『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑥
星の巡礼者 後藤實久
<ザーヘダン/パキスタン国境 ⇒ バルザガン/イラン国境>
《 シルクロード・イラン横断の旅 》
< 9月11日 イラン/ザーヘダーン 15:00到着 >
パキスタン最終宿泊地クエッタを16:00にバスで出発し、国境を越えてイランにおける最初の宿泊地ザーヘダーンには翌日の15:00頃に到着する。この間、全行程約686㎞、23時間という過酷なオーバナイト・バス・アドベンチャーとなる。
この国境越えは、パキスタンの西部に広がる悪夢の<ノーク・クンディ砂漠>という難所を横断する。最高気温が50℃にも達する砂漠で、サングラス・リップスティック・バンダナ・水2L・帽子を準備してバスに乗り込んだ。
パキスタン国境の集落タフタンより国境までの1㎞は、トラック(50Rs.)を利用するか、徒歩約15分を歩くことになる。
国境手前にFC POSTというチェックポイントがあり、アフガニスタン人グループであろうか13人の男ばかりがトラックより下され国境警備隊の兵士に尋問された。こちらは、ただ一人日本のパスポートとビザを持つ外国人であったため、出国ノートに署名するだけで通過を許された。
国境はいつも緊張の連続である。
パキスタン国旗 イラン国旗
ツーリストであったためか、パキスタン側税関では荷物チエックもなく出入国管理に進み、パスポートに出国スタンプを押され国境を無事通過。イラン側出入国管理棟で入国申告書記入後窓口提出。次の税関ではサインアップ(署名)だけで通過。外に待っていたミニバス(20,000Ris.)に乗って85㎞先のイラン側国境の街ザーヘダーンに到着した。
チェックポイントでのイラン国境守備隊員の臨検は真剣そのものであり、バスから乗客を降し、その荷物をもって整列させ、荷物一個づつそれは厳しくチェックを始めた。まさに臨戦態勢下の国であることを実感した。
<ギリシャのマケドニア王・アレクサンダー大王のペルシャ遠征>
紀元前325年ギリシャのマケドニア王アレクサンダー大王が東方遠征を引き継いでペルシャを(現在のイラン)を通ってペシャワールまで遠征したが、乾燥地帯での食料調達を考えると大変な兵糧行軍であったと想像する。
何がゆえにこの荒涼とした砂漠を横断し、遠征することにしたのであろうか。
アレクサンダー大王の東方遠征の故に、歴史は動き、つくられたことは確かだが、この熱砂のなか何を求めたのであろうか・・・領土か、夢か、名声か、シルクロード流通の独占かそれとも神の啓示か。
この乾いた赤い不毛の砂漠に、唯一生えるタマリスクという木の葉が風に揺れ涼しげである。
この荒涼としたイランの荒れ地をバスは走りながら、過ぎ去る岩肌の山々と語り合っているではないか・・・
「人間って不思議な動物だね。多分欲の塊というか、所有欲の鬼だね。ここは我々の土地だ。この荒れたわれわれの土地にまで人間は入り込んで所有しようとする。そしてその一つ一つの占有をめぐって戦いという愚かな行為をするんだな。話し合いはあくまでポーズで、1mmたりとも渡さないのが人間という動物なんだな。なぜまた神はこのような愚か者どもをたくさん、この地上にお造りになったんだろう。ほんとうに神様も変っているね。」
<シルクロード・イラン 横断バスルート地図>
イラン最初の訪問都市ザーヘダーンに15:00ごろ疲れた体で到着し、朝の明けるのを待ってKhiyaban Bus Terminal 近くのアブザール・ホテルに転がり込んだ。
<▲9月11日 ザーヘダーン ABUZAR HOTEL/アブザール・ホテル投宿 31,000Ris./4US$ >
<イランは、イスラムの先進国>
パキスタンの国境を越えイランに入ったら・・・
バスの女性(婦人)席がパキスタンの前半部席からイランの後半部席へ代わる
パキスタンの日本車氾濫(ほとんどが中古車)から、イランではフランス製プジョーが目立って多い
パキスタンの信号は規則よりおおらかな指標だが、イランでは信号で人車が整然と流れている
パキスタンでは見かけなかった一方通行の道路をイランでは見られた
パキスタンのワンピース型白い衣裳が消えてなくなり、Tシャツなどよりカラフルになり西洋化が目を引く
何といってもティッシュペーパーが日本と同じく、白く良質である
イランに入ったら、バスが一段とデラックスになり、エアコン・トイレ付に変わる
モスレムでの礼拝がそれほど厳格ではない
一般道路がよく整備され、高速道路があり、インターチェンジが目立つ
今のところ、スピーカーよりコーランが流れてこず、祈る人をみかけない
砂埃が少ないうえ、排ガスが格段に少なくなり、空気がきれいである
誇りを持った人々であり、常識がとおる国といっていい
パキスタンに比べ、英語をしゃべれる人が少ないようである(米国敵視政策からだろうか)
警官や兵士の姿勢に緊張感が漂っている(これまた対米敵視・臨戦態勢からか)
<イランの砂漠に情を感じる>
砂漠の醸し出す月影、荒涼とした砂丘キャンバスに刻まれる風紋の影絵、唯一つの己の命の鼓動がひろがりゆく様など、砂漠の背負う哀愁に満ちた表情が好きである。
砂漠にはそれぞれに特徴があるが、イランの砂漠は細やかな情を感じるのである。アラビアのロレンスが満月のもとラクダで行く、隊商が長い影を砂漠に落としながら行く、星の王子様が一人砂漠をさまよう、そのようなロマンの漂う心温かい砂漠である。
砂の肌がいい、ふんわりと柔らかく、触ると溶けてゆくような感触がいいのである。
<砂漠で野宿を楽しむ夢をみる>
温もりの残る砂漠に天幕を張ってシーツを敷き、三匹の羊と一匹の犬、一頭のラクダと二羽の鶏とをつれて昼寝をしながらステレオ観賞に興じる姿が浮かんできた。
目を覚ましては、コカ・コーラを片手にトルストイの本を読んでいる。
地平線の彼方に沈みゆく太陽に薄目を開けて「おやすみ」の挨拶をしている。
ミルクティーからの湯気が微風に揺れ、砂の香が全身を包むとき、三日月がご挨拶にあらわれる。
どこか遠くで水の流れる音がする。
水を飲みたいと思いつつ、いつの間にか天の川のもと深い眠りについた。
<わたしはラ・マンチョになりたい>
ラ・マンチョの男が赤いマントを羽織り、ドンキー(驢馬)に乗って一人砂漠を往くではないか。この荒涼とした砂漠で一体どこへ行こうとしているのだろうか。彼もまた<見果てぬ夢を求めて>彼自身の人生を歩んでいるのであろう。
バスの中にいるわたしは夢の中を歩んでいるのである。
ああ現実と夢がどこで交差するのだろうか。
<砂漠に生えるぺんぺん草さん>
「ペンぺん草さんあなたはなぜここにいるの・・・」、西日を受けてその体を10倍にもその影を伸ばす姿がまるでピノキオのお鼻のようにみえる。砂漠の気温は50℃に近いであろうか、その中に君はまるでお姫様のように涼しげに鎮座しているんだね。
手を振ってくれる君たちに「ありがとう。とうとう会えたね」とこちらも手を振りつつづけた。
人生を駆け抜けていく風景のなかの小さな一つの命さえ、わたしを見つめてくれていることに嬉しさがこみ上げてくる瞬間である。
荒涼なるイランの砂漠に生えるぺんぺん草さん
<一期一会 隣の席のイラン青年との別れ>
全行程約686㎞、23時間という過酷なオーバナイト・バス・アドベンチャーである想像を絶したバスの旅を終えるにあたって、隣の席の青年が別れの挨拶をしてくれた。
なんと美しくきれいな瞳なのだろう。なんと純粋な笑みなのだろう。苦難の旅を共にに味わったもの同士が知る瞳であり、なし終えた安堵の笑みである。互いにハグを交わし、別れのナマステを交換し、右手をお互いのハートにおいて別れを惜しんだ。
出会いの美しき事よ、友出会いて去りなん、人生のほどよい風が、互いのハートを吹き抜けていった。
《 ザーヘダーン ⇒ シーラーズ 長距離バスは砂丘を進む 》
<現在、世界遺産アルゲ・バム通過中>
ザーヘダーンよりシーラーズへの途中、バムにある世界遺産のアルゲ・バム遺跡へ立寄る予定を立てていたが、前年の地震(バム地震 震度6.6の直下型)により遺跡の全破壊が進み、立ち入りがいまだ禁止されているとの情報をえて急遽取りやめて、シーラーズへ直行することになった。
<厳戒態勢下のイラン>
イランに入ったあと、ここバムまでの間、ひとりの旅人(バックパッカー)にも出会っていない。
国境のパキスタンの街クエッタで見かけたバックパッカーを最後に政情不安のイランに旅するバックパッカーは少ないようである。世界のどのような問題のある所でも必ず見かけるバックパッカーが見当たらないのは、それだけ米欧との敵対関係にあり、緊張の戦時下にあることを意味している。
異様な厳戒態勢である。国境からここまでに2回の臨検があった。機関銃を構えた重武装の兵士に、肩を叩かれその冷たい銃口に飛び起きたものである。
ジーッとにらみつけ、パスポートをチェックしたあと、日本人であることに親密感をにじませ、今度はニコッと笑い、友好な態度で<Take your a nice trip in Iran !> と敵性語でいわれ、驚いたものである。
イランと日本は、歴史上比較的友好であり、産油国と輸入国として戦略的に強い結びつきを持ってきた。また外交においても、アフガニスタン再建や、イスラエル=パレスチナ紛争解決にあたって両国は協調的外交関係を持ってきているのである。
チェックポイントにおける臨検兵士の日本人に対する接し方に、非常に友好的であったこともうなづけるのである。
バスに乗ってからイランのことをいろいろ教えてくれていた隣の席の青年が臨検兵士に連れていかれた。窓越しにみると、手錠をかけられた男女も見受けられる。青年が心配である。
青年は尋問の様子から、アフガニスタンからの難民のようである。パスポートやIDの不携帯に対しては徹底的に取り調べを受けるのである。
流浪の旅にある難民青年の屈辱、悲哀、失望、喪失・・・えに言われない感情、兵士の視線に耐える青年の姿に打ちひしがれた失望感が漂っていた。
アメリカに対するゆるぎない抵抗の姿勢を示しているのだろうか、道路の至る所に防禦用四角いコンクリートブロックが前進を阻むようにジグザグに配置され、機関銃がにらみをきかせている。
テヘランに近づくにしたがって臨戦態勢の緊張感が漂い増してくる。
まさに戒厳令前夜の観を呈している。
イラン国境越え後のバスルートメモ
<バスが時間通りに来ない・・・>
最初にイランの素晴らしいところばかり目にはいって、いざ生活の場となってバスが時間通りに到着しないときには少しがっかりさせられたものである。
入ってきたバスは最新式で目を見張った。バスが時間通りに入ってきていたらと残念な総合点であり、厳しい評価となってしまった。どうも産油国としての富める国イランにはソフト運用面での工夫と努力が必要なようである。それにもまして国として、バス会社として庶民やお客への配慮が少し欠けるところがあるようである。
<イランの政治情勢>
2004年現在、イランはイスラム原理主義の宗教指導者ホメイニ氏の没後15年がたち、後継者ハメネイ師のもとハタミ大統領によって推進されてきた経済自由化路線の成果がでず、保革両陣営の拮抗の上なされた総選挙では、保守派が改革派を打ち負かしている。この結果、学生を中心とした若年層が保守派に対峙するという政治情勢が生まれている。
イランでは、いまから25年前の1979年<イラン革命>が起こり、シャーいやイラン国民が夢見たムスレムの近代化、自由化がシャーの愚かな政治によって失敗し、ムスレムの古きイスラム原理主義に帰してしまって現在に至っている。
<10,000Ris=イラン・ルーリア = 約150円>
インドや南米の国々、アフリカ諸国などインフレに見舞われている国々の貨幣や紙幣の価値はゼロの数が天文学的に増え続けるのである。
ある国では、100ドルを両替したところザック一杯になり、慌ててトイレに飛び込みポケットはじめ至る所に札束をねじ込んだものである。
ゼロの多い紙幣に弱い者にとっては、貧乏性が見につき、チキンライスに18000Ris.を払うのが惜しい気がするものである。しかし日本円に換算して300円と知って安堵するのだから、バックパッカーの悲哀である。
イランのコーラにZAMZAMがあるが、値段は1000Ris. 日本円で15円なのだから、インフレに関係なく物価は安いことが分かって安心するのである。
インフレによる貨幣単位に驚く
<街灯の輝きが美しい>
夜行バスから眺める街の灯がこのように美しいものであったかと目を見張った。シルクロードの西進は都市というオアシスが砂漠の中に花咲き、人々に潤いを与えてくれるのである。
シルクロードは、中国のゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、パキスタンのパミールの荒涼とした茶色い山岳地帯、インダス川東に広がるタール砂漠、クエッタからイラン国境に横たわるパローチスタン砂漠が続き、美しい<絹ロード>のイメージから<砂漠ロード>という過酷な道路が続くのである。
砂漠の中継点として点在する都市は、人が集まり集団で生活を共にするオアシスと言っていい。
特にイランのオアシス都市の夜景は豊富な電力事情により街灯がまるでダイヤモンドの夜に輝き、砂漠を走ってきた旅人には、それはもうパラダイスなのである。
《 9月13日 シーラーズ 》
イランの東端ザーヘダンを出発したイラン横断の長距離夜行バスは、イラン西端のシーラーズに朝6時5分に到着した。
シーラーズ行長距離夜行バス
しかし早朝なのかすべてが眠りの中にあり、ただバス停前の中央公園だけが開いていたので、ここで夜明けを待つことにした。
この町でただうごめいているのは、高原の涼しい風に揺れている噴水だけである。
心癒される静かなシーラーズの朝にひたった。
シーラーズ・バスターミナル前の公園で夜明けを待つ
<▲ 9月13~14日 シーラーズ イスファファン・ホテル連泊>
標高1600mの高地にあるシーラーズは、気候が穏やかで砂漠地帯を見てきたものには、緑おおくバラ咲く古都の落ち着きにその洗練された文明の匂いがしたものだ。
古くから芸術や文学の中心であり、イラン国民が愛する詩人、ハーフェズとサディーを輩出している。
また、シーラーズは世界遺産ペルセポリスへの起点として栄え、さらに現代ではペルシャ湾に面する石油積出港であるプーシェフルの隣接都市として栄えた。
ミスター・アリーにバスターミナルで声を掛けられ、予定していた2つのゲストハウスが満員なので彼の知っているイスファファン・ホテルに連れて行ってもらった。ダブルルーム(65,000Ris./約1000円)であったが、エアコンの効いたゆったりした部屋で体を休めることにした。
ホテルの部屋に荷物を放り込んで、ミスター・アリーの車で世界遺産ペルセポリスへ向かった。
ナスィーロル・モルク・モスク(シーラーズ)
<世界遺産ペルセポリスの文化に酔う>
ダレイオス1世の時世、紀元前500年ごろアケメネス朝ペルシャ帝国の首都(王都)として、帝国の新年祭を執り行う神聖な宮殿が造営された。紀元前331年このアケメネス朝はアレクサンドロス大王によって滅ぼされたのである。彼はここペルセポリスを徹底破壊した。以来、ここペルセポリスは今日まで廃墟として残ってきたが、その壮大な遺構は現在世界遺産としてわれわれにその姿を見せている。現在は<ペルシャの古都>としてイランの人々に愛されている。
紀元前に消えた廃墟の都が、いまなおその廃墟に潜む文明の香を醸し出しているのであるから不思議である。
でも、本当にこのように暑い気候の地に高度な文明が存在したのだろうか。それも緑のない、むき肌の岩山にその麗しき都を造ったのだろうか。
またなぜこの不毛の地にあるペルセポリスにアレキサンドロス大王はわざわざ遠征し、破壊しつくしたのであろうか・・・といろいろ疑問が浮かんでは消えていく。
廃墟である宮殿の遺構に座って、空想にふけるため2500年前のペルセポリスに迷い込んでみた。
<わたしはいま、アケメネス朝の王都ペルセポリスの王宮におけるダレイオス1世に招待され、アバターナ(謁見の間)に参列している。きらびやかな民族衣装を着飾ったエジプトやギリシャ、インド方面からの王族が粛々と祝いの辞を述べている・・・実に華麗なる戴冠式である>
廃墟のペルセポリスとダレイオス1世をスケッチして、ペルシャの都を心に残した。
紀元前、約200年間栄えた世界遺産ペルセポリス
Sketched by Sanehisa Goto & Iranian Kids
<世界遺産ペルセポリスで子供達と遊ぶ>
遺跡の壁をスケッチしていたら子供達も参加、みなに好きな色を塗ってもらった。
子供達の賑やかな喜びの声が無機質な遺跡にこだまして、2500年前のペルセポリスの艶やかな姿が宿
った。スケッチも又子供たちの元気をもらって、太陽のもと生きいきしたペルセポリスに仕上がった。子供たちのひとりJavad君が、「ぼくも手伝ったんだからスケッチのコピー送ってね。ぼく空手の赤帯なんだ。6歳だよ。」と自己紹介してくれた。
沢山の観光客も輪に入って、子供たちとここでもボーイスカウトのインディアン踊りが繰り広げられた。まるでペルセポリのソルジャーのように、青空に向かって気勢を上げた。
ポリス国家であるペルセポリスが突然息を吹き返して、花を咲かせたように賑やかになった。
廃墟が生き返った一瞬である。
踊りの輪のひとり一人がペルセポリスの市民のような豊かな顔を持った古代人に見えるのだから愉快である。
アケメネス朝ペルシャ帝国の王都ペルセポリスを造営した ダレイオス1世像
Sketched by Sanehisa Goto
クセルクセス門 <紀元前500年に造営された王都ペルセポリスの遺跡> 宮殿跡
アパダーナ(謁見の間)の巨大円柱 <ペルセポリスの遺跡にて> 諸国の使者の朝貢の図
牝牛を襲うライオン <ペルセポリスの有名なレリーフ> ダレイオス1世謁見
<シーラーズの街歩き>
ペルセポリスから帰り、投宿先のイスファファン・ホテルで体を休めたあと、メインストリート<ザンド>に出かけた。ザンドにあるショハダー広場が街の中央である。
夕暮れ時になると、真っ黒のファッション<チャドル>に身を包んだご婦人たちがグループで、家族で、恋人を連れだって広場に接して開かれるバザールにやってくるのである。
彼女たちは、パキスタンやほかのイスラムのご婦人と違い、そのファッションと顔メークにおいて洗練されている。現在のイスラム原理主義国家前のパーレビ国王時代の近代性を知っているご婦人たちは、自分の美しさを強調するスキルを知っているのである。
いかに身をチャドルに包もうと、その下はファッショナブルな最新流行の服をまとっているのである。その艶やかな色彩は、真っ黒なチャドルに一層際立ってみえる。
何とも言えないエキゾチックなエロチシズムが漂う。それは宗教性よりもファッション性に優れた一人の女性の美しさを際立たせている。
チラリズムの極致、世界で一番美しいファッションではないだろうか。
それは喪服ファッションのシンプルな美しさに相通ずるものがある。
ここイランに来て、ご婦人のチャドルに接し、チャドルは最古のファッションであることを知った。
チャドルの中でも黒がベストファッションカラーであると言っていい。
世界で最高におしゃれな女性はイランであるといったら、言い過ぎであろうか。
しかし、チャドルの持つ閉鎖性に比べ、顔をさらす現代のご婦人方の健康的な素顔は強く開放性を感じるものである。そこには自由を獲得した自信に満ちた顔があるからである。
どうしてもパキスタンで見た全身をブルカに身を包み、メッシュで隠された表情を殺した冷たい視線を感じたあの時の、あの陰湿さと捕らわれの身の哀れさを思い出すのである。(ただこれは個人的主観であることを申し添えておく。)
ブルカに身を包んだパキスタン婦人(カラチにて)
<イラン・メツリ―銀行で BANK OF MELLI IRAN >
両替のためイラン・メツリー銀行に来ている。
立派な建物の中は、朝7時30分というのに多くの人がやってきて、賑やかである。銀行の中にはいたるところに宗教指導者であり、革命の最高指導者であるホメイニ師の写真が飾られている。
写真の前では、パーレビ元国王によく似た行員がきちんと白いワイシャツを着て対応している。多分、1978年のホメイニ氏による宗教クーデターが起こる前は、パーレビ国王のカラー写真が飾られていたであろう。
なぜならホメイニ師の宗教革命が起こってからはカラー写真を遠ざけられ白黒写真に変わったと聞いている。
人民はその時代の権力を握った指導者を表面的であっても歓迎の意志を示すものである。
記憶に残っているが、太平洋戦争(第二次大戦)が日本等の敗戦で終了したが、われわれ家族は朝鮮半島からの引き揚げに間に合わずソウルに滞在していた。忘れもしない小学1年生であった1950年6月25日早朝北朝鮮は38度線を奇襲越境し韓国(南朝鮮)に攻め込んだ。
この時、小学生はじめ多くの一般市民が動員され、北朝鮮の旗をもって出迎え、意志に関係なく無理強いされた歓迎の意を示したものである。
思い出すが、今から25年前の1979年、パーレビ国王はホメイニ氏の宗教クーデターでアメリカに亡命した。当時の時の話題として生々しくよみがえる。
熱狂的に迎えられたホメイニ師率いる革命は、よりよい革命の炎が燃え盛っているようである。
国全体が明るく、清潔感を肌で感じることが出来る。革命は成功したといえるだろう。
将来が楽しみなイスラム国家である。
しかし、そこには青年たちの不満も又静かに蓄積されてきているようにも見える。
イラン・メツリ―銀行で見かけたブルカ着用婦人 イラン国旗の4つの三日月と1本の剣
銀行の女子行員はみな革命政権によって定められている黒一色のチャドルを着用し対応している。お互い顔を見るまで誰であるかすぐには分からない。背の高さや太り方、仕草によって彼女の後姿で判断するのであろうか。
人間の個性は、案外チャドルで隠されているように漠然としているものなのかもしれない。チャドルの内側に包み隠されている性格、性質、癖、個性、表情こそ真実なのであって、その真実をチャドルで覆い隠しているのが人間なのかもしれない。
チャドルを身にまとったイランのご婦人たちが、いつの日かチャルドをかなぐり捨て、全霊全身で自由を叫ぶ日がまた来るのであろうか。
<シーラーズの下町の骨董屋さんでの出会い>
骨董品やの片隅でこんこんと眠り込んでいたペルシャとんぼ玉君・・・
「君は何十年も同じ場所にずっと日の目を見ずに座っていたのだね。君に出会ったとき君は僕にシグナルを送って来たね。一瞬、僕のハートが君の微弱なシグナルというかエネルギーを感じ取ったのだよ。」
あの時、お互い『こんにちは』」と挨拶を交わすこととなった。
「この骨董屋さんに入るつもりはなかったけれど、君のかすかな呟きに引き込まれてお店に入ったのだ。
誰かが語り掛けてくれているのは分かるんだが、それが誰であるか分からないまま、誘われて店に入ったんだよ。
店に入ったけれど、なかなか君に出会えなかったね。君はたくさんのネックレスに埋もれて、かすかに息をしていたね。ただただ過ぎ去る時間の中で僕の今日の訪問を待ち続けてくれたのだね。
出会った瞬間、僕は君がすぐ分かったよ。
君の息遣いが一段と激しくなり、いまにもはち切れんばかりの歓びようがひしひしと伝わって来たんだ。
出会ってしまえば、君と僕の関係になってしまうのだけれど、出会うはずのない君と僕が出会うなんて・・・
ある時、あるところで出会うなんて、必然というか、運命というか、偶然性の中にロマンが潜んでいるのだね。
君に出会えて本当にうれしかったよ、ありがとう。
さあ、一緒にシルクロードを歩き、東洋の神秘の国と言われる日本で一緒に暮らそう。
ただ君はコピー君だっただけさ、コピーはコピーだけが持つ歴史の申し子だけれどさ・・・」
古代イスラムトンボ玉
<サングラス君さようなら、ありがとう>
シルクロードの過酷な砂漠を共に過ごしてきたサングラス君がとうとうここシーラーズで壊れてしまった。
「君は僕の引き立て役であり、オシャレリーダーであった。また君をかけることによって困難な場面でもまるで自分でないように振舞うことができたのだ。君をかけた瞬間僕の心に別の世界を映しだしたりするのだな。また君の優しい心が、僕にいろいろなことを伝えてくれたね・・・
山の風景を美しく、その姿さえ変えて見せてくれたね・・・
幻影のなかの切ない一瞬である夕陽が沈む瞬間をも演出してくれたね・・・
それはまるで神の臨終を思わせるプリズムに変色してくれたし・・・
雲の笑いを僕に教えてくれたのも君の隠された才能だったよ・・・
素敵な感動を沢山ありがとう。
また、熱砂の嵐を防いでくれたり・・・
紫外線から目を守ってくれたね・・・
そしていつもこの地球で出会った景色を柔らかく伝えてくれて、ありがとう。
でも、とうとう荒っぽさに耐え切れずに、ここシーラーズで君の役目を終えるのだ・・・
君の安らかな寝顔を見ていると、ここに置いていくのが忍びないが・・・
また新しいここイランの地に還るのも君の一生かもしれないね・・・
君の愛の深さに心より感謝し、君の一生をこころから讃えてさよならをいいたいね。ナマステ」
《 9月15日 シーラーズ ⇒ エスファーファン 長距離バス移動12:35発 》
<一宿一飯の恩義に報いるの心>
旅に出て露をしのぐ寝ぐらに対して宿命的な出会いと、えも知れない愛を感じるのである。
それは、おおらかに包まれ、守られ、ハグされているという家庭的ぬくもりと、与えらえた屋根の下でこの世の生を過ごすというこの一瞬を認識したいという本能にひたることが出来るからである。
宇宙なる空間に漂っている、塵に過ぎないちっぽけなおのれの存在を、闇の夜に守り憩わせてくれる宿は、旅するものにとってその時を共有し、心を留め置くこころ癒される空間であり、大切な時の流れなのである。
旅立つ前には、部屋の清掃をし、ベッドのシーツのしわを伸ばし、枕カバーをきちんと片づけ、朝の散歩で出会った野の花を添え、感謝の気持ちを残し、次なる旅人に引き継ぐことにしている。
悠久なる休息の空間として、この時が消え去るのではなく、そこに息づいた命の歓びと感謝を残して去るのである。
思い出を一杯残した宿の部屋を去る時には、ドアーに感謝の接吻をし、<この一夜をあたたかく迎えてくれて、ありがとう。君はいついつまでも僕の中にあるのだよ。さらば>と別れを伝えることにしている。
この祈りは、野山での野宿の時もまた変わりはしない。
自然への畏敬の念、彼らの尽きない愛に対する深い感謝の気持ちに応えたいのである。
イランの村々の壁に掲げられた<イラン革命のスローガン>
<巡礼者イスラムの民はテント泊>
時々見かけるイスラムの巡礼者は、宿泊にテントを用いるようである。
聖地の至る所にカマボコ型、三角形、円形、高山用テントそれも色とりどりの花が咲き、賑やかである。
スリーピング(寝袋)代わりに布団を携行する様は家族的であり、アットホームを感じる。
このような巡礼者用敷地内には、必ずといって石造りのトイレと給水施設が整っていて、巡礼者に便宜が図られている。
ハイウエーを走っている車の屋根にはテントや炊事道具、毛布が積み込まれ巡礼途次にあることがうかがい知ることができる。
<自乗用車はプジョー、小型トラックは日本製>
先にも触れたが、徹底的に反米政権であるイランでは、アメリカ製の車は全くと言ってみることはない。アンチ・アメリカーナ―に徹する革命政権の政策がいきわたっている。
プジョー採用は、共和制政権誕生という国情を反映しての決定なのであろうか。日本製の小型トラックが走っているのは歴史的にみてオイルを介しての両国関係が、パーレビ帝時代もイスラム革命体制でも変わりなく続いているといっていい。イランは、体制や政権が変わっても親日国家であるという歴史的一貫性をもち続けている。
これに反して、アメリカとイランとの関係は、パーレビ帝時代のアメリカ製自動車一辺倒からのプジョーへの転換に見られるように、両国の関係性は犬猿の仲にまで引き離されている。
イランは、『イスラム人民共和国』と呼んでいるように、政治における清潔感と、高い民族的愛国と宗教的純粋性を感じるのである。人民の統一を願う政権として、民族自決がいまイランに必要な政策なのであろう。
ちなみに、街を走る大型トラックやバスは、ドイツ車ベンツとスエーデン車ボルボである。
<イラン式農業>
イラン全土の砂漠化の中で、わずかな農地を効率よく耕作している。
イランでも、農業の機械化が一部の地域で進んでいる。木一本一本に水やりが必要なこの国で、農業が維持できているのは、灌漑用水の計画的配分にあるようである。
<ペルシャの星の王子様たちー大切なものは見えない>
鋭角的に張り出した鼻、濃い眉毛、切れ長で大きく見開いた漆黒の瞳、星降る砂漠に似つかわしい星の王子様たちである。
びわ湖で実施されている「いかだ教室」に参加する日本の中学生たちに、訓話として<星の王子さま・星の王女さま>の話をすることにしているが、わたしを含め日本人の顔は、作者であるフランス人アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリのような憂いに満ち、冷たい月を湛えるような夢見る顔を持ち合わせていないような気がする。
暗黒の静寂の中に沈思する青い瞳が必要であり、その冷徹の中に真赤な薔薇を咲かせる情熱の輝きを放つ必要がある。
日本の星の王子様たちは、<星の童子>のように、無邪気で、星のウサギさんと蹴鞠をするような温かい少年少女に見えてくるから不思議である。
やはり環境によって少年少女の夢見る世界も変化するのであろう。
星の王子さま・星の王女さまはやはりリビア砂漠や、ここイランの砂漠といった過酷な情況に出会った少年少女の生き様や夢物語が似合いそうである。
《大切なものは見えないーLe plus important est invisible》
あの感動に満ちた言葉を、イランの砂漠に生きる少年少女たちに重ねて思い浮かべた。
バスに手を振ってくれるイランの星の王子さま
<コーランを贈られる>
シーラーズのエマム公園で、是非一緒に写真を撮らせてくれと声をかける青年に出会った。
もちろん快く承諾して写真に納まった。
写真を贈りたいのでe-mailを教えてくれとノートブックを手渡され、出来たら日本語でサインも欲しいという。
<よければあなたの名前を日本語で書いてあげますよ>というと、自分はMashuという。
《真守》と号し、その意味を語り伝えた・・・
―真守・ましゅ・Mashu-とは、<真理を守る人=あなたはアラーの神の教えを忠実に守り、真理に生きる人である>
どうかアツラーの神のもと、真理の中に生き幸福をつかんで欲しいと伝えた。
彼は右手を左胸にあてて、左手にコーランを持ち、
<コーランをもらってください。このコーランはあなたと一緒の方がふさわしいので、ぜひあなたのコーランにして下さい>と。
<コーラン、それはムスレムにとって命そのものだから、わたしに託すのではなく、あなた自身持ち続けてください>と辞退するも・・・
<わたしは今まで、真理について教えを受けた人はあなたが初めてです。どうか、わたしのこころを受け取って欲しい。それが私のあなたに対する感謝なのです。あなたの言葉の中に光を見つけられたのですから。>
<どうもありがとう。あなたの心としてコーランを受け取りましょう>
二人の人間の間に人間愛が流れた瞬間であった。
―一つの出会いが、一つの言葉が、そして一つの心が真理に到達したのである。
この瞬間わたしもまた真理の流れの中に身を沈めていた。感謝である。
Mr.Mashuとエマム公園にて
Mr.Mashu より贈られたコーラン
<認識するとき神の存在を知る>
神はどんな所でも、いたるところにもおられる。ただ我々が神を認識しているかどうかである。
<神よ>と問いかける時、<はい、わたしはあなたと共にここにいます>とお応えになるのである。
神の声を聴くとき、われわれはひとりひとりが孤独ではなく、神の愛に擁かれ安らかであることを知る。
そこに神の存在を認知するのである。なんと素晴らしい人間に与えられた愛を知る特権的認識であろうか。
コーランを贈られたとき、ムスリムに与えられた特権的認識もまた神の存在が偉大であることを知った。
神のもと世界に平和と自由と愛が満ち溢れんことを・・・
<砂嵐で煙るイラン高原>
シーラーズよりバスでエスファーファンに向かう道路もまた樹木無き赤き乾燥地帯に延びている。
砂塵が天空に吸い上げられ、遠くの岩山が霞みかかって見える。砂塵に太陽が反射して幻想的な風景を醸し出すのである。
砂もまた天に舞い、天空の散歩を楽しんでいるのだ。
砂漠にはオアシスがあり、人が住みついて自給自足の菜園を耕かし、のどかに山羊を放牧している。名も知らない砂漠の花を押し花にしてみた。
シーラーズ⇒エスファファ―ン行バス 砂塵を巻き上げるイランの大地
<イランバス旅行―秘密のサインで交流>
君と僕だけの秘密のサイン、サインを交わしウインクするだけで心が通じ、心和むのである。
<OK? OK! >
<Are you alright? Am alright ! >
<I love you! You love me ?>
このサインだけで多くのイランの青少年や青年とこころ通わせ、笑いあい、心の交信をしたことか。
旅が愉快になることうけ合いである。
幸せがたちまちこころのなかをそよ風となって吹き抜けていくのである。
パキスタンからイランに入ってバス旅行を続けているが、バスの乗客は地元イランの人々ばかりで、いつも外国人はわたし一人であることに一種のえも知らない不安を感じたものである。西欧のバックパッカーはゲストハウスにたむろしているだけである。もちろん外交関係の悪化からか米国人は見かけない。
このようなバス旅行だから、同乗のカミュ―君はわたしの旅友のベストフレンドであったわけである。
<天使のようなカミュ―君とのバスのつれづれ>
天使のような星の王子さまカミュ―君2歳、なんと素敵な瞳だろう。目がぱっちりして大きい、黒いダイヤのように瞳が輝いている。
何とエキゾチックな、汚れなき瞳なのだろう。
イランの幼児のほとんどが目の周りに黒い影・シャドーをつくり、目の表情をゆたかにする習慣があるようである。演出された瞳かもしれないが、幼児の清さが瞳からほとぼりだして人の心を打つのである。
「君の清楚な瞳にどんなに癒されたことか、カミュ―君ありがとう !」
君の天使の瞳に8時間のバスの旅がどんなに素敵だったことか、君の世界に吸い込まれ一緒に遊んでくれてありがとう。
汚れなき君の心の中で神に出会ったことに感謝しているよ。
<イランの砂漠に生きる木々の叫び>
イランの砂漠をバスで旅をしていて、オアシスで休憩することが多い。
そのオアシスのまわりには貴重な緑の樹々が影をつくって旅人を迎えてくれる。
その樹々の一本一本に水を引いていることに目を止めることがある。
「ようこそ荒涼なイランの砂漠へおいで下さいました。
わたしたちの命はあなたがた人間の手にゆだねられているのです。
どうかわたしたちを見捨てないでください。
わたしたちはあなたたちのために陰をつくり、豊かな緑を提供し、
新鮮な空気を造り続けているのですよ。
どうかお互いのため、共生に協力し、いつまでも愛の交感ができるように・・・
わたしたちは、今日も又、あなたがた人間に身を任せ、すがるしか生きる道はありません。
どうぞよろしく・・・」
エスファファーンへ向かう途中のオアシス村
《 ▲9月15~17日 エスファファーン AMIR KABIL HOSTEL連 泊 》
<元イランボーイスカウトのリーダーであった T氏宅訪問>
T氏は、イランボーイスカウトのリーダーであり、山を愛する者同士ということで意気投合した。パーレビ元国王時代に活躍した若きスカウトリーダーであった。
わたしたちは、ボーイスカウト運動創始者であるロバート・ベーデン・パウエル卿の没した年、1941年に生を受けた者たちということでまた盛り上がったものである。
栄光の時代の活躍を写真パネルにして地下のホビー室に飾っておられ、イランボーイスカウト運動の歴史について説明を受けた。
またイランボーイスカウト連盟名誉総裁であったパーレビ元国王からの表彰や感状が壁いっぱいに飾られていた。奥さんや、息子さん、お孫さんも加わり、山登りやジャンボリーの話に花が咲いた。
特に、1979年に予定されていたイラン・ニーシャプールでの開催予定であった第15回世界ジャンボリーは、不安定な政治情勢(ホメイニ師指導のイスラム革命勃発)のため中止となったことを非常に残念がっておられた。
パーレビ元国王時代まで中東のスカウト運動のリーダー国であったイラン連盟は、イスラム革命により解体され、現在はイラン革命防衛隊(IRGC)を通じて運営されているという。
スカウト活動を知るものとしてわびしい限りであるが、ご家族の皆さんと記念写真をとり、再会を約して辞した。
懐かしきイランのスカウト・スカウターたち
<昔懐かしい夜店の砂糖菓子に再会>
T氏宅で出された紅茶のおつまみ、奥さん手作りの砂糖菓子に目を見張った。少年時代近くのお宮さんの夜店でみたあの砂糖菓子、バーナーにかざした小さな銅鍋に入った砂糖を溶かし、出来上がっていくキャラメルのべっこう飴を懐かしく思い出した。
ご存じの方も多いと思うが、鍋に砂糖を入れて熱し、砂糖が溶けて煙が出るまで焼き上げていくと、独特な臭い、個性的な味、これが砂糖の変身かと思うほどの存在感を示すのである。なめながらパリパリとかじると、何とも言えない風味を体中に伝えるのである。
少年時代、この味が忘れられず飴売り自転車に群がったものだ。それも飴細工にしてスティックに巻き付けて、いろいろな形に作り、中に〇印を入れてその〇を見事にくり抜いたものに、もう一本おまけにもらえる楽しみがあった。
いや実に楽しい少年時代を過ごしたものである。
懐かしい一品にイランのエスファファーンで出会うなんて、思い出の回顧である。
昔懐かしいおしゃぶりべっこう飴 (cookpadより)
<人生の旅>
旅をしていると、無意識のうちに生い立ちの国の価値基準に当てはめて評価を下し、論評し、納得していることが多い。
お互いの国を比べたり、国民を比較したりする。最初は表面的な事象や印象で大雑把に見比べて納得してしまう癖がある。
しかし、間もなく気づくのだが、何か物足らなさに行き着くものである。
そこには、内在する精神的なハートや魂の問題、愛に触れることがないことに気づく。多分、現象把握だけの物足りなさや、空しさからくるようである。
旅もそうだが、美しい処を探し求め、そこに足跡を残し、満足する旅もあるが、わが心の故郷に出会って感動し、涙する旅もあるのだ。
また、自分の存在に目覚めて、幸せに身震いする旅もある。
人生の旅とは、壮絶にしてファンティックスな出会いであり、奇跡の織り成す己では予定し計画しえない力の働きによるものといえる。
感動に涙する旅を大切にしたい。
人生は一瞬一瞬が切り取られた感動であることに気づくであろう。
今日も一輪の野の花に命を懸けてみたい・・・
ああ人生なんたる幸せか・・・
静かに頭をたれ、精神を集中する・・・
魂の世界に舞うおのれの姿の美しいこと・・・
ああわれいま、一輪の野の花に擁かれて
悠久の彼方に羽ばたきゆくではないか・・・
人生の旅とは、空想の連続かもしれない。
2004年9月16日 土曜日 午前5時45分 イスファファーンのAmir Kabil Hostelの中庭にて、
水の流れの音に包まれ、天空の消えゆく星空を眺めつつ人生の旅を想いつつ、われを忘れわれを笑った。
人生は愉快である。
一輪の野花(イラン・エスファファーンにて)
<これまでのシルクロード各国の最安値おやつや飲み物>
シルクロード旅の途中、各国で口にした手ごろなものをあげておこう。
―イランはソフトクリームの天国であるーどこでも手ごろに(15円)口にすることが出来た。
―パキスタンは、マンゴジュースが最高―街角で甘いものを口に出来る。(10円)
―中国では、水より安いビールーが手に入った。(20円)
格安旅を続けるバックパッカーにとっては、その国でのリーズナブルな飲食物を見つけられるかどうかで予算が随分と異なってくるものである。甘いもの好きにとっては、イランのソフトクリームやパキスタンのマンゴジュースは随分口にしたが、中国では水替わりにビールを飲み続けることもできず、飲んでも酔っ払い気味になり旅先では注意する必要があった。
イラン/サフランアイス パキスタン/マンゴジュース 中国/格安ビール/雪花啤酒
<エスファファーン ・ こころのオアシス ・ 細密画に見る夫婦愛 >
イランという国は緑がとても美しく映える。
それは赤茶色の国土に緑が、そうオアシスの緑が貴重であり、イランの人々にとってはオアシスそのものが愛の詰まった空間なのである。
イランでは、緑のオアシスは愛そのものであり、安らぎを提供し、夢を誘うところであるといえる。
愛、それはすべてを包み込み、すべてを流し去り、あらたな命を授けてくれるからである。
いまイランのエスファファーンの中心に位置するハシュト・ベヘシュト宮殿公園に坐り、緑のオアシスに包み込まれ、流れゆく時を、緑の葉をなぜながら去りゆく風を楽しんでいる。
緑のオアシスに憩うイランの人々は、この豊かな時をこころにしまい込み、アツラーの神が愛されるこの地球と共にゆったりと呼吸する様を慈しんでいるのだろう、こころにゆとりを感じさせてくれるのである。
この心のゆとりは、イランの伝統工芸である細密画の夫婦愛にも表現されているようである。
細密画に見るイランの夫婦愛
<国力をつけたいと大学生に質問され・・・>
昨晩、エマーム広場でエスファファーン大学の大学院生7人に取り囲まれ、次のような質問を受けた。
「イランが日本のテクノロジーのレベルに追いつくために、われわれはいま何をすべきか教えて欲しい」と真摯な態度で意見を求められたのである。もちろんアメリカに打ち勝つためにである。
わたしが関係している大学の研究室の研究員である大学院生に、その研究姿勢についていつも求めていることを彼らに伝えた。
それは特別なことではなく、研究に対する心構えと言っていいものである。
① 『Wake-up !』 Wake-up your heart !
研究課題に対し、ハートとブレーンを目覚めさせ、たえず研究対象物に語りかけ、耳をかたむけよ!
② 『Recognize !』 Recognize yourtruth. !
研究課題を明確にイメージし、ハートとブレーンで課題をしっかり認識し、何を求をめているのかいつも再確認せよ!
⓷ 『Stay focused !』 Consentrate your spirit !
研究課題一点に全神経を集中し、一心不乱に対処し研究対象に埋没せよ!
⓸ 『Continue !』 Continue your best doing !
『Never give-up !』 決して諦めるな!
研究の継続・努力こそ、成果への近道なり!
⑤ 『Thanks !』 Thanks for your objects !
研究できること、研究対象、研究環境、商取引先,相手に感謝せよ!
⑥ 『Love!』 Thinking of heart , love, truth always !
たえずハート・愛・真理を考えよ!
学生たちの研究の指針ともなれば幸いであることを伝えたとともに、「物事をなす基本姿勢を肝に銘じ、今後毎日実行するならば、20年後君たちは立派なイランのリーダーや技術者になり、日本―イラン対等なパートナシップの友好関係を作りあげてくれていることを確信している」と、
また「あなたがたの研究の成功は、すでに心の中にあり、努力の中にあること」を伝えて別れた。
かれら等が新たな一歩を踏み出し、研究の成果がイランの発展に寄与することを願った。
<Tear Container - ティア・コンテナ – ご婦人の泪壺>
なんと素敵な命名であろうか。
この優雅なガラス容器は、ペルシャに伝わるご婦人用尿瓶であるという。透き通った青いガラスの長い首は貴婦人のように澄ましているではないか。一輪挿しに欲しいものである。
イスファファーン細密画ミュージアムで出会った感動の一品である。
<イランのイスラム芸術の集大成 エマーム寺院の美>
エスファーファンのエマーム寺院は、イランのイスラム芸術と寺院建築の粋を集めた寺院である。その美しさにさっそくスケッチにかかったが、どうもその幾何学的容姿を絵にする難しさに向き合うこととなった。
約366年前に建てられたエマーム寺院は、エマーム広場から眺めた中央礼拝堂のドーム<エイヴァ―ン>を中心に建てられた幾何学的造形美に圧倒される。
エイヴァ―ンにある礼拝堂の天井にある七色の彩色タイルで覆われたドームの美しさは不思議とこころを浄化し、その神秘性に吸い込まれるのである。
そしてドームの下に立つと、かすかな音でさえ重なり合って響きあう様は、まるで天上の呟きのように響いてくる。後でわかったが、このドームは二重構造になっていて、礼拝堂としての神秘性を醸し出す構造になっているという。
イラン・イスラム芸術の粋 エマーム寺院
造形美に目見張ったエマーム寺院
イスラム・タイル芸術の総合美 エマーム寺院 (エスファーファン・イラン)
Sketched by Sanehisa Goto
<ビバ イラン!!>
今日もまた、数組の愛国的イランの青年、大学院生、女生徒に囲まれてイラン・レボリューション(イラン革命)の花で話題は盛り上がった。かれらは皆、イラン革命に若者の夢を膨らませているのである。
イランの若者の素晴らしい向上心、革命熱にこちらもつい熱がこもる。
種火は自然と大きな炎になり輪になり、熱した討論となり、最後にはイラン革命の歌となって、みなが叫び出す。
<ビバ イラン!!><ビバ イラン!!><ビバ イラン!!>と万歳三唱である。
若者の情熱的雄叫びに、イラン革命隊POLICEが取り締まりにやってくると、それ逃げろと霧散して姿を消してしまうのである。
旅をしていて、かくも若者が革命を礼賛する姿を見たことがない。
この現象は、オールドバザールに出向き路地に入ってスケッチをしている時も、めずらしい東洋人であるのか子供や老人たちに取り囲まれ革命に夢を馳せる言葉が飛び交うのである。
自分たちの革命の姿を外国人であるわたしに伝えたいのであろうか、いたるところでウエルカムである。特に食事にと、家庭へ誘われることが多かった。
有難いことである。
イランの庶民の革命にかける純粋性に胸を打たれるとともに、革命の失政に打ちひしがれるかもしれないかれらの姿も脳裏をかすめた。
革命に反対するが、多くを語ることのない一般青年も沢山いることを忘れてはならない。
エスファーファンのアウトドア―用品店でオールドスカウト仲間と
<イラン革命への一般青年たちの不満>
① 女性のチャドル着用強制は、女性の奴隷化である。
② イスラム革命下で、何か言ったらチョーク(首を刎ねるジェスチャー)だ。
⓷ 知識人はじめ青年たちはイスラム(原理主義)革命に反対である。
(みなイスラム革命に反対だが、逆らえず従っているだけである)
⓸ 早く自由に外国へ行きたい。(革命下では全く希望が持てない)
⑥ イスラム革命下ではコンサートなど自由がない。
⑦ 若者に夢を持たせない。
エスファファーンの路地裏 Sketched by Sanehisa Goto
<イランで出会ったお土産たち>
ここで紹介した土産物は、エスファファーンの中央郵便局から日本に向けて送り出した。
ペルシャ騎馬兵 ペルシャハーレムの浴場 ペルシャ人母子(手彫大理石)
ペルシャ軍団(大理石) イランの夫婦愛細密画 大理石レリーフ<ペルシャ軍団>
《 9月18~22日 テヘラン滞在・休息 》
エスファーファンよりテヘラン行VOLVO製バスの中で、イランの瞑想曲CDを隣席の青年に聴かせてもらう。その曲は、車窓から見る風景に溶け込むような無聊な旋律である。いけどいけども禿山と荒涼たる砂漠に曲が静かに流れ去っていくような心象である。
高速道路に入った。日本では見られないような幅100mはあろう上下線の間の緑地帯が延々と続き、その素晴らしいハイウエーに驚嘆した。
バスはエスファーファンとテヘラン間の高速道路650㎞を8時間で走る。その間、ファンタ―とクッキーのサービスがあり、バス料金は36000Ris.(リアル)、約550円である。
途中のサービスエリアでは、男性用の小便用便器がなく女性トイレと同じく長蛇の列には閉口した。なぜかイランには珍しくサービスエリアはゴミの山である。
気温は40℃を軽く超えているであろうか、肌を刺す痛さを感じる暑さである。
周囲は、延々と続く赤茶色のはげ山と砂漠、はたしてこの国のどこに耕地があるのだろうかと思うほどの乾燥地帯である。
ハイウエーを走る車は、プジョー(フランス製)に混じって韓国車であるKIA・DAEWOOがちらほら目に付く。日本車は、小型トラック以外全くその姿を見ることがない。
<テヘランでも方向音痴を楽しむ>
世界中を旅し、山が好きで単独行がほとんど、サイクリングも楽しみ、ボーイスカウトで読図も習った。
しかし、よく行先やルートを間違えることがあり、パートナーから呆れられている。
ここテヘランでも、このバスはテヘラン北バスターミナルに到着すると思い込んでの行動で、地下鉄の駅を探すときに道迷いを知ったのである。
しかし、不思議な特技だが、道迷いにもあまり気にならないのである。最初から道迷いとも知らず、自分を信じて行動を始めているから当然かもしれない。
よく全く反対方向の道に入り、目的地としている場所に着いて、人に尋ねて初めてそこは目的地の反対側であることを伝えられるといった間抜けで、おっちょこちょいなところがあるのである。
これがまた山登りや旅を楽しくしてくれているようにも思える。
以前、比良山系を縦走したおり、びわ湖側に下山すべきところを、どこでどう間違えたのか全く反対側の鯖街道側の朽木の村に下山し、迎えの電話をかけるため、ここはどこかと店番のお婆さんに聞いて初めて、おのれが道に迷っていることに気づくのだから深刻な方向音痴病であることに驚かされるのである。
まあ、これも私という人間の特徴であると思えば、自嘲で済んでしまうのだから始末が悪い。
わが人生道と同じく、何度同じ道を折り返したことか、それだけ味のある往復かもしれないが、無駄だけではないことも納得している。
ここがテヘランの南バスターミナルという起点であることを知って以降は、地下鉄に乗って今夜お世話になるゲストハウスに難なく到着できたのだから、なかなかな旅人であることを己自身が知っているのだから、方向音痴を気にしていないのであろう。
<▲9月18~22日 テヘラン Mashad Hotel連泊 40000Ris=4US$>
地下鉄の南バスターミナル駅から500Ris. の切符を買い、地下鉄駅<Imam Khomeini=エマーム・ホメイニ>で下車し、エマーム・ホメイニ広場より東へ300m行ったところにある<Mashad Hotel>に投宿した。
これからも方向音痴という珍道中が楽しく続くことであろう。そして間違いなく目的地に着くであろうことを期待したいものである。
久しぶりに近くの定食屋で形ある夕食を口にした。チキンカレーにライスと輪切りのトマトサラダである。その美味だったこと、格安バックバッカ―にとって最高の夕食であった。
<街角のオアシスー無料提供される店先の水>
砂漠の国イランらしい風景に出会った。
テヘランの街角には、暑さ対策として通行人への便宜提供としてミネラルウオーターがオアシスのように各店舗前に設置されている。人を思いやる気持ちがよく伝わってきてイスラム革命の一隅を照らす政策が実行されていることに気づかされる。
また、街角には水に劣らず革命支援募金箱が多数置かれているのには驚かされる。イランにおけるイスラム革命が、政府と人民が一体となって革命を推進していることを表しているのであろうか。
また、チャルドを来たご婦人たちが街角で「母子家庭を助けよう!」と募金活動をしている姿に、イスラムの国々では出会うことのなかった、募金や女性の活動にここイランで出会って、イスラミック デモクラシーの一端を知ることが出来たのである。
何か戦時中の日本における軍民一体のスローガンである<勝つまでは欲しがりません>のような雰囲気を、ここイスラム革命下におけるテヘランで感じる。イランと日本、両国民のよく似た一面を示しているように思えた。
<我が家のペルシャ羊木臈纈屏風絵の壁掛け>
テヘランの投宿先であるマシャド・ホテルから、歩いて東へ数分でエマーム・ホメイニー広場にでる。広場に面するテヘラン中央郵便局の裏手を進むと<イラン考古学博物館>に着く。
紀元前6000年から19世紀までの考古学的、歴史的に重要な美術品が集められたイラン最大の博物館である。
ここには奈良正倉院所蔵のペルシャ羊木臈纈屏風などペルシャの美術品が飾られている。
我が家にもペルシャ羊木臈纈屏風絵を模写した藍染壁掛けがかかっている。すでにシルクロードを経て日本にも多くのペルシャ(イラン)美術工芸品が商人や遣唐使によって持たされていたのである。
<ペルシャ連珠円紋>
関係している大学院研究室のスタッフが研究テーマにしている<連珠円紋>の資料を集めることもシルクロード踏破の一つの目的に加えていた。
ペルシャ文様の一つである連珠円紋が中国隋代 に遣隋使によって盛んに日本へ流入したという。小さい珠の連なりを「連珠円文」といい、ササン朝ペルシャの特徴的な文様である。
ペルシャ羊木臈纈屏風に見入っていたとき、そのペルシャ連珠円紋を研究しているというイラン考古学博物館の学芸員モハメット・カリム氏に声をかけられた。
連珠円紋をデザイン化し商品化している工房を知っているので紹介できるという。昼間はバスターミナルの案内人をし、午後はペルシャ・テキスタイルの研究をしているらしい。また、シルクロードでの「連珠円紋の歴史的移動伝播」も自分の研究の一つであり、参考になる情報を送って欲しいとの要望である。
こちらも、研究情報を送って欲しいと仲間スタッフのメールアドレスを渡し、交換した。
小さい珠の連なりが連珠円文といい、ササン朝ペルシャの特徴的な文様
(参考例:ペルシャ文様である連珠円紋を配した帯―blog.goo.ne.jpより)
<イランという形の国と人民>
シルクロード・イランを駆け抜けて、終着地であるローマを目指しているが、シルクロードにおけるイランすなわちペルシャの果たす歴史的役割を見逃すことが出来ない。
イランは地政学的に東洋と西洋の中継点としてその商才を生かしシルクロードの恩恵を受けるとともに、ペルシャ文明の東西伝播にその役割を果たしてきた。
先に紹介した正倉院蔵の<我が家の羊木臈纈屏風>(臈纈藍染壁掛け)を見たように、シルクロードを延長して東端の西安から奈良にまでその時の流れは、確実に日本にも届いていたのである。
今回のシルクロード踏破は、西安よりローマと位置づけはしているが、わたし的には奈良よりローマ間を広域シルクロードとしてとらえたいのである。
なかでも、シルクロード中のイランを踏破して、ペルシャのもつ地理的特殊性に着目しておきたい。
その最も顕著な特徴は、ペルシャがイスラム国家であり、イスラム芸術が持つ色彩、精密画、デザイン、建築法、インフラ等その時代の最先端を西欧に広め、その芸術性の高い製品を世界各地に送り出していることである。
シルクロード時代、イスラムという宗教性よりもイスラム芸術、文明として各地に拡散し、伝播したところに現在の美術史に多大な影響を与えてきたことに目を見張るものである。
イランの人民は、国土のほとんどが赤い砂漠である不毛の地に生き、自然の厳しさの中にアツラーの神に帰依することによって日常生活の安寧を得てきたように察する。
現在、イスラム原理主義的な政治体制を享受しているところに、指導者や人民にもイスラムの中でもアツラーの神に選ばれた人民であるという自負がイラン人としての誇りを支えており、その誠実さとイスラム革命遂行能力の高さから、多くのイスラム国家の中でも抜きんでてその指導性に自信を持ちつつあるといえる。
ただ現代において、イスラム原理主義的革命が成就するためには多くの革命要因を克服せざるを得ず、前途多難であるとも思えた。
革命遂行にあたって、独裁的強権主義に頼らざるを得ず、自由を求める人民の要求にいかに応えていくかに今後の革命の成否はかかっているようである。
イランは革命のさなかにあって、青年の夢見る国家づくりに応えられるかどうかで、この国の将来が決まっていくように思える。
イランという国、イランの人民は情熱的で、誠実な国であり、純真な人民である。
イスラム諸国家を束ねていくことが求められていることも自覚すべきであろう。
《 9月22日 イラン/テヘラン ⇒ トルコ/バルザガン 国境越え 》
<イラン系ユダヤ人の運命を乗せたバス>
テヘランからトルコ・イスタンブール行の長距離国際バスの乗客に、運命をかけて乗車している家族がいる。
推察するに、イラン系ユダヤ人であろうか。トルコか西欧への移住を覚悟してのバス旅行であるようだ。
夫婦に女の子2人と男の子の5人家族、どのような思いでこのバスに乗っているのであろうか。
亡命とはいかなくても、イランから直接イスラエル行が叶わない複雑な国際関係、イラン・イスラエルの敵対関係という現状がこの家族の亡命を許さないのである。
トルコのイスタンブール、イスラエル大使館に提出する書類なのか、何度も繰り返し目を通す父親を不安な顔で見ている家族の姿がある。父親として家族を守るという使命感が背中からひしひしと伝わってくる。
家族の西欧への移住の成功を祈りながら、旧約聖書に出てくるノアの箱舟がたどり着いたアララタ山に迎えらえながらトルコの国境を越えた。
<イラン・トルコ国境陸路の越え方>
トルコ<イスタンブール・アンカラ>行国際バスは、テヘランの西バスターミナルから出ている。国際バスはイラン西北のトルコ国境に近い街マークを通過し、出入国管理事務所へのゲートがあるバルザカンに到着する。
テヘランと国境の街バルザカン間は約920㎞、所要約14時間と長距離バス走行となる。
トルコ国境に向かう国際バス
イランとトルコ間の時差は1時間半あり、イラン側国境の出入国管理事務所のオープンが7時半の場合、トルコ側は早朝5時半となるので単独越境の時は注意が必要である。国際バスの場合には時間調整がなされているので問題はない。
イラン国境ゲートから長い上り坂を上って出国オフィス に向かう。その間、トルコ入国の大型トラックの長蛇の列が出国手続きを静かに待機している。
単独越境の場合、この間にミニバスがあり(所要10分・1000Ris.)、利用することができる。
出入国管理事務所の目の前には、旧約聖書に出てくる<ノアの方舟>(のあのはこぶね)が漂着したといわれるアララト山がそびえ、越境者を温かく迎えてくれている。
税関荷物検査とパスポートチェックを済ませ、出国審査に向かう。そこにはチャドル着用のイラン婦人の長い列が続いている。
同じ建物の中の次の部屋がトルコの入国審査のコーナーであり、パスポートにスタンプをもらい、トルコ入国を果たす。
トルコ入国後、国際バスにもどり国境の街「GURBULAK」(ギュルブラク)を経て、DOUGUBAYAZT(ドウバヤズット)へ向かう。
待ちに待ったシルクロード・トルコに入ったのだ。
ノアが神からの啓示を受けて造った船<ノアの方舟>についての記述は、旧約聖書の「創世記」の第7・8・9章に出てくる。しかし、<ノアの方舟>が大洪水のあと漂着したといわれる山の頂がどこであるかは書かれていない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
<シルクロード・トルコに入る>
『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』⑦
< バルザガン/イラン国境 ⇒ シルクロード・トルコ>
に続く
チャドルをまとったイラン婦人たち
Sketched by Sanehisa Goto