■3・神奈川宿
高札場跡をあとにして、JR高架をくぐり右手に「保土ヶ谷駅」をみながらすすむと、左側に「旧帷子橋跡」の標識のある相模鉄道「天王町駅」の線路をわたり、街道と国道16号と交差する信号「洪福寺」を越えて、神奈川宿に入って行く。
神奈川宿 「旧帷子橋跡」の解説板
広重の浮世絵の保土ヶ谷宿のテーマは、「帷子橋」である。ある藩が参勤交代をおえ、お国に帰る東海道での保土ヶ谷でここ「帷子橋」を渡っている構図である。現在その面影はなく、ただ案内板が建っているだけである。
横浜市の史跡案内によると、
「江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は。絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景としてしられていた。中でも初代広重の<東海道五十三次之内保土ヶ谷」は特に有名である。
大橋や新町橋とも呼ばれた帷子橋について、<新編武蔵風土紀稿>の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、『帷子橋帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ』という記載がみられる。」(一部抜粋)
と書かれている。
安政5年(1858年)、神奈川湊(港)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結され、同条約では「神奈川」を開港するとしていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊(港)の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港したという。
これが現在の横浜港である。
神奈川宿の規模は、戸数1,341戸、本陣2軒、 脇本陣0軒 旅籠58軒、人口5,793人であった。
現在の青木橋付近から海を望んでいるようだ。
この浮世絵を見ていると、詩吟「宝船」作・西野君山の一節を思い出し、高吟している自分がいた。
水平線からここ横浜港に近づく帆を張った「宝船」がだんだん大きくなってくる遠近法を取り入れている。当時にしては奇抜な構図であるという。
「宝船」 作・藤野君山
寿海波平らかにして 紅旭鮮やかなり
遙かに看る宝字 錦帆の懸るを
同乗の七福 皆笑いを含む
知る是金銀 珠玉の船
京より118里・460.2km/日本橋より7里・27.3km
「江戸時代には、神社前の海道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった」と書かれている。
残念ながら一里塚跡の石碑などは見当たらなかった。
大綱大神金刀比羅宮鳥居と<7 神奈川一里塚>の一文がある説明板
この橋の周りに「神奈川本陣跡」や「青木本陣跡」がある。
洲崎大神 <神奈川宿> 滝ノ橋(滝の川)
州崎大神の境内裏は、当時海(現在の東京湾・横浜港)が迫っていたとある。
神奈川町本陣跡と青木町本陣跡の案内板
街道の向かい側(右)に「青木本陣跡」・ 滝の川を渡って左角に「神奈川本陣跡」があったと
案内板に書かれている。
この遍照院というお寺の入口に日本橋より6里目の一里塚があったと「東子安一里塚」解説板に書かれている。
京より119里・464.1km/日本橋より6里・23.4km
「6 東子安一里塚」解説板 遍照院山門
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