shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

 

<本能寺後の明智光秀 と 三日天下>

先に、明智光秀の最期の敗走ルートを歩いてみたが、その孤独な最期は京都山科小栗栖の「明智藪」で終わっている。 いま明智光秀の敗走の地となった山崎合戦場跡をながめる天王山(山崎城跡)に立って、その原因となった<本能寺の変>後の光秀の足跡を見ておきたい。

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         天下の分け目 天王山(山崎城址)(標高280m)山頂にて

 

ここでも、明智光秀を中心に天王山「山崎合戦」を眺めたい。

 

まず、本能寺の変や、山崎合戦の短時間での勝敗に驚かされるのである。

本能寺の変は、6月2日の早朝4時からの4時間で信長を自刃させ、本能寺を制圧。

山崎合戦は、6月13日の夕方4時半から秀吉軍との戦闘開始、秀吉軍の淀川沿いからの後方攪乱により光秀軍総崩れとなり、夕方7時には勝竜寺城への敗退となり、約2時間半の戦闘での秀吉軍の勝利で終わっている。

 

本能寺の変で、光秀と重臣達は「信長を討伐、天下の主となるべき調儀」を練ったあと、たてまえは上洛中の家康訪問ということで老ノ坂を越え、京都沓掛の備中高松城と京への分岐にいたる。

ここ沓掛の分岐ではじめて全軍に向かって「敵は本能寺にあり」と宣言。その後、約4時間の戦闘で、信長を自刃に追い込み、本能寺を灰燼に帰し、首級を上げられないまま制圧を終える。

また別動隊は、二条城にいた信長嫡男である信忠をも討ち取っている。

 

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               楊斎延一作 <本能寺の変>    (東建コーポレーション提供

 

本能寺の変後、光秀は主君を討った謀反人というレッテルを貼られ、盟友たちに天下取りへ誘うが、ほとんど断られている。その間に主君の仇討と勢いづく秀吉の「中国大返し」の尼崎通過を、本能寺変後の近江平定に力を裂いていた光秀が聴くのは「山崎合戦」の3日前の6月10日である。

ここでもたった3日間で光秀直属軍16000は、十分な兵力や装備など追加の戦闘準備を整える間もなく秀吉軍40000との山崎合戦を迎える。

 

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                歌川貞秀作 「山崎大合戦之図」    (東建コーポレーション提供)

 

戦闘開始から約3時間後の19時に勝竜寺城に撤退、そのまた数時間後には近臣数名と夜陰にまぎれて明智家本拠であり、家族のいる坂本城に向かって敗走し、またその数時間後の 6月14日未明に京都山科小栗栖の竹藪(光秀最期の地「明智藪」)で、地元百姓の武者狩りの槍に刺され傷つき、自刃の後、家来に首を斬らせている。

 

光秀最期の11日間の何と短いことか。歴史の節目の大切な時間を、光秀は己を見失ったように駆け抜けていることに驚くのである。

 

山崎合戦の戦場跡に立っても、その戦略なき戦術に光秀の狼狽ぶりを見るとともに、孤独な武将の想い通りにはいかない焦りを感じるのである。

 

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               小国碇 作「小栗栖之露」    (大山崎町歴史資料館提供)

 

光秀の無策や盟友の離反からか、すべての作戦にあたって短時間での決着を見ており、特に決起から自刃までの短期間をもって「三日天下」といわれている。

 

<天王山からの眺め>

天王山への登山路は<秀吉の道>ハイキングコースになっている。 秀吉軍のシンボルである千成瓢箪を掲げて見方を鼓舞したといわれる<旗立て松>から、山崎合戦跡の隘路を形成している大山崎の地形を見下ろしながら、光秀と秀吉のそれぞれの想いに馳せてみた。

 

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       天王山ハイキングコースにある<旗立て松>より<山崎合戦場>を眺める

        

       写真解説 : 左から右へ走る京都縦貫自動車道(手前)と交わる名神高速道路の

              大山崎インターチェンジ辺りが<山崎古戦場跡>である。

              京都縦貫に沿って流れる<小泉川>を挟んで両軍は対峙した。

              小泉川より奥(北東)に光秀軍、手前(南西)に秀吉軍が布陣した

              写真右端に三川合流点があり、大山崎が突き出て、隘路を形成している。

              ここ天王山から写真左端に伏見桃山城が望遠でき、

              その背後に光秀 最期の地・山科小栗栖<明智藪>がある。

 

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               天王山中腹にある「旗立ての松」 

 

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        古戦場を一望できる旗立松展望台に建つ<山崎合戦之地>石碑

 

 

振り返ってみて、光秀はなぜ死に急いだのか。

実直であり、慎重な光秀を「本能寺の変」、それに続く「山崎合戦」を決意させ、戦略なき作戦とみられる事変を実行させたのか。

本能寺の変」に先立って、愛宕山に参詣、必勝祈願をし、直前まで決められなかった謀反・主君殺しに対する迷いを払しょくするためにおみくじを三度もやり直し、大吉が出るまで引いたとも言い伝えられている。

 

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            大岩山(小栗栖-光秀最期の地)より愛宕山(中央)を望む

 

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          大岩山(小栗栖)より見る伏見桃山城(中央)の背後に天王山があり、

          ここ大岩山を背後に下った小栗栖に、光秀最期の地<明智藪>がある。

 

 

誰が見ても勝ち戦は見込めない一連の流れや、光秀本人が一番理解していた謀反に対する自己嫌悪があったにもかかわらず、なぜ最後の手段に訴えたのであろうか。

諸説が言い伝えられているように、そのすべてに悩み苦しんでいた光秀だとしても、光秀が己を少しでも見失っていなければ、己を押さえることのできる聡明な考えに従っていたと思うからである。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみたい。

 

<レビー小体認知症説>

まず考えられるのは55歳という初老の光秀は、すでに幻覚と妄想を引き起こし、臭覚のマヒに侵されるレビー小体認知症にかかっていたのではなかったか、という説である。

光秀は、すでに幻覚の中で天下取りの自分に出会って、その気になっていたのではなかろうか。妄想はさらに、天下人となった自分を信長の立場に置き換えて、己の描く世を強く願っていたかもしれない。

また、レビー小体認知症にも見られるように、幻覚と妄想から覚めた自分との乖離に心身ともに疲労困憊していたとも思われる。

さらに追い打ちをかけるように、安土城での家康接待役での、腐った魚を出して信長に打擲・罵倒される仕打ちにあったことへの怨恨へと続いていったのではないだろうか。

さらに、光秀のレビー小体認知症の症状を悪化させるように、信長の丹波および近江坂本の領地を召し上げ、まだ敵国であった出雲・岩見への領地替えや、備前高松城攻めの総大将秀吉の配下としての下知など、光秀の自尊心や、服従心に疑問を投げかける命令が続いていた。

光秀はそれら信長からの不信感に耐えられなかったとみる。

本能寺の変前に、光秀はおのれの限界を押さえられなくなって暴走したといえる。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみた。

 

<光秀の盟友たちの離反>

このような光秀の症状や苦悩を、光秀に近かった細川藤孝筒井順慶らは気づいていたのであろう。さらに彼らは、光秀の性格からして、天下人にはなりえないことを誰よりもよく認識していたといえる。現実に、彼らは光秀の期待に応えることなく、それぞれ理由をつけて光秀に与することはなかった。

本能寺の変後、すでに光秀から人心が離れ、光秀は裸の王様になっていたといえる。

 

細川藤孝は、光秀が長年にわたって親交を温め、互いに助け合ってきた盟友であり、娘たま(細川ガラシャ)を嫡男忠興に嫁がせるほどの仲であり、両家の結びつきは深かった。

婚姻関係は、互いの同盟関係であったはずである。光秀は間違いなく細川親子は自分の味方だと信じていたといえる。

しかし、細川藤孝・忠興親子が、光秀の本能寺の変後、髷を落してみずから蟄居したことを知って、光秀は三ケ条の覚書を送り、自分には今回の行動に私利私欲はなく、天下を狙ったものではないとのニュアンスを伝え、今後とも友情を深め、味方になって欲しいとの書状を送っている。

また領地に希望があれば申し出て欲しいとのことや、近国を固めたあとは隠居するつもりだとの内容を添えている。

盟友・細川藤孝のこころは、すでに本能寺の変の前に光秀から離れていたといっていい。

 

一方、同じく盟友であった筒井順慶の「洞ケ峠の日和見」は有名である。洞ケ峠は、京都八幡にある男山の南に続く峠である。

天王山「山崎合戦」前、男山に本陣を構える計画であった光秀は、その足で-みずから順慶軍が集結して、日和見を決め込んでいた洞ケ峠に出向き、半日かけて順慶を説得している。しかし順慶は、信長によって規定されていた大和の与力衆の意見に従って秀吉に与し、洞ヶ峠より兵を引いたのである。

振り返ってみると、光秀が最初に陣を張ろうとした八幡男山の後方にある洞ヶ峠に筒井順慶軍もまたすでに駈けつけていたのである。その後、光秀は秀吉軍の規模の大きさに対処するため、順慶の説得を諦め、男山の陣から山崎の平野部に本陣を移動させてしまっている。この時、筒井順慶の光秀離反は決定的になったのではないだろうか。

また順慶は、洞ヶ峠より見下ろした両軍の陣の優劣や、兵力の配置状況や、攻防の推移をも想像できたと思われる。

百歩譲っても筒井順慶は、光秀の恩に報いて、ただ一人でも光秀軍に参加してもよかったはずである。だが、順慶が光秀に与しなかったのは、先に述べた主君殺し・謀反という世間の光秀観に恐れをなしたともいえる。

 

しかし見事な盟友たちの離反である。賢明な光秀がいかに滑稽な役を演じたのか、最大のライバルである秀吉のその後の天下人への実績をみれば納得できる。

また、光秀を三日天下に終わらせてしまった秀吉の凄さがうかがえる。

当時、山崎合戦場を見下ろせたであろう天王山の山頂、山崎城跡に立って光秀の盟友たちにしばし想いをはせた。

 

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      天王山中腹より三川合流点越えに見える光秀本陣候補地であった男山(八幡)

     男山右手に下ったところに「洞ケ峠の日和見」といわれる筒井順慶終結地がある

 

 

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       明智光秀          細川藤孝            筒井順慶

 

<地の不利>

山崎の合戦跡に、戦いの始まった午後4時半ごろに天王山(標高280m)に登ってみた。西陽を背にしてみる山崎の平野部の目標物すべてがくっきり浮かび上がり、動きを正確に把握観察できる高さにある。

逃げ込める勝竜寺城を背に、陣をひいた光秀軍は、初戦から敗走の陣をひき、弱小軍のイメージを植え付けている。なぜ、奇襲奇策を練らず正面からの戦いを挑んだのであろうか。

光秀軍は、40000に近い秀吉の大軍を迎撃する戦略陣形ではないということである。

 

先述したが、光秀は当初、淀川対岸にある八幡、男山に陣を置こうとしたようである。

敵の天王山に対し、光秀は八幡の男山になぜ陣を残さなかったのであろうか。 秀吉側の大軍に抗しきれないと判断し、急遽山崎の平野部に本陣を移したというが、戦術的に敵の背後をつくと見せかける奇襲攻撃のための遊軍を男山に残さなかったのは光秀らしくない。

 

一方、秀吉の本陣や陣形は、天王山や太陽を背に、隘路付近を押さえ、万全の布陣であることが、天王山に立つとその地形的優勢がわかる。

文献によると、合戦の日は曇天で、前夜に降った雨で平野部にあった大きな沼付近の湿地帯はさらにぬかるんで足をとられたようである。

秀吉軍は、沼と淀川のわずかな地続きを突破し、光秀軍の側面、背後をついた時点で、光秀軍は浮足たち始めたと陶板絵図は語っている。秀吉軍の攻撃に、絵図の左側の光秀軍は後方にある勝竜寺めがけて敗走を始めているように描かれている。

 

地の利からしても、秀吉軍の有利が一目瞭然で、光秀軍は不利であることが判然としている。

 

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North         天下分かれ目の山崎合戦絵図  <天王山>          South                       (絵図は西から東を向いて描かれている。絵図をクリックすると拡大絵図になる。)

     

       絵図解説天正10(1582)年6月13日午後4時半ごろ、天王山と淀川の

            わずか200mの隘路から出てくるは秀吉軍を各個撃破する

            光秀軍の作戦が開始された。

            合戦が始まって1時間後に、秀吉は本陣を宝積寺より天王山の

            東(右端上)に移している。

            光秀の本陣は絵図左手に構え、後方の小畑川と前方の小泉川に

            挟まれている。

            また永荒沼の周りの湿地帯を戦場に選んでいるところに光秀軍の

            戦術をうかがい知ることが出来る。大軍を沼地に引き入れ討つ

            戦法と言えようか。

                 秀吉軍は、大山崎の村からと、淀川沿いに駆け抜けて光秀軍の

                 側面と背後に廻って攻勢をかけている絵図となっている。

                 合戦開始から1時間後のこの絵図でもわかるように光秀軍の一部

                 は、すでに勝竜寺城方面に向かって敗走を始めている。

                 山崎合戦は、午後7時ごろ秀吉軍の勝利で終了している。

                 約2時間半という短時間決着となった。

 

 

反対に、光秀側の各本陣にも立ってみた。天王山方面は、曇っていたにせよ西陽の明るさにより山をはじめ敵側が灰色に染まり眺望が一段と暗さを増していた。

 

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        山崎合戦場跡から天王山を望む          石柱碑<天下分け目の天王山 

                                                                                                                                         山崎合戦場跡>

 

 

午後5時頃の夕暮れの迫った合戦場(写真左)、光秀側より秀吉側を見た時の眺望、敵の動きが見えにくいことが分かる。写真中央に天王山を背景に石柱碑<天下分け目の天王山 山崎合戦場跡>が建っている。 (天王山夢ほたる公園にて)

 

山崎合戦や明智光秀本陣跡、光秀が坂本城へ敗走する途中に立寄った勝竜寺城について、大山崎教委員会と長岡京市の解説案内文を参考に載せておきたい。

特に、光秀本陣跡の地理的位置は特定されておらないので、大山崎町の「明智光秀本陣跡-境野1号墳」と、長岡京市の「明智光秀本陣跡―恵解山古墳」の2説を載せておく。

 

               <天下分け目の天王山 山崎合戦>

     「織田信長の天下統一は目前に迫っていた。天正10(1582)年6月2日、毛利攻めの

                  総仕上げに向かうため京・本能寺にあった信長を亀山城主で家臣の明智光秀が急襲した

     のである。

     手勢僅かの信長は紅蓮の炎の中で亡くなってしまう。世に言う「本能寺の変」の勃発である。                          この変によって光秀はポスト信長の最右翼に躍進した。

     3日「信長死す」の知らせは備中高松城で毛利の先鋒清水宗治軍と対峙していた羽柴秀吉

     元にも届く。秀吉は黒田官兵衛の進言により戦いを納めるため毛利との講和を急いだ。

     城主の切腹、開城を条件に講和を固めることが出来た。

     毛利の主力が引き上げるのを確認すると、世にいう「中国大返し」の始まりである。

     1日に50キロ以上を移動し京へ向けて突き進んだ。

     一方光秀は、京周辺の武将に同心,合力を求め書状を送るも応じる武将は少なく、

     娘が嫁いだ丹後の細川藤孝、忠興父子にも見放されてしまった。

     12日羽柴軍は摂津富田に進行。 光秀は京から桂川を渡り、長岡・勝竜寺城付近に主力を展開

     した。

     13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現小泉川)を挟んで羽柴軍36000,

          光秀軍15000の軍勢が対峙した。

                 そして午後4時30分頃合戦の火ぶたが切って落とされる。高山右近中川清秀池田恒興等摂津

                 に いる主要な武将を味方につけた秀吉軍は一方的に攻め、わずか1時間余りで勝利を収めた。

                 大山崎の住人は合戦に巻き込まれることなく住んだことに安堵したことであろう。

                勝利した秀吉は天王山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指すことになる。」                                                                                                                                         大山崎町教育委員会

 

    明智光秀本陣跡-境野1号墳>

     「境野1号墳は天正10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山<山崎合戦>

     の時、明智光秀の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。

     <太閤記>の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当時周辺の地形を考慮

     すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられている。

     古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺に比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に

     視界がひらける。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの

     場所が、本古墳であったと云える。

     合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わる。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝竜寺城

     から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最期を

     遂げたといわれる。」                        大山崎町境域委員会)

 

    

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                光秀本陣跡(推定)<境野1号墳> 

    

    

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           <境野1号墳>隣接の墓地から天王山を望む

 

    <明智光秀本陣跡―恵解山古墳>(いげのやまこふん)

     織田信長明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した

      山崎合戦 は、あまりにも有名であるが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった

      可能性がある。

      発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土している。また、後円部にある

      現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、

      光秀方が恵解山古墳に陣をおいた際の造作である可能性がある。」 

                                  長岡京市教育委員会

     

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                光秀本陣跡(恵解山古墳)

 

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             光秀本陣跡(恵解山古墳から天王山を望む              

 

     

<秀吉軍本陣跡>

秀吉軍本陣はそれぞれの役割に従って3か所あったと推測される。

中国大返しの時に秀吉が入った兵站総合指令所としての本陣<高槻・上宮八幡宮>と、

合戦総合指令所としての本陣・天王山麓にある<宝積寺>、

そして前線本陣として<大山崎瓦窯跡>付近に設けられたと推察される。

 

     

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左: 高槻・上宮八幡宮境内にある<山崎合戦秀吉本陣跡>石柱

                右: 天王山麓にある<宝積寺>に秀吉本陣があったともいわれている

 

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           秀吉軍合戦場最前線本陣跡と推測される<大山崎瓦窯跡>

          (当初予定された光秀軍本陣 男山(八幡)が正面に見える)

 

 

<戦闘開始時間の疑問>

なぜ、朝早くの戦闘開始ではなく、夕方近くの戦闘になったのであろうか。ここにも光秀の誤算があったような気がする。多分秀吉側の理由に、光秀側が巻き込められて夕方からの戦闘開始になったのではなかろうか。光秀軍は、兵力の大差、主君殺しの天下取りという謀反軍という心理が働き、すでに戦いへの意欲が薄れていたように思える。

 

次に、山側の陣地と、平野部の陣地では戦の仕方、難易が違ってくるのも当然である。

光秀側の事情は、本能寺の変後の味方してくれるはずの武将が動かなかったことにより、秀吉軍の約40000の兵に正攻法での対峙が出来なかったといえる。。

故に、高地の男山をあきらめ、<大山崎>の地の利である隘路から進出攻撃してくる敵を各個撃破する作戦に切りかえ、山崎の平野部にある隘路出口で待ち伏せする作戦をとったようである。

しかし、当日の天気にもよるが、湿地帯の泥濘に足をとられたにせよ、相手の勢いに押された光秀軍は勝龍寺城への敗走が続き、その日の夕刻7時頃には勝負がついたとある。

 

  <山崎合戦 と 勝龍寺城

   「元亀2年(1571)には、織田信長の意向を受け、細川藤孝によって大きく改造された。

    藤孝在城時の勝龍寺城は、小畑川・犬川に挟まれ神足と勝龍寺の集落を含む、いわゆる

    惣構の城郭として評価されている。

    天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同6月13日に、

    山崎合戦で羽柴秀吉と戦う。主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い

    合う戦いではなかった。

    一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、

    これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の2説がある。

    戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の

    坂本城大津市)を目指した。しかし、途中の山科・上醍醐付近で落ち武者狩りに

    遭い命を落としたという。

    寛文5年(1665)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれている。」

                         長岡京市の案内板より一部抜粋)

 

   

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                      山崎合戦布陣図       (長岡京市教育委員会提供)

 

では、次に光秀をとりまく不利とされる所説を見ておきたい。

 

<民の不利>

地の利でみたように、天王山と三川合流点(桂川宇治川・木津川が合流し、ここ大山崎から淀川となって大阪湾に注ぐ)の間の200mほどの隘路の大山崎(大きい山が突き出ている先)には、当時すでに現在と同じく商家や旅籠、人足や馬屋などが密集した河川陸上の交わる宿場があり、ロジスティックの中心であった。

信長も大山崎の地の利を最大限に生かし、商売繁盛に力を貸していたのである。大山崎の商売は信長という天下布武をまっしぐらに突き進んでいた武将によって守られていたといっていい。

その証として、信長は大山崎の町衆にお墨付きとして<禁制>(きんぜい・戦火より町を守るという一種の誓約書)を発行していたのである。

天王山の山崎の合戦でも、町衆は信長発行の<禁制>の実行を光秀にせまり、光秀からも山崎の合戦から町を守るという一種の誓約書をとっていたようである。結局、この隘路(大山崎の街の密集地帯)においての秀吉軍の各個撃破も曖昧となり、秀吉軍に容易に隘路突破を許したようである。

秀吉軍は、主君の発行した<禁制>をうまく利用したのと、町衆の信長寄りの姿勢に助けられ、光秀軍の隘路作戦を打ち砕き、早い段階で勝敗は決していたといえる。

 

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           織田信長禁制(東寺国境)が大山崎の油座にも発行されていた

 

信長の天下布武の捺印が押された同じ「禁制」が大山崎村の油座にも発行されおり、光秀は大山崎を戦いに巻き込むが出来なかった。反対に、主君信長の仇討を掲げる秀吉は大山崎の村をなんなく駆け抜け、光秀軍の側面と背後を突いている。

 

<時の不利>

なぜ光秀は、備中高松城攻略の加勢のため京都滞在中の信長を、この時期に討ったのであろうか。信長の天下布武邁進の絶頂期にである。

商売(楽市楽座)繁盛政策をも推し進めていた時期、信長の天下統一が見えていたにもかかわらずにである。

不思議であり、理解しがたい所がある。

もちろん、8歳ほども年下であり、それも55歳にもなった己を足蹴にし、折檻するなど、どうにも我慢が出来なかったのであろうが、いや、光秀にはそれに耐えられる教養と己を律する修養を長年積んできたはずである。

光秀は教養人であり、朱子学儒教思想論語を学び、主君への絶対的服従や道徳や倫理という価値観を誰よりも身に付けていたはずである。

その光秀が、本能寺の変で信長を自刃に追い込み、<主君殺し・謀反人>というレッテルを背負ってまで、何に対して忠誠を誓ったのであろうか。

戦国時代の主君殺しは、それ自体下剋上だとしても、正当化しない世論が形成されていたともいえる。

山崎の天下分かれ目の戦いでも、<主君殺し>により、味方であるはずの武将が離れ、庶民の味方をも敵に回してしまった光秀は、この山崎の合戦を聖戦と考えていたであろうか。

そこには光秀の戸惑いと、自責の念と不安が渦巻いていたように思えてならない。

 

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             織田信長が加納に掲げた制札 (円徳寺所蔵文書より)

          (札中ほどに、<一、楽市楽座之上、諸商売すべき事、>とある)

 

 

<噂の不利>

そこまで追い込んだものは一体何だったのだろうか。

多くの説が取り上げられているが、実母に対する信長の仕打ちや安土城での接待への信長の不機嫌に対する<怨恨説>、天皇や公卿による朝廷側の<そそのかし説>、ノイローゼ説、認知症説、二重人格説、天下取りの<野望説>や将軍義昭による<陰謀説>、秀吉が天下取りのために仕組んだ<黒幕説>のほか諸説がある。

最近では、安土城での家康接待にあたって、腐ったものを宴席に出したと怒って信長が光秀を打擲したのを受けて、光秀はレビー小体型認知症であるうつ症状や匂いに対する認知機能が低下していたのではないかという説まで出てきた。

かかる多くの説の言い伝えにより、光秀のミステリアスな行動に注目が集まるのであろう。

 

 

<策の不利>

本能寺の奇襲成功に対し、天下分け目の山崎の合戦では、平凡な戦をし敗れている。

少数をもって多数の群を打ち破るには光秀は奇襲を策すべきであったでろう。

天王山を先に秀吉軍側に抑えられたことも腑に落ちないが、もしそうだったにしても天王山の背後から奇襲攻撃をかけてみる必要があったと思われる。

負ける戦と知ってか、平地に本陣を構える結果となり、相手を打ち負かすという気概が最初からなかったのではないかと見て取れる。最前線の<境野1号墳跡明智光秀本陣>(または<恵解山古墳跡明智光秀本陣>)、そして最終的に逃げ込んだ<勝竜寺城>をも捨て、坂本城への逃避と、半日の間に目まぐるしく敗退移動を繰り返している。 

これらの撤退敗走に、友軍はどのように見ていたのだろうか。天下取りの合戦とみて参加した将兵の無残な姿が目に浮かぶようである。

 

 

<天下分け目の天王山-山崎合戦>

また秀吉が戦っていた毛利側が、秀吉の背後をついてくれることに期待をかけたがその気配もなく、光秀の望みは絶たれ、わずか16000名で合戦に臨むことになった。

光秀のもう一つの誤算は、淀川等三川を背にした陣(難攻不落の陣)を敷けなかったことにあるといえる。

先にも述べたが、一説によると〈禁制・きんぜい〉を守って三川を背に立ち並んでいた町家を避けて、本陣を平野部に移動させたところによる布陣の失敗である。信長が町衆と「禁制」を交わしていた約束を光秀も守ったためだといわれている。

斉藤利三ら参謀による坂本城亀岡城に籠城して軍勢を整えてからの合戦を光秀に進言した。しかし光秀は、山崎での決戦を命じている。また、戦略上重要な三川合流点と天王山の間に横たわる<永荒沼>さえ秀吉側に突破されてその地理上の防禦地点を確保できなかったことにもよる。

 

信頼厚い武将 齋藤利三の戦略・献策にも関わらず、光秀の性格である情深さや、領民や家族のことを大切にしてきた己の生き方に従うとともに、信長のような血なまぐさい無慈悲な戦を避けたかったのであろう。地元の坂本や、亀岡を避け、ここ山崎の地での合戦を決したとも思われる。

あとは時間の問題、その日の夕刻7時、陽は沈み勝敗は決してしまっている。

 

さらに、天王山を秀吉側に先に制されたことにより、平野部に陣をひいたことであろう。もし天王山の張り出し(大山崎)と三川を背後にした布陣であれば、隘路を抜ける秀吉軍を許さず、もう少し持ちこたえられたかもしれない。

やはり近習の武将を味方につけ、大山崎の地形を熟知していた秀吉側の勝利はすでに決していたといえる。

合戦布陣図からもわかるように、両陣営の対面する小泉川(円明寺川)は平野部から沼地に入り込んで湿地帯を形成していたことが分かる。光秀軍の劣勢は、合戦前すでに光秀もまたその軍団も認識していたように思える。

見てきたように、天下分け目の合戦は<天王山>ではなく、東側に広がる淀川沿いの湿地帯で行われた。 そして約2時間半の戦闘で、光秀は秀吉軍に敗れ、背後の勝龍寺城に逃れ、山崎合戦は終る。

 

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            山崎合戦の両軍布陣を現在の交通網からみる

            (現在、永荒沼は干拓され住宅地である)

 

 

その後、退却の勝龍寺城より夜が更けてから近臣数名と共に居城である近江坂本城に向かって敗走する。途中、山科小栗栖に差し掛かった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあって、重傷を負い、自刃して果てる。

 

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      勝龍寺城 (光秀三女玉輿入れの城・山崎合戦後敗退した城・坂本城への敗走の城)

 

ここに「山崎合戦」は終結し、勝者である秀吉は天下取りに邁進し、政治的にも、経済的にもまた、文化的にも覇者となっていく。

 

勝龍寺脱出以降の光秀敗走については、ブログ『明智光秀最期の地を歩く』を参照願いたい。

 

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

 

 

                                      『いざ天王山! - 山崎合戦跡を歩く』

                    

2021星の巡礼『明智光秀最期の地を歩く』

2021星の巡礼明智光秀最期の地を歩く』

 

明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる」が終盤に差し掛かったころ、わが家では明智光秀織田信長の性格の違いから、両者の血液型が話題になり、光秀の人となりを論じ合ったことがある。

 

天下統一を図った信長の女房役として、知性と良心あふれる才能を備えた智将が、夫婦間のつもりに積もった行き違いから、主君殺しという破廉恥な所業となり、共に倒れてしまった悲運な関係を解明するためであった。

 

今まで多くのNHK大河ドラマに接してきたが、幾つかを除いて真剣にまた楽しく年間を通して視聴することはなかった。

今回の「麒麟がくる」は、主人公 明智光秀が治めていた西近江の領地であった滋賀郡(志賀町木戸)に在住しているという親しみからと、明智光秀人間性に関心を持ったからである。

 

また晩年の光秀を輝かせ、栄光と挫折を見届けた坂本城が比叡比良連山の麓のびわ湖畔にあったことや、光秀の主君 織田信長天下布武安土城がこれまたびわ湖を挟んで我家と坂本城との三角点上に結ばれている地縁からでもある。

 

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                CG復元 坂本城

 

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                 CG復元 坂本城

 

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               坂本城と城下町のCG俯瞰図

 

麒麟がくる」をより理解し、歴史上の明智光秀の鬱憤と無念を少しでも晴らすためにもと、近くの明智光秀最期の地「明智藪」を歩き、万全の夫婦関係であったと思われた安土での信長による光秀への折檻の情景を想い描くために安土城天守閣跡に立つとともに、坂本城址や山崎の合戦の跡を歩いて光秀のこころの動きに触れてみることにした。

 

いまから439年前の天正10(1582)年6月2日に起こした「本能寺の変」前後の光秀の足跡は、すべて近江坂本城を中心に動き、山崎の合戦後 勝龍寺城大山崎)より坂本城への敗走の途中、後の秀吉築城の伏見桃山城跡となる森を経て、大亀谷から竹藪の続く大岩山の麓 小栗栖の地にさしかかった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあい、竹槍で無念の最期を遂げたと伝えられている。

 

光秀の血液型論争は最後に回すことにして、まずはボーイスカウトとして青少年時代歩き回ったハイキングコースである伏見桃山城(京都市伏見桃山)から大岩山(標高182m)経由小栗栖(京都市伏見区醍醐)に続く竹藪のなかの<光秀敗走コース>を60年ぶりに再び歩いてみた。

 

スカウト隊長をしていた1961年当時、この辺りは伏見桃山城の再建もなく、明治天皇陵から桓武天皇陵に続くうっそうとした森林でおおわれ、一大原生林であった。昼なお暗く、起伏にとんだ丘陵地は京都市伏見に団本部を置く京都ボーイスカウト第11団ボーイスカウト隊の格好の訓練の場であった。

当時はその北続きに大きな貯水池があり、その先の大亀谷から竹藪の中の細い道を東北に上って行くと大岩山を経て小栗栖にたどり着いた。

 

大岩山頂(標高182m)から京都市内や西山、遠くにそびえる光秀も本能寺の変の前夜訪れた愛宕山(標高924m)を眺めながら飯盒炊爨(はんごうすいさん・火を焚いて食事を作ること)に汗を流し、スカウト訓練をしたものである。手旗信号やモールス信号、縄結び、自然観察、追跡サイン、宝探しなど懐かしい思い出がいっぱいつまった山である。

 

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           大岩山(標高182m)より京都市内・愛宕山(右端)を望む

 

現在は、大岩山の近くまで住宅街が広がり、その姿は一変しているのに驚かされた。

とくに大岩山頂上付近は太陽光パネルが引き詰められ、土木関係の資材置き場となり、スカウト時代のハイキングコースの面影は、今はない。

ただ救われたのは、現在も「京都一周トレイル」として多くの市民ハイカーに親しまれていることである。知らずのうちに<光秀敗走路>をたどり、光秀と共に歩かれていることに歴史を感じていただければとこの紀行文を書き綴っている。

 

さて大山崎勝龍寺城を出て、居城である坂本城に向かって敗走のため光秀がたどっていた小栗栖の村へは、ここ大岩山頂より1㎞ほど手前の、Y字路を右へ曲がり、竹藪の小径を下っていく。

 

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            トレイル標識のあるY字路を右に入り竹藪の坂を下る

 

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           光秀一行もこの竹藪小径を下って小栗栖を目指した

 

坂道は急であり、曲がりの多い昼なお暗き竹藪でおおわれている。

竹藪のトンネルを抜けると畑が現れ、人家が立ち、小栗栖(石田)に出たこの辺りから現在は舗装された道に変わっている。

 

その最初のY字路、ここに光秀が通ったとされる小道(現在の路地)がひっそりと残されている場所がある。

Y字路を左に曲がり最初の家の右側に細い路地が残っている。この路地が手つかずの光秀の足跡を残している「光秀小栗栖敗走ルートの原始の姿」であると地元の老人が説明してくれた。

その右手の屋敷が老人の家で、その屋敷右隣にある細くて急なセメントの坂道が竹林の山に30m程延びており、突当りの立入禁止札の左手より手作りの階段を下りて「光秀小栗栖敗走ルート」である竹藪へと続いていく。

 

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        左の白い鉄柵に沿って唯一の<古来からの光秀敗走路>の一部が残っている

   中央の細いコンクリート坂道を上がり、突当りの左手の手掘りの段々を下りていくと敗走路に続く

 

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           <唯一の古来からの光秀敗走路>といわれる現存の路地

 

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  中央の細いコンクリート坂道を上がり、突当り左手竹藪の段々を下りていくと、光秀敗走路に続く

 

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            竹藪を下りていくと<光秀敗走路>に続く

 

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              光秀敗走路<小栗栖の竹藪>が続く

左手に大岩山よりの小さな水の流れや湿地を見ながら、うっそうとした竹林に挟まれ、汗をにじませてなだらかな坂を上って行くと、低い峠を越えて小栗栖(小坂)の村に向かって再び下っていく。

 

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            峠を越えて下っていくと小栗栖(小坂)の村へと続く

 

この竹藪を通る小径「光秀小栗栖敗走ルート」上には、わざわざ公道であるとの標識が貼られ、小径の崩落を防ぐため同好の士のマナーに注意を与えている。お互い光秀敗走小径を探訪散策するときは、竹の子畑の柔らかい赤土の崩壊を防ぐための土止めの竹柵には注意したいものである。

 

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           小径の崩落を防ぐため同好の士のマナーに注意を与える標識

 

峠から少し下ったT字路の右手に昔からの由緒ありそうな苔むしたお墓が十数基立ち並んでいて、この墓のいくつかは光秀一行を見守っていたのかもしれないと想像を豊かにさせてくれた。

その墓のほとんどの墓石に同じ家名<石田家先祖の墓>(石田は小栗栖所在の地名でもある)が見られる所から、この墓の中の人の内、歴史上の偶然かもしれない光秀最期の瞬間に立ち会った人たちがいたのかも知れないとも考えてみた。

 

光秀最期の地であった小栗栖の村民は、この苔むした墓石群の沈黙のように光秀の最期についてのすべてを封印したあと、長きにわたって沈黙を通してきたように思える。

 

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               小栗栖石田在の石田家先祖の墓石群

 

 

先に述べた竹林に囲まれ古色蒼然とした一列に並んだお墓群と語り合っていた時、この付近一帯の竹の子畑を管理し、育てているお墓の子孫とおもえる青年に出会った。

彼によるとこの道こそ「光秀小栗栖敗走ルート」であり、光秀はこの先で小栗栖の村に抜け出る前に、武者狩りにあって最期を遂げたと語ってくれた。

 

竹藪は太陽の陰りで一瞬暗くなり、光秀敗走の小径は今にも消え去りそうであった。

 

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その先のひらけた畑を左手に小栗栖墓地を見ながら進むと、右手に学校があり(小栗栖宮山小学校)、さらに進むと住宅街(小栗栖小坂)に入り、右手に「明智藪」という手書きの標識がある。

標識に従って200m程、本経寺を左に見ながらすすむと、左手に石碑「明智藪」が建ち、その先の植栽の竹林に明智光秀最期の地である「明智藪」がある。

 

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      竹藪を抜けると左手に<小栗栖墓地>、右手に<小栗栖宮山小学校>が見えてくる

 

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     小栗栖小坂に入ってY字路右手にある<本経寺・明智藪 右170m➡>の標識に従って進む

            (写真は来た道を振り返って写している)

 

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               明智藪>石碑と歴史案内

               (この先右手に明智藪跡がある)

 

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    木札<明智藪 天正10年6月13日 明智光秀が討たれたといわれる場所>と 浮世絵版画

 

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           明智光秀の最期 浮世絵「小栗栖の露」 画・小国政

                大山崎町歴史資料館提供)

 

現在は周囲の竹林が伐採され、ボーイスカウト時代の竹林の面影は完全に失われ、住宅地に生まれ変わる日を待っているようである。

残念だが、月日は移りいつの日にかこのささやかな記念碑の立つ手植えの竹林も住宅の中に埋もれてしまうのであろうか。

  

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       明智藪周辺の景観 <正面の明智藪の背後の醍醐の街、右手に本経寺の墓地>

 

400年近く風化した史実は、竹林に埋もれ、沈黙に閉ざされていたが、大河ドラマによって人々の記憶に宿り、明智光秀という人物像に光を当てたことは確かである。

ドラマには取り上げられなかったが、光秀の最期の竹藪を歩き、悲哀なる武将の気概に触れたいと、忘れ去られたこの地を訪れる人がいることに、埋もれた歴史のなかにかすかな光を見る思いがした。

この日も、数組の若いカップルが「明智藪」で手を合わせている姿に出くわした。

 

わたしたちボーイスカウト時代に歩いたハイキング<小栗栖コース>は、当時1964年開催予定であった第一回東京オリンピックに合わせて、国土開発の真最中であった。ここ大岩山頂からは、間近に名神高速造成中の竹藪独特の赤茶色の帯状の土がむき出しに東西に盛られ、京都を南北に分断していたことを記憶している。

 

そしてさらにその北、京都を二分する新幹線の高架の土台が延々と出来上がっていた。

この2つのインフラ整備開発は、1957に着工した名神高速と、1962年にモデル区間が出来上がっていた新幹線の大動脈であり、経済高度成長期1960~1970年代のシンボルとしてその大役を果たすこととなった。

この地で亡くなった光秀もまた、歴史の移り変わりを見守ったひとりかもしれない。

 

 

なぜ彼は、当時としては高齢者(56歳)であったにもかかわらず、主君を討ち果たすまで思いつめたのであろうか。なぜ隠居して人生を謳歌しなかったのであろうか。

人生は十人十色といわれるが、光秀は哀れであるとみるか、滑稽であるとみるか受け取るひとにより異なるといえる。

 

いや光秀は、信長という主君の想い描く世には絶対させたくなかったがゆえに、体を張って信長の想い描く世界を阻止したのではないだろうか。

自分の人生模様を、彼は後世に箴言として残しておきたかったのではとふと思った。

ただ沈黙を守る光秀に、歴史の風化を感じる一方で、光秀の想いが何時の世でも静かに受け入れられているような気がしてならない。

 

最後に、NHK麒麟がくる」の結末は、見る人それぞれに結論をゆだね、無難な終わり方で幕をひいたところに私としては不満が残ったのである。

この大河ドラマは、現代の光秀論として一考察を残すべきであったと思う一人である。

またいつの日にか、光秀は取り上げられるのであろうが、それは半世紀のちかもしれない。その時もまた光秀像は曖昧に語られ、今と変わっていないような気がしてならない。

 

 

明智藪>(あけちやぶ) 京都市伏見区小栗栖

近江国坂本城主 明智光秀は1582年(天正10)6月2日早朝、中国地方出陣のため上洛していた織田信長を京都 本能寺に襲撃して自刃させた。

その後、光秀は6月13日山崎の合戦で秀吉軍に破れ、近臣10数名と共に坂本城を目指したが、途中、ここ小栗栖にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により、あえない最期を遂げたといわれる。

この明智藪は、今日にいたるまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺の寺領となっている。」<明智藪案内標識より>

 

本通りに戻り、明智藪の標識の右手階段を上がると小栗栖館があったといわれる「小栗栖八幡宮」がある。信長の近臣小栗栖館の武士集団一党が明智待ち伏せ、打ち取ったとする地元の説もうなづけるのである。

京都近在小栗栖の衆が、本能寺の変後の山崎の合戦の報に接し、中でも信長の近臣であったとすれば、主人の仇をとるべく待ち受けていたとしても不思議ではない。

そのなかに先程出会った墓石群の石田家の人たちも歴史の証人として立ち会っていたかもしれない。

 

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             小栗栖館があったといわれる「小栗栖八幡宮

 

 

勝龍寺城坂本城間の抜け道としての小栗栖ルート>

山崎の合戦に敗れた明智光秀は、最期の夜逃げ込んだ勝龍寺城(しょうりゅうじじょう・京都府大山崎町)で休息し、闇夜に乗じて供回りと共に城を出て、居城である坂本城に戻るため人目のつかない間道をとおり醍醐にある小栗栖をへて近江の国へ抜けようとしていた。途中、小栗栖の竹藪で武者狩りの百姓の手にかかって最期を遂げたという説が、先にみたように有力な通説となっている。

明智光秀の野望は、俗にいう三日天下としてついえたのである。

 

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勝龍寺城は、信長の命により摂津と山城の境を守るため細川藤孝が築城した。光秀の娘たまは、細川藤孝の嫡男忠興と祝言を上げ、3年間の結婚生活をした城でもある。

姻戚関係にあった明智家の坂本城と、大山崎にあった細川家の勝龍寺城との間では頻繁に出入りがあったであろうし、そのルート(経路)も両家の密使の道、忍びの道、馬の道、物資運搬の道と幾つかの往来のルートがあったと思われる。

 

光秀敗走の道は、人目につきにくく、最短で、忍びの道であったと推測できる。

<小栗栖敗走ルート>も淀川沿いの間道を伏見に出て、現在の明治天皇陵のある桃山の森に入り込めば、身を隠し素早く動け、大亀谷からの竹藪に身を隠しながら小栗栖まで前進できる。

あとは推測だが、醍醐寺の裏手から高塚山(標高485m)、牛尾観音(標高364m)を経て音羽山(標高593m)に至り、逢坂の関(標高164m)より三井寺から坂本城に入るコースもあったのではないだろうか。

 

 

明智光秀敗走の小栗栖ルート と その前後の推定敗走ルート>

秀吉軍との<山崎の合戦>後の光秀敗走ルートを推定し、足取りをたどってみた。

 

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(敗走ルート概略図は、図をクリックし、拡大したうえで参照願います)

 

では、光秀敗走ルートを概略図の順番➀~㉑に従ってたどってみたい。

 

①山崎の合戦で、6月13日秀吉軍に敗れた光秀は、

 逃れた大山崎勝龍寺城を6月14日未明に脱出➡

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②淀川沿いの間道を夜陰にまぎれて進み➡

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 大山崎三川合流地点付近 (桂川・淀川・木津川)

 

③淀川(宇治川)にかかる観月橋付近より➡

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④森林の丘陵地帯(現在の明治天皇陵あたりから)に分け入り➡

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⑤(現在の伏見桃山城あたりの)森林のなかを進み➡

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  光秀時代、伏見桃山城はなく、森であった

 

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《現在、光秀敗走ルートとして明らかになっている大亀谷の竹藪から

 光秀最期の地といわれる光秀藪までを歩いてご案内したい》

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➅現在の貯水池(伏見北堀公園)あたりから竹藪の続く大亀谷に入り➡

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⓻大亀谷の竹藪を進み➡

 

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➇大岩山頂手前Y字路を右へ入り、竹藪の続く坂を下ると➡

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 Y字路の「京都一周トレイル」標識を右に入る

 

⑨小栗栖村(石田)の入口Y字路に到達➡

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⑩Y字路を左折したすぐ左手に<古い光秀敗走路の路地>があり➡

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 ⑪約10m先の左手にあるセメント小道を上がり➡

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⑫立入禁止標識左手の竹林に造られた手作りの赤土段々を斜めに下ると➡

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    手作りの赤土段々を斜めに下ると     <光秀敗走路である小栗栖の竹藪>に続く

 

⑬竹藪がつづく敗走古道のゆるやかな上りが700m程続き低い峠を通過➡

⑭峠を下っていくと➡

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⑮T字路直進(右に入ったところに石田家先祖代々墓石群)➡

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⑯左手に「小栗栖墓所」を見ながら進むと➡

⑰右手の「小栗栖宮山小学校グランド」を過ぎて➡

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アスファルト道を現在の小栗栖(小坂)の村に入る➡

⑲右手の「明智藪」の標識に従って左折➡ 

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 来た道を振り返っての写真なので、右手に入って行く

 

⑳本経寺前を通って道なりに進むと➡左手に「明智藪」石碑」あり➡

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          本経寺                   「明智藪」石碑」

 

㉑ その先に「明智藪」(光秀最期の地)標識がある

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   光秀の敗走は、ここ明智藪で終わった

 

 

以上の小栗栖ルートは、シニア(年長)スカウト時代、ビバーグ(野宿)しながらオーバナイトハイクした時に一度歩いたルートでもあり感無量である。

ただ、光秀一行が敗走路としてあえて難儀な竹藪の続く小栗栖ルート>を選んだのは、すでに秀吉軍によって坂本城への主な道が抑えられていたためであろう。

最期の地 小栗栖より先は、さらに厳しい山道を進むことになっていたと推察する。

もちろん最短コースは、現在の国道171号線大山崎より京の都に入り、堀川通りを北上、御所の北に東西に延びる今出川通りから、山中越えに入れば坂本城に簡単に到着できるはずだから、光秀は敗退という辛酸をなめながらの苦難の敗走となったといえる。

 

この概略図は、光秀一行が小栗栖ルートを選んでいたことからの推論であり、私見であることを申し添えておく。

 

さて、先に述べた光秀の血液型は、A型と、AB型に分かれ論じ合った。

AB型論は、人間関係に不器用で、秀吉のように調子者で、要領よく立ち回り、ゴマをする奴が嫌いなタイプであると言い、一方主人に誠実に仕え成果を上げるが、自分の信条で動いてしまい不信感を持たれるタイプでもあるという。誠心誠意仕える割には逆切れや怨念を持つタイプでもあるという。

 

A型論は、常識的にいえば光秀の性格はA型そのままだと主張する。

忍耐強いが、本能寺にみられるように我慢の限界を越えると一気に爆発する性格である一方、合理的で我慢強く、真面目であるが、猪突猛進という欠点をも併せ持っていたと主張するのである。

 

あの世にいる光秀も、久しぶりに本能寺の変を思い出し、その前後の自分らしくない戦略と戦術なき作戦を反省し、盟友たちの先を見る確かな目に感服するとともに、またまた秀吉に一本やられたと苦笑しているように思えてならない。

 

 

明智光秀終焉の地>

日蓮本宗 本山要法寺の末寺で1,506年に創建。
江戸時代には「小栗栖檀林」という僧侶の学校があり,その跡地に現本堂、墓地等が整備された。本能寺の変後、その最後には諸説あるが、近江の坂本城へ敗走中、落武者狩りに遭って落命したとされる竹藪が本経寺裏に残る。この小栗栖の地が明智光秀の終焉の地であることにより供養塔を本堂左手に建てた。」 (本経寺 当山識より)

 

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      明智光秀公終焉の地」木札         明智日向の守光秀公供養塔

 

 

明智光秀の死と、死後の影>

光秀最期の地に続く、巨大な竹が無数に横たわった昼なお薄暗き竹藪に踏み入ったとき、最初から最後まで光秀の影に寄り添い、離れなかった一人の人物を想い描き続けていた。

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           光秀敗退小栗栖ルートに迫りくる現在の竹藪の惨状

 

光秀に関して、これほど諸説が多い、ミステリアスな武将は少ない。

あまりにも<なぜ>という疑問符と、<Why?>という問い返しの多い人物が、である。

知略家である反面、極悪ではなく清貧に生きた武将として、また大器晩成型の苦労人として伝えられ、庶民に近い生活をした人物として、隠れた人気が現代にまで引き継がれている不思議な人物である。

誰もが考えなかった主君殺し、謀反、三日天下という哀れさが、庶民のこころを揺り動かすのかもしれない。また自分だったらどうしたであろうかと、光秀に成り代わって深く考えてしまいたくなる人物であるからでもあろう。

光秀の弱さを、どこかでかばってやりたいという庶民的感覚をもつ者がいても不思議ではない。

 

そう、光秀は庶民の手の届く武将として秘かに愛され続けてきたのではないだろうか。

 

暗い竹藪で考え続けた一人の人物、光秀亡き後、その影や残滓を徹底的に消し去り、歴史から抹殺した人物が重くわたしの背中にのしかかってきた。

次の天下取り、天下布武のために主君殺しを最大に利用したあと、物語そのものを消し去りたかった人物がいたということかもしれない。

それも微にいり細にわたる演出と、万全の根回しと、巧みな戦術で追い込んでいき、己の天下を勝ち取った人物がいたということでもある。

 

そもそも本能寺の変は、信長・光秀主従に関わりある人物の巧妙なシナリオに従って進行したようにも見える。両者の亡骸さえ消し去った完璧な演出は、現代ですら事変後の両者の生存説が取りざたされるほどである。

 

かかる考えをも語れるほど<本能寺の変>はミステリアスだと言えるのである。

 

天下取りとは所詮かかる仕儀であるが、<本能寺の変>は、その歴史の中の人物像をもロマンあふれる悲劇のヒロインとして引き継いでいるのがうれしい。

そして秀吉は、信長亡き後の後継者として自他ともに認めさせるために、光秀が敗走し、最期の地となった小栗栖に連なる桃山の丘陵に<伏見桃山城>を築城したとも云える。

 

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                                     光秀敗走路とも思われる桃山の丘陵に建てられた伏見桃山

 

一体、光秀は、信長・秀吉・家康にとってどんな存在であったのであろうか。

もし、この内のひとりでもいなかったら歴史は変わっていたと思うと、誰一人歴史から消し去ることは出来ない。

 

わたしたち一人一人が歴史上の登場人物であり、脇役であることを実感させられるのである。

 

最後に、小栗栖より醍醐にまわり、沈みゆく夕陽のなかに浮かび上がった<光秀敗走の峰々>を眺めながら、家路についた。

 

                 

 

《参考資料:光秀小栗栖敗走ルートに関する一考察》

     

      <光秀敗走ルートの桃山・大亀谷・大岩山に連なる稜線>    

                    醍醐方面より望む

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⇑   ⇑   ⇑             ⇑      ⇑    ⇑  ⇑    ⇑

①         ②    ➂            ④       ⑤  ⑥   ⑦   ⑧

 

観月橋(白い建物の後方・宇治川と淀川の分岐)辺りから桃山の丘陵に入ったと推測

②現在の明治天皇陵付近を通過し、(現在の伏見桃山城跡に続く尾根道を進んだと推測)

➂光秀没後、秀吉築城の伏見桃山城跡を通過し、(大亀谷の竹藪道に向かったと推測)

④大亀谷の竹藪路を進み

⑤大岩山頂方面⑥に向かわず、手前のY字路⑤を右折し、小栗栖石田村⑦に下る

⑥大岩山(標高182m)山頂(電波塔を目視できる)は推定敗走ルート線上にある

 <天王山(山崎・勝龍寺城)➡伏見桃山城➡▲大岩山➡小栗栖・醍醐➡比叡山坂本城

⑦小栗栖石田村を通過、最初のY字路当たりから小栗栖の竹藪路に入る

⑧小栗栖小坂にある現在の本経寺所有竹藪で落ち武者狩りにあって光秀最期を遂げる 

 

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大岩山(標高182m)より伏見桃山城(中央)、その背後の山崎の合戦跡(天王山・勝龍寺城)方面を望む

         

振り返ると、醍醐の峰々が比叡山方面へのび、その麓に坂本城があるところから、光秀小栗栖敗走路は、

坂本城への最短ルートであったのではないかと推測する。  


                                (2021年2月16日 後藤實久記)

   

   

 

            2021星の巡礼明智光秀最期の地を歩く』

        明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く

 

                  

 



                     

2021星の巡礼 『レルヒ中佐 十勝岳に立つ』

2021星の巡礼 『レルヒ中佐 十勝岳に立つ』

北海道の友人から同人誌「文芸北広島 第37号」が届いた。

 

 

友人とは、2004年4月ニュージランドにあるユースホステル<Auckland International Youth Hostel>で同室だった北海道在住の矢野達雄氏である。以来、俳句仲間として文通を続ける同好の士でもある。

今号には、1912年武官として北海道旭川駐屯地に派遣されていたオーストリア陸軍レルヒ中佐が、活火山である十勝岳に登頂し、その美しい山容をドイツ語で書き記した紀行文を翻訳し、紹介している。

その美しい自然描写には人間味あふれ、躍動感に満ちた生き物たちが描かれ、盆地に横たわる旭川(陸軍第7師団)を眺めては感嘆し、北海の大地を走る汽車の力強さを謳いあげている。

 

わたし事だが、レルヒ中佐が十勝岳に立ってから、奇しくも95年後の2007年同じ日に百名山登頂途次、雨の十勝岳にわたしも立っていたことを想い感無量である。

北海道に住む彼だからこそ、その郷土愛を生きいきと翻訳できたと思っている。文学的感受性の豊かな翻訳に敬意を表したい。

ここに翻訳者の同意を得たので、レルヒ中佐の十勝岳登頂の紀行文を日本近代史の1ページとして紹介しておきたい。

 

《 世紀越え  雪の便りの  十勝岳  語り継ぎしや 美々しき日本》

 

 

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               《文芸北広島 第37号》

 

 

紀行文 『北海道の火山(十勝岳)』  

 作者 オーストリア陸軍レルヒ中佐   翻訳者 矢野達雄(文芸北広島同人)

「文芸北広島 第37号」より

 

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                 ー1-

 

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                  ー2-

 

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                   ー3-

 

■日本スキーの父  テオドール・フォン・レルヒ 

Theodor Edler von Lerch, 1869/8/31-1945/12/24

1920年大正9年)3月27日に、北海道大学スキー部が積雪期の十勝岳初登頂したと日本登山史に記録されているが、その8年前の1912年に武官として北海道旭川駐屯地に派遣されていたオーストリア陸軍レルヒ中佐本人の十勝岳登頂に関する紀行文が残されていたことになる。

日本登山史における貴重な新資料であるといえる。

 

レルヒは、日露戦争ロシア帝国 に勝利した日本陸軍 の研究のため、1910年に交換将校として来日。八甲田山の雪中行軍で遭難事故おこしたばかりだったこともあり、日本陸軍アルペンスキー創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。その技術向上を目的として新潟県高田(現在の上越市)にある歩兵第58連隊の営庭や、高田の金谷山などスキー専修員にスキー技術の指導をおこなった。このことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。Wikipedia

 

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   1911年(明治44年)のレルヒ中佐

 

十勝岳(とかちだけ・2077m)

十勝岳(とかちだけ・2077m)は、北海道の中央部の美瑛町上富良野町新得町にまたがる活火山であり、十勝岳連峰(十勝火山群)の主峰である。日本百名山に選定されている。

 

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        雨雲に煙る十勝岳連峰の主峰 十勝岳(標高 2077m 百名山        

 

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                ガスに煙る十勝岳山頂付近

 

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        レルヒ中佐から95年後の2007年 百名山十勝岳 2077m>に登頂する 

 

 

 

 

              『レリヒ中佐 十勝岳に立つ』

 

                       完 
 

2021登山道情報<比良山系・蓬莱山登山道-金ピラ峠ルート>

2021登山道情報<比良山系・蓬莱山登山道-金ピラ峠ルート>

        ルートファインディング Route finding

        

 

比良山をこよなく愛する多くの山友より、登山道の様子について問い合わせがあった。約3年前の台風による倒木被害により通行止めになっている金ピラ峠経由蓬莱山に至る『びわ湖バレー山麓登山口』の現状を知りたいとのこと。さっそく出向いて登山口より少し登ってみた。『いまだ倒木手つかずで、見通し立たず』との状況報告をした。悲しいことだが、京都北山や比叡比良山系では倒木被害がそのまま山の衰退につながっており、修復には時間がかかりそうである。

山も愛情をもって手入れしないと、人間を受け付けないものである。

 

Many mountain friends who love Mt. Hira inquired about the state of the mountain trail. They want to know the current status of the "Biwako Valley foothills trailhead" that leads to Mt. Horai via the Kinpira Pass, which was closed due to fallen trees caused by a typhoon about three years ago. I went out and climbed a little from the trailhead. I reported the situation, saying, "The fallen tree is still untouched and the outlook is uncertain." Sadly, in Mt.Kitayama, Kyoto and the Hira Mountains, the damage caused by fallen trees directly leads to the decline of the mountains, and it seems that it will take time to repair them.

Mountains will not accept humans unless they are cared for with love.

 

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    蓬莱山金ピラ峠経由 山麓駅登山ルートの倒木による通行禁止の現状

 

 

① びわ湖バレーロープウエー山麓駅(標高304m)より蓬莱山を望む。

JR志賀駅よりびわ湖バレーへのバスが走っているので、山麓駅登山口は、蓬莱山への最短ルートとして利用する登山者も多かった。

その<金ピラ峠経由蓬莱山ルート>が倒木による通行禁止が続いているので、現状を確認するため<山麓駅登山口>に向かった。

 

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② 山麓駅バス停(終点)より舗装道を先に進むと、

「ご案内 ATTENTION このさき登山道へはお進みいただけません。P11駐車場奥のキタダカ道をご利用ください。

There is no trail beyond this point. Please come to KITADAKA Trail at Parking No. 11 in order to go to the summit on the trail.」との案内標識が出ている。

理由は書かれていないが、もちろん倒木による通行不能・通行禁止の案内である。

(標高326m付近) 

幸運にも、蓬莱山・打見山へのメインルートであるキタダカ道は、各位の整備努力、維持により通常通りの登山が可能である。

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③ <至金ピラ峠・蓬莱山>標識に張られた「立入禁止」マーク(標高390m)

木戸川の河原(ダム)の向こう岸より登山道に入る。

 

ダムにある登山口からルート(登山道)上の山腹を観察してみると、

ルートが巻いている船越山(標高614m)の東西山腹の杉林の倒木被害が甚大であることが分かる。現在、東側の倒木は片づけられたが、西側であるルート上(標高578m)付近の倒木はそのままの状態で放置されたていることが見て取れる。

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④ 登山入口(標高383m)は、現在標識はなくロープが目印になっている。

谷川(ダム)を渡って、左に巻いて山に入る。

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⑤ 標高420m地点より、約20mの巨大杉が縦横に倒れ、行先をはばむ。

リュックを背負っての倒木をくぐるのは困難を極め、乗り越えていくにも幾重もの障害物が続き、体力的限界がある。倒木以来、だれ一人入った様子は見られない。ただ、倒木に残された風化した赤いリボンサインだけが目に入ってくる。

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⑥ 標高496m地点の倒木-これより先進めず断念し、下山。

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⑦ルート探索(ルート・ファインディング)を終えて下山途中、木戸川北側堤(標高233m)で休憩

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2018年9月4日九州北部豪雨をもたらし、近畿をも直撃した大型台風18号は、京都北山や比良比叡山系はじめ近畿山域に倒木による甚大な被害をもたらした。

あれから2年半が過ぎ徐々だが登山路の回復を見てきたが、いまだ手つかずの倒木地帯が残されているのが現状である。

今なお原状回復の半ばだが、まだまだ時間がかかりそうである。

今回は、居住地であるびわ湖バレーのロープウエー山麓駅を登山口とする、金ピラ峠経由の<山麓駅登山口>からの倒木情況を報告した。

 

写真説明にもある通り、2021年1月19日現在、<金ピラ峠経由蓬莱山ルート>の内、「びわ湖バレー山麓登山口」ルートは、今なお《倒木による通行禁止》である。

もう一つのJR蓬莱駅よりの金ピラ峠経由「蓬莱登山口」は、金ピラ峠付近の1か所の迂回路を除けば、倒木被害もなく蓬莱山への登山は可能である。

ただ蓬莱山直下の下山口には、<通行禁止>のロープと警告表示があることを申し添えておきたい。

この下山路は、昨年3月に蓬莱山での雪中キャンプをしたとき、強風による緊急下山をしたときに使用させてもらった。金ピラ峠での分岐<びわ湖バレー山麓ルート>は通行禁止の札がかかっていたので、金ピラ峠分岐を右折し、蓬莱駅へ向かって下山したが、問題はなかった。

 

以上、金ピラ峠経由での蓬莱登山を計画される場合の参考にしていただければ幸いである。

(報告者 後藤實久記)

 

 

    2021登山道情報<比良山系・蓬莱山登山道-金ピラ峠ルート>

               ルートファインディング Route finding

 

                  

        

            

 

 

 

 

 

2021星の巡礼『わたしは星になりたい』ブログ・スケッチ展

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      2021星の巡礼 『わたしは星になりたい』 ブログ・スケッチ展

            2021 Pilgrimage of the Stars

           Blog Sketch Exhibition “I want to be a star"

 

     

『わたしは星になりたい』、『わたしは星の王子様である』 と

キラキラする星に出会っては

短い人生の旅で、何度願い、つぶやいたことだろう

 

そろそろ、本当に『星になれる』歳に近づいてきた

愛おしいみんなに再会し

夜空に輝きながらみんなで歌をうたいたい

 

愛してやまない地球星、宇宙にいだかれたこの小さな星、

星の巡礼」の旅路で出会った

この星を見守ってくれている星たちに会えるのだ

 

ここ地球星は、宇宙の十字路であり

星の王子様が到着した童話の星であり、

恋多き星であり、ロマンとドリーム溢れる星である

 

未来に、希望と自由があふれるここ地球星を歩き

天空の星たちと語らいながら

旅日記に描いた星たちのスケッチや水彩画と語ってみたい

 

大切なわれわれの地球星の自然環境を、お互い守っていきましょう。

 

 

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     <ペルシャン・ガルフの星座たちと共に歌いましょう> 水彩画

             北半球世界一周船旅にて 

              2006/04/24 03:48am

                    <Let's Singing a Song with Constellation of Persian Gulf> 

                                         On a cruise around the world

                                                Watercolor Painting

 

"I want to be a star", "I am a prince of the stars"

 When I meet a glittering star

 How many times have I wished and muttered on a short life journey?

 

It's almost time to really "become a star"

Reunited with all my dear ones

I want to sing together while shining in the night sky

 

The Earth star that I love, this little star in space

I met on the journey of "Pilgrimage of the Stars"

I can meet the stars who are watching over this star

 

Here Earth is the crossroads of the universe

The fairy tale star that the Little Prince arrived at

A star with a lot of love, a star full of romance and dreams

 

Walk here on Earth, full of hope and freedom in the future

I drew in my travel diary on Star of Earth

I want to talk about the sketches and watercolors of the stars

 

 

Let's protect each other's precious natural environment of the Earth star.

 

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               星の巡礼

           Sketched and Painted by Sanehisa Goto

 

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              2021星の巡礼 『わたしは星になりたい』 ブログ・スケッチ展

                                       2021 Pilgrimage of the Stars

                             Blog Sketch Exhibition “I want to be a star"

 

 

わたしは世界中を旅行して、多くの星たちと愛語で交わり、その星の輝く天空をスケッチし、描いてきた。

ここに夢を託した星空スケッチをブログに展示してみたい。

 

I have traveled all over the world, interacting with many stars in love, sketching and drawing the shining sky of those stars.

I would like to display the starry sky sketch that entrusted my dream here on my blog.

 

 

 

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                 <ゴビ砂漠の星たち> シルクロード踏破・敦煌にて 

                                                2004/08/11 05:18am  水彩画

                    <Stars in the Gobi Desert>  At the Silk Road in Dunhuang

                                                   Watercolor Painting

 

 

 

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      < ヒマラヤ / アンナプルナサウス7200m 

           HIMGHJLI 6200m MACHAPUCHA 6900mに輝く星たち>

         アンナプルナ周遊トレッキング途上、ネパール・タダパニ村より望む

               2001/05/12  01:30am

 

<Himalayan / Annapurna South 7200mHimghjli 6200mMachapucha 6900m shining stars>

Looking from the village of Tadapani, Nepal, on the way to Annapurna tour trekking

 

 

 

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                         <ヒマラヤ・アンナプルナサウス山7219mに舞う星たち>

           ネパール・アンナプルナ・トレッキングにて

               2001/05/13  01:30am

 

                  <Stars dancing on Mt. Annapurna South, Himalayan 7219m>

                                            At the Annapurna trekking in Nepal

 

 

 

 

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                              <ヒマラヤの星たち Nepal Himalayan stars>  水彩画

                                  アンナプルナ山8091m 周回トレッキング

                                                               2006/01/15  

          <Nepal Himalayan stars>  Annapurna mountain 8091m orbit trekking

                                                       Watercolor Painting

 

 

 

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                                <台湾・台北龍山寺を照らす満月とカシオペア座>  水彩画

                          台湾一周サイクリング途上 

                                               2005/04/23 06:12am21:34pm

     <Full moon and Cassiopeia illuminating Longshan Temple in Taipei, Taiwan>

                                          On the way to cycling around Taiwan

                                                  Watercolor Painting

 

 

 

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                  <レイテ島よりミンダナオ島にかかる北斗七星と北極星を鑑賞>

      フイリッピン縦断時 タクロバン港よりミンダナオ島を望む                                                                      2015/03/11  01:07am

                   <View the Big Dipper and Polaris from Leyte to Mindanao>

         View of Mindanao Island from Tacloban Port when traversing Philippine

 

 

 

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              <旧ビルマ・アラカン山脈 チン高原をイラワジ河より望見する>

            右上・イラワジ河の夜空に横たわる北斗七星と北極星 

            左上・船上にひるがえるミヤンマ―国旗を飾る星

    ビルマでのインパール作戦における難所アラカン(阿羅漢)山脈に、白骨街道を訪れた

                                                                          2016/01/14                                                                                         <Overlooking the Chin Plateau from the Irrawaddy River in the former Burmese Arakan Mountains>

Visit the White Bone Road in the Chin Hills, a difficult part of the Japanese army Imphal operation in  Burma

 

 

  

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                       <少年托鉢僧を導く星>  旧ビルマ・トンザン村の朝

             トンザン村は、アラカン山脈インパール作戦時の白骨街道にある

                       2016/01/28  09:18am

 

                                     <Star leading the boy Dhutanga>

                             Morning in the former Burmese Tonzan village

Tonzan Village is on the White Bone(corpse) Road during the Battle of Imphal in the Chin Hills,  the World WarⅡ

 

 

 

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                                        <アラカン山脈の聖なる星たち>  

                              ビルマ(現ミヤンマー) トンザン村の夕暮れ

                         インパール作戦白骨街道に斃れた兵士たちを見守る星たち

                 2016/01/18  6:30pm

 

                                  <Sacred Stars in the Chin Hills, Myanmar>

   Burma (now Myanmar) Dusk in Tonzan Village was under the Operation Imphal.

   Stars are watching over the soldiers who fell on the White Bone (corpse) Road

 

 

 

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        <ブロブドール・マヤハナ朝遺跡を見守る月と星たち>

               IndonesiaBrobudur 

                  2013/01/19 

    <Moon and stars watching over the Brobudur Mayahana dynasty ruins>

 

 

 

 

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       <静かなるガンジス川に映る三日月と北極星・北斗七星>

           バラナシ・インドにて 2003/02/09~14

  <Crescent and Polaris / Big Dipper reflected in the quiet Ganges River>

                                             At Varanasi India

 

 

 

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  <インド・カルカッタの夜空に輝く三日月とオリオンとカシオペア北極星

                2003/02/09~14

 Crescent moon, Orion, Cassiopeia and Polaris shining in the night sky of Calcutta,                   India

 

 

 

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         スリランカ-旧セイロン の夜空を飾る星たち>

          ネゴンボ・ローヤル・ホテル・ガーデンにて

                2004/01/05  22:26pm

     < Stars decorating the night sky of the former Ceylon- Sri Lanka>

             At Negombo Royal Hotel Garden

 

 

 

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            <旧セイロン・キャンディ 仏歯寺守護象パレードを見守る半月と星>

              2014/01/06  19:30pm

     < Half moon and stars watching the Guardian Elephant Parade

     of the Buddha Tooth Temple >

            the former Ceylon- Sri Lanka

 

 

 

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       <中華人民共和国を見守る五星> 中国/パキスタン国境

          カラコルムハイウエー・クンジュラブ峠通過

           シルクロード踏破途上 2004/08/25

 

      <Five stars watching over the People's Republic of China>

     China / Pakistan border Passing through the Karakorum Highway

           Khunjerab Pass on the way to Pakistan.

 

 

 

 

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            <星の残るカラコルム山系の銀嶺>  水彩画

中国よりパキスタンに抜けるカラコルムハイウエー・クンジュラブ峠4880mより眺める

                 2004/08/25

              <Ginmine in the Karakorum mountain range with stars & sun-rising>

                View from Karakorum Highway Khunjerab Pass 4880m, which runs

                                                      from China to Pakistan

                 Watercolor Painting

 

 

 

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                            <ナンガパルパット8126mに輝く星たちと満月> 水彩画  

                           パキスタンカラコルムハイウエー・チラス村より眺める   

                                     2004/08/29  01:18am

                           <Stars and full moon shining at Nanga-Palpat 8126m>

                        View from the village of Chilas, Karakoram Highway, Pakistan

                                                            Watercolor Painting

 

 

 

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                                <ゴールデンピーク7027mに乱舞する星座たち> 水彩画

                                    パキスタン・カリマバード・フンザ村より観賞

                   2004/08/26  05:20am

 

                                   <Constellation dancing at Golden Peak 7027m>

                           Admiration from the village of Hunza, Karimabad, Pakistan

                                                             Watercolor Painting

 

 

 

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                                   カッパドキアの奇岩群と星たち>  水彩画

                            シルクロード踏破途上のトルコ・ギョレメでスケッチする

                                2014/09/24  03:45am

                                          <Cappadocia rock formations with stars>

                                Sketch in Goreme, Turkey, on the way to the Silk Road

                                                            Watercolor Painting

 

 

 

 

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                                  <トルコ・ヤプラチサール村のモスクと星たち>

                                 1999/12/25  23:18pm

                           <Mosque and stars in the village of Yapratisal, Turkey>

 

 

 

 

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           <姿を消した星たちの後、ワディラム渓谷に顔を出した朝日>  水彩画

          ペトラ・ヨルダン 2006/05/01  05:17am

<Sunrising that appeared in the Wadi Rum Valley after the disappeared stars>

                                      Petra Jordan  -  Watercolor Painting

 

 

 

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                   <モーセ十戒を授かったシナイ山の巡礼者を見守る星座たち>

                   イスラエル縦断途上 (エジプト・シナイ半島

                                                        2001/10/2~3

 <Constellation watching over the pilgrims on Mount Sinai, where Moses received        the Ten Commandments>

    Along the way from Israel to Cairo (Sinai Peninsula, Egypt)

 

 

 

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       <暗闇の中、スエズ運河を通過し、ポートサイドに寄港した世界一周のトパーズ号>  水彩画

         ポートサイド・エジプト 2006/05/04  22:34pm

    <The Topaz around the world, passing through the Suez Canal

     and stop over Portside in the dark>

          Portside, Egypt - Watercolor Painting

 

 

 

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              <ケニア・サンブル・キャンプサイトからの赤道上の夜空の星たち>

                    アフリカ大陸縦断の途上、ケニアにて

                             2001/11/21  02:58am

 Stars in the night sky on the equator from the Kenya Samburu Campsite

                             In Kenya on the way across the African continent

 

 

 

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                 <ケニア・マサイ族の焚火に火照りながら南十字星を楽しむ>

         略式南十字星★で描く 2001/11/17  21:30pm

 

     <Enjoy the Southern Cross while shining on the bonfire of the Kenyan Masai>

                                  Draw with the abbreviated Southern Cross★

                                MASAI MARA NATIONAL PARK CAMPING SAIT

 

 

 

 

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          <ウオルビスベイの夜明けと消えゆく星たち>  水彩画

            ナミビア・西アフリカ 2013/12/28

           <Dawn and disappearing stars in Walvis Bay>

                Namibia / West Africa 

                  Watercolor Painting

 

 

 

 

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     <ウオッチタワーとグランデモスクとカシオペア座北極星> 水彩画

       ブーゲンビリアの花とオリオン座も加わって賑やかな朝を迎える

               モロッコカサブランカ 

               2005/11/23  06:30am

       <Watch Tower, Grande Mosque, Cassiopeia and Polaris>

    A lively morning with the addition of Bougainvillea flowers and Orion.

           Morocco Casablanca,  Watercolor Painting

 

 

 

 

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                      <過酷な重労働に耐えるチビロバにエールを送る星たち> 水彩画

              モロッコ・マラケッシュにて  

                  2005/11/28

       <Stars sending ale to donkey who endures harsh hard labor>

               In Marrakech, Morocco

                Watercolor Painting

 

 

 

 

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                                <カミーノ デ コンポステーラの寺院と火星>  

                            スペイン・カミーノ デ サンチャゴ 860km巡礼途上 

                                                            2003/08/19

                                 <Camino de Compostela Temple and Mars>

                                           On Camino de Santiago 860km, Spain

 

 

 

 

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                     <神秘的なノルウエ―・Trondheimの森と月と星> 水彩画    

                                  オスロ鉄道路線より

                2001/09/29 01:30am       

                         <Mysterious Norwegian Trondheim Forest, Moon and Stars>

                On the Oslo railway line.

                 Watercolor Painting

 

 

 

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      <ノルウエ―・Osloへ向かう列車から三日月と星を楽しむ> 水彩画

                Rondheim路線列車より 

               2001/09/29  06:15am

 <Enjoy the crescent moon and stars from the train heading to Norwegian Oslo>

                   On the Rondheim line train.

 

 

 

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           <最北のシベリア大陸横断鉄道・辺鄙な村・YndH-YAS / シベリア通過中>

        暁に灯る村の光に、上弦の月とオリオン座と北極星がコラボ

               2001/09/14  05:41am

 

Passing through the northernmost transcontinental Siberian railway,

    near YndH-YAS / Siberia

 A collaboration between the first quarter moon, Orion, and the North Star

    in the light of the village lit in the dawn.

 

 

 

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                                ゴビ砂漠・夏空の星座 ― モンゴル>

          北半球なのに南十字星を地平線に発見 興奮のあまり眠れぬテント泊となった

                2017/07/07  24:00

                         <Gobi Desert / Summer Sky Constellation-Mongolia>

I found the Southern Cross on the horizon even though it was in the Northern Hemisphere.

It was a tent night where I could not sleep because of excitement of finding

the Southern Cross.

 

 

  

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兵馬俑博物館の作品とコラボする星たち>    <揚子江を下る紅河2号を見守る星たち>

     中国・西安 2002/12/08            重慶武漢 2002/12/10~13

 Left :  <Stars collaborating with the works of the Terracotta Warriors Museum>

    Xi'an / China

Right: <Stars watching over the Red River No. 2 going down the Yangtze River>

    On the way from Chongqing to Wuhan

 

 

 

 

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                    <摩天楼の上海の空を彩る残り星と朝日と凧と蜻蛉と五星旗>   水彩画

                                            シルクロード踏破途上 中国・上海

                                              2014/08/03  05:43am

                                <Remaining stars, sunrise, kite, dragonfly,

                   and five-star flag that color the skyscraper of Shanghai>

                             On the way to the Silk Road, Shanghai, China

                                                      Watercolor Painting

 

 

 

 

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                                宮沢賢治の世界に遊ぶ北斗七星と北極星

                 イーハトーブ火山局― 日本・花巻・宮沢賢治館にて

                   2003/12/18

    <Big Dipper and Polaris playing in the world of Kenji Miyazawa>

  Ihatov Volcano Bureau-at Hanamaki, JAPAN / Kenji Miyazawa Museum

 

 

 

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                   <2012双子座流星群観察スケッチ・ 志賀の里・滋賀県・日本>

             2012/12/13  22:4523:10pm

                          <2012 Gemini meteor shower observation sketch>

             Shiga no Sato, Shiga prefecture, Japan

 

 

 

 

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      <ユーコン川カヌー下り380kmで出会ったオーロラと星たち>

        カナダ・カーマックス18㎞手前のキャンプサイト

               2007/09/23  04:00am

     <Auroras and stars met on the 380km down the Yukon River canoe>

          At the camp site 18 km before Carmax, Canada

 

 

 

 

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     焚火に手をかざしコーヒーを飲みながら、ユーコンの星たちとの談笑楽しむ>

        BCYR’S DREDGE CAMPSITE-YUCON RIVER- CANADA

                                         2007/09/22 06:15am

       Enjoy chatting with the Yukon stars while holding our hands

           over the bonfire and drinking coffee.

 

 

 

 

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           <ニューヨークの摩天楼を飾る星たち>  水彩画

              New YorkManhattan 

           2006/06/05-22:30pm06/06-06:15am

 

         <Stars decorating the skyscrapers of New York>

       Paint when calling at a port on a cruise around the world

              in the Northern Hemisphere

                Watercolor Painting

 

 

 

 

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      <メキシコ テオティアカンの満月と北極星との神秘的な関係>

                 太陽のピラミット

                 2007/04/16  10:10

   <Mysterious relationship between the full moon and Polaris of Teotihuacan,       Mexico >         Pyramid of the sun

 

 

 

 

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   <標高3810mにあるチチカカ湖に浮かぶアマンタニ島に降り注ぐ星たち>

             ボリビア西部にある淡水湖にて 

               2007/01/13  02:23am

   <Stars falling on Amantaní Island in Lake Titicaca at an altitude of 3810m>

       Lake Titicaca - At a freshwater lake in western Bolivia

 

 

 

 

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        <アマゾン川に映る半月と南十字星とオリオン座>

     ブラジル・アマゾン・アマゾナスの密林を照らす南半球の夜空

              2007/03/29  08:35am

   <Half moon, Southern Cross and Orion reflected in the Amazon River>

   The night sky in the Southern Hemisphere that illuminates the jungle

   of Brazil, Amazonas.

 

 

 

 

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            <ブラジル国旗を飾る南十字星>     

   ブラジル・アマゾン川 ベレンマナオスの船にひるがえるブラジル国旗

        左側・茶色のアマゾン川 : 右側・青色のネグロ川の合流地点

        大河アマゾン川を遡上するサンタレーナ号より

               2007/04/03  10:30am

        <Southern Cross that decorates the Brazilian flag>

Brazil flag on a ship which runs up the Amazon River from Belem to Manaus.  

The confluence of the brown Amazon River on the left, and the blue Negro River on the right.

                           At the Santalena, which is running up to Manaus

                                                           

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                                         Brazilian flag  w/  Southern Cross   

 

 

   

 

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               アマゾン川 イタクアティアラ村を祝福する満月と南十字星たち>

                      ベレンよりマナオスに向かう船上にて 

                                                    2007/04/02  19:02pm

      <Full moon and Southern Crosses celebrating the village of Itaqua Tiara

        on the Amazon River>

               On board the ship from Belem to Manaus

 

 

 

 

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            <闇から光に交代する巨岩の山を背景にしたブラジル・リオデジャネイロの摩天楼> 水彩画

            三日月と南十字星から朝日へのバトンタッチの瞬間である

                            南半球世界一周船旅にて 

                                                                 2014/01/07  05:26am

 

      <Skyscraper in Rio de Janeiro, Brazil against the backdrop of a huge

        rocky mountain that changes from darkness to light>

       It is the moment of the baton touch from the crescent moon and

       the Southern Cross to the sunrise.

       On a cruise around the world in the Southern Hemisphere.

                                                  Watercolor Painting

 

 

 

 

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        <アンデス山脈の最高峰アカンコグア4200mをあたたかく見守る南十字星

     アルゼンチン側メンドーサからのナイト・トレッキングでのスケッチ

               2007/02/08  21:38pm

                  <Southern Cross that warmly watches over Akankogua 4200m,

                                              the highest peak in the Andes>

                 Sketches on night trekking from Mendoza on the Argentine side.

 

 

 

 

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            <南米大陸最南端の街ウシュアイアの街から消えつつある南十字星たち> 

         南極大陸周遊で待機したアルゼンチンの街の早朝 

                                                      2007/02/17  08:45am

        <Southern Crosses disappearing from the southernmost city of Ushuaia

           in South America>

          The town of Argentina waiting for a tour of Antarctica.

 

 

 

 

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                              <ウシュアイアに昇る朝日と消えゆく月や星たち>  水彩画                                                      世界一周オーシャン・ドリーム号船上より                    

                2013/01/17  05:43am

              <Sunrise rising in Ushuaia and disappearing moons and stars>

                                            Ushuaia, Argentina for the 2nd visit

                                                          Watercolor Painting

 

 

 

 

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                            <曇天続きの南極大陸では、残念ながら星空見えず>  水彩画 

                                       ハーフムーン島 カラマ・アルゼンチン基地 

                                                南極クルーズ砕氷船オルロワ号より

                                                          2007/02/24  18:50pm

     <Unfortunately, the starry sky cannot be seen in Antarctica, which is cloudy.>

                                        Half Moon Island Karama Argentina Base

                                  On the Antarctic Cruise Icebreaker THE ORLOVA.

                     Voyage : Antarctica Classic,  Enterprise : QUARK EXPEDITION

                                                            Watercolor Painting

 

 

 

 

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          <パルパライソの町とアンデス山脈にそびえるアコンカグア山>   水彩画

    アコンカグア山アンデス最高峰6961m・パルパライソの街はこの後大火災に見舞われた

               2014/01/24 オーシャン・ドリーム号船上より

    <Mt. Aconcagua 6961m towering over Valparaiso and the Andes>

        Mt. Aconcagua was the highest peak in the Andes,

        and the city of Valparaiso was hit by a big fire after this.

                                                On the ship of Ocean Dream.             

                                                        Watercolor Painting

 

 

 

 

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                  <アンデス山脈 サイレカブル山5971mにかかる南十字星たち>

                                  チリー・サンペドロの街から望む 

                                                     2007/02/05  11:30pm

            <Southern Crosses over Sairecabur Mountain-5971m in the Andes>

                                     View from the city of San Pedro, Chilly.

 

 

 

 

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           <夕暮れに白銀が光るロッキー山脈> 水彩画

 カナダ・バンクーバーよりアラスカ・スチュワート港に向かうトパーズ号にて

          2006/06/29~07/03  世界一周クルージング中

       <Rocky Mountains where silver shines at dusk>

   At the Topaz, heading to Alaska Stewart Port from Vancouver, Canada

      Cruising off

                                                         Watercolor Painting

 

 

 

 

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                                <南十字星を仰ぎ見るイースター島のモアイ像>

                世界一周船旅途上にて

                               Easter Island,  Chili         2014/02/07  02:26am

               <Moai statue on Easter Island looking up at the Southern Cross>

 

 

 

 

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             <幻想的なモーレア島(タヒチ)に訪れる満月の夜と南十字星> 水彩画

        南半球世界一周船旅の船上にて瞑想しながらスケッチ

                2014/02/25  19:48pm

 <Full moon night and Southern Cross on the fantastic island of Moorea (Tahiti) >

                     Sketch while meditating on board a cruise around the world

                                          in the Southern Hemisphere.

              Watercolor Painting

 

 

 

 

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                           <ロータム・トラックにかかる天の川と南十字星>  水彩画

            ニュージランド縦断サイクリング途上、テントより望む

                         ニュージランド・キーサミット 

                                                                  2004/04/25

                              <Milky Way and Southern Cross on the Rotam Truck>

                                                      New Zealand Key Summit

                                                           Watercolor Painting

 

 

 

 

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                <マウント・クック3754mのモルゲンロート 朝焼けと南半球の北斗七星>  水彩画

                             ニュージランド南島南アルプス山脈にある最高峰の山

                ニュージランド縦断途上

                2004/04/11  07:30am

                  <Mount Cook 3754m Morgenroth Sunrise and the Big Dipper

                    in the Southern Hemisphere>

                   The highest mountain in the Southern Alps Mountains of

                   the South Island of New Zealand.

                                                         Watercolor Painting

 

 

 

 

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         <クリスチーナ山8210ft / ロスカット・ランプ山7600ft / リャッテ山6277ftと南半球の星たち> 

                                              ニュージランド・ミルフォードの峰々を彩る天の川

              ニュージランド 縦断サイクリング途上       

               2006/01/15  水彩画

                      <Mt. Christina / Mt. Crosscut Ramp / Mt. Lyttie

                                   and the stars in the Southern Hemisphere

                  The Milky Way that colors the peaks of New Zealand Milford.

                                                    Watercolor Painting

 

 

 

 

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                  エアーズロックの上に顔を出した月と南十字星―左偽物・右本物>

                                           オーストラリア・エアーズロック

                                 エアーズロック一周 オーバナイトハイキングのテントより 

             オーストラリア大陸一周の旅にて

                                                    2009/03/13  18:53pm

                          <Moon and Southern Cross on Ayers Rock, Australia>

                                 Fake S-C(left) / Genuine S-C(Right)

 

 

 

 

<僕らは星の王子様だ   We are the prince of the stars

夜空を見上げたら、そこにはただ一つあなたに向かってキラキラとウインクを繰り返し、シグナルを送ってくる星に出会った経験があることとおもう。

シグナルを送信する星と、そのシグナルを受信するあなたとの間に、懐かしい故郷の風を共有し、お互いのこころが溶けあい、愛語によって一体となるのである。

わたしの好きな言葉に、道元禅師の「向かわずして愛語を聴くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回転の力あるを学すべきなり」という一句がある。

祈りあい、求め合えば星であっても、一枚の葉、一個の石ころ、一滴の水であろうとも、そのものに成りきることが出来ると、純粋に信じる心が成さしめる奇跡なのである。

是非一度、この素晴らしい星との愛語の交歓を体験してみてはいかがだろうか。

お勧めする次第である。

 

 Did you know that when you look up at the night sky, you'll only see one star that sparkles and winks at you and sends a signal. The star that sends the signal and you who receive the signal share the nostalgic wind of their hometown, the hearts of each other melt, and they are united by their love words.

One of my favorite words is Zen Master Dogen's phrase, "Listen to your love words without going to them, you should remember them in your heart and learn the power of rotation."

A miracle of pure belief occurs when we pray and ask for each other, whether it is a star, a leaf, or a stone. Why don't you experience the exchange of love words with this wonderful star once?

 I have traveled all over the world, interacting with many stars in love, sketching and drawing the shining sky of those stars.

 I tried to display a typical starry sky sketch on my blog here.

 

<僕らは宇宙のヘソである  We are the navel of the universe

 昨年暮れ、木星土星が最接近し、肉眼でも見られるというので深夜、外に飛び出して西南方向を見上げたら、比良山に隠れようとしている豆粒大の二つの星を発見した(と言いたいが確信は持てていない)。

その夜空に、自分の存在を強烈に主張するカシオペア座が鎮座し、北極星を見下ろしている姿を認めた。

その瞬間、今からおおよそ43年前、息子がボーイスカウト(BSA NJ TROOP11)に入隊した年であると思うが、娘と息子を誘ってニューヨーク州キャッキルにあるベアーマウンテン(Mt. Bear-Slide 標高1274m)に出かけ、山頂の岩山でオーバナイトの星座観察をしたことを想い出したのである。

その時、仰向けになって眺めた北極星を中心に、時間と共に怒涛の如く一定の方向に回転するカシオペア座と無数の星たちや天の川による宇宙の躍動が、その後の私の生き方に大きな影響をもたらしたような気がしてならない。

その時の感動とは、北極星を臍としてその周りを回る全宇宙の星たちがいるということ、言い換えれば、全宇宙は私を中心に回っているということである。

すなわち、わたしもまた宇宙の臍であることに気づかされた瞬間でもあったのかもしれない。

感受性があった若き時代が懐かしい。

衰え往く細胞に、夢とロマンを蘇らせたいものである。

 

《 悠久の 宇宙の臍 たりし我 北極星に エール送りしや 》

-ゆうきゅうの うちゅうのへそ たりしわれ ほっきょくせいに えーるおくりしや

 

At the end of last year, Jupiter and Saturn were closest to each other and could be seen with the naked eye, so at midnight, when I jumped out and looked up in the southwest direction in Japan, I found two pea-sized stars trying to hide in Mt. Hira ( I'm not sure). In the night sky, Cassiopeia, who strongly insists on his existence, was seated and admitted to looking down on Polaris.

At that moment, about 43 years ago, I think it was the year my son joined the Boy Scout (BSA NJ TROOP11), but I invited my daughter and son to Bear Mountain (Mt. Bear-Slide, 1274m above sea level) in Catskill, New York. I remembered that I went to New York and observed the constellation overnight on the top of rocky mountain.

At that time, the movement of the universe by Cassiopeia, which rotates in a certain direction like a rage over time, and countless stars and the Milky Way, centering on the North Star that I looked at on my back, had a great influence on my way of life after that.

My impression was that there are stars in the entire universe that orbit around Polaris as the navel, in other words, the entire universe revolves around me.

In other words, it may have been the moment when I realized that it was the navel of the universe.

 I miss my younger days when I was sensitive.

 I want to revive dreams and romance in declining cells.

 

 

 

   大切なわれわれの地球星の自然環境を、お互い守っていきましょう。

       『わたしは星になりたい』 ブログ・スケッチ展

 

                   

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2001『星の巡礼 イスラエル縦断の旅』Ⅲ

星の巡礼 イスラエル縦断の旅』Ⅲ

<エイラットより、シナイ山を経てカイロに向かう>

 

 

<エジプト国境の街ターバーより、 ダハブ / シナイ山への巡礼基地へ向かう>

 

エイラットのイスラエル国境での国境警備隊による厳重な警備と出国審査を終えたあと、エジプト国境での更なる厳しい入国審査が待ち構えている。

入国審査の後、ここ国境から15分ほどのところにあるターバーのバスターミナルから出ているミニバス(トヨタハイエース)で、モーセ十戒を授かったシナイ山への巡礼基地であり、シナイ半島南東部にある観光地ダハブに向かった。

 

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        シナイ半島エジプト国境 ターバー入国管理局-にかかるエジプト国旗

 

 

<ダハブ ― シナイ山巡礼基地・ダイビング基地>

ダハブは、エジプト・シナイ半島東岸、紅海アカバ湾に面したベトウインの住む砂漠の村である。

また、ダイビング・スポットとして世界的に知られ、多くのヨーロッパの若者が集っていた。ゆったりと流れる時間の中で、観光客もヤシの葉のコッテージに横たわり読書にふけっている。

イスラエルでは味わえない解放感と安心感がここにはある。

ランチは、キャンプに隣接する<モハメット・アリ・ホテル>のカフェテリアでツナ・スパゲティとコークをいただく。紅海の風は肌を撫で、まろやかなまどろみを誘う。イスラエルのあの騒々しい緊張感はどこへ行ってしまったのだろうか。

しかし、平和に見えるダハブのあるシナイ半島(エジプト領)は、第二次中東戦争(1956/スエズ運河をめぐる紛争)、第三次中東戦争(1967/アラブ連合軍のイスラエル侵攻に対し6日間でイスラエルは反撃し、ここシナイ半島ゴラン高原ガザ地区・東エルサレムを占拠)、第四次中東戦争(1974/第三次で占拠された各所を奪還するためのアラブ側の起こした戦争でシナイ半島は国連多国籍軍の監視下に入った)という三度の戦争を体験しているのである。

 

現在ですら、ダハブのあるシナイ半島は、シナイ半島駐留国連多国籍監視団のもとにコントロールされている。

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         避暑地ダハブに昇る紅海・アカバ湾の朝日(シナイ半島・エジプト)2景

                   対岸の陸影はサウジアラビア

 

ここでもシュノーケリング、紅海の可愛い熱帯魚たちを息子からプレゼントされた水中カメラ<Vivitar Water-Proof ViviCam 6200w>におさめた。

 

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     世界的ダイビング・スポットである ダハブ(エジプトシナイ半島)で海に潜る

 

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                 紅海の熱帯魚やサンゴ達

 

 

<▼11月1日~11月2日 ダハブ  連泊  Mohamed Ali Camp

           「モハメド・アリ-・キャンプ」 1泊20US$ >

 

 

《 11月2日  ダハブ ⇔ シナイ山トレッキング  快晴 》

 

シナイ山 聖なる日ノ出登山 ツァー代 30£E>

宿泊先である「モハメド・アリ-・キャンプ」 は、ダハブ市街東の海岸アサーラ地区(ベトウイン村)で最も知られている広大な敷地と海岸をもつキャンプ場であり、避暑地としての設備(ダイビングセンター・ガーデンレストラン)や各種ツアーがととのっている。

このイスラエル縦断の旅で最も望んでいた地、モーセが神より授かった「十戒」の地であるシナイ山や聖カトリーナ修道院へのキャンプ企画のツアー(乗合トラック・現地自由行動)に参加した。

旅の疲れをとり、暑さの中での安眠をとるためにここでも贅沢だがエアコン付きの一人部屋で体を休めることにした。とくにキャンプ内にあるスーパーマーケットはバックパッカーにとってはうれしい限りである。スーパーで買い込んだ焼きそばと白ご飯、サラダにコークを持込み、豪華な夕食を楽しんだ。

ここダハブは、聖カトリーナ修道院への重要拠点であり、十字軍・エルサレム王国によりシナイ山への道として確保されたベトウインの村落であった。

 

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        モハメッド・アリ・キャンプで楽しんだ中華の夕べ (ダハブ) 23.50£E

 

モーセゆかりの聖なる地・ シナイ山登山>

モハメッド・アリ・キャンプ企画のツアーのうち、キャンプと聖カトリーナ修道院間の往復ツアー(現地での自由行動が条件)に参加、前夜よりヘッドライトを頼りに巡礼団や観光客に混じって単独でシナイ山に登るため、山頂前の山小屋で仮眠をとった。

シナイ山頂では、日の出とともにモーセ十戒の石版を授かったシナイの山の不思議なほど神々しい朝日を迎えた。わたしをはじめ、巡礼者である多くの老若男女が溢れる涙を拭うことなくその瞬間に立ち会ったのである。

シナイ山への登山の入り口に聖カトリーナ修道院が建つ。  旧約聖書出エジプト記」には、モーセシナイ山(神の山ホレブ)で燃える柴を見、その柴の間から神の声を聴いたと記されている。シナイ山麓に位置する聖カトリーナ修道院は、この「燃える柴」があったとされる場所に建てられている正教会最古の修道院ユネスコ世界遺産)である。

<参照:旧約聖書出エジプト記 20章3~17>

 

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             シナイ山オーバーナイト・トレッキング

             モーセ十戒を授かったシナイ山に登る

              Sketched by Sanehisa Goto

 

 

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      夜10時頃、聖カトリーナ修道院を出て、モーゼが十戒を授かったシナイ山へ向かう

 

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             寒さを避けるため毛布を借り小屋で日の出を待つ

 

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                朝4時半ごろシナイ山の夜が明け始める

 

 夕方にモハメッド・アリ・キャンプ前を出発したツアー(乗合バス)は、聖カトリーナ修道院に着くと、巡礼団や観光客はヘッドライトをたよりにそれぞれシナイ山に向かうが、ラクダ道コースと近道の階段コースに分かれる。

階段コースは、3750段といわれ、結構疲れるので休憩を適時とることと、水・ライト・防寒具・行動食を小型リュックに携行することをおすすめする。聖カトリーナ修道院からシナイ登山は3時間ほどかかるので体調を整えておきたい。

階段コースをたどり標高2285mのシナイ山(別名ガバル・ムーサ)に着くが、途中、時間調整と寒さを避けるため毛布(1枚5£E)を借り、山小屋で過ごすことになる。

ご来光を迎える前からシナイ山頂の小さなレンガ造りの礼拝堂を中心に、立錐の余地のないほどに巡礼者であふれた。

狭い岩山の山頂に300人はいるだろうか、足の踏み場もなく、鈴なりである。闇が明けゆく情景に息をのんでいるとモーセに語りかけたおなじ神の声が響いた(ように)、荘厳な瞬間を迎えた。

ここシナイ山は、今から4000年前、モーセが神よりイスラエルの地を授かるための契約<十戒>を授かった場所である。

巡礼者をはじめ、多くの人びとは胸の前に手を合わせ、瞬きすることなくこの一瞬の旧約の世界に溶け込み、聖なる感動にひたった。

 

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            シナイ山頂よりモーセも見た日の出を仰ぐ
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           シナイ山頂からの聖なるご来光(聖なる日ノ出)を拝する

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           シナイ山頂の聖なる日の出に立ち会い<モーセ十戒>をおもう

 

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             シナイ山頂の礼拝堂の周りで日の出を迎える巡礼者

 

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             シナイ山頂でモーセも浴びた聖なる日の出にひたる

 

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            シナイ山麓に建つ聖カトリーナ修道院に帰り着く

 

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         ダハブのベドウイン村にあるモハメド・アリ-・キャンプ」に戻る

 

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             ダハブ出立の朝、犬友シャルル君達の見送りを受けた

 

出エジプト記十戒   シナイ半島モーセの流浪>

モーセは、エジプトのファラオ・パロのもとで奴隷のように虐げられていたイスラエルヘブライユダヤ)人を救う使命を神から与えられ、約束の地カナン(ヨルダン川東岸)を目指してエジプトを脱出した時の指導者であり、引率者である。

旧約聖書の中で、エジプトを脱出し、シナイ半島を40年間放浪するイスラエルの民を導くモーセは、シナイ山にさしかかった時、苦しむモーセに「神に対して絶対の服従を誓うなら、その所有する全土をイスラエルに与える」 と神は語りかける。

イスラエルの民が受け入れたこの絶対の服従十戒である。

 

現在のイスラエル人もこのモーセの時代とよく似た第二の帰還を果たそうとしているのである。モーセの40年というシナイ半島彷徨の末ではなく、約2000年間のディアスポラ(離散)という国を追われての国家再建である。イスラエル人の建国の情熱と祈りは、モーセにも劣らない真剣なものであるように思えた。ユダヤ民族の存亡をかけた戦いをしているのである。

 

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        Bible map イスラエルのエジプトからの出エジプトとカナンへの入国>より

 

エジプトのラムセス①を出立した一行は、③海が割れた<葦の海>(現在のスエズ市・紅海スエズ湾か)を渡り、シナイ半島北側を横切り、カナンの地にあるネボ山⑮に直接向かわずに、シナイ半島を逆時計周りに南下し、シナイ山⑧で十戒を授かって北上、現在のエイラット⑪から40年間の放浪のあと、最終ヨルダン川東岸のカナンの地⑰に到着する。

 

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      映画<十戒> モーセに率いられて<葦の海>を渡るイスラエルの民(地図③)

 

 

<▼11月1~2日  ダハブ ― モハメッド・アリ-・キャンプ連泊  1泊20£E >

 

人間が住めそうもない過酷な環境に住みついて、その運命に甘んじている人間たちがいる。それはベトウインの民である。

彼らは不毛の大地、照り付ける日光のもとラクダや羊など少数の生き物と共に生き続けている。文明に取り残され(いや、文明を拒否し)、土に交じり合ってその生命を全うするのである。

人は、人間として生を受けるが、自分の意志ではなく、その生まれる場所、時間、時代、国、性別、両親でさえ決められて生まれてくるのである。

この世に生を受けた生き物は、誕生の環境的条件をどのように享受したらよいのであろうか。

生命誕生と神の導きは一体であるように思えてならない。

選民としてのユダヤ民族もまた神の導きに従い苦難の道を歩んでいくのであろう。

 

神の示された道に従うベトウインとユダヤの民に違いはない、みな神の子である。

 

ダハブ出立の朝、仲良しの犬・シャルル君立ちが見送ってくれたが、なかなか離れようとしない。しばらくの間、お互いの目を見つめあい別れを惜しんだ。

 

 

《 11月3日 ダハブより終着地エジプト・カイロに向かう  長距離バス65£E 》

 

シナイ半島最南端の港町シャルム・イッシェーフ(シャルム・エル・シェイク)経由カイロ行長距離バスは、岩山と砂漠をぬいながらの道を一日4便、55£E、途中検問を数か所通過、所要約10時間のスエズ湾に沿って、モーセのシナイ放浪とは逆のコース(時計回り)を北上する。

ただ、一部の区間と運河橋以外、バスからスエズ湾スエズ運河をほとんど見ることはできないのが残念である。

シャルム・イッシェーフは、第2・3次中東戦争シナイ半島(エジプト)を占領したイスラエルが開発した高級リゾート地として有名である。

 

 

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          シナイ半島南端高級リゾート地<シャルム・イッシェーフ>

 

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   モーセ軍団が南下したシナイ半島西南部の車窓風景 <シャルム・イッシェーフ⇒スエズ間>

 

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      スエズ運河東岸(シナイ半島)よりエジプト内陸部・アフリカ大陸方面を望む

 

途中、エジプト軍の統治下にあるシナイ半島では検問所でエジプト兵によるパスポートチェックを何度も受ける。

バスの切符の検札も、検問所ごとに受けるが、検問所の兵士にイスラエル兵のような緊張感はなく、ローカルな日常的な雰囲気が漂っている。おそらく、イスラエルとエジプトではパレスチナに対するお互いの政治的距離感によるものと思われる。

 

スエズ湾に、スエズ運河通過前の貨物船がその通過順番待ちの群船団(グループ)を形成し、壮観であると同時に、平和である長閑さをあらわしている。

一方、シナイ半島西岸を北上中、ザトールという街のサービスエリアのTVで、タリバンの指導者オサマ・ビン・ラディンがジハード(聖戦)を叫んでいた。今なお、中東は世界の火薬庫としてのプレゼンスを発しているようである。(トイレ使用料:0.5£)

 

イスラエルは、1948年の建国以来、シナイ半島中東戦争をとおして関わってきている。

なぜこのような人の住めないような砂漠地帯に攻め入り、占領と撤退を繰り返しているのであろうか。

現在、国連平和維持軍の駐留によりイスラエルとエジプトは分離され、戦闘を中止しているが、実際イスラエルシナイ半島占拠の理由はいくつかあるようである。

それは、シナイ半島に石油の埋蔵があること、広大なシナイ半島アラブ諸国との緩衝地帯にしたいこと、紅海の航行の自由を確保すること、スエズ運河の支配権の確保などが考えられる。

シナイ半島イスラエル占拠地には、すでに鉄塔を建て、電気柵を張り巡らせ、道路をつけ、海水を飲料水に換え、ソーラパネルとパラボラアンテナを設置したキブツ(集団農場)村を点在させている。

 

アフリカ・エジプトへのスエズ運河橋にさしかかったようである。バスは検問所で停車、乗客全員が荷物をもって整列させられ、徹底した携行品点検である。

 

そのあとバスは、この年2001年10月に日本の援助で開通したカンタラにある「スエズ運河橋」(エジプト‐日本友好橋)を渡ってアフリカ大陸に入り、カイロに到着する。

 

 

 

スエズ運河橋―エジプト・日本友好橋>

従来フェリーでスエズ運河を往来していたが、日本のODA(無償資金協力)によりアジアとアフリカをつなぐスエズ運河橋が、この年(2001年10月)に<中東和平の架け橋>として完成した。

この記念すべき真新しい運河橋を渡ってカイロに向かう日本人の一人となった。

 

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     スエズ運河に架かる<エジプト・日本友好橋>(スエズ運河橋)を渡る (ODA)

 

        

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         エジプト・日本友好橋(スエズ運河橋)の記念切手 (ODA)

 

 

旧約聖書出エジプト記に出てくるモーセ指導のもとでのイスラエル人エジプト脱出、シナイ半島放浪の逆ルートをたどってエイラットよりシナイ山(神よりモーセが授かった十戒)に立寄り、今回の<イスラエル縦断の旅>ゴールのアフリカ・エジプト・カイロに入った。

 

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        約10時間に及ぶ砂漠走行のあと長距離バスは早朝カイロに到着した

        この地から、神の導きによりモーセ率いるイスラエルの民はエジプトを脱出した

 

<▼ 11月3~6日 カイロ・インターナショナル・ユースホステル  

                  カイロ連泊  1泊25£E>

 

 

 

《 11月4~6日 カイロ滞在休息  イスラエル縦断を終える 》

 

ここエジプト・カイロは、今回のイスラエル縦断の旅の終着点であると共に、モーセのエジプト脱出の出発点でもある。

エジプトは、モーセイスラエル人(びと)を親として生まれた地であり、イスラエルの民がカナンの地に向かって出立した地である。

詳しく言えば、モーセ率いるイスラム人(びと)が、エジプト脱出の出発地としたのがラムセスである。ラムセスは、カイロから南へ車で30分の距離にある古都メンフィスであった。 古代エジプト古王国時代の首都として栄えたが、今は荒廃した村が残っているだけである。

 

エジプトは、現在のイスラエルという国やイスラエル人(びと)が存在する基(もとい)でもあるといってもいい。

 モーセの祖ヤコブと共にエジプトに移り住んだイスラエルユダヤ・レビ)の民の子孫は、エジプトの地に満ち、その勢力は強くなった。恐れたエジプト王パロは、彼らを監督し,重い労役を課し苦しめたが、それにまして彼らはますます増え続けたので彼らの新生児の内、男の子はナイル川に投げ捨てるように命じる。

神は、ユダヤ(レビ・イスラエル)の民の新生児(ういご)を助ける印を教え、過ぎ越すのである。エジプトびとの新生児はみな死に絶え、パロは主の怒りを恐れてイスラエル人(びと)のエジプト脱出をモーセとアロンに許すのである。

モーセは、イスラエル人(びと)を引率して、シナイの砂漠地帯を南下し、シナイ山神との約束<十戒>の啓示を受け、その後40年の歳月(エジプト脱出の苦しみを忘れないため)を経て、約束の地<カナン>に帰還するのである。

いまなお、ユダヤ教では聖書での神との約束に従って、これまたエジプト脱出の苦しみを忘れないため<過越祭ー過ぎ越しの祭り>が続いてる。

 

旧約聖書出エジプト記によると、これらのイスラエル人(びと)は430年間エジプトに住み、モーセによってエジプト脱出をはかったイスラエル男子成人は60万人であったと記されている。ほかにイスラエル人女子、子供に加えておびただしい家畜類も一緒に脱出移動したとあるから、その集団の規模の大きさに驚かされる。

 

この脱出した大集団が、神より約束されたカナンの地にたどり着くのに40年間、今回たどった逆ルートの砂漠地帯を彷徨し、帰還するのであるから、想像を絶する民族大移動を成し遂げたのである。

 

モーセの率いるエジプト脱出前後の詳細は、旧約聖書出エジプト記第11~14章に出てくる。特に、過ぎ越しの祭りの意味や、なぜ目的地カナンへ直線的に短時間で向かわなかったのかなどについて詳しく書かれている。

 

その子孫がいまディアスポラ(離散)後、約2000年近くの時を超えてイスラエルに帰還し、再び国を再建しているのだから、歴史は繰り返されているといっても過言ではない。

 

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      イスラエル縦断最終地カイロ郊外のピラミットとスフィンクス前で旅の無事を祝う

 

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      エジプトの修学旅行生たちとピラミットの前で、笑顔は平和のシンボルである

 

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      モーセ率いるイスラエルびとのエジプト脱出を見守ったであろうスフィンクスにも

                  イスラエル縦断踏破を報告する

 

神との約束を守り続けるユダヤの民の波乱に満ちた苦難の地を歩いてきた。

旧約聖書の一字一句が、現代に続いている道として、いまなお生きいきと残されていた。

そこに住む人たちが、祈りに生き、神の言葉を信じて生活している風景は、力強く、誠実である。

解釈の違いで、歴史の見方も異なり、すべてにおいて旧約の世界がいまなお現存し、争いも継続しているようである。

現在の和平へのプロセスは、旧約聖書的でないのかもしれない。

 

エスが一生を過ごした砂漠の地、シオニズムを掲げるユダヤの民の地を歩けたことに感謝したい。

 

いつかパレスチナの地に平和が訪れることを切に祈りつつ旅を終えたい。

 

このブログは、天に住する父母と、病床におられる竹中のり子姉に贈ります。  

2020年聖誕日・クリスマスに、 志賀の里にて

 

            

 

            

           2001星の巡礼 イスラエル縦断の旅> 

 

                   

 

 

 

<参考資料> 「星の巡礼 イスラエル縦断の旅」の経費から旅を振り返る。

この参考資料での経費は、2001年当時の物価であり、為替レートであることを申し添えておきたい。

 

          2001『星の巡 イスラエル縦断の旅』 日程と経費明細  
         
日程 都市名(▼宿泊先) 経費明細 料金 日本円
         
10/24 イタリア/ローマ空港 飛行機代           < ITL=0.06円> 324900ITL 19500円
  ▼機内泊      
10/25 ロッド空港 両替T/C <200.00US$x124円> 740.00NIS 24800円
    コカ・コーラ      <1NIS=33円> 5.50NIS 182円
  テルアビブ⇒ナザレ バス代 32.00NIS 1056円
  ナザレ⇒ティベリア バス代 18.40NIS 607円
  ▼Meyouhas Youth Hostel 18US$X4泊X124円=2232円 18US$ 2232円
10/26   ランチ(菓子パン/オレンジ) 16.00NIS 528円
  ティベリア⇔カーペナウム バス代往復11.70FinX2 23.40NIS 772円
  ティベリア アイスクリーム   7.00NIS 231円
    温泉入浴料 63.00NIS 2079円
    夕食(中華料理) 175.00NIS 5775円
    チップ 4.00US$ 132円
  ▼Meyouhas Youth Hostel      
10/27   <ガリラヤ湖> 遊覧船代 8.00US$ 992円
    ランチ(菓子パン/オレンジ) 15.00NIS 495円
  ティベリア⇒エルサレム バス代 43.00NIS 1419円
  ▼Jerusalam Youth Hostel 宿泊代3泊X@43US$ 129.00US$ 5332円
    タクシー代(宿泊先探し) 60.00NIS 1980円
10/28 エルサレムヘブロン 乗合バス代 30.00NIS 990円
  ヘブロンベツレヘム 乗合バス代 17.00NIS 561円
    ランチ(バナナ/コーク/ピタ) 7.00NIS 231円
    オレンジジュース 2.00NIS 66円
  ベツレヘムエルサレム 乗合バス代 12.00NIS 396円
    エルサレム市街地図 20.00NIS 660円
    夕食(チキン/ライス/スープ) 33.00NIS 1089円
  ▼Jerusalam Youth Hostel      
10/29 エルサレム テレフォンカード 57.00NIS 1881円
    ダビデの墓(入場寄付) 10.00US$ 330円
    ダビデの墓ガイド料 20.00US$ 660円
    ガイドチップ 10.00NIS 330円
    エルサレム旧市街道案内(少年チップ) 2.00US$ 248円
    鶏鳴ペトロ教会入場料 6.00NIS 198円
    旧市街⇒オリーブ山バス代 20.00NIS 660円
    オリーブ山⇒▼YHバス代  10.00NIS 330円
    夕食(中華料理) 38.00NIS 1254円
  ▼Jerusalam Youth Hostel      
10/30 エルサレム⇒エンゲディ バス代 59.00NIS 1947円
    ダビデの滝トレッキング入域料 17.00NIS 561円
    死海浮遊体験 1.50US$ 186円
  ▼EinGedi Youth Hostel 夕食付宿泊代 46.00US$ 5704円
10/31 エンゲディ⇒エイラート バス代 53.00NIS 1749円
    ▼▼エイラートYH2泊分夕食付前納 392.00NIS 12936円
    ランチ(中華料理) 390.00NIS 12870円
    コーク 12.00NIS 396円
    有料トイレ 1.00NIS 33円
    カメラフイルム40枚X4 112.00NIS 3696円
  ▼EinGedi Youth Hostel 両替(30US$)    
11/01   ラクダ―ツアー 44.00US$ 5456円
    ツアー参加往復タクシー代 20.00NIS 660円
    ラクダ―ツアーチップ 35.00NIS 1155円
    ランチ(ツナフィッシュサンド/コーク) 26.00NIS 858円
   <イスラエル イスラエル国税 68.00NIS 2244円
  エイラート⇒タバTABAH エジプト入国税 <1US$=5.6£E=124円> 25.00£E 3100円
   <エジプト> エジプト<両替250US$X5.6£E> 1400.00£E 31000円
  ▼Mohamed Ali Camp 20US$    
11/02 ダハブDahab シナイ山ツアー(乗合バス往復代) 30.00£E 1680円
    絵葉書マウント・サイナイ 5.00£E 280円
    ランチ(スパゲッティ・コーク) 10.00£E 560円
    夕食(中華料理) 70.00£E 3920円
  ▼長距離バス車中泊 ビスケット/飲料水ほか 19.00£E 1064円
11/03~06 ⇒カイロ着(11/03) 長距離バス代 65.00£E 3640円
  <モモハメド・アリー> ランチ(スパゲッティ/コーク) 10.00£E 560円
    夕食(中華料理) 23.00£E 1288円
  ▼Mohamed Ali Youth H. 宿泊代25£EX4泊 100.00£E 5600円
                  by Sanehisa Goto    

 

 

 

 

 



 

 

 

 


    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2001『星の巡礼 イスラエル縦断の旅』Ⅱ

2001星の巡礼 イスラエル縦断の旅』Ⅱ

エルサレム旧市街を歩き、死海をへてエイラットに向かう>

 

 

ベツレヘムを後にして、乗合ワゴンでエルサレムに戻った。

夕方、嘆きの壁に出かけ、広場のうしろに座ってユダヤ教徒の敬虔な祈りの場に接した。

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               岩のドームに接する嘆きの壁

 

明日は、エルサレム旧市街のイエスが最後に歩かれた道<ヴィアドロローサ/悲しみの道>をたどることにする

 

 

<▼10月28~29日  エルサレム  シタデル・ユース・ホステル連泊 

                  シングル @43US$ >

 

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        エルサレム旧市街にあるシタデル・ユースホステルレリーフ

 

 

 

《10月29日 エルサレム巡礼》

 

エルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三大宗教にとって特別な聖地である。

ユダヤ教徒にとっては神から与えられた土地であり、キリスト教徒にとってはキリストが亡くなった場所であり、そしてイスラム教徒にとってはマホメットムハンマド)の「夜の旅」の到着地で、ここから天馬に乗って天へ昇ったとされる重要な聖地である。

 

この待望の三大宗教の聖地であるエルサレムの旧市街を歩いた。

 

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              イエスが歩かれたエルサレム旧市街地図

 

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  ヤッファ―門をスタート     エルサレム旧市街を取り巻く城壁に隣接する<ダビデの塔>>          

 

 嘆きの壁

嘆きの壁は、岩のドームの建つ神殿の丘を取り囲む城壁(ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁)の現存する一角にあり、ユダヤ教の聖地である。

この<嘆きの壁の広場>は、機関銃を持った兵士や、警官、私服によるパトロールが厳しくなされ、周囲の建物の屋上には迷彩色の網をかぶせた監視所が張り巡らされ、機関銃が顔をのぞかせている。広場への出入りは、厳重な検査がなされ、その物々しさに驚かされた。わたしは出かける前に宿泊先に、金属類(ナイフ・ハサミ・爪切りほか)を置いてきたので案外スムーズに広場に入ることが出来た。

そのような厳重な雰囲気の中で、多くのユダヤ人が壁に向かって左側に男性が、右側に女性に分かれ、タルムードやトーラを、声を出して読んでいる。特に男性側にはユダヤ教超正統派の黒ずくめの人たちが目立つ。

 

滞在先のユースホステルに近く、城壁巡りの入口のある旧市街西壁のヤッファ―門をスタートし、<ダビデの塔>を経て、<嘆きの壁>に向かった。

 

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              ユダヤ人祈りの場所<嘆きの壁

 

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            死海の塩水で描いた<嘆きの壁>スケッチ

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

わたしは広場のうしろの方で、この<嘆きの壁>に向かって祈るユダヤ教徒を目にしながら、持参した新約聖書のマルコの福音書を開き、イエス・キリストエルサレムでの最後の日々を、時間を追いながら読んだあと、スケッチを終え静かに<嘆きの壁広場>を離れた。

 

嘆きの壁>を出て、南側にあるモロッコ門をくぐり、<神殿の丘>にある<エル・アスク・モスク>(男子専用礼拝所)と<岩のドーム>(女子専用礼拝所)に向かう。

 

                 f:id:shiganosato-goto:20201221151521j:plain

                                                           ロッコ

 

 

<神殿の丘 - 岩のドーム

神殿の丘、岩のドームには、神殿の丘を取り囲む城壁西側にある<嘆きの壁>の南側にあるモロッコ門から高架橋を渡って入る。

岩のドームに立寄って見ると、イスラエル兵によりバリケートが築かれ、関係者以外は入場禁止であると告げられる。あとでわかったが、岩のドームは女性専用のモスクで男性は入れないと云ことである。礼拝は男女によってわかれ、男性はモロッコ門を入ったところに位置する<エル・アクサ・モスク>で礼拝することになっている。

 

ユダヤ教徒にとって、神殿の丘は、アブラハムが神の命令に従って息子イサクを献げようとしたかってのモリヤの丘であったという。3000年前ダビデがそこに契約の箱を置き、子ソロモン王が神殿を建てた場所で、ユダヤ教キリスト教の聖なる場所である。

内部の岩は、世界が創造された際の<基礎石/エペン・シュテイヤ>と呼ばれ、世界の中心であるとされている。

 

一方、イスラム教にとってもエルサレムは、サウジアラビアのメッカ、メディナに次いで3番目に重要な聖地である。
7世紀、イスラム教徒がエルサレムを征服し、ユダヤ教の神殿跡に岩のドームを建設した。
イスラム教の創始者であり預言者であるマホメットは夢の中でメッカから天子ガブリエルに連れられてエルサレム神殿まで旅をし、神殿の岩から昇天し、メッカに戻ったと言い伝えられていることは先にも述べた。

 

岩のドームの下にある洞窟をムスリムは<魂の井戸>と呼び、最後の審判の日が訪れた時、すべての魂がここに集まるという。

 

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              城壁で囲まれたエリアが<神殿の丘>

 

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             手前のエル・アクサ・モスクと岩のドーム(奥)

 

岩のドームを後にし、神殿の丘を囲む城壁の東門<黄金門>を出て、オリーブ山に向かう。

 

 

<オリーブ山 と 主の涙の教会>

オリーブ山の北側、旧エルサレムを望むところに<主の涙の教会>がある。

ちびロバに乗られたイエスキリストがこの場所からエルサレムを見渡し、その行く末を案じ、涙を流されたという新約聖書に基づいて建てられた教会である。

ルカによる福音書19節41~44節>

祭壇越しに見える岩のドームは、その神秘性を今に伝えている。

<主の涙の教会>は泪をモチーフに、その祭壇はイエスが望まれた方向である西向きに建てられている。

 

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    主が泣かれた教会    主が泣かれた場所の祭壇越しに岩のドーム/エルサレム旧市街を眺める

 

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                   オリーブ山近景を望む①

 

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              エルサレム旧市街よりオリーブ山遠景を望む②

 

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             オリーブ山頂より旧エルサレム市街と岩のドームを望む

 

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                                                     オリーブ山より旧エルサレム岩のドームを望む

                    Sketched by Sanehisa Goto 

 

<ケデロンの谷>

オリーブ山とエルサレム旧市街南にあるダビデの町の間を隔てる古い岩窟が並ぶ集落が<ケデロンの谷>と呼ばれている。

ここはダビデ王の時代からの古い墓地があり、最後の審判の日に死者が蘇るといわれている。オリーブの樹の間からは古代の切石造りの旧約聖書にゆかりのある預言者の岩墓がみられる。

 

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                                                エルサレム旧市街城壁より シオンの丘を眺める

 

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                                                                   ダビデの町遺跡

 

ダビデの町は、ユダヤ民族の最盛期を支配したダビデ王とそれに続くソロモン王が第一神殿時代に築かれたと思われる街である。

 

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                   ケデロンの谷にある岩墓群

 

 

<シオンの丘周辺>

エルサレム旧市街の南西、シオン門に隣接する地域に、ダビデ王の墓・最後の晩餐の部屋・鶏鳴教会・マリア永眠教会が集まっている。

ダビデ王の墓には、新旧聖書<新約聖書 使徒行伝2章29節 /  旧約聖書 列王記上2章10節>に記されているダビデ王が葬られ、ダビデの星が刺繍されたビロードの布で覆われたダビデの石棺があり、聖書に出てくるダビデ王との対面を果たすことが出来た。

 

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                ダビデの墓にあるダビデ王の棺

 

最後の晩餐の部屋は、ダビデの墓の上階にある。

エスは、1000年後のダビデの子孫である。ダビデの墓の上階が、イエスが処刑される前に12人の弟子と最後の晩餐をした部屋であり、旧約と新約の接点として残されている史実と、その予言の不思議さに驚かされる。

 

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    最後の晩餐の部屋              ダビンチの最後の晩餐

 

鶏鳴教会は、ユダの裏切りによりゲッセマネの園でとらえられたイエスが、ここシオンの丘にある大祭司カイアファの屋敷に連れてこられた場所に1931年に建てられた聖ペテロ教会のことを言う。

この鶏鳴教会は、ペテロが群衆に「イエスの仲間だ」と言われ、イエスの預言通り「知らない」と3回も嘘を言ってしまった屋敷の中庭にある。

その後、ペテロは悔い改め、イエス昇天後は弟子たちのリーダーとして誠心誠意布教につとめた。

ここに出てくるイエスの弟子であったユダとペテロの違いについて考えておきたい。ユダは、イエスユダヤ当局に引き渡す手引きをした裏切り者であり、ペテロは先にも述べたように弟子でありながら「イエスを知らないと」と言って、イエスを裏切ったのである。

二人の裏切り者は、ペテロが後悔し忠実なイエスの僕に変貌する一方、ユダは悲しみを癒されず自ら命を絶ってすべてを終わらせてしまう。

 

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          教会のドームの上の十字架に鶏が飾られている鶏鳴教会

 

マリア永眠教会もまた、エルサレム旧市街南にあるシオン門の近く<シオンの丘>にある。地下聖堂に階段で下りると、イエスの母<聖母マリアの像>が安置されている。

 

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  シオン門近くの城壁よりマリア永眠教会を望む  マリア永眠教会の地下に安置された聖母マリアの像

 

 

 

《シオンの丘ゲッセマネの園ヴィアドロローサ/悲しみの道

 ➔ゴルゴダの丘/聖墳墓教会

 

シオンの丘にあるダビデの墓、マリア永眠教会、鶏鳴教会、最後の晩餐の部屋の見学を終え、シオン門よりユダヤ教徒地区を横切って<糞門>に向かう。門を出て城壁沿いにある<主の祈りの教会>、<ゲッセマネの園>を訪れたあと、<ライオン門>より、イエスが十字架を担がれて歩かれた聖なる道<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>をたどり<ゴルゴダの丘>にある<聖墳墓教会―イエスの墓>に向かう。

 

ゲッセマネの園>

ゲツセマネ の園は、オリーブ山の麓にあり、イエス・キリストが受難に先立って苦悩し,最後の祈りをささげ,捕縛された場所である。

 

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                     ゲッセマネの園

 

 

<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>

ゲッセネマの園から城壁<ライオン門>をくぐり、イスラム地区の狭い路地を進むと標識<VIA DOLOROSAに出会う。

これより、十字架を背負って歩んだイエスの足跡をたどることになる。

 

<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>を歩くにあたって、エルサレム旧市街のイエスが歩まれた地図を再掲しておきたい。

  

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ユダヤ教指導者たちから死刑を強く求められたイエスは、ローマ総督ピラトのもとに連れていかれた。判決権を持つピラトはイエスが死刑に値するとは考えなかったが、ユダヤ教の指導者によって煽られた民衆が強烈に死刑を求めたため、イエスに死刑判決を下したといわれている。

 

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                VIA DOLOROSA ・悲しみの道

                     イエスの歩まれた道標

 

 

<第1ステーション:地図内①>である死刑判決のなされたローマ総督ピラドの官邸から、イエスは茨の冠をかぶせられ、十字架を背負わされ歩み、<第14ステーション:地図内⑭>である磔の刑に処されたゴルゴダの丘までの約1㎞を歩まれた。この場所に聖墳墓教会が建てられている。

このイエスが十字架を背負わされ歩かれた道が<VIA DOLOROSA> (ヴィア・ドロローサ/悲しみの道)である。

ヴィア・ドロローサには、聖書の記述や伝承に従って、次の14ステーションが指定されている。


 ■第1ステーション ① : イエス、死刑判決を受ける  

              (ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞)

 

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       ①ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞

    現在学校が建っている地下にローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞跡が残されている。

 

■第2ステーション ② :  イエス、十字架を背負わされる  

              (鞭打ちの教会/ホッケ・ホモ・アーチ)

 

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           鞭打ちの教会             ホッケ・ホモ・アーチ

     ローマ総督ピラトがイエスを群衆の前に引き出して、「エッケ・ホモ」すなわち

    <ラテン語:この人を見よ>と叫んだ場所だといわれている。

 

■第3ステーション ③ :  イエス、十字架の重みで倒れる  

              (ポーランドカトリック教会)

 

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    ポーランドカトリック教会のレリーフ<十字架の重みに倒れるイエス

 

 

■第4ステーション ④ :  イエス、悲しむ母マリアに出会う     

              (ヴィア・ドロローサレリーフに見る)

 

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■第5ステーション⑤: イエスの代わりに、シモンが十字架を背負わされる  

              

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        <ラテン語の石板標識>

 

■第6ステーション ⑥ :  ベロニカがイエスの顔を拭いたといわれる場所

この辺りは狭い路地に多くの土産物店が立ち並んでいる。
ベロニカが拭いた布にイエスの顔の跡が付いたといわれ、その布はローマのサン・ピエトロ寺院に保存されているという。

 

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    聖ベロニカ教会(ベロニカが住んでいた家といわれる)

 

 

■第7ステーション ⑦ :  イエス、2度目に倒れたといわれる場所

 

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   イエスが、2度目に倒れたといわれる場所付近

 

 

■第8ステーション ⑧ :  イエス、悲しむ女性たちを慰めた場所

 

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    第8ステーションの標識       第8ステーションに埋め込まれたラテン十字架

 

 

 

■第9ステーション ⑨ :  イエス、3度目に倒れた場所   

                コプト教会の入口右横(聖墳墓教会内)

 

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          コプト教会の入口横

 

 

■第10ステーション ⑩ : イエス、衣を脱がされた場所   

              聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂

 

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         聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂

 

 

■第11ステーション ⑪  イエス、十字架に付けられる   

             聖墳墓教会ローマカトリック祭壇  

聖墳墓教会の階段を上がったところにあるローマカトリックの祭壇に<十字架に張り付け終わったイエス>がおられる。

 

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          聖墳墓教会ローマカトリック祭壇 

 

■第12ステーション ⑫  イエス、十字架上で息を引き取る  

             聖墳墓教会ギリシャ正教祭壇

第11ステージの左隣にあるギリシャ正教の祭壇に<十字架上で息を引き取ったイエス>がおられる。

 

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         聖墳墓教会ギリシャ正教祭壇

 

■第13ステーション ⑬ :アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る

 

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     エス、弟子たちによって十字架から降ろされる様子

 

 

■第14ステーション ⑭ : <ゴルゴダの丘> イエス、埋葬される 

               イエスの墓 聖墳墓教会

 

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             イエスの墓 聖墳墓教会

 

 

ゴルゴダの丘 ― 聖墳墓教会

ここゴルゴダの丘は、イエスが十字架を背負わされ歩んだ<ヴィアドロローサ/悲しみの道>の最終地であり、十字架に磔にされたイエス最後の地である。イエスの墓があり、聖墳墓教会が建てられている。

最初、ゴルゴダの丘は、オリーブ山やシオンの丘のようにエルサレム旧市街を取り囲む城壁の外にあるものとばかり思いこんでいたが、現地で城壁内の聖墳墓教会そのものがゴロゴダの丘であることを知った。

 

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                ゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会

 

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                イエスの墓といわれる大理石の石棺

 

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            エルサレム 聖墳墓教会イエス・キリストの墓の前で

 

イエス・キリストの受難の道である<悲しみの道/ヴィア・ドロローサ>をイエスの生涯を顧みながら、こころ静かに歩いた。

その後、西側城壁に上がり、エルサレムの街をこころに刻み、エルサレムに別れを告げた。

 

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         エルサレム西側城壁より旧エルサレム市街を望み、別れを告げる

 

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            エルサレムを去るにあたって新市街を散策

 

エルサレムの街には、髪の毛を頭のうしろで結んだ娘さんたちが、戦闘服に身を包み、軍靴を履き、自動小銃をもって歩いている姿に多く出会う。

自分たちの国は、自分たち若者が守るのだという覚悟が伝わってくる。生きいきした目の輝きには、このイスラエルの国を離れず、先人たちの過ちを二度と繰り返さないという強い意志が感じられる。

若者の血を、祖国のため、子孫のため、未来のため沸き立たせることが民族生き残りの条件であり、基本であるということを自覚し、理解しているといえる。

平和の中に埋没している日本の若者とは、取り巻く環境からくる人生観・世界観そのものが異次元であるといっていい。

 

トーラを読み、口ずさむユダヤの人々の多いこと。バスの中、バス停、街角など、時間を惜しんでトーラを諳んじている姿には、神との繋がりにこそ民族の存続があり、生かされている証があることを確認しているようである。

ユダヤ民族が存続し、これからも存続し続けるためには、規律と戒律が必要であることを自覚しており、民族の財産が民族愛であり、言語であり、宗教であり、神であることを示している。

 

 

<▼エルサレム旧市街滞在 10月28~29日  シタデル・ユースホステル連泊  1室@43US$ >

 

いよいよエルサレムを離れ、出エジプト記に書かれているモーセのエジプト脱出からカナンの地への逆ルートをたどり、シナイ半島を経由してエジプトにむかう。モーセ率いるイスラエル人の帰郷大作戦である苦難の彷徨40年間の足跡をたどる。

イスラエル人が、神の導きでエジプトを脱出するにあたり、神との契約を守るという代償を背負うこととなった。正統ユダヤ教徒は、今なお<神に選ばれた民>としての生き方を、<神との契約>として厳密に守り通している。

 

砂漠地帯であるシナイ(エジプト)へ向かうにあたっての準備として、まずはカイロまでのバス事情・ルートの収集、エジプト入国に必要な書類やエイラットのエジプト領事館の関する情報を集めることにした。

 

 

《10月30日  エンゲディ ― クムラン渓谷トレッキング/死海浮遊体験 》

 

次なる目的地である死海に面した<エン・ゲディ>に向かうため、エルサレムの新市街にあるセントラル・バス・ステーションにやって来た。バス乗車にあたっての厳重な荷物検査と、身体検査でのイスラエル兵との冗談に、空気が和んだ。

< Do you have a gun? > との尋問に、多分冗談で言ったものと思い、こちらも冗談で< Yes, I have! >と答えたら大爆笑、一瞬その場の雰囲気が明るくなったものだ。にこやかに手を振って無事通過させてくれた。

 

バスの正面ガラスは太い鉄格子で補強され、テロの襲撃に備えている。

Holon行のバスに乗り、エン・ゲディで途中下車する。 エルサレム08;45発、バス#486, Gate 3で乗車する。

 

バスは、死海の北端で右に折れて入植地クアレQUALEに立寄る。

ここは砂漠のオアシスのように草木が繁り、花が咲き乱れる別天地である。しかし、よく観察するとこのオアシスはイスラエル軍の兵士によってガードされ、装甲車に重機関銃を搭載し巡回していることに気づく。

ただ、イスラエルの人々が、このような死の谷底の岩がゴロゴロしている不毛の地にも入植地を広げ、緑化に励んでいるという現実と、祖国再建にかける情熱と覚悟に驚嘆するとともに、頭が下がるものである。

 

海抜下、マイナス400mにある死海エリアを進むバスに乗っていると、飛行機のように気圧の変化により耳鳴りがする。このあたりには、原住民ベトウィンが羊を飼い、旧約聖書以来のような質素な小屋や移動用テントに住んでいる。モロッコのベトウインや、チベットで出会った山岳民族に似た生活風景である。

 

バスは死海沿いに、月のような死の道路を南下しているが、行き交う車がほとんどないことに気づく。死海の周辺は流れ込む川もなく、真水を確保する手段がないがため、入植地やベトウイン以外、人の住む村一つないのだから車の通行も少ないのである。

 

 

<クムラン渓谷 ― 死海文書>

1947年、ベドウィンの少年が迷子の山羊を捜していたところ、クムラン渓谷の洞穴のなかから土器の壺に入った羊皮に書かれた七つの巻物を発見した。それらが旧約聖書イザヤ書の完全写本や聖書関連古文書<死海文書・死海写本>であったことから世紀の大発見として注目された。

下の写真の真ん中の洞穴から巻物が発見されたといわれる。

特にユダヤ人にとっての驚きは、ユダヤ教典<タルムード>のテキストが、古ヘブライ語ギリシャ語・アラム語で書かれていたことである。

 

このすべての装飾をこそげ取り去った赤土の岩石の山や、渓谷にこだまする乾いた足音の先に、神に選ばれた民によって書き伝えられた証が残っていた。誰が想像できようかこの極限の世界で、おのれを律して修行を積み、人に与えられた使命を見つめ、乞い願った聖なる人たちがいたということを・・・想像を絶する旧約の世界である。

向き合う大切さ、乞い願い求める信仰の強さを教えられた瞬間であった。

 

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エンゲディ・クムラン渓谷にあるクムラン教徒が住みついていた中央の洞穴から<死海文書・写本>発見

 

 

<エンゲディ・クムラン渓谷トレッキング    国立公園入域料 17NIS>

死海の西北部に広がる渓谷で、紀元前2世紀末ごろユダヤ教徒クムラン教団がここクムラン渓谷の洞穴で禁欲的な修道生活を始めたという。今日は一日、クムラン教徒の修養にひたりたいと、このクムラン渓谷を瞑想行脚<経行・キンヒン>させていただき、トレッキングすることにした。

ここエンゲディ・クムラン渓谷は、アメリカのグランドキャニオンのように見渡す限り死の地であり、赤土でおおわれ荒涼としている。

このような荒れ地にも小鳥たちの鳴き声が響き、こころを豊かにしてくれる。またカモシカが姿を見せ、生き物の姿を見ているだけで感動してしまうのである。

渓谷トレッキングの途中でランチをとった。パン・ジャム・バター・リンゴ・ヨーグルト・バナナ・コーヒーと豪勢である。

ランチをとっていると、公園をパトロールしていた武装レンジャーのスーザン嬢が声をかけてきた。

どのルートでここまで来たのかとの質問、ルートを説明すると、この奥に<ダビデの滝>があるので立寄って見てはと勧められた。公園レンジャーは、トレッカーの指導と、管理と警備および保護にあたっているようである。

 

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            ダビデ渓谷・ダビデの滝トレッキング・マップ

 

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              ダビデ渓谷・ダビデの滝スケッチ

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

ダビデの滝>

ダビデの滝には、仙人みたいな髭を生やした男二人が、裸になって滝に打たれながら何かを唱えている様子、すぐにエルサレムの<嘆きの壁>の情景を思い出し、彼らがトーラを唱えている事に気づいた。

 

ダビデの滝は、約3000年前の旧約の時代、ダビデがサウル王から逃れ、身を隠していたところである。サウル王が用足しのためある洞窟に入った時、そこに隠れていたダビデは、サウル王を殺すことなく、背後から王の着衣の一部をナイフで切り取っていた。

サウル王が洞窟から出た時、ダビデも外に出て、自分がサウル王を殺すつもりならいくらでもそのチャンスがあったが、自分はサウル王に反逆する者ではないことを話すのである。

このことによって、サウル王はダビデの忠実心を認め、ゆるすのである。

その後、サウルは戦いで亡くなり、跡を継いでダビデイスラエル王になった。

(なお、ダビデ王に関しては、旧約聖書詩編をお読みいただければ幸いである)

 

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                  ダビデの滝

 

この乾燥した岩山に水が流れているなど夢想だにしなかったので、はじめレンジャーの言うことを信用していなかったのである。

岩の間から幾筋も溢れんばかりに流れ落ちているのだから驚きである。もちろん、わたしも滝に入ってうたれ、まろやかで清らかな水を沢山いただいた。

仙人風男たちに<シャローム>と挨拶し、お邪魔したことを謝し、ダビデの滝を後にして、死海に向かっておりた。

 

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       グランドキャニオンのような赤土のクムラン渓谷の両断崖に洞穴がならぶ

 

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               クムラン渓谷より死海を背景に

 

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         クムラン渓谷の一部には貴重な水の流れがあり、緑を目にすることが出来、

                 その流れは死海に注ぎ込み蒸発する

 

 

死海 - 浮遊体験    1.5US$>

クムラン渓谷トレッキングを終え、<エンゲディ・パブリック・ビーチ>へ直行、死海での浮遊体験をするためである。

 

死海は、海面下398mにある世界で一番低地にある塩(水)湖である。

ゴラン高原に発し、ガリラヤ湖(淡水湖・海面下213m)にそそがれた流れは、ヨルダン川を南下してここ死海に達する。

川水は、出口のない死海に溜まり、天日による蒸発によって塩分濃度の比重が大きくなり(31.5%)、浮遊が可能となるのである。

死海の塩分濃度は普通の海水の10倍の濃度である。死海の塩水が傷口や目に入ると痛いことこの上なく、炎症を起こすこともあるので浮遊体験時にはスイムキャップをかぶり、水中眼鏡を着けることになった。

死海琥珀色の水を満たし、永遠の美しさを見せている。

ただここエンゲディ・パブリックビーチ(入場無料・シャワー/トイレ/ロッカー有料)には美容に効くという泥はなく、泥売りおばさんから購入して泥パックを楽しむことになる。

泥パック、温泉、プールを楽しむなら、パブリック・ビーチより南にある<エンゲディ・スパ>を利用することをおすすめする。

 

死海での浮遊体験をしながら、遠くかすむ死海対岸北東に横たわる約束の地カナン(ヨルダン)にあるモーゼ終焉の地ネボ山を拝し、目を閉じた。これから訪ねるモーゼが十戒を授かったシナイ山や、ユダヤの民を連れ出したエジプト脱出の情景を、空想の中にたどってみた。

 

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     死海の泥パックに興じる観光客            死海の浮遊体験中のわたし

 

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               死海の塩水で描いたスケッチ

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<▼10月30日 エンゲディ・ベト・サラ国際ユースホステル泊  46US$>

 

エンゲディ・インターナショナルYH(ユースホステル)は、エンゲディ国立公園入口や死海の浮遊体験のできるパブリック・ビーチ近くにある。

二食付き1泊、46US$(VISA払い)、朝食・夕食とも豪華である。YH周囲には飲食店はなく、お世話になった。

この夜は、満月の夜で、死海に映る満月の長い月影が死海の上に横たわって幻想的である。

フルムーンが死海に映え、わたしを宇宙へと導く。エンヤの<Sheherd Moon>が魂に響く。

 

月を愛でていると、高校生男女240名がバスで乗り込んできた。満月にひたっているどころではない。彼らはディスコのバンドを囲んで歌い、踊りだした。それもボリュームいっぱいにして、人ひとりいない死海に向かってである。

 

イスラエルの青少年育成に見るユースホステルの重要性を見ておきたい。

青少年を集団生活させ、ユダヤ教の聖地・聖人・歴史・タルムードや、イスラエルの自然環境・地理・地政学・隣国との国境を学ばせ、パレスチナとの多くの共同統治地区を見せ、全国に広がる入植地・キブツイスラエルの集散主義的協同組合)での体験をさせることにより強健な体力づくりと愛国心向上と、旧約の歴史探究をさせることにあるようである。

その青少年育成のフィルドワークの中心として、学校生活の延長線上に、ユースホステルを据えているようにうかがえる。

徴兵制をとるイスラエルは、自然の中をチームで出歩かせたり、チームで宿泊させたり、自分たちの計画で集団行動・労働をすることによりチームリーダを決めたり、役割分担により人に役立つことや、助け合う精神を向上させることに重点を置いているようである。

未来の国を背負う青少年の責任感とグループ連帯意識の向上に役立たせている。

まさにボーイスカウトのパトロールシステム(班制度)を実践しているといっていい。

 

これらの青少年育成の運動を推進するため、ユダイズムやシオニズムを支援する全世界の各種団体が設立運営され、各構成員は十分の一税のように、全収入の10%~30%をイスラエルの国体維持のためや、青少年育成のため献金・送金する同胞が多いことも知られている。

アメリカ在住時のユダヤアメリカ人の友人や隣人もまた、イスラエルへの送金を続けていたことを想い出したのである。

 

明日朝一番のバスで、イスラエル最南端の港町エイラットに向かう。若いエネルギーの爆発で眠れそうもない。でも、早く寝ないと・・・

 

<エンゲディ⇒エイラット> エルサレム始発バス#444は、エンゲディに45分遅れて到着し、エイラットに向かって出発した。 バス代 53NIS。

 

 

《 10月31日~11月1日 リゾート都市 エイラット  快晴 35℃ 》

 

エアコン付きのバスは、死海西岸沿いに、対岸ヨルダンの赤茶けた丘陵地帯を眺めながら南下する。

途中、エンボッケの街で15分間トイレ休憩、一応何でもそろう死海最南端のビッグオアシス(リゾート地)である。泥パックエステや大型ホテルが目に付く。

 

バスは、これより南に横たわる木一本ないネゲブ砂漠の東端を縦断し、エイラートに着く。人が住めるような所ではない。

砂漠といってもデザート(砂)ではなく、この世から見捨てられたような荒れ地である。途中、ただ一つの製塩の白い工場群に生きる光を見たような気がした。

このような荒れ地(砂漠)にも入植地(キブツ)があり、人工的な緑のオアシスが目に飛び込んできて驚嘆させられるのである。このような暗澹たる土地に、いかなる生産を計画しているのであろうか。頭が下がる思いである。

神から与えられた地であるイスラエル建国に夢をかけるユダヤ人いや全世界のユダヤ民族の情熱を見る思いである。

キブツの大ビニールハウス群には、エンドウ豆のような緑の野菜がすくすく育っている。

この月の砂漠のような荒れ地に緑の命が育っている姿は、感激の涙を誘うような感動でもある。神と人のコラボレーションをユダヤの地に見たのである。

ここネゲブ砂漠では、一本のペットボトルの水が命をつなぐすべてである。水それは全生命の根源であり、水無くして生命は維持しえないことを知る。

日本人が、日本の自然の豊かさを実感できないでいることの哀しさ、むなしさ、感謝の気持ちのなさに、おのれ自身憤りを感じて恥じ入ってしまった。日本人は、なんと素晴らしい土地を与えられ、住みついているのだろうか。

 

ここネゲブ砂漠に生きる蝿は、人の汗という水分を含んだ分泌物に群がってくる。追ってもおっても汗(塩分を含んだ水分)に吸いついてくる。その貪欲な生き方にこそ、ここイスラエル建国の精神を見る思いでもあった。

また、観光客への配慮も素晴らしい。荒涼とした砂漠の殺風景から観光客を癒すためであろうか、ラクダやダチョウの切り抜き看板が砂漠に立てられており、和ませてくれる。

 

牛やダチョウを飼っているエイラット近郊のキブツをみながら、バスは、エンゲディより丁度3時間、午前11:00に終点エイラット・バス・ステーションに到着した。

 

イスラエル最南端にあるエイラットは、リゾート地として一年中観光シーズンであり、多くの観光客を迎え入れている。

エイラットは、ソロモン王時代に交易港(現在のヨルダン領アカバ港)として栄え、シバの女王を迎えた港として知られている。

旧約聖書に出てくるエイラットは、現在のヨルダン側にあるアカバを指し、エイラットと名乗っている現在地はイスラエルの独立によって、荒野であった地に新しい港湾都市をつくってエイラットと命名したという。

 

この時期(10月末)、エイラットはシーズンオフなのであろうか、ほとんどの店が閉まっており、閑散としている。そのような中、水着姿で日光浴を楽しんでいる観光客もいる。

ランチは、イスラエル縦断後に予定している南アフリカケープタウンに向かってのアフリカ東海岸縦断に備え、栄養補給のため中華料理を「上海飯店」でとる。眼前がアカバ港、背景の赤茶けたサウジアラビアの岩山が琥珀色の紅海にマッチして美しい。

 

35℃、エイラットは暑い。ノースビーチで泳ぎ、小魚と挨拶を交わすシュノーケリングを楽しんだが、熱帯魚はおらず、サンゴにも出会わず残念。ここ観光地に休暇で遊びに来ている青年兵士たちも機関銃を携行することが義務付けられているようである。イスラエル全土が、365日臨戦態勢である。しかし、イスラエル人はみな陽気であり、生活をエンジョイしている様子である。なんといっても幸せを感じ、緊張の中にも満足と自信に満ちた表情をしている。

一方、アラブ人やパレスチナ人は生活に追われているのであろう、働かざるを得ないようである。両者は、支配者かどうかの立場の違いにも見えるが、パレスチナ人は4000年にわたって生活してきた祖父の地が遠き良き過去の時代になったことを嘆き悲しんでいるように見える。

 

ショッピングモールにも出かけてみた。エジプト国境に隣接しているので、イスラエル各地よりも厳重な手荷物・身体検査を受けての入店である。モールには、多くのラフな服装の店員らしき若者が機関銃を肩にかけて仕事や接遇サービスをしている。

 

 

ここエイラットでは、エジプト入国のためのビザ取得のため動き回った。

エイラットのエジプト領事館でビザ申請。9時申請すると、10時半には、直ちにビザを発行してもらえた。(申請代72NIS)

エジプト領事館員の<HAVE A GOOD DAY, ENJOY EGYPT !>の一言に、エジプト・シナイ半島の旅の安全が約束された気分にさせられ、緊張が一瞬にして失せた。なぜなら、3年前の1997年11月、ナイル川にあるルクソールの遺跡で、多くの日本人観光客がテロによる銃乱射に巻き込まれ犠牲(日本人10名を含む62名殺害)となっていたからである。

 

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        エイラット(イスラエル)よりアカバ(ヨルダン)へ陸続きの避暑地

 

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エイラットのホテル群をバックに紅海の太陽を浴びる  /  アカバ(ヨルダン国境)よりエイラット市街を望む

 

イスラエルとヨルダン国境にも中立地帯が横たわる。

 

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                  エイラットの街

                   Sketched by Sanehisa Goto          

 

先日立寄ったヘブロンで、イスラエル兵とパレスチナ解放機構/PLO (イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目ざす武装組織)との間に銃撃戦があり、両方に死傷者が出たとのニュースが流れた。

ユースホステルの中にも緊張感が走った。

両サイドとも和平を望んでいるのに、自分たちの愛する領土に対する確執から、対立や紛争は尽きない。

両者絶対に譲れないところに、和平への解決の糸口が見つからないのである。

日本人の北方領土に対する無感覚と同じく<いいじゃないか>という諦めは、ここでは通用しないということである。国を盗るか盗られるか、それは生存権の問題であり、相譲れないのである。

祖父伝来の、民族固有の土地は絶対に奪還するという強い意志があってこそ、祖国愛に基づく祖国防衛が成立するのである。

祖国愛・祖国防衛の意識が両者にあるから悲劇であり、無情である。

 

今夜は満月である。ここからは4か国の満月が見られるのである。イスラレル・ヨルダン・サウジアラビア・エジプトの満月をここエイラットで見ることが出来る。エイラットはこれら4か国と国境を接しているからである。

 

これから、ネゲブ砂漠での夜間ラクダ―・ツアーに参加し、モーセ引率によるエジプト脱出後のイスラエルの民のシナイ半島彷徨40年間の苦労のわずかでも体験することにした。

 

<ネゲブ砂漠体験 夕暮ラクダ・ツアー 3時間コース  

         44US$  15:00~18:00>

 ―Camel Ranch in Wadi, Shlomo, Eilat―  

 

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           キャメル・ランチ(ラクダツアー)社のパンフより

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

アブラハムユダヤ民族の祖父)が棲み、モーセイスラエル民族エジプト脱出の指導者)が歩き、預言者エリヤ(信仰の英雄の一人)が過ごしたネゲブ砂漠をラクダに揺られて巡るツアーに参加した。

ここネゲブ砂漠は、崖あり、岩石あり、土もあり、緑も少しはある。だから陰もあり、暑さをしのぐことも出来る。

 

ネゲブ砂漠での夕暮に、旧約の人々と同じく、粗食を口にし、焚火を見つめながら感謝の祈りをささげるのである。まだぬくもりが残る砂の上に一枚の粗末な布をひき、焚火の周りに寝そべって、北極星を眺めながら質素な食事<豆スープ>を口にする。迫りくる大宇宙におのれをまかせ、いついつまでも旧約(聖書)の創世記のなかで、モーセに引率されながら巡り歩くのである。

 

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         ネゲヴ砂漠でのラクダ・ツアーに参加し、旧約の砂漠世界を彷徨する

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    ネゲブ砂漠体験ラクダ夕暮ツアー        砂漠で焚火―神との対話・沈黙の時間

 

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         ネゲヴ砂漠のモーゼの世界にひたる <巨大渓谷 マクテシ・ラモン>

 

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              ネゲブ砂漠の住人 荒野に生きるラクダ達

 

<▼10月30日~11月1日 エイラット・ユースホステル泊   196NIS >

 

 

《 11月2日 エイラット 3日目 快晴 朝風強く、寒い 》

 

エイラットよりアカバ湾(紅海)越しにサウジアラビア半島の赤茶色の丘陵から昇る朝日を拝したあとユースホステルに戻って、フィルドワークにやって来た高校生(バス8台・約300人)の大集団とともに朝食をとった。

引率の先生は、腰に拳銃をぶら下げ、高校生の数人は肩に機関銃やライフル銃をかけ、仲間を守っている。いつ起こるかわからないテロに備えているのである。

 

シルバー年代(シニア)の海外からのボランティアについては先述したが、ここエイラットの早朝の道路を清掃している老人に出会った。もちろんTシャツには<I SUPORT ISRAEL>のロゴが光っている。柔和な顔に、喜びの表情が見て取れる。ポーランドからやって来たという。ボランティア制度によると、3か月をサイクルとして食事つきで、200US$が支給され、ただ往復航空券は自分持ちだという。

 

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       エイラットよりアカバ湾越しにサウジアラビア半島から昇る朝日を拝する

 

 

<エジプト国境の街ターバーより、 ダハブ/シナイ山への巡礼基地へ向かう>

 

 エイラットのイスラエル国境での国境警備隊による厳重な警備と出国審査を終えたあと、エジプト国境での更なる厳しい入国審査が待ち構えている。ここ国境から15分ほどのところにあるターバーのバスターミナルから出ているミニバス(トヨタハイエース)で、モーセ十戒を授かったシナイ山への巡礼基地であり、シナイ半島南東部にある観光地ダハブに向かった。

 

 

      

 

 

    『星の巡礼 イスラエル縦断の旅』Ⅲ

           シナイ半島から、カイロに向かう>

                  に続く