shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2001『星の巡礼 イスラエル縦断の旅 1000km』Ⅰ

          

  

 

          

     《イスラエル縦断 1000kmの旅》Ⅰ

             ―イスラエル / パレスチナ 旧約聖書の世界を巡る― 

        <ギリシャ/アテネイスラエル縦断⇒シナイ半島周回⇒エジプト/カイロ>

 

                   前編

 

                 紀行文・スケッチ

                  後藤實久

 

 

先のシベリア横断編を終えるにあたって、突如、パレスチナハマスによるイスラエル

越境襲撃事件が起こり、これから始まるヨーロッパ周遊を後に回し、2001年当時のイス

ラエル/パレスチナの地を歩き、紛争の地における両者の共存の姿を見ておきたいと思

うのである。

 

2023年10月7日早朝、中東パレスチナの地で、パレスチナガザ地区を実効支配する武

装勢力<ハマス>による、イスラエル越境、奇襲襲撃における大量虐殺のあと、人質

200名以上を拉致し、ガザの地下要塞に立てこもった事件(イスラエル側発表)が起きた。

その反撃としてイスラエル軍による、ガザ地区での人質奪還・ハマス地下壕破壊作戦が

行われ、多数の市民が巻き込まれる悲惨な作戦が行われ、今なおガザ南部地域への作戦

を拡大し、掃討侵攻中である。

 

この 《ヨーロッパ周遊の旅  12000km》 では、最終章で<2001年当時のイスラ

レル・パレスチナ世界>を取り上げることにしていたが、急遽、パレスチナの地、いや

旧約聖書に出てくれパレスチナのカナンの地を覗いておくことにしたのである。

なぜならば、歴史的には、二国間イスラエルパレスチナの融和を求めながら、世界情

勢に翻弄されて、現在の敵視政策による両者の消耗戦に至っているからである。

 

旧約聖書に出てくる神、主による約束の地が、今から20数年前(2001)に、どのよ

うな状況におかれていたかを紹介し、パレスチナイスラエルの二国制度の下での和平

が実現していない状況を見ておきたかったからである。

パレスチナの地に、一日も早い平和が訪れますように・・・

 

 

       ――――――――――――――――――――――――――

 

イスラエル縦断にあたって>

 

ここでは、<ヨーロッパ周遊の旅>を後に回し、先に<イスラエル縦断の旅>を取り上

げて、パレスチナ・イスラレル両者が混在する地の日常を観察しながら、旧約聖書で予

言されたカナンの地の様子を見ておくことにする。

なお、時間的問題もあり、すでに発表している<2001『星の巡礼 イスラエル縦断の

旅』>に加筆、一部改定し、お届けするものであることをご了承願いたい。

 

 

創世記に始まり、アダムとイブをエデンの園より追放し、この世と人類を創ったとされ

る神が指定された旧約の地が、ここ中東にある砂漠の国 イスラエル/パレスチナであ

る。

同じ神を信奉するユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地として人類愛を試される地

もまた、ここユダヤ人とアラブ人が入り混じるエルサレムにある。

神は聖霊の地として、不毛と言っていい赤土の砂漠を選ばれ、信仰の持つ厳しさを試さ

れたといっていい。

現在のイスラエルパレスチナは、旧約聖書の民たちの苦難の歴史をいまに引き継ぎな

がら、お互いを認めあわず神の理想とする国を達成できてはいない。

 

 

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      モーセ率いるイスラエルの民がエジプト脱出後、40年間放浪した砂漠で 

              (イスラエル縦断中ネゲブ砂漠で休憩中)

 

そこは、ユダヤ人とアラブ人の反目とジハードと憎しみが渦巻き、神の意に反して、力

による闘争を繰り広げている悲しみと嘆きの地でもある。

両者間に、赦しと和解と和平が訪れんことを祈りながら、今回は占領地である北はゴラ

ン高原から、南は占領地であったシナイ半島までを縦断踏破し、モーセがイスラレルの

民を率いて脱出した道を逆にたどり、エジプトのカイロに至る。

世界幾多の国と地域から流入したシオニズム運動参加のユダヤ人たちの建国の息吹を感

じる一方、領土を追われ国家を失い、狭い土地であるガザとヨルダン河西岸に押し込め

られたパレスチナの人々の苦しみと抵抗と聖戦<ジハード>を肌に感じつつ、歴史をの

ぞきながら聖書の地イスラエルパレスチナを歩いた。

 

イスラエルの中には、パレスチナ人の自治がなされる地域や飛地があり、その地を訪問

するにはそれぞれの検問があるとともに、緩衝としての無人地帯が取り囲み、現在のユ

ダヤ人とアラブ人の不信感を否応なしに見せつけられ、切ない思いにさせられた。

 


■    10月24日 <イタリアを立ちイスラエルに向かう>    機内泊

 

この《星の巡礼 イスラエル縦断の旅》は、ロシア・ウラジオストックよりシベリア横

断鉄道でモスクワに至り、北欧・西欧・東欧よりイタリア・ローマに入り、中東・アフ

リカを縦断して南アフリカ喜望峰までの旅の途次にある。

ただ、<ヨーロッパ周遊11000㎞の旅>を書き始めた時に、ガザを武力統治するハマス

によるイスラエル奇襲作戦が行われ、対してイスラエルの虐殺に対する報復と人質奪還

のガザ侵攻作戦が開始されたのである。

一時、<ヨーロッパ周遊11000kmの旅>を後に回し、 <イスラエル縦断1000kmの

旅>を先に書き上げることにした。

シベリア横断の途中、全世界が9・11同時多発テロ事件の悲惨さに巻き込まれる中、ヨ

ーロッパ各地での幾多の厳重な検問を通過する過酷な旅となったが、ようやく中間点で

あるイスラエルに無事たどり着きそうである。

イタリアでは、第二の故郷であるアシジに立寄りゆっくりと長旅の体を休め、バチカン

に立寄ってローマの空港を後にした。
 

 

    

          イタリアでは必ず立ち寄るわが心の故郷アシジの朝靄

                 イスラエル訪問前にアシジに立寄る

 

 

イタリア・アシジにて聖フランシスコに再会し、      バチカン訪問後イスラエルに向った


 
<ローマを発ち、ロッド・ベングリオン国際空港に飛ぶ>

オリンピック・エアーライン フライト#240 ボーイング737は、夕暮れ直後のヨー

ロッパ周遊最後の地・ローマの空港を30分遅れで離陸し、アテネギリシャ)を経由し

イスラレル・テルアビブに向けて、乗客29名を乗せて飛立った。

 

 

 

 

           ベングリオン空港(テルアビブ・ロッド)着陸直前

 


<9・11 アメリカ同時多発テロ事件の影響>

ローマの空港でのパスポート・コントロールや、荷物検査が厳しくなかったことに一抹の不安を覚えた。

9・11テロ事件(2001年)のニュースは、ここローマに向かっていたシベリア横断鉄道

の列車の中で知った。 その後の通過地での厳重なボディチェックや荷物検査になれてい

ただけにローマでの出国検査には、その無頓着さに驚かされたのである。

ましてや搭乗率が20%に満たないことに、ローマよりアテネ経由でイスラエル・ベング

リオン国際空港までの所要時間1時間40分、なおさら不安な気持ちにさせられた。

 

アテネ空港での乗り継ぎの時間に、ギリシャ民族舞踊団一行が、バイオリンの伴奏で練

習を始めた。男女10人が横一列になってスキップを踏むダンスは、ギリシャの村祭りの

のどかさを表現しており、みな笑顔で楽しんでいる様子である。

一方、真夜中のアテネ空港(ギリシャ)乗継検査場でのセキュリティー・コントロール

は、一変して徹底した厳しい検査に変わった。

乗客1人に対して6人の検査官が、帽子から靴先まで金属探知機で念入りな検査、スケッ

チ用水入れボトルの中身はもちろん、ダイビング用水中カメラはじめバネ式三脚が武器

に改造されないかと念入りな検査である。

特に靴底、腹に巻いていた貴重品入れは徹底的に調べられた。

1時間20分の検査時間は、これまでにない最長である。 これから世界で一番厳しい臨戦

態勢の国イスラエルに向かっていることにある。

乗継空港であるアテネ空港のイスラエル行検査場はすでにイスラエルのテリトリーであ

るといって過言ではない。

夜中02:00アテネ発ロッド・ベングリオン国際空港行に乗り込む乗客は、ほとんどがイ

スラエル人であり、ユダヤ人であろうか。 ユダヤ人男子がかぶるキッパ(宗教帽子)

や、ハシディック(黒ユダヤ人帽子)・フェドラ(コ―シャラビ帽子)をつけた乗客が

ほとんどである。

もちろん東洋人はわたし一人であるから異様である。 緊張感が走るなかにも、ニュー

ヨークでの仕事仲間のほとんどがユダヤアメリカ人であり、居住区でのニュージャー

ジではユダヤ人に囲まれて生活していた関係であろうか、なにか安心と温かさを感じた

ものである。

仲間意識と、さらに彼らユダヤ人の夢の国であるイスラエルに向かうのであるから当然

みな陽気である。

最終チェックは、空港バスで飛行機に向かい、タラップの前に並べられた膨大な乗客の

預けた旅行鞄やスーツケースが整然と並んでおり、各人が自分の荷物を取りだし、最終

セキュリティ・チェックがなされる仕組みになっている。

二個の荷物が暗闇に光るライトに照らされ不気味に取り残されていた。 待機していた爆

弾処理車に積み込まれ闇に消えていったときは、背筋に冷たいものが走った。

だが、約30年前、日本人であるアラブ赤軍数人によって、このような安堵に包まれたユ

ダヤ人を乗せた飛行機がロッド・ベングリオン国際空港に滑り込んだとき、銃乱射とい

う悲惨な殺戮の現場に巻き込まれたのである。

 

■    10月25日  <ベングリオン国際空港(テルアビブ・ロッド) >

 

ここは、1972年(昭和47)5月30夜(現地時間)、元日本赤軍(当時は自称アラブ赤

軍)3人は当時のロッド国際空港で銃を乱射、24人を殺害、86人に重軽傷を負わせた事

件の現場である。3人のうち2人は銃撃戦で死亡、残った一人が岡本公三である。 大学

紛争に敗れた日本赤軍過激派は、PFLPパレスチナ解放人民戦線)と連携を強め、国際

義勇兵としてPFLPの報復依頼を受けて作戦を実行した。約30年前の事件であるが、以

降の日本人に対する入国審査は厳しさを増しているようである


ベングリオン国際空港での入国審査の簡素化に反して、その後のセキュリティ・チエッ

クの厳しさには驚かされた。

入国の目的から始まり、職業、何日間どこに誰のところに滞在するのか、どこから入っ

てどこからどこへ出国するのか、今回の旅行の全日程と、その間の訪問国での滞在の目

的、イスラエルでの滞在先の一覧表(予約の有無・連絡先)、知人の有無、お土産・依

頼品の有無、パスポート全ページの詳細チェック、なぜその国に滞在したのか・・・

等々厳しい尋問が続いた。


全外国人ではなさそうで、無作為に抽出された者と、全日本人に対してであるらしい。

この飛行機に関しては、外国人はわたし一人であり、その上、日本人であったことから

尋問に全力が注がれているような雰囲気であった。


第一回目の尋問の質問項目と、別室での第二回目の尋問が全く同様で、どうも応答の内

容をチェックし、その相違を比較しているようであった。

 

パスポートチェックでは、特に敵対国であるイスラム各国への出入国を問題視している

ようで、イラン・レバノン・ヨルダン・サウジアラビア・エジプト・リビアへの立寄り

は、まず入国を拒否されるようであった。 今回は事前に分かっていたので、新しいパス

ポートに更新していたが、ロシアはじめヨーロッパの多くの国に立寄っていたことが問

題になったようだが、旅自体の行程表の提示で少しは緩和されたようである。

 

その間も、待合所ではトーラー(ユダヤ教聖典)を声高に朗読するユダヤ教徒がいた

り、警察犬を先頭に空港施設の隅々を点検しまわる機関銃を構えた兵士の姿が目に付き

騒然としていた。


また、やたらと青年男女が軍服に身を包み、機関銃を手に持っている姿が目に付き、臨

戦態勢の国であることを痛感させられた。


また、空港をでたら地対空ミサイルの地下壕が目に付き、平和な空港のイメージが吹っ

飛んでしまった。 ここは戦闘の最前線なのである。


厳しいパレスチナ問題を抱えての皆兵的な防衛意識というより、2000年近く離散してい

ユダヤ民族が国家をようやく手に入れ、新国家建設の意欲とその防衛がその情熱とな

って溢れているようにも感じられた


 
街は掘り返され、赤土がむき出しになっており、アラブ風の古い家が壊され、天高くビ

ルディングがあちこちに建設中である。 その赤土の埃をまき上げ走るバスの乗客の3分

の2は、ここでも戦闘服を着て、銃を手にした青年男女である。 たぶん高校生か大学生

であろうか、彼らは軍服姿で授業を受けたり、遊びに行ったり、仕事をしたりと国土防

衛に24時間体制で対処しているようである。


みなはちぎれんばかりの若さと熱気を戦闘服にみなぎらせ、与えられた任務に忠実たら

んとする姿と決意を見せているのである。 国を守るという、常に備えている姿に感動と

感銘をさえ受けるとともに、自由と平和の重みをかみしめているイスラエルの若者にふ

と不憫を感じた。

紫の花を咲かせているブーゲンビリアが、若者たちの気概に応えるように乾燥した赤い

珪砂の土に耐えてその美しさを見せている。 その根元には一本のチューブが引かれ水滴

を落し草木の命を繋いでいる姿は、人間を信じ、おのれを信じるという、純粋なる思い

が伝わってくる。


水一滴が絶えることがないことを信じて蜜柑の樹や、ポプラの木が生きているように、

イスラエルの青年たちもまた血の一滴を信じ祖国を守っているように映った。

 

イスラエル縦断の旅>

 

このイスラエル縦断の旅は、イスラエル全土を、4つのエリアに分け、北部はティベリ

ア、中部はエルサレム死海エリアはエン・ゲティ、南部はエイラット、エジプトに返

還されたシナイ半島エリアではダハブを宿泊拠点として、それぞれの旧約の世界と、新

約のイエスの足跡をたどることにしている。

 

北部ティベリアからは、ゴラン高原ガリラヤ湖・カペナウムの山上の垂訓の地を巡り

中部エルサレムでは、ベツレヘムヘブロンを訪ね、

死海エリア・エン・ゲディでは、浮遊体験やクムラン渓谷のトレッキングにチャレンジ

旧約聖書の世界に迷い込み、

南部エリア拠点エイラットでは、エジプト入国ビザ取得・紅海遊泳・ヨルダン越境・ネ

ゲブ砂漠でのラクダツアーを行いながら、モーセに引率されたイスラエル人のエジプト

脱出、シナイ山での十戒の約束、シナイ半島の40年にわたる放浪、そして神によって与

えられたとするカナンの地到達までを反時計回り(モーセのエジプト脱出行とは逆)を

たどりエジプト・カイロに抜けることにしている。

シナイ半島エリア拠点ダハブでは、紅海に潜り、聖カトリーナ教会を訪ね、モーセ

十戒」を授かったシナイ山に登って創世記の朝日と対面する。

 

 

<ティベリアを目指す> ーイスラエル縦断の旅スタートの街―


テルアビブ郊外のロッド・ベングリオン空港より、イスラエルの北方の街であり、この

イスラエル縦断の旅の出発点であるティベリアの街へバスで向かった。途中、イエス

育ったナザレに立寄り、聖母マリアがイエス誕生を告げられる<受胎告知教会>を訪ね

た。


 

 

<ナザレ散策>


受胎告知教会の地下に洞穴(礼拝堂)があり、天使ガブリエルがこの場所でマリアに現

れ、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と告知

されたと、新約聖書ルカによる福音書1:26~31に登場する。


ここイスラエルのナザレの地にもイタリア・アシジと同じ糸杉が迎えてくれた。

昨日、アシジで聖フランシスコに再会し、今日は受胎告知のあった、イエスの育ったナ

ザレを歩いているのである。 なんと心躍る<聖地巡礼>の二日間なのであろうか。
 
歴史的にナザレもまた、7世紀にはムスリムイスラム教信者)に占領されたあと、11

世紀には十字軍の侵攻により崩壊と再建を繰り返された。 その後オスマントルコの支

配下に置かれながら、フランシスコの修道士のナザレ居住を許され多くの教会が建てら

れた。 現在はユダヤ教徒イスラエル人)とムスリムパレスチナ人)が、半々住む

静かな街である。
 
ナザレは古き良き静かな歴史の街である。 それに反してイスラエルという国は若い国

である。

アラブに囲まれたイスラエルは、たえず緊張感に満ち、生き抜く力を蓄えているようで

ある。

そのような新しい国造りに励む若いイスラエルを、受胎告知教会の庭に立つマリア像は

静かに見守っているように見えた。

 

 

                           ナザレの受胎告知教会とマリア像


 
幼いイエスが伝道を始められるまでの約30年間、両親と過ごし、育ったナザレの敬虔な

雰囲気あふれる街を散策したあと、乗合バスで50分ほどにある今回の旅のイスラエル

部拠点ティベリアに向かった。
イスラエルの乗り物は、路線バスのほかにシェルートというミニバスがあり、行先は番

号で表示され、例えばティベリア行はプレートに800とナンバーだけが書かれている。

注意して乗車したい。
 
ナザレからティベリアへの路線バス#431、待つこと2時間超。 隣のアラブ君(パレ

スチナ少年)がじっと待つ忍耐には驚いたものである。 誰も文句も言わずただただ待

っている。 誰一人立ったり座ったりしないなか、 短気な日本人はイライラが嵩じ

て、 ミニバスのシェルートに乗り換えたほどである。


イスラエルの時間は大河のようにゆったり流れている。 4000年の間ただただ耐えたユ

ダヤ人は時間という大河に逆らわない<なるようにしかならない>という楽観的な民族

と言っていいのだろうか。


ナザレの街には信号が一つもない。 車社会でなぜこのような非合理がまかり通るので

あろうか。 車は、お互いに譲らないので止まった状態、交差点は特にひどい。 

不思議なことに怒鳴りあうこともなく、警笛も鳴らされることはない。 ここイスラエル

では、日本では出くわさない情景に多々出くわすことになる。


排ガスだけがもうもうと立ち上がる様にもみな無頓着であるから呆れてしまった。
 

<ティベリア滞在>


ティベリアに着いたら、公園の広場で子供たちがフェスティバル開催中、 日本の運動

会のように賑やかな声が行き交っていた。 300人はいるのであろうか、踊ったり、歌

ったり、風船を飛ばしたりと賑やかである。 異常なのは、テロから子供たちを守るよ

うに多くの兵士が配置され、機関銃がにらみをきかしている風景である。


やはりティベリアもまた戦時体制下にあることを気づかされる。
 
ティベリアは北部の拠点都市、大変な人出、騒音、汚物で埋まり、まるでゴミ箱に放り

込まれたように感じた。

やはり、聖フランシスコは豊かな緑の地アシジにあるがゆえに聖人としてあがめられ、

エスはこの騒然の中で神の子となられたことが理解できるような気がした。 例えれ

ば、泥の中の蓮の花がイエスであれば、清流の中に咲く清貧なバイカモは聖フランシス

コといえるのではないかと、思いをはせた。

             

                    ティベリアの中心街                 


                          

                ガラリア湖に浮かぶ<サンタ・マリア号>
 

<▼ ティベリア  MeyouhasYH  ユースホステル連泊  18US$ VISA払い>
 
 
■    10月26日  <ティベリア2日目>  快晴 28℃
 
星に導かれて、とうとうガリラヤ湖にやって来た。

北斗七星の7番目の星はガリラヤ湖に発し、ガリラヤ湖北極星と私を結んでいるでは

ないか。


エスは今から約1970年前、このガリラヤ湖で人々に教えを説き、人々を苦しみから救

われた。イスラエルの一部の人々は、イエスを神の子として受け入れ、付き従った。

その宣教は、新約聖書のマルコの福音書第1章に詳しく書かれている。

第1章17節に「わたしについて来なさい。 人間を取る漁師にしよう。 二人はすぐに網を

捨てて従った」という有名なイエスの言葉がでてくる。
 
エスの教えに聴き入った群衆と共にここガリラヤ湖にいることに覚醒し、早朝、水と

食料と懐中電灯を入れたリュックを担いで、宿泊先のユースホステルを抜け出し、瞑想

するためガリラヤ湖畔に向かおうとしたが、各出入り口の戸はテロ警戒のためか、頑丈

なロックチエーンで閉められ断念せざるを得なかった。

いたし方なくユースホステルのバルコニーから眼下のガリラヤ湖と、天空の星座を見な

がらこの日記を書き、瞑想にふけることにした。

当時の群衆の一人のように、イエスの教えに聴き入り、お魚のおすそ分けにでもあずか

るという気分にさせられている自分に満足した。

 
 
早朝のガリラヤ湖は、神の恵みを受けてまぶしいほど朝日を照り返している。

おじいさんが静かな湖に釣り糸を垂らし、一匹の猫が魚のおすそ分けを待っている。

その魚はセント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペトロの魚)という。 

名の由来は、十二使徒の一人ピーター(ペテロ)がガリラヤ湖で釣りをしていると、口

に銀貨をくわえた魚が釣れた事から来ているという。

おじいさんは、1匹を腹をすかした猫に、1匹を私に、残りのすべての魚をガリラヤ湖

レリースして、にっこり笑って帰って行った。 餌は食パンを丸めたものであった。

スケッチし終えたセント・ピーターズ・フィッシュを、わたしもガリラヤ湖に返してや

った。

セント・ピーターズ・フィッシュは、「ありがとう」と湖面を跳ねたあと、ガリラヤ湖

奥深くの我が家へ帰って行った。 今頃、今日の出来事を家族に聞かせていると思うと

温かい気持ちにさせられた。
 
                
               

     

         ティベリア定番魚料理<セント・ピーターズ・フィッシュの唐揚げ>
 
                           

                 セント・ピーターズ・フィッシュ
                 Sketched by Sanehisa Goto
          
                     

               セントピーターズフィッシュ料理の看板の前で
 
 
<セント・ピーターズ・フィッシュ>(聖ペテロの魚)


セント・ピーターズ・フィッシュは、ガリラヤ湖で獲れる白身魚である。

焼くか揚げて塩とレモンをかけて食べる。

聖書(新約マタイ伝17:24)の中で、神殿に納める税についてイエスは次のように述べ

ている。

ある日、神殿の集金人が弟子のペテロのところに納入金の集金にやって来たとき、イエ

スは弟子ペテロに「この世の為政者は税金を誰からとるのか。自分の子からか、それと

も他の人たちからか」と尋ねた。 ペテロ曰く「ほかの人たちからです」と。 

「それでは子は納めなくてよいわけだ」とイエスは言った。

すなわち、神の子イエスは神殿に納める税など支払う必要がないと言っている。

しかし、イエスは集金人の顔を立てるため、先程述べたようにペテロに魚を釣らせたと

ころ、口に金貨をくわえた魚が釣れたので、問題を起こすことなく税金を納めたという

話である。 金貨をくわえた魚が、セント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペテロの魚)

といわれる。
 
<カペナウムを歩く>

イエス・キリストガリラヤ伝道の本拠地として有名なカペナウムの街は、ガリレヤ湖

北西にあったが、歴史のある期間、廃墟となっていた。

その廃墟になったと言われるカペナウムに是非行ってみたかったので、ティベリアから

船で向かうため船着き場に行ってみると、朝8時出航の船は、乗船者が少ないので欠航

するという。

いたし方なく徒歩とバスで向かうことにした。 この日は金曜日(安息日前日)なの

で、ここイスラエルでは聖書の教えに従い、午後2時から一切の交通機関が止ってしま

うので、早く戻らねばならない。

ティベリアから09:30発カペナウム行きのバスに乗るが、帰りが心配である。

カペナウム発の帰りの最終は12:30という。
 
 カペナウムからの帰り、セント・ピーターズ・フィッシュ(びわ湖のブラックバスとそ

っくりな淡水魚)を積んだトラックがあったので写真を撮っていたら、運転手が帰って

きて「これは俺の魚だから俺の撮影許可をとっていない」と言い出したので、魚に写真

を撮ってもいいかと尋ねたら「いいよ」と言ってくれたから撮っていたのだと言い返し

たら、大笑い。

ダヤ人はおっかないほど大声でまくしたてるが、相手が分かれば、急に親しくなり、

楽しくなるのである。
 
                          

       

            今朝ガリラヤ湖で獲れたセント・ピーターズ・フィッシュ


 
 <カペナウム遺跡散策>

カペナウムは、イエスガリラヤ宣教の本拠地であったことで有名であるが、その後7

世紀からながい間廃墟となっていた。 19世紀になってフランシスコ修道会の発掘によ

って現在の街になった。 カペナウムの背後の丘の上に「山上の垂訓」を述べられた場

所があり、<山上の垂訓教会>が建っている。
 
 
           

       

                     カペナウム遺跡

 


ガリラヤ湖 - イエス・キリスト宣教の地 - 山上の垂訓協会>

ここガリラヤ湖は、イエス・キリストがいろいろな奇跡を起こされながら神の教え(宣

教)を宣べ伝えられた地である。

イエス・キリストガリラヤ湖の一望できる山上で説教された<山上の垂訓>がマタイ

伝5~7章に書かれている。

この間イエス・キリストは、ガリラヤ湖北西のカペナウムに起居し、船(サンタ・マリ

ア号)を湖に浮かべ、「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイの福音書4-17)と湖岸

の聴衆に教えを説いている。

また、ここガリラヤ湖の宣教で、イエスガリラヤ湖の漁師であったペテロとアンデレ

の兄弟と、ヤコブヨハネの兄弟の4人をはじめ生涯の弟子(12人の弟子)を決められ

ている。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイの福音書4-18~22)

と誘われている。
 
山上の垂訓は、わたしたちへの教訓でもあるのでいくつか書きだして心に留め置きたい。 山上の垂訓は、八角の<山上の垂訓教会>の壁にラテン語で書き記されている。
 
<山上の垂訓 - 新約聖書マタイの福音書5章~7章>

 「心の貧しい人は、幸いである。天国はその人たちのものである。」

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」

 「腹を立ててはならない。」

 「姦淫してはならない。」

 「復讐してはならない。」

 「敵を愛しなさい。」

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」
 「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」

 「天に富を積みなさい。」
 「明日のことで思い悩むな。」

 「人を裁くな。」

 「求めよ、さらば与えられん。」


 
<山上の垂訓の丘を歩く>

山上の垂訓の丘を歩きながら、喜太郎の<古事記>、エンヤのアルバムを聴き、瞑想に

ふけった。

今朝、カペナウムを訪ねるため、ティベリアからカペナウム行きのバスに乗ったが、運

転手のうっかりミスでカペナウムを通過してしまい、随分走ってから告げられた。

こちらの確認でようやく気付いたのであろう、随分とのんびりしていたのには驚いたも

のである。パレスチナとの闘争でピリピリした都市部とは違い、地方は案外平穏であり日常の生活をうかがい知ることが出来た。

カペナウムに戻り、山上の垂訓教会に立つには、瓦礫の赤土の丘陵地を歩いてのトレッ

キングとなった。 しかし幸運にもこのガリラヤ湖を眼下に歩く道は、イエスの歩かれ

た野道と一緒であることに気づき、<同行二人>にわたしの内なる興奮は否応なしにも

高まった。

わたしは今ただ一人、イエスと共に山上の垂訓の丘を歩いているのである。

ゴラン高原からの清い風が、ガリラヤ湖にさわやかに流れているではないか。

バスの運転手に感謝である。 

「イエスが歩かれた丘を歩いてごらんなさい」と私を連れて行ってくれたに違いない。

清々しく、幸せであった。
 
 
               

                 ガリラヤ湖の闇夜を照らす光明の月 
 
 
           

            カペナウムの小高い丘に建つ<山上の垂訓教会>で
 
        
         

       

         山上の垂訓教会からガリラヤ湖・カペナウム/タプハの街を見下ろす


 
<タプハ ― パンと魚の奇蹟教会>

山上の垂訓教会のあるカペナウムから5分ほどのタプハ村に、イエスがこの地ガリラヤ

湖で起こした奇跡に基づいて建てられた<パンと魚の奇跡の教会>が建つ。 イエス

宣教を伝えている福音書は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹させた

と書かれている。(新約聖書 マタイの福音書14章14~21節)
 
カペナウムの小高い丘に建つ<山上の垂訓教会>から<パンと魚の奇蹟教会>に足を延

ばし、五千人のパンの奇蹟が行われた場所(この一帯をタプハと呼ぶ)を、聖書物語を

思い出しながら歩いてみた。(ヨハネによる福音書6章4-13)
 
           

 

   <パンと魚の奇蹟教会>(タプハ)          教会内の<パンと魚のモザイク>
 


ゴラン高原に立つ>

カペナウムの山上の垂訓の丘を訪ねたあと、ゴラン高原に足を延ばした。

ゴラン高原は、従来、ガリラヤ湖の北東に広がるシリアの領土であり、レバノン・ヨル

ダン・イスラエル及びシリアの国境が接する。

イスラエル第三次中東戦争(1967)で、北方の領土に対する脅威であったゴラン高原

のシリアの砲台を占領し、実効支配をつづけ、その後(1981)併合して現在に至ってい

る。

イスラエルにとって、ゴラン高原は、戦略的にはもちろん、ガリラヤ湖に流れ込む水源

地としての大きな価値を有する生存権確保の地でもある。

ゴラン高原では、多くのキブツ(共有財産方式集落)やモシャブ(個人資本色の強い集

落)が建設され、現在も併合が進められている。
                   

 

               世界の火薬庫の一つと言われるゴラン高原に立つ
 
   
      

         

                   ガリラヤ湖周辺トレッキング          

 

         

               ゴラン高原の地図 (Asahi Student News)

 


ヨルダン川

ゴラン高原ヘルモン山を源流とするヨルダン川は、ガリラヤ湖にそそぎ込み、ヨルダ

ンとの国境を流れ、死海に注ぎ込む全長約425kmの河川である。 その流域は豊かな

緑に恵まれているが、取り巻く丘陵や山岳地帯は乾燥した砂地や岩石のころがる不毛地

帯である。
 
                           

       

                  ゴラン高原に発するヨルダン川
 
 

ゴラン高原に思う「平和の願い」>

この荒涼とした赤き砂地のゴラン高原にも2月から3月にかけて緑の中に野花が咲くとい

う。

国境のない紺碧の天空に吸い込まれて飛翔する自分を想い描いていると、地球に存在す

る自分が小さく見えてくるから不思議である。人類は戦いをやめず、平和を犯しあって

己のテリトリーを広げようとする。 そこには不安と、神をも恐れない人間欲が渦巻く

汚い地球があるに過ぎない。
 
ご存じだろうか、ここゴラン高原には、聖書の時代5000年のルーツをもつ人類に平和の

象徴であるワインを提供し続けてきた世界最古の産地の一つがある。 ゴランのワイン生

産の起源は、世界に散らばるユダヤ教徒向けの聖酒としての<コーシャ・ワイン>であ

る。 

現在ではゴラン・ハイツ・ワイナリー産の<ヤルデン ピノ・ノワール>が有名である。
 
           
             

            

               ゴラン高原産赤ワイン<YARDEN Pinot Noir
 
 
イスラエル支援ボランティアーエズラ作戦>

ゴラン高原より戻り、ティベリアの街では、世界各地から集まった老若男女の<イスラ

エル支援ボランティア>のグループに出会った。

これらボランティア達は、イスラエルに献身するボランティアを支援する団体<エズラ

作戦>等によって運営されている。

街角でボランティアを終え、帰国前のアメリカ人・リタイアグループ3人から、ボラン

ティアの動機について聞いてみた。

彼らはイスラエル人ではなく、アメリカ人だという。 リタイア(引退)後、イスラエ

ル建国の役に立ちたく<イスラエル支援ボランティア>に参加して6年目、コロラド

ニュージャージ・サウスカロライナ各州から参加しているという。

支援プロジェクトは色々あって、自分たちは医者だったので、医療現場での支援にあた

ったとのこと。 衣食住の支援があり、ボランティア後イスラエル各地を旅行して帰国

するのが楽しみだという。

福音教会派(イスラエル建国を支援する世界的一大組織)のクリスチャンであり、聖書

に出てくるイエス・キリストの宣教の道をたどるのが至福の時間だという。

<I SERVED IN ISRAEL>ロゴの入ったTシャツを見せて、写真に撮ってくれという。

好々爺の嬉しそうな、ボランティアを終え、幸せそうな顔が印象的であった。

エズラ作戦>(イスラエル支援)は、里親・キッズ・フードバンク・ホロコースト

存者・新移民ウエルカム・大工・テロ被害者・救出・医療・ボランティア・希望の糧・

災害ほか多くの支援プロジェクトを用意している。

ほかにボランティアやプロジェクトを支援する献金も受け付けている。

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)
Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657
 
   

        イスラエル支援ボランティア参加のアメリカの老戦士たちと (ティベリア)
                                      

       

                イスラエル支援ボランティアのTシャツ 
 

 

 <十分の一税・献金> 

ユダヤ教徒や福音系キリスト教徒等が宗教組織や祖国イスラエルを支援するため支払

う、ある物の十分の一の部分のことをいう。

アメリカに在住していた時、多くのユダヤアメリカ人と接したが、そのほとんどの友

人がユダヤの国イスラエルに対して毎年<十分の一献金>を送金していたことを知って

いる。

これらの世界中からのユダヤ人による献金は、イスラエル防衛・移民促進・国家財政・

共同体支援・教育医療等に回され、イスラエル国の発展維持に使われている。


 
ディアスポラ(民族離散)>

紀元前1世紀ごろ、ここパレスチナの地に形成していたユダヤ人国家は、ローマ帝国

よって征服され、世界中に民族離散(ディアスポラ)した。

ディアスポラは、「バビロン捕囚後にユダヤ人がパレスチナ以外の土地へ離散している

状態」を意味する。 

ユダヤ人は、2000年近く統一した民族集団を持たず、ヨーロッパを中心に世界

中に移住し、離散した。

彼らは、ユダヤ教信者又はユダヤ人の親を持つユダヤ人として、ディアスポラ以降世界

各地で共同体を形成し、タルムードを中心にユダヤ教の信条と秘儀を厳守してきた。

その後、彼らは各家庭を中心に、ユダヤ人コミュニティーを作り、信仰を守り、迫害に

耐え続けていたが、19世紀からシオニズムイスラエルの地パレスチナに故郷を再建す

る)運動がおこり、パレスチナの地にユダヤ人の帰還が始まった。

結果として、20世紀に入りパレスチナへのユダヤ人の流入が止まらず、パレスチナのア

ラブ人とユダヤ人の対立は収拾がつかなくなった。

1947年、国際連合パレスチナ分割決議がなされ、翌年ユダヤ人国家「イスラエル」の

独立宣言がなされた。
 
その誕生間もない新国家形成を援助するため、世界中のユダヤ人の多くが、先述した<

十分の一献金>運動に参加し、その献金額は莫大な額となり、中堅国の国家予算に匹敵

するとも言われている。

世界の各国に定住するユダヤ人の職業である医者・弁護士・学者・貴金属ブローカー・

世界有数のIT起業家はじめ、ノーベル受賞者が多いことからもわかるようにその献金

能力の高さがうかがい知れる。

イスラエル建国に反対したアラブ諸国との数次にわたる戦争にあたっても、小国である

はずのイスラエルが勝ち続けているのも世界中の仲間からの浄財による圧倒的な最新兵

器の保有と、敵地に囲まれた兵士の祖国防衛の意識の高さにあるといえる。

このイスラエル縦断旅行でも、各地でイスラエルの決死の防衛姿勢を度々目撃すること

となった。

そこには<選ばれた民族の存亡>を自覚した全国民、いや全ユダヤ民族の決意がみなぎ

っているからだとみた。

現在も、休むことなくパレスチナの砂漠を緑にかえる運動が、祖国防衛のかたわら続け

られている。

その情熱と理想郷の建設と祖国防衛にユダヤ人の心髄と覚悟を見た思いである。

ひるがえって、祖国を追われたパレスチナ人は、ヨルダン河西岸とガザ地区に押し込め

られ、自治政府のもと、イスラレルとの和平交渉に務めているが、パレスチナとイスラ

エルとの2国家間交渉は暗礁に乗り上げた形で、現在に至っている。

イスラエルによるヨルダン河西岸への入植地拡大などに対する、2国家間の軋轢、憎し

みの連鎖は、いつ爆発し、衝突をしてもおかしくない状態が続いている。
 
(2023年10月28日勃発の、パレスチナイスラエル間の紛争も、それぞれの思惑のもとに衝突したものであり、二国間の心情を理解できる国は少ないと言わざるを得ない。 そこには互いの存在を抹殺し去る宗教間の根深い対立の上に、どちらにも民族離散<ディアスポラ>という生存権がかかっているからである。)

 


■    10月27日  <ユダヤ教安息日>   ティベリア2日目 快晴 
 
ティベリアでの滞在先である<メヨウハス・ユースホステル/ Meyouhas Youth Hostel

>は、ほぼ街の真ん中にあり、どこへ出かけるのにも便利である。 お世話になるドミト

リーは二段ベットが3台、6人部屋である。(ドミトリー朝食付1泊@18US$ VISA使

用)

バス停にも近く、正面にはスーパーもあって便利である。

ユースホステルの朝食は、ハム&エッグ、チーズ、コーヒー、ミルク、イチゴジャム、

ロールパン2、ヨーグルト、野菜サラダ(トマト・キューり・ピーマン)であった。

この朝食で、イスラエルに来てはじめて沢山の小さい蝿に襲われたというより、刺され

た。多分、老バックパッカーが発する長旅の匂いに対して食いついてきたのであろう。

今日はどうしても温泉につかり体をきれいにしたいものである。
 
今日は、ユダヤ教安息日<シャバット>(ユダヤ教の存続の源泉)である。 ユダヤ

の商店はみな閉まり、あの騒然とした街中は静まり返り、シナゴーク(ユダヤ人の教会的

存在・ユダヤ人コミュニティーの中心的存在)ヘ急ぐ正装の数組のユダヤ人家族と、観光

客のみが目に付く静かな土曜日の朝である。

ユダヤ教が6000年近く保たれてきたのは、この安息日・シャバットを中心にユダヤ教

典トーラやタルムードの戒律を守り、学んできたことにあるといっていい。
 
朝食のあと、ガリラヤ湖の遊覧船<サンタ・マリア号>に乗って、湖上よりイエスの奇

跡をたどった。

まず驚いたのは、乗船場の周りには鉄条網をはりめぐらせた高い塀が立ちはだかり、ス

ッフ全員がラフな格好にむき出しのピストルを太い皮ベルトに、無造作に突っ込み、

乗船客を出迎え、案内してくれたことである。 パレスチナとの緊張関係がひしひし伝

わる場面である。

日本のような安全と平和は、ここイスラエルにはないことが分かる。自衛こそビジネス

成立の最大の要件であるといっていい。 08:00出航というが、いつになることかのん

びりしたものである。

昨晩、深夜まで隣のドミトリーに泊っていた高校生たちが大声で激論というか、推測だ

がタルムードを輪読しながら、各自が意見を述べ戦わせていた。

お陰で寝不足である、サンタ・マリア号の出航までこちらは居眠りである。
 
 
            

          ガリラヤ湖上体験乗船―イエスが湖上より宣教したサンタ・マリア号         
 
 
ガリラヤ湖に学ぶ>


ガリラヤ湖には多くの高校生が聖書やタルムード研究を兼ね、修学旅行に来ていた。 

もちろん世界各地にあるユダヤ人学校の生徒たちである。 彼らは大切そうにタルムー

ト(ユダヤ教徒の生活・信条がおさめられている聖典)を手に、このヘブライ語で書か

れた貴重な教科書を開きながら、引率のラビ(ユダヤ教聖職者)の解説を真剣に聞き、

生きた勉強に励んでいた。

<God’s always with us>とラビはしめくくり、サンタ・マリア号は帆先をティベリアの

港に向けた。

船を下りる直前には、一列になって全員手をつなぎガリラヤ湖に向かって祈りをささげ

る姿こそ、次世代のユダヤ人を育てる教育の原点であるように思えた。

この祈りの隊列越しにカペナウムの街を望見していたら、背後に鋭い視線を感じた。 

生徒を守るために乗船していた若い兵士の銃口がこちらに向けられていた。 彼は唯一

人のアジア人に警戒心を怠っていなかったのである。 一瞬緊張が走ったが、若き同胞

である生徒を守ろうとする兵士の心情を理解することが出来たので畏敬の念を持つとと

もに、静かに心を落ち着かせることにした。
 
 
                           

             ガリラヤ湖に降り注ぐ天使の梯子(はしご)に迎えられる


                 

ガリラヤ湖で泳ぐ>


サンタ・マリア号を下りたあと、計画していたガリラヤ湖で泳いだ。 あのイエスの弟

子たちが恐れた暴風のガリラヤ湖で泳いだのである。

ユダヤの住民や観光客が体力づくりのためか、イエスの教えを肌で感じるためか、また

瞑想をしているのか多くの人がガリラヤ湖の水中歩行を楽しんでいた。

少し濁ったガリラヤ湖に起こる波の音を聴きながら、紺碧の青空に溶け込んで、背泳ぎ

を楽しんだ。

対岸のはげ山であるゴラン高原の山々は、紫の夕陽に照らされて、静寂の中で同じく瞑

想をしているように見える。

ガリラヤ湖畔で白い半月が残るガリラヤ湖ゴラン高原をスケッチしながら、イエス

宣教された約2000年前の歴史の天子の梯子(日差し)を楽しんだ。

 

 

 

      ガリラヤ湖畔より紫染まるゴラン高原を遠望    ガリラヤ湖畔で2000年前の歴史の日差しを浴びる

 

しかし、聖なるガリラヤ湖もまた、多くの観光地と同じく湖岸のゴミの山には目を覆い

たくなるほどであり、痛ましい限りである。

いつものようにささやかな湖岸のボランティア清掃、少しはおのれの心の掃除が出来た

ようで、こころ軽やかになった。

                                 ガリラヤ湖畔より対岸のゴラン高原をスケッチ

 

       

              ガリラヤ湖に立つ十字架

 

ガリラヤ湖の温泉>


ティベリアの街より20分ほど南に行ったガリラヤ湖畔にある温泉に出かけ、泳ぎによっ

て冷えた体を温め、長期の旅行での疲れた体を癒した。

今日は金曜日で午後4時までの営業であるという。(入浴料57FINとロッカー代’7FIN、

計64FIN)

ユダヤ教安息日前日で、あすの土曜日(安息日)に備えているようである。

ここティベリアの温泉は、多くのヨーロッパの温泉と同じくプール型で水着着用であ

る。
 
屋内・屋外温泉プールとサウナで構成され、古風なレンガ造りの建物の中の各施設は清

潔であり、明るい。

温泉は地元の交流の場でもあり、プールサイドでファッションショーが行われていた。 

飛び入りの肥満のおばさん達にみな手をたたいて爆笑、若い娘さんたちも美しい姿態を

輝かせてのオンパレード、天真爛漫な民族性に大喝采である。

イスラエル全土の戒厳令的な生活の中で、人々はこの国の建国に自信と夢を託し、ひと

り一人が役割を自覚しているようであり、笑いとユーモアが満ちていた。

 

 

               <Hamei Tveria Hotspring>  ハミ・ティベリア温泉の施設・温水プール


 
ガリラヤ湖は、海抜マイナス213mにある淡水湖であり、わたしの住むびわ湖によく似

ていて懐かしい。 湖面の波紋は、平常は穏やかであるが、荒天時の波高は最高で1.5

mを越えるらしく、比良八講降しのびわ湖によく似ている。

またびわ湖(674㎡)も<びわのうみ>というように、かなり小さいここガリラヤ湖

(166㎡)も聖書では<ガリラヤ海―Sea of Galilee>と呼んでいるのも、その歴史の深

さを感じる。

更にガリラヤ湖に棲むセント・ピータ―ズ・フィッシュは、びわ湖に棲む外来魚ブラッ

クバスにそっくりであり、これまた親しみ深いものがある。

2000年ほど前、イエスはここガリラヤの地を宣教の地として選ばれ、山上の垂訓を述べ

られた。

弟子たちが小さな船に乗りガリラヤ湖を渡り、カペナウムに向かっていた時、強風に煽

られ船が沈むほどであった。 そのような時イエスは湖上を歩かれて近づき、

「恐れることはない。わたしだ。」<ヨハネ福音書6章16~21>

 といわれ、恐れる彼らを勇気づけて、無事カペナウムに導かれたとある聖書の一説を思

い出していた。
 
ここティベリア温泉を中心とした避暑地は、昼間の32℃から夜間の3℃と、特に夜は涼

しい。 ゴラン高原に展開する国連平和維持軍の将兵が休暇を楽しむ姿が多く見かけら

れた。
 
夕食は、久しぶりに栄養をつけるため中華料理を食べにティベリア市内にある<文茗閣

>に出かけた。

メニューは、ビーフ・チャイニーズベジタブル炒め、ポークのスイート&サワー、フラ

イドライス(炒飯)、セント・ピーターズ・フィッシュの唐揚げ、エッグスープと豪華

である。 もちろん食べきらないので残りをテイクアウト、夜食に充てることにした。

  

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            ガリラヤ湖上のサンタ・マリア号にてティベリアを背景に
 

 

▼10月25~27日 ティベリア滞在 
 <Meyouhas Youth Hostel> 連泊  ドミトリ1泊18US$ 
 
 
 
■    10月28日  <ヘブロン/ベツレヘム/エルサレム散策> 
 
エルサレムに向かう>

エルサレム行バス(バス#963 エリコ経由)は、夕闇迫るヨルダン川の流れを紅く染

め、対岸のヨルダンの村々の灯火が点き始めている風景を見せてくれる。

またバスは、ティベリアとエルサレムの中間、Nabulus/ナブルスでトイレ休憩、途中沢

山の防禦用半地下トーチカや検問所を通過、臨戦態勢のイスラエルの国を守る姿勢と覚

悟を見せられる。

 

            イスラエル全土でみられる防禦用半地下トーチカ


                                           
現在のイスラエルは、主権と生存権を認めないアラブ諸国との本格的戦争は避けら

れてはいるが、いまなおイスラエルの独立を認めないパレスチナとの臨戦体制下に

あることには変わりない。
 
すでに述べたように、1947年国際連合パレスチナ分割決議を成立させたのに応

じ、シオニズム運動はイスラエルの独立宣言に引き継がれる一方、分割に反対する

周辺アラブ諸国パレスチナに侵攻し、第一次から第四次中東戦争へと発展してい

った。

その後、アラブ国家との戦争は避けられ、非政府組織であるパレスチナ解放機構

PLO)などとのゲリラ・テロ戦争へと変化してきている。

イスラエルは、徴兵制のもと臨戦態勢下にあるのである。

<注 : 2023年11月末現在、アラブ諸国の一部、UAEアラブ首長国連邦)やスーダンサウジアラビアは、アメリカの仲介によるイスラエルとの技術提携を求めて国交正常化を持ち始めている>
 
 
天地創造の地、パレスチナ

パレスチナ、そこは地の塩を囲む、赤い砂の世界である。

過酷なまでに人を寄せ付けないこの不毛の地に、人の精神だけで生きてきた時の流れが

いまなお脈打ち続けている。

純粋にしてすべてをもぎ取られたような涸れ果てた地の底から、沸き起こる純粋な光が

神々しさを醸し出している不可思議な地である。

小さな一粒の赤い砂、手植えされた緑の葉っぱ、砂漠にしみ込んで消えゆく引かれた一

滴の水、そこに降り注ぐ一条の太陽の光、一陣の風に舞う砂埃、目に飛び込む一瞬の砂

漠の風景にここパレスチナの流れゆく時の豊かさとともに、不毛のなかにみなぎる宗教

性を感じる。

不毛の土地でありながら、そこには慈愛に満ちた神のあたたかい導きを感じるのであ

る。
 
いま、ティベリヤからバスに揺られて緑豊かなヨルダン川の西岸<ウエスト・バンク>

を南下し、飛び地であるエリコを経てエルサレムに向かっている。


 
<エリコ・Jelichoという聖書の街>

バスは、ここウエスト・バンク(ヨルダン川西岸)、パレスチナ自治区であるエリコの

街に立寄り、エルサレムに向かって走り出した。

いまから3000年も前、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナ

イ山でモーセ十戒を授かり、モーセの後継者ヨシュアの指揮のもと、シナイ半島の砂

漠を40年間彷徨したあと、神によって約束された待望のここカナンの地に入った。

ここエリコは、街の周りを7回ラッパを吹いて回ったら城壁が崩れ落ちたという有名な

<エリコの戦い>の舞台である。

旧約聖書ヨシュア記6章3-5)

                                  

        ヨルダン川西岸、エリコを染める聖なる夕焼け (ウエストバンク・エリコ)
 
 
エルサレム到着>

エルサレムのセントラル・バス・ステーションでは、発着するすべてのバスを利用する

乗客に対して、空港で行われるX線検査ではなく、より丁寧確実な手/目/鼻/耳を使って

の徹底したマンツーマンの手荷物・身体検査を受ける。

バス停を出た時には、すでに夜9時ごろになり今夜泊るユースホステルを探すのも億劫

になって来たので、タクシーの運転手に頼んでみた。 連れていかれたのはユダニズム

シオニズム)の世界連盟が運営する宿泊施設でユースホステルと同じく世界中のユダ

ヤ青年に安全な宿泊施設を提供している。 もちろんユダヤ人以外の宿泊も大歓迎であ

るが、わたしのエルサレムでのスケジュールを聞き、旧市街にあるシタデル・ユースホ

ステルを紹介するという。
 
エルサレム巡礼の前に、ヘブロンベツレヘムを訪問することにしてエルサレムでの滞

在先であるシタデル・ユースホステルエルサレム旧市街アルメニア人地区・ヤッフォ

門から約5分)に荷物を置き、先にヘブロンベツレヘムに出かけることにした。 短

期間のエルサレム滞在になるため、同室者に気を使わなくてもいいように部屋はシング

ルルームとし、次なる旅先であるアフリカ縦断に備えて体を休め、アフリカ行きの準備

に備えることにした。

朝食付き1泊43US$で、シングルルームといっても、ドームである4人部屋を借り切る

だけのことであるが、久しぶりに広い部屋に一人寝である。
 
このYHの部屋から旧エルサレムを取り囲む城壁が見える。 ライトアップされ美し

く、聖書の世界にいることを実感させられる。 しかしできれば、わたしにはイエス

生涯最後のエルサレムという暗闇と静寂の舞台設定が欲しかった。
 
<▼10月28~29日    エルサレム  
             シタデル・ユースホステル連泊  シングル@43US$>

      

 

                <シタデル・ユースホステルエルサレム


ヘブロンベツレヘムの街は、エルサレムやエリコと同じくヨルダン川西岸地区<パレ

スチナ自治区/ウエストバンク>にあり、1967年の第三次中東戦争以来イスラエルの占

領地となっている。

現在、エルサレムヘブロンベツレヘム・エリコを含む西岸地区は、イスラエル軍

パレスチナ政府によって統治されており、多くのイスラエル軍兵士よってパトロール

れている。
 
エルサレムからは、アラブ・バスが運行されており、北西にあるセントラル・バスステ

ーションのヤッファ通りに面するバス停のバス#23に乗車(5NIS)し、約1時間30

分でヘブロンに着く。

また、ダマスカス門を出たところからもヘブロン行ミニバスが出ている。

                                                  

ヘブロン散策― 旧約聖書・マクペラの洞窟>

エルサレムから一歩郊外に出るとイスラエル軍は臨戦態勢である。ヘルメットをかぶ

り、重機関銃を構え、装甲車で停止線をつくり、引き金に指をかけている。 アラブ・パ

レスチナのテロ襲撃に備えているのだろうが、実に生々しく、緊張感が走る。

平和な日本から来た者にとっては異様に感じるが、ここ聖書の地は、旧約の時代から緊

張の中に平和が保たれてきたのである。

パレスチナ側の心情も痛いほど理解できる。

再度、ユダヤ民族のディアスポラ(離散)の歴史をのぞいておきたい。

エス誕生の1世紀ほど前、支配者ローマに反乱してユダヤ民族は追放され、ディアス

ポラ(離散)を余儀なくされた。 このユダの地(イスラエル)を離れ、世界中に散ら

ばったのである。

1945年シオニズム運動のもと、2000年程前のパレスチナの地への帰還を国際連合の決

議によって認められたが、その間エルサレムや各聖地を守り続けてきたのは、ユダヤ

族無きあと祖国としてきたパレスチナの国であり、パレスチナ人であった。 いくら祖

父の地であるといって帰還してきたユダヤ人に、これまた彼らの祖父の地を明け渡す理

不尽さに抵抗するのは当然であるとパレスチナの人々は考えているのである。

この両者の当然の主張が、相譲ることのできない不審と憎しみと戦いを続けさせている

のであり、交わることのない主張が存在し、終わりなき敵対が続いているのである。

ユダヤ人の理不尽なパレスチナ帰還、イスラエルの建国は、反対にパレスチナ人のディ

アスポラ(離散)を引き起こそうとしていると、パレスチナ人やアラブ諸国は危惧して

いるのである。
 
エルサレムを離れると、瓦礫と岩がゴロゴロした赤い丘が続く。 このような荒れた土

地だからこそ人々は神にすがったのであろう。 イエスがこの地に生まれたことが当然

なように思えてならない。 自然との熾烈な戦いのない豊かな地に主イエスが誕生する

ことはなかったといえる。
 
ヘブロンは、パレスチナ政府の管轄下にあり、ヘブロン出入りの車やバスはイスラエル

軍によって厳しくチェックされている。

ヘブロンには、イスラエル最初の族長アブラハムの墓がある。

アブラハムは、ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初

預言者であり、「信仰の父」とも呼ばれる。 ユダヤ教イスラム教、キリスト教

祖であり、預言者であり、聖人でもある。

旧約聖書『創世記』23章8-9節における<マクペラの洞穴>の記述は、妻サラを埋葬す

るためにアブラハムがマクペラと呼ばれる地を含んだ畑をヘト人エフロンから買い取っ

たとある。

「民族の父母」と呼ばれるアブラハム、サラをはじめ、イサク、リベカ、ヤコブ、レア

の6人が埋葬されており、「マクペラの洞窟」はユダヤ教第2の聖地であり、キリスト教

だけでなく、イスラム教徒からも聖地とされ、巡礼者があとをたたない。

 

 

 

イスラエル軍ヘブロンへの検問所   ヘブロン市街への緩衝地帯を抜けて<マクペラの洞窟>へ向かう


 
緊迫したイスラエルパレスチナの争いのなか、どこから迷い込んできたのか真っ白い

鳩が<アブラハムの墓>の上にとまっているのに出会った。 緊迫した情勢の中にもの

どかさと、融和を求めるしるしに見えた。 アブラハムやその家族の墓を管理するのは

パレスチナ側で、中ではイスラム教徒もユダヤ教徒も共に詣でているが、礼拝所はそれ

ぞれ別々になっている。
 
アブラハムの墓のある<マクペラの洞窟>の周りは、誰も住まない死の街だが、追い出

されたパレスチナ人の家にイスラエルの旗がひるがえり、電気屋が不法に商売を始めて

いた。 入植は危険だが、ユダヤ人はこの危険こそ国のためだとの考えから、どんどん

入植を進めているのが現状である。 ユダヤ人のイスラエル建国への想いは、入植とい

う形で拡張されて行っているように思える。
 
無人である緩衝地帯<死の街>をとおり、アブラハムの聖所に向かっている時、若いイ

スラエル兵の一隊が私を取り囲み、「よくここまでたどり着きましたね。 ここからは

私たちがあなたを守ってこの緩衝地帯を通過します。 これは私たちの役目であり、義

務です。」と、声をかけてきた。

さっそく防弾チョッキを着せられ、各人自動小銃を構え、先頭の指揮官、わたしを中に

前方・後方の左右に兵士4人が守り、後方に無線機を持った兵士の6人の構成である。 

たえずテロによる狙撃を警戒しての前進防禦の姿勢である。 緊張感に解放されたと

き、すでにアブラハム墓所である<マクペラの洞窟>の入口に立っていた。

 

 

         

                 ヘブロン・マクベラの洞窟付近地図
 
 
人が生活している、人がそこにいる、それだけで人間というのは安心感にひたれる。

戦場や国境の無人地帯ほど不気味さを感じ、不安を感じる所はない。 この世から人間

が消えてしまったような無が支配する空間といえる。 これは山や氷河や海上での孤独

感とは違って、生命の鼓動を感じることのできない虚無・廃墟の世界であるといえる。

小学1年生の時、日本への引揚げ前に経験した、北朝鮮に侵攻され廃墟となったソウル

京城)を彷徨した時も死の街を歩いた。 また世界各地を回りながらそれぞれの国境

を徒歩で横断するときの無人地帯の不気味さを思い出していた。

                

 

   無人緩衝地帯の不気味さ      マクペラの洞窟(ヘブロンアブラハム・モスク 

 

          

            マクペラの洞窟にはアブラハムや妻サラ、家族の墓がある 

             

            

                     アブラハムの聖所

 

アブラハムの墓では、警戒のイスラエル兵も銃をおき、防弾チョッキを脱ぎ、キパ(ユ

ダヤ教男子の帽子)をかぶり墓に詣でていた。 墓所では、神のもとジューイッシュも

ムスリムも、クリスチャンも平等公平であり、それぞれの信仰を邪魔しないという暗黙

のルールが成立しているようである。

この日、アブラハム墓所には観光客はわたし一人であり、ムスレムの行者数人がコー

ランを唱え、瞑想にふけっていた。

どうも現在のイスラエルパレスチナ関係の険悪化から観光ツアーは組まれていないよ

うである。

この時期のただ一人の観光客として、イスラエルパレスチナ両サイドからそれぞれの

歓待を受けたのには驚かされた。 両サイドから、それぞれの和平願望の度合いを伝え

るため、好意的待遇を与えてくれたのであろうか。

 

 

     ヘブロン旧市街入口                  ヘブロン旧市街市場


 
アブラハム墓所>にぬかずいたあと、イスラエル小隊による6人の護衛を受け帰路

についた。

ヘブロンの旧市街を散策し、ヘブロンより同じくヨルダン河西岸にあるベツレヘムの街

に乗合バスで向かった。

しかし途中、道路がバリケートで封鎖されているということで、バスは通過できないと

のことである。 乗客は降ろされ、シェルートという乗合ワゴンでヘブロン脱出という

ことになった。
 

ベツレヘム散策―イエス生誕地>

西岸地区(ウエストバンク)にある飛び地・パレスチナ自治区ベツレヘムへは、ボー

ダライン(イスラエルパレスチナの境界線)を越えて旧市街へは、われわれの乗った

シェルート(乗合ワゴン)は入れないということで、乗客は降ろされた。

ヘブロンと同じく入域するためにはイスラエル軍の厳重な検問を受け、緩衝無人地帯を

歩いて行くことになる。
 
私はいま緩衝無人地帯、戦闘地区の最前線にいて、いつ狙撃されるかもしれないと思う

だけで恐怖を感じながらボーダライン(無人境界地帯)を越境中である。 この荒涼と

した無人地帯も、もし登山中であれば冒険心をかきたてられるであろうし、人間さえい

なければ、ここパレスチナの地も蜜に溢れた桃源郷であろうと思う。 人間の存在は、

愛と共に醜さをもたらすものであることを強く感じた。
 
ベツレヘムの蝋燭の光が揺れるこの薄暗い<聖誕教会>が、イエス・キリストが生まれ

た飼い葉桶のあった聖なるところである。 あの東方の博士たちがラクダに乗り、流れ

星に導かれて、この地にやってきて幼子イエスに拝したように、わたしも又東方日本よ

りやってきてこの聖なる場に座ってしばし瞑目した。

外の騒しさは消え、静寂だけが漂っている。 ヘブロンアブラハムの墓の物々しい警

戒に比べたら、ここ聖誕教会の聖なる地にはほとんど人影無く、だれでも自由に詣でる

ことが出来る。
 
ここベツレヘムは、ヘブロンと同じくパレスチナ自治区が統括管理しているが、その治

安に驚くほどの違いがあるのには驚かされた。

 

              ベツレヘムパレスチナ自治区)のメインストリートで

 

               パレスチナ武装闘争民兵募集の貼紙
 

                聖誕教会のメンジャー広場にて

 

    

       聖誕教会             洞窟跡にあるイエス生誕飼い葉桶

 

 
聖誕教会の入口付近に馬小屋として使われた洞窟があったといわれ、現在は<ベツレヘ

ムの星>を配した祭壇が置かれ、イエス生誕地であることを示している。

燭台の上の蝋燭の炎が揺れ、その前にある飼い葉桶に生誕のイエスが寝かされたのであ

る。

子供のころ教会学校ではじめて聞いた、あの清らかな主イエス降誕を祝う讃美歌(10

9)とオルガンの音が、こころに響き広がって行った。

久しぶりに、清々しい<無の風が>体を吹き抜けていった。
 
     「きーよしこの夜 星はひかり すくいーのみー子は まぶねーの中に 

                    ねむりーたもうー いーとやーすくー」
 
ヨルダン河西岸地区にあり、イスラエル兵による厳重な警戒のもとにあるヘブロンやベ

ツレムヘムの散策で、おおくのパレスチナの住民と接することが出来た。 露店でバナ

ナを買ったとき、貧しい服装のパレスチナの主人は、東洋からの客人と知って<

Welcome to Palestine !>といい、代金を受け取ってもらえなかった。 多くのパレス

チナの人々は人懐っこく、純真な人びとである。 いつの世も政治と民衆は、切り離し

てみるべきなのかもしれない。

乗合バスでも、運転手の手渡してくれたヒマワリの種を口に含んで、バスの窓から殻を

お互い吹き飛ばしては友情を深めたものである。

しかし、ヘブロンにしても、ベツレヘムにしても大きな街であり、雑然とした街並み、

騒然とした賑やかさに少し失望させられたことも事実である。 ひっそりとした聖書的

静寂さと人々の生活を想い描いていただけに、願望に過ぎなかったことに気づかされ

た。

ここは、パレスチナイスラエルが、生存をかけた地であり、生活の場なのである。
 


<ヨルダン河西岸での危機対策>

ヘブロンベツレヘム訪問を終え、<アブラハムの墓>では帽子をかぶれと警備のイス

ラエル兵士に言われ、聖誕教会では帽子を脱げといわれた真逆の指示に、いまだ真意を

計りかねている。

帽子を脱ぐと云うことは聖なる場所では当然のマナーと思うがいまだその意味を解しか

ねている。これまたテロへの警戒からか。
 
ヘブロンベツレヘムというパレスチナ自治区への路線バスは、その時のイスラエル

パレスチニア間の政治情勢やテロによる騒乱などにより突然の運転休止が度々行われ

る。 代わりに乗合ワゴンが地区別に乗客が集まり次第出ているから問題はない。

またバス路線には、緊急突発時に備えて脱出路があり、道路がバリケートやブロックで

ふさがれたり、爆弾による道路陥没を避けるための裏道が完備している。 ただ慌てる

ことなく乗客と同じ行動をとっていれば安心である。 道なき道を脱出することになる

が、これまた問題はなく、心配することはない。 ここはパレスチナなのであり、すべて覚悟して行動すればいいだけである。
 
危険を感じたといえば、ヘブロンアブラハムの墓に向かう道中の無人地帯であろう

か。 この無人地帯を抜けなければイスラエル兵が占拠しているアブラハム・モスク・

エリアに入れないのだから、覚悟が必要である。 この緩衝・無人地帯の向こうに護衛

イスラエル兵が迎えてくれたことは先に述べた。 イスラエル兵に迎えられるまで、

死の恐怖を感じたといえば大げさだが、猫一匹の動く音に肝を冷やしたり、こわれた窓

からの狙撃におびえて軒下を縫って歩くのだから、戦闘地域を潜りぬけているのであ

る。

住民の強制退去によって出来上がった無人地帯は、住民の生活があっただけに、その廃

墟は空虚な空間として無機質に残された遺跡のような静寂さが漂う。 不気味であり、

おのれの足音にも冷汗をかいたが、イスラエル兵の小隊に出迎えられた時には、こころ

から安堵したものである。
 
では、ベツレヘムを後にして、乗合ワゴンでエルサレムに戻ることにする。

夕方、嘆きの壁に出かけ、広場のうしろに座ってユダヤ教徒の敬虔な祈りの場に接し

た。

 

         

                 ヨルダン西岸地区の乗合ワゴン

 


エルサレム旧市街を歩き、死海をへてエイラットに向かう>

ベツレヘムを後にして、乗合ワゴンでエルサレムに戻った。

夕方、嘆きの壁に出かけ、広場のうしろに座ってユダヤ教徒の敬虔な祈りの場に接

した。

 

                 岩のドームに接する嘆きの壁

 

明日は、エルサレム旧市街のイエスが最後に歩かれた道<ヴィアドロローサ/悲し

みの道>をたどることにする

 

<▼10月28~29日  エルサレム  シタデル・ユース・ホステル連泊 

                  シングル @43US$ >

 

   

          エルサレム旧市街にあるシタデル・ユースホステルレリーフ

 

■ 10月29日 エルサレム巡礼

 

 エルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三大宗教にとって特別な聖

地である。

ユダヤ教徒にとっては神から与えられた土地であり、キリスト教徒にとってはキリ

ストが亡くなった場所であり、そしてイスラム教徒にとってはマホメットムハン

マド)の「夜の旅」の到着地で、ここから天馬に乗って天へ昇ったとされる重要な

聖地である。

この待望の三大宗教の聖地であるエルサレムの旧市街を歩いた。

 

              イエスが歩かれたエルサレム旧市街地図

 

 

   ヤッファ―門をスタート    エルサレム旧市街を取り巻く城壁に隣接する<ダビデの塔>          

 

 嘆きの壁

嘆きの壁は、岩のドームの建つ神殿の丘を取り囲む城壁(ヘロデ大王時代のエルサ

レム神殿の外壁)の現存する一角にあり、ユダヤ教の聖地である。

この<嘆きの壁の広場>は、機関銃を持った兵士や、警官、私服によるパトロー

が厳しくなされ、周囲の建物の屋上には迷彩色の網をかぶせた監視所が張り巡ら

され、機関銃が顔をのぞかせている。広場への出入りは、厳重な検査がなされ、そ

の物々しさに驚かされた。わたしは出かける前に宿泊先に、金属類(ナイフ・ハサ

ミ・爪切りほか)を置いてきたので案外スムーズに広場に入ることが出来た。

そのような厳重な雰囲気の中で、多くのユダヤ人が壁に向かって左側に男性が、右

側に女性に分かれ、タルムードやトーラを、声を出して読んでいる。特に男性側に

ユダヤ教超正統派の黒ずくめの人たちが目立つ。

滞在先のユースホステルに近く、城壁巡りの入口のある旧市街西壁のヤッファ―門

をスタートし、<ダビデの塔>を経て、<嘆きの壁>に向かった。

 

            ユダヤ人祈りの場所<嘆きの壁

 

            死海の塩水で描いた<嘆きの壁>スケッチ

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

わたしは広場のうしろの方で、この<嘆きの壁>に向かって祈るユダヤ教徒を目に

しながら、持参した新約聖書のマルコの福音書を開き、イエス・キリストエルサ

レムでの最後の日々を、時間を追いながら読んだあと、スケッチを終え静かに<

きの壁広場>を離れた。

嘆きの壁>を出て、南側にあるモロッコ門をくぐり、<神殿の丘>にある<エ

ル・アスク・モスク>(男子専用礼拝所)と<岩のドーム>(女子専用礼拝所)に

向かう。

 

    

                                      エルサレムの旧市街を囲む城壁にあるロッコ

 

<神殿の丘 - 岩のドーム

神殿の丘、岩のドームには、神殿の丘を取り囲む城壁西側にある<嘆きの壁>の南

側にあるモロッコ門から高架橋を渡って入る。

岩のドームに立寄って見ると、イスラエル兵によりバリケートが築かれ、関係者以

外は入場禁止であると告げられる。あとでわかったが、岩のドームは女性専用のモ

スクで男性は入れないと云ことである。礼拝は男女によってわかれ、男性はモロッ

門を入ったところに位置する<エル・アクサ・モスク>で礼拝することになって

いる。

ユダヤ教徒にとって、神殿の丘は、アブラハムが神の命令に従って息子イサクを献

げようとしたかってのモリヤの丘であったという。3000年前ダビデがそこに契

約の箱を置き、子ソロモン王が神殿を建てた場所で、ユダヤ教キリスト教の聖な

る場所である。

内部の岩は、世界が創造された際の<基礎石/エペン・シュテイヤ>と呼ばれ、世

界の中心であるとされている。

一方、イスラム教にとってもエルサレムは、サウジアラビアのメッカ、メディナ

次いで3番目に重要な聖地である。

7世紀、イスラム教徒がエルサレムを征服し、ユダヤ教の神殿跡に岩のドームを建

設した。
 

イスラム教の創始者であり預言者であるマホメットは夢の中でメッカから天子ガブ

リエルに連れられてエルサレム神殿まで旅をし、神殿の岩から昇天し、メッカに戻

ったと言い伝えられていることは先にも述べた。

岩のドームの下にある洞窟をムスリムは<魂の井戸>と呼び、最後の審判の日が訪

れた時、すべての魂がここに集まるという。

 

              城壁で囲まれたエリアが<神殿の丘>

 

              手前のエル・アクサ・モスクと岩のドーム(奥)

 

岩のドームを後にし、神殿の丘を囲む城壁の東門<黄金門>を出て、オリーブ山に向かう。

 

<オリーブ山 と 主の涙の教会>

オリーブ山の北側、旧エルサレムを望むところに<主の涙の教会>がある。

ちびロバに乗られたイエスキリストがこの場所からエルサレムを見渡し、その行く

末を案じ、涙を流されたという新約聖書に基づいて建てられた教会である。

ルカによる福音書19節41~44節>

祭壇越しに見える岩のドームは、その神秘性を今に伝えている。

<主の涙の教会>は泪をモチーフに、その祭壇はイエスが望まれた方向である西向

きに建てられている。

 

 

   主が泣かれた教会  主が泣かれた場所の祭壇越しに岩のドーム/エルサレム旧市街を眺める

 

                  オリーブ山近景を望む①

 

            エルサレム旧市街よりオリーブ山遠景を望む②

 

           オリーブ山頂より旧エルサレム市街と岩のドームを望む

 

                                                オリーブ山より旧エルサレム岩のドームを望む

                  Sketched by Sanehisa Goto 

 

<ケデロンの谷>

オリーブ山とエルサレム旧市街南にあるダビデの町の間を隔てる古い岩窟が並ぶ集落が<ケデロンの谷>と呼ばれている。

ここはダビデ王の時代からの古い墓地があり、最後の審判の日に死者が蘇るといわれている。オリーブの樹の間からは古代の切石造りの旧約聖書にゆかりのある預言者の岩墓がみられる。

 

                                                エルサレム旧市街城壁より シオンの丘を眺める

 

                                                                     ダビデの町遺跡

 

ダビデの町は、ユダヤ民族の最盛期を支配したダビデ王とそれに続くソロモン王が第一神殿時代に築かれたと思われる街である。

 

                   ケデロンの谷にある岩墓群

 

<シオンの丘周辺>

エルサレム旧市街の南西、シオン門に隣接する地域に、ダビデ王の墓・最後の晩餐

の部屋・鶏鳴教会・マリア永眠教会が集まっている。

ダビデ王の墓には、新旧聖書<新約聖書 使徒行伝2章29節 /  旧約聖書 列王記上

2章10節>に記されているダビデ王が葬られ、ダビデの星が刺繍されたビロードの

布で覆われたダビデの石棺があり、聖書に出てくるダビデ王との対面を果たすこと

が出来た。

 

                   

                ダビデの墓にあるダビデ王の棺

 

最後の晩餐の部屋は、ダビデの墓の上階にある。

エスは、1000年後のダビデの子孫である。ダビデの墓の上階が、イエスが処刑

される前に12人の弟子と最後の晩餐をした部屋であり、旧約と新約の接点として

残されている史実と、その予言の不思議さに驚かされる。

 

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    最後の晩餐の部屋              ダビンチの最後の晩餐

 

         

            

                  ダビデの星


 

鶏鳴教会は、ユダの裏切りによりゲッセマネの園でとらえられたイエスが、ここシオンの丘にある大祭司カイアファの屋敷に連れてこられた場所に1931年に建てられた聖ペテロ教会のことを言う。

この鶏鳴教会は、ペテロが群衆に「イエスの仲間だ」と言われ、イエスの預言通り「知らない」と3回も嘘を言ってしまった屋敷の中庭にある。

その後、ペテロは悔い改め、イエス昇天後は弟子たちのリーダーとして誠心誠意布教につとめた。

ここに出てくるイエスの弟子であったユダとペテロの違いについて考えておきたい。ユダは、イエスユダヤ当局に引き渡す手引きをした裏切り者であり、ペテロは先にも述べたように弟子でありながら「イエスを知らないと」と言って、イエスを裏切ったのである。

二人の裏切り者は、ペテロが後悔し忠実なイエスの僕に変貌する一方、ユダは悲しみを癒されず自ら命を絶ってすべてを終わらせてしまう。

 

           教会のドームの上の十字架に鶏が飾られている鶏鳴教会

 

マリア永眠教会もまた、エルサレム旧市街南にあるシオン門の近く<シオンの丘>にある。地下聖堂に階段で下りると、イエスの母<聖母マリアの像>が安置されている。

 

              シオン門近くの城壁よりマリア永眠教会を望む

 

          

              マリア永眠教会の地下に眠る聖母マリアの像

 

              《シオンの丘ゲッセマネの園ヴィアドロローサ/悲しみの道

                                                                    ➔ゴルゴダの丘/聖墳墓教会

 

シオンの丘にあるダビデの墓、マリア永眠教会、鶏鳴教会、最後の晩餐の部屋の見学を終え、シオン門よりユダヤ教徒地区を横切って<糞門>に向かう。門を出て城壁沿いにある<主の祈りの教会>、<ゲッセマネの園>を訪れたあと、<ライオン門>より、イエスが十字架を担がれて歩かれた聖なる道<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>をたどり<ゴルゴダの丘>にある<聖墳墓教会―イエスの墓>に向かう。

 

ゲッセマネの園>

ゲツセマネ の園は、オリーブ山の麓にあり、イエス・キリストが受難に先立って苦悩し,最後の祈りをささげ,捕縛された場所である。

 

       

                    ゲッセマネの園

 

 

   《ヴィア・ドーロローサ / 悲しみの道》

 

ゲッセネマの園から城壁<ライオン門>をくぐり、イスラム地区の狭い路地を進むと標識<VIA DOLOROSAに出会う。

これより、十字架を背負って歩んだイエスの足跡をたどることになる。

 

<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>を歩くにあたって、エルサレム旧市街のイエスが歩まれた地図を再掲しておきたい。

 

                エルサレム旧市街マップ

            <ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>

              ・・・➡・・・エス最後の足跡

 

ユダヤ教指導者たちから死刑を強く求められたイエスは、ローマ総督ピラトのもとに連れていかれた。判決権を持つピラトはイエスが死刑に値するとは考えなかったが、ユダヤ教の指導者によって煽られた民衆が強烈に死刑を求めたため、イエスに死刑判決を下したといわれている。

 

        

                VIA DOLOROSA ・悲しみの道

                     イエスの歩まれた道標

 

<第1ステーション:地図内①>である死刑判決のなされたローマ総督ピラドの官邸から、イエスは茨の冠をかぶせられ、十字架を背負わされ歩み、<第14ステーション:地図内⑭>である磔の刑に処されたゴルゴダの丘までの約1㎞を歩まれた。この場所に聖墳墓教会が建てられている。

このイエスが十字架を背負わされ歩かれた道が<VIA DOLOROSA> (ヴィア・ドロローサ/悲しみの道)である。

ヴィア・ドロローサには、聖書の記述や伝承に従って、次の14ステーションが指定されている。


 第1ステーション ① : イエス、死刑判決を受ける  

              (ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞)

 

                          

                 ①ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞

    現在学校が建っている地下にローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞跡が残されている。

 

第2ステーション ② :  イエス、十字架を背負わされる  

              (鞭打ちの教会/ホッケ・ホモ・アーチ)

 

 

 

           鞭打ちの教会           ホッケ・ホモ・アーチ

 

     ローマ総督ピラトがイエスを群衆の前に引き出して、「ホッケ・ホモ」すなわち

    <ラテン語:この人を見よ>と叫んだ場所だといわれている。

 

第3ステーション ③ :  イエス、十字架の重みで倒れる  

              (ポーランドカトリック教会)

 

            

        ポーランドカトリック教会のレリーフ<十字架の重みに倒れるイエス

 

 

第4ステーション ④ :  イエス、悲しむ母マリアに出会う     

              (ヴィア・ドロローサレリーフに見る)

 

 

           <イエス、悲しむ母マリアに出会う>レリーフ

 

第5ステーション⑤: イエスの代わりに、シモンが十字架を背負わされる  

        

              

                  <ラテン語の石板標識>

 

第6ステーション ⑥:ベロニカがイエスの顔を拭いたといわれる場所

この辺りは狭い路地に多くの土産物店が立ち並んでいる。
ベロニカが拭いた布にイエスの顔の跡が付いたといわれ、その布はローマのサン・ピエトロ寺院に保存されているという。

 

          

           聖ベロニカ教会(ベロニカが住んでいた家といわれる)

 

 

第7ステーション ⑦ : イエス、2度目に倒れたといわれる場所

 

         

          


            イエスが、2度目に倒れたといわれる場所付近

 

 

第8ステーション ⑧ : イエス、悲しむ女性たちを慰めた場所

 

 

    第8ステーションの標識         第8ステーションに埋め込まれたラテン十字架

 

第9ステーション ⑨ :  イエス、3度目に倒れた場所   

                コプト教会の入口右横(聖墳墓教会内)

 

            

            


                  イエス
3度目に倒れた場所 

                    コプト教会の入口横

 

第10ステーション ⑩ : イエス、衣を脱がされた場所   

              聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂

 

         

              聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂

 

第11ステーション ⑪  イエス、十字架に付けられる   

             聖墳墓教会ローマカトリック祭壇  

聖墳墓教会の階段を上がったところにあるローマカトリックの祭壇に<十字架に張り付け終わったイエス>がおられる。

 

       

                聖墳墓教会ローマカトリック祭壇 

 

第12ステーション ⑫  イエス、十字架上で息を引き取る  

             聖墳墓教会ギリシャ正教祭壇

第11ステージの左隣にあるギリシャ正教の祭壇に<十字架上で息を引き取ったイエス>がおられる。

 

        

                 聖墳墓教会ギリシャ正教祭壇

 

第13ステーション ⑬ :アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る

 

                 

           イエス、弟子たちによって十字架から降ろされる様子

 

 

第14ステーション ⑭ : <ゴルゴダの丘> イエス、埋葬される 

               イエスの墓 聖墳墓教会

 

        

                  イエスの墓 聖墳墓教会

 

ゴルゴダの丘 ― 聖墳墓教会

ここゴルゴダの丘は、イエスが十字架を背負わされ歩んだ<ヴィアドロローサ/悲しみの道>の最終地であり、十字架に磔にされたイエス最後の地である。イエスの墓があり、聖墳墓教会が建てられている。

最初、ゴルゴダの丘は、オリーブ山やシオンの丘のようにエルサレム旧市街を取り囲む城壁の外にあるものとばかり思いこんでいたが、現地で城壁内の聖墳墓教会そのものがゴロゴダの丘であることを知った。

 

   

                ゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会

 

           

            

                イエスの墓といわれる大理石の石棺

 

 

            エルサレム 聖墳墓教会イエス・キリストの墓の前で

 

イエス・キリストの受難の道である<悲しみの道/ヴィア・ドロローサ>をイエスの生涯を顧みながら、こころ静かに歩いた。

その後、西側城壁に上がり、エルサレムの街をこころに刻み、エルサレムに別れを告げた。

 

         エルサレム西側城壁より旧エルサレム市街を望み、別れを告げる

 

           

           エルサレムを去るにあたって新市街を散策

 

エルサレムの街には、髪の毛を頭のうしろで結んだ娘さんたちが、戦闘服に身を包み、軍靴を履き、自動小銃をもって歩いている姿に多く出会う。

自分たちの国は、自分たち若者が守るのだという覚悟が伝わってくる。生きいきした目の輝きには、このイスラエルの国を離れず、先人たちの過ちを二度と繰り返さないという強い意志が感じられる。

若者の血を、祖国のため、子孫のため、未来のため沸き立たせることが民族生き残りの条件であり、基本であるということを自覚し、理解しているといえる。

平和の中に埋没している日本の若者とは、取り巻く環境からくる人生観・世界観そのものが異次元であるといっていい。

トーラを読み、口ずさむユダヤの人々の多いこと。バスの中、バス停、街角など、時間を惜しんでトーラを諳んじている姿には、神との繋がりにこそ民族の存続があり、生かされている証があることを確認しているようである。

ユダヤ民族が存続し、これからも存続し続けるためには、規律と戒律が必要であることを自覚しており、民族の財産が民族愛であり、言語であり、宗教であり、神であることを示している。

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いよいよエルサレムを離れ、出エジプト記に書かれているモーセのエジプト脱出からカナンの地への逆ルートをたどり、シナイ半島を経由してエジプトにむかう。モーセ率いるイスラエル人の帰郷大作戦である苦難の彷徨40年間の足跡をたどる。

イスラエル人が、神の導きでエジプトを脱出するにあたり、神との契約を守るという代償を背負うこととなった。正統ユダヤ教徒は、今なお<神に選ばれた民>としての生き方を、<神との契約>として厳密に守り通している。

 砂漠地帯であるシナイ(エジプト)へ向かうにあたっての準備として、まずはカイロまでのバス事情・ルートの収集、エジプト入国に必要な書類やエイラットのエジプト領事館の関する情報を集めることにした。

 

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1993年にイスラエルのラビン首相とPLOパレスチナ解放機構)のアラファト議長の間

で交わされたオスロ合意により、 翌年の1994、ヨルダン川西岸地区は、ガザ地区

共に「パレスチナ自治区」になった。

しかし、わたしがイスラエル縦断中の2001年当時も、ヨルダン川西岸地区は面積の半分

以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、常に厳しく監視されていた。 また、イスラエ

ルの入植地が拡大していた。

パレスチナ自治政府の完全な統治下にあったガザ地区への入域の厳しさに比べて、占領

ヨルダン川西岸地区へは、自由に入域でき、旅行を続けることができた。

かかる事情により、2001年当時のガザ地区への入域は禁止されていたことから、残念な

がら、パレスチナ人のガザ居住区の情勢や日常生活を垣間見ることが出来なかった。 

今回のイスラエルパレスチナ紛争で、ようやくガザの実情が世界に発信されたことに

なる。 旧約の世界のイスラエル人・パレスナ人の平和共存の時代に戻ることができる

のであろうか。 いや、さらなる両者の離反、憎しみの連鎖が継続されるのであろう

か、悲しいことだが、民族・宗教紛争の解決の糸口は見えていないと言っていい。

 

いつかパレスチナの地に平和が訪れることを切に祈りつつ<イスラエル縦断1000kmの

旅>Ⅰ・前編を終えたい。

引き続き、 <イスラエル縦断1000kmの旅>Ⅱ・後編へとすすめたい。


 
    聖誕日・クリスマスを前に、 志賀の里にて
    この世で、苦しむ人々、病める人々の上に神の御手がありますように・・・
       そして、戦いのない日々が訪れますように・・・

 

                      2023年12月 志賀の里 孤庵にて

 

 

 

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           イスラエル縦断 1000kmの旅》Ⅱ

                 ―後編―

 

                   に続く

 

 

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