■9・小田原宿
《 10日目:2016年5月31日 午前8時00分箱根湯本 温泉旅館「ふるさと」を出発した 》
今日は、京都三条大橋をでて10日目である。
ようやく箱根より東に入った。天気もよさそうである。
箱根登山鉄道の箱根湯本駅を出て東へ旧街道を下っていくと、箱根登山鉄道「風祭駅」近くの街道左手に日本橋から21里の「風祭一里塚跡」がある。そのさき下り坂をすすむみ、JR新幹線、東海道線のガードをくぐると小田原宿にでる。
(神奈川県小田原市風祭付近)
京より104里・405.6km/日本橋より21里・81.9m
21 風祭一里塚跡
<東海道53次の一里塚について>
ここで、案内板をみながら、再度「一里塚」の成り立ちを復習しておきたい。
「東海道風祭の一里塚
ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である
塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)
四方であった。塚には榎(えのき)を植え、旅人の1里ごとの目印にするとともに
夏季における木陰の休憩場所とした。
り、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の
里堠に続けり』とある。」
かつて関八州を統一した後北条氏の城下町として繁栄した小田原は、関東への出入り口として重要な拠点であったとともに、小田原宿は箱根越えする旅人はもちろん、参勤交代の大名も多く宿泊した。
小田原宿の酒匂川の川越えは浮世絵の題材として沢山取り上げられている。
<小田原提灯>
旅人が携帯するのに便利なようにと、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるよう、蛇腹式に作ったのが最初といわれる。小田原発祥の提灯なのでこの名称でよばれている。
小田原宿の歴史と宿場俯瞰図
小田原宿 脇本陣古清水旅館と小田原空襲説明板
小田原宿は日本橋から二日目の宿場で、酒匂川の徒歩渡りや東海道一の難所箱根越えを控えて賑やかな宿場であったと案内板に書かれている。また脇本陣跡前にある案内板「昭和25年の小田原空襲」によると、昭和20年(1945)8月15日関東方面を空襲したB-29一機が小田原に焼夷弾を投下し、大火災が発生多くの死傷者と家屋焼失があったということが記されている。その際、ここ脇本陣跡の旅籠「清水屋」も焼失したとある。
JR新幹線と東海道線のガードの間の右手に「上方口見付跡」(京・西入口)があり、
宿場に入って行くと左に小田原銘菓「ういろう」本家、向かいに「清水彦十郎本陣跡」、同じ右手に「久保田本陣跡」、「小伊勢屋」、「片岡本陣跡」、「清水金左衛門本陣跡」とつづく。そのさき500m東先左に、日本橋から20里の「山王原一里塚跡」がある。
清水彦十郎本陣跡
松原神社付近の街道で地元のご夫婦から梅干しの差入れを頂いた。感激であり、日本人の原点、いや当時の握り弁当に添えられた梅干しを想像。この温かい声援が当時から現在に受け継がれていることをよろこび、感謝した。
江戸時代の昼餉(弁当)もまた、梅干しが添えられていただろうと思うとうれしい。
天は日本人に梅干しという珍味であり、保存食を与えたもうたことをよろこぶ。
御縁はここ松原神社で出会った
差し入れていただいた梅干し
松原神社をでて街道を東へ約1kmのところ左側に「江戸口見付跡」(小田原宿東入口)と日本橋から20里めの「山王原一里塚跡」がある。江戸口見付跡と一里塚跡は同じ場所にあったという。
■20山王原(江戸口見付)一里塚跡 (神奈川県小田原市浜町四丁目)
京より105里・409.5km/日本橋より20里・78.0km
<江戸口見附と一里塚>
見付とは、城の枡形門に授けられた見張り番所であって、武器を用意し昼夜番士がつめて警護に当たる場所であるが、本城よりも外濠城門を示す場合が多い。
小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見付と名付けられた。
また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。(案内板より抜粋)
江戸口見付跡と山王原一里塚跡がある国道1号(旧東海道)を2km東へ走ると、当時の酒匂川の渡し場に出る。 現在は酒匂橋をわたって日本橋より19里の「小八幡一里塚跡」を右に見ながら、なお東へ約4km進むと、日本橋より18里の「押切一里塚跡」をへて大磯宿に入って行く。
浮世絵で有名な酒匂川を渡る
京より106里 416.3km /日本橋より19里・74.1km
19小八幡一里塚跡 の案内板
ここ小八幡一里塚跡をさらに東へすすむと、JR国府津駅を左に見ながら車坂に近づく。
<車坂で詠われた和歌>
車坂
《 鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空 》 太田道灌
戦国兵乱の世の和歌集に、「平安紀行」がある。作者は太田道灌とする説やほかの説もあるが、その前文に「車坂という里にて夕立しきりに降りそえば」とあり、この時に詠んだものである。
《 浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも 》 源 実朝
《 浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 》 北林禅尼
「十六夜日記」は、阿仏尼(北林禅尼)が夫の逝後、先妻の子・為氏と我が子・為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文である。その前文に酒匂に泊まり、あす鎌倉に入るとあり、この時によんだものである。
《 海原に 沈みゆく帆や あす何処 伊豆の島影 陰りて寂し 》 後藤實久
・・・・と、いつの日か解説板に書き足してもらえる時がくるであろうか。(笑)
車坂を越え、東に進み国道1号とわかれ街道は右に上っていく。この坂が押切坂であり、坂入口に
18里目の「押切坂一里塚跡」がある。
「間の宿・梅沢の立て場」の「松屋本陣跡」は、小田原宿の宿場から大磯宿までの歩く距離が長く、その間に設けられた間の宿とある。
押切坂
旧街道は国道1号と別れ、右の押切坂を上っていく。
車坂を越え、東に進み国道1号とわかれ街道は右に上っていく。この坂が押切坂であり、坂入口に「間の宿の松屋本陣跡」がある。「間の宿・梅沢の立て場」は、小田原宿の宿場から大磯宿までの歩く距離が長く、その間に設けられた間の宿とある。
そのさき国道と街道が合流する角に日本橋より18里目のこじんまりと復元された「押切坂一里塚跡」がある。
京より107里 420.2km/日本橋より18里・70.2km
押切一里塚跡は、国道と街道の合流点のわずかなスペースを利用し、一里塚跡石碑・はめこみ案内板・小さいが立派に手入れされた松の木まで植え込まれていた。そこには地元の方々の歴史保存への夢と情熱と江戸時代という時間さえ感じられた。嬉しい限りである。感謝にたえない。
復元されているミニチュア一里塚「18 押切一里塚跡」
ここ押切一里塚跡より相模湾・袖ケ浦を右手に、旧街道(国道1号)を約4キロ進むと日本橋より17里目の「国府本郷一里塚跡」に行き着く。ここから旧街道は、国道からわかれ左へ、約1.5km先でまた国道と街道は一緒になり大磯宿へと入って行く。
道祖神に見守られて
■日本橋より8番目の宿場・大磯宿 につづく
小田原城の雄姿