■14・吉原宿
いまだ雨降りやまず、カッパのなかまでも湿ってきた。
天気であれば、ここ富士川から富士山が優雅な姿を見せていることであろう。ただ裾野の一部がその雄大さをイメージさせてくれる。
マンホールの蓋に雨煙に霞む幻の富士山のシルエットが描かれていた。
富士川橋の欄干に冨士山が・・・ マンホールの蓋にも富士山が・・・・
(左冨士はこの区間だけでみられる)
<日本橋から「37里目の一里塚跡」が消滅した理由の一つ>
「吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原)。しかし1680年(延宝8年)8月6日の津波により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となった。」(wikipedia)
「左富士」石碑
と述べているように、旧東海道は当初、海側にあったことがわかる。数度の津波により内陸部に宿場街を移し、街道を移設したとある。これにより街道は約4km、すなわち1里の短縮となったのであろうか。探し回った『消失した37里目の一里塚』は現在の海寄り国道1号付近のどこかにあったと推測できる。
いやもっとミステリックなストーリがあるかもしれない。またぜひ教えていただきたい。
ロマンに満ちた「消失した37里目の一里塚」は、あとにつづく東海道53次一里塚跡ハンター達に推理サスペンスのミステリーを背負わせ続けるに違いない。
ぜひ推理してみてほしい。あなたはすでにミステリー・ライターである。
■36里・一里塚跡なし 京より89里・347.1km/日本橋より36里・140.4km
日本橋より36里の一里塚跡の存在そのものが疑わしい。ずいぶんと検討し、探索したが見つからない、住民からの情報も得られなかった。
たとえば、「37里・岩淵一里塚跡」と「35里・本市場一里塚跡」のあいだにあるとすればどうしても計算上あわないのである。
すなわち1里である約4kmが消えてなくなったことになる。 いや、里程を数え間違えたことになる。
「36里・一里塚跡」は一体どこへ消えてしまったのだろうか。
たぶん富士川の氾濫で、旧街道のルートを付け替えたのであろうか。
その理由の一つについては、先に見たとおりである。 度重なる津波による宿場の壊滅、消滅による移設にあった。
しかし、いまだ欠番である。
すでにかかるミステリーについての所見を先述しているので参照願いたい。
36里目の一里塚跡の欠番というミステリーを考えながら旧街道を東に自転車を走らせて、JR身延線「柚の木駅」過ぎて2kmほど行くと、日本橋から35里目の「本市場一里塚跡」にであう。
京より90里・353.5km/日本橋より35里・136.5km
この信号を斜めに横断して街道は吉原宿へ向かう。
交差点の角の花壇の中にある「35・本市場一里塚跡」 一里塚跡の石碑<本市場一里>
「本市場一里塚跡」をでて、旧街道を東へ1.2km程行くと潤井川にかかる「安富橋」を渡る。
旧街道の複雑な角を曲がって行くと岳南鉄道「吉原本町駅」北側の踏切を渡って「平家越えの碑」にでる。
平家越えの碑
<平家越えの碑>
「治承4年(1180)、<富士川の戦>で平家軍の陣があったところである。歴史、逸話的にも有名な源氏の迂回作戦で「飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立って敗走した」という話を思い出していた。
「平家越えの碑」からJR吉原駅に向かう右側に「左富士の碑」、1本の大きな松の木、「左富士神社」がある。
当時、東海道を東から西に行くときは、富士山はいつも右手に見えるが、ここは右手に見えるので、「左富士」と呼ばれた。歌川広重の描いた浮世絵「吉原左富士」は有名である。
(上記、浮世絵「吉原左富士」参照)
左富士神社近くの依田橋町に日本橋より34里目の「依田橋村一里塚跡」がある。
京より91里354.9km/日本橋より34里・132.6km
34・依田橋村一里塚跡 依田橋村一里塚の変遷と歴史の案内板
河合橋をわたり原宿へ入って行く
■ 日本橋より13番目・原宿 につづく