■27・袋井宿 ②
60・久津部一里塚
「どまん中東小学校」創立100年を記念して復元された久津部一里塚
■26・掛川宿
袋井宿より松並木を東へ自転車を走らすと、国道1号線に出る。 国道との合流地点に公衆トイレと水があり、補充する。その後、原野谷川をわたって東海道は左へ入って行く。このあたりは「間の宿・原川」という。
「掛川宿は、天保14年(1843年)の記録によると、本陣2軒、旅籠屋30軒等、960軒の家があり、3443人が住んでいました。宿の東寄りの天然寺と西端の円満寺は朝鮮通信使が来聘した折には宿所として使用されました。
1691年に東海道を旅したケンペルの『江戸参府旅行日記』には、「この町の両側(東西)には郭外の町があり、門と番所があります。北側には城があり、櫓のない簡単な石垣で囲まれ、中には高くそびえた白壁の天守閣があり、大きな城に美しさを添えていた」と記され、1776年のツュンベリーの『江戸参府随行記』には「防備された大きな町、掛川」と表現されています。」
ケンベルやツエンベリーの日記や随行記には日本観察記として江戸時代の様子を詳細に書き残している。シーボルトをはじめケンベルやツエンベリーは長崎出島滞在中、専門教育を教えると共に、時間を見つけては日本各地の見聞につとめ、地学・制度・動植物・風俗因習・宗教・幕府の仕組みほか多くの情報を書籍にまとめ世界に紹介した日本学のフロンティア―であった。
<江戸時代の日本を世界に紹介した長崎出島の3学者>
1.エンゲルベルト・ケンペル
ドイツ人医師・博物学者・1690~1692出島滞在
ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。
2.カール・ツエンベリー
スウェーデン人医師・植物学者・1775~1776出島滞在
長崎商館医を務めた。多数の植物標本を持ち帰り学名を付けた。通詞や蘭学者に医学・
薬学・植物学を教えた。著書『日本紀行』など。
3.フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
ドイツ人医師・博物学者・1823~1862出島滞在長崎商館医として着任
ての資料の収集に努めた。江戸幕府の外交顧問としても働いた。1862年帰国。著書に 『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などがある
袋井宿をあとに松並木を東進する
間の宿・原川の田園風景を楽しみながら進むと
善光寺に着く
59・大池一里塚跡 天竜浜名湖鉄道のワンマンカ―
善光寺、大池一里塚跡を過ぎ、道なりに1kmほど進むと天竜浜名湖鉄道の西掛川駅西側の踏切を渡る。秋葉道・信州塩の道をいき、その先で国道1号線と合流し倉真川にかかる大池橋をぬけて右手の旧街道に入ると掛川の宿場である。
旧街道にもどって高札場跡から始まる「新町七曲り」を過ぎると振袖餅屋のある「葛川(馬喰橋)一里塚跡」、葛川の馬喰橋跡をわたり約2kmさきで国道1号線と合流し、右に進むと日坂宿へ向かう。
新町の七曲り解説版
<塩の道>
「静岡県の西部地域は、古来遠州と呼ばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が各地にできていた。この中でも、秋葉海道と重なる<塩の道>や太平洋岸の<横須賀街道>は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。」 (掛川市)
<七曲り>
掛川市観光案内版によれば「葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。
ここから東海道は南に折れ道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。
七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取締るための木戸と番所がありました。
新町は山内豊一が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和6年(1620)町として認められました。」とある。
<別名「馬喰橋一里塚跡」ともある>
58・葛川一里塚跡 一里塚(馬喰橋)の前にある「振袖餅・もちや」
新町の七曲りから約300m、「振袖餅屋もちや」の向かいにある葛川一里塚跡、葛川の馬喰橋跡をわたり、成滝で国道1号右に折れ日坂宿に向かう。
■25・日坂宿
広重の浮世絵、東海道53次の日坂宿にも描かれているように、とにかく坂の多い宿場である。日坂という宿名も「西の坂」から来ているほどである。
坂が多いということは、自転車爺野郎にとって歩きがおおくなるのである。ゆっくりと風景を楽しめるというぜいたくな時間でもある。
大井川の畔の金谷宿と、塩の道と交差し城下町でもある掛川宿との間にあって、規模も小さかった。
天保14年(1843)の家数は168戸、村民は750人とある。本陣・脇本陣は各1か所と小規模である。宿役人は問屋に1人、年寄として4人、請払に2人、帳付に5人、馬指に3人、人足割に3人、同下役6人が置かれていた。常備人馬は100人と100疋(頭)すぎなかったという。
静岡県内22宿の中で、規模と人口の両面において由比宿や丸子宿に次いで最も小さな宿のひとつであった。小規模な日坂宿の家々は家計の足しにわらび餅を売り、足いたみや足マメの薬等を売るものも多かったとある。
歌川広重「東海道五十三次・日坂」・小夜の中山(峠)
八坂IC手前の東名菊川ICへの分岐に日本橋から57里の「伊達方一里塚跡」がある。
57・伊達方一里塚跡
日坂宿は古い面影を残す町並みである。宿の西口(ここでは日本橋に向かう入口)には復元された高札所跡がある。
宿場の西外れには旅籠・川坂屋が残っている。宿場を東に進むと街道の左に扇屋本陣跡、常夜灯とつづく。日坂宿を出て国道1号を横断し、七曲りの急坂をのぼって行くと右手に「夜泣き石跡」、芭蕉句碑のある「涼みの松」で一服し芭蕉句を愛でる。さらに自転車を押しあがると日本橋より56里の「小夜中山一里塚跡」に出る。
「涼みの松」芭蕉句碑
早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く、残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端に
かかり、日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている」と解説されている
<命なり わずかのかさの 下涼み > 芭蕉
別名「小夜中山一里塚」とも呼ばれる
56・小夜鹿一里塚跡(小夜中山一里塚)
さらにその先に西行法師の歌碑がある「小夜の中山公園」、その向かいに江戸時代創業の茶屋「扇屋」がある。
ここ小夜の中山(峠)から茶畑の広がる箭置坂(やおきさか)をくだると間の宿・菊川、さらに旧街道の急な石畳坂をのぼり降りすると金谷宿へ入って行く。下りであろうと石畳坂、もちろん自転車を押して慎重に下る。
日坂宿 ・宿場西口 日坂宿・ 高札場跡
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■江戸時代の 「旅行用心集」
「旅行用心集」は、八隅芦庵(やすみろあん)が書き残した江戸時代の旅行手引書に書かれている当時の「旅への心構え」を数回に分けて紹介していきたい。現在でも十分通じる旅の心得である。 簡潔にまとめておくので、詳細は八隅芦庵「旅行用心集」で検索願いたい。
■ 江戸時代の <旅行用心61カ条>Ⅱ(㉛~㉞)
31.長雨の時、山際や川岸の宿屋に泊らないこと (崩落や浸水を避けるため) ほか
32.連れがあるとき、道中での支出はその都度各人が支払うこと
(貸し借りがあり場合は必ずその日のうちに清算すること) ほか
33.道中、道連れになり信用が置けるようになっても同宿、食糧・薬の交換はするな ほか
34.道中、自分の手荷物は自分で管理・運搬すること (他人や馬に絶対あずけるな) ほか
■25日坂宿ー2につづく