《 シルクロード・トルコに入る 》
< 9月22日 シルクロード・イランよりトルコに入る ▲国際バス車中泊 >
<トルコのシルクロードにおける立地>
シルクロードを西進するに、生活や風景が西欧の匂いを帯びてくるから不思議である。中国ウイグル自治区より始まり、パキスタンやイランというイスラム国を抜け、おなじイスラム国トルコに入ったが、文明・宗教の十字路であるここトルコはイスラムの国より西欧に近い匂いがするのである。
特に、アラビック文字文明より、アルファベット文化圏に入ってきたという印象が強烈に体感できる。
シルクロードを歩き始めて、ここトルコの国境の街で初めてインスタントのネスカフェ―にたっぷりの砂糖とミルクを入れて飲んだ。これこそ西欧文明の香である。
コーヒーの値段も日本と変わらない400円(6,000,000Tz)、一泊1~5US$のゲストハウスを利用する格安バックパッカーにとっては贅沢である。
しかし、この一杯のコーヒーで突然、西欧文明に引き戻され、このあとここトルコよりイタリア・ローマまでシルクロードはヨーロッパの道を行くことになる。
ちょうど、トルコはシルクロード東洋(オリエンタル)とシルクロード西欧(ヨーロッパ)の分岐点であり、政治・宗教・生活環境が混ざりあう、混成国家といえる。
ギョレメ パノラマの奇岩とともに (トルコ・カッパドキア)
シルクロード踏破 トルコ横断バスルート
トルコ共和国国旗
<シルクロードは、赤茶色の砂漠の国イランより、緑豊かな草原の国トルコに入る>
イラン/トルコ国境近くにそびえるアララト山(標高1565m)のすそ野から広がる緑の草原は、イランに広がる荒涼とした砂漠を越えてきた旅人にとってはパラダイスの情景に出くわすことになる。
無限に広がるトルコの緑豊かな牧草地、人間のあたたかさとの共生、さんさんと照る太陽の光、それらに溶けあおうとする大地、今まさに天と地が融合する様をここトルコに入って眺めることが出来る。
美しく豊かな神の国を見る思いである。
トルコは、シルクロードを西進してきたものにとって、中国西安以来の緑の豊かさに出会う地でもある。
さらに続く西欧に入って行くことにより深い緑が出迎えてくれる。
旧約聖書創世記のノアの方舟が着いた山アララト山(標高5165m)
<天文学的インフレに驚くー2004年>
日本出発時調べたTL(トルコ・リラ)の両替情報と現地でのレートの違い、そのインフレ率の高さに驚かされたものである。
出発時調査レート(2002) 1US$= 305,300TL 1円=約 2,550TL (1US$=約120円)
現地両替レート (2004) 1US$= 1,540,000TL 1円=約13,051TL (1US$=約118円)
トルコ出入国管理事務所を出たところで当面必要な小口現金として20US$分を両替する。これでさえ
30,800,000TLとなり、ポケットに入りきらず困った。
インフレが進行している国では、クレジットカードを使用することに決めている。現金はVISAカードでトルコ・リラをCD機で24時間利用できるのでトルコ紙幣を出来るだけ持ち歩かないことにした。
600年にわたり隆盛を極めた史上最強な帝国の一つであるオスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家が君主(皇帝)として統治した広域多民族の帝国である。
その最盛期の支配統治の地域は、バルカン半島の北・オーストリアのウイーン、東はペルシャ湾、西はアフリカ北西部のアルジェリア、南はサウジアラビア半島のイエーメンに至る広大な領土を有していた。
オスマン帝国成功のもとは、領土の広さと、強固な中央集権的な組織を維持し、シルクロードに見られるように利益を生み続ける交易路を手中に収めていたことと、これらを守る完璧な軍事力を保持しいたことにある。
オスマン帝国の誕生は、13世紀末ごろ、アンカラ南方のアナトリア地方のトルコ系遊牧民の長であるオスマンⅠ世が、当時衰退しつつあったキリスト教国のビザンチン帝国(東ローマ帝国)を攻撃し、征服したのが始まりである。
これから向かうカッパドキアでは、オスマン帝国の難を逃れ、地下に潜ったキリスト教徒の岩窟都市や洞窟聖堂ほか、その潜伏生活を描いた壁画を観賞することを楽しみにしている。
1453年オスマン帝国は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの名を冠したコンスタンチノープル(現イスタンブール)を攻め落とし、ビザンチン帝国を滅ぼすのである。
コンスタンチノープルをイスタンブールに改名したオスマン帝国は、アナトリアに産声を上げてから600年後の1818年、第一次大戦における連合国の勝利により、敗者である中央同盟国の一翼を担ったオスマン帝国は解体され、消滅するのである。
ここにオスマン帝国は、ドイツ帝国・ロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国と共に滅亡した。
《 9月23日 トルコ首都 アンカラよりバスを乗り換えカッパドキアへ向かう 》
<美しい塩湖 トウズ湖>
トルコ入国後、国際バスにもどり国境の街「GURBULAK」(ギュルブラク)を経て、DOUGUBAYAZT(ドウバヤズット)に立寄り、翌朝9月23日早朝、終点のアンカラに到着した。
アンカラから南東へ約150㎞、カッパドキアに向かう途中に不思議な湖がある。湖面が塩の結晶で覆いつくされ、その結晶が太陽に照らされ、湖面が真っ白に輝いている。
不思議なのは、塩湖の水際まで牧草が枯れずに生えているのである。塩分の影響で植物は生えないはずなのだが・・・不思議である。
イスラエルにある死海のように塩水に浮遊泳することはできないが、ボリビアのウユニ湖のように湖面が塩の塊でおおわれているので歩くことが出来る。
美しい塩湖 トウズ湖①
美しい塩湖 トウズ湖②
塩湖であるトウズ湖の湖岸や丘陵地に広がる牧草地の淡い枯草の色彩は、キャンバスに塗られたごとくメルヘンの世界を演出している。塩をかぶった丘のゆるやかなカーブは、なんとも言えないエロチシズムただようふくらみであり、丸みをおびている。
手で触るとぴくッと奮い立ちそうである。
悪戯心のいたぶる景色にため息をもらし、忘却の世界にと導いてくれるのである。
トウズ湖のメルヘンの世界をあとにして、バスでギョレメ村を中心に広がる<世界遺産カッパドキア>に向かった。
<▲ 9月23~ 27日 Go”reme/Cappadocia ギョレメ/カッパドキア
Gu”mu”s /Silver Cabe Hotel に連泊 Single Room 10US$ >
カッパドキアに屹立する奇岩に穴を掘りオスマントルコ(イスラム教徒)の迫害を逃れたキリスト教徒が棲んでいた洞窟をリフォームしたホテルである。
天井や壁には手彫りのノミの跡が残り、いまだ迫害を逃れたキリスト教徒の息遣いが聞こえてきそうである。
カッパドキアの奇岩夜景と早朝の奇岩
Sketched by Sanehisa Goto
<ケーブ/洞窟部屋にて>
ハーフムーンが腹膨らませた分、月の明かりが増し、洞窟の窓から眺める夜空の星々はきらめき揺れている。
カッパドキア独特なキノコ岩のシルエットは月の明かりを浴び、土筆の背比べのごとく競い合っている。
その影絵は、あたかも月姫に向かって恋歌を高らかに歌い上げているかのようにも見える。
鎌首をもたげ、怪しく光り、くねらせるさまは情熱的でもあり、切なさも伝わってくるシルエットである。
まるでわが胸の内を謳いあげているようでもある。
今宵は、月姫や星姫に見向きをされなくてもいい、カッパドキアの土筆のような奇岩たちと共に太鼓を鳴らし、聖なる静かな月夜の下で一晩を送りたい。
カッパドキアで連泊したGu”mu”s Silver Cabe Hotel / ギョレメ・シルバー洞穴ホテル
そして祭りが過ぎたら、迫害されたキリスト教徒と共に静かに祈りの時間を持ちたい。
ああなぜ今宵は平静さを忘れ、心騒ぐのであろうか。
ひとりの聖僧の洞穴を掘るノミの音が闇夜にひびき、かすかに聴こえてくるようである。
何を思ってか、何を祈ってか。
神への感謝の響きであり、犬の遠吠えに和してカッパドキアのキノコ岩に木霊している。
《 詩 洞穴で瞑想す 》
無常甚深なるこの胎内に
ひとすじの月光ありて
闇裂きてわれと融合す
嗚呼、こころ溶けて
悠久に漂い
真理、われに満ちなん
幸せは神と共にありて
ああわれいまカッパドキアの
月下の洞穴で瞑想す
ノミ跡が残るキリスト教徒が隠れ住んだ洞窟部屋月で下の瞑想
洞穴ホテルのテラスから奇岩を観賞 洞穴部屋に吊るされた洗濯物
《 9月24~28日 カッパドキア ギョレメ村散策 》
<ギョレメパノラマ / Maccan Valley 散策>
鳩の家がいっぱいある岩峰<ウチヒサル>に上ったあと、ギョレメに向かう途中の右側一面に、白い滑らかな岩肌の波が続く壮大なパノラマに出くわす。その地層の模様も含めて絶景である。
ギョレメパノラマの中でも最高のビューは、岩峰ウチヒサルに上っての観賞であろう。是非、岩峰に上ってギョレメのパノラマを含め、カッパドキアの全景を見渡すのもいい。
ウチヒサル岩峰よりギョレメ・パノラマを観賞
ウチヒサル岩峰 ウチヒサル岩峰にてトルコ人Hassan氏と
岩峰ウチヒサルの周りには観光ラクダ・ツアーもある
カッパドキア・ギョレメパノラマ風景
カッパドキアの奇岩/キノコ岩群が立ち並ぶギヨレメパノラマ散策観賞
ウチヒサル岩峰の頂で出会った日本人大学生バックパッカー達と
カッパドキアの奇岩とツーショット
朝日に浮かぶカッパドキアの奇岩シルエット
<5時間の秘境ローズバレー・トレッキング>
最初、ギョレメの街を中心に周囲を一周するという安易な考えのもとローズバレー・トレッキングにでかけた。
しかし想像をはるかに超え、絶壁あり、オーバハング崖あり、急傾斜ありと本格的なトレッキングに興奮することとなった。
一時、道に迷い渓谷から出られないかもしれないという恐怖をおぼえたり、なんども道迷いのため戻ったりと大変なトレッキングとなってしまった。
イスラム教徒の迫害から逃れ、洞窟に逃れ住んだキリスト教徒の用心深さを随所に見ることが出来る。
一体どこから食料や生活用品を調達したのか、外界との連絡網はどうなっていたのか、想像するだけでも洞窟住民の困難な様子が伝わってくる。
ローズバレーにはリンゴやブドウなどが植えられ、洞窟では葡萄酒もつくられていたのだから驚きである。
洞穴は案外低いところから掘られていたのが、断層の浸食が繰り返され、現在のようなカッパドキアの奇観であるキノコ岩が出来上がったという。
キノコ岩独特な縞模様は、年輪を表しているようで、そのキノコ岩の起源やその歴史を見る目安になっているようである。
しかし奇岩であり、そのシルエットはアニメの世界であり、その色彩はメルヘンの世界である。キノコ岩が樹立するさま、それもいろいろな立ち姿で競っている光景はデイズにーの世界でもある。
ギョレメ・ローズバレー・トレッキング地図
有数の絶景スポット・ローズバレーの夕焼け
<ウフララ渓谷14㎞トレッキング>
深い渓谷に川が流れ、川に沿ってポプラ並木や洞窟住居が並ぶなか、緑深い景観が広がっている。
若者たちが集う約14㎞の<ウフララ渓谷トレッキング>に参加した。
渓谷の南側に切り立つ100m近くもある崖に、数え切らないほどの迫害キリスト教徒の洞窟住居と約100もの岩窟教会が廃墟として残されている。
《 神に捧げる詩 》
―神よ、われをカッパドキアに導き給いて無常の歓びを感ず
幾多の信仰への迫害を乗り越えし先達の苦しみの中に
信仰の姿に接しわが泪溢れしや 嗚呼われ永遠の愛を観ずー
Ihlara Valley / ウフララ渓谷 観光ツアー参加者
ウフララ渓谷全景
ウフララ渓谷の迫害キリスト教徒の洞穴住居跡
迫害キリスト教徒の洞窟住居
スケッチに見る迫害キリスト教徒の洞窟住居
<ウフララ渓谷にみる迫害キリスト教徒の遺産>
ここウフララ渓谷の洞窟には、イスラムの迫害を逃れて渓谷に隠れ住んだキリスト教徒の遺産として教会や住居跡が残されている。スケッチに描き残してみた。
ウフララ渓谷に見られる洞窟教会
壁画のキリスト像と天使像 と 洞穴教会全貌 疑似十字架と目をつぶされたキリスト像
洞窟教会に描かれた壁画
<カッパドキアの巨大地下都市―Under Graund city- カイマクル>
地下都市カイマクルは、投宿先のギョレメ村の隣村ネヴシェヒルより南へ約19㎞先にある。
カッパドキアにある多くの地下都市の中では最大規模の一つで、最も観光客に人気があるという。
地下4階まで発掘され、規模から推定するに約2万人が共同生活していたであろうといわれる。
各洞穴居住区は傾斜のある狭い通路でつながり、明かり窓はなく照明がないと歩けそうにない。
カイマイクル地下都市案内図によると竪穴の空気口を中心に、地下水脈にまで伸びており、敵や寒気から身を守るように設計されている様である。
通路には敵の浸入を防いだり、火事の延焼を防ぐためだろうか、通路そのものを遮断する円柱型の防禦石が配置されている。
地下都市/カイマイクルの断面スケッチ
地下都市カイマクル断面案内図
地下住居 通路防禦用遮蔽円石
竪穴式空気口 地下都市の狭い手掘り通路
<ハマム/トルコのサウナ体験 32,000,000TL/約2500円/20US$支払>
カッパドキア・ギョレメで連泊したGu”mu”s Silver Cabe Hotel から歩いて15分の所にある中央広場にハマムがり、トルコ式サウナを体験した。
男子更衣室に案内され、全裸の上、下半身に渡された木綿の布を巻き付けて、浴場へ向かう。浴場中央には大きな大理石のマッサージ台が置かれ、周囲にはサウナ部屋が配置されている。
サウナ部屋で汗を出したあと、ケセジ(さんすけ兼マッサージ師)のいるマッサージ台でアカスリやマッサージを受けるのである。
ハマムとは、アラビア語で<熱い空気・湯の供される場>という意味を持つトルコの伝統的なスチーム風呂のことである。
浴場には浴槽はなく、アカスリごとに湯をぶっかけられるのである。日本のように全裸になることもなく
アカスリの時でさえ木綿の布を下半身に巻き付けておくこともできる。
もちろんスッポンポンになり手厚いアカスリを受けている地元のおじさん達もいる。
スチーム・サウナ独特の蒸せた汗のにおいが鼻をつくが、歴史あるハマム浴を楽しむことが出来た。
日本でいうトルコ風呂のイメージはなく、トルコ政府からも風俗店としての<トルコ風呂>の公称を改めるよう日本政府に対し幾度か要望が出されているようである。
ハマム内部でのリラックス・スタイル
<ブラジル青年との神学論争>
同じ洞窟ホテルに宿泊中の、神の存在を信じないというブラジル・カンピーナス州出身の青年オルテガ君(20才・サンパウロ大学法学部)と出会った。そこへ日本の青年たちも加わり神学論争、神の存在についての論争が始まったのである。
青年は純粋である。論争を興味深く聞かせてもらった。
O. <あなたがたの宗教は何ですか?>
O. <わたしは神を信じない。無宗教である>という、
その論拠についてと彼は語りだした。
オルテガ君の<なぜ神はいないか>との論考によると・・・
聖書の事実は、神の意志ではなく、聖書編纂者が伝えたいことを考えて記述しているだけであって、神の存在とは全く無関係であるという。
例えば、旧約聖書の創世記の初めの項に出てくる「ノアの方舟」は、大洪水に備えて舟を造ったという事実
であって、神の意志ではないという。
また、アダムとイブが善悪を知る実を食べたのも自分たちの意志でそうしたのだと・・・
この青年の知識が聖書を多用していることに興味を持ったのである。実によく聖書を、特に旧約聖書のもう一方の裏側を研究していることに驚かされた。
この青年によると、聖書には二つの読み方があるという。
それは表面的に素直に読む方法と、ストーリーの裏側を比喩的に読み解く方法があるという。
彼がなぜ神を信じなくなったかを語るなかで、爺さんから三代にわたって旧約聖書に生きるユダヤ人であることを告白した。爺さんと、親爺の生き方を観察していると、どうしても神の存在を否定している生き方をしており、自分は無神論者になったのだと・・・
イエス、ブッダ、アツラーと、みな神がつくった人物。もちろんわれわれ一人一人もみな神の子であって、神ではないと・・・。
彼の言う無神論、そこには神の存在の確認作業という難解な家庭を経ての結論であることが見て取れる。
沈黙のあと、彼は静かに私に語りかけてきた。
<あなたは今まで出会った大人と違う。あなたは僕の意見にじっと聞き入り、わたしの考えを認めてくれた人である。ありがとう。>と左手をわたしのハートの上に手を差し渡し、握手を求めてきた。
彼が必ず神を信じるであろうと確信した瞬間であった。
バックパッカーとして世界を渡り歩くとき、宗教の話が出ることが案外多い。生活に密着した宗教国家も多いから当然であるが、信者であれ、無宗教であれ、宗教や神についての己の宗教観についての考えを深めておくことをお勧めする・・・と同席していた日本の青年たちに伝えさせてもらった。
多くの日本の青年は、宗教や神の話になると肩をすぼめておのれの宗教観のなさを自虐的にとらえてしまうことが多く見受けられる。
青年たちは、これからも続くビジネスのグローバル化にのみ込まれ、国際社会に出て活躍する機会が多くなることは必定である。
ビジネス、学究、技術であろうと、必ず自分の信条・信念を相手に吐露して人間的信頼関係を築くことから入って行くことになることを覚えておいてもらいたいものである。
自分の意見を持ち、相手に伝えられることが国際人としての第一歩である。
神学論争に耳を傾けたであろうギョレメ・パノラマ村の岩穴ホテル群
ギョレメの絶景パノラマ
<ある中年のご婦人との出会い>
同じ洞穴ホテルに長期滞在中のご婦人Wさん(46歳)との出会いがあった。
Wさんは、同じシルクロードでも中国てトルコに入国したという。
ご婦人にして破天荒な人生を歩んでおられることに興味をもったのである。
菊栽培の職人として奉公に入り、親分の背中越しに4年間指導を受けたことに発奮、植木職人となった異色のご婦人である。それ以前は小料理屋の女将や、中米グァテマラの地織りの輸入販売を手かけたという。
旅のきっかけは、母親との確執や激突、5人姉妹間の葛藤などから卒業できたこと、更年期による穏やかな人生観への変化もあり、ひとりして心の平静を楽しむために中年のバックパッカーに変身したとのことである。
性格的に武士道や、愛国心、徴兵制に興味があり、日本の青年たちに日本の良さを残す活動も続けているとおっしゃる。
また、オウム・サリン事件の実行犯である林郁夫が友人であったことから人生観が変わったと一言・・・。
わたしから見てWさんは、江戸っ子また植木職人らしく気風がよく、眼力があり、凛々しい姿は女剣士というか明治女の心意気を感じたものである。
自分の人生を見直すためにも旅に出たと、またこの旅により人生に花を添えたいとも語ってくれた。
旅は、人生に潤いを与え、人の営みから学び、過去を洗い流す力を持っているのである。
手に入れたトルコ絨毯
<人生は自分で枠を決めるべきではない>
5人の日本人大学生バックパッカーとの間に、<自力と他力>についてのやり取りがあった。
自力を確実に身につけたものは、必ず人の役に立ち、社会を再生し、家庭平和に貢献するだけの実行力とハートを身に着けるものである。そして更なる人生の飛躍を目指すことが出来るといえる。
必ずその人の能力、忍耐、努力、感謝の姿を見つめ、認める者がいるからである。
そう、その姿を、神をはじめとして、一生の間に3~4人は周りにいるのではないだろうか。
そして自力では勝ち取れなかった人生における大切な部分が、そのうち日の目を見る時が必ずやってくるのである。これが他力であり、神を通した救いの手であると云えるのではないだろうか。
自力に他力が加わって人生は一つの形に仕上がっていくといえる。
素晴らしい人生創造の世界と言えないだろうか。
<バケーション論争>
―ALPINE/アルパインという会社を知っているか?-
ローズバレー・トレッキングに参加した時、ドイツ人から尋ねられたのである。
―あの会社は、たしか有名なカーオーディオの会社で、ドイツの会社だったねーと答えると、
―何言ってるのだ、あの会社は日本の会社だよ。僕はそこで働いているのだーと。
―そしたらドイツにあるアルパイン社の現地社長はもちろんドイツ人だよねー
―いや、それが日本の本社からきている佐藤という人なのだ。
今回、バケーションをとるのも大変だったのだ。
なぜ日本人はバケーションを取らせなかったり、取らなかったり、取るのが罪だと思うのだろうねー
―いや、君の言うとおりだよ。
君が現地の社長になって、効率のあがるバケーションの取り方を指導し、日本人にバケーション革命を起こして欲しいねー
バケーションは労働に対するボーナスであり、労働者の権利であり、家族サービスの時間であると考え、
1~2か月の長期バケーションをとる西欧の人々にとって、1週間という短期休暇でさえ一緒に働く同僚への気遣いや、他人が働いている時に自分は働かずに休暇をとっていることへの罪悪感をいだく日本人が奇妙な人種に見える様である。
ビジネスのグローバル化も進むなか、日本人も遅まきながらバケーションのグローブ化をはかる必要がある
ようである。
《 9月28~29日 カッパドキア・ギョレメ ⇒ イスタンブール 約600㎞
長距離夜行バス10時間の旅 2800円/VISA使用 》
カッパドキア・ギョレメよりイスタンブールへは、長距離バスが格安である。ただ一日に2便なので出発当日では満席になる恐れがあるのでカッパドキア・ギョレメに到着した日にチケットを予約し、購入しておくことをお勧めする。
ギョレメのバス・ステーションは、街の中央にあるオトガル(噴水広場)のドルムシュ乗場にある。
<トルコ、チャドルをつけない女性が闊歩する>
今回のシルクロード踏破の約半分は、中国ウイグル自治区を経て、イスラム国パキスタン、イランよりトルコに至る。トルコに入って数日たつが、チャドルを着けてトルコに入ったイラン婦人と別れて以来、チャドル姿のご婦人に出会ったことがない。
20世初頭よりイスラムの近代化を進めてきたトルコは、イスラム国であるパキスタンやイスラム革命下にあるイランを経てやって来た旅行者にとってその西欧化に驚かされる。
かえってトルコの人々からチャドル着用の同じイスラム教徒婦人を見る目に奇異と戸惑いを感じているようである。
イランからの青年たちは、髪の毛を露出したトルコのイスラム女性の素顔に出会って、あたかも浦島太郎のような新鮮さをその顔に表していた。その表情には、イスラム革命に縛られている壁が厳然と立ちはだかっているように感じられた。
イランの青年たちに自由な表現と、思想と、行動ができる日が何時訪れるのであろうか・・・。
一方、チャドルをつけない女性が闊歩するイスラムの国トルコ、そこに新しいイスラムの風が吹いているように感じられた。
もちろんトルコの厳格なイスラム女性は、チャドルより軽装であるスカーフを巻いてはいる。
<トルコの大地との再会>
今から5年前、1999年12月アメリカ口腔外科学会の要請でトルコ・アンカラ地震被災者救助支援(顔面破損修復)スタッフとしてアンカラに滞在した。
任務を終えたあと、帰国のためイスタンブールに滞在した折、亡きパートナーの言葉に従って、散灰のため
ボスポラス海峡を船で黒海までを往復したことを懐かしく思いだしていた。
特に、アンカラの地震被災地での焚火をしながら野戦用テントで寝起きし、冬の夜空を照らす満月が被災者にエールを送っている様はこころを慰める情景であったことを覚えている。
《 9月29~10月1日 トルコ・イスタンブール 》
<▲ イスタンブール International Youth Hostel 連泊 1,500,000TL/8US$/VISA>
アヤソフィア寺院のすぐ西側の細い道をトプカップ宮殿の方(北)へ歩いてすぐのところにある。この細い道
が私にとって喧騒のイスタンブールから離れ、静かに歩ける穏やかな小道であった。
<InterYouth>の看板がかかったバックパッカーの聖地である。
シルクロード・ヨーロッパ・ルートは、トルコよりギリシャを経てブルガリアからルーマニアに入り、ハンガリー、オーストリア経由、陸路イタリアへ向かうことにしている。
まずは、イスタンブールでブルガリア総領事館に出向いてビザ申請をすることにした。
しかし、元共産主義国であったブルガリアの総領事館での官僚的取扱いに辟易させられる場面に立ち会うことになった。
ロシアでのシベリア横断鉄道の旅の途上で経験した旅行者に対する旧ソビエット的官僚の取り扱いには慣れてはいたつもりだが、更なる高圧的な元東欧共産政権下のサービスの時代錯誤的取扱いが継続されているのに驚いたのである。
ビザ申請者は、その国に興味をもってか、またビジネスで入国する人たちであるからその国にとって友好で、有益な人たちであるから、welcomeすなわち歓迎される人たちであるはずである。
しかし、申請者への友好的接し方を忘れているのであろうか、いや申請者を見下すような高圧的な言動が目立ってブルガリアという国の尊厳を傷つけているのであるから始末が悪い。
それも、すでに共産主義体制から解き放たれて13年もたっているがいまだ権威主義的威圧をもって民衆を取り扱おうとするのである。
ブルガリアへの入国を希望する申請者50人ほどに対して、重厚で威圧的な鉄製扉を固く締め、直射日光のもとに4時間も待たせたのである。開門が10時と遅いが、領事館内で待たせるという発想はなさそうである。それも整理券さえ発行されず、トイレさえその場を空けることもできないのである。
時間になっても並んでいる順番ではなく、総領事館スタッフの眼鏡にかなったものから入館させているからお粗末である。2~3人のグループで入った申請者は、建物入口でまた待たされる。6時間過ぎた時点で不足書類を指摘され明日持って来いという。最悪と言っていい対応である。
この時点で、どのスタッフも日本のパスポート携帯者には、ビザは必要でないということを伝えてくれる者は一人もいなかったのであるからその不親切さにまたまた呆れたものである。
それも総領事館宛、ビザ発行料として36,000,000TL(約3000円)も前納したあとでのことである。
なんとも解せない官僚的なやり方、セクショナリズムが共産主義時代から引き継がれているようであって悲しい思いにさせられた。
この国、ブルガリアを訪れようとする申請者にここまで厳しく取り扱う必要があるのかと疑いたくなる。国家の顔である総領事館のスタッフに入国希望者に対するWelcomeの姿勢がない限り、みなブルガリアを敬遠するような気がしてならない。
華麗な首都ソフィアの光景と、鉄の冷たさを持った秘密警察的もてなしとのギャップがどうしても頭の中で結び付かないのである。
《 9月29日 イスタンブール 》
<Bosphorus Cruse/ボスポラス海峡クルーズ>
東洋と西欧の交差点イスタンブールは、シルクロードの重要拠点であり、情熱と喧騒の渦巻く大都会である。
また東洋と西欧を分けているマルマラ海と黒海を結んでいる海峡がボスポラスである。
イスタンブールの中心・トプカプ駅よりメトロ(地下鉄/12万TL/約50円)に乗って、アクサライ駅経由、終点のエミノニュ駅で下り、ガラダ橋手前を右手に入ると<3 Bogaz Hath/ボスポラス海峡行>クルーズ船の乗場がある。
クルーズ船は、エミノニュの桟橋を出て、海峡に沿う東西の街に立寄りながら、黒海近くのアナドル・カヴァウで折り返し、エミノニュ桟橋にもどってくる。
所要片道1時間半の観光で、往復600円(VISA使用)、一度は乗船し、東西世界を隔てている海峡をクルーズするのもいい。
エミノニュ発は1日10:35/12:00/13:35の3便である。折り返し便は、突然の変更があるので現地窓口で乗船前に確認しておくことをお勧めする。
クルーズ最終寄港地・ ボスポラス海峡最北のアナドル・カヴァウ港にあるレストラン2階から海峡やその北奥に広がる黒海を名物の鯖サンドイッチを食べながら眺めることが出来る。
ボスポラス海峡東西イスタンブールを結ぶフェリー ボスポラス海峡入口のマルマラ海に沈む夕日
ボスポラス海峡クルーズ船カラミス号にて
ボスポラス海峡クルーズ船よりイスタンブール・エミニュ桟橋、ボスポラス大橋を望む
ボスポラス海峡クルーズ船 M/S KALAMIS カラミス号に乗船
エミノニュ桟橋をでてすぐボスポラス大橋、続く第2大橋をくぐり黒海へ向かう
ボスポラス海峡クルーズ帰路の風景、イスタンブールのビルディングを遠望
ボスポラス海峡出口より黒海を望む(左・ルメリカヴァウ灯台/右・アナドルカヴァウ灯台)
ボスポラス海峡最北の街・アナドルカヴァウ港 ボスポラス海峡最北より黒海を背景に
ボスポラス海峡クルーズ最北寄港地・アナドルカヴァウ
黒海に面するトルコ最北の漁村・キリオス
黒海の海面に光陰を落す太陽
《 詩 コンドルとなりて黒海に舞う 》
われコンドルとなりて 黒海の空を舞う
風に乗り 風に乗せられ 風になりてや
見果てぬ夢を求めて飛びしわれを 君
恋するボスポラスよ 我を抱きしめ給え
我を呼びし君の声 我が魂に満ちてや
われコンドルとなりて 黒海の海に舞う
< ボスポラス海峡との再会 >
先にも述べたが前回のトルコ訪問は、5年前の1999年12月、トルコ大地震のボランティアとして参加した時である。
その折、帰国に際して亡きパートナーをここボスポラス海峡に散灰したのである。病床にあって東西文明の交差点であるイスタンブール、その境界線であるボスポラス海峡に夢を馳せ、快復後最初に訪れようと語り合っていたところである。
その散灰地点、第二ボスポラス大橋を観光船は静かに通過しつつある。黒海からマルマラ海へ抜ける風は爽やかである。再会を記念して三つの硬貨(五円玉・百円玉とトルコ250TL玉)をボスポラス海峡に沈めた。
東洋と西欧を結ぶボスポラス大橋
《 詩 散灰ボスポラス海峡に再会す 》
ああわれいま 第二ボスポラス大橋を通過しつつあり
この地5年前 パートナーの遺灰を散じし海峡にして
魂の悔悟を打ち破りて 内なる霊の慰めを得んとする
甚深なる鎮魂の波に洗われて ただわれ沈黙に佇む
今日も変わらず 海峡のさざ波踊り 爽やかな風吹き
想いて激しく涙溢れ 再会を喜び 感謝するものなり
<ボーリス氏との出会い>
イスタンブールでの宿泊先<インターナショナル ユースホステル>の同室者で、国連キプロス平和維持警察隊員のスエーデン・ストックフォルム在のボーリス氏と知り合った。
キプロスの主権を主張するトルコ系住民とギリシャ系住民の紛争解決のため国連より派遣され、休暇のためここトルコをバックパックしているとのことである。
夕食後、誘い合ってソフィア教会の裏手に位置するユースホステルの屋上のガーデンからボスポラス海峡の夜景を観賞しながら祝杯を挙げた。
ボリス氏とは、その後、家族を含めて長きにわたって友情を深めている。
ボーリス氏とイスタンブールYHで
シルクロード東西を結ぶボスポラス大橋方面の夜景
《 9月30日 イスタンブール 》
<イスタンブール 最終日のチェックリスト>
□ブルーモスク □トプカプ宮殿 □ハマム体験 □地下貯水池 □マヤソフィア
□YH同室者ボリス氏との夕食・ボスポラス海峡の夜景観賞(YH屋上)
□YH宿泊代(VISA) □T/Cをユーロ€に銀行両替
□生活用品購入(靴下・スケッチブックほかーグランドバザール/隊商宿見学)
□トルコ出国準備・シルクロード・ギリシャ入国準備・パッキング
トルコ/イスタンブールは、西洋文明と東洋文明の交わる十字路として歴史に花を咲かせてきた。
また、ボスポラス海峡によりヨーロッパ側(トラキア地方)とアジア側(アナトリア半島)に隔て、地政学的にも歴史を刻んできた大都市である。
イスタンブールは、歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な 拠点であり、いまなおその立地に東西の交易路としての物流や人的交流が盛んである。
なかでも宿泊先インターナショナル ユースホステル(アヤソフィア南端)より東へ歩いたところにある世界最古のアーケード市場<グランドバザール>内に、トルコでも最大規模のシルクロード時代に利用されたZincirli Han(ズィンジルリ・ハンー隊商宿)が残っている。
グランドバザール バザール内にたたずむ隊商宿
<トルコサウナ/Hamami/ハマミを体験する>
カッパドキアのギョレメ村で、ハマム(公衆浴場)でトルコ・サウナを初体験した。ここイスタンブールでもハマミで汗を流し、旅の疲れを癒すことにした。
一度体験しているので、緊張感もなくフロントでタオル・固形石鹸・腰巻・サンダルを受け取り、入浴料10
US$を支払う。今回はシャワールームや、冷水浴槽があり日本のスーパー銭湯に似たところがありリラックスすることができた。
<世界一美しいムスクといわれる魅惑のブルームスク / スルタンアフメット・ジャミィ>
ブルームスクとして親しまれている<スルタンアフメット・ジャミィ>は、アヤソフィアのちょうど向かいある。
壁、天井、柱を覆う模様がほんのり青を帯びていることからブルーモスクと呼ばれている。
世界でただ一つ6個の尖塔を持つ魅惑的なブルームスクを背景に
Sketched by Sanehisa Goto
AC325年、今から約1700年前、東ローマ帝国のコンスタンティヌス2世によりキリスト教大正教の大本山として大聖堂建築が始まった。
その後、AC1204年ごろにはローマンカトリックの大聖堂とされたが、AC1453年オスマントルコによるコンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落し、スルタン・メフメット2世によって大聖堂はイスラム教の寺院に変えられ、ビザンチン文化を象徴しているイエスや洗礼者ヨハネのモザイク絵は漆喰で塗りこめられた。
AC1931年、アメリカ調査隊により漆喰の下の聖母マリアに抱かれた幼子イエスのモザイク画が発見され、モザイク画を元に戻して現在に至っている。世界でも代表的なキリスト教とイスラム教とが同居する空間として有名であり、現在は博物館として保存されている。
イスラム教寺院となった聖堂には、メッカの方向を示すミフラーブや、写真の中にある円板のように金の文字でアツラーやイスラム預言者の名が飾らえている。
アヤソフィアに正座して、ビザンチン建築の最古傑作といわれるアヤソフィアの数奇の運命をたどってみた。
(注:2020年7月現在、トルコ政府はアヤソフィア博物館をイスラム教寺院に戻す法案に署名、世界から非難の声が上がっている)
アヤソフィアの天井にあるマリアに抱かれた幼子イエスのモザイク画と、
大きな円板に見られるイスラム聖者の名前が同居する
左・南回廊に残っている洗礼者ヨハネと聖母マリアに囲まれたイエスのモザイク画
右・正座して、ビザンチン建築の最高傑作といわれるアヤソフィアの数奇の運命をたどってみた
<地下貯水池―イエレバタン・サルヌジュ 世界遺産>
イスタンブールには、地下に広がる宮殿のような貯水池<イエレバタン・サルヌジュ>がある。
何とこの大規模な地下の大貯水池が現代ではなく約1700~1500年前のコンスタンティヌス帝時代からユスティアヌス帝の時代に造られたというから驚きである。
内部はコリント様式の円柱で支えられており、まるで水を湛えた宮殿のような光景である。
地下宮殿の最奥には、1984年に発見された怪しい顔を横たえる二基の古代ギリシャのローマ神殿より移されたギリシャ神話<メドウーサの顔>が横たわっている。
<メドウーサ>は、ギリシャ神話に出てくる怪物で、宝石のような眼を持ち、見たものを石に変える能力を持つとされる。また、海の神・ポセイドンの愛人であると伝えられている。
コリント様式列柱が地下宮殿のようである メドウーサの首
地下宮殿と呼ばれる広大な地下貯水地で
トプカプ宮殿は、イスタンブールの小高い丘の上に建てられている。ここからは眼前に金角湾、マルマラ海、ボスポラス海峡を一望できる最高の景観の地である。
トプカプ宮殿は、15世紀の半ばから20世紀初頭にかけての約500年間、巨大な権力を維持したオスマン帝国の絶対支配者スルタン(王)36人の居城であった。
城壁に囲まれ、いまなおその神秘性を漂わすトプカプ宮殿のその全貌は、ボスポラス海峡クルーズの際に
船上から望見できる。
トプカプ宮殿の送迎門
トプカプ宮殿の立地は、三方を海に囲まれた丘の上に、シルクロード時代より東西交易の接点であるボスポラス海峡を見下ろし、城壁に大砲を配置し敵からイスタンブールの港を守る砦としての役割を果たしてきた。
イスタンブールは、オスマン朝の支配地域であったオーストリアのウイーンから黒海、アラビア半島、北アフリカという広大なエリアの中心地として繁栄した。
トプカプ宮殿そのものが街であり、その城内には議会の建物や、スルタン(王)の居室、側室の婦人たちの部屋を備えたハレムもある。また最大6000人もの料理人が働いていたという厨房の大きさにも驚かされる。この厨房から突き出ている煙突がやく30本もあるというのだから、宮殿での宴会の規模を推し量ることが出来る。
ハレムは別料金となり、大変な行列に並ぶことになったが、子供のころより魅惑的なハーレムに対し少年なりに憧れていたこともあって是が非でも夢を果たすことにした。
謁見の間(大広間)にあるスルタンの王座 ハレムの浴室<ハマム>
有名なトルコタイル<生命の樹・天国の庭>
ムラトⅢ世の間では、オスマントルコで好まれたスモモをモチーフにしたイスタンブールで一番有名なタイルを見ることが出来る。
トプカプ宮殿そのものがタイル芸術の結晶であり、その幾何学的なタイルの模様、色彩に魅了させられる。
《 10月1日 イスタンブール/トルコ ⇒ アテネ/ギリシャ
国際夜行バスにて移動 》
バス会社<ULUSOY>で約21時間の<トルコ/イスタンブール⇒ギリシャ/アテネ>へのシルクロード移動の旅である。
二階建ての大型バスの乗客は40名、そのうち日本人1・シンガポール人4人の東洋系5名と、残りのトルコ・ギリシャ・西欧系乗客が乗車した。
途中、40分間のランチタイムを利用して、トルコリラ(TL)の小銭をレモン・シャーベットに変える。
ようやくトルコ・国境の街エディルネに到着する。エディルネは、ギリシャ国境へ5㎞、ブルガリア国境へ10㎞のところにあり、ヨーロッパへの出入り口としての役割を果たしている。
歴史的にエディルネは、オスマン帝国の首都としてバルカン半島統治の重要拠点であった。 しかし、オスマン帝国崩壊後のギリシャやブルガリアの独立にあたって、行政拠点はイスタンブールに移り、その後は、国境地帯の地方都市として現在に至っている。
その後、約1時間の出入国手続きを終えて、シルクロード・ギリシャに入る。
15:15pmトルコ国境を越えてギリシャ国境の村カスタニスに入った。
運賃は115,000,000TL(77US$-VISA払い)。
座席番号は33番、西日の強烈な暑さに閉口する。
一路、アテネへの中継点テッサロキニに向けてE85/E90号線をバスは西江向かう。車窓より地中海を見ることが出来爽やかな気持ちにさせられる。
<厳しいギリシャ陸路入国審査>
ここギリシャ入国にあたって、今までのシルクロードにおける隣接国への入国では見られなかった厳しい審査が待ち受けていた。
パスポートにイスラム国の入国スタンプのある乗客は全員次なる長時間の審査を受けることになった。
- 何の目的でギリシャに入るのか。
- 何日間どこに滞在したか。
- パスポートの偽物でないことの確認(各国在ギリシャ大使館への照会)
- なぜ経由地がイスラム国なのか。
- 何の目的でイスラム国を訪問したのか。
- 所持金はギリシャ滞在に十分なのか。
- T/C(トラベルチェック)・現金(US$/ユーロ€/日本円¥ほか)のチェック
- 同伴者の確認(親子・夫婦・兄弟・親族)
- 出国のための切符(航空便・列車・バスほか)
- 荷物の個数と中身のチエック(イスラム国よりの外国人観光客には厳重な荷物検査あり)
わたしは最後まで残され、ほかの乗客の審査終了後、約1時間半もの審査を受け続けることになった。バスで待つ同乗者にとっては迷惑なことだが、審査を全員が終えなければ出発できないのである。
どうも中国のウイグル(イスラム)自治区を経て、イスラム国であるパキスタン・イラン・トルコと日本を出発して、ここギリシャに至るまでイスラム圏を訪れていた不審旅行者であるとみられたようである。
特に荷物の中身を厳重すぎるほど検査された。
この審査の経緯は、審査を無事終えてバスにもどった同乗者たちにも見られていたようで、戻った時にはみな心配顔で迎えてくれ、仲間の帰還に拍手が沸き起こった。
審査に手間取って待たせたことを詫び、許しを乞うたことはもちろんである。
につづく