『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
Ⅰ 《ロシア・シベリア横断 10350kmの旅》
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Ⅱ 《イスラエル縦断 1000kmの旅》
Ⅲ 《ヨーロッパ周遊 11000kmの旅》
Ⅳ 《アフリカ縦断 15650km》
随分と世界を歩き回ったが、一回の旅で約38000Kmを、3か月に渡って二大陸を踏破
した旅は初めてである。
2022年3月、ロシアによるウクライナへの特別軍事作戦が開始され、世界の目がロシア
大統領の前近代的な歴史観<大ロシア帝国>により、<国土回復、いや一度ロシア領で
あった地域は、ロシアの地に還る>というロシア正教独特な考えを見せられることとな
った。
さっそく、本棚に眠っていた旅日記『2001 星の巡礼 神と同行二人旅』を取りだして、
約20年前のソビエット連邦から解放されて間もない2001年当時のロシアを覗いてみた
くなったのである。
ここでは、シベリア横断鉄道でロシアを横断し、ヨーロッパを縦断後、パレスチナから
エジプトに入り、カイロから南アフリカの喜望峰までのユーラシア・アフリカ二大陸
38000㎞を、いくつかの地理的セクションに分けてご案内したいと思う。
<ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅>
全ルート地図
Ⅰ《ロシア・シベリア横断 10350㎞》
<シベリア横断鉄道に乗る ウラジオストク➡モスクワ➡サンペトロブルグ>
■ 9月7日 <寝台列車で、新潟へ向かう>
ロシア極東の玄関であるウラジオストクに飛び、シベリア横断鉄道に乗るため新潟空港
に向かう。
久しぶりの寝台急行、旅情に浸りながら俳句をひねる。
《秋刀魚焼く におい香し 駅隣り》 志賀の里 9/7 18:15
ーさんまやく においかぐわし えきどなり―
《秋時雨 残像曇る 車窓かな》 寝台列車にて
ーあきしぐれ ざんぞうくもる しゃそうかな―
《神の御手 こころ触れなん 秋の陽や》
ーかみのみて こころふれなん あきのひや―
《黄金垂る 豊けき国を 焼付けし》
―こがねなる ゆたけきくにを やきつけし―
《赤土に 掘られ和みし 薩摩芋》
―あかつちに ほられなごみし さつまいもー
《われも飛ぶ 北を睨みし 赤蜻蛉》 新潟空港 9/8 10:00
―われもまた きたをにらみし あかとんぼ―
<シベリア横断鉄道>へ誘う新潟行き寝台特急列車に揺れながら俳句を綴る
■ 9月8~9日 <新潟➡ウラジオストク滞在>
<新潟空港にて>
新潟空港には、ロシアに帰国するロシア人で溢れていた。
10年前、1991年に起こったソビエット連邦崩壊前には見られない光景である。
日露戦争(1894~95)、ロシア革命に干渉したシベリア出兵(1918~22)、第二次大戦
におけるソ連赤軍参戦(日ソ不可侵条約破棄1945/8/8)、敗戦後のシベリア抑留などや、
北方四島未返還を考えると、ここ<新潟空港>は不思議にして、複雑な歴史の時空の中
にある。
―神は人間同士の争いには不干渉であるー
と言うことは、どちらをも神自ら罰しないと言うことである。
人間同士の争いは、争いを起した当人たちが決着をつけ、人間の営みを継続させる責任
があると云ことのようである。
故に、正義だけが勝つわけではない。悪もまた、神の御名のもとにあるのだ。
ただ、悪を悪として認め、正義を行うもののところに神の栄光があるということに
なる。
(注・ブログ制作中の2023年10月現在、ロシアは特別軍事作戦の名のもとに、ウクライナ侵攻中である)
飛行距離950km / 飛行時間2時間10分
「VLACIVOSTOK AIRLINE」 (機種TU-154 : ツポレフ154)
V/A ウラジオストク航空 #RA-85685 Flight #XF-808
新潟空港 15:40発➡ウラジオストク空港 17:50着 (時差1時間・現地時間18:50)
目の前のツボレフTU-154は、当時の旅客機の中でも、30年以上前のソビエト連邦時代
のモデルを引き継いだロングセラーであり、そのペンシル型胴体後部に三基のエンジン
を搭載したシンプルで洗練された姿を見せていた。
ツポレフ<TU-154> (ウラジオストク航空・ロシア政府提供)
ロシア国旗
この日は、快晴である。
窓から日本海に囲まれた航空母艦の様に見える佐渡島を眺めながら、日本海海戦のZ旗
<ニイタカヤマニノボレ>を回想する間もなく、ユーラシア大陸の峰々が、緑濃く視野
に飛び込んできた。
まさしくロシアは一番近い隣国なのである。
北海道最北端・宗谷岬からサハリン(樺太)の南端までは、わずか43キロである。
対馬と韓国の間は約50キロ、与那国島から台湾東海岸の宣蘭縣蘚澳鎮までは約100キロ
である。
ウラジオストクは、緯度に見ると札幌とほぼ並び、東京よりも札幌に近く、日本から一
番近いヨーロッパへの玄関口である。
日本名<ウラジオストク>は、英名Vladivostok、ロシア語でВладивостокと表記さ
れ、その意味は「東方を征服せよ」・「東方を支配する街」・「東洋の領地」と言われ
る。
ウラジオストクは、ロシアの重要な<東洋の入口>でもある。
ロシアと日本の最初の接点は、1778年(安政7)、慢性的な食料不足に悩んでいた千島
列島のウルップ島でラッコ捕獲事業者が、生活物資を得ようと根室に上陸したことにあ
る。
だが、当時日本は、鎖国政策をとっていいたため松前藩の役人に断られている。
わずか220年程前のことである。
正式には、14年後の 1792 年(寛政4)、ロシア皇帝エカテリーナ2世の国書をたずさえた
一行が、日本の漂流民 大黒屋光太夫らを伴い、軍艦で根室にやってきた。
たずさえてきた国書には、生活物資を日本との交易によって調達したいと書かれてい
た。
これが、日本とロシア政府間の最初の外交接点となった。
18世紀以来、不凍港獲得を目指すロシアの東進政策は、清朝との国境策定を巡って衝突
を続けていた。 1860年、アロー戦争時、清朝と英仏の講和の仲介により、北京条約を
ロシアにとっては、ウラジオストクが冬季も凍結せず、ほぼ年間を通じて使用できる不
凍港であったので、一応念願を達成したことになるが、その後、さらなる南進<朝鮮半
島>に目を向けたため、40年後の日露戦争(1904~5)へとつながっていく。
TU-154というロシア製旅客機には、はじめて乗った。
ボーイングや、エアーバスにしか乗っていない者にとって、TU-154はとても軽量に思
えた。 構造自体や、飛行時のかすかな衝撃波などに特徴が見られたからである。
何故そう思ったのだろうか、旅客機の豪華さに慣れた者にとって、ロシア製の質素さに
まず驚き、かすかな不安がよぎったからかも知れない。
宇宙船を飛ばした国ロシア(旧ソ連)、しかしどこか謎めいた神秘性を残したロシ
ア・・・まだ見ぬロシアに夢を大きくふくらましながらウラジオストクに近づいた。
ツポレフTU-154は、無事飛び続け、多くの旧日本軍捕虜が抑留されたシベリアの玄関
口でもあるウラジオストクに、定刻の現地時間18:50に着陸した。
空港の奥の方に、四発のターボジェットエンジンを持った核弾搭載型戦略爆撃機と思わ
れる姿が遠望できた。ウラジオストクは、日本はじめ、極東全体をにらむロシアの前線
基地でもある。
後でも触れるが、短いウラジオストク滞在中、2度に渡って撮影対象が軍事機密であっ
たからか、尋問とフイルム没収と言うスパイの嫌疑をかけられた。
また、ウラジオストク空港のマークに、10年前に崩壊したソビエト連邦時代の国旗、ハ
ンマーと鎌のシンボルマークが取り除かれておらず、ソビエト連邦からロシアへの回
帰、いや転換期に立っていることを自覚させられた。
ウラジオストク空港にいまだ残るソビエト連邦の赤旗<鎌と槌マーク>
<ガイド、ユージン氏の出迎えでホテルに向かう>
空港を出ると、出迎えのユージン氏の持つカードに名前を見つけた。
彼は、中国語を専攻し、富山を訪問したことがあるとホテルまでの40分、ウラジオスト
クの夜景を見せながら、自己紹介をした。
奥さんと、16歳の息子、10歳の娘との4人家族。 善良そうな中年のロシア人である。
ホテルに着くと、私以外全員中国人なのだろうか、ビジネスマンや商人の甲高い漢語が
飛び交っていた。 あたかも中国の上海かどこかと見まがう光景や、振る舞いにまず驚
かされた。
そういえばウラジオストクは、もともと中国領で<海参崴hai-can-wei>(清王朝時代
の中国名)と言われていたことを思いだした。 イギリスに100年間借款された香港とよ
く似た立場にある国際都市といえる。
ウラジオストク在住の中国人やビジネスマンには、<領土を割譲させられた屈辱的な歴
史を忘れるな>という、怨念があることを知った。
ただ、ソ連軍による北方領土占領時でも見られるように、島民全員の強制離島による占
拠はここウラジオストクでは見られていない。
割譲と不法占拠、ウラジオストクと北方領土では全く意味が異なるという事である。
▼ 9/8~9 ウラジオストク連泊
<ウラジオストク ホテル> @6800円>
VLADIVOSTOK HOTEL (Naberezhnaya str 10)
<ウラジオストク ホテル>は、海<スポーツ湾>が見える高台にあり、市中心部まで
徒歩約10分のところにある。
8階建てのうち、4階が、海外からの旅行客専用に当てられているようで、チェックイ
ンも4階で行われた。
夕食は、ホテル4階にあるスナックバーでとる。
<夕食メニュー> 野菜サラダ(キューリ/トマト/ピーマン/ロシア辛子ソース付)
フライド・カジキ/ライス/コンソメ・スープ 390p(約13US$)
ウラジオストク革命戦士広場にて
<ホテル ウラジオストック>は、中級ホテル、部屋の内装・調度品・アメニティも充
実していた。
テレビでは、ソビエットという統制国家から解放後10年で、自由にパリ・ファッショ
ン・USテニスオープン・英語講座などをみることが出来たのには、目を見張った。
しかし、外に出れば、自由に写真を撮れない不自由さが残っていた。
散策に出かけ、港の見える小高い丘の上から海の風景を撮った時と、港で記念写真を撮
った時、軍港がその方向にあったのでろうか、すぐに憲兵隊が駆け寄り、写真機を取り
上げ、フイルムを抜き去って立ち去った。 どうも、撮影方向に<ロシア太平洋艦隊本
部>と、軍港としての<金角湾>映っていたようである。
<統制から解放への過渡期のロシア>
2001年、このロシア旅行自体、すべての行程表を提出し、すべての行程に監視役と思わ
れるガイドが付いていた。 また、ホテルの各階には、出入りをチェックする要員であ
ろうか、フロア監視員が階段をにらんでいた。
これらの監視制度は、ロシアだけでなく、旧ソビエット連邦に属していた東欧の国々に
も残っていた。
当局としては、旅行者へのサービス提供としているが、こちらは自由旅行への制限・監
視として映ったものである。
この頃の旧ソビエト連邦諸国を旅行すること自体、自由旅行は受け入れられず、すべて
<バケット方式>をとり、旅行社に全行程の時系列のスケジュール表を提出して、旅行
社の指定したホテルに泊まりながら旅行を続けることになる。 旅行者の出入国はじめ
、滞在中のすべてが旅行社を通して、当局に把握されていたといっていい。
ウラジオストクに立ってみて、はじめてソ連の統制時代から、ロシアの解放時代への過
渡期に立合っているという緊張感が伝わって来た。
その監視員としての役割は、旧ソビエット時代の公務員と同じく冷たさを感じた。 た
だ、仕事を離れ一対一になった時の彼らは、人間性を取り戻し、人間愛にあふれた個性
豊かな小市民であったことに、同じ人間としての連帯の情が湧いてきたものである。
しかし、ホテルや旅行社の持つサービス精神にもとづいた西欧世界に見られる自由旅行
のあり様は、ここロシアでは、今しばらく望むことは難しそうである。
■ 9月10日 《シベリア横断鉄道 1日目》
<ウラジオストク散策後、シベリア横断鉄道乗車>
―ウラジオストクは、この旅38000kmの起点であるー
ウラジオストクは、これから始まるシベリア横断鉄道を含む<ロシア横断列車の旅9888㎞>(ウラジオストク➡モスクワ9288km + モスクワ➡ペテルブルグ600km)と、南アフリカ・ケープタウンまでの《二大陸踏破 38000kmの旅》 の起点である。
<金角湾 : Golden Horn Bay> 曇強風 波高し 9℃
シベリア横断鉄道の発車まで時間があり、ウラジオストクの散策を楽しんだ。
ウラジオストク駅前に広がる金角湾に停泊するルーシ号を発見して驚いた。
実は当初、飛行機ではなく富山伏木港よりロシア客船ルーシ号による船旅を楽しむつも
りであった。
しかし、北方四島の漁業権に関する外交問題から、日本政府の寄港拒否によりキャンセ
ルされていた。
ロシアは、近くしてはるか遠い国である現実に、ルーシ号寄港拒否という日本の外交姿
勢の中に感じられた。
富山伏木港より乗船予定であったロシア貨客船 ルーシ号
(金角湾ウラジオストク港にて)
ウラジオストク市内観光に利用したタクシー
<州立博物館付近の風景>
博物館前のアウレツーカヤ通りには、市電が走り、ウラジオストクの古き良き風景を残
している。
博物館の屋上に立つ赤軍兵士の銅像は、10年前の旧ソビエト連邦政権の影をノスタルジ
ックに、いや体質的に残しているように思えた。
古き良き市電の前を、西欧的超ミニが良く似合う若い娘さん達が闊歩する姿に、急速な
西欧化、いや自由化に驚きを隠せなかった。
なぜなら、10年前までのソビエト(共産)圏の地味で抑制された人民服、無味乾燥な服
飾を知っていたからである。
少年期、日本降伏直前まで朝鮮半島の北部におり、ソ連赤軍の南進により、38度線を越
え、南朝鮮への逃避行を経験している。
街角には、老婆による中世的はマッチ売りの屋台風景に出会って、カチューシャ物語を
夢想した。 屋台には、ローソクのほかチューインガムが並んでいた。 いまだ、豊か
さが持たされていない現実に触れたような気がした。
近くの砂浜では、晴天ではあるものの9℃と寒いが、泳ぐ数組の男女が、北国の短い夏
を楽しんでいるようである。 限られた太陽の光をこよなく愛するシベリアの光景であ
る。
ウラジオストクの市電
<強制退去>
今回の旅では、ロシアはじめ東欧の旧ソビエト連邦諸国に滞在するため、社会主義国で
のスパイ活動に間違えられる行動を慎むことに心していたつもりである。
しかし、昨日の私服憲兵隊によるフイルムの抜取り事件で肝に銘じていたが、またまた
海軍ミリタリーポリスのジープに呼び止められ、パスポートのチェックを受け、<軍事
機密エリアに進入しているので、強制的に退去>させられた。 どうも立入禁止地区で
ある「海軍ヤード」に、いつしか迷い込んでいたようである。
<Tahk MC-1> 1938ウラジオストク海事博物館にて <Tahk T-28>1938
<ステパン・マカロフ提督の銅像>
ホテル・ウラジオストクの側にあるスポーツ湾公園に、日本海方面をにらむマカロフ海
軍提督の銅像が立っている。 1904年2月開戦の日露戦争の折、乃木将軍率いる旅順攻
撃隊を撃滅するために、バルチック艦隊をウラジオストクに回航した時の司令官が、マ
カロフ海軍提督である。
日本帝国海軍・連合艦隊司令長官であった東郷平八郎元帥は、1905年日露戦争の日本海
海戦で、マカロフ提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎え撃ち、歴史的大勝利をおさ
めた。
海戦史上、いつも東郷元帥と比較される悲劇の司令官でもある。
マカロフ提督の、言うに言われない日本海に向ける屈辱の眼差しを背に、6泊7日の<
シベリア横断鉄道の旅>の出発地である<ウラジオストク駅>に向かった。
革命戦士広場より州政府庁舎を背に
《シベリア横断鉄道 ロシア号 乗車記》
■ 9月11日 15:37発 <ロシアⅠ号>乗車 (シベリア横断鉄道)
ロシアⅠ号 5号車 コンパートメント#3
<ロシアⅠ号>を牽引する機関車
シベリア横断鉄道の発着駅 <ウラジオストク➡モスクワ 9288㎞>
<ロシアⅠ号客車> 列車番号#022-12330
<モスクワーウラジオストク>
シベリア横断鉄道基点標識 9288㎞ <ウラジオストク駅➡モスクワ駅>
<コンパートメント同室者>
Mrs. R<ミセス・R / R女史>: 1923年生 76歳 ウクライナ・キエフ在・地質
学者、ここでは<ミセス・R>と呼ぶことにする。
第二次大戦中は、赤軍の情報将校として従軍。 終戦後は、日ソ中立条約を破棄し、進
駐した満州・北方領土からの日本軍捕虜の統括本部で、旧日本軍将校の尋問にあたる。
情報・諜報将校として日本共産党の袴田共産党員とも接触していたとのこと。
シベリア横断鉄道沿線にも沢山の旧日本軍捕虜<シベリア抑留>と言われた強制労
働収容所<ラーゲリ>があったと、ミセス・R は説明してくれた。
<シベリア抑留―強制労働収容所>
乗車したシベリア横断鉄道路線には、1964年当時、第2次大戦後、ソ連赤軍によって連
行された旧日本軍将兵の捕虜約60万人がラーゲリ(強制労働所)に収容され、遅れて
いたバム鉄道やシベリア鉄道の設置工事などの強制労働に従事させられ、6万人以上が
死亡したという痛ましい事実があった。
(1946年当時・シベリア抑留者支援・記録センター提供)
日本兵捕虜はかかる有蓋貨物車で施錠の上、輸送された (note.com写真提供)
シベリア横断鉄道乗車前に訪れた舞鶴引揚記念館<ラーゲリ紹介展示>
及び 1946年当時のシベリアからの舞鶴引上げ風景
《シベリア横断鉄道<ロシアⅠ号>列車案内》
・時刻表 : <9/10 15:37 ウラジオストク発➡9/17 16:42 モスクワ着予定>
(▼ 車中泊 6泊7日)
・路線全長 : 9288km <世界最長路線>
・区 間 : ウラジオストク駅 ➡ モスクワ・ヤロスラフスキー駅
・ロシアⅠ号 : 列車番号上り<001> 5号車 コンパートメント#3
・列車編成 : 16両 (食堂車・貨物車を含む、季節により変動あり)
・5号車担当車掌(1名): ミセス・アドブラ
・コンパートメント : ハード・クラス寝台車(二等)・4人用個室
1916年に全線開通したシベリア横断鉄道に、85年後のこの年(2001年)にチャレンジしたことになる。 1904年の日露戦争や、その後の1917年の2月革命を抱えながらシベリヤ横断鉄道は多難なスタートをした。
後に続く、第2シベリア鉄道と言われるバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)敷設には、多くの旧日本軍捕虜が動員<強制労働>され、多くの犠牲者を出している。
<ロシアⅠ号 停車駅/時刻表>
<シベリア横断鉄道 路線図>
シベリア横断鉄道主要停車/通過駅
シベリア横断鉄道 《ロシアⅠ号》
<ハード・クラス(2等)車両案内>
・旅行者専用コンパートメント
ハードクラス(2等) 数車両 9室(4人1室) 1両36名定員
ソフトクラス(1等) 2車両 9室(2人1室) 1両18名定員
・コンパートメントの鍵 : 各コンパートメントは内掛けタイプであり、
コンパートメントを離れる際は車両担当車掌に鍵を掛けてもらう。
・スーツケース : 通常の大きさのスーツケースの場合は下段のベッドを持ち
上げると収納スペースがある。また、上段のベッドの場合はコンパートメント
入り口の上に収納スペースがある。
・乗車に際して : 列車に乗り込む場合、各車両前で出迎えている車掌に切符を
見せ、必ず控えを受取り、下車するまで保管すること。
列車内での支払いは全てルーブルとなるので。事前に細かく両替をしておくこと。
・ベッドシーツ : 寝台ベッドのシーツ代約30ルーブルは、別料金となる。
車掌に支払い、シーツを受とる。
・食堂車、ならびに給湯施設<サモワール> :
ロシアⅠ号の場合、食堂車は中央の9号車に連結されており、途中駅で閉鎖する場合も
あるので注意。
給湯施設<サモワール>は各車両の車掌室の前にあり、24時間自由に利用できる。
給湯施設<サモワール> トイレ
・シャワー、トイレ : 乗客用シャワーはない。ただし、一定の条件で使用できる。
詳細は別項で述べたい。 トイレは、各車両の進行方向の先頭左側にある。
停車駅では施錠される。トイレットペーパー持参のこと。
また、列車内では深夜24時になると消灯するので、懐中電灯があると便利。
シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号> 列車案内
動力車・サモワール(給湯器)・コンパートメント内
Sketched by Sanehisa
15時37分、乗客の夢を乗せた銀河鉄道<シベリア横断鉄道 ロシアⅠ号>は、多くの見
送りを受け、9288km先のモスクワに向かって、ウラジオストク駅を後にした。
<バウチャーによる旅行システム>
この2001年、ソ連崩壊後のロシアを旅行するために採られたシステムが<バウチャー制
>である。
バウチャー制とは、滞在中の全スケジュールと、ルートを決め、旅行社を通じて予約
し、全代金を日本で支払って受取る「予約証明書と支払証明書」のことである。
ロシア旅行中、旅行者はパスポートと共に、この<バウチャー>の必携が、義務付けら
れる。
現在、バウチャー制は、ほとんど廃止されているようだが、当時のロシアは経済基盤を
安定させるため、外貨獲得源として重宝されていた。
バウチャー制は、統制国家で見られる配給制と似ているところがあり、少年時代に経験
した戦時戦後の配給制を懐かしく思い出したものである。
自由を愛するバックパッカーにとってのモットー<規制なく自由に、いかなる場所に、
何時でも旅ができる>に反して、出発前に行き先が決まり、乗る路線も決まり、宿泊先
も決まっているという、出来上がったレールの上に坐っているだけの旅なのである。
この数年後のブータンの旅で<バウチャー制>に出会って、懐かしさを覚えたものであ
る。
でもよく考えてみれば、団体旅行そのものが<バウチャー制>といっていいのである。
2001年当時の旧ソ連を旅するためには、現地旅行社と提携する専門旅行社でしかバウチ
ャーを発行してもらえなかった。 <バウチャー制>は、他方、ソビエト時代の相互監
視制度を受継いでいるように思えた。
<ミセス・R の講話>
シベリア横断鉄道<ロシアⅠ号>に揺られながら、ミセス・R の<ロシア民族の精神や歴史>などについての講話を受けた。
<生命 жизнь> ―トルストイ曰くー
生命についてトルストイは次のように語っている。
―自然・民衆・人類・神の意志という名において、
他への愛によって生きるならば、
死はもはやその人においては、
幸福と生命の中絶とは思われなくなる。
そして、死は永遠の生を維持する。―
<プラストール Пластолл> ―ロシア民族のこころー
「プラストール」というロシア語は、「広大なる土地」や、「自由」の広がりを示す
<ロシア人の心象風景>を言い表している言葉であるという。
流れ去るシベリアの大平原にぴったり当てはまるではないか。
また、プラストールのいう「自由」とは、あまりに広大なる土地がゆえに、
この国をどうにかしようとする野心をおこさせる自由ではなく、
広大なる土地に埋没する自由を愛し、
日常の平凡なるわずらわしさを忘れる自由を感じてさせてくれる平和的・牧歌的・
厭世的な言葉として使われていると、ミセス・Rはおっしゃる。
シベリア横断鉄道に乗り、車窓から見る数日間にわたるロシアの広大な平原は、どこま
でも無限に続いているのではないかと言う錯覚に落ちてしまうのである。 ミセス・R の
講話は続く。
<ドルゴチエルペーニエの民 Жители Долгочи Эрпения>
―忍耐・辛抱・農耕の民―
旅した2001年当時、ソ連崩壊時の1990年の1億5000万人をピークの減少に転じたが、
2013年ウクライナのクリミア併合で人口300万を増やしたロシアの人口は、その後2023年までの10年間、平
均1億4000万人超で推移している。
国土面積は、17億ヘクタールで世界一、日本の45倍の面積を持つ資源国・農業国である。
しかし、国土の大半がツンドラ・ステップ気候と言う寒帯・亜寒帯に属し、栽培作物も限られている。
主要農産物は、小麦・大麦等穀物と、てん菜・馬鈴薯・向日葵の種などである。
1990年、ソ連崩壊後国民の購買力低下と国内市場の衰退から、一時その生産量は半減したと言われる。
農民減少の原因は、この<ドルゴチエルペーニエの民>―忍耐・辛抱・農耕の民―から逃れ、都市部への出稼
ぎにあったと、ミセス・R の解説である。
<ロシア帝国の日本への関心>
ー流れゆくシベリアの大地を眺めながら、高校で学んだ日ロの歴史を復習してみたー
鎖国政策の厳しい江戸時代であっても、廻船・漁船の漂流による近隣諸国への漂着はあ
った。 鈴鹿市生まれの大黒屋光大夫(31歳)が、1782年三重の白子浜を出航し、嵐の
ためカムチャッカの小さい島に漂着、1784年にロシアに渡り、ペテルブルグで日本語学
校を開設し、エカテリーナ女帝にも謁見を許され、帰国を直訴した。
1792(寛政4年)、日本との交易を求める使節アダム・クラスマンと共に、根室に帰り着く。
その後、1804(文化元年 江戸時代) 徳川家斉の治世にアレクサンドル一世の親書を
もってレザーノフが公式に日本を訪問している。
ロシアを見てきた最初の日本人として、将軍や老中の質疑にも的確に答えたが、鎖国政
策を守る幕府は、光大夫を危険人物として江戸番町の薬園に居宅を与え、幽閉してしま
った。
レールモントフは、祖国の自然、ロシアの広大な自然を愛し、その愛を高らかに謳いあげていると、ミセス・R が紹介してくれた。
『祖国 レールモントフ』
わたしは祖国を愛しているが、それはふしぎな愛によってである
わたしも理性もこの愛を打ち負かせない
血であがなわれた栄光も
尊大な信頼の心でみたされた安らぎも
さだかでないいにしえの伝えごとも
わたしの心の中に喜ばしい想いをかきたててはくれない
けれども、なぜか知らぬが、わたしは愛する
その大草原の冷たい沈黙を
その広漠たる森林のゆらぐさまを
大海にも似た河の満々たる水を・・・・・
<ロシア人の季節感>
ロシアの大地では、春の雪解けを待って農耕の作業が始まり、霜を見るころに農機具を
納屋におさめて、長い冬将軍を迎え、短期間に農作業の労働を集中させ、緊張から安ら
ぎの長い冬を迎えるという。
極端から極端へと変わる季節の移り変わりと共にロシア農民は生涯を過ごすのだと、ミ
セス・R は悲しげにロシア農民の一生を説明してくれた。
車窓から見るシベリアの農家の地味な存在にその一生を見る思いであった。
<ナロードに見るロシア人>
ミセス・R の言う、貧しいロシアの農民は、ロシアの歴史の根本をなす農民運動に行き
着いている。
1860~70年にかけてロシアで起こった社会運動<ナロードニキ運動>は、農民の啓蒙と
革命運動への組織化により帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎にした新社会建設を
目指したという。
そして、最終的に1917年の<ロシア革命>を誘発したのだという。
ロシアの主人公は<ナロード>、すなわち人民であり、農民であると・・・
そして、有名な箴言<メメント・モリ>を一言残して、ミセス・R の講話は終った。
<メメント・モリ memento mori> ラテン語の警句
―死を思えば、汝も死すべき身であることを想起せよ―
<メメント・モリ>とは、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」・
「死を想え」という箴言である。
シベリアの大地に浸っていると、生きとして生きるもの、人間を含めた動物たち、木や
植物は、静かに美しく魂を残して消えていく、いや死んでいくことに気づく。
ミセス・R の最後の言葉、<メメント・モリ>(死を想え) がこころの中に深く沈んでい
った。
天命が<死をとおして悠久なる命を継ぐ>ことにあることをシベリアの大地は、確信さ
せてくれるのである。
しかし、ロシアの農民は何時も権力者に搾取されているにもかかわらず、何時の時代も
その権力者に搾取され続けていることになれてしまっているように思えてならない。
その方が、抵抗するよりも、生きやすく平和であることを知ってしまったと云える。
大多数のシベリアの農民が貧しいことは、シベリヤ横断鉄道の7日間の車窓から、また
停車するプラットホームに露店を出す農民の姿や農産品を見ても、その貧困さを見てと
れる。
ロシア版シベリア横断鉄道路線図
<同志 ミセス・R >
私は今、<銀河鉄道 ロシアⅠ号>に乗って、モスクワ星に向かっているのだ。
同じ列車、コンパートメントには、旧ソ連赤軍の情報将校、それも日本捕虜の将校尋問
担当であったミセス・R が、モスクワまでのメーテル役として、またパートナーとして
一緒である。
彼女の父は、貨物船の船長として世界中を巡り、なかでも日本に憧れ、神戸・横浜には
何度も訪れ、お土産や、絵葉書を子供だった彼女に送ってくれたという。
彼女は、大の日本びいきで、モスクワへの7日間、その知日派としての親しみを持って
接してくれた。 また、ロシアの現状・歴史について講話と言う形で、多くのことを語
ってくれた。
(ここでは、2023年現在ロシアによる特別軍事作戦中、ウクライナ侵攻中を考慮し、
差しさわりのない話だけを載せることを了承願いたい)
一方、誇りあるソビエット赤軍の元将校としてのプライドと威厳を最後まで持ち続け、
崩すことがなかった。
ソ連崩壊から10年を過ぎていたこの旅でも、元将校としての勲章を、誇らしく胸に飾っ
ていたのが印象的であった。 先にも述べたが、彼女は鉱物学者である。
シベリア横断鉄道から見る広大な大地に何を思い描いていたことであろうか・・・
後日送られてきた同志ミセス・R の勇姿(80歳・イスラエルにて)
◎1日目 17:00頃 <ウスリースク駅停車>
(ウラジオストクより118㎞ / モスクワへ9170㎞)
当初、シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号>は、大きな拠点駅だけに停まるものと思ってい
たが、小さな駅にも貨物や郵便物、列車交換・切り離しで停車することが分かった。
時々停まってくれるので運動不足の乗客にとっては、絶好の散策時間となる。こちらは
わずかな停車時間を、ホーム沿いの野草の採集や、スケッチ、物売りを物色したりと忙
しい。
ただ、この当時、駅での写真を撮るのは、ウラジオストクでの教訓を生かし、出来る限
りの撮影を控えた。
このシベリア横断鉄道紀行記で、写真の少ないことにお気づきのことだと思う。代わり
に、出来る限りノートに挿し絵、スケッチを画くことにした。
最初の停車駅ともあって、<ウスリースク駅>では、沢山の人々が手荷物を持って列車
に乗り込んできた。
世界地図を見るとよくわかるが、ウラジオストク駅を出たシベリア横断鉄道は西に向か
うのではなく、最初北に向かうのである。 その理由は、ハバロフスクより南下するウ
スリー川が中国との国境であり、欲しかった満州をロシアが手に入れることが出来なか
ったからである。
シベリア鉄道は、まずシベリアをハバロフスクに向かって約800㎞北上する。
もし、ウラジオストク駅を出て、バイカル湖近くのウラン・ウデンに出られたら、現在
のシベリア横断鉄道は、随分と短縮できたに違いない。
ロシアにとって旧満州占拠・帰属は長年の夢であった。
シベリア横断鉄道最初に停車した<ウスリースク駅>
プラットフォームの物売り風景
◎1日目 19:00頃 <シビルツブエ駅>停車
<ウラジオストクより180㎞ / モスクワへ9108㎞>
シベリア鉄道は、地方都市の駅にも止まり、野菜や穀物、荷物や郵便物を荷下ろしする
ようだ。
ここシビルツブエ駅でも、地元のおばさんやおじさん達が蒸かしポテトや、トマト、ペ
ットボトルを窓越しに売り歩いたり、ホームに商品を並べ、青空市場が出現する。
<垂れ流し、だが一見水洗トイレ>
列車は駅に停車する度に、車掌によってトイレは鍵が掛けられ、使用できなくなる。
水洗式垂れ流しトイレとは、一応便器に水を張り(押上方式)、用を足し、それを線路
に向かって垂れ流すのである。
垂れ流しによる駅構内の線路上の汚物、衛生面を考慮してのトイレ使用禁止である。
日本でも新幹線開通以前の列車の便所は、垂れ流し(当時は便器から走り去る線路が見
えていた)というより、車速により空中に霧散させるという非衛生的な処分の仕方であ
った。
笑い話になるが、学生時代(1960年代)に日本アルプスに登山に出掛けた時には、夜行
列車に揺れ、涼しい風を浴びながら駅弁を食べていると、細かい霧が窓から吹き込み、
顔や弁当にかかったものである。
今から思うと、のんびりした世の中であった。
人糞が、作物の肥料であった時代であることを思うと、逆に健康的・科学的であったか
も知れない。
<シャワー>は、使用代を車掌に払えば、使用できるらしい。 やはり水圧が低く、わず
かな水量でのシャワーは難しいとのこと。 われわれの車両では、乗車期間中、利用す
る乗客を見かけることはなかった。
こちらは、バックパッカーである。 シャワー無しには慣れているので、ロシア号のシャ
ワーは使わず、身体の清潔を自分なりの方法<濡れタオルでの体拭き>で保った。
■ 9月11日 《シベリア横断鉄道2日目》 (車内15℃/外気6℃)
◎ 2日目 05:46 <ベロゴルスク駅>停車
(ウラジオストクより1453㎞/モスクワへ7835/km)
<シベリアのニューヨークと言われるべロゴルスク市>
北に向かっていたロシアⅠ号は、ハバロフスクから西方に頭を向けたようである。
東からの夜明けが、列車後方から始まったからである。
後方より射すオレンジ色の炎を背に、列車が吸い込まれるように、シベリアの大平原を
滑りぬけていく。 淡い空に残影を見せるオリオン座が進行方向に向かって、左手(南
側)地平近くに消え去りそうな姿に、何とも言えない感動を覚えた。
《オリオンを 手に獲りて観る 近き冬》 實久
―おりおんを てにとりてみる ちかくふゆ―
シベリア横断鉄道2日目 早朝のぺロゴルスク駅はいまだ暗く、少し寒気を感じた。
停車に気づかないコンパートメントからは、ロシア人のいびきの大合唱である。
乗降は、ほとんどがアジア系ロシア人、中国や朝鮮半島から出稼ぎに来て居ついたので
あろうか、それとも強制的に連れてこられたのであろうか。
すこし控えめな接し方が気になった。
長めの停車、トイレは鍵を掛けられ、プラットホームに出て運動を兼ねて散策、青空売
店で朝食や果物を購入、スケッチを楽しんだ。
少数乗客であるロシア人ミセス・R と肩を並べて英語でおしゃべりしているのだから、
不思議な取り合わせのように見られたものである。
ここは、トルストイが神と共に生き、ドフトエスキーが労働をとおして神に出会ったロ
シアの地である。
その大地に、その時の冷たさに、その時の太陽が輝き、空はどこまでも深く、緑に満ち
た緑の大地が、この目の前に広がっていた。
至福の時間が静かに流れいく・・・。
欧米や、日本では人間によって大地はコントロールされ、たえず自然と戦わなければな
らない。
シベリアの大地は、自然が人間を支配し、自然との共存の営みのなかに、ロシア人のロ
マンが潜んでいるように感じられた。 なぜなら、ここはモスクワでもなく、もちろん
ヨーロッパの入口である大都会サンクトペテルブルグでもない。シベリアの農民からは
土の匂いが皺にまで染みわたっているからである。
ここには、時間の流れが滔々と流れているのを見てとることができる。
一人のピーマン売りのお婆さんに、その姿を見つけ、許しを得てスケッチさせてもらっ
た。
《白菜の シベリア顔や 皺きざみ》 實久
―はくさいの しべりあのかおや しわきざみ―
<べロゴルスクーでピーマンを売るシベリアの老婆>
Sketched by Sanehisa Goto
我らを乗せシベリアを横断する動力車
ぺロゴルスク駅にて
ぺロゴルスクー市は、1860年に入植が開始され、市民は<シベリアのニューヨーク>と
呼び、屈託のない笑い声をシベリア大草原に放っていた。
シベリア横断列車は、シベリアの大地に線路の軋みをしみ込ませながら、シベリアの風
を切り、ただただシベリアの大平原を走り続けている。
“タンタンタンターンターン・ドットトレドットトト・・・”
ピアノの旋律が、こころに広がり、宇宙に広がり、ここシベリアの大地に響くように聴
こえている。
同室のミセス・R は、老眼鏡をかけドフトエスキーの<カラマーゾフの兄弟>を読書中
である。
わたしは音楽を聴きながら、グレビアル駅で採集し、押し葉にしたシベリアの草たちを
スケッチし始めた。
トイレに立つときは、ながい汽車旅のこと、15分程、通路でリフレシュを兼ね、軽い体
操をすることにしていた。
片脚づつ直角に200回上げ、つま先立ち50回、手すりで腕立て100回、スクワット100回
と、行き交う乗客に奇妙な目で見られながら・・・これまたシベリア横断鉄道の想い出
の1頁である。(後半は、喫煙者のいない喫煙室でのリフレッシュに変更)
<バックパッカー流シベリア横断列車での食事メニュー>
07:00 朝食 携行食 <ビスケット・チーズ・ピーナツ・柿の種・ドライナッツ・コーヒー>
12:00 昼食 簡易食 <インスタントラーメン・プルーン・わかめスープ>
匂いを気にする同室者Mrs.ユートミラーにもお裾分けし、口封じ作戦
18:00 夕食 自家製 <干飯―ほしいい・五目乾燥野菜・鮭缶詰・味噌スープ>
もちろん、食堂車もあり、ロシア料理やウオッカを堪能することができる。 ただし、
お客がある時だけの開店もあるので注意。
今回は、38000km、約3か月のバックパックの旅、食事は可能な限りレストラン食を
避け、現地での購入食材や、インスタント食で乗り切ることにしているからである。
なぜなら、この旅では、砂漠地帯有、戦闘地域あり、アフリカの貧困地帯や食旅調達を
見込めないエリアを旅しなければならない。 その準備・訓練を兼ねて、粗食に慣れ、
飲料の節水に慣れなければならないのである。
そして、長期のシャワー無しの旅に対処するための準備・訓練をこの汽車旅行で行うこ
とにしているからである。
<ミセス・R の日本史観>
ミセス・R については、先に旧ソビエット連邦赤軍の情報将校であり、シベリア抑留の
旧日本軍捕虜の尋問にあたっていたと紹介した。
彼女の亡き父親は、貨客船の船長をしており、日本の横浜港や神戸港に航海ごとに寄港
し、日本をくまなく歩きまわったほどの親日家であったということも書いた。
特に天皇制や、武士道に傾倒し、日本からキエフ(ウクライナの首都)の留守宅へ、日
本の風景や風俗を紹介する絵葉書を送ってきたという。
<万歳・腹切・エンペラ・武士道・侘び寂・茶道・芸者・富士山・アイヌ・・・>と、
父親譲りの日本観を聞かせてくれた。
赤軍をリタイアするまで、接していた捕虜の旧日本軍将兵からも、多くの日本人の物の
見方や、考え方を学んだようで、まるで日本史観の講義を彷彿とさせたものである。
彼女の専門であった赤軍での情報将校の立場からも、当時の旧日本軍捕虜の収容所内や
釈放後の思考や行動についても語ってくれた。
沢山の旧日本兵が、釈放後、ロシア人と結婚し、ロシアに永住していることを知ってい
るという。
そうせざる終えない日本軍の捕虜に対する考え方<皇軍は決して降伏し、虜囚の辱めを
受けてならない>。 日本軍は降伏前に自決することを教えられていたという。
捕虜となった真面目な一部の旧日本軍将兵は、家族とも再会を拒み、虜囚の身であった
ことを恥じたという。
今なお、高齢に達した旧日本将兵が、ロシアという異国の地で愛する人や家族を想いな
がら過ごしていることに想いを馳せるべきだと、女史は悲しげに語ってくれた。
サモアールのお湯、そのお湯の有難さを綴ったシベリア抑留記に何度出会ったことか。
厳冬の強制労働に立ち向かった捕虜の命を救ったのが、収容所の各棟にあったこの<サ
モアール:給湯器>であったという。
約60年前のシベリア抑留旧日本軍兵士が厳冬の重労働のあとサモアールに命の光を見た
であろうことを思いつつ、食事時に世話になった車両に備え付けのサモアールに対し慈
愛の眼差しで接したものである。
サモアールは、24時間休むことなく湯を沸かし続けてくれるのである。 それは昔も今
も、そうシベリアでの捕虜収容所でもサモワールは、旧兵士に帰国と言う夢と希望を与
え続けたのである。
シベリアでは、サモアール無くして生きていけないことを知った。
ロシアⅠ号の車両に備え付けられたサモアールの前に立って、ここが強制労働所でない
ことに平和の尊さを感じるとともに、この地シベリアで60万近くの同胞が、飢餓のもと
強制的に重労働を強いられ、6万人という多くの犠牲者を出したことを思い起こした。
厳冬のシベリアの命の光 給湯器<サモアール>
◎2日目 13:25 <アルハル駅>停車
(ウラジオストクより1238㎞/モスクワへ8050㎞)
赤毛の女駅員が、乗降者をウオッチ(監視)しているように見えて、一瞬戦慄が走っ
た。 鍵を駈けられた貨車に、積み込まれた旧日本軍将兵を、貨車の隙間から覗き見た
監視の赤軍の兵士のように見えたからである。
シベリア横断鉄道<ロシアⅠ号>は、一日中、白樺の大平原を走り続けている。 シベリ
アの強制収容所へ送られていることを告げられていない捕虜となった旧日本軍将兵は、
不安に苛まれていたに違いない。 いや、不安の中にもかすかな希望を、この大平原の白
樺林に求めていたかもしれない。
―しらかばの ばれりーなとぶ ばいかるこー
バイカル湖畔を彩る白樺林
車窓を飾るシベリアの白樺林
Sketched by Sanehisa Goto
<ミセス・R 談>
当時24歳と言う若き旧ソビエット赤軍情報将校であった彼女は、旧日本軍捕虜の尋問に
関わっていただけあって、<リヒャルト ゾルゲ・日本共産党袴田里見・裕仁天皇>につ
いての女史なりの見識を持っていた。
列車に揺れながら、日本の無条件降伏前後の国際情勢や、捕虜をシベリア開発に投入す
るとともに赤軍のシンパに育成する過程について話聞かせてくれたものである。
さらに、尾崎秀実らと共謀し、日本軍の対ソ戦略の情報を集めていたソ連のスパイ・ゾ
ルゲの的確な報告は、スターリンを喜ばせ、信望を得ていたという。
また、日本共産党の袴田里見は、21歳でソ連に渡り、モスクワのクートヴェ(東方勤
労者共産大学)に学び、コミンテルンに賛同して、日本共産党を再建し、世界共産革命
に献身した同志であったこと、当時戦勝国であったソビエトは、日本の降伏宣言を発し
た裕仁天皇の責任追及を厳しくすべきだとする方針を決定していたことなどを回顧しつ
つ、列車の揺れをも楽しみながら、ゆっくりと話を聞かせてくれた。
これがわずか10年前であれば、彼女はソビエト連邦の機密を東洋人にもらした罪で罰せ
られたことであろう。 しかしソ連が崩壊し、こうして語り合える自由を、ここロシアの
地シベリアで味わえていることに驚きを禁じ得なかった。
コンパートメントと言う個室で、二人だけの旅という<自由なる空間>を彼女は、心か
ら愛していたようだ。
(ここでは残念だが、旅行後に送られてきた旅先での写真以外、ミセス・R の顔写真や、名前を伏せさせてもらっていることをご了承願いたい)
◎ 2日目 21:06 <トゥイグダ駅> 停車中である
<ウラジオストクより1760km/モスクワへ7528km>
■ 9月12日 <シベリア横断鉄道 3日目>
(トゥイグダ駅➔チタ間 1324km)
◎ 3日目 07:25 <アマザル駅>停車
(ウラジオストクより2319㎞ / モスクワへ6974km)
モスクワに向かっての進行方向、右手にアムール川(黒竜江)に合流するシルカ川が
、シベリア鉄道と並行して流れている。 シベリア横断鉄道は、ここでアムール
(R.Amur)を離れ、シルカ川(R.Silka)沿いに大都市チタ(Chita)に向かう。
ロシアⅠ号はAmur(アムール)河を離れ、Shilka(シルカ)川沿いにChita(チタ)に向かう
シベリアの夜がゆっくりと明けていく。
黄色に染まった白樺林が、徐々にその美しい立ち姿を見せ、シベリアの秋の風景を見せ
始めた。
朝もやに、流れ行く白樺林、シベリアの美しさを切り取った額縁である車窓を、いつま
でも飽きることなく見入った。
<シベリアの大地を眺めながら>
シベリア横断鉄道に揺れながら、広大な湿原や大平原の流れゆく様を眺めていると、つ
ぎつぎと日ごろ忘れ去っていることが頭に浮かんでくるのである。
人間の行いや、人間に与えられる災害や苦難、悲しみや忍耐、そして生きていくうえで
与えられるすべての行為や感情が、《神を識る》ことによって与えられているように思
える。
おのれが行うのでも、対処するのでもなく、神がなさしめていることに気づかされるの
である。
コンパートメントでは、時間を見つけては、停車駅で出会って、観察した野草や花、動
物の名前や、過ぎ行くシベリアの樹々の名前をミセス・R に教えてもらった。
・アラヒス/арахис/落花生
・カーシャ/тыква/南瓜
・クラン/кран/鶴
・クリズンテーマ/хризантема/菊
・ベレヤベローザ/белая берёза/白樺
・ソスナ/сосна/松
・ケデュル/Кедр/杉
・スビニャー/свинья/豚
1937~38年にソ連軍高官に対する裁判が非公開でとり行なわれ,多くの軍人が処刑された。
共産世界で行われた一種の権力闘争であって、<見世物裁判、見せしめ裁判、粛清裁判
>と呼ばれた一種の《人民裁判》によって、人民の敵として処刑してしまう、大粛清が
行われたという。
人民裁判とは、共産主義国家における政敵や、階級闘争・反体制派の粛清、占領地の人
的浄化を行う一種のリンチである。 少年時代に見た、朝鮮戦争下における北朝鮮軍の
とった占領地における統治方法でもあった。
一方、スパイとして裁判も行われずに逮捕、銃殺されたり、収容所に送られ姿を消され
たソ連高官、いやスターリンの気に食わない、敵対する、反対意見を言うもの達が、暗
殺されていった。
(2023年現在のロシアにおける権力闘争や体質も又、病死・暗殺・自殺・投獄による不審な死がつづくのと
なんら変わりはなかったようだ。どうもロシアと言う国、いやロシア人の体質と言えるのかもしれない。)
そこにはスターリンの神格化の推進と、反対派の殲滅にあった。
この間、逮捕者250万。 その内、処刑68万人、獄死16万人の計84万人という反体制派
を根こそぎ消し去ったという。
話し終えて、「権力闘争や、戦争はすべきでない」と・・・一言。
しかし、現在、世界の至る所で内戦がおこり、宗教戦争が絶えず、独裁者による歴史の
復活を目論むなど、痛ましい状況が続いていることを嘆きつつ、深く息をしながらミセ
ス・R は話をおえた。
多分、コンパートメントと言う密室で、それも一介の東洋人、いや日本人であるわたし
を信じ、忌まわしいソビエト時代の恐怖を語ってくれたのであろうと思う。
私もまた、1945年8月の終戦時、ソビエット赤軍の南下に伴い、両親の赴任先である北
朝鮮(現 朝鮮民主主義人民共和国)から、命からがら、朝鮮半島を二分する中間線<
38度線>を越えて、南朝鮮(現大韓民国)ソウルへ避難民として越境していた。
そこで見た<朝鮮戦争>の北朝鮮共産軍による、人民裁判という恐怖統治を子供ながら
経験していたので、ミセス・R の話が、ダイレクトに伝わってきたものである。
(2011年、88歳の生涯を、故郷であるウクライナの首都 キエフ(現キーウ)で、静かに旧ソビエト連邦時代を知る一人のウクライナ人が、波乱の一生を閉じたという連絡が入った。ご冥福をお祈りしたい)
(あれから20数年が過ぎ、鬼籍の人となった女史を弔いながら、懐かしく想いだすのである。それも女史が愛
するロシアが、女史の母国であるウクライナに対して、<ウクライナはロシア領だ>と主張し、攻め込んでい
るのだから歴史は繰り返すものだと実感している)
◎3日目 09:45 <チェルヌイシェフスク・ザバイカリスキー駅>停車
<ウラジオストクより2733km / モスクワへ6555km>
<ロシア人乗客に見る食事考>
食事時間になると、大半の乗客は、持ち込んだ食材をホーロー鍋やカップに入れて、サ
モワール(給湯器)に列をなす。
果物類や、茹でジャガイモ、黒パン、ソーセージ、ヨーグルト、ゆで卵、茶葉、クッキ
ーなどが彼らの主なる食料である。 この他に、必要なものや不足分は、各停車駅の青
空屋台で、生野菜・果物・ピロシキ・茹でジャガイモ・トウモロコシ・パン類を購入し
ている。
私の今日の昼食メニューである醤油味のインスタントラーメン、クッキー、乾燥ナッ
ツ、紅茶と比べてみても、庶民的であり、バックパッカー風食材であり、メニューで
ある。
どこか戦後の和気あいあいとした夜汽車の食事風景を思い出していた。
7日間通して同じ列車で旅を続けるのは、今回が初めてである。
シベリア横断列車のなんと庶民的で、牧歌的であることか、これこそロシア的鉄道旅行
と言えようか・・・
かえって貧乏旅行をしているバックパッカーにとっては居心地の良い乗客たちであり、
列車であった。
もちろんシベリア横断列車で、シャンパンを持込み、キャビアを楽しんだり、食堂車で
ロシア料理にウオッカを楽しむことも出来ることも記しておきたい。
<シベリア横断鉄道7日間の携帯食料リスト> (資料)
Blue Russian Cat
シルカ駅にて
Sketched by Sanehisa Goto
<広大なシベリアに想う>
シベリアの大平原を見ていると、この広大な領土を戦争により占拠することは不可能に
近いと云える。
ロシアは、永遠に滅亡することはないのだろうか。
初期のロシアは、サンクトペテルブルクを中心に小さな帝国であったのが、不凍港を求
めて東進しながら領土を拡張し、大帝国を築いてきた。
ローマ帝国や、オスマントルコが滅亡したように、このロシアという大帝国が消滅した
ら、どれだけの多くの国家が誕生し、解放された少数民族が喜ぶことだろうか、世界史
の今後を考えてしまった。
ロシア帝国に帰属させられてきた広大な土地は、ほとんど手つかずにある。
このような土地が、この地球上にいまだ放置されていることに不思議さを覚えた。
なぜ、他民族やアフリカなど全世界からの移民や避難民を迎え入れて開拓しないのだろ
うか。
ところどころに棚引く煙は、貧しい農民の家からのものであろうか、貧乏にあえいでい
る姿が、頭によぎった。
灰色に沈む農家では、ドフトエスキー的な<写実的ヒューマニズムを見つめながらの生
活>が、またトルストイ的な<神と共に歩む生活>が営まれているのではないかと想像
した。
《秋寂し ここは地の果て ロシアかな》 實久
―あきさびし ここはちのはれ ろしあかな―
《 濡れダリヤ 雨を纏いて 冬支度 》 實久
―ぬれだりあ あめをまといて ふゆじたく―
車窓から、つぎつぎ途切れることなくつづく大草原、白樺林、大湿原を楽しみながら、
ミセス・R と食堂車で仕入れたロシアン・ビール<NETPOBCKOE / ネットポブコー>
で、シベリアに乾杯し、のどを潤した。
ほろ酔いしながら、ラベルのコサック兵が馬に跨り、列車ロシア号を襲ってくる様を思
い描いてみた。
湿原地帯 ウランウド駅付近
ロシアン・ビール<NETPOBCKOE / ネットポブコー>
シベリアの大自然は、穏やかで、母性的で、気品すら漂わせ、悠然としている。
そして純で、美しい。
神の力を感じる、わたしの好きな風景である。
しかし、そこに住み着いた人たちは、なんと貧しく、色あせた生活の中に沈んでいるこ
とか・・・
仮の住まいでもあるまいに、なんの装飾もまく、一片のペンキの色さえ認められない貧
しい家・・・
ただただ、腐り、滅びゆく色と言うか、朽ちていく色である。
<シベリアの農民>
シべリアをおおっている大自然の美しさに比べ、人間は何故このような無神経な家に住
み、貧しい生活に甘んじているのであろうか。
農民の自立心の欠如からなのか、それとも農奴制解放から農民世帯の収入が悪化し、出
稼ぎによる副業収入を求めざるを得なくなり、働き手が都市部にとられたためか・・・
いずれにしても、政治の貧困が深く根差しているような気がした。
シベリアの農民すべてが、この大自然の中で幸せを享受して欲しいと願った。
<日本の歌謡曲に聴き入るミセス・R>
父親が、大の日本ファンであっただけあって、ミセス・R も日本の童謡に慣れ親しんだ
そうである。 持参したテレコから流れる美空ひばりの歌謡曲に、レシーバを離すことなく夢中に聴き入っていた。
本人はプッシーニのトスカがお気に入りだとおっしゃる・・・ 素敵なキエフ(現キーウ)出身のウクライナ老婦人との同室に感謝した。
<汚れなきシベリアの大自然>
もし天国に行けたら、多分シベリアのような無垢な自然なる景色を見るであろう。
天国のようなシベリアの大自然を、人間と言う汚れた生き物が、不釣り合いな小屋や慣
習で自然破壊を繰り返す様は、滑稽でもある。
自然を征服したであろう人間が、一番醜い存在として、夜空に美しく輝く星空のもと、
モラルを失っていく姿に悲しみを隠し得なかった。
汚れなきシベリアの大自然が失われるとき、人類は滅亡へと向かうであろう。
それも近い将来に起こりくるように思えた。
しかし、シベリアの夜は、星が輝き、実に美しい。
次のチタ駅からは、<ザバイカリスク>-国境―<満洲里/マンチョウリ>経由で、中
国<興安嶺/シンアンリン>行の列車がでると、女史が教えてくれた。
ロシア帝国が夢に描き、満州占拠によるウラジオストクへの最短列車路線を敷設したか
った路線である。 現在、乗車しているシベリア横断鉄道は、先でも述べたがハバロフス
ク経由、北へ向かっての迂回路線である。
■ 9月13日 <シベリア横断鉄道 4日目>
(チタ ➡ イルクーツク間 1013㎞)
◎4日目 00:00 <チタ駅>停車
(ウラジオストクより3084km / モスクワへ6204km)
<チタ/Чита II/CHITA>
真夜中、ミセス・R にチタに停車していると、爆睡中に起された。
まず、写真を撮りに車外、プラットホームへ走った。
チタが、シベリアの臍にあたるところであり、漠然と何かを期待していたのである。
19世紀に入って、ロシア革命のもとになった皇帝の即位に反対するロシア高官たち<デ
カプリスト集団=12月集団>の反逆者の流刑地となり、彼らを中心に<チタ共和国>が
設立された首都チタは、人口30万人ほどの中堅都市であり、車両工場のあるシベリアの
交通の要所である。
チタからは、ロシアが敷設した鉄路が、チチハル経由ハルピンまで延びており、日本統
治時代の満州国の主要路線でもあった。
ここチタは、1918年9月、ロシア革命後の<シベリア出兵>により派遣された日本軍が
一時占拠し、駐屯したことがある。
また、終戦時の1945年以降、シベリア抑留による日本兵捕虜による鉄道建設に酷使され
た中心地でもある。
<ソ連、日本に宣戦布告> (ミセス・R 談)
女史は、1945年8月6日、モスクワを出発し、ウケベー(インタールーデ内務省特班)
の同志(コムラッド)5人と共に、シベリア鉄道SSLに乗り、終戦記念旅行としてウラ
ジオストクへ向かう途中、8月9日<ソ連、日本に宣戦布告>のニュースが伝えられたと
いう。
旅行中、8月6日の広島ウラン型原爆投下、8月9日プルトニウム型長崎原爆投下、ソ連不
可侵条約を破棄し対日参戦、8月15日天皇による<終戦の詔書>による敗戦受託と歴史
の瞬間に立合った、と話は続く・・・
また、日本へ脱出するため列車に隠れ乗っていた2人の日本人外交官(大使館員)が、
ここチタあたりでソビエト内務班外事課のスパイ摘発班に連行されて、下車させられて
いるのも目撃したと。
歴史講話を聴きながら、車窓から見るタイガー・ツンドラ地帯の風景を追っていた。
タイガー地帯は針葉樹林の海原であり、ツンドラ地帯は永遠の不毛地帯を表現してい
た。
ここは無限に広がると思われるシベリアの地なのである。
不毛地帯で繰り広げられる人間のドラマは、不思議な物語でもある。
チタを出たロシア号は次駅、ペトロフスキー・ザヴォート駅に停まった。
この間も、ミセス・R の講話は続く。
窓からはきれいな星空が広がっている。
しかし、長時間の講話に、こちらも耐えながら立ち向かっていたが、いかんせんこちら
は眠くて仕方がない。 しかし、女史は、旧情報将校らしく、姿勢を正し、赤軍の歴史
や、旧日本軍将校に聴取した歴史的伝聞を詳細にわたって、この日本人に伝えてくれて
いるのである。
果てしないシベリアを、我々を乗せたロシア号は、三日月とオリオン座に見守られ一
路、大熊座の先に眠るモスクワに向かって疾走している。 その振動は、暁に居眠
りしながら講話を聴くわたしに、心地よく伝わって来た。
ウラン・ウデ駅手前のザウディンスキー駅から<ロ蒙中鉄道/モンゴル縦貫鉄道>が、
ウランバートル経由北京方面へ延びている。
(2017年、モンゴルを訪れ、モンゴル縦貫鉄道にも乗ってみた。 また、ゴビ砂漠で野営し、夜空の星たちをスケッチしてきた。その時の<モンゴル縦貫鉄道乗車記>は、2017『星の巡礼 モンゴル紀行』の#1~14に書き残している。)
shiganosato-goto.hatenablog.com
モンゴル縦貫鉄道路線図
モンゴル縦貫鉄道新旧動力車
◎4日目 08:09 <ウラン・ウデ駅> 12分間停車
(ウラジオストクより3641km / モスクワへ5467km)
ウラン・ウデは、人口35万、ブリシャード共和国の首都である。
車窓からの印象は、素朴のなかに貧困が目立つウラン・ウデである。 ロシアの共和制
はどのような仕組みで、市民にどのような福祉を提供しているのであろうかと、興味を
持った。
構内で、行商のお婆さんからバイカル湖産の鮭の一種である<キャッター>(別名バイ
カル・オームリ)を勧められ、購入した。 (@15p/ルーブル)
淡緑と紅色の見事なグラデーションに魅了され、スケッチして見たくなったのである。
何といっても、この幻の鮭がバイカル湖の住人であったことに惹かれた。
また、ウラン・ウデ駅周辺に生えていたシベリアの野草を採集し、ミセス・R に草の名
前を教わりながらスケッチに収めた。
バイカル湖産の鮭の一種である<キャッター>(別名バイカル・オームリ)
Sketched by Sanehisa
オームリ(琵琶湖博物館提供) コンパートメントでスケッチ中
朝食は、スケッチ後のバイカル・オームレイ(鮭の一種)をライ麦パンに乗せて、レモ
ン汁と塩胡椒をふり掛け、シンプルにいただいた。
《 バイカルの サーモン踊りし 朝餉かな 》 實久
―ばいかるの さーもんおどりし あさげかな―
<シベリアの野草>
左・レベダ/キノア(薬草) 上・チエノブリ/ヨモギ 下・クレビアル/クローバー
Sketched by Sanehisa
ウラン・ウデ駅を出たシベリア横断鉄道は、バイカル湖に流れ込むただ一つの川である
<セレンガ川>を渡る。
長旅の場合、いつもの通りだが、体調を保つために就寝時に軟便剤を一錠口に放り込む
ことにしている。
シベリア横断列車では、生野菜や果物が絶対的に不足するから、便通には適時 浣腸も併
用して健康には特に注意した。 トイレには、初日だけトイレットペーパーと洗剤が用意
されていたが、2日目からは準備されず、その都度持参することとなった。
<昼食メニュー>
インスタントラーメン、干ブドウ、乾燥ワカメ、すき焼缶詰を器にぶち込み、サモワールの熱湯を注ぐと、これまた絶品のランチとなった。
◎4日目 16:38 <スリュジャンカ駅>停車
(ウラジオストクより3971km/モスクワへ5317km)
ミセス・R は、バイカル湖特産の<Hot Smoked Fish>を手に入れて、夕食に
するのだと興奮気味である。
女史は、78歳だというのに、80㎏越えの体重をゆすってチャーミングであり、お元気で
ある。
スリュジャンカ駅より労働者二人が乗車、コンパートメントは4人となり賑やかになっ
た。 ここから3時間ほどのイルクーツク駅まで行くのだという。 シベリア横断鉄道で、
この区間だけが4人同室で、純朴なロシア人との同乗と言う素晴らしい経験をさせても
らった。
外は寒いのであろう、防寒服を着用した彼らにくらべTシャツ姿のこちらとは対照的で
ある。
◎4日目 19:15 <イルクーツク駅>停車
(ウラジオストクより4097km / モスクワへ5191km)
イルクーツクは、ウラジオストクを出て、はじめての近代都市であり、人口60万人を擁
するロシア中部最大の都市である。
日本人女性2人と男性1人が下車、この先はロシア号ただ一人の日本人乗客となった。
また、同室のスリュジャンカ駅からの労働者二人も、イルクーツクで下車したので、
女史が手に入れたバイカル湖産の鮭を囲んで夕食をとった。
<4日目夕食 : 乾飯/かれいひ・わかめスープ・鰯オイル缶・バイカル鮭・リンゴ・プルーン・緑茶>
イルクーツクは、石油・天然ガスのコンビナート地帯であり、今まで暗闇を走って来た
シベリア横断列車<ロシアⅠ号>は照明にきらめき、鮮やかなバイカル湖畔に広がる夜
景を見ながら西進、モスクワに向う。
また、シベリア鉄道に沿って延々と続くヨーロッパ向けの輸送管や、すれ違う油送タン
ク車の多さに目を見張った。
資源の開発により、最貧のシベリアにも、光明が訪れているようである。
ロシアの資源外交、特にヨーロッパへの石油・天然ガスの拡大により、より一層の外貨
獲得に励んでいる姿が見られる。
(2023年現在、ロシアによるウクライナ侵攻により、西欧側の禁輸処置で稼働を縮小している)
白樺林越しにバイカル湖を望む
Sketched by Sanehisa Goto
シベリア横断列車で出会ったロシアン・ビール達
Sketched by Sanehisa Goto
■ 9月14日 <シベリア横断鉄道 5日目>
シベリア <インディ・ヤス 村>の夜明け前
シベリヤ横断鉄道通過村
Sketched by Sanehisa Goto
2001/9/14 05:41
◎5日目 07:25 <レショトゥィ駅>停車
(ウラジオストクより4830㎞ / モスクワへ4458km)
ここレショトゥィ駅付近が、シベリア横断鉄道のほぼ中間点である。
東西に走るサヤン山脈のふもとにある小さな村だが、工業地帯が広がり活気に満ちてい
るのに驚かされた。
未開拓の東シベリアより走り続けてきたシベリア横断列車は徐々に文明の灯りに近づい
ているようである。
レショトゥィ駅
◎5日目 08:54 <クラスノヤルスク駅>停車
(ウラジオストクより5184㎞ / モスクワへ4104㎞)
エニセイ川を渡るとシベリア第三の都市であり、人口100万人を抱える工業都市クラス
ノヤルスクに着く。
車窓から<MITSUBISHI>の広告塔が見える。 日本企業が多数進出しているのだ。
石油コンビナート、アルミ、木材の工場群がつづく。
何よりもホッとさせられたのは、建物にカラフルな色<ブルー・グリーン・レッド>が
塗られており、ようやくシベリアを抜け出し、ヨーロッパに近づいていることに気づか
される。
住民の大半は、ロシア人とウクライナ人で占められていると、ウクライナ人のミセス・
R が説明してくれた。 その理由は、スターリン時代にウクライナ人やベラルーシ人を天
然資源の掘削労働力として送り込んだ流刑地であったという。 ロシア国内のニッケ
ル・コバルト・銅の70%以上を産出しているという。
またここにもシベリアに多く点在していた日本兵捕虜収容所<ラーゲリ>の一つ、<ク
ラスノヤルスク収容所>があった。
<シベリア・クラスノヤルスク捕虜収容所>
ハイラルでソ連軍の捕虜となった旧日本軍将兵は、貨物列車に乗せられて降車したのは
ここ<シベリア・クラスノヤルスク収容所>であったという。
この旅の前に、厳しい労働とソ連憲兵との軋轢、日本人捕虜同士の齟齬など、語りきれ
ないほど辛い体験をしたとの抑留体験記に接していた。
ここクラスノヤルスクで、苦しい重労働に命を落とした多くの元将兵の魂を慰めるた
め、持参した日本米と乾燥梅干、仁丹と征露丸をシベリアの水で湿らせ、線香の前に備
え、小林旭の『北帰行』を流し、慰霊の祈りをささげた。
ミセス・R が、かすかに流れる『北帰行』の曲に、ハミングで応えていたのに驚いたも
のである。
ここクラスノヤルスク駅には、20分間の停車である。
小雨のなか、おばちゃん達の物売り籠の中を物色しながら散策、 トマト8個と女史に新
聞<プラウダ>を購入した。
スターリンの肖像画入りのシガレット(タバコ)を見つけて、スケッチする。
ソビエット連邦時代の独裁者で、3000万人ともいわれる反体制派粛清および犠牲者をだ
したと言われるスターリンの亡霊に出会って驚かされるとともに、ソ連崩壊後もなおス
ターリンの人気があることにっ目を見張った。
独裁者スターリンをモチーフとした煙草ケース
Sketched by Sanehisa Goto
<ああわれシベリアにおりて>
詩 後藤實久
わが同胞 長きにわたり ここシベリアの大地に 眠りおりて
家族を想う気持ち 耐えがたき別離に 望郷の念 増しに増す
この世もまた神の国 人はみな神の子と言いつ 殺生やまず
無念の念を法の声に聞こえない 人の浅はかさに 闇夜明かず
ああわれいまシベリアにおりて 無念のうちに斃れし 将兵に
無の風流るるを識りて こころの慰めに 照りし光認めしや
<各車両見て歩きーシベリヤ横断鉄道>
➀ ジョギング・スペースを見つけるー喫煙室
車両間に喫煙室があり、定位置でのジョギングが可能である。
もちろん喫煙者がいないとき、運動不足の体を動かしていた。
車両の通路でもいいのだが、何分狭いことと、通路を走ることに気が
引けるのである。
② 各車両により、同乗者の地域・国別により独特な匂いがするものだ。
ロシア婦人の腋臭の残る車両、面白いことに足に剛毛をもつ婦人ほど、
腋臭も強烈であることである。
インスタントラーメンの匂う車両、バックパッカーか東洋系の乗客が
乗っているとわかる。
強烈なニンニクの匂いが充満した車両、朝鮮系のロシア人なのであろうか、
民族豊かな匂いである。
➂ 一般車両のほかに、ロシア帝政時代を彷彿とさせる豪華な特別車両も連結
していた。
④ 食堂車両は清楚で、落ち着いた雰囲気であった。
こちらはアフリカ希望岬までたどるバックパッカー、写真だけを撮らせて
もらった。(ウオッカ・ワイン・ビールなど飲物は購入可能、利用した)
⑤ 各車両でのアナウンスは、ロシア語だけで、外国からの観光客には不便を
感じると思われる。 こちらは英語が堪能なミセス・R が通訳して
くれたので、快適な旅となった。(2001年当時)
シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号>食堂車
コンパートメントでのバックパッカーの食事風景
<大地に還る>
詩 後藤實久
シベリアの大地 丸みの中に 色づきて うるわし
魅惑の風景に酔いつ ユートピアランドを 駈走す
詩を詠み 揺れに身をまかせ 悠久の時に沈みて
一木一草着飾りし 移りゆく秋化粧を 楽しみおる
いや シベリアの農民の暗さ わが胸を打ち止まず
貧しさに花咲くことなく 自然の美しさに埋没せし
命揺れ シベリアに没す すべての農民を憂いしや
神の創りしこの世界 すべての命 大地に還りしか
寒くなると、このシベリア横断鉄道ロシアⅠ号にも暖房が入る。
9月中旬のシベリア、寒暖計は、車外の温度が零度を示している。
車両の金属部分を触ると手がしびれるのを感じる。
<シベリアで知った9:11事件>
クラスノヤルスク駅で購入した新聞<プラウダ>を、ミセス・R に手渡すと同時に、ニ
ューヨークの貿易センタービルがテロ攻撃を受け、崩壊したと言うではないか。
最初、なぜという疑問が湧き、ニューヨークに20年在住し、見慣れていた貿易センタ
ー・ツインビルに何が起こったのか想像すらできなかった。
プラウダ紙の第一面には、旅客機が貿易センタービルに突っ込み、黒煙が吹き上げてい
る、まさにその一瞬を切り取った写真である。 この写真は、プラットホームで購入時に
目にしていたが、どこかのビル火災にしか受け取っていなかった。 ロシアの文字を読
めない人間の無関心さ、そのものであったことを恥じた。
女史の英語解説によると、2001年9月11日の火曜の朝、イスラム過激派テロ組織アルカ
イダによって行われた<アメリカ同時多発テロ事件>であるという。
テロ組織アルカイダは旅客機4機をハイジャックし、 2機によるワールドトレードセ
ンター・ツインタワーへのテロ攻撃、そして1機によるバージニア州のあるペンタゴン
(国防総省)へのテロ攻撃、あと1機が首都ワシントンDCへ向かう途中であったが、乗
客の抵抗にあい、野原に墜落したという。
ワールドトレードセンター・ツインタワーは、世界資本主義のシンボルであり、アメリ
新聞写真に見るアメリカ市民の悲し気な顔には、ベトナム戦争敗北以来の喪失感が見て
とれた。
この痛ましい<アメリカ同時多発テロ事件>で、2500人以上の犠牲者が出ていると、報
じていた。
この事件の影響は、喜望峰への旅の途次、幾多の障害となって立ちはだかるとは、ここ
シベリア横断鉄道ロシア号では知る由もなかった。
ニューヨークにあるツイン・タワー南棟に突入した瞬間を報じるプラウダ紙写真
◎5日目 14:35 <ジマ駅>動力車の交換作業風景を楽しむ
(ウラジオストクより5442㎞/モスクワへ3846㎞)
ジマ駅は、クラスノヤルスク駅から258㎞先にある動力車交換・車両切り離し駅である。
車両切り離し作業中 <ジマ駅>
◎5日目 20:46 <ノボシビルスク>到着 外気5℃
(ウラジオストクより5940㎞ / モスクワへ3343km)
ノボシビルスクは、人口150万人、シベリア最大の都市である。
シベリヤ横断鉄道ロシア号は、ノボシビルスク駅を出るとオビ川を渡り、バラビンスク
駅を経てオムスク駅に向かう。
コンパートメントの照明を落とし、車窓から見上げるシベリアの夜空は、星がちりばめ
られ、その明るさを競っているようだ。
星の輝きは、アメリカ同時多発テロによる多くの犠牲者を追悼しているようで、揺れて
見えた。
われわれも、ノースポールの回転軸上に輝く北極星を見つけ、食堂車で手に入れたロシ
アン・ビール<コサック元帥>を捧げて、ささやかな追悼の時間を持った。
プラウダの新聞記事には、特派員によるスーサイド・キラーとか、第二のパールハーバ
ーと言う言葉が悲しく踊り、いまだアメリカ人の<真珠湾攻撃>に対する怨念が、潜在
的に残っているような伝え方をしていた。
ロシアン・ビール<コサック元帥>
Sketched by Sanehisa Goto
臨時停車駅チュルィムスカヤ 駅舎
Sketched by Sanehisa Goto
■ 9月15日 <シベリア横断鉄道 6日目> (室内気温 15℃ / 外気 5℃)
(オムスク➡エカテルンブルグ間 1206㎞)
◎6日目 02:30 <バラビンスク駅>到着
(ウラジオストクより5940㎞/モスクワへ3343km)
<バックパッカー長旅における体を清潔に保つ工夫>
長旅や、ロングトレイルを縦走していると1~2週間シャワーや風呂に出会わないのが
常である。
ロシア号では、トイレのチョロチョロ水でタオルを濡らし、肌を擦り、良く拭いた。
一種の寒風摩擦みたいもので、肌の代謝を良くし、体をリラックスさせる効果がある。
また、健康保持上、下着には特に気を付けた。
携行した2枚のTシャツや、パンツは、朝と夕に互いに履き替えるのである。
その都度、着替え分は裏返して空気に触れさせて消毒・消臭(笑い)、次回の着替えに
は、裏返しのままTシャツ・パンツを着用するのである。
体臭の変化には、Tシャツの脇や、パンツの窓に微小のオーデコロンを付けた。
大小の局所には、殺菌用ウエットティッシュが大活躍である。
歯磨きは、食後必ずブラッシングし、歯垢をためないように注意した。
エチケットとして、ブラッシング後、仁丹を一粒口に放り込むのである。
とにかく、野宿であろうと、軒下であろうと、水のある所で泊まれる時には、必ず下着
や靴下、ハンカチやタオルを洗うことにしている。
ロシア号は、早朝のバラビンスカヤ大平原を、モスクワに向かって走り抜けていく。
バラビンスカヤ大平原
Sketched by Sanehisa Goto
◎6日目 07:05 <オムスク>到着
(ウラジオストクより6264㎞/モスクワへ3019km)
オムスクは、シベリア開拓の拠点であり、人口115万人のシベリア第2の都市である。
1850年より4年間、ロシアの文豪ドフトエスキーが流刑された地であり、その記録は
「死の家の記録」として発表されている。
<ミセス・R の講話 ―地下鉄サリン事件―>
今朝、朝食をしながらミセス・R の講話に耳を傾けた。
突如、サリンの話が始まった。
1995年の地下鉄サリン事件を思い出し、その凶悪性に身震いしたものである。
女史によれば、サリンは、第二次世界大戦前のドイツで、有機リン系殺虫剤を製造する
課程で発見され、戦時中は無色無臭の神経性毒ガスとして一部の戦場で使われていたそ
うである。
化学式は、<C4H10FO2P>だと、ノートに書いてくれたが、それは科学者の姿であ
る。
ドイツ降伏後、ソ連はサリン工場や技術者を国内に移し、サリンを毒ガスとして兵器化
していたという。
オウム真理教の土谷正実が合成に成功、地下鉄サリン事件を引き起こしている。
事件当時の日本の新聞では、オウム真理教はサリン使用にあたっての毒性や解毒方法を
学ぶため、ソ連で訓練をしていたと報じていたことを思い出した。
7年前の地下鉄サリン事件とオウム真理教のことを女史は、まるで担当検察官だったよ
うに記憶していたことに驚きを隠せなかった。
旧ソ連軍の情報将校、日本軍将校捕虜担当をしたあと退役軍人に退いたと自己紹介して
いたが、戦後も上級情報将校として対日諜報に関係していたのではないだろうかと…思
ってみた。
講話が終わると、持参したソニーのテープコーダーにセットされている歌謡曲 美空ひ
ばりの歌「柔」(やわら)に聴き入り、車窓から白樺の景色を楽しみながら、覚えたメ
ロディーを口ずさんでいた。
シベリアの白樺並木を楽しむ ミセス・R
Sketched by Sanehisa Goto
<読書―トルストイ著「人はなんで生きるか」>
толстовцы ― “Зачем живут?”
➀ 人間の中にあるものは何であるか ― 愛である
② 人間に与えられていないものは何か ― 死である
➂ 人間はなんで生きるか ― ひと(他人)のために生きる
―ひとが自分で自分のことを考える心遣いによって生きていると思うのは、
人がただそう思うだけのことに過ぎないと言う。
―実際はただ、愛の力だけによって生きているのだと言うことが、
分かるはずだと言う。
―なぜなら、神は愛だからと言う。
トルストイの名言が頭によみがえった・・・
<幸福になりたいと思い、幸福になろうと努力を重ねること、
これが幸福への一番の近道である。>
<過去も未来も存在しない。あるのは現在と言うこの瞬間だけだ。>
この38000㎞に及ぶ踏破旅行に携行した一冊の本がトルストイ著作の『ひとはなんで生
きるか』であり、ほかに携帯用『新約聖書』である。
シベリヤ横断鉄道の旅の日常である、就寝・食事・同室者からの<ロシア帝国・ソビエ
ト連邦>及び<旧日本軍捕虜収容所であるラーゲリ―>の歴史秘話に関する講話・スケ
ッチ・車窓からの自然観察・旅行本からの情報収集・通過駅の確認と記録・喫煙室での
柔軟体操・停車駅での食料購入や植物採集・散策などのルーティン・スケジュールのほ
かに、音楽鑑賞と読書が唯一の娯楽である。
◎6日目 19:15 <スベルトロッスク駅>到着
(ウラジオストクより5940㎞ / モスクワへ3343km)
スベルトロッスク駅で、約6時間の遅れだという。
モスクワに16:30着予定なので、22:00以降に到着する予想である。
シベリア横断鉄道で6時間遅れは普通だという。
2~3日遅れではないので驚くことでは無いと言われてしまった。
ここは広大なロシアの大地なのだ。
■ 9月16日 シベリア横断鉄道7日目最終日 <モスクワ駅>到着
晴れ・車内18℃/外気2℃
<シベリア横断鉄道の旅>最終日である。
シベリア独特の朝靄が大地を這い、幻想の世界を演出する。
モスクワは、走り続けてきたシベリアの大平原よりも北に位置しているのであろうか、
空気が少し変わったような気がする。 冷たく感じるのである。
ドヴォルザークの「家路」交響曲第9番「新世界より」第2楽章をレシーバーで
聴きながら、長年夢に見てきたシベリア横断鉄道の旅を思い返した。
アジアとヨーロッパの分水嶺であるウラル山脈を越えると、白樺の葉の色も黄色から紅
葉に変え、美しい姿で旅人を迎えてくれる。
◎7日目 07:00 <バレジノ駅>停車
(ウラジオストクより8094㎞ / モスクワへ1194km)
発車時間を確認してから、駅構内を散策していると、<ロシアン・ブルー・キャット>
がホームで迎えてくれた。
日本でも見かける野花を線路沿いに見つけてはスケッチ、しばし列車外のシベリアの空
気を満喫しながら野花とのお喋りを楽しんだ。
「君はどこから来たの? 日本からだよ」
「君たち、シベリアの厳冬によく耐えられるね!」
「わたしたちシベリア生まれなのよ!」
シベリアの野花たち
➀クローバ ②クリサンセマム ➂イヌガラシ
Sketched by Sanehisa Goto
ロシアン ブルー キャット / RUSSIAN BLUE CATs
Sketched by Sanehisa Goto
シベリア横断鉄道の7日間、同室で過ごしたミセス・R の観察によれば、就寝後ほどな
くして呟き、日本語でまくしたてるそうだ。 そう寝言だが、それも毎晩だという。
このように爽やかで、穏やかな旅なのに、一体何を恐れ、何に追われているのであろう
か。
シベリアに抑留され、無念に散っていった旧日本将兵の魂の叫びに、何とか救い出そう
と喚いていたとしか思えない。
おのれを静め、亡き将兵の魂を鎮めるために、お香を焚いてそのかおりを深く吸い込ん
で、その無念をかみしめた。
7日間もシベリア横断鉄道に揺れ、シャワーも浴びず、下着二枚を交換し、裏返しては
また使う手法では、やはり体臭が沁みついて、如何しがたい匂いが漂っていたに違いな
い。
同室の元ソ連赤軍高級将校の婦人は、よくぞ耐えてくれたと、感謝したものだ。
時には、あまりの体臭に香水をふり掛けた時など、ミセス・R に<It smells nice!>とい
われて赤面、穴があれば入りたい思いであった。
その上、お香までたいたのだから、一体コンパートメントはどんなにおいが充満してい
たのだろうか、考えただけで恥ずかしくて、気が遠くなりそうである。
<シベリア横断鉄道 最終日の朝食のメニュー>
バナナ1/2・鮭燻製・ライパン・クラッカー・レーズン・プルーン・紅茶・ビタミン&カルシウム各1錠
7日間のメニューは、基本食材に、地元で手に入れた果物や、魚の燻製、ソーセージ、
煮卵を加えて過ごした。
これこそ、バックパッカーのオリジナルメニューである。
体重も、間食をしないものだから、腹がへっこみ、体が締まり、軽くなったようだ。
◎7日目 10:10 <キーロフ駅>到着
(ウラジオストクより8331㎞ / モスクワへ957km)
キーロフ駅停車中に、駅舎の時刻表で、正確なモスクア着時間を確かめることにした。
《時刻表 モスクア 14:58着(7時間の遅延)モスクワ到着予定21:58》
停車中のキーロフ駅舎の<シベリア横断鉄道路線地図>前で
<あのジャパニーズは、君のハズバンドか?>
7日間もシベリア横断鉄道に乗っていると、同室者のミセス・Rとはまるで夫婦の
ような雰囲気を醸し出しているようである。
78歳の女史は、同乗者から《Это твой муж японец? あのジャパニーズは、君のハズバンド
か?》 と聞かれたといって、嬉しそうにこちらをからかうのである。
周囲からは、随分と世話焼きな姉女房に見られているのであろう。
いつも二人連れで、停車駅では高笑いしながら散策するのだから、仲の良い異色の夫婦
に見えていたに違いない。
これまた、旅における国際親善のホームドラマの一コマである。
今回のロシアⅠ号の中で、モスクワまでのシベリア横断鉄道全線9288kmを踏破し
たただ一人のジャパニーズだから目立っていたのかもしれない。
私自身、人種を越えて、人間としての垣根を感じないものだから、すぐ現地に溶け込ん
でしまうのである。 これこそバックパッカーの心髄であると思って、旅を、いや人生
そのものを楽しんでいる。
ふと、車窓に息子を見送る老夫妻の姿が映った。
青年はこれより未知の世界へ第一歩を踏み出す不安な様子を隠すこともなく、ここ寒空
のシベリアの片田舎駅のプラットホームでうなだれている。
ご両親の愛する息子を送り出す悲しみの様子もはっきりと見てとれる。
世の親子に見られる不変なる平和な光景である。
65年前、同じ路線を貨車に乗せられ、シベリアの捕虜収容所に送られ往く日本の青年兵
の不安げな顔々を重ね、こころに痛みを感じた。
息子を見送る老夫婦
あるシベリアの小さい駅で
Sketched by Sanehisa Goto
<風邪を引いたようだね・・・>
シベリアの昼夜の気温の変化に加えて、列車は随分とシベリアの北部に滑り込んだよう
である。 スチーム暖房が入ったり切れたりと、重ね着のタイミングがつかめず風邪っ気
がさらに進んだ。
さらにウラジオストクからの鼻炎が加わり、鼻水が止まらない。
シベリア横断鉄道で経験したただ一つの体調変化である。
もちろん、持参した風邪薬を飲んでいるが、症状は変わらなかった。
どうも、汗をかくのが一番悪いようである。
◎7日目 22:32 <モスクワ・ヤロスラフスキー終着駅>到着
(ウラジオストクより9288㎞ / モスクワへ0km)
<モスクワよ、初めまして!>
14:58着予定のロシアⅠ号は、7時間34分の遅れのなか、午後10時32分ゆっくりと、疲
れた車体を引きずりながら<モスクワ・ヤロスラフスキー終着駅>に到着した。
銀河鉄道ロシアⅠ号で、夢に見た<シベリア横断鉄道>9288㎞を、6泊7日(150時間55
分)で走り抜けた。
<モスクワよ、コンニチワ!>
シベリア横断鉄道制覇の喜びに浸っていると、銀河鉄道999のメーテル役を務めてくれ
たミセス・R から別れの声がかかった。
お香の煙を互いに振りながら、お互いの人生に弥栄を贈り、夢多き生を楽しもうと誓い
合って別れた。
彼女からは、人種・年齢・思想に関係なく、人間は平等であり、制約無き自由の尊さ
と、愛ある言動の大切さを学んだ。
女史は、モスクワから列車に乗り換えて、キエフ(現在キーウ)の自宅に向かうとい
う。
列車だと、キエフ(現キーウ)までの576㎞を、約9時間かかるという。
《私のベッドはFREEDOM, いつでも帰っておいでよ。 あなたのスペースを空けておき
ます》 というドイツの歌があるという。
ドイツの女共が、戦争にかりだされ、遠くシベリアの地で戦う夫に、書き送った手紙だ
と、笑いながらミセス・R は歌い聞かせてくれた。
メーテル役の女史は、最後まで笑いを絶やさず、こころの優しさを見せてくれた。
7日間の友情に感謝し、文通による近況報告を約し、別れを告げた。
(天に召される88歳、2011年までの10年間、キーウの自宅からウクライナの季節の便りや、旅先からの絵
葉書や写真をいただいた。 ご冥福を祈りたい。)
<シベリア横断鉄道、ありがとう!>
女史からは、第二次世界大戦時の連合国側の対日戦線、特に日本降伏時におけるソ連赤
軍の戦争捕虜の扱いについての話を聞くことが出来た。
広大な領土を開発する労働力の確保をいかにするか、領土拡大を国是としてきたロシア
の変わらない課題であった。 中世から多くの反体制派や、政治犯、囚人、捕虜、拉致
者、強制移住者などあらゆる労働を総動員してシベリア開拓にあたってきたのである。
<シベリア横断鉄道>敷設もまた、これら多くの搾取された強制労働力と犠牲者のうえ
に完成していると思えば、悲しき鉄道路線でもある。
旅行者の不安も、シベリア的ノンビリズムに慣れれば、車掌に見られる公務員的ビジネ
ス的態度に見送られて、モスクワの駅に下り立つことができた。
約7時間遅れのロシア号を、夜中、ロシア側の女性ガイドが出迎えてくれた。
日本人的に7時間遅れと思うが、遅延が日常的であれば、ガイドもその時間に出迎えて
くれるわけで、こちらは心配しなくてもいいわけである。
しかし、深夜の出迎えに、日本的に申し訳なくおもったものだ。
<モスクワ・ヤロスラフスキー終着駅>に到着
モスクワ地下鉄(コムソモーリスカヤ駅)連絡口
ここは広大な領土を有するロシア、西の飛び地カリーニングラードと東のカムチャッカ
では10時間の時差がある。 故に、全土を一元的に捉える鉄道の時刻表などは,現地時
間に係わらず,モスクワ時間で書かれているから注意を要する。
ちなみに、日本では全国で同じ標準時を使っているため,国内で時差を感じることはな
い。
現地時間と、列車のモスクワ時間とを比較、確認するため、デジタル表示付きの針腕時
計を持参した。
▼9/16モスクワ滞在宿泊先 <ソビエツカヤ ホテル> HOTEL SOVETSKAYA
Lemonfovsky Prospect, 43/1 MOCKBA
Tel 329-9500 Fax 251-8890
簡潔にロシア国内、モスクワでの観光上の注意や説明を受けたあと、遅いと言うことで
今夜の宿泊先<ホテル・ソビエツカヤ / HOTEL SOVETSKAYA>に送り込んでくれた。
18階建ての17階1718号室に案内された。
深夜となったが、7日間シャワー無しの体を温かめのシャワーで清め、テレビに映りだ
されている若者向けのビートの効いたバンド・ロックンロールを眺めながら、眠りにつ
いた。
シベリア横断鉄道による6泊7日という征西踏破を終え、満足しきってベッドの人となっ
た。
テレビでは朝のニュースとして、ここロシアでCNNを見ることが出来た。
9:11同時多発テロ事件における激突飛行機の同乗者に多くの外国人がおり、この日は
イギリスでの犠牲者追悼式の模様が流れていた。
■ 9月17~19日 <モスクワ滞在・散策>
●9月17日 <モスクワ市内散策> モスクワ滞在1日目
モスクワ1日目の朝、7日間の<シベリア横断鉄道の旅>の心地よい疲れで、目覚めは6
時45分、すでにモスクワのラッシュアワーを迎えていた。
ソビエツカヤ・ホテルの17階の窓からは、うっすらと明けゆく空のもと、モスクワの街
灯の灯りが美しく輝いていた。
相変わらず、シベリア横断鉄道での風邪気は治らず、シベリアのヘイヒーバー(アレル
ギー性鼻炎)も加わって鼻水が止まらないモスクワの朝である。
ホテルのダイニングでバイキング形式の朝食・・・
野菜を中心として、チーズ・オリーブ・鮭のムニュエル・肉団子・焼き飯・フルーツジ
ュース・パン・コーヒーをとったあと、クレムリン見物に出かけた。
出かける前、フロントで日本宛ファックス<無事モスクワ着>送信を頼んでみたが、英
語を解するスタッフがおらず断念、トラブルを避けるため、後日英語圏で試みることに
した。
クレムリン宮殿を軸にしたモスクワは、モスクワ河畔の森に、放射状に広がる都市で、
ロシアの政治、文化、科学、工業の中心都市として1147年に築かれた。
10年前までソビエト連邦の首都であり国際社会主義国家のセンターであったが、1991
年の8月革命によりその地位は大きく後退した。
人口は988万人(2001)、金属、機械、化学、車両などの工業コンビナートの中心地で
もある。
モスクワ滞在には、スケジュール全体からして時間的制限があり、<世界遺産クレムリ
ンと赤の広場>の見学と、<トルストイの生家訪問>に絞ることにした。
宿泊先<ホテル・ソビエツカヤ>隣接の地下鉄駅<メトロ3号線/イズマイロフスキーバ
ルク>より乗車し、<メトロ3号線/レボリューション駅>(革命広場)で下車、徒歩5分
まず、モスクワ河畔にあるクレムリンの外周を散策して、その広大な規模を足で確かめ
た。
モスクワ川沿いに咲いていたタンポポの黄色い花をクレムリン記念として、押し花にす
る。 首に白いマフラーをしたロシアのスマートなカラス<ニシコクマルガラス>の
啄みを眺めながらクレムリンを一周した。
芝生がよく手入れされ、その緑がクレムリンにそびえる聖ワシリー寺院のカラフルな尖
塔によくマッチしていた。
1991年3月の政変<ソ連崩壊>をロシア国民がよく受け入れたものである。
2001年時点でもソビエト連邦を懐かしむロシア国民は50%を超えると言われる。
ここモスクワで見る限り、ロシア国民が自由<Freedom>を受入れる適応性を見せて
いるような気もした。
地下鉄駅付近にある自由社会のシンボルともいえる<マクドナルド>の店の前に若者た
ちが列をなしている姿を見たからである。
しかし、どことなく吹く風に、ロシア帝国再生の芽生えや、ソビエト連邦時代へのノス
タルジックな憧れが、シベリアの大地に息づいているようにも見えたものである。
さて、ロシアは体質的に、<帝政復活か、ソビエト連邦回帰か>まだまだ歴史に翻弄さ
れそうである。
モスクワ・メトロ路線図 (2023現在)
<モスクワ・メトロ> 地下鉄切符
赤の広場の真中に立って、10年前まで行われてきた赤軍による軍事パレードを想い描い
ていた。
閲兵するスターリンやモロトフ、時代は変わってブレジネフ、フルッチョフがひな壇に
並び、核弾道を装填したICBMの車列に向かって、笑みを浮かべて閲兵する姿が、いま
だ脳裏に去来するのである。
レーニン像を飾った1990ソビエト連邦赤軍最後の軍事パレード
<なぜ共産主義を御旗に労働者階級の救世主であったソビエト連邦が崩壊したのか>
階級を特権化し、特権階級を貴族化し、一部が富を独占し始めた<テクノクラート>の
存在は、マルクス・レーニン主義に反し、ソビエト連邦を弱体化していったといえる。
<革命後、全ての生産手段が社会化される共産主義に至るまでの時期には、
反革命勢力となるブルジョワジーが残存しており、革命勢力であるプロ
レタリアートは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならない>
という崇高な<革命テーゼ>は、スターリンによって歪曲され、元貴族や資産家、自作
農ばかりでなく、体制に反対した市民などを<人民の敵>として、チエーカ、GPUとい
う抑圧機関(秘密警察)や、<人民裁判>のもと無制限に処刑したといわれている。
その人民抑圧の計画が練られ、指令が出されたところが、ここ赤の広場に立つクレムリ
ンにある大統領府であった。
1991年12月25日、ソビエト連邦国旗が降ろされ、ロシア国旗がクレムリンにひるがえ
った。
ソビエト連邦国旗 ロシア国旗
モスクワ・赤の広場に立つ (背後・国立博物館 右手・クレムリン)
奥・クレムリン(大統領府)
<レーニン廟>
1917年のロシア革命を指導したレーニンはユダヤ人でもあり、イスラエルのギブツの原
始共産主義を理想として、人民による集団労働の果実を分配するという理想共産主義を
掲げてソビエットなる組織を作った。 追われ、搾取されている農民・労働者を開放
し、人民軍である赤軍と共に労働規律を確立することにあった。
しかし、革命に反対するいかなる勢力も許さいという方針は、秘密警察を生み、スター
リンのような独裁者を生む結果につながっていく。
そして、レーニンの願った理想国家<ソビエット>は、1992年に姿を消すことになっ
た。 いや、1924年レーニンの死と共にすでに独裁国家へと変貌し、一部の独占階級
<オルガルヒ/富裕層>によって搾取の時代にもどっていたと云える。
レーニン(1870~1924)
レーニンの遺体は、いまだ<レーニン廟>に安置され、彼の願いに関係なく、後の権力
者の御旗として利用さている。
恐らく偉大なるロシア帝国再興の精神的支柱として、であろうか。
<聖ワシリー大聖堂> 赤の広場
赤の広場に建つユネスコの世界遺産<聖ワシリー大聖堂>は、1560年、雷帝イヴァン4
世によって建てられたロシア大正教の大聖堂である。
訪れた時は、一部改装中であったが、その配色とシルエットは言葉で言い表せないほど
美しい。
日本では見ることが困難な色彩・配色である。
まるでトルコ・イスタンブールにあるソフィア大聖堂(モスク・アヤソフィア)を小さ
くした上に、絵本に出てくるようなカラフルに飾り立てられたような聖堂である。
改装中の聖ワシリー寺院前で(赤の広場)
聖ワシリー寺院/Basil’s Cathedral(絵葉書)
聖ワシリー寺院/Basil’s Cathedral
Sketched by Sanehisa Goto
<クレムリン>
クレムリンは、三方を城壁で囲み、底辺である南側の城壁は、モスクワ河に接し、防御
のための濠として利用した城塞である。
クレムリンに入るには、赤の広場とは反対側、ただ一つのクレムリン入口である<クタ
フィヤ塔>の前にあるチケット売り場で、拝観を希望するチケットを購入して入場す
る。
2001年当時、クレムリンのみの入場券は150p、クレムリンと5つの教会入場券200p、
以上と催し物入場券付きの350pと分かれる。 他に1日4回の入場が許されるレーニン
廟へは別途250pが必要である。(P:рубль:ルーブル:ロシア通貨)
入場券をもって、クレムリン入口の<クタフィヤ塔>で身体検査を受ける。
なぜか警告アラートが鳴り、軍服を着た警備員のボディーと手荷物の厳しいチェックを
受ける。 一瞬肝を冷やしたが、危険物は見当たらず入場を許された。
ここが、赤化を目指した世界同時革命の本拠地であったことを思うと、時の流れにロシ
アの変貌を見た思いであった。
目の前にそびえる<トロツカヤ/ スパスカヤ タワー>を潜ると、
右に<クレムリン大宮殿>、
左側に<武器庫>、
十二使途教会(ウスペンスキー聖堂・クレムリン博物館として開放)とつづく。
ここ十二使途教会に、観光客も使用できるトイレがあるので助かる。
ブラゴヴェシェンスキー聖堂、
アルハンゲリスキー聖堂、
テレムノイ宮殿付属教会、
祭服教会をまわり、キリストのイコンや壁画を観賞した。
歴代ロシア皇帝の墓所となっており、聖堂内部にはたくさんの棺が置かれている
アルハンゲリスキー聖堂では、聖歌に出迎えられた。
ロシア正教会は、ローマカトリック、プロテスタントと並ぶ3大キリスト教の1つである
正教会に属する。 正教会は、主に国家単位、民族単位で独立し、<ロシア正教会・ギ
リシャ正教会>の様に公称される。
全世界で2億人の信者を擁するともいわれる。
1054年にカトリックと正教会は共に破門状を叩き付けて分裂し、正教会はギリシャから
小アジア、バルカンを経由して東欧を中心に成立した。
更にロシアを経由して日本に至り、日本正教会の信者は約10000人(2001年現在)
と言われる。
<スパスカヤ塔 ― クレムリン>
クレムリンの中で、時計を持った一番大きな塔である。
ナポレオンも、1812年9月の40万の大軍を率いたロシア大遠征で、ここモスクワ・クレ
ムリン、スパスカヤ塔に立寄っている。
しかし冬将軍の到来で糧道(補給路)が途絶え、遠征を中止し、将兵の大半を失いつ、
撤退している。
時の流れに身を置きながら、ロシア帝国の大きさ、底知れない資源の豊かさ、自然の厳
しさを感じたものである。
スケッチをしていると、おおくのロシア人観光客に囲まれ、水彩絵の具の醸し出す鮮や
かな色彩を褒めてくれるのだ。
そう、スケッチは、言葉の通じない現地に溶け込むコミュニケーション・ツールとして
バックパッカーとして旅している私にとって、とても重要なツールなのである。
クレムリンの中で時計を持つ一番大きい塔<スパスカヤ塔>前で
左がクレムリン大統領府
スパスカヤ塔 と アルハンゲリスキー聖堂のコラボ
(クレムリン)
Sketched by Sanehisa
ここモスクワのクレムリンに立っていると、日本では実感しえないリアルな地政学的歴
史の流れの中にいることに気づかされる。
戦乱に躍動したスターリンや、ヒットラー、チャーチルの幻影が目の前をいそがし気に
歩いているような気がした。
ここクレムリンの建物の雰囲気やモスクワの街並みが、世界史の大舞台であったことを
実感させてくれるのである。
約4時間のクレムリン散策で、多くの外国人団体客が、ツアー旗のもと興味と好奇に満
ちた眼差しで、観光している姿に新鮮さがあった。
10年前までは絶対に入れなかったソビエト連邦の本丸にいることの不思議さに、みな一
様に緊張しているようにも見えた。
アルハンゲリスキー聖堂
クレムリンの中心に建つイワン大帝の鐘楼の前で
クレムリンの東側には、南北に緑の広場が広がるアレクサンドロフスキー公園がある。
公園を散策していると、日本人に興味があったのか、モスクワ大学鉄道管制工学部に
学ぶ3人の学生たちが話しかけてきた。
日本の新幹線システムに専門的感心があるというが、どうも日本の学生生活や日本語
のプラクティスの方に興味があるようである。
こちらも日本では大学組織に籍を置いていた関係で、学生気質や日常の学生生活を伝え
ることはできた。 彼らも、少年時代にコムソモールと言うソビエト赤軍の
少年隊に所属していたという。
コムソモール は、マルクス・レーニン主義党配下のいわゆる青年団の一種で、共産
主義青年団のことをさす。ソビエト連邦共産党に協力するボランティア組織であり、
汚職を告発するスパイと密告者の養成機関でもあったといわれる。
彼らが12歳頃、ソビエット連邦崩壊と共にコムソモールも解散し、民主化運動のもと
学生生活を送ってきていると話してくれた。
興味深かったのは、自由を勝ち取った彼らも日本の学生と同じく、紫煙を愛し、ビール
を飲み、青春を謳歌していると、親しみを込めて語ってくれた。
彼らの興味はほかに、世界の若者の流行は? モダンジャズの傾向は? 日本のリニア
モーターの計画は? なぜロシアを旅行しているか? モスクワの印象は?・・・
質問は尽きないのである。
世界どこを旅していても、青年たちが一番自由な発想のもと、貪欲に文化の吸収を
図り、進取性のある意見を語り、賢明な考えを聞かせてくれるのである。
そこには、汚れはなく、純粋な青年としての夢を求め、語ってくれるから私の一番
大切な友人たちであり、星の王子様達である。
楽しいロシアの青年たちとの語らいを終え、クレムリンを後にした。
<マクドナルド・モスクワ店>
昼食に、ホットドックとコークをとった、支払いの時、釣銭のことで不自由を感じてい
ると、背後の青年が親切に助けてくれた。
といえば、ニューヨークのタイムズスクエア近くのマグドナルドの風景に見えて不思議
ではない。
しかし、ここは10年前までアメリカと敵対していたソビエト連邦の本拠地モスクワであ
ると言うことである。
資本主義の代表格でもあるアメリカを象徴するマクドナルドのモスクワ店なのである。
時間の流れのなか、歴史的転換期にモスクワにいることを実感したものである。
この青年は失業中で、ソビエト時代の切手や、記章類を観光客に売っているのだとい
う。 興味があったのと、転換期のロシア、それもモスクワ訪問の記念としてレーニンと
スターリンの古切手とソビエト赤軍の記章を、お礼を含めて購入することにした。
レーニン(1870~1924)記念切手
ソビエト連邦の紋章<鍵と鎌>を背景に
Sketched by Sanehisa Goto
ロシア正教の十字架を崇めるロシア人民のイラスト
Sketched by Sanehisa Goto
ユーラシア・アフリカ踏破32000㎞の旅を支え、見守ってくれた十字架と数珠
<青い目のモスクワっ子>
スリムな体、白い肌に青い目、太陽光線の薄いモスクワでは、典型的な若い女性たちの
姿である。
公園のベンチに座って、先ほど手に入れたソビエット赤軍の帽章を見ていると、隣の女
の子がしゃべりかけてきた。
名はアーニャ、アナウンサー養成学校(インスティチュート)に通い、夜はバーでミク
シングなど音響を担当していると自己紹介があった。
ソビエット連邦が崩壊した今、この赤軍帽章を持っていても問題はないかと、さっそく
聞いてみた。
ロシア人は、赤軍を誇りに思っているので問題はないという。
それ以上に、ロシア返りになり、外国人から少しでも英語を学びたいという意欲が青年
たちの間で強いことを聞かせてくれた。 その傾向は、モスクワを歩いていて、いたる
ところで若者にブロークン・イングリッシュで語りかけられることである。
アーニャもその一人であり、わたしを英会話のレッスン相手として話しかけたようで
ある。
このあと、どこへ行くのかと尋ねるので、アルバート通りの歩行者天国を歩きに行く
というと、ぜひ一緒したいという。 もちろん英会話のレッスンのつもりなのであろ
う、ブルーの目をした、少し汗かきの、髪の毛を後ろに束ねた美しい女の子が、胸を突
き出し、先に立って案内してくれた。
モスクワっ子は、このアンバランスなカップルに、不思議な取り合わせだとは思ってい
ないようである。
あまりエキサイティングな歩行者天国ではなかった。
ただ、共産主義国家ソビエトが、短日中にこのような歩行者天国を作り上げ、多くの若
者がヒッピー顔負けの演奏をし、たむろしている若者集団には驚いたが、店のショーウ
インドウには、いまなおコケシ見たいな木彫りの人形マトリョーシカ(体の中に一回り
小さな人形がいくつも入れ子になっているロシアの代表的工芸品)ばかりが並んでいる
のには少し気が引けたものである。
なぜか、歩行者天国の両脇に、たくさんの似顔絵描きが並んで客待ちをしていたこと
に、ソビエト後のロシアの若者にいまだに働く場所が不足しているように見受けられ
た。
彼女も就職探しには苦労していると聞かせてくれた。
ここでは、いまなお完治しない風邪薬を見つけて手振り身振りで症状を伝えたり、地下
深くにある地下鉄に乗ったり、宮殿のような地下鉄の駅の装飾を観賞したりと楽しい時
間を持てたことを喜んでいる。
<モスクワの地下鉄>
モスクワの地下鉄は、総延長約400㎞あり、乗降者数では東京駅に次いで世界2番目
に多いという。
230ほどの駅の48が文化遺産と言うから驚きの地下鉄である。
またモスクワの地下鉄は、ソビエト時代の影響で豪華な装飾が施されていて、美術館や
宮殿のような雰囲気をもち<地下宮殿>、いやモザイク画が配された<美術館>のよう
でもある。
道路入口から駅までのエスカレータの長いこと、まるで鉱山の坑道を地下深く吸い込ま
れていくような錯覚に陥る。
もちろん地下の深さは、ソビエト時代、核戦争勃発時の核シェルターとして駅が造ら
れ、それも長期間の退避・避難を想定して駅構内の空間を大きく取り、そこに宮殿のよ
うな装飾を施して、市民の無味乾燥で長期な避難生活を慰めるために造られたともいわ
れている。
地下宮殿のような豪華な5号線<コムソモーリスカヤ駅>構内
美術館のような3号線<プローシャチ・レヴァリューツィイ駅>革命広場下車駅構内
■ 9月18日 <トルストイ冬の家訪問> モスクワ滞在2日目
モスクワ滞在2日目のスケジュールは、ホテルで朝食をとったあと、モスクワの鉄道駅
<キエフ駅>に立寄った。
モスクワ地下鉄<メトロ>環状5号線に乗り、<キエフ駅>に来ている。
駅は、ウクライナの絵画や図案、民族画で飾られている。
地方名を採り入れた駅名<キエフ駅>にちなんだ駅風というものが感じられる。
乗客や駅員にもどこかソビエト風暗さの中にウクライナの明るさが感じられる。
多くは工場労働者風で、顔たちは東ヨーロッパ系である。
線路は広軌で、列車は狭軌用の面長型電気機関車が列車を引っ張っているようだ。
広軌と狭軌がどのように組み合わされているか興味があったが、線路にも下りられず後
日の宿題とした。
もちろんプラットホームと列車の間に30㎝ほどの隙間が生じていて、驚いたもの
である。
駅周辺には、フリーマーケットがあり、金属や工具類が山のように積まれ売られて
いた。
<憧れのトルストイ邸訪問>
キエフスカヤ駅から地下鉄(メトロ)環状5号線反時計(左)回りで、次駅<バルク・
クリトウルイ>で下車し、憧れのトルストイ邸に向かう。
バルク・クリトウルイ駅から、トルストイ邸へは徒歩で約1㎞、15分程のところに
ある。
レフ・トルストイ通りの中ほどにある高い板塀で囲まれ、豊かな緑樹を持った家が、
トルストイ邸である。「戦争と平和」や「アンナ・カレリーナ」発表後の1882年から
20年間、冬の家として使っていたという。
ここでは、「イワン・イリイッチの死」など約100点以上の作品を世に出している。
トルストイ自作の靴や、老後に楽しんだ自転車など、私物も4000点ほど保存されてい
た。 また、この冬の家では、多くの友人を招いて討論会や朗読会、チェスやコンサート
を開いている。
地主貴族出身のトルストイにしては、全体的に庶民的で、質素な生活を楽しんでいた
ようである。
ここトルストイ邸から、クレムリンに向かうプレスチェンカ通り沿いに<トルストイ博
物館>もある。
緑豊かなトルストイ邸の静かなガーデンで、ランチをいただいた。
トルストイも、この庭園をとても愛したようで、たくさんの庭園写真にトルストイ自身
が写っている。
子供が8人いたのだろうか、たくさんの子供たちに囲まれて、バーベーキューをした
り、ゲームを楽しんだりしている。 ソフィア夫人とも仲良く庭を散策している写真もあ
り、トルストイの愛妻家ぶりを見る思いである。
出されたランチは、ピロシキ・バナナ・菓子パン・スプライト風<ブーバチカの呟き>
と庶民的メニューに、かえってくつろげたものだ。
<トルストイ邸> モスクワ
トルストイ邸の書斎で
トルストイ邸の緑豊かな庭園を散策 トルストイ邸ガーデンで飲んだ
<ブーバチカの呟き>
Sketched by Sanehisa Goto
今日もよく歩いた。
ホテル・ソビエツカヤにもどり、一階の保管庫よりバックパックを取りだし、次の訪問
地<サンクトペテルブルグ>行の列車に乗るために、モスクワ出発駅<レニングラーツ
キー駅>に向かった。
モスクワ<レニングラーツキー駅>
サンペテルブルグ行列車発着駅
モスクワの宿泊先<ホテル・ソビエツカヤ>を出て、サンペテルブルグ行列車発着駅で
ある<レニングラーツキー駅> に発車3時間前に到着。
待合室に入り、防犯上バックパックをまず椅子にチエン・ロックでくくりつけ、赤の広
場で手に入れたソ連赤軍の帽章とスターリンの標語をスケッチしながら、ロシア人・モ
スクワ市民の行動や慣習を観察して過ごした。
■ 9月18日 特急寝台 《赤い矢号Ⅱ》 列車移動
<モスクワ・レニングラード駅23:55発 ➡ サンクトペテルブルグ・モスクワ駅07:55着>
2等寝台車上下段4人一室、
モスクワ~サンペテルブルグ路線は、ロシア帝国、ソビエト連邦の歴史を担って来た、
誇り高い路線である。
列車内部は、シベリア横断鉄道の<ロシア号>と違ってインテリアや家具等の素材が良
く、西欧的と言おうか貴族的な華やかさが見てとれる。
その誇りは、シベリア横断鉄道のロシア号の8時間遅延に比べて、まさに時間通りの定
刻到着を果たした近代国家の列車運行であった。
英語が使えなかったシベリア横断列車にくらべ、さすがに国際列車、アナウンスも英語
があり、乗務員が英語を話せ、食堂のメニューも英文字が添えてある。
特急寝台《赤い矢号》は、ヨーロッパの走る玄関としての役割を果たしているようだ。
4名一室のコンパートメントでは、サンクトペテルブルク在住の若いカップルと同室
▼9/18 車中伯 サンクトペテルブルク行 特急寝台 《赤い矢号Ⅱ》
■ 9月19日 <サンクトペテルブルク>
ソビエト連邦が崩壊し、何時かは復活するであろう、いや、まだ明け切らない暗闇にあ
る帝政ロシア、そしてあらゆるロシア革命、帝政の美しさの粋を集めた古都・サンクト
ペテルブルグにある終着駅<モスクワ駅>に、列車《赤い矢号Ⅱ》は、朝6時40分、時
間通りに滑り込んだ。
◎ 07:30 サンクトペテルブルク 1日目
<ソビエツカヤ ホテル>にチェックイン
寝台特急《赤い矢号Ⅱ》での同室者との遅くまでの話し込みに、今朝は眠さに襲われ
る。 バックパッカーのホテル到着後のルーティンである、部屋の防犯上のチェックを
したあと、シャワーを浴び、簡単に下着を手洗いし、ロープ干しを行った。
朝食も、モスクワの屋台で購入した携帯食<パン・粉ミルクたっぷりコーヒー・シャケ
缶詰・トマト・キューリ・バナナ)で済ませる。
テレビは、その後の9:11事件<同時多発テロ事件>のCNNニュースを英語で流して
いる。 ニューヨーク貿易センターの崩壊したツインタワーや、ペンタゴンなどでの死
亡者が300人近くに上っていることを繰り返し伝えていた。
いよいよ、明日ロシアともお別れである。
今日は、ゆっくりと古都サンクトペテルブルク散策を楽しみたい。
サンペテルブルグは、1703年から約200年間、ロシア帝国の首都として栄えた。
ピヨトール大帝は、スエーデンによって閉ざされていたバルト海進出を、北方戦争によ
って果たし、この地に港を開き、港防衛のための要塞を建設したのが、古都サンクトペ
テルブルクの起源である。
ピヨトール大帝は、ロシアの西欧化、近代化を推し進めた賢明な帝であった。 みずから
英国に乗込み、造船術や、航海術を修得したり、大勢の農奴や労働者を動員したり、強
制的に技術者や要人をモスクワから移住させてサンクトペテルブルクの街づくりに情熱
を注いでいる。
歴史的にみると、ここ古都サンクトペテルブルクで起こった事件は、農奴制に反対する
貴族青年将校による反乱「デカプリストの乱」(1825)はじめ、ロシアのインテリゲン
チャ―(青年知識人層)によるナロードニキ革命運動「人民の中へ」(1870年代)な
ど、ロシアにおける革命の歴史の主役でもあった。
その後、数度のロシア革命をへて革命政権が樹立されたのを機に、200年ぶりに再び首
都は、モスクワに戻された。
首都がモスクワへ移されると、街の名は<ペトログラード>から、レーニンの死去に伴
い<レニングラード>に変り、1991年のクーデター失敗を機にようやく<サンクトペテ
ルブルク>(聖なるピーター)の旧名にもどった。
現在の<サンクトペテルブルク>は、第2次世界大戦中の約1000日に及ぶナチス・ドイ
ツ軍との攻防戦で100万人を超える犠牲者を出し、街の大半を破壊されたが、再び修復
され、美しい古都の景観を取り戻し、<ロシアのヨーロッパ>の地位を確立している。
わずか1日の古都サンクトペテルブルクだが、是非訪れたかった<エルミタージュ美術
館>に走った。
一度は訪れたかったエルミタージュ美術館、日本人に興味を持ったのか、声をかけてき
た地元画家ネフラソフ・ワーレリーに案内されて館内を一巡し、その豪華な収集品を焼
付けていった。
専制君主であったエカテリーナ2世は、文化・芸術の発展にも寄与し、膨大な絵画・美
術品を収集、現在のエルミタージュ美術館の基礎をつくった。 収蔵品は、皇帝の冬の宮
殿を中心に廊下で結ばれた建物に所蔵され、世界三大美術館としてその名が知られてい
る。
とにかく広い、その上時間に制約のある身、ボランティアをかって出てくれたネフに、
ゴッホ・ベラスケス・ラファエロ・レンブランドの名を告げ、案内してもらいどうにか
鑑賞できた。
世界三大ミュージアムの<エルミタージュ美術館>
サンクトペテルブルク・ロシア
宮殿広場にて
サンクトペテルブルク・ロシア
<エルミタージュ美術館>入口にて
<エルミタージュ美術館>にて
ゴッホ<夜の白い家>1890 ベラスケス<昼食>1816
ラファエロ<聖母子と髭のない聖ヨセフ >1506 レンブランド<天使のいる聖家族>1645
古都サンクトペテルブルクの中央を流れる運河風のモイカ川にて
ピヨトール大帝の愛煙煙草
Sketched by Sanehisa Goto
ここエルミタージュ美術館に来館した記念として、黄金の彫像をスケッチしだしたら、
ネフはその私の似顔絵を描いてくれたものだ。 彼が貧乏絵描きなのだろうことは、声を
掛けられた時に気づいていた。
彼の助けがなければ、このエルミタージュ美術館の膨大な展示絵画や彫刻を見て歩けな
かったであろうし、ましてや英語での案内も嬉しかったうえに、似顔絵までプレゼント
され、こちらも感謝の気ちとして、こころばかりのお礼をさせてもらった。
黄金のパンサーと鹿の彫像(エルミタージュ美術館)
Sketched by Sanehisa Goto
Mr. Goto
画 ネフラソフ・ワーレリー
エルミタージュ美術館・サンペテルブルグ
明日、いよいよロシアを離れ、ヨーロッパに向かう。
北欧ースカンジナビアのフィンランド、ノルウェー、スエーデン3国を巡り、
西欧ーデンマーク・オランダ・ベルギー・イギリス・北アイルランド・アイルランド・
フランス・ルクセンブルグ・ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・ギリシャ
その後、中東<イスラエル・パレスチニア>を巡り、今回の旅のアフリカの入口であるエジプトに入ることにしている。
<ユーラシア・アフリカ 2大陸踏破32000㎞の旅>は、まだまだ続く・・・
ロシア・シベリア横断、<ウラジオストク➡サンクトペテルブルク 9888㎞>踏破の心
地よい疲れと、達成感の安堵に誘われて、<ソビエツカヤ ホテル>でのロシア最後の
夜を赤ワインで乾杯、無事に感謝し、ベットに転がり込んだ。
《ありがとうシベリア、乾杯!》
”Спасибо, Сибирь, ура! ”
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22年間眠っていた<シベリア横断鉄道>乗車記を一気に書き上げた。
その動機は、やはりロシアによるウクライナ侵攻というショックな出来事にある。
歴史的にも、宗教的にも隣人であり、兄弟国であったロシアとウクライナが、血で血を
もって争う悲惨な戦争状態に入り、殺戮を繰り返していることに胸を痛めたためであ
る。
ロシアは、日本とも近き隣人である。
眠れる巨人は、たえず領土を拡大してきて、東進制覇は北方四島をまで呑込んで現在に
至っている。
ロシアに接する多くの隣国は、ロシアの顔色をうかがいながら、歴史を享受してきた
が、ようやくその脅威からの離脱をウクライナの侵攻を見て、覚悟したように見受けら
れる。
シベリアを横断した時の、あの牧歌的なロシアがまたまた牙をむいたと思うと、歴史は
繰り替えすこと、人間の醜さや欲望は尽きないことを知った。
ブログを書き上げたあとで、ロシアの友人の名前も、記述の一部や写真をも削除する不
自由に出会い、戸惑いを覚えた。
一日も早い自由の回復を祈りたい。
中東でも、イスラエルとパレスチナの憎しみあいに火が付いたようである。
人間とは、過去を学ぶことのできない餓鬼なのであろうか。
人間の愛と英知を信じたい。
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資料Ⅰ <旅のルール・バックパッカー編>
1) 各国・各駅に着いて行うべき事
➀両替(電話用コインを含む)
②荷物はコインロッカーに預ける(宿泊滞在以外)
③交通案内地図を手に入れる(インフォーメーションCにて)
④次の列車・バス・飛行機の出発場所・時間の確認
⑤次の目的地への交通機関の予約・スケジュールの確認
➅宿泊YHより、次のYHに予約電話(チェックイン午後10時迄を確認)
⑦WCで用を必ず足しておくこと
⑧水(ミネラルウオーター)の確認・非常食の購入
⑨留守宅連絡(日時・国都市名・宿泊先ほか)
2)列車利用時の注意事項(ユーレイルパス含む)
➀乗車列車の確認(行先・列車番号・指定座席・発車到着時刻ほか)
②ホームの列車編成表で予約座席の車番号を確認
③座席周囲の乗客に下車駅を伝えておく
④車内検札時、必ず行先と到着時間を確認のこと
⑤ユーレイルパス提示(私鉄・バス利用時)
➅ユーレイルパスで自動改札を通過の場合、窓口で「通過証」もらう事
⑦TGV乗車時、座席指定了必要
⑧予約必要<TGV/ICE/寝台クシェット/氷河特急/ユーロ―スター>
⑨予約の仕方<乗車2時間前迄可能・早朝の場合前日16時までに>
⑩列車により出入口ドアの窓を降し、外のノブを回してドアを開ける場合がある
資料Ⅱ <ユーラシア&アフリカ 二大陸踏破38000㎞>携行品リスト
『ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
Ⅰ ロシア・シベリア横断 10350km
『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
Ⅱ 《イスラエル縦断 1000kmの旅』
Ⅲ 《ヨーロッパ周遊 11000kmの旅》
Ⅳ 《アフリカ縦断 15650km》
に続く
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<関連ブログ>