shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』17

 

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』
 東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 17


■33・二川宿  
三河国・愛知>   京より210.9km / 日本橋より281.2km
 
東海道53次の日本橋より33番目の二川宿(ふたがわしゅく)は三河国東端の宿場である。江戸時代は総戸数328軒の小さな宿場で、これといった産業もなく人々は田畑に従事していた。「歌川広重東海道53次・二川」の浮世絵をみても当時の二川宿の田園風景が描かれているだけで、いまでもキャベツ畑が続いている。

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歌川広重東海道53次・二川>                             二川宿 宿場案内板
 
吉田宿より進んでくると火打坂をすぎ、JR東海道本線・二川駅前を300mほど進むと二川宿中心に出る。道幅が急に狭くなるところに、郷蔵跡(年貢米を収納する為に各郷・村に設けられた蔵の事)、立場跡(幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所)がある。


街もこの江戸時代の遺産を大切に保存し、観光の資源として積極的に活用されている。商家・駒屋の遺構も正確に復元され、当時の商家の営みを見学できるよう便宜が図られていた。歴史を後世に残し、伝えようと努力されておられる姿勢やスタッフのみなさんの熱意にエールを贈りたい。
 

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二川宿  連子格子の商家                                    仲原屋前の高札場跡石碑



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二川宿本陣跡                                                     商家・駒屋の遺構

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駒屋の帳場                                                     風情のある本陣と駒屋の間の路地
 
 


立場跡に隣接して本陣跡(大名らの宿泊施設)がある。堂々とした門や母屋、玄関棟の立派な家屋、裏庭などの遺構から往時をうかがい知れる。つづいて歴史的に興味深い駒屋という商家の跡や枡形が残っている。


その先を左へまがり、100mほど行くと芭蕉句碑・紫陽花塚のある妙泉寺がある。


               《 阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷 》  芭蕉

薮が繁るなか、紫陽花(あじさい)がはにかんだようにその小さな体をちぢめている。まるで旅立ちのわたしを見送ってくれているようだ、とでも詠んでいるのであろうか。雨を待つ紫陽花、寂しげに見送る笹たち、わびさびのあるお寺の小庭・・・・わたしの好きな句である。


 

『別座敷 序』には、
「翁近く旅行思ひたち給へば、別屋に伴ひ、春は帰庵の事を打ちなげき、さて俳諧を尋ねけるに、翁『今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり。』と侍る。いづれも感じ入りて、及ばずも此の流れを慕ふ折ふし、庭の夏草に発句を乞ふて、咄ながら歌仙終りぬ。」と書かれている。 
 
 
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                妙泉寺の境内に芭蕉の句碑がある
 
■72・二川一里塚跡       (愛知県豊橋市二川町字東町付近)   
                                      京より53里・207km/日本橋より72里・281km
 
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72・二川一里塚跡  
 
妙泉寺をでて日本橋より72里目の「二川一里塚跡」を横目に、JR東海道線と新幹線をくぐり国道1号線をすすんで白須賀宿へむかう。
 


■32 白須賀宿
遠江国・静岡>       京より216.6km / 日本橋より275.5km

 
 
白須賀宿しらすかしゅく)は、東海道5332番目の宿場であり、現在の静岡県湖西市白須賀に位置する。遠江国最西端の宿場である。東海道本線や国道1号線からそれた街道沿いにひっそりとその面影を残している。元は潮見坂下にあった宿が、宝永の大地震による津波で壊滅、宿は潮見坂上の現在の場所に移された。

二川宿より川を越え、つぎの白須賀宿にはいる。
三河国遠江国の境を流れる「境川」を渡る。


その手前の国道1号線の左がわ(北東)に「一里山(細谷)一里塚跡」がある。旧東海道はその500m先で1号線を左にはいる。


宿場は潮見峠公園までつづくゆるい上り坂にある。途中、火防樹の槇(マキ)、夏目甕麿(なつめみかまろ・国学者歌人)邸跡、高札場跡、脇本陣跡、本陣跡、曲尺手(かねんて)とつづき潮見坂公園、「おんやど白須賀」(資料館)をへて新居宿へと駈け下りていく。

白須賀宿の防火・津波対策から当時の<防災のあり方>を見てみたい。

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写真標識(解説板の後ろにそびえる木が火防樹・槇である


東日本大震災のあの悲劇な映像がいまなお鮮明によみがえってくる。
震災直後、犠牲者の鎮魂と被災地支援の募金をかねて中仙道を歩いたり、慰霊のため被災地をたずねた。


2011年( 平成23年)311日午後246分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害は他人ごとではない。


わが国では古来、天変地変による災害が繰り返され多くの人命を失ってきたが、時は悲しみを忘れさせおなじ人災を重ねてきたのがこの国に住む人々の悲しい歴史である。


白須賀宿の火防」もまた日本人の津波に対する智恵である。


この知恵は引き継がれず、悲劇を忘れ「高台から海岸へ」移り住むのが人の常である。先日も熊野古道の大雲取越・小雲取越を歩いたとき、紀伊半島の海岸沿いをドライブした。


現地の行政は津波に対するあらゆる施策と避難訓練がなされているとテレビでは伝えられている。


南海トラフトによる津波被害の予測が出ているが、人々は海抜のほとんどない海岸沿いに住んでいるのが現実である。悲劇は歴史や教訓に関係なく繰り返されるのであろうか。


 
湖西市教育委員会によれば、「東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、永保5年(1708)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶのはこのためである。宿場の入て以来、津波の心配はなくなったが、今度は冬季に西風が強く、たびたび火災が発せし、然も大火になることが多かった。

これは当時、ほとんど家の屋根がわらぶきであったことにもよる。そこでこの火事をくいとめるために、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、<火除け>とか<火除け地>と呼んで大切にした。火防の広さは間口2間<3.6m>奥行4間半<8.2mで、常緑樹で火に強い槇が10本くらい植えられ、元に宿内3地点・6場所火防が育った」とある。


火事の延焼を防ぐため、道の両側に火防樹の槇(マキ)を植えたのは先人の知恵である。

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曲尺手(かねんて)ー桝形道                                   4日目の露営地(大雨のため倉庫軒先を借りる)


1725分に、 今夜(526日夜)の宿泊地・白須賀宿に到着した。


すでに小雨が降っていたので、倉庫の軒下をお借りすることとした。テントを張るときは露営地の所有者の許可または同意を必ずとっておくべきである。またテントには身分証明として旅行目的、氏名、携帯連絡先を記入した表示板をぶら下げておくことをおすすめする。
近隣の住民にとっては招かざる客に対して警戒心が強いものであるから設営者自らの詳しい情報を開示しておくべきである。そして出会う住民に親しく声掛けをしておくことが肝要である。
 
住民のみなさんとの会話で天気や宿場、マーケットやショッピングセンターなどの情報が得られると共に、露営者である人物像を伝えることができ、両者にとって安心感を交換できることが重要である。


この住民との友好関係は特に外国の田舎で露営するにあったって、盗賊・官憲・住民から身を守るための絶対的必要条件である。

ここ白須賀宿には、これといって当時の遺構が残っているわけではない。宿場としての面影が残っているとすれば曲尺手と潮見坂付近であろうか。白須賀宿の歴史文化は資料館「おんやど白須賀」で紹介している。

曲尺手(かねんて)>
 
曲尺手は、直角に曲げられた道(桝形)のことで、敵の侵入速度を遅らせたり、敵を間近にひきつけたり、隠れて急襲したりと軍事的な役目をもつほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割を持っていた。
江戸時代、参勤交代など格式の違う大名がすれ違う時は格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。しかし主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭(ともがしら)にとっては一番の失態であった。そこで斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い最寄りのお寺に緊急避難をさせた。

 
東海道53次京より6日目 2016年5月27日   夜中大雨 後 曇り時々小雨>
 
一晩中雨に見舞われた。テントの下にも一部浸水したが、寝袋や衣服の濡れもなく撤収を無事終え、
付近の清掃、感謝の祈りをささげ、5日目のスタートをさせた。



          


東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 18
    ■32白須賀宿-② につづく

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