shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』40

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』 
  東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 40


■3・神奈川宿
     武蔵国・神奈川県>               京より464.8km / 日本橋より27.3km

高札場跡をあとにして、JR高架をくぐり右手に「保土ヶ谷駅」をみながらすすむと、左側に「旧帷子橋跡」の標識のある相模鉄道天王町駅」の線路をわたり、街道と国道16号と交差する信号「洪福寺」を越えて、神奈川宿に入って行く。
 
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神奈川宿 「旧帷子橋跡」の解説板

広重の浮世絵の保土ヶ谷宿のテーマは、「帷子橋」である。ある藩が参勤交代をおえ、お国に帰る東海道での保土ヶ谷でここ「帷子橋」を渡っている構図である。現在その面影はなく、ただ案内板が建っているだけである。

 

横浜市の史跡案内によると、

「江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は。絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景としてしられていた。中でも初代広重の<東海道五十三次之内保土ヶ谷」は特に有名である。

大橋や新町橋とも呼ばれた帷子橋について、<新編武蔵風土紀稿>の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、『帷子橋帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ』という記載がみられる。」(一部抜粋)

と書かれている。

 

神奈川宿は、東海道533番目の宿場であり、今の神奈県横浜市神奈川区神奈川本町付近に位置していた。
相模国(現神奈川県)や武蔵国(現東京都)多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。
安政5年(1858)、神奈川湊(港)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結され、同条約では「神奈川」を開港するとしていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊(港)の対岸にある横浜村に港湾施設居留地をつくり、開港したという。
これが現在の横浜港である。
 
神奈川宿の規模は、戸数1,341戸、本陣2軒、 脇本陣0旅籠58軒、人口5,793人であった。

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現在の青木橋付近から海を望んでいるようだ。

この浮世絵を見ていると、詩吟「宝船」作・西野君山の一節を思い出し、高吟している自分がいた。
水平線からここ横浜港に近づく帆を張った「宝船」がだんだん大きくなってくる遠近法を取り入れている。当時にしては奇抜な構図であるという。

 

「宝船」   作・藤野君山

寿海波平らかにして 紅旭鮮やかなり
遙かに看る宝字 錦帆の懸るを
同乗の七福 皆笑いを含む
知る是金銀 珠玉の船

「旧帷子橋跡」をでて、相模鉄道天王町駅をみながら街道をまっすぐ約2km東へ自転車を進めると左手に「浅間神社」がある。
さらに1km先の「上台橋」を渡り約400m行くと左側に大鳥居が建つ「大綱金毘羅宮」にでる。ここに日本橋より7里の「神奈川一里塚跡」がある。
 

7・神奈川一里塚跡       (神奈川県横浜市神奈川区台町)  
                                             京より118里・460.2km/日本橋より7里・27.3km


大綱大神金刀比羅宮鳥居の右側の金毘羅宮説明板に次のように併記されている。


「江戸時代には、神社前の海道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった」と書かれている。

残念ながら一里塚跡の石碑などは見当たらなかった。


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大綱大神金刀比羅宮鳥居と<7 神奈川一里塚>の一文がある説明板
 
大綱大神金刀比羅宮をでると、JR東海道相模鉄道の高架をくぐり、左にある洲崎神社を過ぎて、突き当りの国道15号で旧街道と合流し、左に曲がると滝の川にかかる滝ノ橋にでる。
この橋の周りに「神奈川本陣跡」や「青木本陣跡」がある。


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洲崎大神                              <神奈川宿>                          滝ノ橋(滝の川)

州崎大神は、建久2年(1191)、源頼朝安房の国(あわのくに・)より安房神社を勧請して創建されたという。
州崎大神の境内裏は、当時海(現在の東京湾・横浜港)が迫っていたとある。

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神奈川町本陣跡と青木町本陣跡の案内板
 
街道の向かい側(右)に「青木本陣跡」・ 滝の川を渡って左角に「神奈川本陣跡」があったと
案内板に書かれている。

滝の川をでて、街道(国道15号)を東北にペタルを踏み、右に熊野神社、東光寺、良泉寺、JR新子安駅京浜急行鉄道の「生麦駅」をみながら江戸の風を感じ始めた。
それもそのはず、日本橋から2番目の宿場「川崎宿」に入りつつあるのだ。

 

その前に、JR新子安駅より国道15号(旧街道)を日本橋に向かって約300mのところにある信号交差点「子安通り」を左に曲がり、京浜急行の踏切を渡った、突当りに高野山真言宗「遍照院」がある。
この遍照院というお寺の入口に日本橋より6里目の一里塚があったと「東子安一里塚」解説板に書かれている。


6・東子安一里塚跡    横浜市神奈川区子安通三丁目)  

                京より119里・464.1km/日本橋より6里・23.4km

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「6 東子安一里塚」解説板                       遍照院山門


遍照院(東子安一里塚跡)をでて、国道15号(旧東海道)を日本橋に向かうと、「生麦事件の碑」が右手にある。
これより、旧街道は少し先で国道15号を離れ斜め右に入って、日本橋より2番目の宿場・「川崎宿」に向かう。



 
 
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 41
   日本橋より2番目の宿場・「川崎宿」 につづく