shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』21

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』
  東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 21
 
 
■28 見付宿
 

見付宿の街道左右にある本陣跡、問屋場跡、常夜灯をへて愛宕神社にでる。神社横から急な行人坂をのぼり、途中にある横路を左に入って、左側3軒目あたりの家の裏庭に「阿多古山一里塚跡」(北塚)石碑が人の訪れもなくひっそりと建っている。
 

■62・阿多古山一里塚跡   静岡県磐田市見付行人坂付近)  
                                             京より63里・245.7km/日本橋より62里・241.8km

日本橋より62里をしめす「阿多古山一里塚跡」(北塚)の所在確認におおくの時間を費やした。それもそのはず他人の家の裏庭の雑草の中に鎮座していた。行人坂を上りきったここからの見付宿眺望は素晴らしいものがある。

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<見付宿> 行人坂 
 
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 <見付宿> 62・阿多古山一里塚跡
 
急勾配の行人坂をのぼり、左側路地を入った左の家の裏庭に 「阿多古山一里塚跡」がある

一里塚の対をなすもう一つの南塚である「阿多古山一里塚跡」は、愛宕神社奥にあるという。今回は北塚探索に時間をかけすぎたため、南塚を確認せず先を急ぐことにした。

国道1号線をのぼって行くと左手に遠州鈴ヶ森があり、急な階段をのぼったところに供養塔がある。白波五人男の頭目、日本左衛門が獄門にかけられたという。めったに人の訪れはないようであり、雑草が生え忘れ去られていた。

行人坂下りの松並木をおりていくと太田川手前で国道1号線とまじわり「木原畷古戦場跡」日本橋から61里目の「木原一里塚跡」をへて袋井宿にはいって行く。



■27・袋井宿
 遠江国・静岡>       京より262.0km / 日本橋より230.1km

 

東行すなわち日本橋方面へは、国道1号線と合流する先で太田川を渡る。


袋井宿は東海道53次の京・三条大橋からも、江戸・日本橋からも27番目のど真ん中の宿場である。総距離の中間点でも「よくど真中まで来たものだ」と無事をよろこんだものだが、宿場のど真ん中である袋井宿に着いたときは当時の旅人の「江戸まであと半分」という安堵感を共有したものだ。

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歌川広重東海道五十三次・袋井』                                                 

現在の袋井は「袋井宿開設400年 16162016 」という節目の年を祝っている。平成28116日より1222日まで袋井市歴史文化館で「東海道・袋井宿展」(特別展)を開催するとのことである。もし期間中、袋井宿を通過する予定のある方は立寄ってみてほしい。
太田川を渡ると1km先に「木原畷古戦場跡」、日本橋より61里目の「木原一里塚跡」がある。


<木原畷の古戦場 >(畷ーなわて)

元亀三年(1572)十月上落を始めた武田信玄軍勢約三万は、天竜川沿いに家康配下にあった遠江国内へなだれこんだ。本隊は、破竹の勢で進撃し久野城に迫った。徳川家康は、見付を越え三ヶ野の城に兵を進め、信玄軍を迎えた。信玄は久野城での直接対決をさけ、ここ木原に布陣した。太田川を挟んで家康と信玄がここ木原畷で衝突したのである。この戦いが「木原綴」の戦と呼ばれ、家康は信玄にやぶれ、西へ兵を引き返したとある。

「古戦場・木原畷」石碑そばにある石は、家康が関ヶ原の合戦に先立ち戦勝祈願をするため訪れたとき腰かけたとするものである。

 

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「古戦場・木原畷」石碑


<戦国武将 武田信玄
 
ここ木原畷で、すこし武田信玄公に思いを馳せた。信玄は戦国時代の武将であり、現在の山梨県である甲斐守護大名戦国大名であった。「信玄」とは法名であり、出家前は武田晴信という。戦国武将として隣国との戦いに明け暮れた武将であり、とくに上杉謙信との甲越対決(山梨・新潟)である「川中島の戦い」は有名である。
敵襲に備えた信玄の考えから、トイレはかなり広く作られており(狭いトイレだと身動きがとれなくなるので)、トイレ内には机や硯も設置されており、ここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていたという。

信玄は暗殺を恐れ、自らの影武者に実弟の信廉を起用したり、情報収集のため「三ツ者(身寄りのない少女を隠密として教育し)という「歩き巫女」を全国に放って隠密組織により全国の情報を集めていたという。

これまた有名な風林火山は、信玄の旗指物軍旗)に記されたとされている「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」<疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し>の通称であることは有名である。出典は『孫子』軍争篇第七の一部からだと言われている。

 

イメージ 6 太田川を渡ると木原畷である
 
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  木原畷古戦場を案内する解説版

 

■復元・61木原一里塚     静岡県袋井市木原)  京より64里・251.3km/ 日本橋より61/237.9km

                   

「木原一里塚跡」をしめす木柱は復元塚より東方向に約60mのところにある。


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復元された「木原一里塚跡」(植樹は榎)


木原一里塚跡を自転車で東に向かい、原野谷川支流にかかる御幸橋を渡ると袋井宿公園、どまん中茶屋、コンビニ・サークルKを過ぎ、常夜灯の先を国道1号線と別れ右に入る。ここから松並木がつづき、赤鳥居に見送られて掛川宿にむかう。


<どまん中 袋井宿>


「どまん中 袋井宿」を誇りに思う、その気持ちが伝わる袋井宿である。どまん中茶屋、いや現代の茶屋と呼ぶべきなのであろうコンビニエンスストアは自転車爺野郎にとってはオアシスであり、一服茶屋としての役目をはたしている。ここ「東海道53次どまん中コンビニ・サークルK」でかつ丼弁を記念ランチとしていただいた。
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「どまん中・ふくろい」標識  
 
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「どまん中袋井宿」宿場案内板
 
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どまん中の東「本陣跡」

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どまん中東小学校」                    「どまん中の松並木」 
東海道53次「どまん中宿」である袋井宿、宿場が開かれて400年という。どまん中の街道のどまん中の松並木を歴史の風を受けながら、ゆっくり自転車で駆け抜けた。

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■江戸時代の 「旅行用心集」

「旅行用心集」は、八隅芦庵(やすみろあん)が書き残した江戸時代の旅行手引書に書かれている当時の「旅への心構え」を数回に分けて紹介していきたい。現在でも十分通じる旅の心得である。 簡潔にまとめておくので、詳細は八隅芦庵「旅行用心集」で検索願いたい。

 

■ 江戸時代の <旅行用心61カ条>Ⅱ(⑪~㉚)

11.風呂の使い方
       ①空腹のまま風呂の入らないほうがいい
       ②食後には、しばらくしてから入るように

       ③長湯をしてはいけない ほか

12.風呂の順番で喧嘩するな (宿の案内に従え、不明の時は身分の高い者に譲るべし)

13.疲れをとるには熱い風呂、長めにはいること(のぼせに注意すること) ほか

14.夜は決して歩かないこと   ほか

15.旅行中の色欲は、慎しむこと (娼婦は、性病を持っているので注意)  ほか

16.夏の旅行中はきれいな水を選んで飲むこと(流れていない水をやたらに飲むな) ほか

17.夏の野原には毒虫がたくさんいるので注意すること ほか

18.食後は急いで歩かないこと   ほか

19.馬や駕籠に乗る前に必ず用を足しておくこと  ほか

 20.人足や馬の手配は、二、三日前に出しておくことほか

 21.混雑する問屋場での到着時のマナーとして物静かに対処せよ  ほか

  22.商用で旅するときは、我慢・堪忍が第一である  ほか

 23.道中の馬替えによる荷替えには、荷物の数の確認をすること  ほか

  24.川越えでは荷物の防水に用心すること   ほか

  25.川越えの時は、直接自分で人足と掛け合うな (宿場役人に相談せよ)  ほか

  26.女連れの時、川越え・渡船・山道などでは事前に心づもりを伝えておくこと  ほか

 27.川越え・渡船では懐中物に気をつけて乗ること  ほか

 28.馬を乗せる船には、人は後から乗ること (老人や女性は乗るな)  ほか

 29.急ぐときは、船路ではなく陸路を行け (異変、後悔先に立たず)  ほか

 30.大水の出た川は、小さい川でも不用意に渡るな  ほか

 

 
 
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 22
    ■27袋井宿- ② につづく