shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』38

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』 
  東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 38


8大磯宿 

 

新島襄終焉の地」に立寄り、大磯宿にある「和菓子屋・新杵」、蒲焼よし「國よし」、「北問屋場跡」を回ったあと、化粧坂にある日本橋より16里の「大磯一里塚跡」にでた。

 

16化粧坂一里塚跡 (神奈川県中郡大磯町大磯付近)
           京より109里・425.1km/日本橋より16里・62.4km


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16化粧坂
一里塚跡の解説板
 
化粧坂一里塚のあった化粧坂をすすみ、花水橋(花水川)を渡ると日本橋より7番目の宿場「平塚宿」に入る。
 
■7・平塚宿
     相模国・神奈川県> 京より429.6km / 日本橋より62.5km
 
平塚宿は、東海道537番目の宿場であり、現在の神奈川県平塚市に位置する。

平塚宿は北条氏の築城で発展した町で、相模川を利用した物資の集散地や、東海道、中原往還、八王子街道の交通の要所として栄えたとある。


平塚宿の規模は、戸数414戸、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒、人口2038人であった。

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大磯宿の化粧坂をすすみ、花水橋(花水川)を渡ると200mほどで国道1号線と別れ右に入る。
すると左手に平塚宿の「上方見付跡」、「宿西組問屋場跡」、「本陣跡」、「高札場跡」とつづき、その向かい側に「宿東組問屋場跡」、その斜め右に「脇本陣跡」、「平塚見付跡」がある。
さらに相模川にかかる「馬入橋」手前で国道1号と合流し、茅ヶ崎へと東に向かって自転車を走らせる。

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平塚宿問屋場跡                  平塚宿本陣旧跡      相模川にかかる馬入橋を渡る        

相模川(馬入川)にかかる馬入橋を渡ったところに「馬入一里塚跡」の石碑が置かれている。さらに国道1号(旧街道)を東へ進み、「新湘南バイパス」と小出川を渡る。ここから800m先の千ノ川の「鳥井戸橋」でてさらに進むと、JR茅ヶ崎駅前の国道1号の右側に「茅ヶ崎一里塚跡」がある。

 
15馬入一里塚跡      (神奈川県平塚市馬入本町付近) 
          京より110里・429.0km/日本橋より110里・42.9km


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15馬入一里塚跡


14茅ヶ崎一里塚跡     (神奈川県茅ヶ崎市元町)   
                  京より111里 435.9km/日本橋より14里・54.6km

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復元された「茅ヶ崎一里塚跡」              茅ヶ崎一里塚跡」石碑

茅ヶ崎一里塚跡をさらに松並木を走り、東へ進むとJR相模線を横切り、国道(街道並走)を道なりに4km先左手に日本橋より13里の「辻堂一里塚跡」にたどり着く。すでに藤沢宿に入っている。


■6・藤沢宿
    相模国・神奈川県>


藤沢宿は、東海道536番目の宿場であり、神奈川県藤沢市に位置する。

清浄光寺遊行寺)の門前町として栄え、、「大山道」や「江の島道」の分岐点として、「大山詣り」や「江の島詣で」の旅人の拠点となり、さらに一層の賑わいをみせることになったという。


藤沢宿の規模は、戸数919戸、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠70軒以上、人口4089人であった。


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藤沢宿の賑わい

 
日本全国の旧街道を歩いていると「庚申供養塔や庚申塚」が多くみられる。旅人にとって気になる供養塔であるので、すこし案内解説板を見ておく。ここ庚申供養塔に関して藤沢市教育委員会は以下のように解説している。
 

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庚申供養塔

 
<庚申供養塔について>
 
藤沢市指定重要文化財 寛文10年(1670)庚申供養塔」
庚申信仰は十干・十二支の組み合わせによって、60日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。


この源流は「人の胎内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。
江戸時代、万治・寛文(1658-1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。》とある。
わずか100数十年前まで、中国の道教が日本全国の庶民の信仰として浸透していた様子が見て取れる。その庚申塔や庚申塚を旧街道で日常的に見られるということは、その信心から来る庶民の祈りや願いが聴こえてくるようである。
また庚申の教えは仏教や神道にもおおくの影響を与えているという。いまなお現在の日常にも引き継がれているといえる。
当時の旅人には、村の境界や道標として村名や里程が彫られている庚申塔や塚は「街道一里塚」と同じく貴重な道案内であったことがわかる。
すでにみた「庚申供養塔」は、ここ辻堂一里塚跡近くにある。
 
 
13辻堂一里塚跡        (神奈川県藤沢市城南一丁目付近)  
                                 京より112里・436.8km/日本橋より13里・50.7km

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13辻堂一里塚跡

松並木が終わるところに辻堂一里塚跡がある


「辻堂一里塚跡」先150mほどのところ左角に「大山道標識」がある。
大山道入口には、大山不動尊が祭られ、その奥には大鳥居が建っている。
ここより約150mで国道1号と別れ、右へ旧街道に入る。2km先で引地橋(引地川)渡り、藤沢宿に入って行く。
小田急電鉄の陸橋の手前100mほどの右手に「京見付跡」がある。
 
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大山道入口                                         「京見付跡」    藤沢宿 庄屋(二階が土蔵になっている)


「京方見付跡」よりすこし進み、小田急電鉄線を越えて200m先左に「源義経首洗い井戸」、さらに先200m左に「本陣跡」や当時の面影が残る庄屋などが並ぶ。

さきに進むと境川にかかる「遊行寺橋」を左に曲がり、左側に「敵味方供養塔」、「遊行寺」、向かいに「諏訪神社」がある。

左にもどって「小栗判官・照手姫墓」とつづき、「遊行寺坂(道場坂)」に日本橋より12里の「遊行寺一里塚跡」がある。


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藤沢宿 遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡

 
12遊行寺坂一里塚跡        (神奈川県藤沢市西富一丁目)  
                                           京より113 443.8km/日本橋より12里・46.8km

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12遊行寺坂一里塚跡
 
遊行寺坂(道場坂)をのぼって行くと左手土手草むらに 遊行寺一里塚跡がある。
遊行寺坂は道場坂とも呼ばれている。

この遊行寺坂を上りきったところで藤沢バイパス(国道1号)にでて、戸塚宿に向かう。
 
 
 
 
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 39
 ■日本橋より5番目の宿場 ・ 戸塚宿 につづく