■ 坂下宿 ー2
鈴鹿峠を汗して越えた旅人はここ坂下宿に入り、一夜の夢を結ぶもの、先の関宿へ早足に
行き過ぎていくものなどそれぞれの旅程に合わせて時を調整したとのであろうと想像する。
ここ坂下宿には落ち着きの中に旅人を静かに待つという忍の姿が漂っていた。
■47 関宿
関宿の旧東海道の街並み
関宿のいま、昔の宿場を偲ばせるその保存に住民の熱き想いを見るようだ。
関宿に入って、そのタイムトンネルに思わず己の姿勢を正した。自転車から降りて歩いた。
その姿に夏日が射し影をつくった。前方から参勤交代を終えたとある藩が近づいてくる。
こちらはどうするべきか。迷っているうちに宿場を抜けていた。
あっという間の緊張の宿場であった。
「東海道・関宿」道標 陸橋を越え亀山宿に向かう
歌川広重「関宿」 浮世絵
■ 46 亀山宿
亀山宿も官民挙げて宿場を大切に守っている。 昔を歩く旅人として嬉しい限りである。
亀山宿は、城下町である。敵から城を護るため街道はジクザクに曲がった道筋<桝形>に設定されている。
歌川広重「亀山宿」 浮世絵
<野村一里塚>は旧東海道で出会った数少ない原形を保つ一里塚のひとつである。
歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋(むく)の巨木がそびえ立っている。
400年前すでに日本にはかかる立派な里程標「一里塚」が主要街道に設置されていた
ということは世界史的に誇る歴史的遺産であるといえる。 日本人は先達の偉業を誇る
べきである。
「一里塚」をより詳述している一文がある。
「三重県亀山市野村にある一里塚。亀山城の西方、市内野村町の西はずれに位置し、1604年
の関一政(せきかずまさ)が築造した東海道一里塚の一つ。県内12ヵ所の一里塚のなかで唯一
そもそもは道の両側に塚があり、1711年(正徳1)の『東海道分間絵図』によると南側の塚は榎3本と記されている。現在は北側だけが残り、樹齢400年のムクの巨木が植えられている。わが国の
国道交通省のホームページによる「宿場」についてのわかりやすい説明文があるので
紹介しておく。
「宿場は宿(しゅく)、宿駅とも呼ばれ、街道の拠点となったところです。宿という名前は、平安時代の末期頃から使われだしましたが、江戸時代に宿駅伝馬制度が定められ、街道が整備されるとともに発展した集落です。
宿場には、文字通り旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割がありましたが、最も重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を、次の宿場まで運ぶという業務がありました。そのため宿場は、本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっています。
当初は農村とさほど変わるものではなかったでしょうが、交通量の増大や商品流通の活発化に伴い、商人、職人など定住するものが増え、接客空間を持つ町屋が現れるなど、都市的な様相を呈するようになってきます。」
ここでいうように、すでに400年前に物流の拠点としての宿場がその原型と役割を果たしていたと言える。
我が国の商業国家としての基礎的な輸送網が出来上がっていたともいえる。街道はすばらしい商業の道
であった。
■和田一里塚 京より21里82.5km (日本橋より104里)
和田一里塚
後世の人間にとって、手を加えなければ没するはずの史跡が模式復元であろうと残されていることは喜ばしいことである。
前述の「野村一里塚」とともに亀山市内に存在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造したといわれる。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものであると、亀山市教育委員会の案内板にある。
■45庄野宿 につづく
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