shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』28

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』

  東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 28

 
■16・由比宿
 
JR興津駅を東へ1kmほと進むと興津川を渡る。新興津橋を渡り、まっすぐに行くと国道1号にでてしまう。旧街道は橋を渡ったらすぐ左に曲がり、JR東海道の踏切を渡り、約300mで右ななめに、瑞泉寺を巻きながら薩埵峠を越えて東に進むと左手に、日本橋より40里の「西倉沢一里塚跡」にでる。


■40西倉沢一里塚      静岡県静岡市清水区由比西倉澤)   

                  京より85里・331.5km/日本橋より40里・156.0km


イメージ 1

40・西倉沢一里塚 跡

 

さらに、右手の茶屋・藤屋の離れ座敷から見る富士山の眺望が見事であったため「望嶽亭」と呼ばれる茶屋跡を見ながら自転車を走らせる。しかし悲しいかな、雨水が目にはいりそれどころではない。


西倉沢一里塚跡より右手にJR東海道本線、東名高速をを越えて駿河湾を一望にしながら由比駅をすぎ、由比川に達する。橋を渡ったら右に「由比正雪生家」、その向かいに「本陣跡」があり、その先の左側に「お七里役所跡」がある。

イメージ 2 イメージ 3
由比正雪の生家である正雪紺屋(染屋)              由比宿本陣


 

由比正雪の生家 ・ 正雪紺屋(染物屋)>


由比町教育委員会の解説板によれば、


「表に蔀戸(しとみど)を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くと言われ、屋内には土間に埋められた藍瓶などの染物用具や、天井に吊られた用心駕籠は家事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋(染物屋)の様子を偲ぶことが出来る。」とある。


慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれるところから正雪紺屋の屋号がつけられている。



由井 正雪(ゆい しょうせつ)、慶長10年(1605年) - 慶安4726日(1651910日))は、江戸時代前期の日本の軍学者慶安の変由井正雪の乱)の首謀者である。


慶安4年(1651年)、江戸幕府3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など各地で浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。首塚静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。


大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとなったといわれている。


 
国道、東名をはさんで、駿河湾に面して雨に煙る由比港があった。

イメージ 4
途中、由比港で雨宿り、体が冷えてきた
 
 
由比宿を東へはしると「由比宿東枡形跡」(江戸側桝形)がある。

 <由比宿東枡形跡>

宿場の出入口は桝型(かぎの手)に折れ曲がり、木戸(柵戸・門)が作られ、万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに、宿の出入口の道標にもなっていた。ここを通り過ぎると街並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていた。

由比宿も東西の出入口は桝形に折れており、現在も面影が残されている。(清水区魅力づくり事業)

イメージ 5
由比宿東枡形跡

 

また、お七里役所跡より100mほどさき同じく左に、日本橋より39里の「由比一里塚跡」がある。

 

39由比一里塚跡       静岡県静岡市清水区由比付近)    
                                      京より86里・335.4km/日本橋より39里・152.1km

イメージ 6

39・由比一里塚跡

 
ひっそりと電柱に隠れている「由比一里塚跡」石柱。
どうしても自転車にのり、雨が降っていると小さな一里塚跡の石碑は見落として先に進んでしまうことになる。このときも慌てて気づき戻って探し当てた。当時の一里塚跡を現代に探し当てるには、やはり徒歩旅行、歩きが一番のおすすめである。

 

由比一里塚跡をすすみ、東名高速の高架をくぐると、JR蒲原駅を右にみながら蒲原宿に入って行く。

 

 

 

 ■15・蒲原宿
   駿河宿・静岡県               京より341.5km / 日本橋から150.6km

 

雨のなか、JR蒲原駅を過ぎると約2kmで桝型があり、「西木戸口」(京側入口)にでる。

 

旧街道は、ここ枡型を左折し、つぎの角を右に入って行く。曲がって200m右に「本陣跡」、その先に広重「夜の雪」碑が立つ。その300mのところ左側に「東木戸跡」と「常夜灯」があり、右に日本橋より38里の「蒲原一里塚跡」がある。

 

38・蒲原一里塚跡       静岡県静岡市清水区蒲原一丁目)  
                                      京より87里・339.3km/日本橋より38里・148.2km

 イメージ 7
38・蒲原一里塚跡
 
赤鳥居の前に蒲原一里塚跡がある


そのあと国道1号の右側にある「義経硯の水の碑」に立寄り、旧街道にもどって東名高速をくぐって「間の宿・岩淵」にでる。
蒲原宿(かんばらしゅく)は、東海道53次15番目の宿場であり、現在の静岡県静岡市清水区に位置する。
宿規模は、戸数509軒、人口は2480人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠45軒で栄えた宿場であった。
蒲原宿は、広重が東海道53次の浮世絵シリーズなかで唯一雪の風景「蒲原夜之雪」を、しかも夜を印象的に描いていることで有名な宿場である。

イメージ 10
歌川広重東海道五十三次・蒲原宿』 夜の雪

イメージ 8 イメージ 9
蒲原宿入口案内標識 「西木戸」を左に曲がる               「西木戸・茄子屋の辻」案内板

国道にある「義経硯の水の碑」に立寄るまえに、雨で冷え切った体を温めるため、現代の茶屋であるコンビニでお茶と団子の代わりに、インスタント・ブタキムチに熱湯をかけ体に流し込む。辛子と熱湯で体が温かくよみがえってくるではないか。エネルギー補給としては、出来立ての熱々のコロッケを3個もたいらげる。
 
イメージ 11 イメージ 12
現代の茶屋・コンビニエンスストアで腹ごしらえ      国道にある古跡「源義経硯水」石碑に立寄る

「間の宿・岩淵」には、日本橋より37里の「岩淵一里塚跡」がある。そして、まもなく富士川である。



 37・岩淵一里塚跡       静岡県富士市富士川町岩淵付近)  
            京より88里・343.2km/日本橋より37里・144.3km

イメージ 13
復元された「37・岩淵一里塚跡」


富士川の京寄り川越し場は富士川橋より100mほど川上にある。目印は常夜灯である。

イメージ 14
雨降る富士川橋を渡る

富士川橋より増水した富士川をみる。残念ながら、富士山は雨雲に隠れていた。

姿を隠した不二のお山も、また良し。

こころに描く不二は広重の浮世絵富士に優る(まさる)。


イメージ 15
歌川広重の浮世絵富士三体国立国会図書館デジタル化資料より)


 富士山麓に隠棲する友を訪ねたときを懐かしく思いだした。

イメージ 16

岩淵一里塚跡から約500mすすむと富士川橋をわたって日本橋から14番目の宿場である「吉原宿」に入って行く。




 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 29
    ■日本橋より14番目の宿場・「吉原宿」へつづく