『志賀の里 2024 歳時記 短歌集』
―Ⅰ―
2024年1月1日~6月30日
令和6年
詠み人 後藤實久
これは、比良山麓 <志賀の里 >孤庵に棲む老人の日記である。
バックパッカーとして世界中を歩き回った<星の巡礼>旅日記をブログに起し、
紀行文・短歌・詩・スケッチ・挿絵などを回想し、楽しんでいる。
わたしも晩秋の美しき紅葉の時期を少し過ぎたようである。
これからは、美しい散り際をこころしたい。
志賀の里 孤庵にて
《志賀の里 2024 歳時記》
短歌集 Ⅰ
■ 2024年1月1日 令和6年 元旦
《み光の 新年迎え 誉め歌い 目出度き老いの 祈り捧げし》 實久
―みひかりの しんねんむかえ ほめうたい めでたきおいの いのりささげし―
明けましておめでとうございます
ここ志賀の里、びわ湖松の浦浜での雲間からの、一瞬の朝日を迎えることが出来ました。
みなさまにとって幸せ多き年でありますようにお祈り申し上げます。
■ 2024年1月2日 <能登半島大地震>
《新たなる 年を祝いし 日ノ本に 地震教えし 備えよ常に》 實久
―あらたなる としをいわいし ひのもとに じしんおしえし そなえよつねに―
新年2日目、ここ志賀の里は、変わらない温かい光のなかにある。
日をまたいで余震が続くなか、被害状況は深刻さを増しているという。
新年早々の自然災害に、日本中が心を一つにし、新たにこの一年を迎えることとなった。
被災地との連帯のなか、一日も早い復興を祈りたい。
病床の若き友と、スカウトの標語<そなえよつねに>を再確認した。また、被災地や隣接する地域の仲間の安否も
確認でき、安堵している。
《今のいま やがて朽ち往く 身なれども 迎えし光 満たし嬉しき》 實久
―いまのいま やがてくちゆく みなれども むかえしひかり みたしうれしき―
朽ち往く身に、あたたかい光が満ちて、温もりが体中にあふれる・・・なんと幸せな朝であろうか。
天地創造の光で満たされた。 この世に誕生した時に味わったあの眩しき光を体いっぱいに吸い込んだのである。 その光の味わいを詠ってみた。
<死を想い、今を生きろ>、今夜、ブータンで学ぶNHK特集があるという。 今一度、おのれを見つめてみたい。
この度の能登大地震で被災されたみなさまの、一日も早い日常の回復がありますようにお祈り申し上げます。
■ 2024年1月4日 <暁の祈り>
《先見えぬ 能登の地震 虚ろいて 望みを託し 祈り届けし》 實久
―さきみえぬ のとのじしん うつろいて のぞみをたくし いのりとどけし―
暁の薄明りに、わずかな望みを託す生存者救助のため、懸命な作業が続いている。
悲惨さに老人と、病床の若き友には、ただただ祈るしかない・・・
■ 2024年1月5日 <鎮魂の夕焼け>
《紅の 鎮魂の音や 能登向かい 祈り届けと ラッパ響きし》 實久
―くれないの ちんこんのねや のとむかい いのりとどけと らっぱひびきし―
能登大地震から4日目の夕暮れ、能登の漁港に似た志賀の里<和邇漁港>で、被災地の惨状に鎮魂の音を届ける紅の夕焼けに出会った。
ようやく能登半島の地震による痛ましくも、目を覆いたくなるような被災映像や、その惨状が詳しく伝って来た。
夕焼けは、死者への鎮魂、被災者への励ましの紅の色に見えた。
■ 2024年1月9日 <被災地にエールを送る>
《埋もれゆく 雪も悲しき 被災地の 梢に咲きし 花の姿や》 實久
―うもれゆく ゆきもかなしき ひさいちの こずえにさきし はなのすがたや―
《能登の村 雪降り積もる 怯えし夜 爪痕に泣く 赤子哀れや》 實久
―のとのむら ゆきふりつもる おびえしよ つめあとになく あかごあわれや―
《静寂なる 被災の地にも 日暮れてや 雪降り込めて 余震続きし》 實久
―しじまなる ひさいのちにも ひぐれてや ゆきふりこめて よしんつづきし―
庭に咲く、清楚な花を咲かせた古蝋梅も、初雪の雪帽子をかぶり、被災地にエールを送っていた。
こちらも病床の若き友と一緒に、短歌を練り、被災地に祈りとエールを送らせてもらった。
■ 2024年1月12日 友情<一期一会>
《夢追いし バックパッカー 散り往きて 無常なる風 侘しかりけり》 實久
―ゆめおいし ばっくぱっかー ちりゆきて むじょうなるかぜ わびしかりけり―
一期一会の温もりある友情もまた、わたしの宝物である。
■ 2024年1月16日 <連帯の雪>
《雪埋もる 悲しみ胸に 能登のひと われらも覚ゆ 祈り送りて》 實久
―ゆきうもる かなしみむねに のとのひと われらもおぼゆ いのりおくりて―
能登半島より南下した雪雲は、ここ志賀の里にも連帯の雪を降らせた。
被災地のみなさんの雪に囲まれての寒さが、体に沁みて分かるのである。
北国のいまなお地震災害と闘っておられるみなさんに、病床の若き友とエールを送っていると、「おい、わしもエールに加えてよ!」と頭でっかちのおっさんに声を掛けられた。
■ 2024年1月19日 <白き雲>
《震災の 白雲運ぶ 冬空に こころ騒ぐも 落着き見せし》 實久
―しんさいの しらくもはこぶ ふゆぞらに こころさわぐも おちつけみせし―
北風に乗って、能登から流れ来た白き冬雲に、被災地の皆さんの励まし合う便りを見る思いである。 病床の若き友と、震災の地を想い、白き雲に向かって<ガンバレ能登半島>と叫んでいた。
■ 2024年1月20日 <雲海に浮かぶ比良山地>
《雲海に 霞立つ比良 いにしえの 衣まといて 春を待ちおり》 實久
―うんかいに かすみたつ ひら いにしえの ころもまといて はるをまちおり-
目を覚ますと、比良山麓は雲海に沈み、水墨の世界に霞んでいた。
比良山地は、びわ湖西岸の右横ずれの活動<花折断層>の上に出来上がっている。
東西の断層が約30万年前から地震を伴いながら繰り返し活動し,
一方、びわ湖は同時期に沈下して出来上がったという。
能登半島地震から、花折断層を背にするここ雲海に沈む<志賀の里>も教訓として多くのことを学んでいる。
■ 2024年1月23日 <静けさ>
《朝陽受け 文字に霞みし 顔映えて おのれ見つめし パソコンの奥》 實久
―あさひうけ もじにかすみし かおはえて おのれみつめし ぱそこんのおくー
自然の織り成す演出には、いつもこころを震わせ、畏敬の念を抱かされる。
この自然に育まれて今を生かされていることに、病床の若き友も、またわたしも幸せに満たされ、おのれの存在に感謝するのである。
今夕から被災地能登半島をはじめ、ここ志賀の里も大雪警報圏内に入るという。
昨夕焼けと、今朝焼けに大雪の序章を見ることはできない、ただただ美しい自然の営みを見せているだけである。
大雪前の静けさのなか、朝日に映えるPC画面に見入っている。
■ 2024年1月25日 <雪の舞>
《見飽きない 自然流なる 雪の舞 寄せ来る子らと 飛び跳ねおりし》 實久
―みあきない じねんりゅうなる ゆきのまい よせくるこらと とびはねおるし―
ここ志賀の里も、大雪警報の中にある。
青空覗く天空から、雪の精が舞い降りている。
病床の若き友と、顔に触れる冷たい雪を楽しんだ。
風に吹かれ蟹歩きも、回転の舞も素敵だ
後ずさりしながら、宙に舞って急降下
雪原のなかわれらも、雪と一緒に踊った
■ 2024年1月26日 <雪椿>
《「コンニチハ」 顔出す椿 雪帽子 慈しみの目や 合わせ微笑む》 實久
―こんにちは かおだすつばき ゆきぼうし かなしみのめや あわせほほえむ―
雪をかぶり、忍びつつ咲く寒椿の慈しみ溢れる語りかけに耳をかたむけた。
お互い、忍んで春を待ちましょう。
雪は解けて、すべての花を咲かすでしょう。
■ 2024年1月29日 <頑張ったね!>
《闘病の 若き友逝き 召されてや 魂触れし ビワイチの径》 實久
―とうびょうの わかきともゆき めされてや たましいふれし びわいちのみち―
恒例の耐寒びわ湖一周サイクリング<ビワイチ>に出かける直前、病床の若き友・吉村和馬さんの訃報がお父さまから届きました。 こころの交流を続けていただけに、悲しく、残念でなりません。
よく頑張った、今は亡き若き友と、<ビワイチ>を続け、当初の目的である<ガンバレ能登半島>、能登大地震犠牲者追悼の旅を、積雪で阻まれ途中で力尽きるかもしれませんが、今少し続けようと思います。(祭壇の写真は、吉村伸さま提供)
■ 2024年2月4日 <追悼ビワイチ>
《亡き友に もっと押さんか おいコラと 爺のぼやきも 笑い飛ばされ》 實久
―なきともに もっとおさんかと おいこらと じいのぼやきも わらいとばされ―
《被災地の 寒さ厳しき 能登のひと がんばれやと 祈り届けし》 實久
ーひさいちの さむさきびしき のとのひと がんばれやと いのりとどけし―
今は亡き、若き友 吉村和馬君を連れ出し(写真参加)、びわ湖一周<ビワイチ>を、自転車とオートバイを乗り継いで残雪のなか完走してきました。 道中の風景を短歌に詠み、写真で紹介してみたので、お立ち寄りいただければ幸せです。
■ 2024年2月16日 春一番<比良おろし>
《吠えまくる 春一番や 比良おろし 鼻も蠢く 杉の悪戯》 實久
―ほえまくる はるいちばんや ひらおろし はなもうごめく すぎのいたずら―
ここ志賀の里の風物詩<比良おろし>である春一番がやって来た。
樹々を揺らし、軒下を吹き抜け、村民を脅かした<春一番>は、瀬田の南郷洗堰から宇治川を経て、淀川から大阪港へと抜け、瀬戸内から太平洋へと旅を続けるのである。
春一番<比良おろし>は、長年の友<杉花粉>の本格的な訪れでもある。
春は近い。
(スケッチは、雪の比良山系、左から蓬莱山・打見山・堂満岳・右端が釈迦岳です)
■ 2024年2月18日 <梅だより>
《主人に 祝福されし 紅梅の 満ち足りし顔 われ包みおり》 實久
―しゅじんに しゅくふくされし こうばいの みちたりしかお われつつみおり―
見事に命咲かせた紅梅に声をかけられた。
再生は、四季ある日本の美しき姿である。
この春も、主に祝福された紅梅の、
■ 2024年2月21日 <芽吹くいのち>
《蕗の薹 雪消え去りて 頭上げ 昂る春に 歌声清し》 實久
―ふきのとう ゆききえさりて こうべあげ たかぶるはるに うたごえきよし―
雪もすっかり消え去って、枯れた土に、清々しい顔をもたげた蕗の薹が、ケルトの民謡の音にこころ踊らせながら顔を出している。
寒さがゆるみ、新しい命に出会えるこの時期が、好きである。
■ 2024年2月24日 <春を呼ぶ雪帽子>
《君待ちし 春の息吹きや 待ち焦がれ 雪も消えゆく 比良の峰々》 實久
―きみまちし はるのいぶきや まちこがれ ゆきもきえゆく ひらのみねみね―
ここ志賀の里にも、久しぶりに太陽が顔を出してくれた。
比良の峰に残る雪帽子が、すこし小さくなったようだ。
春を待つ樹々の蕾も、どことなく温もりを感じ、華やいで見える。
■ 2024年1月1日 <支え合い>
《知らぬ間に 纏わりつきし 君なれど 君との出会い こころ豊かなり》 實久
―しらぬまに まとわりつきし きみなれど きみとのであい こころゆたかなり―
太い蔦に支えられているような相思相愛の立ち姿である。
絡みを嫌がりもせず、お互い相争うこともなく、長年連れ添っている姿に心豊かにさせられる。
しかし、苦悩を知らずして語るこちらに、桜は苦笑いしているかもしれない。
人もまた、支え合う人生にこそ、深みと豊かさが増すというものであろう。
今朝も、梅の花にみる永遠の笑顔に励まされ、癒されている。
■ 2024年3月2日 <春雪>
《ほのかなる 色香抑えし 雪化粧 清き衣を 羽織り微笑む》 實久
―ほのかなる いろかおさえし ゆきげしょう きよきころもを はおりほほえむ―
明日はひな祭り、庭の河津桜の膨らみ、巣箱へのヤマガラの物件探し、外出控えの花粉症の最盛期と、すっかり春の到来とばかりと思いきや、今朝の春雪にはすこし驚かされた。
でも、春の雪化粧は艶めかしくて、素敵である。
■ 2024年3月4日 大阪探訪<空中庭園>
《そびえ立つ ジオラマ散歩 スカイビル 天下見下ろし 太閤気分》 實久
―そびえ立つ じおらまさんぽ すかいびりる てんかみおろし たいこいきぶん―
久しぶりに、所用で大阪の街に出かけてきた。
久しぶりの大阪の街、その繁栄ぶりに浸るとともに、淀川の大阪港への流れ込み、美しい六甲連山や生駒山系を楽しんだ。
しかし、空気の澄んだ、お水の美味しい志賀の里に帰って、老人はほっとさせられた。
■ 2024年3月5日 大阪探訪Ⅱ<お初天神>
《曽根崎の お初天神 悲しきや 添え遂げられぬ 運命恨めし》 實久
―そねざきの おはつてんじん かなしきや そえとげられぬ さだめうらめし―
江戸時代の劇作家・近松門左衛門の<曽根崎心中>で有名なお初天神(露天神)は、華やかな枝垂れ桜が咲くなか、多くの若者が参拝し、成就を願っていた。
摩天楼の間に、わずかでも恋人の空間として残されていることに大阪人の粋な計らいが感じられる。
恋愛にも階級や格差、身分があり、苦悩する姿に真実の人間の姿があることを、時代を越えて 教えてくれているようだ。
だからこそ、お初天神は<恋人の聖地>として親しまれているのであろう。
老人も、ふと昔を懐かしく振返ったものである。
■ 2024年3月5日 詩集『ああわれいま ここにおりて』
《神の声 聴きて目を閉ず ヒマラヤに 銀嶺まぶし 残月の山》 實久
―かみのこえ ききてめをとず ひらやまに ぎんりょうまぶし ざんげつのやまー
人の一生は、未知の世界を求めての、旅の連続であると思います。
老境に入り、ようやくこの世に生を受けての目的<星の巡礼>を果たしたような安堵感に浸っている
今日この頃です。
人生航路の終着港にしたいと、あの時、あの場所で浸った己だけの世界を謳いあげた詩句を、
詩集『ああわれいま ここにおりて』に、スケッチや写真を添えて、まとめて見ました。
あの時、あの場所で観て、感じた情景を、覗いていただければ幸いです。
ヒマラヤ<ランタン・ジュガール山群の山容> (ネパール・ナガルコットの丘より)
■ 2024年3月6日 <春の衣替え>
《匂いたつ 梅に託せし 枯れすすき 時の流れに 消え往きおりて》 實久
―においたつ うめにたくせし かれすすき ときのながれに きえゆきおりて―
春風を運ぶ冬空のもと、ススキの枯れ姿に、去り往く哀愁と、命つなぐかすかな待望を感じるのである。
四季の交代、衣替えの季節に立合える喜びを嚙みしめている。
幸せである。
■ 2024年3月8日 <命継ぐ>
《命継ぐ 巣作り励む シジュウガラ 仲睦まじき 春の訪れ》 實久
―いのちつぐ すづくりはげむ しじゅうがら なかむつまじき はるのおとずれ―
シジュウガラの巣作りか・・・・・・
シジュウガラの夫婦が巣箱のチェックにやって来た。
昨年は、巣立ちと思い巣箱の掃除にとりかかったところ、可愛い2個の卵が孵化せずに巣箱に残っていたという、悲しい想い出がある。
多分、何ものかに邪魔され、卵を残して退散したと思われる。
今年こそ、命繋ぐヒナの誕生に立合い、旅立ちを見守りたい。
■ 2024年1月1日 <なごり雪>
《梅薫る 雪残りしや 志賀の里 届きし名句 春届けおり》 實久
―うめかおる ゆきのこりしや しがのさと 届きし名句 春届けおり―
南国 鹿児島より、なごり雪に梅香る志賀の里に一枚の葉書が届いた。
ライダー仲間の先達(94才)からの季節変わりのご挨拶をいただいた。
『 しばらくは 花の上なる 月夜哉 』 芭蕉の名句(元禄4年・1691)である。
桜色の和紙に静謐なる筆の流れ、毅然として自然に対峙される心豊かさ、その巌なる姿が伝わって来た。
■ 2024年3月11日 <追憶>
《時流れ 震災の記憶 新たなり 追憶の人 梅の花かな》 實久
―ときながれ しんさいのきおく あらたなり ついおくのひと うめのはなかな―
今から13年前の今日、2011年3月11日忘れられない大震災が発生し、大津波が東北を襲った。 死者・行方以不明者約20,000人をだす大災害となったことは記憶に焼きついている。
今年も梅の花となって、追憶の人々が愛する家族のもとに、その郷に帰ってきた。
ひとの悲しみは尽きないが、ひとの愛は悲しみを癒してくれる。
■ 2024年3月12日 <にほひ袋>
《謡来る 匂い忍びし わが友の 声魂満つる にほひ袋や》 實久
―うたいくる においしのびし わがともの こえたまみつる にほひぶくろや―
年の暮れより今に至るまで、リビングに入ると白檀の香に魅了され、至福の時に引きこまれている。
仲間の「謡の会」で頂戴した可愛い水仙姿の<にほひ袋>の醸し出す《かおりをきく》なかに、友の朗々とした謡のリズムが蘇ってくるのである。
匂いとは、個性であり、想い出であり、趣きであり、情緒であり、安心であり、命であるような気がするのである。
■ 2024年3月13日 <寒椿>
《耐え忍ぶ 姿魅かれし 寒椿 声掛け合いし 認め嬉しや》 實久
―たえしのぶ すがたひかれし かんつばき こえかけあいし みとめうれしや―
春も近いが、いまなお元気いっぱいに咲いている寒椿たち、器に活けては労わっている。
本法寺、乙女椿それぞれに個性があって、気取り方も、語りかけも違い愛らしい。
語りかけ、それはお互い命あるものへのこころの通いであり、労わりであり、存在を認めあうことである。
■ 2024年3月14日 <獣道>
《足跡を 追いしハンター 息潜め 子供ごころを 研ぎ澄ませしや》 實久
―あしあとを おいしはんたー いきほそめ こどもこころを とぎすませしや―
ここ志賀の里の野山にも冬仕舞をし、春の歌声が聴こえてくる。
この時期、ススキや枯草をかき分け獣道をたどり、野山をさまよい歩くのが好きである。
どこへ連れて行ってくれるのだろうか、先に歩いた動物たちの息遣いが聴こえてくるようである。
■ 2024年3月15日 <偏光の神秘>
《復興に 汗するひとや 輝きて 朝焼け託し エール送りし》 實久
―ふっこうに あせするひとや かがやきて あさやけたくし いのりおくりし―
朝陽の光りの波長や、振幅、方向などによって朝焼けは表情を変え、姿を変える。
その栄光に満ちた偏光の神秘にこころ洗われている。 それも数分間のモーニングショー、息をのむ一瞬の変化に平安と生きる勇気をもらっている。
能登半島の震災の地にも励ましの朝焼けが、繰り返されていると思うだけで、安堵するのである。
■ 2024年3月17日 <100万本の薔薇>
《生を受け 不平等なりし この世にて 真赤な薔薇は みな変わらじや》 實久
―せいをうけ ふびょうどなりし このよにて まっかなばらは みなかわらじや―
この歌の原曲<マーラが与えた人生>は、大国旧ソ連やドイツによる侵略に怯えたバルト海の小国ラトピアの悲哀の歌だという。
加藤登紀子は、2023年2月の大国ロシアによるウクライナへの侵略に怯えるジョージアを勇気づけるためのコンサートを首都トリビシで開くが、バックコーラス隊の<百万本の薔薇>(ジョージアではロシア民謡と思われている)への競演を拒否されるというハプニングに遭遇する。
彼女はショックを受けるが、小国の大国への恐怖心を理解し、見事にコンサートを成功させている。
大国に怯えることのない、小国が安心できる日は訪れるのであろうか。
悲しいことに、人間がこの地球に存在する限り、弱肉強食の法則は不変のようだ。
相互理解・平和共存・対話・相互尊重と・・・わかっているが…人は愚かなのだろう・・・悲しい生きものである。
■ 2024年3月17日 さらばサンダバード(旧雷鳥)
《懐かしの 列車の別れ 志賀の里 警笛悲し 比良の峰かな》 實久
―なつかしの れっしゃのわかれ しがのさと けいてきかなし ひらのみねかな―
大阪から北陸の京と言われる金沢への直通特急サンダバードが、北陸新幹線の敦賀までの延伸により、3月16日でその役目を終えた。
これからは、敦賀で新幹線に乗換えて金沢に向かうこととなる。
関西から北陸は遠くなってしまったような、寂しさが残るダイヤ編成となった。
湖西線最後の直通サンダバードが、別れの警笛を響かせ、志賀の里を駈け抜けていった。
■ 2024年3月18日 <沈丁花の香り>
《親鳥の 温きふところ 懐かしや 肩寄せ合いし 五羽の雛かな》 實久
―おやどりの ぬくきふところ なつかしや かたよせあいし ごわのひなかな―
粉雪舞い、沈丁花の香り匂う志賀の里にも、田起こしが始まった。
春の便りが聴こえるころ、母親を偲ぶ刻を迎える。
見送って24年、わたしも老いを重ね、感謝の気持ちが募るのである。
■ 2024年3月21日 <薄化粧>
《ときめきし こころは最早 春日和 淡雪舞し 薄化粧かな》 實久
―ときめきし こころはもはや 春日和 あわゆきまいし うすげしょうかな―
ここ志賀の里も、陽光の中に、春を感じる今日この頃だが、今朝の樹々の白き薄化粧には清楚にして、控えめの美しさがあり、心ときめく春の色香を感じる。
■ 2024年3月25日 <霞立つ>
《霞立つ 森の雫の 落つる声 静寂に泳ぎて われを誘いし》 實久
―たすみたつ もりのしずくの おつるこえ しじまにおよぎ われをさそいし―
志賀の里は春雨まじりの霞みの中に沈んでいる。
妖精たちのハレルヤが、森に木霊し、わたしを誘っているではないか。
落ちてきた雫に首をすぼめ、おのれに返ったものだ。
■ 2024年3月29日 <春の装い>
《春がすみ 雨着るサクラ うつろいて 色艶やかに 華やぎおりし》 實久
―はるがすみ あめきるさくら うつろいて いろあでやかに はなやぎおりし―
デッキから花見がしたいと移植した河津桜が、艶やかな姿で咲き誇ってます。 春雨に濡れ、しっとりとした潤いを見せてくれる姿も素敵です。
■ 2024年3月29日 <うたた寝>
《ふんわりと うたた寝誘う 春日和 厚き衣を 脱ぎ去りおりて》 實久
―ふんわりと うたたねさそう はるびより あつきころもを ぬぎさりおりて―
春の陽に顔を向け、厚衣を脱ぎ捨て、幸せを楽しむ優雅なノースポール(クリサンセマム)を見ていると、こちらのこころもふんわりと和んできます。
■ 2024年4月1日 <山桜>
《ひっそりと 咲きし命 山桜 息吹伝わる わが心うち》 實久
―ひっそりと さきしいのち やまざくら いぶきつたわる わがこころうち―
春の陽気に誘われて、わが家の山桜もぼつぼつと顔を出し始めた。
艶やかさを押し殺した清楚で、スリムな姿を見せ、「コンニチハ!」と言葉をかけてくれた。
こころかよう、うれしい瞬間でした。
■ 2024年4月1日 <春爛漫>
《時々の 想い運びし マグノリア 老いを彩る 君や愛おし》 實久
―ときどきの おもいはこびし まぐのりあ おいをいろどる きみやいとおし―
我が家からの借景の女王である白木蓮(White magnolia)が満開を迎え、その威厳に満ちた高貴な姿を見せてくれています。 それぞれの地で、わたしの人生に長年付添ってくれた白木蓮には、さまざまな思い出が宿りきて、毎春の出会いを楽しんでいます。
■ 2024年1月1日 <慈雨>
《春雨や 芽吹きし命 眩しけり なさしめ給う 業や嬉しき》 實久
―はるさめや めぶきしいのち まぶしけり なさしめたもう わざやうれしき―
■ 2024年4月6日 「青春夢日記」
《美しき 周防の海の 夕暮れに 踏みし夫婦の 影寄り添いて》 實久
―うつくしき すおうのうみや ゆうくれて ふみしふうふの かげよりそいて―
わたしの尊敬する御坊 周防大島にある荘厳寺の白鳥文明老師より、お願いしていた自叙伝をおくってもらった。
人生の一区切り、金婚式を迎えての「青春夢日記」である。
人生、それはその人だけの実録物語である。
そこには喜怒哀楽を背負っての、長きマラソンの景色が描かれていた。
ようやく、茜色の夕陽を楽しむお歳を迎えられ、ふりかえる幸せが、伝わってきた。
夫婦人生、それは半世紀に渡る同行二人物語でもある。
金婚式を迎えての勲章も、いぶし銀のように光り輝いていた。
人生、ありのままの自分を受け入れることの大切さを学んだ。
感謝である。
■ 2024年4月7日 <バレリーナ>
《純白の 清き衣を まといてや 愛犬偲ぶ バレリーナ哉》 實久
―じゅんぱくの きよきころも まといてや あいけんしのぶ ばれりーなかな―
バレリーナ、我家の亡き愛犬ベルさんの記念樹である。
毎春、この12年の間、咲き続けてくれているバレリーナは、甲武信(こぶし)の一種であり、若葉が顔を出す頃、そのしなやかで華麗な肢体をみせてくれるのです。
目が不自由で、老体を溝に落としながら散歩した日々が懐かしく、瞼に浮かんできます。
今頃は、天国でバレリーナとして活躍してくれていることでしょう。
■ 2024年4月4日 春の嵐<比良八荒>
《春告げる 比良の八講(八荒) 荒ぶるに 樹々踊りてや 咆哮止まず》 實久
―はるつげる ひらのはっこう あらぶるに きぎおどりてや ほうこうやまず―
早朝から、ここ志賀の里は停電を伴う大嵐、いまなお咆哮止まず、大木が踊り狂っている。
比良の雪解け水を田に引き、田植の準備も始まった。
毎年この時期、比良山から突風が吹き荒れ、湖国に本格的な春の訪れを告げる。 この自然現象を、かって天台宗の寺院で、法華経を講読する法華八講とよばれる法要が営まれたことから、この時期の突風を<比良八講・比良八荒>と呼ぶようになったという。
昔人の詩情豊かなネーミングに、いつも心温まるものを感じるのである。
■ 2024年4月11日 <桜吹雪>
《今を咲き 今を見つめる 桜花 散りて空しき 世眺むるや》 實久
―いまをさき いまをみつめる さくらばな ちりてむなしき よながむるやー
今、志賀の里にある<びわ湖バレーの桜並木>が満開である。
一昨日の<比良八荒>の強風で心配していた桜も、見事に咲き残っていた。
春爛漫を画きとめた一枚の油絵を飾って、散り往く桜吹雪を惜しんでいる。
自然の生き様のなんとシンプルなことか、ひともそうありたいものです。
■ 2024年4月12日 <命継ぐ>
《永久に 時を継ぎにし 桜花 いのち芽吹きし 伐られてなお》 實久
―とこしえに ときをつぎにし さくらばな いのちめぶきし きられてなお ―
33年前、家を建てた折、植樹した桜<染井吉野>が毛虫にやられ、昨年秋、泣く泣く伐採したものだ。
その切り株から思いもよらなかった小さな命が芽吹いた。
■ 2024年4月14日 <見えないもの>とは
《見えるものに悩み苦しみ、見えないものに支えられている》 経典
ーみえるものにくるしみ 見えない者に支えられている―
西方浄土にかたむく、素晴らしい夕焼けにわれを忘れて見入ったものです。
散歩の途中、桜咲く墓地の入口に一枚の紙が貼られ、筆で次なる言葉が書かれていた。
立ち止まって、ふと考えさせられた。
思い巡らしたあと、顔を上げると、暮れゆく空と対峙する泰然自若とした雪柳が、時空を超えた沈黙のなかに
あった。
■ 2024年4月15日 <輝く若葉>
《満ちたりし 青葉と交わす 爺ありて 語らず云わず 目礼嬉し》 實久
―みちたりし あおばとかわす じいありて かたらずいわず もくれいうれし―
春うららに誘われて、久しぶりに比良山麓にあるキタダカミチ(谷)にある砂防ダム(標高450m)まで上って来た。
春陽のもと、天真爛漫にはしゃぎ、好奇心旺盛なまなざしで森に溶け込む若葉たちが、キラキラと輝いていた。
<コンニチハ、若葉君たち!> <爺さんコンニチハ、出会えたね!>
ふと、今は亡き若き友の笑顔が宿った。
■ 2024年4月16日 <待ち人>
《浮立ちし 春陽漏れくる 卯月空 花も背伸びし 君待ちおりて》 實久
―うきたちし はるひもれくる うづきそら はなもせのびし きみまちおりて―
春雨の中、すっかり暖かくなった。 誰を待っているのだろう、ノースポール(クリサンセマム)の雲間の春陽に向かって背筋を伸ばしている姿は、実に美しい。
■ 2024年4月16日 <化身>
《思いやり 姿変えてや チューリップ 傷つけること おのれ許るさじ》 實久
―おもいやり すがたかえてや ちゅーりっぷ きづつけること おのれゆるさじ―
チューリップは<鬱金香>と書くそうである。 香りが鬱金(ウコン)に似ているとの事、さっそく匂ってみた。 そうかな、見た目の艶やかさと違って、控えめで、素朴な匂いに、なぜかほっとさせられた。
三人の騎士がそれぞれの家宝を持って一人の女性にプロポーズした。 しかし彼女は一人に絞れず、花の女神フローラにお願いして花の姿に変えてもらったという。
今朝も、短い一生、他を思いやりながら、精一杯生きるチューリップさんに声をかけた。
■ 2024年4月18日 友なる花<ヒメシャガ>
《寄り頼む 君なる笑顔 ヒメシャガの 燃ゆるいのちを 互い見つめし》 實久
―よりたのむ きみなるえがお ひめしゃがの もゆるいのちを たがいみつめし―
裏庭の木陰に居住まいを正した清楚な友<ヒメシャガ>が今年も無事、その姿を見せてくれた。
いまでは家族同然、その端正な顔を見ながら朝の挨拶を交わすお互いである。
命満ち溢れる友に囲まれ、時の流れに身を任す幸せに感謝するとともに、昨夜遅くの地震に、四国四万十の仲間の無事を祈った。
■ 2024年4月19日 サクラ<天の川>
《凛とした 桜お目文字 天の川 剣士の気迫 満ち満ちおりし》 實久
―りんとして さくらおめもじ あまのがわ けんしのきはく みちみちおりし―
わが家の直立不動の桜の若木が初めて花をつけた。 それも貴重な三枚の花びらをである。
天に向かって立つ様は、若武者の剣士が凛として背を伸ばし、気迫に満ち満ちた姿である。
このサクラである若侍は、<天の川・アマノガワ>という号を持つ。
これからは、この若侍にわが残姿を映し、支えられ励まされることであろう。
《凛とした 桜お目文字 天の川 剣士の気迫 満ち満ちおりし》
―りんとして さくらおめもじ あまのがわ けんしのきはく みちみちおりし―
■ 2024年4月20日 ブログ『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』
《バイキング 太古背負いし フィヨルド》 實久
現在、ブログ『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』で、シベリア横断を書き終え、ブログ上、ロシアのサンペテルブルグより国際列車で、隣国フィンランドの首都ヘルシンキに向かっています。
お楽しみいただければ幸いです。
■ 2024年4月21日 <聖なる沈黙>
《骸なる 鹿の鳴き声 宿り来て 短き旅路 生死思いし》 實久
―むくろなる しかのなきごえ やどりきて みじかきたびじ しょうじおもいし―
志賀の里、蓬莱山麓の森深くに眠る、聖なる沈黙<鹿の墓場>に導かれた。命ある動と、屍の静。
沈黙のなかに見えて来る命に満ちた鹿たち、果たして動物たちにも霊魂はあるのだろうか。
動物の霊魂をめぐる哲学的な論争は、モンテーニュの時代までは動物にも人間と同様に魂があったと言うが・・・
骸(むくろ)の一生に思いを馳せつつ、人生と言う森を彷徨する老体に重ね、手を合わせた。
■ 2024年4月22日 蔓桔梗<ツルギキョウ>
《慎みて 紫羽織る 蔓桔梗 うららなる陽に 今生きおりて 》 實久
―つつしみて むらさきはおる つるぎきょう うららなるひに いまいきおりて ―
春眠暁を覚えず、ぼやけ頭でデッキに立ったら、すでに朝日をいっぱい浴びている蔓桔梗さんに声を掛けられた。 「おはようございます。 新たな一日って素敵ですよね。」
この瞬間を生きる命の美しさ、尊さ、喜びを伝えきた。 瞬間、はっと目が覚めた。
■ 2024年4月24日 命継ぐ<征服者>
《命継ぐ 白き妖精 タンポポの みなぎる命 あまねくしてや》 實久
―いのちつぐ しろきようせい たんぽぽの みなぎるいのち あまねくしてや―
曇り空のもと、旅立ちを辛抱強く、じっと待つ綿毛に出会った。
体格のいい西洋タンポポは一年中、発芽し、花を咲かせ、綿毛を作り、風に乗せて子孫をばらまき、命継ぎ、繁殖し、テリトリーを増やし続ける強者であり、征服者である。
いのち芽吹く春に、花ではなく純白の綿毛に出会って少し面食らったが、その生立ちから自家受粉が出来ることを知り納得である。
■ 2024年4月25日 <日向ぼっこ>
《笑みこぼる 名忘れ草に 笑みかえす 満ちて恥じらう 皺も崩れし》 實久
―えみこぼる なわすれぐさに えみかえす みちてきよらか しわもくずれし―
久しぶりの太陽が雲間から顔を出した。ここ1~2年で急に花壇の主人公にのし上がって来たグランドカバー<黄色い花>が、一斉に温もりの女神に向かって顔を向けだした。
京都大原に咲いていた仲間たちが増え続けているのだ。
スギナのようなトンガリ葉に、菜の花のような多弁につけた黄色い花、この子たちの名前を思い出せないのである。
老人が、困り果てている姿に、優しい笑顔で、<あせらないで、私たちはいつもあなたと一緒にいますから・・・>と。
■ 2024年4月26日 <幽玄>
《騒ぎ立つ ときめき抑え シャッター 押せし幽玄 息も止めてや》 實久
―さわぎたつ ときめきおさえ しゃったー おせしゆうげん いきもとめてや―
光の屈折が作り出す芸術に、レンズが応えてくれた被写体<アシュガ>に恵まれた。
偶然それは天からの贈り物ではないだろうか。
一瞬の喜びに己を疑ったほどである。
なぜなら、偶然なる幽玄はすべての条件がそろった時にしか立合えないのだからである。
至福の時間を持った。
■ 2024年4月27日 <花水木>
《私もよ 顔を飾りし 花水木 こころくすぐる 春化粧かな》 實久
―わたしもよ かおをかざりし はなみずき ひとみてわらう はるげしょうかな―
ここ志賀の里も、花水木の季節を迎えた。
青空に浮かぶ流れ雲に身を寄せる真白き花水木の清らかさを眺めていると、青春時代の淡い感情に心悩ました日々が宿りくる。 また、万物のなせる変化の姿を、花水木に見ることができて楽しい。 白や紅に見える花は<総苞片(そうぼうべん)>という葉っぱの一部であるというから驚かされるのである。
まるで現代人の七変化を先取りしたような主である。
ちなみに、花水木の花は、真ん中の黄緑が花であるという。
■ 2024年5月6日 五月雨<さみだれ>
《しっとりと 軒先垂れる 五月雨や 新緑まとい こころ癒せし》 實久
―しっとりと のきさきたれる さみだれや しんりょくまとい こころいやせし―
五月晴れの後の五月雨に、わが家のジャーマンアイリスもしっとりと濡れ、その魅力を控えめに見せてくれている。
軒先の雨垂れ<雨滴音>にも、心癒される孤庵である。
■ 2024年5月6日 <生きる>
《一生を 任せる命 あれこれと 果てること無し 望み多きや》 實久
―いっしょうを まかせるいのち あれこれと はてることなし のぞみおおきや―
水やりに、元気を取り戻すペチュニアたちが生きる鉢植えの世界、
限られた世界で、おのれを託すペチュニアたちが宿る狭き世界。
狭い世界での他力に頼る己の不幸せを嘆くペチュニアたち、
彼女たちもおのれの一生を、おのれ自身で決められないでいるのだ。
この狭い鉢植えの世界でみせるそれぞれの顔が、人の顔に見えてきてしまった。
次なる世代では、のびのびと生きられる大地植えにしてやりたいと、思っている。
■ 2024年5月7日 <巣箱>
《子育ての 甘き判断 危機招く 巣作り止めし 小鳥悲しや》 實久
―こそだての あまきはんだん ききまねく すづくりやめし ことりかなしや―
今春の巣立ちが終わったので、各巣箱を回収し、営巣の観察と清掃消毒を行い、来春に備えた。 その中の一つに、今年の特徴が見られた。
例年のシジュウガラからゴジュウガラに変わったことは確認していたが、巣作りを始めてから、巣箱の入口が少し大きかったことに気付いたのか、それとも新郎新婦が仲たがいしたのか、巣作り中に作業を中断し、退去した巣箱があった。
巣箱の入口の丸窓は、おのれの体より小さめの大きさが、おのれより多き目の敵から卵や雛を守るために求められるようだが、その危機管理に甘さがあったことに気づいたようである。
来春は、この巣箱の丸窓に適した体格のシジュガラに借りてもらいたいものである。
《子育ての 甘き判断 危機招く 巣作り止めし 小鳥悲しや》
―こそだての あまきはんだん ききまねく すづくりやめし ことりかなしや―
■ 2024年5月9日 <ムスカリ>
―たわわなる すくらむくみし むすかりの かぶのうたをや なかむつまじく―
カブスカウトの定めの一つ、『互いに助け合います』という姿を現わしていた。
声掛けすると、前向きな未来への希望『共に頑張りましょう!』と、このオールドボーイにエールを送ってくれた。
■ 2024年5月10日 <山吹色>
《ひとはみな 山吹色に 輝きて 平等の世を 望みおりしや》 實久
―ひとはみな やまぶきいろに かがやきて びょうどうのよを のぞみおりしや―
気品に満ちあふれ、黄金色にかがやく崇高な花<やまぶき>が、今なお志賀の里を彩っている。
枝垂れるような柔らかく細い枝から<山吹色>なる可憐な花を咲かせる。
日本の古代色である<山吹色>は、これまた大好きな山梔子(くちなし)の実から作られているというから嬉しい。
ひともまた、それぞれにしか持ちえない才能と言う、崇高なる花を咲かせ、互いに認めあうならば平等の世を、もっと身近に感じられると思うのだが・・・
■ 2024年5月11日 <田植え>
《雲動き 水面静かや 田植えをり 山紫水明 こころ映せし》 實久
―くもうごき みなもしずかや たうえをり さんしすいめい こころうつせし―
垂れ下がる五月雲、志賀の里も田植えが始まった。
この時期になると、蓬莱山のびわ湖テラスと同じ風景を、水田に映し見ることができるのである。そう、山紫水明のこころそのものを映すのである。
自分のこころを、水田に映し見られたら面白いだろうなと、ひとりほくそ笑んでいた。
■ 2024年5月12日 <母の日>
《流るるに 四季の折々 重ね来て つゆも変わらぬ 母の日祝う》 實久
―ながるるに しきのおりおり かさねきて つゆもかわらぬ ははのひいわう―
遠き地で、義母が102歳という生を慈しみ、生かされている姿に、尊厳さと尽きない愛の深さを学ばせてもらっている。 老いてもなお母の偉大さを追憶する今日この頃であり、母からの永遠なる、尽きない愛に感謝である。
■ 2024年5月13日 <アザレア>
《真実の 美を秘めたりし アザレヤの 姿おのれに 転写しおりて》 實久
―しんじつの びをひめたりし あざれやの すがたおのれに てんしゃしおりて―
平和が満ちる五月陽を楽しむ<ピンク・アザレア>の幸せな顔に、おのれを託す姿の清らかさを見た。 そこには人の世とは無縁なる殺戮や硝煙無き世界が広がっていた。 その場、その場で生に忠実に生きてみるのもまた一生であることを教えられているような気がした。
汚れ無き、真実の美しさの何たるかに触れたような清々しさが残った。
■ 2024年5月15日 ドーナツ雲<みゃくみゃく君>
《漂いし 白雲悲し 万博の シンボル霧散 皐月陽残せし》 實久
―ただよいし しろぐもかなし ばんぱくの しんぼるむさん さつきびのこせし―
皐月空を見上げて、ドーナツのような白雲に、どこかで出会ったような形を認めた。
色々と物議を醸している大阪万博、成熟しきった日本国の国威発揚に必要かどうかが問われ、今一つ関心を持たれずに1年後に迫っている。
あの大阪万博のシンボル・キャラクターの<MYAKU-MYAKU・みゃくみゃく>君にかぶさって来た。
姿を変え、その後、胡散霧散する雲の変化に、五月の温もりが残った。
■ 2024年5月16日 トゲある黄色い花<ジャケツイバラ>
《賢者なる 蛇を思いし 枝ぶりに 蛇結茨の 花麗しき》 實久
―けんじゃなる へびをおもいし えだぶりに じゃけついばらの はなうるわしき―
黄色い花が天に向かって、すくっと立つ姿は、見る人を惹きつけて止まない。
つい、間近に見ようと枝を引き寄せたとたんに鋭い棘が食い込み、かすかな痛みと血を見た。
なんとよく見ると、蔦状の枝に鋭利な逆立つ刃<トゲ>がこちらに牙をむいて、立ち向かって来た。 薔薇にも同じほろ苦い経験があったことを思い出した。
蛇のようにくねりながら、まとわりつく野イバラである。
棘で守られる美しき花、ひとも同じと言われるが・・・経験から、刺されないように、観察だけにとどめておくことをお勧めしたい。(笑い)
聖書では蛇は「賢さ」の象徴であることから、蛇のような枝姿をしているジャケツイバラ(蛇結茨)の花言葉は「賢者」と付けられている。
■ 2024年5月17日 <遅蒔き田植>
《休耕田 数えて憂う 志賀の里 田植終えてや 天仰ぎおり》 實久
―きゅうこうでん かぞえてうれう たうえおえてや てんあおぎおり―
品種・収穫時期により田植の順序があるようである。
ここ志賀の里の最後の棚田に田植えが終わった。
農家は、稲の成長と共に、水の調整、雑草や害虫対策に追われる。
観察者は、ただただ見守るだけなのだから、農家のみなさんの大変さに、これまたただただ感謝だけである。
ただ年ごとに休耕田が増え続けていることに、農家の高齢化の波を感じるのである。
■ 2024年5月18日 <山菜の恵み>
《踏み入れし 麓の森の 静寂にて ときめく心 山菜追いし》 實久
―ふみいれし ふもとのもりの しじまにて ときめくこころ さんさいおいしー
冷たい比良の水の流れに息づくセリ、山麓で長閑に頭をもたげる蕨(わらび)は、ここ志賀の里でも山菜の幸である。 お浸しにして季節の味と挨拶を交わすのが楽しみである。
スカウト時代、重い鍋を背負い、テントを張ったあと、火を焚き、闇鍋に山菜はもちろん食べられるものは何でも入れて、味噌で味付けをして、飢えた腹に流し込んだものだ。
66年前のシニアスカウト時代が懐かしい。
■ 2024年5月19日 < 落日 >
《反転の 幕閉じゆきし 落日に 薄れゆく影 葉隠れ往きて》 實久
―はんてんの まくとじゆきし らくじつに うすれゆくかげ はがくれゆきて―
落日に、世界は静寂なる闇夜に染まり往く。
おのれの長き影絵が消え去り往く瞬間であり、
唐繰りの幕が反転する、起承転結の情景である。
光りと闇のはざまのこの一瞬の変化が、何故かたまらなく好きである。
■ 2024年5月20日 <認識>
《今朝もまた 天を仰ぎし 花たちと 交わせし語り 君と識らじや》 實久
―けさもまた てんをあおぎし はなたちと かわせしかたり きみとしらじや―
毎朝散策で挨拶を交わす花たちに、同じ姿をしながら語りかけてくる2種類の花があることに気づいた。
葉を見て初めてアザレア<つつじ>とシャクナゲ<石楠花>の違いに気づいた。
花だけを見れば、見慣れたアザレアであり、双子そのものである。
彼女らからしても、自分たちを認識せずに語りかけてくる相手に困惑していたであろう。
なにか少し彼女たちに近づけたような、心豊かさを感じた。
■ 2024年5月21日 魅惑のヒナゲシ<虞美人草>
―ひなげしの あふるるぱっしょん おもいだす ふらめんこまう りすぼんのよや―
出会った瞬間、ポルトガルのリスボンの地下酒場で観賞したフラメンコ、その踊子が着ていた艶やかな衣装が瞼に浮かんだ。
共に踊らされたタップダンス、若き時代の情熱を懐かしんだものだ。
■ 2024年5月22日 森の妖精
《無益なる 戦い止まぬ 五月晴れ 森の妖精 ピース歌いおり》 實久
―むえきなる たたかいやまぬ さつきばれ もりのようせい ぴーすうたいおり―
緑に囲まれての生活、そこには森の妖精の豊かな歌声が満ち溢れている。
五月晴れのもと、太陽の恵みをさんさんと受ける森の妖精の姿は、平和そのものである。
戦いに明け暮れる愚かな人間の無益な戦いに無縁であるかのように、素知らぬ顔で平和の歌を歌い続けている。
■ 2024年5月23日 空は五月色<シアン・ブルー>
《癒されし 白雲浮かぶ 五月色 花もたゆたふ 心地豊けき》 實久
―いやされし しらくもうかぶ さつきいろ はなもたゆたふ ここちゆたけき―
空は、雲間から顔出す鮮やかな五月色<シアン・ブルー>。デッキの真赤なゼラニュームの花も首を伸ばし、その柔らかい日差しを楽しんでいた。
■ 2024年5月26日 ブログ<ヨーロッパ高速鉄道・列車の旅>
■ 2024年5月27日 懐かしの花<アリッサム>
《光見る 老いのこころや 和みおり 重ね懐かし 昔の花に》 實久
―ひかりみる おいのこころや なごみおり かさねなつかし むかしのはなに―
庭のはしっこで、夢の世界に遊ぶ少女たち。
小さくて真白き顔は、奥ゆかしさの中に心騒がす美しさを秘めていた。
小学生のころ、ひっそりと教室の端で咲いていたおとなしいが、どこか気になるあの子が語りかけてくれたような気がした。
老いるとは、なんと素晴らしい想い出の花に出会えるのだろうか・・・
■ 2024年5月28日 <出会い>
《満ち足りし 天の使いや 雨粒の 宿り来し君 さだめの人かな》 實久
―みちたりし てんのつかいや あまつぶの やどりきしきみ さだめのひとかな―
なんと幸せ顔のお二人さんであることか。
雨粒さんが出会った最初の葉っぱさん、自分を選んでくれた幸せを噛みしめている葉っぱさん、お二人さんとも本当に幸せそうだ。
人もまた、同じ出会いに歓喜し、大切にする心のなんと美しいことか。
今日も雨の中、出会いを喜ぶ姿に出会い、こころが和んだ。
■ 2024年5月29日 可憐な<ムギセンノウ>
《お会いでき この時持ちし 今あるを 一期一会の こころと識りて》 實久
―おあいでき このときもしし いまあるを いちごいちえの こころとしりて―
その風に揺れる、侘しさの中にも、すくっと立つ姿勢の良さに、おのれの姿を見てくれてありがとうと言う声が聴こえてきた。
注目されることへの己の存在、そこにはひっそりと咲く野花の哲学との差異はあれど、出会いの喜びが見えたような気がした。
偶然の出会いは一瞬であり、今朝も一期一会の極致にひたった。
一瞬の出会いをいつも大切にしたい。
■ 2024年5月30日 <夕暮れのコラボ>
《それぞれに 自己主張の 乱れ雲 合わさるアート 極致の美をや》 實久
―それぞれに じこしゅちょうの みだれぐも あわさるあーと きょくちのびをや―
燃え尽きる瞬間の太陽が、乱れ雲を照らすとき、天体ショーの開幕である。
人知では創造できない一瞬の美が、そこにはあるのだから、驚嘆の毎日である。
燃え尽きるとは、老体の願望である。
■ 2024年5月31日 <哀愁>
《君もまた 悲しきさだめ 捧げなん 残せし証 われ認めしや》 實久
―きみもまた かなしきさだめ ささげなん のこせしあかし われみとめしや―
小雨ぱらつく散歩道、出会った切り株の哀愁に満ちた、寂しげな顔が気になった。
年輪、それはその杉の年毎の営みの記録である。
日光・雨や寒暖という天候、土や太陽からの栄養、テリトリーを守り合う周囲との協調や喜怒哀楽により年輪と言う記録の姿はかわり、その杉の個性を作り上げているようだ。
年輪を重ねることにより、幸せ度を測るという人間的物差しにも例えられているようだが、この杉のように人間の都合―電線を守る―ということで、その命を差し出す、いや犠牲にさせられることもある。
隣の杉は、伐られ往く友人との別れを悲しんだであろうか・・・
それとも・・・、ふと人間的感情がよぎった。
杉君は、35年の時を刻んでいた。
■ 2024年6月1日 雲煙(うんむ)
《消えなんと 儚き雲や 舞い散りて 重ねし我に 笑み贈りしや》 實久
―きえなんと はかなきくもや まいちりて かさねしわれに えみおくりしや―
はかなく、消えゆく雲や煙の存在を尊び、愛おしむ様を古人は、風流なる『雲煙模糊』と言った。
この日、比良山麓にある<志賀の里>は、まさに『雲煙模糊』にあり、消えゆく雲のはかなき風情を楽しませてくれた。
短い人生で巡り合う風情の一瞬に、おのれを重ねた。
■ 2024年6月2日 ピラカンサ<ときわさんざし>
《白き君 真赤な実成す 姿をや イメージ出来ぬ 儚なき我や》 實久
―しろききみ まっかなみなす すがたをや いめーじできぬ はかなきわれや―
クリスマスシーズンに真赤な実をたわわにつけ、冬中楽しませてくれるピラカンサ<ときわさんざし>・・・
長い間、その赤い実に心奪われ、その花に目を向けたことがなかった。
赤い実と白い花がどうしても結びつかなかったのである。
意外な取り合わせに驚き、自然の法則に驚かされる毎日である。
■ 2024年6月3日 蓄音機<ヤグルマギク>
《麗しき 音色奏でる 蓄音機 野に響きてや 想い伝えし》 實久
―うるわしき ねいろかなでる ちくおんき のにひびきてや おもいつたいし―
蓄音機の11個のラッパから流れ来るカーペンターズの歌声<Only Yesterday>・・・
■ 2024年6月4日 刻の流れ
《霞みたる 姿おぼろげ 山神の 釣り糸流る 波も静けき》 實久
―かすみたる すがたおぼろげ やまがみの つりいとながる なみもしずけき―
夏空に届けとばかりの雉の求愛の鳴き声<グエー>に誘われて、びわ湖畔の散策を楽しんできた。
かすむ伊吹山が、そのシルエットを恥ずかし気に見せているなか、アユ釣り太公望たちの、その瞬間に掛ける真剣な眼差しに気を使いながら、そっとシャッターを押した。
風や、波までが、この静寂を楽しんでいるようである。
志賀の里は、今日も刻(とき)の流れに身を任せ、己を静かに見つめていた。
■ 2024年6月5日 <紫蘭>
《遥かなる 青春偲ぶ 紫蘭おり 集いし姿 昔懐かし》 實久
―はるかなる せいしゅんしのぶ しらんおり つどいしすがた むかしなつかし―
太陽の陽を浴びながら、顔を突き合わせ楽しく語らう紫蘭の姿は、みんな紫の制服がよく似合う、女子中学生のように見える。 みんなこの陽気にピクニック気分である。
こちらまで華やいだ語らいが伝わって来た。
■ 2024年6月6日 炎舞(えんぶ)
《想い出を 世に残さじと 焚火する 儚き老いを 眺むる我や》 實久
―おもいでを よにのこさじと たきびする はかなきおいを ながむるわれや―
この歳になると、長年ためていた手紙類や写真などを捨てられずにいたが、ようやく腰を上げ、終活の仕上げとして焼却の儀式に乗り出した。
その焔は、言霊が舞うように、心情に寄り添った情炎の舞いのようにみえたのは、幻覚であったのだろうか。
心の動きは、妖艶な炎舞を見せてくれた。
■ 2024年6月7日 小手毬<コデマリ>Spiraea cantoniensis
《コデマリの 比良に木霊す ジャンボリー 歓喜に寄せし カブの歌かな》 實久
―こでまりの ひらにこだます かんきによせし かぶのうたかな―
ここ志賀の里は、寄り添い合いながら真白な花を咲かせ、優雅な世界を演出する低木<コデマリ>に恵まれた里でもある。
この時期になると比良山麓一帯に咲き乱れ、カブ・スカウトのジャンボリー会場の観を呈する。
渡来人である我々と同じく、江戸末期、今から160年程前、中国からテンダーフット(新入隊員)として、ここ日本にやって来たという。
■ 2024年6月18日 <新幹線>
《爆笑の 心響かす つくし野に 追憶語る 深け往きし夜や》 實久
―ばくしょうの こころひびかす つくしのに ついおくかたる ふけゆきしよや―
すでに梅雨に入ったのであろうか、雨滴音にその重さを感じる朝である。
コロナ禍で 兄弟姉妹の往来も遠ざかっていたが、町田市にある姉宅を訪問してきた。
兄弟姉妹の内、弟以外みな80歳代に入り、体力・記憶力が衰えないうちにと思い切ったのである。
雲に隠れ、恥ずかしがりやの富士山には出会えなかったが、駅弁を食べながらの新幹線に3年ぶりに乗車、流れゆく美しい日本の田園風景に飲み込まれてきた。
圧巻のN700系<のぞみ>の息遣い、かすかな振動を楽しんだ。
のり鉄至福の刻をもった。
(写真は、東京方面行ーH700系のぞみ―バックシャン)
■ 2024年6月19日 <ボス猿再会>
《幾年の 久闊を叙す 比良の猿 何を我らに 求め来しかや》 實久
―いくとしの きゅうかつをじょす ひらのさる なにをわれらに もとめきしかや―
ここ志賀の里、豪雨のあとの睦月晴れ、忘れかけていた猿君に再会した。
数年前に比良の猿軍団と対峙して以来、すでに絶滅したかと諦めていた。
立派な毛並みに、ニホンザル独特の赤い顔と尻、懐かしさに声を上げた。
でも、なぜいま、人里に姿を現わしたのだろうか。 それもわが家の裏庭へ・・・
再会の喜びよりも、かえって一抹の不安がよぎった。
ボスの座を追われたのであろうか。
なぜなら、いつもの取り巻き連中が見当たらなかったからである。
■ 2024年6月20日 <久しぶりのサイクリング>
《亡き友の 押せし風乗る びわ湖畔 汗する老いの サイクリング哉》 實久
―なきともの おせしかぜのる びわこはん あせするおいの さいくりんぐかな―
あれは雪残る1月26日、病床の若き友が天国に召された日であった。
若き友の遺影をポケットにびわ湖一周<ビワイチ>に挑んだのを最後に、サイクリングから遠ざかっていた。
遺影に見る若き友の笑顔に押されて、六月晴れのもと、久しぶりのサイクリングに出かけてきた。
風を切り、汗しながら亡き若き友と共にサイクリングを楽しんだ。
■ 2024年6月21日 命の恩人<バッタ君>
《バッタ焼き 空腹満たす 餓鬼の頃 命継ぎたる 彼の地想いし》 實久
―ばったやき くうふくみたす がきのころ いのちつぎたる かのちおもいし―
出会いは、運命を感じる一期一会である。
朝鮮半島からの引揚げが遅れ、少年時代前半を過ごした彼の地で空腹を満たすため焼いて食べたバッタの末裔に出会ったのである。
あの時代、そう1950(昭和25)年より、彼の地は市街戦に明け暮れ、マッカーサー将軍率いる艦隊は仁川上陸にあたって、艦砲射撃をソウルに向かって猛爆していた。 そのような銃弾飛び交うなか、少年たちは家族を養うため、食料調達と言う美名のもと、野草の根っこや、団栗の実や、昆虫を漁っていたものである。
逞しくも、バイタリティーに富んだ破天荒な少年時代であった。
バッタ君に出会い、生きながらえ、今あるを感謝する日々である。
■ 2024年6月24日 「世界UFOの日」<股覗き>
《こちらにも 来てごらんと 覗き見する UFO誘いし 水溜りかな》 實久
―こちらにも きてごらんと のぞきみする ゆーほさそいし みずたまりかな―
今朝の雨水溜まりに映る、また覗きする自分がいた。
5年程前、ある教授が<また覗き効果>でイグ・ノーベル賞を受賞された記憶がある。 変化(へんげ)の面白さがある<また覗き効果>に夢中なのだと語っておられた。
水溜りに映る<また覗き>もまた、私の好奇心をくすぐるのである。
そこには、もう一つの世界、そう幻想的な世界があるようで、今でも子供の頃から憧れ続けている<未知なる世界>、そう<UFO世界>を覗き見し続けている老人がいるのだ。
興奮の毎日である。
■ 2024年6月26日 <トンビ輪を描く>
《天国の 若き友舞う 比良の空 こころ洗わる 翼振る鳥に》 實久
―てんごくの わかきともまう ひらのそら こころあらわる よくふるとりに―
曇り空のもと、比良の峰高く、悠々と飛翔し輪を描くトンビの姿に、この年始め天国に召された若き友の面影を見た。 声掛けに、若き友の笑みを伝えているのだろうか、翼を揺らしてくれた。 爽やかな朝となった。
■ 2024年6月30日 ブログ「星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km」
《夢求め 雄叫び上げし 足摺の 波頭に濡れし 若き誓いや》 實久
―ゆめもとめ おたけびあげし あしずりの はとうにぬれし わかきちかいや―
<遠くへ行きたい>と、大学ローバースカウト仲間と卒業記念にと四国一周の旅をしたことがある。 足摺岬で、上半身裸になり、潮風を浴びながら太平洋に向かって雄叫びを上げて、62年が過ぎ去った。
その集大成として始めた「星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km」も、ようやくその中間点ヨーロッパを駆け抜けた。
最終目的地である南アフリカのケープタウンまで、まだまだ<遠くへ行きたい>途上にあるが、力尽きない前にブログ完成を見たいと願っている。