shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2021星の巡礼『バングラデシュの旅 2010』Ⅰ

2021星の巡礼バングラデシュの旅 2010』Ⅰ

   <ダッガ ➡ 路線バス乗継の旅 ➡ ラジャヒ>

 

 

バングラデシュを旅する>

バングラデシュを旅する計画を立てたが、その情報量の少なさに驚いたものである。旅行者の少なさからか、国の成立ちに至るまでの凄惨な内戦や自然災害のイメージからか、私自身<星の巡礼>と呼んでいる旅シリーズのなか、バングラデシュ訪問を最後まで伸ばし続けたものである。

スリランカ(旧セイロン)をはじめ、インド、パキスタン、ネパールやチベットブータンを旅して、ベンガル地方の情報を集めていたので、2010年10月、ようやく腰を上げバングラデシュの旅に出かけてきた。

10月後半と言えば、日本は秋を迎え、旅に最適な季節であるが、バングラデシュは乾季の始まりで、昼間32℃~35℃、夜間でも24℃と暑い日が続いていた。服装は夏服それも半ズボンで充分であるが、イスラムの国であり、多くの寺院訪問を考え長ズボンとした。

バックパッカーとしての宿は、ユースホステルやゲストハウス又は格安ホテルと決めている。バングラデシュにおけるユースホステルは、各地にないので、どこででも見つけられる格安のゲストハウス(名前はHOTELと付けているが)とした。またこの旅では、声をかけられた素敵なファミリーに招待されて、民泊も経験した。

 

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       バングラデッシュでは、観光客が少いのか、いたる所で群衆に囲まれ歓迎された

 

 

             《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》

     ―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー

 

 

<地図・歴史から見るバングラデシュ

バングラデシュは、西部及び北部をインドの西ベンガル州、北から西にかけてインドのアッサム・メガラ・ミゾラム各州に囲まれ、南東の一部をミヤンマーと接している。

 

まずは、バングラデシュの成立ちを見ておきたい。

バングラデシュは、ビルマ(現ミヤンマー)・パキスタン・インドを含む「イギリス領インド帝国」の一部であった。まず1931年にビルマが独立、第二次大戦後の1947年イギリスによるインド支配が終わり、インドを挟んで東西に存在したイスラム地域は西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)とし、それをもって一つのパキスタンとして独立した。

しかし、1952年、東西パキスタンの距離的分離は、豊かさの違い、言語の違いや、西の東への政治的支配を嫌ってパキスタン中央政府に対する東パキスタンの抗議運動が始まり、バングラデシュ独立運動の機運が高まった。

1971年インドからの支持を得た東パキスタンは、4月10日「バングラデシュ人民共和国」を宣言、大虐殺という悲劇を経験したあと、数度の印パ戦争のあと、ようやく独立を果たした。

 

わたしが旅した2010年のバングラデシュは、独立後の暗殺、軍人によるクーデターの繰り返しも終わり、民主的なアワミ連盟による安定期に入っていた。

当時、地球の歩き方バングラデシュ編は発行されていなかったか入手不可能だったと記憶しているが、みずから情報を集め廻った懐かしい記憶が残っている。

 

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               1893英領インド帝国全図 (Wikipedia)

 

     

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               バングラデッシの位置 (Kariya Nichigeki提供)

 

バングラデシュという国の形>

バングラデシュの面積は約14.4万平方kmで、日本(37.8㎞)の方が2.6倍大きい。日本の本州より少し小さな面積に人口1億6000万人が住み、人口密度1252人/㎢も世界最高である。

旅は、人をかき分け、人にもまれ、人のぬくもりの中を旅することになる。

今回のバングラデシュの旅も、インドやパキスタンと同じく、人の汗の匂いを感じ、人と群れて移動する旅となった。

国土は、川の国といわれるようにポッダ川(ガンジス川)・ジョムナ川・メグナ川による三角州の上に成り立った豊かな穀倉地帯である。

この旅でも、ロケット・スチーマという客船に乗り、ポッダ川(ガンジス川)支流を下りながらその豊かな緑地帯を実感することが出来た。

森林地帯は約30%と極度に狭く、平地の平均標高が7m以下で将来地球温暖化により国土の最大約40%が沈下するといわれている。同じ温暖化でも、ヒマラヤの氷河が溶けて、多くの土を川がベンガル湾に運び、新しい島々が生まれているというから皮肉である。

 

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       ガンジス川・プラフマトラ川 デルタ(バングラデシュ)の衛星写真  (wikipedia

 

 

 バングラデシュの国旗>

親日国で知られるバングラデシュの国旗は、日本の日の丸とよく似ている。日本の国旗は白地に赤丸だが、バングラデシュの国旗は豊かな農地をあらわす緑地(イスラムの教え)に赤丸(昇りゆく太陽)である。赤丸が全体の少し左(竿)寄りであるのが日の丸との相違点である。

 

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        バングラデシュ国旗                 日本国旗

 

旅全体の様子を知るために<ルート地図>と<スケジュール/ルート表>とを先にあげておく。

 

バングラデシュの旅 ルート地図>

 

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              バングラデシュの旅 ルート地図

 

バングラデシュの旅 スケジュール/ルート表>

 

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■10月11~12日 大阪-バンコックーダッカ

 

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      ダッカ国際空港/HAZRAT SHAHJALAL INTERNATIONAL AIRPORT ADHAKA

 

ダッカ空港を一歩外に出ると、豊かな時間の中に英国植民時代の風情が残る世界に迷い込んでいる自分を見つけることになった。

バングラデシュの国旗の色である緑と赤のツートンの二階建てバスが人とリキシャをかき分けて進む中、イスラムの白いキャップを頭にのせ、白いシャツに巻きスカートの男がスリッパ姿で歩いている。

ヒジャブにヒンズーのサリーを身にまとい、赤子を腕に抱いて急いでいるご婦人がいる。

大阪の関西国際空港を出てわずか15時間で、イスラムの世界に入り込んでいるのだから、これまた横時間のタイムスリップと言ってもいいのだろう。

 

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               ダッカ国際空港前の光景

 

これからの約15日間、世界で一番人のよいといわれるイスラムの国バングラデシュに迷い込んでみたいと思う。

格安バックパッカーとしてのわたしの旅スタイルは、その国の空港に着いたら、その地、例えばダッガをまず観光して回るのではなく、その旅で一番遠方の観光地にまず向かい、スケジュールを調整しながら出国地であるダッガにもどるというスタイルを続けている。

その理由は、外国の地では先進国を除いて、クーデターや、災害、事故、逮捕、尋問、スパイ容疑、バス・船・飛行機等の遅延・出発取り消し等、何が起こるかわからないのが実情であるからである。そのためにも旅の最終地すなわちスタート地点で日程調整するのが一番安心安全だからである。

今回のバングラデッシュの旅でも、ダッカ観光は最終日程に回し、まずはこの旅で一番遠方である世界遺産<カントノゴル/KANTANAGAR>のあるディナジプール/DINAJIPURに向かうことにした。

 

ダッカ空港に到着した日に、次なる目的地ディナジプールへの切符を予約するため列車空港駅からダッカ中央駅へ向かうため、空港を出て警官に道を尋ねながら、歩道橋を渡って空港駅である<ピーマンボンドール駅>に行ってみた。

駅舎はもちろん駅周辺は人々で埋め尽くされ、身動きがとれない状態である。駅舎の窓口には延々と人が並び、何時になったら切符が買えるのかわからない状態でもある。

構内の列車を見ると、英国植民地時代の廃車同然の汚れ切った車体に人々がぶら下がり、屋根も荷物と人で鈴なり、その人々をかき分けて陣取りする気力が失せてしまい、列車での移動を断念することにした。

 

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                混雑する列車の旅

 

駅の写真だけでもとカメラを取りだしたら、駅舎の方から警戒中の武装した軍人がこちらをにらんでいる。アーリア系現住民の中にいる異質で典型的なモンゴリアンに注意が集まり、警戒されているからである。こそっと写真をとり、急ぎその場を離れた。

空港に戻り、三輪オート・リキシャで、バスチケットを予約購入するためモハカリ・バスステーションへ向かうことにした。

ここでもまた、異国の地での第一歩でよくあるトラブルが待ち受けていた。オート・リキシャに乗る前の値段交渉で提示した25TKでOKしておきながら、到着地では250TKというのだから大いにもめたのである。周囲には野次馬が集まり、ケチな東洋人に怒りをぶつけているようである。

運ちゃんも困り果てて、50TK割り引くという。

こちらも200TKが、ここ大都市ダッカでの妥当な物価水準であり、25TKは情報収集時の正確な物価でないことに納得したわけである。

群衆はよっぽどケチな東洋人であると憤っていたのであろうか、ポリスを呼べと言い出したほどである。こちらも運ちゃんと手打ちして早々と現場から脱出することにした。

出発前の情報と、現地の物価の相違、それも大変なインフレに見舞われていることを肌で感じたものである。

すべての物価は、調査資料より5~6倍高騰しているようである。

バックパッカーとしては、大変な予算の変更を余儀なくさせられそうである。

 

天然ガスによる三輪オートリキシャ>

リキシャは、バングラデシュを代表する庶民の乗り物である。この旅でも、ことあるごとにリキシャを利用してバングラデシュの生活に密着した。

バングラデシュには、人力・電気・ガソリンそれにダッカで多く走っている天然ガスの4種類ものリキシャがある。電気供給の不足するダッカでは停電の恐れと、二酸化炭素を抑えるため、自国産出の天然ガスによるリキシャが奨励されているようである。

何といっても日本の懐かしい人力車(ジンリキシャ)というノスタルジー、哀愁に満ちた呼び方がバングラデシュに残っているのがいい。

 

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           バングラデシュでお世話になる三輪オート・リキシャ

 

 

<機中で知り合ったバングラデッシュの青年>

ダッカに向かっている飛行機の隣席にシンガポールでの出稼ぎを終えて帰国するバングラデシュの青年がいた。名をクシュナであると自己紹介した。

港湾での沖仲仕の出稼ぎはとても過酷な仕事であるが、家族への仕送りが出来て満足しているといい、体を壊したので帰国するのだという。

出来たら日本での仕事をしてみたいので何かサジェスションを欲しいとのこと。バングラではなかなか仕事に着くのがむつかしいと訴えていた。

将来、日本が海外の生産拠点としてバングラデシュを考慮する日も近いと思われることを伝えておいた。

 

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         モハデカ・バスステーションに待つ天然ガス三輪オートリキシャ

 

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          防犯用鉄柵で囲まれた三輪オート・リキシャの運転席

 

<現地通貨と物価を知るための最初のトラブル>

はじめてその国に入って、物価を知ることは大切なことである。時には事前に調べてきた為替レートや物価水準が異なる場合がある。

バングラデシュ入国にあたって、関空での両替が困難だったため、米ドルと日本円を携行したが、可能な限りクレジットカードによるATMでの現地通貨TK(タカ)の引き出しに頼ることにしていた。

ダッカ国際空港の出国ロビーにある両替窓口で当面の小口現金として200US$ X@67で現地通貨13400TK(タカ)に両替した。

次にATMで、クレジットカードによる現金化ができるかをも試みてみた。現地通貨15000TK引出しも問題ないことを確認した。

バングラデシュの旅は、現地通貨28400TK、約424US$=約36920円(1US$=89円 / 1TK=約1.3円 2010年10月現在)でスタートすることになった。

出国時の再両替(現地通貨TK➡日本円又は米ドル)には、両替所発行の両替精算書(レシート)が必要になるので保管しておく必要がある。また、ATMで引出した現地通貨TKは原則として再両替は出来ないので注意する必要がある。ただ闇両替商により30%の手数料で両替することができたのでお伝えしておく。

 

<両替>

両替は、ATMで現地通貨を引き出すのが一般的であり、確実である。もちろん銀行の窓口や両替商でトラベラーズ・チェックやUS$/日本円での両替も一つの方法である。

わたしは、<DUTCH-BANGLA BANK>のATMをよく使わせてもらった。ATMでは、Cash Cardはもちろん、VISA/MASTERCARDが利用できた。

 

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              DUTCH-Bangla Bank Ltd. ATM BOOTH

 

空港からダッカ中心部に行くには、電車の空港駅<ピーマンボンドウール駅>から乗車してダッカ中央駅<コムラプール駅>で下車するのが一番便利である。

しかし、先にも述べた常時大混雑するバングラデシュの列車旅行は諦めて、バス旅行に切り替えることにした。

バスの予約チケットを購入するためバングラデッシュで最も便利な乗り物である三輪オート・リキシャに乗ってバスステーションに向かった。

 

🚐 長距離バス予約 ダッガ/Dhaka➡ディナジプール/Dinajpur 300TK>

 

 最初の夜は、疲れをとるためエアコン付きの、ダッカダウンタウンにあるホテル・デ・メリディアン/HOTEL DE MRIDIANに宿をとることにした。

鉄格子の物々しい構えに反して、部屋はこざっぱりした清潔な部屋で安心したものである。しかし、その安心感もつかの間、パチッと鈍い音とともに電気が消えた。

バングラデシュでは日常的なものなのであろうか、どこの部屋からも慌てる様子もなくただただ静寂が流れる。

こちらもアフリカや南米の田舎で鍛えられた身、落ち着いてヘッドランプを取りだし、就寝の準備にとりかかる。

その就寝前にやることがある。まず鍵が正常に機能するか、もしもの時の避難路としての窓の位置と、その高さや、隣からの浸入は大丈夫かである。

つぎに、万一の侵入者に対してどのように対処し、貴重品はどこに隠しておくべきか。また侵入者に対してどう立ち向かうか。

まずは、部屋全体の見取り図を頭に叩き込み、持参している登山用スティック(兼防護用)を身近に置き、就寝の準備が整うのである。

この部屋は清潔で問題はないが、たいていの格安ホテルは、名ばかりで部屋の汚さは目を覆うところがほとんどである。

まずは、ノミや虱(しらみ)、ダニの浸入を防ぐ化繊系の滑らかな封筒型シートを敷いて、その中に潜り込むのである。蚊がいる所では上半身用のカヤ又はメッシュ帽を被って寝ることになる。そのほか蚊取り線香を焚くこともある。

格安バックパッカーにとっては睡眠こそが、健康維持の第一条件だからである。

ただ、もし旅行会社催行のツアーであれば、問題にもならない懸案であるから心にとめないでいただきたい。

バングラデッシにも立派な高級ホテルや部屋が沢山あるからである。

 

しかし、電気が点いてもクーラー、TV,  シャワーの回復はなく、汗臭い体は湿らせたタオルで拭き、体をベットに横たえることにした。どうも出力の低い自家発電機による電気回復であるらしい。

デジカメのバッテリ充電は、可能なようで助かる。

関西国際空港からバンコックを経由し、ここダッカへは約15時間のフライト、体は疲れ切っていたのであろうか、ベットに深く沈みこんで朝まで熟睡したものである。

 

<格安ホテルに泊まる心得>

ユースホステルやYMCA,  ゲストハウス、格安ホテル、民宿に泊まるのは、旅の予算内で可能な限りその地に長く滞在し、その地の自然や歴史、現地の生活、人に触れたいと思うからである。

そのためには、その心づもりと、情報収集と、いかなる困難な情況・場所でも生活し、眠ることが出来る体力と技能を身に付けておかなくてはならないと思っている。

長年続けてきた山登り、サイクリングでの野宿や、ツエルトによる野外での寝泊まりの経験が旅にも活かされることになる。

いかにシンプルな旅をするかは、贅沢を切り捨て、現地の生活に溶け込めるかで決まると思っている。

 

バックパッカーのサバイバル術>

文明文化から遠く離れた地域、いやより人間的に生活している地域を旅するときに守っている幾つかのサバイバル術がある。今回ももちろん携行した。

 

・車や古いエアコンや扇風機の騒音に対する耳栓の携行

・停電に対しヘッドランプ等、明かりの確保

・タオル・石鹸・シャンプー・歯磨きセット等の持参

・蚊取線香やダニ・虫刺され軟膏、防虫ネットの準備

・大樹から落下する毛虫対策(腫れ・痒み止め軟膏)

バングラデッシュの旅では、ゴキブリに出会わなかった

イスラムやヒンズーの国での食事は指食が多いので、マイ箸・フォークの持参

・防菌・消毒ティッシュ、殺菌軟膏の必携

・砂埃対策としてマスクかバンダナの準備

・現地では、可能な限りミネラルウオーターを購入して、飲むこと

・下痢止め薬(錠剤ストッパー)、常備薬、栄養剤の持参

・パスポート・現金盗難対策としてパスポートのコピーや写真を持参、貴重品の分散

・盗難防止・室内浸入防止チエーン錠又は南京錠の持参

・磁石、地図を含む現地情報(宿泊・病院・大使館ほか緊急)ノート、筆記用具

・防護用ステッキ(登山用ストック)による夜間防衛・自主的防禦

・見せ金(20又は50US$紙幣)を脅迫・強盗遭遇・強要に備えてポッケットに別途用意

・カメラ紛失・盗難に備え予備(超軽量カメラ)の持参、予備SDカードへのコピー習慣

・暑さ対策として扇子・サングラス・日除けとしてつば広帽も役立つ

・国籍を曖昧にすることも重要(日本人は金持ちというイメージから狙われやすい)

・緊急修繕用小物(銅線・ガムテープ・裁縫セット)

・ほか

 

バングラデシュの格安ホテル事情>

学生時代、ユースホステル・クラブを立ち上げた関係上、世界各地に散らばるユースホステルを愛用してきた。ユースホステルの無い地域では、YMCA,  ゲストハウス、格安ホテルの順に宿泊先を決めている。もちろん未開の土地では、一軒家に一夜の宿泊をお願いしたり、軒下や納屋を借りることもあった。荒野や砂漠、川下りではもちろん野宿するしかなかった。

今回は、ユースホステルの無い地域であり、格安ホテル・YMCA・民泊となった。

 

  • <HOTEL MERIDIAN > Dhaka, Abdullahpur バスセンター前  1100TK

       House No.11, Road No.12, Sector No.6, Uttara, Dhakka

 

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                 HOTEL DE MERIDIAN  ダッガ 

 

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      < HOTEL DE MERIDIAN>Receipt        <HOTEL DE MERIDIAN> Single Room

 

 

■10月13日  2日目 <ダッカ> 

 

6時30分起床。シャワー・洗顔・歯磨きにあたっては生水が、口や鼻・目に入らないように注意する。

タオルを生水で濡らした時は、雑菌の付着を防ぐために必ず乾かすことに心がけた。また果物も皮をむき食べられるもの<リンゴ・バナナ・オレンジなど皮付きのもの>に限定した。 海外では急性の細菌性胃腸炎を防止し、細菌やウイルスの体内浸入を防ぐことが旅成功の秘訣であるからである。

生水で洗った野菜サラダは胃腸の大敵である。しかし、野菜不足は便秘のもとになりやすい。便秘も又下痢と同じく健康管理上旅先では注意が必要である。生野菜の代わりに干しブドウや乾燥野菜又は皮付き果物を食したい。

 

ダッカの暑さや、騒音のため寝不足である。

旅行前に読んだ体験談のように、イライラする街であることは確かである。しかし、ことごとく人間の根源的な生きる力がみなぎっているようで新鮮なエネルギーを感じる。

食事は街角の中華風屋台と決めていたが、スモッグ(排ガスとホコリ)やゴミの山をみて、中華料理店に飛び込むことにした。

コーンスープ・野菜あんかけ・フライドチキン・焼き飯を見た時、ここがバングラデッシュであることを忘れたほどである。世界中、どのような田舎でも出会える中華料理店は、旅において健康を保証し、困難に打ち勝つ勇気と希望を与えてくれるものである。

 

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 長距離バス用の果物とミネラルウオ-ターを買込む   The Daily Starで天気やニュースをチェック

 

<格安ホテルの部屋は蒸し風呂>

バングラデッシュの電気事情は決して良いとは言えない。覚悟してはいたが、バングラデシュ滞在中、毎晩と言っていいほど3~4時間の停電に見舞われることとなった。

窓一つない部屋には、湿った下水の匂いが上がってきて息苦しい。

その間、エアコン・天井扇などすべての電気が止まるのであり、部屋はサウナ・蒸し風呂そのものになる。大汗をかき、寝るどころではない。

その対策として、濡れタオルを用意し、扇子であおぎ、ひらけた戸からの蚊の浸入を防ぐため蚊取線香を焚くことになる。

ホテルの電気スイッチにも気を付ける必要がある。スイッチそのものが古く、英国植民地時代の前時代的なものを今も使っており、スイッチの止めネジに電気が流れていて感電することもあるので注意が必要である。

ベッドには、南京虫の潜んでいそうな毛布が1枚である。さっそく、持参したポリエステル系の封筒型シーツに潜り込むのだがこれまた暑い。結局半裸になり、シーツの上に体を横たえるが、翌朝南京虫やダニに噛まれていてびっくりすることになる。

 

部屋に供えられていたミネラルウオータ2本も調べてみたが、やはり2本とも蓋を開けた跡があり、そのうちの1本は水が減っていた。もちろん手は付けず、買い込んだ1.5Lボトル(20TK)を開けて使った。コップも持参したステンレス・カップを使用した。

細菌性下痢になったら旅は悲劇である。いつも細菌浸入防止には細心の注意を払うべきである。

ただこのホテルではゴキブリを見かけることはなかった。

 また防犯上、玄関扉には鉄格子がはめられ、外部からの浸入を防いでおり、出入りもガードマンがカギを開け閉めしている。それだけ治安は良くないということであろう。

 

この旅、バングラデシュでは、自分で自分を守る必要がありそうである。

バックパッカーとしては興味ある国だが、難度の高い国として、すべてに注意を払いながら行動したい。

 

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                                                    歩行者陸橋よりみるダッカの通勤通学前の交差点 

 

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             リキシャが行き交うダッガの朝風景

 

<食事は粗食だが、痩せない理由>

バングラデッシュは湿度が加わる蒸し暑い国である。少しでも歩いたら汗が噴き出てくる。どうしても歩くのが億劫になり、1KMなら5TK、約3円と、街中に溢れるリキシャに飛び乗ることになる。

結果として歩くことが少なくなり、粗食でもカロリーオーバーとなり、太り気味になってしまうのである。

一方、食べ物を買って帰る際、子供たちや老人たちの手が伸びて、恵んでくれと買い物袋に手が伸びてくることが多い。貧しい人々が、ここダッガには沢山いるのである。

賞味期限が過ぎたら投廃棄される大量の食べ物がでる国<無駄の多い国・日本>からやって来たと思うだけで自責の念に駆られる。

バングラデシュ貧困率は、年々改善しているということだが5人に一人はいまなお貧困状態の中にあるという。

 

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                    歩道は露店で賑わう

 

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            東南アジアでよく見られる複雑な電気電話の混在線

 

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     鶏も路上で売られている               バス待ちの人達

 

バングラデシュの人々は親切であり、人懐っこい>

街を歩いたり、駅やバス停にいるとよく現地の人に話しかけられることがある。

英語で話しかけてくる人は、たいてい教養のある人たちで、こころからこの国で困ったことはないかと身を案じて話しかけて来る人たちである。

東洋系に興味があり、英語や現地語で話しかけてくる人たちは、これまた親切心があり、何かを尋ねたら応じてくれる人たちである。この中には、周囲に自分の英語力を誇る人もいるし、家族や知人に紹介したいタイプの人も含まれる。

全く英語が出来なくても、異国の旅人に憧れる青少年や若者たちもおおい。

彼らとは、ただ目が合っただけで、すでにコミュニケーションが成立ち、言葉を交わさなくても友人としての心が通いあうものである。

 

最後に、初めから利害を求めて接してくる人たちがいる。商売として、カモとして、騙すために近づく世界で一番世俗的な笑顔と甘い言葉でフレンドリーを装う人たちである。

この部類では押し付けガイドが含まれる。断れば、最期まで付き纏ってくるから質が悪い。

これよりしつっこいのは、一応親切に付き合っておきながら、最後にこれだけ親切にしたのだからヘルプしてくれと、例えば自分を日本に呼んでくれとか、日本の企業に紹介してくれとか、叶わないなら当面の生活をヘルプして欲しいとか、金銭を要求する輩も少なくはない。

 

現地のごくわずかな人々ではあるが、日本ははるかに豊かな国なのだから自分たちを助けてくれてもいいではないか、という甘えの人達も見られる。今後、日本の製造業が労働力を求めて現地生産のためバングラデッシュに進出することになる日が近いと思われるが、現地の労働事情や労働者の質を日本の各企業は、研究しておく必要があろう。

 

バングラデッシュの旅では、貧困の中の親切という心の物差しで見てみる方法もありそうである。

以上で見たように、どこまで対価を求めた要求なのか、親切なのかを見分ける必要があるが、事件に巻込まれないためにも、現地事情が分からない間は深入りしないことであろう。

相手から申し出があった場合は、一応断ることである。同情や安易な深入りから申し出を断るためには、大変な努力が伴うことを覚悟しておきたい。

 

以上は、現地の生活に密接にかかわりながら旅を続けるバックパッカーとしての姿勢で見てきたが、今後、普及するであろうツアー旅行では、かかる心配はないと言っていい。

以下も、格安冒険旅行で必要な視点でものを見ていくことになる。この旅は、現地溶け込みの密着旅行であることをご理解いただきながら、バングラデシュの旅を楽しんでいただきたい。

 

<バスに正しく確実に乗る方法>

リキシャに乗り、バスターミナルを指示するとともに、行き先のバスに乗ることを伝えておくと、ほとんどのリキシャは、その行き先バスのチケット・カウンター又はバス停まで連れて行ってくれる。

バスターミナルといっても、大きい所ではターミナルの外側にあり、行き先によってバス会社は自分の駐車スペースを持っているので注意が必要である。

ターミナルによっては、内と外の二か所ある場合が多く、外の場合は予約チケットで座席が指定され、動き出したら満員になるまで誰でも乗せる場合がおおい。発車間もなくは大混雑となる。

さらに、バスは先を急ぎ、渋滞のなか、クラクションを鳴らし続けるから、大変な騒音である。

さらに夜、停電ともなると、街中の自家発電機が一斉にうなりを上げ、喧騒は一段と高鳴り、バスの中でも耳栓の出番となる。

 

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 今回のバングラデシュの旅は中古HINOバスで      ラッシュ時のバスの屋根に乗る人々

 

<街角の屋台での食事と、注意すべき事>

バングラデシュでお腹がすいたら、街角にある軽食屋台に飛び込めばよい。ミルクティーと揚げ物で充分腹を満たすことが出来る。スナックやバナナなどの果物も手に入るとともに、食事として付けカレーにライス又はナンといった軽食を頼むことも出来る。

ただ、備え付けの生水は避け、ミネラルウオーターか7Upなどソフトドリンクにすることをおすすめする。また、生野菜のサラダや剥いた果物は避け、バナナやリンゴ・ミカンなど皮付きのものに限ることを心することである。

細菌性急性胃腸炎を避けるためであるが、食事前の除菌用ティッシュでの手指の消毒はもちろんだが、もし携帯しているなら自前の箸やスプーンを使うことである。胃腸に異変を感じたら即、細菌性下痢止め<ストッパー>などを服用することが旅成功の秘訣である。

旅行中の渋り腹は苦痛と共に、トイレ探しが大変である。ましてや長距離バスで、大揺れでの走行しているときの腹痛は想像を絶するものである。

 

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               備え付けの生水には絶対手を出さないこと

 

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 揚げ物、焼き物は雑菌を殺してくれるのでお勧め       標準的朝食35TK<ナン2枚/オムレツ/ミルクティー

 

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                                                                               ダッカの露天商風景

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                                                                     ダッカの露天商風景

 

 

<バス旅行>

バスに揺られていると、人口に対する食料事情の緩和のため養殖池や溜池が多く目につく。車窓から、日本の水田風景を見ているようで懐かしい。そこでは食用のエビや淡水魚が養殖される一方、住民の沐浴の場として利用され、アヒルやガチョウがのんびりとあくびをしている。

また、この溜池は灌漑用水にも利用され、大雨の際には排水・貯水池として重宝されているようである。

バングラデッシュの旅では、どこに行ってもこの緑色に濁った溜池が風物詩として見られる。

 

長距離や路線バスに乗ってわかったが、大抵外国人旅行客は私だけである。多分、外国からの旅行客のほとんどは、旅行会社催行のツアーで専用バスか、飛行機で移動しているのであろう。

バックパッカーさえも見当たらない。多分、バックパッカーにもいまだ未開拓の国と言っていいのではないだろうか。いや、立派なエアコン付きのリクライニングシート付の高級直行バスが走っているということを耳にしているので、多くのバックパッカーも利用しているのかもしれない。

ほとんどすべての標示・標識がベンガル語で書かれており、英語表記が少なく途方に暮れることが多いことは確かである。しかし、どのような場面でも、イギリスの植民地であっただけに英語を話せるインテリがいることも確かであり、助けられることが多かった。

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                                    溜池・養殖池が全国的にみられる

 

バングラデシュの観光事情と旅行者>

バングラデッシュは、まだまだ未知の国なのであろう。

今回、バングラデッシュを旅していて世界遺産やそのほかの観光地でさえ、不思議なほど多くの観光客やバックパッカーに出会わないことである。たまたま私が出会っていないのであろうか。

バスに乗っていても、物売りや押し売りが少なく、インド・ネパール・パキスタンビルマなどで味わった停車ごとの物売り攻勢には出会わなかったからこれまた不思議である。

まだまだ観光地として整備されていないのが実情かもしれない。観光地や世界遺産も赤色レンガが積まれた遺跡やモスク、聖者廟がおおく、観光資源への改良や工夫が必要なのかもしれない。

それ以上に観光客に理解されるムスリムの世界を演出する必要がありそうである。

特に、白人観光客にバングラデッシュを知ってもらい、誘致するためにはまだまだ時間がかかりそうである。国そのものが観光事業に手を染めるだけの豊かさがまだないのかもしれない。

バックパッカーにしては、未開の夢の国であるはずだが、そのバックパッカーですら出会わないのであるから、バングラデッシュはこれからの国と言っていい。

このような静かな隠れた国があったのには驚かされた。

政情不安、テロといった不安定要素がまだ残っているのであろうか。しかし人々の温和さからくる笑顔や、親しみからくる純粋さの残る人々に出会えるだけでも幸せである。

しかし、街角にザルと鍬(クワ)をおき、日雇い労働の仕事を待つ人々は、その朝の声掛けに神妙である。

 

かかる未開の国をいち早く紹介してきたのが、バックパッカーのバイブルとして親しまれている<地球の歩き方>シリーズである。

しかし私が旅行した2010年時点では、<地球の歩き方 バングラデッシュ版>は、いまだ発行出版されておらず、バングラデッシュの事情は、先輩バックパッカーのブログによるところが多かった。

 

帰国してから<地球の歩き方2010年版バングラデッシュ>が発刊されたと聞く。

それだけ未開の国であり、情報の少ない国であり、バックパッカーにとって憧れの国でもあったと云える。

 

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    街角で待つ日雇い人夫の鍬とザル         1回15TKの体重測りは子供の仕事

 

 

<食事時の注意すべき左右の手・指の使い方>

ムスリムの国では、用を足した後、左手の指で後始末をするのでこの手指は不浄とされている。

口にするもの、食事はフォーク・ナイフ・スプーンを使わず、右手の指で食事する。

郷に入ったら郷に従えと、左手を使わず、右手だけでナンをちぎってみたことがある。それに右手指だけで食事をしてみたとき、その難しさに最初はねを上げたものである。

ムスリムバングラデッシュに来るまでに、随分とムスリムのマナーを学んできたつもりだが、現地の人たちとの会食以外では、いまだナイフ・フォーク又は持参の箸を使っている始末である。

その最大の理由は、わが弱点である細菌性胃腸炎を予防するためである。

 

<格安バックパッカーの定番食 チャパティ

インドカレーにはナンがついてくるが、バングラデシュでは<チャパティ>がついてくる。

街角の風物詩である丸い鉄板には、ランニングシャツのお兄さんによっていつもチャパティが焼かれている。

円錐形の鉄板に油をひき、メリケン粉をこねて丸めてのせ、ヘラで押さえて丸く伸ばして、天然ガスの火力で焼き上げるのでる。

バングラデシュ滞在中、よく食べた<チャパティとオムレツ>を紹介しておく。

オムレツは、卵1個にカラシ・玉ねぎ・エンドウ豆を投げ込み、かき混ぜてチャパティを焼いた後の丸鍋に放り込んで、強火でさっとかき混ぜて仕上げる。

チャパティ2枚に砂糖入りミルクティーを付けてセットメニュー、35~45TK(約60円)である。

オムレツは、少し油っぽいが、塩を少々ふるとさらにおいしく食べられる。

 

屋台の前の溝を清掃する少年が、笑顔を見せてくれた。ゴミ箱をひっくり返したように汚れた道路の、水たまりに溜まった汚物を処分している様である。鼻につくヘドロのような匂いは、屋台の客に不愉快な気分を与えるようで、店主が少年を雇って掃除をさせているようである。

店主の心遣いが嬉しい。

掃除に使命感を持った少年も、少額のチップをもらって美しい笑顔を返してくれる。

 

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          軽食屋の厨房               軽食屋内外の清掃ボーイ                   

 

<街角の有料トイレ>

日本や先進国ではほとんど見られないが、世界の貧しい多くの町や村では、個人営業の有料トイレが街角や個人宅に設けられている。日本でいう一種の公衆トイレと考えていい。いざという場合には便利であり、よく利用させてもらった。

案外、きれいに清掃管理され、ほとんどが水洗である。受付の少年たちの笑顔が素晴らしく、気持ちよく利用できた。ただ手洗いの水は、細菌感染に注意である。多くのところでは、ティッシュまたはトイレットペーパーを用意していないので注意が必要である。 大小で値段が違うようで、5~10TK+チップ5TK。

 

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                                                       街角にある有料トイレ(5~15TK)

 

 

<ダッガ 朝の散策>

時間と共に街には生活の匂いが鼻につきだす。

気温の上昇と共に、魚や肉、残飯の腐った匂いが満ちてくる。どうもバングラデシュの人々の食生活に、匂いの元があるのかもしれない。街角で見られる魚をさばいたあとの内臓を放置、蝿が真っ黒にたかっていたりする。

流れの止まった下水や溝にも、油が黒く光る液体が動くことなく停滞し、臭いの元を作っているようである。

インフラの遅れにもよるが、生活の排水が後を絶たず流れ出し、臭いの根源になっているというのが実情である。

しかし、風が吹き臭いを一掃すると、柑橘類の爽やかな匂いがときどき混じって流れてくる。そう、散策の歩きの中にも、新鮮な空気に触れることがある。人の住む街を少し離れると、川から吹き付ける湿った新鮮な空気に触れることが出来るのである。

売られるガチョウが悲痛な叫びをあげ、バスに群がる人たちの叫び、鳴りやまないクラクション。ダッガの匂いも、騒音も生きる力の強さをあらわしているといえる。

国の成長過程で見られる生活の風景に触れ、バングラデシュの若さを見たような気がする。

空にはスモッグもなく、清く澄み渡っている。太陽はいつものように万物に恵みの光を与えている。

素晴らしい世界の片隅、ここバングラデシュダッカでも、イスラムの神を称えるコーランが今朝も響き渡っている。

バングラデシュの人々は、今日も変わることのない営みを始めたようである。

 

今朝もすでに気温が30度以上のようで、汗が背中を流れだした。 この暑さに騒音と人の群れが動き出したから大変である。木陰から一歩を踏み出せず、ただただ人の営みを眺めることになった。

 

日本という清潔なところから、人口密度の濃いバングラデシュ、その中でも人が密集しているダッカに来て、人間本来の汚れや、本能に生きる土地に立ってみて、人間の潜在的な根源、生きる強さに触れたような気持ちになった。

本能に生きるとは、秩序があってはならないし、清潔であってはならないし、押さえて生きてはならないのだ。ただただ無秩序に生きてみることである。

しかし、おのれを抑える生活則からなかなか逃げ出せずに、バングラデシュという生活習慣に溶け込んでみることにした。

 

<列車旅行をあきらめ、バス旅行に切り替える>

現地の駅に行ってみて、列車の行き先・時刻表・値段の標示がすべて難解なベンガル表記で、理解するのに時間がかかることと、間違いを防ぐためにバス旅行に切り替えることにした。

バスも又、ローマ字表記がないので大変だが、アラビックの行き先地名とバスナンバーである数字を覚えるだけで済むという便利さもある。チケット購入にあたっては、印刷した購入メモ<行先・乗車日時・人数・片道/往復>を準備した。

 

US$(米ドル)にも、ほかの中東の国での反応の高さに比べたら関心が低い。今後はUS$を現地貨幣TKに両替しておく必要がある。

一方、ATMで使えるCASH CARD INTERNATIONALや VISA CARDが便利なのは、その日の為替レートで現地通貨が出てくることである。

 

🚐 長距離バス移動  ダッカ/DHAKA ➡ ディナジプール/DIHAJPUR>

     2010/10/13 Ticket Fee 300TK 10:30AM Dept. 

乗車時間 約7時間 (約350KM)

 

空港より北3㎞ほど行ったNATTAという街の道路沿い、進行方向にむかって左側にバスチケット・カウンターが並んでいる。ここでディナジプール行バスチケットを購入し、乗車する。

始発のここ<アブデュラプール/ABDULLAHPUR バスチケット・カウンター>の前から、ディナジプール行の午前・午後2本の便が出ている。

 

始発のダッカからの乗客は12名であったが、市内を通り抜ける間に座席は埋まり満席となった。隣席は同じディナジプールに帰る家族4名、老夫婦に嫁とその1歳の男の子である。

やっとバスは郊外に出た。川の国は風が涼しく、爽やかである。

外国人、いやモンゴル系はわたし一人。ほとんどの人が冷たく観察する中で、柔和な笑いを浮かべた一人の老紳士が英語でどちらへ行くかと聞いてきた。この一言に知らずに身構えていたこころの不安がスーと消えていった。

 

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          ハニフ/HANIF エンタープライズ社の長距離バス と 車内

 

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 ハニフ/HANIF・シンボル・マーク  <ダッカ/DHAKA ➡ ディナジプール/DIHAJPUR>予約チケット

 

<バス車窓からバングラデシュの情景を眺める>

人が溢れ、騒音を生み、汚れゆく街角には人間の図太い営みが満ちている。

ダッガ、この街の止まらない喧騒の中にいると一種の興奮をさえ覚える。

土ボコリで街路樹も家屋も、人までもが変色しているように見える。すべてが埃をかぶって土色のなかに埋没しているのである。

バスの中でさえ、窓からの土埃には耐えきれずバンダナを顔に巻き付けることになった。

 

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              バングラデシュ街角の風物詩 リキシャ

 

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                庶民足 リキシャ

 

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               街や村にはどこでも人が溢れている

 

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            土埃対策 バスでは土ぼこりを防ぐためバンダナを巻く

 

ご婦人の色鮮やかなヒマール(イスラム婦人の衣装)やサリーは、蓮の花のように混とんとした池の中に咲く天女の服のように鮮やかに映える。

自転車とリキシャと三輪オートリキシャは、この国の庶民の足である。時にはサイケティックな、オールドファッションな、芸術性を持ったリキシャが、その魅力を競っている姿に魅せられることがある。

 

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                               東南アジア一帯で走っている三輪オートタクシー<デンプー>

 

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              スケッチ <サイケティックなリキシャ>

 

 この時期(10月)のバス旅行(アドベンチャー)は、暑さとの戦いである。

出発から2時間程たったが、いまなお群衆とリキシャを避けながらノロノロと走り続けているバスは、ダッカ近郊からいまだ脱出出来ていない。

この大変な交通事情では、経済もマヒしてしまうと考えてしまうが、人々はいたってのんびりとその日暮らしを楽しんでいるようである。

バングラデシュには、この国独自の時間と秩序がガンジス川の流れのように、滔々と流れているようにも見える。

人びとの顔にもまた、この悠久の流れを人生の旅路の伴侶として受け入れ、幸せを享受しているように見受けられる。

 

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    熱い国バングラデッシュではサトウキビの爽やかな汁 や パイナップルの切身が喜ばれる

 

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               街中は人で溢れけりバスの通過は大変である

            

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     河の国バングラデシュには湿地帯やドブ溜りが多く不潔の元となっている

 

恐らく観光業者は、このような場所は避けて早朝・夜間に世界遺産の方へ観光客を案内するのであろう。バックパックカーでない限り、この国の素顔に接することは中々ないといっていい。

現実に接し、この国の抱える問題点に向き合ったうえで、将来、多くの日本の企業がこの国の繁栄のために、またバングラデッシュの人々の幸せのために貢献、寄与してもらえればと願うものである。

 

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              一杯飯を売ることで生計を立てるご婦人も多い

 

ダッカを出て約3時間でジョムナ川に出て、川に架かるジョムナ橋を渡ってディナジプールに向かう。

ジョムナ川もガンジス川の支流であり、水上交通のメインルートのひとつとしてバングラデシュの経済を支えている。

ジョムナ川には小舟や、くい打ち小屋に住み、川の恵みを受ける水上生活者が多くみられる。

この地は、ガンジス川の織り成す豊かな三角州であり、海抜ゼロ地帯である。

これより田園風景がひらけ、国境にも近いのであろうか、かって、出会ったインドの風景が続く。それもそのはず、歴史的・地政学的にみて、今から75年程前まで現在のパキスタン・インド・バングラデシュ・セイロン・ビルマを含めた地は、<英国領インド帝国>という一大植民地であった。

 

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          ダッガより約3時間走り、ジョムナ川に架かるジョムナ橋を渡る

 

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                 ジョムナ川流域に見られる耕作地

 

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                ジョムナ川は大河である

 

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          スケッチ  < Rice Fields>    Dhaka➡Dinajpur  10/13  03:20pm

 

意外と知られていないが、バングラデシュのコメの消費量は、世界でも有数である。日本米と異なり長粒米であるインディガ種である。バングラデシュ滞在中に、カレーとパラパラのライスを幾度も食べることとなった。手指でも食べてみたが、以外とパラパラ米だからこそ手指になじむのだということが分かった。

 

途中、モーターインに立寄り、バニラアイスクリーム(30TK)を買い食い。火照った体に心地よく溶け込んでいく。ランチには、ケーキとマンゴジュース、バナナとリンゴをかじって済ませた。

 

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  インディカ種の長粒米である耕作地も見られる        夕刻、ディナジプールのモーターインに立寄る

 

ディナジプールに近づくにしたがって、バナナの収穫期なのだろうか、村総出で取り入れに忙しい。トラックにも未熟のバナナが山と積まれ出荷を待っている。ユーカリで囲んだ田圃には稲穂が静かに揺れ、夕暮れを待っている。

隣の席のご主人が、葉っぱを半部に切り、4等分に折って口に入れた。多分、コカの葉であろうと推測する。

 

陽が落ちて、すこし涼しくなったディナジプールの街に、約350kmを、2時間ほど遅れて9時間の旅を終えて、長距離バスは午後7時45分ごろ無事滑り込んだ。

さすがにバングラデシュ縦断バスの旅は疲れたが、それにもまして必死に国土建設に汗を流すバングラデシュの人々の姿に見入ってしまうバスの旅でもあった。

飛行機だとダッカ・ディナジプール間は、わずか50分だという。

大抵の観光客は、ガイドに引率され飛行機でディナジプール入りするのであろう。

 

<▲ ディナジプールYMCA 宿泊 >   ダブル@500TK X 2日(連泊)

Dinajpur Young Men’s Christian Association

Station Road, Tel: 65552 (Office)

 

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     ディナジプールYMCA入口              ディナジプールYMCA

 

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        ディナジプールYMCAのダブルルーム           シャワールーム

 

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               ディナジプール駅・YMCA 付近略図メモ

 

 

 

■10月14日 3日目 ディナジプール➡カントノゴル寺院 (北方30㎞)

 

今日は、YMCA主事の牧師さんの友人が運転する三輪オート・リキシャを借切り(600TK+チップ400TK)、バングラデシュで最も美しいヒンドゥー寺院といわれる<カントノゴル寺院/KANTANAGAR>を観光することにした。

 

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  借切りの三輪電気オート・リキシャで出発       YMCAの近くにあるDINAJPUR列車駅

 

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             ディナジプール駅で1日数本の列車を待つご婦人

 

 

バスで行く場合は、ディナジプールのバスターミナルからタクルガオ方面ポンチョゴール行のバスに乗る。

降車バス停ドシュマリよりカントノゴル寺院入口まで徒歩で約15分であるという。

 

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            タクルガオ方面ポンチョゴール行のバス

 

<カントノゴル寺院への道中の田舎風景   電気オート・リキシャから>

 YMCAの主事であるJibon牧師の紹介で、友人のDipu氏の運転する三輪電気オート・リキシャを借切ってYMCAを08:00amに出発した。

途中、キリスト教村やヒンズー村を案内され、貧しさの中にも生きる命のみちた日常の生活を垣間見ることが出来た。

収穫期のバナナの積み出しや、稲穂刈りに忙しい村民の表情、村の広場一杯に籾殻を干す子供達に出会った。

めずらしい手作りの計量計を使っている廃品金属回収業の現場や、薪を量り売りする風景にも出会った。

風通しのよい高床式住居の庭に飼われたニワトリが声高に泣き叫ぶ、典型的なバングラデシュの農家を見ることが出来た。

 

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     金属回収業の手作り秤(重量計)          薪売りの手作り秤(重量計)

 

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         高床式の住居               家庭の炊事場にあるカマド

 

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                いまも現役・井戸水汲み上げの手動ポンプ

 

井戸水が日常生活の主役として活躍している情景や、駄菓子屋のテレビに群がる子供たちを見ていると60年程前の少年時代の自分を見ているようなノスタルジーにひたった。

力道山の空手チョップに相手が失神するプロレスリングに拍手喝采した日が懐かしい。

 

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          バナナの収穫               インディー米の田圃

 

世界遺産・カントノゴル寺院/KANTANAGAR  入場料10TK>

世界遺産・カントノゴル寺院は、ディナジプールの北約30㎞のところにある。

一片が15mの正方形で、三層からなるレンガ色のテラコッタで囲まれた寺院で、18世紀中ごろに建立されたとある。

その壁一面には、ヒンドゥー神話である古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナをモチーフにした精密なテラコッタの彫刻で埋め尽くされたベンガルヒンドゥー寺院であり、壮観である。

叙事詩で活躍する人物は全てクシャトリヤであるから、壁面の彫刻テラコッタクシャトリヤの行列を描いていると言っていい。

 

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    カントノゴル寺院への行き方(略図)      カントノゴル寺院/KANTANAGAR見取り図

 

このような田舎の人里離れたデバ川沿いに、圧巻の緻密なテラコッタ芸術をほどこしたヒンズー寺院を建てたものだと驚きをもって観賞した。

観光客はわたし一人である。ほかには、地元の親子が参拝に来ていた。

静寂の中にあたかも砦のような建物が300年程前に建てられ、現在にその姿を残していることに驚くとともに、取り巻くテラコッタも鮮明で欠損せずに残っていることにも目を見張った。

また建物そのものが、東洋様式にネオ・ルネッサンスという西洋様式を取り入れていることを知って、またまた好奇心をかりたてられた。

 

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      ネオ・ルネッサンス建築様式がうかがえるカントノゴル寺院/KANTANAGARの正面

 

<精密なテラコッタの細部>

建物の外側基底部分にテラコッタによる彫刻が集中している。

そのテラコッタのメインなる部分を拡大しておきたい。

それは見事なテラコッタだ。インドで見られるリアルな性描写もなく、王様の成し遂げた業績や、敵との戦いの物語を彫っている。

それもレンガ大の大きさに、精密な人物の表情を刻み込んでいる。

 

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             カントノゴル寺院の基底部分のテラコッタ 四景

        大長編叙事詩ラーマーヤナをモチーフにした精密なテラコッタの彫刻

 

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  カントノゴル寺院/KANTANAGARの二方面     カントノゴル寺院/KANTANAGAR解説板

 

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                 スケッチ <Kantanagar Hindu Temple>

 

カントノゴル寺院で働いているという8歳の少年が、ガイド役を買って出てくれた。それも英語で寺を案内し、写真を撮ってくれ、トイレに連れて行ったりと世話をやいてくれたのである。トイレに行ったときは、ここは自分の仕事上のテリトリーで、使ったあとは4TKを金銭箱に入れてくれというではないか。あどけない少年の顔は、立派なビジネスマンに見えた。

少年にお礼のチップを手渡し、興奮冷めやらない体を待たせていた電気オート・リキシャに乗せて、一路投宿先のYMCAに戻った。

 

<ディナジプールの街を散策>

次なる目的地である世界遺産バハルプール/PAHARPURの仏教僧院に向かうバスの乗場を下見するためにディナジプールの街に出てみた。

街角の果物屋の主人にバス・ターミナルの場所を聞くが、なかなか通じない。困っていると客の一人である中年の紳士が流暢な英語で語りかけてくれた。何か困っていることはないかというので、バス・ターミナルの場所を尋ねてみた。答えたあと、自分は先週、筑波から帰国したばかりで、久しぶりの郷里を娘と散策しているという。

この国では、時々かかる教養を身に付け、英語を話し、世界を知る人に出会うことがある。観光客にとっては救いの出会いでもあり、感謝したものである。

この国の観光産業はいまだ未開拓であり、民需に待つのではなく、国策としての長期計画のもと政府主導で開拓・誘致を推進する必要があろう。まずはインフラの充実であり、交通網の整理であり、宿泊施設への投資を促す必要がある。まずは点である観光地開拓と、線であるインフラ、交通網の整備が急がれる。

 

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           街を散策中立寄ったヒンズー・テンプルで少女たちと

 

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               街角で出会った未来の紳士たち

 

バングラデシュブータンの観光事情>

この旅に出る前に、ブータンを旅したことがある。

同じく農業に生きる民であり、人々の素朴さに惹かれる所も同じである。水の国と山の国、それに宗教的にイスラムと仏教の違いがある。

ブータンは人口70万人の小さなヒマラヤに位置する小国である。しかし、この小国には明確なポリシーがあるような気がした。未開放の国であったにもかかわらず、伝統を生かし、その歴史と郷土の美しさを遺そうとする姿勢を感じた。幸せの国を目指し、人に愛と幸福を伝える国としての存在意義を見つけていたように思う。

山に住む人々も、国の示すポリシーをよく理解し、伝統衣裳を身に付け、家を開放して観光客を受け入れ、郷土料理を提供し、風呂につかって天空の星空を鑑賞させるなど官民が一体となって観光国家をめざしていたことをバングラデシュの旅をつづけながら想い出していた。

 

一方、ここバングラデシュという国はどうであろうか。

1憶6000万の人口をかかえ、イスラム教のもと貧困からの脱出を模索する発展途上の国といえる。その人口の多さからか、雑然としたなかに国民を一つにまとめるポリシーを見つけられずにいるようである。国の方針と夢を待つ国民のエネルギーが、諦めの中に消えつつありそうで残念でならない。

いつの日にか、多くの観光客が押し寄せる国となり、この国の魅力に陶酔させられる日が来ることを待ち望む一人である。

 

この多くの人口を生かせる目標の一つに、IT教育と技術立国としての国おこしと、海外の工場を呼び込むインフラ整備を目標に掲げるのも一つの方法であろう。また医療や福祉の国造りにより、多くの医療者や福祉支援者を世界中に派遣するプログラムも役に立ちそうである。

未開拓の観光産業については、先にも後にも私見を述べている。

バングラデシュはまず、国民の民度を上げ、一人当たりの経済力を高める方策から始めることになろう。

まだまだ大変な努力が必要であろうが、安価な労働力に魅力を感じる国々もあるという現実もまたこの国の成長にプラスになると言っていい。

 

<ダニや南京虫に対する一考察>

ここバングラデシュでダニや南京虫に噛まれたらとても痒い。その姿や噛み跡も確認できないのに痒みだけは激しい。ムヒを塗ると一時的に痒みがゆるむが、そのうち眠れないほどに痒みがぶり返すから困ったものである。

インドシナ半島南京虫は、丸々と太るまで血を吸うので見つけやすい。潰して飛び散る血を見ることによって、痒みも引いていくような錯覚におちいったが、バングラデシュの虫どもはその姿を隠すのが上手で、噛まれてもその痕跡を残さないから知恵ものである。姿が見えないからさらに痒みが増すような気になるものである。

かれらも今夜の宿泊客を待ち構えていて、必死に血を吸い、子孫を残す努力をしているのだから、われわれ人間も我慢して噛まれてやるぐらいの度量を持ちたいものである。

がんばれ虫どもと声援を送りつつも、やはり痒みは辛い。

 

静寂の中、朝の散歩に出かけ、農家の庭をのぞいてみた。

 

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       農家の軒先で牛達たちがのんびりする姿にバングラデッシュの平和を感じる

 

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      庭先に干された麦穂             朝まだ冷めやらない静かな村道

 

 

■10月15日 路線バスで、ヒリ/Hilli経由 世界遺産バハルプール/PAHARPURに向かう

 

ディナジプール・路線バス・ヒリ行          08:09am発(60TK)➡    10:45am着 

ヒリ・バス乗継 (リクシャで移動 30TK) 

ヒリ・路線バス ・ ジョイプルハット行       10:52am発(40TK)➡ 11:45am着

ジョイプルハット・路線バス バハルプール行          12:00am発(20TK)➡ 12:45am着

 

 

<バス乗継地 ヒリ/Hilli  10:45am着/10:52am発 >

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        ヒリの長屋風景                ヒリのリキシャ

 

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      バスチケット売り場               三輪運搬車が行き交う

 

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         ヒリの街角                   駄菓子屋さん

 

<地方都市でのバス乗継の注意>

ここでは、ディナジプールより目的地バハルプールに向かうにあたって、途中ヒリの街でバスを乗り継ぐ際の注意点を見ておきたい。

地方都市のバスターミナルは、行先によってそれぞれ異なった場所にあることがあるので注意したい。良くある間違いは、到着したバスターミナルから乗継のバスも出発するものと思い込んでしまうことがあり、乗り遅れることがあるということである。

最初に乗ったバスの運転手に、自分の最終行き先をメモに書いて渡しておくと、乗継のバスターミナルで彼はリキシャの男に行き先のバス乗り場に連れて行くように指示してくれる。

もちろん、乗継のバスターミナルでは運転手の横に寄り添って、その指示に従うことはもちろんである。

リキシャの男は了解し、次なる行き先のバス乗り場に連れて行ってくれる。

乗継都市ヒリ/Hilliの場合、バハルプール/PAHARPUR行バス乗り場は約1㎞離れた<Joypulhat Bus Terminal>にあった。 これでは初めての旅人にとって、乗継バス停の所在確認は不可能に近い。

この場合も、親切なバス運転手と、リキシャ(14TK) 連携で、出発間際のバハルプール行のバスに間に合ったのである。

 

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                                ジョイプルハット路線バス バハルプール行 (HINO中古バス)

 

ジョイプルハットで乗り継いだバハルプール行バスは、快調に田舎道路を飛ばしていたところ途中でパンク、乗客全員がおろされ、半額の払い戻しを受けたあと、幾台かの三輪オート・リキシャに分乗してバハルプールに向かうというハプニングが起きた。これまたバックパッカーにとってはアドベンチャーな出来事であり、歓迎される事態である。

 

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                                                  農具修繕屋さんの作業場

 

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                この時期おいしい果物 デシュ売り

 

世界遺産バハルプール/PAHARPUR   入場料 外国人100TK>

バハルプールは、1985年世界遺産に登録されたインド亜大陸最大の仏教僧院跡である。

8~9世紀にかけて在位したパーラ朝第2代の王ダルマパーラによって建立され、パーラ朝仏教美術を代表する僧院遺跡の一つである。

遺跡は、レンガ造りの基壇と土台の石、周壁が残っているだけだが、広々としたイングリッシュガーデン風の芝生に囲まれ、静寂の中で昔日を偲ぶことが出来る。

この地ではじめて、ネパールよりバングラデシュに入ったという日本人青年バックパッカー君に出会った。この旅では日本人には出会うことはないと思っていただけに驚いた。

なんと暑いことか。バングラデシュの人々が黒く日焼けしている原因は、直射日光によることであることが納得できるのである。

しかし静かだ。世界遺産といわれる観光地で、ほとんど人に出会うことのないのには驚きである。外国人は皆無である。

夕涼みを兼ねて、広大な芝生に点在する木陰で地元の人々が家族団欒を楽しんでいる情景は、観光地らしからない風景である。世界遺産が、市民の庭園として住民に親しまれていることになにか安堵の気持ちにもさせられたが。

わたしも記録ノートにスケッチをしながら、ゆったりと流れゆく時を楽しんだ。

遺跡の上部へは、ガイド無しで上ることはできない。

テラコッタカービング(彫刻)の素晴らしさに惹かれて、ガイドに付き添ってもらい遺跡を巡った。

8~9世紀の宗教は、ヒンズー教も、イスラム教も、仏教もまたテラコッタという表現方法で後世にその偉大さを遺していることを知ることが出来る。

 

世界遺産パハルプール遺跡には、ミュージアムが併設されている。

ここにはパキスタンガンダーラ仏像とは、対照的に東洋的な仏像が飾られている。同じく伝わったであろう仏教が、異なる仏像を創りあげていることに興味をいだいた。

展示室は撮影禁止なので比較写真をお見せできないのが残念である。

 

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世界遺産バハルプール/PAHARPUR 仏教僧院 標識       バハルプール仏教僧院   外国人100TKチケット

 

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               世界遺産バハルプール仏教僧院跡 全景

 

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          世界遺産バハルプール<基壇の仏教的テラコッタレリーフ

 

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   バハルプールの広大な仏教僧院跡          世界遺産バハルプールの背後

 

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               スケッチ <世界遺産・バハルプール仏教僧院>

 

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                  バハルプール博物館

 

<▲ ホームステイ  お礼500TK >

今夜は、世界遺産バハルプールの正面入り口に近いお宅でホームステイすることになった。

この家の高校生の息子さんであるマスーズ君と遺跡で出会い、バハルプールの歴史的説明を受けたことによる。彼は日本に興味を持ち続けており、憧れの日本人であったようである。さっそく、自宅に案内され、両親に紹介され、今夜一夜のベットを用意するとの申し出を受けたのである。

寝室は、彼の勉強部屋で、急遽ベットが準備された。まず、井戸で汗を流し、食事、それも家庭料理を味わうことになった。家族そろって大歓迎である。将来は観光客を迎え入れるペンションを開業したいという夢のある計画を熱っぽく語ってくれた。

 

あれから随分年月がたったが、彼らはペンションをオープンさせているかもしれない。もし、世界遺産バハルプール観光に行かれた際には、遺跡前のお店兼ゲストハウス(ペンション)に声をかけてみていただきたい。

 

MR. MASUD RANA (マスーズ・ラナ) 

Paharpur, Badalgahhi, Naogaon, Bangladesh

 

バングラデシュでのホームステイでは、停電に対処してヘッドランプは必携である。

また蚊取線香があると安眠できる。シャワーは無いので、スイムパンツで井戸水を汲みかぶることになった。

 

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  世界遺産をガイドしてくれたマスーズ君      マスーズ君の勉強部屋に造られた簡易ベット      

 

ホームステイしたマスーズ君の家は、バハルプール遺跡の入口から100mほどに店を構えている。店ではミネラルウオーター・アイスクリームや軽食を提供している。彼の部屋は店の裏にあり、泊ることになって急遽、彼の部屋に寝床を作ってくれた。

マスーズ君は、地元の高校に通う15歳のサイエンスを学ぶ聡明な若者である。滞在中、付き添って世話をやいてくれた。

このホームステイで、バングラデシュの平均的な家庭の日常生活に触れることが出来る貴重な体験をすることが出来た。水道施設はなく、井戸(手動ポンプ)で料理・洗濯はもちろん洗顔・柄杓での体洗いをおこなう。トイレは、和式と同じだが、事後はムスレム方式でトイレットペーパーを使わず左手指で後始末を行う。トイレ横にある水桶の水で流して終わる。

家族構成は、50代の両親と長男家族4人と本人の7人で、バングラデシュの平均的家族構成という。

 

■10月16日   5日目  モアスタン仏教遺跡都市へ向かう

 

昨夜マスーズ君は、バハルプール博物館の館員を紹介してくれた。考古学の立場から仏像の発掘状況や、ユネスコ世界遺産に指定された背景などのレクチャーを受けた。

また、バングラデシュの世界における立ち位置や、将来展望について熱く語りってくれた。

 

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      マスーズ君の家の中庭              ホームステイ先の井戸で水浴び

 

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   粗末な紙で作られた教科書とノート            朝食の揚げパン と ゆで卵

 

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          出発にあたってマスーズ君(中央左)家族全員に見送られる

 

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 次の目的地モハンスタンに向かうバスに乗車       バハルプールのメインストリート

 

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    運搬用リキシャで通学する子供たち          よく見かけるサトウキビ畑

 

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                   バングラデシュの農家

 

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   MAHANSTHANへの途中で昼食をとる          揚げ餃子のような昼食

 

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       典型的なトイレ

 

 

世界遺産 モハンスタン仏教都市遺跡/MAHANSTHAN>

 世界遺産 モハンスタンは、4~6世紀のバーラ・セーナ朝の仏教都市遺跡である。

モハンスタンは、Pundoranagara(Old City)という昔の街であり、19世紀後半に発掘された。

このような地方の田舎に、都市計画にも似た整然とした仏教都市があったことに驚かされる。また遺跡と言えば、後者が前者の遺跡を破壊するか、その遺跡の上に新しい建物を建てるのが通常だが、ここモハンスタンではヒンズー教イスラム教・仏教がそれぞれを尊重し、前者の遺跡を遺していることに興味を持った。

遺跡は、田園都市として散在しているのでリキシャでゆっくり回ることをお勧めする。

この日は猛烈な暑さであったので、村の畦道をチビガイドさんに案内されのんびりと散策した。遺跡と遺跡の間は、村の人々の日常生活が営まれている。珍しい観光客であるわたしの周りにはいつも多くの村民が取り囲み、一緒に写真を撮るなかで交流を図った。

 

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世界遺産 モハンスタン仏教都市遺跡 と 砦の城壁跡>   少年ガイド・ムハンマド君の案内で回る

 

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 約10㎞平方の広さに40程の遺跡が点在している     遺跡では多くの人々に写真をせがまれた

 

世界遺産に多い自称ガイド>

この日の世界遺産モハンスタンは土曜日とあって、平日の静かさに比べ家族連れや、団体さんが多いようである。相変わらず外国人観光客は見当たらないから、この東洋顔は目立つらしい。

歩き出した時から中年男が、何かと聞き取れない英語で、説明しながら離れずについてくる。横道にそれてみても埒があがらない。世界どこを歩いても、同じく自薦ガイドの売り込みに余念がない。こちらも慣れているのだが、その都度に行われる激しい売り込みに閉口するものである。

自称ガイドの中年男のうしろに、パンツ一枚の愛くるしい少年が同じように付いてきているのに気づいた。

この少年ムハンマド君が、中年男に代わって、ここ世界遺産モハンスタンでの専属ガイドになってもらった。

彼は寡黙であるが、写真を撮ってくれたり、家に立寄って家族に紹介したりとよく世話をしてくれた。

 

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           モハンスタン仏教都市遺跡の間に広がる畑を耕す農民

 

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                 少年ガイド・ムハンマド君の家族と  

 

 

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          母と息子たち              写真に納まるお二人さん



<ボグラ散策>

モハンスタンから、ここボグラ/BOGURAまでは約10㎞と近い。この間の交通と言えば三輪オート・タクシー<デンプー>が頻繁に行き交い、狭い車内にすし詰にして目的地に向かうから、乗客も必死に車体にしがみついていた。

恐怖の10㎞には凸凹あり、カーブありと老人にはいささか荒っぽいコースだが、楽しいアドベンチャー・ライディングである。

いささか度の過ぎた荒っぽい運転で、ボグラに着いた時には、深い息をついたほど緊張の連続であった。

下車するときに支払った運賃は、たったの10TK、あまりの安さに倍額のチップを手渡したほどである。

 

この後、ボグラで1泊し、バスを乗り換えて、プティアの<ゴビンダ・ヒンズー寺院>に向かうことにしている。

 

バングラデシュのほとんどの都市がそうであるように、ボグラの街はリキシャの群れ、三輪バイク、オートバイに混じって自転車がひしめき合っている。まるで毎日がお祭り、縁日の人出のようである。

インドのバラナシや、パキスタンのラーワルピンディーの街角やオールド・ダッカの混雑と同じく、街路が人の波で埋め尽くされるている情景である。

 

この辺りの豊かなガンジス川の草原が、放牧に適していることから、酸味がなく甘味十分な<ドイ>というヨーグルトが有名である。また米作りに代わって最近はバナナやグアバといった果物栽培も多くみられ、街道沿いに出荷される果物が山積された風景が見られる。

 

また、時代によってヒンズー教や、仏教、イスラム教が入り混じったり、破壊したりと各宗教の栄枯盛衰を偲ばせる遺跡が多く残っている歴史的な街でもある。

 

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              ボグラのメインストリートの混雑

 

<▲ ボグラ/BOGURA の AKBORIA GRAND HOTELに投宿>

    エアコン付きのダブル・ルームの格安ホテル 750TK

 

アクボリア・グランド・ホテルは、ニューマーケット近くのポリス・ステーション(タナオフィス)横の細い道路を入った奥にある。シングルルームは満室であったので、体を休めるためにと、エアコン付きのダブルの部屋をとる。

 

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                 AKBORIA GRAND HOTEL領収証

 

<生水に注意>

水あたりであろうか下痢症状で、渋り腹である。どうも細菌性で急を要するということで、早めにホテルに飛び込んで、持参した正露丸を4錠流し込んだ。この先、更なる場合は、急性下痢止めにとってある<錠剤ストッパー>を服用するつもりである。

海外を旅すると必ずと言っていいほど細菌性下痢に悩まされるので、十分な対処をしていたはずだが、気のゆるみからか手と口を介して細菌が侵入したようである。

殺菌性ウエット・ティッシュ、アルコール・スプレーで手の消毒を心がけていたがガードが甘かったようである。

食事前の生水での手洗いは、逆に細菌をもらうことになるので、手を乾燥させてからと心がけていたが残念である。生水には細心の注意が必要である。

 

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               AKBORIA GRAND HOTELの正面 と フロント

 

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    AKBORIA GRAND HOTELの部屋

 

<夕方7時 街にコーランが流れる>

この雑踏の街ボグラ全体に対して、スピーカから全開のボリュームでコーランの読み上げが鳴り響く。

コーランアッラーが語った言葉であるといわれる。この神の言葉であるコーランには、神と人間の関係や人間社会における生き方の規範や奨励、崇拝行為の規定など様々なことが含まれていて、ムスリムの信仰の源泉となる神聖なものである。

ムスリム(女性・ムスリマ/イスラム教徒)は、唯一神アッラー>の教えに従って生きている人々のことをいい、信仰の告白、礼拝、喜捨、断食、聖地メッカへの巡礼からなる5つの基本行為を守る人たちである。

 

イスラムの人々は、コーランに生きているから心の平安があるのだ」と、バハルバール遺跡博物館長の語ってくれた言葉を思い出した。

 

バングラデシュの夜店>

下痢も出してしまえば、症状は軽くなるからいい。さっそく、ボグラの街を散策した。土曜日の夕方であるからか、夕涼みを兼ねたそぞろ歩きの人と、リキシャで溢れ返り、昼間の街よりもさらに大混雑である。

まず、スーパーに出かけ品数と種類や値段を見て回り、そのあと夜市に出かけお土産の民族衣裳一式(サロワ・カミューズという伝統服)を購入した。 伝統婦人服サロワ・カミューズは、上(カミューズ)、下(サロワ)とストール(オロナ)の3点で構成されている。

どこの国でも夜市での買い物は楽しいものである。買い手は、出来るだけ安くと値切り、売り手は高く吹っ掛けて、だんだんと値を下げて買い手を満足させるという阿吽の呼吸で売買が成立する。

しかし、大半の交渉は、買い手であるこちらの負けの場合が多い。でも、心地よくだまされた品々が楽しい思い出として我家の一等席を飾っているから実に愉快である。

 

また夜市は、野次馬が買い手側と、売り手側に分かれ、値段が下がるにつけて両者の応援団が声を張り上げて真剣さがヒートアップしていく。興奮は、売買が成立した時に一気に盛り上がり一芝居が終わるのである。

興奮冷めやらない観客である応援団に向かって手に入れたサロワ・カミューズ(民族衣装)を高くかざすと、大きな拍手に包まれた。バングラデシュの人々のぬくもりを感じる一瞬でもある。いまから60年前まで日本の各地の神社の境内の夜店にも同じ光景があったことを懐かしく想い出した。

 

結局、1000TKの売値に、こちらは半値の500TKでオファー、売り手は900TKと100TK単位で値を下げ、こちらも100TK単位で上げていく、あまり面白みのない最終値750TKで落ち着いたが、応援団はそれぞれの掛値を大声で振り上げ、楽しんだようである。

ちなみに、品質・縫製は分からないが、先に立寄って見ておいたスーパーでの値段は、3850TK程であったことを付け加えておきたい。

いま、日本では見ることのできない光景になってしまい、寂しい限りである。人のふれあいにこそ、平和な生活があるというものである。

 

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        バングラデシュの民族衣装<サロワ・カミューズ>    (シャプラニールの会提供)

 

 

■10月17日  6日目 プティア/PUTHIA ➡ ラジャヒ/RAJSHAHI

     <ゴビンダ/GOVINDA・ヒンズー寺院>

      曇一時にわか雨  気温35℃

 

<ボグラ/BOGURA> 路線バス 06:30am発 ➡  08:50am着<プティア/PHUTIA>乗継 10:05発 ➡

 ➡ 10:48着 <ラジャヒ/RAJSHAHI>  (バス運賃 80TK)

 

 

喧騒の街 ボグラを後にしてプティアへ向かって路線バスで出立した。

途中、子供たちに「ハーイ、ジャッキーチェン」とエールを送られる。どうも東洋人はみなジャキー・チエーンに見えるらしい。こちらもジャッキーチェンのポーズをとって応えるのだから変な老人である。

 

バングラデシュの10月の気候>

バングラデシュは、雨季( 4月~9月) と 乾季(10月~3月)に分かれる。 今回の旅は10月からの乾季に入ったようで、1~2回の短いとおり雨に見舞われたに過ぎない。1日の平均気温は26℃~32℃なのだが、湿度が60%ほどあり、蒸し暑さと不快を感じる。

日本の夏の暑さと違って、頭がガンガン、キリキリと干しあがるような感じである。汗は、吹き出すという表現が当てはまる。帽子と水が無ければ日射病にかかりそうである。暑いので、半ズボンになりたいが、イスラムの国では勇気がいる。汗で湿ったジーンズをはいたままの行動は気持ち悪いものである。

もちろん観光産業の未開拓といった理由もあるが、各遺跡では、暑さのため観光客が絶えるほどである。

 

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                  昼、乾季に入った街は土埃に咽ぶが、早朝は清々しい (ボグラ)

 

ボグラから路線バスに乗り、2時間少しでプティア/PUTHIA に着いた。

バングラデシュの旅では、人間の垢でまみれ、人間に汚された大地を歩くことになる。それほど人間が溢れているのである。ここプティアにあるゴビンダ・ヒンズー寺院でも、観光客とみれば多くの自称ガイドが客を獲得するために集まってくる。いや、言葉は悪いが群がると言った方が正確である。彼らにとっては家族を養うための正当な競争であるが、どこか貴重な労働エネルギーが空回りしているようでむなしさを感じる。

しかし彼らには他に就労の道はないのである。

この余剰労働力を、国の発展のために役立てる基幹産業を生み出す指導者が現れることを期待したい。

 

素晴らしい世界遺産を数多く持ちながら、外国からの観光客を迎え入れる方策を持ち合わせていないことは、貧困からの脱却という問題を難しくしているように思われる。まずは何度も繰り返すが、観光客を呼べるだけのインフラ整備に投資することであろう。道路・交通・電気水道・病院・ホテル等宿泊施設・乗り物・標識・レストランはもちろん、観光客を受け入れるためのソフト面の教育である衛生・通訳・ガイド・サービス・エンタテイメント・マナーなど計画し、実施すべきことは多岐に渡ると思われる。

観光だけでもこれだけの準備と投資が必要なのであるから、外国の投資を呼び入れる外交的努力も必要であろう。

もうそろそろ国の形を明確にする時期にバングラデッシュという若い国はあるような気がする。

 

観光客であるわたしでさえ、世界遺産の遺跡において外国からの観光客にほとんど出会っていない、いや一人もいなかったことに驚いているのである。

それはなぜかと問われたら、旅行会社がバングラデッシュでの一人旅を勧めないうえ、旅行会社が完璧なプランを立て観光客と現地人の接触を遮断し、バングラデッシュの日常生活を観光客に触れささないような観光方法をとっているところにあるのではないだろうか。

旅行会社が、事故や事件に巻き込まれることに神経質であるからだともいえる。

その一端を紹介したいが、バングラデッシュの未開を指摘しているようで心苦しい。わたしにとっては興味ある国であり、一日も早く世界中の人たちがこの国に関心を持ち、訪問してくれることを望んでいるからあえて指摘しておきたいのである。

われわれバックパッカーにとっては最高の冒険旅行を提供してくれているが、一般の観光客にとっては汚い・貧しい・危険というマイナスの印象を与えてしまっているといえる。

まずは、観光地本体の未整備はともかく、観光地へのアクセスをまず改善する必要があろう。

生活路線を走る中古バスでの乗り継ぎ移動をさせるのもそれはそれでいいのだが、大都市や空港・鉄道駅からの遺跡や観光地への直行バスの運行を一日も早く整備することだろう。

輝きと自信に満ちた、この国、バングラデシュを再訪する日が近年中に来ることを願っている。

 

 

<プティア/PUTHIA>

プティには、林や池に囲まれた<ゴビンダ寺院>はじめ大小のヒンズー寺院や古い王の館などが点在している。特に寺院を飾るテラコッタは見事なものである。

池に映る寺院の姿が美しく、落ちつきの中にありゆっくりと過ごせる遺跡であり村民の生活の場でもある。

昼食は屋台で、チャパティ2枚・肉まん・コーク(85TK)をいただく。

遺跡巡りの携帯食としてバナナ4・リンゴ3・オレンジ2・ミネラルウオーター2(計132TK)を購入した。

 

このあと、プティアにあるゴビンダ・ヒンズー寺院を見学した後、隣の街ラジシャイ/Rajshahiに移動し、  「HOTEL SKY」に投宿する予定である。

 

<シバ寺院>

プティアのバスターミナルより、リキシャで約10分のところにシバ寺院(1823年建立)がある。

ほかのヒンズー寺院遺跡のようなテラコッタによる装飾はなく、白を基調とした塗り壁になっている。ベランダから見る周りの池の風景がいい。

 

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                                          シバ寺院    (プティア)

 

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                                           アニク寺院方面から中央池に映るシバ寺院を望む

 

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               シバ寺院の西隣に建つ<ロッド寺院>         中央池西側に建つ<ラズバリの館>

 

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         ラズバリから広場をはさんで正面にドルモンチョと左にシバ寺院を望む

 

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                 スケッチ <優美なドルモンチョ>

 

<大ゴビンダ・ヒンズー寺院>

約150年前にプティア王(1823~1895)によって建てられたヒンズー寺院である。ゴビンダとは、ヒンズー教クリシュナ神の別名である。

壁面を精密なレリーフで施された5つの尖塔<パンチャ・ラトナ型屋根>を持ったヒンズー寺院として有名である。

テラコッタレリーフにはヒンズー神話や村民の生活が細密に描かれている。

 

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          テーマパークのシンボルのような<大ゴビンダ・ヒンズー寺院>

 

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  テラコッタで飾られた大ゴビンダ寺院の入口       大ゴビンダ寺院を側面から見る

 

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          細密彫刻でヒンズー神話が描かれた見事なテラコッタレリーフ

 

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スケッチ<大ゴビンダ寺院/Gobinda Temple> イメージ配色スケッチ<テラコッタ-大ゴビンダ寺院>

 

 

<アニク寺院と小ゴビンダ寺院>

大ゴビンダ寺院の奥(西側)にも小さな同じ名前の小さな寺院がある。

ゴビンダ寺院(大)から、中央池に出て左に池を回り込んでいくと、右にとんがり屋根の小ゴビンダ寺院、左に3個の丸屋根を持ったアニク寺院が見えてくる。

どちらもお伽話に出てくるような小さな建物だが、素敵なテラコッタで飾られ、愛らしいプロポーションに目を見張る。

独特な寺院の屋根には型名があるらしく、アニク寺院の中央の屋根を<エク・バングラ型>、両側の屋根を<チャール・チャラ型>といい、また小ゴビンダ寺院の屋根も<チャール・チャラ型>であると地元の老人が教えてくれた。

 

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      3個の丸屋根を持つアニク寺院(左) と とんがり帽屋根の小ゴビンダ寺院(右)

 

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                     プティアの遺跡配置図

 

<プティアの他のヒンズー遺跡 と 村民の生活>

プティアの遺跡は、1キロ平方ほどの小さなエリアにある。

この小さなエリアに、池や林に囲まれた大小のヒンズー寺院が立ち、多くの遺跡とともに村民が生活を営んでいる。

 

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                プティアの遺跡と混在する村民の生活

 

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                村民の生活に混在する遺跡

 

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  プティアの遺跡は6個の池が、中央池を囲み、   中央池の周りに各寺院遺跡が立ち並んでいる

 

プティアは、無数の小さい池が中央池を取り囲みその間に各ヒンズー寺院と遺跡、村民の家が点在する

 

心ゆくまで、ゆったりとした緑あふれるプティアを散策しながらヒンズーの世界に埋没したあと、路線バスで今夜の宿<HOTEL SKY>のあるラジシャイに向かった。

 

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       バスセンターがあるプティアの中心街をあとにしてラジシャイに向かう

 

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 プティアからの路線バスはラジシャイのバス・ターミナルに到着 / 定番夕食の揚げパン2枚と付けカレー

 

 

<▲ 「HOTEL SKY」   ラジシャイ/Rajshahi  投宿>  

               250TK (TV・トイレ。シャワー蚊帳付)

    Malopara, Raishahi, Side of Bhubon Mohan Park(プモンモホン公園側)

 

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      ホテル・スカイ入口                              低電圧なのか暗い、ホテル・スカイの蚊帳付部屋

 

日が暮れたあと、停電に見舞われたのでサウナ風呂化する部屋から逃げ出し、散策がてら街の様子を見に出かけた。停電になると、1~2時間は復旧しないことを知っている各店は、道路側に設置しているディーゼル・エンジン式発電機を一斉に動かし始めたから大変な騒音である。排気ガスで充満し、ついバンダナで口をふさいでしまったほどである。

そこへリキシャの流れが行き交い、散策どころではない。どの街角も同じに見え、目印としたものも見失い出したので、迷子になる前に散策を早々と切り上げた。

 

 

■ 10月18日 ラジシャイ/Rajshahi

 

クルナからの船旅前に、プティアから1時間強のところにマンゴ生産地として有名なノバブコンジの街に<チョト・ショナ・モスジット>があり、17世紀にシャハ・シュジャによって建てられた<トハカナ・パレス>を訪れておくことにした。

 

ラジシャイ/RAJSHAHI (路線バス) 07:28am ➡ チョト・ショナ・モシジット/Chot-Shona-Mosjit
80TK  約1時間45分

 

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                 ラジャヒのバスターミナルより路線バスで<チョト・ショナ・モシジット>に向かう

 

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                     路線バス <ラジャヒチョト・ショナ・モシジット行> (バスチケット 80TK)

 

 

<路線バスで出会ったDr.Kshuna/クシュナ―医師>

今日の行動食としてバナナとリンゴを買って、チョト・ショナ・モシジット行の路線バスに乗ると、隣の席のバングラデッシュの男性に声をかけられた。彼は、東京の医科大学に留学したあと、帰国して医者になったと自己紹介をした。

これから手術のためチョト・ショナ・モシジットに出張するところだという。

この国では定期的に外科医としての技能維持試験があるとのことで、揺れるバスの中でも勉強に余念がない。

まだ若い医者である。30半ばだろうか、これからのバングラデッシュを背負って立つ青年医師の眼差しと情熱を感じながら世界情勢を話しつつも、勉強に余念のない青年に見入ってしまった。

大志を抱き、一生を民衆に奉仕する青年の姿に出会い、この国の将来に明るい希望を見る思いであった。

 

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       バナナ・リンゴは、バックパッカーの空腹を満たし、栄養補給源である

 

<チョト・ショナ・モスジット / Chot-Shona-Mosjit>

 このモスクは、ムガール時代の平面な屋根に幾つものドームを持っている典型的なモスクである。現在は風雪に汚れ切っているが、美しいシンメトリーな白亜のモスクであったことが想像できる。インドのタージマハールのようなシンプルなシルエットではなく、装飾豊かな威厳を示すムガール建築独特な重厚さを残したモスクである。

小さな黄金のモスクというネーミングにふさわしく、可愛いこじんまりしたモスクに親しみを感じた。

緑に包まれた広大な遺跡に、観光客は見当たらず、地元の人が犬とのんびり散策を楽しんでいた。悠久の時が滔々と流れ、約500年前のベンガルの田舎に埋没したような時間を過ごした。

 

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               チョト・ショナ・モスジットの正面と側景
 

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               チョト・ショナ・モスジット付近の遺跡群

 

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  チョト・ショナ・モスジットの歴史解説版          モスジットをスケッチ中

 

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        スケッチ  <チョト・ショナ・モスジット> 2010/10/18 10:29am

 

チョト・ショナ・モスジットでも、ただ一人の観光客やバックパッカーに出会うことがなかったことはすでに述べた。チョト・ショナ・モスジットという観光地を訪問するために丸一日かかるというこの国の交通網の脆弱さの改善が望まれる。

それだけ観光化されていない自然のままの遺跡が、この国にはまだ残されているとも言える。

バックパッカーとしては未開の遺跡や、温和な国民性、未発達の交通網、宗教性の残っている生活などに触れられるエル・ド・ラド(桃源郷)と言っていいだろう。

 

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                遺跡で出会った村の少年たちと交流 

 

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              民族衣装を着飾った婦人たち (村の市場で)

 

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    ベンガル数字のナンバープレート        この日も慣れ親しんだ定番焼き飯

 

今日は、汚れていないこの国のそのままの自然に飛び込み、現地の子供たちと遊び、市場で人々の日常の買い物に接したり、地元の人たちが日常食べている焼き飯を食べ、イスラム式のトイレから庭を自由に飛び跳ねているニワトリを眺め、廃棄寸前のオートバイに載せてもらったりと楽しい時間を過ごせた。何よりの休暇であり、現地生活の体験であった。

 

<▲ 「HOTEL SKY」   ラジャヒ/Rajshahi  連泊>

 

ホテルに帰ってからは、川船旅の出航地であるルクナに向かう準備をした。

 

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     出発前のドアー防犯用鍵・各種充電器・ライト・痒み止めのリュックへの収納チェック

 

 

   ここラジャヒを出たあと、このバングラデシュの旅のハイライトである

     <ロケット・スチーマによる船旅>の乗船地・ルクナに向かう。

 

 

             《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》

     ―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー

      

 

 

   2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』Ⅱ

       <ラジャヒ ➡ ルクナ ➡ <ロケト・スチーマによる船旅> ➡ ダッガ>

                     につづく はてなブックマーク - 2021星の巡礼『バングラデシュの旅 2010』Ⅱ 

 shiganosato-goto.hatenablog.com

 

       

2021星の巡礼『バングラデシュの旅 2010』Ⅱ

2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』 Ⅱ

<ラジャヒ ➡ ルクナ ➡ <ロケト・スチーマによる船旅> ➡ ダッガ>

 

 

■10月19日  8日目 ラジャヒ/RAJSHAHI➡クルナ/ KHULNA  路線バス移動 

         (途中、クシュティア/Kushtiaで乗継)

 

🚐バス情報  ラジャヒ➡(3.5H 90TK)➡クシュティア/Kushtia(乗継) ➡ ルクナ> 

 

ラジャヒからルクナ行きのバスは、バスターミナルではなく、リキシャで5~6分先にある<ローカル・バスターミナル>から出る。バスはオンボロなので、エンジンがかからないこともあった。乗客は、みなバスから降ろされて、男性客はバスを押してエンジンをかけるのである、楽しいバングラデッシュでの思い出となった。

 

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                                        ラジャヒ➡クシュティア行路線バスBRTC バスチケット

 

暑い日である。バスの中は無風、天井扇は沈黙を守り、汗は無数の筋をなして背中を流れ落ちる。ようやくランチのためのブレイクタイム、トイレ(5TK)に直行、チョロチョロ出る水をタオルに染ませ、体を拭いて生き還る。

ここは、クルナとの中間クシュティアという村、空腹を満たすためピロシキと揚げパン(35TK)を腹におさめる。

蒸し里芋が売られていた。バングラデッシュの人たちも里芋を食べていると思うだけで、親しみがわいた。カレーに入れて料理することもあるという。

 

この日<10月19日>の気温と湿度の表が新聞に出ていたので参考までにコピーしておいた。

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ここラジャヒRAJSHAHIの最高気温30.5℃/最低気温24.2℃・湿度81%とある。蒸し暑い日である。

 

この国では小銭が沢山いる。トイレをはじめ、物乞いやちょっとした喜捨銭(バクシン)、リキシャによく乗るからである。とにかく小銭が重宝される国である。

 

長距離バスは、とにかくブレイクタイム(休憩)が多い、なかでも野外でのトイレ・タイムは独特な儀式の観を呈する。パキスタンでも経験したが、男性がしゃがんで小用を足す姿が強烈に印象として残った。立ちションに慣れた輩には異様に感じるものである。イスラムの男性には、立ちションそのものが恥ずかしい行為なのであろうか、立ちション文化はない。もしどうしてもというときは、われわれもしゃがんで小用を足すことに、こころしなければならない。

ラジャヒからルクナへの長距離バスは約10時間もかかるので、途中1~2度はしゃがんでの小用を経験することになる。バングラデッシュを知るためにも、率先して経験されることをおすすめする。オンボロバスの座席のスプリングの悪さからの振動にまして、猛スピードで無謀な運転とくると小用を耐えるのは至難の業であるからである。

 

それにしても、なぜこのようなオンボロで、かかるも勇敢に無謀な運転ができるのであろうか。それも次々に前の車やリキシャや人々を縫って走り抜けるのである。こちらも緊張に疲れが出たのであろうか、ルクナに到着する前には1時間ほどうとうとと1時間ほど寝てしまったようである。

この長距離バス旅行にも、ちょっとしたハプニングがあった。休憩時、バングラデッシュの毛虫にかぶれ、肌が赤く膨れ上がり痒いこと、毒素が回りだしたのか痒みが体中に広がりだした。親切な乗客も髪の毛でこすったら治るとかいろいろ教えてくれるが、こちらには通じない。しかし言葉の障壁を越えて見知らない東洋人を助けようとするバングラデッシュの人々の善意を感じるものである。ルクナに到着する頃には痒みも落ちついた。

 

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         ラジャヒの早朝風景           各地方都市にある便利なATM

 

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 ラジャヒ・ローカルバスターミナルのチケット売り場    <ラジャヒ➡クルナ>路線バスBRTC

 

ローカル・バスターミナルには、各方面への路線バスが沢山並んでいるので、乗車バスを特定するには注意を要する。特に行き先の表示文字と数字番号はベンガル語での標記であり、迷うこと必定である。時には探しているうちにバスに乗り遅れることもままあるので注意したい。

できればメモ用紙に行き先名と出発時間や車番号<例・KHULNA・Bus#8 Departure

07:30am>を書いておき、周囲の人たちの協力を得ることをお勧めする。またできれば行き先のKHULNAのベンガル語を教えてもらっておくと更に助かることがある。

また、路線バスの途中でのトイレ休憩では、自分の乗車バスの特徴やプレートナンバーや運転手の顔を覚えておくとよい。時として同じバス会社の逆方向のバスの同じ席に座っていることもあるから要注意である。

更に、自分の席の前後左右の乗客と、親しくしておくことも重要である。もし乗り遅れて、バスが出発しても、彼らが運転手に知らせ、待ってくれることがあるからである。

わたしは、世界旅行で何度も、乗り遅れてほっておかれたことがある。ペルーからボリビアに入ったチチカカ湖手前の国境で、時差を忘れ戻ってきたらバスはすでに出発し、バス停にわたしのリュックが放り投げてあったこともある。この時も乗客の運転手への連絡で、荷物は置いていってくれたから助かったものである。ほかにも失敗は幾多とある。みな懐かしい体験としてわが人生に花を添えてくれているが・・・。

 

だからこそまたバックパッカーはツアーと違い、自己責任での完結であり、冒険であり、人生そのものであり、喜怒哀楽の物語でもある。

バックパッカーの人生は、風に吹かれ、人の慈愛に触れ、土の温みにいだかれ、神の愛に包まれた浮き草の世界を生きてきたようなものであると云える。

人生は、冒険であり、未知への挑戦であり、夢を追い、心躍る体験の連続であったと云える。

流れゆく白雲を見るだけで、その代わりゆく変化に、おのれを重ねて心躍らせるものである。

 

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                                                     生きる力みなぎる市場風景 

 

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     バイク・プレート<RAJSHAHI>      バス内でのランチ/揚げパンとオレンジジュース

 

ラジャヒからのバスは、ここクシュティアまでだということで、乗り換えてクルナまで行くことになる。

同じバス会社であり、同じ中古のバスであるが、多くの乗客もクルナ行だから、みなと同じ行動をとれば問題はない。

クルナでは、ロケット・スチーマ乗船にあたっての買い出しがしやすい街の中のホテルに落ち着いた。

 

 

<▲クルナ宿泊先―HOTEL PARK>   連泊計 1250TK

      K.D. GHOSH ROAD, KHULNA  Phone 20990, 25677  Room#15

 

屋台で夕食(35TK)として、オムレツ・付けカレー・ナン2枚で済ませたあと、バングラデシュで一番雑然とし、混とんとしたクルナの街を散策した。リクシャが無秩序に縦横に走り抜け、埃っぽく、汚物の匂いが漂うが、生きる力がみなぎった街である。暑さのなか、砂埃と汗にまみれた体で、ポッタ川(ガンジス川)の支流にある<ロケット・スチーマ―>の乗船場と、チケット売り場まで行ってみた。

 

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                           クルナのメインストリートにある<HOTEL PARK> 2階の中央の部屋に投宿

 

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    クルナでの投宿先<HOTEL PARK>                           <Hotel Park – Khulna> Receipt

 

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                                夕食(35TK)は屋台で、バナナと水(60TK)も購入

 

<ロケット・スチーマ―乗船にあたって>

バングラデシュは、ガンジス川の支流が網の目のように張り廻らされている川の国、デルタの国、ゼロ地帯である平野の国である。

その網の目の水路や運河は、バングラデシュの運輸を水上でしっかり支えている。

世界でただ一つの外輪船<ロケット・スチーマー>による船旅が出来るということで、さっそく乗船を決め、予約チケットを手に入れた。

1935年建造当時のロケット・スチーマ―は、蒸気による外輪駆動であったようだが、1990年代にディーゼルによる動力にとって代わられているという。

 

一等船室(エアコン付きの相部屋キャビン・食堂・展望デッキ・@1150TK)

二等船室(相部屋・天井扇・食堂・展望デッキ使用可能・@720TK)

三等船室は、デッキでの雑魚寝でプライバシ―がないのでお勧めはしない。

 

ロケット・スチーマ―運行会社BIWTCのオフィスで乗船説明を受けた。

➀チケットの予約は、市内の旅行会社で行い、乗船前に船着き場のオフィスで支払い、乗船券を受け取る。

②クルナ発ロケット・スチーマ―は、毎週月曜日と金曜日の二回出航予定である。

③今回乗船するロケット・スチーマ―は金曜日(土曜日早朝)出航の

 <オストリッチ号>である。

④金曜日午後10時ごろ着岸・乗船開始し、土曜日(10月23日)午前2時45分出航予定。

⑤ただし、エンジントラブルや、遅延等で運行を取りやめることもある。

➅船上での盗難・紛失等一切の責任を負わない。

⑦乗船の前日までに、桟橋オフィスでチケット購入の事。

⑧運賃は、1等キャビン@1190TK ・ 2等キャビン@720TKである。

⑨キャビン一室を借り切ることが出来る

 (1等@1190X2=2380TK・2等@720X2=1400TK)

⑩1・2等キャビンは、3等エリアと壁やドアーで隔離されている。

⑪食事は食堂でとることが出来る。

 

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                  クルナ・ラマラシャバ通りにあるBIWTCオフィス<ロケット・スチーマ―>乗船券売場

 

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    ロケット・スチーマ―運営会社BIWTCオフィス  と  壁にかかる初代ロケト・スチーマの油絵

      (左・オフィスにかかるバングラデシュ初代首相ラーマン氏の肖像画

 

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         ロケット・スチーマ―乗船場(クルナ・ポッダ支流バイラブ川河畔)

 

<われらの星を愛すること>

すべての人間がもつ根源的な感情である驕り・汚れ・醜さ・無智・破壊性を複雑にからめ合わせている光景が、ここクルナにはあるような気がする。この混とんとした環境の中に、おのれの根源を重ねる時、無常なる安心感を覚えるから不思議である。

こころの風景というか、懐かしい生前のよどみの中にいるような落ち着きを感じる。まるで泥の中に咲く蓮の花のような純粋な仏の慈しみあふれる笑みに包まれているような気持ちにさせられるのである。

 

人間は、すべてを支配し、知らずのうちに、生きる命題という御旗のもとに、あらゆる存在を喰いつくし、消滅させているという行為を、無意識のうちに遂行しているにことに気づいていないような気がする。いや気づいたとしても破壊をとめることが出来ないのが人間の性なのかもしれない。

人類がこの星を喰いつくす、いや破壊しつくすのにそれほど時間はかからないのかもしれない。

この星の美しさを、不毛の惑星に変え、貪欲な営みが尽きるのも時間の問題ではないだろうか。

 

いまこそ生きる者にとって、自然のすべてに愛を感じ、愛を惜しみなく注ぎ、愛を実行する時である。

 

 

■10月20日  9日目 クルナ滞在 <バゲルハット・ヒンズー寺院訪問>

 

朝8時半、クルナでの滞在先・パークホテルをでて、昨日散策したラマラシャバ通り/Ramarshapa Roadにある、ロケット・スチーマ―を運営するBIWTCの事務所に立寄り、予約チケットを購入した。

残念ながら一等船室はすでに満室であり、二等船室となった。

体を休めるために、一室分(2名x@720=1440TK)を支払って個室として使用することにした。

 

クルナより乗船し、ダッカまでの約26時間・総航行距離約500㎞におよぶ船旅である。

 

街角の屋台での定番朝食<ナンと付けカレーと7up/45TK>を済ませ、乗船待ち時間を使って<バゲルハット・ヒンズー寺院>に出かけた。

 

今朝は、ゆっくりと体を休めるためにバックパッカーにしては破格の部屋代を奮発したが、南京虫やダニに襲われ体中が痒みに音を上げている。これもまた未開の冒険旅行の代償と思えば、立派な勲章に見えるのである。

 

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                 南京虫やダニからもらった勲章痕

 

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            ランニングシャツの良く似合う揚げパンを焼く男性            

 

 

 

<バゲルハット/Bagerhatのヒンズー寺院群・

  世界遺産 シャイト・ゴンブス・モスジット>

 

ロケット・スチーマ―に乗船する前に、クルナの南にある世界遺産・バゲルハット・ヒンズー寺院群を訪問することにした。

 

クルナ北西にあるバスターミナルより、バスで30㎞先にあるバス停<シャイト・ゴンブス>で下車(1H/35TK)し、リキシャ(100TK)で20分ほど走り、世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット/Shait Gonbs Mosjit> を訪問した。

帰りは、バスでプルシャ・バスターミナルに向かい、ここからプルシャ川を渡し船でわたり、クルナに戻った。

 

<Khulna ➡(🚐 1H/35TK)➡ Bogerhat  ➡(リクシャ 0.3H/100TK) ➡ Shait Gonbs Mosjit>

(往路)クルナ北西バスターミナル    ➡ バゲルハット  ➡  世界遺産シャイト・ゴンブス・モスジット

(復路)世界遺産シャイト・ゴンブス・モスジット➡バゲルハット➡プルシャ・バスターミナル➡

               渡し船(プルシャ川)➡クルナ

 

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バゲルハット/Bagerhatのヒンズー寺院群の一つである世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>は、1459年建立、聖者ガン・ジャハンという王が造営したヒンズー寺院である。遺跡ではなく、現在でも村人の信仰の対象となり、人々の祈る姿が見られる生きた世界遺産である。

ムガール朝以前のモスジット(ヒンズー寺院)としては、バングラデシュ最大のものであり、幅48m・奥行32.5m・高さ9m、四角形の建物に12mのミナレット(尖塔)が建ち、60個のドームを持つ。

 

モスジットの庭で、バングラデシュの高校生男女6人と知り合い、憧れの日本について教えてくれといろいろと質問を受けた。そして、彼らはパキスタンから分離独立して間もない若いバングラデシュの置かれた不安と将来の夢とを聞かせてくれた。

バングラデシュの独立には、過去の歴史を精算せずには語れない多くの苦難の道があったことを語ってくれた。

この狭い国土に約1億5千万の人口をかかえ、世界一の人口密度で、大河ガンジス川の豊饒な三角州にその9割近くのヒンズー教徒がひしめく若い国である。

この多くの人口を生かすため、世界の生産基地としての夢を秘め、日本ほかの企業誘致が待たれる国でもある。

その若き国を支え、将来を嘱望される高校生の質問は真剣であった。

先程出会った池に浮かぶ蓮の花芽のように、明日のバングラデシュを背負って立つ熱き想いをひとり一人が夢をもって語ってくれたものである。

 

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            世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>の入口

 

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       世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>  庭園に囲まれたモスジット

 

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         世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>のチケット(100TK)

 

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            世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>の尖塔

 

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          世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>寺院の回廊

 

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         世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>のスケッチ (バゲルハット)

 

世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>は、モスジットのレンガと緑の芝生がよく映える空間である。モスジットは平屋で、四隅の尖塔と屋上に丸いドームが幾何学的に並び、修道院的雰囲気を醸し出している。

現役のモスジットとして、信者が訪れ、厳粛な礼拝が行われていた。

回廊より裏庭に出たら、大きな四角池があり、蓮の葉に混じって新しい芽が首を出していた。

帰りにモスジットのトイレを借りたが、やはりここでも立って小用を足す習慣はなさそうで、みなかがんで用を足しているのでこちらも郷に従った。食事の右手の指使用と同じく、ムスリムの習慣に少しは慣れてきたようである。

 

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        世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>で出会った高校生と

 

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           世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>の蓮池

 

 

<プルシャ川渡船の風景>

クルナへの復路は、プルシャ川側にあるバスターミナルに向かい、渡し船でクルナに戻ることにした。

 

(復路)世界遺産シャイト・ゴンブス・モスジット➡バゲルハット➡プルシャ・バスターミナル➡

    渡し船(プルシャ川)➡クルナ

 

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                プルシャ川対岸の渡し場 と 渡し船

 

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          危険な立ち乗りの渡し船 (ガンジス川支流プルシャ川)

 

 

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             プルシャ川を渡りクルナ側に戻ってきた 

 

 

 

■10月21日 10日目 ロケット・スティーマ―乗船待ち(クルナ・晴・35℃)

 

<クルナ 朝の散策>

クルナの朝も暑い。

日中や夕方の雑踏はどこに消え失せたかというほどにクルナの朝は、新鮮な静かな朝を迎えている。道路の清掃に励むご婦人たち、走り回るニワトリ、土埃の中を客待ちのリキシャがゆっくりと曳かれていく。学校に向かう制服姿の女子学生たち、世界のどの街角でも出会う風景に、ここがバングラデシュであることを忘れてしまいそうである。

尖塔で風にはためく国旗が飾られているのは役所であろうか、日本の国旗と構図が似ており親近感を覚える。

大草原のなかに今まさに真赤な太陽が上がらんとする国旗に、この国の物語が詰まっているように見える。

赤い円は昇りゆく太陽を表し、独立のために流された血と自由の新しい太陽の象徴を表しているという。

地の緑色は、若者の意気とイスラムの教えとガンジス川の三角州という豊かな大地を示している。

 

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               役所や街角で見られるバングラデシュ国旗

 

 

<川の国バングラデシュのバイラブ川/Vairab Riverの情景-クルナ>

クルナの街を抜けるとガンジス川支流であるバイラブ川に出る。

バングラデシュでは、川が水運の一大拠点であり、ここにも港を中心に多くの問屋の建物が立ち並び、白砂・レンガ・鉄鋼・果物・サトウキビなどを取り扱っている。

さらに港には、交通の要所でもあり大型フェリーや、商船、タンカーが往来するかたわら、小さな渡し船には多くの通勤客や学生たちが立ち乗りの姿で、対岸に向かっている。

立ち乗りの渡し船が、転覆したらはたしてどのような悲惨な結果になるのだろうかと心配しながら、行き交う小舟を眺めた。

 

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        物資運搬・通勤・通学用フェリー と バイラブ川の渡し船ガンジス川支流)

 

川の流れは結構速く、大型船も渡し船も一度下流に流されてから船首を戻し、行き先に向かっている。

この川もガンジス河の支流であるが、粘土質でヘドロのようなセメント状の川岸が続く。川面には浮き草が漂いながら勢いよく流れている。

 

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             物流としてのサトウキビ と 川沿いに立ち並ぶ問屋倉庫

 

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               バイラブ川岸で洗いものをする老人

 

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          生活の場であるバイラブ川で食器を洗うご婦人とカラスたち

 

ヤシの木陰が意外と涼しい。やはり南国である。

ミルクティーの匂いに誘われ屋台に立寄り、3TKの紅茶を口にしながら港の人の流れに見入った。

 

<読書三昧>

今日は、体を休めるための休養日である。

パーク・ホテルに戻り、定番の朝食であるナンと付けカレーをいただいたあと、休養日の読書に耽った。

なんとこの部屋には宿泊者が残していった本を並べた小さな本棚があり、そのなかに2冊の日本語の小説を見つけた。なんとこの南京虫の出る部屋には、以前日本人が泊っていたのである。

それも日本の安全保障に関する憲法9条の問題点と、人類はどこからきてどこへ向かおうとしているかという根源的問題提起の本であるから、読み手も真剣にならざるを得ない。

体を休めながらと言いながら、二冊の本を読み終えた時には、足腰が立たないほどであった。

 

 ◎麻生 幾著「宣戦布告」上下巻 講談社

日本の安全保障体制の実態を鋭く描いた名著である。ストーリーは福井県敦賀にある原子力発電所付近の海岸に北朝鮮の小型潜水艦が乗り上げ、特殊部隊が上陸し、付近の山林に潜んでいるところから始まる。

憲法第9条の呪縛と自衛隊を巡る神学論争の虜となっている政府は自衛隊の出動に及び腰のまま。予想通り機動隊は北朝鮮人により皆殺しにされる。自衛隊指揮官は敵を撃つにもいちいち永田町の首相官邸に使用許可を仰がねばいけないのだ。日本の安全保障体制の一体何が問題なのかを提起する小説である。

 

 中江克己著 「神々の足跡」 PHP文庫

人類はどこからきて、どこへ行こうとしているのか。

 超古代文明の謎とロマンを語っている本であるが、次の二つの意見に集約されるとしている。

宇宙人が超高速宇宙船に乗って地球を訪れ、高度な文明を伝えたとする説と、過去の地殻大変動により人類の歴史が大きく変わったとする説である。

この遠き地で、日本防衛という根源的問題と、人類の起源・歴史についての書物を読むとは思いもよらないことであった。まず日本の文字・漢字に接したという驚きと安堵に包まれた。

 

読後、あらためて英国植民地時代の遺産を引き継いでいる古いホテルの部屋をゆっくり観察したり、この国の紙幣を取りだして眺めてみた。ここがインドとミヤンマー(旧ビルマ)に挟まれたバングラデシュの地であることを認識させられたものである。

天井扇のスイッチ以外、インド・ビルマ(ミヤンマー)・パキスタンでも見られた英国植民地時代の古いスイッチがそのまま使われており、昔懐かしいノスタルジーにひたった。

バングラデシュもまた、歴史に翻弄されて今があることを思い、国の成立ちや民衆の苦悩を想い描いてみた。

 

バングラデシュのお金は、紙幣と硬貨があるが、手元にある紙幣の種類を紹介しておくことにする。

写真の左上から、1000TK・500TK・100TK, 右上から、10TK・5TK・2TK各紙幣とつづく。

 

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         英国植民地時代の古いスイッチ類(丸黒)                  これでも安全でない格安ホテルの二重錠前 

 

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                                                  バングラデシュの紙幣(1000~2TK)

 

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船中携帯食購入(バナナ・オニオンリング・ゆで卵)  今夜の夕食(カレーライス・煮豆サラダ・7up)

 

 

 

■10月22日  11日目 クルーズ<クルナ➡ダッカ>乗船待機  

 

<ロケット・スチーマー 《オストリッチ号 PS/OSTRICH》 乗船 - クルナ>

川の国バングラデッシュの象徴的な遺産が、風雨に耐え老朽化した<ロケット・スチーマー>であると云える。約26時間に渡る約500kmの外輪船での船旅。ロマンあふれる静かな時間にひたり、過ぎゆく大地を眺め、太陽と月が支配するこの地球に生きている喜びにひたって見てることにした。

川の船旅は、川に生きる人々の生活の場を垣間見ることになる。水上交通で結ばれた村々の間には、荷物である穀物や家畜の水上運搬はもちろん、小荷物や郵便物など生活に欠かせないものを運んでいる。また河畔は洗濯の場であり、漁の場であり、子供達の遊び場である。

見ているだけで楽しい船旅になること間違しである。

いままでも、アマゾン川ナイル川揚子江ガンジス川ミシシッピ河や淀川、ユーコン川など多くの川で、船旅を楽しんできた。そのほとんどの川旅が、生活水路を往来する川船であったり、テントを積んでのカヌーやカヤックの旅であった。

今日は昼から大雨が降り、ホテルから船着き場に至る道は、車のホコリも露天商の呼びかけも、リクシャの転鈴もなく静かである。

 

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                  雨降りあとのクルナの静かな露天街

 

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      ガンジス川支流バイラブ川も大河であり、中型の貨物船や観光船が行き来している

 

19:00pm ロケット・スチーマ―乗船手続きが始まる。出航は、深夜10月23日午前2時45分である。

今夜は満月、ロマンティックな出航となりそうだ。すでに、満月は川面に映り、乗船客一人一人に笑いかけている。

今夜の船便は、運航している数隻のロケットスチーマ―の内の一隻で《オストリッチ号 PS/OSTRICHという。

 

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              ロケット・スティーマ―乗船券表紙

 

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ロケット・スティーマ―・チケット KHULNA➡DHAKA 2等船室(2名)1室貸切 @720x2=1440TK)

 

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         スケッチ <ロケット・スチーマー:オストリッチ号 PS/OSTRICH

 

この旅では、クルナ発、ダッガ着のロケット・スチーマーの逆コース航路(寄港地ルート)を紹介しておく。

通常の観光コースは、ダッカで乗船し、クルナへの約26時間の船旅となる。

また、通常の航路はベンガル湾経由とのことだが、この便はベンガル湾を経由せず、内陸部水路(川)を経由し、ダッカの発着所であるジョドル・ガットに向かう。

乗船券購入時、航路(ルート)を確認することをおすすめする。

 

➀クルナ/Khulna              10/23深夜  02:45出航 ➡

②モングラ/Mongla                  04:45寄港 ➡ 

③モレルガンズ/Morrelganz               08:20寄港 ➡

④チャークハリ/Charkhali ➡

⑤ ジャロカティ/Jhalakati                     16:48寄港 ➡

➅ ボリシャリ/Barisal                                          10/24深夜 02:40寄港 ➡

⑦チャントプール/Chandpur ➡

⑧ダッガ/Dhaka                              10/24 早朝 05:00到着

ダッカ市内、オールドダッカ南のブリゴンガ川にあるジョドル・ガットへ到着する)

 

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  ロケット・スチーマ―航路図  オストリッチ号 PS/OSTRICH土曜便・KHULNA➡DHAKA)

 

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                         ノスタルジーを誘う外輪船ロケット・スチーマーの勇姿(LINEトラベルJP提供)

 

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                      ロケット・スチーマーの船尾                               ロケット・スチーマーの外輪

 

 

■10月23日  12日目 <ロケット・スチーム:オストリッチ号の船旅>

 

アメリカのミシシッピー川で乗船した蒸気外輪船を思い出させるような歴史の風化をまとったロケット・スチーマ―<オストリッチ号>は、今夜満月の晩にここクルナを後にして、ダッカのショドル・ガッドに向かって出航する。

歴史を刻み、風格を漂わせた老朽外輪船。哀愁と共に歴史のロマンを咲かせた蒸気船である。

現在の動力は、蒸気タービンよりディーゼル・エンジンに変わっているが、その外輪の重たい回転から伝わってくる振動が、キャビンにも心地よく伝わってくる。

 

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                                                                満月を愛でながら出航を待つ 

 

満月の夜、外輪の川面をかく心地よいリズムが大気を揺さぶり、ノスタルジーを十分に満たしてくれる。

英国植民地時代に、英国の紳士淑女がくつろいだであろう船室を紹介しておこう。

 

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               ロケットスティーム・オストリッチ号二等船室のキャビン と トイレ

 

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               2等船客は食堂で食事をとる            今回の旅の携行品のすべて

 

バングラデシュ16日間の旅 携行品>

ペンライト・笛・ティッシュペーパー・ハンカチ・ウエットティッシュ・痒み止め(ムヒ)・細菌性下痢止め(ストッパー)・蚊取線香(マッチ)・虫よけネット・バッテリー用プラグ・洗面用具一式・持病薬/栄養剤・デジカメ(予備SDカード/バッテリー/充電器)・時計・鍵(チエーン含)・補修用具(銅線/ガムテープ/裁縫)・カップ・扇子・箸・サングラス・パスポート(コピー・写真各2枚含)・国際旅行保険・健康保険証・運転免許証(国際)・往復航空券・現金($&¥)VISA CARD・国際cash card・筆記用具・使い捨てレインコート・サブザック・封筒型シーツ・緊急食(チョコバー/リンゴ/煮卵)・見せ金(緊急用50$紙幣)・貴重品入(3か所分散用財布/胴巻/首巾着)・GPS付き携帯・ミネラルウオーター・情報ノート・地図・磁石・縫付緊急連絡先(ザック・ポーチ・ズボン)・現地領事館&邦人関係病院の連絡先

 

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                   オストリッチ号の操舵室

 

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                   三等船室(大部屋)の風景

 

三等船室は、大きく開かれた外壁から直接外気が吹き込む甲板であり、持参したムシロや、敷布を引いて地下寝・雑魚寝である。思い出したが、アマゾン川ベレンからマナオスへの約1週間の三等船室の船旅では、ハンモックに潜り込んだものである。

 

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               オストリッチ号のエンジンルーム  

 

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   三等には食堂はなく、にわか売店が出来る          現地の乗客と交流

 

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              水上生活者たちの川舟 二景

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             ガンジス川に昇る悠久の太陽

 

       <詩 ああわれいま ガンジスにおりて>

 

         川面染まりゆきて 時ゆるやかに流れ

         浮き草漂いて わが人生の伴侶のごとし

         ああわれこの星にありて われを忘るる

 

        綿雲動かずにして 川下りしわれを追い

        われまた流れゆくわれを追いて 沈思す

        ああわれいま ガンジスにおりて幸せ也

 

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               ガンジス川支流の静寂を楽しむ

 

オーストリッチ号は、ガンジス川支流バイブラ川のクルナ港を金曜の夜出航(02:45発)後、南西に向かって航行、川を下って次の寄港地モングラ(04:45着予定)に向かっている。

間もなく東、ダッカ方面から暗闇が切り裂かれ、夜が明けてくる。川面がパッとかわり、化粧したように紅色に染まりだした。

静寂の一瞬をデッキに出て、船旅の旅情に溶け込み、人生の今を楽しんだ。

水上生活の川舟が、静かに朝餉の準備を始めたようだ。

 

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                水上生活者の川舟

 

両岸の堤にはサトウキビを運ぶ荷車がのんびりと走り、その後に山羊の一家が続いている。

堤を挟んで無数の養殖池がつづき、オニテナガエビが養殖され、バングラデシュの食糧事情の改善に寄与しているという。

 

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                ガンジス川支流―のどかな堤の風景二点

 

ポッダ川(ガンジス川支流)を船で下っていると、アマゾンやスエズ、ナイルや揚子江と同じく、広々した川幅の両岸に平原がひらけ緑の草を食む牛達がいる風景がよく似合っており、人間の生活の営みを感じる川である。

 

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        ガンジス川の堤に草を食む水牛たち と 川沿いに広がる養殖池

 

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            ガンジス川支流バイラブ川/VAIRAB RIVERで漁をする川舟

 

船上のランチというだけで、心豊かな食事である。流れゆく混沌の時代から逃れて、文明発祥のガンジス川に迷い込んでいるだけでも贅沢であるのだから、幸せを感じずにはおられない。

 

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  バイラブ川を裂き、モングラを目指すロケット・スチーマ―<オストリッチ号> (右・外輪)

 

 

<ロケット・スチーマ―/オストリッチ号の寄港地風景>

オストリッチ号は、ルクナを出航したあと、モングラ・モラルガンズ・チャクルリ・ジャロカティー・ボリシャル・チャンントプールに寄港し、ダッガの近郊オールドダッガにあるジョドル・ガット(港)に到着する。

しばらく寄港風景を追いたい。




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        最初の寄港地モングラの埠頭 と 乗降船する客たち

 

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              < バイラブ川早朝風景スケッチ> モングラ村  

 

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             船に掲げられたバングラデシュの全国地図

 

地図でもわかるようにバングラデシュは、ガンジス川とその支流による三角州にできた国であることが分かる。

拡大して、ロケット・スチーマの航路を見ておきたい。

拡大図(下)中央やや左に、出航地クルナ/KHULNAがあり、寄港地★印を経て拡大図上中央右のダッカ/DHAKAに向かっている。

 

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             ロケット・スチーマの航路図(拡大図) ★寄港地(便によって異なる)

 

寄港地 <モレルガンズ/MORELL GANZ>10月23日 08:20am 食堂で朝食をとる。

メニューは、トースト2枚・ポテトフライ・フィッシュフライ・オムレツ・水

          

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                   二等船室の食堂で朝食

 

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                  寄港地 <モレルガンズ/MORELL GANZ>        10月23日 08:20am                     

 

 

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                                                 寄港地<チャクハリ/CHARKHALI>    11:30am     

 

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                                           寄港地<ジャロカティー/JHALAKATI>  16:48pm

ゆったりと流れ去るガンジスの時の流れを楽しみながら、昼食をとった。指定された食堂にはすでに料理が並んでいた。メニューは、チキンスープ・チキンカレー・レモン付きライス・野菜の煮物・ミルクティーで、勘定は125TK(162円)であり、リーズナブルである。

 

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                                                           ロケット・スチーマのランチ

 

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             ガンジス川の支流バイラブ川に沈む夕日

 

 

 

■10月24日  13日目 ダッカ

 

Rocket Stream “OSTRICH”号は、バイラブ川を静かに下り、日付が変って10月24日早朝4時45分モングラに寄港、5時20分に出港し、ダッカに向かう。外の暗闇は、静寂を破り時間と共に明るさが増していく。白鷺の飛翔する姿を彩る朝日が、バングラデッシュのデルタを優しく包み込んでいく。

船内も生活の匂いと喧騒が戻ってきた。

二等船客の朝食(150TK)は、揚げた川魚に煮ジャガイモ、オムレツ、パン、ジャムにミルクティーと英国風のブレックファーストである。この船は、英国植民地時代から就航している船で、統治者であった英国人が使用していたであろう個室は、その歴史を刻んでいるように塗装が剥げ、古い壁掛けの時計が時を刻むのを忘れて鎮座している。古い天井扇は時代を回顧するように、きしみながら首を回している。

まるで、70年前の英国商人になった気分で朝食を終え、英字新聞theinderに目を通した。

三等の大部屋は、鉄板むき出しの床にそれぞれの敷物を敷き、家族肩を寄せ合って坐っている。植民地時代の身分制、被支配者との格差を見せつけられているようである。

そこでは、持ち込まれたカレーにナンを付けて朝食がとられている。

わたしはいまバングラデッシュ独立前の英国植民地時代の古い外輪船に乗り、歴史の中にいる錯覚にとらわれた。

 

当初の航路予定であれば、川を下って一度ベンガル港に出て、本流をさかのぼってダッカに向かうはずが、今回はベンガル湾に出ず、内陸部の支流をショートカットするという。楽しみにしていたベンガル湾はまたの機会に回すこととなった。

 

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    船室に配られたモーニング・ニュース<theinder>                 静寂の朝 すれ違う客船

 

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        水上交通路であるガンジス川(ポッタ川)を遡上し、ダッカに向かう貨物船

 

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     ダッカ到着・下船を待つ乗客        ロケット・スチーマで友達なった子供達

 

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             ダッガ郊外ショナルガオのモスクを通過

 

ダッカ郊外にあるジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAONの風景>

朝4時頃より、乗船客は下船の準備を始めたのであろうか、階下の3等船室の方が急に騒々しくなってきた。

サンデッキに出てみると、川はもちろん街一面が朝日を浴びてピンク色に輝き、燃え立っている。港には多くの大型船が停泊し、海と見まがうような光景である。

またガンジス川(ポッタ川)の支流ブリゴンガ川には、職場や学校に急ぐ人たちを乗せた渡し船が行き交い、スイカや野菜を乗せた小舟が走り回り、まるでアメンボー(水すまし)のように見える、

 

ロケット・スチーマの発着港であるショナルガオは、17世紀初頭ダッガに首都が移転するまで、インド大陸の東の貿易都市として繁栄した。ジョムナ川とメグナ川、ポッダ(ガンジス)川の合流する地点にあり、水運の活発な港である。

 

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      ガンジス川支流ブリゴンガ川にあるショナルガオ(オールドガッカ)の朝風景

 

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           大型貨物船に混じって仕事に向かうブリゴンガ川の小舟たち

 

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                  ブリゴンガ川の渡し船も忙しい

 

<船旅おえたロケット・スチーマ・オストリッチ号はオールド・ダッカに帰港>

クルナを出航し、われわれを乗せたロケット・スチーマ<オストリッチ号>は、約26時間をかけて総距離 約500㎞の船旅を終え、ここブリゴンガ川に面したオールド・ダッガのジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAONに早朝5時帰港した。

 

ここオールド・ダッガにあるジョドル・ガッド(港)ーショナルガオ/SONARGAONより北西方面にあるダッカ中心街へは25㎞程である。

ここからダッカ行きのバスは、1時間に2~3便ある<ショナガオ・エクスプレス>で45分程である。

 

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    下船客と出迎えの人達で大混雑のジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAONの埠頭

 

 

<ジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAON散策> オールドダッカ

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  ジョドル・ガッド入口に待機する三輪リキシャ    オールドダッガ・SONARGAONの街並み

 

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                 英国植民地時代の郵便ポスト

 

▲10/24~25  宿泊先<Imperial Hotel International> room #705

33-34 Bangabandhu Avenue, Dhaka 1000

宿泊代       @800TK X 2=1600TK

設備     AC/TV/SHAWER/TOILET

デポジット  500TK

エアコン・TV・温水シャワールーム付き

 

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                 <Imperial Hotel International>

 

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         オールド・ダッガから眺めたベンガル湾へ沈みゆく夕陽



 

■10月24~25日  ぶらりぶらり ダッガ散策

f:id:shiganosato-goto:20210415210127j:plain ダッカ中心街

f:id:shiganosato-goto:20210415210236j:plain ダッカ朝の風景

f:id:shiganosato-goto:20210415210337j:plain ダッカ露店市

f:id:shiganosato-goto:20210415210453j:plain ダッカ・リキシャ修理風景

f:id:shiganosato-goto:20210415210550j:plain ダッカ・救急車

f:id:shiganosato-goto:20210415210635j:plain ダッカ・軽食屋台

f:id:shiganosato-goto:20210415210718j:plain ダッカ・ガソリンスタンド

f:id:shiganosato-goto:20210415210806j:plain ダッカ・路上魚売り

 

 

              <ダッカ散策マップ>

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                ダッカ散策ルート図

 

 

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     ダッカ・路上親子シャワー             芸術性豊かなリキシャ

f:id:shiganosato-goto:20210415210952j:plain ダッカ・肉屋

f:id:shiganosato-goto:20210415205956j:plain ダッカ・映画館

f:id:shiganosato-goto:20210415211153j:plain ダッカ・バスターミナル

f:id:shiganosato-goto:20210415211250j:plain ダッカ・リキシャ・スタンド

 

 

■10月26 日  15日目 ダッカ国際空港より帰国の途に就く

いよいよこの混沌の国バングラデシュを離れる日である。

朝、喧騒の街はまだ眠りの中にある。ホテルの南にあるダッガ・グリスタン・バス・ターミナルには、すでに多くの人々で溢れかえっていた。空港までのチケットを20TKで購入し、乗客となる。

 

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                               ダッカ➡空港行バスチケット (20TK)

f:id:shiganosato-goto:20210415211501j:plain ダッカ・空港行バスターミナル

f:id:shiganosato-goto:20210415211609j:plain 空港行バスと並行する回送列車

 

f:id:shiganosato-goto:20210415211708j:plain           ダッカ国際空港/HAZRAT SHAHJALAL INTERNATIONAL AIRPORT ADHAKA 

15日ぶりにダッカ国際空港に戻ってきた。

ダッカ国際空港よりの出国を待つ。

 

f:id:shiganosato-goto:20210415211754j:plain バンコック経由関空行タイ航空

 

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                                                        帰国便のタイ航空より台湾上空で拝した朝日

 

しばしの間、この国の事を想った。

仏教の一大中心として栄えたここベンガルの地は、チベット仏教やミヤンマーのバガンの寺院、インドネシア・ジャワ島の寺院などに多大の影響を与えたという。

また、今回の旅で回ったバングラデシュの仏教遺跡は、パキスタンガンダーラに劣らない規模だともいわれる。しかし、仏教遺跡が世界遺産であることを多くのバングラデシュの人々にはあまり知られていないように思われた。 仏教遺跡がイスラムの地にあることに驚きを隠せないが、遺跡は現地の人々の生活の場でもあるのである。

特にここバングラデシュイスラム人口が90%以上であることを想えば、自分たちの生活の場が、世界遺産として存在することにかえって驚いているのではないだろうか。

 

バングラデシュの各地を足早に巡ったが、まだまだ未開の、未知の国である。この国が観光客に対し解放される日は今少しかかりそうだとの印象を持った。

一方、今だからこそバングラデッシュは、バックパッカーの新天地であり、様々な提言により、この国の観光資源を開拓する使命があるといえる。

あとにつづくバックパッカー旅行記を楽しみにしたい。

 

 

             《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》

     ―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー

 

 

            2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』

 

                          

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

 

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■参考資料

 

バックパッカーとして旅する場合の研究―バングラデシュ

<不慮の事故(拉致・人身・盗難・病気)に備えること>

  ・パスポート紛失盗難:複数パスポート用写真・コピーを分散所持

  ・緊急連絡先のメモ・在日本大使館の住所・TEL

  ・海外旅行保険会社の連絡先の確認・現地医療センターの利用の仕方

  ・旅行代理店の現地連絡先の確認(エアーチケット購入の場合)

  ・健康保険証と持病薬の持参(薬名・効能の英訳)

  ・貴重品の分散収納:3分割(例:首掛け・腹巻方式・着衣ポケット)

<現地通貨・日本円・US$・クレジットカード・トラベルチェック・国際免許証等>

  ・見せ金・ワイロ(約20US―紙幣)の準備(強盗・役人・国境越え等の対策)

    ・盗難・強奪・置引き・スリ等にあった時は、必ず現地警察に被害届を出し、

   被害証明書をもらっておく事

  ・緊急用食料(チョコレート・飴・ビスケット・乾燥バナナ等インスタント品)

   や 水の携行

  ・救急用品(下痢止め・下剤・塩・止血剤ほか)

  ・修理用具(銅線・ガムテープ・針糸ほか)

 

<再両替時の注意>

  • ATMより引き出した現地通貨は銀行等で再両替出来ないので注意
  • 銀行・両替商でUSドルを現地通貨に両替した場合は、レシートを必ず保管のこと。
  • 再両替時に提出・提示を求められる。
  • 現地通貨の残額は、闇両替商に手数料名目約20%引きで再両替も可能である。

 

バングラデシュの風物詩‐現地情報>

・この国は、まだまだ若い国である。近い将来、道路からゴミの山は消え、

    バイクが歩 道を我が物顔に走ることもなくなることであろうが、過渡期の今は

    大目に見て欲しい。

 ・一度赤信号になると、10分ほど待たなければならないことや、走り出したらお互い

     神風運転を競い合う様には慣れてきたが、そこから派生する排気ガスの充満した

      空間にも慣れてしまった。しかし、クラクションの競演には活気すら覚える。

 ・ガソリンは、3時以降は販売禁止であるから、1時頃からガソリンスタンド周辺は

     車の縦列で大混雑である。

 ・新車よりポンコツ車が走り回って、ノスタルジーさえ感じたものである。

 ・最初、電線の垂れ下がりや、古い電線のむき出しに驚いたが、日を追って旅の風景

     の中に溶け込んでいった。

・歩行者が道路を横断するには一大決心がいる。歩行者が合い寄ってかばいあい、

    自衛しながら渡らなければならないから命がけである。とくに、全世界に広がる

    英国植民地であった国々の都市計画は、アフリカの奥地であろうと立派に計画され、

    道路の大きさは立派なものであり、横断するのに4~6車線ほどの幅があるから渡り

    終えるのに大変である。それも自動車で埋め尽くされた道路をである。

 ・バングラデッシュは、三角州にできた網の目のような川の流れが交差している。

    その川面に浮かぶ<布袋の青い草>が旅情を添えてくれるのがいい。

バングラデッシュの男女が、汗拭きを首から垂らしているのを目にすることが多い。

    オロナ(婦人用)・ガムチャ(紳士用)という。

 ・男性や老人に赤茶けた髪の毛をしていることがある。ヘナの木をすり潰した樹液で

     染める<ヘナ染め>という。

 ・車は、新車に混じって目立つのが日本製中古車(特にTOYOTA)が多く目立つ。

     日本と同じく右ハンドル・左側通行>が適しているようである。

 ・バングラデッシュの旅で多用するバスも、中古というより廃車同然の車

   (特にHINO)が多い。

 ・バングラデッシュのカラスは、インド・カルカッタで見たと同じくタキシードを

     着た貴公子である。日本のカラスのあのふてぶてしい姿とは似ても似つかわない姿

     である。

 ・信号待ちの長いこと、無秩序な交通ルール、道路を渡るにはみな手をつないで

     覚悟して、

 ・日本の男は立ちション、バングラデッシュの男は坐りション

 ・三輪オート・リクシャは貸切じゃなく、みな飛び乗ってくるから要注意

 ・バングラデッシュを旅して感じたこと:

  とても暑い国に、低所得者層の人が溢れ、

  インフラの整備が遅れ、独立国として未熟さが残り、

  貧しさの中にも純粋な笑顔が健康的であり、

  埃とゴミに埋もれながらも切磋琢磨して生きる力がみなぎり、

  未開拓のなかに労働力が溢れ、日本などの製造業進出の余地があり、

  世話好きで、人懐っこさが残る国民である。

 

 

バングラデシュ バックパッカ-旅費研究 資料>    2010/10現在の物価

 

            2010 バングラディッシュの旅 経費ノート  
       
10月12日 Dhaka Airport 現地通貨引出し(ATM)=10000TK(両替明細書保管の事)  
  ダッカ/Dhaka 空港ーモカハタ・バスターミナル/バス代 200TK
    モカハタBSーAdullahpur/バス代 300TK
    チップ(運転手) 100TK
    Dhakaーディナジプール/バス予約代 300TK
    ▲ホテル代 1100TK
    夕食(中華/水/チップ) 200TK
    バス持込携帯食(果物/パン/水) 160TK
10月13日 ディナジプール 朝食(チャパティ/オムレツ/紅茶) 30TK
    トイレ 10TK
    間食(アイス/マンゴジュース) 60TK
    リークシャ(バス停ーYMCA) 90TK
    ▲YMCA 1000TK
    夕食(チキンヌードル・野菜サラダ・焼き飯) 250TK
10月14日 ディナジプール 両替(100US$X@72TK=7200TK  
    YMCAーカンタナガル往復/リークシャ代+チップ 1000TK
    ●カンタナガル(入場料/ガイド料) 1160TK
    水/トイレ 34TK
    日用品(ティッシュ/水/蚊取線香) 50TK
    昼食ーライス/野菜炒/アイス/水 100TK
    携帯食ーリンゴ6/オレンジ2/アイス/水 195TK
    夕食(中華/水/チップ) 150TK
    ▲YMCA 1000TK
10月15日 ディナジプール ●カンタナガル2日目(ジボン入場料/ガイド料) 1000TK
    リークシャ(YMCAーバスターミナル) 30TK
    バス代(ディナジプールーヒルズHills) 60TK
    バスターミナル移動(リークシャ/チップ) 40TK
    バス代(Hills-ジョイプルハット) 40TK
    バス代(Hills-パハルプール) 30TK
  ジョイプルハット 世界遺産パハルプール入場料 100TK
    ▲ゲストハウス・マシュ-ズ(食事つき)+チップ 500TK
10月16日 ジョイプルハット リークシャ(GH⇔パハルプール往復)@30TK+チップ50TK 110TK
    バス代(ジョイプルハットーモハスタン) 50TK
    昼食(揚げパン2/7UP) 60TK
    ●モハスタン遺跡ガイド代 45TK
    リークシャ(モハスタン遺跡ーボグラーゲストハウス) 50TK
  ボグラ ▲Akboria Grand Hotel 750TK
    お土産(民族衣装) 700TK
    間食(アイス/クッキー) 100TK
10月17日   バス代(ボグラ-プティア) 80TK
  ラジャヒRajshahi バス代(プティア-ラジャヒ) 30TK
    リークシャ(バス停―ホテル) 50TK
    ▲スカイ ホテルSky Hotel(TV/シャワー/天井扇) 200TK
    昼食(チャパティ/肉まん/コーク) 85TK
    果物(バナナ4/りんご3/オレンジ/水/アイス) 133TK
    ボーイチップ 50KT
    夕食(ナン/鶏1/2/コーク) 267TK
10月18日 ラジャヒRajshahi バス代(Rajshahi-Chot Shona Mosjit) 80TK
    リークシャ(ホテルーバスターミナル) 70TK
    両替CashCard=10000K  
    昼食(焼きめし/チキン/水) 140TK
    携帯食(コーク/バナナ7/アイス/ビスケット2) 100TK
    ▲スカイ ホテルSky Hotel(TV/シャワー/天井扇) 200TK
10月19日 ラジャヒRajshahi バス代(ラジャヒールクナ) 280TK
    リークシャ(ホテル―バスターミナル) 31TK
    昼食(ピロシキ2/揚げパン/マンゴJ) 40TK
    携帯食(水3L/バナナ15) 60TK
  クルナKhulna 夕食(ナン2/オムレツ/カレー/デザート) 35TK
    ▲PARK HOTEL(TV/クーラ付デラックス) 1250TK
10月20日 クルナKhulna 朝食(ナン2/カレー/7UP) 45TK
    バス代(クルナーバゲルハットBagerhat) 130TK
    世界遺産シャイトコンブス・モスジット入場券 100TK
    乗船・入港税 3TK
    三輪オート(港ーホテル) 100TK
    リークシャによる街散策 85TK
    ▲PARK HOTEL(TV/クーラ付デラックス) 1250TK
10月21日 クルナKhulna 朝食(オムレツ/ナン/カレー/7UP) 40TK
  <休息日> 昼食・夕食(ホテルレストラン/チップ) 241TK
    ▲PARK HOTEL(TV/クーラ付デラックス) 1250TK
10月22日 クルナKhulna 果物(オレンジ4/リンゴ4) 160TK
    船乗船代(Khulna➡Dhaka)ガンジス川クルーズ船 1500TK
    <Rocket Stream号>乗船/ダッカに向かう  
    夕飯(ピロシキ4/7UP) 50TK
  クルナ出航 ▲船中泊 船代込
10月23日 クルージング ルームボーイ/チップ 80TK
    船上昼食/水2L /紅茶/新聞           200TK
10月24日   船上朝食(オムレツ大/トースト/ジャム/フィッシュポテト) 150TK
    昼食(ナン2/カレー/7UP) 65TK
    ▲インペリアル・ホテル 800TK
  ダッカDhaka 昼食(揚げパン6/コーク) 110TK
    お土産 485TK
    ▲インペリアル・ホテル 800TK
10月25日 ダッカ散策 朝食(ドーナツ2/紅茶/アイスクリーム) 60TK
    昼食(スパゲッテイ/7UP) 60TK
    夕食(野菜サンド/コーク) 60TK
    ▲インペリアル・ホテル 800TK
10月26日 ダッカDhaka バス代(ホテルー空港) 20TK
    朝食 105TK
    空港にて現地通貨再両替(現地通貨残7000TK/@1.25TK)  
       
     経費小計:1円=@1.3TK=   26618円           20925TK
15日間 バングラデシュの旅     航空運賃                  114750円  
        旅行総経費                         141368円  
                           (2010年当時の物価)

                            By Sanehisa Goto



       

 

 



 

 

 



 























 

 












 

 

         

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 



 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021星の巡礼『南極大陸』ブログ・スケッチ展

南極大陸ブログ・スケッチ展

 

『南極に立つ』 少年時代にドキュメンタリー「白瀬中尉の南極大陸」を観て以来、

夢のなかで温めてきた。

2007年2月、南米大陸一周の旅に出かけ、ウシュアイア(アルゼンチン)に

滞在した時、この地が南極大陸クルーズ船の母港であることを知り、足で歩くバックパッカー(放浪者)であることを忘れ、高額のツアー代をかき集めて夢を実現させた。

 

2007年2月20~3月2日 Quark Expeditions社催行の

<南極クルーズ11日間・ANTARCTICA EXPEDITION CRUISES>

(乗船客130名・乗組員87名)に参加し、

ORLOVA号(4376トン/探検砕氷船/ロシア船籍)に乗船して南極大陸を周遊した際の

水彩スケッチ集である。

 

コロナ禍、ブログにて南極大陸のスケッチをお楽しみいただければ幸いです。

なお、作品をクリックしていただければ、拡大し、見やすくなります。

 

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    南極大陸  ウエッデルアザラシ牝<Elephant Seal> (デタイエ島) と 南極観測基地

 

 

 

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                南極大陸クルーズ 

                   QUARK社シンボルマーク

 

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    南極大陸ツアー砕氷船ORLOVA号         南極出発前のウシュアイアにて

 

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                砕氷船ORLOVA号南極大陸ツアー航路図

                 ➀~⑮寄港地順を示す

 

 

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            詩『ああ君ありて われあり』 南極に坐して

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                        ウシュアイアを出航、ドレーク海峡を渡り南極に向かう

 

 

 

➀ 南極入口 ディエゴ・ラミレス島/Diego Ramirez Island <S56°29’-W68°44’>

       ドレーク海峡/Drake Passage

 

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         南極大陸入口  ディエゴ・ラミレス島 (ドレーク海峡-大西洋)

            スケッチをクリックすると拡大されます

 

ウシュアイア現地での南極ツアー申込・乗船は不可能に近い。何年も前からの予約制で、キャンセル待ちも幸運でなければ回ってこないのである。今回は、あるツアー会社の乗船者の中、ツアー代金の振込が出航日前日までなく、幸運にももぐりこめたわけである。乗船できるかどうか1週間待っての朗報であった。

130名の夢を乗せた砕氷船ORLOVA号は、翌日ドレーク海峡の荒波を乗り切って南極半島最先端にあるディエゴ・ラミレス島を左舷に観ながらペンギン島に向かった。

ディエゴ・ラミレス島 は、南米大陸最南端ホーン岬の南西約100キロメートル、ドレーク海峡に南北8キロメートルにわたって存在する島々である。南極大陸への半島入口にあり、雪も氷河も見当たらない中にアルゼンチンの南極基地がある。

 

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             南極半島入口にあるディエゴ・ラミレス島

 

 

 

② ペンギン島/Penguin Island   <S62°06′-W57°54′>

 

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           南極大陸 王様ペンギン <King Penguin>    (ペンギン島)

 

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        南極大陸 マカロニ・ペンギン雄 <Macaroni Penguin>  (ペンギン島)

 

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      南極大陸 アデリ・ペンギン家族 <Atelier Penguins Family> (ペンギン島)

 

サウスシェトランド諸島内、キング・ジョージ島の東側に位置するペンギン島は直径約1.7kmのほぼ円形をした小さな火山の島である。1820年に英ブランズフィールド探検隊が海辺を覆う多くのペンギンを見た事からその名前がつけられた。

頂上の大クレーター外側のなだらかな斜面には、この時期(2月頃)、海辺近くでゼンツーペンギン、ウェッデルアザラシやナンキョクオットセイが見られる。

ペンギン営巣地から流れ出る栄養豊かな雪融けと長い日照時間で活発に行われた光合成により増殖した緑色の青海苔状のナンキョクカワノリもみられる。

 

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        ウェッデルアザラシ             ナンキョクオットセイ

 

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       ナンキョクカワノリ(中央緑)            ゼンツーペンギンたち

 

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           ゼンツーペンギンたちのお出迎え  (ペンギン島)


東側にある小クレーター火口に水が溜り、内側斜面にはヒゲペンギンの営巣地が、外側の淵辺りではオオフルマカモメを見かけた。

 

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            オオフルマカモメ              マカロニペンギン

 

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         ヒゲペンギン                ゼンツーペンギン

 

 

 

③ ハーフムーン島/Half Moon Island  <S62°36′-W59°55′>

 

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南極大陸 ハーフムーン島 <Harf Moon Island>  サウス・シェトランド諸島

     アルゼンチン・カマラ南極基地がある   (スケッチをクリックすれば拡大できます)

 

南極半島の沖合に連なるサウスシェトランド諸島の中で二番目に大きな島リビングストン島にある広いムーン・ベイの入り口近くに三日月型をした全長2kmのハーフムーン島がある。

1820年2月にアメリカ人オットセイ猟師ナタニエル・パーマーが毛皮を求めてここに初めて上陸している。

いまでも毛皮を塩漬けにした当時の樽用たがや竿の切れ端やボート・小屋の残骸が残されている。

 

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             アルゼンチン カマラ南極基地を訪問

 

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          ゾディアック・ボートでハーフムーン島に上陸

 

 

 

 フィッシュ群島/Fish Islands  <S66°02’-W65°25’>

 

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      南極大陸の夜明け フィッシュ・アイランド <Fish Islands near Prospect Point> 

 

フィッシュアイランドは、南極のグラハムランドの西海岸のホルテダール湾の入り口の北部に位置する小さな島々である。

フイッシュアイランドは、南のクリスタルサウンドと北のグランディディア海峡の間にあり、ルノー島の東にある。小島であるフィッシュアイランドには、推定4,000匹のアデリーペンギンが生息している。

 

         

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                      南極の朝陽

 

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            美しいクリスタル氷塊のオブジェとペンギン

 

 

 

 

⑤ 南極大陸 デタイエ島/ De’taille’ Island  <S66°52’-W66°8’>

 

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          南極半島 氷河や氷塊の輝くクリスタルの世界が美しいデタイエ島

             スケッチをクリックすると拡大します

 

南極圏内クリスタル・サウンドからラレマン・フィヨルドへの入り口近くにある小さな島で、シャルコー(フランス)による第二次南極探検の際に発見された。

ここには1956年から国際地球観測年(1957~58年)を中心に使われていたイギリスW基地があったが、1959年の補給船が海氷のため近づけず、隊員達は基地を閉鎖した。必要最小限度の身の回り品と観測記録だけを持って海氷上を船までの47kmを犬ぞりで脱出したといわれている。

当時の観測生活そのままを窺がう事が出来る貴重な南極史跡である。

 

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           英国 旧W南極基地 (南極史跡として解放)

 

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                 W基地より停泊中のORLOVA号を望む 

 

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      閉鎖されたW南極基地の越冬用缶詰類           観測・通信用無線機

 

島への上陸は一度に50名まで、旧基地建物内には12名定員で10分以内となっている。周辺の岩島で営巣するアデリーペンギンやキバナウ、そしてアルバトロス(阿呆鳥)も見られる。

 

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        南極大陸  ウエッデルアザラシ牝<Elephant Seal> (デタイエ島)

              廃墟となった英国南極科学基地<BASE W> 

 

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           南極大陸  アザラシ牝<Weddell Seal > (デタイエ島)

 

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         南極大陸  阿呆鳥/アルバトロス <Albatross>  (デタイエ島)

 

 


    
      

➅ ニコ・ハーバー/Neko Harbor  <S64°50’-W62°33′>

 

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    南極大陸 温暖化による氷河の崩落を目にする ニコ・ハーバー(湾) <Nico Harbour>

              スケッチをクリックすると拡大します

 

ニコ・ハーバーは、南極半島で良く知られたパラダイス湾のすぐ北隣に位置するアンドヴォード湾内にある。ノルウエ―の捕鯨母船ニコ号の母港であったところから命名された。

パラダイス湾と並んで南極大陸上陸を果たす場所でもある。水際には緑やピンク色をした大きな花崗岩の岩肌が広がり、背後の大氷河の白と青い海の色がそれに調和して素晴らしい眺めである。

背後の氷河の丘に登ると、クジラがよく見られるアンドヴォード湾一帯の大パノラマを一望できる。

ニコ・ハーバーに流れ込んでいる氷河は頻繁に崩落するので知られており、この日も、大音響とともに氷河が崩れ落ちていた。

地球温暖化による未来を危惧する光景でもある。

 

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    氷河で囲まれたニコ・ハーバー            氷河とゼンツ―ペンギン

 

 

 

 ダンコ島/Danco Island  <S64°44‘-W62°37’>

 

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      南極大陸 ダンコ島付近の氷山・流氷の絶景 <Danco Island>  Errera Channel

              スケッチをクリックすると拡大します

 

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                                                       Danco Island 案内表示板

 

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         南極大陸 ダンコ島Ⅱ  <Danco Island>  Errera Channel

            上陸したデンコ島より砕氷船ORLOVA号を眺める

 

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               南極大陸 ダンコ島Ⅲ   <Denco Island> 

             ゾディアックボートより砕氷船ORLOVA号を眺める

 

ダンコ島は,南極半島西海岸沖のエレーラ海峡の南部に位置する島である。ダンコ島は、ベルギーの南極探検隊のメンバーであるエミール・タンゴを顕著し、英国南極地名委員会よって命名されたとある。

 

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   ダンコ島周辺の氷河と氷塊の絶景            赤く見える雪藻(中央付近)

 

雪藻は通常は緑色であるが、南極の多くの光(紫外線)から身を守るために生成する赤いカロテノイド(写真中央付近の赤色)の量によって緑色または赤に見えるといわれる。

 

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           南極大陸 遊泳するゼンツペンギン    (ダンコ島海域にて)

 

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               ダンコ島のゼンツペンギン

 

 

 

 

 

⑧ パラダイス湾/Paradise Harbor <S64°51′ W62°54′>

 

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    南極大陸 氷山に囲まれ、クリスタル氷塊が浮かぶ絶景のパラダイス湾 <Paladise Bay>

          島には、上陸訪問したアルゼンチンのブラウン南極基地がある

            スケッチをクリックすると拡大します

 

南極半島で最も美しいパラダイス湾に砕氷船ORLOVA号を停め、ゾディアックボートに乗換えアルゼンチンのブラウン基地に上陸した。周囲の山から幾筋もの氷河が流れ込み、氷の輝きは幽玄の世界に誘ってくれる。

湾の中にはルメール島(写真左)とブライド島(右)が浮かび、ゲーラーシェ海峡を挟んで雄大フランス山(写真左端 標高2,825m)が見える。島には、チリのビデラ基地とアルゼンチンのブラウン基地があり、われわれはブラウン基地にゾディアックボートで上陸し、訪問した。

その後、基地背後の急斜面を登り、上からのパラダイス湾全体の見事な氷の世界を堪能した。またその裏のパラダイスハーバーに流れ込む氷河近くまでのゾディアック・クルージングでは南極のアイシング・ブルーという幻想的な色彩を楽しんだ。

 

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     アルゼンチン南極観測ブラウン基地に上陸し、背後の丘陵に立ちパラダイス湾を鑑賞 

 

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    パラダイス湾を囲む絶景の氷河               氷河をバックに

 

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      上陸・クルージング用ゾディアックボート       南極大陸上陸前の靴底洗浄の徹底

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   ゾディアックボートでクルージング中          ゾディアックボートで上陸中

 

 

 

 

パラダイスハーバーのクリスタル氷塊スケッチ

 パラダイス湾の美しい氷河(グレイシア)と氷塊(アイスキューブ)のスケッチを楽しんだ。

 

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     南極大陸 クリスタッル・アイスキューブ(氷塊)Ⅰ (パラダイスハーバーを囲む山々)

             スケッチをクリックすると拡大します

 

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      ゾディアック・ボートよりパラダイスハーバーに停泊中のORLOVA号を写す

 

 

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       南極大陸 クリスタル・アイスキューブ(氷塊)Ⅱ  (パラダイスハーバー)

             スケッチをクリックすると拡大します

 

 

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  氷河から流れ出た氷塊のアイシングブルー        パラダイスベイに流れ込む氷河と氷塊



  

 

ポート・ロックロイ/ Port Rockrey  <S64°49‘-W63°29’>

   (ゴウディール/Goudier Island)

 

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南極大陸 ポート・ロックロイ博物館(旧英国観測基地) と

            ポート・ロックロイ/Port Rockrey (ゴウディール島 Goudier Island)

    スケッチをクリックすると拡大します

 

ポート・ロックロイは、捕鯨時代(19~20世紀)から自然の良港として多くの捕鯨船や毛皮ハンターの船が停泊し、広く利用されてきた。

母船式捕鯨が始まるまでは、ノルウェー、チリ、アメリカなどからの捕鯨船の避難場所として重宝され、今でも鯨の骨やとも綱の鎖などが見かけられる。
ここポート・ロックロイ湾にある小さなゴーティエ島には、第二次大戦中ナチスドイツの進出に備えて英国が設置した監視基地があった。

戦後、気象観測基地となり、電離層観測のために1962年まで使用されていた。
その後放置されていたが、南極条約による史跡に指定され、修復後1996年1月より史跡博物館として一般公開されている。

旧観測所(博物館)には、売店があり、ここで購入した絵葉書を南極記念切手を貼り、ポストに投函すると南極の消印で日本に郵送され、人気がある。

 

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    南極史跡博物館(旧英国観測基地)       通信室(ポート・ロックロイ史跡博物館)

 

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       史跡博物館内の売店         現役の南極ポスト

 

 


⑪ プレノー島 /Pleneau Island  <S65°06′- W64°03′> 

   (ルーメア海峡/ Lemaire Channel

 

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         南極大陸  象アザラシ雄 <Elephant Seal ♂> (プレノー島)

 

ルーメア海峡を南に抜けた右手前方に横たわるホフガード島のすぐ西隣に小さいプレノー島がある。

この島の水辺近くのくぼ地にゾウアザラシが換毛期を過ごす。

 

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プレノー島/ルーメア海峡 ゾディアッククルージング           象アザラシ

 

 

 

プレノー湾/ Pleneau Bay <S65°06′- W64°03′> 

   (ルーメア海峡/ Lemaire Channel)

 

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       南極大陸 プレノー湾の絶景氷河/グレイシア― <Pleneau Bay – Glacier>

             スケッチをクリックすると拡大します

 

プレノー湾は、青と白の水彩絵具で彩った風景画の中を航海しているような心豊かな、ファンタジーな気持ちにさせられる。プレノー湾でのゾディアック・クルージングは、南極の自然環境、特にアイスキューブや氷塊のオブジェに触れられる素晴らしいポイントでもある。

プレノー湾とその周辺で見られ、アイスバーグ墓地と呼ばれる氷山の大きさと美しさには息をのむばかりである。その険しい姿には、手付かずの野生の光景と神々しさが伝わってくる。

 

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               アイスブルーに輝く巨大な氷塊ブジェの絶景

 

 

 

 

ピータマン島/Petermann Island   <S65°10′- W64°07′>

 

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             南極大陸 ピータマン島/Petermann Island   

             スケッチをクリックすると拡大します

 

ルーメア海峡を南に抜けたところに見えるのがピーターマン島である。今回の南極ツアーの最南端(南極点に一番近い)に位置する。ここは最近までゼンツーペンギンの南限営巣地と言われていたが、温暖化の影響で数年前からさらに南の島でも営巣が見られる。また、ナンキョクオキアミを中心に捕食するアデリーペンギンの数が激減しているという。地球温暖化は、ここ南極の生態系をも急激に変えつつある。

ここピーターマン島には南極避難小屋(フランス)がある。

 

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               ゼンツ―ペンギンもフラダンスで歓迎

 

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      船上より南極大陸の氷河鑑賞      ピータマン島上陸(砕氷船ORLOVA号をバックに)

 

 



 デセプション島/Deception Island <S62°57′-W60°38′>

 

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南極大陸 デセプション島 <Deception Island> ペンダラム入江           👆ここ砂浜温泉

                旧捕鯨基地にある南極砂浜温泉とアザラシ達

              スケッチをクリックすると拡大します

 

われわれを乗せた砕氷船ORLOVA号は、サウスシェトランド諸島の南端、南極では珍しい活火山の島デセプション島に立寄り、ウシュアイアに向かう。

1万年程前、火山の頂上部分が陥没し、そこに海水が流れ込んでできた馬蹄形の島である。1800年代中頃、オットセイの皮を求めていた船が嵐に遭い島に逃げ込んだが、出る隘路を見つけられずデセプション(欺き)の名を付けたと言われている。

最近では、1970年の噴火による火口が2つ残っている。その際、チリ―と英国の基地が火山灰によって埋もれてしまったという。今でも内海の数箇所で、地熱に海水が温められて波打ち際に水蒸気が立つのが見られ、われわれ乗船客も南極温泉につかることになった。もちろん希望者のみで、高齢者の代表として参加、『デセプション南極温泉体験者之証』なる認定証をいただいた。

 

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     アザラシ達の出迎えを受ける           Welcome to Deception Island7

 

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    南極温泉から上がって極寒に耐える           南極の雪上にわが足跡を残す

 

 

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     南極大陸  マッコウクジラ夫婦 <Sperm Whale – Couple> (デセプション島付近)

 

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            デセプション島近海でクジラの遊泳が見られる

 

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      南極の氷河は地球温暖化による溶解・崩落でその姿を急激に縮小しつつある

              心配そうに見守るペンギン達と人間

 

 

 

 

ウシュアイア(アルゼンチン)帰港 <S54°48’-W68°18‘>

 デセプション島を後にした砕氷船ORLOVA号は、130名の乗客の夢を見果たし、波高いドレーク海峡を無事渡りきってウシュアイアに帰ってきた。

 

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      ウシュアイア(南極大陸クルージング母港)   2013年世界一周南半球船旅時スケッチ

                          スケッチをクリックすると拡大します

 

ここに、QUARK EXPEDITION社催行の<ANTARCTICA CLASSIC VOYAGE>2007年2月20日から3月2日、11日間の南極ツアーを終えた。

夢冷めやらない南極での多くの出会い、氷河や氷塊のクリスタルな幻想的な世界、人間を恐れず語りかけてくる愛くるしいペンギンやアザラシ達、船にいついつまでも寄り添う阿呆鳥/アルバトロスの飛翔、南極という夢物語の世界そのものの不思議な魅力、南極点の地下に宇宙人の基地があるというまことしやかな伝説、捕鯨や皮猟に夢を託した男野郎の冒険、南極のブリザードと戦い越冬した隊員たちの過酷な体験、そして放置され廃墟となった人間のぬくもりが消えた基地、地球温暖化により崩落が急激に進む氷河の悲しい姿・・・

南極は何時の時代にも人類に神秘な姿を見せ、魅了してきた。

しかし今、南極は地球温暖化により、その姿を変えつつあるという悲しい現実もある。

そのすべてを見せてくれた南極に立った自分を見つめた時、いついつまでもウシュアイアを去りがたいものにした。

 

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             わたしの撮った傑作写真<南極大陸伝説の宇宙人か>

         2007年3月1日 現地13時25分 南極半島パラダイス湾で撮影

               撮影者 後藤實久 < sanegoto1941@yahoo.co.jp >

 

 

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南極より戻り、ホステルの食堂の窓より思い出の地ウシュアイアの風景を脳裏に刻んだ。

ホステル「AONIKENK」は、南極ツアー参加にあたってウシュアイアでの前後3週間の基地となった。

 

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           南極大陸南極半島(クルーズ寄港地)概念図

 

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              Sketched by Sanehisa Goto in ANTARCTICA

 

 

 

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2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

 

<本能寺後の明智光秀 と 三日天下>

先に、明智光秀の最期の敗走ルートを歩いてみたが、その孤独な最期は京都山科小栗栖の「明智藪」で終わっている。 いま明智光秀の敗走の地となった山崎合戦場跡をながめる天王山(山崎城跡)に立って、その原因となった<本能寺の変>後の光秀の足跡を見ておきたい。

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         天下の分け目 天王山(山崎城址)(標高280m)山頂にて

 

ここでも、明智光秀を中心に天王山「山崎合戦」を眺めたい。

 

まず、本能寺の変や、山崎合戦の短時間での勝敗に驚かされるのである。

本能寺の変は、6月2日の早朝4時からの4時間で信長を自刃させ、本能寺を制圧。

山崎合戦は、6月13日の夕方4時半から秀吉軍との戦闘開始、秀吉軍の淀川沿いからの後方攪乱により光秀軍総崩れとなり、夕方7時には勝竜寺城への敗退となり、約2時間半の戦闘での秀吉軍の勝利で終わっている。

 

本能寺の変で、光秀と重臣達は「信長を討伐、天下の主となるべき調儀」を練ったあと、たてまえは上洛中の家康訪問ということで老ノ坂を越え、京都沓掛の備中高松城と京への分岐にいたる。

ここ沓掛の分岐ではじめて全軍に向かって「敵は本能寺にあり」と宣言。その後、約4時間の戦闘で、信長を自刃に追い込み、本能寺を灰燼に帰し、首級を上げられないまま制圧を終える。

また別動隊は、二条城にいた信長嫡男である信忠をも討ち取っている。

 

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               楊斎延一作 <本能寺の変>    (東建コーポレーション提供

 

本能寺の変後、光秀は主君を討った謀反人というレッテルを貼られ、盟友たちに天下取りへ誘うが、ほとんど断られている。その間に主君の仇討と勢いづく秀吉の「中国大返し」の尼崎通過を、本能寺変後の近江平定に力を裂いていた光秀が聴くのは「山崎合戦」の3日前の6月10日である。

ここでもたった3日間で光秀直属軍16000は、十分な兵力や装備など追加の戦闘準備を整える間もなく秀吉軍40000との山崎合戦を迎える。

 

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                歌川貞秀作 「山崎大合戦之図」    (東建コーポレーション提供)

 

戦闘開始から約3時間後の19時に勝竜寺城に撤退、そのまた数時間後には近臣数名と夜陰にまぎれて明智家本拠であり、家族のいる坂本城に向かって敗走し、またその数時間後の 6月14日未明に京都山科小栗栖の竹藪(光秀最期の地「明智藪」)で、地元百姓の武者狩りの槍に刺され傷つき、自刃の後、家来に首を斬らせている。

 

光秀最期の11日間の何と短いことか。歴史の節目の大切な時間を、光秀は己を見失ったように駆け抜けていることに驚くのである。

 

山崎合戦の戦場跡に立っても、その戦略なき戦術に光秀の狼狽ぶりを見るとともに、孤独な武将の想い通りにはいかない焦りを感じるのである。

 

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               小国碇 作「小栗栖之露」    (大山崎町歴史資料館提供)

 

光秀の無策や盟友の離反からか、すべての作戦にあたって短時間での決着を見ており、特に決起から自刃までの短期間をもって「三日天下」といわれている。

 

<天王山からの眺め>

天王山への登山路は<秀吉の道>ハイキングコースになっている。 秀吉軍のシンボルである千成瓢箪を掲げて見方を鼓舞したといわれる<旗立て松>から、山崎合戦跡の隘路を形成している大山崎の地形を見下ろしながら、光秀と秀吉のそれぞれの想いに馳せてみた。

 

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       天王山ハイキングコースにある<旗立て松>より<山崎合戦場>を眺める

        

       写真解説 : 左から右へ走る京都縦貫自動車道(手前)と交わる名神高速道路の

              大山崎インターチェンジ辺りが<山崎古戦場跡>である。

              京都縦貫に沿って流れる<小泉川>を挟んで両軍は対峙した。

              小泉川より奥(北東)に光秀軍、手前(南西)に秀吉軍が布陣した

              写真右端に三川合流点があり、大山崎が突き出て、隘路を形成している。

              ここ天王山から写真左端に伏見桃山城が望遠でき、

              その背後に光秀 最期の地・山科小栗栖<明智藪>がある。

 

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               天王山中腹にある「旗立ての松」 

 

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        古戦場を一望できる旗立松展望台に建つ<山崎合戦之地>石碑

 

 

振り返ってみて、光秀はなぜ死に急いだのか。

実直であり、慎重な光秀を「本能寺の変」、それに続く「山崎合戦」を決意させ、戦略なき作戦とみられる事変を実行させたのか。

本能寺の変」に先立って、愛宕山に参詣、必勝祈願をし、直前まで決められなかった謀反・主君殺しに対する迷いを払しょくするためにおみくじを三度もやり直し、大吉が出るまで引いたとも言い伝えられている。

 

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            大岩山(小栗栖-光秀最期の地)より愛宕山(中央)を望む

 

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          大岩山(小栗栖)より見る伏見桃山城(中央)の背後に天王山があり、

          ここ大岩山を背後に下った小栗栖に、光秀最期の地<明智藪>がある。

 

 

誰が見ても勝ち戦は見込めない一連の流れや、光秀本人が一番理解していた謀反に対する自己嫌悪があったにもかかわらず、なぜ最後の手段に訴えたのであろうか。

諸説が言い伝えられているように、そのすべてに悩み苦しんでいた光秀だとしても、光秀が己を少しでも見失っていなければ、己を押さえることのできる聡明な考えに従っていたと思うからである。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみたい。

 

<レビー小体認知症説>

まず考えられるのは55歳という初老の光秀は、すでに幻覚と妄想を引き起こし、臭覚のマヒに侵されるレビー小体認知症にかかっていたのではなかったか、という説である。

光秀は、すでに幻覚の中で天下取りの自分に出会って、その気になっていたのではなかろうか。妄想はさらに、天下人となった自分を信長の立場に置き換えて、己の描く世を強く願っていたかもしれない。

また、レビー小体認知症にも見られるように、幻覚と妄想から覚めた自分との乖離に心身ともに疲労困憊していたとも思われる。

さらに追い打ちをかけるように、安土城での家康接待役での、腐った魚を出して信長に打擲・罵倒される仕打ちにあったことへの怨恨へと続いていったのではないだろうか。

さらに、光秀のレビー小体認知症の症状を悪化させるように、信長の丹波および近江坂本の領地を召し上げ、まだ敵国であった出雲・岩見への領地替えや、備前高松城攻めの総大将秀吉の配下としての下知など、光秀の自尊心や、服従心に疑問を投げかける命令が続いていた。

光秀はそれら信長からの不信感に耐えられなかったとみる。

本能寺の変前に、光秀はおのれの限界を押さえられなくなって暴走したといえる。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみた。

 

<光秀の盟友たちの離反>

このような光秀の症状や苦悩を、光秀に近かった細川藤孝筒井順慶らは気づいていたのであろう。さらに彼らは、光秀の性格からして、天下人にはなりえないことを誰よりもよく認識していたといえる。現実に、彼らは光秀の期待に応えることなく、それぞれ理由をつけて光秀に与することはなかった。

本能寺の変後、すでに光秀から人心が離れ、光秀は裸の王様になっていたといえる。

 

細川藤孝は、光秀が長年にわたって親交を温め、互いに助け合ってきた盟友であり、娘たま(細川ガラシャ)を嫡男忠興に嫁がせるほどの仲であり、両家の結びつきは深かった。

婚姻関係は、互いの同盟関係であったはずである。光秀は間違いなく細川親子は自分の味方だと信じていたといえる。

しかし、細川藤孝・忠興親子が、光秀の本能寺の変後、髷を落してみずから蟄居したことを知って、光秀は三ケ条の覚書を送り、自分には今回の行動に私利私欲はなく、天下を狙ったものではないとのニュアンスを伝え、今後とも友情を深め、味方になって欲しいとの書状を送っている。

また領地に希望があれば申し出て欲しいとのことや、近国を固めたあとは隠居するつもりだとの内容を添えている。

盟友・細川藤孝のこころは、すでに本能寺の変の前に光秀から離れていたといっていい。

 

一方、同じく盟友であった筒井順慶の「洞ケ峠の日和見」は有名である。洞ケ峠は、京都八幡にある男山の南に続く峠である。

天王山「山崎合戦」前、男山に本陣を構える計画であった光秀は、その足で-みずから順慶軍が集結して、日和見を決め込んでいた洞ケ峠に出向き、半日かけて順慶を説得している。しかし順慶は、信長によって規定されていた大和の与力衆の意見に従って秀吉に与し、洞ヶ峠より兵を引いたのである。

振り返ってみると、光秀が最初に陣を張ろうとした八幡男山の後方にある洞ヶ峠に筒井順慶軍もまたすでに駈けつけていたのである。その後、光秀は秀吉軍の規模の大きさに対処するため、順慶の説得を諦め、男山の陣から山崎の平野部に本陣を移動させてしまっている。この時、筒井順慶の光秀離反は決定的になったのではないだろうか。

また順慶は、洞ヶ峠より見下ろした両軍の陣の優劣や、兵力の配置状況や、攻防の推移をも想像できたと思われる。

百歩譲っても筒井順慶は、光秀の恩に報いて、ただ一人でも光秀軍に参加してもよかったはずである。だが、順慶が光秀に与しなかったのは、先に述べた主君殺し・謀反という世間の光秀観に恐れをなしたともいえる。

 

しかし見事な盟友たちの離反である。賢明な光秀がいかに滑稽な役を演じたのか、最大のライバルである秀吉のその後の天下人への実績をみれば納得できる。

また、光秀を三日天下に終わらせてしまった秀吉の凄さがうかがえる。

当時、山崎合戦場を見下ろせたであろう天王山の山頂、山崎城跡に立って光秀の盟友たちにしばし想いをはせた。

 

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      天王山中腹より三川合流点越えに見える光秀本陣候補地であった男山(八幡)

     男山右手に下ったところに「洞ケ峠の日和見」といわれる筒井順慶終結地がある

 

 

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       明智光秀          細川藤孝            筒井順慶

 

<地の不利>

山崎の合戦跡に、戦いの始まった午後4時半ごろに天王山(標高280m)に登ってみた。西陽を背にしてみる山崎の平野部の目標物すべてがくっきり浮かび上がり、動きを正確に把握観察できる高さにある。

逃げ込める勝竜寺城を背に、陣をひいた光秀軍は、初戦から敗走の陣をひき、弱小軍のイメージを植え付けている。なぜ、奇襲奇策を練らず正面からの戦いを挑んだのであろうか。

光秀軍は、40000に近い秀吉の大軍を迎撃する戦略陣形ではないということである。

 

先述したが、光秀は当初、淀川対岸にある八幡、男山に陣を置こうとしたようである。

敵の天王山に対し、光秀は八幡の男山になぜ陣を残さなかったのであろうか。 秀吉側の大軍に抗しきれないと判断し、急遽山崎の平野部に本陣を移したというが、戦術的に敵の背後をつくと見せかける奇襲攻撃のための遊軍を男山に残さなかったのは光秀らしくない。

 

一方、秀吉の本陣や陣形は、天王山や太陽を背に、隘路付近を押さえ、万全の布陣であることが、天王山に立つとその地形的優勢がわかる。

文献によると、合戦の日は曇天で、前夜に降った雨で平野部にあった大きな沼付近の湿地帯はさらにぬかるんで足をとられたようである。

秀吉軍は、沼と淀川のわずかな地続きを突破し、光秀軍の側面、背後をついた時点で、光秀軍は浮足たち始めたと陶板絵図は語っている。秀吉軍の攻撃に、絵図の左側の光秀軍は後方にある勝竜寺めがけて敗走を始めているように描かれている。

 

地の利からしても、秀吉軍の有利が一目瞭然で、光秀軍は不利であることが判然としている。

 

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North         天下分かれ目の山崎合戦絵図  <天王山>          South                       (絵図は西から東を向いて描かれている。絵図をクリックすると拡大絵図になる。)

     

       絵図解説天正10(1582)年6月13日午後4時半ごろ、天王山と淀川の

            わずか200mの隘路から出てくるは秀吉軍を各個撃破する

            光秀軍の作戦が開始された。

            合戦が始まって1時間後に、秀吉は本陣を宝積寺より天王山の

            東(右端上)に移している。

            光秀の本陣は絵図左手に構え、後方の小畑川と前方の小泉川に

            挟まれている。

            また永荒沼の周りの湿地帯を戦場に選んでいるところに光秀軍の

            戦術をうかがい知ることが出来る。大軍を沼地に引き入れ討つ

            戦法と言えようか。

                 秀吉軍は、大山崎の村からと、淀川沿いに駆け抜けて光秀軍の

                 側面と背後に廻って攻勢をかけている絵図となっている。

                 合戦開始から1時間後のこの絵図でもわかるように光秀軍の一部

                 は、すでに勝竜寺城方面に向かって敗走を始めている。

                 山崎合戦は、午後7時ごろ秀吉軍の勝利で終了している。

                 約2時間半という短時間決着となった。

 

 

反対に、光秀側の各本陣にも立ってみた。天王山方面は、曇っていたにせよ西陽の明るさにより山をはじめ敵側が灰色に染まり眺望が一段と暗さを増していた。

 

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        山崎合戦場跡から天王山を望む          石柱碑<天下分け目の天王山 

                                                                                                                                         山崎合戦場跡>

 

 

午後5時頃の夕暮れの迫った合戦場(写真左)、光秀側より秀吉側を見た時の眺望、敵の動きが見えにくいことが分かる。写真中央に天王山を背景に石柱碑<天下分け目の天王山 山崎合戦場跡>が建っている。 (天王山夢ほたる公園にて)

 

山崎合戦や明智光秀本陣跡、光秀が坂本城へ敗走する途中に立寄った勝竜寺城について、大山崎教委員会と長岡京市の解説案内文を参考に載せておきたい。

特に、光秀本陣跡の地理的位置は特定されておらないので、大山崎町の「明智光秀本陣跡-境野1号墳」と、長岡京市の「明智光秀本陣跡―恵解山古墳」の2説を載せておく。

 

               <天下分け目の天王山 山崎合戦>

     「織田信長の天下統一は目前に迫っていた。天正10(1582)年6月2日、毛利攻めの

                  総仕上げに向かうため京・本能寺にあった信長を亀山城主で家臣の明智光秀が急襲した

     のである。

     手勢僅かの信長は紅蓮の炎の中で亡くなってしまう。世に言う「本能寺の変」の勃発である。                          この変によって光秀はポスト信長の最右翼に躍進した。

     3日「信長死す」の知らせは備中高松城で毛利の先鋒清水宗治軍と対峙していた羽柴秀吉

     元にも届く。秀吉は黒田官兵衛の進言により戦いを納めるため毛利との講和を急いだ。

     城主の切腹、開城を条件に講和を固めることが出来た。

     毛利の主力が引き上げるのを確認すると、世にいう「中国大返し」の始まりである。

     1日に50キロ以上を移動し京へ向けて突き進んだ。

     一方光秀は、京周辺の武将に同心,合力を求め書状を送るも応じる武将は少なく、

     娘が嫁いだ丹後の細川藤孝、忠興父子にも見放されてしまった。

     12日羽柴軍は摂津富田に進行。 光秀は京から桂川を渡り、長岡・勝竜寺城付近に主力を展開

     した。

     13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現小泉川)を挟んで羽柴軍36000,

          光秀軍15000の軍勢が対峙した。

                 そして午後4時30分頃合戦の火ぶたが切って落とされる。高山右近中川清秀池田恒興等摂津

                 に いる主要な武将を味方につけた秀吉軍は一方的に攻め、わずか1時間余りで勝利を収めた。

                 大山崎の住人は合戦に巻き込まれることなく住んだことに安堵したことであろう。

                勝利した秀吉は天王山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指すことになる。」                                                                                                                                         大山崎町教育委員会

 

    明智光秀本陣跡-境野1号墳>

     「境野1号墳は天正10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山<山崎合戦>

     の時、明智光秀の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。

     <太閤記>の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当時周辺の地形を考慮

     すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられている。

     古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺に比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に

     視界がひらける。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの

     場所が、本古墳であったと云える。

     合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わる。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝竜寺城

     から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最期を

     遂げたといわれる。」                        大山崎町境域委員会)

 

    

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                光秀本陣跡(推定)<境野1号墳> 

    

    

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           <境野1号墳>隣接の墓地から天王山を望む

 

    <明智光秀本陣跡―恵解山古墳>(いげのやまこふん)

     織田信長明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した

      山崎合戦 は、あまりにも有名であるが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった

      可能性がある。

      発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土している。また、後円部にある

      現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、

      光秀方が恵解山古墳に陣をおいた際の造作である可能性がある。」 

                                  長岡京市教育委員会

     

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                光秀本陣跡(恵解山古墳)

 

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             光秀本陣跡(恵解山古墳から天王山を望む              

 

     

<秀吉軍本陣跡>

秀吉軍本陣はそれぞれの役割に従って3か所あったと推測される。

中国大返しの時に秀吉が入った兵站総合指令所としての本陣<高槻・上宮八幡宮>と、

合戦総合指令所としての本陣・天王山麓にある<宝積寺>、

そして前線本陣として<大山崎瓦窯跡>付近に設けられたと推察される。

 

     

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左: 高槻・上宮八幡宮境内にある<山崎合戦秀吉本陣跡>石柱

                右: 天王山麓にある<宝積寺>に秀吉本陣があったともいわれている

 

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           秀吉軍合戦場最前線本陣跡と推測される<大山崎瓦窯跡>

          (当初予定された光秀軍本陣 男山(八幡)が正面に見える)

 

 

<戦闘開始時間の疑問>

なぜ、朝早くの戦闘開始ではなく、夕方近くの戦闘になったのであろうか。ここにも光秀の誤算があったような気がする。多分秀吉側の理由に、光秀側が巻き込められて夕方からの戦闘開始になったのではなかろうか。光秀軍は、兵力の大差、主君殺しの天下取りという謀反軍という心理が働き、すでに戦いへの意欲が薄れていたように思える。

 

次に、山側の陣地と、平野部の陣地では戦の仕方、難易が違ってくるのも当然である。

光秀側の事情は、本能寺の変後の味方してくれるはずの武将が動かなかったことにより、秀吉軍の約40000の兵に正攻法での対峙が出来なかったといえる。。

故に、高地の男山をあきらめ、<大山崎>の地の利である隘路から進出攻撃してくる敵を各個撃破する作戦に切りかえ、山崎の平野部にある隘路出口で待ち伏せする作戦をとったようである。

しかし、当日の天気にもよるが、湿地帯の泥濘に足をとられたにせよ、相手の勢いに押された光秀軍は勝龍寺城への敗走が続き、その日の夕刻7時頃には勝負がついたとある。

 

  <山崎合戦 と 勝龍寺城

   「元亀2年(1571)には、織田信長の意向を受け、細川藤孝によって大きく改造された。

    藤孝在城時の勝龍寺城は、小畑川・犬川に挟まれ神足と勝龍寺の集落を含む、いわゆる

    惣構の城郭として評価されている。

    天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同6月13日に、

    山崎合戦で羽柴秀吉と戦う。主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い

    合う戦いではなかった。

    一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、

    これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の2説がある。

    戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の

    坂本城大津市)を目指した。しかし、途中の山科・上醍醐付近で落ち武者狩りに

    遭い命を落としたという。

    寛文5年(1665)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれている。」

                         長岡京市の案内板より一部抜粋)

 

   

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                      山崎合戦布陣図       (長岡京市教育委員会提供)

 

では、次に光秀をとりまく不利とされる所説を見ておきたい。

 

<民の不利>

地の利でみたように、天王山と三川合流点(桂川宇治川・木津川が合流し、ここ大山崎から淀川となって大阪湾に注ぐ)の間の200mほどの隘路の大山崎(大きい山が突き出ている先)には、当時すでに現在と同じく商家や旅籠、人足や馬屋などが密集した河川陸上の交わる宿場があり、ロジスティックの中心であった。

信長も大山崎の地の利を最大限に生かし、商売繁盛に力を貸していたのである。大山崎の商売は信長という天下布武をまっしぐらに突き進んでいた武将によって守られていたといっていい。

その証として、信長は大山崎の町衆にお墨付きとして<禁制>(きんぜい・戦火より町を守るという一種の誓約書)を発行していたのである。

天王山の山崎の合戦でも、町衆は信長発行の<禁制>の実行を光秀にせまり、光秀からも山崎の合戦から町を守るという一種の誓約書をとっていたようである。結局、この隘路(大山崎の街の密集地帯)においての秀吉軍の各個撃破も曖昧となり、秀吉軍に容易に隘路突破を許したようである。

秀吉軍は、主君の発行した<禁制>をうまく利用したのと、町衆の信長寄りの姿勢に助けられ、光秀軍の隘路作戦を打ち砕き、早い段階で勝敗は決していたといえる。

 

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           織田信長禁制(東寺国境)が大山崎の油座にも発行されていた

 

信長の天下布武の捺印が押された同じ「禁制」が大山崎村の油座にも発行されおり、光秀は大山崎を戦いに巻き込むが出来なかった。反対に、主君信長の仇討を掲げる秀吉は大山崎の村をなんなく駆け抜け、光秀軍の側面と背後を突いている。

 

<時の不利>

なぜ光秀は、備中高松城攻略の加勢のため京都滞在中の信長を、この時期に討ったのであろうか。信長の天下布武邁進の絶頂期にである。

商売(楽市楽座)繁盛政策をも推し進めていた時期、信長の天下統一が見えていたにもかかわらずにである。

不思議であり、理解しがたい所がある。

もちろん、8歳ほども年下であり、それも55歳にもなった己を足蹴にし、折檻するなど、どうにも我慢が出来なかったのであろうが、いや、光秀にはそれに耐えられる教養と己を律する修養を長年積んできたはずである。

光秀は教養人であり、朱子学儒教思想論語を学び、主君への絶対的服従や道徳や倫理という価値観を誰よりも身に付けていたはずである。

その光秀が、本能寺の変で信長を自刃に追い込み、<主君殺し・謀反人>というレッテルを背負ってまで、何に対して忠誠を誓ったのであろうか。

戦国時代の主君殺しは、それ自体下剋上だとしても、正当化しない世論が形成されていたともいえる。

山崎の天下分かれ目の戦いでも、<主君殺し>により、味方であるはずの武将が離れ、庶民の味方をも敵に回してしまった光秀は、この山崎の合戦を聖戦と考えていたであろうか。

そこには光秀の戸惑いと、自責の念と不安が渦巻いていたように思えてならない。

 

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             織田信長が加納に掲げた制札 (円徳寺所蔵文書より)

          (札中ほどに、<一、楽市楽座之上、諸商売すべき事、>とある)

 

 

<噂の不利>

そこまで追い込んだものは一体何だったのだろうか。

多くの説が取り上げられているが、実母に対する信長の仕打ちや安土城での接待への信長の不機嫌に対する<怨恨説>、天皇や公卿による朝廷側の<そそのかし説>、ノイローゼ説、認知症説、二重人格説、天下取りの<野望説>や将軍義昭による<陰謀説>、秀吉が天下取りのために仕組んだ<黒幕説>のほか諸説がある。

最近では、安土城での家康接待にあたって、腐ったものを宴席に出したと怒って信長が光秀を打擲したのを受けて、光秀はレビー小体型認知症であるうつ症状や匂いに対する認知機能が低下していたのではないかという説まで出てきた。

かかる多くの説の言い伝えにより、光秀のミステリアスな行動に注目が集まるのであろう。

 

 

<策の不利>

本能寺の奇襲成功に対し、天下分け目の山崎の合戦では、平凡な戦をし敗れている。

少数をもって多数の群を打ち破るには光秀は奇襲を策すべきであったでろう。

天王山を先に秀吉軍側に抑えられたことも腑に落ちないが、もしそうだったにしても天王山の背後から奇襲攻撃をかけてみる必要があったと思われる。

負ける戦と知ってか、平地に本陣を構える結果となり、相手を打ち負かすという気概が最初からなかったのではないかと見て取れる。最前線の<境野1号墳跡明智光秀本陣>(または<恵解山古墳跡明智光秀本陣>)、そして最終的に逃げ込んだ<勝竜寺城>をも捨て、坂本城への逃避と、半日の間に目まぐるしく敗退移動を繰り返している。 

これらの撤退敗走に、友軍はどのように見ていたのだろうか。天下取りの合戦とみて参加した将兵の無残な姿が目に浮かぶようである。

 

 

<天下分け目の天王山-山崎合戦>

また秀吉が戦っていた毛利側が、秀吉の背後をついてくれることに期待をかけたがその気配もなく、光秀の望みは絶たれ、わずか16000名で合戦に臨むことになった。

光秀のもう一つの誤算は、淀川等三川を背にした陣(難攻不落の陣)を敷けなかったことにあるといえる。

先にも述べたが、一説によると〈禁制・きんぜい〉を守って三川を背に立ち並んでいた町家を避けて、本陣を平野部に移動させたところによる布陣の失敗である。信長が町衆と「禁制」を交わしていた約束を光秀も守ったためだといわれている。

斉藤利三ら参謀による坂本城亀岡城に籠城して軍勢を整えてからの合戦を光秀に進言した。しかし光秀は、山崎での決戦を命じている。また、戦略上重要な三川合流点と天王山の間に横たわる<永荒沼>さえ秀吉側に突破されてその地理上の防禦地点を確保できなかったことにもよる。

 

信頼厚い武将 齋藤利三の戦略・献策にも関わらず、光秀の性格である情深さや、領民や家族のことを大切にしてきた己の生き方に従うとともに、信長のような血なまぐさい無慈悲な戦を避けたかったのであろう。地元の坂本や、亀岡を避け、ここ山崎の地での合戦を決したとも思われる。

あとは時間の問題、その日の夕刻7時、陽は沈み勝敗は決してしまっている。

 

さらに、天王山を秀吉側に先に制されたことにより、平野部に陣をひいたことであろう。もし天王山の張り出し(大山崎)と三川を背後にした布陣であれば、隘路を抜ける秀吉軍を許さず、もう少し持ちこたえられたかもしれない。

やはり近習の武将を味方につけ、大山崎の地形を熟知していた秀吉側の勝利はすでに決していたといえる。

合戦布陣図からもわかるように、両陣営の対面する小泉川(円明寺川)は平野部から沼地に入り込んで湿地帯を形成していたことが分かる。光秀軍の劣勢は、合戦前すでに光秀もまたその軍団も認識していたように思える。

見てきたように、天下分け目の合戦は<天王山>ではなく、東側に広がる淀川沿いの湿地帯で行われた。 そして約2時間半の戦闘で、光秀は秀吉軍に敗れ、背後の勝龍寺城に逃れ、山崎合戦は終る。

 

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            山崎合戦の両軍布陣を現在の交通網からみる

            (現在、永荒沼は干拓され住宅地である)

 

 

その後、退却の勝龍寺城より夜が更けてから近臣数名と共に居城である近江坂本城に向かって敗走する。途中、山科小栗栖に差し掛かった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあって、重傷を負い、自刃して果てる。

 

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      勝龍寺城 (光秀三女玉輿入れの城・山崎合戦後敗退した城・坂本城への敗走の城)

 

ここに「山崎合戦」は終結し、勝者である秀吉は天下取りに邁進し、政治的にも、経済的にもまた、文化的にも覇者となっていく。

 

勝龍寺脱出以降の光秀敗走については、ブログ『明智光秀最期の地を歩く』を参照願いたい。

 

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

 

 

                                      『いざ天王山! - 山崎合戦跡を歩く』

                    

2021星の巡礼『明智光秀最期の地を歩く』

2021星の巡礼明智光秀最期の地を歩く』

 

明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる」が終盤に差し掛かったころ、わが家では明智光秀織田信長の性格の違いから、両者の血液型が話題になり、光秀の人となりを論じ合ったことがある。

 

天下統一を図った信長の女房役として、知性と良心あふれる才能を備えた智将が、夫婦間のつもりに積もった行き違いから、主君殺しという破廉恥な所業となり、共に倒れてしまった悲運な関係を解明するためであった。

 

今まで多くのNHK大河ドラマに接してきたが、幾つかを除いて真剣にまた楽しく年間を通して視聴することはなかった。

今回の「麒麟がくる」は、主人公 明智光秀が治めていた西近江の領地であった滋賀郡(志賀町木戸)に在住しているという親しみからと、明智光秀人間性に関心を持ったからである。

 

また晩年の光秀を輝かせ、栄光と挫折を見届けた坂本城が比叡比良連山の麓のびわ湖畔にあったことや、光秀の主君 織田信長天下布武安土城がこれまたびわ湖を挟んで我家と坂本城との三角点上に結ばれている地縁からでもある。

 

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                CG復元 坂本城

 

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                 CG復元 坂本城

 

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               坂本城と城下町のCG俯瞰図

 

麒麟がくる」をより理解し、歴史上の明智光秀の鬱憤と無念を少しでも晴らすためにもと、近くの明智光秀最期の地「明智藪」を歩き、万全の夫婦関係であったと思われた安土での信長による光秀への折檻の情景を想い描くために安土城天守閣跡に立つとともに、坂本城址や山崎の合戦の跡を歩いて光秀のこころの動きに触れてみることにした。

 

いまから439年前の天正10(1582)年6月2日に起こした「本能寺の変」前後の光秀の足跡は、すべて近江坂本城を中心に動き、山崎の合戦後 勝龍寺城大山崎)より坂本城への敗走の途中、後の秀吉築城の伏見桃山城跡となる森を経て、大亀谷から竹藪の続く大岩山の麓 小栗栖の地にさしかかった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあい、竹槍で無念の最期を遂げたと伝えられている。

 

光秀の血液型論争は最後に回すことにして、まずはボーイスカウトとして青少年時代歩き回ったハイキングコースである伏見桃山城(京都市伏見桃山)から大岩山(標高182m)経由小栗栖(京都市伏見区醍醐)に続く竹藪のなかの<光秀敗走コース>を60年ぶりに再び歩いてみた。

 

スカウト隊長をしていた1961年当時、この辺りは伏見桃山城の再建もなく、明治天皇陵から桓武天皇陵に続くうっそうとした森林でおおわれ、一大原生林であった。昼なお暗く、起伏にとんだ丘陵地は京都市伏見に団本部を置く京都ボーイスカウト第11団ボーイスカウト隊の格好の訓練の場であった。

当時はその北続きに大きな貯水池があり、その先の大亀谷から竹藪の中の細い道を東北に上って行くと大岩山を経て小栗栖にたどり着いた。

 

大岩山頂(標高182m)から京都市内や西山、遠くにそびえる光秀も本能寺の変の前夜訪れた愛宕山(標高924m)を眺めながら飯盒炊爨(はんごうすいさん・火を焚いて食事を作ること)に汗を流し、スカウト訓練をしたものである。手旗信号やモールス信号、縄結び、自然観察、追跡サイン、宝探しなど懐かしい思い出がいっぱいつまった山である。

 

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           大岩山(標高182m)より京都市内・愛宕山(右端)を望む

 

現在は、大岩山の近くまで住宅街が広がり、その姿は一変しているのに驚かされた。

とくに大岩山頂上付近は太陽光パネルが引き詰められ、土木関係の資材置き場となり、スカウト時代のハイキングコースの面影は、今はない。

ただ救われたのは、現在も「京都一周トレイル」として多くの市民ハイカーに親しまれていることである。知らずのうちに<光秀敗走路>をたどり、光秀と共に歩かれていることに歴史を感じていただければとこの紀行文を書き綴っている。

 

さて大山崎勝龍寺城を出て、居城である坂本城に向かって敗走のため光秀がたどっていた小栗栖の村へは、ここ大岩山頂より1㎞ほど手前の、Y字路を右へ曲がり、竹藪の小径を下っていく。

 

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            トレイル標識のあるY字路を右に入り竹藪の坂を下る

 

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           光秀一行もこの竹藪小径を下って小栗栖を目指した

 

坂道は急であり、曲がりの多い昼なお暗き竹藪でおおわれている。

竹藪のトンネルを抜けると畑が現れ、人家が立ち、小栗栖(石田)に出たこの辺りから現在は舗装された道に変わっている。

 

その最初のY字路、ここに光秀が通ったとされる小道(現在の路地)がひっそりと残されている場所がある。

Y字路を左に曲がり最初の家の右側に細い路地が残っている。この路地が手つかずの光秀の足跡を残している「光秀小栗栖敗走ルートの原始の姿」であると地元の老人が説明してくれた。

その右手の屋敷が老人の家で、その屋敷右隣にある細くて急なセメントの坂道が竹林の山に30m程延びており、突当りの立入禁止札の左手より手作りの階段を下りて「光秀小栗栖敗走ルート」である竹藪へと続いていく。

 

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        左の白い鉄柵に沿って唯一の<古来からの光秀敗走路>の一部が残っている

   中央の細いコンクリート坂道を上がり、突当りの左手の手掘りの段々を下りていくと敗走路に続く

 

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           <唯一の古来からの光秀敗走路>といわれる現存の路地

 

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  中央の細いコンクリート坂道を上がり、突当り左手竹藪の段々を下りていくと、光秀敗走路に続く

 

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            竹藪を下りていくと<光秀敗走路>に続く

 

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              光秀敗走路<小栗栖の竹藪>が続く

左手に大岩山よりの小さな水の流れや湿地を見ながら、うっそうとした竹林に挟まれ、汗をにじませてなだらかな坂を上って行くと、低い峠を越えて小栗栖(小坂)の村に向かって再び下っていく。

 

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            峠を越えて下っていくと小栗栖(小坂)の村へと続く

 

この竹藪を通る小径「光秀小栗栖敗走ルート」上には、わざわざ公道であるとの標識が貼られ、小径の崩落を防ぐため同好の士のマナーに注意を与えている。お互い光秀敗走小径を探訪散策するときは、竹の子畑の柔らかい赤土の崩壊を防ぐための土止めの竹柵には注意したいものである。

 

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           小径の崩落を防ぐため同好の士のマナーに注意を与える標識

 

峠から少し下ったT字路の右手に昔からの由緒ありそうな苔むしたお墓が十数基立ち並んでいて、この墓のいくつかは光秀一行を見守っていたのかもしれないと想像を豊かにさせてくれた。

その墓のほとんどの墓石に同じ家名<石田家先祖の墓>(石田は小栗栖所在の地名でもある)が見られる所から、この墓の中の人の内、歴史上の偶然かもしれない光秀最期の瞬間に立ち会った人たちがいたのかも知れないとも考えてみた。

 

光秀最期の地であった小栗栖の村民は、この苔むした墓石群の沈黙のように光秀の最期についてのすべてを封印したあと、長きにわたって沈黙を通してきたように思える。

 

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               小栗栖石田在の石田家先祖の墓石群

 

 

先に述べた竹林に囲まれ古色蒼然とした一列に並んだお墓群と語り合っていた時、この付近一帯の竹の子畑を管理し、育てているお墓の子孫とおもえる青年に出会った。

彼によるとこの道こそ「光秀小栗栖敗走ルート」であり、光秀はこの先で小栗栖の村に抜け出る前に、武者狩りにあって最期を遂げたと語ってくれた。

 

竹藪は太陽の陰りで一瞬暗くなり、光秀敗走の小径は今にも消え去りそうであった。

 

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その先のひらけた畑を左手に小栗栖墓地を見ながら進むと、右手に学校があり(小栗栖宮山小学校)、さらに進むと住宅街(小栗栖小坂)に入り、右手に「明智藪」という手書きの標識がある。

標識に従って200m程、本経寺を左に見ながらすすむと、左手に石碑「明智藪」が建ち、その先の植栽の竹林に明智光秀最期の地である「明智藪」がある。

 

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      竹藪を抜けると左手に<小栗栖墓地>、右手に<小栗栖宮山小学校>が見えてくる

 

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     小栗栖小坂に入ってY字路右手にある<本経寺・明智藪 右170m➡>の標識に従って進む

            (写真は来た道を振り返って写している)

 

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               明智藪>石碑と歴史案内

               (この先右手に明智藪跡がある)

 

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    木札<明智藪 天正10年6月13日 明智光秀が討たれたといわれる場所>と 浮世絵版画

 

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           明智光秀の最期 浮世絵「小栗栖の露」 画・小国政

                大山崎町歴史資料館提供)

 

現在は周囲の竹林が伐採され、ボーイスカウト時代の竹林の面影は完全に失われ、住宅地に生まれ変わる日を待っているようである。

残念だが、月日は移りいつの日にかこのささやかな記念碑の立つ手植えの竹林も住宅の中に埋もれてしまうのであろうか。

  

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       明智藪周辺の景観 <正面の明智藪の背後の醍醐の街、右手に本経寺の墓地>

 

400年近く風化した史実は、竹林に埋もれ、沈黙に閉ざされていたが、大河ドラマによって人々の記憶に宿り、明智光秀という人物像に光を当てたことは確かである。

ドラマには取り上げられなかったが、光秀の最期の竹藪を歩き、悲哀なる武将の気概に触れたいと、忘れ去られたこの地を訪れる人がいることに、埋もれた歴史のなかにかすかな光を見る思いがした。

この日も、数組の若いカップルが「明智藪」で手を合わせている姿に出くわした。

 

わたしたちボーイスカウト時代に歩いたハイキング<小栗栖コース>は、当時1964年開催予定であった第一回東京オリンピックに合わせて、国土開発の真最中であった。ここ大岩山頂からは、間近に名神高速造成中の竹藪独特の赤茶色の帯状の土がむき出しに東西に盛られ、京都を南北に分断していたことを記憶している。

 

そしてさらにその北、京都を二分する新幹線の高架の土台が延々と出来上がっていた。

この2つのインフラ整備開発は、1957に着工した名神高速と、1962年にモデル区間が出来上がっていた新幹線の大動脈であり、経済高度成長期1960~1970年代のシンボルとしてその大役を果たすこととなった。

この地で亡くなった光秀もまた、歴史の移り変わりを見守ったひとりかもしれない。

 

 

なぜ彼は、当時としては高齢者(56歳)であったにもかかわらず、主君を討ち果たすまで思いつめたのであろうか。なぜ隠居して人生を謳歌しなかったのであろうか。

人生は十人十色といわれるが、光秀は哀れであるとみるか、滑稽であるとみるか受け取るひとにより異なるといえる。

 

いや光秀は、信長という主君の想い描く世には絶対させたくなかったがゆえに、体を張って信長の想い描く世界を阻止したのではないだろうか。

自分の人生模様を、彼は後世に箴言として残しておきたかったのではとふと思った。

ただ沈黙を守る光秀に、歴史の風化を感じる一方で、光秀の想いが何時の世でも静かに受け入れられているような気がしてならない。

 

最後に、NHK麒麟がくる」の結末は、見る人それぞれに結論をゆだね、無難な終わり方で幕をひいたところに私としては不満が残ったのである。

この大河ドラマは、現代の光秀論として一考察を残すべきであったと思う一人である。

またいつの日にか、光秀は取り上げられるのであろうが、それは半世紀のちかもしれない。その時もまた光秀像は曖昧に語られ、今と変わっていないような気がしてならない。

 

 

明智藪>(あけちやぶ) 京都市伏見区小栗栖

近江国坂本城主 明智光秀は1582年(天正10)6月2日早朝、中国地方出陣のため上洛していた織田信長を京都 本能寺に襲撃して自刃させた。

その後、光秀は6月13日山崎の合戦で秀吉軍に破れ、近臣10数名と共に坂本城を目指したが、途中、ここ小栗栖にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により、あえない最期を遂げたといわれる。

この明智藪は、今日にいたるまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺の寺領となっている。」<明智藪案内標識より>

 

本通りに戻り、明智藪の標識の右手階段を上がると小栗栖館があったといわれる「小栗栖八幡宮」がある。信長の近臣小栗栖館の武士集団一党が明智待ち伏せ、打ち取ったとする地元の説もうなづけるのである。

京都近在小栗栖の衆が、本能寺の変後の山崎の合戦の報に接し、中でも信長の近臣であったとすれば、主人の仇をとるべく待ち受けていたとしても不思議ではない。

そのなかに先程出会った墓石群の石田家の人たちも歴史の証人として立ち会っていたかもしれない。

 

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             小栗栖館があったといわれる「小栗栖八幡宮

 

 

勝龍寺城坂本城間の抜け道としての小栗栖ルート>

山崎の合戦に敗れた明智光秀は、最期の夜逃げ込んだ勝龍寺城(しょうりゅうじじょう・京都府大山崎町)で休息し、闇夜に乗じて供回りと共に城を出て、居城である坂本城に戻るため人目のつかない間道をとおり醍醐にある小栗栖をへて近江の国へ抜けようとしていた。途中、小栗栖の竹藪で武者狩りの百姓の手にかかって最期を遂げたという説が、先にみたように有力な通説となっている。

明智光秀の野望は、俗にいう三日天下としてついえたのである。

 

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勝龍寺城は、信長の命により摂津と山城の境を守るため細川藤孝が築城した。光秀の娘たまは、細川藤孝の嫡男忠興と祝言を上げ、3年間の結婚生活をした城でもある。

姻戚関係にあった明智家の坂本城と、大山崎にあった細川家の勝龍寺城との間では頻繁に出入りがあったであろうし、そのルート(経路)も両家の密使の道、忍びの道、馬の道、物資運搬の道と幾つかの往来のルートがあったと思われる。

 

光秀敗走の道は、人目につきにくく、最短で、忍びの道であったと推測できる。

<小栗栖敗走ルート>も淀川沿いの間道を伏見に出て、現在の明治天皇陵のある桃山の森に入り込めば、身を隠し素早く動け、大亀谷からの竹藪に身を隠しながら小栗栖まで前進できる。

あとは推測だが、醍醐寺の裏手から高塚山(標高485m)、牛尾観音(標高364m)を経て音羽山(標高593m)に至り、逢坂の関(標高164m)より三井寺から坂本城に入るコースもあったのではないだろうか。

 

 

明智光秀敗走の小栗栖ルート と その前後の推定敗走ルート>

秀吉軍との<山崎の合戦>後の光秀敗走ルートを推定し、足取りをたどってみた。

 

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(敗走ルート概略図は、図をクリックし、拡大したうえで参照願います)

 

では、光秀敗走ルートを概略図の順番➀~㉑に従ってたどってみたい。

 

①山崎の合戦で、6月13日秀吉軍に敗れた光秀は、

 逃れた大山崎勝龍寺城を6月14日未明に脱出➡

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②淀川沿いの間道を夜陰にまぎれて進み➡

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 大山崎三川合流地点付近 (桂川・淀川・木津川)

 

③淀川(宇治川)にかかる観月橋付近より➡

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④森林の丘陵地帯(現在の明治天皇陵あたりから)に分け入り➡

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⑤(現在の伏見桃山城あたりの)森林のなかを進み➡

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  光秀時代、伏見桃山城はなく、森であった

 

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《現在、光秀敗走ルートとして明らかになっている大亀谷の竹藪から

 光秀最期の地といわれる光秀藪までを歩いてご案内したい》

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➅現在の貯水池(伏見北堀公園)あたりから竹藪の続く大亀谷に入り➡

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⓻大亀谷の竹藪を進み➡

 

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➇大岩山頂手前Y字路を右へ入り、竹藪の続く坂を下ると➡

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 Y字路の「京都一周トレイル」標識を右に入る

 

⑨小栗栖村(石田)の入口Y字路に到達➡

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⑩Y字路を左折したすぐ左手に<古い光秀敗走路の路地>があり➡

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 ⑪約10m先の左手にあるセメント小道を上がり➡

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⑫立入禁止標識左手の竹林に造られた手作りの赤土段々を斜めに下ると➡

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    手作りの赤土段々を斜めに下ると     <光秀敗走路である小栗栖の竹藪>に続く

 

⑬竹藪がつづく敗走古道のゆるやかな上りが700m程続き低い峠を通過➡

⑭峠を下っていくと➡

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⑮T字路直進(右に入ったところに石田家先祖代々墓石群)➡

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⑯左手に「小栗栖墓所」を見ながら進むと➡

⑰右手の「小栗栖宮山小学校グランド」を過ぎて➡

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アスファルト道を現在の小栗栖(小坂)の村に入る➡

⑲右手の「明智藪」の標識に従って左折➡ 

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 来た道を振り返っての写真なので、右手に入って行く

 

⑳本経寺前を通って道なりに進むと➡左手に「明智藪」石碑」あり➡

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          本経寺                   「明智藪」石碑」

 

㉑ その先に「明智藪」(光秀最期の地)標識がある

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   光秀の敗走は、ここ明智藪で終わった

 

 

以上の小栗栖ルートは、シニア(年長)スカウト時代、ビバーグ(野宿)しながらオーバナイトハイクした時に一度歩いたルートでもあり感無量である。

ただ、光秀一行が敗走路としてあえて難儀な竹藪の続く小栗栖ルート>を選んだのは、すでに秀吉軍によって坂本城への主な道が抑えられていたためであろう。

最期の地 小栗栖より先は、さらに厳しい山道を進むことになっていたと推察する。

もちろん最短コースは、現在の国道171号線大山崎より京の都に入り、堀川通りを北上、御所の北に東西に延びる今出川通りから、山中越えに入れば坂本城に簡単に到着できるはずだから、光秀は敗退という辛酸をなめながらの苦難の敗走となったといえる。

 

この概略図は、光秀一行が小栗栖ルートを選んでいたことからの推論であり、私見であることを申し添えておく。

 

さて、先に述べた光秀の血液型は、A型と、AB型に分かれ論じ合った。

AB型論は、人間関係に不器用で、秀吉のように調子者で、要領よく立ち回り、ゴマをする奴が嫌いなタイプであると言い、一方主人に誠実に仕え成果を上げるが、自分の信条で動いてしまい不信感を持たれるタイプでもあるという。誠心誠意仕える割には逆切れや怨念を持つタイプでもあるという。

 

A型論は、常識的にいえば光秀の性格はA型そのままだと主張する。

忍耐強いが、本能寺にみられるように我慢の限界を越えると一気に爆発する性格である一方、合理的で我慢強く、真面目であるが、猪突猛進という欠点をも併せ持っていたと主張するのである。

 

あの世にいる光秀も、久しぶりに本能寺の変を思い出し、その前後の自分らしくない戦略と戦術なき作戦を反省し、盟友たちの先を見る確かな目に感服するとともに、またまた秀吉に一本やられたと苦笑しているように思えてならない。

 

 

明智光秀終焉の地>

日蓮本宗 本山要法寺の末寺で1,506年に創建。
江戸時代には「小栗栖檀林」という僧侶の学校があり,その跡地に現本堂、墓地等が整備された。本能寺の変後、その最後には諸説あるが、近江の坂本城へ敗走中、落武者狩りに遭って落命したとされる竹藪が本経寺裏に残る。この小栗栖の地が明智光秀の終焉の地であることにより供養塔を本堂左手に建てた。」 (本経寺 当山識より)

 

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      明智光秀公終焉の地」木札         明智日向の守光秀公供養塔

 

 

明智光秀の死と、死後の影>

光秀最期の地に続く、巨大な竹が無数に横たわった昼なお薄暗き竹藪に踏み入ったとき、最初から最後まで光秀の影に寄り添い、離れなかった一人の人物を想い描き続けていた。

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           光秀敗退小栗栖ルートに迫りくる現在の竹藪の惨状

 

光秀に関して、これほど諸説が多い、ミステリアスな武将は少ない。

あまりにも<なぜ>という疑問符と、<Why?>という問い返しの多い人物が、である。

知略家である反面、極悪ではなく清貧に生きた武将として、また大器晩成型の苦労人として伝えられ、庶民に近い生活をした人物として、隠れた人気が現代にまで引き継がれている不思議な人物である。

誰もが考えなかった主君殺し、謀反、三日天下という哀れさが、庶民のこころを揺り動かすのかもしれない。また自分だったらどうしたであろうかと、光秀に成り代わって深く考えてしまいたくなる人物であるからでもあろう。

光秀の弱さを、どこかでかばってやりたいという庶民的感覚をもつ者がいても不思議ではない。

 

そう、光秀は庶民の手の届く武将として秘かに愛され続けてきたのではないだろうか。

 

暗い竹藪で考え続けた一人の人物、光秀亡き後、その影や残滓を徹底的に消し去り、歴史から抹殺した人物が重くわたしの背中にのしかかってきた。

次の天下取り、天下布武のために主君殺しを最大に利用したあと、物語そのものを消し去りたかった人物がいたということかもしれない。

それも微にいり細にわたる演出と、万全の根回しと、巧みな戦術で追い込んでいき、己の天下を勝ち取った人物がいたということでもある。

 

そもそも本能寺の変は、信長・光秀主従に関わりある人物の巧妙なシナリオに従って進行したようにも見える。両者の亡骸さえ消し去った完璧な演出は、現代ですら事変後の両者の生存説が取りざたされるほどである。

 

かかる考えをも語れるほど<本能寺の変>はミステリアスだと言えるのである。

 

天下取りとは所詮かかる仕儀であるが、<本能寺の変>は、その歴史の中の人物像をもロマンあふれる悲劇のヒロインとして引き継いでいるのがうれしい。

そして秀吉は、信長亡き後の後継者として自他ともに認めさせるために、光秀が敗走し、最期の地となった小栗栖に連なる桃山の丘陵に<伏見桃山城>を築城したとも云える。

 

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                                     光秀敗走路とも思われる桃山の丘陵に建てられた伏見桃山

 

一体、光秀は、信長・秀吉・家康にとってどんな存在であったのであろうか。

もし、この内のひとりでもいなかったら歴史は変わっていたと思うと、誰一人歴史から消し去ることは出来ない。

 

わたしたち一人一人が歴史上の登場人物であり、脇役であることを実感させられるのである。

 

最後に、小栗栖より醍醐にまわり、沈みゆく夕陽のなかに浮かび上がった<光秀敗走の峰々>を眺めながら、家路についた。

 

                 

 

《参考資料:光秀小栗栖敗走ルートに関する一考察》

     

      <光秀敗走ルートの桃山・大亀谷・大岩山に連なる稜線>    

                    醍醐方面より望む

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⇑   ⇑   ⇑             ⇑      ⇑    ⇑  ⇑    ⇑

①         ②    ➂            ④       ⑤  ⑥   ⑦   ⑧

 

観月橋(白い建物の後方・宇治川と淀川の分岐)辺りから桃山の丘陵に入ったと推測

②現在の明治天皇陵付近を通過し、(現在の伏見桃山城跡に続く尾根道を進んだと推測)

➂光秀没後、秀吉築城の伏見桃山城跡を通過し、(大亀谷の竹藪道に向かったと推測)

④大亀谷の竹藪路を進み

⑤大岩山頂方面⑥に向かわず、手前のY字路⑤を右折し、小栗栖石田村⑦に下る

⑥大岩山(標高182m)山頂(電波塔を目視できる)は推定敗走ルート線上にある

 <天王山(山崎・勝龍寺城)➡伏見桃山城➡▲大岩山➡小栗栖・醍醐➡比叡山坂本城

⑦小栗栖石田村を通過、最初のY字路当たりから小栗栖の竹藪路に入る

⑧小栗栖小坂にある現在の本経寺所有竹藪で落ち武者狩りにあって光秀最期を遂げる 

 

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大岩山(標高182m)より伏見桃山城(中央)、その背後の山崎の合戦跡(天王山・勝龍寺城)方面を望む

         

振り返ると、醍醐の峰々が比叡山方面へのび、その麓に坂本城があるところから、光秀小栗栖敗走路は、

坂本城への最短ルートであったのではないかと推測する。  


                                (2021年2月16日 後藤實久記)

   

   

 

            2021星の巡礼明智光秀最期の地を歩く』

        明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く

 

                  

 



                     

2021星の巡礼 『レルヒ中佐 十勝岳に立つ』

2021星の巡礼 『レルヒ中佐 十勝岳に立つ』

北海道の友人から同人誌「文芸北広島 第37号」が届いた。

 

 

友人とは、2004年4月ニュージランドにあるユースホステル<Auckland International Youth Hostel>で同室だった北海道在住の矢野達雄氏である。以来、俳句仲間として文通を続ける同好の士でもある。

今号には、1912年武官として北海道旭川駐屯地に派遣されていたオーストリア陸軍レルヒ中佐が、活火山である十勝岳に登頂し、その美しい山容をドイツ語で書き記した紀行文を翻訳し、紹介している。

その美しい自然描写には人間味あふれ、躍動感に満ちた生き物たちが描かれ、盆地に横たわる旭川(陸軍第7師団)を眺めては感嘆し、北海の大地を走る汽車の力強さを謳いあげている。

 

わたし事だが、レルヒ中佐が十勝岳に立ってから、奇しくも95年後の2007年同じ日に百名山登頂途次、雨の十勝岳にわたしも立っていたことを想い感無量である。

北海道に住む彼だからこそ、その郷土愛を生きいきと翻訳できたと思っている。文学的感受性の豊かな翻訳に敬意を表したい。

ここに翻訳者の同意を得たので、レルヒ中佐の十勝岳登頂の紀行文を日本近代史の1ページとして紹介しておきたい。

 

《 世紀越え  雪の便りの  十勝岳  語り継ぎしや 美々しき日本》

 

 

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               《文芸北広島 第37号》

 

 

紀行文 『北海道の火山(十勝岳)』  

 作者 オーストリア陸軍レルヒ中佐   翻訳者 矢野達雄(文芸北広島同人)

「文芸北広島 第37号」より

 

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                 ー1-

 

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                  ー2-

 

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                   ー3-

 

■日本スキーの父  テオドール・フォン・レルヒ 

Theodor Edler von Lerch, 1869/8/31-1945/12/24

1920年大正9年)3月27日に、北海道大学スキー部が積雪期の十勝岳初登頂したと日本登山史に記録されているが、その8年前の1912年に武官として北海道旭川駐屯地に派遣されていたオーストリア陸軍レルヒ中佐本人の十勝岳登頂に関する紀行文が残されていたことになる。

日本登山史における貴重な新資料であるといえる。

 

レルヒは、日露戦争ロシア帝国 に勝利した日本陸軍 の研究のため、1910年に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で遭難事故おこしたばかりだったこともあり、日本陸軍アルペンスキー創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県高田(現在の上越市)にある歩兵第58連隊の営庭や、高田の金谷山などスキー専修員にスキー技術の指導をおこなった。このことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。Wikipedia

 

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   1911年(明治44年)のレルヒ中佐

 

十勝岳(とかちだけ・2077m)

十勝岳(とかちだけ・2077m)は、北海道の中央部の美瑛町上富良野町新得町にまたがる活火山であり、十勝岳連峰(十勝火山群)の主峰である。日本百名山に選定されている。

 

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        雨雲に煙る十勝岳連峰の主峰 十勝岳(標高 2077m 百名山        

 

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                ガスに煙る十勝岳山頂付近

 

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        レルヒ中佐から95年後の2007年 百名山十勝岳 2077m>に登頂する 

 

 

 

 

              『レリヒ中佐 十勝岳に立つ』

 

                       完 
 

2021登山道情報<比良山系・蓬莱山登山道-金ピラ峠ルート>

2021登山道情報<比良山系・蓬莱山登山道-金ピラ峠ルート>

        ルートファインディング Route finding

        

 

比良山をこよなく愛する多くの山友より、登山道の様子について問い合わせがあった。約3年前の台風による倒木被害により通行止めになっている金ピラ峠経由蓬莱山に至る『びわ湖バレー山麓登山口』の現状を知りたいとのこと。さっそく出向いて登山口より少し登ってみた。『いまだ倒木手つかずで、見通し立たず』との状況報告をした。悲しいことだが、京都北山や比叡比良山系では倒木被害がそのまま山の衰退につながっており、修復には時間がかかりそうである。

山も愛情をもって手入れしないと、人間を受け付けないものである。

 

Many mountain friends who love Mt. Hira inquired about the state of the mountain trail. They want to know the current status of the "Biwako Valley foothills trailhead" that leads to Mt. Horai via the Kinpira Pass, which was closed due to fallen trees caused by a typhoon about three years ago. I went out and climbed a little from the trailhead. I reported the situation, saying, "The fallen tree is still untouched and the outlook is uncertain." Sadly, in Mt.Kitayama, Kyoto and the Hira Mountains, the damage caused by fallen trees directly leads to the decline of the mountains, and it seems that it will take time to repair them.

Mountains will not accept humans unless they are cared for with love.

 

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    蓬莱山金ピラ峠経由 山麓駅登山ルートの倒木による通行禁止の現状

 

 

① びわ湖バレーロープウエー山麓駅(標高304m)より蓬莱山を望む。

JR志賀駅よりびわ湖バレーへのバスが走っているので、山麓駅登山口は、蓬莱山への最短ルートとして利用する登山者も多かった。

その<金ピラ峠経由蓬莱山ルート>が倒木による通行禁止が続いているので、現状を確認するため<山麓駅登山口>に向かった。

 

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② 山麓駅バス停(終点)より舗装道を先に進むと、

「ご案内 ATTENTION このさき登山道へはお進みいただけません。P11駐車場奥のキタダカ道をご利用ください。

There is no trail beyond this point. Please come to KITADAKA Trail at Parking No. 11 in order to go to the summit on the trail.」との案内標識が出ている。

理由は書かれていないが、もちろん倒木による通行不能・通行禁止の案内である。

(標高326m付近) 

幸運にも、蓬莱山・打見山へのメインルートであるキタダカ道は、各位の整備努力、維持により通常通りの登山が可能である。

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③ <至金ピラ峠・蓬莱山>標識に張られた「立入禁止」マーク(標高390m)

木戸川の河原(ダム)の向こう岸より登山道に入る。

 

ダムにある登山口からルート(登山道)上の山腹を観察してみると、

ルートが巻いている船越山(標高614m)の東西山腹の杉林の倒木被害が甚大であることが分かる。現在、東側の倒木は片づけられたが、西側であるルート上(標高578m)付近の倒木はそのままの状態で放置されたていることが見て取れる。

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④ 登山入口(標高383m)は、現在標識はなくロープが目印になっている。

谷川(ダム)を渡って、左に巻いて山に入る。

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⑤ 標高420m地点より、約20mの巨大杉が縦横に倒れ、行先をはばむ。

リュックを背負っての倒木をくぐるのは困難を極め、乗り越えていくにも幾重もの障害物が続き、体力的限界がある。倒木以来、だれ一人入った様子は見られない。ただ、倒木に残された風化した赤いリボンサインだけが目に入ってくる。

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⑥ 標高496m地点の倒木-これより先進めず断念し、下山。

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⑦ルート探索(ルート・ファインディング)を終えて下山途中、木戸川北側堤(標高233m)で休憩

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2018年9月4日九州北部豪雨をもたらし、近畿をも直撃した大型台風18号は、京都北山や比良比叡山系はじめ近畿山域に倒木による甚大な被害をもたらした。

あれから2年半が過ぎ徐々だが登山路の回復を見てきたが、いまだ手つかずの倒木地帯が残されているのが現状である。

今なお原状回復の半ばだが、まだまだ時間がかかりそうである。

今回は、居住地であるびわ湖バレーのロープウエー山麓駅を登山口とする、金ピラ峠経由の<山麓駅登山口>からの倒木情況を報告した。

 

写真説明にもある通り、2021年1月19日現在、<金ピラ峠経由蓬莱山ルート>の内、「びわ湖バレー山麓登山口」ルートは、今なお《倒木による通行禁止》である。

もう一つのJR蓬莱駅よりの金ピラ峠経由「蓬莱登山口」は、金ピラ峠付近の1か所の迂回路を除けば、倒木被害もなく蓬莱山への登山は可能である。

ただ蓬莱山直下の下山口には、<通行禁止>のロープと警告表示があることを申し添えておきたい。

この下山路は、昨年3月に蓬莱山での雪中キャンプをしたとき、強風による緊急下山をしたときに使用させてもらった。金ピラ峠での分岐<びわ湖バレー山麓ルート>は通行禁止の札がかかっていたので、金ピラ峠分岐を右折し、蓬莱駅へ向かって下山したが、問題はなかった。

 

以上、金ピラ峠経由での蓬莱登山を計画される場合の参考にしていただければ幸いである。

(報告者 後藤實久記)

 

 

    2021登山道情報<比良山系・蓬莱山登山道-金ピラ峠ルート>

               ルートファインディング Route finding