shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』20

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』
 東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 20


29・浜松宿-②

▲《東海道53次 浜松宿―自転車の旅・第7日目舎営地を出発》
       2016528  7日目・朝5時浜松宿出発

宿泊先の娘宅をあとにして、国道152号にある旧東海道を走り、二股街道を横切り松並木にもどる。ここから東京・日本橋に向かって自転車の旅を続ける。浜松バイパスをくぐり安間川を渡ると、右(南)側に日本橋より64/249.6kmをしめす「安間一里塚跡」がある。

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東海道を東にすすみ                                                          松並木を直進、天竜川に向かう


64・安間一里塚跡     静岡県浜松市東区安間町付近) 
                京より61里・237.9km/ 日本橋より64里・249.6km

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安間一里塚跡              六所神社                                           船橋跡・天竜木橋跡木柱碑

なお、一里塚跡より1kmほどすすむと天竜川東岸に突き当たる。ここにある海神と航海を守る神を祭る六所神社船橋跡・木橋跡を左(北)へといくと江戸時代の渡船場に着く。当時、旅人はここから天竜川を渡船か、歩いて渡るかしかなかった。

木橋・舟橋跡>

船橋は、橋の無い河川に多数の小舟を並べて綱や鎖で連結し、その上に板を敷いたもので、古くから存在した。明治天皇行幸の節、天竜川にも船橋が掛けられた。江戸時代にも天皇行幸、将軍の上洛や朝鮮通信使という特別な大行列があるときに、船橋がつかわれたという。

明治9年に木橋に掛け替えられ、東海道の往来に大きな貢献をした。天竜川のたもと六社神社の裏手、堤防の斜面に川に向かって「船橋之記」が建ち、「舟橋跡」・「天竜木橋跡」と二本の標識が並んで建っている。

天竜川は明治初年まで船で渡ったが、明治7年に船橋ができ、明治9年に木橋に架け替えられたと伝えられている。
 
 
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中野町を考える会の解説板によると、

「ここ中野町は、東海道のちょうどど真ん中であることからその名前がついた」とある。これが唯一つ東海道中間点》をあらわす標識(解説板)であると認定することにした。

余談だが、この中野町に「伊豆石の蔵」という明治初期のめずらしい石蔵が残っている。

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 伊豆石の蔵
 
<伊豆石の蔵>
 
「この蔵は、明時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で作られた蔵である。江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で伊豆や江戸とつながっていた。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われていた。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えている」と中野町を考える会の解説板が建っている。

 

<浮世絵に見る川越えの風景>

 

当時、川を渡るには主に2つの方法があった。1つは、川越し人足の手を借りて歩いてわたる方法だ。それは旅人が人足に肩車をしてもらったり、輩台(れんだい)に乗って担がれていく方法である。これを「徒歩(かち)渡し」という。もう1つが渡し船を利用するもので、「船渡し」という。
そのほか、川にたくさんの船を並べてその上に板を渡し、船橋をつくる方法もあったが、これは将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝といった大行列があった場合に橋の代わりとしたものであった。

 

現在はすべての川に橋があり、川を渡ることになんの障害もない。しかし当時の東海道を旅するには、おおくの川を渡らなければならなかった。天候や天災で渡れないときには、何日も宿場に閉じ込められ宿賃などの出費がかさんで大変だったと伝えている。

 

浮世絵から当時の渡川の様子を小田原宿・酒匂川にみておく。

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           歌川広重画「東海道五十三次 小田原宿 酒匂川」

現在、天竜川は旧国道1号にかかる鉄橋である「天竜川橋」を渡る。北側には磐田バイパスの「新天竜川橋」がかかる。天竜川東岸にある「池田の渡し跡」に立ち寄ることにした。
 
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天竜川橋
 
 
天竜川の渡し>


当時は、六所神社船橋跡より北へ約1.5kmにあるいくつかの渡しをわたって、旧東海道を東に向かった。天竜川の水量や天候により最適なルートを選んだと資料にはある。一番よく利用された渡しは、池田橋跡につづくルートであったようだ。渡船に関する権利をめぐっての争いが多発したために、徳川家康は、天正元年(1573)「天竜池田渡船朱印状」を出し「池田の渡方」に渡船の独占権を与えたから旅人は池田ルート(池田の渡し・現磐田市池田)を使わざるをえなかったようである。


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池田の渡し跡 (天竜川東岸)
 
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 明治時代の池田橋跡(天竜川東岸)

 
旧東海道を伝承・保存する地域社会の活躍に感謝>


ここ「中野町を考える会」の活動において見られるように、おおくの町が旧東海道を守り保存し後世に伝えようと行政と住民とが一体となって取り組んでおられた。この国の歴史と伝統を後世に残そうとする地域ぐるみの努力と熱い思いに感動させられた。日本は素晴らしい、日本人は賢明である。


旧東海道天竜川をわたる渡船場・池田の渡しをみたあと、見付宿へと自転車を走らせた。


 
■28 見付宿   
遠江国静岡県磐田市  京より256.2km/日本橋より235.9km
 
自転車は天竜川にかかる天竜川橋をわたり、天竜川東岸を北上、「池田の渡し」を確認したのち、東海道をすすむと右手に常夜灯があり、左手にある日本橋より63里の「宮之一色一里塚跡」をへてJR東海道線「磐田駅」に着く。
 
見付宿(みつけしゅく) は、海道五十三次日本橋より28番目の宿場である。現在の静岡県磐田市中心部に位置する。「見付」の名は、京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたそうだ。遠江国国府が置かれたり、鎌倉期には国衙守護所が置かれ、中世の東海道屈指の規模を持つ宿場町でもあった。しかし江戸時代、幕藩体制になってからはただの宿場町として栄えた。とくに天災による川止めなどのときや姫街道に迂回する旅人の滞留で大いににぎわったとある。

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歌川広重東海道五十三次・見附』  見附天竜川図

 
■63・宮之一色一里塚跡 静岡県磐田市宮之一色付近)  京より62里・241.8km/日本橋より63里・245.7km

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63・宮之一色一里塚跡

磐田駅より北へ、国分寺跡・府八幡宮をへて国道1号線を横切り「姫街道道標」のところで右折すると見付宿の街並みに入る。


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遠江国国分寺跡          <見付宿>                               姫街道入口



 
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 21 
   ■28見付宿 ー ② につづく