shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』37

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』 
   東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 37


■8・大磯宿
    相模国・神奈川県>                京より426.7km/ 日本橋より65.4km

大磯宿は、東海道53次8番目の宿場であり、現在の神奈川県大磯町に位置する。


静かな宿場であったようである。箱根越えをする江戸からの旅人は小田原で翌日の朝一番に備え、又 箱根を下ってきた旅人は、その疲れを休め、酒匂川の渡しに備えるために小田原に宿泊したためである。


大磯宿の規模は、戸数676戸で、人口3.056人、本陣3軒、旅籠66軒であった。
 
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歌川広重東海道五十三次・大磯」    雨の大磯宿
 
松並木の道祖神を右に見ながら、JR二宮駅を過ぎて2kmほどで旧街道は国道1号を左斜めに入って行くが、その角に日本橋から17里目の「国府本郷一里塚跡」がある。



17国府本郷一里塚跡   (神奈川県中郡大磯町国府本郷付近) 
          京より108里・421.2km/日本橋より17里・66.3km

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「17 国府本郷一里塚跡」の案内板と標柱
 
国府本郷一里塚跡」よりしっとりと落ち着いた旧街道を東に進むと右側に身代地蔵で有名な「西長院」にでる。旧道はここから国道にもどり、「大磯一里塚跡」のある化粧(けわい)坂までつづく。


途中には、吉田茂旧邸、旧西園寺邸、旧大隈邸、旧山県邸、その先松並木の手前に伊藤博文の旧邸で知られる滄浪閣など明治の名士の邸宅・別荘が並んでいる。


さらに街道を東へ行くと、JR大磯駅付近の街道(国道並走)に小島本陣、尾上本陣、石井本陣と各記念碑が立っている。
尾上本陣跡裏にある「地福寺」境内に、島崎藤村の墓がある。


余談だが、木曽路を歩いたとき、中仙道の馬籠宿にある島崎家の菩提寺である永昌寺にも、やはり島崎藤村の墓があったことを懐かしく思いだした。いろいろ事情があるのであろう。
国道1号と街道が一体となり松並木で東西道が分離されていて解放感にひたれるのがうれしい。

途中、国道1号線の信号交差点「照ケ崎海岸入口」の角地にある同志社創立者新島襄終焉の地」に立寄り、黙祷をささげた。
 
同志社大学創立者 新島襄先生終焉の地>

新島襄同志社創立者である。
新島襄に関する詳細は、この「東海道53次 自転車ぶらぶら旅500km」のブログ序説で取り上げているので割愛させていただく。

黙祷をすませ、先生の漢詩 《 寒梅 》を吟じて辞す。
この漢詩新島襄の真理と良心が詠われている。
 

<寒梅  新島襄作> 

庭上の 一寒梅

笑って風雪を 侵して開く

争わず 又力めず

自ら百花の 魁を占む

 

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新島襄先生終焉之地碑


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終焉之地石碑裏面

新嶋先生永眠五十周年ニ際シ門生建立
昭和十五年稔十月  蘇峰  徳富正敬書
石ハ先生故郷碓水ノ産ニシテ半田善四郎君ノ寄贈ナリ


新島襄先生終焉の地>   (解説案内板より)
明治に先覚的教育者 新島襄は、1843212日(天保14114日)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。
その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて、1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10キリスト教主義教育による人民強化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)1129日京都に同志社英学校を設立した。
その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)123日療養先のここ大磯の地百足屋(むかでや)で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
 
 
 
 
 <東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 38
     ■8大磯宿ー ② につづく