shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』42

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』 
  東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 42

下の本陣だった「田中本陣跡」をでて、街道を東へ約500m行くと多摩川の「新六郷橋」に出会う。江戸時代ここに「六郷の渡し」があった。
当時、この「六郷の渡し」を渡船して日本橋より1番目の宿場である「品川宿」に入っていった。

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六郷の渡し跡  (六郷川・  現在の多摩川

家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に200年の間、渡し船の時代が続いた。
多摩川(六郷川)を渡ると品川宿に入る。
 
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現在の新六郷橋 (この辺りに北側の渡し場があった)
 
4六郷一里塚跡          (東京都大田区東六郷三丁目12  
                                      京より121里・471.9km/日本橋より4里・15.6km
 
六郷一里塚は,源頼朝の命で造営された六郷神社前にあり、脇参道の鳥居からやや南寄りにあった高札場付近にあったという。
当時の六郷川(現在の多摩川)の川岸は現在の堤防より300mほど日本橋寄りにあり、ここ六郷神社はこの六郷川の川岸に面していたと思われる。
 
案内板に次のように説明されている。

両側に並んでいるのは八幡塚村の人家で、脇参道の鳥居からやや南寄りに、日本橋から四里(一五・六キロメートル)の一里塚と、その前に高札場が描かれています。東方はるかに連なるのは房総の山々で、右手には川崎大師の屋根も見え、辺り一面は水田です
と書かれている。

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六郷神社参道と一里塚跡に関する記述のある案内板
 
「六郷一里塚跡」の六郷神社あたりから国道15号(第一京浜)にもどり、約4km走ると日本橋より3里の「大森一里塚跡」と思われる「鈴ヶ森刑場跡」に着く。ここから東海道53次の江戸より1番目の宿場・品川宿に入って行く。


いよいよ最後の宿場である。


大都会であり、大江戸であった街道には現在、おおくの超高速の建物や拡幅された国道が縦横に走り、列車・電車の路線が複雑に入り乱れており、一里塚の跡など探すことも不可能に近い。


その一里塚の位置をほぼ推測し最終里程ゼロの起点・日本橋にむかって軽やかに自転車を走らせた。
でも、ないと覚悟していた一里塚跡(らしき)の痕跡に出会えるのもまた楽しく、うれしい。
 
 


■1・品川宿
   武蔵国・東京都>              京より484.3km/ 日本橋より7.8km


とうとう東海道53次を自転車で走り、最後の品川宿に入った。こんなに体が軽く感じるものなのか、達成感は百名山のそれぞれの頂やカミーノ・デ・サンチャゴ巡礼路でも味わってきたが、この旅は江戸時代の股旅と同じ街道を自転車で走破したという爽快感からくるものである。


日本橋はすぐそこだ。京・三条大橋からの時々の風景をこころに映し出しながら日本橋にむかっている。


品川宿を西(京)から入ってまず出会うのが、京浜急行・「大森海岸駅」を東へ約200m先左にある大経寺内にある「鈴ヶ森刑場跡」と日本橋から3里の「大森一里塚跡」である。
 
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鈴ヶ森刑場遺跡                                鈴ヶ森遺跡の案内板

<鈴ヶ森遺跡>
「鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安4年(1651)に開設された御仕置場の後である。大井村鈴ヶ森の形状は、東海道に面し、規模は元禄8年(1695)実施の検地では間口40間、奥行き9間であったとされる。大経寺はお仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられたてらである。


この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八八百屋お七白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされる。江戸の刑制史上重要な遺跡である」
と東京都教育委員会は解説している。


磔台(はりつけだい)や火炙台(ひあぶりだい)という処刑具もそのまま残っている。
ここ鈴ヶ森に処刑されていった霊魂が生き続けているようでもある。
ひとは皆、霊に生きる。拝礼して鈴ヶ森をあとにして、大森一里塚跡探しにでかけた。
 
 
3大森一里塚跡      (東京都大田区大森東一丁目付近)  
           京より122里・475.8km/日本橋より3里・11.7km


梅屋敷公園・山本家には,日本橋より3里18丁の石碑が立つ。(山本屋の所在里程のように思える)
その里程標は東京都大田区大森東2丁目3にあったという説もある。
案内板の最上部には「ここに一里塚があった様子はない」と書かれている。(写真左)
 
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3 大森一里塚跡をしめす立札                             大田区の資料による里程標(復元)案内板

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日本橋より三里十八丁の石碑
(山本屋の位置表示か)

「里程標(復元)  昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑があった。その高さは1メートルほどでその表面には、日本橋三里十八丁  津田村 山本屋   と記されていたと伝えられている。」
(写真上右・一部抜粋)
 
大森一里塚跡探しに時間をかけ過ぎたので、さきを急ぐことにする。
第一京浜(国道15号)にもどり、東へ向かうと京浜急行青物横丁駅付近にある泊舩寺の境内に芭蕉句碑がある。


<泊舩寺の境内に芭蕉句碑あり>


《 旅人と わが名呼ばれん 初時雨 》  芭蕉


《 いかめしき 音やあられの 桧笠  》 芭蕉 


江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵(泊船堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。

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泊舩寺山門横にある芭蕉句碑     はせお翁の句碑

旧街道である京浜15号の左手には品川寺、常行寺、目黒川を越えると左に在原神社、100m先右に「本陣跡」がある。現在、本陣跡は聖蹟公園となっている。公園入口に本陣跡石碑と解説板が立っている。
 
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品川宿・本陣跡石碑                                    本陣跡の解説板

「江戸時代の本陣は宿場での大名や旗本などが休息や宿泊するところで品川宿にははじめ南北品川宿に一軒づつあったが、江戸中期には北品川宿のみとなった。大名などが宿泊すると本陣には大名の名のはいった関札を立て、紋のはいった幕をめぐらした。


明治維新後、京都から江戸へ向かう明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところである。」
と解説されている。


本陣跡をでて街道をすすむと、左に法禅寺、善福寺、右に土蔵相模跡、問答河岸跡をへて品川駅のガード下をくぐり駅前にでる。この品川駅近くの国道15号に架かる陸橋「八ツ山橋」手前の法禅寺前にある品海公園に、日本橋より2里目の「品川八ツ山一里塚跡」があるはずである。


 
2 品川八ツ山一里塚跡       (東京都品川区北品川一丁目付近)  
                                                 京より123里・479.7km/日本橋より2里・7.8km

品川八ツ山一里塚跡は、法禅寺前の品海公園の入口に、日本橋より二里の碑が立つ。
 
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品海公園にある「日本橋より二里」石柱
 
品海公園は、北品川商店街の一角にあり、旧東海道品川宿の中ほどに残る小さな公園である。品海公園の入口には、「日本橋から二里」の道標と街道松「品川宿の松」がある。
一里塚跡から約300m先の京浜急行の踏切ををこえて品川駅前へ、さらに1kmほど先を左に曲がり「泉岳寺」に立寄る。

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都会の中の踏切、「北品川踏切」で京浜急行に出会う     「屋つやまはし」(八つ山橋)跡
 
品川駅のレストラン街では、夢にまで見た自転車での東海道53次完走を、ラーメン「激辛ラーメン日本・蒙古タンメン」でささやかに祝った。
 
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品川駅のレストラン街で「激辛ラーメン日本・蒙古タンメン」を注文し、ささやかな完走祝い

また、品川駅前には、「明治五年五月七日 品川横浜間鉄道開通」記念石碑が立つ。
江戸時代から現代に移る歴史の転換を見る思いである。 武家政治の丁髷(ちょんまげ)の時代の終焉からわずか5年での文明開化への汽笛が聞こえて来るようではないか。
江戸の人々の顔に挑戦への自信とやる気を見る思いである。
開国、それは日本史のターニングポイントであったと言っても過言ではない。
 
<品川横浜間鉄道開通記念石碑>

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品川横浜間鉄道開通記念石碑(正面)                      記念石碑(裏面)

明治5年(1872年)6月12日に品川-横濱間が先行開業した。裏には時刻表と料金表が書かれている。
当時、上り下りは各2本であり、乗車時間は35分であったとある。
列車には、上等(一等車)1円50銭、中等(二等車)1円、下等(三等車)50銭の三等級があったという。
品川駅をあとにして、最終目的地・日本橋に向かう。



 
 
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 43
    ■東海道53次の起点・0日本橋 につづく