■8・大磯宿
大磯宿は、東海道53次の8番目の宿場であり、現在の神奈川県大磯町に位置する。
静かな宿場であったようである。箱根越えをする江戸からの旅人は小田原で翌日の朝一番に備え、又 箱根を下ってきた旅人は、その疲れを休め、酒匂川の渡しに備えるために小田原に宿泊したためである。
大磯宿の規模は、戸数676戸で、人口3.056人、本陣3軒、旅籠66軒であった。
京より108里・421.2km/日本橋より17里・66.3km
「17 国府本郷一里塚跡」の案内板と標柱
「国府本郷一里塚跡」よりしっとりと落ち着いた旧街道を東に進むと右側に身代地蔵で有名な「西長院」にでる。旧道はここから国道にもどり、「大磯一里塚跡」のある化粧(けわい)坂までつづく。
さらに街道を東へ行くと、JR大磯駅付近の街道(国道並走)に小島本陣、尾上本陣、石井本陣と各記念碑が立っている。
尾上本陣跡裏にある「地福寺」境内に、島崎藤村の墓がある。
国道1号と街道が一体となり松並木で東西道が分離されていて解放感にひたれるのがうれしい。
黙祷をすませ、先生の漢詩 《 寒梅 》を吟じて辞す。
<寒梅 新島襄作>
庭上の 一寒梅
笑って風雪を 侵して開く
争わず 又力めず
自ら百花の 魁を占む
新島襄先生終焉之地碑
終焉之地石碑裏面
新嶋先生永眠五十周年ニ際シ門生建立
昭和十五年稔十月 蘇峰 徳富正敬書
石ハ先生故郷碓水ノ産ニシテ半田善四郎君ノ寄贈ナリ
その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて、1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民強化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋(むかでや)で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。