『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
《アフリカ縦断の旅 15650km》 Ⅱ
―東アフリカ編―
星の巡礼者 後藤實久
Ⅰ 《シベリア横断の旅 10350km》
Ⅱ 《ヨーロッパ周遊の旅 11000km》
Ⅲ 《イスラエル縦断の旅 1000km
Ⅳ 《アフリカ縦断の旅 15650km》
■ 11月15日 カイロを飛び立ち、ケニア首都ナイロビへ
エジプトを去る日である。
ケニア首都ナイロビへの飛行機は夜行便である。
この喧騒に満ち、生きる力が満ち溢れたカイロの街は、悠久の流れにあるナイル川のように、これからも変わることなく時の流れに身を任すことであろう。
そして、人びとは規律や規則に縛られず、大自然の法則に身を任せ、アッラーのもと、生きる喜びを変えることなく真理を見出していくことであろう。
いよいよイスラム圏アフリカ・エジプトより飛行機で、内乱状態にあるスーダンをひとっ飛びし、赤道の国で、<野生動物の王国>であるケニアの首都ナイロビに向かう。
当時の日本政府もスーダンを渡航禁止国に指定していたが、実は、東アフリカをバスで縦断する計画を秘かに立てていた。 しかし、スーダンの内戦は、この旅までに解決せず、動乱は止むことなく、さらに部族間の対立が激化し、スーダンを南北にバス縦断することは不可能となってしまった。
ケニア航空321便の窓から、月明かりに輝くナイル川に別れを告げた。
さらばエジプトよ、また会う日まで・・・
ケニアの<サファリ―ツアー>で、野営をしながら野生動物を追ってみたい・・・
少年時代の夢は、まさに現実になりつつある。
▼ 11/15 ケニア航空321便 機中泊
カイロ 11/15 23:20発 ➡ スーダン・ハルツーム空港(乗継)
➡ ケニア・ナイロビ<モイ国際空港> 11/16 06:20着
Kenya Airwaysでケニア首都ナイロビに向かう
<ケニア共和国とは、どんな国・・・>
豊かな大自然を創り出している恵まれた気候や地形こそが、<野生の王国>と言わしめる大平原を残している。
その上、素晴らしい初代の指導者たちに恵まれ、ナイロビを中心に、ケニアを東アフリカの政治・経済・文化の中心に育て上げ、<野生の王国>建設にも力を入れてきた。
観光客は、わたしのように、まずナイロビを目指し、ナイロビを中心に東アフリカを旅することとなる。
今なお、ナイロビには失業者があふれ、治安も決して良いとは言えないが、それでもケニアは東アフリカでもっとも豊かで安定しているといえる。
ケニアは国自体が赤道直下にあるにもかかわらず、ナイロビは標高1700mの高原地帯に位置し、平均気温10~28℃と、しのぎやすい。
■ 11月16日 <ケニア首都 ナイロビ>
朝6時20分 搭乗機・ケニア航空321便は、ケニア・ナイロビ <ジョモ・ケニヤッタ国際空港>にすべり込んだ。
両替を済ませ、隣接する<VENTURE AFRICA TRAVEL>のデスクで、サファリ―・ツアーに申込み、念願の赤道直下のサバンナで、野営をしながら野生動物を追い、その生態を観察する機会が正夢となり、心躍った。
好青年、ドライバーDavid、ガイドJenniferも紹介せれ、6日間のサファリ―ツアーの説明も受ける。 (6日間 x @70US$=420$前払い)
宿泊先は、<ナイロビYMCA>とし、防虫対策がよく、疲れがとれるトイレ・シャワー付きのダブル・ルームとした。 (1泊 1041Sh/シリング)
□ 空港で両替を済ませる <エジプト・ポンド£ ➡ ケニア・シリングKsh>
□ 空港カウンターでジンバブエ航空のリ・コンファーム/予約再確認
<ケニア・ナイロビ ➡ ジンバブエ・ハラーレ ➡ ビクトリア・フォールズ>
□ インフォメーションで<ケニア地図>を入手
□ ジョモ・ケニヤッタ国際空港 ➡ YMCA宿泊先移動 <タクシー利用>
□ コレラ予防薬の購入<Vibramycin 100mgx10Capsules>
□ ナイロビのショッピングセンターでの購入メモ
<蚊取線香・ネット・目張り用ガムテープ・侵入防止用鍵・懐中電灯・非常食・果物・水>
□ イエロカード「マラリア予防接種証明書」の携帯確認
<ブラック・アフリカ : ケニア>
アフリカの黒人の国<ブラック・アフリカ>に足を踏み入れたのは、この時、ケニアが初めてである。
アラブ・アフリカにあるエジプトや、モロッコ・チュニジア・アルジェリア・リビアは、アフリカにあっても、<ブラック・アフリカ>とは言えない。
赤道直下に位地するケニアは、インド洋に面する海岸線をのぞいて1000m以上の高原地帯であり、炎天下は暑いが、陰に入ったら涼しくしのぎやすい。
ナイロビの街を歩いて感じたが、慣れないせいなのか、どこか違和感を持った。
エジプトのカイロで接したアラブ系アフリカ人からは、親しみの情を見せてくれたものだが、ケニアの人々は、どこかアフリカ人としての誇りを感じさせ、溶け込みにくく、冷たさを感じたのは私だけだろうか。
ただ、商売や、客引きに関しては人種に関係なく、アラブもアフリカも熾烈である。
さっそく、ナイロビの繁華街にある中華料理店「九龍」に出かけ、栄養補給をした。
ランチを食べたいと注文すると、中国人である主人が出てきて、「800Shで任せるか?」という。
メニュー無しのお任せである。 1600円もの昼食は、バックパッカーにとって法外だが、任せてみた。
なんと豪華な中華が出てきたことか・・・
チキン・ポーク・ビーフの各野菜炒め、ローメン、ふかひれスープ、春巻、ご飯と食べきれないほどのボリュームである。 もちろん残りはテイクアウトである。
主人としても久しぶりの東洋人、つい声を掛けて見たくなったようである。
こちらも、赤土の国ケニアにあって、孤軍奮闘する東洋人にこころからエールを送ったものである。
世界中を歩いていて、どのような田舎町でもチャイニーズの経営する中華料理店に出会ったときの嬉しいこと、この上ない光明であり、安堵感に包まれることはない。
このような地にも東洋人が住み着いていると思うだけで、孤独感は消え失せてしまうのである。
ただ、美味しい中華を食べていて、現地の従業員全員がこちらの卓をぐるりと囲んで、食事をする様を観察するのだから、落ち着いて食事もままならない奇妙な光景に出くわした。
早々に残りをパックしてもらい、ご主人のご厚意に感謝し、退散したのである。
ケニア政府の方針で、サービス業は優先して現地住民の雇用を義務付けているのであろうか。
それにしても、異様な経験は、不気味であった。
ナイロビは、カイロに比べてゆったりと時間が流れている。
神風の街から、ハンナリの街 京都にやって来たようである。
<ナイロビの危険について>
しかし、このノスタルジックな雰囲気は、街を散策していて一変した。
ナイロビのYMCAを出て、ナイロビ大学の構内を散策し、日本大使館の位置を確認、ナイロビ市役所をすり抜け、テロに襲撃されたというアメリカ大使館を巡り、市役所近くのシティ・スクウエアーで休んでいたところ、公園の四隅からこちらをうかがう異様な雰囲気を感じたのである。
と同時に四隅の黒い影は一斉にこちらに向かって歩き出したのである。
人通りも少なく、とっさに危険を感じたので、迫りくる気配を観察し、脱出口を見つけることに全神経を集中させた。
どうも、東西南北から迫りくる暴徒の内、北からの一番弱そうな背の低い人物めがけてあらん限りの力を出して、ダッシュしたものだから、その人物が、こちらの突進にパニックになり、一瞬怯んだのである。
こちらのダッシュにほかの暴徒があわてて追い出したが、こちらの勢いの方が勝っていたのであろう、なんなく一点突破に成功し、無事YMCAに駆け込んだ。
くわばらくわばらである。 敵も獲物を逃がして悔しがっていることであろう。
でも想像しただけで身の毛がよだった。
暴行の上、身ぐるみはがされ、公園に転がされている姿を想像しただけで、この幸運に感謝したものである。
2001年当時の日本人が、金持ちであるとの全世界での評価は、ここナイロビでも同じである。
残念ながら、外地ではおのれ自身を守らざるを得ない、自己防衛の意識が求められるのである。
その手段として、いつもスティック(先の尖った登山用ストック)携帯し、暴徒や強盗に対処しているが、いざというとき役立つかどうか疑問に思っている。
しかしである、宿泊先であろうといつもその危険にさらされている限り、用心するためのツールとして持ち歩いている。 一種のお守りとして・・・
<蚊帳のある部屋>
懐かしい小中高生の青春<スカウト時代>の想い出の一つに蚊帳(かや)がある。
昭和の時代、蚊帳は夜具に欠かせない必需品であった。 また、キャンプに行ったときの、テントのなかでスカウト同志寝床を取り合った懐かしい思い出も宿った。
しかし、ケニアにおける蚊帳は、マラリアや黄熱病、テング熱からの直接的感染・脅威を防止する必須のアイテム・ツールである。
天井からつるされた蚊帳は、ベッドをすっぽり包みかぶさっている。
しかし、良く調べてみると10か所ほどの穴が見つかり、命を守るため急遽、カイロで購入したガムテープで補修することとなった。
<氾濫する日本製中古品>
ナイロビの街を歩いていて、氾濫する日本の中古車・電気製品に驚かされた。
ケニアの日本からの輸出入は、10対1だという。 一歩間違えれば、反感につながりかねないからか、日本政府も病院建設などで協力しているようである。
最近、アメリカ大使館が襲われ、爆破・放火された。
ヒルトンホテルや、大型ショッピングモールが進出し、現地の雇用を生み、経済活動にも活発だが、住民の貧富の差は広がる一方で、不満は爆発寸前であると聞く。
同じ目が、日本にも向けられても不思議ではない。
ナイロビの街いたるところで、日本車が氾濫しているからである
明日からは、念願の<アフリカ・サファリ6日間ツアー>のスタートである。
神から贈られたプレゼント<6日間のサファリ―キャンピング>、無理せずに大自然の空気を胸いっぱいに吸い込みたい。
▼ 11/16 <ナイロビYMCA>
Uhuru Highway沿いのナイロビ大学グラウンドに隣接
蚊帳付きベットのあるNairobi YMCA
■ 11月17日 <赤道直下サファリ―ツアー>
《キャンピングー サファリ5泊6日》 440US$
ツアー社 : <VENTURE AFRICA> TEL;HQ-219888
▲テント5泊(自炊キャンプ)
1日目 ナイロビ出発~マサイ・マラ村 (生活体験)
2日目 マサイ・マラ村2日目
3日目 ナクル湖 (フラミンゴ)経由~サンブルNPへ
4日目 サンブル・ナショナル・パークより~アンポセリへ向かう
5日目 アンポセリ・ナショナルパーク
6日目 アンボセリ・ナショナルパーク~ナイロビ帰着
<ツアー参加者> 5名 (オランダ2名・ドイツ2名・日本1名)
ドライバー兼世話人:MR.Richard Grit Glawe
<サファリー出発前 ナイロビYMCA>
イスラエル、エジプトと緑少ない砂漠地帯から、赤道の国 緑あふれるケニアにいる。
宿泊先であるナイロビYMCAの美しい緑と花の庭園を見ていると、天国の花園にいるような感覚になった。
朝食をとるためダイニングルームにいる。
宿泊者は、みな土地の人達、和やかな談笑のなか、フォーク・ナイフが賑やかなハーモニーを醸し出している。 ここナイロビのYMCAは、地元の裕福な人々の社交の場のようだ。
ケニアだけでなくエジプトでもそうだが、人々の中に貧富の差からか、真逆の生活が混在しているのだ。
YMCA青年部の集い
いよいよ、子供時代に過ごしたボーイスカウトのキャンプで夢見た、待望のサファリ―・キャンプが実現するのだ。
ミルクティーが美味しい。 そのザラメの砂糖が、朝鮮戦争下の連合軍兵士からもらったキャラメルやチューインガムなど、少年時代を思い出させてくれた。
今回の旅では、国・宗教・人種・政治・気候・風土・風習・言語の違う土地を旅してきたが、ただ、そこに住む人たちの考え・習慣・信仰などで、貧富の差を越えて自分たちだけのオリジナリティな世界を創りだしていることに感銘をうけたものである。
ナイロビYMCAも、ヨーロッパやアメリカのYMCAのセルフサービスと違って、一世紀前の英国植民地時代の一流ホテルのレストランと同じく、ボーイが注文を取りに来て、目玉焼きの焼き具合、ソーセージの大きさ、フルーツの希望と、客本位のサーブを行っていたのには驚かされた。
あの宣教師的権威に満ちたYMCAの姿が、ここアフリカに残っていたことに、驚きを隠せなかった。
そう、ナイロビYMCAは、バックパッカーのようなアニマルの泊るところではなかったようである。 着飾った貴婦人や紳士がより集って談笑するサロン的社交場であったのだ。
今回の長旅で初めて、ここナイロビYMCAで、バックパッカーらしからぬホテル並みのベット、そして、まともな食事となった。
まるで英国植民地時代の貴族的生活スタイルを味わうこととなった。
<サファリ―ツアー開始>
「マサイ・ラマNP」(国立保護区)をサファリー・バンで走りながら、インパラ・ジブラ・野ウサギ・ヌ―を観察、人の手を借りずに生きている野生動物たちの精悍さ、機敏さに触れ、その生きざまに目を見張った。
人間の、お互いの協力、相互扶助という助け合い、組織的に生きる動物であるのに対して、野生動物は、群れを成し、相互防衛のもと、一匹一匹が自由な生き方を貫いているようである。
距離メーターの壊れた中古車<トヨタ・ハイエース>が、5人のサファリ―・メンバーを乗せて国道B3を西へ、サマイ・ラマNPに向かいながら、さまざまな動物を見つけては観察に興じた。
1日目 サファリ―ランチ : サンドイッチ・卵・バナナ・オレンジジュース
この中古日本車<サファリ―バン>は、途中、床下の保護板が外れたりと、騒動はあったが、最後までサファリ―・ツアーの役目を果たしてくれ、中古日本車の世界席捲の理由が分かったような気がした。
マサイ・ラマ村に着いてからは、焚火を囲んでマサイ族の伝統的な成人式ダンス<ファイティング・ダンス>を鑑賞、マサイ族の青少年は16歳になると7年間、部落の外に出されて一人で過ごすという。
<サファリの準備>
サファリ・キャンピングの夜は、かなり冷え込むと言うことでジャケットを持参、ほかにマサイ・ラマ村でショールを購入して備えた。 日中はたいていサファリ・カーにいるので、動きやすいTシャツと、ポケット付きのサファリ・ベストにサファリ・ズボンで過ごした。
ほか、帽子・サングラス・ヘッドライト・ロウソク・マッチ・蚊取線香・虫よけネット・双眼鏡・ウエットティッシュ・ティッシュペーパー・星座表・簡易動物図鑑・スケッチブック・水彩絵具・筆記用具・ミネラルウオーター・リップクリーム・のど飴・救急セット・カメラ・予備バッテリ他を準備した。
寝袋と食事は、サファリ会社が用意してくれていた。
焚火を囲んで<ウエルカム・ダンス>を踊るマサイのご婦人たち
▼ 11/17 マサイ・マラ村 キャンピングサイトにてテント泊
●サファリー・ツアー・キャンピング参加者(5名)
(サファリ―・バン 運転手兼ガイド・クッキング :
Mr. Richard Grit Glawe (ケニア・ドライバー兼世話役)
Ms. Kere Karstens (オランダ)
Mr. Nico Plooijer (オランダ)
Ms. Stefan Pawlowski (ドイツ)
Mr. Grit Glawe (ドイツ)
Mr. Sanehisa Goto (日本)
マサイ・ラマ村の早朝(11/18 04:30am)の風景(ラフスケッチ)
■ 11月18日 サファリ―ツアー 2日目
アフリカの夜明けは、実に速く、美しい。 近くでシマウマたちが草を食べ、マサイ族のご婦人たちの合唱、朝焼けの雲、 もうここは夢にみた世界である。
マサイ・ラマ村の美しい朝焼け
マサイ・ラマ保護区のシマウマ(ジブラ)たち
マサイ族のご婦人たちの早朝合唱に飛び込んで
マサイ族がまとう民族衣装<一枚布>の色や織り方に魅了されて、分けてもらって、さっそく戦士や子供たちと写真におさまった。 いまでも大切に保管し、船旅のショーなどで披露している。
マサイの民族衣装をまとって戦士・子供たちと
ケニア・サファリ―・キャンピング6日間ルート図
サファリ―・ツアー2日目のミーティング(マサイ・マラ村)
マサイ族戦士と
マサイ・マラ村の子供達
▼ 11/18 マサイ・ラマ村 キャンプサイトにてテント連泊
今宵は、キャンプ・ファイアーでのマサイ族の戦士によるファイティング・ダンスを
鑑賞する。
南十字星を眺めながらのキャンプファイアー
マサイ族戦士と共に
Sketched by Sanehisa Goto
▼ 11/19 マサイ・ラマ村 キャンプサイト連泊
マサイ・ラマ村 キャンプサイトにてテント連泊
マサイ・マラ国立公園の日没の風景
Sketched by Sanehisa Goto
<キャンプサイトでの注意>
キャンプサイトと言って安全とは限らない。 柵もなく野生動物が平気でキャンプサイトに近づいてくる。 ここマサイ・ラマ村では近くの川に水吞のためカバや他の動物が多く見かけられた。 観察する者を意識することなく、悠然と構え、こちらを観察するゆとりさえ見せてくれるのである。
自然との触れ合い、野生動物の野生息遣いがこちらにも伝わってくる瞬間であり、サファリの醍醐味である。 接近してきたほとんどの野生動物は、こちらが変な行動をとらない限り、じっとしていればそのまま通り過ぎていくものだ。
ただ、テントのなかに食べ物を置いたまま離れるな、との厳重な忠告を受けたものである。 野生動物のきゅう覚には充分気を付けた。 今までに何度も像に襲われ、テントをつぶされたとの事である。 また、サバンナモンキーに食べ物を狙われたら、テント内はその略奪ぶりに目も当てられないほど荒らされるとの話だ。
これらの食べ物による被害は、日本の山でも同じである。 5泊前後のロングトレイル縦走時の食料を熊からの襲撃を防ぐために、テントから離して木の枝に吊り下げていたことも、経験として生かされた。
■ 11月19日 マサイ・ラマ村より<ナクル湖>に向かう
早朝、マサイラマ自然保護区を警護付きで散策サファリ―
移動中、マサイ族の放牧地に立寄る
マサイ・マラ村の家屋と室内
Sketched by Sanehisa Goto
マサイマラ国立保護区セケナミ・ゲートを後にして
フラミンゴ観察のためナクル湖に向かう
マサイ・ハイウエーからのサファリ―風景
国道B―1よりの眺望
Sketched by Sanehisa Goto
<ナクル湖でフラミンゴ観察>
2001年当時、ナクル湖はアルカリ性の湖に発生する藻を求め飛来する数百万羽というフラミンゴの大群を見られるアルカリ湖として有名であり、当然サファリツアーに含まれていた。
ナクル湖は、ナイロビから約160キロ北にある面積40平方キロメートルほどの小さく浅い湖である。
皮肉にも、これより10年後の2011年に世界遺産に登録された「ナクル湖」であったが、わたしが訪問した2001年以降、異常な水位の上昇により水質が中性化し藻の生育を阻害したため、飛来するフラミンゴは激減したといわれている。
そのほとんどが、おなじくアルカリ湖である60㎞東北に位地するボゴリア湖に移動してしまったようである。
現在、ナクル湖にはフラミンゴの姿はなく、そのほかの野鳥や、白犀の生息地として有名であるという。
私たちが、立寄ったときがナクル湖でのフラミンゴ観察が出来る最後の年であった。
フラミンゴの群れで覆われたケニア・ナクル湖面
ケニア・ナクル湖のフラミンゴの群れ
双眼鏡でナクル湖のフラミンゴ観察中
ケニア・ナクル湖のフラミンゴ (Get Your Guideより)
サファリ―バン(トヨタ・ハイエース)よりナクル湖のフラミンゴ観察中
ナルク湖でのフラミンゴの生態を観察したあと、国道A2を北上し、赤道をまたぎ、サンブル国立保護区へ向かう。 途中、巨大犀に出会いながら、本日の宿泊基地のサンブル・エドワード・キャンプサイトに到着した。
国道A2号線上のアフリカ・ケニア赤道通過点表示板
(標高2130m/6389ft上の赤道)
赤道直下にあるケニア国道A2
本日の宿泊キャンプサイトのあるサンブル国立保護区は、ほぼ赤道直下にあり、後に経験するブラジル・アマゾン川での赤道直下でのハンモック・キャンピングと共に生涯、記憶に残るキャンプとなった。
Sketched by Sanehisa Goto
赤道直下の星座たち
Sketched by Sanehisa Goto
サンブル国立保護区より赤道直下の夕焼けに沈むケニア山(標高5199m)を望む
▼ 11/20 サンブル国立保護区のキャンプサイト泊
サンブル国立保護区のキャンプサイト
夜間、野生動物の接近を防ぐ焚火
■ 11月21~22日 アンボセリ国立公園サファリ―・ツアー
サンブル国立保護区のキャンプサイトで目を覚ました一行は、早朝のサファリ・ゲーム・ドライブで、たくさんの野生動物、ヒョウ、シマウマ、ライオン、アフリカゾウ、キリンたちに出会ったあと、次なるアンボセリ国立公園に向かった。
インパラ ヒョウ
シマウマ ライオン
アフリカゾウ キリン
サンブル国立保護区のキャンプサイトを出たサファリ―カーは、一路国道A2/A104を南下し、タンザニア国境、キリマンジャロ山をかすかに望見できるアンボセリ国立公園のキャンプサイトに向かった。
この近くの別荘キャンプ地で、アメリカの作家ヘアーネスト・ミングウエーは、サファリ―で狩猟を楽しみながら小説「キリマンジャロの雪」を執筆したという。
「キリマンジャロの雪」はベストセラーとなり、1952年にグレゴリーペックとスーザンヘイワードという二大俳優によって映画化された。 中学時代に、京都伏見にある大手筋商店街にあった映画館で観たことを覚えている。 内容についてはほとんど覚えていないが、その雄大なサファリ―にうかぶキリマンジャロの勇姿が記憶に残っているのである。
同じアンボセリ国立公園のキャンプサイトから眺める、赤道付近にあるアフリカ最高峰キリマンジャロ(標高5895m)の頂に、雪が少なかったことに驚いたのである。
なぜなら、想い出のなかのキリマンジャロの平らな山頂には、真白な雪が見えるはずであったからである。
サファリで狩猟するヘミングウェイ(1934年 Wikipedia)
1934年 アンボセリ国立公園からのキリマジャロ山(標高5895m)
アンボセリ・キャンプサイトで出されたミネラルウオーターのラベル<KILIMANJARO>
▼ 11/21~22 アンボセリ国立公園のキャンプサイトにて連泊
■ 11月22日 アンボセリ国立公園でのサファリ―・ツアー
アンボセリ国立公園キャンプサイトで
アンボセリ国立公園での朝食風景 (サファリツアー参加者と)
<危機一髪>
朝4時半、夜が明けきらないキャンプサイトの外周を一人散策して、90分程、野生動物の世界に足を踏み入れてみた。
ガイドは、キャンプサイトの周りをトレッキングしてもいいと言っていたのである。 もちろん野生動物の接近・危険は無いものと理解していた。
インパラの群れに接近、観察にいささか興奮していた。
このとき、近くの木の枝からレオパード(チーターより小型)が背をかがめながらこちらを見下ろしていたと、帰ったわたしにキャンプ・オーナーが告げたのである。
<You are so lucky, be here now!>
と言われて、振り返った枝に、獲物を逃がしたレオパードが、インパラの群れに視点を変えているのが見てとれた。
レオパードは、チータと同じく、狙った獲物は絶対に逃がさないこと、危機一髪のところで難を逃れたことを知って、ようやく驚きの頂点に達したのである。
アフリカ・サファリーでは、絶対にキャンプ・サイトを離れてはいけない事を、肝に銘じるべきであった。
危機を知らず、キャンプサイト周囲を散策中
<サファリ―キャンプの食事>
朝6時、朝食<パンケーキ・フレンチトースト・スクランブレエッグ・ビーンズ・コーヒー>をとり、サファリ―バンで出発、いまだ枝に張り付いているレオパードを観察しながら、近くのサンブル・ロッジでシャワーをとり、汗にまみれた体を洗ったあと、プールで泳ぐ。
清々しいアフリカの空気を吸いながらランチ<ミートソース・パスタ & ビーンズ オレンジ・ジュース>をとる。
午後からのアンポセリ・サファリ―を終えたら、明日はいよいよナイロビで解散である
<アンボセリ国立公園で出会ったサファリ―の主役たち>
ジャカレ(キツネ)・Hippo(カバ/サイ)・アンデュープ・イノシシ・ライオン・ハイエナ・ジブラ・ジラフ・コンドルグヌー・バッファロ・イニシシ・モンキー・オーストッチ・ウオーターバック・バッファロー
ライオン アフリカゾウ
インパラの群れ
ライオン バッファロー
ケニア・サファリ―・ツアー・ランチタイム風景
ヌーの群れを追う
サイを追う
▼ 11/22 アンボセリ国立公園キャンプサイト連泊
最終日は、テントにグランドマットを敷き、マサイ布を巻いて寝た。
蚊の襲来は凄く、このサファリ―で初めて蚊取線香を焚いた。
マラリアの予防薬は、ケニア到着時より服用していたので安心ではあるが、蚊に噛まれた手の腫れが、少し気にかかるところである。
最後の夜、サファリー参加者のサヨナラ・ミーティング
アンボセリ国立公園キャンプサイトから見る星空は、とくに綺麗である。
赤道に近か過ぎて、サザンクロス<南十字星>の位置がはっきりしないが、南半球におりながらオリオン座(北半球の星座)が天空にはっきり見えたのには感動した。
星座の位置は、サンブル国立保護区でスケッチした夜空の星たちを見ていただきたい。
<サファリ―における野生動物保護に関する考察>
キャンプサイトの留意事項の中に、野生動物に関しての次のように書かれていた。
「野生動物は、植物とともに、特定の種に限らず動物全体が生物多様性の重要な構成要素であり、私たちの豊かな生活に欠かすことのできない存在である。 このため、動物を含むすべての生物の保護とその適正な管理を実施することにより、良好な自然環境を保全し、もって現在及び将来の健康で文化的な生活の確保に寄与することを、サファリ―参加者は理解して、行動し、野生動物に接していただきたい。
主なる問題は2つある。 一つは、違法で規制されていない野生動物の取引がなされていること。 もう一つは、野生動物の生息エリアが減少し、消滅しつつあること。 これらの脅威への取り組みが、WWFの野生生物種保全プログラムの活動の大きな柱となっていることを理解の上、サファリーツアーを楽しんでいただければ幸いである・・・」
また、野生動物との接し方、守り方として、次のように箇条書きされていた。
「わたしたちにできることは……
1.身近な自然に関心を持って、自然の中でそっと生き物を観察しよう。
2.絶滅のおそれのある生き物をつかまえたり、飼ったりしないようにしよう。
3.ペットや外来種を自然のなかに放さないようにしよう。
4.森や川などに出かけたときは、ゴミはすべて持ち帰ろう。」
現在、世界中で人間の勝手な欲望を満たすため多くの野生動物が犠牲になっていることを、アンボセリ国立公園のレンジャーが、焚火を囲みながら静かに語ってくれた。
野生動物を保護しないと、ここアフリカでも動物たちが絶命の危機にあると、サファリ―で接した野生動物の息遣いからくる、命の大切さを忘れずに、いかなる野生動物たちをも絶滅危惧種に追い込まないように協力していただきたいと訴えていたことが、こころ深くに残った。
■ 11月23日 サファリ―最終日 & ナイロビ帰着 曇
アンボセリ国立公園でのサファリ―を終え、ナイロビに向かう。
ステファン・グリッド(ドイツ組)とは、ここアンセボリで分かれ、アイリン・ニコ(オランダ組)とナイロビに向かうため、サファリ―カーに乗込む。
アフリカでのサファリ―が夢だっただけに、サファリ―期間中、眠るのも忘れ駈け回ったおかげで、ナイロビへの帰途、座席に横たわってぐっすりと眠ってしまった。
ツアーの楽しさは、ガイド兼運転手のデイビッドの軽いジョークや、ドイツ・オランダ組の聡明な若さと好奇心からくる鋭い観察眼によるところが大きかった。
サファリ―の食事も、質素ながら満足であり、キャンプサイトも申し分なかった。
なんといっても、サファリーの野生動物の生き生きした生態にまじかで接することができ、満足できたたことを一番喜んでいる。
<ナイロビYMCAに帰着>
YMCAでは、聖書研究会が持たれていた。
多くの宿泊者や、現地の青年が参加し、旧約聖書<ISAIAH 40-28~31、イザヤ書 第40章28~31節>が、研究テーマであった。 聖書朗読のあと、讃美歌#320が流れた「主よみもとに 近づかん・・・」
この章は、約60年前新大陸ブラジルへの移住を目指し、移住訓練所であった東京江古田<力行会>(1897年・明治30年 島貫兵太夫牧師によって創立・当時は永田稠会長)に入所した時(1965年2月10日)に学んだことを懐かしく想い出していた。
この節には、次のように書かれている。
『28 あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。
29 弱った者には力を与え、
勢いのないものには強さを増し加えられる。
30 年若いものも弱り、かつ疲れ、
壮年の者も疲れ果てて倒れる。
31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
鷲のように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない』
ナイロビにある<ケニア航空>の事務所で、ジンバブエ首都ハラレ行フライトのReconfirm(リコンファーム・搭乗再確認)を行い、その足でジンバブエ航空の事務所で往復航空券<ハラレ/Harare~ビクトリア滝/Victoria Fall>を購入する。
ケニア・ナイロビのYMCAやYouth Hostelは市内で一番危険なエリアにあると、西欧のガイドブックでは警告しているが、YMCAに滞在してみて、厳重なセキュリティをはじめ、規律あるマネージメントや、健康安全面での対応に満足しており、危険をあまり肌で感じることはなかった。
ただ、散策で味わった気味悪い包囲網を思い出したが、それに増してYMCAでのケニア青年たちの明るい笑顔に魅せられた。
プールで泳いでみたが、清潔である。 青年たちの議論する声や、讃美歌の流れが、この国の明るい未来を象徴しているようにも見えた。
サファリ―カー無事ナイロビに帰る
ケニア国旗ひるがえるナイロビ
▼ 11/23 ナイロビYMCA連泊
■ 11月24日 モンパサ (ケニア主要港)
ケニアを発ち、ビクトリア湖に向かう前に、アフリカの鉄道旅を楽しむことにした。
ナイロビ~モンパサ間往復、東アフリカ約1000kmの旅である。
モンパサの人口は、約120万人(2019)で、ケニア第2位の港湾都市である。
かつてはアラブ人との交易で栄えた地域で、イスラム教徒が多く住んでいる。
ムスリム商人の活動が盛んになるにつれ、インド洋で行われていた交易において、拠点の港の1つとして栄えた都市である。
19世紀後半には、イギリスの植民地として、イギリス領東アフリカの重要な外港として機能していた。
さらにモンバサは、この地域における陸上交通の拠点でもあり、東アフリカにおいても重要な交通の要衝である。
かって鉄道路線は、カンパラ(ウガンダ)~ナイロビ~モンパサ間を走っていたが、現在、幹線路線はナイロビ~モンパサ間約490kmとなっている。
2017年、中国によりケニアの資源開発を円滑にするため幹線鉄路の近代化に着手、完成しているが、債務の罠として世界中が注目している路線である。
ナイロビ~モンパサ間の英国植民地時代の古い列車
ケニア鉄道シンボルマーク
ここモンパサは、アラブ商人がおおく活躍した港湾都市であり、今でも現地人との共通言語としてのスワヒリ語が使われている程である。 イスラム文化は7世紀末、すでにモンパサに伝来していたということからして、西欧のアフリカに対する植民地政策が16世紀頃にはじまるから、アラブ人のアフリカ早期進出を知ることができる。
いまでも、レースの帽子や真っ黒なチャドル<ブイブイ>をまとったご婦人や、アラブ商人たちによってもたらされた綿布製の伝統衣装<カンズ>を着た人々を街中でみかけられた。
わたしもカンズ(シンプルな白色で作られた、くるぶしまでの長さのゆったりとしたワンピース)をお土産として1着購入した。
他に、民族衣装として腰に巻たり、ショールとして使用するカラフルなカンガ(織物)を、街の中で沢山見かけた。
お土産として売られているカンガ
カンガ・ファッション
街中にはモスクもあり、1日5回の礼拝や厳しい戒律も、かなり厳しく守られているようである。
モンパサは、アフリカの顔、イスラムの顔、インドの顔を持った国際都市でもある。
モンパサ駅にて
KENYA RAILWAYS/ケニア鉄道
ナイロビ~モンパサ路線
列車 と ナイロビ駅
Sketched by Sanehisa Goto
▼ 11/24 ナイロビYMCA 連泊
ナイロビ~モンパサ往復の列車の旅約1000kmは、いささか強行軍であったが、港であるモンパサと高原にあるナイロビの高低差約2400mを往復する列車のタフさに拍手を送ったものである。
なんといっても東アフリカの列車に乗り、一日列車の旅を楽しんだのだから、乗り鉄にとっては勲章が一つ増えたことに満足した。
もちろん、列車スケッチの真中に<KENYA RAILWAYS>のマークを入れて、ひとり悦に入った。
■ 11月25日 空路、ナイロビ(ケニア)よりビクトリア滝(ザンビア)へ向かう
早朝のケニア航空で、ナイロビよりザンビア・ルサカ経由、ジンバブエ首都ハラレに向かい、乗換てビクトリア・フォール空港に向かう飛行機による長旅である。
飛行便は、ケニア航空426便、機内よりキリマンジャロ山を眺望できる座席Seat#10をとった。
朝食の機内食<スクランブルエッグ・ソーセージ・トマト輪切り・トースト・コーヒー>をとりながら、雲海に浮かぶケニア/タンザニア国境にそびえるキリマジャロ山(標高5895m)を鑑賞、素早くスケッチを終えた。
空路ジンバブエへ向かうケニア航空より雲海に浮かぶキリマジャロをスケッチ
Sketched by Sanehisa Goto
機内より見る雲海に浮かぶキリマンジャロ山
ジンバブエ首都ハラレに着陸した。
さっそく、3rd Ave. と Living Stone St.角にある<リヴィング・ストーン・ホテル>に部屋をとったあと、ハラレの街に繰り出した。
ここが、アフリカ内陸国ジンバブエの首都とは思えない近代都市であるのに驚きの声を上げた。
それもそのはず、ハラレはアフリカのロンドンと言われているが、ロンドンよりモダン都市に見えたのである。
散策中、多くの現地の住民から挨拶の声を掛けられたが、そのうち幾つかのグループ(数人)に不穏な言葉や行為が見られたので、危険を感じて方向と歩速を変えて、その場からの離脱をはかった。
ナイロビでも、経験していたことと、防護用のストック(登山用杖)を持参していなかったので、即行動を起こしホテルに戻った。
散策の時は、どうしても目につく時計やカメラ、ネックレスは取り外しておくことをお勧めしたい。
華美なファッションを避けることも、身を守ってくれる。 きょろきょろして旅行者に見られないことも防御策であるといえる。
だが、紫のジャカランタが美しい街並みである。
ジンバブエ首都ハラレの高層ビル
今夜の宿泊先であるホテル<リビングストン・イン>で食事をしていると、これからルサカ経由(ザンビア)、モーリシャス(インド洋に浮かぶ島国)へ向かうという初老の白人紳士が声を掛けてきた。
東洋人が一人ジンバブエを旅しているのに興味を持ったという。
息子は米国コロラド・デンバーにあるホテルマネジメントの学校に通い、卒業後はザンビア・ルスカで経営するホテル<FAIRVIEW HOTEL>を引き継ぐ計画であるという。
コカ・コーラに、フィッシュ&チップスを摘まみながらわが子の自慢である。
彼もそうだが、ザンビアや、ここジンバブエには、英国の植民地であったがゆえに、現地で生まれ、育ち、教育を受けた多くの白人がいまなお現地にとどまっていることに驚かされたが、これは英国の植民地支配から手を引いたことから起こった白人系ジンバブエ人の現在の姿である。
彼らは、英国植民地時代の申し子であり、英国に親戚もなく母国に帰るに帰れない植民地時代の犠牲者であるとも云える。
言い換えるならば、母国に見放された元英国人なのかもしれない。
アフリカ系白人は、母国の植民地政策の放棄・撤退により苦難の道を背負わせられて、アフリカ人としての十字架を背負って、現在の子孫を守り、アフリカの地に骨を埋めるしか選択の余地がない人々であるかのようにも見えた。
だが、彼らこそアフリカを画期的に飛躍させるホワイティッシュ・アフリカーナであるのかもしれないのだ。
▼11/25 <LIVINGSTONE INN>宿泊 (ジンバブエ―首都ハラレ)
<リビングストン イン> 58リビングストンアベニュー、ハラレ
■ 11月25~26日 <ビクトリア・フォールズ>
シーズンオフなのか、ザンベジ航空フライト10:30mハラレ発#322便(ZS-OSE)は、わずか数人の客を乗せて、ビクトリア・フォール空港めざして飛び立った。
ハラレよりビクトリア・フォールに向かう軽飛行機
Sketched by Sanehisa Goto
ジンバブエ・ビクトリア・フォール空港に着陸
<Town Council Rest Camp>が、ビクトリア・フォールズでの宿泊先である。
一棟建てのキャビンで、蚊の浸入を防ぐ網戸もしっかりしており安心して睡眠がとれそうだ。
<Town Council Rest Camp>のゲートとオフィス
キャビン前でスケッチ
ただ、ナイロビのYMCAのような食堂や売店がなく、外食である。 プールのあるのがいい。 汗を流しシャワーを浴びることが出来るからだ。
<Town Council Rest Camp>のプールで
到着後、世界三大瀑布(ナイアガラ滝・イグアスの滝)の一つであるビクトリア・フォールズを見るために、サファリルック(ショート・パンツ)に履き替えて、飛び出していった。
入瀑料1150Zは少し高いようだが、滝の飛沫を浴び、滝を見上げ、スケッチに励んだ。
世界三大瀑布のうち、ナイアガラの滝(米国・カナダ)と、イグアスの滝(ブラジル・パラグアイ・アルゼンチン)へは、何度も足を運んだが、アフリカ奥地にあるビクトリア・フォールズは、わざわざここへ足を運んだ人間だけにしか出会えない幻の滝である。
夢の滝に、今回の二大陸踏破の途上で相まみえることが出来、世界三大瀑布に出会えた幸運な人となったことに、いささか興奮したものである。
ザンビア北西端を水源とするザンベジ川の中流にあるビクトリア滝は、1855年、英国人探検家リビングストンの発見によって世界に紹介され、当時の英国女王の名前が付けられた。
現地名は、<雷のように轟く水煙>からモシ・オヤ・ツンヤと呼ばれている。
その水煙は、かなり遠くからも確認でき、落差は150mにも達し、滝の幅は水量により最大1700mもあるという。
ビクトリア・フォールズ(ザンベジ川の落差150mのパノマラ)①
幻の滝<ビクトリア・フォールズ>で、念願のポーズ
ビクトリア滝の落差は150m、幅は最大1.7km
<ビクトリア・フォール>バルーン鑑賞
ビクトリア滝<VICTORIA FALLS>
ジンバブエ・アフリカ
Sketched by Sanehisa Goto
ビクトリア・フォールズ(ザンベジ川の落差150mのパノラマ)②
▼ 11/26 <Town Council Rest Camp Site>泊
キャビン村 キャビン室内
■ 11月27日 ビクトリア・フォールズ2日目 (ジンバブエ快晴)
<ザンベジ川畔トレッキング>
今日は、ビクトリア・フォールを出て、飛行機でハラレに向かう。
午後3時ごろにタクシーが迎えに来て、ビクトリア・フォール空港に送ってくれることになっている。
朝5時より、昨日に続きザンベジ川沿いで<サファリ―・ウオーク>、野生動物(像・キリン・カゼ―ル他)や野鳥観察に3時間程楽しんだ。
昨日は、ザンベジ川でのリバークルーズを楽しみ、フィッシングに興じた。
クルーズ船は、ビクトリア・フォールの落下の限界にまで迫り、その迫力ある滝落下の轟音を楽しませてくれた。
ランチは、買い込んだ卵サンド・オレンジ・チョコレート・チップス・サラダ・オレンジジュースである。
野生動物・野鳥観察
ザンベジ川畔トレッキングを楽しむ
ザンベジ川クルージングを楽しむ
ザンベジ川でフィッシングを楽しむ
ジンバブエの野生動物をイラストする
Sketched by Sanehisa Goto
<Town Council Rest Camp Site>
Sketched by Sanehisa Goto
ビクトリア・フォールズ付近図
(ザンベジ川トレッキング・マップ)
Sketched by Sanehisa Goto
タクシーでビクトリア・フォール空港について見たら、ハラレ行の飛行機はエンジン・トラブルで運休するといい、今晩は指定の<KINGDOM HOTEL>で泊まってくれとの事だ。
もちろん、宿・食事代はジンバブエ航空持ちである。
この運休のお陰で、素敵な日本の青年2人、鈴木君と市原君と同宿することとなった。
まず、このアフリカの内陸国ジンバブエという世界の田舎で日本人に出会ったのだから、情報収集に双方とも飢えていたので、夜遅くまで話し込んだ。
二人ともJICA海外協力隊の隊員で、ジンバブエに2年間滞在し洋裁と土木(井戸掘り)を教えに来ているという。
若い時から海外移住を志していただけに、青年たちが自ら志して海外に羽ばたき、不毛の地の現地の人たちに技術を教え、教育に従事する等の尊さを理解している。彼らの夢を大切にしたいという気持ちに、こちらまでが若き時代の己の夢を重ねて、気持ちを昂らせたのである。
JICA海外協力隊は、1965年の発足以来、約100か国に、累計45000人の隊員が派遣されている。
<JICA海外協力隊の経験は、「世界をよくしたい」と願う人にとって新たなスタートである>と謳っている。
▼ 11/27 飛行機運休によりジンバブエ航空指定のホテルに泊まる
<KINGDOM HOTEL>
ハラレからの南アフリカ行トランジット<乗継>に間に合わないことが分かり、急遽ビクトリア・フォール空港からの南アフリカ行のSAA(南アフリカ航空)に飛乗ることにした。
この飛行機は、南アフリカ航空フライト041便である。
同じホテルに泊まっていたSAAのマネージャーと知り合っていたので、頼んでみた。
なんとか骨折ってくれて、機上の人となったが、多くのスタッフに迷惑をかけたみたいである。
なぜならSSA-041便は、乗客全員が白人であり、それもほぼ満席であったからである。
この光景、白人ばかりの乗客など今までに出くわしたことのない、生涯ただ一度の経験であった。
異様な光景に、はじめここはどこかと目を疑ったのである。
白人ばかり、これまた異常である。
南アフリカ、白人至上主義のお国のお隣であることに、やっと気づいたのである。
ナイアガラ・フォールズより、ヨハネスブルグまでは、わずか1時間半のフライトである。
このSSA便は、白人専用機であったのだ。
<アパルトヘイト 人種隔離政策>
特に、アフリカで運行するSSA(南アフリカ航空)のなか、<ナイアガラ・フォールズ➡ヨハネスブルグ>間の便は、ホワイト・オンリーであるとのマネージャーの話を思い出していた。
東洋人は、白人なのか、それとも非白人なのか・・・
SSAの機上で見まわした限り、確かに東洋人(黄色人種)は私一人であった。
この少し前まで、南アフリカは白人至上主義を掲げ、アパルトヘイト政策を維持してきていた。
しかし、数年前から国連勧告により国策としてアパルトヘイト政策の廃止に動いていたが、いまだその影響は色濃く残っていた。
ニューヨーク在住20年の猛者としては、アパルトヘイト何ものぞと、大きい顔で機上の人となったのである。 以外と、白人達が温情ぶってか、それとも全員が国際派なのか、好奇の目をこちらに向けることはなかった。 お陰で、モンゴル系顔たちの東洋人は、快適な空の旅を<南アフリカの純血白人という特殊人間>に混じってヨハネスブルグまで旅を続けることが出来たのである。
これが1990年代ならば、おそらく乗客として機上の人にはなりえなかったことであろう。
アパルトヘイト政策の導入は、少数派の白人による統治を維持するためである。 南アフリカの経済は、豊かな鉱物資源を安価な原住民(非白人)労働力で採掘することで発展してきたが、年々増え続ける「非白人」に、少数派の「白人」は脅威を感じ<アパルトヘイト政策の導入>となった。
ヨハネスブルグからは、SSAの国内線フライト#355便(機種BOEING737-800)で、
今回の旅、『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』 の最終地であるケープタウンに向かう。 喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>、夢にまで見た、待ちに待った約3か月という長旅の最終目的地である。
まずは、ケープタウンでの滞在先である<メトロポール・ホテル>26号室に荷物を置き、バスで
喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>に向かった。
一刻も早く、最終目的地に着き、二大陸完全踏破を報告し、記念の写真を撮りたかったからである。
二大陸踏破最終目的地・喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>での念願の証明記念写真
喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>
アフリカ大陸最南西地点
喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>
Sketched by Sanehisa Goto
喜望峰最先端
喜望峰よりフォールス湾を望む
喜望峰近くの白浜で園児たちと交歓
▼ 11/28~30 <メトロポール・ホテル>連泊 ケープタウン/南アフリカ
この旅での最後の室内干し (メトロポール・ホテル)
■ 11月29~30日 <ケープタウン散策> (15~30℃ 快晴)
<VISITOR席>と<MEMBER席>
この人生の長旅<星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破38000㎞の旅>のゴール、ケープタウン「メトロポール・ホテル」の26号室で目を覚ました。
一階にカフェテリアがあり、この旅の踏破を祝って、豪華な朝食をオーナーに作ってもらった。
今、アパルトヘイト(人種隔離政策)の国の都市ケープタウン、それもホワイト・オンリーのホテルにいるのである。
このカフェテリアも、白人社会の社交の場として使われきたのであろう。
ホテルの廊下には、英国植民地時代の栄光に満ちた大農園の白人農場主の集会写真や、乗馬に興じ、ピクニックを楽しむ紳士淑女の写真が、重厚な額縁におさまっていた。
カフェテリアは、もちろん白人だけである。
孤立を深める白人社会の憩いの場としての役目を果たしてきたのであろう。
よく観察してみると、このカフェテリアの片隅のテーブルに『VISITOR』の札があり、『MEMBER』である白人以外にも、一応そのスペースが設けられていた。
この席も時代の流れである<反アパルトヘイト運動>の影響を受けているように思われた。
標識<白人エリア> (photo:Rolling Stone)
この長旅は、共産主義ソビエト連邦の崩壊後10年目のロシア連邦のウラジオストックから始まり、
アパルトヘイト(人種隔離政策)の終焉を迎えた7年目の南アフリカのケープタウンで終えようとしている。
アパルトヘイト政策をとる南アフリカの製品をボイコットする運動は、1969年に英国ロンドンで開始されていた。
<アパルトヘイトをボイコットしよう>というシンプルな運動は、世界中に広がり、約30年後の1994年に人種隔離政策<アパルトヘイト>は撤廃されることとなった。
この時(2001年当時)、撤廃後7年たっていたが、なお人種間にあって、混沌の中をさまよっていた。
カフェテリアの天井にかかる、色あせた栄光のシャンデリアが、白人の古き良き時代を懐かしんでいるように見えた。
撤廃から30年後の2024年、いまなお格差と貧困に苦しんでいるとNHKの特別報道は伝えていた。
「30年前の5月10日、南アフリカでネルソン・マンデラ氏が黒人初の大統領に就任しました。
国民の大多数を占める黒人を不毛の地に押し込めて人間として最低限の権利まで奪ったアパルトヘイト・人種隔離政策に終止符が打たれてから30年。
人種や性別にかかわらず人々は自由と平等の権利を得ましたが、今なお多くの人が劣悪な環境のもとで貧困と格差に苦しんでいます。」
1969<BOYCOTT APARTHEID>スタート(英国)
カフェテリアで、はじめ知らずに<VISITOR席>ではなく、<MEMBER席>に坐ったものだから、オーナーに・・・
<Can I have a seat here?> と尋ねてみた。
オーナー曰く <You are OK, you are Welcomer!>
オーナーが、フレンドリーに、にこにこしながら朝食を運んでくれた。
はじめてのカラード、日本人なのだろうか・・・
メニューは、エッグ・サニーサイド2,ソーセージ2,ベーコン、トースト、ジャム、バター、コーヒー、野菜サラダ、ヨーグルト・・・バックパッカー食としては贅沢だが、踏破を祝って、美味しく食した。
この一瞬、歴史的にカラードに分類されていたひとりの日本人が、<VISITOR>から<MEMBER>へ、白人の友人であることが認められた瞬間であった。
<この旅最後の街 ケープタウン散策>
この旅最後の日、アフリカのなかのヨーロッパ風に着飾った街、いや英国人が自分たちの街を持込んだ<ケープタウン>、そこには英国式のガーデンが薔薇の花を咲かせ、波止場があり、豪華なヨットが停泊し、背後のテーブルマウンテンの麓では競走馬が草を食べ、街中をロンドンのように二階建てバスが走っている。
植民者たちは、遠く離れた故郷と言うノスタルジーを、原住民を搾取し、ここケープタウンに幻のロンドンを築いたのであろう。
カフェテリア・オーナー手作りのサンドイッチを手に、テーブルマウンテンからのケープタウンの街を見下ろしながら、南半球の夏の太陽を満喫した。
二日後には、北半球の真冬の雪降る日本・志賀の里にいると思うと、地球という星の小ささを感じたものである。
午後からは、ビクトリア・ワーフ・ショッピングセンターでお土産のTシャツを買い入れた。
すべてのスケジュールをこなし、ホテルに戻り、ビールで旅の無事に感謝し、乾杯。
帰国のための荷造りにとりかかった。
ビクトリア・ワーフより
ケープ半島東海岸ホルダーズ・ビーチにてケープポイントを望む
大西洋に沈む夕陽 (ケープタウンにて)
グリーンポイント灯台 と テーブルマウンテイン
Sketched by Sanehisa Goto
チャプマン・ピーク と Hout Bayのヨットハーバー
ケープ半島・南アフリカ
Sketched by Sanehisa Goto
アフリカ南西端<喜望峰>の浜で
二大陸踏破を終えて
乾杯&感謝
いまなお、この世界の多くの場所で、皮膚の色で苦しむ人たちがいることに、こころを寄せたいものです。 歴史は、人種差別を禁じ、アフリカの盟主であったアフリカ系白人は、その富と土地とパーソナリティーを奪われ、アイデンティティーを求めてこのアフリカの地をさまよい歩きだしたように見受けられます。
人種差別なき、永遠の楽園としてのアフリカが築かれることを願って、南アフリカ・ケープタウンを最後に、<ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅>を終えることにします。
この旅日記を書き始めてからも、ロシアが自分の領土の一部であるという帝国主義的覇権主義をちらつかせて隣国ウクライナ―に侵攻、また中東では紀元前、旧約の世界から続くパレスチナをめぐる生存権の戦いが勃発と、いまなお人間の相互不信からくる、醜く野蛮な殺戮が続いています。
一人ひとりがお互いの存在を認めあい、尊敬しあい、争い無き世界を望みつつ、この旅を終えたいと思います。
長旅にお付き合いいただき、有難うございました。
こころより感謝申し上げます。
その後、12月1日、快晴のケープタウンを飛び立ったボーイング・ジャンボ機(BOING747-200)、 南アフリカ航空SA#286便は、満席の状態で香港に向かってケープタウン空港を飛び立った。
帰国便の席は、チャイニーズにより80%占められていたのが印象的であった。
その後、香港でのトランジット(乗継便)、大阪関西国際空港行SA#342便で、無事日本に帰国した。
空港での入国管理官の「お帰りなさい」の一言に、祖国の温かい言葉の大切さが身に沁みて嬉しかった。
ここは日本なのだ・・・ 続いていた緊張がやっと解けた。
一瞬にして、自分のアイデンティティが宿った。
2001年12月2日、踏破総距離約38000km、3か月に渡る約100日の旅路が終わった。
感謝である。
『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
完
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<関連ブログ>
■『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』シリーズ
Ⅰ 《シベリア横断の旅 10350km》
Ⅱ 《ヨーロッパ周遊の旅 11000km》
Ⅲ 《イスラエル縦断の旅 1000km》
Ⅳ 《アフリカ縦断の旅 15650km》
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