<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 35
東海道53次を歩いたほとんどの旅人がここ甘酒茶屋で腰をかけ、休息をとったことをおもえば、はたして私は何人目の旅人になるのだろうか、ふと江戸時代にタイムスリップしたような空想の世界に迷い込んだ。
陽は西に傾き、追い込み坂は生い茂る樹木にここ箱根路の東坂もすこし薄暗くなった。甘酒茶屋で一服のあと、「追込み坂」をくだり、箱根新道をまたぎ「西海子坂」にかかる。
その西海子坂にある「間の宿・畑宿」の入口に、日本橋より23里目の「23 畑宿一里塚跡」がある。
「追込坂」(おいこみさか)
箱根路東坂は急な坂がつづく。下り坂であっても、丸太による土止め階段や、砂利道、石畳みの
坂である。江戸時代の旅人の風景を楽しむために、できる限り自転車のブレーキを引きながら歩くことにした。
案外疲れるものである。自転車の重量が坂下へわたしを引っ張り、ブレーキの手に力を入れることになり、右肩の肩こりが激しさを増し、悲鳴を上げた。
案内板によれば、親鸞上人は東国の教化を終えての帰路、4人の弟子と上人が険しい箱根路をのぼってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房に向かい、「弟子打ち連れて上洛した後は、たれが東国の門弟を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み。子弟の悲しい別れをしたと伝えられている。
<間の宿・畑宿>
寄木細工の里として有名な畑宿は、間の宿として賑やかであったという。小田原から急峻な箱根東坂を旅する者が休息し宿泊するに適した位置にあった。ほとんどの旅人が麓の「箱根湯本」に草鞋を脱いだが、ここ畑宿のひなびた山の静けさを好んだ風流人もたくさんいたということである。
「畑宿案内板」には名物蕎麦・鮎塩焼・木地細工があったという。(左)
畑宿「つたや」前から、下ってきた西海子坂を振り返る。 (右)
間の宿・畑宿に残る旅籠屋「つたや」正面
京より102里 400.6km/日本橋より23里・89.7km
復元された一里塚<23畑宿一里塚跡>
旅籠「つたや」をでて、しばらく行くと箱根新道を横切り、箱根路は左へ「大沢坂」を下っていく。
箱根新道と大沢坂(旧街道)の分岐
畑宿より「大沢坂」、「割石坂」を下り、「女転し坂碑」を見ながら街道を下りていくと左側に、日本橋より22里目の「湯本一里塚跡」がある。
割石坂 (割石坂 江戸方入口) 女転し坂碑( 女転し坂江戸方入口)
■22湯本一里塚跡 (神奈川県足柄下郡箱根町湯本茶屋)
京より103里・401.7里/日本橋より22里・85.8km
22 湯本一里塚跡の石碑と案内板
湯本一里塚跡をでて、須雲川をわたり、今夜お世話になる箱根湯本温泉の旅館「ふるさと」にむかった。
9日目の宿泊先 湯本温泉「ふるさと」で箱根越えの疲れと汗をながした.
《 9日目:2016年5月30日 午後3時45分着・箱根宿箱根湯本 温泉旅館「ふるさと」にて宿泊 》
《 9日目所要時間:13時間 走行距離:自転車48km / 徒歩14805歩
4:30am 三島宿「愛鷹神社」をスタートし、3:45pm 箱根宿・湯本温泉旅館「ふるさと」に到着 》
<寝床での独り言>
朝暗いうちに、あいにくの曇り空のもと、駿河湾に面する三島を早朝に出立した。
今朝も富士は姿を見せていなかった。
幻の不二と化した山姿を思い描きながら箱根路についた。
自転車にとって大変だったが、温かみのある昔ながらの石畳みや砂利玉が行く先々でいざなってくれた。
時として階段もある、自転車を押上げたり持ち上げて汗もかいた。
やはり、箱根路は歩きのための天下の剣であるといってよい。
街道としての箱根路は、歩きのよきパートナーとして成り立っているということである。
この旅でも、自転車よりも歩きや走りの旅友や、グループにおおく出逢った。
当然であろうが、東海道53次は歩きの街道であるからである。
街道は歩きの歩速にあわせて、風景も道標も、一里塚跡も、宿場の位置も設定されている。
当然自転車の世界は、歩きの世界の視界や過ぎさる速度も異なる。
今回のテーマのように「一里塚跡」を辿るでは、歩きの世界であり、自転車では無理も生じた。
人生も、目標の設定やルートの選定、立寄りさき、その達成の方法によって異なるのとよく似ている。
箱根路でも、自転車を押し、汗をかき、一服しながらわが人生をふりかっている自分を見つめた。
京都三条大橋をでた最初の日は、東へ向かう歩きの人、走りの人にであってよろこんでいたが、
鈴鹿峠を越える頃には一人旅にかわり、ここ箱根では京方向へ向かう人々とはすっかり出会わなくなった。
自転車だから、京より江戸へすなわち東行きの同好の士を追い越すことになるが、その追い越しのひとがほとんどいなかったのである。
同じ歩きで、同じ方向なら追い越すものの少なさもわかるが・・・と考えながら自転車を走らせることもあった。
当然のことだが、東海道53次は江戸日本橋を起点にして宿場も、一里塚も設定されていることである。
わたしは逆行していることになる。すべてが真逆なのである。
ガイドブックにしても京都三条大橋より日本橋へのものには出会うことがなかった。
もちろん逆走の案内書もあると思うが、書くとしたら日本橋発を選ぶのが人情というものであろう、
なにも不思議ではない。
人間や人生もまた同じに思えてならない。
社会、生活、生き方にも一定の方向性があって、大多数の人は心地よく生きられる方向にむかって、自然と流れるようにそのリズムをきざんで目的地に達し、終えていく。
その逆行は住みにくく、生きにくく、行動しにくいとおもわれ敬遠されるのが世の常である。
しかし、逆行の発想の世界には、これまた当たり前だが未知なる、常識にはない、目に見えない、計りしれないさまざまな世界が行く層にも重なりあい人生や、大宇宙を創っているとおもえばどうであろうか。
新しい発見に、体験に、思想に、生活に、世界観に、宇宙観にその広がりは無限にあるように思えてならない。
逆もまた真なり。
なぜなら、常識の世界は非常識の世界の中のほんの一部分にしか過ぎないからである。
文明に生きるとは、人が創り上げてきた常識の世界に生きるという、
息苦しい、狭い枠内で生きることに他ならないということである。
そういうわたしも文明の中で、常識の中で生きてきた。
しかし、ちょっぴり反抗も試みてみた。
大多数の常識にいつも遭遇し、圧し潰されるのがこれまた常であった。
はたして人間は文明の範囲内で生きるのが幸せなのだろうか。
自分にしか与えられていない宝探しに、また自分だけの生き方探しにチャレンジしてみるのも素敵だと思う。
非常識に生きる挑戦者や異次元者に、こころからエールを贈るものである。
人生は一度である。
挑戦する姿は美しい。
(箱根湯本での寝床で書き記した旅日記・独り言より)
《 10日目:2016年5月31日 午前8時00分箱根湯本 温泉旅館「ふるさと」を出発した 》
体調もいい、箱根を無事越えたという安堵感も気持ちを軽くしているようである。
箱根越えの歩きの遅れを挽回するように、風を切って転がる自転車にしがみついた。
湯本温泉をあとに早川に沿ってくだり、小田原宿にむかう。
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 36