37番・藤川宿より左手に名鉄名古屋本線をみながら自転車を走らせると、右手の音羽川を背に「一里塚跡」の木柱がひっそり立っている。たぶんこれが「77・長沢一里塚」である(と思う)。というのは、多くの一里塚跡の標識は名無しであり、帰宅後に調べなければならなかった。ここでは名電・長沢駅の付近にある江戸日本橋より77里目の一里塚として認めることにした。
77・長沢一里塚
当初、ここ36番赤坂宿と35番御油宿は、一大宿場「赤坂御位」と呼ばれていた。
あまりにも大きい宿場であったので、家康の命により松並木で仕切っていまの二つの宿場に分けられたという。
赤坂宿も御油宿も昔のままの街道筋を守っているようで、道幅も当時のままであることが嬉しい。
ぜひ一度泊まってみたいものだ。
御油宿と赤坂宿の距離が短いので、同じ月が見られることをうたっているのである。
街道左手すぐの関川神社にこの芭蕉の句碑がある。
関川神社境内にある芭蕉句碑
<赤坂宿 問屋場跡>
関川神社の手前の本陣跡の向かいに「問屋場跡」があり、解説板があったので紹介しておく。
「間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)の瓦葺の赤坂宿問屋場は、慶長五年に徳川幕府の命令によって設けられた。人馬の継立・即ち・伝馬事務を取り扱い、問屋取締・年寄・帳付・馬差・飛脚役などの役人を置き、人足三十人・馬数十頭をつないで即時の用に供した。」(豊川市教育委員会)
問屋場は、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ役割をはたしていた。東海道53次は、江戸幕府と京御所を結ぶ主街道であり、大名の参勤交代や公務出張者の往来の便をはかるため設けられた街道役場といったところであろう。
現代は、旧東海道より左手(東北)に国道1号線、名鉄、東名高速道路が走り、当時の人々が江戸・京都間を13日で歩いたところをわずか約2時間20分で到達してしまうという幻の世界に住んでいるのは驚きである。わたしの自転車での12日間の走破にくらべても、当時の旅人の13日間での踏破という健脚さに目を見張らざるを得ない。一日あたり平均40kmも歩いたことになる。
旧街道より名鉄名古屋本線操作場を望む 赤坂宿本陣跡(松平彦十郎家) 赤坂宿西の入口「見付跡」
風格ある連子連格子 旅籠 大橋屋(築300年) 「よらまい館」休憩所・トイレ・.水有り
赤坂宿街道案内板 赤坂宿の高札場跡 赤坂宿の東入口「見付跡」案内板
御油の松並木
Amazing grace how sweet the sound アメージング・グレース何と美しい響きであろうか
That saved a wretch like me. 私のような者までも救ってくださる
I once was lost but now am found, 道を踏み外しさまよっていた私を神は救い上げてくださり
Was blind but now I see. 今まで見えなかった神の恵みを今は見出すことができる
■35御油宿 につづく