■0・日本橋
広重の浮世絵「日本橋雪中」も好きな一枚である。
深々と降る雪の中を蓑に三度笠、番傘に雪駄姿に遠くにそびえる雪帽子の富士山、日本古来の古典的な美がこころを打つのがいい。
品川・横浜間に鉄道が敷設された1872年(明治5年)から約170年前の江戸中期、1701年(元禄14年)に、ここ江戸の片すみで「赤穂浪士四十七士の討ち入り」がおこなわれた。
品川駅より約1kmで泉岳寺に着く。街道よりすこし横にそれるが、立ち寄ってみたい。
案内書には次のように書かれている。
「元禄14年3月14日(1701年4月21日)の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。対して、吉良義央には何の咎めもなかった。ことに即日切腹には、当日の城中にさえ批判の空気が存在した。
家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。赤穂城での評定では幕府に恭順して開城するか、抗議して篭城か殉死かで紛糾した。大石良雄は殉死を希望する藩士たちから誓紙を取り、吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求める義盟を結んだ。赤穂城は開城され、旧藩士たちは浪人となり江戸や上方の各地へ散った。
しかし、御家再興運動、堀部武庸(安兵衛)ら江戸の急進派はこれにあきたらず、吉良上野介への仇討ちを強硬に主張、元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となったことで仇討ちを決定した。
その後の討ち入りまで、また討ち入り後の江戸民衆の正義に応えてここ泉岳寺で自害し果てるという武士制度の忠義に殉じたことはよく知られている。」
泉岳寺をでて、旧街道である国道15号線を200mほど先、右に「高輪大木戸跡」がある。
<高輪大木戸跡>
高輪大木戸跡は、当時の江戸南口であった。
東京都教育委員会による案内板よれば、
「高輪大木戸は、江戸の南の入口として、旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。また高札場も札の辻からここに移された。
(一部抜粋)
「高輪大木戸跡」解説板 大木戸跡石垣
「田町薩摩藩邸(勝・西郷の会見の地)付近沿革」によれば、
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な日から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である。
西郷・勝会見の地碑よりほぼ1km先に、日本橋より1里の最後で最初の「芝・金杉橋一里塚跡」がある。
感無量である。導きに、一里塚に感謝したい。
広重の浮世絵の題材となり「金杉橋」が描かれている。牧歌的でのどかな情景である。
京より出立し、江戸に足を踏み入れた旅人は、その規模に目を見張ったに違いない。浮世絵や絵草子では知っていたがその粋な生活様式や都市計画、それにも増して人の多さに驚いたに違いない。
江戸の人口は、一説によれば100万人を超えていたとも言われている。当時すでに世界有数の大都市であったのである。その驚きは現在の東京でも変わるものではない。
江戸はまた、政治・経済の中心である。
幕藩体制の特徴は、中央集権である江戸幕府のコントロール下に、各藩が自らの領地を独立して経営管理を許したことである。この各藩の独立性を認める代わりに参勤交代やその他の制度により、幕府は各大名を統制したとも言える。
大名の石高により格式をもうけ、大名行列の規模にまで細かく口をはさんで、各藩の財政を圧迫した莫大な出費を強いた一方、江戸に大名の家族を人質にとって謀反を未然に防ぐ方策にも利用した。
今回の東海道53次と参勤交代もまた、切ってもきれない相関関係がみられる。各宿場や街道の地方創生であったと共に、参勤交代の行列をウオッチすることにより諸大名の期間中の言動を内定させ、幕府への謀叛有や無きやを探知していたともいわれる。
お蔭で、庶民にも旅の楽しさがこの整備された街道から始まったのである。
江戸時代の経済は、ちょうど我が国の経済的需給を米による石高で決めていたものを、金銀による価値変換という貨幣への転換期でもあった。消費が一層伸びたことにより、徒弟制度による専門職人が誕生したり、各経済分野の細分化により、経済活動の規模も拡大しつつあったと思われる。
活気に満ちた江戸であったと想像する。
いま、この大江戸に足を踏み入れるという興奮を、当時の旅人と同じように好奇の目で大東京を眺めている自分の姿があるのは確かである。
それは、新幹線で東京に乗り入れるのと、自転車で乗り入れるのでは、自転車や徒歩の方が江戸時代の旅人により親近感を持つと言えるからである。
■1芝、金杉橋一里塚跡 (東京都港区芝大門二丁目付近)
京より124里・483.6km/日本橋より1里・3.9km
一里塚跡の痕跡はない。誰もが知っている日本橋からの1里、それは街道筋の金杉橋にしかなかったということであろう。
現在は金杉橋の上を首都高速が走る重要な交通拠点である
現在の金杉橋(日本橋より一里の位置)
ここは東新橋、交通標識に「日本橋 3km」とある、あと一走りだ。 銀座に入った。
<0・東の起点‐日本橋 >
京より125里・487.5km/日本橋より0里・0km
日本国道路元標
<日本橋に無事到着 2016年6月3日 14:39 12日目走行距離 57km 徒歩2508歩>
このたびの「星の巡礼・東海道53次」でも羅針盤としていた「一里塚跡」の位置情報のわからないもの、確定表示板すらないもの、他人の裏庭にあるものや、付近の住民に見捨てられたもの、雑草に埋もれたものなど、どこかでいつの日か、陽の目を待っている「一里塚跡」が蔭ながらその輝きをひっそりと灯し続けてもいた。
われわれも又、ひとり一人が「一里塚」のようにおもえてならない。
しかし、「東海道一里塚」という125個の星で成り立つ星座は、いまなお宇宙に光り輝いていることは事実である。
なぜなら、その位置はGPSではっきりとわかるように、その存在を発信し続けているからである。
その位置に立ち、その存在を認識しあったとき、そこに悠久なる命(価値)をお互いに認め合い、歓びが爆発し、溶け合い、孤独を分かちあえるからである。
この中には合理的な江戸幕府が江戸域内に一里塚の必要性を感じなかったものもあったかもしれない。江戸っ子の旅立ちも一里塚の場所や位置は生活脳裏に刻み込まれていたのであろう、必要性を感じなかったかもしれない。江戸には、そういう一里塚もあった。
「ああそれは、あそこの橋のたもとじゃ」といえばすんだのだから、それも当然だし、なにも江戸内での一里塚同定の必要性もなかったのであろう。江戸域外での一里塚の必要性・重要性に比べれば江戸内での一里塚は住民にとってどちらかといえば、その必要性は薄かったと言える。
それにしても道中、必死になって「迷子一里塚さがし」をしたことは、今振り返ると楽しい青春でもあった。
その姿は、「星の巡礼者」そのものであったかもしれない。
この旅を終えるにあたって、旅をはじめた最初の想いを、思い起こして筆をおきたい。
東海道を歩きたい
司馬遼太郎先生の『街道を往く』シリーズを愛読して以来、想いはつよくなった
5年前、機会に恵まれて仲間と「中仙道てくてくラリー530キロ」を歩いた
木洩れ日に光る石畳み、幽玄なる苔むす世界、神や仏との出会い
人生もまた一本の道である
道は人生の友であり、伴侶である
いつもより添い、道迷いをただし、教訓を学ばせてくれる
『星の巡礼』の原点は道であり、人生である
この星を知り、人生を知るには、道を歩くことであると教えられた
愛語でむすばれている病を患い、病床に臥す仲間と共にでかけてみたい
125里約500kmを、松陰が、西郷が、竜馬が、新島襄が歩いた街道を
自転車で、野宿しながら、悠久なる星の輝きに導かれて
未知の、道の、人生の終点に一歩近づきたい
わが人生を歩きたいという願いが
星の巡礼をつづけたいという願いが
とうとう東海道を歩きおえた
大自然の中を、大宇宙の中を、そして夢の中を・・・・
清々しい
導きにたいし御礼感謝、そして合掌である
いつも勇気を与えてくれる友に、ありがとうをいいたい
今回も写真を持参しての自転車の旅となった
写真参加してくれた友・小山昌一氏(左)と田中祥介氏(右)
完
ネパール「カトマンズ=ポカラ街道」にて(2006)