shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ

       『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅲ 

          <同志社ローバースカウト創立50年記念事業  通信記録・旅日記>

 

                                                           最終章

 

         ■ 中山道後半鳥居本宿63➡大津宿69➡京都三条大橋到着>

         ■ <てくてくラリーIN 中山道 到着式> 京都三条大橋 

         ■同志社ローバースカウト50周年記念式典> 新島会館

 

 

前回、一気にゴールである京都三条大橋までを書き上げたかったが、余白の関係で、

ここ鳥居本宿63 で終えた。

最終章である今回は、<中山道てくてくラリー後半報告書②>として、<鳥居本宿63から、

大津宿69を経て、ゴールである京都三条大橋まで>を記録し、踏破の喜びと、出迎えの様子、

さらに新島会館で行われた<同志社ローバー50周年記念式>を取上げた

 

 

■30日日目 中山道 <鳥居本宿63⇒高宮宿64⇒愛知川宿65⇒武佐宿66>

                24.0km/10..5h   5月17日

 

 

        

             彦根を流れる不知哉(いさや)川の河川敷で露営

 

不知哉(いさや)川は、近江国の霊仙山より発して彦根市の西部を流れて琵琶湖に注ぐ

芹川(大堀川)の古い川の名で、ここもまた有名な歌枕である。

万葉集から斉明天皇の和歌を紹介しておきたい。

 

  《淡海道の  鳥籠の山なる  不知哉川  日のころごろは  恋ひつつもあらむ》 

                   斉明天皇万葉集

     ―おうみじの とこのやまなる いさやかわ ひのころごろは こひつつもあらむ―

 

鳥籠山(とこやま)は、不知哉(いさや)川の近くにあった小高い山であったらしく、

特定されていないという。

今夜の露営地は西に国道8号線と、東に東海道新幹線の間を南北に走る旧中山道と不知哉川

(芹川)の交差する橋下の川床である。

この露営地をあたたかく包み込んでいる背後の小高い山(標高154m)が鳥籠山ではないかと

推測する。

 

    弥次さんも一句、

   《人の世に  生まれ出会いし  不知哉川  焦がれし君の  われを待ちてや》  實久

     ―ひとのよの うまれであいし いさやかわ こがれしきみの われをまちてやー

 

 

       

               露営地・不知哉(いさや)川近くの歌碑 

 

 ここ不知哉川(芹川)の露営地は、曇り空の下、たくさんの小鳥たちのさえずりに包まれている。

感謝の祈りを捧げ、旧中山道である<多賀みち>に戻ると、「おかえりなさい。京までの旅の安全を

祈ります~」と前掛け姿の地蔵さんたちが大合唱。「ありがとう~」の声を残して今日の目的宿・

武佐宿66 に向かって足を速めた。

 

          

                前掛け地蔵さんたちの声援を受ける            

 

露営地である芹川のすぐ近くの石清水八幡宮石段の途中に<扇塚の石碑>が建っている。

 

<扇塚>(おうぎつか)

《 豊かなる 時にあふぎの しるしとて ここにもきたの 名を残しおく 》

 

彦根の井伊藩は、代々能楽の発展に力を入れてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が多く

あった。

喜多古能は、門人の養成に力をそそぎ、彦根を立ち去るとき、扇子と面を残していった。

それを埋め記念の塚がここに建てられたのである。 》  (旭森小学校)

 

          

               石清水神社の階段下の横に<扇塚>がある。

 

 <扇塚>先にあるセブンイレブンで、熱いコーヒーで朝食を済ませ、多賀道を進むと         

<高宮宿64 常夜灯>に迎えられ、1624年に建てられた<多賀大社の大鳥居>をくぐる。

    中山道から少しそれるが、<多賀大社>(往復約10㎞)に立寄ることにした。

 

 

<高宮宿 64> 中山道てくてく 日本橋から総徒歩距離767km(立寄り先含む)

 

高宮宿64  は、多賀大社門前町として栄え、

 《お伊勢へ参れば、お多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる》

と唄われ賑わった総戸数835軒・旅籠23軒の中山道64番目の宿場であった。

 

高宮布または近江上布という麻布の生産地であり、近江商人が全国に行商販売した重要品目の

ひとつであった。

中山道である多賀道を進み<近江鉄道>を越えると旧庄屋横に高宮神社があり、境内に芭蕉句碑が建つ。

 

        《をりをりに 伊吹を見てや 冬ごもり》  芭蕉

 

       

               高宮神社境内に芭蕉句碑が建つ <おりおりに>

 

高宮神社前には、<旧近江商人 布惣跡>がある。

その先にある多賀大鳥居をくぐり、鳥居上川(太田川)に沿って東へ、多賀大社へ向かう。

 

       

                 高宮宿64 の町屋・宿駅<座・楽庵>                              

 

<高宮布の布惣跡>

高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として

珍重されていた。高宮細美とも近江上布とも呼ばれ江戸時代になってからも高宮はますます

麻布の集散地として栄えた。現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存している。 

 

 

 

高宮宿<旧庄屋―高宮布布惣跡>                       布類販売所 布屋<堤 惣平>

 

多賀大社

「お多賀さん」の名で知られる大社で、祭神である伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と

伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の二神を両親として、天照大神八百万の神々を生み出したと

古事記(日本の歴史)で伝えられている。

いのちを生むといえば、百人一首に見られるようにそこには男女の情を詠った幾多の古典文学を

この国は残してきた。

好きな一句を載せておきたい。

 

   《ちはやぶる 神の持たせる いのちをば 誰がたまにかも 長くほりせむ》 

                      柿本人麻呂

    ー神が支配する命なのだから 君以外のだれのために 長生きしたいと願うだろうかー

  

 

高宮宿64 常夜灯                       多賀大社

 

多賀大社から引き返して<多賀大社大鳥居>に戻った。

中山道に戻ると、右手に<芭蕉の紙子塚>、<高札場跡>、<脇本陣跡>、<問屋場跡>

を巡りながら、天皇滞在にあたって命拾いした止鑾松(しらんのまつ)のある<円照寺>に至る。

円照寺の向かいに<本陣跡>、<脇本陣跡>があり、その先に犬上川が流れている。

 

中山道は、犬上川にかかる<高宮橋>(無賃橋)を渡って、愛知川宿65 に向かう。

  

  <芭蕉の紙子塚> (かみこづか)

   《たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子》  芭蕉

 

貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を

描いてこの句を詠んだ。

小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を造り古い紙子を納めて<紙子塚>と名付けた。

(高宮宿街づくり委員会)

  

 

芭蕉の紙子塚>のある小林家跡                 高宮宿64 本陣跡

 

  

 三光山 円照寺 (寺門奥に二代目止鑾松が見える) 犬上川<高宮橋・無賃橋>を渡り愛知川宿65 へ

 

 鈴鹿山系を発した犬上川にかかる無賃橋を渡って、旧中山道はまっすぐ南へ延びている。

遠くに鈴鹿の峰々が霞み、水田にたむろする白鷺の姿が水面に映えて美しい風景を描いている。

 

<間の宿 石畑>

 風景を愛でつつ歩いているうちに近江商人の発祥の地の一つであり、伊藤忠家(伊藤忠商事)のある豊郷

に入る。ここは<石畑の一里塚>(日本橋より121里/484km)があったところで、現在の豊郷を

<間の宿 石畑>と言われた。

 江州音頭発祥地の碑>が建つ臨済宗千樹寺先の宇曽川にかかる歌詰橋を渡ると、普門寺裏に<将門首塚>

がある。

  

 

間の宿・石畑を経て愛知川宿に向かう             門首

 

 

中山道 一里塚の郷 <間の宿 石畑>             <石畑の一里塚>日本橋より121里

                                                            京へ14里/56km     

 

<不飲川 ―のまずかわ>

愛知川宿65 に、歴史から来た伝説の細い川が流れており、平将門の首を洗い、血で染まって水が濁って飲め

なくなったという<不飲川>がある。 先ほど立寄った宇曽川縁にあった<将門首塚>と関係がありそうで

ある。

 

  

将門の首の血で染まったという不飲川        間の宿・石畑宿の問屋跡                       

 

 

<愛知川宿  65>   中山道てくてく 日本橋より772km (立寄り地含む)

 

愛知川宿65 は、歌川広重の浮世絵<恵智川>の名前でも知られており、総戸数199軒・旅籠28軒の

中山道65番目の宿場であった。

 

歌川広重画 中山道 『木曽海道 六十九次之内 恵智川』  (愛知川宿  65)

 

 近江商人の里>

 近江商人のルーツと言われる小幡商人は、ここ愛知川が発祥の地と言われている。

その中でも、ここ愛知川宿65 にある<てんびんの里 五個荘>は近江商人の地としての誇りを

保ち続けている。

<旧田中家住宅>は、麻織物商の田源の別邸で、現在は料亭<近江商人亭>として、

また、1758年創業の旅籠<竹平楼>も営業を続けている。

 

弥次さん(後藤)の祖々父と祖父の二代に渡って近江商人であった。

祖々父は彦根に、祖父は京都室町に本拠地を置き手広く湖東の糸偏を全国に販売していた。

母は祖々父の初孫であり、随分と可愛がられたという。商売を祖父に譲って隠居した彼は、まだ小さかった

母に近江商人について色々と話してくれたという。

近江商人の卵たちであった八幡商業高等学校の生徒たちは卒業前の1年間、大きな風呂敷一杯に長浜の縮緬

や、高宮の麻布、愛知川の麻織物など湖東産の布を包み、竹網におにぎりと梅干を包み、竹筒に水を詰め、

鳥居本の胃腸薬・赤玉神教丸を懐に忍ばせ、天秤棒を片手に日本組と東南アジア組に分かれて売り歩く

という卒業実習をさせられるのだという。

日本全国はもちろん、遠くはビルマ、タイ、ベトナムカンボジアフィリッピン満州、中国大陸と散っ

ていったという。

彼らは、八幡商業高等学校で学んだ三方よし」の精神を行商で実践して、体とこころに叩き込んだのであろう。

 近江商人士官学校と言われる八幡商業高等学校三方よしの精神>と、その溢れる情熱を八幡商業校歌

から見てみたい。

三方よしの精神>は、近江商人の思想・行動哲学であり、

その三方とは「売り手よし、買い手よし、世間よし」をさす。

          

 八幡商業校歌>

 漣清き鳰の海 その八景の岸近く 敷ける教の庭の中

望みあふるる青春の 健児日毎のいそしみは 邦と民との富の道

 

鵬の翼の延びざりし 鎖国の世にも大八洲 その隅かけて市とせし

父祖にな耻ぢそ東海の 潮一度舟乗せて 四海にいたる今の時

 

印度の珠玉アラビヤの 香も集めん南洋の 珊瑚琥珀も欧の西

送らん道や幾万里 潮と共に舟を駆る 貿易風の名もよしや

 

大魂ひとつ日月の 光遍く照るきはみ 自然と人と相待ちて

万の宝産むところ 皆わが領と心して 探れ扶桑の国の富

 

扶桑の国の富斯くと 宣らん健児の志 養う処漣の

近江の海の岸近き 教の庭に光栄の 景とこしへに照らしめよ

 

(詳細を是非お読みいただきたい;近江商人探究冊子 - 滋賀県立八幡商業高等学校

 

<天秤棒>が近江商人の代名詞であったことのその誇りと意気を感じるではないか。

宇曽川の歌詰橋を渡り、将門首塚に立寄り、先に進むと近江鉄道愛知川駅前あたりにある<豊満寺>、

脇本陣跡の碑>の先に<愛知川の一里塚跡の石柱>(日本橋から122里/488km)、<聖跡 竹平楼>

ある。

 

 

 

<愛知川の一里塚跡>                                         愛知川宿65 <聖跡 竹平楼>   

日本橋より 122里/ 488km)

(京へ13里/52km)                                             

 

中山道である県道220をまっすぐに南下すると、愛知川手前で国道8号線に合流して<御幸橋>を渡り、

常夜灯に迎えられて<五箇荘>に入る。

 

道標<右京みち・左いせ(伊勢)ひの(日野)八日市みち>の先に、近江商人らしい町並みが整然と並ぶ。

ここ五箇荘は、「正直勤勉」を掲げた近江商人の白壁と蔵の立ち並び、豊かな古い町並みが美しい。

ここ旧中山道と並行して走る国道8号線の西側にも五箇荘近江商人の街並みが広がり、

近江商人博物館>、<てんびんの里文化学習センター>や、近江商人屋敷<旧外村繁邸>があり、

興味深い。

 

<天秤の里> 五箇荘の古い街並みと水路                   

 

編み笠・合羽・天秤をかついだ近江商人銅像をみながら五箇荘の閑静な住宅街を通過すると、

東海道新幹線をくぐり<武佐宿66>に至る。そこには<奥石神社>が迎えてくれる。 

ここから現在の安土町を離れ、近江八幡市武佐<武佐宿66>に入って行く。 

 

中山道の街道沿いに、<鎌若宮神社>、秀吉の祐筆であった建部伝内ゆかりの寺<東光寺>、

<武佐神社>を経て、<高札場跡の碑>、<本陣跡>に至る。

本陣跡の前あたりに<町屋 大橋家>、<旅籠 中村屋>と続き、国道421号線をまたいだところに道標

<いせ三な口ひの八日市道>(伊勢水口日野八日市道)と、向かいの長光寺前に<愛宕山の常夜灯>がある。

 

ここ武佐宿66 で<同志社ローバースカウト創立50年記念中山道てくてくラリー>に区間参加する隊員・

梅田幹人氏(71年度生)と5月19日に合流することになっている。

当初、中山道てくてくラリーは多くの仲間と共に歩く計画であったが、ラリー直前の3月11に発生した「東北

大震災」により、急遽変更し、代表者だけが震災支援バナー「がんばれ東北」・「がんばろう日本」を掲げ、

震災支援カンパを募りながら実施することとなったことはすでに申しあげたとおりである。

 

弥次喜多の休養と、時間調整のため今夜と明日の夜は、露営から解放されてベットの上で安眠を貪ることと

なった。

ここ武佐宿66 で、明後日の5月19日朝8時30分に、区間参加隊員・梅田幹人氏と合流することになっている。

  

 

武佐宿66 高札場跡                武佐宿66 脇本陣

 

 

 

武佐宿66 本陣跡                 近江鉄道 武佐駅

                          (区間支援隊員・梅田幹人氏との合流場所)

 

 

 

 

■ 30~31日目 弥次喜多 帰宅してリラックス  

          休養・調整日 5月17~18日

 

 

    《満月に 完歩夢見る 願いかけ 弥次喜多はやる 心抑えし》  實久

   《とうとうゴール地点である三条大橋が射程範囲に入る近江八幡・武佐宿66 に到着した。

    19日朝9時頃、ここ近江鉄道武佐駅で梅田幹人氏と合流し、草津宿まで歩く。

    弥次喜多も仲間が増え大喜びだ。

    今日は不知哉川(いさやかわ)の河川敷サイトを午前6時半に出発。

    途中、中山道をそれて多賀神社に参拝する。

   『伊勢へまいれば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の子でござる』 

    弥次さんの曾祖父は近江商人縮緬問屋として手広く営んでいた。

    絶頂期にはここお多賀さんの馬頭人をつとめた程であった。

    また成功した近江商人の慣例であった財産の地元への寄付行為もなされた。

    彼の場合は彦根市民病院の敷地を寄付している。

    しかし、かかる繁栄は関東大震災による売掛金の未回収により長くは続かなかった。

 

    栄枯盛衰を見てきた天秤(てんびん)の里、豊郷・五箇庄を南下し愛知川宿を経て武佐宿66 に

    到着した。

    途中、雨に出くわし弥次喜多は濡れネズミだ。

    さて、19日に待ち合わせるとなると18日は調整日として休養することとし、弥次喜多は志賀の里、

    生駒の里にそれぞれ帰ることにした。母ちゃんに甘えたい。

    本日の行程は、24km, 10時間30分であった。19日は武佐宿66、守山宿67 を経て草津宿68 まで

    歩きたい。

    いよいよ最終章だ。

    おやすみ。 弥次喜多こと サネヒサ&ショウスケ 》

 

 

 

■32日目 中山道てくてくらりー <武佐宿66⇒守山宿67>

         18.0km/7.5h     5月19日

 

今日は、中山道てくてくラリ―区間参加隊員 梅田幹人氏(71年度生)を迎えるため、自宅で休養日を

終えた弥次喜多は、ここ武佐宿にある近江鉄道武佐駅に朝8時30分に再集合した。

近江八幡発、武佐駅8時43分着の八日市行電車が、ゆっくりと到着し、サハリルックの梅田氏がただ一人

降りてきた。 

ここは始発近江八幡駅の次駅なのである。

空は晴れ渡り、近江の穀倉地帯の麦畑が一面に波打っている長閑な風景が広がる武佐宿66 である。

 

 

 

      中山道てくてくラリー区間参加隊員 梅田氏を迎えて<若宮神社前で>歓迎式

 

嬉しいことに、出発時には出来上がっていなかった「同志社大学RS隊創立50年記念」Tシャツを

届けてくれた。

さっそく試着し、梅田氏をモデルに写真撮影をおこなった。

 

 

     

               同志社大学RS隊創立50年記念Tシャツ>

                                     Logo Design by Tsuneo Shinoda

 

           同志社大学ローバースカウト隊 1962~2011 創立50年記念 

                     中仙道てくてくラリーSanehisa & Shousuke 

                                東京・日本橋⇒京都・三条大橋 540k 2011年4月10日~5月21日

                                                                              がんばろう日本!

 

 

ここ武佐駅の東側に広がる田園地帯は、安土城址や柴田勝家の山城であった<瓶割山・別名長光城址

の遺構と共に、5~7世紀の<供養塚古墳・位蓮坊古墳・妙感寺古墳・千僧供古墳群・トギス塚古墳>が

点在する考古学エリアである。

 

近江鉄道武佐駅をでて、旧中山道武佐宿66 の桝形を南へ進むと国道8号線と合流する。

国道<六枚橋交差点>近くにある<住蓮坊首洗池>を過ぎると、源義家が奥州遠征の途上に武運長久を

祈願して造営したという<八幡宮>の家形鳥居を見ながら旧中山道は、国道を離れ土手を歩いて回り道を

行く。

このように、現在の旧中山道日野川に阻まれるため、国道8号の<横関橋>へ迂回するしかないが、

明治8年に橋が架かるまでは渡し船があったというから、この辺りは川街道としての風情が今でも残って

いるのである。

 

 

武佐宿66  高札場跡               八幡宮の鳥居

 

 

近江の穀倉地帯を埋め尽くす一面の麦畑       梅田隊員の旧中山道研究の姿

 

 

                     武佐宿66 の町屋

 

 

<鏡の宿 と 義経元服の地>

 日野川の<横関橋>を渡って、さらに天井川である日野川の支流・善光寺川をわたると

<間の宿 鏡>にでる。

ここには、国道8号線沿いに<間の宿 鏡>の宿跡があり、<道の駅 竜王かがみの里>がある。

 

この辺りは、古くから東山道(別名義経街道)が走り、<鏡の宿>があった。

平治の乱で平家が源氏を破り、平家一門の栄華を極めていたとき、源氏再興の夢を持って東北の平泉に

向かった義経は一人烏帽子を付けこの地<鏡神社>辺りで元服したと伝えられている。

 

 

 

中山道は迂回して<日野川横関橋>を渡る             道標<是より伊勢道・水口道>

 

善光寺川を渡ると、旧中山道には<旅籠 亀屋跡>、<旅籠 京屋跡>、義経宿泊跡の<白木屋>と町屋が続き、その先に<脇本陣跡>、<本陣跡>がある。

 

 

 

 

武佐宿66 善光寺川を渡る                     武佐宿66 旅籠 亀屋跡

 

 

 

武佐宿66 旅籠 京屋跡                      武佐宿66 義経宿泊の館跡(白木屋

 

 

 

武佐宿66  脇本陣跡                       武佐宿66 本陣跡

 

現在の<道の駅 竜王かがみの里>の先に、謡曲<烏帽子折>に出てくる<鏡神社>、と<義経元服の地>

とされる<義経 烏帽子掛けの松>がある。

16歳になった義経東山道を通り、東北平泉の藤原秀衡を頼って下向するとき、ここ<鏡の宿・白木屋>に

泊まり、一人烏帽子をかぶって元服したという言い伝えに、旅人は涙したに違いない。 

と思うだけで、謡曲<烏帽子折>が哀愁を帯びて脳裏を駆け巡るものである。

一度、youtube謡曲「烏帽子折」に耳を傾けるのもいい。

 

Youtube : <謡曲「烏帽子折」(えぼしおり):鏡の宿 義経元服ものがたり

 

 

 

鏡神社 と 謡曲<烏帽子折>             源 義経<烏帽子掛けの松>

 

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六拾九次之内 武佐」(武佐宿66)

 

野洲<ふじや>手作りの絶品豆腐に舌つつみ      手作り豆腐屋さんの野洲<ふじや>ご主人と

 

  武佐宿66 愛宕山常夜灯に迎えられ        国道8号線と別れ篠原神社より旧中山道に入る   

 

 中山道は、国道8号線と交わりながら南へ進むと<蛙不鳴池と呼ばれる平宗盛終焉の地>に出る。

 弥次喜多と梅田隊員は、篠原堤を歩きながら源平合戦の歴史談義に花を咲かせ、途中にある手作り

豆腐屋さん<ふじや>で 絶品の絹豆腐に舌つつみ。

愛宕山常夜灯に迎えられながら、篠原神社前から国道8号線を離れ、旧中山道を守山宿67 に入って行った。

 

途中、立寄った子安地蔵堂では、中山道てくてくラリーの最終地近しを祝って子供地蔵さん達による大合唱が沸き起こって、無事を喜んでくれた。

  

      

       子安地蔵堂で迎えてくれた子供地蔵さん達の祝いの大合唱で励ましを受ける

 

 

汗と埃をあらい流すため東海道本線野洲駅近くの守山天然温泉<ほたるの湯>に立寄ったあと、

今日一日同行三人を楽しんだ梅田氏を野洲駅に見送って、

今夜の露営地である野洲川の川原に午後6時30分に着いた。

すでに夕日は対岸の比良・蓬莱山にかたむき、その夕日が目の前にそびえる近江富士<三上山>を

赤く染めていた。 

露営地・野洲川での設営完了と共にすっかり夕闇に包まれた。

 

       

         <守山天然温泉 ほたるの湯> 滋賀県守山市吉身4-5-20  850円

 

  <▲32日目露営地   守山宿野洲川 河川敷でテント泊 ―5月19日夜>      

  

 

今夜の露営地 野洲川に到着した         設営と共にすっかり夕日が沈んだ野洲川

 

 

    《夕陽が野洲川の土手の影を少しづつ伸ばしている。

     河川敷に設営を終了した頃には、すっかり陽は沈み暗闇が訪れた。


     今朝8時48分近江鉄道武佐駅にリュックを担ぎ、トレッキングスタイルの区間参加隊員

     梅田幹人氏(71期生)が到着した。

     久しぶりの再会に弥次喜多と共に喜ぶ。

     話がはずみ歩行も進む。

     武佐宿66 を出て、とにかく次の宿場 守山宿77 をめざす。

     国道八号線と並行する中山道は交通量多く、気が抜けない。

     車両との対面通行で事故防止につとめる。

     国道を外れる中山道は人っ子一人いない静かな田舎道になり、われわれの笑いで満ちる。

     中山道に関する史跡、案内板は片っ端から写真を撮り、説明を読む。

     小学生の課外授業風景そっくりで楽しい。

     この区間には義経元服の地があり興味がわく。

 

     野洲の小堤(地名)では創業二百年の手作り豆腐屋さん『ふじや』の絹豆腐をいただく。

     まるで卵豆腐のように甘くて美味しい。

     ご主人は、柏木富士雄さん、まだお若いが伝統を重んじその製法を引き継いでおられるとのこと、

     うれしい出会いであった。


     今日は宿場間の旧中山道の風景を楽しんだ。

     田植も終わり、麦畑との調和がいい。

         《友来たり 見果てぬ夢や 麦畑》      實久

      《幾山河   越へし鈴掛   松並木》    實久

      《伝統の   手作り豆腐   絹の肌》         實久

     尽きないおしゃべりに花が咲き、あっと言う間に守山宿67 に到着。

     すでに陽は西に傾き、18キロ、7時間半の歩行に汗まみれだ。

                  温泉<ほたるの湯>に飛び込み汗と埃を流す。

     梅田幹人さん、共に歩いた中山道弥次喜多一生忘れません。

                  ありがとう。

                  到着式よろしくお願いします。


     篠田常生さん、われわれのために素敵な『中山道てくてくラリー』Tシャツありがとう。

     みなさんのご声援のおかげで近江富士・三上山の側まで帰ってきました。

     明日は守山宿を出て、草津宿を経て大津宿を目指します。

 

     おやすみ。

     弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介 》

 

 

 

 

            <中山道つれづれ川柳

              句 實久

 

         『 満月や 金星添い寝 かえる歌 』


      『 畦道や テント震わす ときの声 』


      『 鯉泳ぐ 垂井の池や やなぎ風 』


      『 蛙なく 田ぼにおぼろ 雲遮月 』


      『 お忍びの 姫街道や 里帰り 』


      『 首塚の ときの勝ち負け 関ヶ原 』


      『 ひとはみな おなじ数あり 浮き沈み 』


      『 弥次喜多も 不思議なご縁 梅ざくら 』


      『 星かげの ワルツ踊りし 弥次喜多や 』


      『 生まれきて 二五二八五日  京に立つ 』


      『 夢を追い 求めし三二日 活きと生き 』


      『 満足は ひとのこころの 物差しや 』


      『 おわり来て みなさん神と ふたり旅 』


      『 ありがとう こころ満たさる ここちよさ 』


      『 てくてくと 歩く姿や 神を追い 』


      『 ひとはみな もがき苦しみ 花咲かす 』

 

      『 無の風に 坐して舞いしや 関ヶ原 』

 

      『 鬨の声 蛙の歌と 混じりてや 』

 


    最後にわたしの大好きな一句、 

        『 姿より 香りに生きる 花もある 』

    そう、もう一句、 

        『 岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水は流れる 』

    ここ三上山(近江富士)を拝する野洲川河川敷野営地より芭蕉の一句

        『比良三上 橋架け渡す 鷺の橋』 芭蕉


    中山道てくてくラリー途上、書き留めた川柳を紹介させていただいた。

 

 

 

■33日目 中山道 <守山宿・野洲川原⇒大津宿・長等公園>

             21km/9h    5月20日

 

 

<守山宿 67>     中山道てくてく徒歩総距離810㎞  (立寄り先含む)

 

野洲川の河川敷に張られたテントが、朝を迎えてヒマワリのように朝日に向かって大輪を咲かせている。

その生き生きした姿に、喜びと安堵感と使命感、そして満足と達成感が出ているようである。

それは、われわれ弥次喜多もまた同じ表情を醸し出しているに違いない。

 

さあ、あと二日で京三条大橋である。

今日も中山道をしっかり歩き、東北の被災者の皆さんにエールを送り、日本橋からの街道を引き継ぎたい。

露営地撤収にも感謝と喜びの気持ちがひろがるではないか・・・

 

 

 

「京立ち守山泊まり」

守山宿67 は、京三条大橋を出立し、中山道東下りで江戸日本橋へ向かった旅人が最初に泊まった宿場であり、総戸数415軒・旅籠30軒が並ぶ大変活気にあふれた宿場町であった。

 

歌川広重画 中山道 「木曽海道六十九次 守山」(守山宿67)

 

 

    テントから見る中山道てくてく33日目の朝日だ (守山宿67 露営地 野洲川 河川敷にて)

 

 

 

             三上山<近江富士>をバック、に野洲川露営地を撤収する             

 

 

            同志社RS隊創立50年記念Tシャツを着ての出発 

     

 

中山道33日目(520日)午前7時 晴 近江富士(三上山)に見送られて、今夜の露営地である大津宿68

長良公園に向け出発した。 

中山道の守山宿67 の町屋を楽しみながら進むと<本陣跡>を経て、中山道錦織寺道の分岐にある

石造道標に出る。

 

 

 

守山宿67  本陣跡(推定)              守山宿67 の町屋
 

 

中山道 石造道標の読み方>

中山道のような街道の石造道標は、掟書きなどを掲げた高札場の一角に立てられたようである。

言い換えれば街道を往来する旅人や村民の目に付きやすい街道分岐の道標の近くに高札場を立てたと

言うほうが正しいと思う。

標準的な石造道標は、花崗岩で高さ1.6m、一辺30㎝の四角柱であった。

ここに建つ石造道標の刻字を見ると、

 

  

  • 中山道側の面に『右 中山道 幷 美濃路』、<右が美濃(岐阜)へと続く中山道で>、
  • 石柱左側面に『左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち』の文字が刻まれている。

   <左の道へ行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る1里(約4㎞)の

    錦織寺道であり、それに続く『こ乃者満ミち』は、びわ湖東岸の木浜港(大津への最短航路)へも

    通じる道であることを示している。>

  • また道標の建立者、年代は通常裏面に彫られていることが多い。 
  • この道標は1744年(延享元年)霜月に、大津の西念寺講中が建立したものであることがわかる。

 道標から、その地元の歴史をうかがい知ることができるので是非観察されることをお勧めしたい。

 

     

         昔の町屋風情を残す食事処<門前茶屋かたたや>   (守山宿67)

 

 

中山道もあと2里(約8km)で最終地の京三条大橋に到着する。

中山道は、草津宿68 で東海道と合流し、京三条大橋に向かうが、日本橋からの一里塚は129番目の

草津の一里塚>をもって終了する。

 

その前に再度、われわれ弥次喜多のリーディング・ランドマークとなった<一里塚>を見ておきたい。

 

 

<今宿の一里塚> 日本橋から128里/約512㎞

 中山道は、江戸日本橋を起点(0里/0㎞)として、1里/約4㎞を持って1区間とし、終点草津までに全部で

129か所の一里塚を築いて旅人や参勤交代、早馬・早籠などの公的サービスなどの基準や目安とした。

また、一里塚の上に榎などの樹木を植え、目印としてや日陰を旅人に供した。

現在では、道路事情や改良、道路の付け替えなどによりほとんどが移動や消滅にさらされたが、

<今宿の一里塚>は二代目の榎が立派に育ち、中山道でみられる数少ない現存一里塚である。

 ここ<今宿の一里塚>は、中山道128番目、 日本橋から128里、512㎞の一里塚である。

 

    

  <今宿の一里塚跡>              芭蕉句碑 「へそむらの」 大宝神社鳥居横

       (日本橋から128里/512㎞)   

       (京へ7里/28㎞)     

 

   今宿の一里塚跡より先に進むと、大宝神社鳥居横にたたずむ芭蕉句碑「へそむらの」が建つ。

 

       《へそむらの まだ麦青し 春のくれ》   はせを(芭蕉

 

   元禄3年(1690)、関東北陸方面を旅した帰りにここ綣村(へそむら)の立場に足をとどめ、

   旅の余韻と惜春の情を託して詠まれた句と言われている。

 

JR東海道本線と草津線が合流する高架トンネルをくぐって草津宿68 に入る。

 

        

            JR東海道・草津線下のトンネルを抜けると草津宿68

 

 

 

草津宿 68>  中山道てくてく 日本橋から徒歩総距離818㎞  (立寄り地含む)

 

草津宿68 は、中山道68番目の宿場として東海道52番目に合流する交通の要衝であり、旅人が草津宿

中山道組と東海道組に別れ、それぞれ江戸日本橋に向かった。

現在でも中山道東海道の追分道標が建っている。

 

天井川である<草津川隧道>(ずいどう・トンネル)の出口に、<高札場>と<東海道追分道標>が建つ。

  

 

草津川隧道(トンネル)を抜ける                         旧中山道旧東海道追分道標(最古)

 

 

隧道(トンネル)西側に建つ高札場跡      隧道(トンネル)東側に建つ現在の追分道標

 

草津追分(中山道東海道の分岐)近くに<尭孝法師歌碑>が建ち、当時の草津宿の風景が詠まれている。

 

 

<尭孝法師歌碑からみる当時の草津の風景>

 

        

                      尭孝法師歌碑

 

当時の草津は寂しい処であったようだ。

<将軍のお供で富士見物の途中、草津に寄ったが、草津は名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を想い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ>と詠んでいる。

 

   《近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなく》尭孝法師

 

歌碑の先には、<草津本陣>、<脇本陣>が続き、最古の追分道標がある<立木神社>がある。

さらに<草津川>を渡ると、化粧地蔵に見送られて進み、<野路の一里塚跡>に達する。

 

 

 

草津宿68  草津本陣                草津宿68  脇本陣跡(現在 そば処)

 

      

        草津川にかかる<やぐらばし>を渡る

 

 

<矢橋の渡しへの道標>

 草津宿の南に続く矢倉村には草津名物<うばがもち>が売られており、広重の浮世絵にも描かれている。

また、矢倉村からは対岸の大津宿に湖上から向かう渡し場<矢橋の渡し―矢橋湊>へと続く矢橋道が

分岐していた。 今でも道標が商店の軒先に建っている。

旅人は、大津宿に向かうにあたってここ<やばせ道>の追分で思案したそうだ。

俗謡でも、

   《 瀬田に廻ろうか矢橋に下ろかここが思案の乳母が餅 》と詠まれた。

 

ただ、渡し船が、比叡山からの強風にたびたび遭遇して欠航、遅延が多く旅人を悩ませたようである。

渡し船を使わないときは、時間はかかるが<瀬田の唐橋>を渡るのである。

「急がば廻れ」の語源は、

<醒睡笑>で、

  《武士(もののふ)の やばせの舟は  はやくとも  急がばまわれ  瀬田の長橋》

と詠まれているところからきている。

  

     

      <やばせ道> 道標

 

 

歌川広重画 中山道 『木曽街道六十九次・草津』  (草津宿68)      

 

 

歌川広重画 東海道 東海道五十三次草津』  (草津宿68) 

 

● 旧中山道草津の一里塚>  129里  (中山道69次の一里塚)                       

中山道最後の草津にある一里塚が所在不明(草津市大路井あたりか)であることは大変残念である。いつの日か近いうちに行政的に特定され、<草津一里塚跡>碑が建つ日が待ち望まれるのである。

 

● 旧東海道<野路の一里塚跡> 119里   (東海道53次の一里塚)

 

 

<野路一里塚跡>(旧東海道・上北池公園にある東海道一里塚跡 

 

旧東海道の<野路の一里塚跡>碑を上北池公園で見つけたあと歩を進めると、歌枕である<野路萩の玉川跡>

に出る。

ここには<平清宗の胴塚>が祀られている。

  

 

遠藤権兵衛家にある<平清宗の胴塚>        野路萩の玉川跡

 

<歌枕―野路萩の玉川>

ここ野路は、平安・鎌倉にかけて東海道の宿駅として繁栄したところで、源平争乱の時代には、多くの武将たちの宿陣となり、幾多の戦火を潜り抜けてきたところである。

ここ萩の玉川は、多くの歴史を秘め、日本六玉川の一つとして有名になり、都から多くの公卿や貴族、詩人が集まり多くの詩歌を読んでいる。

代表的な和歌をあげておくと、

 

  《あすもこん  野路の玉川  萩こえて  色なる浪に 月やどりけり》 源友頼

 

弁天池をあとに<大津宿69>に入って行く。出迎えの常夜灯に書かれた<ここから大津・東海道>の

文字が躍る。

大津宿69 最初の <月輪池の一里塚>(日本橋120里/480㎞・京へ5里/20km )と,

東海道立場跡>に出会い、いよいよ瀬田の唐橋に近づいた。

 

 

 

弁天池をあとに大津宿に入って行く(旧東海道)          常夜灯<ここから大津宿69>

 

                 

                       中山道・大津宿69 <月輪池の一里塚> 日本橋120里/480㎞・京へ5里/20km

                                 中山道てくてくラリー>における中山道最後の一里塚

 

 

大津宿入口(月輪)に立つ<東海道立場跡>の碑          大津瀬田に建つ道標

 

懐かしの<瀬田の唐橋>が出迎えてくれた

 

瀬田の唐橋と天下取り>

古代からここ瀬田の唐橋は、地政学的に天下取りの入口であり、要であった。

古代と中世の瀬田唐橋をめぐる攻防を見ておきたい。

 

672年、「壬申の乱」において、ここ近江(大津)にあった大友皇子の近江朝廷軍は、大海人皇子軍に瀬田唐橋の戦いで敗れている。

764年、「藤原仲麻呂の乱」では、仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐために、孝謙上皇軍が瀬田唐橋を焼いている。

 

この度の中山道行脚は、木曽義仲の生誕地である木曽海道をくだってきた。その義仲がここ瀬田宇治の戦い

でなくなっている。そして、これから参る義仲寺に木曽義仲の墓があり、巴御前芭蕉に囲まれて祀られている。

 

1184年、 源範頼義経軍が、ここ瀬田と宇治で木曽義仲軍と戦い、木曽義仲が戦死している。

1221年、「承久の乱」において、後鳥羽上皇がこの地でも鎌倉幕府とたたかっている。

1582年、「本能寺の変」が起こり、瀬田城山岡景隆が瀬田唐橋を焼き、明智光秀軍の安土城進撃を

     阻止している。

 

結局、東国より京に攻め入るときも、また西国より東国へ攻め入る場合でもどちらにしても、ここびわ湖にかかる瀬田唐橋を渡らなければならず、東の天王山でもあったのである。

 

               <広重画の浮世絵に、瀬田大橋を見る>

 

       

                  広重画 瀬田の唐橋近江富士を望む        

 

       

              広重画 石山寺より瀬田唐橋・比叡山を望む

 

 

 

<瀬田の大橋>―瀬田唐橋を制するものは天下を制するー   瀬田唐橋を渡って大津宿69 に入る

 

瀬田の唐橋についてはブログ<びわ湖一周自転車の旅>でも触れているので、立寄ってみてほしい。

2019『星の巡礼 びわ湖冬景色・老人自転車ひとり旅』⑤

 

その瀬田の唐橋を守っていたのが<膳所城>で、城址が現在の近江大橋の西詰にある。

 

        

                      膳所城址公園

 

瀬田の唐橋の防衛を担った膳所城址をあとに、旧中山道(兼・旧東海道)の町屋を進むと、<郷忍寺>、相撲川を渡り、<石坐神社>、<膳所城北総門跡碑>を過ぎると木曽義仲の墓・松尾芭蕉の墓、巴塚がおさまる<義仲寺>がある。

さらに歩を進めると京へ向かう<札ノ辻>の手前の西北角に<露国皇太子遭難地碑>が建っている。

 

 

  

大津宿69 の町屋                   義仲寺

                                      

<義仲寺 と 露国皇太子遭難之地>

 

  

木曽義仲公の墓            巴御前の塚      松尾芭蕉翁の墓

 

 

広重画 中山道「木曽海道六拾九次之内 大津」   (中山道 大津宿69)

 

広重画 「東海道五十三次之内 大津 走井茶店」 (東海道 大津宿53)

  

 

露国皇太子遭難之地の碑                             大津祭鉾 

 

 

           中山道てくてく33日目最終露営地 大津宿 長等公園に設営

 

 

<義仲寺>と<露国皇太子遭難地碑>についての案内は、今宵の露営地からの本部への報告の中で

行うこととして、テント設営予定の長等公園に急ぐことにする。

 

露国皇太子遭難之地の碑から、京阪電車京津線の走る<札ノ辻>に出て、西へ向かうと<大津日赤病院>

があり、その後ろの小高い山がお世話になる<長等公園>である。

今夜は、弥次喜多にとって「中山道てくてくラリー」最後の野営であり、ここ<大津宿長等公園>は最終

露営地である。

無事に旅を終えられることに感謝し、東北大震災の被災地に心を寄せて最後の夜を静かに迎えたいと思う。

 

 

 <▲33日目露営地  大津宿 大津日赤近くの長等公園にて>  

                            520日中山道てくてく最後の夜

 

 

   《朝日をバックにした近江富士(三上山)の幻想的なシルエットに声を失うほどであった。
       夜露に濡れたテント(外面)は、なぜか必ず内壁がべっとりと濡れている。

       ゴアテックスであるにもかかわらずだ。もちろんスリーピングバックもベタベタして

       気持ち悪い。

       出発を少し遅らせ、時間をかけて干すことにした。 


       
今日の大津宿69 に興味を持っている。

       一つはライフワークにしている『大津事件』である。

       二つには芭蕉の墓がある義仲寺である。


   <ロシア皇太子と大津事件

    先に掲載した写真は『此付近露国皇太子遭難之地』である。

    だいぶ酔ってきた。

    最後の夜となるので、設営を待ちきれず祥介君と互いを激励するパーティーにはいった。

    『玉の光』純米吟醸酒一合瓶がみるまに空となり、酔ってしまったようだ。

     (約2時間寝たようだ)

 

    さて、ロシア皇太子の件だが、1891年5月11日ニコラスアンドロブィッチ一行は

    琵琶湖遊覧のため大津訪問中(後のロシア皇帝ニコライ二世、ロシア革命で処刑された)

    遊覧のあと滋賀県庁で昼食を終え京都への帰途についた午後1時30分、警護にあたって

    いた津田三蔵巡査が突然抜剣して切り付けた事件をいう。

 

    少し解説を加えると、当時のロシアは一流大国であり、日本は三流劣等国、だいたい

     お分かりであろうが、日本としては大変な事態を招いたわけだ。

     首相は辞任、何度もお詫びの使者をつかわす。

    しかしロシア側は相手にせず帰国してしまう。

    すなわちロシア皇太子は大君として振る舞ったわけだ。

 

    日露戦争、ロシア赤軍革命と歴史に翻弄され処刑され、最後のロシア皇帝となった悲劇の

    人である。

    この大津事件は夜明け前の日本とロシア帝政の関係を知る上で貴重な事件であった

    といえる。

 

   芭蕉と義仲寺>

     つぎに俳句初心者として芭蕉はお師匠さんである。あの流れるような五七五、魅力的な

     言い回し、的確な描写、いままで誰も彼を越えられずにいる。あの『~の~や~かな』は

    彼の専売特許のようなものだ。

    芭蕉は余程に義仲(ぎちゅう)寺が好きだったようで、それは義仲(よしなか)の

    生き方に同情していたということと、当時の義仲寺は琵琶湖の湖岸に面した自然豊かな

    地であったことが古地図でわかる。(永年にわたる埋立により湖岸が遠退いたようだ)

 

    以上の二件、大津事件と義仲寺については、また機会があれば述べたい。

    明日に備えておやすみを言いたい。

 

    義仲寺にある芭蕉句碑を紹介しておきたい。

 

          『五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋』     芭蕉

 

                  『行く春や 近江の人と 惜しみける』               芭蕉

 

                  『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』   芭蕉

 

                  『旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る』     芭蕉辞世の句

 

 

    横で祥介君が『早く寝ないとあした大変だぞ』って。

    おやすみ。

     69番目の宿場、大津宿の長等公園の設営地にて。

    では、あすお目にかかりましょう。

       弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介 》 

 

 東北大震災の被災地・被災者への声援と祈りの旅も明日無事に終えられることに感謝である。

 

 

 

 

■ 34日目  中仙道てくてくラリー最終日

       <大津宿・長等公園⇒京都三条大橋・ゴール最終地 >
          15km/6H  5月21日
 

 

同志社ローバースカウト創立50年記念 <中山道てくてくラリー> 最終日を迎えた。

34日目、最終露営地 大津宿長等公園を5月21日8時30分出発する。

快晴、さわやかな朝である。

弥次喜多として、二人して苦難を乗り越えた喜びが、喜多さんの写真からも、弥次さんの日焼けから伝わってくるようである。 到着前に正装した弥次喜多のスカウトのユニフォーム姿が凛々しい。

 

                 最終露営地 大津宿69  長等公園にて

 

 

 

       到着前に正装した弥次喜多のスカウトのユニフォーム姿が凛々しい

 

 

 

大津宿69 <中山道69次・東海道53次 最終宿場>

                          <大津宿69  ➡  京都三条大橋>

         15km/6H

 

 大津宿69 は、東国からの京への玄関口であり、地政学的にも戦略上古代から要衝であった。

とくに、今歩いている中山道は、草津宿で、東海道が合流して大津・京都に至るという大動脈である。

 

 大津宿69 は歴史に翻弄され、歴史を眺めてきた静かにたたずむ宿場であり、総戸数3650軒・旅籠71軒

という大宿場であった。 

現在も大津は、静かな落ち着いた独自の生き方をしている点では昔と変わらない

 

その当時の宿場の賑やかさは、広重の浮世絵<木曽海道(中山道)六十九次之内 大津>にも表現されている。

大津宿69 をでて、<逢坂の関>を越えて京へ向かうのである。

東北地方からの米や耕作物、特産品が海路、敦賀を経由し、びわ湖を縦断して坂本や大津に荷揚げされ、牛馬で京大阪へ運ばれる情景もまた、広重の浮世絵に描かれている。

 

中山道69次 大津宿から琵琶湖に浮かぶ沖島を望む    

 

東海道53次 大津宿53 より逢坂の峠を越える

 

<大津聖マリア教会>に立寄り、弥次喜多による<中山道てくてくラリー>道中の無事に感謝するとともに、

東北の震災地で今なお全身全霊で被災に立ち向かっている方々の奮闘に限りない恵みがあるように祈って、

最後の旅路に着いた。

 

    

            大津聖マリア教会の聖句を胸に、京三条大橋へ足を向けた
 

2011年5月21日8時58分、<大津聖マリア教会>正面の宣教用掲示板に掲げられていた聖句を胸に刻み、被災し昇天された多くの方々の復活を願ったものである。

 

《わたしはよみがえりであり  命である。 

 わたしを信じる者は,  たとい死んでも生きる》

     ― ヨハネによる福音書11-25 ―

 

亡き母の愛した聖句を口にしながら、弥次喜多三条大橋へ足を向けた。

 大津宿69 から京へ抜ける逢坂に建つ<關蝉丸神社上社>、<逢坂山太子堂>にも無事の帰京を報告した。

 逢坂を上りきると逢坂山關址の石碑と逢坂常夜灯、そしてその石碑を取り巻く歌碑が歓迎の唄声を

弥次喜多に贈ってくれた。

特に<關蝉丸神社>に祀られている芸能の祖神とあがめられる、琵琶の名手・蝉丸がびわを奏で、和歌を

詠いながら弥次喜多を迎えてくれた。

 

 

     

                  歌枕・逢坂山の清少納言の歌碑

 

 

  ■<歌枕・逢坂山の歌碑>

 

    《夜をこめて  鳥のそらねは  はかるとも  よに逢坂の  関はゆるさじ》  

                   清少納言『後拾遺集

 

   ―夜がまだ明けないうちに、鶏の泣き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかく、

    この逢坂の関は決して許しませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ―

 

   《名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人にしられで くるよしもがな》   

                   三条右大臣『後撰集

 

   ―恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」、その名前に

    そむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを

    連れ出す方法があればいいのに・・―

 

    《これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関》     

                     蝉丸『後撰集

 

   ―これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、

    そしてここで出会うという有名な逢坂の関―

 

  

  關蝉丸神社上社                  逢坂山太子堂

  

      

                    逢坂山關址と逢坂常夜燈                     

 

 

 三条右大臣の歌碑                      蝉丸の歌碑              

 

          

                       關蝉丸神社

 

逢坂山の関、そこに意外な人が弥次喜多を出迎えてくれていた。

いや、弥次喜多にとって予期しない出迎い人であった。

 

同志社ローバースカウトOGOB仲間の<ウエルカムバック・サプライズ>であったのである。

創立50年記念Tシャツを着た<中山道てくてくラリー>支援本部長・村田紘一氏(64年度生)が、

仲間を代表して出迎えてくれたのである。

中山道69次 最後の区間をサポートしてくれるというのである。

弥次喜多は、その喜びにすべての疲れを忘れ、胸を張ったものである。

絆ある仲間はいいものである。

そこには安心と信頼と安堵がある。

 

昨日、大津宿69 、浜大津で迎えてくれた同志社ローバースカウト創立50年実行委員長  田中公郎(63年度生)・恵子(65年度生)夫妻をはじめ、中山道てくてくラリー最終地三条大橋で迎えてくれている多くの

仲間がいることに深い絆を感じるものである。

かけがえのない素晴らしい仲間に感謝である。

 

江戸時代には、ここ逢坂の関から追分にかけて土産物を売る商店や茶店などが立ち並び、京を出立する旅人

京に上ってきた旅人の人間模様で大変な賑わいであったという。

古来東海道中山道を行き交う旅人は、この地で休息をとり、<走り井の清水>でのどを潤し、<走り井餅>

を腹に納め、<大津絵・算盤・針>といった名産品を買い求めたのである。

 

 

 

元祖走井餅の碑            走り井の月心寺

 

 

<大津絵発祥の地>

大津追分にある<大津絵発祥の地>は、逢坂山の関から1里(約4㎞)京都側に下ったところで、現在の山科に入る前にある。

 

ここ街道筋にある大津追分(山科追分)は、大阪、奈良方面から伏見を通ってやってくる旧奈良街道

(旧伏見街道)がここで東海道中山道)に合流する分岐であり、交通の要衝であった。

「追分」とは、諸国の産物が行き交いその荷馬を追い分ける所からこの地名が由来したという。

 

現在の東海道国道1号線として、京阪電車京津線と並行して走っているが、旧東海道(旧中山道)は、逢坂

の関の分岐で右へ入り、下っていくので注意が必要である。

下っていくと京阪電車京津線<追分駅>前あたりに、醍醐から六地蔵を抜け宇治へと、京の都への分岐

<大津追分>がある。

入り組んだ京と大津宿の境にあり、京都と大津の土産屋が沢山並んで繁盛していたとある。

なかでも大津絵が人気があったようだ。

大津絵とは、大津宿で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道

旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。

ここ<大津追分>の「大津絵発祥の地」碑が建っている。

 

 

       

                大津追分にある大津絵発祥の地碑

 

三井寺観音(参拝)道>

出迎えの村田氏とわれわれ弥次喜多は、大津追分から下って山科へと入った。

その先に、大きな石柱に<三井寺観音道>(参拝道)と書かれた道標が目に付く。

 

この道は、現在の山科疎水が通る山を越えて大津に向かう<小関越え>との分岐であり、旧東海道大関

(逢坂の関)越えと西近江への小関越えの二つに分かれて大津宿に向かうことができたのである。

 

三井寺観音道は、三井寺への参拝道としてはもちろんだが、小関道として旧東海道の迂回路、間道、

西近江への近道として利用されたのである。

時間を見つけて散策されることお勧めする。 股旅や、山賊に出会うかも・・・

 

昨夜、<中山道てくてくらりー>最後の露営地となった長等公園の近くに<小関越え>の京への大津側上り口があった。

ここ重要分岐には、<定飛脚問屋>が置かれていたという。

 

   

              三井寺観音(参拝)道と旧東海道との分岐道標 

          (中山道てくてくラリー最終区間エスコートしてくれた村田氏)

 

また、大津港から<逢坂の関>を越え京に向かって、旧東海道には荷馬車のための便宜・配慮として石畳みが敷かれていた。逢坂山の関跡には、二本の轍の溝が認められる石畳みが展示されている。

 

 

 逢坂の関跡にある車石の轍跡            車石に使われた荷馬車の木製車輪

 

 

<伏見六ぢざうみち>道標  と  井戸水

 京都に入る際の厄除けの場所であった山科六地蔵徳林庵の六角堂の西南角に旧東海道に面して道標

<南無地蔵O>が建つ。側面には<伏見六ぢざうみち>とあり、伏見六地蔵方面への分岐であることが

わかる。

ここは、東海道中山道を行き交う旅人に井戸水を供した御休み処であり、京へ入る前の厄除け、

見繕いのための御休所でもあったようである。

 

 

徳林庵の六角堂にある南無地蔵O碑と井戸             <伏見六ぢざうみち>への分岐

                           (現在の六地蔵方面へ)

 

 

<五条別れ道標>

出迎えの村田氏と、われわれ弥次喜多は、<五条別れ>の分岐で、道標<右  三条通>に従って西へ向かって

歩き続けている。

この道を進めば多くの仲間が待ち受ける京都三条大橋に着くのである。

目の前には京の山、東山がその優しい山姿を横たえ、われわれを優しく迎えてくれているではないか。

「ヤッホー帰ってきたよ!」

  

 

可愛い地蔵尊に迎えられ京都に入る                五条別れの三条通りを西へ向かう

 

 

<東山を越えると、そこは京である>

東山の隘路である日ノ岡から蹴上を越えると、京の都に入る。

ここには、大津港からの荷駄を運んだ運搬車に米俵を積んだ当時の情景を復元している。

石の表面に轍道をつけた古い車石も展示されている。

ここは、京阪電車京津線が走っていたところで、地下鉄化によって廃線となり、モニュメント広場として

利用されている。

小中学生の頃には、電車に乗って蹴上を曲がり込んでいく軋む車輪の音を楽しみながら大津の柳ケ瀬

近江舞子、遠くは白髭水泳場まで、浜大津江若鉄道に乗り換えて、胸を躍らせて水泳場に向かっ

たものである。

今はもう、あの昔懐かしい電車に乗ってわくわくした少年の思い出は遠くへ行ってしまったようで寂しい

限りである。

しかし、いま弥次喜多は、まるで夢をかなえた少年のように浮き浮きした気持ちを抑えられないでいる。

約40日にもおよぶ長旅を踏破し、無事終えようとする昂揚に、酔いしれているからである。

蹴上にあった都ホテルもいまはない。

時は流れるものである。

 

そして、人の想いも朧(おぼろ)になり、記憶は美しく飾られて心の引出しに仕舞われるのである。

弥次喜多の<中山道てくてく>も、100年後の後輩たちが、我々の夢を語り、新しい冒険の旅へ旅立って

くれることを夢見ているのである。

            

 

     

              蹴上にある古き陸送の展示モニュメント広場

          

 

蹴上を疎水沿いに下ると平安神宮である。

仲間の待つ到着式に出席するため着衣を正し、指定時間を待った。

到着式は、三条大橋の下、鴨川の河川敷で15時より行なわれるという。

 

同志社ローバースカウト創立50年記念<中山道てくてくラリー>の到着式をもって、

われわれ弥次喜多の立寄り先を含めた中山道踏破総距離897㎞の珍道中は終わるのである。

なお、日本橋三条大橋間の中山道標準距離は550㎞であるから、いかに弥次喜多が好奇心を持って、

活動的に動き回ったかがわかる。

 

中山道てくてくラリーを終えるにあたって、ご支援いただいた多くの方々、スタッフの一人一人に感謝の

気持ちを伝えたい。

みなさんのお陰をもって、我々は無事ゴールの任を果たしたことをここに報告するものである。   

感謝合掌 

弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

    中山道てくてくラリー到着式を迎えて>  最終本部通信連絡

 

     《 美しい浅緑に囲まれた大津宿にある長等公園には木漏れ陽がさんさんと射し込んでいる。

     とうとう「中仙道てくてくラリー」も最終日を迎えたのだ。

     小鳥たちや谷間のせせらぎも祝ってくれているかのようににぎやかである。

     天気よし、体調よし。

     8時30分最終露営地・大津宿にある長等公園を出発、ゴール地点・京都三条大橋をめざす。

     逢坂山の守護神『蝉丸神社下社』を詣で、道中の無事を報告。


   
『これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関』  

               (関蝉丸―百人一首の盲目の歌人


  
 『花濃以呂は 宇つりにけり いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』  

                (小町塚―小野小町の歌碑)

 

     わたしも一句、


   
弥次喜多の 熱き想いを 背負いつつ 越えし逢坂 京に入るらん』 實久


  
 『半世紀  ながれしときや よみがえり  熱き血潮に 青春やどる』   實久



        9時半ごろ、逢坂の関跡で「てくてくラリー」村田支援本部長の出迎えをうけ、

             大津宿69 より京都三条大橋まで弥次喜多と一緒に歩くこととなった。


             逢坂を下ると左手に苔むした涼寂の寺、走井の庭園で有名な月心寺がある。


     
『走井の かけひの水の すずしさに 越えもやられず 逢坂の関』    

                                                                       (清原元輔



    語らいつつ平安神宮で休憩、安堵からか京がまぶしい。

    いよいよ凱旋だ。

     最終地 三条大橋への途次、 弥次喜多・後藤實久&田中祥介》

 

  

  <三条大橋弥次喜多到着セレモニー>

     《3時15分 写真担当・高間信和氏(71年度生)の先導で弥次喜多は夢にまで見た三条大橋を渡る。

     到着式会場である河川敷には、到着式プロデューサー梅田幹人氏(71年度生)と故 小山康子女史

   (76年度生 2020年10月14日没)の掲げる歓迎横断幕がかかげられている。 

     弥次喜多コンビ、後藤實久と田中祥介が大きな拍手に迎えられ、フィニッシュ・テープを同時に

     切った。

     弥次さんと、夫人の押す車いすに座った喜多さんの両名に 西村豊子OGOB会副会長(61年度生)

     から花束を贈られ、一段と拍手が高まる。
 

   その中に、『やった! よくやってくれました!』と固い握手をかわした篠田常生OGOB会長

    (62年度生)。

   前日の大津宿・浜大津に夫婦で出迎えてくれた田中公郎(63年度生)OGOB会幹事長と恵子

    (65年度生)夫妻。

   翁の笑みで優しくゴールを祝ってくれた上嶋洋誉氏(63年度生)、

   ブログ担当として毎日の天気予報とエールを送信し続けてくれた西脇英司氏(73年度生)、

   アメリカ・ニュージャージの我が家に泊まった懐かしの故 桂 茂樹氏(72年度生)、

   夫をサウジアラビア送り出している岡本容子女史(76年度生)、

   同志社マークのついた三笠焼をもって馳せ参じてくれた草野裕司氏(84年度生)、

   そして家族の顔がみえる。

   中山道てくてくラリー最終区間を先導し、一緒に歩いてくれた村田紘一支援本部長(64年度生)が

   たえず弥次喜多にあたたかく寄り添ってくれた。感謝である。


   式後、高山彦九郎銅像前で<中山道てくてくラリー>最後の東日本大地震募金活動をおこなった。


   ビアホール・スーパードライでの打上げ会には、安中教会での献花式に出席してくれた

   故 藤見昌憲氏(てくてくラリー責任者・2022年11月12日没)も顔をみせ、

   『てくてくラリー IN 中山道』は無事幕を閉じた。 

   仲間みんなで成し遂げた中山道踏破の偉業である。

   共に喜びたい。


   感謝合掌 

   弥次喜多こと 後藤實久&田中祥介 》

 

 

 

 

              中山道てくてくラリー京都三条大橋 到着式

 

 

 

          OGOB会 西村豊子副会長より歓迎の花束を受ける弥次喜多

 

 

 

 

東北大震災募金活動        50年前日本橋に到着した仲間たち

 

また、ここに55年前の「同志社大学ローバースカウト隊中仙道徒歩旅行」を踏破し、日本橋

到着したときの精悍な隊員たちの一枚の懐かしい写真がある。「道を歩く」仲間たちである。

半世紀と言う50年の時を越え、共に祝いたい。

 

 

           高山彦九郎像前での<東北大震災>最終募金活動

 

 


  <中山道てくてくラリー踏破 到着のご報告と御礼> 

   親愛なる同志社ローバースカウトOGOBのみなさんへ

    道中、お世話になったみなさまへ

 

   三指  江戸日本橋を出発し、550キロを踏破、34日ぶりに京都三条大橋に無事到着いたしました。

   まずは神に感謝の祈りをささげたいと思います。

   この試練の機会を与えてくれました『同志社大学ローバースカウトOGOB会』に、

   この冒険を許してくれたワイフと家族に、

   中山道てくてくラリー・安中わくわくランド・献花式を支えてくれた仲間に、

   兄弟姉妹としてお迎えいただいた安中教会の江守牧師はじめ教会員お一人おひとりに、 

   とくにお世話いただきました真下さま・田島さまに、

   そして道中 励ましの言葉をかけていただいた数知れない方々に、

   今回の被災地・被災者にエールを贈るため「同じ環境での生活条件・募金活動・祈りの実践」を

   提唱した喜多さんである田中祥介君に、

   また色々とご相談にのっていたたいた新島学園宗教部長・小栗牧師に、

   そのほか数知れないお世話になった方々に対して、

   『同志社大学ローバー隊創立50周年記念・中山道てくてくラリー』参加隊員一同 こころより

   感謝申し上げる次第です。

 

   みなさまのお陰をもちまして半世紀前に実施されました同志社大学ローバー隊員による

   第一回中山道徒歩旅行の復路を50年ぶりに踏破できましたことここに厚くお礼を申し上げ、

   ご報告とさせていただきます。


   ありがとうございました。

   弥栄 感謝 

   同志社ローバースカウト中山道てくてくラリー隊

   ペンネーム 弥次喜多
     復路隊長    後藤實久
     副隊長     田中祥介 (病床にあるため写真参加)
     区間支援隊員  村田紘一
     区間支援隊員  梅田幹人

   


               ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

  <弥次喜多万歳記ー御礼> 

 

  「後藤さま

   昨日は、本当にありがとうございました。
   『一緒にゴールしよう』 と言っていただき、本当に祥介は幸せ者です。

   ちっとも歩いていないのに・・・

   相槌も打たない写真に、弥次喜多コンビとたくさんたくさん話しかけて頂き、

   本当にありがとうございました。

   多くのOB・OGの皆さんが集まってくださっていて、祥介にいっぱい声を掛けていただいたこと、

   本当に感謝感激です。

   祥介のリアクションが今ひとつであったことは、お許しください。

   初めてのドライブで座った姿勢で長時間揺れたこと、天気が良く車中少し暑かったこと、

   ドライバーの方が不案内で少し道に迷われたこともあり

   『別のルートが早いのに…』、

   『15時に着けないんじゃないか?』と

   気をもんでいたこともあり、三条大橋についた時は、少々疲れていたのだと思います。

   皆さんにたくさん声援を頂いて元気が出たのか、帰路の車中は行きに比べ楽そうな表情で、

   自宅に立ち寄り、

     17時20分頃病院に到着しました。

   『疲れた?』    『ハイ(瞬き2回)』

   『行かなければ良かった?』   『・・・(瞬き無し)』

   『行って良かった?』   『ハイ(瞬き2回)』 

   『その割りに、いい表情するとか、涙を流すとか、リアクション薄かったよ。

    もっと修行せなあかんね?』 

      『ハイ(瞬き2回)』

 

   今日は、昨日の疲れも無く、もちろん熱を出すことも無く、元気にしていましたので、

   ご安心ください。 

   祥介が、メールをして「よろしく」伝えてほしいと言っていました。

   彼もうれしくて、うれしくて、ありがたく思っているのですが、自分の思いを表現したり

   伝えたりする術がまだまだで、本当に申し訳ありません。

   飽きずに、どうぞ、今後もよろしくお願いします。

   後藤さまも、お疲れが出ませんよう、十分休養をおとり下さい。

   本当にありがとうございました。 

   田中祥介・裕美」

 

 

       中山道てくてくラリー到着式での、喜多さんこと田中祥介氏と裕実夫人

 

          ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

  

      中山道てくてくラリー途上、つれづれに画き綴ったスケッチを添えておきます。

 

 

             

       中山道てくてく・つれづれスケッチ集>

 

             ー中山道の風景―

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

        

                   中山道 東京日本橋出発式 

                    (安中教会献花式出席途上)

 

 

 

                                                

                中山道<満月の夜>弥次喜多天体に遊ぶ

 

 

                                                                        

                    中山道は桜爛漫であった

 

 

 

              中山道 松井田宿⑯ 天を衝く裏妙義の峻峯①             

 

 

 

                      裏妙義の霊峰②

 

 

 

                 中山道 本庄宿⑩ 金鑚神社の狛犬

 

 

 

                   中山道 桶川宿⑥ 畠村家土蔵      

 

 

 

       

                   深谷宿⑨ 清心寺門前 馬頭尊

 

 

 

       

                    本庄宿⑩ 疊秀山開善寺 <看却下>       

 

 

 

                

                  中山道 松井田宿⑯ 妙義山連峰

 

 

 

                   中山道 松井田宿⑯ 名峰 妙義山  (by  T.S.)               

 

 

 

                       

                                                             中山道 軽井沢宿⑱ 霊峰・浅間山

 

 

 

         

                 中山道 塩名田宿㉓ 馬頭観世音      

 

 

 

       

                  中山道 和田宿㉘ 馬頭観世音

 

    

 

       

               中山道 追分宿⑳ ゆうすげ(夕菅)の花     

 

 

 

                 中山道 和田宿㉘の段々畑の風景 

 

 

                         

                中山道 塩尻宿㉚ 諏訪湖の雨風情

 

                           

 

                   中山道 塩尻宿㉚ 乗鞍連山

 

 

  

                中山道 福島宿㊲ 御嶽・乗鞍方面の眺望            

 

 

 

                  中山道 福島宿㊲ 木曽駒ケ岳

 

    

   

                  中山道 馬籠宿㊸ 恵那山の雄姿 

 

 

 

        

               中山道 須原宿㊴ 旅人のオアシス<水舟>     

 

 

 

                   中山道 馬籠宿㊸ 旧街道                 

 

 

 

       

                  恵那山麓で見つけた奇妙な花たち

 

 

 

 

       

             中山道 新茶屋の一里塚83里 と 信濃美濃国境石碑     

 

 

 

             中山道 柏原宿60 JR柏原駅寄りの伊吹山眺望          

 

 

 

                中山道 守山宿67 近江富士<三上山>

 

 

 

 

                                         ここに、2011

                同志社ローバースカウト創立50年記念事業

                中山道てくてくラリー>踏破の記録を残す

 

                                                                 

 

 

          長文の通信記録・旅日記をお読みいただき有難うございました。

 

                   弥次喜多コンビ 

                 弥次さん    後藤實久(60年度生)

                 喜多さん 田中祥介(79年度生)

 

 

 

 

 

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

同志社ローバースカウト50周年記念関係資料集>

 

 ■ 中山道てくてくラリー到着式・募金活動プロジェクト責任者 報告>

 

   「いつもお世話さまです。5月21日の到着式・募金活動にお集まりいただいた皆様

    ご苦労さまでした。

    東北大震災義援金日本赤十字社へ金額 56,139円を送金しましたことを報告します。

    募金活動プロジェクト責任者  梅田 幹人」
  

   「梅田幹人さま

    義援金56.139円を日本赤十字社へご送金いただいたとのこと、ありがとうございました。

    これで『中山道てくてくラリー』の目的の一つ「東北大震災義援金募集」が完結したことになり

    隊員一同喜んでおります。

    中山道てくてくラリー隊長 後藤實久」


       

                 東日本大震災募金活動

 

 

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 ■『中仙道てくてくラリー』 支援者

 

    

            <てくてくラリーin 中山道>到着式にて

                      京都三条大橋

    (後左) 西村・篠田・田中公郎・草野 〇 小山 〇 桂・後藤・上嶋・梅田各氏 〇  

    (中左) 田中祥介氏夫人裕子さん・田中恵子氏    〇 〇

    (前左) 村田・田中祥介・後藤家族    〇 〇

 


 

         西脇・西村各氏              長岡・後藤・佐伯各氏(出発式 日本橋)                       

                 

            

                 後藤・長岡・藤田(73)各氏 <出発式・日本橋

                                 

 

■ <50周年記念 中山道てくてくラリー支援隊メンバー> (敬称略・順不同)


長岡 一美  64期生  出発式担当           東北関東大震災情報提供
村田 紘一  64期生  安全対策担当          大津宿⇒三条大橋徒歩区間参加隊員
藤見 昌憲  65期生  中仙道てくてくラリー企画担当  わくわくランド安中/献花式参加
梅田 幹人  71期生  震災募金・到着式・打上げ担当  須原宿⇒守山宿徒歩区間参加隊員

小山 康子  71期生  到着式担当           京都三条大橋到着歓迎プログラム

高間 信和  71期生  到着式担当           京都三条大橋到着歓迎写真記録
西脇 英司  73期生  HP運営管理担当        ブログ管理・気象情報/コメント提供
佐伯 直幸  79期生  わくわくランド安中企画担当   東北関東大震災情報提供
桑原 和則  79期生  安中教会/新島旧邸献花・挿花指導 献花式主宰・わくわくランド参加
田中 公郎  63期生  アドバイザー          大津宿出迎え・創立50年実行委員長
田中 恵子  65期生  会計              大津宿出迎え
黒木 保博  69期生  アドバイザー(同志社関係対応) 安中教会 /献花式記録
西村 豊子  61期生  アドバイザー          安中教会 /献花式・OGOB副会長
篠田 常生  62期生  アドバイザー(BS関係対応)   ラリーTシャツ図案/制作・OGOB会長
田中 祥介  79期生  徒歩部隊副隊長 (喜多さん) バーチャル/写真参加・夫妻(裕美)で到着式参加
後藤 實久  60期生  徒歩部隊隊長  (弥次さん)  踏破記録・ブログ通信・メール送受

 

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

■ <同志社ローバースカウトの50年>   (『同志社タイムズ』2011年7月15日、668号7面寄稿文より)

 

               1961 同志社大学ローバースカウト隊 結団式

                     同志社教会前にて                            

 

 

いまから半世紀前、1962年6月同志社大学ローバースカウト隊がまず発隊し、つづいてレンジャースカウト隊が結成され、同志社スカウト同好会が誕生した。

今年は創立50年をむかえ、記念イベントである『中仙道てくてくラリー・安中わくわくランド・新島襄先生記念感謝献花展』がもたれた。

『中仙道てくてくラリー540km』の二名の隊員(60後藤實久・79田中祥介)が、4月10日東京日本橋を出発し、32日間の徒歩旅行をおえ、5月1日仲間の出迎えをうけ、無事京都三条大橋に到着した。

到着式後、有志による街頭での大震災募金を呼びかけ、日本赤十字社をとおして被災地に贈った。

三条河原町ビヤホールスーパードライでの打上げ会には篠田・村田・田中公郎・西村・西脇・高間・桂・早野・小山康子・岡本容子・田中恵子・藤見の各氏と私が出席し、50年の流れに花を咲かせた。

50年前、わが同志社ローバーの武士(もののふ)28名が京都三条大橋を発ち、東京日本橋に立った。 踏破の歓喜、灼熱に打ち勝った精悍な面構え、青春の血潮のうねりに陶酔した一瞬であった。 

第一回徒歩旅行で燈された永遠なる同志社ローバーリングの光を五十年ぶりに京に持ち帰りたいという願いから「中仙道てくてくラリー」(復路)が実施された。

途中、5月3~5日 新島襄先生出身の安中市において『安中わくわくランド』(スカウトOGOB親睦会)がもたれ後藤・西村・桑原夫妻・黒木・藤見・稲井・堀越夫妻・田中祥の各氏が集い親睦をふかめた。

この間、桑原專慶流第15世家元・79桑原仙渓氏による安中教会での「新島襄先生記念感謝献花式」が湯浅新島学園理事長ご夫妻をはじめ多数の出席者をえて、75江守牧師の司式によってもたれた。

また、新島旧邸での献花や、教育館での出席者持参のお花を使っての家元指導による活花教室が華やかに催された。 東北大震災の直後のことでもあり、被災地・被災者への鎮魂の意味を込めて実施された。

11月19日に行われる京都・新島会館での「同志社スカウト同好会創立50年記念式典」には全国から多数のOGOBが参集し、ともに祝うことになっている。

 

 

同志社スカウト同好会に関する資料

ボーイスカウト京都第43団青年隊(ローバースカウト隊)は、 1961年6月、有終館2階204号教室にて結団式が行われ、同志社教会にて祝祷、記念撮影会がもたれた。

団隊組織として、 育成会長・八木清(当時BS京都連盟理事長)、団委員長・長谷川凡次郎(法学部教授)、隊長・佐藤義雄(弁護士)、副隊長・井上哲士(54期生)、団委員・生島吉郎(同志社本部監理部長)、同 田淵潔(同大教授)の諸先輩のご協力、参加をえて結団された。

このたび同志社ローバースカウトは、創立50周年記念を迎え、記念事業の一環として、50年前、発団当初に行った「中山道徒歩旅行」 京都三条より東京日本橋の530kmを折り返す形で「中山道530kmてくてくラリー」を行うことになった。

出発直前の、2011年3月11日東北大震災が発生、多くの痛ましい犠牲者や行方不明者を出すことになった。

4月に予定していた「中山道530kmてくてくラリー」の実施を取りやめることも検討されたが、被災地東北を支援することで立ち上がり、義援金募集と「東北がんばれー」・「がんばろう日本」のバナーを掲げて被災者との連帯をしめす事となった。

また、記念事業終了後、被災地に赴き奉仕と被災者の追悼慰霊をすることとなった。

 

 

同志社ローバー50年記念に関する新聞記事

 

 ◎『同志社タイムズ』2011年7月15日、668号7面、タイトル『同志社スカウト同好会50年記念』、

   同志社タイムズ社ホームページにて無料閲覧できます。


 ◎『上毛新聞』2011年5月18日号19面、タイトル『新島襄に感謝し生け花 安中』、

   上毛新聞社ホームページにて有料閲覧できます。

 

       『上毛新聞』2011年5月18日号19面、タイトル『新島襄に感謝し生け花 安中』

 

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

        ■ 同志社ローバースカウト50周年記念  《わくわくランド IN 安中》

               《同志社ローバー50年記念事業 資料>  

                (東北大震災に伴い一部未開催―)

                起案者 :佐伯直幸(79年度生)

 

大変残念ながら、東北大震災における沢山の失命・被災者の痛みに寄り添うということで、一時、すべての50周年事業を断念してはということは、すでにご報告したとおりです。

議論を重ねるにつけ、50周年記念事業のうち、<感謝献花式>と<てくてくラリー>を被災者に寄り添った行事に重ね、被災者への祈り場、支援の場とすることに決しました。

《わくわくランド IN 安中》でのOGOB会による、50周年を祝う全国規模の親睦会は、残念ながら未開催と決まった次第です。

ここに、未開催となった幻のご案内を、50周年における活動報告の一部として掲載しておくことにします。

 

 

            ご  案  内    

     同志社ローバースカウト創立50年記念事業

     新島襄先生献花式 in 安中 および OGOB大会

 

1.日時 平成23年5月4日(水)~5日(木)    

2.場所 5月4日10:00-13:00 献花式 : 安中教会 (安中市安中3-19-10 027-381-0680)  

15:00-      碓氷峠くつろぎの郷(安中市松井田町坂本1258 027-380-4180)

                          JR信越本線横川駅よりトロッコ列車もしくは徒歩1h 

5月5日 10:00       解散     

3.参加費   10,000円 OB本人  8,000円 ご家族大人    4,000円 ご家族子供 

           5,000円 現役RS     

4.持ち物 : 同志社RSチーフおよびリング、寝巻き、タオル、洗面用具、着替え  

  1. スケジュール

5月4日   10:00     安中教会に集合 JR安中駅よりTaxiで10分  

                 10:30~   新島襄先生 感謝記念献花式/献花展   

                           桑原専慶流家元 桑原仙渓氏による献花   (79期生)

                 12:00~    安中教会の方や一般鑑賞者を交えての茶話会(昼食)

                           家元によるいけばな教室 <教会員および同志社ローバー大会出席OGOB>

                 13:00      安中から横川へ移動    

                           JR安中駅発 12:34、13:24、14:31、15:20、16:05 

                           もしくは自家用車に分乗    

                 碓氷峠くつろぎの郷(横川)でのプログラム  日本駅伝発祥の地「碓氷峠往復トレッキング」    

                 15:00      くつろぎの郷コテージチェックイン  &  温泉入浴「くつろぎの湯」 

                 17:30      くつろぎの湯内のレストランで同志社ローバー創立50周年記念大会 & 夕食

                 21:00      コテージにて大懇親会    

                           プロジェクターを持参します。  上映会をしましょう 

                           皆さんの日ごろの活動の写真、動画をお持ちください 

                           (写真データはUSBメモリー、SDカードで持参ください)

5月5日 07:00       起床、朝食     

                10:00 チェックアウト、解散    

  1. 前泊(5月3日)宿情報 : 遠方より参加される場合、前泊をおすすめします

        ご参考までに安中市内のお宿をご紹介しておきます。

        かんぽの宿・磯部(磯辺温泉)』 027-385-6321

        国民宿舎 裏妙義』  027-395-2631                                   以上

 

 

 

          ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

          ■ 資料 : 同志社大学ローバー・レンジャー50年記念ポロシャツ

                                           ( デザイン・制作責任:記念ポロシャツ制作委員会)

 

        

       

                  (訂正 創立年は1961です)

 

 

          ■資料 :同志社大学ローバースカウト隊 創立50年記念

                中山道てくてくラリー 記念Tシャツ

            ( デザイン・制作責任者:篠田常生)

 

       

                  記念Tシャツ 表

   

       

                  記念Tシャツ 裏



 

       -------------------------------

 

■<東日本大震災鎮魂慰霊の旅>

11月19日の同志社ローバー創立50年記念式典が無事終了したのを機に、被災地・被災者との連帯・絆をとりつつすすめてきた創立記念イベント『中仙道てくてくラリー』および お亡くなりになられた多くの方への鎮魂の献花式ともなった『新島襄先生感謝記念献花式』(安中わくわくランド・安中教会・桑原仙渓献花・79期生)の報告と、御礼そして鎮魂慰霊の旅をこのたび終えることができた。

ここに同志社大学ローバースカウト隊創立50年記念式典参加OGOBおよび現役一同の名のもとに、2011年21日~26日 大船渡・陸前高田気仙沼南三陸町石巻・松島・塩釜・福島の各被災地にて鎮魂の慰霊祭を終えたことをお伝えする。

(中仙道てくてくラリー弥次喜多  後藤實久&田中祥介記)

 

        

                 被災地慰霊 鎮魂誓願

 

      慰霊 東日本大震災の御霊を鎮魂す 2011/11/23 同志社ローバースカウトOGOB一同

                       大船渡港にて
 

 

 

                   東日本大震災 御霊にささぐ>
                 2011年11月24日0:45a.m.大船渡港にて 

                       詩 後藤實久

  

                      『君想いて酒に溺るる』

                われ酒を酌みて   君たちの無念を想ふ
                われ己を飲みて   君たちの昇華を願ふ
                永遠の命識りて   君たちを天国に誘ふ
                主そこにおわし   君たちを迎へ抱擁す
                すべてを浄化し   君たち栄光に生きよ
                ああ君たちをや   送らんと酒に溺るる

 

 

                    『君よ安らかに眠りたまえ』

                   君よ往け 君の愛する国へ
                   君よ叫べ 命ある者たちへ
                   君よ泣け 限りある運命に
                   主に学び 永遠の命をえよ
                   君泣くな 愛する者たちよ
                   主に賜り 主命に召さるる
                   ゆだねよ 主なるみむねに

 

 

 

         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

1961 同志社大学ローバースカウト隊 創立記念式典 同志社教会前

2010 同志社大学ローバースカウト隊 復団式典

2011 同志社ローバースカウト創立50年記念式典 OGOB集合写真

2011 同志社ローバースカウト創立50年記念式典 全参加者集合写真 

2022 同志社ローバースカウト創立60周年記念式典 宇多野YH

 

             同志社大学ローバースカウト隊 創立記念式典

              ボーイスカウト京都連盟 第43団青年隊 結団

                1961年6月17日 同志社教会前

 

 

                 同志社大学ローバースカウト隊 復団式典

             ボーイスカウト京都連盟 第43団青年隊 復団

                 2010年9月1日 新島会館にて



            <同志社ローバースカウト創立50年記念式典OGOB集合写真>

                2011年(平成23)11月19日  新島会館にて

                               東北大震災の年に

 

 

           同志社ローバースカウト創立50年記念式典 全参加者集合写真                  

                2011年(平成23)11月19日  新島会館にて

                               東北大震災の年に

 

 

               同志社ローバースカウト創立60周年記念式典

             2022年9月17日 宇多野ユースホステルにて

 

      

            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

<追記 ① 喜多さん・田中祥介氏昇天す>

 

 2018年10月12日、喜多さん・田中祥介氏昇天す。 

   ここに 哀悼の念を捧げ、このブログ<中山道てくてくラリー>を

  喜多さんに捧げるものである。

 

  同志社ローバースカウト復団に情熱を注ぎ、長年病床にあった。

  写真参加であるが、彼を病床より連れ出し、弥次喜多のコンビを結成しての中山道踏破

  を試みた。

  メールの交換による現地と病床のコミュニケーションは、愛語の交感となり、堅い絆のもと

  総距離約850kmを、32日間を共に歩いたことになった。

 

  京都三条大橋で行われた中山道踏破歓迎式に、喜多さんも不自由な体を車椅子に横たえ

  参加してくれた。その姿に感動と感銘を受けたものである。

  (後藤實久記 60年度生)

 

  

   

              喜多さん・田中祥介氏と有明のサンライジングを浴びる

            ―2018年9月6日<潜伏キリシタンの里 島原有明海岸にて>―   

 

          <関連ブログ先>潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―⑧

               

 

                 ーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

<追記 ② 「中山道てくてくラリー」新旧ブログ取扱いについて>

 

改定版「中山道てくてくラリー」のブログ移行更新に伴い、旧い「中山道てくてくラリー」のブログを削除

いたします。

旧「中山道てくてくラリー」を保存されている方は、新「中山道てくてくラリー」に置きかえて保存くださる

ようお願いします。

旧ブログの削除は、1か月後の2023年2月28日としますので、以上よろしくお願いします。

 

           2023年1月31日 中山道てくてくラリー」ブログ管理者 後藤實久

 

 

 

                  資料編 完

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<関連ブログ>

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅰ

 

2011『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ