shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2001《アフリカ縦断の旅    15650km》Ⅱ

          『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』

              《アフリカ縦断の旅    15650km》 Ⅱ

              ―東アフリカ編―

                 星の巡礼者  後藤實久

 

              Ⅰ  《シベリア横断の旅    10350km》

              Ⅱ  《ヨーロッパ周遊の旅  11000km》

              Ⅲ  《イスラエル縦断の旅    1000km

              Ⅳ  《アフリカ縦断の旅    15650km》

 

 

 

■    11月15日 カイロを飛び立ち、ケニア首都ナイロビへ

 

エジプトを去る日である。

ケニア首都ナイロビへの飛行機は夜行便である。

 この喧騒に満ち、生きる力が満ち溢れたカイロの街は、悠久の流れにあるナイル川のように、これからも変わることなく時の流れに身を任すことであろう。

 そして、人びとは規律や規則に縛られず、大自然の法則に身を任せ、アッラーのもと、生きる喜びを変えることなく真理を見出していくことであろう。

 

いよいよイスラム圏アフリカ・エジプトより飛行機で、内乱状態にあるスーダンをひとっ飛びし、赤道の国で、<野生動物の王国>であるケニアの首都ナイロビに向かう。

 

当時の日本政府もスーダン渡航禁止国に指定していたが、実は、東アフリカをバスで縦断する計画を秘かに立てていた。 しかし、スーダンの内戦は、この旅までに解決せず、動乱は止むことなく、さらに部族間の対立が激化し、スーダンを南北にバス縦断することは不可能となってしまった。 

 

ケニア航空321便の窓から、月明かりに輝くナイル川に別れを告げた。

さらばエジプトよ、また会う日まで・・・

 

ケニアの<サファリ―ツアー>で、野営をしながら野生動物を追ってみたい・・・

少年時代の夢は、まさに現実になりつつある。

 

  ▼ 11/15 ケニア航空321便  機中泊

     カイロ 11/15  23:20発 ➡ スーダンハルツーム空港(乗継) 

      ➡ ケニア・ナイロビ<モイ国際空港> 11/16 06:20着

 

            

    

              Kenya Airwaysでケニア首都ナイロビに向かう

 

 

ケニア共和国とは、どんな国・・・>

豊かな大自然を創り出している恵まれた気候や地形こそが、<野生の王国>と言わしめる大平原を残している。

その上、素晴らしい初代の指導者たちに恵まれ、ナイロビを中心に、ケニアを東アフリカの政治・経済・文化の中心に育て上げ、<野生の王国>建設にも力を入れてきた。

観光客は、わたしのように、まずナイロビを目指し、ナイロビを中心に東アフリカを旅することとなる。

今なお、ナイロビには失業者があふれ、治安も決して良いとは言えないが、それでもケニアは東アフリカでもっとも豊かで安定しているといえる。

 ケニアは国自体が赤道直下にあるにもかかわらず、ナイロビは標高1700mの高原地帯に位置し、平均気温10~28℃と、しのぎやすい。

 

 

  

 11月16日  <ケニア首都 ナイロビ> 

 

朝6時20分 搭乗機・ケニア航空321便は、ケニア・ナイロビ <ジョモ・ケニヤッタ国際空港>にすべり込んだ。

 

   

         ケニア・ナイロビ <ジョモ・ケニヤッタ国際空港>

 

両替を済ませ、隣接する<VENTURE AFRICA TRAVEL>のデスクで、サファリ―・ツアーに申込み、念願の赤道直下のサバンナで、野営をしながら野生動物を追い、その生態を観察する機会が正夢となり、心躍った。

好青年、ドライバーDavid、ガイドJenniferも紹介せれ、6日間のサファリ―ツアーの説明も受ける。 (6日間 x @70US$=420$前払い)

 

宿泊先は、<ナイロビYMCA>とし、防虫対策がよく、疲れがとれるトイレ・シャワー付きのダブル・ルームとした。 (1泊 1041Sh/シリング)

 

ケニア  ジョモ・ケニヤッタ国際空港にて>

  □ 空港で両替を済ませる <エジプト・ポンド£ ➡ ケニア・シリングKsh

    □ 空港カウンターでジンバブエ航空のリ・コンファーム/予約再確認

    <ケニア・ナイロビ ジンバブエ・ハラーレ ➡ ビクトリア・フォールズ

    □ インフォメーションで<ケニア地図>を入手

    □ ジョモ・ケニヤッタ国際空港 ➡ YMCA宿泊先移動 <タクシー利用>

    □ コレラ予防薬の購入<Vibramycin 100mgx10Capsules>

    □ ナイロビのショッピングセンターでの購入メモ

             <蚊取線香・ネット・目張り用ガムテープ・侵入防止用鍵・懐中電灯・非常食・果物・水>

         □ イエロカード「マラリア予防接種証明書」の携帯確認

 

 

<ブラック・アフリカ    : ケニア

アフリカの黒人の国<ブラック・アフリカ>に足を踏み入れたのは、この時、ケニアが初めてである。

アラブ・アフリカにあるエジプトや、モロッコチュニジアアルジェリアリビアは、アフリカにあっても、<ブラック・アフリカ>とは言えない。

赤道直下に位地するケニアは、インド洋に面する海岸線をのぞいて1000m以上の高原地帯であり、炎天下は暑いが、陰に入ったら涼しくしのぎやすい。

 

ナイロビの街を歩いて感じたが、慣れないせいなのか、どこか違和感を持った。 

エジプトのカイロで接したアラブ系アフリカ人からは、親しみの情を見せてくれたものだが、ケニアの人々は、どこかアフリカ人としての誇りを感じさせ、溶け込みにくく、冷たさを感じたのは私だけだろうか。

ただ、商売や、客引きに関しては人種に関係なく、アラブもアフリカも熾烈である。

 

さっそく、ナイロビの繁華街にある中華料理店「九龍」に出かけ、栄養補給をした。

ランチを食べたいと注文すると、中国人である主人が出てきて、「800Shで任せるか?」という。

メニュー無しのお任せである。 1600円もの昼食は、バックパッカーにとって法外だが、任せてみた。

なんと豪華な中華が出てきたことか・・・

チキン・ポーク・ビーフの各野菜炒め、ローメン、ふかひれスープ、春巻、ご飯と食べきれないほどのボリュームである。 もちろん残りはテイクアウトである。

主人としても久しぶりの東洋人、つい声を掛けて見たくなったようである。

こちらも、赤土の国ケニアにあって、孤軍奮闘する東洋人にこころからエールを送ったものである。

世界中を歩いていて、どのような田舎町でもチャイニーズの経営する中華料理店に出会ったときの嬉しいこと、この上ない光明であり、安堵感に包まれることはない。

このような地にも東洋人が住み着いていると思うだけで、孤独感は消え失せてしまうのである。

 

ただ、美味しい中華を食べていて、現地の従業員全員がこちらの卓をぐるりと囲んで、食事をする様を観察するのだから、落ち着いて食事もままならない奇妙な光景に出くわした。

早々に残りをパックしてもらい、ご主人のご厚意に感謝し、退散したのである。

ケニア政府の方針で、サービス業は優先して現地住民の雇用を義務付けているのであろうか。

それにしても、異様な経験は、不気味であった。

 

ナイロビは、カイロに比べてゆったりと時間が流れている。

神風の街から、ハンナリの街 京都にやって来たようである。

 

<ナイロビの危険について>

しかし、このノスタルジックな雰囲気は、街を散策していて一変した。

ナイロビのYMCAを出て、ナイロビ大学の構内を散策し、日本大使館の位置を確認、ナイロビ市役所をすり抜け、テロに襲撃されたというアメリカ大使館を巡り、市役所近くのシティ・スクウエアーで休んでいたところ、公園の四隅からこちらをうかがう異様な雰囲気を感じたのである。

と同時に四隅の黒い影は一斉にこちらに向かって歩き出したのである。

人通りも少なく、とっさに危険を感じたので、迫りくる気配を観察し、脱出口を見つけることに全神経を集中させた。

どうも、東西南北から迫りくる暴徒の内、北からの一番弱そうな背の低い人物めがけてあらん限りの力を出して、ダッシュしたものだから、その人物が、こちらの突進にパニックになり、一瞬怯んだのである。

こちらのダッシュにほかの暴徒があわてて追い出したが、こちらの勢いの方が勝っていたのであろう、なんなく一点突破に成功し、無事YMCAに駆け込んだ。

くわばらくわばらである。 敵も獲物を逃がして悔しがっていることであろう。

でも想像しただけで身の毛がよだった。

暴行の上、身ぐるみはがされ、公園に転がされている姿を想像しただけで、この幸運に感謝したものである。

 

2001年当時の日本人が、金持ちであるとの全世界での評価は、ここナイロビでも同じである。

残念ながら、外地ではおのれ自身を守らざるを得ない、自己防衛の意識が求められるのである。

その手段として、いつもスティック(先の尖った登山用ストック)携帯し、暴徒や強盗に対処しているが、いざというとき役立つかどうか疑問に思っている。

しかしである、宿泊先であろうといつもその危険にさらされている限り、用心するためのツールとして持ち歩いている。 一種のお守りとして・・・

 

<蚊帳のある部屋>

懐かしい小中高生の青春<スカウト時代>の想い出の一つに蚊帳(かや)がある。

昭和の時代、蚊帳は夜具に欠かせない必需品であった。 また、キャンプに行ったときの、テントのなかでスカウト同志寝床を取り合った懐かしい思い出も宿った。

しかし、ケニアにおける蚊帳は、マラリアや黄熱病、テング熱からの直接的感染・脅威を防止する必須のアイテム・ツールである。

天井からつるされた蚊帳は、ベッドをすっぽり包みかぶさっている。

しかし、良く調べてみると10か所ほどの穴が見つかり、命を守るため急遽、カイロで購入したガムテープで補修することとなった。

 

<氾濫する日本製中古品>

ナイロビの街を歩いていて、氾濫する日本の中古車・電気製品に驚かされた。

ケニアの日本からの輸出入は、10対1だという。 一歩間違えれば、反感につながりかねないからか、日本政府も病院建設などで協力しているようである。

最近、アメリカ大使館が襲われ、爆破・放火された。

ヒルトンホテルや、大型ショッピングモールが進出し、現地の雇用を生み、経済活動にも活発だが、住民の貧富の差は広がる一方で、不満は爆発寸前であると聞く。

同じ目が、日本にも向けられても不思議ではない。

ナイロビの街いたるところで、日本車が氾濫しているからである

 

明日からは、念願の<アフリカ・サファリ6日間ツアー>のスタートである。

神から贈られたプレゼント<6日間のサファリ―キャンピング>、無理せずに大自然の空気を胸いっぱいに吸い込みたい。

 

    ▼ 11/16 <ナイロビYMCA>

      Uhuru Highway沿いのナイロビ大学グラウンドに隣接

   

   

                蚊帳付きベットのあるNairobi YMCA 

 

 

 

 ■ 11月17日 <赤道直下サファリ―ツアー>

 

     《キャンピングー サファリ5泊6日》 440US$

      ツアー社 : <VENTURE AFRICA>  TEL;HQ-219888

             ▲テント5泊(自炊キャンプ)

 

      1日目 ナイロビ出発~マサイ・マラ村 (生活体験) 

      2日目 マサイ・マラ村2日目

      3日目 ナクル湖 (フラミンゴ)経由~サンブルNPへ

      4日目 サンブル・ナショナル・パークより~アンポセリへ向かう

      5日目 アンポセリ・ナショナルパーク

      6日目 アンボセリ・ナショナルパーク~ナイロビ帰着

 

      <ツアー参加者> 5名 (オランダ2名・ドイツ2名・日本1名)

               ドライバー兼世話人:MR.Richard Grit Glawe

 

 

 <サファリー出発前 ナイロビYMCA>

イスラエル、エジプトと緑少ない砂漠地帯から、赤道の国 緑あふれるケニアにいる。

宿泊先であるナイロビYMCAの美しい緑と花の庭園を見ていると、天国の花園にいるような感覚になった。 

朝食をとるためダイニングルームにいる。

宿泊者は、みな土地の人達、和やかな談笑のなか、フォーク・ナイフが賑やかなハーモニーを醸し出している。 ここナイロビのYMCAは、地元の裕福な人々の社交の場のようだ。

ケニアだけでなくエジプトでもそうだが、人々の中に貧富の差からか、真逆の生活が混在しているのだ。

                 

        

                   YMCA青年部の集い

 

 

いよいよ、子供時代に過ごしたボーイスカウトのキャンプで夢見た、待望のサファリ―・キャンプが実現するのだ。

ミルクティーが美味しい。 そのザラメの砂糖が、朝鮮戦争下の連合軍兵士からもらったキャラメルやチューインガムなど、少年時代を思い出させてくれた。

 

今回の旅では、国・宗教・人種・政治・気候・風土・風習・言語の違う土地を旅してきたが、ただ、そこに住む人たちの考え・習慣・信仰などで、貧富の差を越えて自分たちだけのオリジナリティな世界を創りだしていることに感銘をうけたものである。

 

ナイロビYMCAも、ヨーロッパやアメリカのYMCAのセルフサービスと違って、一世紀前の英国植民地時代の一流ホテルのレストランと同じく、ボーイが注文を取りに来て、目玉焼きの焼き具合、ソーセージの大きさ、フルーツの希望と、客本位のサーブを行っていたのには驚かされた。

あの宣教師的権威に満ちたYMCAの姿が、ここアフリカに残っていたことに、驚きを隠せなかった。

そう、ナイロビYMCAは、バックパッカーのようなアニマルの泊るところではなかったようである。 着飾った貴婦人や紳士がより集って談笑するサロン的社交場であったのだ。

今回の長旅で初めて、ここナイロビYMCAで、バックパッカーらしからぬホテル並みのベット、そして、まともな食事となった。

まるで英国植民地時代の貴族的生活スタイルを味わうこととなった。

 

 

<サファリ―ツアー開始>

「マサイ・ラマNP」(国立保護区)をサファリー・バンで走りながら、インパラ・ジブラ・野ウサギ・ヌ―を観察、人の手を借りずに生きている野生動物たちの精悍さ、機敏さに触れ、その生きざまに目を見張った。

人間の、お互いの協力、相互扶助という助け合い、組織的に生きる動物であるのに対して、野生動物は、群れを成し、相互防衛のもと、一匹一匹が自由な生き方を貫いているようである。

 

距離メーターの壊れた中古車<トヨタハイエース>が、5人のサファリ―・メンバーを乗せて国道B3を西へ、サマイ・ラマNPに向かいながら、さまざまな動物を見つけては観察に興じた。

1日目 サファリ―ランチ : サンドイッチ・卵・バナナ・オレンジジュース

この中古日本車<サファリ―バン>は、途中、床下の保護板が外れたりと、騒動はあったが、最後までサファリ―・ツアーの役目を果たしてくれ、中古日本車の世界席捲の理由が分かったような気がした。

マサイ・ラマ村に着いてからは、焚火を囲んでマサイ族の伝統的な成人式ダンス<ファイティング・ダンス>を鑑賞、マサイ族の青少年は16歳になると7年間、部落の外に出されて一人で過ごすという。

 

 

<サファリの準備>

サファリ・キャンピングの夜は、かなり冷え込むと言うことでジャケットを持参、ほかにマサイ・ラマ村でショールを購入して備えた。 日中はたいていサファリ・カーにいるので、動きやすいTシャツと、ポケット付きのサファリ・ベストにサファリ・ズボンで過ごした。

ほか、帽子・サングラス・ヘッドライト・ロウソク・マッチ・蚊取線香・虫よけネット・双眼鏡・ウエットティッシュティッシュペーパー・星座表・簡易動物図鑑・スケッチブック・水彩絵具・筆記用具・ミネラルウオーター・リップクリーム・のど飴・救急セット・カメラ・予備バッテリ他を準備した。

寝袋と食事は、サファリ会社が用意してくれていた。

 

  

   

         焚火を囲んで<ウエルカム・ダンス>を踊るマサイのご婦人たち

 

 

      ▼     11/17  マサイ・マラ村  キャンピングサイトにてテント泊

 

      サファリー・ツアー・キャンピング参加者(5名)

      (サファリ―・バン 運転手兼ガイド・クッキング : 

                                          Mr. Richard Grit Glawe (ケニア・ドライバー兼世話役)

             Ms. Kere Karstens (オランダ)

             Mr. Nico Plooijer (オランダ)

                                         Ms. Stefan Pawlowski (ドイツ)

                                         Mr. Grit Glawe (ドイツ)

                                         Mr. Sanehisa Goto (日本)

       

        マサイ・ラマ村の早朝(11/18 04:30am)の風景(ラフスケッチ)

                

 

■ 11月18日 サファリ―ツアー 2日目

 

アフリカの夜明けは、実に速く、美しい。 近くでシマウマたちが草を食べ、マサイ族のご婦人たちの合唱、朝焼けの雲、 もうここは夢にみた世界である。

 

                      

                 マサイ・ラマ村の美しい朝焼け

 

                  

             マサイ・ラマ保護区のシマウマ(ジブラ)たち

 

     

             マサイ族のご婦人たちの早朝合唱に飛び込んで

 

マサイ族がまとう民族衣装<一枚布>の色や織り方に魅了されて、分けてもらって、さっそく戦士や子供たちと写真におさまった。 いまでも大切に保管し、船旅のショーなどで披露している。

 

                                      

             マサイの民族衣装をまとって戦士・子供たちと

 

                 

            ケニア・サファリ―・キャンピング6日間ルート図

  

   

        サファリ―・ツアー2日目のミーティング(マサイ・マラ村)

               

   

                    マサイ族戦士と

              

   

                 マサイ・マラ村の子供達

 

 

     ▼ 11/18 マサイ・ラマ村 キャンプサイトにてテント連泊

       今宵は、キャンプ・ファイアーでのマサイ族の戦士によるファイティング・ダンスを

       鑑賞する。

 

                    

              南十字星を眺めながらのキャンプファイアー

                   マサイ族戦士と共に

                 Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

       ▼ 11/19 マサイ・ラマ村 キャンプサイト連泊

 

   

            マサイ・ラマ村 キャンプサイトにてテント連泊

 

 

                 マサイ・マラ国立公園の日没の風景

                 Sketched by Sanehisa Goto

 

 

キャンプサイトでの注意>

キャンプサイトと言って安全とは限らない。 柵もなく野生動物が平気でキャンプサイトに近づいてくる。 ここマサイ・ラマ村では近くの川に水吞のためカバや他の動物が多く見かけられた。 観察する者を意識することなく、悠然と構え、こちらを観察するゆとりさえ見せてくれるのである。

自然との触れ合い、野生動物の野生息遣いがこちらにも伝わってくる瞬間であり、サファリの醍醐味である。 接近してきたほとんどの野生動物は、こちらが変な行動をとらない限り、じっとしていればそのまま通り過ぎていくものだ。

ただ、テントのなかに食べ物を置いたまま離れるな、との厳重な忠告を受けたものである。 野生動物のきゅう覚には充分気を付けた。 今までに何度も像に襲われ、テントをつぶされたとの事である。 また、サバンナモンキーに食べ物を狙われたら、テント内はその略奪ぶりに目も当てられないほど荒らされるとの話だ。

これらの食べ物による被害は、日本の山でも同じである。 5泊前後のロングトレイル縦走時の食料を熊からの襲撃を防ぐために、テントから離して木の枝に吊り下げていたことも、経験として生かされた。

 

 

■  11月19日  マサイ・ラマ村より<ナクル湖>に向かう

        

    

          早朝、マサイラマ自然保護区を警護付きで散策サファリ―

                      

    

                移動中、マサイ族の放牧地に立寄る

 

                          

                  マサイ・マラ村の家屋と室内

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

              

   

            マサイマラ国立保護区セケナミ・ゲートを後にして

              フラミンゴ観察のためナクル湖に向かう

        

                      

              マサイ・ハイウエーからのサファリ―風景

                   国道B―1よりの眺望

                 Sketched by Sanehisa Goto

 

       

<ナクル湖でフラミンゴ観察>

2001年当時、ナクル湖はアルカリ性の湖に発生する藻を求め飛来する数百万羽というフラミンゴの大群を見られるアルカリ湖として有名であり、当然サファリツアーに含まれていた。

ナクル湖は、ナイロビから約160キロ北にある面積40平方キロメートルほどの小さく浅い湖である。

皮肉にも、これより10年後の2011年に世界遺産に登録された「ナクル湖」であったが、わたしが訪問した2001年以降、異常な水位の上昇により水質が中性化し藻の生育を阻害したため、飛来するフラミンゴは激減したといわれている。

そのほとんどが、おなじくアルカリ湖である60㎞東北に位地するボゴリア湖に移動してしまったようである。

現在、ナクル湖にはフラミンゴの姿はなく、そのほかの野鳥や、白犀の生息地として有名であるという。

私たちが、立寄ったときがナクル湖でのフラミンゴ観察が出来る最後の年であった。

 

  

            フラミンゴの群れで覆われたケニア・ナクル湖面

 

               ケニア・ナクル湖のフラミンゴの群れ

                              

         

                                                       双眼鏡でナクル湖のフラミンゴ観察中

           

   

          ケニア・ナクル湖のフラミンゴ (Get Your Guideより)

 

 

    

       サファリ―バン(トヨタハイエース)よりナクル湖のフラミンゴ観察中

 

ナルク湖でのフラミンゴの生態を観察したあと、国道A2を北上し、赤道をまたぎ、サンブル国立保護区へ向かう。 途中、巨大犀に出会いながら、本日の宿泊基地のサンブル・エドワード・キャンプサイトに到着した。

     

   

           国道A2号線上のアフリカ・ケニア赤道通過点表示板

           

          

                   (標高2130m/6389ft上の赤道)

 

                       

     

                                                            赤道直下にあるケニア国道A2

 

本日の宿泊キャンプサイトのあるサンブル国立保護区は、ほぼ赤道直下にあり、後に経験するブラジル・アマゾン川での赤道直下でのハンモック・キャンピングと共に生涯、記憶に残るキャンプとなった。

 

                 

                                             サンブル国立保護区エドワード・キャンプサイト

                  Sketched by Sanehisa Goto

    

                        

                                                                赤道直下の星座たち

                                    サンブル国立保護区エドワード・キャンプサイトにて

                Sketched by Sanehisa Goto  

 

   

       

                サンブル国立保護区より赤道直下の夕焼けに沈むケニア山(標高5199m)を望む

 

 

     ▼ 11/20 サンブル国立保護区キャンプサイト

 

   

               サンブル国立保護区のキャンプサイト        

  

   

                夜間、野生動物の接近を防ぐ焚火

 

 

 

 11月21~22日 アンボセリ国立公園サファリ―・ツアー

 

サンブル国立保護区のキャンプサイトで目を覚ました一行は、早朝のサファリ・ゲーム・ドライブで、たくさんの野生動物、ヒョウ、シマウマ、ライオン、アフリカゾウ、キリンたちに出会ったあと、次なるアンボセリ国立公園に向かった。

 

 

        インパラ                   ヒョウ

       シマウマ             ライオン

 

        アフリカゾウ                   キリン

サンブル国立保護区のキャンプサイトを出たサファリ―カーは、一路国道A2/A104を南下し、タンザニア国境、キリマンジャロ山をかすかに望見できるアンボセリ国立公園のキャンプサイトに向かった。 

この近くの別荘キャンプ地で、アメリカの作家ヘアーネスト・ミングウエーは、サファリ―で狩猟を楽しみながら小説「キリマンジャロの雪」を執筆したという。

キリマンジャロの雪」はベストセラーとなり、1952年にグレゴリーペックとスーザンヘイワードという二大俳優によって映画化された。 中学時代に、京都伏見にある大手筋商店街にあった映画館で観たことを覚えている。 内容についてはほとんど覚えていないが、その雄大なサファリ―にうかぶキリマンジャロの勇姿が記憶に残っているのである。

 

同じアンボセリ国立公園のキャンプサイトから眺める、赤道付近にあるアフリカ最高峰キリマンジャロ(標高5895m)の頂に、雪が少なかったことに驚いたのである。

なぜなら、想い出のなかのキリマンジャロの平らな山頂には、真白な雪が見えるはずであったからである。

 

                    

                                 サファリで狩猟するヘミングウェイ(1934年 Wikipedia

  

     

                            1934年 アンボセリ国立公園からのキリマジャロ山(標高5895m)

 

            アンボセリ・キャンプサイトで出されたミネラルウオーターのラベル<KILIMANJARO>

 

 

               ▼ 11/21~22 アンボセリ国立公園のキャンプサイトにて連泊

 

 

 

 11月22日 アンボセリ国立公園でのサファリ―・ツアー

 

 

               アンボセリ国立公園キャンプサイト

          

       

           アンボセリ国立公園での朝食風景 (サファリツアー参加者と) 

 

<危機一髪>

朝4時半、夜が明けきらないキャンプサイトの外周を一人散策して、90分程、野生動物の世界に足を踏み入れてみた。

ガイドは、キャンプサイトの周りをトレッキングしてもいいと言っていたのである。 もちろん野生動物の接近・危険は無いものと理解していた。

インパラの群れに接近、観察にいささか興奮していた。

このとき、近くの木の枝からレオパード(チーターより小型)が背をかがめながらこちらを見下ろしていたと、帰ったわたしにキャンプ・オーナーが告げたのである。

<You are so lucky, be here now!>

と言われて、振り返った枝に、獲物を逃がしたレオパードが、インパラの群れに視点を変えているのが見てとれた。

レオパードは、チータと同じく、狙った獲物は絶対に逃がさないこと、危機一髪のところで難を逃れたことを知って、ようやく驚きの頂点に達したのである。

アフリカ・サファリーでは、絶対にキャンプ・サイトを離れてはいけない事を、肝に銘じるべきであった。

 

              危機を知らず、キャンプサイト周囲を散策中
 

 

<サファリ―キャンプの食事>

朝6時、朝食<パンケーキ・フレンチトースト・スクランブレエッグ・ビーンズ・コーヒー>をとり、サファリ―バンで出発、いまだ枝に張り付いているレオパードを観察しながら、近くのサンブル・ロッジでシャワーをとり、汗にまみれた体を洗ったあと、プールで泳ぐ。

清々しいアフリカの空気を吸いながらランチ<ミートソース・パスタ & ビーンズ オレンジ・ジュース>をとる。

 

午後からのアンポセリ・サファリ―を終えたら、明日はいよいよナイロビで解散である

 

         

<アンボセリ国立公園で出会ったサファリ―の主役たち>

ジャカレ(キツネ)・Hippo(カバ/サイ)・アンデュープ・イノシシ・ライオン・ハイエナ・ジブラ・ジラフ・コンドルグヌー・バッファロ・イニシシ・モンキー・オーストッチ・ウオーターバック・バッファロー

                 

           ライオン                 アフリカゾウ

                            

                   インパラの群れ

           

 

        ライオン                   バッファロー

                

       

       

            ケニア・サファリ―・ツアー・ランチタイム風景

              サファリ―カー(トヨタハイエース

                         

                    ヌーの群れを追う

                           

                     サイを追う

 

 

    ▼ 11/22 アンボセリ国立公園キャンプサイト連泊

 

最終日は、テントにグランドマットを敷き、マサイ布を巻いて寝た。

蚊の襲来は凄く、このサファリ―で初めて蚊取線香を焚いた。

マラリアの予防薬は、ケニア到着時より服用していたので安心ではあるが、蚊に噛まれた手の腫れが、少し気にかかるところである。

 

    

          最後の夜、サファリー参加者のサヨナラ・ミーティング

 

アンボセリ国立公園キャンプサイトから見る星空は、とくに綺麗である。

赤道に近か過ぎて、サザンクロス<南十字星>の位置がはっきりしないが、南半球におりながらオリオン座(北半球の星座)が天空にはっきり見えたのには感動した。

星座の位置は、サンブル国立保護区でスケッチした夜空の星たちを見ていただきたい。

 

 

<サファリ―における野生動物保護に関する考察>

キャンプサイトの留意事項の中に、野生動物に関しての次のように書かれていた。

 

「野生動物は、植物とともに、特定の種に限らず動物全体が生物多様性の重要な構成要素であり、私たちの豊かな生活に欠かすことのできない存在である。 このため、動物を含むすべての生物の保護とその適正な管理を実施することにより、良好な自然環境を保全し、もって現在及び将来の健康で文化的な生活の確保に寄与することを、サファリ―参加者は理解して、行動し、野生動物に接していただきたい。

 

主なる問題は2つある。 一つは、違法で規制されていない野生動物の取引がなされていること。 もう一つは、野生動物の生息エリアが減少し、消滅しつつあること。 これらの脅威への取り組みが、WWFの野生生物種保全プログラムの活動の大きな柱となっていることを理解の上、サファリーツアーを楽しんでいただければ幸いである・・・」

 

また、野生動物との接し方、守り方として、次のように箇条書きされていた。

 

「わたしたちにできることは……

1.身近な自然に関心を持って、自然の中でそっと生き物を観察しよう。

2.絶滅のおそれのある生き物をつかまえたり、飼ったりしないようにしよう。

3.ペットや外来種を自然のなかに放さないようにしよう。

4.森や川などに出かけたときは、ゴミはすべて持ち帰ろう。」

 

現在、世界中で人間の勝手な欲望を満たすため多くの野生動物が犠牲になっていることを、アンボセリ国立公園のレンジャーが、焚火を囲みながら静かに語ってくれた。
野生動物を保護しないと、ここアフリカでも動物たちが絶命の危機にあると、サファリ―で接した野生動物の息遣いからくる、命の大切さを忘れずに、いかなる野生動物たちをも絶滅危惧種に追い込まないように協力していただきたいと訴えていたことが、こころ深くに残った。

 

 

11月23日  サファリ―最終日 & ナイロビ帰着   曇

 

アンボセリ国立公園でのサファリ―を終え、ナイロビに向かう。

ステファン・グリッド(ドイツ組)とは、ここアンセボリで分かれ、アイリン・ニコ(オランダ組)とナイロビに向かうため、サファリ―カーに乗込む。

アフリカでのサファリ―が夢だっただけに、サファリ―期間中、眠るのも忘れ駈け回ったおかげで、ナイロビへの帰途、座席に横たわってぐっすりと眠ってしまった。

 

ツアーの楽しさは、ガイド兼運転手のデイビッドの軽いジョークや、ドイツ・オランダ組の聡明な若さと好奇心からくる鋭い観察眼によるところが大きかった。

サファリ―の食事も、質素ながら満足であり、キャンプサイトも申し分なかった。

なんといっても、サファリーの野生動物の生き生きした生態にまじかで接することができ、満足できたたことを一番喜んでいる。

 

<ナイロビYMCAに帰着>

YMCAでは、聖書研究会が持たれていた。

多くの宿泊者や、現地の青年が参加し、旧約聖書<ISAIAH 40-28~31、イザヤ書 第40章28~31節>が、研究テーマであった。 聖書朗読のあと、讃美歌#320が流れた「主よみもとに  近づかん・・・」

この章は、約60年前新大陸ブラジルへの移住を目指し、移住訓練所であった東京江古田<力行会>(1897年・明治30年 島貫兵太夫牧師によって創立・当時は永田稠会長)に入所した時(1965年2月10日)に学んだことを懐かしく想い出していた。

この節には、次のように書かれている。

 

『28    あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。

    主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、

    弱ることなく、また疲れることなく、

    その知恵ははかりがたい。

    29       弱った者には力を与え、

       勢いのないものには強さを増し加えられる。

    30      年若いものも弱り、かつ疲れ、

       壮年の者も疲れ果てて倒れる。

    31      しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、

      鷲のように翼をはって、のぼることができる。

      走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない』

     

               <旧約聖書 イザヤ書 第40章28~31節>

 

 

ナイロビにある<ケニア航空>の事務所で、ジンバブエ首都ハラレ行フライトのReconfirm(リコンファーム・搭乗再確認)を行い、その足でジンバブエ航空の事務所で往復航空券<ハラレ/Harare~ビクトリア滝/Victoria Fall>を購入する。

 

ケニア・ナイロビのYMCAやYouth Hostelは市内で一番危険なエリアにあると、西欧のガイドブックでは警告しているが、YMCAに滞在してみて、厳重なセキュリティをはじめ、規律あるマネージメントや、健康安全面での対応に満足しており、危険をあまり肌で感じることはなかった。

ただ、散策で味わった気味悪い包囲網を思い出したが、それに増してYMCAでのケニア青年たちの明るい笑顔に魅せられた。

 

プールで泳いでみたが、清潔である。 青年たちの議論する声や、讃美歌の流れが、この国の明るい未来を象徴しているようにも見えた。

 

       

   

                サファリ―カー無事ナイロビに帰る

         

                ケニア国旗ひるがえるナイロビ

 

       ▼ 11/23 ナイロビYMCA連泊

 

 

 11月24日  モンパサ (ケニア主要港)

 

ケニアを発ち、ビクトリア湖に向かう前に、アフリカの鉄道旅を楽しむことにした。

ナイロビ~モンパサ間往復、東アフリカ約1000kmの旅である。

 

モンパサの人口は、約120万人(2019)で、ケニア第2位の港湾都市である。

かつてはアラブ人との交易で栄えた地域で、イスラム教徒が多く住んでいる。

ムスリム商人の活動が盛んになるにつれ、インド洋で行われていた交易において、拠点の港の1つとして栄えた都市である。

19世紀後半には、イギリスの植民地として、イギリス領東アフリカの重要な外港として機能していた。

さらにモンバサは、この地域における陸上交通の拠点でもあり、東アフリカにおいても重要な交通の要衝である。

かって鉄道路線は、カンパラウガンダ)~ナイロビ~モンパサ間を走っていたが、現在、幹線路線はナイロビ~モンパサ間約490kmとなっている。

2017年、中国によりケニアの資源開発を円滑にするため幹線鉄路の近代化に着手、完成しているが、債務の罠として世界中が注目している路線である。

  

 

               ナイロビ~モンパサ間の英国植民地時代の古い列車

  

       

                   ケニア鉄道シンボルマーク

 

 

ここモンパサは、アラブ商人がおおく活躍した港湾都市であり、今でも現地人との共通言語としてのスワヒリ語が使われている程である。 イスラム文化は7世紀末、すでにモンパサに伝来していたということからして、西欧のアフリカに対する植民地政策が16世紀頃にはじまるから、アラブ人のアフリカ早期進出を知ることができる。

いまでも、レースの帽子や真っ黒なチャドル<ブイブイ>をまとったご婦人や、アラブ商人たちによってもたらされた綿布製の伝統衣装<カンズ>を着た人々を街中でみかけられた。

わたしもカンズ(シンプルな白色で作られた、くるぶしまでの長さのゆったりとしたワンピース)をお土産として1着購入した。

他に、民族衣装として腰に巻たり、ショールとして使用するカラフルなカンガ(織物)を、街の中で沢山見かけた。

 

          

   

                 お土産として売られているカンガ              

 

          

                   カンガ・ファッション

 

街中にはモスクもあり、1日5回の礼拝や厳しい戒律も、かなり厳しく守られているようである。

モンパサは、アフリカの顔、イスラムの顔、インドの顔を持った国際都市でもある。

                             

   

                     モンパサ駅にて

 

                   

                 KENYA RAILWAYS/ケニア鉄道

                   ナイロビ~モンパサ路線

                    列車 と ナイロビ駅

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                   ▼ 11/24 ナイロビYMCA 連泊

 

ナイロビ~モンパサ往復の列車の旅約1000kmは、いささか強行軍であったが、港であるモンパサと高原にあるナイロビの高低差約2400mを往復する列車のタフさに拍手を送ったものである。

なんといっても東アフリカの列車に乗り、一日列車の旅を楽しんだのだから、乗り鉄にとっては勲章が一つ増えたことに満足した。 

もちろん、列車スケッチの真中に<KENYA RAILWAYS>のマークを入れて、ひとり悦に入った。

 

 

 

 

 11月25日  空路、ナイロビ(ケニア)よりビクトリア滝(ザンビア)へ向かう

 

早朝のケニア航空で、ナイロビよりザンビアルサカ経由、ジンバブエ首都ハラレに向かい、乗換てビクトリア・フォール空港に向かう飛行機による長旅である。

飛行便は、ケニア航空426便、機内よりキリマンジャロ山を眺望できる座席Seat#10をとった。

朝食の機内食スクランブルエッグ・ソーセージ・トマト輪切り・トースト・コーヒー>をとりながら、雲海に浮かぶケニア/タンザニア国境にそびえるキリマジャロ山(標高5895m)を鑑賞、素早くスケッチを終えた。

 

     

      空路ジンバブエへ向かうケニア航空より雲海に浮かぶキリマジャロをスケッチ

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

      

      

             機内より見る雲海に浮かぶキリマンジャロ

 

 

ジンバブエ首都ハラレに着陸した。

 

さっそく、3rd Ave. と Living Stone St.角にある<リヴィング・ストーン・ホテル>に部屋をとったあと、ハラレの街に繰り出した。

ここが、アフリカ内陸国ジンバブエの首都とは思えない近代都市であるのに驚きの声を上げた。

それもそのはず、ハラレはアフリカのロンドンと言われているが、ロンドンよりモダン都市に見えたのである。

散策中、多くの現地の住民から挨拶の声を掛けられたが、そのうち幾つかのグループ(数人)に不穏な言葉や行為が見られたので、危険を感じて方向と歩速を変えて、その場からの離脱をはかった。

ナイロビでも、経験していたことと、防護用のストック(登山用杖)を持参していなかったので、即行動を起こしホテルに戻った。

散策の時は、どうしても目につく時計やカメラ、ネックレスは取り外しておくことをお勧めしたい。

華美なファッションを避けることも、身を守ってくれる。 きょろきょろして旅行者に見られないことも防御策であるといえる。

 

だが、紫のジャカランタが美しい街並みである。 

 

                   

 

                ジンバブエ首都ハラレの高層ビル

 

 

 今夜の宿泊先であるホテル<リビングストン・イン>で食事をしていると、これからルサカ経由(ザンビア)、モーリシャス(インド洋に浮かぶ島国)へ向かうという初老の白人紳士が声を掛けてきた。

東洋人が一人ジンバブエを旅しているのに興味を持ったという。

 

息子は米国コロラドデンバーにあるホテルマネジメントの学校に通い、卒業後はザンビア・ルスカで経営するホテル<FAIRVIEW HOTEL>を引き継ぐ計画であるという。

コカ・コーラに、フィッシュ&チップスを摘まみながらわが子の自慢である。

 

彼もそうだが、ザンビアや、ここジンバブエには、英国の植民地であったがゆえに、現地で生まれ、育ち、教育を受けた多くの白人がいまなお現地にとどまっていることに驚かされたが、これは英国の植民地支配から手を引いたことから起こった白人系ジンバブエ人の現在の姿である。

彼らは、英国植民地時代の申し子であり、英国に親戚もなく母国に帰るに帰れない植民地時代の犠牲者であるとも云える。

言い換えるならば、母国に見放された元英国人なのかもしれない。

 

アフリカ系白人は、母国の植民地政策の放棄・撤退により苦難の道を背負わせられて、アフリカ人としての十字架を背負って、現在の子孫を守り、アフリカの地に骨を埋めるしか選択の余地がない人々であるかのようにも見えた。

だが、彼らこそアフリカを画期的に飛躍させるホワイティッシュ・アフリカーナであるのかもしれないのだ。

 

 

      ▼11/25    <LIVINGSTONE INN>宿泊  (ジンバブエ―首都ハラレ)

            <リビングストン イン> 58リビングストンアベニュー、ハラレ

 

              

 

 ■ 11月25~26日 <ビクトリア・フォールズ

 

シーズンオフなのか、ザンベジ航空フライト10:30mハラレ発#322便(ZS-OSE)は、わずか数人の客を乗せて、ビクトリア・フォール空港めざして飛び立った。

                 

            ハラレよりビクトリア・フォールに向かう軽飛行機

                 Sketched by Sanehisa Goto

 

      

         

                                           ジンバブエ・ビクトリア・フォール空港に着陸

                   

<Town Council Rest Camp>が、ビクトリア・フォールズでの宿泊先である。

一棟建てのキャビンで、蚊の浸入を防ぐ網戸もしっかりしており安心して睡眠がとれそうだ。

 

   

                       

                                        <Town Council Rest Camp>のゲートとオフィス

 

      

                       

                                                                 キャビン前でスケッチ                  

 

ただ、ナイロビのYMCAのような食堂や売店がなく、外食である。 プールのあるのがいい。 汗を流しシャワーを浴びることが出来るからだ。

 

       

 

                                                <Town Council Rest Camp>のプールで

 

到着後、世界三大瀑布(ナイアガラ滝・イグアスの滝)の一つであるビクトリア・フォールズを見るために、サファリルック(ショート・パンツ)に履き替えて、飛び出していった。

入瀑料1150Zは少し高いようだが、滝の飛沫を浴び、滝を見上げ、スケッチに励んだ。

 

 

 

ビクトリア・フォールズ

世界三大瀑布のうち、ナイアガラの滝(米国・カナダ)と、イグアスの滝(ブラジル・パラグアイ・アルゼンチン)へは、何度も足を運んだが、アフリカ奥地にあるビクトリア・フォールズは、わざわざここへ足を運んだ人間だけにしか出会えない幻の滝である。
夢の滝に、今回の二大陸踏破の途上で相まみえることが出来、世界三大瀑布に出会えた幸運な人となったことに、いささか興奮したものである。

ザンビア北西端を水源とするザンベジ川中流にあるビクトリア滝は、1855年、英国人探検家リビングストンの発見によって世界に紹介され、当時の英国女王の名前が付けられた。
現地名は、<雷のように轟く水煙>からモシ・オヤ・ツンヤと呼ばれている。
その水煙は、かなり遠くからも確認でき、落差は150mにも達し、滝の幅は水量により最大1700mもあるという。

 

      ビクトリア・フォールズザンベジ川の落差150mのパノマラ)①

 

         幻の滝<ビクトリア・フォールズ>で、念願のポーズ

 

                           

          ビクトリア滝の落差は150m、幅は最大1.7km 

 

 

         

             <ビクトリア・フォール>バルーン鑑賞

 

 

             

             ビクトリア滝<VICTORIA FALLS>

                   ジンバブエ・アフリカ

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

         

        ビクトリア・フォールズザンベジ川の落差150mのパノラマ)②


                          ▼ 11/26 <Town Council Rest Camp Site>泊

                 

            

                                     キャビン村                  キャビン室内

 

 

 

■ 11月27日 ビクトリア・フォールズ2日目  (ジンバブエ快晴)

 

 <ザンベジ川畔トレッキング>

 今日は、ビクトリア・フォールを出て、飛行機でハラレに向かう。

午後3時ごろにタクシーが迎えに来て、ビクトリア・フォール空港に送ってくれることになっている。

 

朝5時より、昨日に続きザンベジ川沿いで<サファリ―・ウオーク>、野生動物(像・キリン・カゼ―ル他)や野鳥観察に3時間程楽しんだ。

昨日は、ザンベジ川でのリバークルーズを楽しみ、フィッシングに興じた。

クルーズ船は、ビクトリア・フォールの落下の限界にまで迫り、その迫力ある滝落下の轟音を楽しませてくれた。 

 

ランチは、買い込んだ卵サンド・オレンジ・チョコレート・チップス・サラダ・オレンジジュースである。

                      

                 野生動物・野鳥観察

              ザンベジ川畔トレッキングを楽しむ

                  

 

                ザンベジ川クルージングを楽しむ

  

              ザンベジ川クルーズ船<AFRICAN QUEEN>
 

            

                ザンベジ川でフィッシングを楽しむ     

 

                     

                ジンバブエの野生動物をイラストする

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

  

                <Town Council Rest Camp Site>

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

   

                  

                 ビクトリア・フォールズ付近図

                (ザンベジ川トレッキング・マップ)

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

タクシーでビクトリア・フォール空港について見たら、ハラレ行の飛行機はエンジン・トラブルで運休するといい、今晩は指定の<KINGDOM HOTEL>で泊まってくれとの事だ。

もちろん、宿・食事代はジンバブエ航空持ちである。

この運休のお陰で、素敵な日本の青年2人、鈴木君と市原君と同宿することとなった。

まず、このアフリカの内陸国ジンバブエという世界の田舎で日本人に出会ったのだから、情報収集に双方とも飢えていたので、夜遅くまで話し込んだ。

二人ともJICA海外協力隊の隊員で、ジンバブエに2年間滞在し洋裁と土木(井戸掘り)を教えに来ているという。

若い時から海外移住を志していただけに、青年たちが自ら志して海外に羽ばたき、不毛の地の現地の人たちに技術を教え、教育に従事する等の尊さを理解している。彼らの夢を大切にしたいという気持ちに、こちらまでが若き時代の己の夢を重ねて、気持ちを昂らせたのである。

 

JICA海外協力隊は、1965年の発足以来、約100か国に、累計45000人の隊員が派遣されている。

<JICA海外協力隊の経験は、「世界をよくしたい」と願う人にとって新たなスタートである>と謳っている。

 

 

     ▼ 11/27 飛行機運休によりジンバブエ航空指定のホテルに泊まる

          <KINGDOM HOTEL

 

 

 

■ 11月28日  南アフリカヨハネスブルグに向かう

 

ハラレからの南アフリカ行トランジット<乗継>に間に合わないことが分かり、急遽ビクトリア・フォール空港からの南アフリカ行のSAA(南アフリカ航空)に飛乗ることにした。

この飛行機は、南アフリカ航空フライト041便である。

同じホテルに泊まっていたSAAのマネージャーと知り合っていたので、頼んでみた。

なんとか骨折ってくれて、機上の人となったが、多くのスタッフに迷惑をかけたみたいである。

なぜならSSA-041便は、乗客全員が白人であり、それもほぼ満席であったからである。

この光景、白人ばかりの乗客など今までに出くわしたことのない、生涯ただ一度の経験であった。

異様な光景に、はじめここはどこかと目を疑ったのである。

白人ばかり、これまた異常である。

南アフリカ、白人至上主義のお国のお隣であることに、やっと気づいたのである。

ナイアガラ・フォールズより、ヨハネスブルグまでは、わずか1時間半のフライトである。

このSSA便は、白人専用機であったのだ。

 

アパルトヘイト  人種隔離政策>

特に、アフリカで運行するSSA南アフリカ航空)のなか、<ナイアガラ・フォールズ➡ヨハネスブルグ間の便は、ホワイト・オンリーであるとのマネージャーの話を思い出していた。

東洋人は、白人なのか、それとも非白人なのか・・・

SSAの機上で見まわした限り、確かに東洋人(黄色人種)は私一人であった。

この少し前まで、南アフリカは白人至上主義を掲げ、アパルトヘイト政策を維持してきていた。

しかし、数年前から国連勧告により国策としてアパルトヘイト政策の廃止に動いていたが、いまだその影響は色濃く残っていた。

 

ニューヨーク在住20年の猛者としては、アパルトヘイト何ものぞと、大きい顔で機上の人となったのである。 以外と、白人達が温情ぶってか、それとも全員が国際派なのか、好奇の目をこちらに向けることはなかった。 お陰で、モンゴル系顔たちの東洋人は、快適な空の旅を<南アフリカの純血白人という特殊人間>に混じってヨハネスブルグまで旅を続けることが出来たのである。

これが1990年代ならば、おそらく乗客として機上の人にはなりえなかったことであろう。

 

アパルトヘイト政策の導入は、少数派の白人による統治を維持するためである。 南アフリカの経済は、豊かな鉱物資源を安価な原住民(非白人)労働力で採掘することで発展してきたが、年々増え続ける「非白人」に、少数派の「白人」は脅威を感じ<アパルトヘイト政策の導入>となった。

 

 

ヨハネスブルグケープタウン

ヨハネスブルグからは、SSAの国内線フライト#355便(機種BOEING737-800)で、

今回の旅、『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』 の最終地であるケープタウンに向かう。 喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>、夢にまで見た、待ちに待った約3か月という長旅の最終目的地である。

 

まずは、ケープタウンでの滞在先である<メトロポール・ホテル>26号室に荷物を置き、バスで

喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>に向かった。

一刻も早く、最終目的地に着き、二大陸完全踏破を報告し、記念の写真を撮りたかったからである。

 

       

    二大陸踏破最終目的地・喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>での念願の証明記念写真

 

       

               喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>

                 アフリカ大陸最南西地点

              

              喜望峰<ケープ オブ グッド ホープ

               灯台より喜望峰を望む

 

 

 

                喜望峰<CAPE OF GOOD HOPE>  

                 Sketched by Sanehisa Goto

 

 

           

      

                      喜望峰最先端              

  

      

               喜望峰よりフォールス湾を望む

      

      

                   灯台より喜望峰を望む               

 

      

                喜望峰近くの白浜で園児たちと交歓

 

 

       ▼ 11/28~30 <メトロポール・ホテル>連泊   ケープタウン/南アフリカ

    

         

             この旅での最後の室内干し (メトロポール・ホテル)

 

 

 

■ 11月29~30日 <ケープタウン散策>   (15~30℃ 快晴)

 

<VISITOR席>と<MEMBER席>

この人生の長旅<星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破38000㎞の旅>のゴール、ケープタウン「メトロポール・ホテル」の26号室で目を覚ました。

一階にカフェテリアがあり、この旅の踏破を祝って、豪華な朝食をオーナーに作ってもらった。

今、アパルトヘイト(人種隔離政策)の国の都市ケープタウン、それもホワイト・オンリーのホテルにいるのである。

このカフェテリアも、白人社会の社交の場として使われきたのであろう。

ホテルの廊下には、英国植民地時代の栄光に満ちた大農園の白人農場主の集会写真や、乗馬に興じ、ピクニックを楽しむ紳士淑女の写真が、重厚な額縁におさまっていた。

カフェテリアは、もちろん白人だけである。

孤立を深める白人社会の憩いの場としての役目を果たしてきたのであろう。

よく観察してみると、このカフェテリアの片隅のテーブルに『VISITOR』の札があり、『MEMBER』である白人以外にも、一応そのスペースが設けられていた。

この席も時代の流れである<反アパルトヘイト運動>の影響を受けているように思われた。

 

    

             標識<白人エリア> (photo:Rolling Stone)

 

この長旅は、共産主義ソビエト連邦の崩壊後10年目のロシア連邦ウラジオストックから始まり、

アパルトヘイト(人種隔離政策)の終焉を迎えた7年目の南アフリカケープタウンで終えようとしている。

 

アパルトヘイト政策をとる南アフリカの製品をボイコットする運動は、1969年に英国ロンドンで開始されていた。

アパルトヘイトをボイコットしよう>というシンプルな運動は、世界中に広がり、約30年後の1994年に人種隔離政策<アパルトヘイト>は撤廃されることとなった。

この時(2001年当時)、撤廃後7年たっていたが、なお人種間にあって、混沌の中をさまよっていた。

カフェテリアの天井にかかる、色あせた栄光のシャンデリアが、白人の古き良き時代を懐かしんでいるように見えた。

 

撤廃から30年後の2024年、いまなお格差と貧困に苦しんでいるとNHKの特別報道は伝えていた。

「30年前の5月10日、南アフリカネルソン・マンデラ氏が黒人初の大統領に就任しました。

国民の大多数を占める黒人を不毛の地に押し込めて人間として最低限の権利まで奪ったアパルトヘイト・人種隔離政策に終止符が打たれてから30年。

人種や性別にかかわらず人々は自由と平等の権利を得ましたが、今なお多くの人が劣悪な環境のもとで貧困と格差に苦しんでいます。」

 

   

    

          1969<BOYCOTT APARTHEID>スタート(英国)

 

 カフェテリアで、はじめ知らずに<VISITOR席>ではなく、<MEMBER席>に坐ったものだから、オーナーに・・・

<Can I have a seat here?> と尋ねてみた。

オーナー曰く <You are OK, you are Welcomer!>

 

オーナーが、フレンドリーに、にこにこしながら朝食を運んでくれた。

はじめてのカラード、日本人なのだろうか・・・

メニューは、エッグ・サニーサイド2,ソーセージ2,ベーコン、トースト、ジャム、バター、コーヒー、野菜サラダ、ヨーグルト・・・バックパッカー食としては贅沢だが、踏破を祝って、美味しく食した。

 

この一瞬、歴史的にカラードに分類されていたひとりの日本人が、<VISITOR>から<MEMBER>へ、白人の友人であることが認められた瞬間であった。

 

<この旅最後の街 ケープタウン散策>

この旅最後の日、アフリカのなかのヨーロッパ風に着飾った街、いや英国人が自分たちの街を持込んだ<ケープタウン>、そこには英国式のガーデンが薔薇の花を咲かせ、波止場があり、豪華なヨットが停泊し、背後のテーブルマウンテンの麓では競走馬が草を食べ、街中をロンドンのように二階建てバスが走っている。

植民者たちは、遠く離れた故郷と言うノスタルジーを、原住民を搾取し、ここケープタウンに幻のロンドンを築いたのであろう。

 

カフェテリア・オーナー手作りのサンドイッチを手に、テーブルマウンテンからのケープタウンの街を見下ろしながら、南半球の夏の太陽を満喫した。

二日後には、北半球の真冬の雪降る日本・志賀の里にいると思うと、地球という星の小ささを感じたものである。

午後からは、ビクトリア・ワーフ・ショッピングセンターでお土産のTシャツを買い入れた。

すべてのスケジュールをこなし、ホテルに戻り、ビールで旅の無事に感謝し、乾杯。

帰国のための荷造りにとりかかった。

 

 

               

    

            ケープタウンのシンボル<テーブルマウンテン>2景

                   

              テーブルマウンテンを望む (ケープタウン

                  ビクトリア・ワーフより

       

          ケープ半島東海岸ホルダーズ・ビーチにてケープポイントを望む

             

               大西洋に沈む夕陽 (ケープタウンにて)

 

 

               

              グリーンポイント灯台 と テーブルマウンテイン

                                       ケープタウン南アフリカ

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

             

             チャプマン・ピーク と Hout Bayのヨットハーバー

                   ケープ半島・南アフリカ

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                       

              

                     アフリカ南西端<喜望峰>の浜で

                        二大陸踏破を終えて

                  乾杯&感謝

 

いまなお、この世界の多くの場所で、皮膚の色で苦しむ人たちがいることに、こころを寄せたいものです。  歴史は、人種差別を禁じ、アフリカの盟主であったアフリカ系白人は、その富と土地とパーソナリティーを奪われ、アイデンティティーを求めてこのアフリカの地をさまよい歩きだしたように見受けられます。

人種差別なき、永遠の楽園としてのアフリカが築かれることを願って、南アフリカケープタウンを最後に、<ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅>を終えることにします。

 

この旅日記を書き始めてからも、ロシアが自分の領土の一部であるという帝国主義覇権主義をちらつかせて隣国ウクライナ―に侵攻、また中東では紀元前、旧約の世界から続くパレスチナをめぐる生存権の戦いが勃発と、いまなお人間の相互不信からくる、醜く野蛮な殺戮が続いています。

 

 一人ひとりがお互いの存在を認めあい、尊敬しあい、争い無き世界を望みつつ、この旅を終えたいと思います。

長旅にお付き合いいただき、有難うございました。

こころより感謝申し上げます。

 

 

その後、12月1日、快晴のケープタウンを飛び立ったボーイング・ジャンボ機(BOING747-200)、 南アフリカ航空SA#286便は、満席の状態で香港に向かってケープタウン空港を飛び立った。

帰国便の席は、チャイニーズにより80%占められていたのが印象的であった。

 

その後、香港でのトランジット(乗継便)、大阪関西国際空港行SA#342便で、無事日本に帰国した。

空港での入国管理官の「お帰りなさい」の一言に、祖国の温かい言葉の大切さが身に沁みて嬉しかった。 

 

ここは日本なのだ・・・ 続いていた緊張がやっと解けた。

一瞬にして、自分のアイデンティティが宿った。

 

2001年12月2日、踏破総距離約38000km、3か月に渡る約100日の旅路が終わった。 

感謝である。

 

 

 

        

 

     『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』

 

 

                  

 

 

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 <関連ブログ>

 星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』シリーズ

   Ⅰ  《シベリア横断の旅    10350km》

   Ⅱ  《ヨーロッパ周遊の旅  11000km》

   Ⅲ  《イスラエル縦断の旅    1000km》

   Ⅳ  《アフリカ縦断の旅    15650km》 

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

                                                                                                                                

2001《アフリカ縦断の旅    15650km》Ⅰ

         星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
             《アフリカ縦断の旅    15650km》Ⅰ

                    ーエジプト編ー 
                 

                   星の巡礼者  後藤實久

 

 

               Ⅰ  《シベリア横断の旅    10350km》

               Ⅱ  《ヨーロッパ周遊の旅  11000km》

               Ⅲ  《イスラエル縦断の旅    1000km

               Ⅳ  《アフリカ縦断の旅    15650km》

                                                                            ーエジプト編ー                                                              

 

 

                         


■    11月4~6日 <カイロ滞在休息>  
    イスラエル縦断を終え、アフリカ縦断に備える

 

<アフリカ縦断に向かうにあったって>

イスラエルの民が、モーセに率いられパレスチナの地へ導かれたのは、アフリカの地エジプトからであった。いま、そのユダヤ人のパレスチナ・カナンへの出発の地となったエジプトは、わたしにとっては<アフリカ縦断出発の地>となった。

神との約束を守り続けるユダヤの民の波乱に満ちた苦難の地、その<パレスチナ>を歩いてきた。
旧約聖書の一字一句が、現代に続いている道として、いまなお生きいきと残されていた。
そこに住む人たちが、祈りに生き、神の言葉を信じて生活している風景は、力強く、誠実である。
解釈の違いで、歴史の見方も異なり、すべてにおいて旧約の世界がいまなお現存し、争いも継続しているようである。

現在の和平へのプロセスは、旧約聖書的ではないのかもしれない。
イスラエルパレスチナの関係を見ていると旧約の世界は、まだまだ続きそうである。
1993年のイスラエルPLOとの和平交渉である<オスロ合意>とは、イスラエルによるパレ
スチナ全土の占領下でのイスラエルのラビン首相とPLOパレスチナ解放機構)のアラ
ファト議長の間で交わされた合意である。

翌年の1994年、イスラエル占領地となったヨルダン川西岸地区は、ガザ地区と共に「パ
レスチナ自治区」となった。
しかし、わたしがイスラエル縦断中の2001年当時も、ヨルダン川西岸地区は面積の半分
以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、常に厳しく監視されていた。 また、イスラエ
ルの入植地が拡大していた。

パレスチナ自治政府の完全な統治下にあったガザ地区への入域の厳しさに比べて、占領
ヨルダン川西岸地区へは、自由に入域でき、旅行を続けることができた。


かかる事情により、2001年当時のガザ地区への入域は禁止されていたことから、残念な
がら、パレスチナ人のガザ居住区の情勢や日常生活を垣間見ることが出来なかった。 
今回のイスラエルパレスチナ紛争で、ようやくガザの実情が世界に発信されたことに
なる。

旧約の世界のイスラエル人・パレスナ人の平和共存の時代に戻ることができるのであろ
うか。 いや、さらなる両者の離反、憎しみの連鎖が継続されるのであろうか、悲しい
ことだが、民族・宗教紛争の解決の糸口は見えていないと言っていい。

 

 

           

                  フク王の墓 ピラミットの前で
          イスラエル縦断を終え、アフリカ縦断に向かうにあたっての記念写真

                     ギザ・カイロ・エジプト

 

いつかパレスチナの地に平和が訪れることを切に祈りつつ<イスラエル縦断1000kmの旅>を終え、ここエジプトの首都カイロから、引き続き<アフリカ縦断の旅>に出発したい。

この世で、苦しむ人々、病める人々の上に神の御手がありますように・・・
そして、戦いのない日々が一日も早く訪れますように・・・

 

             イスラエル縦断を終えエジプトの少年たちに迎えられる

                   フク王のピラミット前で

             (BC2580頃・高さ146m・ギザ・第4代ファラオの墓

                  
 

                  ギザのピラミット群の前で

 

 

                                             <アフリカ縦断の旅  15650㎞>Ⅰ

                             ―エジプト編ルート地図―

 

 

     ▼    11/4~6   <カイロ・インターナショナル・ユースホステル>  
             カイロ連泊  @25£Ex3泊
             135 Abdel Aziz Al Saoud St. Manial Kobri El, Cairo
             Tel:02-3640729
             (行き方:中央駅より地下鉄Sayda Zeimah駅下車、8分)

 

 


■    11月5日 カイロ滞在   快晴 32℃

 

<カイロ散策>
とうとうエジプト、カイロに立った。 憧れであった神秘的なギザのピラミットにたどり着いたのである。
08:45 朝一番のバス(#357)でギザのピラミットにやって来た。
人間の坩堝のような混乱の中で、バスは止まることなく、走りながら乗客を降乗車させ、荷物を放り投げる。
乗客は、止ることなく走り続けるバスに飛乗り、飛び降りるのである。その光景は、アクロバティックで、スリリングである。


まずは、アラビックの数字を覚え、バスの行き先表示<アラビック・ナンバー>を読み取らなければならない。 行き先のバスに乗るだけで大変なのだ。
取り敢えず数字0~9(アラビック数字)を手に、バス停に向かった。

 

《ギザ行バス#357 ➡ ٧٥٣ 》 (アラビック数字は右から左へ読む)

    

この光景、インド・パキスタンバングラデッシュ・ネパール・ブラジルほか沢山の国で出会ったが、ここエジプトでのバスの乗降車はもう、神の領域である。
人口が東京より少ない965万人都市(2018現在)だが、英国統治領であっただけに道路は広く立派だが、信号のない歩行者無視の車天国であり、交差点は何處でも、いつでもクラクションの鳴りっぱなしで、それは騒々しいのである。

エイラートのイスラレル国境から、ここカイロまで、モーセ率いるイスラエルの民が、放浪の旅40年をかけて、逆方向のカイロからカナンの地へ向かった、そのほとんどが荒涼とした砂漠地帯であった。
かの静寂の砂漠地帯から、 急に喧騒の都カイロに入った者にとって、その雑踏はまるで文明の坩堝に思えた。

信号機を無視する溢れんばかりの歩行者や、長蛇の車列が鳴らすクラクションは、蜃気楼のように眼前に現れた文明への入口のようである。 
交差点などで、熱さのなかバスが20分も立ち止まると、たまらず、その暑さに乗客はバスから降りて、みな歩き出す始末である。
大変な街だが、みな活気に満ち、この喧騒のリズムを楽しんでいるようにも見えるが、いやこれがカイロの日常なのだ。

          

             ピラミット・スフィンクスを背景に笑顔の女子中学生と

 

カイロ大学の青年たちと>
ここ<カイロ・インターナショナル・ユースホステル>は、学生や社会人など長期滞在者も受入れている。
カイロ大学で学ぶ医学生たちが、日本のことを知りたいと、申し入れがあった。
熱心なイスラム教徒で、貧しい人々の役に立ちたいと医学を目指したのだと語ってくれた。
日本の空手を習い、坐禅を組むというその真摯な眼差しに、学問への決意が見てとれた。 
そこには、日本の武士道に憧れ、医術と精神修養を結び付けたいという彼らの理想像が見えたのである。


未来を背負う彼らのような青年たちが、新しい世界秩序を築き上げ、貧しいものに手を差し伸べ、平和で平等な世界を造り上げてくれることを信じていることを伝えた。

学生らしく、<生き方・感謝と愛・死後・奉仕>と話題は尽きず、人類普遍の真理について語りあった。
最後に、<イスラエルについて、どう思うか?>との問いが、イスラムの青年たちの隣国イスラエルへの懸念としての質問があったので、旧約聖書の一節を、次のようにまとめて話した。


モーセ率いるエジプト脱出― 旧約聖書 出エジプト記
アブラハムの子孫ヤコブの時代に、イスラエルびとはエジプトの地に移住した。
エジプトに定住して460年、イスラエルびとの人口が爆発的に増加、脅威を感じたエジプト王ファラオは、イスラエルびとを奴隷として抑圧し、男の新生児の皆殺しを命じる。
母の機転で生延びたヘブライびとの子・モーセに、神の啓示が下り、エジプト在住のイスラエルびとを率いて<約束の地―カナン>目指して、シナイ半島を彷徨し、40年後<カナンの地>にたどり着く物語の概略を語り聞かせた。

イスラム教徒のほとんどが旧約聖書を否定するなか、彼らは<出エジプト記>を読んで、知っていた。 彼らの年代こそ、その時が来ることを信じて、イスラムユダヤの和解と相互理解の橋渡し役としての役目があるのではないかと思うと伝えた。

460年もの間、エジプトがヘブライ人(びと)に寛容であったこと・・
現に、エジプト北部にいまなおヘブライびとの子孫<セムユダヤ人>がいること・・
ヘブライびとの子孫モーセも、エジプト生まれであること・・
イスラエルも、出エジプト記を経験した子孫で成立していること・・

 

          カイロ・インターナショナル・ユースホステルで出会った

                     カイロ大学医学部生と

              左:Ahmed Abd El Glil El Massry

                 中央:Khaled Adel Abed Elwahed

 

 

<ピラミットで出会った絵葉書売り青年>
ピラミットを前に、待望のピラミットをスケッチしていると、親たし気に語りかけてくる日焼けした絵葉書売りの青年がいた。
日本のゲームや漫画について聞きだしていた彼が、ピラミットの絵葉書を数枚くれるという。
「これは商売用だろう、フリーでは受取れないよ」と、お金を渡そうとしたら、
なぜわかってくれないのだろうと、不満気な顔にゆがんだ。
そこには、「お礼なのになー」と、失望の色が滲んでいた。
人の善意を素直に受けることの大切さを、教えられたような気がした。
目前の青空に突き出たピラミットが、なぜか一瞬笑顔を見せたような気がした。
有難く、絵葉書を頂戴した。 セピア色に変わった懐かしの絵葉書がアルバムに残っていた。
   
 

      ギザの日焼けした少年から贈られたセピア色の絵葉書<スフィンクス・ピラミット>

 

                    スフィンクスの横顔

 

               フク王の墓 (まじかで見るピラミットの石組と共に)

 

                     ピラミット群の前で

 

 

                  スフィンクス と ピラミット群

                         ギザ・カイロ
                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                                                                    フク王のピラミットの石組
                      ギザ・カイロ
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

旧約聖書出エジプト記に出てくるモーセ引率のもとでのイスラエル人エジプト脱出<シナイ半島
放浪の旅>の逆ルートをたどって、エイラットよりシナイ山(神よりモーセが授かった十戒)に立寄り、今回の<イスラエル縦断の旅>のゴールであるここエジプトの首都カイロに無事到着できたことをピラミットに報告した。

 

カイロでは、オールド・カイロにあるエジプト考古学博物館近くの<カイロ・インターナショナル・ユースホステル>に投宿した。

 

 

    ▼    11/5   <カイロ・インターナショナル・ユースホステル>連泊

        34 Talaat Harb Street, Cairo 01010

 

      

            YHのあるオールドカイロを望む       カイロYHドミトリー

            ナイル川畔西岸より



 


■    11月6日 カイロ散策   スモッグのかかったカイロ晴れ  18℃

 

<アフリカ最初の作業>
朝5時、暗くすこし肌寒い。
朝早くから、人と車の坩堝から作り出されたうねり、騒音が部屋のなかを占拠した。
このうねり・騒音は、何かエネルギーを創造する時の高まりのように感じられたものだ。
アフリカでの一日の始まりであると思うと、すこし緊張感に似た高揚を感じた。

高揚感は、たちまち現実のエジプトに呼び戻された。
前夜より、トイレのタンクに溜まるはずの水が、漏れでて、流れる音が続いていた。 これまでの宿泊人は、深夜の水漏れの音を致し方なきことと、聞き流していたに違いないが、すこし変わった東洋人が、気に留めたのである。
まずは、アフリカ入り、そうエジプト入りの最初の出会い、いや作業は、トイレの水漏れ修理であった。
修理は至って簡単で、持参の非常用具袋から、銅線とガムテープとゴム輪だけで簡単に治すことができた。
これで今後、この部屋のゲスト客は、水漏れ音に悩まされずに豊かな眠りにつけることであろう。

 

イギリス統治時代の歴史を感じる古びた水道栓が、いまだ使われていたことに時代を感じた。

                         

                    アズハル モスクを背に

                     オールド・カイロ

 

 

<アフリカ最初のネゴシエーション
アフリカのほとんどのユースホステルでは、朝の開門時間があり、それまでは鍵がかけられ、外部からの浸入防止・予防に徹している。 宿泊者も開門時間を待たなければ、外出できないシステム・規則である。
開門と同時にカイロの街に出て、目の合ったお爺さんのオンボロのタクシーに乗ることになってしまった。 

バックパッカーの<乗り物厳守事項>である「いくらで行くの?」と問うと、「7£だよ」と爺はいう。
「だめだね。 バスだと2£だから、5£にしてよ」 しぶしぶ爺は同意し、オンボロ・タクシーを走らせた。

世界を旅する中で、<値切りネゴシエーション(交渉)>も一つの立派なバックパッカーのポリシーである。
もちろん、爺のお人好しとジョーキングに高笑い、結局、乗車賃5£と、チップ2£の計7£と相成った。
爺からの両手への感謝の熱いキッスを受けて、ムハンマド・アリ寺院に向かった。

 

       

               オールド・カイロのタクシ―

 

ムハンマド・アリ寺院>
ムハンマド・アリは、エジプト初代の近代化の父として慕われ、英国による半植民地化の自称<王様>である。 ここ<ムハンマド・アリ寺院>は、彼を葬り、記念して祀った寺院である。 
寺院に坐っていると、地中海周辺に育ったイスラム教国、なかでもトルコのミナレット(尖塔)を擁したオスマン建築様式のモスクが建つカイロは、とてもアフリカにあるとは思えないのである。

そう、ここエジプトは、地中海を取巻く<イスラム・アフリカ圏>に位置するのだ。
エジプトを出て、南へ向かって縦断しはじめて、純粋なるアフリカの風景に出会うことになる。

いまだここエジプトは、文明的にイスラム共栄圏であって、ネイティブ・アフリカとは言えないのである。
   

 

                   ムハンマド・アリ寺院にて           

 

                ムハンマド・アリ寺院にて瞑想する

 

                        

                  ガーミア・ムハンマド・アリ寺院
                   オールド・カイロ・エジプト
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                サイーダ・ザイナブ寺院 / Sayeda Zainab,s Tomb

                      オールド・カイロ 

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<オールドカイロ散策雑感>

●    バス・電車の乗降に際して : 駅やバス停に近づいたら、降車口に陣取り、素早く下りること。
      さもないと、降車優先などお構いなく乗込んでこられ、降りられ無くなるので注意が必要。
      特に、バスには時刻表がなく、来るバスを待つことになるので、気長に待つことも大切。
      往復の場合は、行動前から十分な時間を当てること。

●    ミニバンのお金の払い方 : 後方から順に集められたお金(乗車賃)が、手渡しで前に送られてくる。

●    女性専用車両 : 電車の真中あたりに連結されている。 バスでは、前方に席がとられている。
      あまりにも混んでいるので、空席のある車両に飛び込んだら、ご婦人の視線が飛んできて、                             <ここは女性専用車両よ>と注意された。

●    交差点 : 横断は、サーカスの綱渡りと言ってもいい。 英国統治時代の信号のない、車優先の一方            通行のロータリーが多く、はじめての経験で戸惑ったものである。 ロータリーでは、車は止まること            なく、四方から次から次に入ってくる車に、横断者はまるでバレリーナ―のように軽やかに身をかわし            ながら車間を縫うことになるので注意。
       国土の72%近くが砂漠であるエジプトでは、カイロはオアシスなのであろう、とにかく人が多いのに               驚く。

●    悲しきラクダ達 : 車と人間たちの坩堝の中で、涼しげな目をして胸を張り、ゆっくりと見下ろす                ラクダの集団が進みゆく光景に驚いた。 しかし、このラクダたちは、食料として屠殺場への行進で                あることを後で知り、ラクダ達の澄んだ瞳を思い出され、悲しさが込み上げてきた。

●    アラビック文字 : カイロ滞在中、一番困ったことは、バスや電車の行き先番号であることは先に                述べたが、ほかに街の時計の標示がみなアラビック数字であったことであろうか。                                         現地の露店や屋台の価格表示も、時としてアラビック数字で、戸惑うことがあった。
   バスなどの行き先標示が、日本とは逆の(左⇦右)場合があるのでこれも注意。

●    コーランの声出し : イスラムの国々でのモスク訪問で、声出しコーランには慣れていたつもりだが、   カイロで出会ったコーランの声明は、イスラエルエルサレム嘆きの壁>(ユダヤ人の聖地とされ、                               中世以来、ユダヤ人はこの壁に額を押し当て、ユダヤ教徒が在りし日の栄光を偲び、                      一心に神に祈りを捧げる)で唱える旧約聖書ヤハウェ)の一節と同じく声を上げて祈ることに、            あらためて気づかされた。

●    お土産 : 子供達に持参した鉛筆や色鉛筆に人気集中。

●    サハラ砂漠 : 紅海西岸から始まるサハラ砂漠が、ナイル川畔のカイロから始まるのも              

      <オアシス都市>としての特徴である。 その東サハラ砂漠のカイロに、スフィンクスも、                  ピラミットも混在しているから観光地として脚光を浴びているようである。
       カイロ郊外に降り立つと、大都市カイロが砂漠にあることが不思議に思えたものである。

 

 

                オールドカイロ散策

 

 

エジプト考古学博物館での歴史的宝物のスケッチ>

 「カイロ博物館」ともいう。 収蔵点数は20万点にものぼり、館内には、ツタンカーメン王の王墓から発掘された世界的に有名な<黄金のマスク>、<黄金の玉座>をはじめ、カフラー王座像、ラムセス2世のミイラなど、古代エジプトの至宝が展示されている。

憧れの博物館、黄金の品々をスケッチ三昧、楽しい時間を過ごした。

 

              カイロ考古学博物館前庭スフィンクス像前で

 
                    

                   新王国時代 第18王朝の宝物

         トトメス3世(1490-1436BC)・アメンへテプ3世(1403-1365BC)の墓より

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<時代考察  新王国時代 第18王朝>

紀元前13世紀、エジプトは史上最も繁栄した時代を迎える。

軍事に秀でた王たち(トトメス1世、3世)は、対外遠征を繰り返し、北のヒッタイトメソポタミアとも覇を競って、オリエント随一の大国となった。

広大な領土からは、富や資源がもたらされ、王たちの神々を讃えての寄進事業がなされ、神官団の政治的発言が強まった。

しかし、宗教改革を断行したアメンヘテプ4世は、神官団との政治的駆け引きに敗れ、十分な成果を得られないまま頓挫し、後継者のツタンカーメンが若くして没すると王統も途絶えた。

           

 

                                                      初期王朝時代のデザイン(3400-4000BC)

                                                              エジプト考古学博物館の歴史的宝物

                      オールド・カイロ

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

                                                          1400BC 新王国時代 第18王朝のデザイン

                                                                 エジプト考古学博物館の歴史的宝物

                       オールド・カイロ

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

              2061BC 中王国時代のデザイン                                                                               エジプト考古学博物館の歴史的宝物
                     オールド・カイロ 
                   Sketched by Sanehisa Goto

 

   
        ▼    11/6   カイロ・インターナショナル・ユースホステル連泊

 

 

 

■    11月7~8日 カイロ & サハラ砂漠彷徨

 

サハラ砂漠彷徨 と 星の王子さま

ピラミットのあるカイロ郊外のギザ、サハラ砂漠砂丘に立つと、その後方に大都市の摩天楼が蜃気楼のように樹立する様は、まったく予期しない幻の光景であった。

その摩天楼にも増して、人の手で築かれたとは思えない大規模ピラミット群が静かに歴史の重みを見せている姿に心を動かされたのである。

ピラミットに背を向ければ、西に向かいモロッコに達する世界一大きいサハラ砂漠が、見渡す限りの<砂の海原>となって、アフリカ大陸の西の地平線、その彼方に消えていた。

 

サハラ砂漠では、辺鄙な砂漠のオアシス村から歩きだして、可能な限り歩く計画を秘かに立てていた。

まず、猛暑のなか、いかなるファッションで歩くべきかを、同宿のユースホステルで懇意になったカイロ大学医学生に助言を求めてみた。

 

呆れた顔で 「サハラ砂漠を歩くって、真面目に考えているのか?」 と取り合ってもらえなかったが、「星の王子さまに会いに行くのだよ」と言ったら、あきらめ顔でキャラバン隊の衣装を紹介しながら、「ああ、サン・テクジュベルの本だね。 王子さまはモロッコ西サハラ砂漠から自分の星に帰って行ったんだよ。 サハラ砂漠横断は、ほぼ4000kmだよ、本気かい?」

でも、それは面白いと半信半疑のまま、乗って来た。 

こちらも、サハラ砂漠約4000㎞を、もちろん歩くことは不可能だと、初めからあきらめている。 

ただ、「星の王子さまが、なぜサハラ砂漠から、どんな気持ちで自分の星に帰って行ったか」を味わってみたかったのである。

そう、サハラ砂漠は、自分の星へ帰って行った星の王子さまの最後の舞台なのだ。

 

 いよいよ<星の王子さま>が自分の星に帰って行った最期の地サハラ砂漠を彷徨する日がやってきた。

サハラ砂漠彷徨のスタート地点を、サハラ砂漠を構成する西方の<リビア砂漠>にある村<ファラフラ・オアシス>に決めている。

朝5時に飛び起き、メトロ#1に飛乗り、ナセル駅で下車、<トルコーマン・バスターミナル>に向かう。

ここからローカル・バス<アッパ・エジプト・バス>に乗換え、約5~6時間のところにファラフラ村はある。

 

 

                ファラフラ・オアシスに広がる<白い砂漠>

             サハラ砂漠を構成する<リビア砂漠>で

 

ファラフラ・オアシス/ Farafra Oasisは、カイロから 07:00 と 18:30 の1日2便のローカル・バスしかない砂漠に埋没すオアシス村である。 後年、ファラフラ村は観光客用のテント村を併設し、砂漠体験村としてツアーが組まれているようである。

 

持参した隊商<キャラバン>ファッションである白づく目の衣装に着替えて、熱砂のなかをサハラ砂漠に  踏み出した。

携行品は、3Lの水と3日分の携行食をもって、歩き出したのである。

食料は、村でサンドイッチ(野菜サラダ・卵・ハム)4食分を作ってもらい、非常用行動食としてピーナツ・フレンチフライ・ビスケット・塩飴・チーズ・レモン・菓子パン・ピタ・乾燥レーズン・オレンジジュース ほか。

手作りの砂漠用ツエルト(白シーツ応用簡易テント)・SOS用<反射ミラー・笛・磁石・北斗七星中心の星座表・狼煙用ライター>・ストック・裁縫道具・救急用品・ヘッドライトほか、わずかなサバイバル・キットをアラビアのロレンス風シーツ下に背負っての出発となった。

 

まずこれでは、<星の王子さま最期の地>であるサハラ砂漠西端のモロッコ迄、約4000kmを行き着ける

はずがないことが分かっていたので、初めから緊急予備日1日を含めて3日以内で打ち切る計画である。

ただ、サハラ砂漠での<星の王子さま>の最期のシーン<地球離脱>の雰囲気を味わうことにはこだわった。

 

キャラバン・ファッションは、青空市で白シーツを買い込み、真ん中で折り、カッターナイフで首の穴を

切っただけの超簡単ワンピースである。 ターバンは、白い枕カバーを代用した。

写真で見る限り、結構、砂漠スタイルがお似合いである。 

また機能的で、歩きやすい簡易スタイルとなった。

  

              

                    砂漠彷徨用衣裳のチェック            

 

             表面に小石が浮いたサハラ砂漠リビア砂漠)で一服

           ファラフラ村/ Farafra Oasis近くの<白い砂漠>で

 

歩き出して、サハラ砂漠の砂が以外とサラサラして、足をとられ前へ進むのに難儀することだった。

ラクダの足裏のように広くて柔らかい靴底が良さそうである。

ただ、砂漠のなかでも人や車の往来するトレッキング筋は、小石も混じり、意外と歩きやすかったので

助かった。 しかし、やはり想像通り木一本ない、炎天下での砂漠の行軍は、約9.5kgのバックパック

背負っては3日が限度であることを体感した。

 

         サハラ砂漠彷徨ファッション と ナップザックの中身<携行用品リスト>

  

炎天下では、ときどき見受けられる草の陰で休だり、乾燥した枝<砂漠 Ironwood ブッシュ>の下にもぐりこみ、陽が沈むころに歩き出し、<星の王子さま、ご帰還の星や天の川>を眺めながら、サハラ砂漠を彷徨(トレッキング)した。

見渡す限りの砂漠、出会ったのは1羽のカラス、多分、人の棲むファラフラ村から、もしやの獲物にありつけると付いて来たのであろうか、不気味である。 

ただただ砂の大海原が延々と続いている。

今晩は、ファラフラ・オアシスの次なるバフレイア・オアシス近くで野宿し、星座を観賞しながら夜間トレッ

キング(彷徨)のあと、熱の冷めやらぬ砂丘に抱かれながら仮眠をとることにした。

 

             仮眠をとったバファレイア・オアシスの白い砂漠

                       サハラ砂漠


 

神はなぜ砂漠を創られたのであろうか。

ユダヤ教はじめ、キリスト教イスラム教は、砂漠の宗教である。

それもおなじ神のもと、この荒涼とした砂漠の民に現れたのである。

この厳しさの中に、生命体いや、人類は与えられた知恵と宗教心をもって生きながらえてきたともいえる。

この沈黙の砂漠が、人類に試練と工夫、知恵と発明、愛と協調を教えているように思えた。

 

地平線まで砂漠がつづき、

いま、360度のサハラ砂漠リビア砂漠)の真ん中にいるのだ。

星の王子さまが、いまこの体に訪ねてきているような気分にひたった。

星の王子さま>も、帰還した小さな砂漠の星で、1本のオリーブの樹に上って、こちらに声援を送って

くれているように思えた。

 

心うちで<星の王子さま>に出会えた瞬間である。

 

なぜか、夜空の星を眺めて<星の王子さま>とこころを通わせていると、カンパネイらとジョバンニの<サソ

リの話>がかすかに聴こえてきた・・・。

星の王子さま>を噛んだのは蛇ではなく、黄色いサソリ(蝎)のような気がしてきたのである。

 

幻覚と幻聴のなかを彷徨していたのであろうか・・・

サハラ砂漠、それも白いリビア砂漠で・・・見果てない素晴らしい体験をした。

   

            サハラ砂漠の草影で太陽光を避けながらの彷徨である      

 

       

                    <星の王子さま>の星

  

後日、この年前後から<サハラ砂漠250キロ横断マラソン>(Marathon des Sables)が アフリカ北部モロッコで開催されたことを知った。

世界一過酷なマラソンといわれるこのレースは、こちらのサハラ砂漠彷徨2日間と違って、7日間かけてサハラ砂漠250kmを越えるという。 

サハラ砂漠全横断4000kmなど、夢の中の夢なのかもしれない。

 

     

               サハラ砂漠250キロ横断(AFPBB News提供)

 

後で分かったことだが、サハラ砂漠を単独で横断した日本人がいた。

こちらがサハラ砂漠を彷徨していた年、北極海で遭難して亡くなった冒険家 河野兵市(1958~2001)が、1990年11月より5か月かけて、サハラ砂漠約5千キロをリヤカーを引いて単独横断を成し遂げていた。

 

 

 

<砂漠のオアシス 点と線> 

オアシスと、砂嵐で消えゆくラクダ商隊のかすかな足跡、この点と線を離れて砂漠で生きていけないし、砂漠を歩くことは不可能に近い。 
砂漠のオアシス<点と線>は、生命線であり、生存のための最低の保証である。
水がない、陰がない、食料がない、それが砂漠であり、
月と、太陽と、星が唯一の語り手であり、友であり、導き手である。


サハラ砂漠の夜間彷徨ートレッキングと、<星の王子さま体験>を成しえたことに、自分だけの勲章として

今でも満足している。

 


カイロに帰り着いて、さっそく<サハラ砂漠彷徨記念>として、星の王子さまの最期に立合ったサソリ(蛇ともいわれているが)の標本を手に入れ、いまも大切に階段画廊に飾り、成し遂げた記念日を懐かしんでいる。

 

 

             サハラ砂漠、 影のない直射日光の輻射熱は凄まじい
   

              三蔵法師と見まがう私の影(サハラ砂漠リビア近くで)

 

 

           

               サハラ砂漠彷徨記念に購入したサソリの標本

 

 

サハラ砂漠彷徨-トレッキング>
いま、サハラ大砂漠の一部を構成する<リビア砂漠ー白い砂漠>の真ん中にいる。
砂の風紋に寄り添うように、わたしは長い影を白い砂漠に作っている。
こちらの熱さにくらべ、砂漠は涼し気な顔をしているではないか。
陰を求めて枯草のわずかなスペースに抱かれるように横になって熱風を避ける。
枯草さんは、「ようこそサハラ砂漠へ、ゆっくりと砂漠と語らってください」と歓迎してくれている。

命を育むにはあまりにも過酷な砂漠の状況に驚いていると、砂漠の上には、大小の無数の生き物の足跡が残されていることに気づかされた。
驚きと共に、環境に適合した命があることを知って、砂漠にあわい温もりを感じたのである。
小さい命たちは、外の世界を知らずして、この砂漠に一生を託し、生きる喜びに出会い、幸せな生涯を終えることを知って、なにかホッとさせられた。

オアシス、それは子供のころからの夢の世界であった。
オアシスの水辺でロバの腹を枕に、うとうとする心地よさを想い描いて来たのである。
いま、ここサハラ砂漠を構成する僻地の<白い砂漠>にあって、オアシスそのものが少ないことに気づいた。 
カイロからここファラフラ・オアシスに向かう間でさえ、砂漠道路を約200km走って初めて休憩のためのオアシスに出会う始末である。
あったとしても、オアシスに村が出来上がり、水も汚れ切っているとの運転手の話である。

しかし、一歩オアシスを離れ、砂漠に足を踏み入れると、そこには夢物語が残っていて、喜んだものである。
アラビアのロレンス星の王子さま、共に少年の夢を育んでくれた大切な宝石箱が砂漠に埋もれているからである。
この美しき荒野であり砂丘の光景、人を寄せ付けないこの厳しさの中に、光り輝きく温かい慈愛を感じるのはわたしだけであろうか。

ロマンは、時として厳しい真理のなかにあるのではないだろうか。

なんと美しい夜の世界への誘いであろうか。
いま、サハラ砂漠が闇を迎える一瞬の光景に立合っているのだ。

 

                 幻想的なサハラ<白い砂漠>の夕陽

               バファレイア・オアシスにて

                

 

       ▼    11/7   サハラ砂漠 野宿&彷徨(夜間トレッキング)

 

 

 

■    11月8日 午前中砂漠より戻る、午後はカイロ散策   曇のち晴 33℃

 

星の王子さま最期の地のサハラ砂漠彷徨>1泊2日を終え、全食料と水を使い切って、カイロ宿泊先のユースホステルに無事帰りついた。
同宿のカイロ医大生からは、「本当にやったのですね・・・」と、あきれ顔のなかにも、笑顔で迎えてくれた。

明日、ルクソールへ向かうというハードスケジュールのなか、午後はオールド・カイロ(旧市街)をスケッチし、<コプト博物館>を訪ね・・・
ユースホステルに帰える前に、オールド・カイロで散髪をしてと・・・
夕方には、ユースホステル近くのプールでナイル川の水を浴び、カイロ最後の疲れをとることにした。

 

 

ここ砂漠の国に生を受けたエジプトの人々は、勤勉で、おおらかな国民であるが、運転を始めすべてにおいて、荒っぽさが目に付くのである。
ここエジプトの樹々の葉っぱも、人と同じく砂に汚れ、薄汚く見えるが、濡れたティッシュで拭きとってやれば、汚れ無き純粋な地肌が見せてくれるのである。

今日は、早朝からサハラ<白い砂漠>を彷徨し、一番のローカル・バスでカイロに戻り、さっそくカイロ散策・・・、歩き疲れたのであろうか、膝が笑い出した。
少し休んでおきたいとユースホステル近くのプールにつかり、暑さをしのぎ、疲れをとった。
多分、ナイル川より引きこんだ水なのだろう、これより立寄るルクソールとナイルの源流に近いアスワンの風景がよぎった。
そう、ルクソール・アスワンへは、ナイル川沿いの列車又は、紅海沿いのバスでの旅だが、ナイルの川船で旅することも出来るということである。

 

   

                 ナイル川から引いた水のプールで休養              

 

                オールド・カイロの散髪屋さんで
   

 

 

      

                      コプト博物館①
                   オールド・カイロ・エジプト
                    Sketched by Sanehisa Goto

 

     

     

                     コプト博物館②
                  オールド・カイロ・エジプト
                   Sketched by Sanehisa Goto

 


今回のカイロ~ルクソール間は、予算の関係で、深夜バスを利用することにした。

バスは、カイロ<トルコニマン・バスターミナル>より出発する。

    <カイロ  11/8  21:00発 ➡ ルクソール 翌朝11/9  07:00着予定>

 

強いアンモニアの匂いのするルクソール行深夜バスの中は、満員の乗客の熱気も加わり、不愉快指数は高いようである。
バスは、三日月の映る紅海(Red Sea)を眺めながら南下している。


ひと眠りしているうちに、夜が白々と明けてきた。
ローカル・バスの乗客は、私以外みな現地の人らしく、深夜トラブルが持ち上がった。
青年が、寝ている間にバスが降車地をパスしたらしく、車掌に抗議していた。
車掌も車掌だが、乗客も降車地をバスの運転手に伝えておけばよいものと、なじりあう怒号を耳にしながら少しでもエジプト・バスの旅を楽しむ工夫をした。

 

エジプトを含めて中東は、西欧に比べて、自然環境がすべての物差しになっている。
宗教をはじめ、食事、物の考え方・・・と、アラーの神に己を任せないと生きていけないのであろう。
自然の厳しさは、神に近いものであると言っていい。 そこには畏敬の念と共に、命を圧するほどの恐れが存在する。

 

バスは、ルクソール郊外を走っているようだ。
ナイル川の灌漑用水で、緑の畑が鮮やかに広がっている。
ヨーロッパ以降、そうイスラエルでさえ砂漠の国であり、その後のシナイ半島は見渡す限りの死の砂漠であったから、ナイル川両岸の緑豊かな耕作地に、命の母と再会したような興奮を覚えた。


    

                    ルクソール行きの深夜バス

 

昨日のプールもそうだったが、このローカル夜行バスもルクソールに近づくにしたがって、わたし一人の貸し切りバスである。 車窓からの、長閑な農村風景の広がりや、朝早くから懸命に働く農夫の姿を見ると、エジプトいや、アフリカであることを忘れてしまいそうである。

 

  ▼    11/8 車中泊  <カイロ➡ルクソール 夜行長距離バス>

 

 


■    10月9~10日 <ルクソール観光>

 

長距離夜行バスは、ただ一人の客を乗せ、1時間遅れの、08:00に東ルクソールにあるバスターミナルに到着した。
ルクソールは、ナイル川の南部の都市で、古代エジプトの都テーベがあった場所である。 

現在も世界遺産はじめ数多くの遺跡が残っている。

バス停から20分ほどの<ホテル・ファンタナ>に投宿し、まず荷物を置いた。
午前中のまだ気温の上がらないうちに、東岸の世界遺産を自転車で巡り、その後、フェリー<渡し船>でナイル川を渡って西岸へ、<王家の谷>はじめ世界遺産を巡る西岸ツアーに参加することにしている。

  ➀ 東ルクソールにある世界遺産をレンタ・サイクルで巡り、スケッチに励む。
    <カルナック神殿アメン大神殿 / ルクソール大神殿>


  ②  西ルクソールにある世界遺産は、ツアーに参加して廻る。
    <王家の谷―ツタンカーメン王の墓 / ハトシェプスト女王葬祭殿ほか>

 

               世界遺産ルクソール>全観光地図
         ナイル川を挟んで  左<ルクソール西岸> 右<ルクソール東岸>                                              

 

シベリア横断鉄道以来の鼻風邪のようだ。 持参の塩を水に溶かし、うがいを繰り返す。
長距離バスやカイロ市街の排気ガスや、人混みが原因のようである。 

 

<エジプトの英語>
エジプトの英語教育は、小学校3年生からだという。
出会う修学旅行生は、積極的に英語でしゃべりかけてくる。
エジプトは、英国の半植民地のもとにあったが、英国の植民地政策により現地の言語・制度・風習などを生かす方策がとられた関係上、現地役人・軍人以外は、あまり英語を使用しなかったようである。
エジプトの民衆の大半は、英語をしゃべれないのである。
しかし、どのような田舎でも役所には、英語がしゃべれる老公務員がおり、バックパッカーとしては助けられることが多くあった。

 

ルクソール襲撃事件>
3年前の、1997年11月ここルクソールイスラム原理主義者の襲撃によって58名が死亡した。その内、10名の日本からの新婚カップルが含まれ、日本で大きく報道されたことを覚えている。
この年も、日本政府からのエジプトへの渡航注意勧告がなされ、ルクソールの観光地で日本人観光客に出会うことはなかった。
この年(2001年)の9月には、同じイスラム原理主義者によるアメリカ同時多発テロ事件<9:11>があり、米国人はじめ西欧人の観光客もまた、ほとんど出会うことがなかった。 たまに見かける西欧人は、ほとんどがバックパッカーであり、少ないグループも慎重に行動していたのが印象的であった。
バックパックカーたちのリュックには、スエーデン・スイス・ニュージランド・メキシコなど中立国又は穏健国の国旗が貼られていたほどである。
こちらも、出来るだけ目立たないように、集団から離れ、東ルクソールでは、自転車による単独行動をとる様に心がけた。
襲撃・拉致・拘束・スパイ容疑などは、世界を駆け巡るバックパッカーにとって、たえず付きまとう危険である。 回避策として、目立たない事(宝石類・服装・行動・金遣い)、脱兎のごとく逃げること(もちろん状況によるが、一点突破)、見せ金の用意(お金の分散)、危険個所に近づかない・写真を撮らないことである。

ほか、たえず周囲への注意を怠らない様にしていた。

 

 

世界遺産ルクソール観光>
そのような影響からか「ルクソール考古博物館」も警備上13:00~16:00と2時間であり、都合がつ

かず残念だが入館を見合わせた

  ルクソール東岸観光 
   <カルナック神殿アメン大神殿ルクソール大神殿> (貸自転車で巡る)

   ナイル川東岸のカルナック神殿は、アメン神と太陽神ラーが結合した最高神を祀っている。   

   このアメン・ラー神を祭るアメン大神殿の壮大な景観は、ピラミットと異なり、どこかギリシャ

   イタリアの地中海文明に劣らないような、エジプト内陸部で見られる最大の古代建築物であること

   に驚かされた。

   やはり母なるナイル川のなせる業(建築資材の運搬ほか)があったが故の大神殿の存在である。
   エジプトの修学旅行生たちの、先祖への畏敬の念からか、一様に誇らしげな眼差しがこちらにも

   伝わって来た。

          


カルナック神殿アメン大神殿

 古代の船着き場から第一塔門までの参道両側に並ぶのは、アメン神の聖獣、牡羊頭のクリオ・スフィンク

 スである。 

 ラムセス二世が建てた134本もの巨柱が林立する大列柱室は圧巻である。

 

 

              世界遺産 <東西ルクソール> 遺跡ルート図

  

 

              レンタ・サイクルで東ルクソールを巡る

   

                 現地案内人とカルナック神殿列柱前で             

 

 

     

                  カルナック神殿レリーフ

 

              カルナック神殿円柱に見られるレリーフ

 

 

ルクソール神殿
ルクソール神殿は、カルナック・アモン大神殿の副殿として建立され、かつて、ふたつの神殿は<スフィンクス参道>で結ばれていた。 その巨大建築物に驚き、目に焼付けるとともに、スケッチに残すことにした。

   

            カルナック神殿よりルソール神殿に至る<スフィンクス参道>

 

                   美しいルクソール神殿の大円柱群

 

                ルクソール神殿 第2塔門の入口(前庭)            

                 背後右の円柱<パピルス柱 21m高>

 

                   ルクソール神殿の円柱群                

 

                    出迎えるファラオ像
      

                   ルクソール神殿レリーフ

          
                               

 

                     ルクソール神殿
                  大列柱室(開花式パピルス柱)
                   Sketched by Sanehisa Goto

                       
                               

     

                      ルクソール神殿
                     第2塔門の入口
                  Sketched by Sanehisa Goto

 


ルクソール大神殿からでると、客引きが群がり、その強引さに、古代への畏敬の念が一瞬にして現代の貧困の中に引きこまれたような気にさせられた。 かれらも襲撃事件による観光客減少からくる収入源を取り戻そうと、その競争は熾烈を極めているようである。
このような客引きの強引さは、ここルクソールにバスで着いた時から、すでに始まっていた。 

 

 

                   東ルクソールの小学生たち

 

バスで、ルクソールに着いた時、まずその客引きの数にたじたじした。
バスの床下の貨物室にあるはずのリュックが見つからず、途方に暮れていた時、必死になって貨物室にもぐりこんで探してくれた客引きの情にほだされてしまい、世話になっているのが<ホテル・ファンタナ>の主人である。 
ホテルのオーナーが、その客引きであったから、いかにルクソールから観光客が減少していたかが分かるというものである。
客引き兼オーナーである彼によると、バス停でのあの無数の客引きはみなコミッション目当てであるという。 だから、ミスターはオーナーであるわたしで運が良かったのだと自負していたほどだ。 
このホテルは、ナイル川畔にあり、スケッチを楽しめたことと、下着を洗えたことだろうか。 それにレンタ・サイクルがあったことである。
ただ、世界各地で出会う川に身を鎮める儀式を続けてきた者として、ナイル川で泳ごうとしていたところ、ホテルのオーナーに 「ナイル川には体に悪い水生虫がいるから泳ぐな」 とのきついお叱りを受けた。

ここルクソールに来る前に、カイロのナイル川の水を浄化したプールでの入水を思いだし、良しとした。

ふと、インド・ガンジス川での沐浴を懐かしく思い出していた。

 

 

     ▼    11/9~10  <ホテル・ファンタナ>連泊
             Radwan Street, Luxor Egypt  @35£x2日

   

       

        東ルクソールにある宿泊先 <フォンタナ・ホテル /  FONTANA HOTEL
    

 


■    11月10日 西ルクソール遺跡巡りツアー

 

  

              ナイル川 ルクソール西岸へ向かうフェリー
                <ホテル・ファンタナ>からの景色

              Sketched by Sanehisa Goto

 

昨日、炎天下での貸自転車による東ルクソール世界遺産巡りで、喉に違和感を覚え、すこし疲れが残っているようである。

西ルクソールでは、<王家の谷>はじめ、広大な渓谷に散らばる遺跡を回るため、<世界遺産巡りツアー>に参加することにした。

ナイル川をフェリー<渡し船>で渡り、集合場所に向かった。

 

ルクソールの気候と風邪、治安>
ルクソールは、砂漠特有の乾燥地帯にある上に、街そのものにゴミが散乱し、砂漠の街らしく埃っぽく、喉が乾燥し、色々な菌が付着しやすいのであろう。
風邪予防として、ホテルに戻ったら必ず持参の塩をミネラルウオーターに混ぜてうがいを励行した。
もちろん、手洗いをし、十分な水分補給と、栄養剤やビタミン剤をとり、オレンジやキューイを口にした。
ルクソール観光では、バンダナ・マスクで砂塵から守り、直射日光を避けるようにした。

ガイドによると、パラソル(日傘)をさし、カメラを肩にかけているのは、日本人観光客であると云われているそうである。 
なぜなら、当時の日本はバブルを経験したあとで、その金満さを、世界中が知ってしまっていて、この時でさえ、世界のいたるところで日本人は狙われ、誘拐による身代金要求や金品強奪などが頻発していた。

 


ルクソール西岸観光ツアー>
 

               世界遺産 <東西ルクソール> 遺跡ルート図

 

<西ルクソール  王家の谷ほか>
まず、ルクソール西岸の岩を掘って作られた王たちの墓、<王家の谷>へ向かった。
当日公開されている2つの通常王墓とツタンカーメン王墓に入場することが出来た。
   

 

                 王家の谷入口で (西ルクソール)                     

 

                  王家の谷壁画(西ルクソール
  

                   王家の谷ツアー仲間と
                 ファラオのポーズで連帯を示す

 

<ハトシェプスト女王葬祭殿  王家の谷>
切り立った断崖の下に建設され、岩山を借景とした壮大なスケールのハトシェプスト女王葬祭殿は、まるで砂漠で出会った近代建築物のように見えた。
ハトシェプスト女王は、ファラオとしてエジプトに君臨した唯一の女性である。

 

今から3年前にさかのぼるが、 ここ<ハトシェプスト女王葬祭殿>で、待ち伏せしていたイスラム原理主義過激派「イスラム集団」のテロリスト6人が、約200人の観光客らに銃を乱射した。

日本人観光客10人を 含む62名が死亡、85名が負傷した。

   

               ハトシェプスト女王葬祭殿で <王家の谷>
   

         

          ハトシェプスト女王葬祭殿の彫像群 <王家の谷>

 

      

             ハトシェプスト女王葬祭殿内部壁画① <王家の谷>

 

      

            ハトシェプスト女王葬祭殿内部壁画② <王家の谷>

 

      

                 <王家の谷>観光案内図

 

 

ツタンカーメンの墓  王家の谷>
ツタンカーメン王の墓は、1922年に<王家の谷>で盗掘を免れた墓として発見され、史上最も有名なファラオの一人となった最後の直系王族である。 17歳で亡くなった少年ツタンカーメン王が付けていた黄金のマスクや、多くの黄金の副葬品は、現在、<カイロ考古学博物館>に所蔵され、世界中の人が魅了されている。 

玄室にはファラオと神々を描いた美しいレリーフがある。
             

     

                    ツタンカーメンの墓入口
         

     

                ツタンカーメンの石棺 と 壁面レリーフ        

 

 

                                               

                   ツタンカーメンのマスク

               カイロ考古学博物館にて)               
                  Sketched by Sanehisa Goto

   

                ツタンカーメンの棺室の壁面レリーフ
    

 

      ツタンカーメン発見当時の解説板         ツタンカーメンの墓立体図 

 

<ラムセウム>  ラムセスⅡ世葬祭殿 (王家の谷)
ラムセスⅡ世は、エジプト新王国第19王朝のファラオである。
ラムセスⅡ世遺体安置所として、紀元前1258年建てられた。

   

           <ラムセウム>  ラムセスⅡ世葬祭殿 (王家の谷)  

 

                ラムセスⅡ世の彫像(頭部のみ)

             

 

                王家の谷 ラムセスⅡ世の墓 壁画                        
                   西ルクソール・エジプト
                                       Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<王妃の墓#15・#66  王妃の谷>
ナイル川西岸にある岩山の谷にある岩窟墓群である。

本日は、この2つの墓とツタンカーメンの墓が公開されていた。
ファラオが<王家の谷>に埋葬されているのに対して、主にファラオの妻(王妃)が埋葬されている。

    

                 王妃の墓#66入口 (王妃の谷)
                   西ルクソール・エジプト

 

                  王妃の墓#66壁画 (王妃の谷)
                    西ルクソール・エジプト

 

                王妃の墓#15入口と壁画 (王妃の谷)
                    西ルクソール・エジプト
                                        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

   ▼ 11/9~10 <ホテル・ファンタナ>連泊

           Radwan Street, Luxor Egypt  @35£x2日

 

 

 

■    11月11日(日)  アスワンに向かう

 

6時起床。
6時半、荷物をパックし、ルクソール<フォンタナ・ホテル>を出る。
駅近くで、列車用朝食として、菓子パン・ミックスジュースを購入する。
ルクソール駅で、軍隊による厳重な荷物・身体検査を受ける。
アスワン行列車に乗車。
   
    ルクソール 07:15発 ➡ アスワン10:35着 <急行列車・2等車・座席指定・13£>

 

                                          列車でアスワンに向かう (ルクソール駅にて)

 

狭軌の日本の列車よりゆったりしているようだ。
乗り心地もよく、トイレも清潔である。 何といってもナイル川両岸の灌漑による畑の緑が美しい。
エジプトでも、ここナイル川両岸は別天地であると言っていい。 砂漠の中のこの緑が、この国の未来をも豊かにするように見えた。
エジプトでの将来を担うもう一つの要因は、イスラム教の動向であろう。
アスワンへの列車で相席となったサウジアラビアからのMr.Amhudは、イスラムの女性観について次のように語ってくれた。

 

イスラムの女性観>
モスクでの礼拝時、男性が前に坐り、女性が後方なのは・・・
女性が前だと、礼拝する時、女性のお尻が見え、あるいは尻の線が見え、後ろの男性は気が散って礼拝に身が入らない、からだとおっしゃる。
また、女性がスカーフ(ヒジャブ・髪を隠す布)を着用するのも、男性に余計な色情を与えないためだと、イスラム教のコーランの一部を解説してくれた。
ヒジャブは、覆うこと、または隠すことを意味するアラビア語であり、イスラム教の女の子たちは、イスラム教の経典コーランにおける神の教えに従いヒジャブを着けるという。
イスラムの神アツラーは、貞節な女性たちに「目を伏せ、性的な部分を守り、誘惑させないように飾らず」にと教えており、女性たちが名誉と尊厳を維持し、謙虚さを保ち、性欲的な外的要因を取り除くことで、社会でイスラム教徒として認められ、虐げられることを防ぐため、だという。
若い女性が思春期に達すると、頭をスカーフで覆うことが義務づけられるようである。

 

<アスワンハイダムの驚異>
このナイル川の奥深い上流に、それも紀元前にかくも壮大な神殿と、岩盤をくり抜いたファラオの彫像を造ったものである。
それらの彫像に気の遠くなるような時間、労力、資金をかけていることに驚いたのである。
そこには、人智では図ることのできない悠久の芸術性がただよっていた。
アスワンダムを造る時、水没するこれらの歴史的遺産を守るため、<世紀の移設>にユネスコが動いたことは当然の成り行きであったことを、現地に立ってみて納得したものである。

 

<レストランにて極上の贅沢>
バックパッカーの低予算での食事にも、栄養上限界がある。
今日は三日に一度の栄養補給日である。 ホテル・アスワンにあるイタリアン・レストラン<ISIS>で、ボログナー・スパゲッティに、スキャロップ・スープ、ソーセージ、レッドワイン、チーズケーキ、アイスクリーム、コーヒー(120£)と大奮発である。
最高級ホテルの最上階にあるレストランから、暮れゆく砂漠の風景を鑑賞しながらのバックパッカーにとって、夢のようなディナーを楽しんだ。 

ボーイによると、ハイシーズンであるはずだが、例年に比べて20%にも満たない観光客だという。
もちろん、2か月前の9:11米国同時多発テロにより、ハイジャックを恐れて飛行機による海外旅行を控えているようである。


明日は、早朝3時起き、アブシンベル神殿ツアーに参加する。
砂漠に埋もれるエジプトの気候は、乾燥に弱い体には少し酷なようだ。
特にのどの渇きがひどく、風邪っ気のためか関節の節々が痛み、その上、久しぶりの豪華な晩餐に胃が驚いたのか、ゆるゆるである。

アスワンから、アブシンベル神殿まで車で往復6時間である。
明日のためにも日本から持参の風邪薬パブロンと、正露丸を飲んで、ベットにもぐりこんだ。

 


    ▼    11/11~12  <Go Inn Backpackers> 東アスワン 連泊
                           3VHM+WH, Sheyakhah Oula, Aswan 1

   

 

         <Go Inn Backpackers> ナイル川に面したテラス と 4人部屋

 

<Go Inn Backpackers>は、ナイル川畔、眼前の川中島に浮かぶエレファンティネ島をはじめ多くの美しい島を眺められるゲストハウスである。

 

 

 

■    11月12日  アブシンベル神殿  アスワン

 

早朝3時、ゲストハウスからの目覚ましコールが鳴る。
アスワンの奥地、アブシンベル観光ツアーを催しているゲストハウスには、ツアー参加者が集まりだした。
4時スタートし、アブシンベルまでの砂漠上を約282km、車に揺れることになるが、体調はいまだ回復せず、出発前の儀式に追われた。 念のため胃腸薬も口に放り込み、万一のためビニール袋も用意した。

 

             アスワンよりアブシンベル282㎞に横たわる砂漠地帯

          

とにかく、この乾燥した砂漠の気候から出来るだけ早く脱出することである。 
明日の朝には、カイロに向かって夜行列車の予約をとっている。
高山病の低地への下山と同じく、砂漠の乾燥病も、可能な限り早く温暖な湿気った地に脱出することである。
 

アブシンベル神殿>
アブシンベル神殿(Abu Simbel)は、エジプト南部、スーダンとの国境近くのヌビア古代遺跡にある。 紀元前1260頃の建設で、アモン・ラー神などの岩窟神殿として世界遺産に登録されている。
古代エジプト王の中の王と言われた、第19王朝の<ラムセス2世>の築いた神殿として知られ、アスワンの上流約280Km(カイロのピラミットからは1200Km)のナイル川左岸に位置している。 
アブシンベル神殿は、王自身のための<アブシンベル大神殿>と、妃ネフェルタリのための<アブシンベル小神殿>の二つからなっている。

 

          第19王朝の<ラムセス2世>を祀る <アブシンベル大神殿>

 

            妃ネフェルタリのための神殿 <アブシンベル小神殿> 

  

                  アブシンベル大神殿を背景に

                 

アブシンベルに行って来た。 アスワンより約287km、 約6時間の砂漠縦断ドライブに、アブシンベル観光1時間30分という過酷なツアーである。

アブシンベル神殿をもっとじっくり観賞したかったが、ここに宿泊してまでもと言う感情はいだかなかった。
ただ、アスワンダム建設で、水没のため低地よりこの重量のある彫像をすべて60m引上げたという気宇壮大な人類の英知と、紀元前1260年にこのような大建築物を、僻地である砂漠地帯に造り上げたというにことに目を見張ったのである。

 

                   

                   アブシンベル大神殿正面

                    アスワンハイダム
                        Sketched by Sanehisa Goto 

 

 

                  アブシンベル小神殿壁画

                 アスワンハイダム
                       Sketched by Sanehisa Goto

 

 

             
<アスワンハイダム>

                  ようこそ<アスワンハイダム>へ


 
「アスワン・ハイダムが完成することにより、ダムより上流のエジプトからスーダンにかけてのナイル川流域がダムに沈むこととなった。 またこの流域は古代ヌビア文化の遺跡が点在しており、その多くが水没することになり、 その中の最も重要な遺跡である3300年前のラメセス2世の建造したアブシンベル神殿は、ユネスコの手で分解され、移築されることになった。
大神殿は幅約38m、高さ役33mの岩肌に4体のラメセス2世像があり、小神殿は王妃ネフェルタリの像を中心に高さ10mの立像が6体並んでいる。
これらの神殿は、細かく岩塊に解体され、水位の及ばない60mの高さの土地に移築された」
ユネスコの案内板に書かれている。

 

                アスワン・ハイダム <古代ヌビアの遺跡>
  

               ナイル川上流を背に、アスワン・ハイダムにて
 

                 ナセル湖を背に (アブ・シンベル) 

        

  
<ファルーカによるナイル川セール>
アブシンベル・ツアーより帰って、夕涼みも兼ねて、ナイル川での思い出を作った。
一枚帆<ファルーカ>でのナイル川セールを体験したのである。
船長Cap. Sayed El-Fananは、ヌビア族の青年で、自艇ファルーカを購入してこれからと言うときに9:11米国同時多発テロのため、観光客の激減により商売として成り立っていないとの嘆いていた。 
エジプトの観光収入の減少は、この国の国際収支を危うくしているようでもある。

ファルーカは、ヌビア族の専売特許で、古代からナイル川の交易に従事してきたという。
主柱であるマストにたすき掛けの一枚帆を張り付け、舵を取り、ヨットと同じ原理で風を受けて、走らせるのである。

  

     

               一枚帆<ファルーカ>でのナイル川セール体験

 

             ナイル川に別れを告げる (アスワン)

 

 

      ▼    11/12  <Go Inn Backpackers> 東アスワン 連泊
             3VHM+WH, Sheyakhah Oula, Aswan 1

 


スーダン内戦
アフリカ縦断にあたって当初、エジプトのルクソールからアスワン経由、国境を越えスーダンを南下し、ケニアの首都ナイロビへ、ヒッチハイク又はローカル・バスを乗り継いで、スーダンを縦断する計画を立てていた。
2001年当時、スーダンは英国より自治権を獲得し、その後エジプトからの独立を勝ち得ていたが、内戦に明け暮れていた。 その紛争の原因が、人口構成にあるようで、肥沃なナイル川沿いの農耕民、草原が広がる中西部の遊牧民アラビア半島に近い北部のアラブ系イスラム教徒、サハラ砂漠南部であるスーダン北部のアフリカ系のキリスト教および土着信仰など多様性からくる住民間の不信が、社会構造の安定性を欠き、スーダンでは延々と<スーダン内戦>が続いていた。 
そしてこれらの紛争によって多くの犠牲者が出ていた。
外務省も国・地域別海外危険情報で<退避勧告>、<渡航禁止>とレベルを上げていた。

残念ながら、スーダン縦断をあきらめざるを得なくなり、カイロに戻って、空路でケニアの首都ナイロビに飛ぶこととなったのである。

 

ナイル川遡上、ビクトリア湖へ幻の計画>
実は、夢物語になってしまったが、スーダンを南北に流れる<内ナイル川>をカヤックで遡上して、ナイル川源流であり、ケニアにも属する<ビクトリア湖>を目指して、長年の計画<ナイル川・カヌーの旅5760km>を温めてきたのである。
しかし、これまた紛争国スーダンへの入国かなわず 『幻のカヤック旅』 となってしまった。

平和と安定こそ、バックパッカーの絶対的条件である。

紛争地はバックパッカーにとっての聖地ではなくなるのが残念である。

旅ができる、それは世界平和の大切な物差しでもあるのだ。

 

 

 

■    11月13日 アスワンよりカイロへ列車移動


超満員の夜汽車に13時間揺られてカイロに向かっている。

 

        

              アスワン始発の夜行列車#777カイロ行

 

列車番号は777、セコンド・クラス(2等車)、どうみても観光客向けの車両ではなさそうである。
車内全員、現地エジプトの人々である。 こちらも気取らず現地の人に倣って、通路に新聞紙を敷いて横になったりと、欧州では味わえなかった自由なるパックパックを楽しんだ。

久しぶりに学生時代のような、のびのびした夜行列車の旅に興奮したものである。

指定席は、あってないようなもので、すべて席が埋まって誰の席であろうと、そこには夜汽車独特な寝入りの姿勢に入っている乗客で占められているのである。
最初、座席指定のところに行くとターバンを巻いたアラビア人が坐っていたので、ここは指定席だからと言っても知らん顔、巡回中の軍人に事情を説明すると、そのアラビア人を追い立て、席に着くように言われたが、気持ちのいいものではない。
しかし、世界を放浪するバックパッカーとしては、気丈夫でないと先の旅は続けられなくなるので、意外とドライに割り切って、こちらも寝込んだ振りをしてその場をしのぐことにした。

後で分かったことだが、観光客用の寝台車の料金は388£で、2等車両は42£とのことである。
こちらとしては、エジプトの2等車両での体験の方が貴重に思えて、かえって喜んだものである。

2等車は、さすが現地の人々の交通手段らしく、荷物棚や座席下には野菜や穀物、果物、オモチャ、売り物の農機具の入った籠や段ボール、ドンゴロスがぎっしり詰まっている。
トイレなど占拠され、使用するのに大変である。
エジプトでのカイロ~アスワン間の交通手段として、列車の重要度は計り知れないもののように思えた。 

標準軌道採用の列車の座席は、十分なスペースで、リクライニングを倒せば体を伸ばして寝ることができそうである。 日本の新幹線の5列よりゆったりしているように思えた。

 
アスワンダムを船で渡り、スーダンの国境を越えて、スーダンの列車に乗り換えて、スーダン縦断ができるとの情報を得たが、実際に国境越えが出来るかの確認は取れなかった。 
大抵は、不定期に運行されるバスで国境を越えるのが、通常のルートのようである。

 

アラビアのロレンスじゃないが、ターバンを巻き、アラビアン・ワンピースを着た乗客に囲まれているとアラブの世界の中にいることを実感するのである。

ナイル河畔の椰子のシルエットが浮き立ち、影絵を見ているようである。
ナイル川は靄のなか、おぼろげに太陽が顔をだし、幽玄なる景色を見せている。
そろそろ、カイロ駅に近づいたようだ。

   

                 アスワン~カイロ夜行列車内(2等車)           

 

                  カイロ近郊ナイル川に昇る朝日

 

目に飛び込んでくる緑の光景は、エジプト全土の約18%で、そのほとんどがナイル川両岸にあるという。 

国土の82%は水なくしては住めない砂漠であり、地図の上では等高線のない真白な空白の砂漠地帯である。
なんとこのナイル川一本にエジプトの全生命が託され、全歴史が作られていると言っても過言ではない。

列車は、大幅に遅れてカイロに到着した。


まず、行きつけのケンタッキーフライドチキンに飛び込んだ。 馴染みになった店員さんに迎えられ、彼らの笑顔にカイロがまるで心地よい居場所のように感じられ、ホッとさせられたものである。

カイロ・ユースホステルの同室者、カイロ大学医学部生であるマホメット君(22歳・アレキサンドリア出身)の18歳の妹さんが、カイロのミッションスクールで勉学中で、今朝、実家のアレクサンドリアに向けて帰宅する途中、ここユースホステルに立寄ってくれたと、紹介してくれた。

 

      ▼    11/13   列車泊 <アスワン➡カイロ>

 

 


■    11月14日 カイロ滞在   雨のち曇

 

体調(鼻水・喉渇き・下痢)も地元の薬局で購入した薬のお陰で、改善されつつある。
カイロ滞在中に、アフリカ縦断に備えて、すっかり治してケニアへ向かいたい。


<カイロ散策>
エジプトの人達も携帯に夢中である。
今回、サハラ砂漠リビア国境に近い田舎を歩き回ったが、この僻地にも電波が届いていた。
携帯の普及は、ここ砂漠の国エジプトでも情報社会の成熟期に入った感がする。

カイロの街には、日本の中古車が現役として大活躍、白バイ然り、路線バスはじめ昔懐かしいミゼットが、荷物を運んでいる。 エジプトの経済発展に寄与していると誇りに思いたいのだが、エジプトの現状を打破し、先進国への道のりを考えると、まだまだ遠いように見える。

カイロは、ナイル川が生みの親であり、ナイル川によって生きながらえているようだ。
ナイル川が消え去るとしたら、カイロは砂漠の藻屑となって消滅してしまうことは明らかである。
ナイル川は、すべての恩恵を与え、国民を養い、文明を育んできた『母なる川』 として尊敬されているのだ。

 

     

 

交差点の混雑の凄まじさは、インドはじめ多くの国で経験したが、ここカイロの喧騒は、人の営みの極致と言ってもいい。 そこには人間本来の本能のなせる闘争心、罵声、無規律が渦巻いている。 解決策を見つけるための人間の英知が働くのであろうか。 混乱、騒乱は、時が解決してくれるという民衆のおおらかさが、愉快であり、憎めないのである。

エジプトも、経済発展途上国として、先進国入りのための生みの苦しみを味わっているようである。 排ガス、ゴミぽいぽい、飛乗り降りバス乗車、職探しの路上売込み、信号無視、警笛ブーブーほか、その生存競争の凄まじさにも、また雑然さの中にさえも一定の秩序や法則があるから救われる。


慣れてきたら、カイロ住民と同じ行動をしている自分に気づいて大笑いである。 いつの間にか観光客としての慎ましさをかなぐり捨てて、カイロ市民になりきっていた。
生き抜くためには、単純だが、周囲と同じ行動をとった方が楽であると言うことに気づかされるのだ。
パックパッカーの神髄である生存のためのモットー<郷に入れば郷に従え>、おのれの中にバックパッカーとしての姿を再確認した。

 

                  カイロのバス・ステーション風景

 

カイロ散策中、目の前で一人のご婦人が、乗用車に衝突され、ボンネットから飛ばされて、体が宙に浮き、路上に投げ出された。 不謹慎だが、そのときひるがえった真赤なスカーフ(イスラムヒジャブ)から、天女のように見えたのである。
さらに驚いたことに、彼女は起き上がって、何事もなかったように手を振ってその場を立ち去った。
日本はじめ多くの国であれば、いかなる処置がなされるか思い浮かんだが、この場の雰囲気に飲み込まれ、われを忘れて見入っていた。
ただ、彼女に後遺症無きことを祈った。

このカイロでの2日間、過酷なケニアでの<野生動物追跡ツアー>や、ジンバブエでの<ビクトリアの滝>探検に備えて、ゆっくり休養を取った。


まず、『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km』 の最終地であるケープタウンまでの全線航空券(12290£=約45600円・アフリカ縦断)の手配を終えた。 
ケニア入国に際しての、マラリア対策準備、コレラや黄熱病(対処薬入手・イエロカード)、マラリア予防接種証明書などの確認を済ませた。


後は、爪を切り、散髪をし、下着を洗い、アリナミンを口に放り込んでベットに潜り込んで、エジプト最後の夜を迎えた。

 

      ▼    11/14  <カイロ・インターナショナル・ユースホステル> 泊

 

 

■    11月15日 カイロを飛び立ち、ケニア首都ナイロビへ

 

ケニア首都ナイロビへの飛行機は夜行便である。


朝からエジプト土産を購入のためショッピング・センター<カーン・ハリーリ>に出かけた。
白衣のワンピース<アラビアのロレンス>風のロングドレスがお目当てである。
ロレンス風帽子を加えて35US$である。
今も大切に保存し、船旅や、BSOBの舎営や営火などで着用し、愛用している。
アラビアのロレンス星の王子さま銀河鉄道999メーテル、カミーノデサンチャゴのヤコブらは、わたしの化身として、わがバックパッカーとしての冒険心を満たし、胸をときめかし、夢を叶えてくれているのである。

エジプトを去る日である。


この喧騒に満ち、生きる力が満ち溢れたカイロの街は、悠久の流れにあるナイル川のように、これからも変わることなく時の流れに身を任すことであろう。

そして、人びとは規律や規則に縛られず、大自然の法則に身を任せ、アッラーのもと、生きる喜びを変わることなく見出していくことであろう。

いよいよイスラム・アフリカのエジプトより、飛行機でアフリカ・スーダンをひとっ飛びし、赤道の国ケニアの首都ナイロビに向かう。

さらばエジプトよ、また会う日まで・・・

 

ケニア航空321便の窓から、月明かりに輝くナイル川に別れを告げた。


次編は、ケニアの<サファリ―ツアー>で、野営をしながら野生動物を追ってみたい。

 

 


          『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』
               《アフリカ縦断の旅    15650km》 
                     ーエジプト編―

 

                       

 

 

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            《アフリカ縦断の旅    15650km》 

             ―ケニア・サファリ―編―

 

                    に続く

 

                                <現在作業中>

 

 

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<関連ブログ>

 ■ 星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』シリーズ

   Ⅰ  《シベリア横断の旅    10350km》

   Ⅱ  《ヨーロッパ周遊の旅  11000km》

   Ⅲ  《イスラエル縦断の旅    1000km》

   Ⅳ  《アフリカ縦断の旅    15650km》 

 

 

 

2001『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』 後半Ⅱ

 

                                     『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』 

                                     ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅱ

 

                                              《東ヨーロッパ & イタリア編》

 

                 星の巡礼者 後藤實久

 

 

いよいよ東ヨーロッパのいくつかの国を、ユーレイルパスによる列車の旅が始まる。

まずは、最初の東ヨーロッパの国、ポーランドワルシャワに向かいたい。

この先、東ヨーロッパの国々は、11年前まで旧ソビエット連邦の衛星国としての官僚的機構のもと、

人民は恐怖政治のもとにあった、少し不安である。

ソビエット連邦崩壊による2001年当時の元衛星国であった東ヨーロッパの国々の民衆や生活を観察

してみたい。

 

 

■ 10月16日 ワルシャワへ向かう

 

ドイツは、第二次大戦での敗戦により共産主義陣営と自由主義陣営という二大陣営に組み込まれ、それぞれの

陣営に分割、統治されてきたが、1991年のソ連崩壊により東西両ドイツは統一された。 

2001年当時、日本のバブル崩壊後の不況に比べると、統一ドイツは、いまだ再建の途上にあり、人々は生き

生きとしていた。

不況下の日本の青年にくらべ、ドイツ青年には国土回復への情熱が満ちていた。

東西ベルリンの象徴であったブランデンブルグ門を行き交う人々の顔には自由の大切さ、有難さを噛みしめ

安堵に満ちていた。

 

11年前までは考えられなかった、絶望の象徴でもあったブランデンブルグ門やそれに続く<ベルリンの壁

を越える東ドイツ市民には死を意味していたのである。

自由を求め多くの東ドイツ市民が、<ベルリンの壁>を越え、西ドイツに脱出を試み、多くの射殺者を出した

ことはご承知のとおりである。

自動車に隠れ、地下道を掘って、鉄条網を越え、気球で、グライダーで、潜水艇で、ビルの窓から滑車を使っ

て、子供を壁越しに放り投げて・・・ これらの実録を<Wall Check Point Museum>の展示で学習させて

もらった。

ベルリンの壁>に立った記念に購入した壁のかけらが、いまもわが家に飾られている。

 

ドイツは、日本の大きさに近く、ほとんど山はないが、一番日本の風景に近いような気がする。

ドイツの青年たちは、他の国の若者にくらべ、いたってやんちゃで腕白、どのようなことでも好奇心がある

のであろう、中学生ながら歩きたばこをプカプカ、流行のようだ。

好奇心に満ちた多くの若者が、国家統一のもと伸び伸びしているドイツの、未来の明るさを見たように気が

した。

 

ベルリンのユースホステルで一人旅の勇気ある大和撫子に出会った。

12人のドミトリのなか、ただひとり毅然として男性に囲まれている姿に、尊敬の念を持ったのである。

その姿勢には、青年たちの鼾にも、視線にも物おじしない世界を渡り歩くバックパッカーとしての誇りが

みなぎっているようであった。 

彼女の夢ある冒険の旅が成就しますよう、祈った。

 

 

ベルリンの夜が明けた。

プラットホームの灯りがまだ眠気を誘っている中、ドイツ高速鉄道ICE 列車番号EN#447は、ベルリンを

早朝 06:37 に滑り出した。 ポーランドの首都ワルシャワに昼過ぎ12:13に到着する予定である。

約6時間のドイツ高速鉄道CIEによるドイツ・ポーランド国境越えである。

東西にドイツが分かれていた時には考えられなかったベルリンーワルシャワ直通列車運行である。

平和だからこその列車の旅である。

 

ドイツ・ポーランド国境手前で、5人ほどのグリーンベレーをかぶったドイツの国境警備隊員(軍人)による

パスポートチェックが行われた。

 

列車は、ポーランドの草原を快適にワルシャワに向かって走っている。

延々とトウモロコシ畑がつづく。 ドイツの国全体が計画性のもとに、整然と利用されているのに比べ、

ポーランドは人間が自然に頼って生きている感が強いようである。

建物も古く、人間の汚らしさが沁みついているように見受けられた。

草原の羊も、種の蒔き方までもどこか雑然としているように感じられる。

なんといっても、手入れされずに放置された雑草地が多く目についたのが気になった。

 

ワルシャワ駅に8分遅れの12:21に到着した。

まず、International Ticket officeで次なるハンガリー首都プラハへの寝台の予約をとる。

さっそく両替(70PLN)を行い、昼食(ご飯・チキン野菜炒め・サラダ・コーク(14PLN)をとる。

 

                                                        WARSZAW/ワルシャワ駅に到着

 

ワルシャワ散策>

ソビエット連邦の最高権力者スターリンが贈ったという<文化科学大宮殿>が、ワルシャワ駅前に人民を

威圧するように建っている。

その周りを資本主義の広告、とくに日本のSONY・SANYO・SHARP・VICTOR・PANASONICが、まるで

共産主義の権威を資本主義の広告と言う鎖で縛り付けているように見えた。

そう、あたかもマネーがハンマーを取り込んだように感じたのである。

現に、共産主義ソビエット・ユニオンは崩壊し、消滅してしまったあとに、資本主義と言うモンスターが

襲いかかったようにも見えたのだ。

 

人民の幸福を追求することを理想としたはずの共産主義は、なぜ一世紀ももたずに、崩壊し消滅して

しまったのか。 マルクスレーニンは嘆いているに違いない。

共産主義は、高い理想から生まれた人民主体の理想である。 共産主義コミュニズム)とは、財産を私有で

はなく共同体による所有、即ち<社会的所有>とすることで貧富の差をなくすことをめざす思想であり、

運動であり、体制のことをいう。

古代からのキリスト教原理主義のうち、イスラエルキブツ(集産主義的協同組合)もまたその理想である

<構成員間の完全な平等,相互責任,個人所有の否定,生産・消費の共同性の原則>を掲げている。

 

ワルシャワの街は、建物が全体に低く、公園も多く、道路が広いので、とてもゆったりした平原の中の街と

いう印象である。

では、ワルシャワの街へ散策に出かけてみたい。

 

 

                       

                                                                       ワルシャワ散策コース



 

    ➀文化科学大宮殿(ワルシャワポーランド)                  ②文化科学大宮殿前のバザール

     

 

                       ➂サスキ公園の噴水            ④ワルシャワ・クランシスキ宮殿・公園

            

                                                            ⑤1944ワルシャワ蜂起記念碑

 

                   

                                                              ⑥ ワルシャワ歴史博物館と旧市街

                                                                   Sketched by Sanehisa Goto

 

                    

                                                      ⑥ ワルシャワ歴史博物館 15世紀コーナーにて

                                                                        Sketched by Sanehisa Goto  

                  

 

                                                                        ⑦ワルシャワの旧市街

                                                                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

                               ⑧聖アンナ教会                                                           ショパン博物館

            

                                                                   ⑩ワルシャワ国立博物館

 

散策中、イギリス大使館やドイツの大使館前にバリゲートが置かれ、自動小銃を構えた兵士が厳戒態勢を敷い

ていたことが、気になった。 おそらく前月起こった米国多発同時テロ9:11事件によるものと思われる。

散策途中、東ヨーロッパ汽車の旅の準備として、バザールに立寄り食料を仕入れた。 

リンゴ・トマト・バナナ・オレンジジュース・サンドイッチ2箱(計14P)。

夕食は、栄養を付けるため、屋台で立ち食い中華(チョウメンほか10P)をいただく。

 

この屋台の若き主人が、ベトナムハノイ出身のハマ君。 同じアジア系の顔に親しみを感じたので

あろうか、しゃべりかけてくれた。

「お腹がすいているなら、いくらでも食べて行っていいよ」と笑顔。

チョウメンのほか、豚の角煮などもいただいたが、チョウメン代以外は自分の驕りだからと、どうしても

受け取らない始末。 その気持ちに感謝し、代わりにワールドカップのシンボルマークの入ったタイピンを

プレゼント。

周囲の羨望の的が、ハマ君に集まり、ワルシャワにおけるサッカー熱の凄さが伝わって来た。

ポーランドFIFAにおける世界ランキングは20位の日本とほぼ同じだが、国民的人気度からすれば、

そのサッカー熱の高さを見たような気がした。

 

                <夜行国際特急列車―ショパン号> IC(インターシティー) 所要時間:10時間50分  

                   ワルシャワポーランド) 10/16 18:58発 ➡ プラハチェコ) 10/17 06:48着

                                                                              80€(ユーロ)  

   

                               

                                          ワルシャワプラハ夜行特急列車<ショパン号>ルート図

 

                               

                             ワルシャワプラハ夜行特急列車IC/インターシティー<ショパン号>電気機関車

 

 

  ▼ 10/16   夜行国際特急列車<ショパン号>での車中泊

 

 

 

■ 10月17日  ワルシャワポーランド)より、プラハチェコ)へ移動

           高速鉄道 IC/インターシティショパン号> 列車番号362-168

 

 

ポーランドワルシャワ発、チェコプラハ行き列車内で、腹がすいて目を覚ました。

朝食用のハムサンドと、野菜ジュース、トマト、バナナを平らげながら、東欧を走る古びた昔懐かしい列車の

装飾や、時代物の構造物を眺めたものである。

ソビエト連邦が崩壊して10年のこの時期、2001年当時、最新鋭の高速鉄道を走らせていた西ヨーロッパに

くらべ、ソ連の衛星国であった東ヨーロッパ諸国は、今なお一部ノスタルジックなディーゼル蒸気機関車

走らせていた。

プラハへの途中駅で、<62005型 テンダ機関車>に出会って、興奮の一枚の写真を撮った。

特徴は、フェースがいたってシンプルで、前照灯がランタン型形状であるのが印象に残った。

 

東欧の列車は、古い車両を使用しており、列車マニアにとっては、ノスタルジーを肌で感じられ幸せで

ある。 古き重厚な夜行列車など、あたかも長き人生を歩んだ老兵のように、優しさと愛おしさで温かく

包んでくれるのである。

擦り切れた絨毯、窓にかかったレースのカーテン、安っぽい化粧板で仕上げた壁、窓枠にこびりついた

長年の垢、洗面台の鉄製のコック、トイレの大地への放流は、昔の日本や、シベリア横断鉄道を懐かしく

思い出させてくれた。

 

東西の冷戦の中、長い歴史という重荷を背負って懸命に走り続けてきたポーランドの特急列車に揺られ

ながら、隣国チエコ・プラハに向かっているのだと、あらためて自分に言い聞かせていた。

 

 

                                     ポーランド国鉄 蒸気機関車  <62005型 テンダ蒸気機関車

 

 

                                            ポーランド国鉄 電気機関車 <EP09 型 直流機関車>

 

 

<臨検>

東欧の国をまたがっての国際列車では、2001年当時、10年前のソビエット連邦崩壊時の臨検が常態で

あった。 パスポート・チェックがあり、物々しい軍服姿で3~4人の小隊でやってくる。

真夜中、就寝中にコンパートメントのドアーを荒っぽくたたかれると、ナチス親衛隊に怯えたユダヤ人の

気持ちが、分かるような気がした。

軍人の一人が、無言で顔を睨みつけ、本人確認を行い、入国時の記録と紹介しているようである。

他の一人が、上段のベットにある荷物を調べ上げている。 ほかの軍人は見張りだろうか。

やはり、9:11事件の米国多発同時テロの影響と思われる。 

しかし、軍服姿での臨検は、乗客を恐怖に陥れるのに十分である。

いまだ、東西ヨーロッパには、冷戦時代の対立からくる隣国への警戒感が残っているように思えた。

 

昨日は、ワルシャワの歴史博物館を見て回って分かったことだが、

第二次世界大戦の末期、1944年ワルシャワは、ドイツ占領軍に対して、ワルシャワ市民は一斉蜂起したが、

その返礼として、ドイツは爆撃によってワルシャワの街を廃墟にしてしまった。

ワルシャワ市民の勇気に対し、ドイツはワルシャワの歴史と伝統のすべてを焼き尽くしたという。

それも、ポーランドはドイツの隣国なのである。

戦後、ワルシャワ市民は、写真をたよりに、全く同じ景観を造り上げてしまっている。

2001年当時、なお建物の修復、再建を続けていた。

 

狭いヨーロッパでは、白人同士、隣国であろうと歯向かった国には、徹底して破壊する考えがあるらしい。

デンマークやフランスのように、抵抗せずに都市や国土、国民を守った例も沢山ある。 

いわゆる、<パリ無血入城>などである。

しかし、お互いの国同士が隣接し、長きにわたって歴史的付き合いがあったにもかかわらず、よくも領土を蹂

躙し、隣人を殺せるものだと思うのだ。

 

この第二次世界大戦を見ても、領主としての感覚で、城を取り合った趣がある。 捕まえた市民を奴隷として

使役し、捕虜の兵士は殺したという。 抵抗した街は焼き払い、市民を皆殺しにした中世の戦いそのもので

あったといえるのではないだろうか。

 

<理想的共産主義の崩壊>

東欧の国に入ったばかりだが、どこか西欧の田舎という感じがする。

なぜか、思っていたほどに東欧で共産主義の面影を見つけるのに苦労するほどであった。

それだけ民衆は共産主義を排し、自由を求めていたように見受けられたのである。 

なぜ、これまでに共産主義は嫌われていたのであろうか。

思想自体は、コルホーズなど私的財産を排し、共有財産を目指した理想主義であったはずなのに、

結局は、人間のエゴ・権力欲よりくる独裁という自己顕示欲を満たす道具として使った特権階級が生まれ、

レーニンの理想を踏みにじって、階級支配体制を生み出したことによる失敗であったのではないのだろうか。

共産主義という理想的ソビエット連邦国家建設と言う実験は失敗したと云える。

 

▼ 10/17 列車  車中泊

 

 

 

■ 10月18日 プラハ散策 チェコ首都)

 

       

                                                                       チエコ・プラハ駅に到着

 

 

チェコ首都 プラハ散策>

              プラハ散策ルート : プラハ中央駅➡旧市街➡ユダヤ人街➡プラハ

                 ➡カレル橋<ブルタバ川>➡マラーストラナ➡

                 <プラハ地下鉄仮眠乗車>➡プラハ中央駅

 

チェコの首都プラハ駅に、朝6時48分定刻にIC/インターシティー夜行国際列車<ショパン号>は、

静かにすべり込んだ。

個人的にはパリより、プラハの歴史的景観の方が好きである。

プラハは、<百塔の街>とも、<ヨーロッパの魔法の都>や<北のローマ>など異名を持ち、美しい中世

ヨーロッパの原姿がそのまま残されていることで有名である。

素晴らしい歴史的景観を継承し、伝承するには、よほどの思想がない限り無理である。

第二次大戦の戦火を免れ、歴史的文化を守った根底には、その思想があったからであり、死守しえたのだと

思う。

その思想とは、宗教的対立を和らげる協調主義運動や、宗教的な問題に深く切り込まないという姿勢、

帝ルドルフによるユダヤ教を認めユダヤ人に対する寛容政策からくるものではなかったかと考えてみた。

この<百塔の街>を守り抜いたその背景にある思想を貫くために、住民が多くの苦汁をなめ、忍耐を重ねた

であろうことは、この美しい街を見れば分かるような気がする。

ただただ彼らの心情に頭が下がるのである。

 

   

                    <百塔の街>のシンボルの一つ<プラハ城の聖ヴィート大聖堂> プラハ旧市街

 

 

                                                        プラハ<百塔の街>の素晴らしい景観     

 

 

            

                                                                        旧市街路地裏夜景の塔      

 

プラハのカレル橋からの風景は、橋上で哀愁に満ちたアコーディオンが奏でられ、歴史をゆったりとたどり

往くおのれを見つめられる中にあった。

カレル橋の下を流れるブルタバ川は、私を迎えて、ただただ歴史の中を、静かに流れていた。

私たちも、時の流れを受け継ぎながら、未来に向かって、子孫を残していく使命がある。

プラハは、人類の愛を考えさせられる舞台であるように感じられるのは私だけであろうか。

 

アメリカ大使館の前には、米国多発同時テロである9:11事件に対処する軍用トラックに重武装の兵士を

載せ、バリーケートとして列をなし、周辺通過車の厳しい検閲―爆薬探知機によるーもまた、地政学的な

影響を受けるチェコの首都プラハの横顔でもある。

 

ここチェコが、10年前(2001年当時)までソビエト連邦であったとは到底思いもよらない。

とんでもない、日本より生活が豊かだし、物資が豊富、国民の幸福度も高く感じられるのである。

プラハの郊外の高層マンションや高速道路を見ていると、カナダの首都トロントに劣らないと思えた。

 

長旅で、歩き疲れたのであろうか、プラハの地下鉄に乗り居眠りを楽しんだ。

まず、B-Trainを往復しながらぐっすり眠り、C-Trainに乗換えて、プラハ中央駅へと向かった。

なぜか、プラハの地下鉄は平日であるにもかかわらず、空席が目立ち、東京のように超満員と言うことが

なかった。

居睡りしながらも、偽警官などの職務質問や、置きひきに警戒はしたが、意外と安心安全を感じたもの

である。 ただ、プラハ中央駅の混雑では、いかにバックパッカーでもベンチでの居睡りは、すすめられな

い。

 

             

                                                           ブルタバ川に架かる〈カレル橋〉で      

 

                                     

                                                                 プラハ・ショッピング街で

 

               

                                                                   プラハ城から旧市街を望む                 

 

               

                                                                        カレル橋の聖人像と

                                                           プラハチェコ

 

 

             

                                                       ブルタバ川カレル橋からプラハ城を望む

                                                                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

▼ 10/18 国際列車 車中泊

    <プラハ/チェコ➡(スロバキア通過)➡ブタペスト/ハンガリー➡ウイーン/オーストリア

 

 

<国境通過時臨検あり、投獄> 10/19  03:48am

10年前の1991年、ソビエト連邦が崩壊し、チエコスロバギア社会主義共和国は、チェコスロバキア

2カ国に分割独立をはたした。

ドイツで購入したオーストリア・ウイーン行特急列車の切符は、ポーランドワルシャワチェコプラハ

ハンガリーブタペスト、そしてオーストリア・ウイーンへと、当然乗り継いで行けるものとばかり思って

いた。

しかし、プラハからの国際夜行特急列車が、スロバキアに入ったとたん、それも真夜中に軍人による臨検が

行われたのである。 当然、通過国であるスロバギアには立寄らないで、列車で通過するだけだからビザ

(入国許可書)は必要でないと思っていたのである。

ドイツでの発券当初、かかる臨検の話も聞かなかったし、ましてやチェコプラハでの乗継時も何の説明も

なかった。

どうも、ほとんどの旅行者がここスロバギアに立寄らずに素通りしてハンガリーや、オーストリアに向かう

客に対する嫌がらせにも見えた。

 

一方、臨検の軍人たちは、通過国のビザを持たない乗客を取締り、下車させ、事情聴取をするという役割を

忠実にこなしているに過ぎないともいえる。

ただ、多くの国の臨検で、ビザ変わりの通過許可スタンプを押してくれれば、すべて解決するのだが、

今回のスロバギアの係官は、同じ列車に乗っていたパックパッカー5名(エクアドル人1・ブラジル人2・

アルゼンチン人1・日本人1)を、ビザなし乗客として深夜、Bratislava駅/Slovakiaで強制下車させた。

そして、駅に設けられた監獄付き取調室へ強制連行した。

 

この辺りは、チェコスロバキアオーストリアが接する三角地帯である。

ほんの一部この列車はスロバキアの領土を走り、オーストリアに抜けるのである。

微妙な、デリケートな国境地帯で強制連行させられたのである。

鉄格子でできた独房に監禁され、放置されること数時間、いつ解放されるかわからず不安がつのる。 

が、この処置も一種の警告の様で、翌朝にはチェコに戻ることを条件に、チェコ行の列車に乗せられた。

 

少し、国境のデルタ地帯を説明しておくと、スロバキアの係官の説明によれば、スロバキアのビザがない

場合、チェコよりハンガリーのブタペストへの行き方は、チェコよりオーストリアへ向かい、その後

ハンガリーへ向かへとの事である。 すなわち、スロバキアを通過しない路線を使えという警告であった。

言い換えれば、チェコプラハよりハンガリー・ブタペストへ直通で行けるスロバギア経由には、どうしても

スロバキアのビザ(入国査証)が必要であると言うことである。

スロベニアの係官にしてみれば、自国への観光なしに、素通りして隣国に行かれる悔しさが滲んでいる

ようにも受けとれて、すこし分かるような気がしたものだ。

 

スロバキアの監獄で一夜を明かしたバックパッカー5名は、解放と自由を喜び、それぞれの目的地である

ハンガリーのブタペストへ、強制退去させられたオーストリア経由で再度挑戦することとなった。

 

 

    スロバキアでの拘留より解放されチェコへ戻される列車でVサインするバックパッカー達と

 

       <路線変更> 国際列車 車中泊プラハ/チェコスロバキア通過不許可➡

            チェコに戻される➡オーストリア/ウイーン➡ハンガリー/ブタペスト

 

 

                     

                    東ヨーロッパ路線図

 

 

 

■ 10月19日  ハンガリー首都ブタペストから、

         オーストリア首都ウイーンに向かう

 

チェコに戻り、列車を乗り換え、オーストリア経由でハンガリーの首都ブタペストに向かった。

オーストリアハンガリーの国境では、東ヨーロッパ特有の霧と靄のため車窓からの景色である幻想的な

朝陽の輪郭に酔いしれた。

スロバキアを追い出された5人は、それぞれの知恵を絞って、追加運賃支払いを回避するためにあの手

この手で、車掌に説明することになった。 これこそバックパッカーの無駄遣い回避の精神であるが、

老境に入ったこちらにとってはなにか、無駄な試みに見えたものである。

それだけの若さを失ってしまっている自分に失望はしてみたが、すぐに諦め、寝不足解消のため深い眠りに

沈んだ。

 

東ヨーロッパに入ってからの情報収集は、新聞<ニューズウィーク・タイム・ヘラルド・トリビューン>や、

TVニュース<CNN・BBC>から得られるのだが、なぜか英語ではなく現地の言語で翻訳され、情報に取り巻

かれながらも、理解出ずに消化不良に落ち入ったものである。

 

 

             

                                             後方に霞む王宮の丘 (ドナウ川のクサリ橋より望む)

               ブタペスト・ハンガリー

 

               

                                         正面に聖イシュトバーン大聖堂がそびえる繁華街を散策   

                    ブタペスト・ハンガリー             

 

 

                     王宮の内部インテリアを観賞                   王宮の彫像を観賞

 

             

                                                                  ハンガリ―・ブタペスト散策

 

 

<セーチェニ/Szecheny 温泉   ブタペスト・ハンガリー>  入浴料900HUF

バックパックで世界をまわり、山奥で温泉につかりながら観た星空や、北斗七星・南十字星など、野趣に

満ちた温泉に比べて、これほど文化の匂いのする温泉<セーチェニ/Szecheny 温泉>に出会ったのは

初めてである。

温泉にあるネオバロック様式の宮殿は、何世紀にも渡ってハンガリーが温泉の国であったため、

セーチェニ浴場を開設するにあたって特別に建設されたほどである。

また、セーチェニ温泉は、ヨーロッパ最大級の温泉、大小18の浴槽と10のサウナ、屋外プールが入った

ヨーロッパ最大の温泉複合施設となっている。

 

ここ<セーチェニ温泉>と、ペルーのアンデスの山中にあるマチュピチュ<アグアス・カリエンテス温泉>

ブータンのモラル川の<ガサ温泉>、台湾台北近郊にある<陽明山温泉>を、数多く訪れた温泉の中から、

バックパッカーとして推奨しておきたい。

 

               

                                                  宮殿の中に温泉がある<セーチェニ温泉>前で

 

               

                                                            <セーチェニ温泉>    ブタペスト・ハンガリー 

 

トルコの温泉が、何世紀にも渡って吸い取って来た汗の臭いで、たまらないほど人間模様を醸し出している

温泉に比べ、ブタペストのここ<セーチェニ温泉>は、ローマ帝国のカラカラ温泉を思わせるような歴史的

豪華さを秘めたより文化的な温泉である。

東ヨーロッパ訪問時には、是非ブタペストの<セーチェニ温泉>に立寄り、宮殿温泉の文化的浴場を楽しん

みていただきたい。

 

<イコンと東方教会

ここブタペストでの目的の一つに、東方教会の聖画像であるイコンを購入することである。

アンティーク屋さんで丁度リュックサックに入る大きさのイコンを見つけたが、旅行中もって歩くことも

できないので、次のどこか大きな街で時間を見つけて郵便局から船便で日本に郵送することにした。

写真にある1800年代に描かれたイコン<イエス・キリストと10人の使徒>をチェコの首都プラハにある

カレル通りの古美術商で見つけて、即購入した。  

(2001当時レート:25000円=88000HUF)

テンペラ技法を用いた板絵<イコン>は、ここチェコはじめ東方正教会で崇拝され、信仰を深める聖画像を

さしている。 イコンには、キリスト、聖母、聖人をはじめ、キリストや聖母マリアの生涯や、聖書の

一場面で構成されている。

イコンは、ギリシャ語で<イメージ>を意味し、まだ印刷技術が発達していなかった時代に、儀式や信仰

ツールとして、教会や各家庭に飾られていた。

日本でも、五島列島はじめ隠れキリシタンの摘発に、踏み絵としてイコンが使われたことは、 

遠藤周作著「沈黙」の中で詳しく描写され、良く知られていることである。

 

 

                             

                                                             ブタペストで手に入れたイコン      

 

                             

                                                         ロシアで出会ったイコンのスケッチ

 

 

                          <ハンガリー・ブタペスト 15:10発 ➡ オーストリア・ウイーン 18:12着>

                                                                      国際特急-列車番号RJ-68

 

 

<ブタペスト ⇔ ウイーン間の列車事情>

両都市間の列車は、人気路線なのであろう、観光客でいつも満席状態であるようだ。

列車も大幅に遅れて到着、それも急遽変更になったプラットホームのアナウンスである。

重いリュックを背負ったバックパッカーにとっては移動が大変である。 ヨーロッパの駅はほとんどが、

長いプラットホームを持ち、端から端まで約1㎞もあり、移動に約15分かかるから、こころしたい。

 

この当時、ヨーロッパの国のほとんどの公衆便所や列車トイレ横には、販売機があり、何故かティッシュ

ペーパーと共にコンドームが売られており、日本でなじみのないこちらとしては最初驚いたものである。

それも日本製品であるからさらに仰天である。 それだけ優良品なのであろうか。

 

列車は、オーストリアの首都ウイーンに近づきつつあり、気持ちとして何かホッとさせられている。

やはり、東欧は10年前までソビエト連邦の構成国であり、ソ連の衛星国であっただけに監視体制の名残り

からか、緊張の連続であったのだと思う。

 

<二世・ハーフ・移民>

ウイーンのユースホステルで最初に出迎えてくれたのは、日系オーストリア人ケーシ君である。

彼は、サングラスをかけ、リーゼントスタイル、黒づくめのスタイリストで、バックパッカーには到底

見えない青年であった。

最初、英語の中に、少し訛りのある日本語「コンバンワ、オツカレサマ」に驚かされたのである。

ほかにも、英語でのやり取りの合間に、「いいですよ」とか「そうそう」を、入れて来るのであるから

なおさらである。

本人は、まぎれもなくオーストリア人の風貌をしているが、もしハーフで、片親が日本人であれば、

第二外国語として日本語を学んでいて不思議ではない。

ここユースホステルで、東洋系、いや日本人に出会って、懐かしさと、好奇心と、父母の血が流れる

おのれのルーツに出会って、興味に駆られての声掛けであったと思われる。

西洋人は、みな自分のルーツを大切にすることを、半世紀近くの海外暮らしで知っていたこちらには、

かえって自分のルーツに出会って目を輝かせるケーシ君に好意を持った。

 

ニューヨーク在住時、周囲の友人や・隣人・同僚はほとんどが、少なくとも2~3か国のルーツを持って

いたし、それがニューヨークっ子のアイデンディティであったからある。

わが子も、日本生まれながら、幼児で渡米し、アメリカの子供たちと同じくアメリカのキンダガーデン

(幼稚園)や、公立小中高に通い、土曜日だけ両親の母国語を学習するため日本語学校に通っていた。

やはり、現地の言葉が第一言語となり、両親の言葉は第二外国語とならざるを得ない。

子供達二人とも、三歳児からアメリカで育ち、それぞれの道を歩んでいるが・・・、子供のころに学んだ

言葉は、母国語以上に自己形成のメインとなり、生き方の価値基準となることを知っているつもりである。

 

ケーシ君も、オーストリア語や、英語が彼の言語であり、付属的に日本語を少し理解していると言って

いいだろう。 これは、両親から受け継いだ運命であり、遺産といえる。

あとは、本人がいかにその第二外国語を生かしていくか、本人に任された宿題である。

息子も、20歳で日本国籍を離脱し、アメリカ国民となり、現在では忠実なアメリカ市民としての生活と、

役割を果たしていることに満足している。

ケーシ君に出会って、わが子の運命を重ねて見た。

 

親の勝手な思いであることを、十分承知しているが、生まれ来るところの両親、環境、時代、機会、運命に

逆らわず、選択し、決断し、決定し、トライし、どの方向に、いかに歩むかは、子供それぞれに与えられ

開かれた、自由なる道であると思う。

 

<東欧の若者>

もう一人ユースホステルで出会った青年がいる。

22歳のブルガリアの青年、サージン君は、2~3日の予定でウイーンに気晴らしに来ているという。

「若者は、夢をもって国家や家族のために全力で働くべきだ」とのアドバイスに、

「あなたは日本と言う大国で、裕福な国に生まれたから、そう云えるのだ」とサージ君は言う。

ブルガリアでは、働くチャンスもなく、失業者が溢れていると。

そういえば、ソビエト連邦が崩壊した直後から2~3年、東欧からのボートピープルが、イタリアの港に

押し寄せ、イタリアの警察が追い払っていた光景を思い出したのである。

 

この不安定な政情の世界には、サージン君のような、夢と希望を持ちながら、彼らの才能を生かせていない

大人の無責任さが漂っていることに気づかされるのである。

 

              

             

                                                                          ウイーン中央駅に到着

 

▼         10/18   ウイーン・ユースホステル

       Hostel Wien : Myrthengasse(HI) Wien, Austria

 

      



 

 

 

■ 10月19日 オーストリア首都<ウイーン>滞在   11℃ 靄かかる晴

 

日記や収集資料、イコンや土産類、写し終えたフイルム等をまとめて日本に航空便で送る。

    非常用食料(リンゴ・バナナ・オレンジ)の購入   18AM

    ウイーン美術館入館料      100AM

    美術館案内説明書購入              10AM

    ウイーン国立墓地案内地図購入     50AM

 

神の国に招かれて>

早朝、パイプオルガンの荘重な音色に導かれて教会の長椅子に座った。

無事旅を続けていることへの感謝のため、Augustiner Kirche教会で静かな祈りを持ったのである。

しばしの瞑想、そこにはわたしの好きな銀河鉄道が突っ走る壮大な宇宙空間が広がり、月の王子さまが

サハラ砂漠で自分の星を見つめている広大な情景が広がった。

さらに、ニューヨークのマンハッタン、摩天楼の谷間に真赤な太陽がゆっくりと沈みゆく、スローモー

ションの幻想的な世界が浮かんだ。

瞑想、祈りは、わたしの心が宇宙に吸い込まれ、一体になる瞬間である。

こころをリフレッシュし、これまでの導きに感謝すると共に、無事目的地である南アフリカケープタウン

への無事なる導きを祈った。

 

 

    

                                                 Augustiner Kirche教会   ウイーン/オーストラリア

 

<ビエンナ-中央墓地>      (ウイーン中央墓地)

王宮を一周する市電/トラム#1<リング・ライン>に乗って中央墓地に向かうため、歩いていると、袈裟衣

を身につけた老僧に出会った。

物静かな中に、厳とした動作、一歩の重みが伝わる爽やかな歩みに、こちらは知らずの内に老僧に向かって、

頭を軽く垂れ、目礼をしていた。

その瞬間、老僧もまた目礼を間髪入れず返されたのである。

この不思議な心の通いに、早朝のパイプオルガンの荘重な響きが体に満ち満ちていった。

 

墓地が好きである。

どこに居を構えようと、近くの墓地探しに出かけるのが常である。

そして、ジョギングコースに取入れ、立寄ることにしている。

お墓は、肉体をまとった精神と、宇宙霊となった魂がまじわるところであると思っているからであろうか、

それとも亡き身近な者との出会いの場であるからであろうか。

世界を旅していて、こころして墓地通いを続けている。

長年住んだアメリカはじめ、フイリッピン、ビルマ(ミヤンマー)、インドネシア、フランス、ドイツ、

ポーランド、ロシア、スペイン、ギリシャパキスタンほか随分と訪ね歩いたものである。

フランスのモンマルトルの丘や、ここウイーン中央墓地では歴史的な偉人や、好きな俳優の墓に詣でたが、

他はほとんど無名のお墓や、現地で戦病死した日本人墓地である。

 

 今日は、オーストリア・ウイーンにある<ビエンナ-中央墓地>に詣でた。

特に32A区には、ベートベン、シューベルトモーツアルトヨハン・シュトラウスブラームス

大作曲家ほか、大好きな俳優クルト・ユルゲンスの墓がある。

 

墓地#      お墓              没年            遺業

27  <ヨハン・シュトラウス>  1899_06_31没  ウイーン・オペレッタ/ワルツ

28  <フランツ・シューベルト>    1828_11_19没  古典主義ロマン派/歌曲の王

29     <L. V. ベートベン> 1827_03_26没       交響曲/ピアノソナタ

54  <クルト・ユルゲンス>   1982_06_18没  国際的映画性格俳優

55     <W.A.モーツアルト>  1791_12_05没  古典派音楽/ウィーン古典派

 

 

   

    

               <ウイーン中央墓地> 墓石に囲まれて

     

    

              シュトラウスの墓(左) ブラームスの墓(右)

 

              

    

                     ブラームスの墓で

 

       

                    クルト・ユルゲンスの墓                

 

    

            左ベートベン  中央モーツアルト 右シューベルト

 

 

                

                                                     ウイーン中央墓地 32A区 大作曲家墓地群

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<ウイーン美術史美術館>

ウイーンには、歴代ハプスブルク家のコレクションを集めた世界でも屈指の美術史美術館<レオポルド

美術館>がある。

ブリューゲルの『バベルの塔』をはじめ、フェルメールラファエロルーベンスなどの傑作を観賞する

ことができる。

 

人間も、自然も同じだが、相手に興味を示すか示さないかで相手からの反応が大きく異なるのである。

美術館での鑑賞の姿勢も同じようだ。

作品に興味を示すか、示さないかによって、自然に足を止めるか、無視して通り過ぎるかである。

興味なく作品を通り過ぎると、作品もまたこちらを無視して、いかなる情報も発信してこない。

しかし、こちらが興味を示したり、反応したら、作品はそれ以上に反応し、作品の方から色々な情報や、

エネルギーや、作品を画いた画家や制作者のメッセージまで伝えてくれるのだ。

急がず、これと思った作品に出会ったら、とことんお喋りすることにしている。 

「そうよ!」と、Tizian(1488~1576)の画いた<Violante>という美女がうなずいてくれた。

 

彼女Violanteとの出会いは、観賞疲れで長椅子に座った目の前の壁に飾られ、豊満な肢体に、少し緊張した

目でこちらを見ているお嬢さまのすこしはにかんだ視線を感じてのことであった。

「あなた、わたしに興味を持ったんじゃなくて、たまたま疲れたんでわたしの前に坐ったんじゃないの?」 

「と言っても、これもご縁ね! こんなにわたしを見つめてくれたのは、あなた一人かも・・・」

「これから仲良くしてね。 わたしは、今から450年前にイタリアのティツィアーノ・ヴェチェッリオ/Tiziano

Vecellio (1490年頃 – 1576/8/27)が画いてくれたの」

「450年前の日本ってどんな時代だったの?」

「そうだね、1550年頃の日本は安土桃山時代で、戦乱に明け暮れていたね。 ちょうどフランシスコ・ザビ

エルがキリスト教布教のために鹿児島にやって来たのもこの頃だよ」

 

お喋りをしていると、彼女もにっこり笑ってくれ、「いま、美味しいお菓子を出してあげるから待っててね」

っと、すっかり女房気取りで世話をやきだしたのだ。

絵画の人物像と話をするという、実に不思議な時間をここウイーンの美術史美術館<レオポルド美術館>で

持ったのである。

 

                                               

                                                                              <Violante>
                                                         Tizian画(1488~1576)

 

 

▼         10/19 連泊 <ウイーン・ユースホステル

       Hostel Wien : Myrthengasse(HI), Wien, Austria

 

      

                                              <ウイーン・ユースホステル>で

 

 

 

■ 10月20日  ウイーン➡ザルツブルグ 列車移動  

           (所要約3時間14分 317㎞)

 

オーストリア国鉄 特急列車EC-160 MARIA THERESIA号> 

          ウイーン07:16発 ➡ ザルツブルグ10:31着

 

注 <マリア・テレジーア/マリアテレサ>とは、ハプスブルク帝国、いわゆるオーストリアの君主で

実質的な「女帝」であり、「神聖ローマ帝国皇帝の皇后」である。

最初、「コルカタの聖人 マザーテレサ」と間違ってとらえた特急列車は、「オーストリ・ハブスブルグ家

の女帝」の名であった。

 

    

                                                                EC-160 MARIA THERESIA号           (フォト:増田 宏氏)

 

<特急列車EC-160 MARIA THERESIA号>は、ザルツブルグに朝10時半にすべり込んだ。

以前から訪ねたかった<ザルツブルグ博物館>でザルツブルグ家の財宝をスケッチし廻った。

帰りに、守り人として<キリスト像>を手に入れ、その後の旅の<同行二人>としてもらった。

 

ランチは、博物館近くを流れるザルツマッハ川で、ハムサンド・オレンジジュース・バナナ・リンゴを

いただく。

川の流れに身を任せ、急流を下り往く水鳥ものびやかだ。

今までの東ヨーロッパで味わった、どんよりした灰色の空と違って、アルプスに近いザルツブルグの澄み

切ったブルーの美しい空に声を上げた。

通りすがりの修道女たちがにっこりと笑ってくれた。

              

               

                                                                       ザルツブルグ博物館前広場にて              

 

                                               

                                                                           同行二人<キリスト像

 

 

               

                                         十字架上のキリスト像と共に (ザルツブルグ博物館にて)

 

                  

                                                                      ザルツブルグ家の財宝

                   ザルツブルグ博物館・オーストリア

                        Sketched by Sanehisa Goto

 

ランチの後、笑いを送ってくれた修道女に導かれるように<ザルツブルク大聖堂>で旅の無事を祈った。

 

               

                                                                              ザルツブルク大聖堂

 

<徴兵制と自由>

この旅では、平和で自由な世界だからこそ旅が続けられる有難さを感じながらも、多くの国で若者が戦闘服

に身を包み、街頭を闊歩し、休暇を楽しむ場面に出くわしてきた。

なかでも、中立国であるがゆえに自主防衛に力を入れているスエーデンや、スイス、オーストリアに若い兵士

の姿が、平常の生活風景に溶け込んでいた。

これら中立国は、徴兵制を敷き、専守防衛のための武器開発、防空システムの網羅、防衛体制の日常的な訓

練、緊急時のシェルターの常設、緊急発進用の戦闘機の退避壕、隠されたカムフラージュ戦車など、他の国

以上に戦闘準備のステルス化を仮想の相手国に見せつけているように感じた。

ハリネズミのように、襲いかかる敵国に対して、いかなる国であろうと国民が一致団結し、皆兵となって祖国

を防衛するという意志と姿をあえて見せつけているようである。

徴兵制と言っても、どこか郷土愛にもとづいており、自分たちの国は自分たちの手で守るという固い意志が

じられる。 

中立国は、どの国とも相互防衛協定を結ばず、自主防衛に徹しているところに、歴史の繰り返しである戦争を

回避し、永続的な平和を望む姿勢が見てとれて、我が国のあるべき姿を見たような気がしたものである。

そう、中立国の徴兵制に、国民としてその国の一木一草にまで愛情を注ぎ、平和と自由のあるべき理想の国を

目指し、郷土を守り抜く決意の表れと受取った。

 

 

     <列車で、インスルブルグに向かう>

        普通列車 ザルツブルク  13:08 発 ➡ インスルブルグ 17:32 着

 

いま、インスルブルグ行普通列車は、<サウンド オブ ミュージックの舞台>であるオーストリア・アルプス

チロル地方の丘陵地帯をのんびりと走っている。

ここオーストリアも、やはり数次の大戦でドイツにより侵略を受けており、その際の家族が避難する過程を

描いた映画は、ミュージカル作品として世界に発信され、感銘を与えた。

映画で見たあのなだらかな丘一面の緑の絨毯が、いま走る列車の前に敷き詰められ、われわれを迎えてくれて

いるではないか。 

感動の一瞬を<サウンド オブ ミュージック>のメロディーを口ずさみながら時の流れを楽しんだ。

山々の峰が、すこし尖って来た。 アルプスに近づいてきたようだ。

 

17:32 高度を少しづつ上げた普通(登山)列車は、定刻通りにインスブルグに到着した。

さっそく、インスブルグ・ユースホステルにリュックを置いた。

同室のノルバー君(ノルウエー)、G Y Yong君(コリア)が、あたたかく迎えてくれた。

 

夕食後、若いバックパッカーの質問責めが、夜更けまで続いた。

 「日本語や中国語は、象形文字だったね?」 <表意文字に近いかな・・・>

「禅と瞑想は、どう違うの?」   <宇宙と己の一体感と内観かな・・・>

「アラブとイスラレルのどちらに正義があると思うか?」 

            <神は人間の争いの仲介には入らないのだ・・・>

「正しい環境保護とは?」<各国でとらえ方に差異があって当然かな・・・>

 

 

▼ 10/20  インスルブルグ・ユースホステル (オーストリア)   宿泊代160AM

      Reichenauerstraße 147, プラートル, 6020  インスブルック, オーストリア

 

 

  

     

      インスルブルグ・ユースホステル (オーストリア

 

     

         インスルブルグ・ユースホステル

           ノルバー君(ノルウエー)と

 

 

 

■ 10月21日 列車移動 <インスルブルグ ➡ ローマ>

 

この辺りは、もうオーストリア・アルプスの麓である。 

北側の山々の峰から強風が吹きおりてきて肌寒い。

ノルウエ―からのノルバー君は、この山に挑戦するそうだ。

インスブルックの北側の山は、ノルトケッテ連峰という。

くれぐれも足元に注意するように、そして成功を祈って別れた。

 

 

    

                                      インスブルックの北側の山は、2400m級ノルトケッテ連峰

 

                   

 

                                                                   オーストリア・アルプスの峰々

                      左よりEbenejoch1954m / Hoidachstellwond2190m / Sonnwindioch2274m

                                                                  インスブルグ駅より望む

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                                       インスルブルグ背後に広がるオーストリア・アルプス観光地図

 

 

08:39am インスルブルグ発 登山列車<Train#164>は、 スイスのサンモリッツ/St. Motitzに向かって

走り出した。

発車して間もなく、車掌がやって来て 「この先の線路が寸断されたので、途中駅Otztalで下車し、バスに乗換え、Bludenz駅まで送る」(この間、約100km) とのことである。

 

人生と同じで、旅には予想しがたい出来事がつきまとうのである。

だから、計画にない出来事に出会う旅も、人生と同じく愉快なのだ。

自分では如何としがたい出来事には、見えざる手が働き、人智を越えた働きで、問題を解決してくれる導き

があることを、この歳になると分かるのだ。

今回もおのれのすべてを他力に任せ、この場を切り抜けることにした。

 

乗継のバスに揺られていると、雪を頂くアルプスの麓の尖塔を持った教会からかすかなパイプオルガンの音が

聴こえてきた。

   

             

                        オーストリア・アルプスの山岳教会からオルガンの音が聴こえてきた

 

村の人々が、アルプスの民族衣装に身を包み、家族が寄りあい、パイプオルガンの音に包まれながら、おのれ

を神にゆだねる幸せに、感謝をささげている光景が瞼に浮かんだ。

 

鉄道線路の崩壊で、アルプスの山村を約100km<Otztal駅~Bludens駅>迂回しながら、バス旅行を楽し

ませてもらっている。

驚いたのは、このアルプスの僻地に多数の観光客を回送するバスが集められていたことである。 その災害

処理への取り組み方や、処理の仕方の合理性に驚くと共に、乗客への配慮の素晴らしさに、観光立国としての

自負と責任感が見てとれた。

災害に遭遇した観光客(乗客・被害者)に対する処置・対応について、すこし見ておきたい。

次の三点に注目した・・・<待たせない・情報を切らさない・素晴らしい対応>

 

  

               

                                        <迂回バスの小休止> アルプスの霞む山村を背景に

 

この列車は、ウイーン発、スイスのチューリッヒ行だから、各方面への乗客や団体観光客が乗車している。

これをバス乗継駅に到着するとともに、方面別指定バスに案内し、5分程で全員乗車させ、目的地に向け

出発させていた。 そこには乗客からの不満の声を聞くことはなかった。

オーストリア鉄道関係者の手際よい対処に拍手を贈ったのである。

 

そして、先でも述べたが、バスの車窓からの雪帽子をかぶったオーストリア・アルプスの絶景を

堪能させてくれたのである。 

迂回バス乗車というハプニングが、かえってアルプスの意外な姿を見せてくれたのである。

 

迂回駅Bludensで再乗車し、スイス国境の街Buchs駅で下車したのは、わたしを含め数人であった。

 

 

                                       スイス国境の街Buchs駅でサンモリッツ方面行<氷河鉄道>に乗換

 

 

<スイス国境の小さい駅で>

スイス・アルプスの国境、小さな駅<Buchs>に一人寂しく立ち尽くした。

構内の壊れた栓から、清らかな一筋の水だけが、尽きることなく流れ落ちる様は、哀愁に満ちていた。 

人生における、無人の荒野や砂漠に下り立ったような状況を味わっていた。

 

ふと、寂しさの中に、Buchs駅までの列車の中で出会った温かい光景がよぎった。

同じ車両に、日本人は自分一人だとばかり思っていたところ、母娘二人旅の日本人がおられたようで、

娘さんの母に対する想いが、心地よく響いて来たのである。

 

「復誦って英語でなんだっけ・・・、 わたし豚って大嫌い・・・、 見てみてあの絵 気がっ滅入ってしま

うわ・・・、 わたしたちの人生普通じゃなかったのね・・・、 お母さんと旅ができるなんて わたし幸

せ・・・」  延々と娘さんがひとり母親に、わたしが降りるまで語りかけていた。

 

なんと素晴らしい娘さんであろう、人生において娘や息子の親孝行ほど母親にとって素敵な幸せはないと思っ

ている。 どのようなプレゼントよりも、気づかいと、優しい言葉に尽きる。 

そこに神様の心が宿っているなら、なおさらである。

 

前回10月9日頃に、スイス・ローザンヌに入った折に残っていたスイス・フランの小銭で、英語版の新聞

「USA TODAY」を買い求めたら、3.50CHFという、手持ちは2.80CHF、0.70CHFの不足である。

諦めかけたら、「あとは私のおごり、もっていっていいよ」と、赤ら顔のおばあちゃんがニッコリと笑って

くれた。

人生って嬉しいね。 ちょっとした心遣いをもらったら、なにか大きな大きな宝物をもらったように嬉しい

ものである。 

ちょっとしたこと、お金にかかわることでは無く、席を譲ったり、手荷物を持ってあげたり、道を教えてあげ

たり、目が合ったときに笑顔で返したり、ゴミを拾ったり・・・と、小さな善意は、いたるところに宝石の

ようにキラキラしているから、こころを豊かにするチャンスを生かせるのは、その人のこころ、行動、勇気

次第のような気がしたのである。

 

武装中立・スイスの気概>

先でも述べたが、中立国としてのスイスにおける一つの国防コンセンサス<自国を自分たちの手で守る気概>

に触れてみたい。 アルプスと言う景観を大切にする国民性は、そのまま故郷を大切にする、守り抜くという

コンセンサスで一致していると云えそうだ。

スイスは国民皆兵制度をとり、徴兵訓練とベテラン再訓練が義務付けられている。

洞窟・地下壕・掩蔽壕・トーチカ・核シェルターなどに、都市から村落まであらゆる場所に、戦闘機はじめ

兵器弾薬までを格納・保管し、それも<やってますよ>と、その覚悟をところどころで見せているのがいい。

スイスは綿密にデザインされた要塞のような国だと云われている。

スイスの国境は基本的に、命令によって爆破できるように作られているから驚きである。

四方を他国と接する内陸国のスイスには、橋、道路、鉄道、トンネルなど少なくとも3000カ所の爆破地点が

設けられているという。

この小国スイスが、二度の大戦時には、ハリネズミ戦法で、連合国や枢機国に領土を踏ませなかったので

ある。 その伝統は<自国は他人に任せられない>という信念に見られる。

全国民が、平時の軍事訓練を受け、レベルの高い軍事技術を身につけ、郷土防衛と言う愛国心、それに子々

孫々に美しい国土を継承していくという覚悟にあるように見てとれた。

 

 

   

      

              山岳地帯に隠された武器庫 (Business Insiderより) 

 

 

<こころの風景>

バスの車窓からは、スイス・アルプスの白雪のもと、真黄色な白樺の葉が、散り往く美しい姿を見せている。

今、見ているアルプスの風景は、こころの風景でもある。

愛おしさからくる山の風景や、山と交わす会話は、その都度変化し、まるでもう一人の自分と心通わせているようだ。

風景や会話を擬人化する時、そこに<こころの風景>が宿ってきて、至福の時間に入り込めるのが、うれしい。

      

               

                                                                                黄色いカラマツ群

 

<Larche / カラマツ>

アルプスの針葉樹<カラマツ>が、紅葉して散る黄金の風景に、久しぶりに出会った。

この木は、見事な黄色に色付き、まるで黄金のマントを羽織っているような気品が漂っていた。

人もまた、意外な色付きをし、豊かな表現をする人がいる。

そのとき、その人の輝きがさらに増し、自信も喜びも体中に充満していることに気づかされるのである。

自分は、どうだろうと自問してみた。

スイス国境のBuchs駅から乗り込んだSt.Moritz方面行<氷河鉄道>の風景は、ノルウエーのフロム線

<山岳鉄道>、ショース・フォッセン(ショース滝)付近で見られる美しい風景に匹敵する景観を

呈していた。

この時期10月21日頃が、高度1800mのアルプスにあるチロルが一番輝き、美しい季節だと隣席の地元の

娘さんが教えてくれ、「雪景色と紅葉のスイス・アルプスへようこそ!」と笑顔で迎えてくれた。

 

アルプスを走る氷河鉄道は、箱根登山電車と姉妹鉄道で、和名<サン・モリッツ>の銘板がサン・モリッツ駅

に飾られていると、車掌は得意げにアナウンスしていた。

 

  

                                               列車でのグラン・サン・ベルナール峠越え前に

                                           サン・モリッツ駅で

 

 

         乗換: 氷河鉄道<サン・モリッツ 12:48発 ➡ 15:10着 ティラノ>

 

青空にもかかわらず、雪にアラレが混じっているのだろうか、<氷河鉄道>の屋根に小気味いい音を立て

ている。

雪山でのクロスカントリ・スキーや、スノーシューイング(カンジキ)によるラッセルをたしなむ者にとっ

て、雪は良きパートナーである。 

我流で、いつも子供たちに笑われてきたが、本人が楽しんでいるのだから、いたって満足している。

雪は、空から舞い降りて来るものとばかり思っていた。 

しかし、冬山に挑戦してからは雪に対するイメージが一変した。

雪を愛するようになってからは、雪がわたしの周りで嬉しそうに踊り、天に向かって上り往く時の自慢気な

こと、左右に揺れたり、風に吹かれて地上寸前で反転したりと、その優雅な踊りを見せてくれるのである。

 

グラン・サン・ベルナール峠に近づくにしたがって、少し吹雪いて来たようである。

雪もこちらの心豊かな感情に気づいてくれたのか、出会いの喜びを踊りにして表現してくれているようだ。

 

青銅色の湖に映る、雪羽織るアルプスの神秘な姿、その優雅さに声を上げた。

中世の絵画の中を駈け抜ける氷河鉄道が、銀河鉄道999に重なった。

ナチュラルの美、これこそこの世の最高美であろう。

人も同じで、それぞれのもつ個性が光る時、隠れていた個性までも引き出されて光り輝くのだ。

見る側のこころ、みられる山側のこころが、一つになった瞬間に出会ったのである。

こころを美しく保つことの大切さを教えられたような気がした。

     

               

                                                                  トウル湖に映るラ・ターヴル山

 

14:42 <Poschiavo駅>通過  標高1014m  (サン・モリッツーティラノ線) 

列車に「日の丸・箱根」の記念プレートが飾られている。

 

列車は、これよりアルプスのグラン・サン・ベルナール峠(2469m)直下のトンネルくぐり、イタリア国

境の街ティラノ/Tirano経由、ミラノに向かって下っていく。

グラン・サン・ベルナール峠は、サイクリストやライダーにとっては憧れの聖地である。

サイクリストであり、ライダーである者にとって、もう少し若ければ、自転車かオートバイでこの峠(聖地)

を越えて見たかったのである。 

今回は自制し、列車でのトンネル通過となってしまった。 すこし残念であったが、車窓から見るサイクリス

トやライダーの奮闘にエールを送ったものである。

 

10:10着  終点・乗換<Tirano>駅 イタリア国境の町に到着した。

 

                     ティラノ/Tirano  06/21  16:16発 ➡ 18:40着 ミラノ/Milano 20:05発 ➡

                      (イタリア高速鉄度ITA#785)➡ 翌日06/22  03:13着 ローマ/Rome

 

 

         列車から見るオーストリア・イタリア国境越え付近の白銀のアルプス

          (グラン・サン・ベルナール峠トンネルを抜けて)

 

 

<こころの故郷 イタリア>

パスポート・コントロールの係官は、「ようこそイタリアへ、ゴットさん!」日本語での歓迎の言葉をかけて

くれた。 

係官のイタリア的陽気さと裏腹に、コントロール・ブースの周りは、洗濯物が干され、ゴミが散乱、今までに

出会ったどの国境よりも緊張感がとれ、何かホッとさせられたのである。

これまでの洗練された畏敬の自然美から、人間臭い温かみのある泥臭い世界にやって来た感じがした。

この人間臭さに加えて、100USドルを両替したところ、200,000リラである。 いつもの薄っぺらな財布と胴

巻にしまい込むこととなった。

一瞬にして、恐ろしい経済社会という坩堝に、引きずり込まれたような気がした。

 

イタリアの列車に乗っていると、実家近くを走る京阪電車に乗っているように、ホッとさせられた。

故郷を離れて、たまに帰る何とも言えないあの安堵感、懐かしさ、想い出、回帰、緊張のゆるみにひたった。

そう、若いころのあの時の流れに連れ戻され、心豊かになったものである。

「ああ道が狭くなったなー」

「いつ通っても秋刀魚の焼く匂いがしたっけー」

イタリアの列車に乗っていると、苦労を背負っている時、神のみ心に触れ、救いと、解放と、あの安堵に出会

った気分にさせられた。 

なぜだろうか、こころの故郷に帰って来たような和みに包まれたのである。

この気持ちは、ローマへと近づき、アシジに至って聖フランシスコに出会って、神聖なものとなったので

あるから、イタリアは私にとってこころの故郷のように感じられたのである。

不思議な国である。

 

ケセラセラ と イタ公>

夜は深けて、三日月を眺めながら南下し続ける列車は、下校中の沢山の学生を乗せ、ミラノを目指している。

列車の中は、イタ公(イタリア人の愛称)の体臭で充満し、生活の匂いがする。

イタ公は、個性を大事にする陽気者であり、ラテンの情熱が血潮に流れ、<ケセラセラ>にぴったりの国民で

あると思う。

スペイン語の<ケセラセラ/Que Será, Será>とは、「なるようになるさ」という意味に使われるのが一般的

であり、「物事は勝手にうまい具合に進むものさ」、「だからあれこれと気を揉んでも仕方がないさ」、

「成り行きに任せてしまうのがよいのさ」とも解釈できるから、気楽であり、愉快である。

 

<あきらめ と 達観>

一方、イタ公のこの国が、斬新なファッション・デザインや、自動車をはじめ工業デザインの先進国である

ことは良く知られている。

自分の性格や嗜好、趣味、本能をよく知り、生活にとり取り入れていく才能に恵まれた民族でもあると

いえる。

ひとはみな平等に、自分にしか与えられていない才能を少しは持っているものだ。

その僅かなる才能を発掘し、磨き抜くかは、その人次第であり、ほとんどの人は見つけることをあきらめてい

るように見える。 

わずかな人だけが全神経と努力をそそぎ、自分にだけ与えられた才能にたどり着き、人生をより豊かに感じら

れているようである。

どうもイタリア人全般には、その才能が備わっているような気がしてならない。

それは、日本人にはいたって難しい一種の<あきらめ>、いや、くよくよせず人生を楽しむという<達観>な

のかもしれない。 

 

<夢想と反省>

イタリアの列車に揺られていると、どこか夜汽車に乗って信州の山へ向かう青春時代の自分の姿を思い浮かべ

ながら、若き時代に想い描いた夢想や世界観を断片的に思い出していた。

ひとはみな、自分には何のとりえもないと嘆く。

野の花や、空の鳥、虫たちや石ころ、一粒の砂でさえ、君もまたこの全宇宙を構成しているのだ。

太陽や、月や星のように、わたしたちにも役割があるのだ。

役割を果たしていない自分の存在を嘆いてばかりで、自分が生命体として如何に、なぜこの世に生まれて

きたのかと問うばかりではなく、存在の意味を問うてみてもよいのではないだろうか・・・と、

自問自答の青春時代にひたった。

 

40年前のSLは、時代が変わりイタリア国鉄高速鉄道ITAに引継がれ、夜汽車に変りはない。

線路の振動が、列車の揺れが体にじかに伝わり、心地よいイタリア半島南下の旅を楽しんだ。

列車は、もうすぐローマに着く。

 

▼ 10/21  <イタリア高速鉄度ITA#785> 車中泊

       ミラノ/Milano 06/21  20:05発 ➡(イタリア高速鉄度ITA#785)➡ 

       翌日06/22  03:13着 ローマ/Rome

 

 

 

■ 10月22日  ローマ    快晴

 

安全神話 と おおろかさ>

ヨーロッパの高速鉄道は、安全神話のもとに運行される日本の新幹線とポリシーを若干異にするようで、高速

鉄道も人間の生み出した産物であり、いささかの不都合もあるのだから、故障・遅延・暖房無しもやむなしと

言う人間主義に基づいたところが見てとれるのである。

 

ミラノからローマへの<イタリア高速鉄度ITA#785>も、不都合な電気系統の故障があったのであろうか、

10月末と言った寒さがます夜行列車にも関わらず、暖房が効かず、震えながら一夜を過ごすこととなった。

6人用のコンパートメントは、座席を伸ばすと簡易ベットになるが、仮眠のためのブランケットなどの準備も

なく、重ね着し体を丸めて目を閉じた。

 

日欧のものの考え方、最先端技術への取り組み方にも根本的な違いがあることを気付かされたのである。 

日本の繊細さと安全神話に対し、人間にも弱さを認める西欧のおおろかさ、さて人類はどの方向により重きを

置いて、幸福を追求していくべきなのであろうか。

また、今までのように互いを認め合って競争していくのも、人類調和の上で理想的であるのかもしれない。

バランスの問題も人類の課題であると言えそうである。

 

<ローマ到着>

早朝、03:15 定刻を少し遅れて列車  <イタリア高速鉄度ITA#785> は、荘重なローマ駅に何事もなかった顔

で、静かにすべり込んだ。

一旦駅から外に出るとなったら、今までの静寂はどこかに吹っ飛んで、物々しい重武装の兵士による前月の

アメリ同時多発テロ>からくる爆発物や、薬物に対する厳しい臨検が待っていた。

 

臨検を終えると、陽気なイタリアの町ローマが、明るい声で<Benvenuti a Roma!/ようこそローマへ!>

と、迎えてくれた。

ローマは、これまでのシベリア横断、スカンジナビア半島縦断、ヨーロッパ周回の旅での最南端の町である。 

ここにきて初めて、歩かなくても自然と汗をかいたことに気づかされた。 

ここは温暖な地中海気候であるのだ。 

さらに、ここローマは、ローマ帝国の中心があったし、カトリックの総本山バチカンがあり、素晴らしい都市

文明を育んできた。

ローマでは、バチカンに詣で、シンスティーナ礼拝堂で旅の無事を祈り、トレビアンの泉ではラッキーコイン

を投げ込み、世界遺産コロッセオ>を訪ねたい。

 

 

                  バチカン・サンピエドロ大聖堂

                       2004年画

                     Sketched by Sanehisa Goto
 

こうして、同志社ローバースカウト時代、仲間と共に高らかに歌っていた 「遠い街を歩いてみたい」 (永六

輔作詞 : 中村八大作曲)を実現していることに感謝した。

 

ヨーロッパ高速鉄道の旅は、ここイタリアで終えるので、まずは中東イスラエルへの航空券の手配をすること

にした。 最終目的地である南アフリカケープタウンまでは、まだまだ遠く、旅半ばであることを実感

させられた。

 

走り歩きだが、古代ローマ時代の息吹きに触れたいため、まずはローマの街に飛び出した。

 

 

    

                                                  バロック彫刻が素晴らしい<トレヴィの泉>で      

 

             

                                                   古代ローマ時代の北門・検問所<ポポロ門>

 

             

                                                                バチカン<サンピエトロ広場>で   

 

   

               

                                                                    世界遺産 コロッセオ
       

 

ローマ散策の後、休養をとるため、高速鉄道ユーロスターで、ローマよりアシジに向かった。

踏破中の『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』の中間点として、ここイタリアのロー

マ郊外にあるアシジで、体を休めるためである。

 

高速鉄道ユーロスターでも、普通列車でも、時間的には約2時間の列車の旅で、ローマよりアシジに到着

する。

          

               

                                                                  わたしの聖地<アシジ>に到着

 

アシジ列車駅から、バスで、アシジにあるサンピエトロ寺院に降り立った。

ここスパしオ山の麓にあるサンピエトロ寺院で、夕方19時35分、天使の歌声が響くなか、夕陽に迎えられた。

それは、この旅を祝福する神の贈りたもうた最高の歓迎の挨拶であり、その優しさに抱かれて感涙の瞬間を迎えた

 

今夜の宿泊先は、ここサンピエトロ寺院のあるアシジ中心街より、バスで駅方向に約2kmほど戻ったところ

にある。

 

▼ 10/22  アシジ・ユースホステル <Ostero Della Pace>  @30,000リラ

      Via Di Valecchie, 4, 06081, Assisi Italy

 

      

          アシジ・ユースホステル<Ostero Della Pace>

 

 

■ 10月23日  わたしの聖地<アシジ>  イタリア

 

朝4時起床、いまだ眠りにあるアシジで、息するすべての命あるものからの語りかけに耳をかたむけた。

スパシオ山の真上にあるカシオペア座や北斗七星を探し出し、仰ぎ見ながらユースホステルを出て、

サンピエトロ寺院に向かって、車道ではなく、近道である山道を歩きだした。

星や星座は、ひとに語りかけ、多くのことを教えてくれるのである。

古代人は、異星人の言語を解釈し、生活に取入れ、応用してきたことは人類史が物語っている。

古代人は、言語を持たず、宇宙の法則、宇宙の教えに従って生活の糧を得ていたともいわれる。

星と語らいながら、サンピエトロ寺院に向かった。

 

小川のせせらぎは、静寂を一層引き立たせ、ゆっくりと心を満たしていった。

夜目にかすむ石造りの家の窓に一つ、また一つと灯りがともり、「ボーンボーン」と5時を告げる柱時計が

声を上げた。

遠くで鳴くニワトリや、遠吠えの犬、飛び立つハトたち、黒いマントをまとったオリーブの影、雲海に沈む

村々を眺めていると、ここアシジが、わたしを温かく包んでくれる天国に思えた。

 

              

               雲海に沈むアシジの村々    06:30

 

朝7時、アシジ・ウンビリアの平野に、一斉に教会や寺院、聖堂の鐘が神を称えるように、お互いを称えるよ

うに鳴り響いた。

雲海がやわらぎ、しばらくすると東の空が真っ赤に染まって来た。

                      

 

                 アシジの朝焼け     07:15

 

                        

              雲海をまとったアシジの村々   08:00

 

               

          静かにおのれをアシジの雲海、いや天国に沈めてみた  08:30

 

いま、アシジの聖者 聖フランチェスカと時を越え、同じ空気を吸っている

幸せである

雲海の中、糸杉が尖塔のように天を突き

出来立ての手作りのパンの匂いが鼻をつく

アシジでは すべてが天国の日常のようだ

東の空を拝し 深く静かに

弱き人のために 祈った

 

 

小鳥達が大合唱 次のように聴こえる

アシジでの 生の喜びは一度だけ

神と共に生きるこの喜びを

いまのいま噛みしめようよ

フランチェスカに耳をかたむけ

東の空を拝し 深く静かに

弱き人のために 祈った

 

 

        

    

                   聖フランチェスカ銅像

 

朝陽を拝したあと、セント・ピーター寺院の早朝ミサに出席し、旅の安全を祈り、聖フランチェスカの信念に

耳をかたむけた。

     自己一身にこだわりなさんな

     自己一身にとらわれなさんな

     自己一身にかかわりなさんな

     自分のすべてをすてなさい

     他人のために愛を注ぎなさい

 

朝食を終えて、<アシジ・スケッチ巡礼>に出かけた。

 

               

                 オリーブ畑の見下ろすアシジの村々

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

       

           丘の上からサン・フランチェスコ大聖堂(右手前)を望む

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

               

                 エルモ・デツレ・カルチェリ僧院の十字架

                       アシジ・イタリア

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

 

             

    

               <アシジ・スケッチ巡礼で出会った宝物>

          スバシオ山(標高1300m)/ロッカ・マジョーレ(大要塞)

                サン・フランチェスコ大聖堂の十字架

                    アシジの特産オリーブ

                       キリスト像

                     聖フランシスコの像

 

     

    

                ヌオヴォ門<サン・ダシャーノ聖堂>        

 

    

                スバシオ山(標高1300m)を背に

 

     

    

                    YH前よりアシジを望む

 

 

<小石の十字架>

エルモ・デツレ・カルチェリ僧庵で、四国88か所の巡礼路でも行った経行(きんひん)、

歩き禅をしていたら、小石の十字架にぶつかった。

誰であろうか、石ころ模様が描かれ、十字の交叉に一個の小さな小石を置いていた。 

この小石は、おのれを<磔のイエス・キリスト>に擬しておかれた、殉教の石であると認めた。

アシジへの巡礼者は、みな神の愛を必死に求めているのであろう。

 

人生を空しくしないために、愛ある死を迎えられるように、

こころを清く保つために、ひとは心の巡礼を続けるのであろう

そう、心を清く保つために

わたしも、聖地アシジ・スパシオ山に小石を並べてみた

           

      

     巡礼の足跡に、小石で十字架を印していた   わたしもスパシオ山に十字架を残した

              

    

                    アシジの紅葉の前で

 

<アシジへの導き>

アシジへの最初の導きは、ローマの街角での老婆との出会いにあった。

路傍に坐り、手を差し出す老婆の澄み切った目にくぎ付けになったのである。

通り過ぎた瞬間、こころに針射す疼きを感じた。

しかし、すぐには反応しきれず200mほど行き過ぎて立ち止まった。 

いや足がそれ以上、前に進まなかったのである。

この数秒間のインスピレーションは、次なるアシジでの為すべき聖なる行いを

暗示させてくれていた。

ただちに取って返し、老婆の手に喜捨をしていた。

心豊かな老婆の笑みが返って来た。

思わず昨年、長寿を全うし、天に召された母の面影が老婆に重なってきた。

お互いの抱擁は繰り返され、お互いに「Arigatou!  Grazie!」と感謝の気持ちを伝えあった。

 

人は、ある瞬間、光に包まれ心高鳴り、清く澄み切ったこころに昇華することがあり、

聖なるおのれに返る事があるのではないだろうか。

まさに、わたしにとって一生のうちの数少ない奇跡に出会ったと確信している。

アシジがわたしの聖地になった瞬間でもあった。

その後、アシジには聖地巡礼として数度訪れることとなった。

 

 

<スパシオ山の谷間、僧庵を訪ねる>

アシジを取巻く峰のなかで、丸みのある山の姿がスパジオ山(標高1300m)である。

アシジは、スパジオ山の中腹にある。

スパジオ山とサンルフィーノ山の谷間の静寂の地に<エルモ・デツレ・カルチェリ僧庵>がある。

ここでは、修道士や修道女が瞑想し、おのれに打ち克つ力と、疲れをいやす場所として設けられている。

僧庵に向かっていると、修道女のみなさんが笑顔で、おしゃべりをしながら下りて来た。

なんと美しく鮮やかなホッペの色だろうか。 

みなさん神に仕える顔である。 

ただ、歩き方はみんな一様にガニ股で、ベタベタ歩きであるのが、ほほえましい。

 

われわれ俗人も、時として瀧に打たれたり、禅堂で坐禅を組んだりして、世俗を離れ英気を養うように、

修道する者の清き心を保つために聖フランシスコも僧庵を設けたのであろう。

わたしも、しばしの瞑想に入る。 

頭の中に宇宙の響きが満ち満ちていった。

 

 

帰りは、聖フランシスコフランチェスカ)と、見えざる神が一緒に見送ってくれていることに感謝した。

アシジ平原のあちこちから、今日一日を無事に終えて、夕餉の支度をしているのだろう、平和な煙が幾筋も

っていた。

谷筋のアシジの湧き水、聖フランシスコも飲んだであろう水を、手ですくって口にした。

腑臓に染みわたり、聖フランシスコの別れの言葉が聞こえてきた。

 

       あなたも聖フランシスコになれます

       捨てることです

       喜んで捨てることです

       神のために

       欲を捨てられますか

       他人のために死ねますか

       

 

<ヨーロッパ最後の晩餐>

アシジ・ユースホステルの食堂で、オーストラリアとフランスの大学生、米国オレゴンからのご夫婦

との5人で最後の晩餐を共にした。

大学生2人は、卒業旅行。 

ご夫婦は、奥さんがマスターコースを終えてのご褒美、ご主人は建築家で長期休暇をとって、

二人してイタリア文化を知るためローマでの語学コースを終えてから、ここアシジに長期滞在して

いるという。

 

ユースホステルでは、時として人生を有意義に過ごす人たちに出会うことがある。

ずいぶんと勇気をもらい、生き方を学ばせてもらった。

 

同室者は、イスラエルからの兄弟で、兄は2年間の徴兵のあとのイタリア旅行。

弟は10年間、集団農業共同体である<キブツ>に加入したあと、大学で博士課程に在学中とのこと。 

興味のあるキブツ出身と聞いて、その旧約聖書にも書き記されている精神的支柱について聞いたものである。 

基本的には、モーセの引率のもと、エジプトを脱出し、カナンの地への移住を果たす過程での自治組織を

基本とした、集団的農場形式による共産的平等配分主義を貫いているようである。 

ただ、ソビエット連邦時代のコルホーズ(農業生産協同組合―共同配分)や、ソフホーズ(国営農場―賃金労

働者)による思想的共産主義とは、自由と平等の観点からは異にしているという。

 

エンサイクロペディア(百科事典)で、もう少し詳細を見ておきたい。

 

   「キブツとは、イスラエルにおける農業共同体の一形態をいう。 キブツは、計画的な

    入植事業であり、徹底した自治組織と平等と共有の思想に基づいて、農場の管理

    および経営が行なわれる。 

    全財産の集団所有、徹底した共同生活、子供の共同育成、教育、厚生などの共同管理

    などを特色としている。

    1909年、東欧から移住してきたユダヤ人によって最初のキブツが誕生し、

    シオニズム運動とマルクス主義と青年運動との結合として展開された

    キブツ運動によって発展した」

    とある。

 

 明日は、ギリシャアテネ経由、中東イスラエル・テルアビブに飛ぶことになっており、その前に

イスラエルの徴兵制や、農業共同体<キブツ>について勉強させてもらったことを感謝した。

 

 

▼ 10/23 アシジ・ユースホステル 連泊

 

 

■ 10月24日 ローマより、アテネ経由 イスラエルに向かう  小雨のち曇

 

アシジを離れる3時間程、聖フランシスコ大聖堂のパイプオルガンに合わせた美しい聖歌隊の歌声に耳を

かたむけた。

ミサは、出席者一同がとなり人と握手を交わして始まった。

星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km>の中間点であるアシジでのミサで、

これまでの加護に対しての御礼と、完全踏破と無事踏破を願って祈りをささげた。

これから、旧約聖書の世界イスラエルパレスチナの地に向かうのである。

これまた、神の導きであることに感謝した。

 

 

                   聖フランシスコ大聖堂
                   2004年画

                                                Sketched by Sanehisa Goto

 

 

聖歌隊は、地元のミッションスクールの合唱団の様である。

先生に連れられ、聖フランシスコ大聖堂で、自分たちの日ごろの成果を発表しているのだろう、

その清純な歌声は、どこまでも澄み切って、心に沁みわたり、天に届いているようだ。

 

ここアシジのあるスパシオ山が、どこかお大師さんのおられる高野山に重なった。

 

アシジ・・・それはこころの故郷であった。

自分を捨てられた聖フランシスコがうらやましい、自分を捨てられない自分が歯がゆい。

トルストイの作品に、「光のあるうちに光のなかを歩け」という作品がある。

主人公が、俗の世界と神の世界との間で揺れ動くさまは、わたしそのもである。

つくづく生きる欲とは、おのれを盲目にするものである。

多くの礼拝者が、同じなのだろうか。

自分を捨てられない多くの人間が、救いを求め、悔い改めを繰り返しているのであろう。

 

次なる目的地、中東イスラエルに向かうため、大聖堂を後にして、ローマ国際空港に向かってアシジを

後にした。

 

<イタリアを立ちイスラエルに向かう>    

この《星の巡礼 イスラエル縦断の旅》は、ロシア・ウラジオストックよりシベリア横断鉄道で

モスクワに至り、北欧・西欧・東欧よりイタリア・ローマに入り、中東・アフリカを縦断して

南アフリカ喜望峰までの旅の途次にある。

ただ、<ヨーロッパ周遊11000㎞の旅>を書き始めた時に、ガザを武力統治するハマスによる

イスラエル奇襲作戦が行われ、対してイスラエルの虐殺に対する報復と人質奪還のガザ侵攻作戦が

開始されたのである。

一時、<ヨーロッパ周遊11000kmの旅>を後に回し、 <イスラエル縦断1000kmの旅>を先に

書き上げることにした。

シベリア横断の途中、全世界が9・11同時多発テロ事件の悲惨さに巻き込まれる中、ヨーロッパ各地

での幾多の厳重な検問を通過する過酷な旅となったが、ようやく中間点を越え、イスラエル

無事たどり着きそうである。

イタリアでは、第二の故郷であるアシジに滞在し、ゆっくりと長旅の体を休め、ローマにもどって、

バチカンに立寄ってローマの空港を後にした。

 

 

           オリンピック・エアーライン フライト#240 (機種:ボーイング737)

          レオナルドダビンチ国際空港(イタリア・ローマ)20:00発

              (経由地)アテネ空港(ギリシャ

        ベングリオン(テルアビブ・ロッド)空港(イスラエル)03:40着

 

 

 

                                     『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』 

                                     ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅱ

 

                                              《東ヨーロッパ & イタリア編》

 

                   


 

              ーーーーーーーーーーーーー

 

                                             引き続き、

        既載の<星の巡礼 イスラエル縦断の旅 1000㎞>Ⅰ・Ⅱ

               にお立ち寄りください

 

 

                                             イスラエル縦断の後、アフリカに入り

            最終目的地である南アフリカケープタウンに向かいます

 

                <現在 作業中>

    

 

             

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<関連ブログ>

 

 

 

       

 

 

 

 

       

2001『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半

         2001星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半

           <ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅰ>

 

             《フランス・スイス・ドイツ編》

                             

 

 

星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』の前半は、スカンジナビア半島を南下し、イギリスからアイルラ

ンドに渡る5500kmの旅で終えている。

後半は、アイルランドから、フェリー・アイルランド号でフランスに渡り、ノルマンディー北方にあるシェリ

ブール港に着岸、上陸したところから始まるヨーロッパ周遊5500km、ユーレイル・パスによる鉄道の旅であ

る。

今回は、<フランス高速鉄道TGV と ドイツ高速鉄道ーICE>での列車の旅を楽しみながら、モンブラン

山群の氷河を歩き、ドイツ・フランクフルト近くのライン川世界遺産・古城群を鑑賞、ロマンチック街道を

ローカルバスで南下、ミュンヘンよりベルリンへ北上、10年前まで実在していた東西冷戦の『ベルリンの壁

に立ち、ベルリン近郊のナチ強制収容所ザクセンハウゼ>を訪ねて『ホロコースト』の実情を目の当たりに

し、日本への無条件降伏を勧告した『ポツダム宣言』の街に立寄った。

 

ポーランドワルシャワ以降は、次の『ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半・ユーレイルパスで巡るヨーロ

ッパ列車の旅 Ⅱ《東ヨーロッパ & イタリア編》へとつづく。

  

     

                     フランス高速鉄道 TGV (2001年当時)              

 

     

                   ドイツ高速鉄道 ICE  (2001年当時)

 

    

             初期新幹線<こだま 0系16連> (2001年当時)

 

               『星の巡礼 ヨーロッパ 高速鉄道の旅 ルート図』

 

 

ヨーロッパの旅前半の締めくくりとして、フェリー<アイルランド号>で、日本の青年K君に出会い、船酔い

と言う洗礼を受けながら、ノルマンディー上陸作戦を敢行、いや近くのフランス/シェリブールにフェリーは

無事入港した。

 

大雨の中、フェリー・アイルランド号は、夜10時、ノルマンディー海岸のシェリブール/Cherburg港に接岸。

連合軍とドイツ軍の大激戦地であったルマンディーへ上陸、ナバロンの要塞を想像し、興奮も最高潮に達し

た。

 

フェリーで出会った青年バックパッカー2人とK君、4人で近くの列車駅<シェリブール>目指して歩きだし

た。 途中で、近くのユースホステルを知っているというカナダのバックパッカー・サンドラが加わり、

深夜でもあり、YHで一泊することになった。

 

    

    

                Irish Ferries / アイリッシュ・フェリー        

 

    

                      Irish Ferries 航路図

               <アイルランド/Rosslare ➡ フランス/Cherbourg>

 

 

  ▼10/8宿泊 < シェリブール・ユースホステル> (朝食付き 110F)

 

             

                                                       シェリブール・ユースホステル (フランス)

 

 

 

■ 10月9日 フランス高速鉄道TGVによる列車移動 (列車#6573) 

       <パリを経由スイス・ローザンヌに向かう>  小雨後晴れ

 

08:00 シェルブール/ Cherbourg発、 11:09 パリ着のフランス高速鉄道TGVに乗車。 

同行のK君(アイルランド・ゲルウエイにて語学留学後帰国途上)は、バイユー/BayeuxにあるInternational

Family Homeに数泊して、パリに向かうとのことで、途中下車する。

実に目的意識を持った好青年であった。

大学でドイツ哲学をまなび、非キリスト派のドイツ人哲学者バッハに関する研究をしているとのこと。 今回

は、フランス人家庭にも滞在し、フランス人の気質を知ったうえで、フランスを旅し、フランス革命以降の歴

史的文化に触れたいとの事であった。

フェリーでは「禅と哲学」、「神と実在」など哲学や人生論、宇宙観を論じ、教わったものである。

素朴で、誠実な、温厚な青年紳士であり、好感のもてる大学院生であった。

 

シェルブール/ Cherbourg発、パリ/Paris行の列車は、乗って見たかったTGV―フランス高速鉄道で、その雄

姿を写真に収めるためパリ駅のホームを駈けたものである。

1970-80年代当時、世界最速の鉄道であった。

フランス高速鉄道TGVの優れたところは、狭軌でも広軌でも走れるように設計された優れものであり、合理性

を尊重するフランス人好みの高速鉄道である。

在来線にも乗入れることが出来、高速鉄道路線では最高速度574.8km/h(2007/4/3)、運行速度は最高

320km/hで、通常は230km/hに抑えて運行されているようだ。

 

               

                                                  チェバニー城 (ノルマンディー近郊)フランス

                   TGV沿線#6573の車窓より

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

今回のヨーロッパ周遊では、何度も訪れているフランスは、鉄道路線の乗継にとどめているため、パリで乗り

継いで、リヨン経由スイスに向かう。

 

 

             

                                                       憧れのTGV#6573―フランス高速鉄道 (パリ駅)

 

 

次の目的地は、スイスのローザンヌである。

まず、パリから高速鉄道路線のTGVでリヨン経由、スイス・ジュネーバーに向かっている。

フランス高速鉄道は、パリ・リヨン間で最初に敷設され、当初の東海道新幹線にどこか似ている。

フランスの鉄道を代表する列車TGVは、ユーロスターよりも日本の新幹線に近いようだ。

ただし、車両の豪華さ、居住性、設備、デザイン・カラーは、断然新幹線よりGTVの方がいいと感じた。

 

リヨン駅を過ぎると、もうそこには地平線まで見渡せる大平原、それも整然と耕された畑が続くヨーロッパの穀倉地帯である。

なんと壮大な景色であろう、日本の山並みに囲まれた穀倉地帯とは全く違う豊かさを感じる。

 

ジュネーブ/Geneve’まであと45分の所から、憧れのフランス・アルプスが見えだした。

スカンジナビア半島のノルウエ―以来のトンネルを通り抜けている。

寒さも加わりだした。 新潟空港より日本を出てから、いまだ一度も暑さによる汗をかいていないことに、

ふと気が付いた。

フランス国鉄高速鉄道TGV#4342の車窓からの、見渡す限りの葡萄畑が整然と列をなし、うねる様は

海のようで、一枚の絵画を見ているようである。

この列車はパリ発であるが、リオン駅/Lyon Part Dieu到着後、電気系統の故障で定刻より25分遅れでリオン

を出発した。

リオンからは、ラッシュアワーも重なり、故障による遅延のため各駅停車で運行するとのアナウンスがあった。

列車の旅では、必ずあるトラブルによる遅延、慣れていたつもりでいたが、世界でも屈指の超高速列車も、

故障にはかなわないのである。

TGVの各駅停車の普通列車に乗ったと思えば、これまた素晴らしい経験として、想い出として残せることを、かえって喜んだものである。

乗客も、各駅停車に急遽変更になった高速列車を楽しんでいるようである。

旅では、色々なハプニングが起こるからまた愉快であり、楽しいのである。 隣のフランスのおばさんが、

少し英語が出来るらしく、車掌のフランス語のアナウンスを英語で教えてくれたので助かったものだ。

旅も人生と同じPatient<忍耐>が必要である。

車掌が、遅延のお詫びでも言っているのであろう、それを聞いて乗客がどっと笑うのである。

どうもジョークを言って、乗客を和ませているようである。

怒る人もおらず、ただただ爆笑である。 こちらは、おばさんのたどたどしい通訳で、時間をかけ理解しての

笑いとなるのでどうもその場の雰囲気について行けずにただただ苦笑である。

素敵な車掌は、<人生にはジョークが必要>なんだ、と教えてくれたのである。

「遅れてごめんなさい。 彼女とのデートに遅れてしまい申し訳ありません。」

「ご家族と一緒にお食事が出来ずに、奥さんは怒っているでしょうね。」

・・・終着駅ジュネーブまで笑わせていたのだから、プロの心髄に触れたようで、かえって感心し、気が晴れ

たものだ。

 

最初フランスおばさんだと思っていたのは誤りで、後で分かったのだが、彼女はアイルランドの田舎から出て

きているそうで、スイスに一人単身赴任している夫に会いに行くと言うことである。

たどたどしい英語は、なまりがあるためで、生粋のイングリシュ・スピカーであることが分かった。

そのアイリッシュ出身のロザンナおばさんが、こちらがアイルランド経由の旅行者だと知って大喜び。

スケッチしたタラの丘やクリフ・モホを見せるとこれまた大喜び、夫が駅に迎えに来てくれているから、

ローザンヌまで送らせてくれと言う。

少しおっちょこちょいなので、丁重にお断りさせていただく。

 

のろのろ走る高速列車は、ようやくジュネーブに19:00着、1時間44分遅れで無事到着した。

通常の倍の時間がかかったことになるが、記憶に残る、心温まる鉄道旅になった気分にさせられた。

列車の旅はいいものだ。

そこには人生の縮図が見られるからである。

 

<ユーレイル・パス考>

ユーレイル・パスは、基本的に1等車使用パスであり、もちろん2等車も使用できる。

バックパッカーにとっては、すまし顔で埋まる1等車や、路線によっては車両にただ一人で占める1等車より

も、情報を集めたり、人生話に花を咲かしたり、おやつを分け合ったりできる2等車の方が愉快であり、貴重

である。

とくに、2等車での乗客とのコミュニケーションは、降車駅、乗換や、故障時、事故時、強盗遭遇時など、

周囲の乗客に助けられることが多いからである。

ただ列車の便によっては1等車には豪華な食事が付く事もあり、バックパッカーにとってはこの上ない絶品に

ありつける特典も見逃せないのだが、臨機応変に対応することにしている。

 

   

             

                                                                  ローザンヌ駅に到着 (スイス)

 

     ▼ 10/9 宿泊  <ローザンヌ・ジュノテル・ユースホステル>  (スイス)

              Chemin du Bois de Vaux 36 1007 Lausane

 

   

            

                  レマン湖畔の近くにあるYH

              <ローザンヌ・ジュノテル・ユースホステル

 

 

 

■ 10月10~11日 スイス<モンブラン氷河歩き>  曇

 

 

             

                                                ローザンヌで氷河歩きの装備を整える (スイス)

                                                     オリンピック本部前で

 

もうすぐモンブランである。

随分昔だが14年程前、子供たちが、米国ニュージャージにあるハーリントンパーク中学を卒業したのを記念

してヨーロッパ一周バス旅行で家族全員で立寄った思い出の場所である。

この2001年当時、すでに子供たちの母は亡き人であり、子供たちはそれぞれ大学生となり勉学に励んで

いた。

今一人、思い出のアルプスに登り、香を焚き、彼女が好きであった生きる力を歌い上げたビートルズ

プレスリーの曲や、死を見つめて歌い続けた美空ひばりの曲を流すつもりである。

 

 

      

                                              レマン湖よりスイス・アルプスの風景

 

 

レマン湖は穏やかである。

靄に霞む対岸のフランスの村が、レマン湖に吸い込まれそうで・・・幻想的である。

空も、山も、わたしも、湖も一体となり、永遠の光の中に吸い込まれて行きそうである。

ベールに包まれた神秘的なレマン湖で瞑想を楽しんだ。

 

09:15 雲が切れ、スイス側のモンブランが姿を現わした。

この大平原のヨーロッパの、どこからこのような素敵な山々が創られたのだろうか。

ヒマラヤやアンナプルナはあるべきしてある厳しい山々だが、アルプスはそこに山を置いたような山々である

にもかかわらず、ヒマラヤなどに劣らない神々しさを見せつけている。

 

       

                                                          登山電車の車窓から見るモンブラン

 

そう、ここアルプスでも山の神をみた。

スイスのMartigueよりシャモニーに向かう登山電車が急勾配をグングン上っていく。

山は霞がかかり、雪も見えてきた。

林にみえるヒュッテは、別荘だろうか。

 

         

                                                           シャモニー駅ホームで(フランス)

 

10月中旬と言えば、シーズンオフなのだろう、登山電車も2両編成で、こちらのほかに3組の老夫婦だけで

ある。 

シャモニーからモンタンベール/Montenvers登山電車で氷河を目指す。(往復13£・毎時1本)

氷河には、さらにロープウエーに乗り換えていくことになる

この氷河からモンブランが綺麗に見えるからである。 また氷河やクレバス歩きをするつもりである。

この登山電車は、ユーレイル・パスが使えず、切符はスイス・フランで支払った。

当初、ここシャモニーはフランスであると思っていなかったので、スイス・フランで支払ったところ、

釣銭がフランス・フランで帰って来て、はじめてシャモニーはフランス側にあると知ったのである。

 

(2024年、これまでに数度、アルプスを訪れているが、いつもシャモニーモンブランと言えば、

フランス側にあるのが不思議に思えてしまうのである。 それだけシャモニーはスイスに近いのである。)

 

      

                                                ローザンヌよりシャモニー行電車 <Train #1915>

                                     Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<フランス・シャモニーでのトイレ考>

便器や、遮蔽物がない。 ただ、壁と床があるだけの空間、どうして用を足すのであろう。

何かの間違いかと、空間から出たり入ったり、入口にはトイレマークが付いているから間違いではないのだ

が・・・。 はて、昔の小学校にあった飼い葉おけ型溝もない。 

一生懸命考えてもわからず、せめて手を洗おうとすると、かべに穴が開いていいて、水が流れ出ていることに

気づいた。 そう、壁と床との角に排水口が開いていることに気づいたのである。

これだと、壁に向かって用を足せばいいことになる。

フランス人の考えの奇抜さに驚かされたものだ。

 

 

             

                                                      モンタベール行<Montenvers>登山電車

 

 

             

                                                   切り立った<ダン・デユ・ジェアン>4013m

                                                               終点<モンタベール>展望台より

 

       

                                      氷河ツアー<メール・ドウ・グラス>とモンブラン山群マップ

                              氷河へは登山電車で<モンタンベール>に向かい、ロープウエーに乗換る

                  (シャモニー谷・フランス)

 

    

                                                         グラン・ジョラス/Les Genacs Jorass  4208m

                                                 Lev Mel de Glace<メール・ドウ・グラス>氷河を歩く

                                                 ドイツへ向かう列車GTV2000で仕上げる

                                                                        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<氷河を歩く>

エキュー・デ・グラモンテにある登山電車の終点駅<Buffet de la Gare>に着いた。

氷河へは、ここからまだロープウエーに乗換えて向かう。

モンブランの<メール・ドウ・グラス>氷河ツアー<アルプス雪渓トレッキング>に参加する。

さっそくメール・ド・グラース/Mer de glace Montenvers氷河を目指す。

鉄梯子でオーバハングに近い垂直な崖を下っていく。

一歩一歩が、不気味に口を開ける氷河に走るクレパスに身震いを感じる。

瓦礫を被ったような、薄汚れた氷河に下り立つ。

クレパスが大きな口を開け不気味である。

用意してきたピッケル、アイゼン、手袋、サングラス、ヘルメット変わりの頭を落石から守るための帽子を

付ける。

氷河の下に隠されたクレパスクレパスを覆い隠す雪庇が一番危険であることは冬山登山、とくに雪庇を

造る崖っぷち歩きの危険から学んできた。 慎重に一歩づつの前進となる。

いつも氷河で行う儀式を行った。

氷河のかけらを口に含んでみるのだ。 

宇宙が口に飛び込んできたみたいな、体がふわっと浮く感触を味わう儀式である。

 

                  

                                                                     メール・ドウ・グラース氷河               

 

                                                                 

                                                                           氷河へ下る垂直梯子

                

                                                     メール・ドウ・グラース氷河ツアーに参加 

              

<氷河トレッキング上の注意>

氷河トレッキング・ツアーには、上級・中級・初心者コースがある。

個人的にニュージランドや、パタゴニア、アラスカの氷河で散策歩きはしたものの、技術的には全く修得して

いないものだから、安全と時間的制約により<初心者コース>に参加した。

もちろん、初心者と言えどもクレパスが口を開けている氷河、一応目を通しておくように注意書きが

配られた。

ただ、初心者コースは、ロープに結ばれず、認められたエリアでの行動は自由であった。 それだけ危険度が

低いエリアが指定されているようだ。

上中級コースでは、次のような<氷河歩きテクニック>が書かれていたので記しておきたい。

 

 

                                                   荒々しい<メール・ド・グラース氷河>の表情 

 

1 氷河では原則としてロープで結び合うこと

2 横に並んで歩いてはいけない

3 破損を防ぐため、ロープを緩めての引きずり厳禁

4 たえずロープの傷み具合をチエックすること

5 各人のロープ間隔は約3.5mとすること

6 何よりも経験を重ね、ロープさばきを身に着けること

7 雪をかぶった(クレパスが隠れた)氷河には近づくな

8 クレバスと直角に進行すること(横並びで進むな)

             

 

                                     

                       メール・ド・グラース氷河の危険なクレバス

                        

 

                                                             ダン・デユ・ジェアン4013mを背に

                          モンタンベール展望台より

 

 

氷河ツアーを終え、ジュネーブに立寄り、市電<トラム>に乗ってみた。

突然3名の検札係が乗込み、各ドアーを固めると共に、そのうちの一人が順番に検札を始めた。

日本では何度か経験したことがあるが、市電で、白昼に、混んでもいないのに、何故であろうかと考え込んで

しまった。

世界を回っていて、南米か東南アジアでもない最先進国スイスで検札制度があること自体、市民を信用して

いないような気がしてならなかった。

スイスと言うすべてが素晴らしい国と言うイメージに当てはまらない情景に出くわしていささか面食らった

のである。

市電の窓からは、コンクリートでカモフラージュされ、遮蔽物に隠されたジェット戦闘機がこちらをにらんで

いた。

検札は、中立国としての平時における危機対策<治安維持>の一つではないかとふと考えたものである。

 

<トラムでの話>

おなじ市電<トラム>での出来事であるが、検札のことを考えているところに、婦人車掌がやってきて、

ジュネーブ駅に着いたから降りろと言う。

そういえば、検札も終わり、乗客がみな降りてしまっていた。

見渡したら、田畑の真中に市電は止まり、車庫行きを始めたから驚きである。

ジュネーブ駅は、街の中にあり、人で混雑しているべきであると・・・考えるのがノーマルである。

車内でのアナウンスもなく、なんと不親切な対応であろうかと、またまた脳裏に残っている先進観光国

スイスのイメージが急に崩れていった。

それも、フランス系婦人車掌らしく、英語で話そうとせず、フランス語でまくしたて、ただただ野良犬を

追い出すように手で追い払う仕草には、いかに汗臭く、薄汚いバックパッカーでも腹を立てたくなったのを

抑えたのである。

ふと昔、カナダ旅行をしていた時、モントリオールでのフランス語一辺倒の接し方に違和感を持った

ことを思い出していた。 

フランス人の傲慢さと言うか、異文化や言語を解しようとしない偏執的なプライドに、いささか辟易する

ことがあることは確かである。 

それも、英語が話せてもフランス語しか話さないというイングリッシュ・コンプレックスが垣間見えて、

憐れに思える事さえあった。

あとで分かったことだが、ジュネーブの市電には、市内と、フランス国鉄が管理する郊外の2つの駅がある

らしい。

 

トラムを下りて、うろうろして困っていると、親切なご婦人に声を掛けられ、ローザンヌユースホステル

戻るところで、降ろされ困っていることを告げると・・・

券売機で切符を買ってくれ、16番のトラムに乗って、停留場<Cornavin>で降りたところだという。

切符代も、受取ってもらえず、ただ笑顔で<Good luck!>といって見送ってくれたご婦人はちゃんと英語で

対応してくれたスイスのご婦人であったことになぜか胸をなでおろしていた。

 

なんとか、一応迷わずローザンヌユースホステルにたどり着くことが出来た。

 

                 ▼  10/10~11連泊 <ローザンヌ・ジュノテル・ユースホステル> 

    

                   

                              <ローザンヌ・ジュノテル・ユースホステル

 

 

 

■ 10月12日 フランス高速鉄道 TGV2000 にて 列車移動 

         <スイス/ローザンヌ➡ドイツ/フランクフルト>

 

05:50 起床

久しぶりに腹筋をする。 日本出発時の太鼓腹が細くなり、バンドが腹に食い込むほどである。

今日は、スイス・ローザンヌを出発し、いよいよドイツ入りをする。

フランス高速鉄道 GTV2000 の2階にある一等に陣取り、ローザンヌより、チューリッヒ経由、車窓から

<ドイツの黒い森>楽しみつつ、フランクフルトに向かうのである。

 

    

         フランクフルト行・フランス高速鉄道TGV2000にてスケッチの仕上げ

      

          

                  仕上げたモンブラン西群の峰々

 

チューリッヒの駅で朝食をとる。

久しぶりにご飯を食べたくなったので、カラス貝とイカ天が沢山入ったパイラにたっぷりとレモン汁をかけて

いただく。 (18.50スイス・フラン)

 

スイスでは、大小・男女によりトイレ代(2.5Sf)が異なることに驚かされた。 

日本ではトイレ代を要求されることはないが、旅先では、その国の小銭を持ち合わせず、大変な目に

あわされることが度々あった。

 

同国人同士のコミュニケーションの上手なのは、カナダ人とドイツ人である。 

彼らは、旅の情報はもちろん、困難克服・危機直面・突破にあたって、一致協力する傾向が強い。

旅、それも一人旅を原則とするバックパッカーにとっては、いち早い情報ほど、生命の危機・リスクを避ける

ことができることを知っている。

初対面の日本人同士は、カナダ人やドイツ人のようにはスムーズなコミュニケーション(情報交換)は難しい

と云える。 まず、相手が日本人か、中国人か、韓国人か、それともアジア人かの判断がなかなかむつかしい

のである。 お互い英語での接触から始まり、相手の国籍の判別から始めることになり、案外時間がかかるも

のだ。

胸やリュックに各国の国旗や、日の丸が付いていれば、分かりやすくコミュニケーションもスムーズに運ぶの

だが、日本人にとってはリスクが高いと云える。

2001年当時、すでにバブルは弾けていたが、犯罪者や誘拐犯にとってはまだまだ日本人は<ねぎを背負った

カモ>(歩く身代金)と見ていたのである。

 

13:00 スイスとドイツの国境の街<バーゼル/Basel>に到着。

車内アナウンスは、ドイツ入国にあたり入国・税関申告が行われる旨、告げている。

車掌の計らいで2階にある家族用コンパートメントを割り当てられ、まるで豪華なカラオケ空間を楽しみ、

 ドイツの民謡やクラシックを聴きながら、描きためていたスケッチに彩色を施していた。

疲れると赤ワインを注文、YHの朝食で出されたガーリック・バターパンのかけらをかじりながら、ベルリン

フィルハーモニー交響曲を鑑賞するというユーレイレ・パス最大の特徴を楽しませてもらった。

 

列車でのアナウンスを聞いていても、アルプス圏にいる間は、フランス語・ドイツ語・英語の三か国語で案内

される。 それもフランス語はウグイス嬢が、ドイツ語は声太の小父さまが、英語は精悍な青年の声が響き

アナウンスを聞いているだけでも楽しい時間を過ごせるのである。

 

                  

       ドイツ高速鉄道ICE 列車番号72 (スイス・バーゼル/Basel駅にて出発を待つ)

 

列車番号ICE-72の電車は、 バーゼルを13:13に出て、16:06にフランクフルト/ Frankfurtに

到着した。 

今夜宿泊予定のフランクフルト・ユースホステルは人気があり、すぐに満室になるという情報なので、

すぐにYHに向かった。

情報通り満室との事、キャンセル待ちであったが、案外早くにキャンセルがあり、ドミトリーに通される。

さすがにまだ早い時間帯、簡単な手洗い洗濯を終え、久しぶりの浣腸による大腸の整理を行い、ビタミン・

カルシュームを補充し、誰もいない6人部屋のベットに大の字になって早めの午睡をむさぼった。

ここフランクフルト空港はヨーロッパのハブ空港であり、ヨーロッパのどこの国に行くにしても必ず着陸する

ところである。 今までに何度もヨーロッパを訪れ、フランクフルトに立寄りながら一度も街中を歩いたことがないのである。

午睡から覚め、さっそくフランクフルトの街へ散策に出かけた。

 

   ▼ 10/12 宿泊 <フランクフルト・ユースホステル>(ユーゲントヘアベルゲ)

         

      

          <フランクフルト・ユースホステル> (右緑の看板)

 

 

<スケジュール・チェック表>

  旅行中、バックパッカーとして、必ず「スケジュール・チェック」を行動前日の夜に実施している。

 

  • コースの確認(地図に赤線を入れる)
  • 時間確認<列車・バス・飛行機の発着>
  • 行先・乗降・乗継地点の確認
  • パスポート・チケット・予約票などの確認
  • 次の国の通貨単位・予算額・両替の確認と準備
  • 乗車地点へのルート・交通機関(バス/電車/タクシー/徒歩)・運賃・所要時間の確認

 

 

バックパッカー緊急処理方法―トイレ考>

世界を旅していると、トイレが完備しているところは至って少ない。 かえって、砂漠地帯や、未開の地、

観光どころではない地域が多く存在する。

また、同じ旅行でも冒険的要素が加わるバックバックの旅は、文明的観光地よりも、未開の文明を求めて観光

未開発の地を巡り、土着の生活に密着したり、さらに未開の奥地に歩を進めることが多い。 

その場合の生理上の排尿等の処理は、その場の自然条件に合わせて処理することになるが、長距離バスでの

処理程スリルに富むことはない。

周囲に気づかれずにいかに処理するかに全神経を使わなくなるからである。

もちろん、定期的に休憩をとってくれる路線や運転手であればいいが、ほとんどは運転手の生理に合わせるこ

とになるから大変なのである。

運転手に告げて処理するのが普通だが、地方での満員、それも通路にも寝ころばれたり、立たれているとどう

してもバスを止めてまでの勇気はうせるのである。 

時には、荷物それもニワトリなどを積み込まれていると、一度席に着くと身動きできない場合もある。 

また深夜満員バスで(未開の地ではほとんど長距離夜行バスは超満員が普通)停車させてまで処理する勇気が

わかないのである。 一晩中苦悶しながら次の街まで我慢せざるを得に事が多い。

そこで、長距離夜行バスでの緊急処理法として、山登りで使用するチャック付きナイロン袋や、ラバー付

ボトル(一種のし尿瓶・折り畳み式)を使用する方法をとっている。 

ご婦人の利用については、いまだその効果について聞いていないので、またの機会にその効果について確認し

ておきたい。 

使い方は、男性にとっては至って簡単である。 袋や瓶に流し込めばいいだけである。

チャック付き、蓋つきだたら匂い漏れもなく快適に処理できる。 座席に坐ったままで処理できるから、

旅に出かける前に使い方をマスターしておく必要がある。 

処分は、次なる停車でトイレに流すか、天然の肥料として大地に還すか、いずれかの処分方法になる。

長距離バスの場合、ドライバーの都合で、炎天下や、夜空の星を見ながらの野外処理をすることがあるが、

イスラムの国々では着用のワンピースが即簡易トイレに変わる便利さがある。 

裾の中に坐ると、その行為を見られずに済ませることができる優れものに変わるのである。

こちらは、時としてポンチョをかぶり、坐って用を足したことがあるが、できれば巻きスカートを持参すれば

よいと思う。 

 

<列車の席の選び方>

ユーレイル・パスによる快適な列車の旅をするにあたって、席の確保が大切である。

幹線を走る列車は、ほとんど満席で満足できる席を確保することは難しいので、予約をとる事にしている。

予約をとっておいて、より良い席が空いている場合は、席を変えることもしばしばである。 

特にコンパートメントの車窓は、一般車両の窓にくらべ約3倍もあり、風景を楽しむのに最適である。 

なお、混んでおらず一人でコンパートメントを独占できれば、即貴賓席に変身するのである。

ただ、コンパートメントが満室(6人)の場合は、貴賓席が一転して難民空間、足の置き場がない程の窮屈さ

を感じるようになる。 

この点も考慮して席選びを行うことが大切である。

 

 

 

■ 10月13日 ドイツ・ライン川下り      霧、紅葉が美しい

   昨日、今日とドイツの<黒い森>地帯を走り抜けている。

   濃い緑の樹々が大地を覆い、家を隠し、古城が顔を出すさまは、重厚さを感じさせる。

 

06:00 フランクフルト・ユースホステルにて起床。

07:45 ケルン/Ko”ln行の列車に乗り、Koblenzのクエリー<ライン川遊覧船>乗場に向かうが、

11:00 出航の観光船はキャンセルされ、次便14:00発まで待たされることとなった。

なぜ、キャンセルするのかの一切のアナウンスがない。

同じくライン川のクルーズを楽しみにしていたというフランスからの若き夫婦(奥さんが日本の方)と

知り合い、3時間程おしゃべりに興ずる。

待合室のテレビでは、アメリカがアフガニスタンにいるタリバンに対して、同時多発テロの報復爆撃している

映像が流されている。

ただ、無差別にシビリアンを攻撃しているアメリカへの悪印象をドイツ人に与えているように映る。

霧モヤのかかる神秘的なライン川は、お昼ごろからすっかり晴れ、素晴らしいライン川の景色を見せてくれ、

絵筆の時間を楽しんだ。

 

  

    

           ライン川下り遊覧船<ベルリン号>の前で(Koblenzにて)

 

ライン川の紅葉の散る様を眺めていると、ふと<葉っぱのフレディー>の散り舞う姿が脳裏に浮かんだ。 

一枚の葉が、音もなくスーッと舞い、満足しきった表情で、土の上にふわっと着地する様子に、おのれも

あのようにありたいと望んでいる。 

そのためには、すべての欲を捨て、裸の自分になる必要がありそうだ。

でも無理ではないよ、との声が聞こえたような気がして、うれしさが込み上げてきた。

旅に出ると、純粋な自分を見つめ、生を見つめ、死を考えることが多くなるような気がする。 

旅は人生を考える歩き禅<経行>(キンヒン)であると云えるかもしれない。 

ふと愛唱の短歌がよぎった。

 

《岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水は流れる》 不知詠人

 

               

                   ライン川クルーズの風景

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 ライン川・リバークルーズ>

ライン川は、スイスのボーデン湖を発してフランス・ドイツ・オランダを経て、北海にいたる全長

1233kmの大河である。 

 

     ■世界遺産ライン川クルーズ>航路案内図  <KD社ラインクルーズ船>

           <コブレンツ/Koblentz14:00発 ➡ 20:00着 ビンゲン/Bingen> 

            65km・ 6時間リバークルーズ

 

ライン川全長1233㎞の内、ドイツ国内を流れる<コブレンツKoblenz ~  ビンゲンBingenの間、65km>が、

ライン渓谷中流上部」として世界遺産に登録されてる。

今回は、ライン川を遡上するゴブレンツ出航のビンゲン着のクルーズ船<ベルリン号>に世話になった。

 

    

             世界遺産ライン川古城を巡るクルーズ>ルート図

             (写真・スケジュール・ルート図一部  KD社提供)

 

 

いよいよライン川リバークルーズの始まりだ。

ライン川もすっかり靄も晴れ、クルーズ日和である。

 

 

      

                 ゴブレンツのクルーズ乗場で

 

    ライン川遊覧船  ゴブレンツ出航 14:00発

      

          

   

   ② シュトルツエン・フェルス城 (進行方向の右手)

          

          

   

   ➂ マルクスブルグ城 (進行方向の左手)

 

          

 

   ④ シェーンブルク城 (進行方向の左手)

 

          

 

   ⑤ シュタールエック城 (ユースホステル) (進行方向の左手)

 

          


   ⑥ ゾーンエッグ城 (進行方向の左手)をバックに

 

 

 

                   ゾーンエッグ城を背に

 

   ⑦ ローレライの伝説

     ライン川の途中にある水面から130mほど突き出た岩山が、ローレライ伝説で有名である。 

     昔、ライン川を航行していた船員たちがこのローレライの岩の近くを通りかかると岩の上から

     歌声が聴こえてきて、そのあまりの美しさに舵を取るのも忘れてしまい水没してしまう、という

     伝説である。

     ドイツの詩人・ハイネはこの伝説をとてもロマンチックな詩に作り上げ、作曲家ジルヒャーが

     曲をつけて歌い継がれてきた。

    中学時代、音楽の時間に歌唱指導されたことをかすかに覚えていた。

 

          

 

               ローレライ近藤

 

                なじかは知らねど心わびて

                 昔の伝説(つたえ)はいとど身に沁む

                   わびしく暮れゆくラインの流れ

                    入り日に山々あかく映ゆる  

 

                 うるわし乙女の巌(いわ)に立ちて  

                    黄金の櫛とり髪の乱れを

                  梳(と)きつつ口ずさむ歌の声の

                 あやしきちからに魂(たま)も迷う

 

                    漕ぎゆく舟人歌にあこがれ

                   岩根も見やらで仰げばやがて

                     浪間に沈む人も舟も

                  くすしき禍歌(まがうた) うたう

 

                       ローレライ   

   

    ⑧ プファルツ城 (進行方向の左手、中州にあり)

 

          


 
   ⑨ フュルステンベルク城 (進行方向の右手)

    

          


 
   ⑩ ライヒェンシュタイン城 (進行方向の右手)

 

          


   
⑪ ラインシュタイン城 (進行方向の右手)

 

          

                             

   ⑫ ビンゲン乗場到着   20:00着

 

          

 

 

         

      

             世界遺産ライン川古城エリア>クルーズ案内図

 

 

 

               

               世界遺産ライン川流域の古城群>のスケッチ

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                         ▼10/13  連泊 <フランクフルト・ユースホステル>(ユーゲントヘアベルゲ)

 

 

 

 

■ 10月14日 <ロマンチック街道観賞―ローカル・バス移動>

  (ロマンチック街道 = ヴュルツブルグ➡アウグススブルグ➡フュッセン 400km)

 

ロマンティック街道は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの約400kmの街道ルートである。

   

            

                  <ロマンチック街道>標識

                     日本語標識にびっくり

 

 

<ドイツ人気質―時間厳守>

アウグススブルグ行長距離バスは、定刻7分遅れでルクセンブルグを出発した。

乗客は、バックパッカーアメリカ2、韓国6,現地2,日本1の軽11名である。

運賃は、ユーレイル・パス提示により半額の42DM(ドイツマルク)になる。

日本人観光客が多いのか、レシーバーによる日本語案内もある。

説明によると、ロマンチック街道の入口ヴュルツブルグは、学生20000人を擁する大学都市であり、

私が居住する大津市姉妹都市を結んでいるとのこと。

ヴュルツブルグで15分の休憩の後、出発時間になったが、韓国からの女子学生3人が戻らない。ドイツではど

のように対処するかと見守っていると、運転手は時間厳守のため、バスをスタートさせるという。

このバスは、路線バスなので定刻発車だから、乗客も文句も言えずにいると、バスに向かって走ってくる3人

を認め一件落着、ちょっぴりドイツ人気質を見た思いである。

 

<伝統継承>

ヨーロッパの人々は、伝統の中に生き、それをいかに継承していくか、という歴史とIDを守る使命感をわきま

えているように見受けられる。

先代からのよき遺産を守り、引継ぐという歴史観を後世に伝えているようである。

その方法として、祭りがあり、民族舞踊があり、野外演奏があり、人間との調和を大切にしながら伝統を守る

姿勢が見てとれる。

ここ、ロマンチック街道を飾る並木一本一本にも、その伝統への愛情、人生を味わう姿勢が見てとれるような

気がするのである。

 ロマンチック街道、いやロマン主義街道は、亡きパートナーの最後の旅行先であり、同じ街道を走ることへ

の感慨深いものが込み上げてきた。

街道を包むモヤや霧も、ロマン主義街道を演出する助っ人である。

ロマンチック街道という緑のトンネルを走っていると、過去いや、中世に戻ったかのような感覚と魅力に満た

されるから不思議である。

 

 目の前の葡萄畑からつくられた赤ワインを、バス休憩の間に野外レストランで飲んでみた。 なんとドイツパ

ンにはさんだ大きなソーセージと赤ワインの取り合わせに、その旨さに驚きの声を上げたものである。

ビールとソーセージの相性は知っていたが、赤ワインは意外であった。

まるで中世ドイツの貴公子でもなったような記憶に残る一品であった。

 

ランチは、ローテンブル/Rhothem Burgの街中にある広場で人気メニューである<フリュー アム ドム>を味

わう。 ドイツに来たからにはそれぞれの地域のソーセージに、地元のポテト、ドイツビールと決めていたの

で、迷うことなく喰いついた。

 

   

            

                  <フリュー アム ドム>        

 

                ロマンチック街道の街<ローテンブル>で

 

         ロマンチック街道・ローテンブルグ城ブルグ門で、ドイツビアーで乾杯

 

             

                ローテンブルグ城ブルグ門より市街を望む

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

ソーセージを口にしながら、ブルグ門での描きかけのスケッチに色を付けていると、日本からのご婦人二人が

通りかけに「個展をされるときは是非読んでください」との声かけ、それから「これくらいは描けるわね」

と。 みなさん他人の絵を見て、自分の腕前と比較して、納得するものらしい。

人生も同じで、自分より幸せな奴は憎く、嫉妬するが、自分より不幸で貧しかったら、内心ほっとし、満足す

るのとよく似ているようだ。

第二次大戦までのドイツの歴史を少しは知る者として、この平和は何時まで続くのであろうかと考えてしまっ

た。

 

今夜は、ロマンチック街道でも一番ロマンチックと言われるアウグスブルグ/Augsburgのユースホステルに泊る

 

 

 

               ロマンチック街道中心都市アウグスブルグ

 

       ▼ 10/13 宿泊 <アウグスブルグユースホステル

 

         

             アウグスブルグユースホステル

 

 

紀元前15世紀頃から街づくりが始まったという古い歴史があるアウグスブルグの夜は、教会の鐘の音と

共に深けていく。

6人部屋のドミトリーにただ一人、他人の鼾を気にすることなく久しぶりに安眠できそうである。

貸切のドミトリーでは、他の人に迷惑にならないので、たまった洗濯物を手洗いし、部屋干しにすることに

ている。

夕食は、ホステルの近くを探したが中華料理店が見つからず、マクドナルドでチキンバーグにフライド

ポテト、コーク(8.90DM)で済ませるが、飢えたバックパッカーの腹を満たすものではなかった。

 

明日はいよいよ、ミュンヘンからベルリンに入る。

 

  

 

 

■ 10月14日 アウグスブルグ散策 

         & 列車移動 ドイツ高速鉄道 ICE<アウグスブルグミュンヘン ➡ ベルリン>

 

アウグスブルグユースホステルの豪華な朝食を、壁にかかった十字架上のイエス・キリストが見守るなか<

ストロベリーヨーグルト・オレンジジュース・ハム&エッグ・パン・チーズ・バター・エスプレッソ>をいた

だく。

食堂は、広々とした庭園を眺められ、スイトルームのように広く、また窓からは中世風の街が飛び込んでく

る。 とくに、石畳みの街路には、人の温もりを感じたものである。

タイムスリップし、15世紀のアウグスブルグの空気を吸い込んでいた。

 

日曜のアウグスブルグは、静かだ。

4階建ての長屋の屋根裏部屋に出窓がある。 

多くのユダヤ人ゲットの平和な街並み風景であり、であった。

このような屋根裏部屋の天井裏の空間<アティック>で、ユダヤ人少女「アンネ」は、ナチスユダヤ人刈り

を逃れ、毎日<夢と恐怖>の「アンネの日記」を書き綴った。

ユダヤ人は、ユダヤ人であったが故に、ナチスのSSの1945年の秘密会議で、ユダヤ人絶滅の方針が採択さ

れ、実行に移されたのである。

多くのユダヤ人が生きることへの執念のもと、同胞の死を乗越えナチスより逃れようと懸命であったことは想

像に難くない。

 

なぜなら、第二次大戦後、日本敗戦に伴う植民地・朝鮮半島からの脱出に間に合わずに残留し、巻き込まれた

朝鮮戦争を韓国首都ソウルで遭遇していたからである。 

北朝鮮共産軍の侵攻による市街戦を経験し、地下の防空壕のような狭い空間に身を隠した記憶がある。

共産軍による人民裁判の名のもと、共産主義に転向しない自由主義者・米国傀儡政府関係者・医師・教師・

科学者・宗教者と言ったインテリゲンチャ―や地主などを無差別に殺戮したのを見ていただけに、

なお切実にナチスより迫害されたユダヤ人の気持ちが少しは理解できるのである。

戦争や、迫害において弱者ほど悲惨で、抑圧されるものはないからである。

戦争や迫害は、外交や対話無くして、いかなる理由であろうと起こすべきでない。

 

08:00  大聖堂<ドーム>での早朝礼拝に出席し、旅の安全と導きに感謝した。

 

今日は聖日、街中の沢山の教会の大小の鐘の音が、こころの扉を叩き、静寂の中に神の国を見ているようだ。

ドイツは、神を信じ、教会に集う多くの信者で成り立つ、敬虔なカトリック教国である。

その神を信じる国で、わずか60年前、ドイツ・ナチスは、ユダヤ人の大量虐殺<ホロコースト・ジェノサイド>をやってのけた。

キリストの愛の前に痛みを感じた多くのドイツ人がいたことであろう。

国を誤った方向に導くことが、滅亡の原因であることを知りつつも、多くの求道者は悩みながら、時の権力者

の方針に目を閉じたのである。

その悲痛な叫びは、長距離サイクリングで駈けた五島列島での隠れキリシタンの叫びと重なった。

 

ユダヤ人と言うだけで、裁判にも掛けられずに、集団で虐殺されている。

現在ドイツは、国一丸となって、深い反省と償いをもって、世界への復帰を真剣に、態度で示している。

 

平和の中にあるアウグスブルグの朝、犬と散歩する男性に声を掛けられた。

<Woher kommen Sie?  Hatten Sie einen erholsamen Aufenthalt in Augsburg?>との問いに、

<日本からです。 アウグスブルグの朝の散歩で、この国の持つ歴史的な叫びを聴いたような気がします>

と・・・応えてた。

 

                   <列車移動> ドイツ高速鉄道 ICE(アウグスブルグミュンヘン➡ベルリン)

 

                      列車番号  ICE#1603 アウスブルグ 10:07発    ➡ ミュンヘン 10:41着

                      列車番号  ICE#1508     ミュンヘン      11:21発    ➡     ベルリン      17:19着

 

日本の新幹線がすべての面で世界一だと思っていたが、ドイツ高速鉄道のICEの素晴らしさにも

目を見張った。

 

 

    

                 ドイツ高速鉄道 ICE初期の列車

 

<列車ICE#1508   12:30   ニュールンブルグ通過>

第二次大戦における戦勝国は、ここニュールンブルグで、敗戦国ナチス・ドイツ戦争犯罪を裁く<ニュルン

ベルク国際軍事裁判>が、1945年11月20日より約1年間、開かれた。

ここニュールンブルグが、ナチ党の年次大会開催地であったからである。

この国際軍事裁判では、戦争犯罪としてはじめて「平和に対する罪」および「人道に対する罪」が取り上げら

れたが、形式的なものに過ぎなかった。

日本の東京裁判極東国際軍事裁判>と同じく、戦勝国が一方的に敗戦国を裁く方法がとられ、騎士道を重ん

じる西欧として、裁判のもとに敗者を裁く姿を示しかったと云われている。

 

<列車ICE#1508  15:45 ライプチッヒ通過>

ライプチッヒは、クラッシックの巨匠であるバッハやメンデルスゾーンそしてワグナーらのドイツを代

表する音楽の街である。

またベルリンの壁崩壊、ひいては東西両ドイツの統一の端緒となった住民運動の発祥地として知られている。

 

<列車ICE#1508  17:19 ベルリン到着>

ドイツ高速鉄道 ICE#1508便は、定刻通りにベルリンに到着した。

 

     ▼10/14 宿泊  <ベルリン・ユースホステル>(ユーゲントヘアベルゲ) 

          10785, BE, Berlin, Kluckstrasse 3

 

       

             <ベルリン・ユースホステル
 

ベルリン・ユースホステルは東西冷戦の象徴であった<ブランデンブル門>や<ベルリンの壁>に近く、世界

中のバックパッカーで溢れかえっていた。

満室と言うことで、キャンセル待ちである。

3人部屋のドミトリーが空いたとのことで、陽気な青年ドイツ野郎2人と同室となる。

夕寝して、夜の街に繰り出すとの事、ベッドにもぐりこんでしまった。 アダルトショップに出向くらしい。 

こちらが東西冷戦の象徴であった<ブランデンブルグ門>や<ベルレインの壁>を見学して帰って、熟睡して

いる夜中3時ごろに帰ったようである。

 

フィンランドヘルシンキ以来の2本目のスケッチペンが、その使命を終える。

使用済みペンは、ここベルリン・ユースホステルの入り口付近の植木の下の穴に横たわり、眠りにつく。 

 

ここベルリン・ユースホステルより15分(約900m)のところに東西ベルリンの象徴<ブランデンブルグ門>

がある。 そして、ユースホステルのごく近くに東西ドイツを分断していた<ベルリンの壁>が南北に築かれ

ていた。 さっそく東西冷戦時代の象徴すべき史跡を訪ねて歩いてみた。

滞在した2001年当時、わずか12年前に<ベルリンの壁>が打ち砕かれ、冷戦時代の終焉を見たあの興奮は、

いまだ体が覚えていた。

ブランデンブルク門>は、東西ドイツ統一の象徴として、平和の大切さを訴え続けていた。

        

       

                     ブランデンブルグ門               

 

       

             歴史の証言者として残されている<ベルリンの壁

 

       

                  ブランデンブルグ門近くの

               東西ベルリンに設けられていた検問所跡       

 

 

 

■ 10月15日 ナチ強制収容所ザクセンハウゼ>訪問

         & ベルリン散策

 

第二次大戦の悲劇の一つであるナチスによる組織的ユダヤ人抹殺を物語る強制収容所に、この旅で是非訪れた

いと思っていた。

ドイツでは、ベルリン近郊のOranienburgにあるナチ強制収容所ザクセンハウゼ>を訪ねることにした

ベルリンから北へ約40分の所にある。

Sバン、Zoo駅5番線より乗り、Friedrich Str.でS-1に乗換、終点Oranienburg下車。

駅よりすぐのところにある。

 

    

                         

                                                             Sバーン終点<Oranienburg>駅

 

さっそく、無料ウオーキング・ツアーに参加して所内を見学することとなった。

 

ザクセンハウゼ強制収容所

1933年に開所した大規模な施設は、1936年から10年間、1945年までナチの強制収容所として政治犯ユダヤ

人の収容施設として利用され、この間約20万人が収容されていた。 収容者は、拷問や虐待、飢えや強制労

働、病気で多くの犠牲者を出した。

ただ、ポーランドにあるアウビシュッツ強制収容所のような大量虐殺を目的とした強制収容所ではなかった。

しかし、何万人もの犠牲者を火葬に付すガス死体焼却炉の後は残されていた。

    

                         

                                                               <ザクセンハウゼ強制収容所入口         

 

                         

                                                                               入口鉄門に

                                           「ARBEIT MACHT FREI ー働けば自由になれる」とある

 

 

    <ザクセンハウゼ強制収容所正門鉄扉の標語<働けば自由になれる>をノートにスケッチ

 

 

            <ザクセンハウゼ強制収容所> 拷問&処刑用<釣り棒>

                社会勉強中のドイツ人中高生たち

 

 

ザクセンハウゼ強制収容所>の甲子園球場130個分という広大な二等辺三角形強制収容所の緑の芝生が目

に沁みる。 この敷地に4列、総計68の収容棟が立ち並んでいたという。

収容総囚人数は、約5万人で、開所期間中に総計約20万人がいた。

また、ここザクセンハウゼ強制収容所は、ヨーロッパ中の32のナチ強制収容所の総監督所であり、各収容所で

囚人から奪った金品が集められる保管庫でもあったという。

 

 

                         

                                                        「バラック38・39」のユダヤ人収容施設       

 

                       

                                                                                  銃殺場跡         

  

                         

                                                                    展示写真パネル<死の行進>         

 

                       

                                                                          ガス死体焼却炉跡

 

こちらのウオーキング・ツアーの少人数の外国人観光客にくらべ、多数のドイツ人中高生の社会勉強としての

強制収容所見学は、国家として国民として過去への反省を兼ねており、その若き学生たちの顔には苦痛に満

ちた、真剣なまなざしがあった。

ドイツのように先に、自分たちの罪を認め、過去を教訓として生かす方が人間として賢明であるといえる。

 

 

<ベルリン散策 ― ポツダム

ベルリンから約30分、SバーンのS7の終点にあるポツダムは、日本の敗戦処理をめぐって取り決められた<ポ

ツダム宣言>がなされたところである。

日本は無条件降伏を迫った<ポツダム宣言>を受託せずに、戦争を継続したがゆえにアメリカの広島、長崎へ

の原爆投下を、さらにソ連の参戦を、結果として招いている。

この<ポツダム宣言>で、原爆で優位にあるアメリカが、ソ連の日本分割<北海道半分>要求をはねつけてい

たことも書き添えておきたい。 ただ、北方四島ソ連崩壊にもかかわらず、引き続きロシアによって占拠さ

れて現在に至っていることは残念である。

 

   

                                                       ポツダムの街角で➀ (ベルリン近郊 ドイツ)

 

              ポツダムの街角で② (ベルリン近郊 ドイツ)

 

 

       ▼   10/14連泊  ベルリン・ユースホステル(ユーゲントヘアベルゲ) 

                 10785, BE, Berlin, Kluckstrasse 3

 

 

ベルリン・ユースホステルで、SECOMに就職が決まり、社会勉強にドイツに来ている青年に出会った。 大学

では経済学を専攻し、建築における積算に興味があり、研究したので、就職先で生かせたらとの抱負を語って

くれた。

特に、1か月前の9:11同時テロの攻撃対象となったワールド・トレードセンターの構造計算上の弱点に

ついて専門家として詳しく説明してくれた。

若者が外国を知り、英会話の必要性を感じ、世界観をひろげ、多くの国の歴史・文化・生活・国民性を知るこ

とは、世界共通の平和と平等と自由の概念を身に着け、国際性豊かな人間を作り上げるうえで大いに奨励され

るべきである。

大学4年間において、少なくとも6か月は、海外の提携校への留学を、単位として認める制度を確立すべきであ

る。 もちろん、留学先での語学を助けるため、英会話教育を幼稚園児より開始し、高校卒業までに身に着け

ておく必要がある。

徴兵制度のないわが国では、平和の戦士として国が率先して英会話教育・国費留学に取り組むべきではないだ

ろうか

 

いよいよ明日から、東ヨーロッパのいくつかの国を、ユーレイルパスによる列車の旅が始まる。

まずは、最初の東ヨーロッパの国、ポーランドワルシャワに向かいたい。

この先は、また旧ソビエット連邦の衛星国としての官僚的視線にさらされるのか、少し不安である。

ロシアの現状と、衛星国であった東ヨーロッパの国々との民衆や生活を比べながら、観察してみたい。

 

 

 

                 星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半

                                ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅰ

                                 《フランス・スイス・ドイツ編》

 

                       

 

 

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2001『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』 後半Ⅱ

                                 《東ヨーロッパ & イタリア編》

                                                 へ続く

 

                

 

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<関連ブログ>



2001『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』

                              星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』

           Ⅰ ヨーロッパ前半 《スカンジナビア半島・イギリス・アイルランド  5500kmの旅》

 

 

2022年3月、ロシアによるウクライナへの特別軍事作戦が開始され、世界の目がロシア

大統領の前近代的歴史観<大ロシア帝国>により、<国土回復、いや一度ロシア領で 

あった地域は、ロシアの地に還る>というロシア正教独特な考えを見せられることとな

った。

さっそく、本棚に眠っていた旅日記を取りだして、約20年前のソビエット連邦から

解放されて間もない2001年当時のロシアを覗いてみたくなったのでシベリア横断鉄道に

飛乗った。

その後、ヨーロッパ周遊の旅に向かうはずであったが、2023年10月に、ガザを実効支

配する武装勢力ハマスによって、イスラエルへの越境攻撃による大量殺戮と、約260名

にのぼる人質を拉致する事件が起き、急遽 『イスラエル縦断の旅 1100km』 を

取り上げることとなって、横道にそれていた。

 

ようやく、ユーラシア・アフリカ二大陸 38000km の旅にもどり、ここではヨーロッパ

前半としてスカンジナビア半島縦断し、イギリスからアイルランドへ向かうことにする。

ただ、2024年現在、ここスカンジナビア半島も、ロシアと接するフィンランドや、バル

ト海でロシアと接しているスエーデンも、ロシアのウクライナ侵攻をみて、中立政策を

捨て、NATOという相互安全保障条約の傘のもとに加入することとなり、2001年当時の

スカンジナビア半島は、中立地帯として貴重な存在であった。

 

では、バックパッカーの見た2001年当時の、平和なスカンジナビア半島から、イギリス

そしてアイルランドの旅へ、ご一緒しましょう。

 

 

■ 《スカンジナビア半島縦断 5000km 南下の旅》

 

では、《ヨーロッパ周遊の旅 11000km》 の入口、フインランドの首都ヘルシンキに向

かうことにする。

2001年9月20日、ロシア・サンクトペテルブルクを国際列車(アレグロ直通列車・距離

443km・所要3.5h)で出発し、フィンランド首都ヘルシンキへ向かった。

 

      

                 ヘルシンキ行国際列車<ALLEGRO>

 

          《ユーラシア・アフリカ2大陸の旅 38000㎞》 全ルート図

                     

                        <スカンジナビア半島縦断列車の旅 5000km> ルート図

                  

 

■ 9月20日  <フィンランド首都ヘルシンキへ向かう>

 

朝2時に起床、シベリア横断時の収集品や、旅日記を追記し、携行品を再点検、不用品

を選び出し、バックパッカーのモットーである<コンパクトこそ最高>に従ってフィン

ランド行パッキングを行う。

処分する品は、ホテルの部屋係であるおばちゃんにプレゼントすることにした。

 

テレビのCNNチャンネルは、9:11同時多発テロ事件のニュースを流し続けている。

世界貿易センターであるツインタワーでの死傷者や不明者を含めると、約5000名(後日

の報道で、最終的に死者2749名)に達するという。

悲惨なテロ事件に対し、アメリカの出方が注目される。

 

<時の流れが止ったシベリア、広大なロシアからの脱出>

ピロシキとオレンジジュースで簡単に朝食を済ませ、ロシア最後の地 サンクトペテルブ

ルグのソビツカヤ・ホテルを 05:00 にチェックアウト、フインランド駅(サンクト

ペテルブルグのヘルシンキ行発着駅)に向かう。

風邪っ気で頭がぼやけていたのか、シベリア時間にボケていたのか、昨日下見しておい

フィンランド駅への道順を間違えて右往左往してしまった。 どうも、地下鉄の下車駅

を数え間違えたようである。

ヘルシンキ行の列車の発車時間が迫るなか、ぼやけた頭がますます混乱する。

とっさに街路に出て、タクシーに乗り、運ちゃんに事情を説明すると、「お客さんは、

間違った駅に降りたんだね」と事情を察し、夜明けのサンクトペテルブルグの街をぶっ

飛ばしてくれた。

広大なロシアの大地で、タクシーを飛ばすおのれの姿が滑稽に見えたものである。

シベリアと言う優雅に流れる時間に身を任せていたはずなのに、ロシアを離れる途端

に、また時間に縛られた都会人にもどされたのだから、文明は恐るべき機械的な人間を

作り上げているのだと、思い知らされたものである。

 

ヘルシンキ行国際列車>  「赤い矢号」 Красная стрела

   サンペテルブルグ05:53発➡12:17ヘルシンキ

   Train#33 4号車 コンパートメント3(定員6人用)

           男女カップルとの3人の同室

 

                              

                                             <ヘルシンキ行国際列車>ALLEGRO「赤い矢号」
 
 

ヘルシンキ行の国際夜行特急列車<赤い矢 ALLEGRO>に乗車すると、車掌にチケット

と、命より大切なパスポートと添付された出国証明書(ビザ)を回収されてしまった。

いくらパスポート、ビザのコピーを持っているとはいえ、これじゃ、まるで身分を剥

奪された囚人と変わらないではないか。 

それにここはまだロシアであるという緊張感と、丸裸であることに一抹の不安を覚

えたが、コンパートメント同室のロシア人男女は平然としているのを見て、郷に入れば

郷に従えの例え通りに気を鎮めたものである。

乗客へのクッキーとヨーグルト、りんごジュースが配られ、列車がゆっくりとヘルシン

キ駅を後にしたときは、不安も消え去り、ようやく落ち着きだした。

 

これから、広大なユーラシア大陸の3分の2を占めるロシアから、その西に広がる

ヨーロッパへ向かうのである。 それも、この星で一番早くから文明という言葉が定着し、

近代化が推し進められてきた欧州に向かっている。

フインランドは、北欧の一角にあり、ロシアとも1340㎞の国境を接している陸続きの国

である。

歴史的にも、フィンランドはロシアに盗られたり、奪い返したりと、大熊に立ち向かう

森の小人のような関係にある。

小国が隣国である大国に立ち向かうことの困難さを歴史的に学んできた国であり、国民

である。

生存する知恵は素晴らしく、独立国としてロシアに認めさせているのだから、日本も学

ぶべきところが多々あり、興味深い国である。

 

これから、かかる民族的悲哀を歴史的に味わって来た国に入るのだ。

美しい白樺・ピリョーザの国境が続く。 車掌が<出国申請書>を配りに来た、国境が近

いようである。

現在、列車が通過しているロシア・フィンランドの国境付近は、フランスのナポレオン

軍やドイツのヒットラー軍が、レニーングラードを攻撃した折、冬将軍に戦い敗れた原

野である。

 

 

                   

                                   冬将軍に敗れ撤退するナポレオン軍

 

                  

      

              冬将軍に敗れ捕虜となったドイツ軍将兵


 

<ロシア国境の村 Vyborg / ヴィープリ>

ロシア側国境の街<Vyborg/ヴィープリ>では、婦人係官が乗込んできて、「出国カー

ド」・「税申告カード」をチェックし、荷物の個数と中身をチェックするという簡単な

検査に安堵したものである。

なぜなら、これが1991年以前のソ連赤軍による検査であるならば、厳しいチェック、身

体検査、尋問などがなされていただろと想像してみたからである。 

車窓からは、ロシアの貧しいスレートのブリキ屋根、それも温かさの消えた灰色一色で

ある。 厳しい冬将軍をどのようにしのいでいるのだろうか・・・凍える農民の姿が脳

裏に浮かんだ。

 

ロシア国境の村<Vyborg/ヴィープリ>駅で約20分間停車したあと、列車が動き出して

から、乗込んできた国境警備隊による徹底した検査が始まった。

まず、無言でにらみつけるような威嚇の目で、顔とパスポートを確認、その後、名前を

読み上げてまたじろりと一瞥、コンパートメントから乗客3名を外に出し、室内のチェ

ックが行われた。

土足で寝台の階段を上り、天井の隙間やベットの下までめくりあげてのチェックがくま

なく行われた。

多分、麻薬・偽札・銃器・ポルノ・機密情報(パテント・地図・写真)等の持出し、又

は持込の捜索なのであろう。

 

写真機と双眼鏡をベットに出していたのでびくり、どっきり、生きた心地がしなかった

ものである。 ロシア・シベリアでの恐怖を想いだし、フィルムを抜き取らりたり、双

眼鏡を没収されたりしないかと恐れたものである。

今でも不明なままだが、この国境警備隊がロシア側なのか、フィンランド側なのか分か

っていないのであるから、当時の恐怖が分かるというものだ。 

僅かフィンランド国境の村までの十数分間の出来事であった。

今から振返ってみると、同室者の男女のカップルに何らかの容疑、嫌疑または、密告が

あったのではないだろうかと思ったほどである。 

 

それとも、東洋人であるバックパッカーに対して、ロシアを離れるにあたっての最後の身

辺チェックがなされたのであろうか・・・、 ともなれば私はロシア横断中見張られてい

たことになるのである。

この時期2001年、ロシアはいまだソビエット共産体制の崩壊から10年目の、国家主義

体制から民主主義への移行の混乱時期であり、古い秘密警察の機能が引き継がれていた

とするば、私の妄想だけではなさそうである。

 

 

フィンランド国境の村  Vainikkala / ヴァイニッカラ>

09:50am フィンランドに入り、国境の村<ヴァイニッカラ>駅に着いた。

シベリア横断は、ロシアと言う、いまだ冷たい官僚主義的な国家風土の抜けきらない、

コルホーズ的社会のなかに生きながらも、素朴な本来の親しみあるロシア民衆の温かさを

感じたものである。

この瞬間、ロシアという国家権力と、人間本来の純粋なロシア人のギャップに戸惑いな

がらも、民主主義国家であるフィンランドとい童話の国に入ったのである。

そう、スカンジナビア半島というバイキングのテリトリーに入ったのである。

なにか、急に緊張がほぐれ、すこし疲れを感じた。やはりロシア横断中は緊張の連続で

あったのであろう。

 

                 

                                         フィンランド国境の村  Vainikkalaヴァイニッカラ駅

 

         

         

                  フィンランド国旗

 

 

<バイキング>

「バイキング」と口にするとき、すなわち中世のスカンジナビアのバイキングがただ

奪を繰り返した野蛮な海賊のようにイメージしがちである。

スカンジナビアに住んでいたバイキングが、襲撃や略奪を行ったのは確かである。

しかし一方、彼らは遠くまで旅をし、北大西洋スコットランド諸島の一部にも入植

し、アイスランドや、シベリアの川や水路へも進出していた。

グリーンランドに500年にわたる植民地を作り、北米の端にまで進出していたことはあ

まり知られていない。

アメリカは、コロンブスによって発見されたというより、バイキングによって第一歩が

記されたと言ってもいいのではないかと言う説があるほどである。

バイキングは、探検家であり、冒険家でもあったのである。

 

           

                   バイキングのイラスト

 

 フィンランド国境の村<Vainikkala/ヴァイニッカラ>駅からフィンランドの管理官

(兵士)が乗車してきた。 

自動機関銃を肩にかけた、おっかない軍服姿の兵士がパスポートチェックをしながら

日本語で「こんにちは!」、「どうもありがとう!」と笑顔でご挨拶、これが解放され

た自由の国なのかと、緊張から解放されていく自分に気づいた。

フィンランドには、どれくらい滞在し、いつ頃お国へ帰られるのですか」、もちろん

英語である。

「お国には、3日間滞在し、クリスマス頃帰国する予定です」・・・なんと平和な国境

通過であろうか。

 広大なロシアと違って、田畑もきちんと手入れされ、アスファルト道がきれいに整備さ

れている。

白樺・モミの木、松、杉の木立が無数の湖やの池に投影し、美しい北欧の景色が迎えて

くれた。

 

<北欧の男女平等>

ロシア女性のセックスアピールは、本人たちが充分承知、意識した上で男性にアッピー

ルしているようである。

恐らく、ブラジルの情熱的な女性に負けないほどにロシアの女性、とくに独身女性は、

世界で一番魅力を発散させているのではないだろうか。

それに対して、ロシアからフィンランドに入ってまず驚いたのは、男女の違いがなく

そこにはセックスアピールなる物の存在が無く、男女同権たる、高貴なる大人の姿とし

て目に映ったものである。

かえって、凡人たるわたしには、もうすこし女性らしい表現の在り方を追求してもらっ

た方が、世間全体として幸せを感じるのではないかという思いにさせられたほどであ

る。

北欧では、すでに男女平等が達成され、次の段階へと向かっているようだ。

かえって、日本の男女の格差、あり方に後進性を見た思いで愕然とさせられたと言って

いい。

日本も成熟社会に入り、人口減少が問題視されてきた。

フィンランドはじめ、北欧の男女平等による国家維持の手本を、受け入れる時期に差し

掛かっているように思えたのである。

 

 

<水の都 ヘルシンキサンクトペテルブルク

12:17 定刻にヘルシンキ駅に列車は滑り込んだ。

サンクトペテルブルクは水路で結ばれた水の都であり、一方、ヘルシンキは多くの島で

成り立つ<水の都>と言っていい。

古い歴史の中で洗練されてきた両都市とも、水路をつなぐ船・島を結ぶ船の多さに<水

の都>の情緒をよく醸し出しているのである。

ヘルシンキでは、海外からの観光客にあふれ、それもクルーズを楽しみながら北欧の短

い日光浴に体を横たえる老夫婦を多く見かけた。

また、ヘルシンキには世界中の若いバックパッカーが集まっているのではないかと目を

疑うほどのバックパッカー天国である。 

ヘルシンキ中央駅近くの屋外マーケット「Kauppatori(カウパットリ)」や、空飛ぶサウナ

(ゴンドラ)も人気があるようだ。

みな思い思いのバックパック・スタイルで、ここ<バルト海の乙女>ヘルシンキで、ム

ーミンやサンタクロースの物語に浸っているようである。

 

 

                 

                                                               ヘルシンキ駅に到着            

 

                 

                              水の都<ヘルシンキ>の交通手段フェリー       

 

ヘルシンキに数泊したかったが、ユーラシア・アフリカ大陸踏破の途上の事、残念なが

ら今夜の夜行列車で、次に向かうことにした。 というよりも都会のYH(ユースホステ

ル)よりも、田舎の静かなYHに泊まりかったのである。

まずは、腹ごしらえである。 栄養補給のため日本レストラン<古都>か、中華料理

ロータス>で迷ったが、やはり持ち帰りのできるバックパッカーの常食である中華を

選んだ。

何といっても、中華はボリュームがあり、その半分を箱詰めにしてもらい移動中の携帯

食にできる優れものなのだ。

 

  

                    ヘルシンキ市街散策


  

       

                  ヘルシンキ大聖堂

 

フィンランド と ロシアとの歴史的関係>

 ロシアとフィンランドの歴史的な関係は、数世紀にわたり様々な要因によって形成される

以下に、主な時期や出来事を中心に歴史的な経緯を見ておきたい。

 

  ➀スウェーデン時代 (12世紀初頭 - 1809年):

   フィンランドは長らくスウェーデンの一部であった。スウェーデン時代中、フィンランド

   はスウェーデン王国の一部として統治され、スウェーデン文化や統治機構の影響を受け

   た。この時期、フィンランドの都市や文化が発展した。

 

  ②ロシア帝国時代 (1809年 - 1917年):

   ナポレオン戦争の影響で、スウェーデンはロシアに敗れ、1809年に結ばれたトルン条約に

   よってフィンランドロシア帝国の一部となった。しかし、帝国内で特殊な地位を保ち、

   自治権を維持した。この時期、フィンランドはロシアの文化的・政治的影響を受けつつも、

   相対的な自治を享受していた。

 

  ➂フィンランド独立 (1917年):

   ロシア革命の影響を受け、1917年にフィンランドロシア帝国から独立を宣言した。

   この出来事はロシア帝国の混乱期に起こり、フィンランドが独立する際には比較的平和的な

   形で行われた。

 

  ④冷戦時代 (1944年 - 1991年):

   第二次世界大戦中、フィンランドは継続戦争(独ソ戦におけるフィンランドの一環)で

   ソ連と戦ったが、戦後にモスクワ講和条約を締結し、ソ連との平和を確保した。

   冷戦時代、フィンランドは中立政策を採り、ソ連との隣国関係を維持しつつ、西側とも

   経済的なつながりを築いた。

 

  ⑤冷戦後 (1991年以降):

   冷戦が終結すると、フィンランドとロシアの関係も変化していった。

   フィンランドEUNATOに加盟せず、中立を維持しつつも、両国は経済的な協力や

   文化的な交流を進めている。

   国境問題や安全保障上の懸念が存在するものの、一般的には平和的な関係が続いていた。

 

  ⑥最近(2024年~):

     2023年のロシアによるウクライナ軍事侵攻を受けて、フィンランドとスエーデンは

    安全保障上、中立政策を破棄し、NATO加盟を申請し、受理された。 

    スカンジナビアである北欧3国はノルウエ―を加え、NATO加盟国となり、ロシアに対峙する

    ことになった。

 

 

▼ 10/20  夜行列車  <ヘルシンキ➡ケミ/KEMI> 列車泊

  

 《夜行特急列車 #P-69便》 

   ヘルシンキ10/20 22:28発➡(列車)➡ KEMI・ケミ 10/21 09:15着➡(連絡バス・国境越え)➡

   スエーデン国境の街<Haparanda・ハパランダ>➡(連絡バス)➡ Lurea/ルーレア駅

 

           

                 《夜行特急列車 #P-69便》 
   

 《ノルウエ―最北鉄道オーフォート線 列車#ST-4便》

          スエーデン・Lurea/ルーレア駅発➡<最北鉄道オーフォート線>➡ノルウエ―・Narvik/ナルビク

              

             

               ノルウエ―最北鉄道オーフォート線を走る 

                    貨物列車#123

 

    

                    フィンランド鉄道路線

 

 

■ 9月21日 <フィンランドからノルウエ―に入る>   天候・晴れ  気温8℃

 

夜行特急列車 #P-69便は、快適に北に向かっている。

コンパートメントの中段(3段ベット)、ゆったりしたスペースに朝の光が差し込んで

きた。

昨夜、列車に乗込んでから旧ソビエット時代の専制的な官僚制の残っていたロシアから

の離脱に気がゆるんだのだろうか、自由世界の神話<安心安全>の中に吸い込まれて、

無防備にぐっすりと熟睡してしまっていた。

朝6時に起床してから、北欧の洗練された特急列車の設備やもてなし(ミネラルウオー

ター・タオル・石鹸・飴ほか)に感心しながら洗面を終え、食堂車に向かった。

コーヒーを飲みながら、車窓から見る北欧の大自然、そこに隠されている生命の神秘、

大宇宙の営みに触れ、生きる力がみなぎってきたものである。

 

スカンジナビア半島の付け根、ボスニア湾に面するオウル(Oulu)で迎えたフインラン

ドの夜明けの風景<湖・森・夜明け・白樺・パインツリー>をスケッチに収めながら、

スカンジナビア半島の列車の旅をエンジョイした。

 

                    フィンランドの夜明け

                   Oulu近郊 列車の車窓から

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

     

           食堂車でスケッチ中 (特急列車 #P-69便/ヘルシンキ➡ケミ)     

 

     

               洗練された特急列車を背に(オウル駅で)

 

<ノルウエ―最北鉄道路線・オーフォート線乗車>

 オウル駅を過ぎると、スエーデン国境に近いKemi・ケミ駅に到着する。

ここからノルウエ―の北極圏にある<Narvik・ナルビク>に向かうが・・・少し煩雑なので、

少し経路について説明しておきたい。

 

まず、ケミからスエーデン国境の街<Haparanda/ハパランダ>へ連絡バスで移動する。

ここから10:30発バスで、最北鉄道路線<オーフォート線>に乗るため、始発駅Lurea/ルーレア駅に

バスで向かう。

この間、鉄道路線がないためバス移動となる。 ただバックパッカーとして助かるのは、バス代が

ユーレイル・パスに含まれていることである。

また、ノルウエー最北鉄道路線の列車に乗れるという夢がかなうので、何一つ苦にな

らないのである。

 

                                      スエーデン国境の街 Haparanda / ハパランダのバスステーション

           ここから連絡バスで Lurea/ルーレア鉄道駅へ向かう

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

ハパランダから、ノルウエー最北鉄道路線<オーフォート線>の始発駅とも言える

Lurea/ ルーレアまでは、約2時間のバスによる車窓観光である。

スカンジナビアの国々は、GDPが高く世界で一番豊かな国々である。

美しい白樺の林を見ながら高速道路が南に向かっている。

野生動物の保護、危険な横断を防ぐために、延々と網のフェンスが続く。

 

12:30  時間通りにバスは、ルーレアのバス・ステーションに滑り込んだ。

次のナルビック行列車<TRAIN#ST-4>は、3時間後に出発するという。 

すこし気分転換にルーレアの街を散策することにした。

ノルウエ―最北鉄道路線、北極圏を走る路線の始発駅と言うことであろうか、

この小さな町に、世界中のバックパッカーが集まったような観がするほど賑わって

いた。

  

                 

                                                              ルーレオ大聖堂 (ノルウエー)

 

 

 

 

            ノルウェーの国旗 - Wikipedia

                           ノルウエ―国旗

 

 

                  スカンジナビア半島 鉄道路線図 

 

 

<ノルウエ―最北の鉄道路線 オーフォート線> 1903年開通、 全長42km

  

       スエーデン / ルーレア駅

       ⇑          

             ➡(国境まで363km)  スエーデン側 / MALMBANAN線 / マルム線

           ⇓ 

     ( ノルウエ―国境)  

                       ⇑          

             ➡(国境から42km)  ノルウエー側 / OFOTBANEN線 / オーフォート線

           ⇓ 

    ノルウエー/ナルビク駅

 

 

            <ノルウエ―最北の鉄道路線 オーフォート線>路線図

         ノルウエー/OFOTBANEN ⇦(国境)➡スエーデン/MALMBANAN線/マルム線

 

  

             ノルウエ―最北の鉄道路線<オーフォート線>

             <ルーレオ➡ナルビク>間を走る列車 #ST-4

                 Sketched by Sanehisa Goto

 

たくさんのバックパッカーや観光客の夢を載せたノルウエ―最北路線を突っ走る列車#ST-4は、

まる銀河鉄道999のように<Arctic Circle / 北極圏>を通過した瞬間、車掌のアナウンス

に、みな歓声を上げたものである。 

 

―いま、わたしはここにいる。 そう、北極圏にいるのだー

北極圏の夕陽がきれいだ、松林の木陰をぬって真っ赤な大きな顔が駆け足で、過ぎ去っ

ていく。

 

《白樺の 木洩れ日舞いし 北極圏》 實久

 

想像していた極寒はどこへやら、外気は10℃、ヘルシンキで購入したマフラーの出番は

あるのだろうか。

夕食は、バックパッカー食<ピロシキ大2個・オレンジ・チョコ>で済ます。 

終点ナルビックには真夜中に到着するので、もしものことを考え非常食としてビスケッ

トは残すことにした。

 

予定では、Kiruna/キルナで泊まる予定であったが、終点のNarvik/ナルビックまで行っ

て、ゲストハウスを探すことにした。 それにしても、なぜか乗客のほとんどがキルナで下車し

てしまったではないか。

後で分かったが、北極圏であるこの辺りの宿や店は、夜8時頃には閉店してしまうと言

うことだ。

ましてや到着予定の 21:00 では、旅行者は路頭に迷うことになると言うことであ

り、まさにその受難者となったのである。

最果ての街ナルビック駅に着いた時、車両に一人取り残され唖然としてしまった。

この北極圏の最果ての街に、まだ少し明かりが残る駅に、数名の旅行者の一人として降

り立ったのである。

侘しさを通り越して、映画の一シーンのような死の町に放り出された。

 

 

                 

                                                          北極圏の明るさ残る街ナルビクに到着

 

<北極圏で野宿をする>

いくら体力があると言っても北極圏の9月下旬、夜中の最低気温である0℃を、野宿で

過ごせるか心配である。

 

▼9/21 野宿  ナルビック(北極圏)   ノルウエ―

 

 

                                     ノルウエ―最北の鉄道路線図<オーフォート線>ルーレオ➡ナルビク

 

 

■ 9月22日 Narvik/ナルビク  ノルウエ―

 

実は、前もってナルビクでの宿泊先としてゲストハウスの所在を確かめていた。

人一人出会わない真夜中の街を歩いて、かすかな望みをもってシティホール近くにある

ゲストハウスに向かった。

ゲストハウスはすぐに見つかったが、灯りは消え、ブザーを押せども応答がない。

真夜中の事、不審者として招き入れられるはずもなく、観念し、朝になれば温かいコー

ヒーでも飲ませてもらえたらと、玄関先での野宿で一夜を明かすことに覚悟を決めたの

である。

北極圏にあるナルビクは、白夜がまだ完全に終わっていないのか、明るさがまだ少し残

っているだけに恐怖は感じることはなかった。

かえって、人の住むゲストハウスの玄関先、いや軒先であるというだけで、厳しい寒さ

であったが安心して眠りにつけたものである。

 

     

               ゲストハウス玄関先での野宿スタイル

 

北極圏での野宿スタイルを記録したスケッチが残っているので紹介しておきたい。

 

       

                           北極圏での野宿スタイル

寒さのため3時間程の仮眠のあと、朝ゲストハウスの玄関の戸を再度ノックしてみた

が、応答がない。 やはり予約客が無く、閉じていたようで、オーナーもゲストハウスを離

れていたようであることが分かった。 

 

北極圏の星を眺めながら、凍てつく夜空のもとで野宿が出来るなどバックパッカー冥利

に尽きるものである。 何といっても<北極圏>というロマンを含んだ響きがいい、夏

だったら白夜を経験できていただろうと思うと、ちょっぴり残念である。

 

寒いはずである、昨夜ナルビクに夜遅く着いて分からなかったが、周囲の山は雪におお

われていた。

しかし、冷えた体を温めるための温かいコーヒーどころではなくなってしまった。

出立の準備をして、北極圏での野宿と言う貴重な体験に感謝し、ゲストハウスの玄関先を離れ、

<ナルビク・バスステーション>に向かった。

 

では、北欧ノルウエ―のフィヨルド、いやバイキングの巣窟のあった入江を、フェリーに

乗ったバスから眺めながらの旅行に出かけることにしたい。

バスには、アメリカ人2名・ドイツ人2名・ノルウエ―人2名に日本人の計7名、もちろん

全員バックパッカーである。 すぐに意気投合、情報交換に話が弾んだ。 

 

 

<バス+フェリー旅行>

Narvik/ナルビク(バス+フェリー)➡Bode/ボーデ経由(これより列車)

➡Trondheim/トロンヘイム行

 

ナルビク 07:30 発  長距離バスに乗り、ナルビクの港からフェリーにバスごと乗船し、

ファウスケ近郊のボーデ港で下船し、列車に乗り換えてトロンヘイムへ向かう。 

ノルウエ―の西海岸は、切り立った崖を持つフィヨルドの入り組んだ国道なので、

途中道がなくなり、フェリーが国道に早変わりし、バスと乗客を乗せて北極圏の船旅を

楽しませてくれるのである。

終点トロンヘイムまで、約900㎞、14時間の、北極圏のフィヨルド風情を眺めながらの

長距離バス+フェリー+列車というロマンに満ちた旅である。

 

フェリーが出航して間もなく、北極圏にあるロフォーテン諸島の山々が、神秘的にそび

えているではないか、さっそくスケッチブックに絵筆を走らせた。

                    

             北極圏にあるロフォーテン諸島を望む   on Ferry<TYSFTORN>

                                            Sketched by Sanehisa Goto

 

 

フェリーから眺めるフィヨルドの景色は絶景である。 人を寄せ付けない厳しい岩場

や、背景の雪を頂いた、神の宿る不思議なほど寒々とした雪渓を持つ山容は、エスチュ

アリー(三角江)というあまり土砂が運び込まれない入江を創り、奥に大小のフィヨル

ドを隠し持つというノルウエ―の海岸でしか味わえない光景である。

ここに、バイキングが隠れ、船を襲ったのかと思うだけで、あの荒々しい海賊風の戦士

を少年時代に愛読した雑誌<少年>や<冒険王>で見たことを思いだしたのである。

 

              

                バイキングのイラスト
                      - KING HAAKON-

               

冬の旅、それも地球最北の北極圏の旅もいいものだ。

遠くの山岳の峰々にかぶさる純白の雪渓の輝きに吸い付けられ、

フィヨルドの入り江に映り、揺れ動く黄葉の縞模様の美しい風情に見惚れ、

白樺林に音を立てて、幾筋もの細い急流が走り、

天どこまでも青く澄み切り、今にも雪が降りそうな冷たさに頬が赤く染まりゆく、

水鳥だろうか、この一枚の油絵の額縁の中を、悠々と飛翔している・・・・・

 

この瞬間、すべて神のなせる業、美しいと言おうか、厳しいと言おうか、人智を越えた

表現が見つかりそうにもない。

ただただおのれを風景に溶け込ませ、率直に美しさを味わった。

 

いつかは、この死を迎え入れてくれる大地のこの美しさに、いかに対処すべきか、この

わたしと言う汚れた肉体が気にかかるのである。

                  

                  

                 スカンジナビア山脈をフェリーから望む

                 (フェリー下船港ファウスケ手前の入江から)

      

フェリー船長から、終着ファウスケ近郊ボーデ港に近づいた時、この先に目には見えな

い北極圏線(北緯66度33分)があるとのアナウンスがあり、乗船客は遠くに横たわる雪

を抱くスカンジナビア山脈に向かって<ブラボー>を叫んだものである。

この旅での2度の北極圏通過は、幻のアトランティック大陸探索にも劣らない興奮を

味わせてくれた。 若い時、船で通過した赤道を懐かしく思い出していた。

 

ノルウエーのフィヨルド海岸とそれを創り出している山々と言うのは、一枚の岩の塊で

できているようだ。 それも古代から、人類がこの世に姿を現わす何万年もの前から、

時間をかけていまの姿を創って来たと思えば、自然の偉大さに驚嘆させられるのである。

 

<スケジュール変更>

ナルビクを出て、約5時間で<バス+フェリー>は、250km 先のボーデ港(ファウスケ

近郊)に着岸した。

目的地であるトロンヘイムまでは、ボーデ港よりファウスケ経由897㎞もある。

昨夜の睡眠不足を取り戻すため、港にある<ボーデ・ユースホステル>に急遽泊まるこ

とにした。

睡眠不足では、フィヨルド探検の醍醐味も半減してしまうので、思い切って予定を変更

したのである。

YHは、ボーデ港バスターミナル・ビルの2階にあり、便利だったことと、近くに中華料

理店があり、毎日バックパッカー食である携帯食ばかりで、美味しく栄養のあるものを

摂る必要があったことが予定変更を決心させたのである。

 

ボーデ港のチャイニーズレストランは、「竹龍」という。

肉と野菜たっぷりのローメン、シュリンプ・カクテル、ワンタン・スープに、ライス付と、

豪華に注文した。

もちろんノルウエーのクラフトビール<OSLO>で乾杯。 コーヒーで締めくくった。

                  

                                                           フェリーは<ボーデ港>に着いた

                                                                     Ferry<TYSFTORN>

 

                                                           ボーデ港で出会ったハーレ仲間と

 

ノルウエー性風俗二景、素っ裸でシャワルームより出てきて前を隠さず立ちはだかる若

い女、トイレでこちらの一物をじっと眺め、ぶつぶつ言っている中年男、東洋の美青年

にモーションをかけているのだろうか・・・・(笑い)

 

▼  9/22 宿泊 <BODO VANDERHJEM Youth Hostel> (ボーデ/ノルウエー)

 

                 

                                                          BODO VANDERHJEM Youth Hostel

 

 

                 

                                               ボーデ・ユースホステルのドミトリーで

 

 

 

■ 9月23日 列車移動 <ボーデ駅➡ファウスケ経由➡トロンヘイム> 

 

静かな日曜の朝、午前中は海を眺め、フィヨルド迫る街を散策し、ヘルシンキ以来の過

密スケジュールからくる疲れをとることにしている。

ボーデの街を散策し、句を作りスケッチをしながら過ごすことにした。

 

ボーデは、ちょうどノルウエー南北の中間点にあり、多数の島々と船で結ぶ交通の要所とし

て栄えた半島の先にある。 また鉄道路線とも接続しており、南北に走る国道、陸の要

所である<ファウスケ駅>にも近く、観光拠点としても栄えているようである。

いかにもバイキングの住処のような雰囲気を醸す静かな漁港でもある。

 

肌を刺すような冷たい潮風が、アイスランドの方から吹き付けてきている。

 

  妖精の 住すフィヨルド 雪帽子   實久

 

  バイキング 太古背負いし 雪の谷  實久

 

  白樺に 木洩れ日踊る 北極圏    實久

 

 

                     <ボーデ港散策>

 

 

                   ボーデ港・ノルウエー

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

始発駅である<ボーデ駅>11時35分発の列車Train#472で、ファウスケ経由、トロンヘ

イムに向かう。

列車での相席のノルウエーの女子学生さん、ローズ嬢とリン嬢からノルウエー人の人生

観や国民性、習慣について聞かせてもらう。 二人は、オスロ近郊に住み、ボーデの

ジャーナリスト・インスティテュート>に週3日かよっているとのことである。

とくに、世界観としてトルストイの言葉「光あるうち、光のなかを歩め」に話が及び、

北欧青年の宇宙観を聴くことが出来た。

それは、キリスト教化される前のノルド人(ノース人)の信仰に基づいており、興味あ

る話であった。

 

北欧ゲルマンの世界観では、この世は九つの世界から成るといわれ、

その一つに、神々と混沌による大いなる戦いで、命あるすべての存在が死に絶えるとさ

れた、北欧神話における最終戦争<ラグナロク>という世界観があるという話をしてく

れた。

仏教にも末法思想という考えがあり、「この世の終わり」を意味する終末的思想がある

ことを伝え、お互い「今を生きる」大切さを認め合った列車の旅となった。

バックパッカーとして世界を放浪していると、おのれの齢を忘れ、つい青年の情熱に浸

ってしまうのである。

この列車には、日本では見られない子供車両<Kid‘s Car>を連結しており、内部を見学

させてもらった。

また車窓よりノルウエーの風景をスケッチし、楽しんだ。

 

 

      

                フェリーと列車が接続するボーデ駅にて

 

        

                    Train #472 Kid‘s Car

                                                             Sketched by Sanehisa Goto

 

                             

                                         車窓からのNaeroyfjord/ネーロイ・フィヨルド風景

                  

                                            Naeroyfjord/ネーロイ・フィヨルド (車窓からの風景)

 

 

                                                         トロンヘイム近郊の星空と日の出風景

                       Train#472の車窓より

                                                                 Sketched by Sanehisa Goto

 

列車内での夕食は、バックパッカーらしく、中華のテイクアウト<肉・野菜炒め+ライ

ス>にローズ嬢差入れの生のニンジンをいただく。

目的地であるトロンヘイムには、21:35に着き、オスロ行きの夜行列車に乗り換え

て、翌日朝 07:00 にオスロに着く。

 

▼ 9/23 列車泊   <21:35着 トロンヘイム 22:30発 ➡夜行列車乗換 ➡翌日07:10着 オスロ

                                                               

               

                                                                 オスロ➡ベルゲン 特急夜行列車にて  

 

           

■  9月24日  夜行列車<オスロ ➡ ベルゲン>

 

朝一番、食堂車でコーヒーをいただきながら、遠く明けゆくスカンジナビアの峰々の息

吹きを感じ、心の平安と、豊かな恵みに感謝した。 コーヒーを口にしながら夜明け前

オスロ近郊のスケッチを画き上げた。

 

                                                                  オスロ近郊<夜明け前>

                                                              Sketched by Sanehisa Goto

 

     

               ノルウエ―鉄道の特急夜行列車

なんとゆっくりと、心豊かな時間をノルウエーの人々は享受していることか。

静かに自然と溶合い、時の流れに逆らわずに生きている姿に人間としての尊厳を見る思

いである。

同乗のローズ嬢とリン嬢との別れを惜しむ。 ジャーナリストとしての夢が成就するよう

に祈り分かれた。

 

07:10 ベルゲンへの乗換駅オスロ駅に定刻到着した。

     さっそく、駅構内でベルゲン行のサバイバル食料(バナナ・リンゴ・ビスケット・

     水 38KR)を調達する。

 

08:25発  ベルゲン行の列車は、1等車のみの列車編成、それもユーレイル・パスが使え

     るという。

     ミュージック・イヤホーンサービス、ソフトドリンク・赤ワインサービス、アペタ

     イザーとゴージャスなサービスである。

     食堂車でいただくランチも、バックパッカーとしては贅沢そのものである。

            アペタイザー(サーモン・ブルベリー・ライム)、バター味付きポテト+ローストビーフ

             赤ワイン、フルーツ(オレンジ・ストロベリー・アップル)、パン、バター、ジャム、

             コーヒーと、   

 一流ホテル並みである。

 

                             

     

      

               ユーロパス1等車 <夕食メニュー>

 

ノルウエーの人々、いや北欧の人々は、<生きる喜び>を感じることにたいして貪欲さ

が見られる。 それを成就するための工夫をし、国を挙げて総力を挙げ、全員で勝ち取る

姿勢が凄いのである。

女性70%の就労という男女平等社会の実現、社会保障制度の充実に見る「高福祉・高

負担」の分担、年金制度による老後保障政策の充実など、その社会福祉政策は日本も

見習うべきところが多々あると云える。

高齢少子化を迎える日本には、いまだ25倍の人口を抱えているのである。

ノルウエーは、500万人、東京都の半分以下の人口で<豊かさ>を感じる国造りに励ん

でいるのである。

 

少し、ノルウエーの生活をのぞいておきたい。

物価で見ると、日本と同じだが、ロシアの倍だろうか。 

サンドイッチが49KR(約600円)である。

Credit CardのVISAが使えなくなり、AMEX(アメリカン・エクスプレス)Cardに切り

替える。

女性の化粧は、男女同権を掲げる国らしく、素顔が多く、歩き方もどちらかと言うと男

性的である。

幼児や、子供の育児にも男性の参加が進んでいて、乳母車を押す父親の爽やかな姿が印

象的である。

 

フロムへの山岳列車乗換駅ミュダール駅手前のFINSE駅付近(12:35)で、「現在、列車

は 1228m 地点を通過中」とのアナウンスがあった。

どうも、ノルウエー鉄道路線の最高地点を越えているようである。

1800m級の峰々は雪帽子をかぶり、観光客を歓迎しているようである。

フィヨルドは、100万年もの長い時間をかけて氷河が山塊を削り、創り上げられた偉大

なる造形作品である。

 

フィヨルド観光の入口・フロム / Flamへは、トロンヘイムからの道路はない。 複雑なフィヨルドを避けて、列車によりオスロ経由でしか行けない。

   

                                           乗車路線<ボーデ➡トロンヘイム➡オスロ➡ベルゲン>

                                        Bodo➡Trondheim➡Oslo➡Bergen

 

ミュルダール/Myrdal駅で、13:30 発フロム/Flam 行の山岳列車、日本からのフィヨル

ド観光の団体客であふれる列車に乗換えた。

山岳列車は、美しいフィヨルドのオンラインにあり、人を近づけさせない岩の塊という

厳しい急こう配を下っていく。 その間、植栽を許さない岩壁からきれいな滝が流れ落

ち、フィヨルドに一幅の水墨画を見せてくれるのである。

もちろん、この滝は氷河や万年雪の融水である。

よくもこれらの巌岩にトンネルを穿ち、山岳鉄道を敷設したものである。

 

お召列車のように急こう配のトンネルを潜り抜け、ゆっくりと進む山岳列車は、次々と

景色を変え、楽しませてくれる。 乗客は、自由に席を移動して、氷河や雪渓を楽しむ

ことができる。

秋真っただ中のノルウエーのフィヨルドは、特に紅葉が美しく、目を楽しませてくれ

る。

                       

                 

                              ノルウエ―・フロム路線最大の滝<ショースフォッセン/Kjosfossen>

 

ミュルダール / Myrdal駅から、フィヨルド観光の基地フロム / Flam駅へは、標高差900m

を一気にシーレベルまで下る山岳鉄道で、世界で最も美しい路線ともいわれている。

なかでも、途中下車して見せてくれるショースフォッセン(ショース滝)は圧巻であ

る。

フロムを中心とする、世界遺産ソグネフィヨルド>は、大きな山とフィヨルドですっ

ぽり囲まれたフェリーによる観光拠点である。

また、フロムは、海賊バイキングや北欧神話の雰囲気を残す村で、クラフトビールの醸

造所(エーギル・ブリッゲリーエ社)の建物やその内部のインテリアにその影響を見る

ことができる。

 

ソグネフィヨルド観光> 

世界遺産である<ソグネフィヨルド>へは、ほとんどが観光ツアー参加の団体客であ

る。

こちらは、単独のバックバッカ―、現地のフィヨルド・ツアーに参加した。

 

 

                 

                                          バイキングの影響が見られるクラフトビール醸造

 

                 

                                                     フェリー観光船よりソグネフィヨルド観賞          

 

                                                         世界遺産ソグネフィヨルド>を堪能

 

              世界遺産 ソグネフィヨルド観賞拠点<フロム>

                ―観光フェリー & 山岳鉄道列車―  

                  Sketched by Sanehisa Goto 

 

 

     

              ノルウエ―・フロム線 山岳鉄道列車 17-2227

                    <Flam ⇔  Myrdal>
 

                  

                 世界遺産ソグネフィヨルドの景観

                     Sketched by Sanehisa Goto

 

観光フェリーによるクルージングから見上げる氷河によって削られた深い谷と、断崖絶

壁の頂に残雪の残る絶景や数多くの幻想的な滝を堪能した。 時間を惜しんでスケッチ

にも励んだ。

 

フェリーは、約2時間のフィヨルド観光を終え、終着港クドヴァンゲンに到着した。

ここからは、バスに乗換てベルゲン鉄道のボス駅に向かい、 ノルウエーの第二の都市

ベルゲンに立ちより1泊することにした。

 

               

                                     バスでクドヴァンゲンよりボス駅に向かう小休止のホテルにて

 

今夜は、フィヨルド観光の入口でもあるベルゲンの<モンタナ・ユースホステル>に宿

泊する。

モンタナYHへは、路線バス#31で、13番目のバス停で降りる。

 

▼ 9/24  Montana Youth Hostel泊 (Bergen)

 

     

            Montana Youth Hostel

           Bergen/Norway

               

 

 

■ 9月25日  <ベルゲン➡オスロ

 

モンタナ・ユースホステルのドミトリー(6人部屋)では、オーストラリアの青年アン

ドリュー、ビッキー、ジョリー3人組との相部屋である。 彼らはIT企業に勤務し、バケ

ーションをとってスカンジナビア半島を旅行中とのことである。 

夕食に招かれ、自炊で作ったベーコン入りクリームソース・マカロニをご馳走してくれ

た。 自分たちでクックしながら旅行を楽しんでいる素敵な青年たちである。

こちらも、赤ワインとチキンサンドを差入れて食卓を飾った。

 

今朝は、同室のオーストラリアの青年たちに朝早く別れ、ひとりノルウエーの原風景を

楽しむため、駅までの4㎞を、徒歩で2時間かけてゆっくりと散策を楽しんだ。

     

          早朝、ベルゲンの港町を見下ろしながら列車駅に徒歩で向かう

            

                ベルゲンを取巻く氷河をいだく峰々

 

この海に向かって開けたフィヨルドの街 ベルゲン(ノルウエー第2の都市・35万人)

にも、ここでしか味わえない北欧の生活に出会えた。

まず気付くのが、自転車による通学・通勤の圧倒的な多さである。 <エコイズム>を優

先させ、整然と整理された自転車道の素晴らしさ、ヘルメットの着用、交通規則の徹底

など、車に優先させた思想<ユックリズム>の広がりに目を見張ったものである。 車も

歩行者第一、安全に徹した運転に感心させられた。

また、いたるところで乳母車を押し、公園でブランコを押し、子育てをする多くの

若き父親の姿に出会った。

 

 

                ノルウエ―・ベルゲン・メルケン街

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

   

                    ベルゲン駅で朝食を

 

ベルゲン 07:58 発の列車#62 は、オスロに 14:45 に着く。

 

ノルウエ―の山岳鉄道列車は、氷河を抜けて突っ走り、乗客は好きな席に移動して美し

い雪渓や、氷河を楽しむのである。

9月末のノルウエ―の紅葉もまた素晴らしい。

生きとして命あるこれらの紅葉が一斉に命輝かせるのであるから、言葉では言い表せな

いほどの美しい姿にこころ打たれた。

 

オスロに着くと、まず今夜の宿となるオスロユースホステルオスロ・バンドレル・

ハラルズヘイム/Oslo Vandrerjjem Haraldsheim>に向かった。 

栄養補給のため中華料理店を見つけるためである。

同じドミトリーに、カナダからの大学生で、1年休学し世界を回っているバックパッカ

ーJohn君がおり、日本語を習いたいとのことで、相手をさせられることになった。

お手玉4個の名人で、握り寿司が大好きであることをテーマに日本語教室がさっそく持

たれた。

 

▼9/25  オスロユースホステル   (ドミトリー160NCR)

 

                 

                                 オスロユースホステル

 

 

■  9月26日  <列車移動>  オスロ(ノルウエー)➡ストックホルム(スエーデン)

            列車番号IC50 : オスロ 07:32発 ➡ ストックホルム13:20 着

 

07:32 発 ストックホルム行列車に乗るため、オスロYHを早めに出た。

しかし、前もって調べておいた市電での移動がストライキで、やむなく市バスに変更す

ることになり、列車に間に合わせるためには随分慌てたものである。

ツアー以外の、単独旅行では、おのれしか頼れるものがないため、前段階でのスケジュ

ール管理と、時間管理は特段に厳守しない限り、旅は頓挫してしまうことになる。

列車・バスは1時間前、飛行機では2時間前には、駅・バスステーション・飛行場に到着

していることが求められるといえる。

ノルウエー通貨―クローネ(NOK)を使い切るために、キオスクでランチ用シュリン

プ・サンドを購入する。

 

09:35 ノルウエ―/スエーデン国境の街<Charlottenberg駅>を通過中である。

EC(ヨーロッパ連合国)間では、国境が取り払われ入出国の検査がなくなったこと自

体、バックパッカーにとっては有難いことである。

国境ごとに、立ちふさがる難問と時間を乗越えて初めて国境を越えられることを考える

と感無量である。 (2001年当時、EU/ヨーロッパ共同体はまだ結成されていなかった)

 

10:30 スエーデンに入り、Vanerin Lake(ブエーネル湖)の風景に見惚れた。

さっそく湖面に映る村の景色をスケッチにおさめた。

 

                                                                      Vanerin Lake /  Sweden

                                                                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

ストックホルム 13:20 着、さっそく栄養補給のため中華<ドラゴンパレス>飛び込

んで<肉野菜炒め・焼き飯・ワンタン>をオーダー、かなりの量なので半分はテイクア

ウトして、夜食に当てることにした。

食べすぎからか、珍しく腹を下す。 どうも生ものからくる細菌性のようだ。 生水には

特に気を付けているが、用心することにした。 ただちに正露丸を放り込む。

 

洗練されたストックホルムの街に映える夕焼けの美しいこと、見事であり、ロマンチック

である。

教会から流れる鐘の音、真白な月、茜さす夕焼け雲、真白な帆船、たたずむ中世風建築

物など、幸せを表現している町である。

旧市街の街並みも、イタリアのアシジを思わせる職人の街であり、中世風路地裏に魅了

させてしまった。

 

 

今夜は、ユースホステルとして使われている、港に錨を降ろした真白な帆船で宿泊する。

多分、夢の中でお伽の国を走り回ることになりそうである。

 

▼ 9/26 宿泊 <アフ・チャプマン・ユースホステル>  

           ストックフォルム /  スエーデン

 

磁気カード式ドアーキーを供えた8人部屋(ドミトリー)、ドイツ青年2・イギリスと

フランスの夫婦2組・中国青年・出張中のスエーデン会社員2に、私の8名である。

セキュリティーも万全、シャワー・トイレも清潔だが、ロッカーには持参のカギが必要

である。

   

     

     

                 YHの帆船 と ストックホルム

                <アフ・チャプマン・ユースホステル>  

 

 

■ 9月27日   ストックホルム

 

ストックホルムは、クラッシックとモダンの融合の街である。

緑樹とモダン色、太陽の演出である夕焼けと朝焼けと、すべてにハーモニーで成り立っ

ている。

どこか人間の英知が生み出した都市美の極致と言っても過言ではないであろう。

素敵な街並みである。

そこに住み、維持している人々の豊かさとゆとりを感じた。

 

コペンハーゲンに向かうユーレイルに乗る前に、ストックホルムの街を散策し、スケッ

チに励んだ。

 

いよいよ、スカンジナビア半島北ヨーロッパから、中央ヨーロッパである西欧、東欧

へ向かう。

北欧から西欧へ、ストックホルムからコペンハーゲンへは、橋で渡るのだから驚きである。

フェリーで渡るものとばかり思っていたからである。

       

               港に囲まれたストックフォルムの美しき街

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

          

          ストックホルム港の浮かぶ真白なYH帆船 と ストックホルムの街

 

          スウェーデンの国旗 - 世界の国旗

                 スエーデン国旗

 

 

■ 9月27日  列車移動 <ストックホルムコペンハーゲン

 

中央ヨーロッパは、バックパック(個人旅行)や家族旅行、ツアーなどで何度も訪問し

ているお馴染みのエリアである。

計画を立てるにあたって、ヨ