『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km』
《イスラエル縦断 1000kmの旅》Ⅱ
―後編―
紀行文&スケッチ
星の巡礼者 後藤實久
■ 10月30日 エンゲディ ― クムラン渓谷トレッキング / 死海浮遊体験
次なる目的地である死海に面した<エン・ゲディ>に向かうため、エルサレムの新
市街にあるセントラル・バス・ステーションにやって来た。
バス乗車にあたっての厳重な荷物検査と、身体検査でのイスラエル兵との冗談に、
空気が和んだ。
< Do you have a gun? > との尋問に、多分冗談で言ったものと思い、こちらも
冗談で< Yes, I have! >と答えたら大爆笑、一瞬その場の雰囲気が明るくなったも
のだ。
にこやかに手を振って無事通過させてくれた。
バスの正面ガラスは太い鉄格子で補強され、テロの襲撃に備えている。
Holon行のバスに乗り、エン・ゲディで途中下車する。
(エルサレム08;45発、バス#486, Gate 3で乗車する)
エインゲディの位置
バスは、死海の北端で右に折れて入植地クアレQUALEに立寄る。
ここは砂漠のオアシスのように草木が繁り、花が咲き乱れる別天地である。
しかし、よく観察するとこのオアシスはイスラエル軍の兵士によってガードされ、
装甲車に重機関銃を搭載し巡回していることに気づく。
ただ、イスラエルの人々が、このような死の谷底の岩がゴロゴロしている不毛の地
にも入植地を広げ、緑化に励んでいるという現実と、祖国再建にかける情熱と覚悟
に驚嘆するとともに、頭が下がるものである。
海抜下、マイナス400mにある死海エリアを進むバスに乗っていると、飛行機のよ
うに気圧の変化により耳鳴りがする。
このあたりには、原住民ベトウィンが羊を飼い、旧約聖書以来のような質素な小屋
や移動用テントに住んでいる。モロッコのベトウインや、チベットで出会った山岳
民族に似た生活風景である。
バスは死海沿いに、月のような死の道路を南下しているが、行き交う車がほとんど
ないことに気づく。死海の周辺は流れ込む川もなく、真水を確保する手段がないが
ため、入植地やベトウイン以外、人の住む村一つないのだから車の通行も少ないの
である。
<クムラン渓谷 ― 死海文書>
1947年、ベトウィンの少年が迷子の山羊を捜していたところ、クムラン渓谷の洞
穴のなかから土器の壺に入った羊皮に書かれた7つの巻物を発見した。
それらが旧約聖書のイザヤ書の完全写本や聖書関連古文書<死海文書・死海写本>で
あったことから世紀の大発見として注目された。
下の写真の真ん中の洞穴から巻物が発見されたといわれる。
特にユダヤ人にとっての驚きは、ユダヤ経典<タルムード>のテキストが、古代ヘブラ
このすべての装飾をこそげ取り去った赤土の岩石の山や、渓谷にこだまする乾いた
足音の先に、神に選ばれた民によって書き伝えられた証が残っていた。
誰が想像できようかこの極限の世界で、おのれを律して修行を積み、人に与えられた
使命を見つめ、乞い願った聖なる人たちがいたということを・・・想像を絶する旧約
の世界である。
向き合う大切さ、乞い願い求める信仰の強さを教えられた瞬間であった。
エンゲディ・クムラン渓谷にあるクムラン教徒が住みついていた洞穴
ここから<死海文書・写本>が発見された
<エンゲディ・クムラン渓谷トレッキング 国立公園入域料 17NIS>
死海の西北部に広がる渓谷で、紀元前2世紀末ごろユダヤ教徒のクムラン教団がこ
こクムラン渓谷の洞穴で禁欲的な修道生活を始めたという。
今日は一日、クムラン教徒の修養にひたりたいと、このクムラン渓谷を瞑想行脚
<経行・キンヒン>しながら、トレッキングすることにした。
ここエンゲディ・クムラン渓谷は、アメリカのグランドキャニオンのように見渡す
限り死の地であり、赤土でおおわれ荒涼としている。
このような荒れ地にも小鳥たちの鳴き声が響き、こころを豊かにしてくれる。
またカモシカが姿を見せ、生き物の姿を見ているだけで感動してしまうのである。
渓谷トレッキングの途中でランチをとった。パン・ジャム・バター・リンゴ・ヨー
グルト・バナナ・コーヒーと豪勢である。
ランチをとっていると、公園をパトロールしていた武装レンジャーのスーザン嬢が
声をかけてきた。
どのルートでここまで来たのかとの質問、ルートを説明すると、この奥に<ダビデ
の滝>があるので立寄って見てはと勧められた。
公園レンジャーは、トレッカーの指導と、管理と警備および保護にあたっているよう
である。
Sketched by Sanehisa Goto
<ダビデの滝>
ダビデの滝には、仙人みたいな髭を生やした男二人が、裸になって滝に打たれなが
ら何かを唱えている様子、すぐにエルサレムの<嘆きの壁>の情景を思い出し、彼
らがトーラー(ユダヤ教律法・モーセ五書)を唱えている事に気づいた。
ダビデの滝は、約3000年前の旧約の時代、ダビデがサウル王から逃れ、身を隠し
ていたところである。サウル王が用足しのためある洞窟に入った時、そこに隠れて
いたダビデは、サウル王を殺すことなく、背後から王の着衣の一部をナイフで切り
取っていた。
サウル王が洞窟から出た時、ダビデも外に出て、自分がサウル王を殺すつもりなら
いくらでもそのチャンスがあったが、自分はサウル王に反逆する者ではないことを
話すのである。
このことによって、サウル王はダビデの忠実心を認め、ゆるすのである。
その後、サウルは戦いで亡くなり、跡を継いでダビデがイスラエル王になった。
(なお、ダビデ王に関しては、旧約聖書詩編をお読みいただければ幸いである)
ダビデの滝
この乾燥した岩山に水が流れているなど夢想だにしなかったので、はじめレンジャ
ーの言うことを信用していなかったのである。
岩の間から幾筋も溢れんばかりに流れ落ちているのだから驚きである。もちろん、
わたしも滝に入ってうたれ、まろやかで清らかな水を沢山いただいた。
仙人風男たちに<シャローム>と挨拶し、お邪魔したことを謝し、ダビデの滝を後
にして、死海に向かっておりた。
グランドキャニオンのような赤土のクムラン渓谷の両断崖に洞穴がならぶ
クムラン渓谷より死海を背景に
クムラン渓谷の一部には貴重な水の流れがあり、緑を目にすることが出来る
この先に<ダビデの滝>がある
その流れは死海に注ぎ込み蒸発する
<死海 - 浮遊体験 1.5US$>
クムラン渓谷トレッキングを終え、<エンゲディ・パブリック・ビーチ>へ直行、
死海での浮遊体験をするためである。
死海は、海面下398mにある世界で一番低地にある塩(水)湖である。
ゴラン高原に発し、ガリラヤ湖(淡水湖・海面下213m)にそそがれた流れは、ヨ
ルダン川を南下してここ死海に達する。
川水は、出口のない死海に溜まり、天日による蒸発によって塩分濃度の比重が大き
くなり(31.5%)、浮遊が可能となるのである。
死海の塩分濃度は普通の海水の10倍の濃度である。
死海の塩水が傷口や目に入ると痛いことこの上なく、炎症を起こすこともあるので
浮遊体験時にはスイムキャップをかぶり、水中眼鏡を着けることになった。
ただここエンゲディ・パブリックビーチ(入場無料・シャワー/トイレ/ロッカー有
料)には美容に効くという泥はなく、泥売りおばさんから購入して泥パックを楽し
むことになる。
泥パック、温泉、プールを楽しむなら、パブリック・ビーチより南にある<エンゲ
ディ・スパ>を利用することをおすすめする。
死海での浮遊体験をしながら、遠くかすむ死海対岸北東に横たわる約束の地カナン
(ヨルダン)にあるモーゼ終焉の地ネボ山を拝し、目を閉じた。これから訪ねるモ
ーゼが十戒を授かったシナイ山や、ユダヤの民を連れ出したエジプト脱出の情景
を、空想の中にたどってみた。
死海の泥パックに興じる観光客
濃縮塩水から目を保護するためゴーグルをかけて死海の浮遊体験中
死海の塩水で描いたスケッチ
Dead Sea/ 死海
Sketched by Sanehisa Goto
<▼10月30日 エンゲディ・ベト・サラ国際ユースホステル泊 46US$>
<エンゲディ・インターナショナルYH>
エンゲディ・インターナショナルYH(ユースホステル)は、エンゲディ国立公園
入口や死海の浮遊体験のできるパブリック・ビーチ近くにある。
二食付き1泊、46US$(VISA払い)、朝食・夕食とも豪華である。YH周囲には飲
食店はなく、お世話になった。
この夜は、満月の夜で、死海に映る満月の長い月影が死海の上に横たわって幻想的
である。
フルムーンが死海に映え、わたしを宇宙へと導く。
エンヤの曲<Sheherd Moon>が魂に響く。
月を愛でていると、高校生男女240名がバスで乗り込んできた。満月にひたってい
るどころではない。彼らはディスコのバンドを囲んで歌い、踊りだした。それもボ
リュームいっぱいにして、人ひとりいない死海に向かってである。
やはり、ここでも高校生を守るため、機関銃を持った教師の陰を意識した。
エンゲディ・インターナショナルYHを背に
イスラエルの青少年育成に見るユースホステルの重要性を見ておきたい。
青少年を集団生活させ、ユダヤ教の聖地・聖人・歴史・タルムードや、イスラエル
の自然環境・地理・地政学・隣国との国境を学ばせ、パレスチナとの多くの共同統
治地区を見せ、全国に広がる入植地・キブツ(イスラエルの集散主義的協同組合)
での体験をさせることにより強健な体力づくりと愛国心向上と、旧約の歴史探究を
させることにあるようである。
その青少年育成のフィルドワークの中心として、学校生活の延長線上に、ユースホ
ステルを据えているようにうかがえる。
徴兵制をとるイスラエルは、自然の中をチームで出歩かせたり、チームで宿泊させ
たり、自分たちの計画で集団行動・労働をすることによりチームリーダを決めた
り、役割分担により人に役立つことや、助け合う精神を向上させることに重点を置
いているようである。
未来の国を背負う青少年の責任感とグループ連帯意識の向上に役立たせている。
まさにボーイスカウトのパトロール・システム(班制度)を実践しているといって
いい。
これらの青少年育成の運動を推進するため、先でも述べたが、ユダイズムやシオ
ニズムを支援する全世界の各種団体が設立運営され、各構成員は十分の一税のように、
全収入の10%~30%をイスラエルの国体維持のためや、青少年育成のため献金・
送金する同胞が多いことも知られている。
アメリカ在住時のユダヤ系アメリカ人の友人や隣人もまた、イスラエルへの送金を
続けていたことを想い出したのである。
エンゲディの夕焼け
明日朝一番のバスで、イスラエル最南端の港町エイラットに向かう。
高校生たちの若いエネルギーの爆発で眠れそうもない。
でも、早く寝ないと・・・
<エンゲディ⇒エイラット>
エルサレム始発バス#444は、エンゲディに45分遅れて到着し、エイラットに向か
って出発した。 (バス代 53NIS)
■ 10月31日~11月1日 <リゾート都市 エイラット> 快晴 35℃
エアコン付きのバスは、死海西岸沿いに、対岸ヨルダンの赤茶けた丘陵地帯を眺め
ながら南下する。
途中、エンボッケの街で15分間トイレ休憩、一応何でもそろう死海最南端のビッ
グオアシス(リゾート地)である。泥パックエステや大型ホテルが目に付く。
バスは、これより南に横たわる木一本ないネゲブ砂漠の東端を縦断し、エイラート
に着く。人が住めるような所ではない。
砂漠といってもデザート(砂)ではなく、この世から見捨てられたような荒れ地で
ある。途中、ただ一つの製塩の白い工場群に生きる光を見たような気がした。
このような荒れ地(砂漠)にも入植地(キブツ)があり、人工的な緑のオアシスが
目に飛び込んできて驚嘆させられるのである。
このような暗澹たる土地に、いかなる生産を計画しているのであろうか。
頭が下がる思いである。
神から与えられた地であるイスラエル建国に夢をかけるユダヤ人いや全世界のユダ
ヤ民族の情熱を見る思いである。
キブツの大ビニールハウス群には、エンドウ豆のような緑の野菜がすくすく育って
いる。
この月の砂漠のような荒れ地に緑の命が育っている姿は、感激の涙を誘うような感
動でもある。
神と人のコラボレーションをユダヤの地に見たのである。
ここネゲブ砂漠では、一本のペットボトルの水が命をつなぐすべてである。
水それは全生命の根源であり、水無くして生命は維持しえないことを知る。
日本人が、日本の自然の豊かさを実感できないでいることの哀しさ、むなしさ、感
謝の気持ちのなさに、おのれ自身憤りを感じて恥じ入ってしまった。
日本人は、なんと素晴らしい土地を与えられ、住みついているのだろうか。
安住の地にすむ民族には、砂漠に命与えられた民族の過酷な生活を想像すること、
理解することは到底無理であるような気がする。
ましてや、砂漠での血みどろな生存権をかけた民族闘争に、批判など出来るはずが
ないと云えるのではないだろうか。
ここネゲブ砂漠に生きる蝿は、人の汗という水分を含んだ分泌物に群がってくる。
追ってもおっても汗(塩分を含んだ水分)に吸いついてくる。その貪欲な生き方に
こそ、ここイスラエル建国の精神とともに、パレスチナ人による先祖の地を死守せん
とする意地を見る思いでもあった。
また、観光客への配慮も素晴らしい。荒涼とした砂漠の殺風景から観光客を癒すた
めであろうか、ラクダやダチョウの切り抜き看板が砂漠に立てられており、和ませ
てくれる。
牛やダチョウを飼っているエイラット近郊のキブツをみながら、バスは、エンゲデ
ィより丁度3時間、午前11:00に終点エイラット・バス・ステーションに到着した。
イスラエル最南端にあるエイラットは、リゾート地として一年中観光シーズンであ
り、多くの観光客を迎え入れている。
エイラットは、ソロモン王時代に交易港(現在のヨルダン領アカバ港)として栄
え、シバの女王を迎えた港として知られている。
旧約聖書に出てくるエイラットは、現在のヨルダン側にあるアカバを指し、エイラ
ットと名乗っている現在地はイスラエルの独立によって、荒野であった地に新しい
この時期(10月末)、エイラットはシーズンオフなのであろうか、ほとんどの店
が閉まっており、閑散としている。
そのような中、水着姿で日光浴を楽しんでいる観光客もいる。
ランチは、イスラエル縦断後に予定している南アフリカケープタウンに向かっての
アフリカ東海岸縦断に備え、栄養補給のため中華料理を「上海飯店」でとる。
眼前がアカバ港、背景の赤茶けたサウジアラビアの岩山が琥珀色の紅海にマッチして
美しい。
35℃、エイラットは暑い。ノースビーチで泳ぎ、小魚と挨拶を交わすシュノーケ
リングを楽しんだが、熱帯魚はおらず、サンゴにも出会わず残念。
ここ観光地に休暇で遊びに来ている青年兵士たちも機関銃を携行することが義務付け
られているようである。
イスラエル全土が、365日臨戦態勢である。
しかし、イスラエル人はみな陽気であり、生活をエンジョイしている様子である。
なんといっても幸せを感じ、緊張の中にも満足と自信に満ちた表情をしている。
一方、アラブ人やパレスチナ人は生活に追われているのであろう、働かざるを得な
いようである。両者は、支配者かどうかの立場の違いにも見えるが、パレスチナ人
は4000年にわたって生活してきた祖父の地が遠き良き過去の時代になったことを
嘆き悲しんでいるように見えた。
ショッピングモールにも出かけてみた。エジプト国境に隣接しているので、イスラ
エル各地よりも厳重な手荷物・身体検査を受けての入店である。
モールには、多くのラフな服装の店員らしき若者が機関銃を肩にかけて仕事や接遇
サービスをしている。
ここエイラットでは、エジプト入国のためのビザ取得のため動き回った。
エイラットのエジプト領事館でビザ申請。9時申請すると、10時半には、直ちにビ
ザを発行してもらえた。(申請代72NIS)
エジプト領事館員の<HAVE A GOOD DAY, ENJOY EGYPT !>の一言に、エジ
プト・シナイ半島の旅の安全が約束された気分にさせられ、緊張が一瞬にして
失せた。
なぜなら、3年前の1997年11月、ナイル川にあるルクソールの遺跡で、多くの
日本人観光客がテロによる銃乱射に巻き込まれ犠牲(日本人10名を含む62名殺
害)となっていたからである。
エイラット(イスラエル)よりアカバ(ヨルダン)へ陸続きの避暑地
エイラットで紅海の太陽を浴びる
イスラエル(エイラート)と、ヨルダン(アカバ)国境にも中立地帯が横たわる。
<ヨルダン・アカバ湾の街>
Sketched by Sanehisa Goto
先日立寄ったヘブロンで、イスラエル兵とパレスチナ解放機構/PLO (イスラ
エルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目ざす武装組織)との
間に銃撃戦があり、両方に死傷者が出たとのニュースが流れた。
ユースホステルの中にも緊張感が走った。
両サイドとも和平を望んでいるのに、自分たちの愛する領土に対する確執から、対
立や紛争は尽きない。
両者絶対に譲れないところに、和平への解決の糸口が見つからないのである。
日本人の北方領土に対する無感覚と同じく<いいじゃないか>という諦めは、ここ
では通用しないということである。国を盗るか盗られるか、それは生存権の問題で
あり、相譲れないのである。
祖父伝来の、民族固有の土地は絶対に奪還するという強い意志があってこそ、祖国
愛に基づく祖国防衛が成立するのである。
祖国愛・祖国防衛の意識が両者にあるから悲劇であり、無情である。
今夜は満月である。ここからは4か国の満月が見られるのである。イスラレル・ヨ
ルダン・サウジアラビア・エジプトの満月をここエイラットで見ることが出来る。
エイラットはこれら4か国と国境を接しているからである。
リゾート地であるエイラートの街を背景に
ヨルダンとの国境アカバ方面より
これから、ネゲブ砂漠での夜間ラクダ―・ツアーに参加し、モーセ引率によるエジ
プト脱出後のイスラエルの民のシナイ半島彷徨40年間の苦労のわずかでも体験す
ることにした。
<ネゲブ砂漠体験 夕暮ラクダ・ツアー 3時間コース 44US$ 15:00~18:00>
―Camel Ranch in Wadi, Shlomo, Eilat―
キャメル・ランチ(ラクダツアー)社のパンフより
Sketched by Sanehisa Goto
アブラハム(ユダヤ民族の祖父)が棲み、モーセ(イスラエル民族エジプト脱出の
指導者)が歩き、預言者エリヤ(信仰の英雄の一人)が過ごしたネゲブ砂漠をラク
ダに揺られて巡るツアーに参加した。
ここネゲブ砂漠は、崖あり、岩石あり、土もあり、緑も少しはある。だから陰もあ
り、暑さをしのぐことも出来る。
ネゲブ砂漠での夕暮に、旧約の人々と同じく、粗食を口にし、焚火を見つめながら
感謝の祈りをささげるのである。
まだぬくもりが残る砂の上に一枚の粗末な布をひき、焚火の周りに寝そべって、
北極星を眺めながら質素な食事<豆スープ>を口にする。
迫りくる大宇宙におのれをまかせ、いついつまでも旧約(聖書)の創世記のなかで、
モーセに引率されながら巡り歩くのである。
ネゲヴ砂漠でのラクダ・ツアーに参加し、旧約の砂漠世界を彷徨する
モーセの引率でエジプト脱出したイスラエル人集団を運んだラクダの子孫と思うだけで心が躍る
砂漠でファイアー <神との対話・沈黙の時間>に酔う
ネゲヴ砂漠のモーセの世界にひたる <巨大渓谷 マクテシ・ラモン>
<荒野に生きるネゲブ砂漠の住人ラクダ>
モーセ率いたエジプト脱出の放浪イスラエル人を運んだラクダの子孫たち
<▼10月30日~11月1日 エイラット・ユースホステル泊 196NIS >
■11月2日 エイラット 3日目 快晴 朝風強く、寒い
エイラットよりアカバ湾(紅海)越しにサウジアラビア半島の赤茶色の丘陵から昇
る朝日を拝したあとユースホステルに戻って、フィルドワークにやって来た高校生
(バス8台・約300人)の大集団とともに朝食をとった。
引率の先生は、腰に拳銃をぶら下げ、高校生の数人は肩に機関銃やライフル銃をか
け、仲間を守っている。いつ起こるかわからないテロに備えているのである。
シルバー年代(シニア)の海外からのボランティアについては先述したが、ここエ
イラットの早朝の道路を清掃している老人に出会った。もちろんTシャツには
<I SUPORT ISRAEL>のロゴが光っている。
柔和な顔に、喜びの表情が見て取れる。ポーランドからやって来たという。
彼が参加したボランティア制度によると、3か月をサイクルとして食事つきで、
200US$が支給され、ただ往復航空券は自分持ちだという。
<エジプト国境の街ターバーより、 ダハブ/シナイ山への巡礼基地へ向かう>
エイラットのイスラエル国境での国境警備隊による厳重な警備と出国審査を終え
たあと、エジプト国境での更なる厳しい入国審査が待ち構えている。
ここ国境から15分ほどのところにあるターバーのバスターミナルから出ている
ミニバス(トヨタ・ハイエース)で、モーセが十戒を授かったシナイ山への巡礼
基地であり、シナイ半島南東部にある観光地ダハブに向かった。
いよいよ、モーセ率いるイスラエル人のエジプト脱出時、40年間のほとんどを彷徨
したシナイ半島に足踏み入れるのである。
シナイ半島エジプト国境 ターバー入国管理局-にかかるエジプト国旗
<ダハブ ― シナイ山巡礼基地・ダイビング基地>
ダハブは、エジプト・シナイ半島東岸、紅海アカバ湾に面したベトウインの住む砂
漠の村である。
また、ダイビング・スポットとして世界的に知られ、多くのヨーロッパの若者が集
っていた。ゆったりと流れる時間の中で、観光客もヤシの葉のコッテージに横たわ
り読書にふけっている。
イスラエルでは味わえない解放感と安心感がここにはある。
ランチは、キャンプに隣接する<モハメット・アリ・ホテル>のカフェテリアでツ
ナ・スパゲティとコークをいただく。
紅海の風は肌を撫で、まろやかなまどろみを誘う。
イスラエルのあの騒々しい緊張感はどこへ行ってしまったのだろうか。
しかし、平和に見えるダハブのあるシナイ半島(エジプト領)は、第二次中東戦争
(1956/スエズ運河をめぐる紛争)、第三次中東戦争(1967/アラブ連合軍のイスラ
エル侵攻に対し6日間でイスラエルは反撃し、ここシナイ半島・ゴラン高原・ガザ
地区・東エルサレムを占拠)、第四次中東戦争(1974/第三次で占拠された各所を
奪還するためのアラブ側の起こした戦争でシナイ半島は国連多国籍軍の監視下に入
った)という三度の戦争を体験しているのである。
現在ですら、ダハブのあるシナイ半島は、シナイ半島駐留国連多国籍監視団のもと
にコントロールされている。
避暑地ダハブに昇る紅海・アカバ湾の朝日(シナイ半島・エジプト)
対岸の陸影はアラビア半島
ここでもシュノーケリング、紅海の可愛い熱帯魚たちを息子からプレゼントされた
水中カメラ<Vivitar Water-Proof ViviCam 6200w>におさめた。
世界的ダイビング・スポットである ダハブ(エジプトシナイ半島)で海に潜る
紅海の熱帯魚やサンゴ達と出会う
<▼11月1日~11月2日 ダハブ 連泊 Mohamed Ali Camp
「モハメド・アリ-・キャンプ」 1泊20US$ >
■ 11月2日 《シナイ山トレッキング 》 快晴
<シナイ山 聖なる日ノ出登山 ツァー代 30£E>
宿泊先である「モハメド・アリ-・キャンプ」 は、ダハブ市街東の海岸アサーラ
地区(ベトウイン村)で最も知られている広大な敷地と海岸をもつキャンプ場であ
り、避暑地としての設備(ダイビングセンター・ガーデンレストラン)や各種ツア
ーがととのっている。
このイスラエル縦断の旅で最も望んでいた地、モーセが神より授かった「十戒」の
地であるシナイ山や、聖カトリーナ修道院へのキャンプ企画のツアー(乗合トラッ
ク・現地自由行動)に参加した。
旅の疲れをとり、暑さの中での安眠をとるためにここでも贅沢だがエアコン付きの
一人部屋で体を休めることにした。
とくにキャンプ内にあるスーパーマーケットはバックパッカーにとってはうれしい
限りである。スーパーで買い込んだ焼きそばと白ご飯、サラダにコークを持込み、
豪華な夕食を楽しんだ。
ここダハブは、聖カトリーナ―修道院への重要な入口拠点であり、十字軍や
エルサレム王国によりシナイ山への道として確保されたベトウインの村落であった。
モハメッド・アリ・キャンプで楽しんだ中華の夕べ (ダハブ)
モハメッド・アリ・キャンプ企画のツアーのうち、キャンプと聖カトリーナ修道
院間の往復ツアー(現地での自由行動が条件)に参加、前夜よりヘッドライトを頼
りに巡礼団や観光客に混じって単独でシナイ山に登り、聖なる朝日を配するため、
山頂前の山小屋で仮眠をとった。
シナイ山頂では、日の出とともにモーセが十戒の石板を授かったシナイの山の不思
議なほど神々しい朝日を迎えた。わたしをはじめ、巡礼者である多くの老若男女が
溢れる涙を拭うことなくその瞬間に立ち会ったのである。
シナイ山への登山の入り口に聖カトリーナ修道院が建つ。 旧約聖書「出エジプト
記」には、モーセがシナイ山(神の山ホレブ)で燃える柴を見、その柴の間から神
の声を聴いたと記されている。
シナイ山麓に位置する聖カトリーナ修道院は、この「燃える柴」があったとされる
場所に建てられている正教会最古の修道院(ユネスコ世界遺産)である。
シナイ山オーバーナイト・トレッキング
Sketched by Sanehisa Goto
暗闇に浮かぶシナイ山
夜10時頃、聖カトリーナ修道院を出て、モーゼが十戒を授かったシナイ山へ向かう
寒さを避けるため毛布を借り小屋で日の出を待つ
朝4時半ごろシナイ山の夜が明け始める
夕方にモハメッド・アリ・キャンプ前を出発したツアー(乗合バス)は、聖カト
リーナ修道院に着くと、巡礼団や観光客はヘッドライトをたよりにそれぞれシナイ
山に向かうが、ラクダ道コースと近道の階段コースに分かれる。
階段コースは、3750段といわれ、結構疲れるので休憩を適時とることと、水・ラ
イト・防寒具・行動食を小型リュックに携行することをおすすめする。
聖カトリーナ修道院からシナイ登山は3時間ほどかかるので体調を整えておきたい。
階段コースをたどり標高2285mのシナイ山(別名ガバル・ムーサ)に着くが、途
中、時間調整と寒さを避けるため毛布(1枚5£E)を借り、山小屋で過ごすこと
になる。
ご来光を迎える前からシナイ山頂の小さなレンガ造りの礼拝堂を中心に、立錐の余
地のないほどに巡礼者であふれた。
狭い岩山の山頂に300人はいるだろうか、足の踏み場もなく、鈴なりである。
闇が明けゆく情景に息をのんでいるとモーセに語りかけたおなじ神の声が響いた
(ように)、荘厳な瞬間を迎えた。
ここシナイ山は、今から4000年前、モーセが神よりイスラエルの地を授かるため
の契約<十戒>を授かった場所である。
巡礼者をはじめ、多くの人びとは胸の前に手を合わせ、瞬きすることなくこの一瞬
の旧約の世界に溶け込み、聖なる感動にひたった。
シナイ山頂からの聖なるご来光(聖なる日ノ出)を拝する
シナイ山頂の礼拝堂の周りで日の出を迎える巡礼者
シナイ山頂でモーセも浴びたモルゲンロート<聖なる陽>にひたる
ダハブのベドウイン村にある「モハメド・アリ-・キャンプ」に戻る
ダハブ出立の朝、犬友シャルル君達の見送りを受けた
モーセは、エジプトのファラオ・パロのもとで奴隷のように虐げられていたイスラ
エル(ヘブライ・ユダヤ)人を救う使命を神から与えられ、約束の地カナン(ヨル
ダン川東岸)を目指してエジプトを脱出した時の指導者であり、引率者である。
旧約聖書の中で、エジプトを脱出し、シナイ半島を40年間放浪するイスラエルの
民を導くモーセは、シナイ山にさしかかった時、苦しむモーセに「神に対して絶対
の服従を誓うなら、その所有する全土をイスラエルに与える」 と神は語りかけ
る。
現在のイスラエル人もこのモーセの時代とよく似た第二の帰還を果たそうとしてい
るのである。モーセの40年というシナイ半島彷徨の末ではなく、約2000年間のデ
ィアスポラ(離散)という国を追われての国家再建である。イスラエル人の建国の
情熱と祈りは、モーセにも劣らない真剣なものであるように思えた。ユダヤ民族の
存亡をかけた戦いをしているといえる。
Bible map <イスラエルのエジプトからの出エジプトとカナンへの入国>より
エジプトのラムセス①を出立した一行は、③海が割れた<葦の海>(現在のスエズ市・紅海スエズ湾か)を渡り、シナイ半島北側を横切り、カナンの地にあるネボ山⑮に直接向かわずに、シナイ半島を逆時計周りに南下し、シナイ山⑧で十戒を授かって北上、現在のエイラット⑪から40年間の放浪のあと、最終ヨルダン川東岸のカナンの地⑰に到着する
映画<十戒> モーセに率いられて<葦の海>を渡るイスラエルの民(地図③)
<▼11月1~2日 ダハブ ― モハメッド・アリ-・キャンプ連泊 1泊20£E >
人間が住めそうもない過酷な環境に住みついて、その運命に甘んじている人間たち
がいる。それはベトウインの民である。
彼らは不毛の大地、照り付ける日光のもとラクダや羊など少数の生き物と共に生き
続けている。文明に取り残され(いや、文明を拒否し)、土に交じり合ってその生
命を全うするのである。
人は、人間として生を受けるが、自分の意志ではなく、その生まれる場所、時間、
時代、国、性別、両親でさえ決められて生まれてくるのである。
この世に生を受けた生き物は、誕生の環境的条件をどのように享受したらよいので
あろうか。
生命誕生と神の導きは一体であるように思えてならない。
選民としてのユダヤ民族もまた神の導きに従い苦難の道を歩んでいくのであろう。
神の示された道に従うベトウインとユダヤの民に違いはない、みな神の子である。
ダハブ出立の朝、仲良しの犬・シャルル君たちが見送ってくれたが、なかなか離れ
ようとしない。
しばらくの間、お互いの目を見つめあい別れを惜しんだ。
■ 11月3日 ダハブより終着地エジプト・カイロに向かう
(長距離バス65£E )
シナイ半島最南端の港町シャルム・イッシェーフ(シャルム・エル・シェイク)経
由カイロ行長距離バスは、岩山と砂漠をぬいながらの道を一日4便、55£E、途中
検問を数か所通過、所要約10時間のスエズ湾に沿って、モーセのシナイ放浪とは
逆のコース(時計回り)をスエズ運河東岸を北上する。
ただ、一部の区間と運河橋以外、バスからスエズ湾やスエズ運河をほとんど見るこ
とはできないのが残念である。
シャルム・イッシェーフは、第2・3次中東戦争でシナイ半島(エジプト)を占領
したイスラエルが開発した高級リゾート地として有名である。
シナイ半島南端高級リゾート地<シャルム・イッシェーフ>
<シャルム・イッシェーフ⇒スエズ間>
スエズ運河東岸(シナイ半島)よりエジプト内陸部・アフリカ大陸方面を望む
途中、エジプト軍の統治下にあるシナイ半島では検問所でエジプト兵によるパスポ
ートチェックを何度も受ける。
バスの切符の検札も、検問所ごとに受けるが、検問所の兵士にイスラエル兵のよう
な緊張感はなく、ローカルな日常的な雰囲気が漂っている。
おそらく、イスラエルとエジプトではパレスチナに対するお互いの政治的距離感に
よるものと思われる。
スエズ湾に、スエズ運河通過前の貨物船がその通過順番待ちの群船団(グループ)
を形成し、壮観であると同時に、平和である長閑さをあらわしている。
一方、シナイ半島を北上中、ザトールという街のサービスエリアのTVで、
2001年当時、9:11アメリカ同時多発テロ事件を成功させたタリバンの指導者
オサマ・ビン・ラディンがジハード(聖戦)を叫んでいた。
今なお、中東は世界の火薬庫としてのプレゼンスを発しているようである。
イスラエルは、1948年の建国以来、シナイ半島に中東戦争をとおして関わってき
ている。
なぜこのような人の住めないような砂漠地帯に攻め入り、占領と撤退を繰り返して
いるのであろうか。
国連平和維持軍の駐留によりイスラエルとエジプトは分離され、戦闘を中止
しているが、実際イスラエルのシナイ半島占拠の理由はいくつかあるようである。
それは、シナイ半島に石油の埋蔵があること、広大なシナイ半島をアラブ諸国との
緩衝地帯にしたいこと、紅海の航行の自由を確保すること、スエズ運河の支配権の
確保などが考えられる。
シナイ半島のイスラエル占拠地には、すでに鉄塔を建て、電気柵を張り巡らせ、道
路をつけ、海水を飲料水に換え、ソーラパネルとパラボラアンテナを設置したキブ
ツ(集団農場)村を点在させている。
アフリカ・エジプトへのスエズ運河橋にさしかかったようである。
バスは検問所で停車、乗客全員が荷物をもって整列させられ、徹底した携行品点検で
ある。
そのあとバスは、この年2001年10月に日本の援助で開通したカンタラにある「ス
エズ運河橋」(エジプト‐日本友好橋)を渡ってアフリカ大陸に入り、カイロに到
着する。
<スエズ運河橋―エジプト・日本友好橋>
従来フェリーでスエズ運河を往来していたが、日本のODA(無償資金協力)によ
りアジアとアフリカをつなぐスエズ運河橋が、この年(2001年10月)に<中東和
平の架け橋>として完成した。
この記念すべき真新しい運河橋を渡ってカイロに向かう日本人の一人となった。
スエズ運河に架かる<エジプト・日本友好橋>(スエズ運河橋)を渡る (ODA)
旧約聖書・出エジプト記に出てくるモーセ指導のもとでのイスラエル人エジプト脱
出、シナイ半島放浪の逆ルートをたどってエイラットよりシナイ山(神よりモーセ
が授かった十戒)に立寄り、今回の<イスラエル縦断の旅>ゴールのアフリカ・エ
ジプト・カイロに入った。
約10時間に及ぶ砂漠走行のあと長距離バスは早朝カイロに到着した
この地から、神の導きによりモーセ率いるイスラエルの民はエジプトを脱出した
<▼ 11月3~6日 カイロ・インターナショナル・ユースホステル
カイロ連泊 1泊25£E>
■11月4~6日 <カイロ滞在休息> イスラエル縦断を終える
ここエジプト・カイロは、今回のイスラエル縦断の旅の終着点であると共に、モー
セのエジプト脱出の出発点でもある。
エジプトは、モーセがイスラエル人(びと)を親として生まれた地であり、イスラ
エルの民がカナンの地に向かって出立した地である。
詳しく言えば、モーセ率いるイス人(びと)が、エジプト脱出の出発地とした
のがラムセスである。ラムセスは、カイロから南へ車で30分の距離にある古都メ
ンフィスであった。 古代エジプト古王国時代の首都として栄えたが、今は荒廃し
た村が残っているだけである。
エジプトは、現在のイスラエルという国やイスラエル人(びと)が存在する基(も
とい)でもあるといってもいい。
モーセの祖ヤコブと共にエジプトに移り住んだイスラエル(ユダヤ・レビ)の民
の子孫は、エジプトの地に満ち、その勢力は強くなった。
恐れたエジプト王パロは、彼らを監督し,重い労役を課し苦しめたが、それにまして
彼らはますます増え続けたので彼らの新生児の内、男の子はナイル川に投げ捨てる
ように命じる。
神は、ユダヤ(レビ・イスラエル)の民の新生児(ういご)を助ける印を教え、過
ぎ越すのである。エジプトびとの新生児はみな死に絶え、パロは主の怒りを恐れて
イスラエル人(びと)のエジプト脱出をモーセとアロンに許すのである。
モーセは、イスラエル人(びと)を引率して、シナイの砂漠地帯を南下し、シナイ
山で神との約束<十戒>の啓示を受け、その後40年の歳月(エジプト脱出の苦し
みを忘れないため)を経て、約束の地<カナン>に帰還するのである。
いまなお、ユダヤ教では聖書での神との約束に従って、これまたエジプト脱出の苦
しみを忘れないため<過越祭ー過ぎ越しの祭り>が続いてる。
旧約聖書・出エジプト記によると、これらのイスラエル人(びと)は430年間エジ
プトに住み、モーセによってエジプト脱出をはかったイスラエル男子成人は60万
人であったと記されている。ほかにイスラエル人女子、子供に加えておびただしい
家畜類も一緒に脱出移動したとあるから、その集団の規模の大きさに驚かされる。
この脱出した大集団が、神より約束されたパレスチナにある<カナンの地>にたどり着
くのに40年間の放浪を経験している。
今回たどった逆ルートの砂漠地帯を彷徨し、帰還するのであるから、想像を絶する
民族大移動を成し遂げたといえる。
モーセの率いるエジプト脱出前後の詳細は、旧約聖書の出エジプト記第11~14章
に出てくる。特に、過ぎ越しの祭りの意味や、なぜ目的地カナンへ直線的に短時間
で向かわなかったのかなどについて詳しく書かれている。
その子孫がいまディアスポラ(離散)後、約2000年近くの時を超えてイスラエ
ルに帰還し、再び国を再建しているのだから、歴史は繰り返されているといっても
過言ではない。
イスラエル縦断最終地カイロ郊外のピラミットの前で旅の無事を祝う
モーセ率いるイスラエルびとのエジプト脱出を見守ったであろうスフィンクスにも、
イスラエル縦断踏破を報告する
エジプトの修学旅行生たちとピラミットの前で、
笑顔は平和のシンボルである
神との約束を守り続けるユダヤの民の波乱に満ちた苦難の地を歩いてきた。
旧約聖書の一字一句が、現代に続いている道として、いまなお生きいきと残されて
いた。
そこに住む人たちが、祈りに生き、神の言葉を信じて生活している風景は、力強
く、誠実である。
解釈の違いで、歴史の見方も異なり、すべてにおいて旧約の世界がいまなお現存
し、争いも継続しているようである。
現在の和平へのプロセスは、旧約聖書的ではないのかもしれない。
イスラエルとパレスチナの関係を見ていると旧約の世界は、まだまだ続きそうである。
1993年のイスラエルとPLOとの和平交渉である<オスロ合意>、イスラエルによるパレ
スチナ全土の占領下でのイスラエルのラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラ
ファト議長の間で交わされたのが<オスロ合意>である。
翌年の1994年、イスラエル占領地となったヨルダン川西岸地区は、ガザ地区と共に「パ
レスチナ自治区」になった。
しかし、わたしがイスラエル縦断中の2001年当時も、ヨルダン川西岸地区は面積の半分
以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、常に厳しく監視されていた。 また、イスラエ
ルの入植地が拡大していた。
パレスチナ自治政府の完全な統治下にあったガザ地区への入域の厳しさに比べて、占領
地ヨルダン川西岸地区へは、自由に入域でき、旅行を続けることができた。
かかる事情により、2001年当時のガザ地区への入域は禁止されていたことから、残念な
がら、パレスチナ人のガザ居住区の情勢や日常生活を垣間見ることが出来なかった。
今回のイスラエル・パレスチナ紛争で、ようやくガザの実情が世界に発信されたことに
なる。
旧約の世界のイスラエル人・パレスナ人の平和共存の時代に戻ることができるのであろ
うか。 いや、さらなる両者の離反、憎しみの連鎖が継続されるのであろうか、悲しい
ことだが、民族・宗教紛争の解決の糸口は見えていないと言っていい。
イスラエル縦断を終えるにあたって、パレスチナ側を見ておきたい。
自治を認められているヨルダン側西岸及びガザがイスラエルの占領下にある現状では、
対等に二国間交渉などありえないと云える。 しかし、パレスチナは、父祖の地奪還を
目指しており、イスラエルとの対話が必要であることを痛感し、政治的解決の大切さを
学んでいるようである。
ただ、歴史的に、宗教的に正当性を主張するイスラエルと、また経済的格差からくる不
平等は、その交渉を難しくしているように思える。
現在、パレスチナ・アラブ人を支援するイスラム・アラブ諸国と、イスラエルとの関係
が悪化の一途をたどっているが、もともとパレスチナ人はアラブ・イスラムではなかっ
た。 旧約の時代から、パレスチナの地の征服者は目まぐるしく変わり、その征服者と
の混血がなされてきたと言っていい。 パレスチナ人は、イスラエル人のユダヤ的純血
主義と異なり、人種的純血性とは無縁である。 この純血性からしてイスラエルは、パ
レスチナの地の盟主としての正当性を主張している。
このパレスチナの地や、パレスチナ人のあり方を変えたのは、7世紀のアラブによる征
服にあった、とパレスチナ研究者・D ギルモアは著書「パレスチナ人の歴史―奪われし
民の告発」で述べている。
この時、アラブ人は、預言者マホメットの教えを強いるとともに、彼らの行政組織・言
語・宗教を持込み、パレスチナ住民はこれらを全部受入れた。
現在のパレスチナ人イスラムは、イスラエル人ユダヤと対峙していることになる。
モーセ率いるイスラエル人のエジプト脱出や、イエスが一生を過ごした砂漠の地を歩け
たことに感謝したい。
いつかパレスチナの地に平和が訪れることを切に祈りつつ<イスラエル縦断
1000kmの旅>を終えたい。
この世で、苦しむ人々、病める人々の上に神の御手がありますように・・・
そして、戦いのない日々が一日も早く訪れますように・・・
2023年12月 聖誕日・クリスマスを前に、 志賀の里 孤庵にて
完
『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
Ⅳ 《アフリカ縦断の旅 15650km》
に続く
<現在作業中>
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