関川神社を過ぎ、手入れの行き届いた御油の松並木に迎えられ日本橋より35番目の宿場「御油宿」(ごゆ)に入って行く。広重の浮世絵「東海道53次・御油」に見られるように、旅人であるわたしを奪い合う留女に圧倒される自分がそこにいるようである。
<留女>
留女(とめおんな)とは、旅人を旅籠に呼び入れる女のこと。姫街道との追分(分岐)でもあった御油宿は交通の要所でもあり、旅人の奪い合いも尋常でなかったようである。広重の浮世絵に描かれている、客を奪い合う留女をみていると夕暮れの御油宿の様子がよくわかって面白い。
赤坂宿より僅か1.6kmで御油宿となる。東海道53次のなかで最も短い距離にある2つの宿である。
ここ「御油の松並木」は、日光の松並木を小型化したような立派な黑松の並木が続く。ぜひ訪れ散策してみてほしい。
この辺りは戦災にも合わず、大きな再開発もなく、昔の名残である町並みと連子格子の家を残している宿場でもある。
松並木を抜けると、飯盛女(めしもりおんな)の墓が並ぶ東林寺が右手(南西)にある。
<飯盛女>
飯盛女は、飯売女ともいい江戸時代の宿場の旅籠で給仕をする女として働いていた。彼女たちは夜になると旅人の求めに応じ、相手をした私娼(春を売る女)である。
貧農の娘として生を受け、家計を助けるために借金のかたとして売られた下級遊女である飯盛女は、客をとれば宿の使用料をとられわずかの金子しか手元に残らなかったらしい。その哀れな物語を背負って亡くなって行った飯盛女の墓五基がひっそりとたたずんでいる。哀れである。
「飯盛女とは宿場にいた遊女のことで、その多くは、生計が苦しい家や年貢を納めることが困難な農家が、金を借りるために年季奉公に出した娘たちでした。御油宿は遊興の宿場として知られ、多くの飯盛女がいましたが、彼女らは非常に不遇な立場に置かれていました。」とある。
音羽川に架かる五井橋の手前に風格のある連子格子の家が御油宿本陣を取り囲むようにこじんまりと並ぶ。
ここ御油宿は「五井」ともよばれ、その語源は「互井」すなわち<お互いに交流する地>という意味らしい。総戸数316軒、本陣3軒、旅籠62軒とある。このこじんまりした小さな宿場に旅籠のおおいこと、わけがある。それは城下町でにぎわう吉田宿(豊橋)をさけて投宿したことと、ここが脇街道である姫街道の西側の出入口であったことにある。また享楽の宿場としても人気があったらしい。
五井橋を渡り、姫街道の分岐をすぎると左手、信用金庫の植え込みに「76・御油一里塚跡」の標柱が建っている。
■76・御油一里塚跡 (愛知県豊川市国府町付近) 京より49里・192.4KM/ 日本橋より76里・296.4km
御油一里塚をあとに国道1号線と名鉄本線をこえ、脇(右手)にそれて旧街道をなお進むと75・伊奈一里塚跡、JR飯田線・小酒井駅横の踏切を越え、江戸日本橋より34番目の宿場である「吉田宿」に入って行く。
■34 吉田宿
<三河国・愛知> 京三条大橋より204.8キロ / 日本橋より287.3キロ
日本橋より75里の「伊奈一里塚跡」を横目に、JR飯田線の踏切をこえると豊川放水路に架かる高橋を渡る。このさき旧街道は一本道、日本橋より74里の「下地一里塚跡」を通り、豊川の豊橋を渡り、吉田宿(豊橋)の街に入る。
吉田宿は、現在の豊橋市のほぼ真ん中にあたる。永正2年(1505)以降、吉田城の城下町として発展した宿場である。当時、本陣2軒、旅籠65軒と53次のなかでも大きな宿場であり、飯盛女のおおいことでも知られていた。
歌川広重34「東海道53次 吉田・豊橋」 豊川放水路に架かる高橋をわたると吉田宿に入って行く
■74・下地一里塚跡石碑 (愛知県豊橋市下地町四丁目・太鼓店前)
京より51里 ・200.3km /日本橋より74里・約296km
やっと探し出した74・下地一里塚跡
<一里塚跡の見つけ方>
一里塚(いちりづか)は、旅行者の目印として街道の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。塚の上に榎などの木を植えたり標識を立てたりしていた。
当時の旅人は遠くから見えるこの塚の上に繁る榎(えのき)を目指した。また休憩や歩きの目安にしたり、榎の木陰で涼をとったようである。現在よりも一里塚は整備や管理が行き届いたのであろう。
道中、自転車で一里塚跡の標柱・石碑・案内板などを見つけるのはなかなか骨が折れた。
この「下地一里塚跡」も街路樹にさえぎられその石柱を見のがして通り過ぎていた。
聖眼寺山門を目印にしていたので、慌てて300mほど後戻り、街路樹に並び立つ石碑を見つけたものだ。
当時の「一里塚」は歩き旅人の目印であるということを理解しておかなければ、今回のような自転車の旅では125個の一里塚の内、半分以上見過ごしてしまうことになってしまうのである。
歩き旅と自転車旅の時速も違うし、目線の高さや広さも異なるからである。
もし、道中の一里塚跡を訪ねることを目的とするのであれば徒歩旅行をおすすめする。
もちろんGPS携行は一里塚跡の位置確定をするのに役立つ。
一里塚跡の標識や位置情報がない所もあるので、注意しないと徒労におわることもある。
標識は、旧東海道を所管する地町村の歴史認識や遺産保存にたいする熱意や取り組みによってもことなっている。
見つからない場合は、付近の住人に尋ね、情報収集に努めることが発見への第一歩である。
雑草におおわれていたり、街路樹や電柱、塀などに隠れている場合や他人の裏庭にあったりとボーイスカウト時代の宝さがしが役立ったのでうれしい限りであった。
下地一里塚跡の少し先の左手に
芭蕉句碑のある聖眼寺がある。貞享
4年(
1687)
11月
23日、
芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して
渥美郡保見(現
渥美町)の里を訪れる途中、当寺に立ち寄り詠んだものといわれている。
< 松葉(ご)を焚(たい)て 手ぬくひあぶる 寒さ哉> 芭蕉
右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和6年(1769)に建てられたもの。
聖眼寺山門 聖眼寺境内にある芭蕉句碑(旧新松葉塚)
■73・飯村一里塚跡 (愛知県豊橋市三ノ輪町付近)
京より58里・226.2km / 日本橋より67里・261.3km
二川宿に向かう瓜生川の手前に飯村一里塚跡があり、国道1号線と別れ左に入るとその先に吉田宿東の入口
「東海道岩屋山古道」がある。その先の信号・火打坂を下り、二川宿に入る。
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 17
■33二川宿 につづく