■ 土山宿ー2
<土山一里塚解説板>
「一里塚」は遠くからでもわかるように、台座をつくり、土を盛り上げ大木である榎(えのき)を植えていたことから山のように見えたのであろう。
もう少し、「一里塚」について紹介しておきたい。
「東海道一里塚跡 <省略> この制度が整ったのは、慶長八年(1603年)家康が日本橋を仮設し、翌九年この橋を起点として東海、東北。北陸の諸街道を修理し、その折36町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便を図ったことにはじまっている。
土山町の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司氏宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。
天気・健康状態の情報を残す 素敵な「土山宿レリーフ」案内板
「土山宿本陣跡」
(江戸へ向かう土山宿東出口にある)
両峠とも、どちらかといえば西側がゆるやかな勾配で、西側が険しい下り(上り)となっている。
旧東海道の峠越えでは、荷物を積んでいる自転車後輪が小石や石畳みの凹凸に翻弄され悲鳴をあげた。
しかしいまでは行き交う人はなく静かすぎる峠越えであった。
山賊もでたであろう。襲われたこともあったであろう。峠はただ沈黙の中にあった。静かだ。
■48 坂下宿
坂下宿は鈴鹿峠の東麓にあり、昔そのままの自然豊かな峠道は心休まる風景が今も残っている。
坂下宿はもともと片山神社下の谷間にあったが1600年代の大洪水で壊滅し、現在の場所に移設したとある。
下りであっても歩きに徹する。 ヘルメットの緒を占めて転倒に供える。ブレーキをかけるたびにタイヤが
よこすべりする。冷や汗をかきながら下り終えるまで緊張に、汗した。
しかし旅人ひとりにも出会わない静かな鈴鹿越えに、忘れ去られた峠に歴史の流れが止まって見えた。
鈴鹿峠を下り三重県(坂下宿)側峠登り口に出る 「鈴鹿馬子唄発祥之地」の碑
この日も静かな時が流れ、馬にまたがり馬子唄を聴くわたしがいた。 緊張と眠さが襲う鈴鹿越えであった。
< 坂下宿 2> につづく