shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2001《アフリカ縦断の旅    15650km》Ⅰ

         星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
             《アフリカ縦断の旅    15650km》Ⅰ

                    ーエジプト編ー 
                 

                   星の巡礼者  後藤實久

 

 

               Ⅰ  《シベリア横断の旅    10350km》

               Ⅱ  《ヨーロッパ周遊の旅  11000km》

               Ⅲ  《イスラエル縦断の旅    1000km

               Ⅳ  《アフリカ縦断の旅    15650km》

                                                                            ーエジプト編ー                                                              

 

 

                         


■    11月4~6日 <カイロ滞在休息>  
    イスラエル縦断を終え、アフリカ縦断に備える

 

<アフリカ縦断に向かうにあったって>

イスラエルの民が、モーセに率いられパレスチナの地へ導かれたのは、アフリカの地エジプトからであった。いま、そのユダヤ人のパレスチナ・カナンへの出発の地となったエジプトは、わたしにとっては<アフリカ縦断出発の地>となった。

神との約束を守り続けるユダヤの民の波乱に満ちた苦難の地、その<パレスチナ>を歩いてきた。
旧約聖書の一字一句が、現代に続いている道として、いまなお生きいきと残されていた。
そこに住む人たちが、祈りに生き、神の言葉を信じて生活している風景は、力強く、誠実である。
解釈の違いで、歴史の見方も異なり、すべてにおいて旧約の世界がいまなお現存し、争いも継続しているようである。

現在の和平へのプロセスは、旧約聖書的ではないのかもしれない。
イスラエルパレスチナの関係を見ていると旧約の世界は、まだまだ続きそうである。
1993年のイスラエルPLOとの和平交渉である<オスロ合意>とは、イスラエルによるパレ
スチナ全土の占領下でのイスラエルのラビン首相とPLOパレスチナ解放機構)のアラ
ファト議長の間で交わされた合意である。

翌年の1994年、イスラエル占領地となったヨルダン川西岸地区は、ガザ地区と共に「パ
レスチナ自治区」となった。
しかし、わたしがイスラエル縦断中の2001年当時も、ヨルダン川西岸地区は面積の半分
以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、常に厳しく監視されていた。 また、イスラエ
ルの入植地が拡大していた。

パレスチナ自治政府の完全な統治下にあったガザ地区への入域の厳しさに比べて、占領
ヨルダン川西岸地区へは、自由に入域でき、旅行を続けることができた。


かかる事情により、2001年当時のガザ地区への入域は禁止されていたことから、残念な
がら、パレスチナ人のガザ居住区の情勢や日常生活を垣間見ることが出来なかった。 
今回のイスラエルパレスチナ紛争で、ようやくガザの実情が世界に発信されたことに
なる。

旧約の世界のイスラエル人・パレスナ人の平和共存の時代に戻ることができるのであろ
うか。 いや、さらなる両者の離反、憎しみの連鎖が継続されるのであろうか、悲しい
ことだが、民族・宗教紛争の解決の糸口は見えていないと言っていい。

 

 

           

                  フク王の墓 ピラミットの前で
          イスラエル縦断を終え、アフリカ縦断に向かうにあたっての記念写真

                     ギザ・カイロ・エジプト

 

いつかパレスチナの地に平和が訪れることを切に祈りつつ<イスラエル縦断1000kmの旅>を終え、ここエジプトの首都カイロから、引き続き<アフリカ縦断の旅>に出発したい。

この世で、苦しむ人々、病める人々の上に神の御手がありますように・・・
そして、戦いのない日々が一日も早く訪れますように・・・

 

             イスラエル縦断を終えエジプトの少年たちに迎えられる

                   フク王のピラミット前で

             (BC2580頃・高さ146m・ギザ・第4代ファラオの墓

                  
 

                  ギザのピラミット群の前で

 

 

                                             <アフリカ縦断の旅  15650㎞>Ⅰ

                             ―エジプト編ルート地図―

 

 

     ▼    11/4~6   <カイロ・インターナショナル・ユースホステル>  
             カイロ連泊  @25£Ex3泊
             135 Abdel Aziz Al Saoud St. Manial Kobri El, Cairo
             Tel:02-3640729
             (行き方:中央駅より地下鉄Sayda Zeimah駅下車、8分)

 

 


■    11月5日 カイロ滞在   快晴 32℃

 

<カイロ散策>
とうとうエジプト、カイロに立った。 憧れであった神秘的なギザのピラミットにたどり着いたのである。
08:45 朝一番のバス(#357)でギザのピラミットにやって来た。
人間の坩堝のような混乱の中で、バスは止まることなく、走りながら乗客を降乗車させ、荷物を放り投げる。
乗客は、止ることなく走り続けるバスに飛乗り、飛び降りるのである。その光景は、アクロバティックで、スリリングである。


まずは、アラビックの数字を覚え、バスの行き先表示<アラビック・ナンバー>を読み取らなければならない。 行き先のバスに乗るだけで大変なのだ。
取り敢えず数字0~9(アラビック数字)を手に、バス停に向かった。

 

《ギザ行バス#357 ➡ ٧٥٣ 》 (アラビック数字は右から左へ読む)

    

この光景、インド・パキスタンバングラデッシュ・ネパール・ブラジルほか沢山の国で出会ったが、ここエジプトでのバスの乗降車はもう、神の領域である。
人口が東京より少ない965万人都市(2018現在)だが、英国統治領であっただけに道路は広く立派だが、信号のない歩行者無視の車天国であり、交差点は何處でも、いつでもクラクションの鳴りっぱなしで、それは騒々しいのである。

エイラートのイスラレル国境から、ここカイロまで、モーセ率いるイスラエルの民が、放浪の旅40年をかけて、逆方向のカイロからカナンの地へ向かった、そのほとんどが荒涼とした砂漠地帯であった。
かの静寂の砂漠地帯から、 急に喧騒の都カイロに入った者にとって、その雑踏はまるで文明の坩堝に思えた。

信号機を無視する溢れんばかりの歩行者や、長蛇の車列が鳴らすクラクションは、蜃気楼のように眼前に現れた文明への入口のようである。 
交差点などで、熱さのなかバスが20分も立ち止まると、たまらず、その暑さに乗客はバスから降りて、みな歩き出す始末である。
大変な街だが、みな活気に満ち、この喧騒のリズムを楽しんでいるようにも見えるが、いやこれがカイロの日常なのだ。

          

             ピラミット・スフィンクスを背景に笑顔の女子中学生と

 

カイロ大学の青年たちと>
ここ<カイロ・インターナショナル・ユースホステル>は、学生や社会人など長期滞在者も受入れている。
カイロ大学で学ぶ医学生たちが、日本のことを知りたいと、申し入れがあった。
熱心なイスラム教徒で、貧しい人々の役に立ちたいと医学を目指したのだと語ってくれた。
日本の空手を習い、坐禅を組むというその真摯な眼差しに、学問への決意が見てとれた。 
そこには、日本の武士道に憧れ、医術と精神修養を結び付けたいという彼らの理想像が見えたのである。


未来を背負う彼らのような青年たちが、新しい世界秩序を築き上げ、貧しいものに手を差し伸べ、平和で平等な世界を造り上げてくれることを信じていることを伝えた。

学生らしく、<生き方・感謝と愛・死後・奉仕>と話題は尽きず、人類普遍の真理について語りあった。
最後に、<イスラエルについて、どう思うか?>との問いが、イスラムの青年たちの隣国イスラエルへの懸念としての質問があったので、旧約聖書の一節を、次のようにまとめて話した。


モーセ率いるエジプト脱出― 旧約聖書 出エジプト記
アブラハムの子孫ヤコブの時代に、イスラエルびとはエジプトの地に移住した。
エジプトに定住して460年、イスラエルびとの人口が爆発的に増加、脅威を感じたエジプト王ファラオは、イスラエルびとを奴隷として抑圧し、男の新生児の皆殺しを命じる。
母の機転で生延びたヘブライびとの子・モーセに、神の啓示が下り、エジプト在住のイスラエルびとを率いて<約束の地―カナン>目指して、シナイ半島を彷徨し、40年後<カナンの地>にたどり着く物語の概略を語り聞かせた。

イスラム教徒のほとんどが旧約聖書を否定するなか、彼らは<出エジプト記>を読んで、知っていた。 彼らの年代こそ、その時が来ることを信じて、イスラムユダヤの和解と相互理解の橋渡し役としての役目があるのではないかと思うと伝えた。

460年もの間、エジプトがヘブライ人(びと)に寛容であったこと・・
現に、エジプト北部にいまなおヘブライびとの子孫<セムユダヤ人>がいること・・
ヘブライびとの子孫モーセも、エジプト生まれであること・・
イスラエルも、出エジプト記を経験した子孫で成立していること・・

 

          カイロ・インターナショナル・ユースホステルで出会った

                     カイロ大学医学部生と

              左:Ahmed Abd El Glil El Massry

                 中央:Khaled Adel Abed Elwahed

 

 

<ピラミットで出会った絵葉書売り青年>
ピラミットを前に、待望のピラミットをスケッチしていると、親たし気に語りかけてくる日焼けした絵葉書売りの青年がいた。
日本のゲームや漫画について聞きだしていた彼が、ピラミットの絵葉書を数枚くれるという。
「これは商売用だろう、フリーでは受取れないよ」と、お金を渡そうとしたら、
なぜわかってくれないのだろうと、不満気な顔にゆがんだ。
そこには、「お礼なのになー」と、失望の色が滲んでいた。
人の善意を素直に受けることの大切さを、教えられたような気がした。
目前の青空に突き出たピラミットが、なぜか一瞬笑顔を見せたような気がした。
有難く、絵葉書を頂戴した。 セピア色に変わった懐かしの絵葉書がアルバムに残っていた。
   
 

      ギザの日焼けした少年から贈られたセピア色の絵葉書<スフィンクス・ピラミット>

 

                    スフィンクスの横顔

 

               フク王の墓 (まじかで見るピラミットの石組と共に)

 

                     ピラミット群の前で

 

 

                  スフィンクス と ピラミット群

                         ギザ・カイロ
                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                                                                    フク王のピラミットの石組
                      ギザ・カイロ
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

旧約聖書出エジプト記に出てくるモーセ引率のもとでのイスラエル人エジプト脱出<シナイ半島
放浪の旅>の逆ルートをたどって、エイラットよりシナイ山(神よりモーセが授かった十戒)に立寄り、今回の<イスラエル縦断の旅>のゴールであるここエジプトの首都カイロに無事到着できたことをピラミットに報告した。

 

カイロでは、オールド・カイロにあるエジプト考古学博物館近くの<カイロ・インターナショナル・ユースホステル>に投宿した。

 

 

    ▼    11/5   <カイロ・インターナショナル・ユースホステル>連泊

        34 Talaat Harb Street, Cairo 01010

 

      

            YHのあるオールドカイロを望む       カイロYHドミトリー

            ナイル川畔西岸より



 


■    11月6日 カイロ散策   スモッグのかかったカイロ晴れ  18℃

 

<アフリカ最初の作業>
朝5時、暗くすこし肌寒い。
朝早くから、人と車の坩堝から作り出されたうねり、騒音が部屋のなかを占拠した。
このうねり・騒音は、何かエネルギーを創造する時の高まりのように感じられたものだ。
アフリカでの一日の始まりであると思うと、すこし緊張感に似た高揚を感じた。

高揚感は、たちまち現実のエジプトに呼び戻された。
前夜より、トイレのタンクに溜まるはずの水が、漏れでて、流れる音が続いていた。 これまでの宿泊人は、深夜の水漏れの音を致し方なきことと、聞き流していたに違いないが、すこし変わった東洋人が、気に留めたのである。
まずは、アフリカ入り、そうエジプト入りの最初の出会い、いや作業は、トイレの水漏れ修理であった。
修理は至って簡単で、持参の非常用具袋から、銅線とガムテープとゴム輪だけで簡単に治すことができた。
これで今後、この部屋のゲスト客は、水漏れ音に悩まされずに豊かな眠りにつけることであろう。

 

イギリス統治時代の歴史を感じる古びた水道栓が、いまだ使われていたことに時代を感じた。

                         

                    アズハル モスクを背に

                     オールド・カイロ

 

 

<アフリカ最初のネゴシエーション
アフリカのほとんどのユースホステルでは、朝の開門時間があり、それまでは鍵がかけられ、外部からの浸入防止・予防に徹している。 宿泊者も開門時間を待たなければ、外出できないシステム・規則である。
開門と同時にカイロの街に出て、目の合ったお爺さんのオンボロのタクシーに乗ることになってしまった。 

バックパッカーの<乗り物厳守事項>である「いくらで行くの?」と問うと、「7£だよ」と爺はいう。
「だめだね。 バスだと2£だから、5£にしてよ」 しぶしぶ爺は同意し、オンボロ・タクシーを走らせた。

世界を旅する中で、<値切りネゴシエーション(交渉)>も一つの立派なバックパッカーのポリシーである。
もちろん、爺のお人好しとジョーキングに高笑い、結局、乗車賃5£と、チップ2£の計7£と相成った。
爺からの両手への感謝の熱いキッスを受けて、ムハンマド・アリ寺院に向かった。

 

       

               オールド・カイロのタクシ―

 

ムハンマド・アリ寺院>
ムハンマド・アリは、エジプト初代の近代化の父として慕われ、英国による半植民地化の自称<王様>である。 ここ<ムハンマド・アリ寺院>は、彼を葬り、記念して祀った寺院である。 
寺院に坐っていると、地中海周辺に育ったイスラム教国、なかでもトルコのミナレット(尖塔)を擁したオスマン建築様式のモスクが建つカイロは、とてもアフリカにあるとは思えないのである。

そう、ここエジプトは、地中海を取巻く<イスラム・アフリカ圏>に位置するのだ。
エジプトを出て、南へ向かって縦断しはじめて、純粋なるアフリカの風景に出会うことになる。

いまだここエジプトは、文明的にイスラム共栄圏であって、ネイティブ・アフリカとは言えないのである。
   

 

                   ムハンマド・アリ寺院にて           

 

                ムハンマド・アリ寺院にて瞑想する

 

                        

                  ガーミア・ムハンマド・アリ寺院
                   オールド・カイロ・エジプト
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                サイーダ・ザイナブ寺院 / Sayeda Zainab,s Tomb

                      オールド・カイロ 

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<オールドカイロ散策雑感>

●    バス・電車の乗降に際して : 駅やバス停に近づいたら、降車口に陣取り、素早く下りること。
      さもないと、降車優先などお構いなく乗込んでこられ、降りられ無くなるので注意が必要。
      特に、バスには時刻表がなく、来るバスを待つことになるので、気長に待つことも大切。
      往復の場合は、行動前から十分な時間を当てること。

●    ミニバンのお金の払い方 : 後方から順に集められたお金(乗車賃)が、手渡しで前に送られてくる。

●    女性専用車両 : 電車の真中あたりに連結されている。 バスでは、前方に席がとられている。
      あまりにも混んでいるので、空席のある車両に飛び込んだら、ご婦人の視線が飛んできて、                             <ここは女性専用車両よ>と注意された。

●    交差点 : 横断は、サーカスの綱渡りと言ってもいい。 英国統治時代の信号のない、車優先の一方            通行のロータリーが多く、はじめての経験で戸惑ったものである。 ロータリーでは、車は止まること            なく、四方から次から次に入ってくる車に、横断者はまるでバレリーナ―のように軽やかに身をかわし            ながら車間を縫うことになるので注意。
       国土の72%近くが砂漠であるエジプトでは、カイロはオアシスなのであろう、とにかく人が多いのに               驚く。

●    悲しきラクダ達 : 車と人間たちの坩堝の中で、涼しげな目をして胸を張り、ゆっくりと見下ろす                ラクダの集団が進みゆく光景に驚いた。 しかし、このラクダたちは、食料として屠殺場への行進で                あることを後で知り、ラクダ達の澄んだ瞳を思い出され、悲しさが込み上げてきた。

●    アラビック文字 : カイロ滞在中、一番困ったことは、バスや電車の行き先番号であることは先に                述べたが、ほかに街の時計の標示がみなアラビック数字であったことであろうか。                                         現地の露店や屋台の価格表示も、時としてアラビック数字で、戸惑うことがあった。
   バスなどの行き先標示が、日本とは逆の(左⇦右)場合があるのでこれも注意。

●    コーランの声出し : イスラムの国々でのモスク訪問で、声出しコーランには慣れていたつもりだが、   カイロで出会ったコーランの声明は、イスラエルエルサレム嘆きの壁>(ユダヤ人の聖地とされ、                               中世以来、ユダヤ人はこの壁に額を押し当て、ユダヤ教徒が在りし日の栄光を偲び、                      一心に神に祈りを捧げる)で唱える旧約聖書ヤハウェ)の一節と同じく声を上げて祈ることに、            あらためて気づかされた。

●    お土産 : 子供達に持参した鉛筆や色鉛筆に人気集中。

●    サハラ砂漠 : 紅海西岸から始まるサハラ砂漠が、ナイル川畔のカイロから始まるのも              

      <オアシス都市>としての特徴である。 その東サハラ砂漠のカイロに、スフィンクスも、                  ピラミットも混在しているから観光地として脚光を浴びているようである。
       カイロ郊外に降り立つと、大都市カイロが砂漠にあることが不思議に思えたものである。

 

 

                オールドカイロ散策

 

 

エジプト考古学博物館での歴史的宝物のスケッチ>

 「カイロ博物館」ともいう。 収蔵点数は20万点にものぼり、館内には、ツタンカーメン王の王墓から発掘された世界的に有名な<黄金のマスク>、<黄金の玉座>をはじめ、カフラー王座像、ラムセス2世のミイラなど、古代エジプトの至宝が展示されている。

憧れの博物館、黄金の品々をスケッチ三昧、楽しい時間を過ごした。

 

              カイロ考古学博物館前庭スフィンクス像前で

 
                    

                   新王国時代 第18王朝の宝物

         トトメス3世(1490-1436BC)・アメンへテプ3世(1403-1365BC)の墓より

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<時代考察  新王国時代 第18王朝>

紀元前13世紀、エジプトは史上最も繁栄した時代を迎える。

軍事に秀でた王たち(トトメス1世、3世)は、対外遠征を繰り返し、北のヒッタイトメソポタミアとも覇を競って、オリエント随一の大国となった。

広大な領土からは、富や資源がもたらされ、王たちの神々を讃えての寄進事業がなされ、神官団の政治的発言が強まった。

しかし、宗教改革を断行したアメンヘテプ4世は、神官団との政治的駆け引きに敗れ、十分な成果を得られないまま頓挫し、後継者のツタンカーメンが若くして没すると王統も途絶えた。

           

 

                                                      初期王朝時代のデザイン(3400-4000BC)

                                                              エジプト考古学博物館の歴史的宝物

                      オールド・カイロ

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

                                                          1400BC 新王国時代 第18王朝のデザイン

                                                                 エジプト考古学博物館の歴史的宝物

                       オールド・カイロ

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

              2061BC 中王国時代のデザイン                                                                               エジプト考古学博物館の歴史的宝物
                     オールド・カイロ 
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

   
        ▼    11/6   カイロ・インターナショナル・ユースホステル連泊

 

 

 

■    11月7~8日 カイロ & サハラ砂漠彷徨

 

サハラ砂漠彷徨 と 星の王子さま

ピラミットのあるカイロ郊外のギザ、サハラ砂漠砂丘に立つと、その後方に大都市の摩天楼が蜃気楼のように樹立する様は、まったく予期しない幻の光景であった。

その摩天楼にも増して、人の手で築かれたとは思えない大規模ピラミット群が静かに歴史の重みを見せている姿に心を動かされたのである。

ピラミットに背を向ければ、西に向かいモロッコに達する世界一大きいサハラ砂漠が、見渡す限りの<砂の海原>となって、アフリカ大陸の西の地平線、その彼方に消えていた。

 

サハラ砂漠では、辺鄙な砂漠のオアシス村から歩きだして、可能な限り歩く計画を秘かに立てていた。

まず、猛暑のなか、いかなるファッションで歩くべきかを、同宿のユースホステルで懇意になったカイロ大学医学生に助言を求めてみた。

 

呆れた顔で 「サハラ砂漠を歩くって、真面目に考えているのか?」 と取り合ってもらえなかったが、「星の王子さまに会いに行くのだよ」と言ったら、あきらめ顔でキャラバン隊の衣装を紹介しながら、「ああ、サン・テクジュベルの本だね。 王子さまはモロッコ西サハラ砂漠から自分の星に帰って行ったんだよ。 サハラ砂漠横断は、ほぼ4000kmだよ、本気かい?」

でも、それは面白いと半信半疑のまま、乗って来た。 

こちらも、サハラ砂漠約4000㎞を、もちろん歩くことは不可能だと、初めからあきらめている。 

ただ、「星の王子さまが、なぜサハラ砂漠から、どんな気持ちで自分の星に帰って行ったか」を味わってみたかったのである。

そう、サハラ砂漠は、自分の星へ帰って行った星の王子さまの最後の舞台なのだ。

 

 いよいよ<星の王子さま>が自分の星に帰って行った最期の地サハラ砂漠を彷徨する日がやってきた。

サハラ砂漠彷徨のスタート地点を、サハラ砂漠を構成する西方の<リビア砂漠>にある村<ファラフラ・オアシス>に決めている。

朝5時に飛び起き、メトロ#1に飛乗り、ナセル駅で下車、<トルコーマン・バスターミナル>に向かう。

ここからローカル・バス<アッパ・エジプト・バス>に乗換え、約5~6時間のところにファラフラ村はある。

 

 

                ファラフラ・オアシスに広がる<白い砂漠>

             サハラ砂漠を構成する<リビア砂漠>で

 

ファラフラ・オアシス/ Farafra Oasisは、カイロから 07:00 と 18:30 の1日2便のローカル・バスしかない砂漠に埋没すオアシス村である。 後年、ファラフラ村は観光客用のテント村を併設し、砂漠体験村としてツアーが組まれているようである。

 

持参した隊商<キャラバン>ファッションである白づく目の衣装に着替えて、熱砂のなかをサハラ砂漠に  踏み出した。

携行品は、3Lの水と3日分の携行食をもって、歩き出したのである。

食料は、村でサンドイッチ(野菜サラダ・卵・ハム)4食分を作ってもらい、非常用行動食としてピーナツ・フレンチフライ・ビスケット・塩飴・チーズ・レモン・菓子パン・ピタ・乾燥レーズン・オレンジジュース ほか。

手作りの砂漠用ツエルト(白シーツ応用簡易テント)・SOS用<反射ミラー・笛・磁石・北斗七星中心の星座表・狼煙用ライター>・ストック・裁縫道具・救急用品・ヘッドライトほか、わずかなサバイバル・キットをアラビアのロレンス風シーツ下に背負っての出発となった。

 

まずこれでは、<星の王子さま最期の地>であるサハラ砂漠西端のモロッコ迄、約4000kmを行き着ける

はずがないことが分かっていたので、初めから緊急予備日1日を含めて3日以内で打ち切る計画である。

ただ、サハラ砂漠での<星の王子さま>の最期のシーン<地球離脱>の雰囲気を味わうことにはこだわった。

 

キャラバン・ファッションは、青空市で白シーツを買い込み、真ん中で折り、カッターナイフで首の穴を

切っただけの超簡単ワンピースである。 ターバンは、白い枕カバーを代用した。

写真で見る限り、結構、砂漠スタイルがお似合いである。 

また機能的で、歩きやすい簡易スタイルとなった。

  

              

                    砂漠彷徨用衣裳のチェック            

 

             表面に小石が浮いたサハラ砂漠リビア砂漠)で一服

           ファラフラ村/ Farafra Oasis近くの<白い砂漠>で

 

歩き出して、サハラ砂漠の砂が以外とサラサラして、足をとられ前へ進むのに難儀することだった。

ラクダの足裏のように広くて柔らかい靴底が良さそうである。

ただ、砂漠のなかでも人や車の往来するトレッキング筋は、小石も混じり、意外と歩きやすかったので

助かった。 しかし、やはり想像通り木一本ない、炎天下での砂漠の行軍は、約9.5kgのバックパック

背負っては3日が限度であることを体感した。

 

         サハラ砂漠彷徨ファッション と ナップザックの中身<携行用品リスト>

  

炎天下では、ときどき見受けられる草の陰で休だり、乾燥した枝<砂漠 Ironwood ブッシュ>の下にもぐりこみ、陽が沈むころに歩き出し、<星の王子さま、ご帰還の星や天の川>を眺めながら、サハラ砂漠を彷徨(トレッキング)した。

見渡す限りの砂漠、出会ったのは1羽のカラス、多分、人の棲むファラフラ村から、もしやの獲物にありつけると付いて来たのであろうか、不気味である。 

ただただ砂の大海原が延々と続いている。

今晩は、ファラフラ・オアシスの次なるバフレイア・オアシス近くで野宿し、星座を観賞しながら夜間トレッ

キング(彷徨)のあと、熱の冷めやらぬ砂丘に抱かれながら仮眠をとることにした。

 

             仮眠をとったバファレイア・オアシスの白い砂漠

                       サハラ砂漠


 

神はなぜ砂漠を創られたのであろうか。

ユダヤ教はじめ、キリスト教イスラム教は、砂漠の宗教である。

それもおなじ神のもと、この荒涼とした砂漠の民に現れたのである。

この厳しさの中に、生命体いや、人類は与えられた知恵と宗教心をもって生きながらえてきたともいえる。

この沈黙の砂漠が、人類に試練と工夫、知恵と発明、愛と協調を教えているように思えた。

 

地平線まで砂漠がつづき、

いま、360度のサハラ砂漠リビア砂漠)の真ん中にいるのだ。

星の王子さまが、いまこの体に訪ねてきているような気分にひたった。

星の王子さま>も、帰還した小さな砂漠の星で、1本のオリーブの樹に上って、こちらに声援を送って

くれているように思えた。

 

心うちで<星の王子さま>に出会えた瞬間である。

 

なぜか、夜空の星を眺めて<星の王子さま>とこころを通わせていると、カンパネイらとジョバンニの<サソ

リの話>がかすかに聴こえてきた・・・。

星の王子さま>を噛んだのは蛇ではなく、黄色いサソリ(蝎)のような気がしてきたのである。

 

幻覚と幻聴のなかを彷徨していたのであろうか・・・

サハラ砂漠、それも白いリビア砂漠で・・・見果てない素晴らしい体験をした。

   

            サハラ砂漠の草影で太陽光を避けながらの彷徨である      

 

       

                    <星の王子さま>の星

  

後日、この年前後から<サハラ砂漠250キロ横断マラソン>(Marathon des Sables)が アフリカ北部モロッコで開催されたことを知った。

世界一過酷なマラソンといわれるこのレースは、こちらのサハラ砂漠彷徨2日間と違って、7日間かけてサハラ砂漠250kmを越えるという。 

サハラ砂漠全横断4000kmなど、夢の中の夢なのかもしれない。

 

     

               サハラ砂漠250キロ横断(AFPBB News提供)

 

後で分かったことだが、サハラ砂漠を単独で横断した日本人がいた。

こちらがサハラ砂漠を彷徨していた年、北極海で遭難して亡くなった冒険家 河野兵市(1958~2001)が、1990年11月より5か月かけて、サハラ砂漠約5千キロをリヤカーを引いて単独横断を成し遂げていた。

 

 

 

<砂漠のオアシス 点と線> 

オアシスと、砂嵐で消えゆくラクダ商隊のかすかな足跡、この点と線を離れて砂漠で生きていけないし、砂漠を歩くことは不可能に近い。 
砂漠のオアシス<点と線>は、生命線であり、生存のための最低の保証である。
水がない、陰がない、食料がない、それが砂漠であり、
月と、太陽と、星が唯一の語り手であり、友であり、導き手である。


サハラ砂漠の夜間彷徨ートレッキングと、<星の王子さま体験>を成しえたことに、自分だけの勲章として

今でも満足している。

 


カイロに帰り着いて、さっそく<サハラ砂漠彷徨記念>として、星の王子さまの最期に立合ったサソリ(蛇ともいわれているが)の標本を手に入れ、いまも大切に階段画廊に飾り、成し遂げた記念日を懐かしんでいる。

 

 

             サハラ砂漠、 影のない直射日光の輻射熱は凄まじい
   

              三蔵法師と見まがう私の影(サハラ砂漠リビア近くで)

 

 

           

               サハラ砂漠彷徨記念に購入したサソリの標本

 

 

サハラ砂漠彷徨-トレッキング>
いま、サハラ大砂漠の一部を構成する<リビア砂漠ー白い砂漠>の真ん中にいる。
砂の風紋に寄り添うように、わたしは長い影を白い砂漠に作っている。
こちらの熱さにくらべ、砂漠は涼し気な顔をしているではないか。
陰を求めて枯草のわずかなスペースに抱かれるように横になって熱風を避ける。
枯草さんは、「ようこそサハラ砂漠へ、ゆっくりと砂漠と語らってください」と歓迎してくれている。

命を育むにはあまりにも過酷な砂漠の状況に驚いていると、砂漠の上には、大小の無数の生き物の足跡が残されていることに気づかされた。
驚きと共に、環境に適合した命があることを知って、砂漠にあわい温もりを感じたのである。
小さい命たちは、外の世界を知らずして、この砂漠に一生を託し、生きる喜びに出会い、幸せな生涯を終えることを知って、なにかホッとさせられた。

オアシス、それは子供のころからの夢の世界であった。
オアシスの水辺でロバの腹を枕に、うとうとする心地よさを想い描いて来たのである。
いま、ここサハラ砂漠を構成する僻地の<白い砂漠>にあって、オアシスそのものが少ないことに気づいた。 
カイロからここファラフラ・オアシスに向かう間でさえ、砂漠道路を約200km走って初めて休憩のためのオアシスに出会う始末である。
あったとしても、オアシスに村が出来上がり、水も汚れ切っているとの運転手の話である。

しかし、一歩オアシスを離れ、砂漠に足を踏み入れると、そこには夢物語が残っていて、喜んだものである。
アラビアのロレンス星の王子さま、共に少年の夢を育んでくれた大切な宝石箱が砂漠に埋もれているからである。
この美しき荒野であり砂丘の光景、人を寄せ付けないこの厳しさの中に、光り輝きく温かい慈愛を感じるのはわたしだけであろうか。

ロマンは、時として厳しい真理のなかにあるのではないだろうか。

なんと美しい夜の世界への誘いであろうか。
いま、サハラ砂漠が闇を迎える一瞬の光景に立合っているのだ。

 

                 幻想的なサハラ<白い砂漠>の夕陽

               バファレイア・オアシスにて

                

 

       ▼    11/7   サハラ砂漠 野宿&彷徨(夜間トレッキング)

 

 

 

■    11月8日 午前中砂漠より戻る、午後はカイロ散策   曇のち晴 33℃

 

星の王子さま最期の地のサハラ砂漠彷徨>1泊2日を終え、全食料と水を使い切って、カイロ宿泊先のユースホステルに無事帰りついた。
同宿のカイロ医大生からは、「本当にやったのですね・・・」と、あきれ顔のなかにも、笑顔で迎えてくれた。

明日、ルクソールへ向かうというハードスケジュールのなか、午後はオールド・カイロ(旧市街)をスケッチし、<コプト博物館>を訪ね・・・
ユースホステルに帰える前に、オールド・カイロで散髪をしてと・・・
夕方には、ユースホステル近くのプールでナイル川の水を浴び、カイロ最後の疲れをとることにした。

 

 

ここ砂漠の国に生を受けたエジプトの人々は、勤勉で、おおらかな国民であるが、運転を始めすべてにおいて、荒っぽさが目に付くのである。
ここエジプトの樹々の葉っぱも、人と同じく砂に汚れ、薄汚く見えるが、濡れたティッシュで拭きとってやれば、汚れ無き純粋な地肌が見せてくれるのである。

今日は、早朝からサハラ<白い砂漠>を彷徨し、一番のローカル・バスでカイロに戻り、さっそくカイロ散策・・・、歩き疲れたのであろうか、膝が笑い出した。
少し休んでおきたいとユースホステル近くのプールにつかり、暑さをしのぎ、疲れをとった。
多分、ナイル川より引きこんだ水なのだろう、これより立寄るルクソールとナイルの源流に近いアスワンの風景がよぎった。
そう、ルクソール・アスワンへは、ナイル川沿いの列車又は、紅海沿いのバスでの旅だが、ナイルの川船で旅することも出来るということである。

 

   

                 ナイル川から引いた水のプールで休養              

 

                オールド・カイロの散髪屋さんで
   

 

 

      

                      コプト博物館①
                   オールド・カイロ・エジプト
                    Sketched by Sanehisa Goto

 

     

     

                     コプト博物館②
                  オールド・カイロ・エジプト
                   Sketched by Sanehisa Goto

 


今回のカイロ~ルクソール間は、予算の関係で、深夜バスを利用することにした。

バスは、カイロ<トルコニマン・バスターミナル>より出発する。

    <カイロ  11/8  21:00発 ➡ ルクソール 翌朝11/9  07:00着予定>

 

強いアンモニアの匂いのするルクソール行深夜バスの中は、満員の乗客の熱気も加わり、不愉快指数は高いようである。
バスは、三日月の映る紅海(Red Sea)を眺めながら南下している。


ひと眠りしているうちに、夜が白々と明けてきた。
ローカル・バスの乗客は、私以外みな現地の人らしく、深夜トラブルが持ち上がった。
青年が、寝ている間にバスが降車地をパスしたらしく、車掌に抗議していた。
車掌も車掌だが、乗客も降車地をバスの運転手に伝えておけばよいものと、なじりあう怒号を耳にしながら少しでもエジプト・バスの旅を楽しむ工夫をした。

 

エジプトを含めて中東は、西欧に比べて、自然環境がすべての物差しになっている。
宗教をはじめ、食事、物の考え方・・・と、アラーの神に己を任せないと生きていけないのであろう。
自然の厳しさは、神に近いものであると言っていい。 そこには畏敬の念と共に、命を圧するほどの恐れが存在する。

 

バスは、ルクソール郊外を走っているようだ。
ナイル川の灌漑用水で、緑の畑が鮮やかに広がっている。
ヨーロッパ以降、そうイスラエルでさえ砂漠の国であり、その後のシナイ半島は見渡す限りの死の砂漠であったから、ナイル川両岸の緑豊かな耕作地に、命の母と再会したような興奮を覚えた。


    

                    ルクソール行きの深夜バス

 

昨日のプールもそうだったが、このローカル夜行バスもルクソールに近づくにしたがって、わたし一人の貸し切りバスである。 車窓からの、長閑な農村風景の広がりや、朝早くから懸命に働く農夫の姿を見ると、エジプトいや、アフリカであることを忘れてしまいそうである。

 

  ▼    11/8 車中泊  <カイロ➡ルクソール 夜行長距離バス>

 

 


■    10月9~10日 <ルクソール観光>

 

長距離夜行バスは、ただ一人の客を乗せ、1時間遅れの、08:00に東ルクソールにあるバスターミナルに到着した。
ルクソールは、ナイル川の南部の都市で、古代エジプトの都テーベがあった場所である。 

現在も世界遺産はじめ数多くの遺跡が残っている。

バス停から20分ほどの<ホテル・ファンタナ>に投宿し、まず荷物を置いた。
午前中のまだ気温の上がらないうちに、東岸の世界遺産を自転車で巡り、その後、フェリー<渡し船>でナイル川を渡って西岸へ、<王家の谷>はじめ世界遺産を巡る西岸ツアーに参加することにしている。

  ➀ 東ルクソールにある世界遺産をレンタ・サイクルで巡り、スケッチに励む。
    <カルナック神殿アメン大神殿 / ルクソール大神殿>


  ②  西ルクソールにある世界遺産は、ツアーに参加して廻る。
    <王家の谷―ツタンカーメン王の墓 / ハトシェプスト女王葬祭殿ほか>

 

               世界遺産ルクソール>全観光地図
         ナイル川を挟んで  左<ルクソール西岸> 右<ルクソール東岸>                                              

 

シベリア横断鉄道以来の鼻風邪のようだ。 持参の塩を水に溶かし、うがいを繰り返す。
長距離バスやカイロ市街の排気ガスや、人混みが原因のようである。 

 

<エジプトの英語>
エジプトの英語教育は、小学校3年生からだという。
出会う修学旅行生は、積極的に英語でしゃべりかけてくる。
エジプトは、英国の半植民地のもとにあったが、英国の植民地政策により現地の言語・制度・風習などを生かす方策がとられた関係上、現地役人・軍人以外は、あまり英語を使用しなかったようである。
エジプトの民衆の大半は、英語をしゃべれないのである。
しかし、どのような田舎でも役所には、英語がしゃべれる老公務員がおり、バックパッカーとしては助けられることが多くあった。

 

ルクソール襲撃事件>
3年前の、1997年11月ここルクソールイスラム原理主義者の襲撃によって58名が死亡した。その内、10名の日本からの新婚カップルが含まれ、日本で大きく報道されたことを覚えている。
この年も、日本政府からのエジプトへの渡航注意勧告がなされ、ルクソールの観光地で日本人観光客に出会うことはなかった。
この年(2001年)の9月には、同じイスラム原理主義者によるアメリカ同時多発テロ事件<9:11>があり、米国人はじめ西欧人の観光客もまた、ほとんど出会うことがなかった。 たまに見かける西欧人は、ほとんどがバックパッカーであり、少ないグループも慎重に行動していたのが印象的であった。
バックパックカーたちのリュックには、スエーデン・スイス・ニュージランド・メキシコなど中立国又は穏健国の国旗が貼られていたほどである。
こちらも、出来るだけ目立たないように、集団から離れ、東ルクソールでは、自転車による単独行動をとる様に心がけた。
襲撃・拉致・拘束・スパイ容疑などは、世界を駆け巡るバックパッカーにとって、たえず付きまとう危険である。 回避策として、目立たない事(宝石類・服装・行動・金遣い)、脱兎のごとく逃げること(もちろん状況によるが、一点突破)、見せ金の用意(お金の分散)、危険個所に近づかない・写真を撮らないことである。

ほか、たえず周囲への注意を怠らない様にしていた。

 

 

世界遺産ルクソール観光>
そのような影響からか「ルクソール考古博物館」も警備上13:00~16:00と2時間であり、都合がつ

かず残念だが入館を見合わせた

  ルクソール東岸観光 
   <カルナック神殿アメン大神殿ルクソール大神殿> (貸自転車で巡る)

   ナイル川東岸のカルナック神殿は、アメン神と太陽神ラーが結合した最高神を祀っている。   

   このアメン・ラー神を祭るアメン大神殿の壮大な景観は、ピラミットと異なり、どこかギリシャ

   イタリアの地中海文明に劣らないような、エジプト内陸部で見られる最大の古代建築物であること

   に驚かされた。

   やはり母なるナイル川のなせる業(建築資材の運搬ほか)があったが故の大神殿の存在である。
   エジプトの修学旅行生たちの、先祖への畏敬の念からか、一様に誇らしげな眼差しがこちらにも

   伝わって来た。

          


カルナック神殿アメン大神殿

 古代の船着き場から第一塔門までの参道両側に並ぶのは、アメン神の聖獣、牡羊頭のクリオ・スフィンク

 スである。 

 ラムセス二世が建てた134本もの巨柱が林立する大列柱室は圧巻である。

 

 

              世界遺産 <東西ルクソール> 遺跡ルート図

  

 

              レンタ・サイクルで東ルクソールを巡る

   

                 現地案内人とカルナック神殿列柱前で             

 

 

     

                  カルナック神殿レリーフ

 

              カルナック神殿円柱に見られるレリーフ

 

 

ルクソール神殿
ルクソール神殿は、カルナック・アモン大神殿の副殿として建立され、かつて、ふたつの神殿は<スフィンクス参道>で結ばれていた。 その巨大建築物に驚き、目に焼付けるとともに、スケッチに残すことにした。

   

            カルナック神殿よりルソール神殿に至る<スフィンクス参道>

 

                   美しいルクソール神殿の大円柱群

 

                ルクソール神殿 第2塔門の入口(前庭)            

                 背後右の円柱<パピルス柱 21m高>

 

                   ルクソール神殿の円柱群                

 

                    出迎えるファラオ像
      

                   ルクソール神殿レリーフ

          
                               

 

                     ルクソール神殿
                  大列柱室(開花式パピルス柱)
                   Sketched by Sanehisa Goto

                       
                               

     

                      ルクソール神殿
                     第2塔門の入口
                  Sketched by Sanehisa Goto

 


ルクソール大神殿からでると、客引きが群がり、その強引さに、古代への畏敬の念が一瞬にして現代の貧困の中に引きこまれたような気にさせられた。 かれらも襲撃事件による観光客減少からくる収入源を取り戻そうと、その競争は熾烈を極めているようである。
このような客引きの強引さは、ここルクソールにバスで着いた時から、すでに始まっていた。 

 

 

                   東ルクソールの小学生たち

 

バスで、ルクソールに着いた時、まずその客引きの数にたじたじした。
バスの床下の貨物室にあるはずのリュックが見つからず、途方に暮れていた時、必死になって貨物室にもぐりこんで探してくれた客引きの情にほだされてしまい、世話になっているのが<ホテル・ファンタナ>の主人である。 
ホテルのオーナーが、その客引きであったから、いかにルクソールから観光客が減少していたかが分かるというものである。
客引き兼オーナーである彼によると、バス停でのあの無数の客引きはみなコミッション目当てであるという。 だから、ミスターはオーナーであるわたしで運が良かったのだと自負していたほどだ。 
このホテルは、ナイル川畔にあり、スケッチを楽しめたことと、下着を洗えたことだろうか。 それにレンタ・サイクルがあったことである。
ただ、世界各地で出会う川に身を鎮める儀式を続けてきた者として、ナイル川で泳ごうとしていたところ、ホテルのオーナーに 「ナイル川には体に悪い水生虫がいるから泳ぐな」 とのきついお叱りを受けた。

ここルクソールに来る前に、カイロのナイル川の水を浄化したプールでの入水を思いだし、良しとした。

ふと、インド・ガンジス川での沐浴を懐かしく思い出していた。

 

 

     ▼    11/9~10  <ホテル・ファンタナ>連泊
             Radwan Street, Luxor Egypt  @35£x2日

   

       

        東ルクソールにある宿泊先 <フォンタナ・ホテル /  FONTANA HOTEL
    

 


■    11月10日 西ルクソール遺跡巡りツアー

 

  

              ナイル川 ルクソール西岸へ向かうフェリー
                <ホテル・ファンタナ>からの景色

              Sketched by Sanehisa Goto

 

昨日、炎天下での貸自転車による東ルクソール世界遺産巡りで、喉に違和感を覚え、すこし疲れが残っているようである。

西ルクソールでは、<王家の谷>はじめ、広大な渓谷に散らばる遺跡を回るため、<世界遺産巡りツアー>に参加することにした。

ナイル川をフェリー<渡し船>で渡り、集合場所に向かった。

 

ルクソールの気候と風邪、治安>
ルクソールは、砂漠特有の乾燥地帯にある上に、街そのものにゴミが散乱し、砂漠の街らしく埃っぽく、喉が乾燥し、色々な菌が付着しやすいのであろう。
風邪予防として、ホテルに戻ったら必ず持参の塩をミネラルウオーターに混ぜてうがいを励行した。
もちろん、手洗いをし、十分な水分補給と、栄養剤やビタミン剤をとり、オレンジやキューイを口にした。
ルクソール観光では、バンダナ・マスクで砂塵から守り、直射日光を避けるようにした。

ガイドによると、パラソル(日傘)をさし、カメラを肩にかけているのは、日本人観光客であると云われているそうである。 
なぜなら、当時の日本はバブルを経験したあとで、その金満さを、世界中が知ってしまっていて、この時でさえ、世界のいたるところで日本人は狙われ、誘拐による身代金要求や金品強奪などが頻発していた。

 


ルクソール西岸観光ツアー>
 

               世界遺産 <東西ルクソール> 遺跡ルート図

 

<西ルクソール  王家の谷ほか>
まず、ルクソール西岸の岩を掘って作られた王たちの墓、<王家の谷>へ向かった。
当日公開されている2つの通常王墓とツタンカーメン王墓に入場することが出来た。
   

 

                 王家の谷入口で (西ルクソール)                     

 

                  王家の谷壁画(西ルクソール
  

                   王家の谷ツアー仲間と
                 ファラオのポーズで連帯を示す

 

<ハトシェプスト女王葬祭殿  王家の谷>
切り立った断崖の下に建設され、岩山を借景とした壮大なスケールのハトシェプスト女王葬祭殿は、まるで砂漠で出会った近代建築物のように見えた。
ハトシェプスト女王は、ファラオとしてエジプトに君臨した唯一の女性である。

 

今から3年前にさかのぼるが、 ここ<ハトシェプスト女王葬祭殿>で、待ち伏せしていたイスラム原理主義過激派「イスラム集団」のテロリスト6人が、約200人の観光客らに銃を乱射した。

日本人観光客10人を 含む62名が死亡、85名が負傷した。

   

               ハトシェプスト女王葬祭殿で <王家の谷>
   

         

          ハトシェプスト女王葬祭殿の彫像群 <王家の谷>

 

      

             ハトシェプスト女王葬祭殿内部壁画① <王家の谷>

 

      

            ハトシェプスト女王葬祭殿内部壁画② <王家の谷>

 

      

                 <王家の谷>観光案内図

 

 

ツタンカーメンの墓  王家の谷>
ツタンカーメン王の墓は、1922年に<王家の谷>で盗掘を免れた墓として発見され、史上最も有名なファラオの一人となった最後の直系王族である。 17歳で亡くなった少年ツタンカーメン王が付けていた黄金のマスクや、多くの黄金の副葬品は、現在、<カイロ考古学博物館>に所蔵され、世界中の人が魅了されている。 

玄室にはファラオと神々を描いた美しいレリーフがある。
             

     

                    ツタンカーメンの墓入口
         

     

                ツタンカーメンの石棺 と 壁面レリーフ        

 

 

                                               

                   ツタンカーメンのマスク

               カイロ考古学博物館にて)               
                  Sketched by Sanehisa Goto

   

                ツタンカーメンの棺室の壁面レリーフ
    

 

      ツタンカーメン発見当時の解説板         ツタンカーメンの墓立体図 

 

<ラムセウム>  ラムセスⅡ世葬祭殿 (王家の谷)
ラムセスⅡ世は、エジプト新王国第19王朝のファラオである。
ラムセスⅡ世遺体安置所として、紀元前1258年建てられた。

   

           <ラムセウム>  ラムセスⅡ世葬祭殿 (王家の谷)  

 

                ラムセスⅡ世の彫像(頭部のみ)

             

 

                王家の谷 ラムセスⅡ世の墓 壁画                        
                   西ルクソール・エジプト
                                       Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<王妃の墓#15・#66  王妃の谷>
ナイル川西岸にある岩山の谷にある岩窟墓群である。

本日は、この2つの墓とツタンカーメンの墓が公開されていた。
ファラオが<王家の谷>に埋葬されているのに対して、主にファラオの妻(王妃)が埋葬されている。

    

                 王妃の墓#66入口 (王妃の谷)
                   西ルクソール・エジプト

 

                  王妃の墓#66壁画 (王妃の谷)
                    西ルクソール・エジプト

 

                王妃の墓#15入口と壁画 (王妃の谷)
                    西ルクソール・エジプト
                                        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

   ▼ 11/9~10 <ホテル・ファンタナ>連泊

           Radwan Street, Luxor Egypt  @35£x2日

 

 

 

■    11月11日(日)  アスワンに向かう

 

6時起床。
6時半、荷物をパックし、ルクソール<フォンタナ・ホテル>を出る。
駅近くで、列車用朝食として、菓子パン・ミックスジュースを購入する。
ルクソール駅で、軍隊による厳重な荷物・身体検査を受ける。
アスワン行列車に乗車。
   
    ルクソール 07:15発 ➡ アスワン10:35着 <急行列車・2等車・座席指定・13£>

 

                                          列車でアスワンに向かう (ルクソール駅にて)

 

狭軌の日本の列車よりゆったりしているようだ。
乗り心地もよく、トイレも清潔である。 何といってもナイル川両岸の灌漑による畑の緑が美しい。
エジプトでも、ここナイル川両岸は別天地であると言っていい。 砂漠の中のこの緑が、この国の未来をも豊かにするように見えた。
エジプトでの将来を担うもう一つの要因は、イスラム教の動向であろう。
アスワンへの列車で相席となったサウジアラビアからのMr.Amhudは、イスラムの女性観について次のように語ってくれた。

 

イスラムの女性観>
モスクでの礼拝時、男性が前に坐り、女性が後方なのは・・・
女性が前だと、礼拝する時、女性のお尻が見え、あるいは尻の線が見え、後ろの男性は気が散って礼拝に身が入らない、からだとおっしゃる。
また、女性がスカーフ(ヒジャブ・髪を隠す布)を着用するのも、男性に余計な色情を与えないためだと、イスラム教のコーランの一部を解説してくれた。
ヒジャブは、覆うこと、または隠すことを意味するアラビア語であり、イスラム教の女の子たちは、イスラム教の経典コーランにおける神の教えに従いヒジャブを着けるという。
イスラムの神アツラーは、貞節な女性たちに「目を伏せ、性的な部分を守り、誘惑させないように飾らず」にと教えており、女性たちが名誉と尊厳を維持し、謙虚さを保ち、性欲的な外的要因を取り除くことで、社会でイスラム教徒として認められ、虐げられることを防ぐため、だという。
若い女性が思春期に達すると、頭をスカーフで覆うことが義務づけられるようである。

 

<アスワンハイダムの驚異>
このナイル川の奥深い上流に、それも紀元前にかくも壮大な神殿と、岩盤をくり抜いたファラオの彫像を造ったものである。
それらの彫像に気の遠くなるような時間、労力、資金をかけていることに驚いたのである。
そこには、人智では図ることのできない悠久の芸術性がただよっていた。
アスワンダムを造る時、水没するこれらの歴史的遺産を守るため、<世紀の移設>にユネスコが動いたことは当然の成り行きであったことを、現地に立ってみて納得したものである。

 

<レストランにて極上の贅沢>
バックパッカーの低予算での食事にも、栄養上限界がある。
今日は三日に一度の栄養補給日である。 ホテル・アスワンにあるイタリアン・レストラン<ISIS>で、ボログナー・スパゲッティに、スキャロップ・スープ、ソーセージ、レッドワイン、チーズケーキ、アイスクリーム、コーヒー(120£)と大奮発である。
最高級ホテルの最上階にあるレストランから、暮れゆく砂漠の風景を鑑賞しながらのバックパッカーにとって、夢のようなディナーを楽しんだ。 

ボーイによると、ハイシーズンであるはずだが、例年に比べて20%にも満たない観光客だという。
もちろん、2か月前の9:11米国同時多発テロにより、ハイジャックを恐れて飛行機による海外旅行を控えているようである。


明日は、早朝3時起き、アブシンベル神殿ツアーに参加する。
砂漠に埋もれるエジプトの気候は、乾燥に弱い体には少し酷なようだ。
特にのどの渇きがひどく、風邪っ気のためか関節の節々が痛み、その上、久しぶりの豪華な晩餐に胃が驚いたのか、ゆるゆるである。

アスワンから、アブシンベル神殿まで車で往復6時間である。
明日のためにも日本から持参の風邪薬パブロンと、正露丸を飲んで、ベットにもぐりこんだ。

 


    ▼    11/11~12  <Go Inn Backpackers> 東アスワン 連泊
                           3VHM+WH, Sheyakhah Oula, Aswan 1

   

 

         <Go Inn Backpackers> ナイル川に面したテラス と 4人部屋

 

<Go Inn Backpackers>は、ナイル川畔、眼前の川中島に浮かぶエレファンティネ島をはじめ多くの美しい島を眺められるゲストハウスである。

 

 

 

■    11月12日  アブシンベル神殿  アスワン

 

早朝3時、ゲストハウスからの目覚ましコールが鳴る。
アスワンの奥地、アブシンベル観光ツアーを催しているゲストハウスには、ツアー参加者が集まりだした。
4時スタートし、アブシンベルまでの砂漠上を約282km、車に揺れることになるが、体調はいまだ回復せず、出発前の儀式に追われた。 念のため胃腸薬も口に放り込み、万一のためビニール袋も用意した。

 

             アスワンよりアブシンベル282㎞に横たわる砂漠地帯

          

とにかく、この乾燥した砂漠の気候から出来るだけ早く脱出することである。 
明日の朝には、カイロに向かって夜行列車の予約をとっている。
高山病の低地への下山と同じく、砂漠の乾燥病も、可能な限り早く温暖な湿気った地に脱出することである。
 

アブシンベル神殿>
アブシンベル神殿(Abu Simbel)は、エジプト南部、スーダンとの国境近くのヌビア古代遺跡にある。 紀元前1260頃の建設で、アモン・ラー神などの岩窟神殿として世界遺産に登録されている。
古代エジプト王の中の王と言われた、第19王朝の<ラムセス2世>の築いた神殿として知られ、アスワンの上流約280Km(カイロのピラミットからは1200Km)のナイル川左岸に位置している。 
アブシンベル神殿は、王自身のための<アブシンベル大神殿>と、妃ネフェルタリのための<アブシンベル小神殿>の二つからなっている。

 

          第19王朝の<ラムセス2世>を祀る <アブシンベル大神殿>

 

            妃ネフェルタリのための神殿 <アブシンベル小神殿> 

  

                  アブシンベル大神殿を背景に

                 

アブシンベルに行って来た。 アスワンより約287km、 約6時間の砂漠縦断ドライブに、アブシンベル観光1時間30分という過酷なツアーである。

アブシンベル神殿をもっとじっくり観賞したかったが、ここに宿泊してまでもと言う感情はいだかなかった。
ただ、アスワンダム建設で、水没のため低地よりこの重量のある彫像をすべて60m引上げたという気宇壮大な人類の英知と、紀元前1260年にこのような大建築物を、僻地である砂漠地帯に造り上げたというにことに目を見張ったのである。

 

                   

                   アブシンベル大神殿正面

                    アスワンハイダム
                        Sketched by Sanehisa Goto 

 

 

                  アブシンベル小神殿壁画

                 アスワンハイダム
                       Sketched by Sanehisa Goto

 

 

             
<アスワンハイダム>

                  ようこそ<アスワンハイダム>へ


 
「アスワン・ハイダムが完成することにより、ダムより上流のエジプトからスーダンにかけてのナイル川流域がダムに沈むこととなった。 またこの流域は古代ヌビア文化の遺跡が点在しており、その多くが水没することになり、 その中の最も重要な遺跡である3300年前のラメセス2世の建造したアブシンベル神殿は、ユネスコの手で分解され、移築されることになった。
大神殿は幅約38m、高さ役33mの岩肌に4体のラメセス2世像があり、小神殿は王妃ネフェルタリの像を中心に高さ10mの立像が6体並んでいる。
これらの神殿は、細かく岩塊に解体され、水位の及ばない60mの高さの土地に移築された」
ユネスコの案内板に書かれている。

 

                アスワン・ハイダム <古代ヌビアの遺跡>
  

               ナイル川上流を背に、アスワン・ハイダムにて
 

                 ナセル湖を背に (アブ・シンベル) 

        

  
<ファルーカによるナイル川セール>
アブシンベル・ツアーより帰って、夕涼みも兼ねて、ナイル川での思い出を作った。
一枚帆<ファルーカ>でのナイル川セールを体験したのである。
船長Cap. Sayed El-Fananは、ヌビア族の青年で、自艇ファルーカを購入してこれからと言うときに9:11米国同時多発テロのため、観光客の激減により商売として成り立っていないとの嘆いていた。 
エジプトの観光収入の減少は、この国の国際収支を危うくしているようでもある。

ファルーカは、ヌビア族の専売特許で、古代からナイル川の交易に従事してきたという。
主柱であるマストにたすき掛けの一枚帆を張り付け、舵を取り、ヨットと同じ原理で風を受けて、走らせるのである。

  

     

               一枚帆<ファルーカ>でのナイル川セール体験

 

             ナイル川に別れを告げる (アスワン)

 

 

      ▼    11/12  <Go Inn Backpackers> 東アスワン 連泊
             3VHM+WH, Sheyakhah Oula, Aswan 1

 


スーダン内戦
アフリカ縦断にあたって当初、エジプトのルクソールからアスワン経由、国境を越えスーダンを南下し、ケニアの首都ナイロビへ、ヒッチハイク又はローカル・バスを乗り継いで、スーダンを縦断する計画を立てていた。
2001年当時、スーダンは英国より自治権を獲得し、その後エジプトからの独立を勝ち得ていたが、内戦に明け暮れていた。 その紛争の原因が、人口構成にあるようで、肥沃なナイル川沿いの農耕民、草原が広がる中西部の遊牧民アラビア半島に近い北部のアラブ系イスラム教徒、サハラ砂漠南部であるスーダン北部のアフリカ系のキリスト教および土着信仰など多様性からくる住民間の不信が、社会構造の安定性を欠き、スーダンでは延々と<スーダン内戦>が続いていた。 
そしてこれらの紛争によって多くの犠牲者が出ていた。
外務省も国・地域別海外危険情報で<退避勧告>、<渡航禁止>とレベルを上げていた。

残念ながら、スーダン縦断をあきらめざるを得なくなり、カイロに戻って、空路でケニアの首都ナイロビに飛ぶこととなったのである。

 

ナイル川遡上、ビクトリア湖へ幻の計画>
実は、夢物語になってしまったが、スーダンを南北に流れる<内ナイル川>をカヤックで遡上して、ナイル川源流であり、ケニアにも属する<ビクトリア湖>を目指して、長年の計画<ナイル川・カヌーの旅5760km>を温めてきたのである。
しかし、これまた紛争国スーダンへの入国かなわず 『幻のカヤック旅』 となってしまった。

平和と安定こそ、バックパッカーの絶対的条件である。

紛争地はバックパッカーにとっての聖地ではなくなるのが残念である。

旅ができる、それは世界平和の大切な物差しでもあるのだ。

 

 

 

■    11月13日 アスワンよりカイロへ列車移動


超満員の夜汽車に13時間揺られてカイロに向かっている。

 

        

              アスワン始発の夜行列車#777カイロ行

 

列車番号は777、セコンド・クラス(2等車)、どうみても観光客向けの車両ではなさそうである。
車内全員、現地エジプトの人々である。 こちらも気取らず現地の人に倣って、通路に新聞紙を敷いて横になったりと、欧州では味わえなかった自由なるパックパックを楽しんだ。

久しぶりに学生時代のような、のびのびした夜行列車の旅に興奮したものである。

指定席は、あってないようなもので、すべて席が埋まって誰の席であろうと、そこには夜汽車独特な寝入りの姿勢に入っている乗客で占められているのである。
最初、座席指定のところに行くとターバンを巻いたアラビア人が坐っていたので、ここは指定席だからと言っても知らん顔、巡回中の軍人に事情を説明すると、そのアラビア人を追い立て、席に着くように言われたが、気持ちのいいものではない。
しかし、世界を放浪するバックパッカーとしては、気丈夫でないと先の旅は続けられなくなるので、意外とドライに割り切って、こちらも寝込んだ振りをしてその場をしのぐことにした。

後で分かったことだが、観光客用の寝台車の料金は388£で、2等車両は42£とのことである。
こちらとしては、エジプトの2等車両での体験の方が貴重に思えて、かえって喜んだものである。

2等車は、さすが現地の人々の交通手段らしく、荷物棚や座席下には野菜や穀物、果物、オモチャ、売り物の農機具の入った籠や段ボール、ドンゴロスがぎっしり詰まっている。
トイレなど占拠され、使用するのに大変である。
エジプトでのカイロ~アスワン間の交通手段として、列車の重要度は計り知れないもののように思えた。 

標準軌道採用の列車の座席は、十分なスペースで、リクライニングを倒せば体を伸ばして寝ることができそうである。 日本の新幹線の5列よりゆったりしているように思えた。

 
アスワンダムを船で渡り、スーダンの国境を越えて、スーダンの列車に乗り換えて、スーダン縦断ができるとの情報を得たが、実際に国境越えが出来るかの確認は取れなかった。 
大抵は、不定期に運行されるバスで国境を越えるのが、通常のルートのようである。

 

アラビアのロレンスじゃないが、ターバンを巻き、アラビアン・ワンピースを着た乗客に囲まれているとアラブの世界の中にいることを実感するのである。

ナイル河畔の椰子のシルエットが浮き立ち、影絵を見ているようである。
ナイル川は靄のなか、おぼろげに太陽が顔をだし、幽玄なる景色を見せている。
そろそろ、カイロ駅に近づいたようだ。

   

                 アスワン~カイロ夜行列車内(2等車)           

 

                  カイロ近郊ナイル川に昇る朝日

 

目に飛び込んでくる緑の光景は、エジプト全土の約18%で、そのほとんどがナイル川両岸にあるという。 

国土の82%は水なくしては住めない砂漠であり、地図の上では等高線のない真白な空白の砂漠地帯である。
なんとこのナイル川一本にエジプトの全生命が託され、全歴史が作られていると言っても過言ではない。

列車は、大幅に遅れてカイロに到着した。


まず、行きつけのケンタッキーフライドチキンに飛び込んだ。 馴染みになった店員さんに迎えられ、彼らの笑顔にカイロがまるで心地よい居場所のように感じられ、ホッとさせられたものである。

カイロ・ユースホステルの同室者、カイロ大学医学部生であるマホメット君(22歳・アレキサンドリア出身)の18歳の妹さんが、カイロのミッションスクールで勉学中で、今朝、実家のアレクサンドリアに向けて帰宅する途中、ここユースホステルに立寄ってくれたと、紹介してくれた。

 

      ▼    11/13   列車泊 <アスワン➡カイロ>

 

 


■    11月14日 カイロ滞在   雨のち曇

 

体調(鼻水・喉渇き・下痢)も地元の薬局で購入した薬のお陰で、改善されつつある。
カイロ滞在中に、アフリカ縦断に備えて、すっかり治してケニアへ向かいたい。


<カイロ散策>
エジプトの人達も携帯に夢中である。
今回、サハラ砂漠リビア国境に近い田舎を歩き回ったが、この僻地にも電波が届いていた。
携帯の普及は、ここ砂漠の国エジプトでも情報社会の成熟期に入った感がする。

カイロの街には、日本の中古車が現役として大活躍、白バイ然り、路線バスはじめ昔懐かしいミゼットが、荷物を運んでいる。 エジプトの経済発展に寄与していると誇りに思いたいのだが、エジプトの現状を打破し、先進国への道のりを考えると、まだまだ遠いように見える。

カイロは、ナイル川が生みの親であり、ナイル川によって生きながらえているようだ。
ナイル川が消え去るとしたら、カイロは砂漠の藻屑となって消滅してしまうことは明らかである。
ナイル川は、すべての恩恵を与え、国民を養い、文明を育んできた『母なる川』 として尊敬されているのだ。

 

     

 

交差点の混雑の凄まじさは、インドはじめ多くの国で経験したが、ここカイロの喧騒は、人の営みの極致と言ってもいい。 そこには人間本来の本能のなせる闘争心、罵声、無規律が渦巻いている。 解決策を見つけるための人間の英知が働くのであろうか。 混乱、騒乱は、時が解決してくれるという民衆のおおらかさが、愉快であり、憎めないのである。

エジプトも、経済発展途上国として、先進国入りのための生みの苦しみを味わっているようである。 排ガス、ゴミぽいぽい、飛乗り降りバス乗車、職探しの路上売込み、信号無視、警笛ブーブーほか、その生存競争の凄まじさにも、また雑然さの中にさえも一定の秩序や法則があるから救われる。


慣れてきたら、カイロ住民と同じ行動をしている自分に気づいて大笑いである。 いつの間にか観光客としての慎ましさをかなぐり捨てて、カイロ市民になりきっていた。
生き抜くためには、単純だが、周囲と同じ行動をとった方が楽であると言うことに気づかされるのだ。
パックパッカーの神髄である生存のためのモットー<郷に入れば郷に従え>、おのれの中にバックパッカーとしての姿を再確認した。

 

                  カイロのバス・ステーション風景

 

カイロ散策中、目の前で一人のご婦人が、乗用車に衝突され、ボンネットから飛ばされて、体が宙に浮き、路上に投げ出された。 不謹慎だが、そのときひるがえった真赤なスカーフ(イスラムヒジャブ)から、天女のように見えたのである。
さらに驚いたことに、彼女は起き上がって、何事もなかったように手を振ってその場を立ち去った。
日本はじめ多くの国であれば、いかなる処置がなされるか思い浮かんだが、この場の雰囲気に飲み込まれ、われを忘れて見入っていた。
ただ、彼女に後遺症無きことを祈った。

このカイロでの2日間、過酷なケニアでの<野生動物追跡ツアー>や、ジンバブエでの<ビクトリアの滝>探検に備えて、ゆっくり休養を取った。


まず、『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km』 の最終地であるケープタウンまでの全線航空券(12290£=約45600円・アフリカ縦断)の手配を終えた。 
ケニア入国に際しての、マラリア対策準備、コレラや黄熱病(対処薬入手・イエロカード)、マラリア予防接種証明書などの確認を済ませた。


後は、爪を切り、散髪をし、下着を洗い、アリナミンを口に放り込んでベットに潜り込んで、エジプト最後の夜を迎えた。

 

      ▼    11/14  <カイロ・インターナショナル・ユースホステル> 泊

 

 

■    11月15日 カイロを飛び立ち、ケニア首都ナイロビへ

 

ケニア首都ナイロビへの飛行機は夜行便である。


朝からエジプト土産を購入のためショッピング・センター<カーン・ハリーリ>に出かけた。
白衣のワンピース<アラビアのロレンス>風のロングドレスがお目当てである。
ロレンス風帽子を加えて35US$である。
今も大切に保存し、船旅や、BSOBの舎営や営火などで着用し、愛用している。
アラビアのロレンス星の王子さま銀河鉄道999メーテル、カミーノデサンチャゴのヤコブらは、わたしの化身として、わがバックパッカーとしての冒険心を満たし、胸をときめかし、夢を叶えてくれているのである。

エジプトを去る日である。


この喧騒に満ち、生きる力が満ち溢れたカイロの街は、悠久の流れにあるナイル川のように、これからも変わることなく時の流れに身を任すことであろう。

そして、人びとは規律や規則に縛られず、大自然の法則に身を任せ、アッラーのもと、生きる喜びを変わることなく見出していくことであろう。

いよいよイスラム・アフリカのエジプトより、飛行機でアフリカ・スーダンをひとっ飛びし、赤道の国ケニアの首都ナイロビに向かう。

さらばエジプトよ、また会う日まで・・・

 

ケニア航空321便の窓から、月明かりに輝くナイル川に別れを告げた。


次編は、ケニアの<サファリ―ツアー>で、野営をしながら野生動物を追ってみたい。

 

 


          『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
               《アフリカ縦断の旅    15650km》 
                     ーエジプト編―

 

                       

 

 

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            《アフリカ縦断の旅    15650km》 

             ―ケニア・サファリ―編―

 

                    に続く

 

                                <現在作業中>

 

 

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<関連ブログ>

 ■ 星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』シリーズ

   Ⅰ  《シベリア横断の旅    10350km》

   Ⅱ  《ヨーロッパ周遊の旅  11000km》

   Ⅲ  《イスラエル縦断の旅    1000km》

   Ⅳ  《アフリカ縦断の旅    15650km》