shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2023<星の巡礼 仲間を偲んでー東山元子さん>

 

 

 

                 《短歌集 - 偲ぶ草》

            ースカウト仲間 東山(諏訪)元子さんを偲んでー

 

                  短歌&スケッチ 後藤實久

 

 

     

                   わびすけ侘助/寒椿)

 

1961年当時、部室無き「同志社スカウト同好会」発足時、今出川通りの校門前の喫茶店<わびすけ>(侘助・十数年前に閉店)が同志社レンジャースカウトと同志社ローバースカウトの連絡・待合・ミーティング場所(他に明徳館前・御所)であった。

そこには、同志の誰かが席取りをして待っていてくれていたものである。

侘助(しろわびすけ・白椿)に出会う度に、喫茶<わびすけ>に集った、懐かしき同志の顔を想いだすのである。

 

その内のひとり、スカウト同好会(レンジャースカウト)の1期生(1960年度生)であった元ちゃん(東山元子・旧性諏訪・奈良・ガールスカウト日本連盟元会長)が、天に召されたという報せがあった。

同期生として深い悲しみのなかに包まれた。

彼女もまた、スカウトを愛し、その教えを人生に取入れた仲間である。

何事をも明るく笑い飛ばし、慈愛をもって相手を取りこむ、素敵なお姉さまとして仲間に慕われていた。

そう、草創期のスカウト同好会(同志社大学ローバースカウト隊・同志社大学レンジャースカウト隊)におけるお袋さん的存在であった。

元ちゃんが、そこにいるだけで安心感があり、和んだものだ。

 

雪残るここ志賀の里で、東山元子さんを偲び短歌を詠みながら、見送ることにした。

 

 

                  比叡比良連峰冬景色パノラマスケッチ

               <左端・比叡山/中央・蓬莱山/右端・釈迦岳>

                  対岸湖東・吉川パーキングより

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

 

《集いきて 青春語る わびすけに 昔日偲ぶ 君もおりてや》

―つどいきて せいしゅんかたる わびすけに せきじつしのぶ きみもおりてや―

 

《人の道 君を見送る 老いの身の 足るを知りてや 安らぎ満たん》

―ひとのみち きみをみおくる おいのみや たるをしりてや やすらぎみたん―

 

《君なりの 背負いし重荷 成し終えて 心安けき 旅路迎えし》

―きみなりの せおいしおもに なしおえて こころやすけき たびじむかえし―

 

《わが道を 貫き終えし スカウトの 静かな闘志 秘めて逝きしや》

―わがみちを つらぬきおえし すかうとの しずかなとうし ひめていきしや―

 

《組織なる 小姑多き 世の中で 束ねる君や 楽無かりけり》

―そしきなる こじゅうとおおき よのなかで たばねるきみや らくなかりけり―

 

《燃え尽きて おのれ捧げし スカウトや この世の誉 黙し語らず》

―もえつきて おのれささげし すかうとうや このよのほまれ もくしかたらず―

 

《つとめ終え 想い残せし 夢あるも 胸に秘めたる 心意気かな》

―つとめおえ おもいのこせし ゆめあるも むねにひめたる こころいきかな―

 

《時来たり ガールのリーダー 旅たちて 労苦報いし 弥栄贈る》

―とききたり がーるのりーだー たぶたちて ろうくむくいし いやさかおくる―

 

《安かれと 祈る我らに 微笑みて 清けき風に 戯むる君や》

―やすかれと いのるわれら ほほえみて きよけきかぜに たわむるきみや―

 

《白雪の 舞いし山里 訃報あり 無の風抜けて 虚しさ覚ゆ》

―しらゆきの まいしやまざと ふほうあり むのかぜぬけて むなしさおぼゆ―

 

《君も逝き 我らも追いし 人の道 虚しき中に 天道ありて》

―きみもいき われらもおいし ひとのみち むなしきなかにお てんどうありて―

 

《慎みの おのれ飾らぬ お人柄 人は皆見る こころ奥かな》

―つつしみの おのれかざらぬ おひとがら ひとはみなみる こころおくかな―

 

《風吹きて 香り残せし 君なれど 早きを嘆く 時の流れや》

―かぜふきて かおりのこせし きみなれど はやきをなげく ときのながれや―

 

《死してのち いついつまでも スカウトと 見送るわれに 微笑遺し》

―ししてのち いついつまでも すかうとと みおくるわれに ほほえみのこし―

 

《ああ無情 命召される 君なれど 遺せし跡や 君を称えし》

―ああむじょう いのちめさるる きみなれど のこせしあとや きみをたたえし―

 

 

 

 

               《懐かしき同志社スカウト時代》

 

 

  

                     懐かしき青春時代

 

 

同志社スカウト同好会は、同志社大学レンジャースカウト隊と、同志社大学ローバースカウト隊で

成り立っていた。 それぞれ独立した組織として活動していたが、スカウト同好会としての募集・懇親・野外活動・大学行事等では合同の企画を持っていた。

設立当初は、原隊のリーダーとして忙しく、学内では懇親の域を出てはいなかった。

音楽喫茶に出かけ、雪山賛歌を熱唱したり、明徳館前で社交ダンスのステップを教えあったあと、共に祇園のダンス喫茶に出かけたものである。

箕面や近場でハイキングしたり、合同の宇多野ユースホステルでの料理講習をもったり、山登りに誘い合ったりした。

その待合・集合場所の一つが、先にも紹介した<喫茶 わびすけ>(侘助)であった。

発足当初の同志社大学スカウト同好会の隊員一人一人が、新島襄先生の同志社人に望まれた『良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ』を胸に秘めて、行動に生かしていたような気がする。

『詩吟 寒梅』にその精神が詠われており、その心意気を実行に移した仲間の一人が東山元子(旧姓 諏訪)さんであった。

当時の同志社スカウト同好会での懐かしい想い出を、短歌に詠んでみた。

 

 

 

          箱館山・武奈嶽・三重嶽方面とマキノ知内村を望む

                   露営地 塩津大崎の浜より

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

《雄々しくも 姐さん吠える 仲間うち 優しくも君 甘えし我らや》

―おおしくも ねえさんほえる なかまうち やさしくもきみ あまえしわれらや―

 

《手あぶりの 煙にむせぶ 君おりて スカウトソング 想い出遠し》

―てあぶりに けむりむせぶ きみおりて すかうとそんぐ おもいでとおし―

 

《イブの夜 ウクレレ合わす 君の声 思い起こせし 楽しき日々や》

―いぶのよる うくれれあわす きみのこえ おもいおこせし たのしきひびや―

 

かあちゃんの 懐深き 心もて 慕う後輩 𠮟り飛ばせし》

かあちゃんの ふところふかき こころもて したうこうはい しかりとばせし―

 

同志社で 青春過ごす 仲間内 悲しみ深き 君の旅たち》

―どうししゃで せいしゅんすごす なかまうち かなしみぶかき きみのたびたち―

 

《過ぎ去りし 懐かしき日々 同志社の 集いし御所や 君の残像》

―すぎさりし なつかしきひび どうししゃの つどいしごしょや きみのざんぞう―

 

《想いだす イブのオデン 食らうてや 夢を語らう ひねもす重ね》

―おもいだす いぶのおでん くらうてや ゆめもくらう ひねもすかさね―

 

《君去りて 想いで繰りし 青春の 悲しみ深し 同期の桜》

―きみさりて おもいでくりし せいしゅんの かなしみふかき どうきのさくら―

 

《燃えいづる 寒梅匂ふ 同志社に 集いし仲間 我らスカウト》

―もえいづる かんばいにおふ どうししゃに つどいしなかま われらスカウトよ―

 

《君往きて うな垂るわれら 寂しきや 同志なる友 君の早きを》

―きみゆきて うなだるわれら わびしきや どうしなるとも きみのはやきをー

 

《寒梅に 新島学ぶ 同志社で 良心背負い 高吟せしや》

―かんばいに にいじままなぶ どうししゃで りょうしんせおい こうぎんせしや―

 

 

    《 良心の碑 》  『良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ』

 

  《詩吟  寒梅》  『庭上の 一寒梅

             笑って風雪を 侵して開く

             争わず 又力めず          

             自ずから百花の 魁を占む』 (新島襄作)

 

庭先にある一本の寒梅が厳しい風や雪の寒さにも負けず笑うがごとくに開いている。一番咲きを争うこともなく、特に努力することもなく、それでいて自らあらゆる花のさきがけとなって咲いている。 まことに謙虚な姿である。

厳しい環境の中で困難や試練に耐えて、己の分を守りながら信念を遂げていく。 

その姿に、亡き東山元子さんを重ねたのである。

                

              

                   京都今出川 同志社本部前 <良心碑>

 

 

 

             1961同志社イブ スカウト同好会野外展示会場

                旧同志社中学・同志社教会前広場

 

 

              1961同志社イブ 隊員募集受付にて

             

               1961同志社イブ スカウト野外展示場にて             

          

 

               仲間 黒木保博同志社大学副学長就任祝賀会にて

                   2009  新島会館

              

 

 

 

 

 

                   《ビワイチに誘いて》

               山を愛した東山元子さんと雪帽子の比良の峰々

 

 

        

           元ちゃんに雪の比良連峰を見せるため<ビワイチ>に誘い出した

 

 

びわ湖一周サイクリングロードを<びわいち/ビワイチ>と呼ぶ。

老人の体調バローメーターとして、70代半ばから<びわいち>に挑戦している。

今年は、<耐寒びわいち>サイクリングを計画、準備を終えていた。

出発の前日、大学時代、スカウト同好会を立ち上げた当時の仲間の訃報が届いた。

彼女は、学生時代、山をこよなく愛し、比良の山にも出かけていた。

今回のビワイチは、びわ湖を取巻く雪帽子をかぶった山々を亡き彼女にも見せるためのサイクリングに

急遽変更した。

出発当日と重なった葬儀には失礼し、雪の残る志賀の里を、彼女の写真を懐に2泊3日の

自転車旅に連れ出した。

元ちゃんとサイクリングしながら、比良の山並みをスケッチし、短歌を詠んできた。

 

 

 

                 比叡比良連峰パノラマスケッチ

      (左端の比叡山から中央の武奈ケ岳を経て蛇ヶ岳峰から朽木に下る縦走ルート)

                2017/9/19-9/22 比叡比良山系大縦走時の作品

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

    

               スカウト仲間と比良登山中の東山元子さん

 

 

《亡き君を 誘い眺むる ビワイチの 偲ぶ青春 比良の峰々》

―なききみを さそいながむる びわいちの しのぶせいしゅん 比良のみねみね―

 

《雪帽子 君も登りし 比良の峰 聴こゆ山彦 雪山賛歌》

―ゆきぼうし きみものぼりし ひらのみね きこゆやまびこ ゆきやまさんが―

 

《白雪の まといし比良に 君おりて 役目終えてや 天に昇りし》

―しらゆきの まといしひらに きみおりて やくめおえてや てんにのぼりしー

 

《遠くより 君を見送る 我なれど 君を誘いて ビワイチ駈けし》

―とおくより きみをみおくる われなれど きみをさそいて びわいちかけし―

 

 

               湖東さざ波街道より雪被る比良連峰を眺める

                湖東 さざ波街道より

               

                      

《野に臥して 眺むる比良や 雪帽子 山を愛せし 君に見せたし》

―のにふして ながむるひらや ゆきぼうし やまをあいせし きみにみせたし―

 

《比良の峰 流れゆきしや 白雲の 君の面影 重ね見送る》

―ひらのみね ながれゆきしや しらくもの きみのおもかげ かさねみおくる―

 

びわの湖 露営せしや 闇の夜 流れ星追いて 君を送りし》

びわのうみ ろえいせしや やみのよる ながれぼしおいて きみをおくりし―

 

《夕陽見る 侘しき影や びわの浜 仲間見送る 灯火揺れし》

―ゆうひみる わびしかげや びわのはま なかまみおくる ともしびゆれし―

 

《永遠なりし ガールスカウト 天に往き 湖畔に沈む 夕陽静けき》 

―とわなりし がーるすかうと てんいゆき こはんにしずむ ゆうひしずけき―

 

《琵琶の浜 一塊の石 斜め投げ 飛び跳ねし君 より慎ましく》

びわのはま いっかいのいし ななめなげ とびはねしきみ よりつつましく―

 

《老いのなか 風吹き抜けて 梅も咲き 新たな命 生まれ変わりし》

―おいのなか かぜふきぬけて うめもさき あらたのいのち うまれかわりし―

 

《流れ星 君を見送る びわの浜 感謝の気持ち 伝えて嬉し》

―ながれぼし きみをみおくる びわのはま かんしゃのきもち つたえてうれし―

 

《比良の峰 縦走したる 若き血や 遠き青春 昨日の如し》

―ひらのみね じゅうそうしたる わかきちや とおきせいしゅん きのうのごとし―

 

《さざ波の 聴こゆる琵琶の 露営にて 遠き雪峰 山彦返りし》

―さざなみの きこゆるびわの ろえいにて とおきゆきみね やまびこかえりし―

 

《極寒の 二重八重着る 達磨さん テントの中や 寝返りできず》

ごくかんの ふたえやえきる だるまさん てんとのなかや ねがえりできず―

 

      

                厳寒のビワイチ、重ね着しても震え止らず

                 ほっかほっかカイロを貼り、落ち着く

 

 

《琵琶の湖 白鳥休む 北帰行 静けき波間 平和覚ゆる》

びわのうみ はくちょうやすむ ほっきこう しずけきなみま へいわおぼゆる―

 

 

            箱館山に沈む太陽 (露営地 海津大崎の浦にて)

 

          夕焼けに染まる湖西の峰々 (露営地 海津大崎の浦にて)

 

 

《梵鐘の 波を静めし 塩津浜  一夜の夢路 鴨と添い寝や》

―ぼんしょうの なみをしずめし しおつはま いちやのゆめじ かもとそいねや―

 

《一口の ワインに酔いし びわの夕 我をも染めし 暮色豊けき》

ひとくちの わいんによいし びわのゆう われをもそめし ぼしょくゆたけき―

 

《静寂なる 淡海破る 水鳥の 家路急ぎて 今日も暮れにし》

―しじまなる あわうみやぶる みずどりの いえじいそぎて けふもくれにし―

 

《山影の 湖北の村に 灯が燈り 帳落ちてや 豊かさ覚ゆ》

―やまかげの こほくのむらに ひがともり とばりおちてや ゆたかさおぼゆ―

 

 

                 彦根北松原の露営地に輝く星座たち

                   2023/02/28 12:35 の夜空

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

《落日の 下弦の月に 縦並び 金星木星  競い笑いし》

―らくじつの かげんのつきに たてならび きんせいもくせい きそいわらいし―

 

《悠久の 広き天体 見つめしや 哀愁覚ゆ 短き命》

―ゆうきゅうの ひろきてんたい みつめしや あいしゅうおぼゆ みじかきいのち―

 

《漠然と 求めし指針 広き道 われら導く 北斗七星》

―ばくぜんと もとめしししん ひろきみち われらみちびく ほくとしちせい―

 

《ビワイチの 北極星に 君認め 焚火眺むる イブの想い出》

びわいちの ほっきょくせいに きみみとめ たきびながむる いぶのおもいで―

 

《影踏みて 翔けしビワイチ  亡き友と ワイルド・ローバー 君に背負われ》

―かげふみて かけしびわいち なきともと わいるど・ろーばー きみにせおわれ―

 

 

         

           マキノ・サニービーチにてワイルド・ローバーⅢ世号と共に

                     竹生島を眺める



 

 

 

             《写真に見るビワイチ耐寒サイクリング》

 

 

  

               ワイルド・ローバーⅢ世号と共に

       雪残る志賀の里をスタート、全長150㎞のびわ北湖一周<ビワイチ>に走りだす

 

  

             びわ湖大橋より雪帽子かぶる比良連峰を共に眺める

 

  

               びわ湖大橋東端モニュメントからの比良連峰

 

  

                びわ湖東岸よりびわ湖大橋を眺める

 

  

                   びわ湖東岸からの比良連峰

 

  

             <びわいちモニュメント>前のスタート/ゴール地点

 

             白雪輝く比良連峰の勇姿 (湖東吉川パーキングにて)

 

              比良連峰に沈みゆく夕陽  (彦根 北松原浜 露営地にて)

              <1日目走行距離 志賀の里➡びわ湖大橋➡彦根 50㎞>

 

  

                  1日目露営地 (彦根 北松原浜) 

 

  

             テントから眺める朝日を待つ佐和山  (彦根 北松原浜) 

 

              朝日に霞む湖北の山々と長浜の街 (米原浜にて)

 

        

                   万葉の歌碑  (米原浜にて)        

     《磯の崎榜ぎ廻たみ行けば近江あふみの海八十やその湊みなとに鶴たづさはに鳴く》

           高市連黒人(たけちのくろひと/万葉歌人/持統文武700年代)

 

   (現代訳)磯の崎を漕ぎ廻ってゆくと、近江の湖の数知れぬ港で鶴がたくさん群れて鳴いてる。 

                 なんと賑やかな豊かな土地だことよ。

 

  

                白雲棚引く伊吹山 (道の駅 近江母の郷)

 

  

                    羽柴秀吉築城の長浜城

 

                竹生島と北帰行を待つ鴨の群れ (湖北町

 

        

            北帰行を待つ美しい小白鳥(道の駅 琵琶湖水鳥センター)

 

                 賤ケ岳古戦場山裾(木之本町大音)

 

      

                 賤ケ岳隧道を抜けて飯浦に入る

 

                奥びわ湖<飯の浦>より竹生島を眺める

 

    

             奥びわ西浅井町より仲間みんなと竹生島を眺める

 

       

                 もう一人の応援団<影武者君>

 

                 2日目露営地 マキノ町海津大崎の浜

 

              夕陽に赤く染まる海津大崎の浦 (箱館山方面を望む)

 

   

                 三日目の朝を迎える塩津大崎の浦

 

   

                 3日目出発準備完了(テント乾燥待ち)

 

              塩津大崎の浦より箱館山 と マキノ知内の村を望む

 

 

        竹生島を遠望             高島ロングトレイルの峰を望む

                <マキノ・サニービーチ・ゲート>

 

      マキノ知内川より箱館山・武奈嶽・三重嶽 及び 高島ロング・トレイル方面を望む

 

  

             比良連峰の北端の一つ高島音羽に延びる峰を望む

                  安曇川河口方面より

 

         ここ萩の浜にある工場の生け垣にイースター島のモアイ像を発見した

 

            イースター島のモアイ像 (2016年訪問時撮影)

 

  

                  白髭神社の湖水に浮かぶ鳥居

 

  

                近江舞子の月見浜にある琵琶湖周航の歌碑

 

             手前より釈迦岳・堂満岳・比良岳・蓬莱山の比良連峰

                白髭神社ほうめんよりの眺望

 

    

               2泊3日の<びわいち耐寒サイクリング>を終え、

          写真同行の亡き東山元子さんと共に志賀の里の我が家にゴールした。

                ワイルドローバー3世号の奮闘に感謝である。

 

 

         ー元ちゃん ありがとう、安らかにお眠りくださいー

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

        

 

         《スケッチに見る耐寒ビワイチ・サイクリング》

 

 

             比叡比良連峰冬景色パノラマスケッチ

               <左端・比叡山/中央・蓬莱山/右端・釈迦岳>

                   対岸湖東・吉川パーキングより

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

           1日目露営地・彦根北松原浜からの夕焼け風景

       <左より安土山/長命寺山/沖島/権現山/蓬莱山/多景島/蛇ヶ谷岳方面を望む>

                  Sketched by Sanehisa Goto

         

 

 

            彦根北松原浜で出会ったびわ湖の夜空に輝く星座たち

          <下弦の月・金星・土星のランデブー/北斗七星/北極星/カシオペア座

         (背景左より・佐和山/彦根城/松原の浜/テント/多景島/我ら/比良連峰)

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

               箱館山・武奈嶽・三重嶽方面とマキノ知内村を望む

                     露営地 塩津大崎の浜より

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                  パンノラマ奥びわ湖に連なる峰々

           (左より三国山/乗鞍岳/東山/竹生島/賎ケ岳/金糞岳/伊吹山

                 この湖岸沿いに自転車を走らせてきた

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

                  比良連峰パノラマ

             左端より霊仙山/権現山/蓬莱山/比良岳/堂満岳/釈迦岳  

                   白髭神社方面よりの眺望

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

  

                   比叡比良連峰パノラマスケッチ

      (左端の比叡山から中央の武奈ケ岳を経て蛇ヶ岳峰から朽木に下る縦走ルート)

                2017/9/19-9/22 比叡比良山系大縦走時の作品

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

 

 

 

                

                《短歌集 - 偲ぶ草》

             ースカウト仲間 東山(諏訪)元子さんを偲んでー

 

 

                    















 













       






   

 

 

 

 

 

 

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ

       『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ 

          <同志社ローバースカウト創立50年記念事業  通信記録・旅日記>

 

                                                           最終章

 

         ■ 中山道後半鳥居本宿63➡大津宿69➡京都三条大橋到着>

         ■ <てくてくラリーIN 中山道 到着式> 京都三条大橋 

         ■同志社ローバースカウト50周年記念式典> 新島会館

 

 

前回、一気にゴールである京都三条大橋までを書き上げたかったが、余白の関係で、

ここ鳥居本宿63 で終えた。

最終章である今回は、<中山道てくてくラリー後半報告書②>として、<鳥居本宿63から、

大津宿69を経て、ゴールである京都三条大橋まで>を記録し、踏破の喜びと、出迎えの様子、

さらに新島会館で行われた<同志社ローバー50周年記念式>を取上げた

 

 

■30日日目 中山道 <鳥居本宿63⇒高宮宿64⇒愛知川宿65⇒武佐宿66>

                24.0km/10..5h   5月17日

 

 

        

             彦根を流れる不知哉(いさや)川の河川敷で露営

 

不知哉(いさや)川は、近江国の霊仙山より発して彦根市の西部を流れて琵琶湖に注ぐ

芹川(大堀川)の古い川の名で、ここもまた有名な歌枕である。

万葉集から斉明天皇の和歌を紹介しておきたい。

 

  《淡海道の  鳥籠の山なる  不知哉川  日のころごろは  恋ひつつもあらむ》 

                   斉明天皇万葉集

     ―おうみじの とこのやまなる いさやかわ ひのころごろは こひつつもあらむ―

 

鳥籠山(とこやま)は、不知哉(いさや)川の近くにあった小高い山であったらしく、

特定されていないという。

今夜の露営地は西に国道8号線と、東に東海道新幹線の間を南北に走る旧中山道と不知哉川

(芹川)の交差する橋下の川床である。

この露営地をあたたかく包み込んでいる背後の小高い山(標高154m)が鳥籠山ではないかと

推測する。

 

    弥次さんも一句、

   《人の世に  生まれ出会いし  不知哉川  焦がれし君の  われを待ちてや》  實久

     ―ひとのよの うまれであいし いさやかわ こがれしきみの われをまちてやー

 

 

       

               露営地・不知哉(いさや)川近くの歌碑 

 

 ここ不知哉川(芹川)の露営地は、曇り空の下、たくさんの小鳥たちのさえずりに包まれている。

感謝の祈りを捧げ、旧中山道である<多賀みち>に戻ると、「おかえりなさい。京までの旅の安全を

祈ります~」と前掛け姿の地蔵さんたちが大合唱。「ありがとう~」の声を残して今日の目的宿・

武佐宿66 に向かって足を速めた。

 

          

                前掛け地蔵さんたちの声援を受ける            

 

露営地である芹川のすぐ近くの石清水八幡宮石段の途中に<扇塚の石碑>が建っている。

 

<扇塚>(おうぎつか)

《 豊かなる 時にあふぎの しるしとて ここにもきたの 名を残しおく 》

 

彦根の井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多く

あった。

喜多古能は、門人の養成に力をそそぎ、彦根を立ち去るとき、扇子と面を残していった。

それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。 》  (旭森小学校)

 

          

               石清水神社の階段下の横に<扇塚>がある。

 

 <扇塚>先にあるセブンイレブンで、熱いコーヒーで朝食を済ませ、多賀道を進むと         

<高宮宿64 常夜灯>に迎えられ、1624年に建てられた<多賀大社の大鳥居>をくぐる。

    中山道から少しそれるが、<多賀大社>(往復約10㎞)に立寄ることにした。

 

 

<高宮宿 64> 中山道てくてく 日本橋から総徒歩距離767km(立寄り先含む)

 

高宮宿64  は、多賀大社門前町として栄え、

 《お伊勢へ参れば、お多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる》

と唄われ賑わった総戸数835軒・旅籠23軒の中山道64番目の宿場であった。

 

高宮布または近江上布という麻布の生産地であり、近江商人が全国に行商販売した重要品目の

ひとつであった。

中山道である多賀道を進み<近江鉄道>を越えると旧庄屋横に高宮神社があり、境内に芭蕉句碑が建つ。

 

        《をりをりに 伊吹を見てや 冬ごもり》  芭蕉

 

       

               高宮神社境内に芭蕉句碑が建つ <おりおりに>

 

高宮神社前には、<旧近江商人 布惣跡>がある。

その先にある多賀大鳥居をくぐり、鳥居上川(太田川)に沿って東へ、多賀大社へ向かう。

 

       

                 高宮宿64 の町屋・宿駅<座・楽庵>                              

 

<高宮布の布惣跡>

高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として

珍重されていた。高宮細美とも近江上布とも呼ばれ江戸時代になってからも高宮はますます

麻布の集散地として栄えた。現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存している。 

 

 

 

高宮宿<旧庄屋―高宮布布惣跡>                       布類販売所 布屋<堤 惣平>

 

多賀大社

「お多賀さん」の名で知られる大社で、祭神である伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と

伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の二神を両親として、天照大神八百万の神々を生み出したと

古事記(日本の歴史)で伝えられている。

いのちを生むといえば、百人一首に見られるようにそこには男女の情を詠った幾多の古典文学を

この国は残してきた。

好きな一句を載せておきたい。

 

   《ちはやぶる 神の持たせる いのちをば 誰がたまにかも 長くほりせむ》 

                      柿本人麻呂

    ー神が支配する命なのだから 君以外のだれのために 長生きしたいと願うだろうかー

  

 

高宮宿64 常夜灯                       多賀大社

 

多賀大社から引き返して<多賀大社大鳥居>に戻った。

中山道に戻ると、右手に<芭蕉の紙子塚>、<高札場跡>、<脇本陣跡>、<問屋場跡>

を巡りながら、天皇滞在にあたって命拾いした止鑾松(しらんのまつ)のある<円照寺>に至る。

円照寺の向かいに<本陣跡>、<脇本陣跡>があり、その先に犬上川が流れている。

 

中山道は、犬上川にかかる<高宮橋>(無賃橋)を渡って、愛知川宿65 に向かう。

  

  <芭蕉の紙子塚> (かみこづか)

   《たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子》  芭蕉

 

貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を

描いてこの句を詠んだ。

小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を造り古い紙子を納めて<紙子塚>と名付けた。

(高宮宿街づくり委員会)

  

 

芭蕉の紙子塚>のある小林家跡                 高宮宿64 本陣跡

 

  

 三光山 円照寺 (寺門奥に二代目止鑾松が見える) 犬上川<高宮橋・無賃橋>を渡り愛知川宿65 へ

 

 鈴鹿山系を発した犬上川にかかる無賃橋を渡って、旧中山道はまっすぐ南へ延びている。

遠くに鈴鹿の峰々が霞み、水田にたむろする白鷺の姿が水面に映えて美しい風景を描いている。

 

<間の宿 石畑>

 風景を愛でつつ歩いているうちに近江商人の発祥の地の一つであり、伊藤忠家(伊藤忠商事)のある豊郷

に入る。ここは<石畑の一里塚>(日本橋より121里/484km)があったところで、現在の豊郷を

<間の宿 石畑>と言われた。

 江州音頭発祥地の碑>が建つ臨済宗千樹寺先の宇曽川にかかる歌詰橋を渡ると、普門寺裏に<将門首塚>

がある。

  

 

間の宿・石畑を経て愛知川宿に向かう             門首

 

 

中山道 一里塚の郷 <間の宿 石畑>             <石畑の一里塚>日本橋より121里

                                                            京へ14里/56km     

 

<不飲川 ―のまずかわ>

愛知川宿65 に、歴史から来た伝説の細い川が流れており、平将門の首を洗い、血で染まって水が濁って飲め

なくなったという<不飲川>がある。 先ほど立寄った宇曽川縁にあった<将門首塚>と関係がありそうで

ある。

 

  

将門の首の血で染まったという不飲川        間の宿・石畑宿の問屋跡                       

 

 

<愛知川宿  65>   中山道てくてく 日本橋より772km (立寄り地含む)

 

愛知川宿65 は、歌川広重の浮世絵<恵智川>の名前でも知られており、総戸数199軒・旅籠28軒の

中山道65番目の宿場であった。

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道 六十九次之内 恵智川』  (愛知川宿  65)

 

 近江商人の里>

 近江商人のルーツと言われる小幡商人は、ここ愛知川が発祥の地と言われている。

その中でも、ここ愛知川宿65 にある<てんびんの里 五個荘>は近江商人の地としての誇りを

保ち続けている。

<旧田中家住宅>は、麻織物商の田源の別邸で、現在は料亭<近江商人亭>として、

また、1758年創業の旅籠<竹平楼>も営業を続けている。

 

弥次さん(後藤)の祖々父と祖父の二代に渡って近江商人であった。

祖々父は彦根に、祖父は京都室町に本拠地を置き手広く湖東の糸偏を全国に販売していた。

母は祖々父の初孫であり、随分と可愛がられたという。商売を祖父に譲って隠居した彼は、まだ小さかった

母に近江商人について色々と話してくれたという。

近江商人の卵たちであった八幡商業高等学校の生徒たちは卒業前の1年間、大きな風呂敷一杯に長浜の縮緬

や、高宮の麻布、愛知川の麻織物など湖東産の布を包み、竹網におにぎりと梅干を包み、竹筒に水を詰め、

鳥居本の胃腸薬・赤玉神教丸を懐に忍ばせ、天秤棒を片手に日本組と東南アジア組に分かれて売り歩く

という卒業実習をさせられるのだという。

日本全国はもちろん、遠くはビルマ、タイ、ベトナムカンボジアフィリッピン満州、中国大陸と散っ

ていったという。

彼らは、八幡商業高等学校で学んだ三方よし」の精神を行商で実践して、体とこころに叩き込んだのであろう。

 近江商人士官学校と言われる八幡商業高等学校三方よしの精神>と、その溢れる情熱を八幡商業校歌

から見てみたい。

三方よしの精神>は、近江商人の思想・行動哲学であり、

その三方とは「売り手よし、買い手よし、世間よし」をさす。

          

 八幡商業校歌>

 漣清き鳰の海 その八景の岸近く 敷ける教の庭の中

望みあふるる青春の 健児日毎のいそしみは 邦と民との富の道

 

鵬の翼の延びざりし 鎖国の世にも大八洲 その隅かけて市とせし

父祖にな耻ぢそ東海の 潮一度舟乗せて 四海にいたる今の時

 

印度の珠玉アラビヤの 香も集めん南洋の 珊瑚琥珀も欧の西

送らん道や幾万里 潮と共に舟を駆る 貿易風の名もよしや

 

大魂ひとつ日月の 光遍く照るきはみ 自然と人と相待ちて

万の宝産むところ 皆わが領と心して 探れ扶桑の国の富

 

扶桑の国の富斯くと 宣らん健児の志 養う処漣の

近江の海の岸近き 教の庭に光栄の 景とこしへに照らしめよ

 

(詳細を是非お読みいただきたい;近江商人探究冊子 - 滋賀県立八幡商業高等学校

 

<天秤棒>が近江商人の代名詞であったことのその誇りと意気を感じるではないか。

宇曽川の歌詰橋を渡り、将門首塚に立寄り、先に進むと近江鉄道愛知川駅前あたりにある<豊満寺>、

脇本陣跡の碑>の先に<愛知川の一里塚跡の石柱>(日本橋から122里/488km)、<聖跡 竹平楼>

ある。

 

 

 

<愛知川の一里塚跡>                                         愛知川宿65 <聖跡 竹平楼>   

日本橋より 122里/ 488km)

(京へ13里/52km)                                             

 

中山道である県道220をまっすぐに南下すると、愛知川手前で国道8号線に合流して<御幸橋>を渡り、

常夜灯に迎えられて<五箇荘>に入る。

 

道標<右京みち・左いせ(伊勢)ひの(日野)八日市みち>の先に、近江商人らしい町並みが整然と並ぶ。

ここ五箇荘は、「正直勤勉」を掲げた近江商人の白壁と蔵の立ち並び、豊かな古い町並みが美しい。

ここ旧中山道と並行して走る国道8号線の西側にも五箇荘近江商人の街並みが広がり、

近江商人博物館>、<てんびんの里文化学習センター>や、近江商人屋敷<旧外村繁邸>があり、

興味深い。

 

<天秤の里> 五箇荘の古い街並みと水路                   

 

編み笠・合羽・天秤をかついだ近江商人銅像をみながら五箇荘の閑静な住宅街を通過すると、

東海道新幹線をくぐり<武佐宿66>に至る。そこには<奥石神社>が迎えてくれる。 

ここから現在の安土町を離れ、近江八幡市武佐<武佐宿66>に入って行く。 

 

中山道の街道沿いに、<鎌若宮神社>、秀吉の祐筆であった建部伝内ゆかりの寺<東光寺>、

<武佐神社>を経て、<高札場跡の碑>、<本陣跡>に至る。

本陣跡の前あたりに<町屋 大橋家>、<旅籠 中村屋>と続き、国道421号線をまたいだところに道標

<いせ三な口ひの八日市道>(伊勢水口日野八日市道)と、向かいの長光寺前に<愛宕山の常夜灯>がある。

 

ここ武佐宿66 で<同志社ローバースカウト創立50年記念中山道てくてくラリー>に区間参加する隊員・

梅田幹人氏(71年度生)と5月19日に合流することになっている。

当初、中山道てくてくラリーは多くの仲間と共に歩く計画であったが、ラリー直前の3月11に発生した「東北

大震災」により、急遽変更し、代表者だけが震災支援バナー「がんばれ東北」・「がんばろう日本」を掲げ、

震災支援カンパを募りながら実施することとなったことはすでに申しあげたとおりである。

 

弥次喜多の休養と、時間調整のため今夜と明日の夜は、露営から解放されてベットの上で安眠を貪ることと

なった。

ここ武佐宿66 で、明後日の5月19日朝8時30分に、区間参加隊員・梅田幹人氏と合流することになっている。

  

 

武佐宿66 高札場跡                武佐宿66 脇本陣

 

 

 

武佐宿66 本陣跡                 近江鉄道 武佐駅

                          (区間支援隊員・梅田幹人氏との合流場所)

 

 

 

 

■ 30~31日目 弥次喜多 帰宅してリラックス  

          休養・調整日 5月17~18日

 

 

    《満月に 完歩夢見る 願いかけ 弥次喜多はやる 心抑えし》  實久

   《とうとうゴール地点である三条大橋が射程範囲に入る近江八幡・武佐宿66 に到着した。

    19日朝9時頃、ここ近江鉄道武佐駅で梅田幹人氏と合流し、草津宿まで歩く。

    弥次喜多も仲間が増え大喜びだ。

    今日は不知哉川(いさやかわ)の河川敷サイトを午前6時半に出発。

    途中、中山道をそれて多賀神社に参拝する。

   『伊勢へまいれば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の子でござる』 

    弥次さんの曾祖父は近江商人縮緬問屋として手広く営んでいた。

    絶頂期にはここお多賀さんの馬頭人をつとめた程であった。

    また成功した近江商人の慣例であった財産の地元への寄付行為もなされた。

    彼の場合は彦根市民病院の敷地を寄付している。

    しかし、かかる繁栄は関東大震災による売掛金の未回収により長くは続かなかった。

 

    栄枯盛衰を見てきた天秤(てんびん)の里、豊郷・五箇庄を南下し愛知川宿を経て武佐宿66 に

    到着した。

    途中、雨に出くわし弥次喜多は濡れネズミだ。

    さて、19日に待ち合わせるとなると18日は調整日として休養することとし、弥次喜多は志賀の里、

    生駒の里にそれぞれ帰ることにした。母ちゃんに甘えたい。

    本日の行程は、24km, 10時間30分であった。19日は武佐宿66、守山宿67 を経て草津宿68 まで

    歩きたい。

    いよいよ最終章だ。

    おやすみ。 弥次喜多こと サネヒサ&ショウスケ 》

 

 

 

■32日目 中山道てくてくらりー <武佐宿66⇒守山宿67>

         18.0km/7.5h     5月19日

 

今日は、中山道てくてくラリ―区間参加隊員 梅田幹人氏(71年度生)を迎えるため、自宅で休養日を

終えた弥次喜多は、ここ武佐宿にある近江鉄道武佐駅に朝8時30分に再集合した。

近江八幡発、武佐駅8時43分着の八日市行電車が、ゆっくりと到着し、サハリルックの梅田氏がただ一人

降りてきた。 

ここは始発近江八幡駅の次駅なのである。

空は晴れ渡り、近江の穀倉地帯の麦畑が一面に波打っている長閑な風景が広がる武佐宿66 である。

 

 

 

      中山道てくてくラリー区間参加隊員 梅田氏を迎えて<若宮神社前で>歓迎式

 

嬉しいことに、出発時には出来上がっていなかった「同志社大学RS隊創立50年記念」Tシャツを

届けてくれた。

さっそく試着し、梅田氏をモデルに写真撮影をおこなった。

 

 

     

               同志社大学RS隊創立50年記念Tシャツ>

                                     Logo Design by Tsuneo Shinoda

 

           同志社大学ローバースカウト隊 1962~2011 創立50年記念 

                     中仙道てくてくラリーSanehisa & Shousuke 

                                東京・日本橋⇒京都・三条大橋 540k 2011年4月10日~5月21日

                                                                              がんばろう日本!

 

 

ここ武佐駅の東側に広がる田園地帯は、安土城址や柴田勝家の山城であった<瓶割山・別名長光城址

の遺構と共に、5~7世紀の<供養塚古墳・位蓮坊古墳・妙感寺古墳・千僧供古墳群・トギス塚古墳>が

点在する考古学エリアである。

 

近江鉄道武佐駅をでて、旧中山道武佐宿66 の桝形を南へ進むと国道8号線と合流する。

国道<六枚橋交差点>近くにある<住蓮坊首洗池>を過ぎると、源義家が奥州遠征の途上に武運長久を

祈願して造営したという<八幡宮>の家形鳥居を見ながら旧中山道は、国道を離れ土手を歩いて回り道を

行く。

このように、現在の旧中山道日野川に阻まれるため、国道8号の<横関橋>へ迂回するしかないが、

明治8年に橋が架かるまでは渡し船があったというから、この辺りは川街道としての風情が今でも残って

いるのである。

 

 

武佐宿66  高札場跡               八幡宮の鳥居

 

 

近江の穀倉地帯を埋め尽くす一面の麦畑       梅田隊員の旧中山道研究の姿

 

 

                     武佐宿66 の町屋

 

 

<鏡の宿 と 義経元服の地>

 日野川の<横関橋>を渡って、さらに天井川である日野川の支流・善光寺川をわたると

<間の宿 鏡>にでる。

ここには、国道8号線沿いに<間の宿 鏡>の宿跡があり、<道の駅 竜王かがみの里>がある。

 

この辺りは、古くから東山道(別名義経街道)が走り、<鏡の宿>があった。

平治の乱で平家が源氏を破り、平家一門の栄華を極めていたとき、源氏再興の夢を持って東北の平泉に

向かった義経は一人烏帽子を付けこの地<鏡神社>辺りで元服したと伝えられている。

 

 

 

中山道は迂回して<日野川横関橋>を渡る             道標<是より伊勢道・水口道>

 

善光寺川を渡ると、旧中山道には<旅籠 亀屋跡>、<旅籠 京屋跡>、義経宿泊跡の<白木屋>と町屋が続き、その先に<脇本陣跡>、<本陣跡>がある。

 

 

 

 

武佐宿66 善光寺川を渡る                     武佐宿66 旅籠 亀屋跡

 

 

 

武佐宿66 旅籠 京屋跡                      武佐宿66 義経宿泊の館跡(白木屋

 

 

 

武佐宿66  脇本陣跡                       武佐宿66 本陣跡

 

現在の<道の駅 竜王かがみの里>の先に、謡曲<烏帽子折>に出てくる<鏡神社>、と<義経元服の地>

とされる<義経 烏帽子掛けの松>がある。

16歳になった義経東山道を通り、東北平泉の藤原秀衡を頼って下向するとき、ここ<鏡の宿・白木屋>に

泊まり、一人烏帽子をかぶって元服したという言い伝えに、旅人は涙したに違いない。 

と思うだけで、謡曲<烏帽子折>が哀愁を帯びて脳裏を駆け巡るものである。

一度、youtube謡曲「烏帽子折」に耳を傾けるのもいい。

 

Youtube : <謡曲「烏帽子折」(えぼしおり):鏡の宿 義経元服ものがたり

 

 

 

鏡神社 と 謡曲<烏帽子折>             源 義経<烏帽子掛けの松>

 

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六拾九次之内 武佐」(武佐宿66)

 

野洲<ふじや>手作りの絶品豆腐に舌つつみ      手作り豆腐屋さんの野洲<ふじや>ご主人と

 

  武佐宿66 愛宕山常夜灯に迎えられ        国道8号線と別れ篠原神社より旧中山道に入る   

 

 中山道は、国道8号線と交わりながら南へ進むと<蛙不鳴池と呼ばれる平宗盛終焉の地>に出る。

 弥次喜多と梅田隊員は、篠原堤を歩きながら源平合戦の歴史談義に花を咲かせ、途中にある手作り

豆腐屋さん<ふじや>で 絶品の絹豆腐に舌つつみ。

愛宕山常夜灯に迎えられながら、篠原神社前から国道8号線を離れ、旧中山道を守山宿67 に入って行った。

 

途中、立寄った子安地蔵堂では、中山道てくてくラリーの最終地近しを祝って子供地蔵さん達による大合唱が沸き起こって、無事を喜んでくれた。

  

      

       子安地蔵堂で迎えてくれた子供地蔵さん達の祝いの大合唱で励ましを受ける

 

 

汗と埃をあらい流すため東海道本線野洲駅近くの守山天然温泉<ほたるの湯>に立寄ったあと、

今日一日同行三人を楽しんだ梅田氏を野洲駅に見送って、

今夜の露営地である野洲川の川原に午後6時30分に着いた。

すでに夕日は対岸の比良・蓬莱山にかたむき、その夕日が目の前にそびえる近江富士<三上山>を

赤く染めていた。 

露営地・野洲川での設営完了と共にすっかり夕闇に包まれた。

 

       

         <守山天然温泉 ほたるの湯> 滋賀県守山市吉身4-5-20  850円

 

  <▲32日目露営地   守山宿野洲川 河川敷でテント泊 ―5月19日夜>      

  

 

今夜の露営地 野洲川に到着した         設営と共にすっかり夕日が沈んだ野洲川

 

 

    《夕陽が野洲川の土手の影を少しづつ伸ばしている。

     河川敷に設営を終了した頃には、すっかり陽は沈み暗闇が訪れた。


     今朝8時48分近江鉄道武佐駅にリュックを担ぎ、トレッキングスタイルの区間参加隊員

     梅田幹人氏(71期生)が到着した。

     久しぶりの再会に弥次喜多と共に喜ぶ。

     話がはずみ歩行も進む。

     武佐宿66 を出て、とにかく次の宿場 守山宿77 をめざす。

     国道八号線と並行する中山道は交通量多く、気が抜けない。

     車両との対面通行で事故防止につとめる。

     国道を外れる中山道は人っ子一人いない静かな田舎道になり、われわれの笑いで満ちる。

     中山道に関する史跡、案内板は片っ端から写真を撮り、説明を読む。

     小学生の課外授業風景そっくりで楽しい。

     この区間には義経元服の地があり興味がわく。

 

     野洲の小堤(地名)では創業二百年の手作り豆腐屋さん『ふじや』の絹豆腐をいただく。

     まるで卵豆腐のように甘くて美味しい。

     ご主人は、柏木富士雄さん、まだお若いが伝統を重んじその製法を引き継いでおられるとのこと、

     うれしい出会いであった。


     今日は宿場間の旧中山道の風景を楽しんだ。

     田植も終わり、麦畑との調和がいい。

         《友来たり 見果てぬ夢や 麦畑》      實久

      《幾山河   越へし鈴掛   松並木》    實久

      《伝統の   手作り豆腐   絹の肌》         實久

     尽きないおしゃべりに花が咲き、あっと言う間に守山宿67 に到着。

     すでに陽は西に傾き、18キロ、7時間半の歩行に汗まみれだ。

                  温泉<ほたるの湯>に飛び込み汗と埃を流す。

     梅田幹人さん、共に歩いた中山道弥次喜多一生忘れません。

                  ありがとう。

                  到着式よろしくお願いします。


     篠田常生さん、われわれのために素敵な『中山道てくてくラリー』Tシャツありがとう。

     みなさんのご声援のおかげで近江富士・三上山の側まで帰ってきました。

     明日は守山宿を出て、草津宿を経て大津宿を目指します。

 

     おやすみ。

     弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介 》

 

 

 

 

            <中山道つれづれ川柳

              句 實久

 

         『 満月や 金星添い寝 かえる歌 』


      『 畦道や テント震わす ときの声 』


      『 鯉泳ぐ 垂井の池や やなぎ風 』


      『 蛙なく 田ぼにおぼろ 雲遮月 』


      『 お忍びの 姫街道や 里帰り 』


      『 首塚の ときの勝ち負け 関ヶ原 』


      『 ひとはみな おなじ数あり 浮き沈み 』


      『 弥次喜多も 不思議なご縁 梅ざくら 』


      『 星かげの ワルツ踊りし 弥次喜多や 』


      『 生まれきて 二五二八五日  京に立つ 』


      『 夢を追い 求めし三二日 活きと生き 』


      『 満足は ひとのこころの 物差しや 』


      『 おわり来て みなさん神と ふたり旅 』


      『 ありがとう こころ満たさる ここちよさ 』


      『 てくてくと 歩く姿や 神を追い 』


      『 ひとはみな もがき苦しみ 花咲かす 』

 

      『 無の風に 坐して舞いしや 関ヶ原 』

 

      『 鬨の声 蛙の歌と 混じりてや 』

 


    最後にわたしの大好きな一句、 

        『 姿より 香りに生きる 花もある 』

    そう、もう一句、 

        『 岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水は流れる 』

    ここ三上山(近江富士)を拝する野洲川河川敷野営地より芭蕉の一句

        『比良三上 橋架け渡す 鷺の橋』 芭蕉


    中山道てくてくラリー途上、書き留めた川柳を紹介させていただいた。

 

 

 

■33日目 中山道 <守山宿・野洲川原⇒大津宿・長等公園>

             21km/9h    5月20日

 

 

<守山宿 67>     中山道てくてく徒歩総距離810㎞  (立寄り先含む)

 

野洲川の河川敷に張られたテントが、朝を迎えてヒマワリのように朝日に向かって大輪を咲かせている。

その生き生きした姿に、喜びと安堵感と使命感、そして満足と達成感が出ているようである。

それは、われわれ弥次喜多もまた同じ表情を醸し出しているに違いない。

 

さあ、あと二日で京三条大橋である。

今日も中山道をしっかり歩き、東北の被災者の皆さんにエールを送り、日本橋からの街道を引き継ぎたい。

露営地撤収にも感謝と喜びの気持ちがひろがるではないか・・・

 

 

 

「京立ち守山泊まり」

守山宿67 は、京三条大橋を出立し、中山道東下りで江戸日本橋へ向かった旅人が最初に泊まった宿場であり、総戸数415軒・旅籠30軒が並ぶ大変活気にあふれた宿場町であった。

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六十九次 守山」(守山宿67)

 

 

    テントから見る中山道てくてく33日目の朝日だ (守山宿67 露営地 野洲川 河川敷にて)

 

 

 

             三上山<近江富士>をバック、に野洲川露営地を撤収する             

 

 

            同志社RS隊創立50年記念Tシャツを着ての出発 

     

 

中山道33日目(520日)午前7時 晴 近江富士(三上山)に見送られて、今夜の露営地である大津宿68

長良公園に向け出発した。 

中山道の守山宿67 の町屋を楽しみながら進むと<本陣跡>を経て、中山道錦織寺道の分岐にある

石造道標に出る。

 

 

 

守山宿67  本陣跡(推定)              守山宿67 の町屋
 

 

中山道 石造道標の読み方>

中山道のような街道の石造道標は、掟書きなどを掲げた高札場の一角に立てられたようである。

言い換えれば街道を往来する旅人や村民の目に付きやすい街道分岐の道標の近くに高札場を立てたと

言うほうが正しいと思う。

標準的な石造道標は、花崗岩で高さ1.6m、一辺30㎝の四角柱であった。

ここに建つ石造道標の刻字を見ると、

 

  

  • 中山道側の面に『右 中山道 幷 美濃路』、<右が美濃(岐阜)へと続く中山道で>、
  • 石柱左側面に『左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち』の文字が刻まれている。

   <左の道へ行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る1里(約4㎞)の

    錦織寺道であり、それに続く『こ乃者満ミち』は、びわ湖東岸の木浜港(大津への最短航路)へも

    通じる道であることを示している。>

  • また道標の建立者、年代は通常裏面に彫られていることが多い。 
  • この道標は1744年(延享元年)霜月に、大津の西念寺講中が建立したものであることがわかる。

 道標から、その地元の歴史をうかがい知ることができるので是非観察されることをお勧めしたい。

 

     

         昔の町屋風情を残す食事処<門前茶屋かたたや>   (守山宿67)

 

 

中山道もあと2里(約8km)で最終地の京三条大橋に到着する。

中山道は、草津宿68 で東海道と合流し、京三条大橋に向かうが、日本橋からの一里塚は129番目の

草津の一里塚>をもって終了する。

 

その前に再度、われわれ弥次喜多のリーディング・ランドマークとなった<一里塚>を見ておきたい。

 

 

<今宿の一里塚> 日本橋から128里/約512㎞

 中山道は、江戸日本橋を起点(0里/0㎞)として、1里/約4㎞を持って1区間とし、終点草津までに全部で

129か所の一里塚を築いて旅人や参勤交代、早馬・早籠などの公的サービスなどの基準や目安とした。

また、一里塚の上に榎などの樹木を植え、目印としてや日陰を旅人に供した。

現在では、道路事情や改良、道路の付け替えなどによりほとんどが移動や消滅にさらされたが、

<今宿の一里塚>は二代目の榎が立派に育ち、中山道でみられる数少ない現存一里塚である。

 ここ<今宿の一里塚>は、中山道128番目、 日本橋から128里、512㎞の一里塚である。

 

    

  <今宿の一里塚跡>              芭蕉句碑 「へそむらの」 大宝神社鳥居横

       (日本橋から128里/512㎞)   

       (京へ7里/28㎞)     

 

   今宿の一里塚跡より先に進むと、大宝神社鳥居横にたたずむ芭蕉句碑「へそむらの」が建つ。

 

       《へそむらの まだ麦青し 春のくれ》   はせを(芭蕉

 

   元禄3年(1690)、関東北陸方面を旅した帰りにここ綣村(へそむら)の立場に足をとどめ、

   旅の余韻と惜春の情を託して詠まれた句と言われている。

 

JR東海道本線と草津線が合流する高架トンネルをくぐって草津宿68 に入る。

 

        

            JR東海道・草津線下のトンネルを抜けると草津宿68

 

 

 

草津宿 68>  中山道てくてく 日本橋から徒歩総距離818㎞  (立寄り地含む)

 

草津宿68 は、中山道68番目の宿場として東海道52番目に合流する交通の要衝であり、旅人が草津宿

中山道組と東海道組に別れ、それぞれ江戸日本橋に向かった。

現在でも中山道東海道の追分道標が建っている。

 

天井川である<草津川隧道>(ずいどう・トンネル)の出口に、<高札場>と<東海道追分道標>が建つ。

  

 

草津川隧道(トンネル)を抜ける                         旧中山道旧東海道追分道標(最古)

 

 

隧道(トンネル)西側に建つ高札場跡      隧道(トンネル)東側に建つ現在の追分道標

 

草津追分(中山道東海道の分岐)近くに<尭孝法師歌碑>が建ち、当時の草津宿の風景が詠まれている。

 

 

<尭孝法師歌碑からみる当時の草津の風景>

 

        

                      尭孝法師歌碑

 

当時の草津は寂しい処であったようだ。

<将軍のお供で富士見物の途中、草津に寄ったが、草津は名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を想い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ>と詠んでいる。

 

   《近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなく》尭孝法師

 

歌碑の先には、<草津本陣>、<脇本陣>が続き、最古の追分道標がある<立木神社>がある。

さらに<草津川>を渡ると、化粧地蔵に見送られて進み、<野路の一里塚跡>に達する。

 

 

 

草津宿68  草津本陣                草津宿68  脇本陣跡(現在 そば処)

 

      

        草津川にかかる<やぐらばし>を渡る

 

 

<矢橋の渡しへの道標>

 草津宿の南に続く矢倉村には草津名物<うばがもち>が売られており、広重の浮世絵にも描かれている。

また、矢倉村からは対岸の大津宿に湖上から向かう渡し場<矢橋の渡し―矢橋湊>へと続く矢橋道が

分岐していた。 今でも道標が商店の軒先に建っている。

旅人は、大津宿に向かうにあたってここ<やばせ道>の追分で思案したそうだ。

俗謡でも、

   《 瀬田に廻ろうか矢橋に下ろかここが思案の乳母が餅 》と詠まれた。

 

ただ、渡し船が、比叡山からの強風にたびたび遭遇して欠航、遅延が多く旅人を悩ませたようである。

渡し船を使わないときは、時間はかかるが<瀬田の唐橋>を渡るのである。

「急がば廻れ」の語源は、

<醒睡笑>で、

  《武士(もののふ)の やばせの舟は  はやくとも  急がばまわれ  瀬田の長橋》

と詠まれているところからきている。

  

     

      <やばせ道> 道標

 

 

歌川広重画 中山道 『木曽街道六十九次・草津』  (草津宿68)      

 

 

歌川広重画 東海道 東海道五十三次草津』  (草津宿68) 

 

● 旧中山道草津の一里塚>  129里  (中山道69次の一里塚)                       

中山道最後の草津にある一里塚が所在不明(草津市大路井あたりか)であることは大変残念である。いつの日か近いうちに行政的に特定され、<草津一里塚跡>碑が建つ日が待ち望まれるのである。

 

● 旧東海道<野路の一里塚跡> 119里   (東海道53次の一里塚)

 

 

<野路一里塚跡>(旧東海道・上北池公園にある東海道一里塚跡 

 

旧東海道の<野路の一里塚跡>碑を上北池公園で見つけたあと歩を進めると、歌枕である<野路萩の玉川跡>

に出る。

ここには<平清宗の胴塚>が祀られている。

  

 

遠藤権兵衛家にある<平清宗の胴塚>        野路萩の玉川跡

 

<歌枕―野路萩の玉川>

ここ野路は、平安・鎌倉にかけて東海道の宿駅として繁栄したところで、源平争乱の時代には、多くの武将たちの宿陣となり、幾多の戦火を潜り抜けてきたところである。

ここ萩の玉川は、多くの歴史を秘め、日本六玉川の一つとして有名になり、都から多くの公卿や貴族、詩人が集まり多くの詩歌を読んでいる。

代表的な和歌をあげておくと、

 

  《あすもこん  野路の玉川  萩こえて  色なる浪に 月やどりけり》 源友頼

 

弁天池をあとに<大津宿69>に入って行く。出迎えの常夜灯に書かれた<ここから大津・東海道>の

文字が躍る。

大津宿69 最初の <月輪池の一里塚>(日本橋120里/480㎞・京へ5里/20km )と,

東海道立場跡>に出会い、いよいよ瀬田の唐橋に近づいた。

 

 

 

弁天池をあとに大津宿に入って行く(旧東海道)          常夜灯<ここから大津宿69>

 

                 

                       中山道・大津宿69 <月輪池の一里塚> 日本橋120里/480㎞・京へ5里/20km

                                 中山道てくてくラリー>における中山道最後の一里塚

 

 

大津宿入口(月輪)に立つ<東海道立場跡>の碑          大津瀬田に建つ道標

 

懐かしの<瀬田の唐橋>が出迎えてくれた

 

瀬田の唐橋と天下取り>

古代からここ瀬田の唐橋は、地政学的に天下取りの入口であり、要であった。

古代と中世の瀬田唐橋をめぐる攻防を見ておきたい。

 

672年、「壬申の乱」において、ここ近江(大津)にあった大友皇子の近江朝廷軍は、大海人皇子軍に瀬田唐橋の戦いで敗れている。

764年、「藤原仲麻呂の乱」では、仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐために、孝謙上皇軍が瀬田唐橋を焼いている。

 

この度の中山道行脚は、木曽義仲の生誕地である木曽海道をくだってきた。その義仲がここ瀬田宇治の戦い

でなくなっている。そして、これから参る義仲寺に木曽義仲の墓があり、巴御前芭蕉に囲まれて祀られている。

 

1184年、 源範頼義経軍が、ここ瀬田と宇治で木曽義仲軍と戦い、木曽義仲が戦死している。

1221年、「承久の乱」において、後鳥羽上皇がこの地でも鎌倉幕府とたたかっている。

1582年、「本能寺の変」が起こり、瀬田城山岡景隆が瀬田唐橋を焼き、明智光秀軍の安土城進撃を

     阻止している。

 

結局、東国より京に攻め入るときも、また西国より東国へ攻め入る場合でもどちらにしても、ここびわ湖にかかる瀬田唐橋を渡らなければならず、東の天王山でもあったのである。

 

               <広重画の浮世絵に、瀬田大橋を見る>

 

       

                  広重画 瀬田の唐橋近江富士を望む        

 

       

              広重画 石山寺より瀬田唐橋・比叡山を望む

 

 

 

<瀬田の大橋>―瀬田唐橋を制するものは天下を制するー   瀬田唐橋を渡って大津宿69 に入る

 

瀬田の唐橋についてはブログ<びわ湖一周自転車の旅>でも触れているので、立寄ってみてほしい。

2019『星の巡礼 びわ湖冬景色・老人自転車ひとり旅』⑤

 

その瀬田の唐橋を守っていたのが<膳所城>で、城址が現在の近江大橋の西詰にある。

 

        

                      膳所城址公園

 

瀬田の唐橋の防衛を担った膳所城址をあとに、旧中山道(兼・旧東海道)の町屋を進むと、<郷忍寺>、相撲川を渡り、<石坐神社>、<膳所城北総門跡碑>を過ぎると木曽義仲の墓・松尾芭蕉の墓、巴塚がおさまる<義仲寺>がある。

さらに歩を進めると京へ向かう<札ノ辻>の手前の西北角に<露国皇太子遭難地碑>が建っている。

 

 

  

大津宿69 の町屋                   義仲寺

                                      

<義仲寺 と 露国皇太子遭難之地>

 

  

木曽義仲公の墓            巴御前の塚      松尾芭蕉翁の墓

 

 

広重画 中山道「木曽海道六拾九次之内 大津」   (中山道 大津宿69)

 

広重画 「東海道五十三次之内 大津 走井茶店」 (東海道 大津宿53)

  

 

露国皇太子遭難之地の碑                             大津祭鉾 

 

 

           中山道てくてく33日目最終露営地 大津宿 長等公園に設営

 

 

<義仲寺>と<露国皇太子遭難地碑>についての案内は、今宵の露営地からの本部への報告の中で

行うこととして、テント設営予定の長等公園に急ぐことにする。

 

露国皇太子遭難之地の碑から、京阪電車京津線の走る<札ノ辻>に出て、西へ向かうと<大津日赤病院>

があり、その後ろの小高い山がお世話になる<長等公園>である。

今夜は、弥次喜多にとって「中山道てくてくラリー」最後の野営であり、ここ<大津宿長等公園>は最終

露営地である。

無事に旅を終えられることに感謝し、東北大震災の被災地に心を寄せて最後の夜を静かに迎えたいと思う。

 

 

 <▲33日目露営地  大津宿 大津日赤近くの長等公園にて>  

                            520日中山道てくてく最後の夜

 

 

   《朝日をバックにした近江富士(三上山)の幻想的なシルエットに声を失うほどであった。
       夜露に濡れたテント(外面)は、なぜか必ず内壁がべっとりと濡れている。

       ゴアテックスであるにもかかわらずだ。もちろんスリーピングバックもベタベタして

       気持ち悪い。

       出発を少し遅らせ、時間をかけて干すことにした。 


       
今日の大津宿69 に興味を持っている。

       一つはライフワークにしている『大津事件』である。

       二つには芭蕉の墓がある義仲寺である。


   <ロシア皇太子と大津事件

    先に掲載した写真は『此付近露国皇太子遭難之地』である。

    だいぶ酔ってきた。

    最後の夜となるので、設営を待ちきれず祥介君と互いを激励するパーティーにはいった。

    『玉の光』純米吟醸酒一合瓶がみるまに空となり、酔ってしまったようだ。

     (約2時間寝たようだ)

 

    さて、ロシア皇太子の件だが、1891年5月11日ニコラスアンドロブィッチ一行は

    琵琶湖遊覧のため大津訪問中(後のロシア皇帝ニコライ二世、ロシア革命で処刑された)

    遊覧のあと滋賀県庁で昼食を終え京都への帰途についた午後1時30分、警護にあたって

    いた津田三蔵巡査が突然抜剣して切り付けた事件をいう。

 

    少し解説を加えると、当時のロシアは一流大国であり、日本は三流劣等国、だいたい

     お分かりであろうが、日本としては大変な事態を招いたわけだ。

     首相は辞任、何度もお詫びの使者をつかわす。

    しかしロシア側は相手にせず帰国してしまう。

    すなわちロシア皇太子は大君として振る舞ったわけだ。

 

    日露戦争、ロシア赤軍革命と歴史に翻弄され処刑され、最後のロシア皇帝となった悲劇の

    人である。

    この大津事件は夜明け前の日本とロシア帝政の関係を知る上で貴重な事件であった

    といえる。

 

   芭蕉と義仲寺>

     つぎに俳句初心者として芭蕉はお師匠さんである。あの流れるような五七五、魅力的な

     言い回し、的確な描写、いままで誰も彼を越えられずにいる。あの『~の~や~かな』は

    彼の専売特許のようなものだ。

    芭蕉は余程に義仲(ぎちゅう)寺が好きだったようで、それは義仲(よしなか)の

    生き方に同情していたということと、当時の義仲寺は琵琶湖の湖岸に面した自然豊かな

    地であったことが古地図でわかる。(永年にわたる埋立により湖岸が遠退いたようだ)

 

    以上の二件、大津事件と義仲寺については、また機会があれば述べたい。

    明日に備えておやすみを言いたい。

 

    義仲寺にある芭蕉句碑を紹介しておきたい。

 

          『五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋』     芭蕉

 

                  『行く春や 近江の人と 惜しみける』               芭蕉

 

                  『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』   芭蕉

 

                  『旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る』     芭蕉辞世の句

 

 

    横で祥介君が『早く寝ないとあした大変だぞ』って。

    おやすみ。

     69番目の宿場、大津宿の長等公園の設営地にて。

    では、あすお目にかかりましょう。

       弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介 》 

 

 東北大震災の被災地・被災者への声援と祈りの旅も明日無事に終えられることに感謝である。

 

 

 

 

■ 34日目  中仙道てくてくラリー最終日

       <大津宿・長等公園⇒京都三条大橋・ゴール最終地 >
          15km/6H  5月21日
 

 

同志社ローバースカウト創立50年記念 <中山道てくてくラリー> 最終日を迎えた。

34日目、最終露営地 大津宿長等公園を5月21日8時30分出発する。

快晴、さわやかな朝である。

弥次喜多として、二人して苦難を乗り越えた喜びが、喜多さんの写真からも、弥次さんの日焼けから伝わってくるようである。 到着前に正装した弥次喜多のスカウトのユニフォーム姿が凛々しい。

 

                 最終露営地 大津宿69  長等公園にて

 

 

 

       到着前に正装した弥次喜多のスカウトのユニフォーム姿が凛々しい

 

 

 

大津宿69 <中山道69次・東海道53次 最終宿場>

                          <大津宿69  ➡  京都三条大橋>

         15km/6H

 

 大津宿69 は、東国からの京への玄関口であり、地政学的にも戦略上古代から要衝であった。

とくに、今歩いている中山道は、草津宿で、東海道が合流して大津・京都に至るという大動脈である。

 

 大津宿69 は歴史に翻弄され、歴史を眺めてきた静かにたたずむ宿場であり、総戸数3650軒・旅籠71軒

という大宿場であった。 

現在も大津は、静かな落ち着いた独自の生き方をしている点では昔と変わらない

 

その当時の宿場の賑やかさは、広重の浮世絵<木曽海道(中山道)六十九次之内 大津>にも表現されている。

大津宿69 をでて、<逢坂の関>を越えて京へ向かうのである。

東北地方からの米や耕作物、特産品が海路、敦賀を経由し、びわ湖を縦断して坂本や大津に荷揚げされ、牛馬で京大阪へ運ばれる情景もまた、広重の浮世絵に描かれている。

 

中山道69次 大津宿から琵琶湖に浮かぶ沖島を望む    

 

東海道53次 大津宿53 より逢坂の峠を越える

 

<大津聖マリア教会>に立寄り、弥次喜多による<中山道てくてくラリー>道中の無事に感謝するとともに、

東北の震災地で今なお全身全霊で被災に立ち向かっている方々の奮闘に限りない恵みがあるように祈って、

最後の旅路に着いた。

 

    

            大津聖マリア教会の聖句を胸に、京三条大橋へ足を向けた
 

2011年5月21日8時58分、<大津聖マリア教会>正面の宣教用掲示板に掲げられていた聖句を胸に刻み、被災し昇天された多くの方々の復活を願ったものである。

 

《わたしはよみがえりであり  命である。 

 わたしを信じる者は,  たとい死んでも生きる》

     ― ヨハネによる福音書11-25 ―

 

亡き母の愛した聖句を口にしながら、弥次喜多三条大橋へ足を向けた。

 大津宿69 から京へ抜ける逢坂に建つ<關蝉丸神社上社>、<逢坂山太子堂>にも無事の帰京を報告した。

 逢坂を上りきると逢坂山關址の石碑と逢坂常夜灯、そしてその石碑を取り巻く歌碑が歓迎の唄声を

弥次喜多に贈ってくれた。

特に<關蝉丸神社>に祀られている芸能の祖神とあがめられる、琵琶の名手・蝉丸がびわを奏で、和歌を

詠いながら弥次喜多を迎えてくれた。

 

 

     

                  歌枕・逢坂山の清少納言の歌碑

 

 

  ■<歌枕・逢坂山の歌碑>

 

    《夜をこめて  鳥のそらねは  はかるとも  よに逢坂の  関はゆるさじ》  

                   清少納言『後拾遺集

 

   ―夜がまだ明けないうちに、鶏の泣き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかく、

    この逢坂の関は決して許しませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ―

 

   《名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人にしられで くるよしもがな》   

                   三条右大臣『後撰集

 

   ―恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」、その名前に

    そむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを

    連れ出す方法があればいいのに・・―

 

    《これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関》     

                     蝉丸『後撰集

 

   ―これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、

    そしてここで出会うという有名な逢坂の関―

 

  

  關蝉丸神社上社                  逢坂山太子堂

  

      

                    逢坂山關址と逢坂常夜燈                     

 

 

 三条右大臣の歌碑                      蝉丸の歌碑              

 

          

                       關蝉丸神社

 

逢坂山の関、そこに意外な人が弥次喜多を出迎えてくれていた。

いや、弥次喜多にとって予期しない出迎い人であった。

 

同志社ローバースカウトOGOB仲間の<ウエルカムバック・サプライズ>であったのである。

創立50年記念Tシャツを着た<中山道てくてくラリー>支援本部長・村田紘一氏(64年度生)が、

仲間を代表して出迎えてくれたのである。

中山道69次 最後の区間をサポートしてくれるというのである。

弥次喜多は、その喜びにすべての疲れを忘れ、胸を張ったものである。

絆ある仲間はいいものである。

そこには安心と信頼と安堵がある。

 

昨日、大津宿69 、浜大津で迎えてくれた同志社ローバースカウト創立50年実行委員長  田中公郎(63年度生)・恵子(65年度生)夫妻をはじめ、中山道てくてくラリー最終地三条大橋で迎えてくれている多くの

仲間がいることに深い絆を感じるものである。

かけがえのない素晴らしい仲間に感謝である。

 

江戸時代には、ここ逢坂の関から追分にかけて土産物を売る商店や茶店などが立ち並び、京を出立する旅人

京に上ってきた旅人の人間模様で大変な賑わいであったという。

古来東海道中山道を行き交う旅人は、この地で休息をとり、<走り井の清水>でのどを潤し、<走り井餅>

を腹に納め、<大津絵・算盤・針>といった名産品を買い求めたのである。

 

 

 

元祖走井餅の碑            走り井の月心寺

 

 

<大津絵発祥の地>

大津追分にある<大津絵発祥の地>は、逢坂山の関から1里(約4㎞)京都側に下ったところで、現在の山科に入る前にある。

 

ここ街道筋にある大津追分(山科追分)は、大阪、奈良方面から伏見を通ってやってくる旧奈良街道

(旧伏見街道)がここで東海道中山道)に合流する分岐であり、交通の要衝であった。

「追分」とは、諸国の産物が行き交いその荷馬を追い分ける所からこの地名が由来したという。

 

現在の東海道国道1号線として、京阪電車京津線と並行して走っているが、旧東海道(旧中山道)は、逢坂

の関の分岐で右へ入り、下っていくので注意が必要である。

下っていくと京阪電車京津線<追分駅>前あたりに、醍醐から六地蔵を抜け宇治へと、京の都への分岐

<大津追分>がある。

入り組んだ京と大津宿の境にあり、京都と大津の土産屋が沢山並んで繁盛していたとある。

なかでも大津絵が人気があったようだ。

大津絵とは、大津宿で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道

旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。

ここ<大津追分>の「大津絵発祥の地」碑が建っている。

 

 

       

                大津追分にある大津絵発祥の地碑

 

三井寺観音(参拝)道>

出迎えの村田氏とわれわれ弥次喜多は、大津追分から下って山科へと入った。

その先に、大きな石柱に<三井寺観音道>(参拝道)と書かれた道標が目に付く。

 

この道は、現在の山科疎水が通る山を越えて大津に向かう<小関越え>との分岐であり、旧東海道大関

(逢坂の関)越えと西近江への小関越えの二つに分かれて大津宿に向かうことができたのである。

 

三井寺観音道は、三井寺への参拝道としてはもちろんだが、小関道として旧東海道の迂回路、間道、

西近江への近道として利用されたのである。

時間を見つけて散策されることお勧めする。 股旅や、山賊に出会うかも・・・

 

昨夜、<中山道てくてくらりー>最後の露営地となった長等公園の近くに<小関越え>の京への大津側上り口があった。

ここ重要分岐には、<定飛脚問屋>が置かれていたという。

 

   

              三井寺観音(参拝)道と旧東海道との分岐道標 

          (中山道てくてくラリー最終区間エスコートしてくれた村田氏)

 

また、大津港から<逢坂の関>を越え京に向かって、旧東海道には荷馬車のための便宜・配慮として石畳みが敷かれていた。逢坂山の関跡には、二本の轍の溝が認められる石畳みが展示されている。

 

 

 逢坂の関跡にある車石の轍跡            車石に使われた荷馬車の木製車輪

 

 

<伏見六ぢざうみち>道標  と  井戸水

 京都に入る際の厄除けの場所であった山科六地蔵徳林庵の六角堂の西南角に旧東海道に面して道標

<南無地蔵O>が建つ。側面には<伏見六ぢざうみち>とあり、伏見六地蔵方面への分岐であることが

わかる。

ここは、東海道中山道を行き交う旅人に井戸水を供した御休み処であり、京へ入る前の厄除け、

見繕いのための御休所でもあったようである。

 

 

徳林庵の六角堂にある南無地蔵O碑と井戸             <伏見六ぢざうみち>への分岐

                           (現在の六地蔵方面へ)

 

 

<五条別れ道標>

出迎えの村田氏と、われわれ弥次喜多は、<五条別れ>の分岐で、道標<右  三条通>に従って西へ向かって

歩き続けている。

この道を進めば多くの仲間が待ち受ける京都三条大橋に着くのである。

目の前には京の山、東山がその優しい山姿を横たえ、われわれを優しく迎えてくれているではないか。

「ヤッホー帰ってきたよ!」

  

 

可愛い地蔵尊に迎えられ京都に入る                五条別れの三条通りを西へ向かう

 

 

<東山を越えると、そこは京である>

東山の隘路である日ノ岡から蹴上を越えると、京の都に入る。

ここには、大津港からの荷駄を運んだ運搬車に米俵を積んだ当時の情景を復元している。

石の表面に轍道をつけた古い車石も展示されている。

ここは、京阪電車京津線が走っていたところで、地下鉄化によって廃線となり、モニュメント広場として

利用されている。

小中学生の頃には、電車に乗って蹴上を曲がり込んでいく軋む車輪の音を楽しみながら大津の柳ケ瀬

近江舞子、遠くは白髭水泳場まで、浜大津江若鉄道に乗り換えて、胸を躍らせて水泳場に向かっ

たものである。

今はもう、あの昔懐かしい電車に乗ってわくわくした少年の思い出は遠くへ行ってしまったようで寂しい

限りである。

しかし、いま弥次喜多は、まるで夢をかなえた少年のように浮き浮きした気持ちを抑えられないでいる。

約40日にもおよぶ長旅を踏破し、無事終えようとする昂揚に、酔いしれているからである。

蹴上にあった都ホテルもいまはない。

時は流れるものである。

 

そして、人の想いも朧(おぼろ)になり、記憶は美しく飾られて心の引出しに仕舞われるのである。

弥次喜多の<中山道てくてく>も、100年後の後輩たちが、我々の夢を語り、新しい冒険の旅へ旅立って

くれることを夢見ているのである。

            

 

     

              蹴上にある古き陸送の展示モニュメント広場

          

 

蹴上を疎水沿いに下ると平安神宮である。

仲間の待つ到着式に出席するため着衣を正し、指定時間を待った。

到着式は、三条大橋の下、鴨川の河川敷で15時より行なわれるという。

 

同志社ローバースカウト創立50年記念<中山道てくてくラリー>の到着式をもって、

われわれ弥次喜多の立寄り先を含めた中山道踏破総距離897㎞の珍道中は終わるのである。

なお、日本橋三条大橋間の中山道標準距離は550㎞であるから、いかに弥次喜多が好奇心を持って、

活動的に動き回ったかがわかる。

 

中山道てくてくラリーを終えるにあたって、ご支援いただいた多くの方々、スタッフの一人一人に感謝の

気持ちを伝えたい。

みなさんのお陰をもって、我々は無事ゴールの任を果たしたことをここに報告するものである。   

感謝合掌 

弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介

 

 

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    中山道てくてくラリー到着式を迎えて>  最終本部通信連絡

 

     《 美しい浅緑に囲まれた大津宿にある長等公園には木漏れ陽がさんさんと射し込んでいる。

     とうとう「中仙道てくてくラリー」も最終日を迎えたのだ。

     小鳥たちや谷間のせせらぎも祝ってくれているかのようににぎやかである。

     天気よし、体調よし。

     8時30分最終露営地・大津宿にある長等公園を出発、ゴール地点・京都三条大橋をめざす。

     逢坂山の守護神『蝉丸神社下社』を詣で、道中の無事を報告。


   
『これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関』  

               (関蝉丸―百人一首の盲目の歌人


  
 『花濃以呂は 宇つりにけり いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』  

                (小町塚―小野小町の歌碑)

 

     わたしも一句、


   
弥次喜多の 熱き想いを 背負いつつ 越えし逢坂 京に入るらん』 實久


  
 『半世紀  ながれしときや よみがえり  熱き血潮に 青春やどる』   實久



        9時半ごろ、逢坂の関跡で「てくてくラリー」村田支援本部長の出迎えをうけ、

             大津宿69 より京都三条大橋まで弥次喜多と一緒に歩くこととなった。


             逢坂を下ると左手に苔むした涼寂の寺、走井の庭園で有名な月心寺がある。


     
『走井の かけひの水の すずしさに 越えもやられず 逢坂の関』    

                                                                       (清原元輔



    語らいつつ平安神宮で休憩、安堵からか京がまぶしい。

    いよいよ凱旋だ。

     最終地 三条大橋への途次、 弥次喜多・後藤實久&田中祥介》

 

  

  <三条大橋弥次喜多到着セレモニー>

     《3時15分 写真担当・高間信和氏(71年度生)の先導で弥次喜多は夢にまで見た三条大橋を渡る。

     到着式会場である河川敷には、到着式プロデューサー梅田幹人氏(71年度生)と故 小山康子女史

   (76年度生 2020年10月14日没)の掲げる歓迎横断幕がかかげられている。 

     弥次喜多コンビ、後藤實久と田中祥介が大きな拍手に迎えられ、フィニッシュ・テープを同時に

     切った。

     弥次さんと、夫人の押す車いすに座った喜多さんの両名に 西村豊子OGOB会副会長(61年度生)

     から花束を贈られ、一段と拍手が高まる。
 

   その中に、『やった! よくやってくれました!』と固い握手をかわした篠田常生OGOB会長

    (62年度生)。

   前日の大津宿・浜大津に夫婦で出迎えてくれた田中公郎(63年度生)OGOB会幹事長と恵子

    (65年度生)夫妻。

   翁の笑みで優しくゴールを祝ってくれた上嶋洋誉氏(63年度生)、

   ブログ担当として毎日の天気予報とエールを送信し続けてくれた西脇英司氏(73年度生)、

   アメリカ・ニュージャージの我が家に泊まった懐かしの故 桂 茂樹氏(72年度生)、

   夫をサウジアラビア送り出している岡本容子女史(76年度生)、

   同志社マークのついた三笠焼をもって馳せ参じてくれた草野裕司氏(84年度生)、

   そして家族の顔がみえる。

   中山道てくてくラリー最終区間を先導し、一緒に歩いてくれた村田紘一支援本部長(64年度生)が

   たえず弥次喜多にあたたかく寄り添ってくれた。感謝である。


   式後、高山彦九郎銅像前で<中山道てくてくラリー>最後の東日本大地震募金活動をおこなった。


   ビアホール・スーパードライでの打上げ会には、安中教会での献花式に出席してくれた

   故 藤見昌憲氏(てくてくラリー責任者・2022年11月12日没)も顔をみせ、

   『てくてくラリー IN 中山道』は無事幕を閉じた。 

   仲間みんなで成し遂げた中山道踏破の偉業である。

   共に喜びたい。


   感謝合掌 

   弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介 》

 

 

 

 

              中山道てくてくラリー京都三条大橋 到着式

 

 

 

          OGOB会 西村豊子副会長より歓迎の花束を受ける弥次喜多

 

 

 

 

東北大震災募金活動        50年前日本橋に到着した仲間たち

 

また、ここに55年前の「同志社大学ローバースカウト隊中仙道徒歩旅行」を踏破し、日本橋

到着したときの精悍な隊員たちの一枚の懐かしい写真がある。「道を歩く」仲間たちである。

半世紀と言う50年の時を越え、共に祝いたい。

 

 

           高山彦九郎像前での<東北大震災>最終募金活動

 

 


  <中山道てくてくラリー踏破 到着のご報告と御礼> 

   親愛なる同志社ローバースカウトOGOBのみなさんへ

    道中、お世話になったみなさまへ

 

   三指  江戸日本橋を出発し、550キロを踏破、34日ぶりに京都三条大橋に無事到着いたしました。

   まずは神に感謝の祈りをささげたいと思います。

   この試練の機会を与えてくれました『同志社大学ローバースカウトOGOB会』に、

   この冒険を許してくれたワイフと家族に、

   中山道てくてくラリー・安中わくわくランド・献花式を支えてくれた仲間に、

   兄弟姉妹としてお迎えいただいた安中教会の江守牧師はじめ教会員お一人おひとりに、 

   とくにお世話いただきました真下さま・田島さまに、

   そして道中 励ましの言葉をかけていただいた数知れない方々に、

   今回の被災地・被災者にエールを贈るため「同じ環境での生活条件・募金活動・祈りの実践」を

   提唱した喜多さんである田中祥介君に、

   また色々とご相談にのっていたたいた新島学園宗教部長・小栗牧師に、

   そのほか数知れないお世話になった方々に対して、

   『同志社大学ローバー隊創立50周年記念・中山道てくてくラリー』参加隊員一同 こころより

   感謝申し上げる次第です。

 

   みなさまのお陰をもちまして半世紀前に実施されました同志社大学ローバー隊員による

   第一回中山道徒歩旅行の復路を50年ぶりに踏破できましたことここに厚くお礼を申し上げ、

   ご報告とさせていただきます。


   ありがとうございました。

   弥栄 感謝 

   同志社ローバースカウト中山道てくてくラリー隊

   ペンネーム 弥次喜多
     復路隊長    後藤實久
     副隊長     田中祥介 (病床にあるため写真参加)
     区間支援隊員  村田紘一
     区間支援隊員  梅田幹人

   


               ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

  <弥次喜多万歳記ー御礼> 

 

  「後藤さま

   昨日は、本当にありがとうございました。
   『一緒にゴールしよう』 と言っていただき、本当に祥介は幸せ者です。

   ちっとも歩いていないのに・・・

   相槌も打たない写真に、弥次喜多コンビとたくさんたくさん話しかけて頂き、

   本当にありがとうございました。

   多くのOB・OGの皆さんが集まってくださっていて、祥介にいっぱい声を掛けていただいたこと、

   本当に感謝感激です。

   祥介のリアクションが今ひとつであったことは、お許しください。

   初めてのドライブで座った姿勢で長時間揺れたこと、天気が良く車中少し暑かったこと、

   ドライバーの方が不案内で少し道に迷われたこともあり

   『別のルートが早いのに…』、

   『15時に着けないんじゃないか?』と

   気をもんでいたこともあり、三条大橋についた時は、少々疲れていたのだと思います。

   皆さんにたくさん声援を頂いて元気が出たのか、帰路の車中は行きに比べ楽そうな表情で、

   自宅に立ち寄り、

     17時20分頃病院に到着しました。

   『疲れた?』    『ハイ(瞬き2回)』

   『行かなければ良かった?』   『・・・(瞬き無し)』

   『行って良かった?』   『ハイ(瞬き2回)』 

   『その割りに、いい表情するとか、涙を流すとか、リアクション薄かったよ。

    もっと修行せなあかんね?』 

      『ハイ(瞬き2回)』

 

   今日は、昨日の疲れも無く、もちろん熱を出すことも無く、元気にしていましたので、

   ご安心ください。 

   祥介が、メールをして「よろしく」伝えてほしいと言っていました。

   彼もうれしくて、うれしくて、ありがたく思っているのですが、自分の思いを表現したり

   伝えたりする術がまだまだで、本当に申し訳ありません。

   飽きずに、どうぞ、今後もよろしくお願いします。

   後藤さまも、お疲れが出ませんよう、十分休養をおとり下さい。

   本当にありがとうございました。 

   田中祥介・裕美」

 

 

       中山道てくてくラリー到着式での、喜多さんこと田中祥介氏と裕実夫人

 

          ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

  

      中山道てくてくラリー途上、つれづれに画き綴ったスケッチを添えておきます。

 

 

             

       中山道てくてく・つれづれスケッチ集>

 

             ー中山道の風景―

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

        

                   中山道 東京日本橋出発式 

                    (安中教会献花式出席途上)

 

 

 

                                                

                中山道<満月の夜>弥次喜多天体に遊ぶ

 

 

                                                                        

                    中山道は桜爛漫であった

 

 

 

              中山道 松井田宿⑯ 天を衝く裏妙義の峻峯①             

 

 

 

                      裏妙義の霊峰②

 

 

 

                 中山道 本庄宿⑩ 金鑚神社の狛犬

 

 

 

                   中山道 桶川宿⑥ 畠村家土蔵      

 

 

 

       

                   深谷宿⑨ 清心寺門前 馬頭尊

 

 

 

       

                    本庄宿⑩ 疊秀山開善寺 <看却下>       

 

 

 

                

                  中山道 松井田宿⑯ 妙義山連峰

 

 

 

                   中山道 松井田宿⑯ 名峰 妙義山  (by  T.S.)               

 

 

 

                       

                                                             中山道 軽井沢宿⑱ 霊峰・浅間山

 

 

 

         

                 中山道 塩名田宿㉓ 馬頭観世音      

 

 

 

       

                  中山道 和田宿㉘ 馬頭観世音

 

    

 

       

               中山道 追分宿⑳ ゆうすげ(夕菅)の花     

 

 

 

                 中山道 和田宿㉘の段々畑の風景 

 

 

                         

                中山道 塩尻宿㉚ 諏訪湖の雨風情

 

                           

 

                   中山道 塩尻宿㉚ 乗鞍連山

 

 

  

                中山道 福島宿㊲ 御嶽・乗鞍方面の眺望            

 

 

 

                  中山道 福島宿㊲ 木曽駒ケ岳

 

    

   

                  中山道 馬籠宿㊸ 恵那山の雄姿 

 

 

 

        

               中山道 須原宿㊴ 旅人のオアシス<水舟>     

 

 

 

                   中山道 馬籠宿㊸ 旧街道                 

 

 

 

       

                  恵那山麓で見つけた奇妙な花たち

 

 

 

 

       

             中山道 新茶屋の一里塚83里 と 信濃美濃国境石碑     

 

 

 

             中山道 柏原宿60 JR柏原駅寄りの伊吹山眺望          

 

 

 

                中山道 守山宿67 近江富士<三上山>

 

 

 

 

                                         ここに、2011

                同志社ローバースカウト創立50年記念事業

                中山道てくてくラリー>踏破の記録を残す

 

                                                                 

 

 

          長文の通信記録・旅日記をお読みいただき有難うございました。

 

                   弥次喜多コンビ 

                 弥次さん    後藤實久(60年度生)

                 喜多さん 田中祥介(79年度生)

 

 

 

 

 

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

同志社ローバースカウト50周年記念関係資料集>

 

 ■ 中山道てくてくラリー到着式・募金活動プロジェクト責任者 報告>

 

   「いつもお世話さまです。5月21日の到着式・募金活動にお集まりいただいた皆様

    ご苦労さまでした。

    東北大震災義援金日本赤十字社へ金額 56,139円を送金しましたことを報告します。

    募金活動プロジェクト責任者  梅田 幹人」
  

   「梅田幹人さま

    義援金56.139円を日本赤十字社へご送金いただいたとのこと、ありがとうございました。

    これで『中山道てくてくラリー』の目的の一つ「東北大震災義援金募集」が完結したことになり

    隊員一同喜んでおります。

    中山道てくてくラリー隊長 後藤實久」


       

                 東日本大震災募金活動

 

 

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 ■『中仙道てくてくラリー』 支援者

 

    

            <てくてくラリーin 中山道>到着式にて

                      京都三条大橋

    (後左) 西村・篠田・田中公郎・草野 〇 小山 〇 桂・後藤・上嶋・梅田各氏 〇  

    (中左) 田中祥介氏夫人裕子さん・田中恵子氏    〇 〇

    (前左) 村田・田中祥介・後藤家族    〇 〇

 


 

         西脇・西村各氏              長岡・後藤・佐伯各氏(出発式 日本橋)                       

                 

            

                 後藤・長岡・藤田(73)各氏 <出発式・日本橋

                                 

 

■ <50周年記念 中山道てくてくラリー支援隊メンバー> (敬称略・順不同)


長岡 一美  64期生  出発式担当           東北関東大震災情報提供
村田 紘一  64期生  安全対策担当          大津宿⇒三条大橋徒歩区間参加隊員
藤見 昌憲  65期生  中仙道てくてくラリー企画担当  わくわくランド安中/献花式参加
梅田 幹人  71期生  震災募金・到着式・打上げ担当  須原宿⇒守山宿徒歩区間参加隊員

小山 康子  71期生  到着式担当           京都三条大橋到着歓迎プログラム

高間 信和  71期生  到着式担当           京都三条大橋到着歓迎写真記録
西脇 英司  73期生  HP運営管理担当        ブログ管理・気象情報/コメント提供
佐伯 直幸  79期生  わくわくランド安中企画担当   東北関東大震災情報提供
桑原 和則  79期生  安中教会/新島旧邸献花・挿花指導 献花式主宰・わくわくランド参加
田中 公郎  63期生  アドバイザー          大津宿出迎え・創立50年実行委員長
田中 恵子  65期生  会計              大津宿出迎え
黒木 保博  69期生  アドバイザー(同志社関係対応) 安中教会 /献花式記録
西村 豊子  61期生  アドバイザー          安中教会 /献花式・OGOB副会長
篠田 常生  62期生  アドバイザー(BS関係対応)   ラリーTシャツ図案/制作・OGOB会長
田中 祥介  79期生  徒歩部隊副隊長 (喜多さん) バーチャル/写真参加・夫妻(裕美)で到着式参加
後藤 實久  60期生  徒歩部隊隊長  (弥次さん)  踏破記録・ブログ通信・メール送受

 

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

■ <同志社ローバースカウトの50年>   (『同志社タイムズ』2011年7月15日、668号7面寄稿文より)

 

               1961 同志社大学ローバースカウト隊 結団式

                     同志社教会前にて                            

 

 

いまから半世紀前、1962年6月同志社大学ローバースカウト隊がまず発隊し、つづいてレンジャースカウト隊が結成され、同志社スカウト同好会が誕生した。

今年は創立50年をむかえ、記念イベントである『中仙道てくてくラリー・安中わくわくランド・新島襄先生記念感謝献花展』がもたれた。

『中仙道てくてくラリー540km』の二名の隊員(60後藤實久・79田中祥介)が、4月10日東京日本橋を出発し、32日間の徒歩旅行をおえ、5月1日仲間の出迎えをうけ、無事京都三条大橋に到着した。

到着式後、有志による街頭での大震災募金を呼びかけ、日本赤十字社をとおして被災地に贈った。

三条河原町ビヤホールスーパードライでの打上げ会には篠田・村田・田中公郎・西村・西脇・高間・桂・早野・小山康子・岡本容子・田中恵子・藤見の各氏と私が出席し、50年の流れに花を咲かせた。

50年前、わが同志社ローバーの武士(もののふ)28名が京都三条大橋を発ち、東京日本橋に立った。 踏破の歓喜、灼熱に打ち勝った精悍な面構え、青春の血潮のうねりに陶酔した一瞬であった。 

第一回徒歩旅行で燈された永遠なる同志社ローバーリングの光を五十年ぶりに京に持ち帰りたいという願いから「中仙道てくてくラリー」(復路)が実施された。

途中、5月3~5日 新島襄先生出身の安中市において『安中わくわくランド』(スカウトOGOB親睦会)がもたれ後藤・西村・桑原夫妻・黒木・藤見・稲井・堀越夫妻・田中祥の各氏が集い親睦をふかめた。

この間、桑原專慶流第15世家元・79桑原仙渓氏による安中教会での「新島襄先生記念感謝献花式」が湯浅新島学園理事長ご夫妻をはじめ多数の出席者をえて、75江守牧師の司式によってもたれた。

また、新島旧邸での献花や、教育館での出席者持参のお花を使っての家元指導による活花教室が華やかに催された。 東北大震災の直後のことでもあり、被災地・被災者への鎮魂の意味を込めて実施された。

11月19日に行われる京都・新島会館での「同志社スカウト同好会創立50年記念式典」には全国から多数のOGOBが参集し、ともに祝うことになっている。

 

 

同志社スカウト同好会に関する資料

ボーイスカウト京都第43団青年隊(ローバースカウト隊)は、 1961年6月、有終館2階204号教室にて結団式が行われ、同志社教会にて祝祷、記念撮影会がもたれた。

団隊組織として、 育成会長・八木清(当時BS京都連盟理事長)、団委員長・長谷川凡次郎(法学部教授)、隊長・佐藤義雄(弁護士)、副隊長・井上哲士(54期生)、団委員・生島吉郎(同志社本部監理部長)、同 田淵潔(同大教授)の諸先輩のご協力、参加をえて結団された。

このたび同志社ローバースカウトは、創立50周年記念を迎え、記念事業の一環として、50年前、発団当初に行った「中山道徒歩旅行」 京都三条より東京日本橋の530kmを折り返す形で「中山道530kmてくてくラリー」を行うことになった。

出発直前の、2011年3月11日東北大震災が発生、多くの痛ましい犠牲者や行方不明者を出すことになった。

4月に予定していた「中山道530kmてくてくラリー」の実施を取りやめることも検討されたが、被災地東北を支援することで立ち上がり、義援金募集と「東北がんばれー」・「がんばろう日本」のバナーを掲げて被災者との連帯をしめす事となった。

また、記念事業終了後、被災地に赴き奉仕と被災者の追悼慰霊をすることとなった。

 

 

同志社ローバー50年記念に関する新聞記事

 

 ◎『同志社タイムズ』2011年7月15日、668号7面、タイトル『同志社スカウト同好会50年記念』、

   同志社タイムズ社ホームページにて無料閲覧できます。


 ◎『上毛新聞』2011年5月18日号19面、タイトル『新島襄に感謝し生け花 安中』、

   上毛新聞社ホームページにて有料閲覧できます。

 

       『上毛新聞』2011年5月18日号19面、タイトル『新島襄に感謝し生け花 安中』

 

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        ■ 同志社ローバースカウト50周年記念  《わくわくランド IN 安中》

               《同志社ローバー50年記念事業 資料>  

                (東北大震災に伴い一部未開催―)

                起案者 :佐伯直幸(79年度生)

 

大変残念ながら、東北大震災における沢山の失命・被災者の痛みに寄り添うということで、一時、すべての50周年事業を断念してはということは、すでにご報告したとおりです。

議論を重ねるにつけ、50周年記念事業のうち、<感謝献花式>と<てくてくラリー>を被災者に寄り添った行事に重ね、被災者への祈り場、支援の場とすることに決しました。

《わくわくランド IN 安中》でのOGOB会による、50周年を祝う全国規模の親睦会は、残念ながら未開催と決まった次第です。

ここに、未開催となった幻のご案内を、50周年における活動報告の一部として掲載しておくことにします。

 

 

            ご  案  内    

     同志社ローバースカウト創立50年記念事業

     新島襄先生献花式 in 安中 および OGOB大会

 

1.日時 平成23年5月4日(水)~5日(木)    

2.場所 5月4日10:00-13:00 献花式 : 安中教会 (安中市安中3-19-10 027-381-0680)  

15:00-      碓氷峠くつろぎの郷(安中市松井田町坂本1258 027-380-4180)

                          JR信越本線横川駅よりトロッコ列車もしくは徒歩1h 

5月5日 10:00       解散     

3.参加費   10,000円 OB本人  8,000円 ご家族大人    4,000円 ご家族子供 

           5,000円 現役RS     

4.持ち物 : 同志社RSチーフおよびリング、寝巻き、タオル、洗面用具、着替え  

  1. スケジュール

5月4日   10:00     安中教会に集合 JR安中駅よりTaxiで10分  

                 10:30~   新島襄先生 感謝記念献花式/献花展   

                           桑原専慶流家元 桑原仙渓氏による献花   (79期生)

                 12:00~    安中教会の方や一般鑑賞者を交えての茶話会(昼食)

                           家元によるいけばな教室 <教会員および同志社ローバー大会出席OGOB>

                 13:00      安中から横川へ移動    

                           JR安中駅発 12:34、13:24、14:31、15:20、16:05 

                           もしくは自家用車に分乗    

                 碓氷峠くつろぎの郷(横川)でのプログラム  日本駅伝発祥の地「碓氷峠往復トレッキング」    

                 15:00      くつろぎの郷コテージチェックイン  &  温泉入浴「くつろぎの湯」 

                 17:30      くつろぎの湯内のレストランで同志社ローバー創立50周年記念大会 & 夕食

                 21:00      コテージにて大懇親会    

                           プロジェクターを持参します。  上映会をしましょう 

                           皆さんの日ごろの活動の写真、動画をお持ちください 

                           (写真データはUSBメモリー、SDカードで持参ください)

5月5日 07:00       起床、朝食     

                10:00 チェックアウト、解散    

  1. 前泊(5月3日)宿情報 : 遠方より参加される場合、前泊をおすすめします

        ご参考までに安中市内のお宿をご紹介しておきます。

        かんぽの宿・磯部(磯辺温泉)』 027-385-6321

        国民宿舎 裏妙義』  027-395-2631                                   以上

 

 

 

          ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

          ■ 資料 : 同志社大学ローバー・レンジャー50年記念ポロシャツ

                                           ( デザイン・制作責任:記念ポロシャツ制作委員会)

 

        

       

                  (訂正 創立年は1961です)

 

 

          ■資料 :同志社大学ローバースカウト隊 創立50年記念

                中山道てくてくラリー 記念Tシャツ

            ( デザイン・制作責任者:篠田常生)

 

       

                  記念Tシャツ 表

   

       

                  記念Tシャツ 裏



 

       -------------------------------

 

■<東日本大震災鎮魂慰霊の旅>

11月19日の同志社ローバー創立50年記念式典が無事終了したのを機に、被災地・被災者との連帯・絆をとりつつすすめてきた創立記念イベント『中仙道てくてくラリー』および お亡くなりになられた多くの方への鎮魂の献花式ともなった『新島襄先生感謝記念献花式』(安中わくわくランド・安中教会・桑原仙渓献花・79期生)の報告と、御礼そして鎮魂慰霊の旅をこのたび終えることができた。

ここに同志社大学ローバースカウト隊創立50年記念式典参加OGOBおよび現役一同の名のもとに、2011年21日~26日 大船渡・陸前高田気仙沼南三陸町石巻・松島・塩釜・福島の各被災地にて鎮魂の慰霊祭を終えたことをお伝えする。

(中仙道てくてくラリー弥次喜多  後藤實久&田中祥介記)

 

        

                 被災地慰霊 鎮魂誓願

 

      慰霊 東日本大震災の御霊を鎮魂す 2011/11/23 同志社ローバースカウトOGOB一同

                       大船渡港にて
 

 

 

                   東日本大震災 御霊にささぐ>
                 2011年11月24日0:45a.m.大船渡港にて 

                       詩 後藤實久

  

                      『君想いて酒に溺るる』

                われ酒を酌みて   君たちの無念を想ふ
                われ己を飲みて   君たちの昇華を願ふ
                永遠の命識りて   君たちを天国に誘ふ
                主そこにおわし   君たちを迎へ抱擁す
                すべてを浄化し   君たち栄光に生きよ
                ああ君たちをや   送らんと酒に溺るる

 

 

                    『君よ安らかに眠りたまえ』

                   君よ往け 君の愛する国へ
                   君よ叫べ 命ある者たちへ
                   君よ泣け 限りある運命に
                   主に学び 永遠の命をえよ
                   君泣くな 愛する者たちよ
                   主に賜り 主命に召さるる
                   ゆだねよ 主なるみむねに

 

 

 

         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

1961 同志社大学ローバースカウト隊 創立記念式典 同志社教会前

2010 同志社大学ローバースカウト隊 復団式典

2011 同志社ローバースカウト創立50年記念式典 OGOB集合写真

2011 同志社ローバースカウト創立50年記念式典 全参加者集合写真 

2022 同志社ローバースカウト創立60周年記念式典 宇多野YH

 

             同志社大学ローバースカウト隊 創立記念式典

              ボーイスカウト京都連盟 第43団青年隊 結団

                1961年6月17日 同志社教会前

 

 

                 同志社大学ローバースカウト隊 復団式典

             ボーイスカウト京都連盟 第43団青年隊 復団

                 2010年9月1日 新島会館にて



            <同志社ローバースカウト創立50年記念式典OGOB集合写真>

                2011年(平成23)11月19日  新島会館にて

                               東北大震災の年に

 

 

           同志社ローバースカウト創立50年記念式典 全参加者集合写真                  

                2011年(平成23)11月19日  新島会館にて

                               東北大震災の年に

 

 

               同志社ローバースカウト創立60周年記念式典

             2022年9月17日 宇多野ユースホステルにて

 

      

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<追記 ① 喜多さん・田中祥介氏昇天す>

 

 2018年10月12日、喜多さん・田中祥介氏昇天す。 

   ここに 哀悼の念を捧げ、このブログ<中山道てくてくラリー>を

  喜多さんに捧げるものである。

 

  同志社ローバースカウト復団に情熱を注ぎ、長年病床にあった。

  写真参加であるが、彼を病床より連れ出し、弥次喜多のコンビを結成しての中山道踏破

  を試みた。

  メールの交換による現地と病床のコミュニケーションは、愛語の交感となり、堅い絆のもと

  総距離約850kmを、32日間を共に歩いたことになった。

 

  京都三条大橋で行われた中山道踏破歓迎式に、喜多さんも不自由な体を車椅子に横たえ

  参加してくれた。その姿に感動と感銘を受けたものである。

  (後藤實久記 60年度生)

 

  

   

              喜多さん・田中祥介氏と有明のサンライジングを浴びる

            ―2018年9月6日<潜伏キリシタンの里 島原有明海岸にて>―   

 

          <関連ブログ先>潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―⑧

               

 

                 ーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

<追記 ② 「中山道てくてくラリー」新旧ブログ取扱いについて>

 

改定版「中山道てくてくラリー」のブログ移行更新に伴い、旧い「中山道てくてくラリー」のブログを削除

いたします。

旧「中山道てくてくラリー」を保存されている方は、新「中山道てくてくラリー」に置きかえて保存くださる

ようお願いします。

旧ブログの削除は、1か月後の2023年2月28日としますので、以上よろしくお願いします。

 

           2023年1月31日 中山道てくてくラリー」ブログ管理者 後藤實久

 

 

 

                  資料編 完

 

 

 

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<関連ブログ>

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ

 

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ

        『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ 

            <同志社ローバースカウト創立50年記念事業 ー 通信記録・旅日記>

 

               ■ 中山道てくてくラリー出発式・日本橋

               ■ 新島襄先生感謝献花式・安中教会

            ■ 中山道てくてくラリー後半①<須原宿39>➡<鳥居本宿63>

 

 

《前半報告書》にもある様に、日本橋(0)を出発し、須原宿(39)で<中山道てくてくラリー>を一時

中断、まず東北大地震のため延期されていた東京日本橋での<同志社ローバースカウト50周年記念

中山道てくてくラリー」>出発式に参加した。

その後、校祖 新島襄生誕の地・安中市にある安中教会での桑原仙渓  桑原専慶流15世家元による「50周年記念 新島襄先生感謝献花式」に出席。

すべての記念式典を済ませたあと、<中山道てくてくラリー>中継点である須原宿(39)に戻り、

後半の行程を開始、一路京都三条大橋に向かって歩き出した。

 

 

■5月1 日 東京日本橋中山道てくてくラリー出発式>

       

         ■『同志社ローバー50周年記念・てくてくラリーIN中山道』 出発式

 

          

            中山道を歩き、東京日本橋を出て京都三条大橋に向かう



   《 日本橋は静かな時が流れている。今にも雨が降りそうな空、生暖かい5月の風が吹いている。

    今から半世紀前、わが同志社ローバーのもののふ(武士)ども20数名が京都三条大橋を発ち、

    ここ日本橋を目指した。

    踏破の喜び、制覇の歓喜、灼熱に打ち勝った精悍な面構え、青春の血潮のうねりが聴こえてくる。

    そのときに燈された永遠なるローバーリングの光を50年ぶりに京に持ち帰りたい。

    そして受け継がれてきた同志社ローバー50年を振り返るとともに、明日に繋げたい・・・

    という想いと願いを込めて同志社ローバー創立50周年記念イベント『てくてくラリーIN中山道

    がスタートした。

 

    隊員は精鋭3名、隊長 後藤實久と副長 田中祥介(写真参加)、区間参加隊員 梅田幹人である。

    それと、運搬を担当してくれる自転車『ワイルド・ローバー号』が加わる。

    徒歩部隊(本隊)は4月10日にスタートし、中間地点『須原宿』で休養中である。

    この間、東北大震災によって延期していた東京日本橋での<中山道てくてくラリー徒歩部隊>

    の出発式、安中教会での創立50周年記念イベント『新島襄先生感謝記念献花式』(献花、

    桑原仙渓流家元ー79年度生)に参加する。

    その後、再度『須原宿㊴』に戻り、徒歩部隊は後半の行程表に従った。

 

    日本橋での出発式には、震災復興自衛隊本部で指揮をとる藤田恵一氏(73年度生)の貴重な

    時間を割いての出席、出発式プロデューサー長岡一美氏(64年度生)、会社の震災対応に腐心する

   『わくわくランドIN安中』プログラム担当佐伯直幸氏(79年度生)、写真参加の副隊長田中祥介氏

   (79年度生)と後藤(60年度生)の5名であった。

    エール交換と、写真撮影という簡素な集いであったが、11月9日の京都新島会館での『同志社ロー

    バー創立50周年記念式典』での再会を約して散会した。  

    弥栄、後藤實久記 》

 

 

東京駅八重洲北口にて・左より長岡、後藤、佐伯                       日本橋にて・左より後藤、長岡、藤田

 

   

   中山道復路てくてくラリー隊長/後藤    <弥次喜多コンビ>     副長/田中祥介(写真参加)

 

           

             野外道具一式運搬用自転車/ワイルド・ローバー号

 

 

 

■ 5月4日安中教会 <新島襄先生感謝献花式>

 

 

           ■ <同志社ローバー創立50年記念 新島襄先生感謝献花式>

 

 

               新島襄先生感謝記念献花式』

                 <献花、桑原専慶流15世家元 桑原仙渓>

                      (79年度生)

                於   安中教会・新島襄生家

  

         

               於・ 安中教会          於・新島襄先生  生家      

 

 

               <わくわくランドin安中     黒木レポート>

   《5月3日は、16時10分過ぎに安中駅の次の駅「磯部」着。小雨のためにタクシーを利用しようかと

    考えたが、初めての訪問地につき歩いてみたいと考え直した。傘を取り出し歩き始めたが、駅前

    には「恐妻碑」が立っていた。群馬名物「かかあ殿下?」のことかと思いつつ、よく見ると

   「恐妻とは愛妻のいわれなり」と書いてあった。

   「なるほど!」と感心したが、そのヨコには「温泉記号発祥の地」の碑もあった。そこには「日本

    最古の温泉記号発祥の地 万治4年の絵図より」(※万治とは、1658年から1660年) あの温泉

    記号はここが発祥の地とは「ヘェー」とこれまた感心した。

    商店街?入口のアーチを見上げると「愛妻湯の町 磯部温泉」との看板が掲げられていた。恐妻と

    愛妻? どっちでもエエやんか・・ 京都に帰宅したら話のネタにはなりますわと歩いて行くと、

    かんぽの宿の建物が見えてきた。碓氷川を渡る橋は「愛妻橋」と命名されていた。16時30分過ぎ

    に安中市 磯部温泉にある『かんぽの宿磯部』に到着。

    ちょうど4日の茶話会用の買い物に出掛けようとされていた後藤さんと西村さんに出会う。

    桑原ご夫妻もすでに安中に到着し、新島旧邸での献花、また安中教会での献花準備も終えたとの

    ことであった。

    西村さんご持参の篠田先輩作成ポロシャツ、Tシャツの披露と予約が行われた。

    18時30分からの夕食は3人での前夜祭となる。

    5月4日朝6時起床、7時15分朝食、8時15分タクシーにて安中教会に向かう。

    8時40分頃、江守牧師とご挨拶。教育館で椅子、机を並べて献花式後の茶話会会場を設営する。

    9時桑原ご夫妻到着、すぐに献花式の最終準備に取りかかっておられた。

    10時頃、上毛新聞記者来訪、取材の申し出あり。

    10時30分、江守牧師の司式による礼拝が開始された。

    黒木は記念写真を担当した関係で、時々教会堂出入口付近から出席者を数えたが、桑原家元の

    献花式時には40名の出席者であった。
 

    まず前奏、そして讃美歌412の1,2番で讃美する。

    江守牧師よりの説教:本日は礼拝とともに、同志社大学スカウト同好会発団50年記念となる

    新島襄先生感謝記念献花をとりおこなうとの目的が紹介された。

    また献花式ということから、以前の教会での「花の日」に関するたのしい思い出が導入の話と

    なって説教が始まった。

    ある年の花の日に、早春に土手などの日当たりのよい斜面に咲く「オオイヌノフグリ」の写真を

    見せて、「この花の名前を知っている人?」と小学生に質問したところ、花の名前に詳しい

    小学生の女の子がいて、さっと手を上げた。

   「その花の名前は、犬の ○ ○ たま」と大きな声で言った。

    恥ずかしかった・・・との話に一同爆笑。実はこの花の学名は「ベロニカ」。ベロニカという

    名前は聖書の中で出てくる女性の登場人物の名前である。(※聖書の話を書きたい所ですが、

    長くなるのでカットします:黒木記) 

    要するに、ベロニカは苦しんでいるキリストを目のあたりにして、人間として見捨てておけな

    かったというやさしい人だったという話であった。

    献花式をとおして、ベロニカと同じくそのやさしさを感じましょうというような内容の説教でした。

   (写真を撮るためにうろうろしていたので、ほんとうは説教後半部分はよく聞いていませんでした)

    説教の最後にもう一度412の3,4番で讃美した。

    11時、桑原専慶流15世家元桑原仙渓さん、桜子家元夫人の紹介があり、お二人による献花が

    始まる。

    11時30分献花終了。桑原家元からの解説、出席者一同からの大きな拍手有り。

 

    12時前、教育館にて茶話会スタート。サンドウィッチ&飲み物、果物、ヨーグルト、お菓子を

    つまみながらの昼食となる。

    12時30分過ぎ、お花を持参された方々への生け教室がはじまる。

    出席者の皆さんのいきいきとした喜びに溢れた顔が印象的であった。13時45分ごろ生け花教室

    も終了、後片付けに入る。

    すべてを終えて、教会堂のいけばな展示の前で記念写真を撮った。出席OB:藤見さん、堀越さん

    ご夫妻、稲井さん

    14時15分すぎに後藤さん、西村さん、藤見さん、黒木で新島旧邸に徒歩で向かう。

    途中、上毛新聞安中支局に立ち寄り、掲載記事の送付をお願いした。

    14時40分頃、新島旧邸到着。展示されているいけばなを観賞する。管理人さんによるガイドあり。

    15時20分すぎ、新島旧邸からタクシーにて『かんぽの宿磯部』に戻る。

    17時30分 レストランで桑原家元ご夫妻を囲んでの夕食会・打ち上げをする。

    21時30分、西村さん高崎に向けて出発。

    「わくわくランドin安中」を終了した。 》 

                (文責:黒木保博―69年度生)

 

 

                          安中教会 江守牧師司式で讃美歌斉唱              

 

           

                新島襄感謝記念献花式出席の同志社関係者

           右より後藤・江守牧師・西村・桑原夫妻・黒木・藤見・稲井

                  (堀越夫妻もあとで参加)

 

           

                 同志社大学スカウト同好会50周年記念事業   

                新島襄生家での新島襄感謝記念挿花 案内状       

               桑原専慶流15世家元桑原仙渓による感謝献花

 

    

            新島襄生家での桑原専慶流15世家元 桑原仙渓による挿花

 

 

 

         

            新島襄生家での桑原仙渓挿花鑑賞 黒木・西村・藤見

 

 

           

  <安中教会『新島先生感謝記念献花式』に立ち会って>

     《神よりのやすらぎをえている。ここちよい疲れだ。いま安中教会での献花式に出席したあと

   『中山道てくてくラリー』の中間宿場、須原宿へもどる木曽路の鈍行列車の座席に身を沈めている。

    列車が揺れるごとに献花式での桑原専慶流15世家元 桑原仙渓の一動一息が伝わってくる。

    家元の献花に相対峙する姿勢、それは若き総帥の魂の鎧にみなぎる花ばなをとおしての神への

    畏敬の念のこころ意気そのものであった。

    総帥のあたたかい眼差しに花ばなはその与えられた使命を果たし、その姿勢を整え宇宙との融合を

    果たさんと待ち構える。

    あたかも家元の指揮に応えんとするその姿は、花ばなの醸し出すハーモニー それは天上の調べで

    あった。

    天地人そして花、そこに天の川をよぎる愛の乱舞をみた。

    この時、この地に立ち会えしことを喜び感謝する。

    同志社ローバー創立50周年記念イベントにおいてわれらの校祖新島襄先生にOB桑原専慶流家元・

    桑原仙渓氏(79年度生)によって感謝の花を手向けることができたことを報告しておきたい。

    お立会いいただいた方々、お世話いただいた方々、牧師さまはじめ教会員のみなさま、ご協力いた

    だきまして心より御礼を申し上げます。有難うございました。

    まずは御礼まで。

    桑原ご夫妻、お疲れ様でした。

    弥栄、後藤實久記 ー60年度生》

 

 

  

 教会員への桑原専慶流のフラワーワークショップ  フラワーワークショップご参加の教会員の皆さまと

                          桑原専慶流15世家元 桑原仙渓夫妻を囲んで

 

 

 

         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

■ 18日目  <中山道てくてくラリー>後半行程スタート   

          <須原宿㊴ ⇒ 野尻宿㊵  7.0km/3.5h> 5月5日

 

 

安中教会での同志社ローバー創立50周年「新島襄先生記念感謝献花式」に参加したあと、<中山道てくてく

ラリー>を継続するために隊員・弥次喜多は、中継点・須原宿㊴に戻ってきた。

 

 

◎<須原宿㊴> 日本橋より徒歩総距離426㎞ (立寄り先を含む)  20℃・風涼し・晴れ

 

須原宿㊴は、総戸数104軒、旅籠24軒の規模で、清水が湧き、軒先には水舟が置かれ、情緒豊かな往時の面影を残している宿場であった。

 

5月5日15:30スタート、JR中央本線須原駅の駐輪場より荷物運搬用自転車・ワイルドローバー号を引出し、荷物を積み、ブレーキ―などを点検した後、京都三条大橋に向かって「中山道てくてくラリー」後半を

歩き出した。

 

駅前に「露伴文学碑」がある。

幸田露伴の<風流物>の一節が書かれている。

 《仏師が花漬売りの娘に恋をするが、事情あって一緒になれず、悶々たる気持ちでその娘の姿を彫る。

  その像に魂が入り、抱きしめて天に昇っていく 》と・・・純愛である。

 

駅前にはまた、<須原一里塚跡>(日本橋より75里 / 300㎞・京へ60里/240km)の石碑がある。

 

<須原一里塚跡>(日本橋より75里/ 300km)

        (京へ60里/240km)


 

国道19号線に出ると、<脇本陣跡>である西尾酒造店があり、銘酒「木曽のかけはし」を扱っている。

今夜の般若湯にこそっと手に入れ、弥次喜多ニンマリ・・・

  

 

須原宿㊴ 高札場跡               須原宿㊴ 本陣跡

 

 

須原宿㊴ 子規文学碑 <寝ぬ夜半を>                       須原宿㊴ の町屋

 

  《寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほとの 空たにもなし》 子規

  

 

             須原宿㊴は<水舟の里> いたるところで水舟に出会う

 

                                                   

                                                        今夜の般若湯

                   <木曽のかけはし>


 

民宿「すはら」を過ぎて、JR中央本線をくぐると伊奈川橋にある京都清水寺の舞台を持つ<岩出観音堂

に出会う。

18:30、今夜露営する妙心寺派<天長院>先に着いた。

翌日、ここから国道19号線にある<道の駅 大桑>に立寄って、野尻宿㊵へと入っていく。

 

  

岩出観音堂                                     妙心寺派<天長禅院>先の丘で野営

  

 

露営地近くの天長禅院山門             露営地より桜梅咲く弓矢集落を望む

 

本日の露営地である須原㊴と野尻㊵の両宿場の中間にある天長禅院近くの丘の上に設営し、本部への18日目の報告メールを打つ。 

安中教会の真下さんからのメールを受信、サウジアラビア駐在の岡本 武氏(76年度生)へ返信を送る。

 

   《中山道の旧道に咲く名も無き野の花たちが子供の日を祝って大合唱、

    風の川を泳ぎまわる元気な

    鯉のぼりたちはその逞しさを競い、

    おんなの子たちはお釈迦さまを祝う花の日子供の日に変えて

    もらって嬉しくてうれしくて須原宿の水舟を花一杯に飾っている。

 

    木曽のお山から湧きでる真水が宿場のいたるところに置かれた大木をくり抜いた水桶に流れ込み

    旅人の喉の渇きをいやしてくるているーこれが水舟そっくりなのだ。

 

    今朝、献花式の執り行われた安中教会を後にして、パートナーである写真参加の

    喜多さん田中祥介氏と共に安中榛名駅より長野新幹線で長野にでて、

    塩尻経由須原宿中山道39番目の宿場)に午後2時ごろに到着した。

 

    一週間、独りぽっちにされていた寂しがりやの自転車『ワイルドローバー号』と再会、

    お互い熱い抱擁に涙した。

    篠田常生会長(62年度生)制作のてくてくラリーTシャツに着替えて、

    中山道後期徒歩行程へ出発である。

    みなさんのご声援お願いしたい。

 

    5月5日は午後3時須原宿を出発、6時半、野営地である野尻宿との真ん中あたりのJR中央本線

    大桑駅近くの臨済宗妙心寺派『天長院』先の、小高い丘にある平和公園での露営地に到着し

    天幕を張った。

    今晩の夕食は、コッペパンと野菜サラダと木曽のお水、感謝の夕餉だ。

    それに、ちょっぴりの般若湯をたしなんだ。

 

    今日は3時間半、7キロの行程であった。

    明日、5月6日は野尻宿㊵を経て三留野宿㊶まで歩きたい。天気は曇り空だがよさそうだ。

    黒木氏の『わきわくランドIN安中(献花式)レポート』にあった賛美歌412の調べがオルガンに

    のって暗闇の天幕の中に響き渡った。

    ハレルヤ!    弥次喜多こと後藤實久&田中祥介 》

 

 

 <安中教会代表世話人 真下東雄さまよりのお便り>

   《神様は後藤さんや桑原さんの情熱にお応え下さいました。

    何度も申し上げましたが、お二人のやる気に対して、教会側はいま一つ盛り上がりに欠けるところ

    を感じ、当日を迎えるまで不安でした。

    でも、「記念礼拝」から「いけばな教室」に至るまで、和やかな雰囲気のもと、参加者の誰もが

    楽しく充実したひとときを持つ事が出来たと思う事が出来ました。ありがとう御座いました。 

    礼拝堂の中での「神への生け花献花」というのは、教会にとっても初めての経験であり、後藤さん

    のおっしゃる通り、そこに居合わせた誰もが、天地の創り主なる神との融合を体感したのではない

    でしょうか。 

    このような素晴らしい機会を与えて下さり、本当にありがとう御座いました。

    安中教会での1日を含め、心に残る充実した「てくてくラリー」を終えられます事を

    お祈り申し上げます。   真下東雄 》

 

     

         桑原専慶流  桑原仙渓  15世家元による新島襄先生感謝記念献花

 

 

 

  <サウジアラビア中山道のラブコール>

    《岡本武さん(76年度生)、遠くサウジアラビアの地より同志社ローバー創立50年記念イベント

       『てくてくラリーIN中山道』徒歩部隊へのご声援有難うございます。

     砂漠の地より大名や侍、町人の歩いた中山道への時を越えたメッセージうれしく受信しました。

     わたし(後藤)も砂漠へはよく出かけており、その苛酷な状況をよく承知しております。

     砂漠という苛酷ななかに、夜空の満天の星たち(星の王子さまや星の王女さまたち)の詩の朗読、

     砂漠に生きる小さな虫たちのコーラス、風がおりなす砂による風紋の芸術、灼熱の地獄に訪れる

     朝方の凍でつく気温低下、蜃気楼に浮かぶオアシスの幻想、絶望に酔うパラダイスの幻覚、

     渇きに夢みるコカコーラの誘惑、空間に方位示す北斗七星やカシオペア座のありがたさと多くの

     人生の喜びを砂漠から学びました。

     タクラマカン砂漠ゴビ砂漠サハラ砂漠、シエラネバタ砂漠、サイナイ砂漠を縦断したり、

     横断したり、散歩したり、命を失いかけたり、逃げ帰ったりと砂漠には懐かしい思い出がたくさん

     あります。

     御地でのご活躍をお祈りしております。

     奥様の容子(76年度生)さんにもよろしくお伝えください。

     弥栄、同じく人生冒険をしつつ、弥次喜多・後藤&田中祥介より 》

 

 

 

  ■ 19日目  <野尻宿㊵ ⇒ 三留野宿㊶> ( 三留野宿 みどのしゅく)

         10.0km/5h> 5月6日

 

 

 穏やかな田園風景の広がりを眺めながら朝を迎えた。

ここは大桑村にある天長禅院の近くの丘の上にある<大桑村平和公園>である。

青空が広がり木曽谷は爽快である。

ゆっくりと時間が流れ、出発も8時とあいなった。

 

 

気を付けて              遅めの出発

 

天長禅院を出て、JR中央本線大桑駅を過ぎると、国道19号線と合流し、<道の駅 大桑>に出る。

朝食は、信州そば(550円)を道の駅でいただく。水補給のあと、JR中央本線をぬって<高札の場跡>に

迎えられ野尻宿㊵に着く。

 

<道の駅 大桑>で 本場信州そばをいただく

 

  《信州の 蕎麦とかけてや 堅気かな 思慮堅めにして こころ優しき 》 實久

 

 

◎<野尻宿㊵> 日本橋より徒歩総距離 432㎞地点 (立ち寄り先含む)

 

野尻宿は、素晴らしい中央アルプスの山並みを背にした総戸数108軒、旅籠19軒をもち、「七曲がり」と

呼ばれる敵の進軍を遅らせたり、先の見通しを防ぐために造られた、曲がりくねった街並みが残っている

中山道40番目の宿場であった。

  

 

 野尻宿㊵は七曲りで敵を防いだ                           野尻宿㊵の町屋

 

野尻駅前の脇本陣跡の碑、本陣跡の碑に立寄りながら進むと街道の左側に<下在郷の一里塚跡>碑

(江戸より77里/ 308km)に出会う。

 

<下在郷の一里塚跡>(江戸より77里/ 308km)


 

 

野尻宿㊵ 御宿(旅籠)庭田屋               JR野尻駅  

 

その先、国道19号線の歩道を歩き、俳句をひねりながら三留野宿㊶(みどのしゅく)に向かう。

 

   野尻宿 木曽の川筋 花曇り 》 實久

      ―のじりしゅく きそのかわすじ はなぐもり―

 

   野尻宿 ひねもすのたり 木曽路かな》  實久

    ―のじりしゅく ひねもすのたり きそじかなー

 

   《淡き芽に ほのかな旅路 山曇り》 實久

    ―あわきめに ほのかなたびじ やまぐもり―

 

   《たゆたうと 時を歩みて 桜追い》 實久

    ―たうたうと ときをあゆみて さくらおい 》

 

   《山吹や 木曽路染めにし 恋路の湯》 實久

    ―やまぶきや きそじそめにし こいじのゆ―

 

   《桜吹く 木曽の銘酒 七笑 》 實久

    ーさくらふく きそのめいしゅ ななわらい―

 

 

渓斎英泉作 中山道 野尻宿木曾街道六拾九次 野尻

 

 

 国道19号線上の中山道三留野宿㊶に向かうと、<野尻トンネル>を抜けることになる。

この野尻トンネルには歩道はなく車道を歩くことになるので、トンネル突入前に、ブレーキの利き、

前後の点滅灯の点灯、ヘルメットなど安全装備の点検確認をしておくこと。

危険を感じるときは、トンネルを使わず、旧中山道の山道を迂回することもできる。

トンネルを抜けて進むと、JR中央本線十二兼駅近くにある<十二兼の一里塚跡>(江戸より78里/

312km)に出会う。

さらに進むと<リトル寝覚ノ床>といわれる<柿其峡>の美しい木曽の渓谷を楽しむことができる。

  

  JR中央本線十二兼駅                 <リトル寝覚ノ床>といわれる柿其峡

 

歩を進めると、羅天から与川渡橋の間は断崖が木曽川に垂直に落ち込んで、木曽最難関と言われた

<羅天の桟道>が残っている。

さらに南下を続けると、三留野宿㊶(みどのしゅく)に入る。

 

現在も<羅天の桟道>が残っている

 

 

 

◎<三留野宿㊶> (みどのしゅく)  日本橋より徒歩総距離455㎞地点

   (注・一里塚の示す里程表78里/312㎞ と、 ワイルドローバー号の距離計455㎞の差は、

      立寄り先が多いことによる)

 

 

三留野宿㊶(みどのしゅく)の名前の由来は、木曽氏の館があり「御殿(みどの)」と呼ばれた

ことからきている。

また、数回の大火により宿場は灰燼に帰し、その面影はほとんど残っていない。

 三留野宿㊶は、現在の南木曾町に位置し、総戸数77軒、旅籠32軒であった。

 

歌川広重作 中山道三留野宿「木曽海道六十九次・三渡野」

 

国道19号線を離れ、県道264号である旧中山道に入りJR中央本線・を横切ると、枝垂れ梅が残る<べに坂>

をいく、その先右手に<本陣跡の碑>がある。

 

本陣跡の碑の先を、右手の脇にある階段を下って三体の円空仏がある<等覚寺>に立寄る。

等覚寺を過ぎると前方に、木曽川にかかる大吊橋<桃介橋>が目に飛び込んでくる。

桃介橋は、大同電力(現中部電力)の社長であった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿・実業家・日本の電力王)が

読書発電所建設のために大正11年(1922)に架けたものである。

  

 

三留野宿㊶本陣跡                           <日星山等覚寺>曹洞宗の寺院            

 

 

 三留野宿㊶ 柏屋                                   三留野宿脇本陣

  

木曽川にかかる桃介吊り橋

 

<▲19日目露営地> JR南木曽駅近くのSL公園にある千体観音堂<一刻堂>内にて舎営

 

三留野宿㊶では、南木曽駅近くの公園で設営したが、千体観音堂<一刻堂>の尾崎老に堂内での舎営を勧められ、撤収し一夜を尾崎老手掘りの千体観音と共に過ごすことになった。

 

 

 

南木曽駅SL公園にて露営が・・・   千体観音堂<一刻堂>の尾崎伯老に勧められ堂内にて舎営

  

                                           一刻院<千仏観音堂>にて観音様たちと同宿

 

 

  <5月7日午前1時07分三留野宿千体観音堂 一刻院 御堂にて > 千体観音に見守られて

 

    《ここ木曽路では夜桜がいい。今晩は三留野宿(みどの)の南木曽(なぎそ)JR駅近くのSL公園

    で3人(祥ちゃん、ワイルドローバー君、サンちゃん)の花見としゃれこむとする。

    田舎のスーパーで豆腐、餃子、いなり寿司、レタス、苺、野菜のにぎり揚げとビールを仕入れる。

    まずテントを張り、寝る準備を済ませ。寒さ対策として昼スタイルの短パンとTシャツの上に

    パッチをはき、靴下の重ね履きの上にトレパン。

    上は長袖ジャージに羽毛ジャケット、防寒ジャンパー。頭に目だし帽とまるで北国の人に変身。

    これでも夜半になると寒さに起こされるんだな。まるで北極での花見のようだ。

    小高いこの公園からは夕日に照らされた中央アルプスの銀嶺の山々が見事だ。

    ここからは木曽駒ケ岳から空木岳にかけての雪山連峰が見事だ。

    宴もたけなわ、ひとりの老人に呼び掛けられる。 

   「もし、そこの旅人よ、今宵のこの風では雨がかならず降り申す。

    どうかわたしの『千体観音堂一刻院』にお泊りなさい」 と。

    公園に隣接するお堂には、尾崎老人制作の一刀彫観世音菩薩一千体が安置されていた。

    これまた神仏のなされるご縁、有り難く一宿を願い出る。

    不思議なものだ。

    この時、この地での出会い大切にしたい。

    といういきさつで今夜は観音さまの二千の仏眼の御前で参篭することと相成った。

    三色桃花もまた美しい。本日の行程は10キロ、5時間であった。明日、雨で無いかぎり

    5月7日は中山道で一番のハイライト妻籠宿を経て馬籠宿へ向かう。

    おやすみ。  サネ&ショウ・弥次喜多 》

 

 

                  <千体観音堂 一刻院におりて>

                  詩 後藤實久

 

              嗚呼(ああ)われいまここ 中山道木曽路にありて

              三留野(みどの)宿 千体観音堂 一刻院に 一心を托しおる

          坐して 瞑目するに 時止まりて われまた 即身成仏の一体となるを観ずる
           千体観世音の心音 宇宙に歌いて わが命と融合してやむことなし

               闇に浮かびし 御堂の姿に 大いなる神のお姿を覚え
               神、その創世記にありて創られしこの世を想うに

 

              嗚呼 われいま 神の愛を識りて 頭(こうべ)を垂れし
         遠きにありて 神々の賛美の歌声あり 近くにありて 観世音のマントラを聴く

                嗚呼 われいま わが身を捧げてや われ無し
               坐するわが姿をながめてや われを捨つるなり

                嗚呼 われいまここに 至福をえて真なり


           <5月7日午前1時07分三留野宿 千体観音堂 一刻院 御堂にて >

 

 

 

 ■20日目 < 三留野宿㊶⇒ 妻籠宿㊷⇒ 馬篭宿㊸ > 

        14km/12h   5月7日

 

 

午前5時54分、お世話になった尾崎老人の<千体観音堂一刻院>を後にした。

空は、雨曇りである。 尾崎伯老宅に立寄り、一宿のお礼を述べての出立である。

 

 

 千体観音堂のある南木曽にあるSL公園を後にする

 

木曽路南木曽にみる旧中山道の面影を楽しみながら歩みを進める。満開の桜や、ツツジがいい。

 

 

 

              三留野宿㊶から妻籠宿㊷への木曽路の街並み

 

義仲・巴御前ゆかりの松である<振袖松>(ふりそでまつ―残念ながら虫食いにより枯れ、伐採)を

見ながら進むと、妻籠に砦を築いた木曽義仲が北陸路に出撃せんとする時、鬼門の守りに兜前立の

観音像を外してここに祀った<かぶと観音>に出会う。

  

 

三留野宿出口で見送る<振袖松>          かぶと観音

 

妻籠宿㊷への石畳みの坂を上っていくと、<せん澤ー右/妻籠宿 下り/なぎそ>と、なんともユーモラスな

石の道標に出会う。「せん澤」が妙にリアルティを感じさせてくれた。

「あなたの選択はどちらなの?」人生の分かれ道である選択もまた然りである。

この石畳みの坂は、側溝に清水が流れ、歩いているだけで人生の選択を迫るような、哲学的な思索に

導いてくれる不思議な坂である。

 

その先に、<上久保の一里塚跡碑> (江戸より78里/ 312km)は、日本橋から約312㎞地点、

標高535mにある。

 

 

<せん澤>した?                    石畳みに流水  

       

上久保の一里塚跡碑(日本橋より 78里 /312km)                   

 

良寛文学碑>

 江戸後期の僧侶であり歌人である良寛もこの木曽路の暮れゆく、何とも言えないもの悲しさに次のように詠んだ<良寛の文学碑>に出会う。なんと素敵な歌を詠んでいることか・・・哀愁を帯びた若妻を呼ぶ小牝鹿の鳴き声が聞こえてくるではないか。わたしたち弥次喜多良寛の気持ちにひたった。

この辺りの古色蒼然とした石道標が、石畳みによく似合っている。その傍にはにかんで咲いている花々がまたいい。

 

   「この暮れの もの悲しきに 若草の妻呼びたくて 小牝鹿鳴くも」 良寛

 

 

良寛文学碑                               中山道にふさわしい石道標

 

妻籠宿㊷は、木曽の山々を借景にした日本庭園がこれまた木曽の建物に似合い、様になっていて、旅人を

めてくれる。

木曽路のなかでも、三留野宿㊶からの中山道は、日本の原風景を歩くといっても過言ではないすばらしい

街道である。

街道が一つの日本庭園として、旅人を歓迎してくれているのである。

特に、竹とヒノキの群生の落ち着きある陰陽が自然庭園を演出しているところがいい。

また、この景色に合わせるように、小道は最小限の舗装にとどめ、石畳みや土道を残しているのもいい。

村落に住む村民の木曽を愛する気持ちが伝わってくるようである。

 

妻籠宿㊷に続く町屋

 

 旅人の目印としての<蛇石>を右折して妻籠宿㊷に向かう。

  

中山道 蛇石>道標    (分岐を右折)

 

中山道木曽路に建つ古民家に旅を慰められながら上っていくと、妻籠城址石碑にたどり着く。

この辺りは標高535mで、妻籠宿への矢印に従って宿場に下っていく。

 

 

妻籠城址石碑

 

 

◎<妻籠宿㊷>  日本橋より徒歩立ち寄り総距離459㎞地点 

 

木曽川とその支流・蘭川に囲まれた<妻籠城址>を見ながら進むと、中山道はこれまでの木曽川の渓谷美から木曽の山岳美に溶け込み妻籠宿㊷に至る。

高札場、公開されている島崎家の本陣跡、歴史資料館、松代屋、上嵯峨屋が立ち並ぶ妻籠宿の中心に到着する。

妻籠宿㊷は、総戸数83軒、旅籠31軒で、山深い木曽路にある宿場であった

 

街並み保存に力を尽くし、伝統的建造物群が立ち並んでいる。

昔ながらの旅籠のありのままの姿を保存修復し、今に残しているからうれしい。

バストイレがなく、間仕切りや鍵もなく、個室がない宿を現在でも残しているというから徹底している。

ましてや17時以降には、一斉に店は閉まり、静かな山深い木曽路の宿場と化すのである。

妻籠宿㊷は、中山道の中で宿場の雰囲気を醸し出している宿場の一つで、現代にその文化としての歴史と

役割を伝えているといえる。

ゆっくりと古き良き宿場を散策、堪能した。

 

美しい妻籠宿㊷ の街並みと格子に掛けられた挿花

 

妻籠宿㊷ 鯉岩>

昔の旅人は、中山道三大名石といわれた <鯉石>の前で驚きの声を上げたに違いない。

現在は、その岩姿からは想像することがむつかしいが、江戸時代、1780年に刊行された秋里籬島による

木曽路名所図会」によると、その鯉の姿がはっきりわかる。

このような奇岩に出会うのも旅の楽しみなのである。

 

 

妻籠宿 鯉岩                            秋里籬島画 「木曽路名所図会・鯉岩」    

                  

妻籠宿㊷ 公開されている町屋(熊谷家)

                        

当時の生活を知るうえで貴重な熊谷家の長屋が公開されている。

その先に、江戸初期に中山道を利用する旅人の人物改めや物資の搬入搬出を管理する為に宿場入口付近に

設けられた番所妻籠口留番所之跡>をへて、妻籠宿の街並みを楽しみながら、緩やかな坂を下っていく

妻籠宿の高札場跡>に出る。

 

妻籠口留番所之跡                 妻籠宿㊷ は木曽路のゆるやかな石畳みの坂にある 

     

妻籠宿㊷ の高札場跡                中山道 庚申塚 (手前・妻籠へ /右・馬籠へ)

 

  

歌川広重画  中山道「木曾街道六拾九次 妻籠」(妻籠宿㊷)

 

渓斎英泉画 中山道 「木曽街道六十九次・馬籠」(馬籠宿㊸)

 

 

◎<馬籠宿㊸> 日本橋より徒歩総距離468㎞地点(立寄り地を含む距離)

 

馬籠宿は、総戸数69軒、旅籠18軒の中山道43番目の宿場で、木曽11宿の一番南の宿場町で、江戸からの

公式距離80里(約320㎞)・京へ52里(約208㎞)地点にある。

馬籠峠を越えた信濃側の妻籠宿から続く石畳の坂に沿う宿場であり、往年の景観を残す中山道でも代表的な

宿場である。

この石畳の中山道の坂道と、その両側に軒を連ねる宿場(集落)を歩けば、江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気を感じることができるのである。

旧本陣藤村記念館島崎藤村生家跡)として残されているのでぜひ立ち寄ってみたい。

 

妻籠宿㊷までが信州木曽谷で、木曽川から離れた馬籠宿㊸は美濃に属する。

 

<下り谷>の石畳みの坂を上っていくと、桜満開の<一石栃の子安観音>を経て、<馬籠峠 標高801m>に

ある峠の茶屋に着く。我々弥次喜多も、旅人や股旅の味わったであろう大福餅を所望、賞味した。

 

 

 下り谷を経て馬籠峠へ                           桜満開の<一石栃の子安観音>

  

 

馬籠峠山頂 標高801mに到達     <茶屋で一服 >                  大福餅を賞味

  

     

     馬籠宿㊸(江戸80里・京52里)      馬籠宿㊸ 高札場

 

馬籠宿の保存伝統建築景観をゆるりと楽しみながら、石畳みの坂を下っていくとその優雅な姿を見せる

恵那山が、われわれ弥次喜多を歓迎してくれている。

 すでに17時に近く、石畳みの両側の商いも店じまいに忙しい。われわれも宿場から少し入ったところに

ある小公園に建つ東屋の軒の下に、今夜の小雨を避けるためテントを張らせてもらった。 

 

 

馬籠の宿場町の石畳みを歩く                     馬籠宿からの恵那山の眺望がいい

 

<▲ 20日目露営地   馬籠宿㊸ にある東屋の軒の下をお借りし、露をしのぐ>

 

 

 

   《今にも降りだしそうな雨雲が木曽谷に低く垂れこめていた。

    千体観音堂での一夜は禅問答道場の観を呈した。

    眠りについても離れぬ禅問答、思考の一点が大きく膨れあがり、己がこの得体の知れぬ世界に

    はまり込んでいく。

    もがけばもがくほど絡み取られていくではないか。

    とうとう睡眠を割いての『詩・嗚呼われいまここに』にはまり込んで朝を迎えた。

 

    今日は標高801Mの馬籠峠越えだ。寝不足がたたり、こむら返りで足がつる、大変な

    トレッキングと相成った。

    ワイルドローバー号を祥介は後ろから押すがなかなか山道を登ってくれない。

    しかし妻籠宿の村人の声援をえて中山道を凝縮した街道を楽しむことができた。

    妻籠宿から馬籠宿、それは一木一草が日本庭園の主役である。

    木曽谷の豊富な水流による音響効果、行き交う人々へのホスピタリティー、伝統文化を後世に

    残そうとする村民と行政との調和、街道にあるすべてが光り輝き美しい。

 

    本日の行程はわずか14KMに11時間もかかってしまったが、街道の素晴らしさが伝われば

    幸である。

    良寛も吟じている・・・

      《木曽路にて この暮れの もの悲しさに わかくさの 妻呼び立てて 小鹿鳴くも》  良寛

 

    私も一句、

     《ときを超え 木曽の静寂 染み渡り 四智円明の 月は冴えゆく 》  實久

     ーときをこえ きそのせいじゃく しみわたり しえんみょうの つきはさえゆく―

 

    明日のスケジュールは、雨が降らなければ馬籠宿㊸から落合宿㊹、中津川宿㊺をへて大井宿㊻

    まで足をのばすつもりだ。

    おやすみ    實久&祥介 ・ 弥次喜多 》

 

 

 <余韻を残しての日曜礼拝 安中教会 代表世話人・真下さんより>

 

   《先日行われた安中教会での献花式でお世話いただいた真下東雄さまからのその後の日曜礼拝の

    様子をお知らせいただきましたので転送します。》

 

   《先日は色々ありがとうございました。

    本日の日曜礼拝は、その時の余韻を残しての礼拝でした。

    当日用いられた花々等、残されたものは1本残らず教会員の方々が持ち帰って下さいました。

    いまごろ、それぞれの家庭を飾ってくれているものと思います。       

    花たちもそれぞれの場で生かされ、用いられている事に満足している事を想像致します。

    後藤さんの中山道の残された道中、桑原さんご夫妻の華道の道中、その到着点は遥か先かも

    知れませんが、極致へまでのご健勝をお祈り申し上げます。

    有意義なひとときをご提供下さいました事に、重ねて感謝致します。

    安中教会 真下》

 

            

              桑原専慶流15世家元桑原仙渓による感謝献花

                      安中教会にて

 

 

  <喜多さん、到着式に出席するとのメールあり>

 

   《喜多さん・田中祥介夫妻より5月21日(日曜日)午後3時からの京都三条大橋での

    『てくてくラリー中山道』到着式に出席できるようにしたいとの嬉しい知らせが飛び込んで

       きたので転送します。ブラボー》

   《後藤様 安中での献花式などのイベント大成功、てくてくラリー後半行程への出立ありがとう

    ございます。

    馬籠峠越えでは、ワイルドローバー号を後押しするどころかブレーキを掛ける重石になって

    しまったようで申し訳ありません。

   (7日の体重測定で59.1kgと先月よりも、0.1kg身を細くし恐縮している祥介です。)

    雨天も大変でしょうが、ここ数日の夏のような晴天も体力の消耗厳しいことでは…とにかく、

    無理をなさらず、健康・安全第一でよろしくお願いします。

    21日の三条大橋に祥介も参上つかまつる予定をしておりますので!

    田中祥介内より 》                

 

 

同志社ローバー創立50年記念<中山道てくてくラリー>に写真参加中の相棒・喜多さんこと田中祥介君

と、最終日、三条大橋に到着時の弥次喜多の写真

 

 

 

 ■21日目  <馬篭宿㊸ ⇒落合宿㊹ ⇒中津川宿㊺ ⇒大井宿㊻ >

          8.5km/6h    5月8日

 

 

◎<馬籠宿㊸> 日本橋より徒歩総距離468㎞地点

 

妻籠宿㊷までが信州木曽谷で<信濃の国>に属し、馬籠宿㊸は<美濃の国>に属する。

馬籠宿㊸は、総戸数69軒、旅籠18軒と中堅の宿場であったが、現在の馬籠のほうが観光客(旅人)で

賑わい、総戸数や旅籠(旅館)の数も多く、歴史遺産を生かす工夫と努力のもと、上手に再生産している

宿場といえる。

その努力に拍手を贈りたい。

 馬籠宿㊸は、木曽谷を彩る妻籠宿㊷につづいて風情ある家並み、粋な石畳と、ノスタルジーな世界を

創り出している。

日常から離れ、水のせせらぎ、小鳥のさえずり、街道を横切る風を感じながら、粋なひとときを過ごし

ていただきたいと案内書に書かれている通り、ファンタスティックな宿場である。

石畳の両側にお土産物屋がならび、当時の屋号を表札のほかにかけるなど、町が一丸となって宿場の保全

日常生活とを共存させているのが素晴らしい。

馬籠は木曽義仲の異母妹菊女が源頼朝から賜ったものであるといわれている。

 

▲20日目の露営地、馬籠宿㊸の上入口付近にある。

朝もやかかる東屋を午前6時に出立して、落合宿㊹に向かった。

街道の坂を下っていくと、馬籠宿高札場、馬籠脇本陣資料館と続く。

しばらく街道両側に立ち並ぶ<俵屋>、<大黒屋>や、ほかの店の情緒を味わいながら歩く。

その先に、馬籠宿本陣跡である<藤村記念館>があり、代表作「夜明け前」で有名な島崎藤村の原作品等が

展示されている。

また、本陣跡の裏手の永昌寺に藤村の墓がある。

 

馬籠宿を抜けるまで、宿場の町屋を堪能したいのでお付合い願いたい。

 

 

 

馬籠宿㊸ 高札場                   馬籠脇本陣資料館

 

 

 生そば・五平餅もいい            島崎藤村宅<馬籠本陣跡>

 

 

日野百草丸取扱い 槌馬屋               素敵な石畳みの坂に並ぶ旅籠                

  

馬籠の坂からの恵那山がいい     馬籠城址

 

島崎藤村の墓のある永昌寺を出て、さらに歩を進めて坂を下ると、藤村家とゆかりの<諏訪神社>をへて、

新茶屋あたりにある<子規の句碑>や<芭蕉句碑>に達する。

 

早朝の人の気配のない静かな馬籠宿散策もいいものである。是非お勧めしたい。

 

渓斎英泉画 中山道 「木曽街道六十九次・馬籠」

 

   《桑の実の 木曽路出づれば 稲穂かな》   子規

 

   《送られつ 送りつ果ては 木曽の秋》      芭蕉

 

  わたしも一句

   《一宿の うれし東屋 日が暮れて 木曽ガエル聴き 馬籠眠りし》 實久

 

 

 

諏訪神社                子規の句碑

 

芭蕉句碑>がある、ちょうどこの辺りが現在の長野県と岐阜県の県境であり、

<是より北 木曽路>の碑や、<新茶屋の一里塚跡>の碑がある。

われわれ弥次喜多も、木曽路に別れを告げるため、碑の前で記念写真を撮った。

いよいよ是より十国峠を経て、美濃の国に入るのである。

<新茶屋の一里塚跡>は、江戸より83里・約332㎞であり、京へは52里・約208㎞の地点にある。  

 

ここ長野と岐阜の県境をさらに上っていくと信濃と美濃の国境である十曲峠(十石峠)に達する。

十曲峠より石畳み坂を下り落合宿㊹へ向かうことになる。

 

 

 

 <是より 木曽路>道標と 喜多さん      芭蕉句碑 <送られつ>

 

 

落合宿㊹ にある<新茶屋の一里塚跡>江戸より83里・約332㎞    信濃/美濃国境>石柱

 

   

 <十曲峠> ここより石畳み坂を下り落合宿㊹へ               中山道<落合石畳坂>遊歩道

 

十曲峠の下り坂である苔むす落合石畳坂もいい。

石畳みの急な坂道を下ると、<芭蕉句碑>があり、<瑠璃山山中薬師 医王寺>にたどり着く。

 

    《梅が香に のっと日の出る 山路かな》   芭蕉

 

   わたしも一句

    《水墨に 飛び込みし田や 木曽がえる 》    實久

      

 これより信濃国美濃国の国境であり、難所といわれた十曲峠(または十石峠)を越え、深い木立のなかを石畳みの急な坂道を下って落合宿に入っていく。

  

 

 苔むす落合石畳坂(十曲峠)       瑠璃山 <山中薬師 医王寺>

 

宿場入口に立つ<高札場跡>と<上街常夜灯>に迎えられ落合宿㊹に入っていく。

 

 

<落合宿㊹> 日本橋より徒歩総距離472㎞ 地点

 

落合宿㊹は、江戸板橋より44番目、美濃路の最東端にある美濃に入って最初の宿場であるとともに、

木曽路の険しい難所に入る前に身支度する総戸数75軒、旅籠14軒で成り立つ宿場であった。

落合宿㊹は、中山道岐阜17宿の中で唯一本陣が残っており、往時の面影を残す貴重な建物である。

また宿場には、枡形や石畳が当時のまま現存しており、中山道の風情を偲ぶことができ、歴史の面影を

見ることができる。

常夜灯に迎えられ落合宿に入っていくと、本陣跡、脇本陣跡の碑をへて、<与坂の立場跡>、

<子野の一里塚跡>の碑を抜けて、国道19号線を横切り、中津川宿㊺へと向かう。

 

歌川広重画 中山道「木曽海道六十九次・落合」 (落合宿㊹)

 

 落合宿㊹ 高札場の跡                           落合宿㊹ 上町常夜灯

  

 

落合宿㊹ 脇本陣跡           落合宿㊹ 本陣 

                                            

歌川広重画 中山道Ⅱ 「木曽海道 六十九次 落合」 (落合宿㊹)

 

脇本陣跡を出て進むと、心臓破りと思われるような急な<与坂>を上る。

その先に日本橋より84里/ 約336㎞の<子野の一里塚跡>と、木曽御嶽講の開祖である<覚明神社>

へと続く。

 

 

落合宿㊹(おちあい)マンホール蓋          落合宿㊹ <与坂立場跡>   

 

 

<子野の一里塚跡>(日本橋より84里/336m) 

     

国道19号線をまたぎ旧中山道を進むと<尾州白木改番所跡>、<芭蕉句碑>、<高札場/常夜灯 >に

迎えられ中津川宿㊺に入っていく。

 

尾州白木改番所>とは、解説版を要約すると 「中山道には木曽から伐採した材木を監視する尾州尾張藩)の番所が設けられ、尾張藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、白木や「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」を始めとする木曽五木の出荷規制を行っていた。白木とは桧(ひのき)など木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用した。」とある。

 

  <芭蕉句碑>

   《 山路来て 何や羅遊かし 寿み連草 》  はせを

    ―やまじきて なにやらゆかし すみれそう―

 

  わたしも一句

   《木曽燕 雛落ち守る 三度笠》  實久

   ―きそつばめ ひなおちまもる さんどがさ―

 

  中津川宿㊺  尾州白木改番所跡                              中津川宿㊺   芭蕉句碑<山路来て>

 

 

◎<中津川宿㊺> 日本橋より徒歩総距離479㎞ 地点

 

中津川宿㊺は、江戸時代の風情を残している町並みをもち、総戸数228軒、旅籠29軒と、商業の街としても

栄えた大きな宿場であった。

資料館の裏にある脇本陣では、当時の風情を感じられる建物や家具類、庭を見ることができる。

では、宿場に入ってみよう。

 

歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・中津川」 (中津川宿㊺)

  

 

中津川宿㊺に入っていく                中津川宿㊺ 高札場

  

 

 中津川宿㊺  常夜灯と湧水がいい             中津川脇本陣跡を入ると体験資料館がある

 

 

中津川村  庄屋跡                         美濃傘と草鞋がいい

 

 

 

中津川宿㊺ 銘酒<恵那山>と街並み               <小手の木坂>を下って大井宿㊻に向かう

 

中津川宿の街並みを過ぎると、背後に馬籠峠と雄大な恵那山が広がり、

<中津川の一里塚跡>(江戸より85里/約340km・京へ50里/約200㎞)に出る。

これら一里塚に出会うたびに、すこしづつ江戸より離れる寂しさと、これまた少しづつ京に近づく安堵感が

かさなり、旅の比重が心の中で変化するのがよくわかるのである。

その心の微妙な動きの中で、いまのいまにいる自分を風景に埋没さす喜びが、何とも言えない安心感と

なって広がっていく。

旅の醍醐味は非日常的な時間に迷い込んでいる自分を見つめられることにあるのではないだろうか。

 

<小石塚の立場跡>のような人々を縛る立場(たてば・通達掲示板)が、村々の目立つところにあった

ことを思うと、政(まつりごと)にとって日本というちょうどいい広さの国を治めるのに適した機能を

果たしているんだという不思議な安心感と、為政者の人民を支配し、管理統制したいという恐怖への情熱を

感じとれて、旅を面白く演出してくれるのである。

 

 

 

中津川の一里塚跡(江戸より85里/ 340km)           小石塚の立場跡

        (京へ50里/約200㎞)

 

 ・・・などと大自然の中で考えているわれわれ弥次喜多を笑っているように、悠然とその優雅な姿を

横たえている恵那山が目の前に飛び込んできてわれわれが小さく見えてくる。

しかし、そのちっぽけな我々が巨大な山塊である恵那山を飲み込み、咀嚼できるモンスターでもある

ことに気づき、驚くのである。神は偉大なるバランスの世界をわれわれに提供したと考えていいのでは

ないだろうか。

目の前の恵那山、その姿は学生時代、同志社今出川校舎より眺めた比叡山にそっくりである親近感に、

心はすでに京に飛んでいることに気づかされた。

その麓に横たわるように大井宿㊻が静かにわれわれ弥次喜多を迎えてくれた。

 

                比叡山そっくりな、優雅な恵那山の雄姿

 

 

 ◎<大井宿㊻>   日本橋より徒歩総距離490㎞ 地点

 

大井宿㊻は、整然と道が直角に曲がる<桝形(ますがた)>を配した独特の町並みをもつ宿場で、

総戸数110軒、旅籠41軒、美濃16宿の中で最大であった。

また、<甚平坂>はじめ坂の多い宿場である。

 

歌川広重画 中山道 木曽海道六十九次・大井」(大井宿㊻)

 

 

 

大井宿㊻の街並み                         中山道<是より大井宿㊻>

 

<甚平坂>

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに

臨む木曽川の岸であり、あるとこらは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道は・・・

島崎藤村の<夜明け前>より)

 

中山道木曽路を過ぎて馬籠宿㊸から中津川宿㊺・大井宿㊻に来ると、小高い丘をいくつも横切って進む道

となり、起伏は多いが空が広く展望の良い道となり、恵那山や御嶽山を見続けて歩くことのできる道となる。

そのため昔の旅人はこの道を<尾根の道・眺めよし>と言っている。

ところがこの甚平坂は、距離は短いが急な坂道で、長い間旅人には嫌われていたが、明治になって明治天皇

伊勢方面を視察のために中山道を通ることになり村民総出で坂の頂上を掘り下げ坂の傾斜をなだらかにした

というエピソードが残っているという。

 

 中山道 大井宿㊻ マンホール蓋                 「甚平坂」解説板

 

中山道といえば、<皇女和宮降嫁>でも有名である。

ここで和宮降嫁についてみておきたい。

 

<皇女和宮降嫁> (和宮ーかずのみや)

 和宮降嫁の中山道 25日に及ぶ皇女の長い旅。

今から150年前の幕末期、緊張した朝廷と幕府との融和を図るため、仁孝天皇の第八皇女であった和宮は、

十四代将軍家茂のの御台所となるため、中山道を江戸に向かった。

和宮の江戸下向の行列は1861年文久1年)10月20日京都御所を出発、皇女が武家へ嫁ぐために東国へ

下向することは前例のないことであり、約2800名という大行列であった。

大行列は中山道の23泊で、泊を重ねながら、大井宿㊻(恵那)近辺では、10月28日大湫宿

10月29日中津川宿で宿泊し、25日の日程で江戸へ至った。

中山道史上、類を見ない大規模な行列は壮観であったが、中山道の各宿場では、家屋の修築・新築、大量の

布団や食器の調達、人馬の手配などで大騒ぎとなったという。 (中山道岡瀬沢保存会)

 

<関戸一里塚跡>は、  江戸より89里・約356/京へ46里・約184㎞地点に立つ大井宿にある一里塚である。

関戸一里塚跡から<中央自動車道>をくぐると、寺坂に立ち並ぶ道祖伸たちに迎えられ、門前の300年の

老松がある<本陣跡>や、<高札場跡>、<脇本陣跡>へと導いてくれる。

 

 

中山道 <皇女和宮降嫁150年>               中山道<関戸一里塚跡>

                         (江戸より89里・約356/京へ46里・約184㎞地点

 

中山道 大井宿㊻ 寺坂の道祖伸たち       大井宿㊻本陣跡と<桝形>案内板

  

 

大井宿㊻ 本陣跡           大井宿㊻ <中山道ひし屋資料館> 庄屋跡での町屋体験

 

   

 

大井宿㊻ 戸長役場跡              大井村庄屋古屋家

 

 5月8日 午後3時58分、本日の予定である大井宿㊻までの行程を終えて、中津川落合㊺に引き返し、

予約を取っている「木曽路ふるさとユースホステル」にチェックインした。

 

  <▲21~22日目ユースホステルにて連泊 >

       「木曽路ふるさとユースホステル>    5月8~9日(2連泊)

        〒508-0006 岐阜県中津川市落合1921   TEL:0573-69-5128

 

明日、5月9日を休養日としているため、ユースホステルの快適なベットで二連泊、ゆっくり安眠をむさぼる

ことにした。

もちろん一泊2食付きである、われわれ弥次喜多にとっては贅沢な休養日である。

たまった洗濯物を処理し、十分な休養を取ってリフレッシュし、京都三条大橋に元気にたどり着きたい

ものである。

  

 

ユースホステル正面の恵那山            <木曽路ふるさとユースホステル>                      

 

 

 

■  22日目 休養日 中津川 「木曽路ふるさとユースホステル」にて   5月9日

 

 

   《 馬籠は深い眠りにあった。天気予報どおりか、雲に覆われた恵那山のシルエットが水墨画

    ように美しい。

    雨を警戒しての東屋での一夜、テントと違い開放感に心身とも軽やかだ。

    馬籠の急なる石畳をまだ覚めやらぬ旅籠一軒一軒の様を楽しみながらくだる。

    昼間の観光客による雑踏を考えると、お店の多いことも頷ける。

    栄昌寺にある藤村の墓に詣で、一路落合宿へくだる。

    有名な古刹と呼べる苔むした石畳を十曲峠からおりる。深い木立ちに囲まれ、今にも修験者が

    現れそうな禅なる世界が展開する。

    以前、吉野から熊野まで五泊六日の奥駆けをただ一人で野宿(ビバーク)しながらの縦走をした

    ことがある。

    あのときに経験した精神的集中、宇宙の原点に引き込まれる際の頭脳の痺れをここでも体験させ

    てもらえた。

     喜多さんこと祥介氏曰く、

    「隊長、ここはまさに『てくてくラリー』の真髄、人生の十曲(じゅうまがり)を学ばせて

    いただくところですな」と。

    仏法的表現だと「無常甚深微妙法」と言ったところか。

    聖書的には「死んでも生きる」と言えようか。

    弥次喜多にとっては一種の宗教的な覚醒を覚えたところとなった。

 

    さて、落合宿㊹を経て中津川宿㊺、大井宿㊻へと一気に歩いた。昼から気温はうなぎのぼり、

    最高で体感28度に達したか。

    どうも紫外線の取りすぎか疲労度がまし、日射病の症状が出はじめた。

    「これはいかん」休養日を取らなくちゃと、中津川にある『木曽路ふるさとユースホステル』に

    午後5時半に投宿。

    とにかくベッドに潜り込み睡眠を貪った。

    みなさんからご心配いただき申し訳なしだ。夜中元気を取り戻し発信中だ。

    今日5月9日月曜日は、休養日とし疲れをとってしまいたい。

    ワイルドローバー号の頑張りには頭が下がる。

    この起伏にとんだ山岳地帯をただ黙々と私たちの荷物を運んでくれている。

    毎朝夕、出立時と到着時には感謝の熱い口づけをもって労をねぎらっている。

    現在のところ持参している予備のタイヤの世話になっていない。

    靴君夫妻も見事な協力ぶりだ。

    モンベルのマウンテンランナーという最高のシューズを履かせていただいている。

    もうそろそろ携行予備二世夫妻にバトンタッチかな。

    登山中の足の豆は長年の親しい友だが、今回の長距離徒歩ではいまだ一つの豆友さえ

    作ってはくれないでいる。

    その理由はモンベルの哲学にあると思う。

    それは『使用者のハッピーはわれわれのハッピーだ』と。

    豆友ができない工夫は、インソール(中敷)がメッシュになっていてザラザラしており、

    摩擦面を極限にまで少なく押さえていることと、ざらつきにより足の裏を鍛えるところにある。

    当初の感触に対する違和感も理由が解ればなるほどと感心することしきりである。

    さてわが肉体の一部である足の裏さん、これこそ縁の下の力持ち。

    わたしの歩く原動力はここにあるという信念で誰よりもよく語りかけ、学ばせていただいている。

    足様はただ黙々と歩いているんではないのだ。

    わたしの一歩でさえ彼等はいろいろ考え、分析し、この一歩はいかなる意味を持つのか、

    そのために自分達はいかなる行動をとればいいのか、最善の努力をして次の一歩につないでいく。

    まるでわが人生の歩みの姿勢そのものを教えてくれているではないか。

    有り難いことだ。

    風呂で足の裏を丁寧に愛情をこめて洗わせていただいた。

    感謝、 これこそ<ナマステ>だ。

   《わたしのすべての愛をあなたに捧げます. そして, わたしの命をあなたに捧げます》

    という意味をもつ。

    5月9日は休養日とする。のんびりと過ごしたい。

    今週後半の天気は荒れ模様になりそうだ。

    5月10日の予定としては大井宿㊻から細久手宿㊽まで行きたい。

    中津川にある木曽路ふるさとユースホステルにて。

    これから朝食である・・・

    弥次喜多・後藤實久&田中祥介 》

 

  

 

木曽路ふるさとユースホステル>              中津川宿㊺ 街道での道祖伸との霊交

 

 

 <恵那山麓にてつれづれに  ー  『夜明け前のボーイスカウト移民』>

 

   《 夜明け前のここ中津川の郷は、三日月が風に揺れて泣き笑いしている。

    この木曽谷に出る月に問いかけて島崎藤村『夜明け前』を書いたのだろう。

    思うにわたしも藤村の影響を受けた一人かも知れぬ。

    藤村は木曽路と言う狭い土地柄(世界)を描写しつつ自由、解放を叫んでいた。

    わたしも青年のころ日本という狭い世界から海外へと旅立つことを夢を見ていた。

    同志社ローバーの(スカウト)ユニフォームを着て神戸港より最後の移民船ブラジル丸で

    家族やスカウト関係者に見送られ出港したのが若き22才の時だったことを、

    藤村の生誕地、馬籠で懐かしく思い出していた。

 

    スカウト移民としてブラジル・サンパウロにあったカラコルム隊に派遣され、

    バウー研修所に入所した。

    当時、敗戦後の日本には多くの戦争孤児が青年に達し、大学や地域のローバースカウト(青年隊員)

    に参加していた。

    青年のエネルギー(情熱と夢)を大陸で花開かす計画を立てていた日本連盟の当時の三島通陽総長、

    久留島秀三郎理事長、小林運美事務局長はブラジルのサンパウロにある日伯援護協会会長細江静男

    ドクター、小幡事務局長(当時・カラコルム隊隊長)の間にローバー交流協定を結んだ。

    わたしはその最後の派遣ローバーである。

    この間約40名近くののローバーが渡伯、原始林開拓、農業や牧場、果樹園に従事していた。

    私に与えられたプロジェクトは、メインの養鱒(ブラジルで初めて)技術の指導普及、

    世界連盟研修用野営サイトの建設(キャンプサイト、教会、水洗トイレ、本部棟の建設協力)で

    あった。

    建設地は、サンパウロ市とリオデジャネイロの中間にある避暑地カンポス ド ジョルドン(標高約

    1600M)で軽井沢のような地にあった。

    生活はカーボーイとしての乗馬訓練、射撃訓練、果樹園の手入れ、乳搾り(チーズ作り)など

    楽しい時間を過ごした。

    夜はランプ生活、ドラム缶風呂からみる南十字星の幻想的な美しさかが忘れられない。

    牛泥棒との対決、馬に跨がり買物のため麓に下山、帰りが真夜中になり馬上で居眠りしていると

    わたしを枝に宙吊りにして馬はさっさと行ってしまった時の慌てよう。

    馬は実に賢い、一度通った道は暗闇でもわかるらしい。

 

    危険なこともあったスタッフの一人からピストルの使い方を教わっていたとき、弾丸は抜いていた

    はずだが、冗談にもわたしの顔を狙って引き金を引いたんだからたまったもんじゃない。

    銃口に左手をあてていたので弾丸は螺旋状に急速回転しながら掌を貫きわたしの顔をそれ、

    後ろの壁にめり込んだ。弾丸が一発残っていたのだ。

    人はいつも死と隣り合わせだ。今を生きられている摩訶不思議、それはそれぞれに与えられた

    運命かもしれない。

    そして、そこに自分を主人公とした自分だけのドラマ、人生物語が 星の数だけ生まれている

    のだろう。

    そうそう鱒の話だが、当時南米ではアルゼンチンだけに生息していた鱒の稚魚を取り寄せ失敗を

    繰り返していたが、現在レストランに卸せるほどの養鱒場に成功していると聞く。

    ちなみにわたしに養鱒の技術を教えていただいたのは、左京区花園橋から入った八瀬にある

    <鱒の坊>の先代である。

 

    ブラジル同志社クラブについても記しておこう。

    移民としての同志社人もかなりおられたようだ。初代会長はブラジル大使だった古谷重綱老で、

    わたしがお会いしたときは、すでに百才にお近かったと思う。ご夫人もご健在であった。

    重鎮としては、清水尚久先輩(同志社中学より大学へ、ラクビー部所属、愛媛県出身)、

    大橋先輩、若い世代としては今西氏(石川島播磨重工、父上が同志社大学社会学部教授)、

    寺坂氏(ブラジルクボタ鉄工、二人共同志社中学より大学へ、乗馬部所属)、

    北村氏(マットグロッソカンピーナスで寝具衣料経営、同志社経済卒)、

    それに若輩後藤(バウー研修所員、早川電機工業ー現シャープ、岩倉高校同志社経済)が

    加わった。いまから約四十五年前の話だ。

 

    時間があるのでついつい備忘録作りとあいなった。

    わたしもようやく老境にさしかかっているのだろう。

    今日は昨日と同じく二十五度の真夏日になりそうだ。

    ここ中津川にあるユースホステルで疲れをとるため連泊している。

    明日5月10日からは三日続けて雨らしい。

    恵那山の麓に広がる棚田に山水がひかれ蛙の大合唱だ。

    後藤記 》 

 

           

                  CAMPO de ADESTRAMENTO

                  GRUPO ESCOTEIRO CARAMURU

                  ボーイスカウト・ブラジル

             サンパウロ・カラムル隊 トレイニングキャンプ場

 

 

《関連ブログ : 2022『星の巡礼 スカウト移民小史 序章 』》

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2022/09/11/1129442022

 

 

 

星の巡礼 スカウト移民小史 序章』 <Scout Immigrant History> <Imigração Escoteira> 《ボーイスカウト移民小史 序章》 後藤實久 1957年わたしが高校、シニアスカウト時代、当時の関東にある大学ローバースカウトの中から、理想郷を目指してブラジルのバウー訓練所へ移住するローバー(青年)スカウト達</imigração></scout>…

 

 

   <Fw: Kです

   《お元気ですか?安中での夢のような日々のあと慌ただしく日が過ぎています。

    あの日教会で「強く願うこと、そして種をまくこと」を後藤先輩から示していただきました。

    イエスキリストも、新島襄もそのようになされたから今も多くの芽生えを生んでいるんですね。

    今回の安中をやりとげる原動力は、祥介のローバース復活へ見せてくれた頑張りに僕なりに応え

    たいという気持ちがあったからです。

    そして後藤先輩の並外れたファイトも僕を後押ししてくださいました。 

    二人のファイターに神の祝福を!中山道後半の旅のご無事を祈っています。  Kより》

 

  

  <安中教会 真下様より陣中見舞>

   《後藤實久様

    本日の休養は十分に取れたでしょうか。

    高速道を走ればあっという間に通り過ぎてしまう、鄙びた宿場町、

    ワイルド・ローバー号、靴、足の裏、沢山の感謝する対象に囲まれての旅、いいですね。

    私の方は、寒風に吹かれながら剪定作業等の面倒を見てきた梅の木が、いよいよ収穫の時期

    を迎え、そして僅かな畑ではありますが、雑草退治に追われる日々となります。

    遥か遠くに後藤さんのお姿を眩しく想像しながら。

    真下より》

 

       

                   <無の風と遊びて

                  詩 後藤實久

 

               陽光全身を包み空の彼方へ我を誘う、

                草息 我に風の衣を着せて喜ぶ、

                時 われを誘い、時 われと戯る、

 

              時の流れに身を沈め、時の中で躍るなり、

              われ天地にありて、ひとの生き様を識り、

            命を芽吹き命を捨つるに、ひとの尊さを観るなり、

 

                  けふも無の風に遊びたい

  

  

 

ここ中津川はすでに美濃の国である。

湿った海の風が南の方から上がってくるのであろうか、蒸し暑さが加わる。

昨日は献花式以来の休養日。

近くの棚田にでかけ、綺麗に刈り取られた畦みちに半裸の体を横たえ、

棚田に流れ込む谷間の水の忙しげな流音を楽しむ。

 

 

 

 

■23日目 中山道    <中津川宿㊺⇒大井宿㊻⇒大湫宿㊼⇒細久手宿㊽ >

               30.0km/10h  5月10日

  

中津川落合にある<木曽路ふるさとユースホステル>で連泊、

十分な休養を取ったのであろうか足取りも軽やかである。 

すでに5月8日に大井宿㊻の散策を終えているので、直接<大湫宿㊼>(おおくてしゅく)に向かった。

とにかく大井宿から権現山をへて大湫宿㊼に行くのであるが、数えきれないほどの坂が続く難所である。

中山道はよく整備されており、雨ふりの坂は枯山水の雰囲気を醸し出していた。

 

 

大井宿㊻を駆け抜け、西行硯池の先にある国道19号線と合流したあと旧中山道に入り、<西行硯池>に立寄り再度<中央自動車道>をくぐる。

そのさきにある<西行坂>を上っていくと<槙ケ根の一里塚>(江戸より88里・約352km/京へ47里・約188㎞)地点に達する。

 

 

 槙ケ根の一里塚(江戸より88里/ 約352km)

                               (京へ47里・約188㎞)

 

             (西行塚) 

     《道の辺に 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ たちどまれつれ》  西行

  

 

大井宿㊻ 西行塚                十三峠入口

 

その後、<首無し地蔵跡の碑>を後にし、乱橋を渡り標高600mにある<十三峠>を越え、

<平六坂>を下ると<紅坂の一里塚跡の碑>(江戸より89里・約356㎞/京へ46里・約184㎞)を通過する。

さらに難所である<乱れ坂>から<三城峠>を越え、権現山の麓を巻くと<樫の木坂の石畳み>にある

次なる一里塚<権現山の一里塚跡>(江戸より89里・約356㎞/京へ46里・約184lm)にたどり着く。

  

    大井宿㊻  <首無し地蔵跡の碑>          中山道 大井宿㊻ <乱れ坂>

 

 

大井宿㊻<平六坂 >

                              

 

<紅坂の一里塚跡>の碑              大井宿㊻ 藤村高札場

(江戸より89里・約356㎞/京へ46里・約184㎞)

 

 

大井宿㊻  雨のなか難所の<三城峠>を行く              大井宿㊻ 最難所の<大久後観音坂>へ入っていく

  

 

権現山麓の棚田                  十三峠にある尻冷やし地蔵尊

 

<十三峠>

十三峠は、上り下りとも坂また坂の連続である。自転車を押し上げるのに一苦労、降りるときもブレーキをかけながら押して降りるのである。下り坂であるからと思うのだが、転がりゆく自転車を押しとどめるのに大変、肩こりに悩む。

石畳みや砂利道では雨に濡れスリップ、中山道で最も難儀する峠であるということは確かである。

 

   《菖蒲咲き 乱るる峠 雨煙り》   實久

 

 

 十三峠を下っていくと<大湫宿㊼>に入っていく   中山道大湫宿>㊼入口に立つ宿場道標

   

十三峠の地蔵坂より<大湫宿㊼>の町並みを一望

 

 

大湫宿㊼> (おおくてしゅく)   日本橋から徒歩総距離540㎞ 

 

さらにその先の<地蔵坂>を下っていくと、前方に大湫(おおくて)の街並みが一望できる。

5月10日、昼12時50分、大雨のなか<大湫宿㊼>(おおくてしゅく)に到着した。

 

大湫宿㊼は、海抜510m の高地にあり、美濃16宿の中で最も標高があり、

それだけ急坂がつづき難所である。

大湫宿㊼は小さいが、東に十三峠、西に琵琶峠というそれぞれの難所をひかえ、一息つける宿場で

あったようだ。

実際に歩いてみると、どちらの峠もたくさんの坂があり、その数に驚かされる。

ここ大湫宿㊼は、尾張藩領に属し、総戸数66軒、旅籠30軒の山間にある宿場であった。

 

ちなみに<十三峠>前後の峠を数えてみた。

大井宿㊻を出て、大湫宿㊼までの間に、なんと峠が約22ヶ所も連なっていたから驚きである。

《大井宿㊻をでて➡ 乱れ坂⇒ お継原宿⇒ かくれ神坂⇒ 平六坂⇒ みつじ坂⇒ 西坂⇒ 黒宿毛坂⇒ 紅坂 

 ⇒ 念仏坂⇒ くろすくも坂⇒ 西坂⇒ 三城峠/十三峠⇒ 茶屋坂⇒ 地蔵坂⇒ しゃれこ坂/八町坂 

 ⇒  山之神坂⇒ びあいと坂⇒ 巡礼水の坂⇒  樫の木坂⇒   吾郎坂 ⇒寺坂  ⇒童子ケ根坂 ➡

 大湫宿㊼に入っていく》

 

         

                      山之神坂

  

何と多いことか、これでも精一杯の観察、記録であって、まだ沢山の坂を見落としていると思われる。

走り書きのメモなので順番もこれで正しいかどうかもあやしい。

そのうちこの坂の多いルートは、ツール・ド・フランスのようなヒルクライムの聖地になるような気が

してならない。

 

次なる峠<琵琶峠>前後の峠は、大雨(警報発令中)のためカメラもメモもとれず、記録を断念した。

 

 

大湫宿㊼ 本陣跡                 大湫宿㊼ 脇本陣

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道六拾九次之内 大久手』(大湫宿㊼)

 

大湫宿㊼本陣跡を後にして、神名神社の樹齢1300年の大杉を見ながら進むと、巨大な二つ岩<母衣岩(ほろいわ・陰石)と烏帽子岩>が目を引く。その先、琵琶峠への石畳みがはじまるあたりに<皇女和宮御歌の石碑>が建つ。その少し先に、<八瀬沢の一里塚跡>(江戸より91里/   364km)がある。

 

      <皇女和宮御歌の石碑>

        《遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける》  皇女和宮

        《思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは》  皇女和宮

 

 

 

皇女和宮御歌の碑          八瀬沢(琵琶峠)の一里塚跡(江戸より91里/   364km)

                                                                                                                 (京へ44里/ 176km)                        

中山道<琵琶峠>(大湫宿㊼~細久手宿㊽間の峠) 

 

ここ琵琶峠で、大雨警報が発令されたことをラジオで知り、大湫宿への中山道行脚を中断し、緊急避難することにした。

 

 

<▲23日目の仮の露営地―天神バス停>  琵琶峠(標高540m)

 

琵琶峠(標高540m)への中山道は、大雨で滑りやすく危険であり、残念ながら前進を断念することにした。

午後4時30分、とりあえず飛び込んだ<天神バス停>が、今夜の仮の露営地になってしまった。

大雨でずぶ濡れの服を着替え、バス停軒下に吊るすが、緊急避難ということでバス停占拠を許されたい。

 

雨やどり<天神バス停>仮の宿

 

 <ラジオ・FM GIFU> は、 <只今 大雨警報発令中 山間部での土砂崩れに注意>

と注意喚起を流している。

屋根だけあるバス停は雨風の吹き曝しである。テントを体に巻き付けて夜を明かすこととなった。

 

 

   《休養日を木曽路ふるさとユースホステルで取った。

    今日5月10日、午後から雨の予報、雨の降る前に出きるだけ距離を稼ぎたいので朝5時に

    出発した。

    すでに霧雨が降り出しており、祥介君にも雨天決行を覚悟してもらう。

     大井宿㊻から細久手宿㊽までの行程には約13の峠と隠れ峠が7つ連なり、その最高峰が

    有名な琵琶峠540Mである。

    本部の調査報告でも、難易度4と報告されている。

    まず喜多さんの祥介君に後ろから押してもらい登坂を開始したが6番目の登りで息がきれた。

    雨に濡れた携行品が重すぎて、砂利や岩石、石畳や山道の土砂流出防止用の横渡しの丸太に

    ワイドローバー号が横滑りするのだ。

    山中にいるので突破しないかぎり目標の宿場に着けない。

    雨が激しさを増し、雨具を透して体のなかを流れる。

    記録や写真どころではない。

    記録ノートの一部が雨に濡れボロボロだ。

    覚悟はして準備は万端だったが、津波原発に対して最近日本人がよく使いだした想定外という

    ことか。でも異常な豪雨だ。この状態があと三日続くという。

    午後4時30分、細久手宿入口の『天神』というバス停に豪雨を避け飛び込む。

    瓦ぶきの二畳ほどのスペースだ。ただ東屋風なので霧状の細かい雨が前後左右から襲いかかっくる。

    まずロープを張り、着ていたすべての衣類を新しいものに着替え、濡れたものを絞って干す。

    たぶん乾きはしないだろう。

    あとは風邪をひかないようにあるだけのものを重ね着して体を温める。

    すでに周囲は暗くなりつつある。

    寝る準備を急ぐ。

    夕食はバナナ一本、チョコレート、カステラ二切れ、ビスケット一箱、水一本を祥介と二等分する。

    こんな被災地生活というか山の生活のためか祥介君の体重が60キロ切ったとか。

    雨足がますます激しくなってきた。着ているものも湿ってきた。

    今晩は早く寝袋に潜り込むことになりそうだ。

    何かボーイ時代の布天幕を思い出す。当時のテントは雨に弱かった。フライをしなかったら

    テントの中に霧雨が舞ったものだ。雨漏り、浸水と大変だったことを思い出す。

 

    今日は大湫(おおくて)宿㊼本陣跡の小学校校庭にある皇女和宮の歌碑に出会った。

    彼女は天皇家より将軍家へここ中山道をたどり嫁入りした時に、その心境を詠っている。

       《 遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける 》

       《 思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは 》

 

    今日は雨のなか、てくてく17Km、9時間の行程だった。

    明日11日のスケジュールは雨模様だが細久手宿㊽、御岳宿㊾を経て伏見宿㊿まで行きたい。

    おやすみ。  弥次喜多 ・後藤實久&田中祥介 》

 

 

←至・細久手宿㊽        <中山道 美濃 大井宿㊻ 案内図>       至・中津川宿㊺→

          

←至・大湫宿㊼(おおくてしゅく)   <中山道 深萱街道筋案内図>         至・大井宿㊻→

 

←至・御嶽宿㊾        <中仙道 細久手宿㊽と大湫宿㊼ 案内図>       至・大井宿㊻→

 

←至・伏見宿㊿                   <中山道 御嶽宿㊾家並み図>         至・細久手宿㊽→

 

 

 

 

■ 24日目  中仙道 <細久手宿㊽ ⇒御嶽宿㊾ ⇒伏見宿㊿ >  

              20km/9h     5月11日

 

 

23日目の仮の宿であった琵琶峠の<天神辻の地蔵尊>横のバス停<天神>を、いまだ雨降る早朝5時45分に

出発、<焼坂の馬頭様>にご挨拶をし、細久手宿㊽に向かった。

昨日から続いている雨は,今朝も飽きることなく降り続き、琵琶峠より下る坂は雨雲にすっぽり覆われ、

いまなお暗い帳に閉ざされている。

<一つ尾辻の地蔵尊>、<弁財天の池>の横を下り、江戸から92里(約368km)の<奥之田の一里

塚>に達する。

雨に濡れた雑木林の中を行く旧中山道は、そこを行きかう古の旅人の息遣いが聞こえてくるようである。

 

 

 

 天神辻の地蔵尊横のバス停「天神」を出発     <奥之田の一里塚>(江戸から92里/368km)

                             (京へ43里/172㎞)                           

  

 細久手宿㊽入口            陣跡であり、現在も営業を継続している<大黒屋>

 

本陣跡であり、現在も営業を継続している<大黒屋>に迎えられ、いつの間にか、細久手の宿場に

入ったようである。

 

 

◎<細久手宿㊽> 日本橋より徒歩総距離 544km 

 

 

細久手宿㊽は、すでに立ち寄った東隣りの大湫宿㊼(おおくてしゅく)と、これから訪れる西隣りの御嶽宿

㊾(みたけしゅく)の両宿間は18km(4里半)と長く、両宿の人馬や旅人が難渋したため、慶長11

(1606)年に<間の宿>としての性格を持った宿場として設けられた。

細久手宿㊽は尾張藩領で、総戸数65軒、旅籠24軒、日本橋から中山道48番目の山間の宿場であった。

 

脇本陣跡>を過ぎ、<津島神社>前を進むと、<秋葉坂三尊>に迎えられ、秋葉坂ハイキング

コースに入っていく。

坂の途中に<鴨之巣の一里塚跡>があり、江戸より93里(約372km)の地点を通過して、急な坂を

下り、<渚之木坂>上ったりして、馬の水飲み場のあった<物見峠>に達する。

 

<鴨之巣の一里塚跡>(江戸より93里/372km)

                                      (京へ42里/168km) 

 

 

物見峠に向かう                              謡坂(うたうざか)を下ってくる

          

謡坂(うたうざか)から続く、旧中山道 <牛の鼻欠け坂>を下ると国道21号線に合流する。 

国道19号線から入った旧中山道(県道65)、ようやく過酷な山道から脱出できそうであるが、

国道21号線では止むことなく降り続く激しい雨が弥次喜多を襲ってきた。

 

       

         国道21号線に出て安堵、だが大雨

 

峠からつづく<謡坂>(うとうざか)には、旅人の喉を潤したであろう<一飲の清水>や、付近の隠れキリシタンが拝んだであろう<マリア観音>が祀られた寺があったりと、<謡坂の石畳>の歴史の声に聞き耳を立てながら、急な下りを<牛の鼻欠け坂>めかけて駆け下りていくと、国道21号線との合流地点にある、この地で病死した<和泉式部の墓>に出る。

 

平安時代に生まれ、恋多き女性として知られる和泉式部の句といわれる辞世の句を紹介しておこう。

 

   《あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな》 和泉式部
        ー私はまもなくこの世から去ってゆきます。この世の思い出として、

              もう一度だけぜひあなたにお逢いしとうございますー

 

この国道21号線は、都(京のみやこ)の優雅できらびやかな匂いを直接運んでくれる大動脈である。

大雨のなか、式部の情熱でカッパの中を蒸らしながら、懐かしき京の都を思い描いた。

 

国道21号線は、米原国道8号線につながり、草津宿(68)で国道1号線である東海道と合流して、

中山道最終地点である京都の三条大橋に続くのである。

ようやく京都三条大橋が我々の想定内の範囲に入ったのであるから弥次喜多としては、

嬉しさを隠しきれずにいる。

ここ国道21号線と旧中山道の合流点は、われわれを中山道踏破成功の入り口に立たせてくれたのである。

さあ、京都三条大橋へと急ごう。

 

歌川広重画 中山道「木曽街道六十九次・細久手」(細久手㊽)

 

和泉式部の墓

  

 

御岳宿㊾ <中山道みたけ館 >                      御岳宿㊾ 名鉄広見線御嵩駅>

 

国道との合流するところにあるコンビニ<サークルK>に飛び込んで、冷えた体に熱いコーヒーを

流し込んだ。

いまだ大雨は、中山道に降り注いでいる。 

西にそびえるはずの<御嶽富士>」はその姿を雨雲に隠してしまっているではないか。

この先で国道と別れ左に入っていくと、<御嶽宿㊾>である。

 

 

御嶽宿㊾>       日本橋から徒歩総距離 590㎞ (立寄り地含む)

 

御嶽宿㊾は、願興寺の門前町として発達した総戸数66軒、旅籠28軒という、江戸から49番目

の宿場であった。

 

 歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・御嶽」(御嶽宿㊾)

 

広重の<木曽街道浮世絵・御嶽>に彫られているこの時代の <きちん宿>は、薪代のみを

支払い、食事は自炊する簡易な宿泊施設であったという。

炊事用の鍋を囲炉裏にかけ、旅の疲れを癒しながら旅での出来事や、情報を交えながら談笑

する旅人たちの話し声が聞こえてきそうである。

この浮世絵のなかに描かれている<きちん宿>は、先に通ってきた<謡坂>(うとうざか)

辺りではないかと推測されている。

 <道の駅 三岳>での昼食、水補給の後、ご無沙汰している温泉につかるため鬼岩温泉に立寄る。

 

<鬼岩温泉 湯元館 日帰り湯>  920円 天然希少ラジウム温泉

 岐阜県瑞浪市日吉町9499-13   0120-515137

 

御嵩宿㊾を貫く国道21号線を東へ6㎞ほどのところに<鬼岩温泉 湯元館 日帰り湯>がある。

われわれ弥次喜多は、冷えた体を温め、疲れと垢を落とすため温泉につかることにした。

 

 そのあと、御嶽宿㊾の門前町としての街づくりの中心であった<願興寺>に寄ったあと、再度国道21

号線に出て、<鬼の首塚>と、<比衣の一里塚跡>(江戸から96里・約384㎞/京へ39里・約156㎞) 

を経て、<伏見宿>㊿に入っていく。

 

  

鬼の首塚                                     比衣の一里塚跡(江戸から96里/384km)

                                                                                                                                   (京へ39里/156km )

 

 

 <▲24日目の露営地   伏見宿㊿  大雨のため一本松公園の東屋の軒下でテント泊> 5月11日夜

 

昨日につづいて大雨。

冷え切った体を鬼岩温泉の湯元館で温めたおかげで、今夜の露営地である伏見宿の一本松公園に張った

テントの中が心地よく感じられる。

昨晩の風雨との戦いで疲れた体は、よく眠ってくれそうだ。

今回の<中山道てくてくラリー>で、われわれは弥次喜多というペアーを組み中山道走破に挑んでいる

のであるが、ここ伏見宿㊿で十返舎一九原作の『木曽街道続膝栗毛』の主人公である本物の弥次喜多

出会ったのだから愉快である。

本物の弥次喜多が、ここ伏見宿でどんな過ごし方をして楽しんだのか、紹介したい。

 

     

    大雨のため、伏見宿㊿にある一本松公園の東屋の軒下で露営

      

 

   《この度の『中山道てくてくラリー』では田中祥介氏と後藤が弥次喜多を演じているが、

    作者十返舎一九は原作の『木曽街道続膝栗毛』では、弥次さん喜多さんがここ伏見宿に泊まる

    設定になっている。

               話の中では、加納宿を出た二人は旅籠の女将から伏見宿の山本屋主人宛てに

    預かったラブレターを意地悪く主人ではなく女将さんに渡した。

    すると読んだ女将が主人と喧嘩をはじめ、主人の額にできたタンコブを食いちぎってしまった。

    近所の人も集まり、どんどん騒ぎが大きくなると、身重だった女将が産気付き『オギャー』と

    赤子が生まれ、医者の雲竹が食いちぎられたタンコブも上手く縫い合わせ、一件落着。

    この様子を弥次さん喜多さんは大笑いして見ていたそうな。

 

    こんな話をしながら雨のなかを現代の弥次喜多は泣き笑いしながら中山道細久手宿を今朝

    5時45分にスタート、峠越えをして御嵩宿㊿へ、予定の伏見宿(51)には午後4時半に到着した。

               現在の伏見宿を通る中山道は、国道21号線となり、なにを急いでいるのか車が激しく行き交う。

    われわれ弥次喜多は取り残こされた人種かもしれぬ、いや邪魔者かも。

    今の人々はノンビリしていると夢や希望を逃してしまうと急いでいるのだろうか。

    と寝る前にふと考えてしまった。

    今日も中山道は雨だった。

    距離は20キロ、9時間の雨の中の行程だった。

    明日(5月12日)はできれば伏見宿㊿、太田宿(51)を経て鵜沼宿(52)まで20キロを歩きたい。

              明日も雨のようだ。

              おやすみ。弥次喜多こと祥介&實久 》

 

 

日本のながい歴史にも、幾多の悲しい出来事があったことは確かである。

しかし、日本人の特性として平和を愛し、安定を切望する一貫した希求は、一般市民の真心と笑いのなかに

生き続けていることも確かである。

このような素晴らしい人間性を育んできた英知を捨て去ることなく、われわれ一人一人の日常の生活に

取り入れ、大切に残していきたいものである。

 先に出会った和泉式部(いずみのしきぶ)の情熱的な和歌や、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛』で

繰り広げる弥次喜多の笑いのなかに平和を愛する日本人の姿を垣間見ることができる。

 

 

 十返舎一九作『木曽街道続膝栗毛』            『木曽街道続膝栗毛』 の主人公弥次喜多さんと

                   (京都三条大橋西端南側 2016/5/23東海道53次出発時)              

 

 

 

■25日目 <伏見宿㊿ ⇒大田宿51 ⇒鵜沼宿52 ⇒加納宿53> 

                            25.0km/10.5H  5月12日

 

 

伏見宿㊿> 日本橋より徒歩総距離 590km 

 

伏見宿㊿にある一本松公園の大きな東屋の土間で雨の一夜を過ごし、ここ伏見宿での十返舎一九

『木曽街道続膝栗毛』 の主人公弥次さん喜多さんと、時空を超えた空想上の出会いをはたし、

ふと京都三条大橋西端南側に、これから旅立とうとする弥次さん喜多さん銅像が建っているのを

思い出しながら、眠りに落ちた。

 

 

朝、テントから顔を出してみると、3日間降り続いていた雨は小休止なのか、雨だれの音も消え、

さわやかに出発の準備を終えた。

5月12日6時、ここ伏見宿㊿より今夜の露営地・加納宿(53)に向かって10時間半、25kmの行程を

歩き出した。

北アルプスを愛するものとして忘れられない修行僧 播隆上人の名号碑であえる『南無阿弥陀佛』と

刻まれた石碑が、ここ伏見宿の西に建っている。

槍ヶ岳登山のたびに、山岳信仰を実践した播隆上人が厳しい修行をした岩窟の前を通ったものである。

そのたびに槍ヶ岳を開山した上人に頭をたれ感謝の気持ちを伝えるのが常である。

 

伏見宿㊿は、総戸数82軒、旅籠29軒、 江戸から中山道50番目の宿場であった。

伏見宿に集められた年貢米や茶、生糸、瀬戸物、煙草が桑名や名古屋、四日市へ舟で運ばれた物資の

集散地であった。

名鉄八百津線の陸橋を渡ったところの伏見公民館の前の植え込みの中に丸石に刻まれた<本陣跡>の碑

が建つ。

さらに伏見宿の町屋をみながら進むと、JR太多線を越えて<大田宿51>に入っていく

 

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道六拾九次之内 伏見』(伏見宿㊿)

 

播隆上人の足跡をたたえた紹介板

  

 

  伏見宿㊿ 本陣之跡           伏見宿㊿の町屋

 

       

     《すげ笠の 生国名のれ ほととぎす》  子規

 

 

        

                    子規句碑<すげ笠の>
 

木曽川日本ライン)にかかる<太田橋>手前の今渡という町で、この中山道てくてくラリーでの

最初のパンクに見舞われた。

パンク修理には自信があったが、どうしても空気が抜けるので、大田宿<中山道会館>の右側にある

「三品サイクル店」(みしなサイクル:美濃加茂市太田本町4-4-33 : 0574-25-2028)のご主人、

プロにお願いして修理をしていただいた。

<東北がんばれ>のバナーに賛同され、修理代を寄付するとのこと。

お言葉と、お心に感謝し、募金箱に入れさせていただいた。 

まだ、小雨がぱらついている。

                

 

中仙道てくてくラリー初のパンク修理に失敗           「三品サイクル店」のご主人

 

これより、木曽川今渡の渡し場跡>近くにある、太田橋を渡り、太田宿(51)に向かうことになる。

 

 

<大田宿51>   日本橋より総徒歩距離595km 地点   

 

今渡神社を過ぎ、龍洞寺、浅間神社の先にある木曽川の太田橋を渡ると、中山道の難所といわれた

木曽川の渡し跡>がある。

難所といわれるゆえんは、橋の手前にある石碑<今渡の渡し場跡>に次のように書かれている。

「木曽のかけはし、太田のわたし、碓氷峠がなくば良いとうたわれた、中山道三大難所の一つ」と

言われていると。

  

 中山道 大田の渡し<木曽川今渡の渡し場跡>の石碑   木曽川の太田橋を渡り大田宿(51)に入っていく 

                            

 中山道大田宿(51)入口         古井の一里塚 (江戸より94里/ 376km)

                     (京へ41里/164km)

 

木曽川太田の渡し跡>の先に、江戸より94里の<古井の一里塚>がある。

 <古井の一里塚>をあとに、日本ラインを左手に見ながら西へ歩みを進めると江戸より51番目の

<大田宿>に入っていく。

伏見宿で出会った<播隆上人の名号碑>、その播隆上人の墓であろうか祐泉寺横の<太田稲荷>境内

にある。

また、祐泉寺の境内には、尊敬する芭蕉の句碑も建つ。

 

     《春なれや 名もなき山の 朝がすみ》  芭蕉

 

祐泉寺の先に<旧太田脇本陣林家住宅>があり、公開されている。その先、右手に<福田家本陣跡>に

門のみが建つ。

大田宿は、総戸数118軒、旅籠20軒であり、中山道三大難所の一つ<太田の渡し場>があった宿場で

あった。

広重の浮世絵も、<太田の渡し場>の風景を描いている。木曽川を行き交う小舟が忙しそうに旅人

を渡している。

 

 

播隆上人の墓がある祐泉寺                          播隆上人の墓

 

芭蕉句碑「春なれや」 

 

広重の浮世絵は、<太田の渡し場>の風景を描き、木曽川を行き交う小舟が忙しそうに旅人を渡している。

そして、美濃笠をかぶる旅人が遥かなる犬山城方面を眺め、腰を落として渡船前の談笑を楽しんでいる。

この長閑な浮世絵の中に、平和を愛するこの国の小市民的な姿が見て取れて、ほっとさせられるのである。

 

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道六拾九次之内 太田』 (太田宿51)

 

 

 

大田宿51 脇本陣林家住宅            大田宿51  本陣の門                        

 

大田宿(51)の旅籠や商家の街並みを楽しみながら国道21号線に並行する旧中山道(県道207)は、

国道41号線をまたぐ。すると、すぐ西角に本田小学校が建ち、ここに<太田代官所跡>があった。

ここから見る木曽川の川幅は広がり、夏には日本ライン下りの舟を見ることができるという。

 

しばらく歩くと国道21と合流して、木曽川を見下ろしながら国道歩きとなる。

連日の雨で木曽川の水かさが増し、その流れははやく、危険な顔を見せている。

 

中山道である県道207は、晴れておれば木曽川沿いに<犬山自然公園の渓谷美>を楽しめるのであろうが、雨の中<鵜沼宿52>に入って行った。

 

   

 

木曽川 日本ライン                                      日本ライン下りの舟

 

小雨ふるなか、弥次喜多は、国道21号線沿いにある定食屋さん<五代目食堂>の

おふくろの匂いに誘われて昼食をとることにした。

お惣菜や魚料理が取り放題である。 

味噌汁をはじめ、納豆、冷奴、野菜炒め、サバの味噌煮、牛肉のしぐれ煮に白飯大盛りに

アルコールフリー、なんと贅沢なこと1350円なり。

この旅最高の贅沢、まるで空腹に耐えてきた餓鬼のように一心不乱、その匂いと味とボリュウムに

最高の幸せを味わった。

生きるとは腹を満たすことなり・・・旅の醍醐味は食にあり・・・と一人呪文を唱えながら・・・

食べに食べた。

食いだめとはこのことをいうのであろう。

 

 

国道21号線沿いにある<五代目食堂>               この後またお惣菜を追加・・・ 

 

一方、旧中山道は、現在の坂祝トンネルのある国道21号線の上にある<うとう峠>を越えて一気に坂を

下って鵜沼宿(52)に入る。

中山道<うとう峠>への入り方は、国道21の左手にある駐車場の先の階段を下り、小川の手前を右に

曲がり、国道21と鉄道<高山本線>をくぐると旧中山道に出る。

この<うとう峠>を西に下ったところに、現在も北側の塚のみが残っており、その前に日本橋よりちょうど

100里の<うとう峠の一里塚跡の碑>がある。

             

        <うとう峠の一里塚跡>の碑        旧中山道<うとう峠><鵜沼宿52>

日本橋より丁度100里 / 400km地点)

(京へ35里/140km)

 

 

 

 鵜沼宿52>  日本橋より徒歩総距離 615㎞ 地点  

 

中山道にある<うとう峠一里塚>は、「うとう=謡」とも書くらしい。

<うとう峠一里塚>は、江戸の日本橋から続く中山道に備えられた里程標で、ちょうど100里、約400㎞の

地点にあることを示している。

人生でいうと、何歳とか何年とかその人の歩んだ時間を刻んでいるといっていい。

しかし、そのほとんどの人が何歳という直線的時間の経過をカウントして人生を過ごすことはないと

いっていい。

人それぞれに、与えられた人生を己の歩み方で進み、ゴールに到達する。 

そこには同じ時間的経過でも、それぞれによって異なる。

だから人生は面白いのである。

現在、われわれ弥次喜多日本橋から615㎞地点にいるのだから、中山道100里(約400㎞)地点を、

寄り道という215㎞オーバーをしながら歩んでいることになる。

これまた中山道の歩き方の一つと言えよう。

だから旅は面白いのである。

 

鵜沼宿52への入り方>

天気が良ければ、木曽川の対岸の山の上に渓斎英泉画の描いた浮世絵に出てくる<犬山城>の雄姿を

見られるはずだが、低く垂れさがった雨雲にさえぎられていた。

英泉の描いた浮世絵では、犬山城から鵜沼宿52 方面を描いているが、城にしても、木曽川にしても

デフォルメされたその雄大さに驚く。

木曽川沿いの中山道(県道207)から鵜沼宿52に入ってくると、信号<鵜沼中山道>で国道21を横切り、

大安寺川にかかる<大安寺大橋>を渡ると鵜沼宿52である。

一方、旧中山道の<うとう峠>を下ってきたときも、同じく信号<鵜沼中山道>を右折して、

<大安寺大橋>を渡って鵜沼宿に入って行く。

美濃国各務郡鵜沼村は、現在の岐阜県各務原市にあたる。

鵜沼宿52は、総戸数68軒、旅籠25軒 中山道52番目の宿場であった。

 

 

渓斎英泉画 中山道 「木曽街道六十九次・鵜沼」 (鵜沼宿52)

 

信号<鵜沼中山道>から大安寺大橋をわたって鵜沼宿52に入ると、まず常夜灯が迎えてくれる。

そのすぐ近くに石碑<ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠>が建ち、鵜沼宿側の<うとう峠>入口に

なっている。

その先右手に<二宮神社>があり、鳥居の右手に<芭蕉句碑三基>が並んでいる。

 

先の<大安寺川橋>からは、木曽川対岸の山手にそびえる犬山城を遠望できるという。残念ながら今日は曇り空、霞みの中に犬山城は身を隠している。

犬山城平山城であり戦国時代の後期に尾張守護代織田家によって築城され、1617年以来、犬山藩三万五千石の成瀬正成(家老)の居城となった。

 

犬山城(犬山観光情報より)             「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠」の碑

 

  

        <二宮神社の石鳥居に向かって右側に三基の芭蕉句碑が建つ> 左から

 

           《 汲溜の 水泡だつや 蝉の声 》     芭蕉

 

           《 送られつ 送りつ果ては 木曾の秋》    芭蕉

 

           《 ふぐ汁も 喰えば喰わせよ 菊の酒 》   芭蕉

 

なぜか同じ芭蕉の句碑が、脇本陣にも建っているではないか。

それも配列まで<二宮神社>を模しているではないか。

 

 

中山道鵜沼宿52 脇本陣                                        鵜沼宿52 脇本陣に建つ 芭蕉句碑              

 

                                                     

芭蕉の句を口ずさみながら、歩みを続けると中山道である国道21号線は、名鉄各務ヶ原線とJR高山本線に挟まれながら西へと向かう。 

また、この辺りは後鳥羽上皇鎌倉幕府方との対戦があった<承久の乱>の歴史的合戦場として知られている。

史書には、

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉

幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱であり、承久の変、承久合戦ともいう。

日本史上初の朝廷武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇隠岐に配流

され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。

北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。」とある。

 

<JR蘇原駅>あたりで中山道は、国道を離れ旧街道へ入って行く。

小雨がまた降り出した。時間も夕暮れの5時に近く、今宵の露営地を探すことにした。

予定である<加納宿53>は明日になりそうである。

 

名鉄<六軒駅>の近く、竹林寺の向かいに<六軒の一里塚跡>の碑が建つ。 

日本橋から103里(約412km)の地点である。

各務ヶ原市役所から少し先のある神明神社に今宵の露営地にさせていただくためお願いする。

神明神社の社殿をお借りして床づくりを始めた。

小雨はまだ降り続けており、雨音が社殿にも忍び入ってくる。

今宵は、神々と語り明かすことになりそうである。

  

 

六軒一里塚跡(江戸から103里/412km)     今夜お世話になる神明神社馬頭観世音菩薩

              (京へ32里/128km)

 

寝る前に、小雨に濡れた体を温めるため近くにある<日帰り温泉美人の湯かかみがはら>に

飛び込んだ。

旅の疲れはいいものである。

そこには温泉の湯があり、安眠をむさぼる寝床があるからである。

そして、また明日の旅という希望と夢が、そこにあるからである。 

人生そのものではないか。

 

日帰り温泉美人の湯かかみがはら>   800円

 岐阜県各務原市蘇原申子町1-1   TEL:058-380-2622 

 

 

<美人の湯 かがみがはら>

 

 

<▲ 25日目 加納宿手前 神明神社社殿にて舎営>    5月12日夜

 

  雨天のため、神明神社社殿で泊まらせていただく

 

   《ここ東美濃にも大雨警報が発令中で、山間部での土砂崩れには厳重なる警戒が必要だという。

    われわれ弥次喜多が、昨日通過した御嵩宿手前の『牛の鼻かけ坂』など一番危険な峠を、

    また今日は『謡(うとう)坂の石畳』を上り下りしたことになる。何事もなく無事であった

    ことに感謝したい。

 

    伏見宿㊿の西に『南無阿弥陀仏』と刻まれた石碑がある。

    これは念仏行者として修行した播隆(ばんりゅう)上人の名号碑である。

    天保5年(1834)に建立されたものである。

    播隆上人は山岳信仰を実践された方で

    北アルプス『槍ケ岳』や『笠ケ岳』を修行の場とされていた。

 

    今日では槍ケ岳を開山された偉大な業績を日本の山岳史中に深く刻まれている。

    その上人の足跡に伏見宿で出会えたことに、登山をし、槍ケ岳をこよなく愛する者に

    とっての感動の一瞬であった。

 

    一昨年、日本アルプスを縦断したおり槍ケ岳より200メートル程下ったあたりにある上人が

    修行されていた洞穴で縦断成功と安全祈念を願って坐ったことがある。

    関心のある方は新田次郎著だったと記憶するが『播隆上人』をお読みいただきたい。

 

    今日、畑道を歩いていると畑仕事をしていた婆やが『どこからきたの』と語りかけてくれた。

   『うちの美味しいトマトと胡瓜食ってけ』と息子さん自慢のビニールハウスに招待されご馳走に

    なった。

    喜多さんである祥介が、トマトをもいでかぶりついた瞬間、トマトの中身がぴゅーっと

    飛んできて顔にビシャっ、

    祥介はおお喜び。

 

    胡瓜の丸かじりも美味しかったな。


    しかし楽しい時間もあっと言う間に正気に戻される。自転車『ワイルドローパー号』の前輪が

    とうとうパンクしたのだ。

    よくここまで耐えてくれたものだ。感謝に耐えない。

    われわれに代わって重たい荷物を背負い600キロ近くも来てくれたのだ。

    さっそく修理したのだが、どうも手抜きがあったのか、数キロ進んだところで、

    空気が抜けてダウン。

    太田宿の中山道会館の少し先にある『三品(みしな)サイクル』のご主人にお願いして

    プロの技を見せていただく。

    完璧な修理にカブトをぬぐ、さすがにプロだ。

    祥介と二人、今後のことを考え真剣に学ぶ。

    前輪のタイヤを持参の新品に替え、チューブは修理した。

    明日からは後輪に注意を払うことになる。

 

    さて、今日、強弱はあったが絶え間無く雨がふった。ほとんどの中仙道が国道21号線

    重なり、それも歩道がないところ(各務原あたり)もあり、追突や接触に全神経をつかった。

    祥介も私も肩が凝ったので鵜沼宿から加納宿へ下った各務原市役所近くのスーパー銭湯

    飛び込んで疲れをとった。

 

    その近くの神明神社の社殿が今晩のねぐらだ。

 

    本日は伏見宿を出て、太田宿51、鵜沼宿52 を経て加納宿53 近くまで歩いた。

    25キロ、10時間30分の行程であった。

 

    明日は加納宿53 を経て、河渡宿54、美江寺宿55 まで行きたい。

    蚊取り線香が必要になってきた。

 

    道中、子規が次のような句を詠んでいたのを思い出した。

 

       『すげ笠の 生国名乗れ ほととぎす』 子規

 

    ちなみに中山道の三大難所は『木曽の懸け橋、太田の渡し、碓氷峠』であったらしい。

    われわれ弥次喜多はこれら三つをクリアしたことになる。

 

    わたしも一句、

      『 五月雨に 太田の渡し 命がけ 』 實久

 

    芭蕉は、『ふく志るる も喰へば喰せよ 菊乃酒』と吟じている。

 

    明日から天気が回復するそうな。

    おやすみ。  弥次喜多こと後藤實久&田中祥介 》

 

 

    同志社ローバー創立50年記念事業 <中山道てくてくラリー>本部に報告メールを送り、

    社殿の屋根の雨滴音に聞き入りながら、久しぶりに携行している聖書を開いた。

 

    聖句は次のように伝えてきた。

 

    Be joyful always, pray at all times, be thankful in all circumstances.      

                          <2 Thessalonians>

    ―いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい― 

                                 <テサロニケ5-16~>

 

    今日の旅路に感謝して、社殿の屋根にあたる雨滴音に聞き入りながら、

    好きな詩吟<太田道灌蓑を借るの図に題す>を高らかに吟じた。

 

    社殿の空気が揺れた。

 

           

                    <関西吟詩文化協会HPより>

 

    太田道灌  <愛敬 四山>     おおたどうかん  <あいけい しざん>

 

    孤鞍雨を衝いて 茅茨を叩く     こあんあめをついて ぼうしをたたく

    少女為に遺る 花一枝         しょうじょためにおくる はないっし

    少女は言わず 花語らず       しょうじょはいわず はなかたらず

    英雄の心緒乱れて 糸の如し      えいゆうのしんしょみだれて いとのごとし

 

   

       

                 加納宿52  神明神社の暗闇に伏した。

 

 

 

  

 ■ 26日目  中山道加納宿53⇒河度宿54⇒美江寺55>

              23km/10h 5月13日

 

 

降り続いていた雨もやみ、晴れ渡った空がすがすがしい。

朝5時30分、社殿清掃、感謝の祈りをささげ、御礼の言葉をメモに残して神明神社を出発した。

何本あるのだろうか、はためく沢山の奉納旗<馬頭観世音菩薩>やお馬様に見送られて、われわれ弥次喜多は今夜の露営地・美江寺宿55に向かった。

 

各務ヶ原(かがみがはら)市役所、市民公園を右手にしながら、新境川にかかる那加橋を渡って進むと、

<新加納の一里塚跡>(江戸より104里/416km))がある。

さらに歩を進めると、善休寺、少林寺の前を通り、東北自動車道のガードをくぐって加納宿53に入って行く。

鵜沼宿52 から加納宿53 までの途中に<間の宿 新加納>が置かれ、旅人の便宜に供した。

  

 

       一夜の露をしのぐため社殿をお借りした<神明神社> (各務原加納宿53)

  

 

各務ヶ原市役所                   間の宿<新加納の一里塚跡>

                          (日本橋より104里/416㎞)

                       (京へ31里/124km)

 

 

<間の宿 新加納>

ここJR新加納駅辺りは、宿場間の距離が長い場合に置かれた<間の宿>で、鵜沼宿52と加納宿53の間に

置かれた<間の宿 新加納>と呼ばれた。

当時の新加納村の古地図をみても、外敵の侵入を妨ぐために城郭や宿場の入口で道を<かぎの手>に曲げた

<枡形>を備えていることがわかる。

古地図を東から見ていくと、旅籠はもちろんだが、間の宿にも立場、高札、牢獄。馬宿のほかに御典医

一里塚、社寺、塩屋、髪結も備わっているということがわかる。

御典医の今尾家は、現在も<今尾医院>として開業されている。

 

                                                              宿場古絵図     <間の宿 新加納>

 

その先に、真宗大谷派愚光寺善休寺、少林寺と続き東海北陸自動車をくぐって加納宿53に向かう。

この旧中山道は、国道21号線名鉄六軒駅近くの信号<三柿野町>より始まる県道181として続いている。

 

近くのコンビニで朝食<もやし味噌ラーメンと納豆>をとりながら、読売新聞(2011-平成23年5月13日

金曜日朝刊)一面を飾る東北大震災<1号機炉心溶解>報道にこころを痛める。

3月11日に起こった東北大震災から今日で2か月が過ぎたが、今なお余震が続き復興はようやく始まった

ばかりである。

 

(この同志社ローバー創立50年記念事業「中山道てくてくラリー」は、急遽東北大震災支援ラリーに

切り替え、「がんばれ東北」・「がんばろう日本」のバナーを掲げ、募金活動を続けながらの中山道踏破

に挑んだ。 東京日本橋2011年4月10日出発し、京都三条大橋5月21日到着した。)

 

 

                 

 

 

善休寺                         1号機炉心溶解報道 と 朝食

 

中山道(県道181)には、国道22号線を越えると<細畑の一里塚 (江戸より105里)>があり、南北に

対塚として復元されている。

その先の地蔵堂の前に<木曽路伊勢路>分岐の道標が建つ。

さらに西へ進むとJR東海道本線をくぐり加納宿53に入って行く。

 

 

<細畑の一里塚>南側塚 (江戸より105里/ 420km )    <細畑の一里塚>北側塚 

             (京へ30里/120km)

 

 

伊勢・名古屋ちかみち道標(正面)                       木曽路道標(左側面)

 

 

加納宿53>    日本橋から徒歩総距離 633km 

 

加納宿53 中山道唯一つの城下町で、戸数も多い53番目の宿場で、総戸数805軒、旅籠31軒であった。

関ヶ原の合戦から半年後の1601年(慶長6)褒賞として与えられた10万石の領地を、奥平信昌は整備整地し、

加納城下町は出来上がった。

加納宿53の中心は、現在のJR岐阜駅近くの岐阜、名古屋、熱田と続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)と

交わる交通の要所であった。

 

中山道(県道)は、西進すると国道157号線と交わりJR岐阜駅の南側付近に達する。

その間、加納宿53 の町屋をめぐり、加納宿番所跡、そして加納城大手門跡を過ぎて、

「左中仙道 右西京道」の道標を右手に見ながら国道157号線を横切って西進する。

  

 

中山道53 加納宿番所跡            <左中仙道右西京道>の道標がある

  

加納宿53  高札場跡

 

加納城址を左手に見ながら国道256を越えると、すぐ<当分本陣跡の碑>、<脇本陣跡の碑>と続き、<西の番所跡> を後にして河渡宿54 へと向かう。

 

 加納宿53 <当分本陣跡>       森家加納宿脇本陣跡の碑

 

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六十九次・加納」 (加納宿53)

 

 

河渡宿 54>    日本橋から徒歩総距離 654km  (立寄り地含む)

 

中山道である県道181は、JR岐阜駅付近の国道157号線を横切り、道標に従って西へ歩を進めると、

JR東海道本線をくぐり、県道92をよぎってさらに直進する。

<岐阜街道追分>近くに<梅の守>(弘法大師手植えの梅の子孫が残る)として知られる<乙津寺・おっしんじ・臨済宗>にでる。

乙津寺の近くを流れる長良川には、300年間使われている<小紅の渡し>があるが、われわれ弥次喜多は、

長良川にかかる<河渡橋>を渡って、河渡宿54 に入った。

 

           

                    長良川にかかる河渡橋

 

河渡宿54(かどしゅく)は、戦時中の戦災で全焼し、当時をしのぶものは残されていない。 

総戸数136軒・旅籠24軒規模の中山道54番目の宿場であった。

 

渓斎英泉画 中山道 <木曽街道六十九次 河渡 長柄川鵜飼> (河渡宿54)

 

 

<河渡の一里塚跡>  日本橋より107里(約428㎞) 

長良川にかかる河渡橋を渡って、左折すると馬頭観音<愛染堂>があり、<河渡の一里塚跡>と続く。

 さらに生津畷跡をすすむと、旧中山道は県道92号線と合流し、糸貫川を渡って<美江寺宿55・

みねじしゅく>に入って行く。

 

 

中山道 河渡宿54 常夜灯            <河渡の一里塚跡>(江戸より107里/428㎞)             

                                                                    (京へ28里/112km)

                             

河渡宿54  本田代官所

 

 

美江寺宿 55>     日本橋より総距離657㎞  (立寄り地含む)

 

中山道は糸貫川を渡って本田(ほんでん)村に入り、<延命地蔵尊>に迎えられる。

そのすぐ先に<本田代官所跡>、<高札場跡>と続き、樽見鉄道の<美江寺駅>近くの踏切を渡って、

美江寺宿55 の中央に達する。

 

 

<美江寺の一里塚跡> 日本橋より108里 / 約432㎞

踏切を渡ったら右手に日本橋より108里を示す<美江寺の一里塚跡>の碑が建つ。

 

その先、今夜の露営地と決めた<美江神社>(美江寺観音堂)の境内に<高札場跡>があり、

復元されている。

5月13日16:32 美江神社社務所で露営の許しを受け、境内高札場横にテントを張り終える。

明日、5月14日は休養日、体を休めるためここ美江神社に2連泊することになった。

 

美江寺宿55 は、1891(明治24)年に発生した濃美大地震で、昔の面影を消し去った中山道55番目の宿場で、

総戸数136軒・旅籠11軒であった。また、1868(明治元)年の板垣退助を先鋒とする東征軍東山道鎮撫隊の

発進地として知られている。

 

美江寺一里塚跡(日本橋より108里/ 432km)

       (京へ27里/108km)

 

 

 

美江寺宿55 高札場跡                    美江神社境内の古札場横にテントを張る

 

 <▲26日目  美江神社境内 露営地> 5月13日

  

             

                                     今夜は美江神社が、弥次喜多の宿である(美江寺宿55)

 

   《ここ美江寺宿は強風が吹き荒れている。

    今日の宿営地は美江神社境内である。

    雨の心配がないのでテントを張った。

    しかしあまりの強風でテントが持っていかれそうだ。

    今日はいままでの雨との戦いで疲れがたまっている上に、急激な気温上昇に体が

    ついていかず弥次喜多共に疲労こんぱいである。

    とくに弥次さんは右肩の肩凝りがひどい。

    ブログに通信文を送りたいがお休みとさせていただく。

    ゆっくり眠りたい。

    明日あたり休養日をとるかも知れない。

    明日朝の調子を見たい。

    今日の行程は各務ヶ原神明神社を出て、加納宿53、河渡宿54を経て美江寺宿55までの23キロ、

    あさ5時半出発の午後4時32分到着、丁度10時間であった。

    おやすみ。 弥次喜多こと後藤實久&田中祥介》

 

    Fw: Kです

   《雨にも負けず進んでおられるところを想像し、驚嘆と尊敬と心配が入りまじってます。

    はるばるきたで~~~という感じになってきましたね。すごい!

    僕の方は来週のほとんどを徳島での花展のため京都をはなれます。

    申し上げにくいのですが、先輩が京都に着かれる日、どうしても徳島を離れられないのです。

    でも心は先輩とともに居させて下さい!その時の感動を海の向こうでしみじみ味わっていますね。

    あと1週間、くれぐれもお身体にお気をつけて!  K 》

 

    <転送:弥次喜多です>

   《Kさま、ご活躍うれしく思います。

    『京をめざします。京に住んでます。はるか京を眺めます』、

    中山道てくてくラリーを歩いていて必ず尋ねられ、答えたときの地元の人々の反応は、

    パーッと表情が明るく変わることでしょう。

    これは今も昔も変わらない憧れの反応ではないでしょうか。

    京のもつ華やかななかな伝統と格式と歴史をもつ文化、

    芸術も華道も言葉や食生活でさえも、

    京以外の人々には憧憬と尊敬の念をいだかれるのであろうと思います。

 

    先日の献花式に対する感想のように、あなたはすでに一派の家元としてはもちろん、華人として

    その精神に達しておられる。 

    『人花一如』、『人花一体』を安中教会での献花、そこに観ました。

    相対峙し坐り、こころを一(ひとつ)にする,

               禅僧の修行そのものなのですね。

    どうか磨きあげられたさらなる美しさを伝え、さらなる究極の美をめざし精進を重ねられることを

    念じます。

 

    今回の『中山道てくてくラリー』への参加者は、同志社ローバーに関係するすべてのOG・OB隊員

    であると思っています。

    先発隊、支援隊、本隊に分かれているにすぎないのではないでしょうか。

    ドンキホーテのサンセバスチャンのように、

    『見果てぬ夢をみ、見果てぬ夢を求めて』、

    われわれ弥次喜多とワイルドローバー号は、

    ローバー一人一人の見果てぬ夢を背負って歩いているにすぎません。  

    みなさんと共に見果てぬ夢を見させていただき、弥次喜多こと田中祥介と後藤實久両名は

    美江寺宿の露営地より感謝の言葉をお伝えできることを嬉しく思います。

 

    あと一週間、力のあるかぎり、導きのあるがままに京に達したく思います。

    元気な姿で到着できるように、今日はここ美江寺宿にて休養をとりたく思います。

    近くのお寺の鐘の響きに聴き入りつつ・・・

    弥栄 弥次喜多 》

 

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六十九次・みゑじ」 (美江寺宿55)

 

 

<▲27日目 美江寺宿にて連泊―休養日> 5月14日

 

人生色々である。

同じ人生があろうはずがない。

おのれの人生に万歳を叫ぼうではないか。

さて、休養日をとり連泊しているここ美江寺宿にある美江神社の歴史案内に、

 

文久元年(1861)10月26日の和宮親子内親王江戸下向の途次、当宿小憩 と 慶應4年(1868)

2月20.21両日、当宿を発信地とした東征軍東山道鎮撫隊のことは、当宿交通史に特記すべきこと

である』と書かれている。


すでに皇女和宮の歌に触れたが、中山道和宮の下向ルートであり、明治天皇行幸ルートでもあった。

中山道を歩いているとこの二つの大行列がこれらの宿場の歴史的重大事であったことかがよく分かる。

この二つに関する石碑の数の多さは群を抜いている。

よって和宮について少し書き記しておく。

ちなみに今年は中山道ができて四百年記念の年である。

仁孝天皇の皇女 和宮親子内親王(かずのみやちかこ)は将軍徳川家茂との結婚のため、

文久元年(上記参照)京都桂御所を出発、中山道を通行して江戸に向かった。

同年10月26日に泊まった加納宿本陣で詠まれた歌を再掲しておく。


  『遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり』和宮親子内親王


幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚した和宮の辛さを感じることができる。

 

 

 休養日、池田温泉で過ごす

<資料:池田温泉 岐阜県揖斐郡池田町片山3021-1  TEL:0585-45-1126 日帰り湯:500円>

 

 

   《今日は休養日。

    境内にテント張ったままにして、近くの北野温泉に湯治に弥次喜多で出かけてきた。

    ここがまた素晴らしい美人湯だ。肌がつるつるすべすべになる。

    かけ流しでないのが残念だが、ご紹介しておこう。

    関西から行くとして、関ヶ原から(岐阜県)県道53号線を岐阜市方面に向かう左手にある。

    南に瑞穂市がある。丁度峠を下りる山間にあり、景色もいい。

    脳梗塞の患者さんに出会い、そのお連れさんともその効能について尋ねてみた。

    本人が気分が良いようだから連れて来ていると。

    ここ以外は行きたがらないそうだ。

    またの機会にぜひ喜多さんである祥介君を連れて来てやりたい。

    いい湯だった。疲れがとれたような気がする。明日は長く歩けそうだ。

    美江寺宿55 をでて、赤坂宿56、垂井宿57、関ヶ原宿58 まで行きたい。

    天気は良さそうだ。

    もうすぐ新快速に乗れる米原だ。誘惑に負けそうだ。

    シャワー浴びに帰ろうかなって・・・

    なんだか体が軽くなった弥次喜多です。  

     おやすみ  後藤實久&田中祥介》

 

  

 

■ 28日目  中山道美江寺宿55⇒赤坂宿56⇒垂井宿57⇒関ヶ原宿58 > 

            20.0km/11h  5月15日

 

 

美江寺宿55 を出発>

 美江寺宿55 で休養をとり、温泉につかって疲れを癒すことができ、清々しい気持ちで、

われわれ弥次喜多は、関ケ原宿58 に向かって出立した。

美江神社にある復元・高札場前の露営地でのテント泊に謝意を示したあと、

美江寺観世音道に並ぶ美江寺宿55<本陣跡>(山本家)、<美江寺先手観音像>に立寄り、

先に歩を進め、揖斐川の鷲田橋を渡った。

 

 

 美江神社高札場前の撤収作業                 

  

 

現在の美江寺観世音道                  松並が続く昔の美江寺観世音道・中山道

  

 美江寺宿55 本陣跡の碑        美江寺宿55 旧家

 

 

揖斐川にかかる鷲田橋を渡る

 

鷲田橋の先にある古い町並みが残る<呂久の集落>の端に、和宮記念公園<小簾紅園>がある。

和宮揖斐川を渡たる御座船で己の境遇を詠った和歌がある。

 

和宮降嫁については、この中山道てくてくラリーに幾度となく取り上げてきたが、ここ呂久川(揖斐川)渡船での和宮の心境を見た。

和宮降嫁は、公武合体という日本の歴史のエポックの一つとして記憶にとどめておきたいことは、何度も伝えてきた。

 

瑞穂市の解説版<小簾公園・おずこうえん>(和宮遺跡)によると、

  『金紋先箱を先頭に、警護の武士団や、色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が延々と続いた。

   公武合体のために仁孝天皇の第八皇女和宮が、徳川14代将軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された

   時の様子は想像を絶するものであった。

 

   《惜まじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも》 和宮

 

   と悲壮な決意をされた宮は、文久元年(1861)10月21日京都を出発され、同10月26日瑞穂市の呂久川

  (現在の揖斐川)を御座舟でお渡りになられた。

   その時、対岸の馬淵孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にとめられ、一枝お望みに

   なった。

   これを舷に立てさせられ、玉簾の中からあかずにご覧あそばされ・・・

   

  《おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ》 和宮

 

   とご感慨をお詠いになられた。』

 

 

 

呂久の集落に入る                 古い街並みが続く呂久集落

  

 

和宮記念公園<小簾紅園>          揖斐川呂久 <和宮船場跡>

 

       

                  旧揖斐川中山道渡船ルート

 

 しばらく旧中山道を進むと、近鉄養老線の<東赤坂駅>の踏切を渡って<赤坂宿56>に入って行く。

 

 

<赤坂宿 56>      日本橋よりの中山道てくてくラリーの総距離 708㎞ (立寄りを含む)

               日本橋よりの中山道里程 110里 / 約440㎞ 

 

近鉄養老線の踏切を渡って進むと、抗瀬川にあった赤坂港跡に出る。

赤坂宿56 にあった川港で、往時はにぎわっていたが、現在は廃港となり、史跡公園となっている。

豊富な水量を利用した川船による水運は、江戸時代において物資の輸送やお伊勢参りの旅人が船便を

利用していた。明治に入ってからは石炭産業の隆盛によって500隻を越える船でにぎわったという。

 

赤坂宿56 赤坂港会館にかかる赤坂港暖簾

 

赤坂港跡から少し進むと、子安神社の前あたりに<本陣跡>、<脇本陣跡の碑>が続く。

その先に、関ケ原合戦の戦死者を弔った<甲塚>がある。

 

中山道赤坂宿56 本陣跡

 

赤坂宿56 は、さきほど立寄った<杭瀬川の赤坂港>の舟待ち宿として存在していた杭瀬宿が発展した

もので、総戸数292・旅籠17を持つ江戸から110里にある、中山道56番目の宿場であった。

 

歌川広重画 中山道 「木曽街道六十九次・赤坂」 (赤坂宿56)

 

赤坂宿56 の古い町並み景観を楽しみながら進むと、照手姫が籠で水を汲んだという伝説がある<水汲み井戸>の前あたりに<青墓のよしたけあん>がある。

 

 

 

中山道赤坂宿56  脇本陣跡           <赤坂宿56 五七屋 >          

   

<青墓のよしたけあん>  (案内板にみる解説)

   『牛若丸が、修行を終え奥州へ落ち延びるとき、円願寺でなくなった父や兄の霊を供養し、源氏が

    再び栄えるように祈って、それまで杖にしてきた芦の杖を地面に突きさしさしおくも 形見となれ

    や 後の世に 源氏栄えば よし竹となれと歌にした。その願いが通じたのか、芦が大地から芽を

    ふき、根を張ったが、茂ったのはみごとな竹の葉だった。この珍しい竹はその後も生長し続け、

    やがてこの竹を「よし竹」と呼び、この寺を「よしたけあん」と呼ぶようになった。』

 

ここが、源氏再興祈願がなされた義経伝説の地である。

 

 

<青墓の  よしたけあん>                             中山道間の宿<青墓宿>碑と大谷川

 

中山道(県道216)は、大谷川堤防に建つ、間の宿<青墓宿>道標を過ぎて、<蒼野ケ原の一里塚の碑・

日本橋から111里/444km・京へ24里/96km>を経て、垂井宿57 に入って行く。

 

 

蒼野ケ原の一里塚跡 (江戸より111里/444km)

                                      (京へ24里/96km) 

 

 

<垂井宿 57>    中山道てくてくラリー徒歩総距離715㎞  (立寄り地含む)

               (中山道  日本橋から111里・約444km / 京へ24里・96㎞) 

 

垂井宿57 は、戦国時代の軍師、竹中半兵衛生誕の地として知られる総戸数315軒・旅籠27軒の

中山道57番目の宿場であった。

また、徳川家康関ヶ原の役の際に本陣を敷いたことから<徳川家康公開運の地>として紹介されている。

垂井宿57は、垂井追分で東海道につながる美濃路が分岐し、交通の要衝でもあった

 相川にかかる相川橋を渡ると<垂井追分>があり、<右・中山道木曽路と左・美濃路たにぐちみち>の

分岐である。

その先、右手に<旅籠 亀丸屋>がある。その先<金山彦大神の石大鳥居>をくぐった右手に、芭蕉

和尚の玄潭律師(俳号 規外)を訪ね、冬籠りしたときに詠んだ句が残っている<本龍寺>がある。

その向かいの大ケヤキの下に、歌枕で有名な<垂井の泉>があり、ここにも芭蕉の句碑が建つ。

 

   《作り木の 庭をいさめる しぐれ哉》    芭蕉  (本龍寺)

 

垂井の泉>は、ケヤキの根元から湧き出る清水で、旅人の喉を潤し、地元の人々の生活用水として

利用され、文人の詩歌にも歌枕とし詠われるなど、垂井の地名の起源となった

 

《 昔見し たる井の水は かわらねど うつれる影ぞ 年をへにける》  藤原隆経 

     

《葱白く 洗いあげたる 寒さかな》 芭蕉 (垂井の泉)

 

美濃路中山道分岐<垂井追分>道標

  

  金山彦大神の石大鳥居 と 常夜灯       芭蕉句碑がある本龍寺              

 

 

  

垂井の泉に建つ芭蕉翁句碑<葱白く

  

歌枕で有名な<垂井の泉>をでて、旧中山道を進むと、東海道本線国道21号線の陸橋を越えところに

<垂井の一里塚>(日本橋から112里/ 約448㎞・京へ23里/ 92km)がある。

 

<垂井の一里塚>  (日本橋から112里・約448㎞)

               (京へ23里/ 92km)

 

現在は、南塚のみが残っている。また、ここに一里塚ができる前であるが、関ケ原合戦においては東軍の浅井幸長が陣を張っていた。幸長は、岐阜城攻撃を担当した後、15日の合戦当日は南宮山の敵に備えて布陣していたという。

 

 

関ケ原宿 58>   日本橋から中山道総徒歩距離723㎞  (立寄り先含む)

 

垂井一里塚を過ぎると、東海道本線と東海移動新幹線に挟まれた国道21号線と旧中山道は桃配山

(ももくばりやま)を右手に見ながら、<徳川家康最初の陣地>を通過し、関ケ原へと続く松並木を歩く。

JR関ケ原駅近くに、<旅籠ますや>、<相川家・脇本陣跡の碑.>があり、東海道本線の北側に

関ケ原合戦での東西両軍の戦死者の<東首塚>がある。

さらに進み国道365号線を越えると<西首塚>を経て、<関ケ原合戦場>に着く。

 

関ケ原宿58 は、中山道六十九次の中でも総戸数269軒・旅籠33軒を持つ58番目の宿場町であった。

北陸方面に向かう北国街道と伊勢方面に向かう伊勢街道の分岐点であり、交通の要衝であった。

現在では中山道中唯一の松並木が 野上地内に残っている。

 

関ケ原合戦地に到着、東西両軍の鬨の声を聞きながら今宵の露営地に予定している関ケ原決戦の地である

笹尾山、石田三成の旗印(軍旗)<大一大万大吉がはためき、蛙がなきだした陣地近くの、

田植の終わった畦道を露営地に決め、設営に入った。

 

大一大万大吉>の意味は、「大(天下)のもとで、一(一人)が万人のために、大万(万民)が一人のために命を注げば、すべての人間の人生は吉となり、太平の世が訪れる」と言う。

 

石田三成の旗印大一大万大吉

 

歌川広重画 中山道「木曽海道六拾九次之内 関ケ原」 (関ヶ原宿 58)

 

 

 

 これより中山道 関ケ原宿58 ( 関ヶ原町野上)   野上地内に残るく旧中山道現存松並木>

 

 

<野上地内に残るく旧中山道松並木>

 

中山道の松並木もまた一部を残してほとんどが切り倒され、戦時中「松根油」として抽出され、航空機の

燃料として使用された。

よくも松根っこの油で飛行機を飛ばしたものである。ゆくゆくはその松根油も尽き、片道燃料での特攻機

して飛び立って、多くの尊い、若い命を落としていった。特攻隊員の悲しい物語が多く残されている。

平和な日本を迎え、松根油を知る年代もその姿を消しつつあるのはわびしい限りである。

平和は、何物にも代えがたく、尊いのである。

平和を維持し、守るには、一人一人の認識と努力と犠牲が必要であることを肝に銘じるべきである。

 

 

中山道関ケ原宿58 に残る松並木を進み、<関ケ原宿 脇本陣跡>を抜けると、関ケ原の合戦案内道標 

<左・島津陣地及開戦地 / 右・決戦地及笹尾山>に出る。

この分岐を右へ、決戦地及笹尾山方面(石田三成本陣)へ向かい、近くの畦道が今夜の弥次喜多

お宿である。

 

 

 

関ケ原宿58 脇本陣跡           関ケ原道標 左・島津陣地及開戦地・右・決戦地及笹尾山

  

関ケ原決戦地 笹尾山(石田三成本陣)       28日目露営地 関ケ原合戦の地に到着し設営

 

 

 <▲28日目露営地  戦場・関ケ原決戦の地の畦道でテント泊 >     5月15日夜

 

    《蛙が落日とともに勢いよく鳴きだした。

    水田には水が入り、田植が終わっている。

    この子たちが頭を垂れるほど稲穂をつけるのだ。

 

    今晩の設営は、喜多さんであるショウスケの提案で田んぼの畦道にした。

    ここは関ヶ原の戦いで東西が激突した中心地点である。

    300M先には石田三成が陣をひいた笹尾山が見える。

    今晩は蛙の大合唱が亡き兵士(つわもの)どもの鬨(とき)の声として聞こえてきそうだ。

 

    その関ヶ原の戦いに勝ち、三百年と言う太平の世の基礎を築いた徳川家康は、中山道をはじめ

    五街道を整備した。

    その中の『一里塚の設置』は、今回の中山道てくてくラリーで大変重要な役割を果たしてくれた。

 

    たとえば近くを見てみると、垂井の一里塚(江戸日本橋より112里・約448km)、

    ここ関ヶ原の一里塚(113里・452km)、今須の一里塚(114里・456km)となり、

    一里に約4kmをかけるとたちまちに、日本橋より現在地までの距離が算出できる

    画期的な仕組みであった。

 

    ほかに関心したのは、高札場に掟を掲げて庶民をコントロールした幕府の知恵や、

    地元の有力者を上手に使った庄屋制、本陣、脇本陣制など江戸時代の宿場制度を研究したら

    面白いと思う。

    それは物流、戦術、人身掌握、道徳倫理教育、独占寡占、値段決定、商圏、情報管理収集、

    軍事作戦、関所による移動監視、手形による入出国コントロールなど研究テーマにことかかない。

   『宿場制度復活による観光立国宣言』など立派な研究論文になる。

    先にヒマラヤの観光小国ブータンを旅したが、この宿場制度を上手に取り入れて成功させて

    いる国であるといえる。


    関ヶ原の寒暖の差は大きく、体には気を付けるようにと小島氏(愛車ワイルドローバー号の

    後輪パンク寸前にサイクルショップをご紹介いただいた地元のサイクリスト)よりご丁寧な

    メールをいただいた。

    感謝である。重ね着をしたい。

 

   

     お世話になったサイクリスト小島氏

 

    ヒョッとしたら満天の星を観察できるかもしれない。

    流れ星、天の川、カシオペア座、オリオン座、北斗七星など、

    星たちが呼んでいる。

    眠れそうにない。

    今夜、弥次喜多は夜明かしだ。


    本日は美江寺宿55 を、朝5時スタート、赤坂宿56、垂井宿57を経て関ヶ原の戦場跡の

    キャンプサイト最終16時23分に到着。

    20km、11時間30分の行程であった。

    天気晴れ、紫外線強く顔、手足が赤く日焼けしてきた。

    もうすぐ琵琶湖だ。

 

    梅田氏より5月19日の区間参加の待ち合わせに関するメールをもらった。

    弥次喜多は嬉しくて興奮気味だ。

    なんと言ってもおしゃべりに飢えているからだ。


    いま田植を終えて帰る爺っちゃんから声がかかった。

       『そこで寝るんけ?』、

       『戦場の露と消えた侍たちの声を聴くんです』、

       『えっ?』

 

     もはや蛙たちの大歓迎、大合唱が始まった。 おやすみ。

     合掌   弥次喜多こと  後藤實久&田中祥介 》

 

 

  <安中より梅便り

   《弥次喜多
    
いよいよ故郷の滋賀県が射程距離に入りましたね。

    びわ湖の向こうに見える我が家が、瞼に写っているのではないでしょうか。

    安中周辺では現在、稲の種を蒔き付け、芽生え始めた稲の苗を育成中です。

    従って未だ田んぼには水は入らず、蛙の合唱も聞こえてきません。

    私は栽培している梅の木の内、「小梅」の出荷の最盛期を迎え、

    種々の行事等の合間を縫って、また、早起きしながらの収穫・出荷に追われています。 

    田の畦道キャンプでの明朝目覚ましは、蛙それとも小鳥?

    安中にて 真下  》

 

 

  <梅田隊員からのメール

    《毎日、後藤先輩のブログを哲学的なものを感じながら拝見しています。

    ひとつのことに精神を統一して邁進する「一行三味」を感じます。

    私も自分だけの「一行三味」の入口を探したく思います。

    私は、当日は、近江鉄道八日市線武佐駅に9時5分に着きます。

    但し、定刻通りに電車が動いての話ですが。(利用していますJR奈良線は単線の為に

    よく遅延しますので)。

    尚、当日に篠田先輩より後藤先輩に手渡すものを持参します。

    当日の天気予想は、晴れで暑くなくなりそうです。

    よろしくお願いします。  梅田幹人」 (途中区間参加隊員)

 

 

 東西両軍の戦死者が眠る東首塚

      

関ケ原の戦いで勝利を収めた家康は、翌日部下の竹中重門に命じて、合戦で破壊された

神社仏閣の修復を命じるとともに、戦場に残された東西両軍の戦死者の遺体を埋葬し、

東西2か所に首塚を造営した。

この東首塚を古木のスダジイが見守っているのが印象的であった。

 

 

 

■ 29日目 

     中山道関ヶ原宿58⇒今須宿59⇒柏原宿60⇒醒ヶ井宿61⇒馬場宿62>

       25.0km/11h    5月16日

 

 

関ケ原の露営地を06:38スタートする>  5月16日朝 薄曇り後晴れ 

 関ヶ原の戦いの地で、幾多の討ち死にした武士(もののふ)の声に耳を傾けながら一夜を明かした。

歴史を塗り替えた関ケ原の東西の陣地を訪れ、多くの無念の血を飲み込んだ決戦の大地に別れを告げた。

 

斃れていった多くの無名の戦士、農民兵を想い、青空に向かって口ずさんだ。

この祈りの歌は、2018年、遠藤周作先生の「沈黙」を追って、天草・雲仙・平戸・五島と受難の地を

巡った折、何度となく口ずさんだものである。

 

<参照ブログ:潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 序章> (ブログ㉗ページ)

 

    こころおだやかに 主の御手にねむる ただしき御民の いまわのゆかしさ 

    照りにし日かげの うすれゆくごとく ややひく潮の しずけさに似たり 

    生き死にのおそれ つゆなきこころの のどけきみ空に 雲すらかからず 

    ひかりとやみの 行き交うこの世よ いまこそのぼらめ 夜なきみくにへ 

    あめつちもろとも たたえていえらく ただしき御民の いまわのゆかしさ 

                                                             (讃美歌471より)

 

 

関ヶ原の戦い決戦の地を出発する     決戦の地モニュメント

 

 

 首塚                首洗いの井戸

 

首塚 と 首級墳碑>  関ヶ原宿年寄古山兵四郎建立

「英傑なる徳川家康が東国において勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権不利とみて旗を揚げた。

慶長5年(1600)9月両勢力はここ関ケ原において激突したが、内応などの戦況の急変により、

三成側は大敗を喫した。

家康は床几場において首実検をしたのち、土地の人に、すべての首や遺骸を、東西二か所に首塚を造り

葬らせた。

東軍に敵対した、西軍将士に罪がないとは言えないが、主君秀頼のために命をささげたことにほかならず、

憎めるものではない。

故に、豊臣の危機に直面し犠牲になったものを納め葬ることは、仁義に厚い心得のなしえることであり、

まさに家康の教えが、今の世に太平をもたらしたといえよう。」

 

と刻まれて、現在の太平の基礎を作った家康の行いを讃えている。

 

 

 

首組墳碑                         西首塚

 

松平忠吉井伊直政陣地の動き>  ―1600年9月15日午前8時当時―再現

 慶長5年(1600)9月15日の合戦に中山道の敵を目標とする福島・藤堂・京極隊、北国街道を竹中・細川等

の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男  松平忠吉、のちの彦根城主  井伊直政が約6000の兵で

陣を構えた。

午前8時頃、軍監  本田忠勝より開戦を促され、直政・忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、

先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。

  

 

松平忠吉井伊直政の陣地                        関ケ原宿58 の町屋

 

関ケ原合戦の地を離れ、関ケ原宿58 に戻って町屋を進み、<西首塚>を過ぎると、<不破関跡>に出る。

その先に<大谷吉隆陣地跡>の石柱が建ち、この辺りも合戦場であったかと、その合戦場の広さに

驚かされる。 

 

不破の関跡>

東山道の美濃  不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つと

して、壬申の乱(672年)後に設けられたという。延暦8年(789)に廃止された後は関守が置かれ、

平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が多く取り上げられてきた。

代表的な和歌と俳句を取り上げておく。

 

   《人住まぬ 不破の関屋の板庇 あれにし後は ただ秋の風》  藤原良経

 

   《秋風や 藪の畠も 不破の関》  芭蕉

 

  

 

不破の関跡                         

 

 

<今須宿  59> 日本橋より徒歩総距離 748km  (立寄り地含む)

                         中山道 日本橋より114里/約456km

 

今須宿59 は、中山道美濃路、美濃十六宿の最西端の宿場であり、総戸数344軒・旅籠13軒の中山道59番目

の宿場であった。

ここ今須宿59 は、妙応寺の門前町として発達し、さらに街道が整備されると 商業地としても賑わったが、

明治以降は東海道線が通りながら駅が 無かったため山間の静かな里へと変わり、現在に至っている。

 中山道から脇道に入ったところにある小さな公園の中に、常盤御前の墓>がある。

 

常盤御前の墓>

 都一(みやこいち)の美女と言われ、16歳で義朝の愛妾となった常盤御前は、義朝が平治の乱で敗退

すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若・乙若・牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなった。

伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追ってきた常盤は、この地で土賊に襲われて

息を引き取るが、哀れに思った里人が、ここに葬って塚を築いたといわれる。

墓には、2基の歌碑が建つ。

 

     《義朝の 心に似たり 秋の風》        芭蕉 (左句碑表)

 

    《げに風の 音も澄みけり 秋の松》     春香園 (左句碑裏)

 

     《その幹に 牛も隠れ てくらかな》       化月坊  (右句碑)

  

         常盤御前の和歌を一句のせておきたい。

         《君おきて 仇し心は なけれども 浮名とる川 沈みはてけり》 常盤御前

 

  

常盤御前の墓 と 句碑                           今須の一里塚跡

                               (日本橋より114里/ 456km)

                                                           (京へ21里/84km)

                                                                  

 

<今須の一里塚跡>  中山道 日本橋より114里・約456㎞  南塚が復元されている。

 

 

常盤御前の墓を後にして、当時は茶店があったであろう険要の地・今須峠を越え、今須の一里塚を眺めながら

下ると、今須小学校にある<今須宿本陣跡>、<問屋場跡>、<常夜灯>を経て、国道21号線JR東海道本

線を横切り、楓並木を進む。 

再度踏切を越すと柏原宿60 の街並みに入って行く。

 

JR東海道本線の山中踏切を渡るとき、すれ違った精悍な列車顔、弥次喜多に声援を送ってくれた。

 

 

山中踏切で出会った東海道本線の精悍な列車顔  ( 今須宿 59)

 

 

今須宿59 問屋跡                          

 

今須宿59 に入り、町屋に混じる<問屋跡>を経て、なお進むと芭蕉の句碑に出会う。

  

 

同志社ローバー創立50年記念オフィシアルTシャツを着て    のざらし芭蕉道<奥の細道>と芭蕉句碑

 

今須のこの辺りが、旧中山道奥の細道美濃路・旧東山道)の分岐である。

中山道と交差する国道を渡ると、[おくのほそ道 芭蕉道}の石碑と並んで句碑が建つ。

 

         《正月も 美濃と近江や 閏月》      芭蕉

     

         《年暮れぬ 笠着て 草履はきながら》   芭蕉

 

芭蕉は貞享元年(1684年)秋に、母の墓参で江戸から生まれ故郷の伊賀上野に旅をする。

東海道を通り、伊勢神宮伊賀上野西行を慕って吉野山の庵に、そして近江路・美濃路を通り熱田神宮

参って再び伊賀上野に戻るのである。

 

  

<柏原宿 60>   日本橋より総徒歩距離735km   (立寄り地含む)

              (中山道 日本橋より115里/ 460km・京へ20里/ 80km)

 

 

美濃国から近江国へ入った旧中山道は今須峠を下っていき、JR東海道本線の山中踏切を渡って右に曲がると柏原宿60 の街並みが見えてくる。

 

柏原宿60 は、中山道近江路の最初の宿場であり、現在の滋賀県米原市柏原である。

柏原宿60は、中山道と旧東山道の分岐にあり、<いぶき艾(もぐさ)>の産地として栄え、総戸数344軒・

旅籠22軒の中山道60番目の宿場であった。

 

芭蕉は、元禄二年(1689)敦賀から「奥の細道」結びの地大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。 

その後、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、石碑の句を残している。

 

        《其のままよ 月もたのまし 伊吹山   桃青

 

 

 

東山道の入口                 芭蕉句碑「其のままよ」

 

わたし弥次さんも、数年前に「奥の細道」を歩いて、芭蕉の句碑の前で一句ひねってきた。

お暇なときに、<奥の細道紀行 - 句碑の前でわたしも一句 1~59>に立寄っていただければ

幸いである。

 

 

柏原宿60 の町屋を楽しみながら、<本陣跡>、天野川にある<常夜灯と高札場跡>をへて進むと、

<柏原の一里塚跡>日本橋より115里・約460㎞)を経て、醒ヶ井宿61 へと向かう。

  

 

柏原宿60 本陣跡            天野川縁にある柏原宿60 高札場跡と常夜灯

 

<柏原の一里塚跡>                     <一色の一里塚跡>

日本橋より115里/ 460km)                  (日本橋より116里・約464km)                       

(京へ20里/ 80km)                      (京へ19里/ 76km)

 

 中山道は、南塚が復元されている<柏原の一里塚跡> を見ながら進み、長沢集落あたりにある

<一色の一里塚跡>を経て、道標を右へ国道21号線に並行して西進して、醒ヶ井宿61 に向かう。

 

 

醒井宿 61>  日本橋から総徒歩距離744km (立寄り地含む)

 

中山道の右側に松並木が続き、途中で国道を渡って<名神高速道路>脇を進み、自然石に書かれた

中山道 醒ヶ井宿>の石碑、古事記に出てくる<居醒―いさめの清水>、料亭旅館<本陣樋口山>の

本陣跡、現存する旧問屋である<醒ヶ井資料館>を経て、JR東海道本線醒井駅前の国道21号線

交差点に至る。

この交差点<醒井駅前>を左に入ると、県道17は<醒井養鱒場>に通じる。

 

では、清水の宿場と言われる<醒井宿61>をそぞろ歩きしてみたい。

醒井宿61 は、古事記に出てくる<居醒―いさめーの清水>が語源だというから古い。

醒井三水である<居醒の清水・十王水西行水>から流れ出た湧水は地蔵川となって宿場の中を流れ、

モミジが水面を覆い、より神秘的な水にしている。

風情の残る総戸数138軒・旅籠11軒の素敵な宿場であって、その素晴らしさを今も残している。

 

 

中山道61 醒井宿に入る                           

 

<居醒―いさめの清水>を、その湧き出る清水の透き通るような滑らかさと、水の精に魅せられて、

弥次喜多は、両手に掬って喉に流し込んだ。

清水の色を彩どるモミジの青葉、水面に繊細な流紋を創り出すさざれ石がいい。

すべてが調和の中にあって、水の精を賛歌しているではないか。

いさめの清水が体の中に溶け込み、心地よい疲れの中に誘い込んでくれるのである。

まるで命の水、いやこれこそ天命水と言っていい。

感謝である。

ただ残念なことは、真っ白で美しい水中花<梅花藻>を見るには早すぎたようである。

                        

醒ヶ井の湧水<居醒―いさめの清水>

 

<醒ケ井宿 御茶壷本陣跡>の先に、醒井三水の一つ<西行水>がある。

 

   《水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん》 西行

 

 

醒ケ井宿61 御茶壷本陣跡      醒ケ井宿61 <西行水>

 

久禮(くれ)の一里塚跡日本橋より117里・468km)

           (京へ18里・72㎞)

 

われわれ弥次喜多、<同志社ローバーてくてく隊>は、信号を渡り東海道本線天野川に沿って西へ進み、

途中に立つ道標に従って国道21号線を横切り、<北陸自動車道>のガードをくぐり、旧中山道に入った。

立体交差<米原JCT>下で、少し複雑なので道標を確認し、ルート間違いがないように注意したい。

米原JCTをくぐったところに<久禮の一里塚跡>(日本橋より117里・468km) があり、その先に建つ

中山道番場宿の碑>に迎えられて<番場宿62>入って行く。

 

 

<番場宿62>  日本橋から総徒歩距離744km  (立寄り地含む)

 

中山道は山間の小さな宿場である番場宿62 をへて京へ向かう。

現在の国道8号線国道21号線の三角形の底辺という山間の近道を歩くことになる。

ひなびた旧中山道の味わいを十分堪能できた心に残る区間でもあった。

 

現在は、番場から米原が遠くになってしまっているが、当時はここ番場宿62 から年貢米などが天野川に運ばれ、川舟で米原港に、そして丸子船に積み替えられて、びわ湖を縦断し、坂本港や大津港に運ばれ、京・大阪へ陸路で届けられた。

 番場宿62 は、飛鳥時代に旧東山道ができて以来の歴史を持ち、総戸数178軒・旅籠10軒で、春には小高い山一面にミツバツツジが咲き乱れる小さく、とても古い宿場であった。

 

 

番場宿62 問屋場跡           番場宿62 脇本陣

 

伊吹山を後方に、草生す旧中山道鳥居本宿63 へ歩みを進めるが、あまりの暑さにTシャツを脱いでの

行脚になった。

 

 

あまりの暑さに、とうとう上半身裸で歩き出した   鳥居本宿63 への草生す旧中山道

 

歌川広重の浮世絵鳥居本 摺針峠」に、峠茶屋と言っていいのか立派な<望湖堂>が描かれている。

峠からのびわ湖の眺望を峠から味わうことができるが、その後の干拓によりびわ湖は遠のき、現在では

かすかに眺望できるに過ぎない。

 

広重画 中山道 「鳥居本 摺針峠」(左が望湖堂)

 

摺針峠(すりはりとうげ)は歌枕で、弘法大師は次のように詠んでいる。

 

《道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ  斧を針とせし 人もこそあれ》 弘法大師

 

 <摺針峠> 望湖堂(復元)からの、現在の琵琶湖の眺望

 

 

鳥居本宿 63>    日本橋より総徒歩距離755km    (立寄り地含む)

  

名神高速道路を背後に習針峠を越え、昔の峠茶屋跡<旧望湖堂>からびわ湖を望みながら下り、

国道8号線にでて南へ向かい、鳥居本宿63 に入って行く。

中山道が、国道8号線と合流する北側に<有川市郎兵衛薬局―赤玉神教丸>がある。

  

 

近江商人の町 彦根市に入った     中山道 鳥居本宿63 入口の道標に迎えられた

 

<有川市郎兵衛薬局―赤玉神教丸―別名:小町丸>

胃腸薬である赤玉神教丸は、多賀大社の坊人が全国布教とともに販売に力を入れて販路を拡大していった。

現在でも、有川市郎兵衛薬局として赤玉神教丸を販売している。

 

有川市郎兵衛薬局<赤玉神教丸>

 

鳥居本宿63 の北はずれ、国道8号線と交わるあたりに松並木が残り、袖塀に格子構えの家並みや古い看板が

続き、旧中山道の雰囲気を味わうことができる。

鳥居本宿63 は、道中合羽が名産品で<本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門>という看板が目を引く。

北国街道が分岐する交通の要衝として栄えた総戸数293軒・旅籠35軒の彦根にある中山道63番目の宿場

であった。

 

<本家合羽所 木綿屋 嘉右衛門>の古い看板

 

織田信長は安土に城を構えた時、中山道安土城下を通らないので、岐阜城から安土城経由で京に向かう道

として、脇街道を整備した。この脇街道は別名、彦根道・京道・八幡道・下街道・浜街道朝鮮人街道・

唐人街道などと呼ばれ、ここ鳥居本宿63 から守山宿67 の間の16㎞が整備された。

 

松並木が残る旧中山道を進み、<本陣跡>、<脇本陣跡>を過ぎると<左中山道・右彦根道>の道標に出る。

なお、旧中山道は西に東海道新幹線と、東に名神高速道路に挟まれて南下し、小野小町の出生地と言われる

<小町塚>近くで、新幹線をくぐり、住宅街を通って今夜の露営地である芹川の川床にある広場に到着した。

  

 

鳥居本宿63  旧本陣 寺村家           鳥居本宿63  脇本陣・問屋跡

 

今夜の露営地に設営後、疲れと汗を流すため近くの国道8号線にあるスーパー銭湯極楽湯>に

飛び込んできた。

間もなく、梅田隊員と合流するので、弥次喜多は風呂に入って小奇麗にすることにした。

  

  彦根市国道8号線にあるスーパー銭湯極楽湯>800円

 

 

<▲29日目  5月16日露営地―不知哉(いさや)川の河川敷に設営>

 

  

中山道てくてく29日目 ー 不知哉(いさや)川の河川敷に設営

 

   《 とうとう琵琶の地に入った。祥介曰く京の味がすると。そう、なんとなくすべてに華やかさ

    という<味なる風>が吹いている。

    醒ヶ井の西行水を口にしたとき、関西の味を感じた。

    今晩は彦根を流れる不知哉(いさや)川の河川敷にあるゲートボール場にテントを張って

    の一泊だ。

    昨晩と同じく曇り空、星の観察は諦めた。

    今日も暑い一日、どうしても冷たい飲み物に手が出る。

    120円でビールが自販機で買えるのだから、弥次喜多はドイツ人なみにぐいぐいと

    いってしまった。

    いま村田君というライダー(オートバイ野宿組)が差し入れを持って訪問してくれた。

    日本一周したおり鹿児島で事故を起こし、現在リハビリ中とのこと。

    テントを見たので無性にしゃべりたくなったとのこと。

    互いの体験談や工夫、情報交換をして別れた。趣味の一致する友とは良いものだ。

    年代を越えてなんとも言えぬ親近感をもつ。


    近場の中山道にも素晴らしい宿場がある。

    ぜひ足を運んでみられたらどうかと紹介する。

    柏原宿60 とそれに続く醒ヶ井宿61 だ。

    前者は景観保全、後者は水を配した宿場演出が中山道というノスタルジーに見事に

    調和し、訪れた者にその魅力を充分に堪能させてくれる宿場である。


    今日は、ほかに常盤御前の哀しい墓に出逢った。

    都一(みやこいち)の美女であった彼女は16才で源義朝の愛妾となり、義朝が平治の乱

    敗退すると、敵将平清盛の威嚇で今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾になった

    と言う。

    牛若を案じ、乳母の千種と後を追って、墓のあるここ(関ヶ原山中町の峠)で土賊に襲われ

    息を引き取った。

    哀れにおもった山中町の里人がここに塚を築いたという。

    芭蕉の一句が心に染みる。

      《義朝の こころに似たり 秋の風》  芭蕉 

    

    関ヶ原首塚といい、常盤御前の墓といい、今日は多くの無情なる風がわれわれ弥次喜多

    こころの中を吹き抜けて行った。

 

    明日はさらに京の華やいだ空気が濃くなる。

    都を恋い焦がれた昔人の気持ちが分かるというものだ。

 

     《ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかり》  太田道権

    ではわれわれ弥次喜多も一句、

     《帰り来て 眺める杜鵑花 裏伊吹》     實久  (杜鵑花―さつき)

     《皐月風 田植忙し 不破の関      祥介

 

     おやすみ。

     いよいよ都人(みやこびと)に変身しなくちゃ。

     本日は関ヶ原を朝6時30分にスタート、今須宿、柏原宿、醒ヶ井宿、番場宿をへて

     鳥居本宿に午後5時48分に到着。

     行程は約25km、11時間を要した。

     明日は高宮宿、愛知川宿、武佐宿までいき、5月19日に武佐駅で梅田氏と合流する予定だ。


     弥次喜多こと後藤實久&田中祥介》 

 

 

<『不知哉川』読み方> (いさやかわ)

昨日の報告で、露営した不知哉川の河川敷及び付近の小山は万葉の時代に歌われた有名なところだ。

不知哉は『いさや』と読む。現在の芹川を言う。

 

《淡海路の 鳥籠山(とこのやま)なる 不知哉川(いさやかわ) 日(け)のころころは 恋いつつもあらむ》

と<万葉集巻447>詠まれている。  

 

不知哉(いさや)川の河川敷にて露営 (鳥居本宿63)

 

 

一気にゴールである京都三条大橋までを書き上げたかったが、余白の関係で今回はここ鳥居本宿63 で

終えることとする。

次回は、<同志社ローバースカウト50周年記念 中山道てくてくラリー後半報告書②>として

鳥居本宿63から、大津宿69を経て、ゴールである京都三条大橋までを描き上げ、踏破の喜びと、出迎え

の様子をお伝えしたい。

 

 

                    次回

                  

       『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ 

            <同志社ローバースカウト創立50年記念事業  記録および通信記録>

        ■ 中山道鳥居本宿63>➡<大津宿69>➡<ゴール・京都三条大橋>

        ■ <てくてくラリーIN 中山道 到着式> 京都三条大橋

        ■同志社ローバースカウト50周年記念式典> 新島会館

 

                    に続く

 

                 現在作業中

 

                   

                         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<関連ブログ>

 

中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ 

 中山道てくてくラリー前半 <日本橋0➡須原宿㊴>

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2023/01/23/092523

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ 

      星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ 

        <同志社ローバースカウト創立50年記念事業  通信記録・旅日記>

 

         中山道てくてくラリー前半 <日本橋0➡須原宿㊴>

 

 

同志社大学ローバースカウト隊(ボーイスカウト京都連盟第43団青年隊)は、1961年6月の結団から

0周年である2011年を迎えるにあたって、OGOB会による記念事業が企画された。

結団時の「中山道徒歩旅行 京都三条大橋⇒東京日本橋」に対し、結団50年企画として復路である「中山道 てくてくラリー 東京日本橋京都三条大橋」がOGOB会を中心に実施されることとなった。

ここに、同志社ローバースカウト創立50周年記念事業『中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』の報告書として、本部との通信記録・弥次喜多旅日記を残すものである。

 

 

             荷物を運んでくれたパートナー<ワイルド・ローバー号>

 

だが、2011年3月11日、いまだ記憶に新しい東北大震災がラリー直前に発生、「中山道てくてくラリー」の開催中断も止む終えない状況となった。

検討のすえ、震災復興支援キャンペーン隊として中山道徒歩旅行を成功させ、創立50周年記念企画の一環にすることにし、当初のOGOB参加という規模を縮小して、企画責任者を中心に区間参加者数名という最少人数で実行することになった。

 企画者として、また自身の70才という古稀を記念しての中山道徒歩旅行への参加を申し入れ、実行委員会より許可を受けることができた。 さらに同志社ローバー隊の再建時、全身全霊で没頭した仲間の一人で、当時病床にあった故田中祥介氏(79期生・2018年10月12日没)をパートナーとして選び、弥次喜多コンビとして全行程を踏破する形をとることとなった。

現地と病床とのコミュニケーションは、曹同宗道元禅師の教えである「向かわずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回天の力あるを学すべきなり」を学び、双方の愛語の交感によってなされることになった。 また携帯メールにより、ブログ「同志社ローバーOGOB」に寄稿し、ローバー関係者への道中報告とした。

この徒歩旅行記は、その時のブログより転載し、旅行記の加筆、若干の修正を加えたものである。

 

当初、4月10日の<中山道てくてくラリー>スタートに合わせて出発式を計画されていたが、出立直前の東北大震災のため延期され、5月1日に実施された。

東京日本橋での出発式では東京在住のOBである長岡一美氏(64年度生)・藤田恵一氏(73年度生)・佐伯直幸氏(79年度生)の見送りを受けた。

同志社校祖・新島襄の故郷である群馬県安中にある「安中教会」では、「新島襄先生献花式」に、江守牧師(75年度生)司式のもと、献花者である桑原家元 桑原仙渓(和則79年度生)・桜子夫妻、参式者として 西村豊子氏(61年度生)、黒木保博氏(69年度生)、故藤見昌憲氏(65年度生・2022年11月12日没)、稲井一樹氏(83年度生)、堀越毅彦氏(78年度生)夫妻、それに<中山道てくてくラリー>踏破中の弥次喜多 後藤實久(60年度生)と、病床より写真参加した田中祥介氏(79年度生)の10名がローバー関係者として出席した。

献花式のあと、安中にある「ふるさとの郷」での実施予定であった同志社ローバースカウト隊創立50周年記念OGOB舎営大会(統括企画者:佐伯直幸氏)は、すでに述べたように東北大震災の被災者に思いを寄せたいということから中止となったことを書きとめておきたい。

 また、同志社ローバースカウト隊創立50年記念「中山道550kmてくてくラリー」には、区間支援隊員として梅田幹人氏(71年度生)が<武佐宿⇒守山宿・野洲川原  18.0km/7.5h>が同行、同じく区間支援隊員として村田紘一氏(64年度生)が、5月21日 (中仙道てくてくラリー最終日  33日目) <大津宿⇒京都三条大橋・ゴール最終地>まで同行した。

 ゴール前日、5月20日には同志社ローバー創立50年実行委員長である田中公郎氏(63年度生)と恵子夫人(65年度生)が大津宿に出迎え、弥次喜多の労をねぎらってくれた。

そして、最終到達地点・京都三条大橋には創立50周年事業の中山道徒歩旅行の完歩を祝う懐かしい多くの仲間の出迎えをうけた。

道中、おおくの仲間の支援と祈りのもと中山道550kmを踏破しえたことに感謝したい。

 

 

     

     

    同志社ローバースカウト50年記念<中山道てくてくラリー550㎞>踏破行程表

 

 

       同志社ローバースカウト50年記念<中山道てくてくラリー550㎞>踏破ルート

 


では、「中山道てくてくラリー」からの弥次喜多の報告および弥次喜多日記を載せておきたい。

 

 

 

■   1日目 <日本橋⇒蕨宿①>の中間地点・荒川/戸田橋にて露営  4月10日 

 

2011年(平成23)3月11日 14時46分18秒、 宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする

東北地方太平洋沖地震が発生。 出発式は後日に延期することになり、弥次喜多コンビである後藤實久と

田中祥介(写真参加)は、東北大震災の余震の残る東京日本橋京都三条大橋にむけてスタートした。

 

日本橋には、今から50年前、三条大橋を出立し、ここ日本橋にたどり着いて喜びにひたった精悍な隊員たち

の懐かしい顔が見送ってくれた。

 

      

        50年前、京都三条大橋から徒歩で中山道を踏破し東京日本橋に到着した隊員達              

 

 

◎<日本橋  中山道0基点

 

日本橋出発は、地震発生から30日目、いまだ余震がつづいていた。

石神井川の土手では、桜吹雪(チェリーブロッサム・シャワー)にこころも和む。

  

 

日本橋出発<中山道基点0km>          三越日本橋浮世絵

 

 広重浮世絵 「日本橋

 

満開の桜がもの悲しく見えるのは、いまだ余震の残る東北大震災の被災者のことを悲しんでいるから

であろうか。

賑やかな見送りを受けて出発になったであろう今回の<中山道てくてくラリー徒歩旅行>の出発は、

被災者に寄り添っての弥次喜多二人だけの祈りのスタートとなった。

 

日本橋を午前9:00出発、国道17号線を北上、旧中山道をぬいながら板橋宿①を通り抜けていく。

一日目は、蕨宿②の手前にある荒川の戸田橋までの23kmの歩きである。

 

 

 

神田神社<湯島>                  東大赤門<本郷>

 

 

◎<板橋宿①> 日本橋より4㎞

 

中山道 板橋宿① 通過               桜吹雪の石神井川<板橋宿①>                 

 

縁切り榎<板橋宿①>               志村一里塚<中山道③>

 

 

中山道の里程塚>

 ここ志村一里塚によれば、江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため慶長9年(1604)2月

に諸国の街道に一里塚の設置を命じた。この一里塚は約9m四方、高さ3mの塚が江戸日本橋を基点

として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで築かれた。

志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿、平尾宿につづく中山道の第三番目の一里塚として築かれた

ものである。

 

 

広重浮世絵 板橋宿①「木曾街道 板橋之驛」

   

 

荒川<板橋宿船渡>                             ▲1日目露営地<蕨宿手前・荒川北岸>

 

 

<▲1日目板橋宿露営地  荒川戸田橋北岸テント泊  第1回 本部との通信連絡>

 

    《午後2時20分、少し早いが、荒川の戸田橋を渡り堤防を南へ200mほど行ったところの草地を

    露営地と決め、テントを張り寝床を作った。

    西風強く、テント設営にあったって補強ロープをきつめに張ることにした。

    夕食は、吉野家の<キムチチゲ弁当とコースロー>をいただく。

   無事、第一日目の露営地である板橋宿・荒川戸田𣘺北岸に到着した。

   お休み、弥次喜多

 

板橋宿①は、中山道における見送り最終の宿であり、江戸から見送ってきた人々で賑わったという。

江戸時代には<宿駅制度>があり、次の宿場までの荷物の運搬のため、多くの人夫や荷馬を備えていた。

 

      

                  ▲1日目 荒川戸田橋北岸テント泊 
 

 

 

■  2日目 <蕨宿② ⇒上尾宿⑤ 20.0km/6h> 

       荒川/戸田橋出発 ➡上尾運動公園泊  4月11日 

 

かすかな余震を感じつつも、深い眠りに入ったらしい。

疲れもあったのであろう、目覚めは午前5:30、出発前のルーティンである撤収作業、朝食、掃除、柔軟体操、感謝の祈りを済ませて午前6時58分荒川の堤防を離れて、上尾宿⑤に向かう。

朝食は、吉野家で納豆定食をいただく。

 

 

 

野営道具一式運搬に自転車を利用                携行した野営道具一式       

 

      

              中山道戸田渡船場跡のワイルド・ローバー号

 

野営道具を肩に担いでの長距離徒歩旅行は、老体には耐えきらないと自覚し、自転車(ワイドローバー号)に

積み込んで手押すことにした。

 

この時期、山に入るとまだ寒さや雪が身に染みるため、冬用の寝袋や防寒服を携行したため荷物は大きく

膨らんだ。

500キロ近くの距離を自転車を押すという歩きも大変な労力が入り、肩こりの要因となり、道中難儀したもの

である。

  

       渓斎英泉 画 板橋宿①『木曾街道 板橋之驛』

 

 

◎<蕨宿②>  日本橋から約8㎞ (わらびしゅく)

 

 

中山道 蕨宿②>                         蕨宿②ー河童三度笠のデザイン蓋

 

現在、東京と埼玉の境にある戸田橋は江戸時代にはなく、橋から150mほど下流に渡船場があった。

徳川家康は、軍略上江戸に向かう敵を防ぐために、人為的に川に橋を架けさせず、渡し船や人夫による渡川

強いていたことは、東海道53次自転車旅行でも述べたことである。

 

日本橋から出て、二番目の蕨宿②(わらびしゅく)は、現在<歴史民俗博物館>となっている岡田家が本陣跡

であり、総戸数430軒と旅籠23軒で構成されていた。

 

     渓斎英泉 画 蕨宿② 「木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場」

 

蕨宿②に入ると、河童三度笠のデザイン蓋が目につく。 蕨宿400年を記念して蕨(わらび)と草鞋(わらじ)をかけた<わらじろう>のキャラクターとのことである。ユーモアをさそう。

 

 

◎<浦和宿➂>  日本橋から約12㎞

 

 

調神社中山道③浦和宿>                      中山道③浦和宿  

 

 

    渓斎英泉 画 浦和宿➂『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』

 

調神社(つきじんじゃ)は、地元で「つきのみやさま」の愛称で親しまれている。月と同じ読み、

と云うことから月待信仰と結びつき、月神の使いである兎が守り神になったという。

浦和宿➂は、<わらじろう>とともに、ユーモアあふれる宿場街である。

 

浦和宿➂を出て、京浜東北線をくぐり、刑場跡に建つ<お女郎地蔵>を見ながらケヤキの並木道を楽しむ。

中山道を進むと、分岐に常夜灯とともに<武蔵国一宮>の石碑が建つ。 この分岐を右に進むと鳥居

をくぐって、氷川神社に向かう。 分岐を直進すると大宮宿④に着く。

 

 

◎<大宮宿④>  日本橋から約31㎞ 

 

大宮宿④は、山崎本陣を中心に、総戸数319軒、旅籠29軒という中堅の宿であったという。

 

 

武蔵国一宮<中山道・大宮宿④>             氷川鍬神社<上尾宿⑤>

 

渓斎英泉 画 大宮宿④『木曾街道 大宮宿 富士遠景』

 

 

大宮宿④より、東北新幹線をくぐって進むと京浜東北線上尾駅」近くにある<上尾宿総鎮守・氷川鍬神社

に出る。 ここより<上尾運動公園>に向かい、今晩の露営地としてお世話になる。

 

 

◎<上尾宿⑤>  日本橋から約39㎞


上尾宿⑤は、氷川鍬神社の向かいにあった本陣を中心に、総戸数182軒・旅籠41軒であった。

 

   ≪上尾宿に到着、約6時間、20KMでした。天気よし、到着後雷雨、激しい余震あり。

    早く寝て疲労回復につとめます。あす詳しい通信をします。大雨、おやすみ。》

 

 

上尾宿・上尾運動公園にてテント泊

 

上尾運動公園の野外体育館の軒下を借りるが、一晩中余震に怯えながら朝を迎えた。

 

渓斎英泉 画 上尾宿⑤『木曾街道 上尾宿 加茂之社』

 

 

 

■3日目 <上尾宿⑤ ⇒ 熊谷宿⑧ 20.0km/6h)  4月12日 

     (上尾運動公園出発 ⇒ 元荒川堤防露営地着)  

 

    ≪同志社ローバースカウト 兄弟姉妹の皆さんへ