■30・舞阪宿
<遠江国・静岡> 京より229.0km / 日本橋より263.1.0㎞
JR東海道線「新居町駅」でトイレを済ませ、水を補給して走り出す。素晴らしい天気、天をおおう美しい雲模様のもと浜名湖にかかる西浜名橋を自転車を走らせ、一直線に舞阪宿にむかった。 当時は、もちろん渡船によって、ここ浜名湖今切りあたりを渡っていた。
途中にある弁天島をすぎたら国道1号線と別れ、右の湖岸道をすすむ。その先に「今切の渡し」の舞阪宿側の船着場・北雁木(きたがんき・当時の船着場)跡がある。
東海道53次の江戸・日本橋から数えて30番目の宿場町で、旧国は遠江国(現在の静岡県)にある。現在の浜松市西区舞坂にあたる。当時の舞阪宿は、総戸数541、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒といわれている。
明応地震により今切口で外海とつながり「今切の渡し」における渡船の距離がひろがったことと海の荒波にほんろうされることから、旅人は舞阪宿からの渡船を嫌って、浜松宿―見附宿間にある本坂道(姫街道)を迂回・回避して陸路で御油宿へ抜けたとある。
とくに女性は船酔いや荒くれ船乗りの乱暴やたかりを嫌って渡船を避けたようで、本坂道は女性でにぎわったため別名「姫街道」と呼ばれた。
舞阪宿マップ 雲海のもと西浜名橋をすすむ
浜松湖・弁天島公園 渡船場跡北雁木 (奥は浜名大橋、今切口)
渡船場跡北雁木をすこし進み、常夜灯のところで左へ曲がると舞阪宿の本陣跡にでる。
68舞阪一里塚跡石碑
舞阪一里塚跡を過ぎると国道1号を横切り、一直線のよく手入れされた松並木を気持ちよくラン(走る)する。
立派な松並木がつづく 松阪宿東口あたりに旧旅籠が残る
<江戸時代の旅装束や旅用品の一考察>
当時の旅は、のんびりしたもので、移動することそのものがエンターテイメントであったようで、庶民にとっては見聞を広める良い機会であったであろう。
旅人の服装は、頭の上から陣笠、振り分け荷物、合羽、着物、羽織り、手甲、股引、脚絆、草鞋という姿が一般的だった。一方、女性の旅姿は、管笠か手ぬぐいの姉さんかぶりで、着物の裾を細紐でたくし上げ、足袋に草履が相場だったようだ。
旅の必需品は関所手形(通称・往来手形)で、庶民の旅には絶対必要とされた。江戸時代の庶民の用いた関所通行証のことである。百姓、町人に庄屋、名主や檀那寺などが発行し、身分証明書を兼ねた。
一般的な携帯品には、手ぬぐい、柳行李(弁当箱)、振分け荷物、携帯用酒器(瓢箪)、携帯用日時計、方位計、薬、針、矢立、算盤(計算機)、下着、合わせ鏡(手鏡)、扇、風呂敷、タバコ道具(刻み煙草・煙管)、早道(江戸時代の財布)、印籠(救急用品入れ)、燈火器、燭台、ろうそく、小田原提灯、火打石、旅枕などがあった。これらすべてが携帯用に工夫され、できるだけコンパクトに仕上がっているのには驚きである。
ここに見られるように、時代的背景はあるものの当時の旅人の方が現代人よりも、旅を楽しくするための携帯用品をたくさん持っていたのは羨ましい限りである。その工夫、アイディアには目を見張るものがあり、ユーモアさえ感じる。
ただ、わたしのように露営する旅人は少なかったのだろうか、野宿用携行品には出会わなかった。というのも当時は山賊やかどわかしが出没していたのかもしれないし、旅の条件として、案外幕府あたりから、露営の旅は禁じられていたのかもしれない。
舞阪宿をでると「67・篠原一里塚跡」と「66・若林一里塚跡」を通り、新幹線とJR東海道線をくぐり浜松宿にはいって行く。
■29・浜松宿
<遠江国・静岡> 京より252.3km / 日本橋より239.8km
舞阪宿をでると「67・篠原一里塚跡」と「66・若林一里塚跡」を通り、新幹線とJR東海道線をくぐり浜松宿にはいる。
丁度、この両一里塚跡の真ん中あたり左に「領界石」があり、「従是東、浜松領」(これより東、浜松領である)とある。
■67・篠原一里塚跡 (静岡県浜松市西区篠原町付近) 京より58里・226.2km/日本橋より67里・261.3km
■66・若林一里塚跡 (静岡県浜松市南区東若林町付近) 京より59里・230.1km/日本橋より66里・257.4km
67・篠原一里塚跡案内板 66・若林一里塚跡石碑と案内板
<浜松宿 と 東海道53次の中間地点>
浜松宿は、当時の遠江国敷知郡の中心にあたり、司法行政を浜松藩が取り仕切っていた。 天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。
浜松宿は旧東海道の宿場で、東海道53次の江戸から数えて29番目、京から数えて25番目にあたる。また総距離でも、京三条大橋から江戸日本橋との中間に位置する。正確には浜松宿と見付宿の境である天竜川東岸あたりが東海道53次の中間点といえる。総距離約492kmの中間点246kmは両宿の境あたりである。
文献によると、「東海道名所図会」で、「京・江戸行程同里、町屋村をいふ。又、中之町ともなつく。天竜川の西端なり」、中之町は現在の浜松市東区中野町であろうか。地図によると、東海道は国道1号線(浜松バイパス)の南側を走る県道261号線に架かる天竜川橋をわたって「見付宿」に向かう。天竜川橋に入って行く浜松側にある信号「天竜川西」に広がる中野町(旧中之町)のことであろう。
注意深く「東海道中間点」なる石碑や標識をさがしたか残念ながら不発に終わった。
ただ、中野町を考える会によると、「ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、『舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし』と記されています。この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわりの場とする人々で活気があふれていました。」と解説している。
また当時、中野町は天竜川渡船を控え「間の宿」として賑わった。ここより天竜川にかけての東海道筋には旅籠や料理屋等が軒を連ね町屋を形成、天竜川渡船の旅人相手に繁盛したそうである。
話はそれるが、5年前に中仙道を徒歩旅行したとき、中間点である標識に出会い、中仙道の真中まで来たという安堵感にひたったことが懐かしく思いだされた。木曽路もよかった。
(同志社ローバーOGOB会ブログ / 2011「中仙道てくてくラリー」を参照願いたい)
浜松宿は、現在の浜松城の大手門跡近くの国道257号線沿いに、梅屋本陣跡、川口本陣跡、杉浦本陣跡、佐藤本陣跡、高札場跡と続き、連尺交差点より東に向かう国道152号線を走ると、松並木をへて天竜川に突当り、六所神社や船橋跡を経て天竜川橋を渡る。
浜松宿のように、大都市内の宿場跡には宿場としての遺構はほとんど残っておらず、跡地の解説板だけが建っている。
浜松宿は浜松城の城下町である 浜松城
疲れをとるため、久しぶりの休息を浜松市内にある「浜松温泉・喜多の湯」に立寄ったあと、連絡しておいた娘宅で一泊する。久しぶりの温泉、布団での安眠で疲れをとることにした。
▲《東海道53次 浜松宿―自転車の旅・第6日目宿泊》
2016年5月27日 6日目・午後2時到着~ 舎営 ~ 5月28日 7日目・朝5時出発
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(資料)
「旅行用心集」 八隅芦庵(やすみろあん)が書き残した江戸時代の旅行手引書に書かれている
当時の「旅への心構え」を数回に分けて紹介していきたい。現在でも十分通じる旅の心得である。
簡潔にまとめておくので、詳細は八隅芦庵「旅行用心集」で検索願いたい。
■ 江戸時代の <旅行用心61カ条> Ⅰ(①~⑩)
1.足に合った履物を選ぶこと ほか
2.荷物は出来る限り軽くすること ほか
3.宿に着いたら間取りを確認し、火事・強盗・喧嘩などに備えること ほか
4.翌日の準備をしておくこと(馬・籠・人足の手配を宿に頼み、出発時間、朝食までに旅支度
終了のこと)
5.明日の備えは早めに万全に準備しておくこと (必要不必要品の仕分け、明日の旅程ほか)
6.宿屋の決め方は、宿代が高くても立派でにぎやかな宿にすること
7.夏の食事で次のものはあまり食べるな (消化しにくい貝・筍・茸・西瓜・餅・赤飯など)
8.道中、食べ過ぎないこと
9.飲酒はほどほどにすること (空腹のときは飲むな、酒は温めて飲め)
10.焼酎はあまり飲むな (昔の焼酎は製法の関係上、中毒を起こしたそうだ)
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 20
■29浜松宿ー2 につづく