<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 23
■25・日坂宿 ②
坂の宿場である日坂宿の「宿場西口跡」、「立札場跡」を東へ300mほど進むと「旅籠・川坂屋」がある。
日坂宿 「旅籠・川坂屋」 旅籠の内部(階段が収納箱になっている)
「日坂宿の旅籠屋で、江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつです。
江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作されたといわれています。身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格であったことが伺えます。
旅籠屋としては、明治3年(1870年)まで存続していたようですが、以後も要人には宿を提供していたとも云われています。」 (掛川市案内板)
江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作されたといわれています。身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格であったことが伺えます。
旅籠屋としては、明治3年(1870年)まで存続していたようですが、以後も要人には宿を提供していたとも云われています。」 (掛川市案内板)
日坂宿本陣跡 久延寺・夜泣き岩供養塔
旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にある小夜の中山峠は、急峻な坂の続く街道の難所であった。うっそうとした樹木に埋もれ、当時は山賊なども横行したため、大の大人でも峠越えは容易ではなかった。
この国のすみずみにたくさんの庶民伝説が残され、いまに伝えられている。紙芝居を見ているような心温まる物語である。ここ小夜の中山峠にも、「夜泣き石」伝説が残っている。
自転車をとめ、久延寺に残る伝説の「夜泣き石供養塔」に耳を傾けた。
その昔、久延寺に安産祈願にきた妊婦が中山峠を越える途中、山賊に襲われて殺されてしまった。お腹の切り口から生まれた赤ん坊を助けるため、母の魂はかたわらの石にのり移って泣いた。泣き声に気づいたお寺のお坊さんに拾われた赤ん坊は、お乳の代わりに水飴を与えられ、大事に育てられた。そしてその子供は立派に成長し、母の仇を討ったと云われている。
小夜の中山峠と茶畑
<小夜の中山に広がる絶景の茶畑群>
世界最大の紅茶生産地の一つであるインドのダージリンの茶畑、セイロン茶として有名なスリランカのキャンディーの茶畑、マイルドな中にすっきりとした渋味とフレッシュな味わいを持ち生産高をあげているケニア、ビクトリア湖近くのソティックの茶畑を訪れたときは、その素晴らしさと規模に目を見張り感嘆したものだ。
だが、日本の茶畑の管理の行き届いた手入れの素晴らしさは世界一といっていい。ここ小夜の中山に広がる茶畑には、芸術にまで高められ、魂にふれるアート・ネイチャーがある。日本の茶畑の波打った幾何学的な剪定が美しい。素晴らしい。
東海道の三大難所のひとつといわれる「小夜の中山峠」の急こう配の箭置坂(やおきざか)をくだる。
茶畑の風におされて、ゆっくりと風景を楽しみはがら自転車を押してくだる。昔は、遠くに富士山も見えたという。昔の旅人もこの雄大な景色を楽しんだのであろう。そこをわたしも歩いているではないか。愉快である。
急勾配の箭置坂(やおきざか)をくだり、間の宿・菊川に至る
<間の宿・菊川>
間の宿とは、本宿と本宿の中間にあって、人足や旅人の休憩に便宜をはかって作られた。普通、両宿間の距離が3~4里(12~16km)に及ぶときに「間の宿」を置くが、日坂宿と金谷宿の間が1里24町でも、急所難所がつづく場合は特別に「間の宿・菊川」が置かれた。
間の宿では、旅人の宿泊は厳禁であった。例えば川止めでどうしても宿泊しなければならないときにも、ここ菊川では金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来なかった。
そのほか、間の宿では尾頭つきの本格的な料理すら出すことを禁じられていたという。そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」といわれている。 (金谷観光協会)
自転車の旅にとって、西の天下の剣である鈴鹿峠いらいの険しい峠であった。これより下って行けば金谷宿より大井川をわたり島田宿へとつづく。
自転車の旅は体力勝負でもある。でも楽しい走り(サイクリング)である。
サイクリングはただ走るだけのものではない。
風を感じ、歴史を感じ、その土地の風物を楽しみ、句を詠み、詩をつくり、そのすべてをスケッチする。そこにサイクリングの醍醐味がある。
天下の剣といえば東の箱根の剣が待ち受けている。日本橋へはまだまだ自転車を走らさなければならない。 まずは次なる金谷宿をめざそう。
■24・金谷宿
間の宿・菊川をへて菊川坂石畳をくだってくると諏訪原城跡(案内板)である。自転車を押してさらにいくと芭蕉句碑がある。ここを左に入ると急坂である金谷の石畳がつづき、途中にある石畳茶屋(和風木造)をみながらJR東海道本線「金谷駅」のガード下をくぐると金谷宿の中心部に入る。
金谷坂の石畳み 日坂宿よりきてJRガードをくぐると金谷駅前に出る
現在の静岡県島田市金谷にあたる。大井川の西岸(京都側)に位置し、牧之原台地が迫る狭隘な場所に宿場がある。増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、東岸の島田宿と同様江戸のような賑わいをみせたという。
急坂(金谷坂)への入口、右手に芭蕉が馬の背に揺られて詠んだ一句がある。
《 馬に寝て 残夢月とおし 茶の烟 》 (烟・けむり)
菊川坂には大茶園が広がる。芭蕉も遠く大井川、富士山を望みながら茶の烟(けむり)を楽しんだのであろう。
そして、JR「金谷駅」のガードをくぐった右角に金谷一里塚跡案内板がある
53・金谷一里塚跡
JRガード下の角に金谷一里塚跡がある
日坂宿・56小夜鹿一里塚跡よりここ金谷宿・53金谷宿一里塚までの間に 日本橋より55里・54里の二つの一里塚跡があるはずだが残念ながら見つけることができなかった。
金谷宿は、大井川を渡り東・江戸へむかう旅人が草鞋をぬいだ賑やかな宿場であったという。とくに増水による川止めがなされた時の宿場は川越を待つ逗留の旅人で想像をこえる混雑を呈したらしい。
金谷宿の規模をみておこう。
現在の金谷宿には往時の面影はほとんど残っていない。案内板には詳しくその歴史的背景や役割などが書かれているだけである。
<定飛脚 と 三度笠>
金谷宿・島田宿史跡保存会によると、以下のように説明されている。
田町の南側に「浅倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛」という定飛脚の問屋があった。
定飛脚とは、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・十二日・二十二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」ともいった。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼んだ。
並便は中間のみの往来であったが、昼夜実行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を六日としたことから「定六」とも呼ばれた。明治4年(1872)、郵便の制度が施行されるまで、書類・信書・金銀の郵送もこの定飛脚で取り扱われていた。
定飛脚問屋(三度屋)跡・案内板 <金谷宿> お七里役所跡・案内板
<お七里役所>
おなじく両宿史跡保存会の説明によれば、
この飛脚は幕府の継飛脚、民間の定飛脚(町飛脚)に対して、「大名飛脚」・「七里飛脚」とも呼ばれた。
考えるに、各大名は藩地と出先の江戸との連絡には情報漏を防ぐための独自の飛脚を利用していたということがわかる。人事や藩費、幕府対策や隣藩とのもめごとなど秘密事項の連絡には欠かせなかったのであろう。
JR金谷駅前より400m先、左に柏屋本陣跡、そこから50mほどの街道の左側に佐塚屋本陣跡(二番本陣)がある。
さらに自転車を東へ1kmほど走らせると大井川鉄道踏切を越え、大井川の金谷宿川越し場跡に着く。
現代の自転車なる乗り物にまたがって旅を続けていることを思うと当時の旅人の心意気を感じる
ものである。
江戸時代、東海道53次という大動脈を旅するには多くの川越しをしなければならなかった。
当時の旅の様子を知る上でも、川越しの制度・規則や江戸時代の旅行用心集を書き記しておきたい。
<金谷宿川越し場跡>
大井川「金谷宿川越し場跡」案内解説板
<金谷宿の川越し-大井川>
金谷宿は、大井川の西側(京より江戸へ向かう)川越しという重要な拠点である。
大井川西岸の当時の「金谷川越し」の配置を見ておきたい。
金谷本宿より松並木をとおり、大井川に向かって進むと川越しの宿に入って行く。
旅人の神様を祭ってある「秋葉社」側、すなわち大井川に向かって北側(左)と南側(右)にわけてみると・・・
南側(川下)には、五番宿・壱番宿(札場)・三番宿・二番宿・六番宿・九番宿・七番宿と大井川に向かって並ぶ。
その先、八軒屋板橋を渡ると「水神社」(水難・風水害等の災害から身を守る神様)のある大井川西岸の堤防にでる。岸辺より川越しが始まり、人足の手を借りて大井川対岸の島田の川越し場にたどり着くことになる。
「川 会 所」・・・間口6間半、奥行き5間半の建物で、河庄や、年行事、吟味人と呼ばれた役人が
詰めて川越し手続きの業務を行っていた。川越しを希望する旅人は、ここで川札・台札
を購 入した
「川高札場」・・ 幕府道中奉行から出された川越しに関する「定」の高札が掲げられていた。
内容は川越しの方法や決まりを守ること、問屋支配の徹底、不法な賃金要求や川越
人足の不正行為の禁止などであった
「番 宿」・・・ 宿といっても宿泊施設ではない。川越人足が50人ずつ一番から十番まで組分けられ、
小頭の管理下に詰めていた
「宿(仲間の宿)」・・・「小頭」や特別に選ばれたベテランの「待川越」の詰め所で、
その日の越立ての順番が決められていた
「札 場」・・・ 川越人足が旅人から受け取った川札・台札を換金する場所である。番宿の
立会が一括して換金し、川越人足に平等に分配した
「川越人足」・・ 15歳以下の弁当持ちから始まって、水入り、半川越と呼ばれる厳しい見習い修業を経て
一人前になった。したがって高度な徒渉技術を身に着けた熟練の技術者集団であった
(金谷・島田 史跡保存会)
徳川幕府は、江戸を目指すいかなる勢力も監視下に置くため、また阻止するために宿場の規模・規則や管理方法などをこと細かく定めていた。ましてや街道を横切る川には橋を架けさせず「川越し」という制度を設けて監視・管理・規律を強化していたのである。
また徳川幕府は、大名に参勤交代という制度を課し、城主とその家族を江戸に人質として住まわせると共に、大名の格付けにより参勤交代のための行列の規模・格式にまで「定」をきめて、各大名にそれ相応の出費を強いる政策を続けたのである。
反面、完璧な幕藩体制により、江戸時代300年という日本史上類をみない安定した、平和な国家を運営・維持しえたのも確かである。また浮世絵をはじめおおくの日本独自の伝統と技法を創り上げている。
明治をへていち早く近代国家の確立に成功したのも、かかる安定した社会と熟練した専門家集団を多く作っておいた時代があってのこととおもう。徳川幕藩体制下での江戸時代は近代国家・日本の黎明期(明治)の基礎を培っていたといってよい。
次に、当時の旅人はいかなる心構えで旅をしていたのであろうか、参考までに江戸時代に書かれた「旅行用心集」なるものをのぞいてみる。 とくにエッセンス 「旅行用心61カ条」は、日本橋到着まで、数回に分けて紹介していく。
まずは、著者(八隅蘆庵)の旅へのおもいを載せておきたい。
「旅行用心集」は八隅芦庵(やすみろあん)が書き残した江戸時代の旅行手引書である。当時の旅の心得を知ることができて興味深い。とくに「旅行用心61カ条」は現在の旅行に相通ずるものもおおく散見される。「酒はできるだけ控えろ」とか「色欲は慎め」とあり、旅人としてこころすべきことが書かれている。
「旅行用心集」序で著者・八隅芦庵は次のように述べている。少し長文だが、江戸時代の旅に対する見方を知るうえで重要であるので引用しておきたい。ましてや、わたしはいま約150年前の東海道53次というタイムトンネルの中を自転車で走り抜けているのだから、こころして理解しておきたい。
「人は仕事の合間に伊勢参宮に出かけるため仲間を集めたり出発日を決めたりと準備をする。餞別の品が届いて家中が旅の支度にわくわくしている様子はすがすがしいものである。特に旅立ちの日は親類や友人が町はずれまで見送り、酒を酌み交わしながら、道中についてそれぞれが心からアドバイスしている様子は、傍目にもうらやましいものである。 また、仕事であちこち出かけるのも、旅でも、年齢にかかわらず、わくわくするものである。
東国の人は伊勢から大和、京、大坂、四国、九州の名所や旧跡、神社、仏閣を見たいと思い、西国の人は伊勢から江戸、鹿島、香取、日光、松島、象潟、善光寺などを見たいと思うものである。家族が健康で家業も順調な家庭では一生に一度は伊勢参りに出かけるという。我が国のありがたい習慣ではないだろうか。毎日の仕事に専念していれば決して貧しい思いをせず、生涯を安穏に過ごせるというのも神仏の教えを守っているおかげである。金持ちでも病弱であったりすると、旅に出かけて珍しい景色を見たり霊場を廻ったりすることはできない。お金があれば駕籠で旅をすることができる。しかし貧しくとも健康な体で旅をする者が味わう楽しさにはとても及ばない。さぞ残念なことであろう。貧富に関わりなく健康で旅行が出来るということはこの上なく幸いなことである。
さて、旅に出る人は次のことを心得てほしい。 たとえ家来を連れて行くとしても、股引や草履を履くなどのことは自分ですること。 食事に不満があっても文句を言わずに食べること。すべて自分の修行の機会だと思うこと。 土地によっては習慣の違いなどから気にくわない扱いを受けることがあっても、心得ておくこと。 旅行中は、風雨にあう、濃霧に山越えをする、布団が薄い、仲間割れが起きる、怪我人が出て行程が遅れる、気候の変化で持病が出るなど、思わぬトラブルに見舞われるものである。旅先では家に居るときのように適切に対処することがむずかしいものである。
このように長い旅は言い表せないほどの苦労があるが若者にとってはよい人生修行である。「可愛い子には旅をさせろ」という諺もある。旅の経験のない人は旅の苦労を知らず、旅はひたすら楽しく物見遊山のためだけにするものだと思っている。そのため人情に疎く自分勝手な人間になってしまう。きっと陰で後ろ指を指されて笑われていることも多いだろう。
大名や公家でも、川留めにでもならない限りどんな悪天候でも予定を変えることはない。まして、一般の旅人にわがままが許されるはずがない。このように様々な苦労に耐えることで人情に厚く、思いやりの心を持つようになる。そうすれば人から良い人だとよばれ立身出世、ひいては子孫の繁栄に繋がっていくことは間違いない。「可愛い子には旅をさせ」とはまさにこのことである。
私は若いときから旅行が好きであちこちの国に行った。それを知っている知人が旅行に出かける際にいろいろ聞いてくる。これまではそのたびに書いて渡していたが、最近は歳をとって面倒になった。断るわけにもいかないので、これまでのものを集めたり新たに書き起こしたりして、旅の助けになるようなことを小冊子にまとめることにした。人の役に立つように印刷して『旅行用心集』と名付けるようになった次第である。
文化庚午7(1870年)6月 八隅蘆庵 」
八隅蘆庵著「旅行用心集」 桜井 正信の現代訳 「旅行用心集」
神仏の教えを守れ、毎日の仕事に専念せよ、健康で旅に出られることへ感謝せよとの人生訓に加えて旅の意義について書き記している。旅は人生修行である、可愛い子には旅をさせろ、食事に不満を言うな、何事も自分ですること、ほかおおくの含蓄あるアドバイスをしている。
これらの旅への考え方や教訓はわたしたちの若き時代にも受け継がれていたことを懐かしく思いだしている。
▲ 東海道53次 自転車ぶらぶら旅 第6日目 2016年5月28日 金谷宿露営地、
午後5時30分に到着し、金谷宿 ・大井川西岸・川越し場近くの金谷東公園にて露営
6日目所要時間:12時間30分 走行距離:自転車55km/歩き12725歩
<5:00am 浜松宿スタートし、5:30pm 金谷宿に到着>
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 24
■23島田宿 につづく
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