■52 草津宿
それからの発展は目覚ましく、大きな道路が縦横に走り、草津駅前など中堅都市としてのその様変わりに目を見張った。
また宿場のなかでも格式が高かったのではないだろうか。徳川家歴代の大老職にあった井伊家のおひざ元であったことから、参勤交代で宿泊する大名たちの様子を探索していたとも推測できる。本陣のその規模の
大きさからも推し量ることができる。
もちろん山並みを往く中仙道よりも、旅を楽しむには風景に変化がある東海道の方を多くの旅人が選択したで
あろう。
そのシンボルであり大名などが休泊したのが草津宿本陣(田中本陣跡)である。
「うばがもちや」草津本店全景と 「姥が餅」
当時、街道の楽しみは、茶屋での一服であったろう。宿場への途中、見晴らしのよい峠の茶屋や、海辺の松林で松風や波音を聞きながら休憩をとり、空腹をみたす。旅人には地元の餅や団子などが歓迎されたようだ。
この休憩が大切な時間となる。こちらは餅や団子ではなく冷たいものを欲した。
快晴の日などアイスクリームを買い求め、額に当ててクールダウンするのである。
トイレを借りてさっぱりさせ、濡らしたTシャツを着こんで次の目的地までの暑さをしのぐことになる。Tシャツが乾ききるのに30分とかからない。これを繰り返して熱中症を予防するのである。
旧東海道を日本橋にむかう仲間やカップルに数組であった。走るもの、てくてく歩くもの、じぶんに会う方法で53次の旅を楽しんでいた。その姿やまるでサハラ砂漠を行進中の外人部隊の敗残兵のようなスタイルである。
タオルやバンダナで肌を覆い隠すと、眼だけが光り異様な雰囲気をかもしだす。
でも、なりふり構っておられないのである。自分を日射病から守らなければならないからだ。
5月がこのように暑い季節とは想像していなかった。みな快適だとおもって出発したのに、実に暑かった。
ときにはペットボトルの水を頭とTシャツにふりかけての走行となった。
箱根越えなどではむき出しの大地を歩いた。その感触は人間性回復の原点でもあった。
5年前の「中仙道てくてくラリー」では、梅田幹人氏(同志社ローバースカウトOB71期生)の出迎えを受け、近江鉄道の「武佐駅」より草津まで同伴してもらったことがある。田舎路である旧中山道を二人して赤とんぼを追いかけ、バッタを観察し、手作りの豆腐を食べ、極楽湯というスーパー銭湯で背中をこすりあったことを懐かしく思いだしながら草津宿を後にして石部宿に向かった。
■51 石部宿
六地蔵一里塚跡
石部宿は、滔々と時が流れ、歴史の中に生きる街道にさんさんと太陽の光を浴びていた。
真明寺の山門 芭蕉句碑 「都ゝしいけ帯」
「都ゝしいけ帯 そ能蔭尓 干鱈さく女」 <つつじいけて その陰に 干鱈さく女>とある。
石部宿を出て田畑のひろがる細い旧街道を水口宿に向けて自転車のペタルを踏み続けた。
すこし距離があるのだろうか、暑さに汗がしたたりはじめた。
汗を流し、体を冷やすために温泉へ一直線だ。
■50 水口宿 につづく