▲ 東海道53次 自転車ぶらぶら旅 第6日目 2016年5月28日 金谷宿露営地、
午後5時30分に到着し、金谷宿 ・大井川西岸・川越し場近くの金谷東公園にて露営
金谷宿露営地ー金谷東公園
《7日目:2016年5月29日 午前5時 金谷宿露営地-大井川西岸を出発》
大井川を渡り、島田宿に入る
今日一日の安全無事を祈りながら、朝日に向かって大井川を渡り、島田宿に入る。
■23・島田宿
島田宿 は、東海道53次の23番目の宿場である。 現在の静岡県島田市にあたる。大井川の左岸(東側)にあるため、増水で大井川の川越しが禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされてにぎわい、大混雑となったそうだ。
長雨による増水によって川止めされた旅人は、滞在費や遊興費の出費で財布を空にすることもめずらしくなかったそうである。所持金を使い果たしたり、旅籠が満員になって追いだされた旅人のために隣家を借りたともあるからその繁盛、混雑が見えるようである。
島田宿の規模は、住民総数は6727人であり、本陣3、旅籠 48とある。
< 箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ 大井川 >
と詠われた、東海道の難所の一つとして有名である。
自転車のわたしは大井川橋をわたり対岸の島田宿にある大井川東・島田宿川越場跡に向かう。朝日がまぶしい。島田宿に宿泊した川越しの旅人も蓮台に乗せられたり、人足の肩車でこの大井川を朝日を背に、金谷宿にむかっている姿が見えてくるようだ。
大井川東・島田宿 「川越場跡之図」
<川越制度と川会所>
江戸時代の初期に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が行われた。しかし、大きな河川には橋がほとんどかけられず、旅人は船か徒歩で渡るほかなかった。特に大井川は渡船も禁止され、流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であったため、両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れた。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄9年(1696)に川越制度ができた。その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれた。
川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれ、その日その日の水深を計り川越賃銭を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや、諸荷物の配分など日々の運営をはかる仕事が行われた。
川越しは明治維新まで続けられていたが、明治3年(1870)に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止された。
国道1号を大井川橋をわたり堤防上の道を南へ走ると大井川川越広場にでる。ここから川越しが金谷宿に向かってスタートした。川を背に堤防を渡ると右に「朝顔の松」、左に島田宿の標識がある。そして川会所はじめ大井川川越遺跡が広がる。
大井川堤防の右に朝顔の松 左に島田宿の標識
当時、橋のなかった(というより幕府の命で架けさせなかった)大井川には川越人足がここ島田と対岸の金谷側にそれぞれ、幕末時で650人待機していた。旅人は人足による蓮台や肩車に乗って大井川を越していた。川越し場遺跡には復元された家屋が公開されているようだ。今回は朝、早すぎて見学はかなわなかった。
川会所はじめ大井川川越遺跡が広がる 川会所前の広場に芭蕉句碑
< 馬方は>
< 馬方は しらじ時雨の 大井川> はせお
では、いったい川越しの川札の値段はいくらだったのだろうか見てみよう。例えば、脇までの水深で94文(約2820円)、股水深で48文(約1410円)であった。案外、渡川通行料が高いのには驚く。東海道は大河がおおく、多額の川越し代がかかっていたことがわかる。旅人の懐具合がわかるようでもある。旅は一般庶民には高根の花であったともいえる。
川越遺跡より東へ1キロ、往時をしのばせる家並みがつづき、やがて大善寺がある。大善寺より東へ400m進むと大井神社があり、大祭の前年の8月16日に水難の川越人足や亡くなった旅人の供養がおこなわれるという。
< 宿かりて 名を名乗らする しぐれ哉 > 芭蕉
この芭蕉句碑より東へ500mほど行くと島田一里塚跡石碑がある。そのさきで国道1号と合流し約3km行くと旧街道は国道を離れ右へ入って行く。入って約200mほどの右手に上青島一里塚跡石碑がある。
京より73里・ 286.7km/ 日本橋より 52里・202.8km
52・島田一里塚跡石碑
京より74里・ 288.6km/日本橋より51里・198.9km
51・上青島一里塚跡石碑
上青島一里塚跡石碑あたりから始まる松並木をすすみ、JR東海道線と離れ北へ向かうと瀬戸川にかかる勝草橋をわたって藤枝宿に入って行く。
■22 藤枝宿
上青島一里塚跡石碑あたりから始まる松並木の旧街道をすすむと、瀬戸川に達する。
瀬戸川の勝草橋の手前両側、左に志太一里塚跡、右に田沼街道起点がある。
松並木を走り藤枝宿へ向かう 瀬戸川にかかる勝草橋をわたり藤枝宿に入る
藤枝宿は、東海道五十三次の22番目の宿場である。商業地としても栄えたという。
近くを流れる瀬戸川は乾期には仮橋が架けられ、通常の水量の時は歩行渡しを利用した。川会所跡があり、川越しの名残がみてとれる。藤枝宿は、歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城を仰ぐ本多家4万石の田中藩の城下町でもあり、また塩の産地であった田沼意次の所領相良に通じる田沼街道や、高根白山神社への参道高根街道・瀬戸谷街道などの交通の要衝として、また商業地としても栄えたとある。
<田沼街道起点>
西木戸近くの正定寺の「本願の松」、右にある大慶寺にある日蓮が植えた黒松を観賞しながら街道を東進する。
藤枝宿は、総戸数1061軒、人口4425人と県下の宿場の中でも有数の規模を誇っており、2軒の本陣(武士や公家用が宿泊・休憩所)、2ヶ所の問屋場、47軒の旅籠に加え、旅人や近在の人々を相手にした商店、刀鍛冶など武士相手の店などが軒を並べ宿場町として大層な賑わいをみせていた。また、両木戸と田中城の入口大手口には番所が設けられ、番所には城の役人が詰めて宿場の警備に当たっていたとある。
藤枝宿にある白子町は、天正10年(1582)の本能寺の変の際、駿河へ逃げる途中の徳川家康を助けた伊勢白子の小川孫三がその恩功から当地に住むことを許され、新白子と名付けて地子・諸役御免の朱印状を賜わったことに由来しているという。自然石の白子由来記碑がある。
家康を助けた者に対して、恩に報いた逸話や伝説の地が東海道にはおおく隠されていて興味を引く。
50・志太一里塚跡
藤枝宿は、伝統を伝える工場や店が街道沿いにならんでおり、往時の宿場のにぎわいをみる思いである。今でも残る花火工場、だるま屋、タンス屋、染物屋、お茶問屋、椎茸問屋などが商いを続けている。
藤枝宿の秋葉常夜灯
たぶん見過ごしたのだろう、見つからず。
<復習・東海道の宿駅制度>
近世の宿場の整備は徳川家康によって始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていった。関ヶ原の合戦で大勝した家康は、各宿駅に馬を設置し、江戸から馬を乗り継いで遠隔の地へも往復できる仕組みを作り、全国を掌握した。東海道では、1601年(慶長6年)に品川から大津迄を53駅と定めた。その53の宿場を指して東海道五十三次という。
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 25
■21岡部宿につづく