■ 京・三条大橋を出発する
西のゼロ起点 0.0km(日本橋より125里・約500km)
三条大橋の東の緑地に御所を遥拝する高山彦九郎の像がある。
その前で96歳のご老人に声をかけられた、
「どこへ行くんだい ? そう、東海道53次を走るのか。 歴史ってごまかしばっかりだ、時の権力者がでっち上げていることが多いからね。歴史の改ざんなんて平気なもんだよ。しっかり自分の目で見ておいでよ」
ひょっとしてご老人は歴史学者だったかもしれないと思うと、課題としての暗示をもらったのかもしれない。こころして走りたい。
その前で96歳のご老人に声をかけられた、
「どこへ行くんだい ? そう、東海道53次を走るのか。 歴史ってごまかしばっかりだ、時の権力者がでっち上げていることが多いからね。歴史の改ざんなんて平気なもんだよ。しっかり自分の目で見ておいでよ」
ひょっとしてご老人は歴史学者だったかもしれないと思うと、課題としての暗示をもらったのかもしれない。こころして走りたい。
平安神宮大鳥居前で
旧東海道 山科日ノ岡付近
日の岡は昔ながらの細い街道が東西にぬけている。 坂のある静かなたたずまいに京の匂いを
風が運んできているようなきがする。京へ向かう旅人たちも長旅の緊張から安堵のため息をはいての急ぎ足に変わったであろう。
わたしも自転車をおりて、山科の歴史を歩いた。
月心寺西隣石垣前に道標あり、右・西方向に「一里丁」(御陵一里塚)・
左すなわち東は大谷町とある。
東海道53次自転車ぶらぶら旅に写真参加した仲間と共に京をあとにした <逢坂山関所にて>
われわれも身を引き締め、これからの道中の安全を確認するため、ここ逢坂山関で結団式をおこなった。
またここ逢坂山関には懐かしい思い出がある。5年前の「中仙道てくてくラリー」途上、この場所でひとりの胡麻塩まじりの毬栗頭にベレー帽をかぶせた、ボーイスカウト姿の老人がわれわれを出迎えてくれていた。同志社ローバースカウトOBの村田紘一氏(64期生)であった。こちらとしては思いがけない出迎えにおおいに喜んだものだ。ともに街道に点在する歴史の跡をたどりながら三条大橋で待つ仲間や家族の歓迎式典に導かれたのである。
逢坂山付近は現在でも交通の要所である。旧東海道、国道1号線や名神高速、新幹線。JR東海道線、京阪京津線それに山中にくりぬかれたトンネル、明治時代の疎水を使っての川船運送(インクライン)が狭い山間に集中して走っている。昔は山城と近江をつなぐ重要な道路であり隘路であった。多くの貴人や武将、商人、忍びの者、庶民が往来したので多くの逸話や悲劇、歴史が生まれた。
なかでも和歌がたくさん詠われた。
蝉丸の詠んだ和歌「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」は有名である。
もちろん関所がおかれ厳重に警備・探索がおこなわれた。
歩いてみてわかることだが、逢坂山のせまい峠への坂をのぼり、隘路にさしかかり、歴史を振り返ると身が引き締まる思いがする。歴史の通り道であり、歴史の隘路であることが肌に感じられる。
逢坂を下っていくと大津に入る。
■五十三・大津宿
われわれにとっては、気心知れた「大津宿」である。すこし詳しく「大津宿」の雰囲気を写生しておきたい。
いかにも宿場街としての典型的な雰囲気を投げかけてくれているからである。
京・三条大橋からすれば最初の宿場街「大津宿」である。
往くも帰るも、身をあらためる宿場となる。旅人は門出のいや最後の盃を交わしたかもしれないし、身を清めて化粧に、服装に気を使ったであろう。そして愛する人々を想い、しばしの別れをささやいたであろう。
「大津宿」は庶民的な温かさを感じる宿場である。旅人を慰め、背中をやさしく押してくれそうな人情や機微を隠し持っている。
わたしも大津の住人のひとりである。
いまなお大津は片田舎の宿場街のような雰囲気や情緒を、そして都のしなやかさと香りをかすかに醸している対称性が好きである。
大津宿、いやこれからの宿場はわれわれや旅人にたいし優しく、癒しを与えてくれたであろう。
楽しみである。
露国皇太子遭難の碑
この地を愛した芭蕉がよく滞在した義仲寺
いまなお残る大津宿の古民家のシンボルカラー
いまなお残る大津宿の古民家のシンボルカラー
国際政治事件としてまた弱小国の悲哀を経験した有名な露国皇太子遭難の碑(ロシア皇太子ニコライ)や, この地を愛した芭蕉がよく滞在した義仲寺(木曽義仲、愛妾巴御前、芭蕉の墓がある)を訪ねながら、いまなお残る大津宿の古民家のシンボルカラーに見送られて瀬田の唐橋をわたる。