■29・浜松宿-②
京より61里・237.9km/ 日本橋より64里・249.6km
なお、一里塚跡より1kmほどすすむと天竜川東岸に突き当たる。ここにある海神と航海を守る神を祭る六所神社と船橋跡・木橋跡を左(北)へといくと江戸時代の渡船場に着く。当時、旅人はここから天竜川を渡船か、歩いて渡るかしかなかった。
<木橋・舟橋跡>
船橋は、橋の無い河川に多数の小舟を並べて綱や鎖で連結し、その上に板を敷いたもので、古くから存在した。明治天皇行幸の節、天竜川にも船橋が掛けられた。江戸時代にも天皇の行幸、将軍の上洛や朝鮮通信使という特別な大行列があるときに、船橋がつかわれたという。
中野町を考える会の解説板によると、
余談だが、この中野町に「伊豆石の蔵」という明治初期のめずらしい石蔵が残っている。
伊豆石の蔵
<伊豆石の蔵>
「この蔵は、明時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で作られた蔵である。江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で伊豆や江戸とつながっていた。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われていた。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えている」と中野町を考える会の解説板が建っている。
<浮世絵に見る川越えの風景>
当時、川を渡るには主に2つの方法があった。1つは、川越し人足の手を借りて歩いてわたる方法だ。それは旅人が人足に肩車をしてもらったり、輩台(れんだい)に乗って担がれていく方法である。これを「徒歩(かち)渡し」という。もう1つが渡し船を利用するもので、「船渡し」という。
そのほか、川にたくさんの船を並べてその上に板を渡し、船橋をつくる方法もあったが、これは将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝といった大行列があった場合に橋の代わりとしたものであった。
現在はすべての川に橋があり、川を渡ることになんの障害もない。しかし当時の東海道を旅するには、おおくの川を渡らなければならなかった。天候や天災で渡れないときには、何日も宿場に閉じ込められ宿賃などの出費がかさんで大変だったと伝えている。
浮世絵から当時の渡川の様子を小田原宿・酒匂川にみておく。
天竜川橋
<天竜川の渡し>
当時は、六所神社・船橋跡より北へ約1.5kmにあるいくつかの渡しをわたって、旧東海道を東に向かった。天竜川の水量や天候により最適なルートを選んだと資料にはある。一番よく利用された渡しは、池田橋跡につづくルートであったようだ。渡船に関する権利をめぐっての争いが多発したために、徳川家康は、天正元年(1573)「天竜池田渡船朱印状」を出し「池田の渡方」に渡船の独占権を与えたから旅人は池田ルート(池田の渡し・現磐田市池田)を使わざるをえなかったようである。
池田の渡し跡 (天竜川東岸)
明治時代の池田橋跡(天竜川東岸)
<旧東海道を伝承・保存する地域社会の活躍に感謝>
ここ「中野町を考える会」の活動において見られるように、おおくの町が旧東海道を守り保存し後世に伝えようと行政と住民とが一体となって取り組んでおられた。この国の歴史と伝統を後世に残そうとする地域ぐるみの努力と熱い思いに感動させられた。日本は素晴らしい、日本人は賢明である。
■28 見付宿
自転車は天竜川にかかる天竜川橋をわたり、天竜川東岸を北上、「池田の渡し」を確認したのち、東海道をすすむと右手に常夜灯があり、左手にある日本橋より63里の「宮之一色一里塚跡」をへてJR東海道線「磐田駅」に着く。
見付宿(みつけしゅく) は、東海道五十三次の日本橋より28番目の宿場である。現在の静岡県磐田市中心部に位置する。「見付」の名は、京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたそうだ。遠江国の国府が置かれたり、鎌倉期には国衙と守護所が置かれ、中世の東海道屈指の規模を持つ宿場町でもあった。しかし江戸時代、幕藩体制になってからはただの宿場町として栄えた。とくに天災による川止めなどのときや姫街道に迂回する旅人の滞留で大いににぎわったとある。
63・宮之一色一里塚跡