のとりえもないと嘆く。
野の花や、空の鳥、虫たちや石ころ、一粒の砂でさえ、君もまたこの全宇宙を構成しているのだ。
太陽や、月や星のように、わたしたちにも役割があるのだ。
役割を果たしていない自分の存在を嘆いてばかりで、自分が生命体として如何に、なぜこの世に生まれて
きたのかと問うばかりではなく、存在の意味を問うてみてもよいのではないだろうか・・・と、
自問自答の青春時代にひたった。
40年前のSLは、時代が変わりイタリア国鉄の高速鉄道ITAに引継がれ、夜汽車に変りはない。
線路の振動が、列車の揺れが体にじかに伝わり、心地よいイタリア半島南下の旅を楽しんだ。
列車は、もうすぐローマに着く。
▼ 10/21 <イタリア高速鉄度ITA#785> 車中泊
ミラノ/Milano 06/21 20:05発 ➡(イタリア高速鉄度ITA#785)➡
翌日06/22 03:13着 ローマ/Rome
■ 10月22日 ローマ 快晴
<安全神話 と おおろかさ>
ヨーロッパの高速鉄道は、安全神話のもとに運行される日本の新幹線とポリシーを若干異にするようで、高速
鉄道も人間の生み出した産物であり、いささかの不都合もあるのだから、故障・遅延・暖房無しもやむなしと
言う人間主義に基づいたところが見てとれるのである。
ミラノからローマへの<イタリア高速鉄度ITA#785>も、不都合な電気系統の故障があったのであろうか、
10月末と言った寒さがます夜行列車にも関わらず、暖房が効かず、震えながら一夜を過ごすこととなった。
6人用のコンパートメントは、座席を伸ばすと簡易ベットになるが、仮眠のためのブランケットなどの準備も
なく、重ね着し体を丸めて目を閉じた。
日欧のものの考え方、最先端技術への取り組み方にも根本的な違いがあることを気付かされたのである。
日本の繊細さと安全神話に対し、人間にも弱さを認める西欧のおおろかさ、さて人類はどの方向により重きを
置いて、幸福を追求していくべきなのであろうか。
また、今までのように互いを認め合って競争していくのも、人類調和の上で理想的であるのかもしれない。
バランスの問題も人類の課題であると言えそうである。
<ローマ到着>
早朝、03:15 定刻を少し遅れて列車 <イタリア高速鉄度ITA#785> は、荘重なローマ駅に何事もなかった顔
で、静かにすべり込んだ。
一旦駅から外に出るとなったら、今までの静寂はどこかに吹っ飛んで、物々しい重武装の兵士による前月の
<アメリカ同時多発テロ>からくる爆発物や、薬物に対する厳しい臨検が待っていた。
臨検を終えると、陽気なイタリアの町ローマが、明るい声で<Benvenuti a Roma!/ようこそローマへ!>
と、迎えてくれた。
ローマは、これまでのシベリア横断、スカンジナビア半島縦断、ヨーロッパ周回の旅での最南端の町である。
ここにきて初めて、歩かなくても自然と汗をかいたことに気づかされた。
ここは温暖な地中海気候であるのだ。
さらに、ここローマは、ローマ帝国の中心があったし、カトリックの総本山バチカンがあり、素晴らしい都市
文明を育んできた。
ローマでは、バチカンに詣で、シンスティーナ礼拝堂で旅の無事を祈り、トレビアンの泉ではラッキーコイン
2004年画
Sketched by Sanehisa Goto
こうして、同志社ローバースカウト時代、仲間と共に高らかに歌っていた 「遠い街を歩いてみたい」 (永六
輔作詞 : 中村八大作曲)を実現していることに感謝した。
ヨーロッパ高速鉄道の旅は、ここイタリアで終えるので、まずは中東イスラエルへの航空券の手配をすること
にした。 最終目的地である南アフリカ・ケープタウンまでは、まだまだ遠く、旅半ばであることを実感
させられた。
走り歩きだが、古代ローマ時代の息吹きに触れたいため、まずはローマの街に飛び出した。
古代ローマ時代の北門・検問所<ポポロ門>
バチカン<サンピエトロ広場>で
ローマ散策の後、休養をとるため、高速鉄道ユーロスターで、ローマよりアシジに向かった。
踏破中の『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』の中間点として、ここイタリアのロー
マ郊外にあるアシジで、体を休めるためである。
高速鉄道ユーロスターでも、普通列車でも、時間的には約2時間の列車の旅で、ローマよりアシジに到着
する。
わたしの聖地<アシジ>に到着
アシジ列車駅から、バスで、アシジにあるサンピエトロ寺院に降り立った。
ここスパしオ山の麓にあるサンピエトロ寺院で、夕方19時35分、天使の歌声が響くなか、夕陽に迎えられた。
それは、この旅を祝福する神の贈りたもうた最高の歓迎の挨拶であり、その優しさに抱かれて感涙の瞬間を迎えた。
今夜の宿泊先は、ここサンピエトロ寺院のあるアシジ中心街より、バスで駅方向に約2kmほど戻ったところ
にある。
▼ 10/22 アシジ・ユースホステル <Ostero Della Pace> @30,000リラ
Via Di Valecchie, 4, 06081, Assisi Italy
アシジ・ユースホステル<Ostero Della Pace>
■ 10月23日 わたしの聖地<アシジ> イタリア
朝4時起床、いまだ眠りにあるアシジで、息するすべての命あるものからの語りかけに耳をかたむけた。
スパシオ山の真上にあるカシオペア座や北斗七星を探し出し、仰ぎ見ながらユースホステルを出て、
サンピエトロ寺院に向かって、車道ではなく、近道である山道を歩きだした。
星や星座は、ひとに語りかけ、多くのことを教えてくれるのである。
古代人は、異星人の言語を解釈し、生活に取入れ、応用してきたことは人類史が物語っている。
古代人は、言語を持たず、宇宙の法則、宇宙の教えに従って生活の糧を得ていたともいわれる。
星と語らいながら、サンピエトロ寺院に向かった。
小川のせせらぎは、静寂を一層引き立たせ、ゆっくりと心を満たしていった。
夜目にかすむ石造りの家の窓に一つ、また一つと灯りがともり、「ボーンボーン」と5時を告げる柱時計が
声を上げた。
遠くで鳴くニワトリや、遠吠えの犬、飛び立つハトたち、黒いマントをまとったオリーブの影、雲海に沈む
村々を眺めていると、ここアシジが、わたしを温かく包んでくれる天国に思えた。
雲海に沈むアシジの村々 06:30
朝7時、アシジ・ウンビリアの平野に、一斉に教会や寺院、聖堂の鐘が神を称えるように、お互いを称えるよ
うに鳴り響いた。
雲海がやわらぎ、しばらくすると東の空が真っ赤に染まって来た。
アシジの朝焼け 07:15
雲海をまとったアシジの村々 08:00
静かにおのれをアシジの雲海、いや天国に沈めてみた 08:30
いま、アシジの聖者 聖フランチェスカと時を越え、同じ空気を吸っている
幸せである
雲海の中、糸杉が尖塔のように天を突き
出来立ての手作りのパンの匂いが鼻をつく
アシジでは すべてが天国の日常のようだ
東の空を拝し 深く静かに
弱き人のために 祈った
小鳥達が大合唱 次のように聴こえる
アシジでの 生の喜びは一度だけ
神と共に生きるこの喜びを
いまのいま噛みしめようよ
聖フランチェスカに耳をかたむけ
東の空を拝し 深く静かに
弱き人のために 祈った
朝陽を拝したあと、セント・ピーター寺院の早朝ミサに出席し、旅の安全を祈り、聖フランチェスカの信念に
耳をかたむけた。
自己一身にこだわりなさんな
自己一身にとらわれなさんな
自己一身にかかわりなさんな
自分のすべてをすてなさい
他人のために愛を注ぎなさい
朝食を終えて、<アシジ・スケッチ巡礼>に出かけた。
オリーブ畑の見下ろすアシジの村々
Sketched by Sanehisa Goto
丘の上からサン・フランチェスコ大聖堂(右手前)を望む
Sketched by Sanehisa Goto
エルモ・デツレ・カルチェリ僧院の十字架
アシジ・イタリア
Sketched by Sanehisa Goto
<アシジ・スケッチ巡礼で出会った宝物>
スバシオ山(標高1300m)/ロッカ・マジョーレ(大要塞)
サン・フランチェスコ大聖堂の十字架
アシジの特産オリーブ
聖フランシスコの像
ヌオヴォ門<サン・ダシャーノ聖堂>
スバシオ山(標高1300m)を背に
YH前よりアシジを望む
<小石の十字架>
エルモ・デツレ・カルチェリ僧庵で、四国88か所の巡礼路でも行った経行(きんひん)、
歩き禅をしていたら、小石の十字架にぶつかった。
誰であろうか、石ころ模様が描かれ、十字の交叉に一個の小さな小石を置いていた。
この小石は、おのれを<磔のイエス・キリスト>に擬しておかれた、殉教の石であると認めた。
アシジへの巡礼者は、みな神の愛を必死に求めているのであろう。
人生を空しくしないために、愛ある死を迎えられるように、
こころを清く保つために、ひとは心の巡礼を続けるのであろう
そう、心を清く保つために
わたしも、聖地アシジ・スパシオ山に小石を並べてみた
巡礼の足跡に、小石で十字架を印していた わたしもスパシオ山に十字架を残した
アシジの紅葉の前で
<アシジへの導き>
アシジへの最初の導きは、ローマの街角での老婆との出会いにあった。
路傍に坐り、手を差し出す老婆の澄み切った目にくぎ付けになったのである。
通り過ぎた瞬間、こころに針射す疼きを感じた。
しかし、すぐには反応しきれず200mほど行き過ぎて立ち止まった。
いや足がそれ以上、前に進まなかったのである。
この数秒間のインスピレーションは、次なるアシジでの為すべき聖なる行いを
暗示させてくれていた。
ただちに取って返し、老婆の手に喜捨をしていた。
心豊かな老婆の笑みが返って来た。
思わず昨年、長寿を全うし、天に召された母の面影が老婆に重なってきた。
お互いの抱擁は繰り返され、お互いに「Arigatou! Grazie!」と感謝の気持ちを伝えあった。
人は、ある瞬間、光に包まれ心高鳴り、清く澄み切ったこころに昇華することがあり、
聖なるおのれに返る事があるのではないだろうか。
まさに、わたしにとって一生のうちの数少ない奇跡に出会ったと確信している。
アシジがわたしの聖地になった瞬間でもあった。
その後、アシジには聖地巡礼として数度訪れることとなった。
<スパシオ山の谷間、僧庵を訪ねる>
アシジを取巻く峰のなかで、丸みのある山の姿がスパジオ山(標高1300m)である。
アシジは、スパジオ山の中腹にある。
スパジオ山とサンルフィーノ山の谷間の静寂の地に<エルモ・デツレ・カルチェリ僧庵>がある。
ここでは、修道士や修道女が瞑想し、おのれに打ち克つ力と、疲れをいやす場所として設けられている。
僧庵に向かっていると、修道女のみなさんが笑顔で、おしゃべりをしながら下りて来た。
なんと美しく鮮やかなホッペの色だろうか。
みなさん神に仕える顔である。
ただ、歩き方はみんな一様にガニ股で、ベタベタ歩きであるのが、ほほえましい。
われわれ俗人も、時として瀧に打たれたり、禅堂で坐禅を組んだりして、世俗を離れ英気を養うように、
修道する者の清き心を保つために聖フランシスコも僧庵を設けたのであろう。
わたしも、しばしの瞑想に入る。
頭の中に宇宙の響きが満ち満ちていった。
帰りは、聖フランシスコ(フランチェスカ)と、見えざる神が一緒に見送ってくれていることに感謝した。
アシジ平原のあちこちから、今日一日を無事に終えて、夕餉の支度をしているのだろう、平和な煙が幾筋も
立っていた。
谷筋のアシジの湧き水、聖フランシスコも飲んだであろう水を、手ですくって口にした。
腑臓に染みわたり、聖フランシスコの別れの言葉が聞こえてきた。
あなたも聖フランシスコになれます
捨てることです
喜んで捨てることです
神のために
欲を捨てられますか
他人のために死ねますか
<ヨーロッパ最後の晩餐>
アシジ・ユースホステルの食堂で、オーストラリアとフランスの大学生、米国オレゴンからのご夫婦
との5人で最後の晩餐を共にした。
大学生2人は、卒業旅行。
ご夫婦は、奥さんがマスターコースを終えてのご褒美、ご主人は建築家で長期休暇をとって、
二人してイタリア文化を知るためローマでの語学コースを終えてから、ここアシジに長期滞在して
いるという。
ユースホステルでは、時として人生を有意義に過ごす人たちに出会うことがある。
ずいぶんと勇気をもらい、生き方を学ばせてもらった。
同室者は、イスラエルからの兄弟で、兄は2年間の徴兵のあとのイタリア旅行。
弟は10年間、集団農業共同体である<キブツ>に加入したあと、大学で博士課程に在学中とのこと。
興味のあるキブツ出身と聞いて、その旧約聖書にも書き記されている精神的支柱について聞いたものである。
基本的には、モーセの引率のもと、エジプトを脱出し、カナンの地への移住を果たす過程での自治組織を
基本とした、集団的農場形式による共産的平等配分主義を貫いているようである。
ただ、ソビエット連邦時代のコルホーズ(農業生産協同組合―共同配分)や、ソフホーズ(国営農場―賃金労
働者)による思想的共産主義とは、自由と平等の観点からは異にしているという。
エンサイクロペディア(百科事典)で、もう少し詳細を見ておきたい。
「キブツとは、イスラエルにおける農業共同体の一形態をいう。 キブツは、計画的な
入植事業であり、徹底した自治組織と平等と共有の思想に基づいて、農場の管理
および経営が行なわれる。
全財産の集団所有、徹底した共同生活、子供の共同育成、教育、厚生などの共同管理
などを特色としている。
1909年、東欧から移住してきたユダヤ人によって最初のキブツが誕生し、
シオニズム運動とマルクス主義と青年運動との結合として展開された
キブツ運動によって発展した」
とある。
明日は、ギリシャ・アテネ経由、中東イスラエル・テルアビブに飛ぶことになっており、その前に
イスラエルの徴兵制や、農業共同体<キブツ>について勉強させてもらったことを感謝した。
▼ 10/23 アシジ・ユースホステル 連泊
■ 10月24日 ローマより、アテネ経由 イスラエルに向かう 小雨のち曇
アシジを離れる3時間程、聖フランシスコ大聖堂のパイプオルガンに合わせた美しい聖歌隊の歌声に耳を
かたむけた。
ミサは、出席者一同がとなり人と握手を交わして始まった。
<星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km>の中間点であるアシジでのミサで、
これまでの加護に対しての御礼と、完全踏破と無事踏破を願って祈りをささげた。
これから、旧約聖書の世界イスラエル・パレスチナの地に向かうのである。
これまた、神の導きであることに感謝した。
聖フランシスコ大聖堂
2004年画
Sketched by Sanehisa Goto
聖歌隊は、地元のミッションスクールの合唱団の様である。
先生に連れられ、聖フランシスコ大聖堂で、自分たちの日ごろの成果を発表しているのだろう、
その清純な歌声は、どこまでも澄み切って、心に沁みわたり、天に届いているようだ。
ここアシジのあるスパシオ山が、どこかお大師さんのおられる高野山に重なった。
アシジ・・・それはこころの故郷であった。
自分を捨てられた聖フランシスコがうらやましい、自分を捨てられない自分が歯がゆい。
トルストイの作品に、「光のあるうちに光のなかを歩け」という作品がある。
主人公が、俗の世界と神の世界との間で揺れ動くさまは、わたしそのもである。
つくづく生きる欲とは、おのれを盲目にするものである。
多くの礼拝者が、同じなのだろうか。
自分を捨てられない多くの人間が、救いを求め、悔い改めを繰り返しているのであろう。
次なる目的地、中東イスラエルに向かうため、大聖堂を後にして、ローマ国際空港に向かってアシジを
後にした。
<イタリアを立ちイスラエルに向かう>
この《星の巡礼 イスラエル縦断の旅》は、ロシア・ウラジオストックよりシベリア横断鉄道で
モスクワに至り、北欧・西欧・東欧よりイタリア・ローマに入り、中東・アフリカを縦断して
ただ、<ヨーロッパ周遊11000㎞の旅>を書き始めた時に、ガザを武力統治するハマスによる
イスラエル奇襲作戦が行われ、対してイスラエルの虐殺に対する報復と人質奪還のガザ侵攻作戦が
開始されたのである。
一時、<ヨーロッパ周遊11000kmの旅>を後に回し、 <イスラエル縦断1000kmの旅>を先に
書き上げることにした。
シベリア横断の途中、全世界が9・11同時多発テロ事件の悲惨さに巻き込まれる中、ヨーロッパ各地
での幾多の厳重な検問を通過する過酷な旅となったが、ようやく中間点を越え、イスラエルに
無事たどり着きそうである。
イタリアでは、第二の故郷であるアシジに滞在し、ゆっくりと長旅の体を休め、ローマにもどって、
バチカンに立寄ってローマの空港を後にした。
オリンピック・エアーライン フライト#240 (機種:ボーイング737)
レオナルドダビンチ国際空港(イタリア・ローマ)20:00発
ベングリオン(テルアビブ・ロッド)空港(イスラエル)03:40着
『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』
ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅱ
《東ヨーロッパ & イタリア編》
完
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引き続き、
にお立ち寄りください
イスラエル縦断の後、アフリカに入り
<現在 作業中>
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