20・丸子宿 ②
丁子屋の先、左に丸子宿本陣跡、なお進むと左手歩道に日本橋より46里・丸子一里塚跡がある。
丸子宿 高札場跡 丸子宿 見付跡
芭蕉句碑(茶屋前) 十遍舎一九記念碑(茶屋庭) 丸子宿本陣跡
■46・丸子一里塚跡 (静岡県静岡市駿河区丸子六丁目)
京より79里・308.1km / 日本橋より46里・179.4km
46・丸子一里塚跡
丸子一里塚跡より旧街道を道なりに行くと佐渡交差点で国道1号と合流した後、右へ150mほどで国道と別れ左に向かうと断続的に松並木がつづく。街道は1.2km先で阿部川橋をわたって府中宿に入って行く。はやく名物・安倍川餅を食べたい。
■19・府中宿
<駿河国・静岡県> 京より317.8km/ 日本橋より174.3km
雲一つない安倍川橋を渡ると、街道は右へ入って行く。その角に安倍川義夫碑があり、その先に安倍川餅の老舗「石部屋」がある。はやくも安倍川餅にであい、さっそく手に入れての歩き食い。美味い。
街道をまっすぐ北へ、突き当りに駿府城跡がある。現在はお濠に囲まれた駿府公園となっている。
その途中、街道の一つ西筋の角に日本橋より45里の府中一里塚跡がある。街道から外れたところに一里塚があったとは思えないので、現在の一里塚跡の位置が正しければ現在の街道は一筋東にずれていることになる。
京より80里・312.0km / 日本橋より45里・175.5km
45・府中一里塚跡
西から来て阿部川を渡ると府中宿である 阿部川を渡った右手に「義夫の碑」が建つ。
阿部川を東へわたる <府中宿> 阿部川の義夫の碑
<阿部川の義夫の碑>
この碑は、正直な川越人夫を讃える碑である。
元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金50両の大金を持って、阿部川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。
たまたま、その近くにいた人夫の一人が財布をひろい旅人の後を追い、宇津ノ谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。
旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前のことだ」といって、人夫はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで。町奉行が人夫を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所から褒美の金を人夫に渡したのである。
人の心の美しさや、あるべき姿を伝えている心温まるいい話である。日本人に培われた恩でつながる姿にふれるほど心の琴線に触れるものはない。このように和歌山と静岡という遠く離れた地域どうしの結びつきが後世に伝えられていることに感動を覚える。
碑文として、次のように彫られている。
< 難に臨まずんば忠臣の志を知らず >
< 財に臨まずんば義士の心を知らず> (財―たから)
府中宿は、東海道53次の19番目の宿場であり、街は家康の居城・駿府城の城下町としてにぎわった。東海道53次のなかで1,2を競う大きな宿場であった。現在の静岡市葵区にあたる。
府中宿の規模は、戸数:3673軒、人口:14071人、本陣:2軒、脇本陣:2軒、旅籠・43軒とある。
家康は将軍職について2年後には息子である秀忠に将軍職を譲って、亡くなるまでの9年間、大御所として府中に居を構えた。家康は天下泰平の江戸時代300年の基礎をここ駿府の地で練ったのであろう。
駿府城跡前の札の辻を右に曲がって旧街道を行くと、静岡鉄道の新静岡駅前の広場にあるペガサート静岡前に「西郷・山岡会見跡」がある。
<西郷・山岡会見跡 >
「慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町松崎屋源兵衛宅で行われた。
この会見において、十五代将軍徳川慶喜の処遇をはじめ、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩邸で行われた西郷隆盛と勝海舟との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。
明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置づけられるものである。」
「西郷・山岡会見の地」(ペガサート静岡前)
後日、ゴールである江戸日本橋のてまえJR東海道線・田町駅すぐ近くにある薩摩藩邸での「西郷・勝会見の地」跡に立ったとき、西郷の江戸城へむかう東海道をおなじく自転車で駆けたのだと、148年前にスリップしている自分にふるえを覚えた。歴史を縦軸とすると、横軸に自分がいる。縦軸を横切るとき歴史というドラマを感じるのである。
駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務をになっていた。町奉行の配下として、与力8人と同心60人がいたとある。
町奉行といえば、時代劇でみる江戸の町奉行を思いだすが、遠国奉行という役割配置があって、朝廷や西国大名を監視したり、参勤交代などで大名が通過する重要拠点に配置した。その代表格が、わたしも住んだことのある伏見奉行であり、いま通過中の駿府町奉行も規模は小さいが、家康のお膝元に目配りしたための遠国奉行の一つであったと思われる。
名は町奉行であるが、全国の反体制勢力や要注意大名などを監視する幕府直属の組織であった。
西郷・山岡会見跡を離れ、JR東海道線をくぐりながら街道を北東にすすと、静岡鉄道・長沼駅をすぎた右手に日本橋から44里の「長沼一里塚跡」がある。
京より81里・318.1km / 日本橋より44里・171.6km
44・長沼一里塚跡
長沼一里塚跡をすぎ、JRガードと東名高速をくぐり、右手に草薙神社大鳥居みながら江尻宿に入って行く。この大鳥居から1kmほど北東へ進むと左側に、日本橋から43里をしめす「草薙一里塚跡」の自然石碑がある。
43・草薙一里塚跡
今日もよく走った。ご褒美に一里塚跡近くにある「あおい温泉 草薙の湯」に立寄ることにした。
「あおい温泉・草薙の湯」
一服のひととき 「あおい温泉・草薙の湯」に立寄り、汗をながす。
あともう少しで清水港に接する江尻宿に入る。