星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 27
■18・江尻宿
昼の休憩を利用して、汗を流すため府中宿草薙にある「あおい温泉・草薙の湯」につかったあと、タオルで汗を拭きながら涼しい風に体を自転車にまかせ、東へペダルを踏みだした。
草薙一里塚跡をすぎ、街道をすすむと静岡鉄道とJR東海道線を越える、右手に清水の治郎長の子分・森の石松を殺害した男・都田吉兵衛(仇として清水一家に討たれた)の供養塔がある。江尻宿は清水治郎長親分の縄張りなのだ。
江尻宿は永禄十二年(1569)、武将・武田信玄が進出し、江尻城を築いたことから、城下町が形成され、職人の町として発展したとある。
宿場の規模は、戸数1240戸、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒、人口6498人という規模で、駿河では大きな宿場であった。
巴川河口を利用した清水港には、駿府町奉行支配のお蔵が18棟もあり、江戸へ物資を運ぶ重要な港として活気に満ちていた。幕府の認可を受けた廻船問屋が、江戸と大阪を結ぶルートを確立し海運が盛んであったとある。
そのさき右手に、名物「追分ようかん」の老舗とその前に立派な石柱の追分道標がある。「是より志三づ道」とあり、「東海道」と「久能道」との追分にあたる。ここが江尻宿方面と久能山・清水港への分岐点であった。
名物である竹皮のままむした蒸し羊羹である「追分ようかん」は、旅人に親しまれ、徳川慶喜(15代将軍)や清水港に住んでいた清水次郎長も好んだ羊羹(ようかん)であるという。
老舗「追分羊羹」 と 左手に「追分道標」がある
<追分ようかん>
羊羹は大好物である。食べ過ぎて胃酸に苦しむこともしばしばだが、この追分羊羹はもっちり、あっさりした甘みがいい。また蒸しからくる竹の香りがいい。
江戸時代のはじめごろ、ある商人が箱根越えの山中で旅の途次、病に苦しんでいた中国・民のお坊さんに出会い心を尽くし介抱したところ、病が癒えた僧は深く感謝し、小豆のあつもの作りの秘法を伝授して旅発って行ったという。それが現在まで伝えられている東海道300年の味「追分羊羹」である。
竹皮一枚一枚を手洗いし、真心をこめて、餡を竹皮で包んだ羊かんを竹皮ひもでむすび、蒸しあげて昔ながらの味を守り続けているそうだ。
街道をしばらく東へ行くと巴川手前左側に見える森が江尻城あとであり、本丸跡に江尻小学校が建っている。
巴川にかかる稚児橋の四隅には河童の像がある。橋ができ渡り初めのとき、川の中からお河童頭の稚児があらわれて府中方面に消えたところから命名されたとある。なにかユーモアを感じる逸話である。東へ自転車をすすめる。
稚児橋の河童君
いまは本陣、脇本陣、旅籠はすべて焼失しているが、当時の旅籠は商店に代り賑わっている清水銀座をぬけていく。再建して営業しているのは、「大ひさし屋」一軒だけである。
江尻宿の当時の面影を残す建物
JR東海道「清水駅」付近の街道の右手(東側)に日本橋より42里目の「江尻一里塚跡」の案内板がある。案内には「辻の一里塚」と表示されている。
京より83里・323.7km / 日本橋より41里・163.8km
42・江尻一里塚跡(辻の一里塚) 案内板のみ
この辺りは清水港である。わたしたちは清水治郎長親分の任侠にこころおどろされた少年であった。
<清水治郎長>
少年時代、床屋の外、窓越しから弁当箱のようなテレビに流れる任侠映画を食い入るように見たものである。そのなかに清水治郎長とその子分である大政、小政、森の石松など清水28人衆という屈強な子分たちが悪党とたたかう姿に手に汗して食入ってみていた、あの頃が懐かしい。
清水次郎長は文政3年(1820)~明治26年(1893年)に生きた幕末・明治の侠客であり、浪曲、映画、講談などで人気を配した日本の民衆のヒーローの一人である。
そうそう、少年時代のもう一人のヒーローに力道山もいたっけ、あれこれ少年時代を思い出しながら、東海道の風を自転車にうけ、ここ清水の港を駆け抜けた。
さらに東へ向かうと、徳川秀忠の命で植えられたという1000本の松並木「細井の松原」は第二次世界大戦で伐採され、松根油(ガソリン代用)として拠出したようである。いまは1本しか残っていなかった。
江尻宿 細井の松原
松並木「細井の松原」より興津宿をぬける旧東海道は、旧国道1号とほぼ重なって東へむかう。
ここ江尻宿には、すこし清水港より南に下ったところに、広重も浮世絵のモチーフにした「三保の松原」がある。
約7kmに渡る海岸線におよそ5万4千本の松が茂る景勝地であり、波打ち際から望む富士山は絶景で、古くから日本を代表する名勝に選ばれている。天女伝説「天の羽衣」の舞台となった樹齢650年を数える「羽衣の松」は有名である。
この自転車の旅で、ここ三保の松原で露営し、「羽衣の松」と富士山のコラボなる絶景を期待したが、ユネスコの世界文化遺産に登録されていることに気付き断念した。
今夜の露営地を求めて、興津宿めざして自転車を進めることにした。
■17・興津宿
江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、避寒地として全国的にも知られていた。
身延道との分岐であり、古代から交通の要衝として発達した。
昔から清見寺の麓にある、清見関は東国(坂東)への軍事への備えや交通の役割を果す要所であった。
宿場の規模は、戸数は316戸、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人口1668人であり、中規模の宿場であった。東へ向かう旅人にとっては、峠の難所を超え由比宿に至るために旅装を整える宿場であった。
興津からは身延、甲府へ通ずる甲州往還(身延街道)が分岐し、交通の要衝であり、参詣の道、塩の道としての役割を果たしていたという。
江尻宿の細井の松原跡を東へすすむと、庵原川(いはらかわ)を渡る。左手に一本松を見ながらさらに進み、JR東海道線をわたり黄砂の集落にはいる。なお、国道1号(静清バイパス)をくぐって東へすすむと右手に「坐漁荘」、左に階段をのぼると「清見寺」である。
その後、坐漁荘跡(ざぎょうそう)、清見寺をでて東へ進むと、街道の左に興津宿西本陣跡、右に脇陣水口屋跡、左に興津宿東本陣跡とつづき、JR興津駅付近の街道の左手に日本橋より41里の「興津一里塚跡」に着く。
<興津坐漁荘>
右手駿河湾側に元老西園寺公望(きんもち)の別荘坐漁荘(ざぎょそう)がある。大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議に日本の全権として出席中にこの別荘を建て、帰国後引退し、ここに移り住んだという。
又、近くに明治の元勲井上馨の別荘もあり、政財界の要人がこの地を良く訪問したので、これを「興津詣で」と当時の人は言っていたようだ。その要人達が、良く泊まったのが前述の水口屋であったといわれる。
興津宿 坐漁荘
清見寺入口階段 西本陣跡 < 興津宿> 脇本陣跡(水口屋跡)
京より84里・327.6km/日本橋より41里・159.9km
41・興津一里塚跡
7日目(2016年5月29日)露営地、JR]興津駅裏の旅館「寿荘」の駐車場に到着し、テント設営の許可を受けて露営する。
興津宿・旅館「寿荘」駐車場にて露営
「寿荘」 静岡市清水区興津本町272-2 (興津駅から徒歩5分・現在休業中)
《7日目:2016年5月29日 午後6時 興津宿旅館「寿荘」の駐車場にて露営》
《7日目所要時間:13時間 走行距離:自転車59km/歩き6726歩
5:00am 島田宿スタートし、6:00pm 興津宿に到着 》
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《8日目:2016年5月30日 午前5時 島田宿露営地-「寿荘」駐車場を出発》
■16・由比宿
興津宿のJR興津駅から5分の露営地・旅館「寿荘」の駐車場で大雨のなか目をさました。
この露営地には雨宿りをする東屋(あづまや)もなく、雨の中の撤収となった。
前日の設営の時から撤収時の雨を予想(最小の就寝準備・防水対策)をしておいたので、スムーズに事が運び、撤収開始から15分後にはJR興津駅の駅舎に避難していた。
その後も一段と雨の勢いが増したが、1時間後には雨の中を東にむかって、カッパ姿で自転車をこぎだしていた。
由比宿(ゆいしゅくく)は、東海道53次の16番目の宿場であり、現在の静岡県静岡市清水区に位置する。本陣跡は整備され、由比本陣公園となっている。
由比宿の規模は、戸数106戸、人口713人、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場2、旅篭屋32軒であった。
歌川広重 『東海道53次 油比宿』薩埵嶺
このあたりは、昔も山と海の隘路に旧街道が作られていた難所の一つであった。
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 28
■16由井宿ー ② につづく